怪力少女・近江茜伝・第10部「最終章」
この小説は表題にあるように全11部からなる長編小説の第10部です。
武闘会を頸になった渚はなんとか生活していた。そこへ九条ゆかりが訪ねて来て、渚と弘を会わせようとする。
その狙いはなんなのか?
見知らぬ少女が、渚のアパートに来たのは年の暮れのことだった。
「どなたでしたっけ?」
「あのう、私・・・佐野原逸香さんのファンで田舎から出て来ました。」
「どうして・・ここがわかったの?」
「九条ゆかりさんに教えてもらって・・」
「えっ?あなた、ゆかりさんとどういう関係なの?」
「どういう関係って、私本人ですから・・」
「なんですって?どういう意味かなあ?えーと?」
「うふふふ・・・ひっかっかったですね、渚さん。私ですよ」
その少女が顔マスクを外すと、九条ゆかりの顔が現れた。
「ゆかりさんですか。すっかり騙されたなあ。懐かしいですね。
どうぞ・・上がって下さい。」
「それじゃあ、お邪魔します。うふふ」
ゆかりは悪戯っぽい表情のまま上がって来た。
渚が出したお茶を飲みながら、渚は部屋を見回す。
「きれいにしてますね。でも、ちょっと女の子の部屋にしては色気がないなあ。」
「年下のゆかりさんにそう言われるとショックが大きいよ。」
「今は何してるんですか?」
「ゆかりさんから貰った少年の顔マスク・・17歳くらいに見えるから、それ被って武闘会館の土木部に行ってます。」
「あれえ?武闘会館は頸になったんだよね?」
「なんでも知ってるんですね。
だから、五十嵐さんの甥っ子の名前を借りて行ってます。」
「素の顔では行かないの?」
「深庄の名前で眼鏡をかけてコンビニのアルバイトに行ってます。
それと相良さんという人の紹介でビルの清掃に行ってます。
そのときは深庄のお婆ちゃんに化けて行ってます。相良さんを騙して悪いけれど」
「よく働きますね。で、きょうは仕事がオフだから家にいると・・・」
「それも調べていたんですか?!ゆかりさんって怖い人ですね、本当に!」
「だって、私だってスケジュール一杯ですから、調べないと合わせられないじゃないですか?」
「今度テレビドラマに出ていますね。」
「あれは今オンエア中だけれど、撮影は終わっているんです。見てくれていますか?」
「見てますよ。で、最終回はどうなるんですか?」
「それは秘密なの、ごめんなさい。」
「ひどいなあ、友達だって言ってるくせに」
そう言いながら渚は笑ってゆかりの肩をちょんと押した。
ゆかりは仰向けにひっくり返った。渚は慌てて助け起こした。
「ご・・ごめんなさい。そんなに強くやった積りはないのに・・」
「嘘ですよ。わざと転んで驚かしてみせただけ」
「ひどいなあ、もう」
渚は年下のゆかりに良いように弄られっぱなしだった。
ゆかりは悪戯っぽい目で渚をじっと見ている。
「な・・・なんですか?ゆかりさん。私の顔に何かついてますか?」
「渚さんって、好きな人いますか?」
「やだなあ。そんな人いませんよ」
「ふぅーん・・・」
ゆかりは、かけてある綺麗な服を指差して言った。
「ずいぶん可愛い服がありますね。まだ一回も着ていないみたいですけれど。
着てるところを誰に見せたくて買ったんですか?」
「それは・・・・相良さんにプレゼントされた服で・・」
「ええっ?大人の男の人とお付き合いしてるんですか?」
「いえ、プレゼントしてくれたのはモデルをしている娘さんで・・・」
「ふぅーん・・」
「やだ。ゆかりさん、どうしてそんな目で見るんですか?」
「渚さんは魚住弘さんのこと、どう思っていますか?」
「どうって・・・大切な友達だよ。な・・・なんで、そんなこと突然聞くんですか?」
「どのくらい・・大切?」
「どのくらい・・・?どのくらいって?そんなこと聞かれても・・」
「ああ・・じれったい。
つまり、将来結婚しても良いくらい大切な人かなって、聞いているんです。」
「結婚?結婚って・・弘君と?そんなこと考えてみたことなかったよ」
「じゃあ、今考えてみて下さい。どうですか、したいですか?」
「な・・なんてこと・・ゆかりさん。あなたはまだ中学生じゃあないですか」
「私は、ただの中学生じゃあありません。
芸能界という大人の世界に入り込んで、今までたくさんのロマンスを見てきました。」
「それは、認めます。でも、結婚したいかって急に言われても・・」
「じゃあ、弘さんを私に下さい・・・って言ったら?
実は私も弘さんが好きだから・・・」
「そ・・それは、ゆかりさんと弘君の問題だから、私に聞かれても・・」
「でも、今一瞬・・渚さん怒った顔になりましたよ。
やっぱり、渚さんは弘さんことが好きなんですね。
私も好きって言ったとき、渚さんは否定しなかったでしょう?
私もってことは渚さんはもちろん好きってことを匂わせたのに・・。」
どういう訳か、渚の目から涙が出てきた。
「ゆかりさん、私疲れちゃった。お願いだから虐めないで下さい。
こういうことに慣れていないんです。確かに好きかもしれません。
でも、そういうことをゆっくり考える時間が今までなかったんです。
だから、急に聞かれても自分で自分の気持ちがはっきりしないんです。」
「ごめんなさい。でも、渚さんは決断しなきゃいけないんです。
もう、時間があまりないんです。
どうしても渚さんの気持ちを確かめておく必要があるんです。」
「いったい何があったんですか?時間がないなんて・・」
「実はホテルに弘さんとお母さんが来ているんです。
この後、私があなたを連れて行って会わせる約束をしています。」
「魚住のお母さんが・・?なぜ・・・」
「渚さんに家族になってもらいたいって仰ってるのよ。」
「家族?どうやって?」
「渚さん・・・渚さんが魚住さんの家族になる方法は二つあるんです。
一つは魚住家の養女になること。もう一つは弘さんと結婚すること。
これはすぐには無理でも婚約することはできますよね。
そのどちらでも家族になれます。渚さん、どちらが良いですか?」
「もし養女になれば・・」
「弘さんと兄妹になりますから、弘さんとは結婚はできません。」
「向こうはどっちを望んでいるのですか?」
「お母様の話しですと、弘さんに任せているとのことです。
でも、もし弘さんが渚さんにプロポーズをしたとして、渚さんが断ればもう一つの選択もできなくなると思います。
だから、渚さんの気持ちを確かめているのです。」
「そうだったんですか。ゆかりさん。ありがとう。
もし・・私、弘君に申し込まれたら、お受けしたいです。
お受けしたいですけれど、その気持ちは十分あるんですけれど、無理です。」
「あら?どうしてですか」
「弘君は、きっと一流大学に行き、色々な人と出会います。
そしてその後、立派な仕事に就くと思います。そんなに早く私と婚約したら、きっと後で後悔すると思います。
学歴差がありすぎるし、見ている方向が私とは違うと思うからです。
私は今コンビニでアルバイトをしていますが、一緒に働いている男の人で高校中退の人がいますが、とても真面目で親切な人です。
例えばの話ですが、これはあくまでも例えばの話ですが、そういう男の人の方が私には釣りあうのかもしれないって・・・」
「その人・・今コンビニにいますか?」
「ええ、私は非番ですけれど、彼は一日一杯働いているはずです。
でも、別にその人のことは特に好きだとか言うのではないんです。」
「渚さんが働いているときの眼鏡かけて見せてくれますか?」
「えっ?どうしてですか?」
渚は眼鏡をかけて見せた。
「うんと太枠の黒縁の眼鏡にしたんですけれど」
すると、ゆかりは笑った。
「どうして笑うんですか?そんなに不細工な顔になってますか?」
「違うんです。
よくドラマなんかでわざと不細工に見せる為にその手の眼鏡を美人の主人公がかけることがありますよね。
うふふ・・そうしたらお約束みたいに、周りの男性が不細工な女性として扱うんですよね。
そこまで行かなくても、美人であることに気づかない。
ところがあるとき突然、眼鏡を外すと周りの男性が一遍に恋してしまう・・・そんな場面よくありますよね?」
「ええ、まあ。違うみたいですね。かなり・・・」
「でも実際のところ眼鏡をかけていたから美人に気づかないなんてことありえないと思います。
目鼻立ちもすべてわかる訳だし。じっと観察する機会があれば誰でもわかることです。」
「何を言いたいんですか?」
「つまり渚さんは、その眼鏡をかけていても、全く可愛いってことです。」
「だから・・・?」
「だから私が何を言いたいのかは、後で言います。
渚さん、お婆さんに変装して私と一緒にコンビニへ行きましょう。
私はさっきとは別の顔マスクを被って行きます。」
渚にお婆さんの顔マスクをつけさせると、ゆかりはさっきとは別の顔マスクを取り出した。
それは少女としては、少々不細工な顔マスクだった。
かといって特別醜い訳ではない、異性を強く惹きつける顔ではないとでも言おうか。
同じ年頃の少女が10人いれば器量順位10番目にランク付けされる顔だった。
「いらっしゃ・・・いませ。」
男性店員の挨拶のトーンが下がった。
入り口から入って来たのは老婆とその孫娘といった感じだった。
孫娘はセンスの良いきれいな服を着ていたが、顔がそれに釣り合わなかった。
(お前がそんな服着るなよ。後姿だけ可愛い子ちゃんなんて殴ってやりてえ。)
男子店員は他に客がいなくて、他の店員もいなかったのもあるのか、レジ内の椅子に座って大きな伸びをした。
「あのう・・・すみません。」
顔をあげると老婆が頭を下げている。
「何か?」
男は座ったまま面倒臭そうに顔をあげた。
老婆はある商品名を尋ねた。あまり聞いたことがない品物だった。
「捜してみて下さい。捜してみて、なければ置いてないってことですから」
老婆はそう言われて、しばらくそもそしていたが、その品物を見つけて持って来た。
「これでいいんですかね?」
「ああ~はい~。いんじゃないですか?178円です。」
老婆は財布からもたもた小銭を出して数え始めた。男は小さく舌打ちをした。
老婆は薄い手袋をした手に小銭を持って男に渡そうとした。男は言った。
「これに入れてって。」
お金を入れるトレイをくいっと前に出した。老婆はまだもたもたしている。
「どうしたの、婆さん?」
「あのう、袋ありますか?」
「品物ひとつだからいらないんじゃないの?」
「でも・・・むき出しに持って出たら万引きしたみたいで」
「ちぇっ、面倒臭いな。ほら!」
男はレジ袋を老婆の前に放った。
老婆はそれをもたもた入れると出口に向かって歩き出した。
そのとき男はレジのカウンターの上に老婆が財布から出して置き忘れた500円玉があるのを見つけた。
「あっ・・・」
男の声に老婆は振り返った。その老婆は何かを期待したような表情をしていた。
「なにか?」
「いえ、なんでも。ありがとうございました~。」
老婆は歩き出して店から出て行った。男は視線を感じてふと売り場を見た。
先ほどの少女が黙ってこっちを見ている。離れているから500円玉のことは見えないと思った。
「あんた。今の婆さんと一緒でないのか?」
すると少女は黙って老婆の後を追った。
「ああ、碌な客が来ねえなあ・・」
男は呟くと、また椅子の上にそっくり返って座った。
部屋に戻った渚にゆかりは話し始めた。
「渚さんの男性を見る目はお世辞にも確かだとは言えません。
私は、渚さんが可愛いから周りの男性は親切にするだろうし、良い所を見せようとしてるのではないかと、わざと変装させて様子を見せに行ったのです。
でも、多少は態度が違うだろうと、その僅かな違いを見せようとしたんですが、あんなに酷いとは思いませんでした。
渚さんは、あの人のことを好きになった訳じゃあないにしても、真面目で親切な良い男性だと信じていたんですね。
私はきょう被った二つの仮面を被って外に出ることがありますが、どの仮面を被るかで接した人の態度が微妙に違うことに気づきました。
でも、今被った仮面でも素顔の私でも同じ態度で接してくれた人がいます。
誰だと思います?魚住弘さんです。
私は待ち合わせ場所にいた弘さんにこの仮面を被って、声も変えて話しかけました。
でも、弘さんはきちんと私に対応してくれました。あの男の人とは違って・・・」
「どうして、そんなことを?」
「弘さんがどんな男の人か、渚さんにふさわしいひとかどうか見たかったのです。
その後、服を着替えて会いましたので気づいていないと思います。
あなたの大事な人を試してごめんなさい。
でも、弘さんが誠実で裏表が無い人だと言うことは、これでわかったと思います。
ところで渚さんは、よく私のことを大人っぽいと言いますね。
でも、さっきの渚さんはもっと大人みたいなことを言ってましたよ。
学歴だとか時期がどうだとか、まるで社会の常識の全部をそのまま引き受けたみたいに言ってました。
でも、大切なのは心です。渚さんの今の気持ちなのです。
渚さん、これから弘さんと会わせますが、よく考えて決めて下さいね。
私は、その場所まで連れて行くのが役目です。その後はお任せします。
渚さんの人生ですから。」
ゆかりは渚に一番良い服を着て行くように言った。
そして、ゆかりは一番目の少女の仮面を被って渚と出かけた。
渚は悩んだ。けれども二人が大人になるまでには時間があり過ぎる。
九条に連れられてホテルに向かう道すがら、何度もそのことを考えた。
自分は結婚を急ぐ積りはない。
また、係累もいない自分に簡単に相手が見つかるとも思えない。
それにどんな男性にも負けたことのない怪力女を好きになってくれる男性がいるのかどうかも怪しい。
だから・・・もし申し込まれたら、弘が結婚しても良い年齢になるまで待ちますと言おう。
そのとき、まだ自分のことを好きでいてくれたら、もう一度申し込んで下さいと言おう。
それまでは、お互い行き来して友達のように家族のように・・以前のように接してくれたらどんなに良いだろう。
そんなことを考えているうちに、ホテルに着いた。
ゆかりはホテルに入ると柱の陰で素早く顔マスクを取った。
そしてロビーで待っていた弘に声をかけた。
「お待たせしました。お母様は?」
「部屋にいます。」
「それじゃあ、確かにお渡ししました。後はしっかり・・・」
「もう行かれるのですか?」
「そうですよ?心細いですか?」
「いえ、ありがとうございました。」
少し離れたところで若い女の二人連れがゆかりに気づいた。
「あれ、九条ゆかりじゃない?」「本当だ。一緒に写真とってもらおうよ」
ゆかりは弘たちから離れるとスタスタと歩き出した。
二人連れの女はその後を小走りに追いかける。
「あの・・待って下さい」
二人の女は柱の陰に消えたゆかりに追いついた。
ゆかりは素早く被った仮面で振り返った。
「なにか?」
「あっ・・・」「ごめんなさい。人違いでした」
二人の女は離れて行きながら、首を傾げた。
「おかしいわ。確かに九条ゆかりに見えたけれどね。」「私もよ」
九条ゆかりの後姿を見送った後、二人はホテルの喫茶コーナーに入った。
コーヒーを注文すると、弘は口を開いた。
「渚さんって呼べばいいのかな?
石田村の若井悟さんが亡くなられたのを知っていますか?」
「えっ、いつですか?」
「昨日のことです。銀海町の町立病院で胃癌で亡くなりました。」
「あのお爺ちゃんには随分畑のことを教えてもらった。」
「そうだね、そう言ってたね。
それに駄洒落が得意で色々な面白い話を仕込んで来ては、教えてくれたんだよね。」
「よく覚えているね、弘君。」
「それどころか、渚さんが覚えていないようなことまで知っているよ。
渚さんが兼ちゃんと呼ばれていて村の子になったばかりの話とか。
始めは坂野さんが自分の家で育てると言ったのを、皆が村全体で育てようと言ったそうだよ。
その筆頭でそれを言ったのは若井悟さんだったとか。知ってた?
それから村の人が君のご両親から聞いたそうだけれど、君は生まれたときからとても力が強かったそうだよ。
それで昔近江のお兼という大力の女の人がいたそうだけれど、ちょうど苗字が偶然近江だったもので、名前を兼にしたって。なんでも歌舞伎にも出てくる由緒ある名前だってさ。」
「し・・知らなかった。でもどうしてそれを知っているんですか?」
弘は、ちょっと長い話になるよと断ってから話し始めた。
「僕の家族は、君がいなくなってからしばらく心に穴があいたようになっていたんだ。
君が家族と同じ存在だって、いなくなってから身に染みて知らされたんだね。
そんなとき、お父さんが石田村に行ってみようと言い出した。
ちょうど村祭りがあると聞いたもので、お酒を何升か持って家族でいきなり訪問したんだね。
村の人は驚いていたよ。
招待した人以外で外部の人が押しかけて来たのは初めてだったらしいからね。
でも、僕らは4人とも村の人たちとは初対面には思えなかったんだ。
名前を聞けば、ああこれが兼ちゃんが言ってた、斉藤清さんか、これが坂井昌さんか、っていう具合に顔と名前が一致して行ったんだ。
名前を聞かなくてもわかった人も沢山いるよ。
みんな兼ちゃんの話しで教えられていたから、その特徴でわかってしまうんだ。
村の人はびっくりしていた。僕達はすぐ村の人たちと仲良くなった。
僕の家族は兼ちゃんがいなくなってできた心の穴を、石田村の人と付き合うことで埋めることができたと思う。
そして、色々な人と付き合ううちに、兼ちゃんが村に来たときのことから詳しく聞くことができるようになった。
だから、兼ちゃんが村を出た後、青布根市に行ってからの石田村のことなら、何でも知っているよ。どこで赤ちゃんが生まれたか?どの家で飼っている犬や猫の名前がなんていうのかまでね。
いつか兼ちゃんと再会したら、教えてあげられるようにね。」
それから、弘は石田村のことを沢山教えてくれた。
渚はコーヒーをまた注文して話を熱心に聞き、5年間の空白を埋めようとした。
一息ついたとき、渚は言った。
「ところで、弘君。私に何か言うことがあるんだよね。」
弘は何故か苦しそうな表情をした。そして言うのを躊躇っていた。
渚は男の子は告白するとき、とても勇気が必要だと聞いたことがあるから、辛抱強く待っていた。
待っている間、胸が高鳴った。人生で今が一番幸せなときかもしれない。そう思った。
「渚さんのことを、家族全員が来てほしいって言ってるんだ。もちろん僕も。
だから・・」
渚は次の言葉を待った。私はその返事を用意しているの。だからいつでも言ってねと。
けれど弘の口からは予定外の言葉が飛び出したのだ。
香留那郡には銀海町・青陸町・刈崎町の3つの町がある。
海岸があるのは銀海町だけであり、隣接する青陸町は山に囲まれた盆地であった。
石田村は正式には、香留那郡青陸町字石田という地名で、行政区では青陸町に属する。
けれども地形的には銀海町よりで本町の青陸町の中心部からは却って遠くに位置する。
渚が弘たちと共に石田村に訪れたのは実に5年ぶりのことだった。
自治会長の坂井昌宅に着くと、尚樹が迎えてくれた。
「兼ちゃんかい?美人になったなあ。」
高校3年生の尚樹は大きな体を揺すって笑った。
部屋で貸し衣装で借りてきた礼服に着替えると、自治会長の昌が年配の男性を連れてやって来た。
「兼ちゃん、お前、若井悟さんの喪主をやってくれないか?」
「ええっ?!」
「この人を知ってるか?お前が10才のときに熊から助けた青陸町役場の人だ。
今はサービスセンターだがな。」
「・・・・?」
年配の男は眼鏡を上げて渚に近づき手を握った。
「あのときはありがとう。そうか、女の子だったんだね。」
年配の男は多久間と言った。渚は微かに思い出した。
7年前のことだ。
多久間由蔵は青陸町役場の戸籍係りだったが、国勢調査が石田村には入っていないというので、自ら出向いた。
ところが青陸町の本町側から行くと徒歩で山を二つ越えなければならず、散々な目に会って石田村に着いた。
村に着いたときなにやら騒がしかったので、聞くと熊が出たという。
それも体長2mで体重150キロもあるオス熊だということだ。
猟友会の銃に撃たれて手負いになり、気が荒くなっているから危険だということだった。
戸籍の確認を早々にすませて、帰る段になり恐ろしくて1人では帰れない。
だが、猟友会の者は熊を捕獲する為出払っている。
「わし達も熊は恐ろしいからなあ。じゃあ、あの子に頼むか?」
村の者がなにやらひそひそ話しをした後、何処かに行った。
しばらくして戻って来ると、安心して帰って良いと言う。
「けれど、熊が出るかもしれないって・・・」
「大丈夫・・・って言ってたから。実はあんたのことを守ってくれるって人がいるんだ。
だから安心して山を降りなさい。」
なにやら半信半疑でおっかなびっくり山を降り始めたが、誰も自分を守る為に付いて来る様子もない。
村を出て15分くらいすると、前方にガサガサと草が動く気配がした。
すると目の前に突然大きな熊が現れた。ほんの10mも離れていなかった。
逃げようとすると熊は真っ直ぐに突進して来た。
それが自動車のように速かったのでもう駄目かと思った。
そのとき、自分を突き飛ばす者がいた。
多久間は5mほど突き飛ばされて、草の上に転倒した。
倒れたまま自分のいた方向を見ると信じられない光景を目にした。
熊の上に覆いかぶさっている子供がいたのだ。
それも熊の背中に後ろ向きにまたがっていて、両足で熊の首を挟んで絞めている。
熊は苦しんで暴れるが、その子供は熊の腰をしっかり手で押さえて離れようとしない。
熊はとうとう立ち上がり背中を下にして倒れた。
子供は押しつぶされたかに見えたが、咄嗟に身をかわして免れた。
熊は子供に飛びかかろうとした。が、その前に子供は素早く木に登る。熊も登る。
熊は子供に追いつきそうで追いつかない。
子供は5mほどの高さの木の枝の先まで逃げて、熊が迫って来るのを見て飛んだ。
熊も飛んだ。だが、子供は別の木に登った。
熊は地面に落ちたとき体を打ったらしく、すぐには起き上がれなかった。
それを見て子供は木から下りると、そばにあった大きな石を持ち上げて熊に投げつけた。
石は熊の体に当たった。
熊は恐ろしい声で吼えると、子供に突進する。
子供はジャンプして熊の頭上を高く跳び越えた。
そしてさっき投げつけた大きな石を両手に差し上げると、振り向いて突進してくる熊の頭にぶつけた。
悲しい泣き声がして、熊はよろよろっとした。
そのとき銃声が聞こえた。熊は今度こそ倒れた。
猟友会の人間が銃を片手に駆けつけて来た。
多久間はようやっと生きた心地がした。
子供はいつの間にかいなくなっていた。
一度村に戻って診てもらったが、かすり傷だけで何の怪我もなかった。
「そうか、あの子が助けてくれたか?」
村の者はそう言った。
「あの子は誰なんだ?」
多久間が聞くと、村人は口に指を当てて声を落とした。
「しー。あんたも命の恩人のことを詮索しない方がいい。
あれは、この山に住む天狗の子だよ。」
確かに戸籍をもう一度調べても、村人の人数は合っている。
あの子だけが戸籍にはない。多久間は諦めた。そして口を固く閉ざすことにした。
それから7年が経った。昨日のことである。
青陸町に坂野昌が1人の男性を連れてやって来た。
「お願いがあります。7年前のことを覚えていますか?あの子のことで・・・」
自治会長の坂野は、14年前の死亡届けに記載されていた親子3人のうちの子供1人が実際は死んでなかったこととその理由を説明した。
その子は、自分の戸籍がなくて苦労しているので、なんとか助けてやってほしい。
なんとか戸籍を復活させる方法はないか。依頼内容は以上だった。
多久間は命の借りがあるその子の為に骨を折ることを約束した。
「但し、警察の死亡確認から直すことはできません。
よく出生届けで赤ちゃんの名前を間違った漢字で登録する場合があります。
そのときは間違いを直すことができます。誤記載の訂正という法的な手続きです。
その手続きを今回使うことにしましょう。」
一緒に来ていた男性は弘の父親だった。弘から渚の現状を聞いて坂野に相談したのだ。
そこで坂野は多久間の名前を思い出して、依頼に来たのだ。
多久間は続けた。
「実に重要なことですが、うっかり当時の担当が聞き間違えて、三人とも死亡したと勘違いした。ですから全員の死亡で絶家になった近江家の戸籍を復活させます。
けれども3才の子供だけの戸籍は維持できないので、若井悟さんの戸籍に養女として入れたことに修正します。
近江家は今度は廃家になります。
実際は村全体で育てたのですが、若井さんも育てたことは事実ですから、その点を利用させて頂きます。
今回若井さんの死亡により、兼さんが若井兼として若井家の戸籍に取り残されます。
兼さんは早生まれのため、まだ17歳の児童ですので坂野さんが後見人ということにしておいて下さい。
実際は自活しているので単に法的な手続き上のことです。
もし、近江姓を取り戻したいなら20才になったときに廃家の近江家の戸籍を復活させて若井の戸籍から移籍することができます。
それは兼さんの20才の誕生日の3月3日に私が事務処理しておきます。
そのときから近江兼さんに戻れるという訳です。
それで、今回若井さんの死亡に関して、兼さんが唯一の家族ですので、喪主になってもらいます。
その事実を作っておくと、書類との整合性ができるからです。」
以上が渚が喪主になる理由だった。
多久間は渚に言った。
「今住んでいる所ではもう少し深庄の姓で我慢していて下さい。
20才になって、あなたが戸籍の筆頭者になったら、堂々と近江姓を名乗って良いと思います。
そして本籍をここから持って行って下さい。誰からも詮索されることのないようにね。」
渚が『若井兼』の名前で喪主を務めた、通夜と告別式は終わった。
銀海町から来ていた石材店の豊橋幸蔵は、渚に頼まれて若井家の墓に墓碑銘を彫った。
また、近江家の墓の兼の部分を削ってもらった。
「おじさん、このことは秘密にしてね。事情は説明した通りで仕方がなかったの。」
「ひとつだけ教えてくれ。あの当時どうやって石を運んだんだ?」
「私が1人で運んだと言ったら信じてくれる?」
「あんたが天狗の子だったのか・・・」
豊橋幸蔵は渚の手をしっかり握った。
「わかった。秘密は守る。」
豊橋幸蔵は大きく頷いた。
初7日や49日などのしきたりは渚には無理なので、坂野に任せて首都に戻ることになったが、その前に弘に返事をしなければいけなかった。
石田村から下りて石田っ原についた弘と渚は向かい合った。
「返事を聞かせてくれるんだね。」
弘の言葉に渚は大きく頷いた。渚はこの返事をするのが胸が張り裂けるほど辛かった。
「ごめんなさい、弘さん。折角のお気持ちを・・受け止められなくて」
「じゃあ・・・・」
「お申し出お断りします。ごめんなさい!!」
「いやだ!!」
弘は渚を抱きしめた。渚は振りほどこうとしなかった。けれど首を横に振った。
「渚さん、来て欲しいんだ。絶対来てほしいんだ。」
「酷いよ・・弘君。こんなことして。あまりにも酷いよ・・」
渚は弘に抱きしめられながらぼろぼろ涙を流した。
弘ははっとして体を離した。そして後ずさりした。
「そんなに・・・そんなに嫌だったのかい?ごめん。僕知らなくて・・」
「ち・・違う。弘君こそ・・」
「さようなら。元気でね。君のこと忘れないよ」
「弘君・・・?どうしてそんなこと言うの?」
渚は二人の会話が噛み合わないのを感じた。だが、弘はそのまま走り去ってしまった。
それから年が明けて1ヶ月経った。九条ゆかりは広国市に営業で来ていた。
青布根市からは弘が駆けつけていた。
九条ゆかりは、控え室に弘を呼んで二人だけで話をした。
「弘さん、ごめんね、呼び出したりして。成績が今回3位に落ちたみたいですね。
よほどショックだったみたいですね。でも、本当はショックだったのは私。」
「そんなに心配してくれていたんですか・・すみません。」
ゆかりは紙になにやら書いていたが、書き終わるとそれを弘に渡した。
「漢字の読み方のテストです。10問ありますから、解いてみて頂けませんか?」
「漢字・・?分かりました」
弘が紙を見ると次々に漢字に仮名をふって行った。それは次の通りである。
(1)埃及 エジプト (2)蜻蛉 かげろう (3)酢橘 すだち (4)梃子 てこ
(5)洋銀 ニッケル (6)鬼灯 ほおずき (7)木乃伊 ミイラ
(8)土蜂 ゆするばち (9)海獺 ラッコ (10)恋 こい
解答を受け取ったゆかりは赤鉛筆を取り出して丸を付けていった。
そして弘に手渡した。10番だけ×がついていて、90点と書いてあった。
「同じ問題を渚さんにやらせたら、10点でしたよ。でも、弘さんが取れなかった10問目ができていたんです。」
「なぜ?間違いなんですか?これは『こい』でいいじゃないのですか?」
「そうですよ。でも、読み方が合ってても、意味を理解してなければ×なんです。
渚さんは意味がわかっていました。」
「僕が・・・恋の意味がわからないって・・?」
弘は紙をテーブルの上に置いた。
弘は首を細かく振ってゆかりの言ってることが理解できない様子を見せた。
「弘さんは渚さんになんて申し込んだの?」
「うちの家族になってほしいって。」
「どうやって家族になるのですか?」
「だから魚住家の養女になってほしいと・・」
「弘さんて、頭はすごくいい筈なのに、実は全くのお馬鹿さんですね。」
「・・・・・」
「それとも私の目がおかしかったのかしら。
確か・・弘さんは渚さんのことを好きだったんじゃなかったんですか?
私にはそういう風に見えていたんですけど・・」
「はい・・・好きです。」
「好きなのに。どうして渚さんを魚住家に養女として迎えたいって言ったんですか?」
「それは・・家族の皆が家の子になってほしいと言ってたので・・。
それを僕が自分の気持ちだけで台無しにしちゃうかもしれないって、そう思ったし。
渚さんは僕の家族が好きだったから、その方が渚さんが喜ぶと思ってたんです。」
「つまり・・・
自分の気持ちを殺して、家族や渚さんのためにその方が良いと思ったということですか?」
九条ゆかりは黙って弘の目の奥を見ていた。そして、ゆっくり首を振った。
「違うんじゃないですか?好きだと告白して、断られるのが怖かった
・・・違いますか?」
「それも・・あったかもしれません。
そうなってしまえば、家族の皆にも会ってくれない気がしたし。」
「それで諦めた・・・・んですね。」
「あの・・・もう、良いです。終わったことですし、思い出すたび辛いんです。」
「諦めるのがいつも早いんですね。」
九条ゆかりは、漢字テストの紙をビリビリと破いた。弘は驚いて九条を見た。
九条ゆかりの目に涙が光っていた。
「1問目から9問目までできたって、弘さんの人生に何の役に立っているんですか?
10問目の恋の意味がわかってなければ、なんにもなりません。
ごめんなさい。年下の私が生意気なことを言って・・・。
でも、心が好きだと言ってるのだったら、言葉でも好きだって言わなければ相手に伝わりません。
相手がそれに対して受け入れるか断るかはどうでも良いんです。
伝えなければ何もはじまりません。!そんなことは小学生でもわかることなんです。
それができなかった、あなたは意気地なしです。
結果を考えて安全な道を選ぼうとした。
良い人であろうとして、自分の気持ちを誤魔化した。
でも、あなたの時間は止まったままです。
あなたはこの先何度も何度もその時のことを思い出して後悔するでしょう。
良いんですか、それで?本当にそれで良いんですか? 弘さん、お聞きしてるんです。」
「どうすれば良いんですか?」
「渚さんもそうですが、弘さんも奥手・・だと思います。
でも、男の子が女の子を好きになって、女の子が男の子を好きになるのは、誰でも同じ筈です。
ませた人と奥手の人は実際はそんなに差がないのです。
違うのは、心で好きと感じていることを行動で示すとき合っているかずれているかの違いなんです。
弘さんは完全にずれています。だから相手に誤解されます。
今の気持ちを正直に渚さんに伝えるべきです。
その結果、渚さんはやはり弘さんを受け入れないかもしれません。
一ヶ月前に弘さんが言ったことが渚さんを傷つけているかもしれないからです。
あなたが不正直に言ったことが渚さんを傷つけたのです。」
「どういうことですか?」
「もう・・・これ以上は言いません。頭で考えるのはやめてください。
あなたは正直に言って、しっかりと断られて来て下さい。」
そういうと、ゆかりは立ち上がって歩いて行き、ドアを開けた。
「ここには答えはありませんよ、弘さん」
弘は頭をさげて控え室を出た。
弘が出た後、九条ゆかりは鏡を見ていた。
「ゆかり・・あなたも弘さんと同じだね。心で好きだと思っても口では言えないもの。
あなたは弘さんのことを意気地なしって言ったけれど、そんなこと言う資格があなたにはあるのかしら?」
だが、その言葉は弘には聞こえていなかった。
銀海町の魚住家で異変が起きた。
県立高校1年生の香が2Fから足音激しく慌しく下りて来た。
昼ごはんのソーメンをゆでていた母親は、眉をしかめて香を睨んだ。
だが香は母親に緊急に報告したいことがあるようだ。
「お母さん、お兄ちゃんがおかしくなったよ。とうとう。」
「弘がどうしたって?」
「げらげら笑っているのよ。どうしたのって聞いてもいつまでも笑ってるのよ」
「それは大変、香!このソーメン後はあなたがやってて」
「ええっ?私が・・?じゃあ、ザルに上げて私もすぐ行く。」
母親が弘の部屋に行くと、弘が目に涙を浮かべながら床に転がって笑っている。
「弘!しっかりしなさい。何があったの?」
「ああ・・お母さん・・・はははは・・あははは・・僕って馬鹿だね。あははは・・・」
香もすぐ父親と一緒に上がって来た。
「ね、私の言った通りでしょ?お兄ちゃん、壊れてしまってるでしょ?
精密な機械って壊れやすいのよ」
それを聞いて弘は吹き出して、余計大きな声で笑ったのだ。
3人は顔を見合わせて、とにかく笑いやむのをじっと待った。
弘は笑うだけ笑うと、ハンカチで涙を拭き、ティッシュで鼻をかんだ。
そして深呼吸を何度もして呼吸を整えた。
「外国の話しだけれど・・・」
弘は誰に言うともなく言った。
「笑い過ぎて死んでしまった人がいるって聞いたけれど、本当かもしれない。
ああ、危なかった。来てくれてありがとう。おかげでやめることができたよ。」
父親は頭を搔きながら言った。
「そろそろ下に降りて、ソーメンでも食べないか、のびないうちに?
その後よかったら、その楽しい話ってのを教えてくれ」
昼食の後、弘は3人の前で
「僕は兼ちゃん・・渚さんに養女の件を断られて、今までにないくらい落ち込んだ。
みんなもがっかりしたんだよね?
あれは家族全員の意思だったから、僕は代表者として拒否の返事を受け取ったとき、みんなにも申し訳なかったし僕自身も悲しかったんだ。
でも、なぜお母さんは僕にそれを言わせたんだろう?で、あのときわかったんだ。
渚さんがうちの家族になる方法はもう一つあったから、僕にそれを選ぶチャンスを与えてくれたんだって。
でも、僕はもう一つの方を選ばなかった。
それを選んだら何もかも失ってしまうんではないかって、それが怖かったんだ。」
母親は香と顔を見合わせて頷いた。
「私達はそう思っていたよ。それにまだ高校生だってことも気にしていたようだしね。」
「そして九条ゆかりさんに広国市まで呼び出されて、僕が全くのお馬鹿さんだって言われて来た。
そう・・恋という字を読み書きできても意味がわからない、お馬鹿さんだって。」
「それもなんとなくわかるよ、お兄ちゃん」
香が、そんなこと今頃気づいたのって感じで大きく頷いた。
「そうなんだ。僕は全くのお馬鹿さんだから、普通の人ならすぐわかることでも、きちんと方程式を立てて考えないとわからないんだ。
九条ゆかりさんは、そんな僕にもわかるように、たくさんのヒントを僕にくれていたんだ。
それで、さっきやっと方程式が解けたんだよ。」
「渚さんもお兄ちゃんのことを好きだって答えのこと?」
「香!!お前知っていたのか?」
「知っていたもなにも、私何回もお兄ちゃんに言ったはずだよ。
渚さんはお兄ちゃんのこと好きなはずだって。
でもお兄ちゃんは私の言うこと聞いていなかったじゃない?
自分で納得しなきゃ絶対信じないタイプなんだから。
だから、私はお兄ちゃんのようなタイプは絶対好きにならないよ。面倒臭いから。」
「お前の好きな男性のタイプはこの際どうでもいいよ。
僕は渚さんに養女のことを申し込んだとき、もし・・彼女が僕のプロポーズを待っていたとしたら、そんなことは永遠にないってことを逆に通告したことと同じになるんだって・・それは彼女の心を傷つけることになるんだって・・・」
「今ごろわかったの?」「・・のか?」
これには3人が同時に言った。言った後で父親は二人の女たちの顔を見た。
「お前たちも気づいていたのか?」
「お父さんも気づいていたの?じゃあ、お兄ちゃんは誰に似たの?」
香の突っ込みに、弘は投げやりに言った。
「ああ、ああ。そうですよ。そうですよ。
僕はどうせ橋の下から拾われて来た子ですよ。」
「で、どうするんだ、弘?仕切り直しするか?」
父親の言葉に弘は頷いた。
「結果はどうでもそれをしなきゃならないでしょうね、当然」
「今度は玉砕覚悟でぶち当たってみるか、ははは・・」
父親はそういうと弘の肩をぽんと叩いて自分の部屋に戻って行った。
香も弘の肩に手を当てると父親の口調を真似た。
「今度も思いっきり振られて来い、ははは・・・」
「うるさい。お前に言われると腹が立つ」
母親は何も言わずににこやかに弘の顔を見つめると、香を促し食器を一緒に片付け始めた。
呉野愛香は五十嵐綾芽と会っていた。五十嵐はサングラスとマスクの呉野を見て言った。
「あんた、それやめた方が良いよ。
いかにも私は有名人でございますって言ってるようなもんだから。」
「すみません。変装の仕方を教えて頂けませんか?私怖くて仕方ないんです。」
「あとで、スタイリストと相談して、一通り一式揃えてやるよ。
請求書は事務所に送るからね、その積もりで。で、これはどのくらい緊急なの?」
五十嵐は二人の間のテーブルの上に乗っている封筒から出された文書を指さした。
「これと同じような物はオードブル万吉という芸人にも届いてました。
送り主は『退廃文化粛清委員会』と書いてあるから、これと全く同じです。
彼はテレビにもよく出ますが、お尻を出して笑わせるというギャグで売り出した人です。
けれどもそれを止めるように警告する文が送られたのです。
文の終わりには『退廃文化粛清委員会所属・尻出す奴を蹴飛ばし隊』と書いていたそうです。
でも彼は、それをやめると仕事がなくなるので、続けたのです。
下品かもしれませんが、彼はそれで売り出したのでそうしなきゃならなかったのです。
全く同じ内容の警告がその後2回来ました。
そして最後のには追伸があって、それには『仏の顔も三度まで』と書いてあったそうです。
それを受け取って、また彼はそのギャグを続けました。
そして、その直後暴漢に襲われて、お尻を集中的に蹴られたのです。
何かスパイク靴のようなもので蹴られたらしく、お尻は血だらけでもうギャグはできなくなったそうです。
そして私に送られた文は、ここにある通り『お馬鹿キャラをやめろ』という警告です。
文の終わりには『退廃文化粛清委員会所属・お馬鹿キャラの顔を殴り隊」とあります。
つまり、警告に従わないと顔をぼこぼこに殴られてテレビに二度と出られないようにするということなのです。」
「で、全部で何通来たの?」
「3通です。
お馬鹿キャラは事務所が考えてくれたものなので、私の意志ではありません。
3通目が来てからは、まだ私は仕事をしていませんが、その前に撮った録画が昨日オンエアされたので、きっとこれから襲われると思います。」
「事務所はなんて言ってるの?」
「怖かったら辞めても構わない。そう言ってます。
でも、今まで頑張ってきたんだからできれば続けて欲しいとも。
護衛もつけてくれてます。この部屋の外の廊下で待っていてくれています。
でも、予算の関係で1人です。それでは防ぎきれないかもしれないって、事務所も分かる筈なのに。
襲う人数は、オードブル万吉のときは見張りも入れたら7・8人いたそうです。
チームで動いていて周りに人を近づけないようにしていたみたいです。
それこそ狙われたら逃げることは絶対無理なのです。
だから私はあの人に守ってもらいたいのです。ここに来たのは、そのためです。」
「佐野原逸香さん?あの人も急がしいからなあ・・。
じゃあ、連絡とってみるからちょっと待ってね。
今、スタイリスト呼ぶから待っている間、相談しててね。」
その後スタイリストが来て呉野を衣装室に連れて行って、色々な格好をさせられた。
スタイリストの横山郁美という子はパンツを何種類か出した。
「スカートはないんですか?」
「呉野さん、あなたはいつもお嬢様ルックですよね。そこから脱皮してくださらないと。
それにパンツはいざと言うときに逃げやすいです。
今お勧めなのは亜麻木町の鎌田通りで流行ってきた鎌田ガールスタイルです。
背中にリュックを背負って、リュックの外ポケットに題名が見えるようにベストセラーの本をさり気なく入れるのです。
で、少し大きめのチェック柄のシャツをアウトに垂らして、袖をゆったり巻いて安全ピンで止めます。
靴はスニーカーで、ダメージシューズが良いんです。パンツは7分の着物柄で少しバルーンになっていて長めのソックスに裾を入れます。
で、これがポイントですが頭はロングヘアーにダブダブのターバン風のベレー帽なんです。
でも、このスタイルをする人は独特の喋り方をするので、人前で口を利かない方がいいでしょう。」
「髪がロングならウィッグを被らなくてもいいけれど、その他のは私にすれば総てありえないって感じですわ。」
「だから、良いのです。あなたのイメージを連想する要素が一切ないから、あなただとは思わない。」
「でも顔はどうした良いんですか?」
「そこですよ。
鎌田ガールはトンボ眼鏡って、この大きな丸い・・ちょっと薄い色が入ったのをかけるんです。
しかも、頬っぺたとかにキラキラするシールを貼ったりする場合があるんです。」
「最悪・・・小学生の落書きみたいな顔だわ。」
「だから良いんですよ。みんな似たような顔で見分けが付かないんですから」
「ところで鎌田ガールってどんな言葉を使うの?」
「ちょっとスタイルが中近東風だからバグダッドとかイラクとかパキスタンなどの
地名を入れて新しい言葉を作るんです。
たとえば『この辺でパキスタンしよっかなー』とか。
なんのことかさっぱりわかりませんが・・。絶対使わないで下さい。
すぐまがいものだってばれますから。」
「ばれたら・・どうなるの?」
「さあ、わかりません。そういう場面見たことないので・・きっと笑われるとか」
「顔をぼこぼこに殴られるよりはましですね。
じゃあ、しかたがないからこれでお願いします。」
五十嵐の部屋に戻された呉野は、一目見た途端五十嵐に笑われた。
「やめて下さい。私・・自己アイデンティティの危機に曝されているんですから」
「ついでに喋り方も素に戻したら?絶対あなただって分からないわよ。」
「それで・・どうなりました?」
「隣の仮眠室で待っているから会っておいで」
呉野が仮眠室に行くと渚が待っていた。
渚はお洒落な呉野愛香風のドレスを着ていた。
そしてマスクとサングラスを取り出すとそれをつけた。
「私が呉野さんの代わりになります。いつも通る道を教えて下さい。
呉野さんは別コースで1人で行ってもらいます。ですから護衛は私につけてもらいます。」
「護衛は私につけてくれないのですか?」
「護衛がついていれば、それが目印になって呉野さんだということがわかってしまいます。
多分呉野さんの護衛も相手方にチェックされていると思いますので。」
呉野は廊下で待っている護衛にダミーを護衛してもらうことを頼んだ。
「佐々木と言います。契約と違うので困ってます。」
渚につきながらその佐々木という護衛は当惑した様子だった。
渚は言った。
「もし私が襲われたら真っ先に逃げて下さい。
私は自分で身を守れますのであなたは巻き込まれないようにして下さい。
もし囲まれたら囲みを解いてあげます。その隙に逃げて下さい。良いですね。」
「あなたは見たところ体が小さい女性ですがどのようにして身を守るのですか?
そして身を守れるとしたなら、なぜ私が護衛につくのですか?」
「後の方の質問は脅迫犯人をおびき出す為です。
それと最初の質問ですが、私の顔を殴ってみればわかります。」
佐々木は軽く渚の顔を殴る真似をした。渚はその手を掴んで、言った。
「もっと早く本気で殴ってみて下さい。」
佐々木は何度か試みた。その都度、手は掴まれて『もっと早く』と言われた。
しまいには佐々木はキックまで交えて攻撃したが、ことごとく掴まれてしまった。
足を掴まれて持ち上げられ倒されたときは、佐々木は尻餅をついたまま聞いた。
「あなたは誰ですか?もしかして・・あの、武術で有名な・・・」
「シーッ。名前は言わないで下さい。私は呉野愛香です。行きましょう。」
「本当に逃げて良いのですか?」
「私は自分を守りますが、あなたを守りながら戦うのは難しいので、現場からいなくなってほしいのです。」
「わかりました」
渚は佐々木と一緒に歩いて、これが弘と自分のデートだったらなと、ふとそんなことを考えた。
そのとき、自分たちが大勢の人垣に囲まれつつあることに気がついた。
渚は佐々木に大きな声で言った。
「佐々木さん、愛香喉渇いちゃった。ジュース買って来てくれるかなあ?」
「はい」
佐々木も気がついていたらしく、駆け足で離れて行った。
渚が1人になったとき、人垣の輪が急速に縮まって完全に囲まれてしまった。
だが、まだ手を出してこないので、渚は逆らわずに人垣の向かう方向へ誘導されて行った。
おそらくこの人垣の外側にも仲間がいて周囲の様子に注意をしているのだろう。
100mも移動しただろうか。なにやら足元が草地になって来た。
公園か原っぱか木に囲まれた場所に連れて来られたらしい。
人垣が閉じ始めて渚の体を数人が押さえつけた。
正面の男が手にナックル・ダスターをはめて、その拳を見せた。
ナックル・ダスターとは金属製の武器で、それを拳に嵌めてパンチ攻撃すると強烈な打撃を与えることができるものである。
メリケン・サックなどとほぼ同類のものである。
顔が命のアイドルをそれで殴れば、歯は折れて鼻骨や頬骨が砕け、皮や肉が裂け、顔面が完全に破壊されてしまう。
渚は両脇から掴んでいた二人の腕を振りほどき、殴りかかって来た正面の男の手首を手刀で払った。フックで横っ面を狙ってきたため、カウンターでボキッと嫌な音がした。
手首が外れて脱臼したらしい。正面の男が声にならない悲鳴をあげて手首を押さえながらしゃがみこむ間に、渚は真後ろで肩を掴んでいた男を背負い投げで前に投げ飛ばした。
男は正面の男を越えて、その背後に立っていた男にぶつかった。
二人とも折り重なって倒れた。
それから渚は右の男を右方向に、左の男を左方向に突き飛ばした。
腰を入れたので二人ともそれぞれの方向に宙を飛んで行った。
それぞれ途中周りにいた男達にぶつかり重なって倒れた。
渚はやんわりと回し蹴りをして正面で座り込んで手首を押さえて呻いている男の頭を払った。
男はそのまま横倒しになって静かになった。
周りを見回すとまだ7・8人いる。だが、渚の強さに驚いて攻撃できずにいた。
「ボスは誰ですか? 話をしたいんですけれど。」
すると彼らの目線が1人の男に集中した。
それはヒゲ面の30歳前後の男だった。
「ふん。だが、俺だけじゃない。もっと上にいるんだ。」
渚は真っ直ぐにその男に近づいて行った。
「それじゃあ、上の人間の所に案内して下さい。」
男が何か言う前に渚は男の手首を掴んで腕絡みをかけた。
他の男達が動こうとしたが、渚は声をあげた。
「やめてください。あなたたちに怪我をさせたくないから・・・」
それがはったりでないことは男達は知っている。
言葉のドスで脅すのではなく、普通の少女の静かな言葉で言うのだが、実力を見た後なので説得力があるのだ。
事実、15・6人で来たのに、僅か5秒以内で半数の人間が倒されたのである。
それだけの修羅場を演じたのに、長い髪の毛・・・実はウィッグだったのだが、それが少しも乱れず、ドレスもサングラスもマスクも僅かにもずれたりしていない。
彼らは倒れている人間に肩を貸したりしながら、ちょっと遅れて付いて来た。
やがてたどり着いたのは大きなビルの中にある事務所だった。
看板に『憂国清廉党本部』と書かれていた。
ヒゲ男と一緒に中に入ると、男達もぞろぞろ入って来た。
正面のデスクに座っていた男は思わず立ち上がった。
50才くらいの眉の太い男だった。
「いったいなんだ?誰を連れてきたんだ?」
「あなたが退廃文化粛清委員会の委員長さんですか?」
「そうだ。おまえは誰だ?呉野愛香にも見えないことはないが、どうやら違うな。」
渚はヒゲ男をを放してやると男の正面にある椅子に座って向かい合った。
「呉野愛香さんに手を出さないでほしいんです。それから他の芸人にも・・・」
「なんだ、芸能界を代表してここに乗り込んで来たのか?」
「それを聞いてくれないようなら、憂国清廉党が退廃文化粛清委員会だってことを警察に知らせて逮捕してもらいますよ。」
「やめるなら通報しないと約束できるのか?」
「必要以上の恨みを買いたくないのでやめるなら通報しません。」
「ここで、お前の口を塞ぐこともできるんだが・・」
「引き出しから手を離してください。委員長さん、私は1秒以内であなたを倒せます。
だから、変な真似はしないで下さい。」
委員長は引き出しを素早く開けようとした。渚は椅子から体を踊りだすと委員長のデスクを蹴った。
デスクと後ろの壁に挟まれて委員長は苦痛に顔を歪めた。
「ごめんなさい。私も必死なんです。だから本気にさせないで下さい。
怪我をしませんでしたか?」
渚は机を引くと委員長の方に廻って引き出しを開けた。拳銃が出て来たのを手に取って弾を抜いた。
そして引き出しに戻した。
渚は委員長の肋骨を調べた。ある場所を触ると悲鳴をあげた。
「肋骨が2本くらい折れているようです。病院に行って下さい。私は帰ります。」
「まだわしが約束していないのに帰るのか?」
男達は慌てて道を開けた。委員長が出て行く渚の背中に声をかけた。
渚は振り返ると困った顔をした。
「委員長さんを信じてもいいんですよね。
そうでなければ、またここに来なければならなくなります。
お願いですから、そんなことを私にさせないで下さい。
特に呉野愛香には手を出さないで下さい。」
そういうと渚は部屋を出た。
委員長は大きなため息をした。
「恐ろしい娘だ。もしかしてあれが・・噂のプリンセス・・なんとかという奴か?」
「、党首、これからどうすれば?」
男達の1人が言った。
「委員会はやめだ。リスクが大きすぎる。もう二度とあの娘には会いたくないからな。」
他の男達も、ほっとしたように大きく頷いた。
五十嵐綾芽は正直恐ろしかった。
部長室のドアよりも大きい男が体を横にしてかがみながら入って来たからだ。
「すみません。天野と言います。」
「もしかして逆巻灘さんですか?」
「深庄さんいますか?」
「彼女ここやめてしまったんですよ」
「連絡先教えて下さい。お願いします」
「どうする積りなんです?
やくざと一戦交えるのに助っ人を頼むんですか?」
「・・・・・」
「彼女を巻き込まないで下さい。今すぐここを出て行って下さい」
五十嵐は椅子をくるりと回転させると背中を見せた。
天野は黙って突っ立っている。
だが、しばらくするとぼっそっとつぶやいた。
「好きなんだ・・・あいつのことが・・」
五十嵐はびっくりして椅子を回転させて向き直った。
「彼女はあんたのことは武術仲間みたいなものだって言ってたよ。
男性として好きとかではない筈だけれど・・」
「俺も最初はそんな感じだった。
だが、だんだん会わないでいると、あいつに会いたくなって堪らなくなってなって。
ここんとこが痛くなって眠られないんだ。」
天野は巨大な体を折り曲げて胸を押さえて苦しそうに訴えた。
「や・・・やくざはどうしたのよ。狙われているんでしょっ?!
そんな悠長なこと言ってる暇はないはずよ。」
「あいつら俺を狙い始めてうるさいから、警察に通報してやったんだ。
格闘技賭博に手を出して1000万円損したと暴れまわってる組がいるからなんとかしてくれって・・。
でもって、捜査の手が廻ってがさ入れされたから、俺にかまってる暇がなくなったんだ。」
「じゃあ、一件落着ね。よかった、よかった。」
五十嵐はまた椅子を回転させて背中を向けた。
そして両耳を塞いで声をあげた。
「私何も聞かなかったことにするわ。
あんたが深庄のことを好きになったとか、あいつのことを思うと夜も眠られないなどの寝言は聞きたくもないし、私には何の関係もないことだから、どこか他所でやってちょうだい。」
「おい!!」
「何よ?!だから聞こえないって言ってるでしょ!!」
「お客だぜ、さっきから・・」
五十嵐が椅子を回転させて向き直るとドアの所に渚が立っていた。
但し、土木部からの帰りなので17才くらいの男の子の顔マスクをしていた。
「あら・・・あんたいつからそこにいたの?」
「ちょうど叔母さんが耳を塞いだときからかな?
なんか深庄さんがどうかしたんですか?」
「ちょっと待て、お前誰だ?」
天野が渚に聞いた。
「あ・・俺すか?
そこの五十嵐さんの甥っ子の明坂淳二って言います。」
「淳二か・・・あんた、深庄を知ってるのか?」
「俺がここに来る前に働いていたって聞いてたから。
でもこの間偶然町で会ったなあ・・」
「おい、今度また会ったら、俺が会いたがっていたって言ってくれないか?」
「ああ、もし会ったら言っとくよ、おっさんなんて人だい?」
「天野ってんだ。」
「おっさんに会うにはどこに行けばいいんだ?」
「それはあいつがわかってるよ。ここの相撲部だ」
「うん、もし会ったら言っとくよ。」
「頼むぜ。ああ、これ。」
天野はポケットからしわくちゃの1000円札を出して渡した。
「タバコ銭にでもしな」
「あ、俺未成年だから」
「じゃあ、飯代にでもしな。とにかく会ったら頼むぜ」
「はあ・・どうも」
「じゃあな。意地悪婆さん。
甥っ子の方がよっぽど良い性格してるぜ。」
「そりゃあどうも。
甥っ子を褒めて頂いてどうもありがとうございます。」
天野がドアを苦労して潜って出て行った後、五十嵐は封筒を出した。
「あんたを呼んだのはこれ。呉野から謝礼が届いてたわ。
何でも、例のところから今後一切呉野に関わらないって誓約書が届いたそうよ。あんた、一体何をやったの?」
「関わらないで欲しいって頼んだだけですよ。」
渚はマスクを外した。
「ところでさっきの聞いてた?」
「ええ、偶然・・」
「あんた、もてるじゃないの」
「からかわないで下さい。どうしようかな、年が離れてるし・・」
「あら・・真剣に考える積もりなの?」
「男の人に好きだって言われたことないから。」
「言う前にいつもぶっとばしているからよ」
「虐めないでくださいよ。
でも会ってみようにも、あの顔がないから・・」
「顔があっても、偽者の顔でしょ。そのまま付き合う積り?」
「まだ、付き合うなんて言ってませんよ」
「付き合ってやったら?
寝ても醒めても貴方のことばかりって言ってたわよ」
「着替えて来ます。」
渚は仮眠室に行って、自分の服に着替えた。
といってもそれもボーイッシュなスタイルなので大した変わりがないが・・。
帽子を深く被ると五十嵐の部屋から出た。
すると、部屋の外に天野がいたので、ぶつかりそうになった。
「あれ?さっきの淳二・・・じゃないな?お前女か?」
「淳二さんはもう帰りました。何か用ですか?」
「いや、深庄にどこで会ったのか聞こうと思って・・
だけど、あいつは出て来なかったぞ。
そしてお前はこの部屋にいなかった。」
「となりの仮眠室にいたんです。」
「じゃあ、淳二はどこから出て行ったんだ。」
「いえ、出て行ったって五十嵐さんから聞いただけですから、見た訳じゃあ・・」
「ちょっと来い」
天野は渚を掴まえると五十嵐の部屋に引きずり入れた。
五十嵐も部屋の中まで聞こえていたらしく、苦みばしった顔をしていた。
「五十嵐さん、助けて下さい。」
「もう観念したら。天野さん、放してあげて。
あんたが捕まえたのが会いたがっていた、深庄だよ。」
「な・・なに?あいつはもっと太っていて・・」
「変装してたんだよ。さっき甥っ子に化けていたのもその子さ。
満足したかい。だけど、よく見てごらん。未成年だよ。
あんた・・・惚れたら駄目だよ。犯罪だよ。」
天野は渚の帽子を取って顔を見た。
「あっ、やっぱりこの顔だ。
あのとき酔っ払って女の子の顔に見えたのはそういうことか?」
「天野さん、ごめんなさい。これには深い訳があるんです。
話せば長くなるんですが、どうか秘密にしていて下さい。
それから・・さっきの1000円お返しします。」
「お前の頼みだ。秘密にするよ。頼む。付き合ってくれ。
顔が変わってもどうでも良い。お前の気性に惚れたんだ。」
「あ・・・あのう。私本当は17才なんです。天野さんは20代後半ですね・・。
ちょっと世代のギャップが大きい感じがするし・・」
「構うもんか。年齢の差なんて、年取れば大した差がなくなるもんだ。
今27才だが、10年後には27才と37才だし、20年たったら37才と47才だ。
俺が107才のときはお前は97才だ。
殆ど変わらないじゃないか?」
「いや・・そんなに長生きする予定は・・」
「まあ、わかった。今すぐどうこうしようってことじゃない。
とにかくたまに会ってくれ。会わないと死にそうになるんだ。
病気を治すのに協力してくれる積りで頼む。
最近相撲とっても力が入らないんだ。
寝不足と食欲減退のせいなんだ。3キロも痩せたんだ。
健康を回復させるためにもアルバイトだと思ってデートしてくれ。
謝礼はするし、それから変なことしないから。
手を握ったりギューってしてみたいが、それも我慢するから」
「いや・・手を握るのなら、今してるんですけど・・」
「あ、そうか悪かった。ほら離したぞ。」
「あのう・・いいかな?」
五十嵐が呆れて口をはさんだ。
「逆巻灘さん、私あんたの相撲見たことないけど、多分決まり手はいつも同じでしょう?
押しの一手・・ってね。あははは・・」
「よくわかるね、あんた。
俺は押し出し、寄りきり、突っ張りが得意だったんだ。」
「あんたの気持ちはよくわかったから、きょうのところは帰ってくれないかな。
この子にはよく言い聞かせておくから。」
「どういう風に言い聞かせるのか気になるぞ。」
「じゃあ、この次必ず会わせるから。約束するよ。
だから今はお引取りを。」
「わかった。必ずだぜ。じゃあな」
五十嵐は天野をドアの外まで見送り、完全に姿が見えなくなるのを確認してから部屋に戻って来た。
「あんた・・あの幼馴染のなんて言ったかな、その男に振られたもんだから、あれだけ言われて悪い気がしなかったでしょう?」
「ええ・・弘君があれだけ言ってくれたら、どんなに良いかなって」
「だから、あんたは抵抗力がなくなっているのよ。
ああいう言葉に飢えているもんだから、あと5分あいつに喋らせていたら、あんた完全に落ちてたよ。
どんな男にも負けないあんたが、簡単にノックダウンするところだったんだから。私に感謝しなさい。
あんた・・もう少しで援助交際みたいなことになってたんだから目を覚ましなさいよ。」
「でも・・変なことしないって言ってたし・・」
「誰が変なことしたいので付き合って下さいって言う奴がいるの?あっぶないなー。だめだ、こりゃ。
これからSARONも呼んでみっちり講義をしてあげる。」
それで、渚の危機ということで、SARONが予定を切り上げてまで駆けつけてくれた。
「まず・・その弘君って子の気持ちをきちんと聞かなければいけないよ。
そして渚さんの気持ちもきちんと伝えなければ駄目だと思う。」
そう言ったのはSARONだった。
「ちょっと・・逆巻灘の話はどうなるのよ?」
五十嵐の言葉にSARONは首を横に振った。
「会わせる約束をしたんでしょ?でも、こっちが先だと思う。
それがはっきりしたなら断れるから。
ごめんなさい。好きな人がいるんですって・・・。」
「あいつはそうやって断っても、まだ結婚してないなら俺にもチャンスがあるとかなんとか言って、簡単には諦めそうにないけどね。」
「それなら、なおさらのことよ。彩芽、どうかな弘君と会うとき私たちもついてあげたら・・?」
「そんなのお邪魔虫じゃないの」
「でも、話を聞くと二人とも気持ちをきちんと伝えてないというか、そんな気がするから。
ほんの少しお手伝いしたいなって、そう思うのよ。
うまく行ったら、それこそお邪魔虫だから、退散することにすればいいんじゃないかな?」
「深庄・・それで良いの?」
「弘君びっくりするかもしれないけれど、いてくれれば心強いなあ」
「この臆病者め。ようし、じゃあ時間を設定しよう。
3人とも・・というか、SARONの予定が空いてるときに会えるようにしよう。
良いね、深庄、弘を引っ張り出して来るんだよ。」
ところが弘の方から連絡があった。是非会って話したいと。
それで、都合の良い日時を渚の方で指定して会うことになった。
首都は渚の方が詳しいので、渚が指定したカフェで会うことになった。
そして五十嵐とSARONは途中から偶然顔を合わせた感じで参入することに。
割と薄暗い照明でテーブル席とカウンター席のある店だった。
渚は隅っこの方の席を選んで弘が来るのを待った。
弘は入り口に時間通りに現れたが、渚を見つけるのにちょっと苦労していた。
渚は今回は普段着を着てきた。前回着た服が嫌だったのだ。
けれども素顔のときは帽子を深く被る癖がついていたので、その分見つけてもらいづらかったといえる。
弘は渚の飲んでいるコーヒーと同じ物を頼んだ。
すると、クリームでハートマークの模様が浮き出たコーヒーが来た。
それに口をつけると弘は切り出した。
「うちの家族が渚さんに来てくれって言ってるよ。」
「それは・・・できないって・・お断りしたじゃないですか」
「養女の話じゃないよ。ただ、会いたいから泊まりに来てってさ」
「皆さん、怒ってませんか?」
「全然・・・養女の話をしたのは渚さんが喜ぶと思ったからそうしたんだけれど。
別になってもらわなくても、渚さんに会えればそれで良いんだって。
だから、遊びに来てほしいし、別に養女でなくて良いんだ。
それに僕としてもその方が都合がいいんだ。」
「なんのことですか?」
「実は僕は、渚さんのことが好きなんだ。
だから本当は養女でない方が都合が良いんだ。」
「それは・・私と結婚したいってことですか?」
「もちろん。将来渚さんと結婚したいと思ってる。」
「じゃあ、どうしてあのとき養女のことを言ったんですか?」
「自信がなかったんだ。まだ学生だし。
断られたらどうしようと意気地なしだった。
でも今は勇気を出して言います。
渚さん、兼ちゃん・・・君が好きです。」
「ずるい。心の準備をしてるときに言わないで、準備してないときにそんなこと言うなんて。
なんて言えばいいかわからないよ。」
「な・・・なんのこと言ってるんですか?
前回準備していたんですか?
でも今はもう締め切りになったんですか?」
「締め切っていないですけれど・・」
「じゃあ、滑り込みセーフなんだね。よかった。
もし返事が決まっているなら教えて下さい。」
「あの・・・もし私がノーと言ったら弘さんは諦めるんですか?」
「うん・・・だって、好かれてもいないのに自分の気持ちを押し付けたくないもの。ノーなんですか?」
「ノーじゃないけれど・・」
「じゃあ、イエスなんですか?」
「・・・・・」
「イエスでもない??」
「うーん、なんて言ったら良いのか?
例えば弘さんは強引に私をさらって行くとか考えたことないですか?
たとえばこのコーヒーに眠り薬を入れて眠らせて連れて行くとか。」
「そんなことしたら、犯罪ですよ。」
「それは物の喩えなんです。実際にしてもらっても困ります。
ああ、うまく言えないなあ。
弘さんは私の意志を大事にしてくれるのはとても嬉しいんですが押しが弱いんです。
だから、それほど私のことを好きじゃないんではないかって思ってしまったり、不安なんです。
本当に私なのかって・・。」
そこへ五十嵐とSARONが現れた。五十嵐が言った。
「失礼。私は深庄の友達の五十嵐です。こっちは本保。
同じく五十嵐の友達です。年齢差はあるけれどね。
実はその隣の席でお話を盗み聞きしてました。ごめんなさい。
ちょっと大相撲になりそうだから水を入れに来たんです。
いいかしら?」
そういうと、五十嵐は渚の隣に、SARONは弘の隣に座った。
SARONは弘に小さな声で言った。
「ごめんなさいね。弘さん。急に割り込んで来て驚いたでしょう?
でも、あなたのことは渚さんから聞いていたので、どうしても放っておけなかったんです。
もう気づいていると思いますが、渚さんはあなたのことが好きです。
渚さんはあなたの投げた球をカーンとホームランで返したかったんですけれど、前回あなたの投げた球がデッドボールになりました。
ですから彼女の状態は以前と微妙に違います。
そういうことも含めて五十嵐があなたに情報を授けたいと言ってますから、隣の私たちが座っていた席に移って話を聞いて下さい。
もう直球じゃなくて変化球が必要な段階に来ているのです。」
一方五十嵐は渚に小声で囁いた。
「あんたは弘君のことをきちんと見てあげなきゃ駄目だよ。
彼に逆巻灘の押しを最初から期待しちゃいけない。
逆巻灘の愛はエゴの愛なんだよ。
自分の気持ちをどんどんぶつけてくるやり方なんだ。
あんたの気持ちなんか考えていない。
とにかく説得して自分のペースに巻き込もうとしている。
好きだって言ってれば、こんなに私のことを思ってくれるなんて
それに応えてやらなきゃ悪いという気になってくるのを待っているんだよ。
お歳暮を貰ったら、何かで返さなきゃ悪いって気になるのと同じだね。
だけど弘君はあんたの気持ちを尊重しようとして慎重になっているし臆病になっている。
だから、SARONの方から秘策を授けてもらって、弘君の気持ちを全開させるようにするんだよ。
私は弘に少し自信をつけてくるから、あなたはここで彼女の話をよく聞くんだよ。」
五十嵐綾芽は弘と一緒に隣のボックスに移って語り始めた。
「一ヶ月前だったら、弘君のきょうの言い方で渚はイエスだったと思う。
でも、君に振られたと思った彼女はすごく孤独感に苦しめられた。
そんなとき大人の男が渚のことが好きで夜も寝られないって迫ったんだ。
もう少しで落ちる所を私が、次必ず会わせるからって追い払ったんだよ。
それでも渚は君のことが好きだ。
好きなんだけれど不安なんだ。
君が心変わりするんじゃないかって・・。
学歴にも大きな差ができそうだし、結婚までには時間がかなりありそうだし。
自分にはもっと釣り合った相手が別にいるのじゃないのかとまで考えている。
だから、君の愛が変わらないことをきちんと伝えて安心させてほしいし、渚でないと駄目なんだってことをきちんと説得しなきゃ駄目。」
五十嵐は速いテンポで喋っていたが、弘は五十嵐の言葉一つ一つに頷いていた。
一方SARONは渚に、ゆっくり噛んで含めるように話した。
「弘さんは、自分が告白することで渚さんに迷惑をかけるんじゃないかって、それを気にしていると思います。
わかりますか?
だから、まず渚さんは弘さんのことが好きだってことを、はっきり告げた方が、弘さんは心を開きやすいと思うの。
その後で自分が不安に思っていることを弘さんにぶつけてみたらどうかしら?
彼は遠慮深くて臆病なほどあなたに気遣っているから、何度でも渚さんは好きだよって言ってあげると、安心して心を全開すると思う。
そうなったら、あの相撲取りさんよりももっと激しく渚さんにアプローチしてくれるかもしれないよ。
あなたが彼の心を開くのが先。その後あなたの不安をぶつければ、きっと応えてくれると思う。わかりますか?」
それぞれのアドバイスが終わって、渚と弘は元の席に戻った。
他の二人も隣のボックスに移って成り行きを見守っている。
渚は席に座ったとき目を閉じた。そして深呼吸をした。
渚は閉じていた目を開けた。
「弘君・・・私・・」
「僕は・・」
殆ど同時に弘も口を開いた。
「あ・・弘君から・・」
「いや・・渚さんから」
そのとき渚はSARONの言葉を思い出した。
(渚さんから弘君のことを好きってはっきり言うのが先ですよ)
そうだ。私が先なんだ。渚は大きく頷いて口を開いた。
すると、渚は自分の話が堰を切ったように喉の奥から溢れて流れ出すのを感じた。
もう自分では止めることができないほど激しい熱いものが胸から込み上げてきたのだ。
「弘君、私、弘君のことがずっと好きだったよ。今も好き。大好きだよ。
弘君は一番最初に会ったとき『友達になろう』って言ってくれたね。
嬉しかったよ。
目にゴミが入ったとき、キスしてくれたでしょ。
びっくりしたけど・・一応あのとき男ってことになっていたから・・複雑だったけど・・どきどきした。
あのときも嬉しかったよ。そして、弘君に会うのが楽しみでお家に何回も行った。
でも、弘君だけと話をしたら疑われると思って、他の家族とも話すようにしたんだ。
私は石田村では色々な村の人の家に入り込んでいたから、そういうのが自然にできたのかな?
でも弘君の家の人と付き合って行くうちに、お父さんやお母さんや香ちゃんが自分の家族だったらなって、本気で思うようになった。
石田村の人たちも家族みたいなものだけれど、それよりもっと近い、もっと濃い感じで家族を感じたの。
だから銀海町の魚住の人たちと別れるときとっても辛かったよ。
特に弘君と別れるのが悲しかった。
しかも、私が女の子だってことを隠したままだったから余計悲しかった。
でも魚住家の人に迷惑をかけるから、何度も会いたいと思ったけれどじっと我慢していたの。
それが偶然光栄高校で会ったからとっても驚いた。
でも、私が女だってこと知らない筈だから、知らない振りをしていたの。
ごめんね。そして、弘君が退学生のグループに狙われているって知って、休み時間になると中庭に行って弘君を見守っていたの。
お陰で二回助けることができた。
二回目は入院することになったし、死んだことにされてしまったけれどね。
ああ、とうとう自分のことを言えなかったなって悔やんだよ。
その後、教育会館で会ったとき、私のことをわかっていたからびっくりした。
女の子だってわかっていてくれていたから嬉しかった。
私のことをずっと捜していてくれたんだなって。
そして、後で弘君や魚住家の皆が石田村の人たちとずっと付き合ってくれて、私の小さい頃からのことまで聞いてくれてたんだなって聞いて、嬉しかった。
弘君は、私と会わなくても私のことを沢山知ってて、全部理解してくれてたんだ。
私幸せだよ。そんなに私のことを見守ってくれてて、ありがとう。
私は今まで何回も名前を変えて、何回も親しかった人と別れて、誰も私のことを最初から今までずっと知ってる人なんかいなくて寂しかったけれど、弘君だけがわかってくれていたんだなって、そう思うと、もう弘君とだけは別れたくないよ。
でも、弘君はこれから大学に行くだろうし、色々な人に出会うと思う。
私は未だに中卒だし、話が合うかなって・・不安になるの。
私は弘君が必要だけれど、弘君には重荷になるかもしれないって。それに・・」
「ストップ!渚さん、ストップ!」
話し出したら止まらない渚の手を掴んで弘は話を止めた。
止めなければ恐らく夜通し喋り続けていたかもしれないからだ。
「そうだったんだ。初めて会ったときそんなことを考えていたんだね。
僕は僕で、なぜ男の子の君を見て胸がどきどきするんだろって不思議だった。
君にキスしたときのことは今でも忘れないけれど、僕はね、あのとき僕は自分が同性愛者かなって真剣に悩んだほどだったんだ。
でも、光栄高校で君を見たとき、もしかしてと思い始めた。
そしてあの射殺事件が起きる直前、入院している君が寝ているとき左耳の下のホクロを見て君だとわかった。
僕は嬉しくなって、家族を呼びに行ったよ。
僕の命を助けてくれたのが実はあの兼ちゃんだったってね。
でも、皆が会う前にあの事件が起きた。
そして君の葬式・・・でも色々おかしな点があったから、もしかして君がまだ生きていると思ったんだ。
そして、その後はもう君の言った通りだ。
でも君は結婚のこと不安だっていうけれど、そんなことは全くないよ。
大丈夫だよ。僕はね。九条さんに君のこと聞いて2つのことがわかったんだ。
これは君が今のアパートに移った頃に彼女から聞いたんだけれど、九条の家でも一流のシェフがついているのに自炊してたんだってね。
そのメニュウも聞いたんだけど、それを聞いてしめたと思ったね。
だって、君の料理は石田村の人たちの得意料理の集大成だものね。
君が僕の家に来て一緒に作った料理を母が気に入ってね。
石田村の人に聞いて作れるようになったこと知ってるかい?
だから今、魚住家の味は君の味と同じなんだよ。
だから、君と結婚すれば僕は慣れ親しんだ味を失わなくてすむ。
それに僕も料理をするんだよ。だって男の子だと思っていた君が料理が得意だったから、僕も負けまいと思ってね。一生懸命覚えたんだ。
君も慣れ親しんだ味を続けることが出来るし、共同で炊事する楽しみもあるんだ。
そうそう、もう一つわかったことって、君も九条君から漢字のテストをされたんだろう?僕は90点だってさ。
でも、君ができた10問目ができなかったから、なんにもならないって言われたよ。
たとえ大学に行っても君が解けた10問目が必ず解けるとは限らない。
それより実社会で苦労している君の方がよほど身になる勉強をしているのかもしれないよ。
それに君と僕が力を合わせれば、100点取れるんだってことがわかったよ。
この2つのことがわかっただけでも、僕は渚さんと一緒になってもうまく行くって思う。
というか、渚さん以外に僕の奥さんになる人は考えられないよ。
それに、僕は君の研究に結構長い時間をかけているんだよね。
それを途中で投げ出したりしたくないよ。
僕の気持ちが変わるなんてことは絶対考えなくて良いんだよ。
僕が大学行くようになったら、こっちで生活するから一緒に会おうよ。
僕は18才になってるし、もう結婚できる。
でも、僕に稼ぎがないのがちょっと君に悪いから、少し待ってくれるかい?
でも、他の男の人に取られたら嫌だから、その間もなるべく沢山会うようにしたい。
君はとっても素敵な女性だから、とっても心配なんだ。
君は僕の心が変わる心配をするよりも、僕を見捨てないように気をつけてくれれば良いと思うよ。
それで、僕はとっても不安だから、きょうは君を連れて銀海町の家に帰りたいと思う。
そして、石田村の坂野さんも呼んで婚約式を挙げたいと思うんだ。」
「だって、私は明日も仕事があるし、冷蔵庫の中の物も残ってるし・・急に言われても。」
「じゃあ、今夜中に連絡して仕事のお休みを貰ってくれないかな?
そして、明日出発することにしようよ。
最低3日くらいは休めるようにしてくれますか?」
「でも・・弘君は今夜どこに泊まるの?」
「ビジネスホテルに泊まるよ」
「じゃあ、私のアパートに泊まると良いよ。
ソファーの上でよかったら眠れるよ。ホテル代がもったいないもの。
もう少し弘君と一緒にいたいし。
ついでに冷蔵庫の中の生鮮食品を片付けるのを手伝ってもらえると助かるよ。」
「こらっ!!不純異性交遊は駄目だからね!」
五十嵐が飛んで来た。SARONも笑いながら後からやって来て言った。
「よかったね、渚さん。弘君がちゃんと考えてくれてて。もう安心だね。」
「はい、ありがとうございました。もう・・」
「お二人にはなんて言って御礼をしたらいいか?」
渚の言いかけたことを弘が継ぎ足した。
「あら、もう息のあったところを見せ付けられちゃったわね。」
五十嵐は、今まで心配したのが馬鹿らしいとばかり斜め上を向いて笑った。
だが、カフェの前で別れるときに渚を脇に呼んで耳打ちした。
「銀海から帰ったら、あいつに会わせるから、ちゃんとけじめをつけてやってね。」
「はい、わかりました。何から何まですみません。」
1週間後、五十嵐と天野と渚の3人が、武闘館の中のカフェで会っていた。
渚は弘とのことを打ち明けた。
「そういう訳なので、天野さんの申し出を受け入れることはできないんです。
ごめんなさい。」
渚は深々と頭を下げた。そしてすぐには上げようとしなかった。
「そうか・・婚約式をしたのか。だが、結婚式をした訳じゃないんだろう?
それにまだそういう関係になった訳じゃあないんだろう?」
渚は下げていた頭を持ち上げた。顔が真っ赤になっていた。
「なんてことを・・弘さんはそういう人じゃありません!」
「そりゃあ、よかった。俺はこれから銀海の魚住家に乗り込んで弘と話をつけて来る。
男同士で片をつけてやるんだ。」
渚の顔が今度は青白くなった。そして、小さな声で呟いた。
「そんなことをすれば・・・天野さん、もう・・あなたを決して許しません」
天野は一瞬凍りついたようになったが、すぐ気を取り直して言った。
「ああ、そうだよ。わざわざ俺がそんな遠くに行く必要はないものな。
あと2ヶ月ちょっとはそいつもこっちに出て来ないんだから、その間にお前を俺の物にすればいいわけだ。」
「そういうことには決してなりません。わかっていますよね。」
天野は下を向いた。眉間に皺を寄せた。そして呟いた。
「最後に・・・」
「えっ?」
「最後に、俺と勝負しろ。俺が負けたら諦めてやる。
だが、俺が勝ったら考え直せ。」
「そんな勝負は受けられません。」
「それならいつまでもハエのように付きまとってやる」
「そんな大きなハエはいませんよ。わかりました。でも、土俵は駄目ですよ。」
「いつかの草っぱらで待っている。必ず来いよ。
俺との最後のデートすっぽかすなよ」
「デートだ思ってませんから。先に行ってて下さい。」
天野が出て行くと、五十嵐が心配した。
「大丈夫?いくらあんたでも相手は逆巻灘だよ。
しかも恋に狂ってるから10倍の力を出して来るかも・・」
「きっと、天野さんは戦いたいんだと思います。
言葉で言われて、はいそうですかって納得する人じゃあないですから」
「大丈夫?これから赤ちゃんを産むかもしれない大事な体だよ」
渚は顔をまた真っ赤にした。
「まだ、なにもしてませんからっ!!変なことを言わないで下さい」
「あら・・私は何年かして結婚してからのことを言ったまでよ。
あんたこそ一体何考えてるのよ?いやらしいな」
「もうっ!!」
原っぱで待っていた天野は近づいて来た覆面の少女を見て言った。
「やっぱり・・深庄・・お前がプリンセス・ヘルだったのか。
そうかもしれない思ってたが、だが何故覆面をつけてきたんだ?」
「仮にも申し出をお断りした男性相手に素顔で戦いたくなかったからです。
どんな顔で戦ったら良いか考えるとできなくなりますから。」
「その服は格闘着か?結構似合ってるな。」
「ありがとうございます。できるならやりたくないんですけれど」
「できれば思いっきりやってくれ。入院するくらい強烈に。それが俺の望みだ。」
「すでに傷ついている人にそんなことはできません。
気絶させるかもしれませんけれど。」
「俺に二回も勝ってるからって強気だな。ふふん。
実は俺はポケットに強烈なスタンガンを用意して来たんだ。
牛でも倒せる輸入物だ。これを使って俺はお前を俺の物にしてやるんだ!!」
「本気ですか!!?」
次の瞬間前に躍り出た天野がポケットから何かスタンガンのような物を素早く出して渚の体に押し付けて来た。
間一髪のところでそれを蹴り上げると、前のめりに覆いかぶさるような体勢になった天野の胸の辺りに掌底で突き上げた。そのとき渚の足が地面にしっかりついていたので、強い打撃が与えられた。
渚は何をしたのかわからなかった。
天野の体が浮かなかったので秘拳かと思ったが、いつものとは違った。
天野は咳き込んで前のめりに倒れた。それを渚は支えた。
「すみません・・天野さん。私・・何か変な技を使ったみたいです。
無我夢中でやったので、何をやったのかわかりません。」
そのとき、天野の口から血が零れて来た。
渚は慌てて天野を地面に横たわらせ胸の辺りを触った。
胸骨のあたりが陥没していた。渚は救急車を呼んだ。
「大丈夫ですか?今、救急車が来ますから。」
「深・・庄・・・これで良いんだ。ちょうど場所も良い・・・・。」
「何を言ってるんですか?場所が良いって・・ああ、喋らないで良いです」
「ちょうどこの胸の辺りが苦しかったんだ。
それが今の打撃の痛みで苦しさがなくなった。知ってるか・・?
痛みを忘れるには、別の痛みがあれば良いんだってこと・・」
そのとき渚は地面に落ちていたスタンガンを拾った。
だがそれはスタンガンではなかった。ただの電気髭剃り器だった。
「天野さん!これなんですか?髭剃りじゃあありませんか?!」
「ふふふ・・・ああでも言わなきゃお前は本気を出さないと思ってよ。
騙してやったんだ。ああ、いい気分だ・・・」
そのとき救急車が到着した。
渚は救急車に一緒に乗って行った。
「重度の胸部打撲ですね。胸骨が陥没していて、内臓が圧迫されて損傷している可能性があります。
特に気管や肺からの出血が見られます。陥没した胸骨は復元することが必要です。
そうしなければ心拍が落ちて呼吸困難やチアノーゼになって行くことでしょう。
緊急に手術が必要でしょう。全治一ヶ月と考えて下さい。」
担当医の説明を聞いて渚はうな垂れた。たった一回の打撃がこんなになるとは思えなかった。
面会謝絶になっていたので、廊下で待っていると看護師が来て話しかけてきた。
「深庄さんでしたね。そんなに気にしないで下さい。」
「えっ?」
「聞きましたよ。救急車の中でも自分のせいだって何度も繰り返していたって・・・。
でも、天野さんはあなたを助けようとして交通事故にあったんですから、悪いのはあなたではなくて、信号無視して当て逃げして行った車ですよ。
あなたのせいじゃないから気にしないでほしいと言ってました。
それと天野さんの会社の厚生課の人が後のことは面倒見てくれるからあなたはもう来なくて良いそうです。
と言うか、絶対来ないでほしいと言ってました。」
天野が交通事故のせいにしているので驚いた。
そして渚に来てはいけないと言ってることも。
全部、渚を庇って言ってることだと思った。
渚は手術が無事終わるのを確かめてからアパートに帰った。
謝志強老師は弟子の岡と一緒に武闘会館の武術部に逗留していた。
「あなたの質問ですが、実際にサンドバックに当ててみて欲しいと言ってます。」
岡がそう言って通訳した。
渚はサンドバックを岡に持ってもらって45度の角度にした。
そして天野にした打撃と同じように掌底で下から突き上げた。
だが、サンドバックは動く。(もっと速かった)渚は思った。
あのときのことを思い出して、20回も30回も打ち付けた。だが、どこか違う。
謝(シェイ)老師は静かに近づいて来た。
「ハッ!!」
渚が手を出す直前に背後から気合をかけたのだ。それは殆ど同時にも聞こえた。
その気合は全く絶妙のタイミングだった。
それよりも早かったら打たなかったし、それよりも遅かったら打ち終わっていた。
だが、同時ではない。
それを聞いても打つのを止めることができない、脳の命令が引き返すことができないぎりぎりのタイミングで気合をかけたのだ。
そして渚にはできた。サンドバッグが微動だにしないで、表面が凹んでいた。
「チュエチャン!」
と謝老師は言った。そして岡になにやら喋った。
「今のはチュエチャンという別の流派の秘拳だそうです。
意味は鉄砲拳とでも言いましょうか。
拳を銃弾のように速く出すと打たれた人間は動かずに打った箇所だけ陥没するのです。
でも、その流派でも伝説の秘拳になっていて、歴代の名人でもできたのはたった一人だけだったと伝えられているそうです。」
「その流派はなんという名前ですか?」
「龍玉拳というのだそうです。」
「龍玉拳・・・」
謝老師は身振り手振りで何か説明していた。その後岡は通訳した。
「今その流派は絶えてしまいました。
人を倒すことのみの拳法だった為、絶えてしまったそうです。
ただその流派があったときは破壊力が大きく世に恐れられていたそうです。
人体の急所のみの攻撃で一撃必殺拳とも言われていたのです。」
「そうですか・・・殺人拳なんですね・・」
「ただ、あなたのように掌底でやる方法はないそうです。
拳でやっていたら確実に死んでいたそうです。」
「そ・・そうですか」
渚は老師に礼を言って、そこを出た。
アパートに戻るとドアの所に3人の立派なスーツを着た男達が待っていた。
「深庄渚さんですね。警察庁の者です。一緒に来て頂けませんか?」
彼らは手帳を出して見せた。3人とも警視だった。
「あの・・どういった用件でしょうか?」
「詳しいことは言えませんが、協力して頂きたいことがありまして」
「もう、私は警察補助員ではないので・・」
「では、何か理由をつけて連行しますか?」
「強引ですね・・」
「もちろんあなたが抵抗すれば、公務執行妨害で逮捕することになります。
あなたが我々3人を倒せば、指名手配になります。どうします?」
「わかりました。でも、私には手が離せない用事が差し迫っているので、あまり時間はとれないのですが・・」
「とにかくお連れしろと命令を受けているので、来て下さい。緊急事態なのです。」
渚は諦めてついて行くことにした。下に車が待っていて、それに乗せられた。
都内を30分ほど走った後、車から降りると沢山の警察車両が止まっていた。
そのうちの一つの大型車両の中に入ると、そこで待っているように言われた。
間もなく高級車が来て、ある人物を降ろした。年配の男性で、渚の乗っている車両に乗り込んで来ると渚の横に座った。
「私が誰かは聞かないでくれ。だが、ヒントをあげよう。私には階級がない。」
渚は、その人物が警察庁長官だということがすぐわかった。
「君が警察補助員をやめたことは知っている。
やめさせたくなかったが、いつの間にか雇用条件などが書き換えられていたらしい。
その辺は追求する積りはもちろんない。
実は一般都民として協力して欲しい。
謝礼は、公的なものの他に、私個人がそれに加えてさしあげよう。」
「一体何をすれば良いのですか?」
「食事を、このビル内のある所に運んでほしい。
相手は3人だが1人が猟銃を持っている。他の二人は刃物を持っている。
人質が6人いるが若い女性ばかりだ。その中に私の娘もいる。
そのことを犯人は知っている。
彼らはカルト宗教の幹部信者で、教祖を逮捕したことを恨みに思って、釈放を要求している。
出来れば、彼らを制圧して娘を含む人質を助けてほしい。
娘たちは高校のクラス会の帰りに襲われて、ここまで連れて来られたのだ。」
「ネゴシエーターはいないのですか?」
「いるのだが、彼らは狂信的な信者なため、通常の交渉術が通用せずてこずっている。
だから君というカードをもう一枚用意した。
しかし制圧が無理だったら中の様子を観察だけして戻って来て欲しい。」
長官はそれだけ告げるとまた車に乗って行ってしまった。
代わりに別の男が来て食堂の店員の服と食事を持って来た。
車の中のフィッティング・ルームでそれに着替えると、食事の中を改めた。
大型の岡持ちが二つあって、その中に味噌汁を入れたジャーとお椀、1人ずつの小さなお盆9枚。
割り箸・どんぶりご飯と漬物の小皿が9組ずつ入っていた。
エレベーターに乗って5階に行くと、大会議室の前に来た。
警察はこの階には1人もいなかった。5階から出るようにと犯人グループに言われたらしい。
ノックをすると、ドアが開き、入るように言われた。
部屋がだだっ広いので、やりにくいなと思った。
広いと犯人たちの位置取りが分散しやすいからだ。
人質は真ん中に固められていて足だけロープのようなもので数珠繋ぎにされて座らされていた。
そし丸く輪になって内側を向いている。つまり、周りの犯人たちに背を向けているのだ。
窓のブラインドは完全に閉まっていて外から観察することはできないようにしている。
二人の男が二つのドアの近くにいて、銃を構えた男が窓側に立って人質に狙いを定めている。
つまり犯人たちの位置を繋ぐと大きな三角形になる。
渚は、真っ先に人質の所に行き、食事を配ろうとした。
すると銃を構えていた男が言った。
「おいっ!こっちが先だ。」
渚はお盆に1人分を乗せて持って行った。
男の足元に置くと、他の二人の分も運んだ。最後に真ん中に6人分の食事を配った。
そして、銃を置いて食事している男に歩いて近づいて行った。
「あのう・・食器が空くまで待っていて良いでしょうか?」
男は食事をやめて銃を持って立ち上がった。
「さっさと出て行け!食器なんぞはどうでも良い!!」
銃を正面から突きつけられたので、渚はホールドアップをゆっくりして、ちょうど胸の高さになったときに、両手を素早く閉じた。
「バーン!!」
銃声が響いた。だが、男は銃の暴発で手元が血だらけになった。
渚は手をずらして急激に銃身を挟んだので一瞬で銃身が曲がったのだ。
渚は掴んだ銃を押し付けて銃床を相手の鳩尾にぶつけると、男は崩れ落ちた。
渚は廻れ右をして、出入り口にいる男達の方に歩いて行った。
人質はきゃあきゃあと悲鳴をあげて立ち上がった。
「静かに!」
渚は言うと、ジャンプして、包丁を持って近づいて来た一人を、腹部を蹴離した。
男は入り口のドアまで飛んでドアが壊れてドアごと外に飛び出した。
最後の1人は人質に近づこうとしたが、渚が阻んだので包丁を目茶目茶に振り回した。
だが、渚は男の包丁を持つ手を掴んで一本背負いで床に叩きつけた。
男はうめき声をあげた。
渚は娘たちの足のロープを自分たちで解くように言って、解いたロープで犯人たちを後ろ手に縛った。
食事は全部回収して岡持ちに入れ。それを娘たちに運んでもらって、先にエレベーターで行かせた。
そして、戻って来たエレベーターに警察官が乗って来たので犯人を引き渡して、一緒に降りた。
戻るとアパートに迎えに来た3人を見つけ、帰りも送って欲しいと頼んだ。
そのとき横から警官が飛び出して来た。
「警視殿、深庄さんをお送り致したいと思います。」
「そうか、じゃあ頼む」
制服警官は渚を手招きしてパトカーに誘導した。
そのパトカーには他に誰も乗ってなかった。つまりその巡査と渚の二人きりだった。
渚は後部席に1人だけ乗った。
「一緒の方はいないのですか?」
渚の質問に巡査は答えた。
「はい、違う業務についているので、自分1人です。戻ったら合流しますので」
「はあ、そうですか?」
だが、パトカーに警官が1人だけと言うのは極めて不自然だった。
渚はなんだか変だと思った。そしてその巡査は行く先も聞こうとせずに発進した。
一方警視の1人は他の二人に言った。
「待てよ。なぜ普通の巡査が深庄の名前を知っていたんだ?」
「それもそうだな?後で他の者に聞いてみよう。
知っている人間は限られていたはずなのに、簡単に機密を漏らすとはな。」
そして、誰も漏らしていなかったことに気づくのはだいぶ後だった。
そして都内では特別な回線で妙な指令が発信されていた。
(我が教団に属す総てのポッラウナよ、心して聞くが良い。
プレプリースが現れた。予言の書の通りである。
予言には、バッサミーナアレンツァンの血を流す者はプレプリースであり、プレプリースを滅ぼす物は選ばれし者であると書かれてある。
プレプリースの俗世での呼び名は深庄渚。
予言の書の通り、悪魔のプレプリースはか弱い女の姿で現れたが、恐ろしい力で我が教団の3人のファティースを倒し、世俗の権力の手に引き渡した。
そのとき、3人のファティースのうち、最も尊いバッサミーナアレンツァンが血を流した。
それが、深庄渚が最も忌むべき悪魔プレプリースである証である。
我が教団に属するすべてのポッラウナよ、プレプリースを討ち取れ。
プレプリースは心臓を突き刺すか首を切らなければ決して死なない。
今警官のふりをして偽のパトカーに乗ったポッラウナがプレプリースを連れて覇渋公園に向かっている。
総てのポッラウナよ、覇渋公園に集結せよ!!
深庄渚を討ち取った物は選ばれし者として、最高のファティースに昇格するであろう。)
「すみません。方向が違うんですが・・」
「はい、わかってます。
自分は覇渋公園に寄らなければならないので、少しだけ寄らせて下さい。
その後で、ご自宅にお送りしますので・・」
渚は、これは絶対怪しいと思った。だが、黙って様子をみることにした。
パトカーは途中でサイレンを鳴らして走り出した。これは不自然だと思った。
そして覇渋公園に着くとサイレンを鳴らしたまま、警官は車の外に飛び出した。
周囲には沢山の車や人が集まっていて、渚の乗っているパトカーを指差してなにやら怒鳴っている。
渚は運転席に移って、サイレンを止めて窓を少し開けた。すると聞こえた。
「プレプリースだ!!悪魔のプレプリースだ!!殺すんだ!!」
渚はパトカーを発進させた。
なんだかよくわからないが、たぶんカルト教団の信者たちに違いない。
渚のことを悪魔と呼んでいるのは例の3人を逮捕するのに貢献したからだろう。
だが、どっちが悪魔だかわからない。とんでもない悪魔教団だ。
渚は囲まれる前に公園から脱出した。
だが、バックミラーを見ると、追跡して来る車のライトの数が半端ではない。
信号を無視して追いかけてくるので、仕方なしに渚もサイレンを鳴らして車外スピーカーで警告しながら走った。
交通事故が起きてはいけないと思うので、郊外か山林地帯を捜すのだが、行けども行けども建物が密集している市街地だった。
そのうち車は失速してエンストした。メーターを見るとガス欠になっている!
あっという間に前後と右側を車に囲まれた。
当然二車線の道路は塞がり、後続の車は止まった。
クラクションの音が鳴り響く。渚は助手席側から降りようとした。
すると、パトカーの4つのドアの総てが外から開けられ、包丁など手に得物を持った人間たちが飛び込んで来た。
助手席側からは包丁を持った若い男、運転席側からはスタンガンを持った若い女、後部席にはアイスピックを持った中年男と鎌を持った中年女が渚を襲った。
渚は後部席側を見ながら左手で女のスタンガンを持つ手首を掴み、右手で男の包丁を持つ手を掴んだ。そして後部席から身を乗り出して来る攻撃には右足で牽制した。
狭い車内で動きづらいが、渚の体は柔らかいのでまだましだった。
男の手首と女の手首を近づけ、スタンガンを男の手につけてから女自身の首につけた。
二人ともぐったりしたのを、車外に突き飛ばすと助手席側の歩道に飛び出した。
すると獣の唸りのような人々の怒号が響き渡った。
「にげたぞーっ!!」「プレプリースだ!!」「予言の悪魔だ!!」
「殺せ!」「心臓を一突きだぞ」「首をねらえ!!」
それらに混じって通行人達の悲鳴が聞こえた。無理もない。
いきなり都会の雑踏の中に手に手に物騒な得物を持った一団が躍り出て来たからだ。
ナイフ・文化包丁・鎌・鋸・金属バット・・中にはチェーンソーを持った者もいた。
それを手に持ったまま狂ったように走り回るので、通行人は道を避け恐怖に凍りつくのも道理である。
渚は車道の片側に出て走った。その片側は車が走ってないからだ。
当然追っ手も同じく車道を走った。それで、歩道の通行人から彼らを引き離すことができたのだ。
だから渚は彼らを誘導するようにゆっくり走った。
それでも、追っ手は追いつくことはできない。
いくら狂信的な信者達と言ってもスポーツ選手ではない。
だんだんスピードが落ちて来て、追いつけなくなって来た。
そのとき、車のない車道に車がやってきた。教団の車が動き出したのだ。
渚は走った。だんだん近づいて来たので歩道に逃げ込んだ。
また一般の歩行者に迷惑をかけることを知りながら人混みの中を縫うように走った。
だが、先回りした車が前方に止まっていて、中から何か黒っぽい物が飛び出て来た。
通行人は道の脇に避けたのではっきり見えた。犬である。
ドイツ産の改良犬、ドーベルマン・ピンシャーだ。
赤毛が2頭と黒毛が3頭こっちを見ている。
背後の男が渚を指差して何か叫んだ。5頭が一斉に突進して来た。
渚の体重と同じかそれ以上の猛犬が恐ろしいスピードで迫って来る。
丸腰でドーベルマンと対峙すれば、人間は勝つことができない、と言われる。
渚はとりあえず逃げようと思った。
刃物を持った人間とかドーベルマンとかは、ゴムバットがほしいところだが今は持っていない。
だが、ゴムバットがあっても5匹はきついかなとも思ったからだ。
田舎のように電信柱とか街灯があれば、そういうのによじ登ればしのげるが、それもない。
それで、高さ3mほどもある看板の下の鉄骨に駆け上って、ぶら下がった。
そしてひょいとよじ登ると看板の下の鉄骨の上に腰掛けた。
5匹のドーベルマンは真下で怒り狂って吼えている。
その周りに同じように狂った目つきをした信者たちが口々に叫んでいる。
そして渚を落とそうと、手に持っている得物を投げつけて来た。
僅か3mの高さだから、かなりの確率で当たってくる筈だ。
まず飛んで来たのはバットだった。しかも激しくスピンさせて飛ばして来た。
これは片手で受け止めることができた。
次に文化包丁を手裏剣のように投げつけてきた。それはバットで受けて下に落とした。
ドーベルマンは慌てて避けていた。
それを見て渚は閃いた。渚はバットの先端の太い所を持って、飛び降りた。
渚が落ちて来るのでそれを避けようとして一瞬犬たちが散った。
が、そのうちの一匹を飛び降りざまにバットの柄で叩いた。
「ギャン!」
痙攣して倒れたのは赤毛だった。左から黒毛が一匹いち早く飛びかかって来た。
それが渚に噛み付く前に喉を首輪の上から掴んだ。
そして、それを回転力を与えてもう一匹の黒毛が右からかかってきたところをカウンター気味に投げつけた。
叩きつけたというのが正しいかもしれない。2匹とも激しく衝突して動かなくなった。
渚は身を翻した。
右手に持っていたバットを背後に振り回すと、赤毛に当たった。
赤毛は声も立てず地面に崩れた。
そのとき正面にいた黒毛が跳びかかって目の前の空中にいた。
喉に噛み付こうとしたのを下顎を手刀で払い上げた。そして胴体を蹴った。
黒毛は空中高く放物線を描いて7m先の路面に落ち鈍い音を立てた。
渚はバットを持ち直した。相変わらず右手一本で持っている。
周囲には数十人の信者たちがいて渚を囲んでいる。
その男女の誰もが手に物騒な得物を持っていた。
渚はバットを振り回して、信者達を近づけないようにした。
そして無謀にも突っ込んで来る者は得物を弾き飛ばして退けた。
だが、すぐに何十人もの人の壁ができ、後ろから押して来る感じになった。
そのときあちこちからパトカーのサイレンが聞こえて来た。
一般人が通報したのだ。
彼らはどっと渚に向かって押し寄せて来た。
このままだと押しつぶされてしまう。
渚はジャンプして彼らの頭上を飛んだ。
誰かの肩に着地してすぐ跳んで人垣の輪から抜けた。すると突然声がした。
「手に持っている物をその場に捨てて、それぞればらばらに逃げろ!!」
教団幹部が命令したらしい。信者達は一斉に指示に従った。
ある者は車に乗って、ある者は雑踏に紛れた。そうなると見分けがつかない。
パトカーが到着した。人垣の中心だったところに数人が倒れていた。
圧迫されたか刃物が誤って刺さったかで置いていかれたらしい。
例の警視たちが来た。歩道上に散らばる凶器を見て戸惑っている。
「申し訳ありません。偽警官を見破られませんでした。」
「私はまた狙われるでしょうか?」
「教団の信者名簿を手に入れましたので、2・3日中には検挙できると思います。
後はこれらの凶器についた指紋と照合します。」
「すみませんが、今度こそ送って頂けないでしょうか?」
「はい、我々がお送り致します。大変失礼致しました。
それと今日のことについては、また後ほど改めて伺いますので」
「わかりました。人質の方たちにはお怪我はありませんでしたか」
「全員大丈夫です。ありがとうございました。」
そして渚は今度こそ無事にアパートに帰ることができた。
「婆さん、あんた一体誰なんだ?」
病院のベッドで寝ていた天野は、さっきから病室で動き回っていた老婆に声をかけた。
「宍戸って言いますの。あなた逆巻灘さんでしょ?」
「俺のこと知ってるのか?」
「そりゃ、ちょっとファンだったからね。」
「そりゃどうも。」
「何か食べたい物あるかい?」
「そりゃ食べたい物は沢山あるけどよ。」
「うちの爺さんに持って来た弁当なんだけれど、食欲がなくて食べないってんだよ。
よかったら食べてくれるかい?この次は食べたい物を持ってきてあげるよ」
老婆は風呂敷を広げると、重箱に入れた特大弁当を広げて見せた。
「うまそうだな?ずいぶん沢山あるなあ、いいのかい?」
もともと天野は病院食の一人前では物足りない。
だから昔の自分のファンだったという老婆から差し入れされて喜んで食べた。
「ごちそうさん。宍戸さんありがとう。悪いな本当に」
「何も悪いことないよ。なんだったらまた持ってきてやるよ。」
「本当かい?当てにしないで待ってるよ。」
「そうだね。時々来てやるよ。じゃあね。」
病室から出た老婆は顔マスクとネッカチーフと手袋を外した。渚だった。
階下に下りたとき、看護師が慌てて皆に声をかけていた。
「すみません、お見舞いに来た方たちですか?
どなたか血液型O型の方いらっしゃらないでしょうか?
手術中の患者さんが輸血用の血液が足りなくて危険な状態なんです。
どうかご協力願えないでしょうか?
血液センターの車が他所に廻っているので、すぐこっちに来られないのです。
お願いします。」
渚は手をあげた。するとすぐ処置室に案内された。看護師は渚を見た。
「すみません。体重が40キロ未満の場合は献血ができないのですが、大丈夫ですか?」
「40キロよりは多いです。大丈夫です。」
看護師は紙を差し出した。
「すみません。ここにご住所とお名前をお書き下さい。
血液は検査をした後、すぐ使わせて頂きます。
一応200ml採血させて頂きます。後ほど検査結果をご住所にお送りします。」
渚は採血された後、少し具合が悪くなった。
そのため30分ほどベッドで休ませてもらった。
「一体何が起きたのだ。とても爽快な気分だ。
体に力が漲って来て立って歩けるぞ。腰痛もすっかりなくなった。
手術した骨は痛くもない。どうしてこうなったのか教えてくれ。」
泉沢善蔵は主治医に機嫌よく話しかけた。
「それが・・・」
主治医の立木はさまざまな検査用紙を見ながら首を傾げていた。
「大腿骨骨折の手術そのものは普通に行われたのですが、途中出血が多かった為に緊急に輸血をしました。
その後、泉沢さんの血液中のアルドラーゼやクレアチンキナーゼという筋肉に関する成分が増えて正常値になったのです。
また、骨密度を測ると骨粗しょう症の症状が緩和して、コラーゲン成分が増加しています。
泉沢さんは80歳で老人性の骨格筋や骨の脆弱化が見られていたのですが、一時的に改善されたようです。」
「難しい話はわからん。結局何が原因でこんなによくなったのだ?」
「つまり輸血の結果・・としか言いようがありません。
輸血の血液成分の検査では通常よりも質の高い骨芽細胞が含まれていて、それが骨形成に驚異的な作用をしたと思われます。
あと、筋力の回復については、まだよく分からない物質があって、それが先ほどの成分を増加させるように働きかけてくれたらしいです。また筋繊維の形成にも強く作用したと考えられます。」
「つまり健康な人間の血液を輸血したから、わしの体が元気になったということか?」
「いえ・・その・・。健康な人間というより、この血液提供者の体質が特別なもので、そのことが幸いしたものと思えます。
年齢や健康状態によって、人間の回復力や細胞の再生力にも個人差がありますが、この提供者の場合は特異なケースだと思います。
通常の人にはない血液成分がありますので・・・。」
「ところで・・その提供者の名前はわかるかね?立木君」
「もちろんわかりますが、4週間後の採血になるということと、本人は採血後具合を悪くしているので協力してもらうのは難しいと思います。」
「わかった。説得はこっちの方でやるから。情報だけわしにくれ。
わしの方から理事長に君の事をよく頼んでおいてやる。
まあ、頑張ってくれ給え。将来の院長候補さん」
「はあ・・・恐縮です。」
こんな会話があったことは、当の血液提供者である渚が知らなかったのは勿論である。
弘は首都教育会館に全国模擬テスト年間総合10位以内入賞者の表彰式に出席するためやって来た。
そのとき九条ゆかりが離れたところから弘を見つけた。
ゆかりは、テーマパーク『ファンタジーカントリー』の二人分のチケットをしっかり握っていた。
ゆかりは頭の中で喋る台詞を練習していた。
(弘さん・・どうでしたか?そう・・渚さんとはやっぱり駄目だったんですね。
元気を出して下さい。
そうだ。この切符貰い物なんですけれど、ちょうど二人分あるから行きませんか?
気晴らしになりますよ。これから行けば帰りの電車にも間に合いますし。
さあ、元気を出して。そんな顔しないで。私が付き合って慰めてあげますから。)
まあ、こんな感じかな?渚は歩きながら頷くと弘に声をかけた。
「弘さん、おめでとうございます。年間総合第1位ですね。
前回少し落ちたので心配してましたけれど全く大丈夫でしたね。」
「ああ、ゆかりさん!ゆかりさんも総合10位おめでとうございます。
後半から10位に入って来たのでどうかなと思いましたけれど、きっと後半のがんばりが効を奏したんですよ」
ゆかりは笑顔を崩さずに思った。いやに弘さんは元気そうだなと。
「ありがとうございます。ところで例の件どうなりましたか?
心配していたんですよ」
「お陰さまで、先日銀海町で婚約式を済ませて来ました。
この4月から僕もこっちに来るので婚約者同士のお付き合いが始まりそうです。
本当にこうなったのもゆかりさんのお陰です。本当に感謝しています。」
ゆかりは握っていたチケットをそっとポケットに忍ばせた。
「そうですか。本当に良かったですね。
もし振られていたら、私が元気付けて慰めてさしあげようと思っていましたのに。その必要はなさそうですね。
ところで、私のお陰というのは?」
「広国でお会いしたとき、ゆかりさんからアドバイスやヒントを頂いたお陰でわかったんです。
渚さんも僕のことを好きだということが。
そして、僕が養女の件を持ち出したことが渚さんを傷つけたということが、ようくわかったんです。」
「ええ、それは私の想定内のことでしたよ。でも、よくそれだけで良い方向に解決できましたね?」
「実は強力な助っ人が二人も現れたんです。
二人とも年上のお姉さんで渚さんの親友ということでした。
そのお二人の援護射撃というか丁寧なアドバイスを受けたお陰で、僕らは素直な気持ちを言い合えることができたと思います。」
「なんという方ですか?」
「五十嵐さんと本保さんと言ってました。」
「五十嵐さんなら存知あげてますわ。本保さんは知らないですが」
渚は弘から顔を逸らして思わず渋い顔をした。だが弘は気づかず続けた。
「でも、やっぱり何と言っても、ゆかりさんがあのとき背中を押してくれなかったら、僕はずっと後悔だらけの人生だったと思います。本当になんとお礼を言ったらいいのか・・・」
「でも初めてここでお会いしたとき、弘さんも苦境に立たされていた私を助ける策を授けて下さったじゃありませんか?これでお相子ですわ。」
ゆかりは少々気落ちした調子でそう言った。だが、弘はさらに続けた。
「そんなことはありません。
ゆかりさんなら、あの程度のことは僕なしでも十分乗り越えていたと思います。
でも、僕たちの場合は違います。
ゆかりさんのアドバイスやヒントがなかったらきっとあのままだったと思います。
その後も渚さんの引越し先の住所も教えて下さったし、どう見ても僕の方が借りが多いような気がします。
でも、何かお返ししようにも、今のゆかりさんなら困ったことも不足なこともないと思うので・・・」
それを聞いてゆかりの顔は少し輝いた。そしてポケットから例のチケットを取り出した。
「実は今とても困ったことがあるんですよ。
実は地方から私と同い年の従姉妹が出て来てて、ファンタジーカントリーに連れて行くことになってたんですけれど、私これから急に仕事が入っちゃって、この通りチケットを買ったんですけれど連れて行けなくなったんです。
でも、こんなことは弘さんに頼む筋合いはないし・・。その子はこんなこと言ってはなんなんですが、性格がとても悪くて誰にでも嫌味は言うし悪戯はするし・・・そんな子なので他の人に頼むと親戚の恥を曝すようで頼めないし・・・
でも良いんです。彼女には1人で行ってもらいます。
もう中学生ですから1人で行けないことはないでしょう。
きっと私のことを散々文句や嫌味を言うと思いますけれど、仕方のないことですから。」
「いけませんよ。ゆかりさん。
地方から出て来た子にたった一人で行かせるなんて。
僕でよかったら帰りの電車までの時間なら案内役してあげますよ。」
「本当に?あ、でも悪いのは性格だけじゃないんです。」
「どういう意味ですか?どこか体でも悪いのですか?」
「きっと女の子が10人いれば器量が10番目になるような子なんです。
名前は・・・・九条・・・」
ゆかりは壁に貼ってあったお茶の宣伝ポスターを見た。
呉野愛香がお茶を飲んでいるところが写っている。
「名前は、九条・・愛香と言うんです。
そのこともあって僻みっぽくて、自分以外の人に関心を持つと機嫌が悪くなるんです。」
「大丈夫ですよ。大事にして案内してあげますから。」
「じゃあ・・30分後にここのカフェに来るように言いますから。
弘さんの特徴を伝えておきます。私はこれから仕事に直行します。
本当に助かります。」
ゆかりはそう言って立ち去りかけたが、自分の水色のネッカチーフを弘の首に巻いた。
「ごめんなさい。
彼女にはこういう目立った目印がないと気がつかないと思うので、ちょっとローズの香水臭いですけれど我慢して下さい。」
「あ・・はい。大丈夫です。見つけてもらうまでつけてます。
愛香さんに返しておけばいいですね。」
ゆかりは頷いて行きかけたが、また振り返った。
「あの子は人に褒められたことのない人ですから、もしできれば何か良いところを見つけて褒めて上げて下さい。
でも敏感な子ですから、嘘は駄目ですよ。」
「早く行って下さい。お仕事が待ってますよ。」
「それじゃあ・・」
ゆかりが行ってしまった後、弘はチケットを見て呟いた。
「気難しい女の子の案内か・・・
でも、ファンタジーカントリーは渚さんと行こうと思ってたところだから、案内の練習になるかも・・・」
一方ゆかりは電話をしていた。
「30分以内に着替えの服を届けてくれる?ええと、教育会館の入り口で待ってるから。
服は去年ので流行遅れので、あのダサくて全然着なかったのがあったでしょう?あれをお願い。」
ゆかりはスタイリストの子が持って来た服をトイレで着替えて、それまで着ていた服を持って帰ってもらった。
その後、髪を縛って髪型を変え素人っぽくした。
そして顔マスクをかぶるとカフェに向かった。
割と入り口近くの目立つところで弘は待っていた。
ゆかりが行くと、まっすぐ見ている。ゆかりもまっすぐ見た。
すると弘は立ち上がった。そしてにこやかに会釈をした。
「九条愛香さんですね?」
」
「魚住弘さん?」
相良ビルの清掃を終えて戻って来た渚はアパートの前に立派な車が止まっているのを見て、誰だろうと思った。
なぜか自分の所に来た者がいる気がしたが、予想は当たった。
部屋の前に3人の女が立って待っていた。
一人は160cmくらいの洗練された感じの30過ぎの女性。
後の二人は黒っぽいパンツスーツを着た、170cmと175cmくらいの大女。
いかにも格闘技等を身につけた感じの体格の良い二人だった。
渚はあまり良い用事ではないような気がしたが、3人に会釈をした。
「あのう、うちに何かご用ですか?」
一番背の低い女が代表して答えた。
「深庄渚さんですね。私はこういう者です。」
差し出された名刺には『泉沢グループ 会長秘書 島原 夏喜』とあった。
「そちらのお二人は?」
「私に付けられたボディガードです。
実はきょうは先日献血をして頂いたお礼に伺ったのです。
あのとき助けて頂いたのはうちの会長です。あの・・お話は中で・・」
「ああ、どうぞ。お入りください。そちらのお二人も」
「それではちょっとだけ失礼致します」
渚は目の前の菓子折りを見て頭を下げた。
「ありがとうございます。会長さんに宜しくお伝えして下さい。」
「中を是非」
「お菓子なら、きっと日持ちのいい焼き菓子なのでしょう?
後でお茶を飲みながら頂きますので。」
「そうですか。
とにかくあなたの献血だったからこそ会長は驚異的に体力が回復されたのです。
実は会長はあのとき筋力も衰え路上で転倒した為に大腿骨を骨折したのです。
ですから二度と歩けないと言われ、一応手術で骨折の治療を行ったのですが、あなたの献血のお陰で輸血の結果、骨組織と筋肉組織が健康状態に近づいたのです。
会長を引退して療養生活をする予定だったのが、お陰さまで現役のままでいられるのです。
これはどういう意味かお分かりでしょうか?」
「わかりません。体力が衰えて満足に動けなくなったお年寄りが健康な生活を過ごせる幸せを手に入れたということしか。私はそのお手伝いができて嬉しいです。
さきほども言いましたが、宜しくお伝えください。」
そして、渚はまた頭を下げた。島原は少し躊躇っていたが口を開いた。
「あのう、ものはご相談ですが、もう一度だけあなたの血を提供して頂けないでしょうか?
もちろん謝礼は致します。
会長はもう一度輸血すれば、第一線で活躍できる体力が取り返せると信じています。」
渚はゆっくり頭を上げた。
「ごめんなさい。実はあの時具合が悪くなってすぐに歩けないほどだったんです。
それでも手術中に血が足りなくなって命の危険に曝されていた方をお救いできて満足だったのですが
・・・今のお話を伺うとちょっと違ってくるのではないでしょうか?
80歳のお年寄りが歩けるようになって筋力も回復したというなら、寝たきりの生活をしなくてもいいのですから、散歩でもして老後の生活を楽しめば良いのではないのですか?」
「会長は普通の方ではありません。泉沢グループの総帥なのです。」
「それは私には関係のないことです。私は命を助けるのに協力した。
けれども助けた方が偉い方で自分で歩けるようになったというのに、代理の人を寄越してお礼を言った
・・そして、図々しくももっと血を寄越せと催促した、そういうことはわかります。」
「そのお菓子の箱を開けて下さい。会長の誠意が入っています。」
島原の言葉に渚は菓子折りを開けた。中に札束がびっしり並んでいた。
「一千万あります。これが感謝の印です。
そして、もう一度血を提供下さればその倍額差し上げると言ってます。」
「少し言い過ぎました。」
渚は札束の一つを手に取るとそこから万札を10枚数えて抜き取ると、残りを箱に戻して菓子折り箱を島原の前に戻した。
「お金で苦労された方のようですね。お金で誠意を示されたのだと思います。
でも、10万円だけ頂きます。それで十分です。後は会長さんにお返し下さい。
感謝の気持ちは確かに受け取りましたとお伝え下さい。
けれども後のお願いについてはお断りして下さい。
誠に申し訳ないのですが、私は健康な体で働いて自分でお金を稼ぎたいからと」
島原は首を振った。
「あなたは欲はないのですか?1000万円ですよ。
そして、さらに2000万円ですよ。それだけあれば働きにいかなくても・・」
「私もお金が好きです。でも今回はこれで十分です。
そして、会長さんはきちんと生きているんですから、二度目の献血はこりごりです。お帰り下さい。」
島原はしばらく沈黙していたが、今度はうっすらと笑った。
「そうですか・・・会長は言いました。
もし値段を吊り上げる為に下手な茶番を演じるようなら、力づくでも連れて来いと・・。」
「それは犯罪ですね?良いのですか・・
世間に知られた泉沢グループがそんなに強引なことをしても?」
「あなたは何も知らないのですね?
法律というのは権力の味方なのです。
あなたがいくら警察に駆け込んで訴えてもそんなものはもみ消されます。」
「それでは、私も言います。
まず、私は値段を吊り上げるためにお断りしているのではありません。
それと、あなたは知らないでしょうが、その後ろにいるボディガードのお二人がどんなに優秀な方たちでも、私を腕づくで連れて行くことは無理だと思います。」
島原は渚を哀れむように見て笑った。
「はったりを言う相手を間違えたようですね、深庄さん。
この二人はただのボディガードではありません。
私も武道の心得があって、男が3・4人で襲って来ても撃退する力はあります。
その私でもこの二人にかかれば赤子の手をひねるように簡単に扱われます。
実は腕づくでもと言ったのは、私があなたを気絶させて連れて行こうと思ったのですが、わざわざこの二人を挑発するようなことを言ったので気が変わりました。
ご希望通りにこの二人に頼むことにしましょう。」
渚は動じずに言った。
「ちょっと待って下さい。自信がなくなりました。」
「何がです?」
「この部屋の中の物を壊さずにあなたたちを撃退できると思ったのですが、あなたくらいなら大丈夫ですが、そっちのお二人はそれでは済みそうにないので。」
島原はむっとして、座った状態からトンと弾むとしゃがんだ形になった。
実に素早い動きだった。対して渚は正座したままだ。
島原のタイトスカートが腰まで捲くれ上がるとしゃがんだ形のまま右足を伸ばして座っている渚の側頭部に回し蹴りを浴びせた・・筈だった。
軽く頭を下げてかわした渚はすぐに、空振りして勢いで背中を向けた島原の背後から首を極めた。
「動くと首を折ります。」
二人はぴくっとしたがそれ以上動けなかった。
「島原さんに何かあったら、あなたたちは頸になるのでしょう?
どこにも逃げませんから外でやり合いませんか?」
二人は顔を見合わせるとゆっくり頷いた。
「それでは、先に下に降りて下さい。島原さんもすぐに解放します。」
二人が出て行くと渚は島原を放した。
「見事な旋風脚でしたね。中国拳法ですか?」
「あの体勢でかわされたのは初めてでした。あなたは一体何者なのですか?」
「先に出て待っていてくれませんか?もちろんもう一度お相手しても良いですよ」
「わかりました。はったりではないことは確かですね。
でも、あの二人はある国の特殊部隊にいたのです。
あなたの実力は認めますけれど、たぶん10秒以内で勝負はつくと思います。」
「菓子折りは忘れないで持って行って下さい。990万ですよ」
「全くよくわからないお人ですね、あなたという方は」
島原を先に行かせると、渚は部屋に鍵をかけて下りて行った。
立木医師の前にいるのは60代の立派なスーツを着た男だった。
「そうか・・・会長が復活したのはそういう訳か。
だが、グループを次世代に譲って貰うという我々の計画をここで中止する訳にはいかない。
君も会長が本気で君をここの院長に推薦するとは思っていないだろう。」
「はい、理事長は老いぼれの現院長を信頼していますし、会長も同じです。
でもこのままだと会長はもっと元気になります。まるで全盛時代のときのように。
そうすれば誰も止めることは出来ません。今ならただの健康な老人程度ですが」
「となると、その血液提供者にいなくなってもらうしかないな。
しばらくの間、3ヶ月あれば今の体制をひっくり返せる。
その間、長期の海外旅行に行ってもらうか、監禁するか。
もっと言えば事故にでもあって、どこか遠いところに入院してもらうか?
この病院も含めグループの関連会社の主導権を移行する準備は着々と進んでいる。
それがこの女の献血を受けたら、元気になった会長は我々の動きを察知してしまうだろう。
とにかく、私が手を回してその女を確保しよう。」
「宜しくお願いします。社長。」
この会話の内容も、もちろん渚のあずかり知らぬことだった。
そして、もう一つ渚のしらないところで秘密の会話が囁かれていた。
「深庄渚のアパートは突き止めたのか?」
「突き止めるも何も、あの日深庄が乗ったパトカーの後をつけたからすぐわかった。警察は脇が甘すぎるよ。」
「だが、あの深庄の動きを見たか?3mも上にある看板の鉄骨に駆け上って、あっという間に5頭の猛犬を倒した。」
「だから、悪魔のプレプリースなんだ。
ところでプレプリースをそのままにしておくとどうなるか幹部のファティースから聞いたか?」
「どうなるんだ?」
「これだから平のポッラウナは困るんだ。
プレプリースは仲間をどんどん増やしてやがて世界が滅びるんだよ。
その前に殺さなければ駄目なんだ。」
「けれども俺達は家にも帰れずに逃げ回っている身でどうやって殺せるんだ?」
「万引きや空き巣をしてでも良いから、刃物を集めろ。
それが幹部のファティースの指令だ。そして突撃だ。」
二人の男はその後右と左に分かれた。
ファンタジー・カントリーは大人気のテーマパークだ。
事前販売チケットは、日時が指定されている代わりに豪華な景品つきの宝くじにもなっている。
最高数十万円の景品がつき、当たりくじも多い。
但し当日中に景品と交換しなければ無効になる。
現地に行ってから通常の入場券を買う場合より得なので、よく売れる。
値段が全く同じにも拘わらず人気があるのは、そのせいである。
弘は九条愛香という少女を連れてそのテーマパークに入った。
もちろんそれはゆかりが変装した姿だが弘は気づかない。
どこかで会ったような気がするのだが、思い出せない。
声はゆかりに似ているが、従姉妹なら似るのかもしれない。
そんな程度の認識で疑うこともしなかった。
愛香を演じているゆかりは言った。
「弘って言ったよね、お兄さん?」
「ええ、あ・・はい、そうだよ」
「ゆかりと一体どうゆう関係?まだ高校生くらいだけど、スタッフなの?」
「いや、友達だよ。」
「へえ・・友達ねえ・・ゆかりのこと好き?」
「ああ、友達としてね。」
「じゃあ、彼女は別にいるの?」
「うん、婚約者がいるんだ。」
「うわあ、すごい!!もうHしたの?」
「してないよ。そんな質問勘弁してほしいな」
「じゃあ、キスは?」
「答えたくないって・・そんなこと」
「そうか・・・キスはしたんだ。うわーっ、きゃーっ!!」
愛香は弘から跳び退って離れた。
「愛香ちゃん、頼むから僕をからかわないでほしいな」
「ゆかりはどうして私のことあんたに頼んだのかなあ?
私が襲われたらどうする積もりだったのかなあ?」
「襲わないよ、絶対。信じてくれよ」
「あら・・それどういう意味?私は魅力ないってこと?」
「そうじゃなくて、君はゆかりさんに頼まれた大事な従姉妹だから大切にするって意味なんだよ」
「ふうーん。ちょっと気になることがあるんだけれど、いいかな?」
「なんだい、愛香ちゃん?」
「それよ!!どうしてゆかりには『さん』づけで、私は『ちゃん』扱いなの?」
弘はこの質問には一瞬考えた。
「鋭い質問だなあ、僕も意識してなかった・・
きっと、ゆかりさんって芸能界に長くいたから大人っぽいんだ。
僕よりもずっとね。でも、君はなんとなく中学一年って感じで年相応というか
・・まあ、可愛い感じで愛香ちゃんって言っちゃったのかなって」
「じゃあ、私は女性というよりも子供って感じってこと?」
「どちらかと言えばそうなのかなって」
「じゃあ、こういうことしても良いんだね」
愛香は弘の腕に腕を絡ませてぎゅっと胸を押し付けて来た。
「あっ、それは・・ちょっと」
弘は慌てた。だが、ゆかりの言葉を思い出した。
僻みっぽいし、人から褒められたことがない。
良いところを見つけて褒めてやってほしいと。弘は無理に腕を解かずに言った。
「愛香ちゃんの良いところって、そういう無邪気なところなのかな?
でも僕も男の子だから、ちょっとこうされるとどきどきしてしまうから、ほんの少しだけ離れてくれる?」
「どきどきだって?この浮気男。婚約者がいるのに、こんな子供にどきどきしている場合か!!だから離れないよ」
「わかったよ。愛香ちゃんは子供だ。愛香ちゃんは子供だ。
だからどきどきしないよ。」
「うふふ・・・可愛い!!自分に言い聞かせている。」
「もう・・頼むよ。あっ、あれを見て」
弘はようやく愛香の胸攻撃から逃れて、腕を解いた。
そしてアイスクリーム屋を指差した。
「愛香ちゃんは何が好きかな?」
「弘は?」
「僕はシンプルでバニラかな。ヨーグルトでもいいけれど」
「味気ない男だねえ。私はストロベリーとパインとマンゴーにチョコとナッツのトッピング。
覚えた?じゃあ,買って来て」
弘は態度の大きい愛香の言い方に不思議と腹が立たなかった。
それは、性格が悪くて人に褒められたことがないという裏に人に認められたいという寂しさを感じたからだ。
「ほら・・愛香ちゃん、ストロベリーとパインとマンゴーにチョコとナッツのトッピングだよ。お待たせ。」
「あれ・・あれれれれ??弘も同じもの?
バニラかユーグルトの単品攻めじゃなかったの?なぜ?」
「それはね、どんな味か気になったからさ。」
「こんな味だぞー!!」
愛香はいきなり弘のアイスを持っている手を掴んで弘の顔につけた。
弘の鼻と口にアイスがべっとり潰れてひっついた。
「わはははは・・・ごめんごめん。油断してた弘が悪いんだから」
「いいんだよ、気にしなくて」
「どうして?弘ってMなの?」
「違うよ、こうするからさ。」「うぷっ!!」
弘は愛香のアイスを顔にくっつけてやった。でも、鼻につけずに口の周りだけにしてあげた。
すると愛香はまず長い舌を自由に動かして口の周りのアイスを舐めてきれいにした。
それがエロチックな感じがして、弘は顔をそらして見ないようにした。
アイスを拭こうとティッシュを出しているときに愛香が呼んだ。
「弘、こっち」
呼ばれて振り返るといきなり愛香の顔が近くにあって、鼻の頭のアイスを舐められた。
「あっ!!」
弘は驚いて顔を離した。その弾みで座っていたベンチから転がった。
だが、手に持っていたアイスだけは無事だった。
愛香は弘の慌てぶりを見て腹を抱えて笑った。
「あはははは・・あははは・・傑作!最高!!
今のは、写真に撮りたかったなあ」
愛香は空いている手をさし出して弘を助け起こした。
「ありがとう。」
「何が?今からかってやったんだよ。弘も転んだじゃない。
どうしてありがとうなの?おかしくない?」
「違うよ、そのことじゃなくて、手を出して起こしてくれたろう?」
「あ・・・そのこと?ついうっかり手を出してしまった。失敗したなあ」
「きっと、愛香ちゃんは、本当は優しい心があるんだよ。」
「きゃあー!!やめて。殺す気?褒め殺しってやつ?弘って女殺し?」
「それに、言葉は乱暴だけど、結構楽しいというか、面白いよ」
「弘って、もしかして女なら誰でも褒める?褒めてその後襲う?」
「襲わないって。あはは・・。面白い子だね、愛香ちゃんは」
「じゃあ、私が襲うか?」
愛香は、またアイスを顔に近づける真似をした。
だが、今度はひっつけずに、自分の口に持って行って食べ始めた。
弘は顔のアイスをティッシュで拭いてそれを屑篭に入れた。
そして自分も食べ始めた。
愛香はそれを横目で見て笑って言った。
「こうやって同じアイスを食べるのはペア・アイスって言うのかな?」
「無理にそういう言葉作らなくても良いと思うよ」
「おいしいね。」
「うん、意外とおいしいね。」
「意外じゃないよ。想定内だよ」
「うん、想定内においしいね。あれっ?」
「なに?どうしたの?砂粒でも入っていた?」
「いや・・その言葉・・ゆかりさんも使ってたから」
すると、急に愛香は機嫌を悪くした。
「なんで、ゆかりのこと思い出すのよ。
ついでに婚約者のことも思い出してのろければ?」
弘はまたゆかりの言った注意を思い出した。
相手が自分以外のことに関心を持つと機嫌が悪くなると・・・。
「愛香ちゃんて、結構独裁者なんだね。」
「そうだよ・・悪い?」
「あ、そうだ。とにかくこれ食べてしまおうよ。乗り物は何にする?」
「また、はぐらかした。弘ってそれ得意だね。さっきもそうやって逃げたもの。」
「溶けてるよ、アイス。
マンゴーとストロベリーが混ざってマンゴベリーになってる。」
「あはは・・・マンゴベリーだって?モンゴメリーみたい。」
「それって、『赤毛のアン』の作者だよね。愛香ちゃんは文学少女なんだ。」
「出た!殺し屋!そうやって私を何回殺せば気が済むの?」
「ちょっと待って、こっちのもモンゴメリーになっている。」
「マンゴベリーでしょ?自分で言っといて間違えてりゃ世話ないわ」
それには構わずに弘は最後まで食べ尽くす。愛香もそれに倣って食べ終わる。
そして、弘に言った。
「弘・・さっきの乗り物のことだけど、エルフ・マウンティンがいいな」
弘は案内パンフレットを見ながら、頷いた。
「噂ではかなり過激らしいけど、大丈夫かな?」
「大丈夫!任せといて。絶叫マシーンなんて平気よ」
渚は車の近くで待っていた3人の前に立った。
「どうぞ、力づくというのをやってみて下さい。」
島原は二人を手で制した。
「ちょっと待って。深庄さんの血は一滴も流しては駄目よ。
打撲も内出血になるから駄目なの。それでできる?」
二人は顔を見合わせて頷き合った。
背丈が170cmの女がもう1人を手で制して、渚に近づくと正面から左手首を握って来た。
何か関節技をかけようとしたのだと思うが、瞬間渚は手首を返して逆に相手の右手首を握って逆時計廻りに捻りながら、右足を相手の背後に滑り込ませ、右手で腹を押した。
相手は仰向けに倒れた。だが、渚はそれ以上攻撃せずに離れた。
「ケイ!」
もう1人の175cmの女が心配して駆け寄った。ケイと言われた女は首を振った。
「ミツ、間接技が利かない。力が物凄く強く・・動きが速い」
「二人でやってみよう」
「いや、待て。もう少しやってみる。」
ケイは立ち上がると、自分のジャケットの両袖を破いて、それぞれをぐるぐると両拳に巻いてグローブにした。
今度はボクシングスタイルで構えた。
「よかった・・」
突っ立ていた渚が、構えもせずにそう言った。
「それなら、こっちも打ち返せるから。」
ノックダウンを狙ったケイがパンチを出すため突進すると、渚は体を沈め旋風脚で足を薙ぎ払った。
ケイは横転した。すぐにミツが飛びかかって来た。
低い位置にあった渚の頭部をキックで狙ったのだ。
だが渚は更に体を沈めそれをかわすと、伸び上がりながらミツの懐に滑り込み腹部に手を当てた。
次の瞬間ミツの体は後方に5mほど飛んで仰向けに転倒した。
ケイは渚を背後から飛びかかってスリーパーホールドをかけた。
だが、渚はするりと抜けると体を沈め、立ち上がったときにはケイの体をうつ伏せのまま持ち上げて、ひょいと前方に回転を加えて投げた。
ケイの体は3mほど前方に背中を下にして落ちた。
体をさすりながら島原の方に行った二人は首を横に振った。
「無理です。スピードも力も・・我々より上です。あの動きは易力拳です。
あれだけ低い姿勢で自由に動けるというのは間違いありません。」
「じゃあ、佐野原逸香・・・?」
「それしか考えられません。だとすると素手では無理です。
彼女は素手では最強と言われてますから」
「じゃあ、催涙スプレーで不意打ちするとか・・」
島原がそう言ってるのに渚は声をかけた。
「聞こえてますよ。だから不意打ちできません。」
「深庄さん、あなたは佐野原さんだったんですか?」
「それは言えません。」
「お願いですから一緒に来て下さい。会長に会ってくれませんか?」
「会うだけなら、構いませんが、何か企んでませんか?」
そのとき、大勢の足音がした。
見ると数十人の男女が手に手に凶器を持って向かって来る。
「いたぞ!!プレプリースだ。」「殺せ!!」
島原は彼らと渚の顔を見比べた。
「あなたを襲って来たのですか、深庄さん?」
「そうですね。私の命を狙っているカルト集団みたいです。」
島原はどこから出したのか特殊警棒を出した。二人にも目で合図した。
「とりあえず、あなたを守ります。あなたの血は一滴も流させてはいけないから」
凶器は文化包丁が多かった。二人のボディガードも特殊警棒を出して応戦した。
渚は刃物は嫌いなので、3人に守られながら見物していた。
渚はアパートの壁を背にして、背後からの攻撃がないようにした。
島原は渚の前に常に立ちふさがって、信者が渚に近づかないように楯になった。
だが、大抵は二人のボディガードが撃退していた。
島原が倒したのは僅か3人くらいだった。
ミツは足を使って腹などを蹴りまくっていた。
すると2・3m飛んで路上に倒れて行く。
ケイは警棒を2本使って容赦なく腕や肩などを叩いていた。
そうすると凶器を持てなくなり戦闘不能になった。
また特殊警棒と文化包丁だと特殊警棒の方が威力があり、包丁は弾かれたりしていた。
「やっぱり仲間が増えている!!」「この世の滅亡だ!!」
彼らは遠巻きになって叫んだ。怪我人を引きずって行き体勢を整えていたのだ。
その隙に島原は渚を車に乗せ、運転手に発車させた。
渚は逆らわずに乗せられた。この場から離れた方が良いと思ったからだ。
信者達は車をしつこく追いかけて来た。
だが、車は彼らを引き離して無事脱出したかに思われた。
「力づくで連れて行ってるのではありません。一時的にあなたを守る為です。」
島原は渚にそう言った。渚は黙って頷いていた。
そのとき運転手が叫んだ。
「車で追って来ます!7台くらいで・・・」
ファンタジーカントリーの医務室で弘は九条愛香の様子を見守っていた。
ドクターは弘に説明した。
エルフ・マウンティンに乗って、強い緊張の為に過換気症候群になって失神したのだと。
もうすぐ目が覚めると思うので、目が覚めたらポットの中にある温かいお茶でも飲ませてあげなさいとも。
弘は愛香の顔をなんとなく見た。額の生え際の皮膚が少しめくれているように見える。
弘はその皮膚を摘まんだ。そして摘まみ上げると驚くことに顔の皮がぺろりと剥けたのだ。
そして、その下から九条ゆかりの顔が出て来た。弘は急いで顔を元通りに戻した。
実に精巧にできた顔マスクだったのだ。というか、愛香ではなくてゆかりだったのだ。
弘は何か見てはいけないものを見てしまった気がした。そして考えた。
そうか・・素顔のままでは芸能人だとばれてしまうから、こんなマスクをしているんだ。
でも、僕に対してまで何故秘密にしたんだろう?
そうか・・・芸能人としての大人びた顔をし続けると、本当は子供なのだからのびのびしたいって思ったに違いない。
ありのままの自分を取り戻すために愛香を演じて無邪気に振舞っていたのかもしれない。
まてよ?演じていたのはゆかりのキャラで、愛香こそが本来の素顔に近いキャラということか。
つまり元々は愛香のようなゆかりが実像で、子役女優としてのゆかりは虚像なのか。
とにかくゆかりを愛香として無邪気に自由に振舞わせることで、ゆかりに対する恩返しができたということなのだと・・・弘はそう思った。
やがて、愛香が目を覚ました。
「大丈夫だったかい?愛香ちゃん。」
「私、気絶してたの?ここどこ?弘?」
「医務室だよ。ドクターは休んでいればなんともないって言ってた。
そうだ。今温かいお茶を入れてあげるよ。」
弘がポットから注いだお茶を愛香は両手で湯飲みを包むように持って飲んだ。
「帰りの電車は大丈夫?」
愛香にそう言われて、弘は時計を見た。2・3回頷くと、笑って愛香を見た。
「駅まで一緒に行くかい?きょうはゆかりさんの所に泊まるんだよね。」
愛香は頷いた。
「弘さん・・」
「何、愛香ちゃん?」
「もう良いんです。私がゆかりだってわかったんですね?」
「えっ、な・・なに言ってるの?僕知らないよ」
「ありがとうございます。でも、様子でわかるんです。
ごめんなさい。騙してしまって・・」
「あ・・・そうか。君は人の心を見抜く才能があるんだものね」
「というか、声の調子でわかってしまいましたよ。」
「でも、よかったじゃありませんか。気晴らしができたでしょう?
芸能人って自由がないから。僕も結構楽しみながら恩返しができてよかったです」
ゆかりは愛香の顔のまま一瞬沈黙した後口を開いた。
「そういう風に考えてくれてたんですね。やさしいというか・・鈍いというか・・」
「えっ?」
愛香はベッドから起き上がると弘の前に立った。そして愛香の口調に戻って言った。
「弘!私は愛香だよ。ゆかりじゃなくて愛香・・
明日田舎に帰ってしまうから、きっともう会うことがない愛香だよ。
駅まで送ってね。実は愛香ね、弘のことが大好きなの。ゆかりは違うよ。
ゆかりは渚と弘を応援している友達なんだから。だから、これはゆかりじゃないよ。」
そう言うとゆかりは弘に抱きついて、伸び上がってキスをした。
そしてぱっと離れると愛香は飛び上がった。
「きゃーっ、やっちゃった!!初めてだよ。愛香のファースト・キスだ。
ねえ、弘。襲いたくなったでしょ?でも、駄目だよ、浮気は。
ゆかりが怒るからね。さあ、早く送って。」
駅に着くと、愛香は弘にバイバイと手を振った。
「私は誰?」
「あ・・愛香ちゃん・・」
「正解!!いくらゆかりに頼んでも、もう会ってあげないからね。惚れたら駄目だよ!
苦しくなるから。もう、弘・・あんたに会うことは絶対ない。さよなら。バイバイ!!」
そう言って愛香はタクシーを止めるとさっさと乗って行ってしまった。
それを見送る弘は呟いた。
「女優って、ずるいと思う・・・・あれは反則だよ。」
泉沢善蔵邸の3mもの高さに聳える鉄柵門に大勢の男女が凶器片手によじ登っている。
門の前には7台の車が乱雑に停められている。エンジンはかかったままだ。
下で見守っている者は包丁などを持った手を掲げて、何やら声を上げている。
「滅びよ、魔性の者共!人間界から出て行け!!
我らは神の戦士だ。恐れよ!神を恐れよ!」
車から降りた島原は門番に合図をした。
すると何やらスイッチを入れたらしく、鉄柵を上っていた10人前後が地面に落下した。
どうやら高圧電流を流したらしい。
そして次に門が開いたので、残りの人間が20人ばかりなだれ込んで来た。
彼らは真っ直ぐ渚たちのいる車目指して走って来た。
だが、島原も二人のボディガードも落ち着いていた。
渚たちの背後つまり邸宅側から灰色の制服を着た一団が飛び出した。
10人くらいの男達が2倍の数の侵入者たちに立ち向かって行った。
驚く渚に島原は説明する。
「泉沢邸の私兵です。口の悪い者は泉沢の番犬とか人間ドーベルマンと言ってますが、大切な戦力です。」
男達は警棒ではなく棍棒のようなものを持っていた。1m20cm程の長さだから、木刀などよりもかなり長い。
また、先端が太いので振り回すのに木刀よりかなり重いと思えるが、彼らは軽々扱っていた。
最初の一撃で足を狙い、次に腹とか背中を叩く。または、いきなり利き腕を叩き、凶器を持てなくしてから胴体を狙う。感心するのは、全員頭部への攻撃を避けていることだ。
もっともあの棍棒で頭部を殴れば頭蓋骨が陥没するだろうから、それは避けているらしい。
あっという間に20人ほどの侵入者は地面に転がって苦しんでいた。
手足や腹部や背中への打撃がかなりの激痛を与えているのだ。
島原は渚に言った。
「すぐに警察を呼んで連れてってもらいます。
数日前にも彼らが街中で暴れまわったというニュースがありましたが、警察は1人も逮捕できなかったらしいですから、感謝されるかもしれませんね。
では、深庄さん、会長に会って頂けますか?」
「社長、まずいことになりました。」
男は電話で社長に報告していた。
「例の深庄渚が会長の屋敷に入りました。
どういう訳かカルト集団の連中が彼女らを襲っていたので様子を見ていましたが、泉沢邸の番犬どもに一掃されました。」
「うむ・・先日献血してから1週間しか経ってないから、血の提供を約束しに来たのだろう。
カルト集団の件もあるから、深庄渚の警備が厳重になるかもしれぬ。
または邸内に匿うことも最悪考えられる。
手遅れにならないうちに出て来次第さらってしまえ。」
「はい、かしこまりました。」
「秘書とボディガードはかなり腕が立つからメンバーを揃えて行け。
まさか、番犬まではつけないと思うから。」
「は・・・その点は念を入れてます。」
社長は電話を切ると、冷ややかに笑った。
「老いぼれ共にこれ以上うまい汁を吸わせる訳にはいかんからな」
堀井信明は泉沢グループの社長の懐刀である。
表舞台を支える人材は他にもいるが、堀井は唯一裏の仕事を専門に担当している。
株主総会の総会屋対策、役員・重役の女性問題の解決、組織内の不正や裏切りへの制裁、暴力団との交渉などなど、いわゆる汚れ仕事を受け持って来た。
会長は私兵を持っているが、社長は堀井を持っている。
そして堀井は傭兵を持っていると言われる。
目的に応じてその都度人員を募集し、仕事が終わったら報酬を与えて終わる。
仕事を引き受けた者が後でそのことを種に強請ってみると仲間に言ったそうだ。
だが、その人間がその後どうなったのかは誰も知らない。行方不明になったそうだ。
だから、そういう大胆なことを思いつく者はいなくなったと言う。
堀井は7人の男達の顔を見た。
「申し訳ないが、お前たちの腕っ節がどれほどの物か見せてもらう。
名前とか武術の段位とかはどうでもいい。要するに実力があるかどうかが見たい。
まずサブっての、前に出ろ。」
言われたのは若い男だった。額に斜めに傷が白く残っている。
「お前は喧嘩で7人のチンピラとやって全員倒したそうだな。
それと滝田っているか?」
40代と見られる男が前に出た。中肉中背の男だった。
「お前は警備会社で指導員をやってたそうだな。二人で素手で戦ってみろ」
言われた途端サブは滝田に殴りかかった。先手必勝タイプの喧嘩術である。
3・4回パンチやキックを避けていた滝田はサブの右腕を掴んで右肩を押さえた。
そのまま体重をかけて床に押し付けた。
「痛ててて・・・」
「そこまでだな。次・・鎌安というのいるか?それとマサ・・・」
泉沢善蔵は、目の前の小柄な娘を見て驚いていた。
「まだ、子供じゃないか?」
「今、21才です。」
渚は答えた。
「わしの申し出を断ったそうだな。何故だ?」
「先日献血したとき私は具合が悪くなりました。だから二回目はお断りしたいのです。」
「礼金を何故10万円しか受け取らないのだ?」
「私にとっては多すぎる報酬なので。」
「わしは物の価値を決めることにかけては、誰よりもしっかりした目を持っている積もりだ。
そのわしが言うんだ。
お前の血200mlに匹敵する薬は世界中探しても手に入らないのだ。
だから1000万円でも安いと思っている。
どうだ、1000万円ずつ上積みして礼金2000万にさらに献血してくれたら3000万というのでは?もちろん3週間後体調を整えてからで良いのだが。」
「命を取り留めて健康なのですから、それで喜んで下さい。
としか言いようがないです。もう帰って良いですか?」
「ああ、もちろん。だが、後3週間あるから、ようく考えておいてくれ」
「会長さんは他に何も言うことがないのですか?」
「何のことだ?礼金のことも言ったはずだぞ」
「いえ、それなら良いんです。では」
渚は肩を竦めて老人と別れた。
島原と例のボディガードの二人が送ってくれることになった。
渚はまた車に乗り自分のアパートに向かった。
渚がアパートに着き車を降りたときに、男達に囲まれた。待っていたらしい。
「あなた達は誰ですか?教団の人たちではないようですね」
「深庄さんだったかな?実は泉沢善蔵に血を提供しないで欲しくてね」
「その積りはありません。でも何故そんなことを?」
「あの爺さんにこれ以上元気になってもらっても困るからさ」
「その辺の事情は知りませんが、献血する気はありませんから。では失礼します。」
「まあ待てよ。こっちも子供の使いじゃないんだ。
気が変わったら困るから一緒に来てもらおうか?」
「私は忙しいので残念ですがお付き合いできません。」
先ほどから車から様子を窺っていた島原は車から降りて来た。
「ちょっとあなたたち、深庄さんに手を触れないで下さい!」
男達の輪に入ろうとした島原は男の1人に裏拳を顔面に浴びせられた。
「あうっ!!」
その男の裏拳をケイが警棒で叩いた。男は拳を押さえたがケイに蹴りを入れて来た。
その出した足の向こう脛をもう一本の警棒で叩く。更にミツがその男の腹を蹴った。
今度は男は地面に伏せた。
その様子を見て堀井は言った。
「やれやれ3人がかりで裏拳のマサをやっと倒したのか?
おい滝田、この娘を車に連れて行け。他の者はこいつらをおとなしくさせろ。」
滝田は渚の腕と肩を掴んで捻り上げるようにして車に引っ張って行こうとした。
瞬間、渚はその捻られた片腕を元に戻し、滝田の体は宙を舞うようにして投げ出された。
一方、残りの男達は5人いたが、一斉に3人の女を襲った。
彼らも警棒を出して打ち合ったのだ。だが、3人とも強くなかなか勝負はつかない。
「やめろ!引き上げだ。」
堀井の言葉に男達は振り返ると、渚が掘井の体を持ち上げている。
その後ひょいと地面に降ろした。堀井と男達は退散した。
「さっきも深庄さんとこの二人が戦ったとき感じたんですが・・・」
島原夏喜が渚に言った。
「あなたは本気を出していませんね。何故ですか?手加減すると、逆に怪我をしますよ。
今の場合もわざと体をつかませている。
それに持ち上げて投げられるのに投げ飛ばさない。何故ですか?」
「言ってもわからないかもしれませんが、怖くなったのです。
本気を出すと相手を殺してしまうのじゃないかって・・
それに私は幸せになりたい。
幸せだったら、戦う必要もないでしょうから」
「彼らは多分会長に対抗する勢力です。
あの様子ではもっと人数を増やしてまたあなたを襲うでしょう。
泉沢邸の戻って3週間ほど邸内に匿いましょうか?
そして献血して頂ければ、もう彼らはあなたを襲うことがないと思います。」
渚は島原に頭を下げてから首を横に振った。
「あなたには悪いのですが、私は会長さんをどうしても好きになれないんです。
ですから献血する気はありません。」
「何故気に入らないのですか?何か理由でも?」
「それは言えません。
とにかく会長さんに血を売ったとすれば、私はこの先自分のことが嫌いになってしまいます。
だから、ごめんなさい。」
「彼らは、また来ますよ。」
「大丈夫です。その対策も考えてます。だから、安心して戻って下さい。」
渚は、そういうとアパートの中に消えて行った。
島原が渚を見たのはそれが最後だった。その晩、渚はアパートから姿を消したのだ。
一ヵ月後、天野が退院する日になった。
老婆の宍戸に扮した渚が大きな弁当を持って来た。
それを喜んで食べた天野は渚に言った。
「宍戸の婆さん、今までありがとう。週に二回も来てくれて。
お陰で病院食だけでひもじい思いをしないで済んだよ。
感謝の気持ちだ。ハグさせてくれ。」
「い・・いや、それは結構だよ。」
だが天野は渚を抱き上げるとぎゅーっとハグした。そして渚をそっと降ろした。
「キッスもしようと思ったが、それは爺さんに叱られそうだからやめといたよ」
」
「馬鹿なことをいうんじゃないよ。
それよりもあんたはまだ相撲やってるのかい?
それしか能がないみたいだけれど、無理はもう利かないよ。
その体は大事にしないとね。元気でね」
そういうと渚は病室を出た。その後ろ姿を見送りながら天野は微かに呟いた。
「俺のファンだと言いながら昔の取り組みのことを少しも話題にしなかったな。
ふふ・・ありがとうよ。宍戸の婆さん・・・あんたが深庄だってことは途中で気がついていたよ・・・」
(最終章おわり。エピローグへ)
怪力少女・近江茜伝・第10部「最終章」
渚の特殊な血液を欲しがる巨大産業の会長、そして渚を悪魔の使いとしてその命を狙うカルト宗教の信者たち。
相手をするのが面倒になった渚は姿を消すことになる。
さて、この最終章の後は何十年も後の老後の渚の様子をエピローグで紹介することになりますが、この後の渚のことについては、続編がああります。
もしここまで読んで頂けたなら『童二朗』『NAGISA』の二つのキーワードで捜していただければ、この後の18才・19才の渚の様子をご覧になることができます。3箇所で同時掲載されております。