怪力少女・近江兼伝・第9部「迷宮の章」

この小説は表題にあるように、全11部からなる長編小説の第9部になります。
けっして異世界もののラビリンスとかとは違いますのでお間違いにならないようにしてください。
九条ゆかりから逃れたと思った渚だったが、再び彼女の手中に落ちる。
さて九条ゆかりはあることを渚に依頼する。その依頼の内容とは?
華々しい脚光を浴びている人気子役にも暗い影があり、その悩みを渚は解決してあげることができるのか?

渚はぼんやりと目覚めた。何かいつもと違う感じがした。
喉が渇いたのでベッドから起きると冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲む。
バスルームに行って鏡を見ながら顔を洗って歯を磨く。
だが、何か変だ。バスタブの位置や形が違う。トイレの便器もおかしい。
何かずいぶん立派なものになっている。
鏡も違う。でもコップと歯磨き粉や歯ブラシはいつも使っているものだ。
そして下に敷いているお風呂マットは自分のものだ。
ここにかかっているバスタオルやタオルも自分のだ。
居間に戻るとテーブルと絨毯やテレビ・冷蔵庫などはあるけれど微妙に位置が違う。
そういえば窓が大きい。それに随分立派な窓だ。
窓から外を覗くと見たこともない風景だった。
広々と広がる緑の庭。プール。ここはどこだ?自分のアパートではないのか?
ベッドに戻るとそばにクローゼットがあった。クローゼット?
ここにクローゼットなんかなかったはずだ。
というより、ここは自分のアパートじゃない。待てよ、頭がぼんやりしている。
そういえば昨日アパートから夜逃げをした筈だ。
そして確かカプセルホテルに泊まった筈じゃあ・・・。
それにこの家具は貸し倉庫に預けたから、ここにあるのはおかしい。
渚はようやく冷静に考えた。そうか・・・九条ゆかりだ。
そのときドアが開いて、九条ゆかりが入って来た。

「その顔を見れば何が起こったか、もうわかってしまったみたいね、渚お姉さま。
ようこそ我が家へいらっしゃいました」

「あのホットミルク・・・」

「そう、私が眠り薬を入れて従業員の女の子に頼んで飲ませたの。」

「そして私を眠ったままここに運んだ・・・」

「そう、貸し倉庫の荷物も業者に頼んで、ここで荷解きしてできるだけ元の様に再現したわ。
全く同じには無理だったけれど」

「どうして・・・夜逃げするとわかったんですか?」

「言ったでしょう、私演技するときの心がわかってしまうって・・
渚さんは逃げようとしているなってわかったの。
だから、人に頼んで見張ってもらったの。」

「怖い人ですね、ゆかりさんは」

「だから友達がいないのかも・・私からまた逃げる?」

逃げても無駄だなと渚は思って、様子を見ることにした。

「いえ、今すぐにはしません。」

「よかった。今のは本心ね。朝ごはん一緒に食べませんか?」

「いいですよ、ちょっと待っててくれれば作ります」


「あ、駄目。うちのシェフが作るから、食堂に下りて来て。」

「それじゃあ、今回だけ。なるべく自分で作りたいので」

渚はパジャマを脱いで服を着替えた。
大きな階段を下りるとメイドさんが待っていて、食堂に案内してくれた。
大きな長いテーブルにゆかりが座って待っていた。
椅子はたくさんあったが、ゆかりは自分の隣に座るように手招きした。
渚が行くとゆかりはうきうきして体を小刻みに動かした。
メイドさんが渚の分の食事を運んできてくれた。
なにか名前のわからない高級食材を使った料理で次から次へと出て来てテーブルの上に並べられた。
とてもおいしくて上品な味がしたが、渚は味噌汁と納豆が食べたい感じがした。

「他の家族の方達はいないのですか?」

渚はゆかりに聞いた。ゆかりは首を振った。

「お母さんは先に撮影場に行って、準備や交渉をしている。
お母さんは事務所に任せられないといつもがんばってくれてるの。」

「いつも食事は1人で?」

「そう撮影で遅くなったりすると、私は朝遅くなるし。」

「学校へは行ってるの?」

「昨日は行ったけれど、早引きしたわ。そうね、ここ1ヶ月で5日くらいしか出てないな。」

「売れっ子で忙しいんですね。」


最後にメイドさんに入れてもらった紅茶を飲むと、渚は時計を見た。

「それじゃあ、私武闘会館にアルバイトへ行ってもいいですか?」

「駄目。私の方から連絡してシフトを変えてもらってるから、行っても駄目ですよ」

「ええっ?!勝手にそんなことしたんですかあ?」

「だって、夜逃げした時点でアルバイトも諦めてたんでしょう?
いいじゃないですか、シフトを変えて仕事を続けるようにしたんですから」

「そう言われれば確かに・・・」

「きょうは仕事を休んでくださる?そのかわりしてほしいことがあるの。
これは私からのお願い。渚さんにしか頼めないことだけど聞いてくれる?」

「え・・・ええ」

渚は返す言葉もなく年下のゆかりの次の言葉をを待った。

「私について来てほしいの」

「だからそれは・・・」

「話は最後まで聞いて。気づかれないように私を尾行してほしいの」

「なんですか、それ?」

「きょう一日私を見守っていてほしい、こっそりと。
でも、あなたが私と関係あることを誰にも気づかれちゃ駄目。」

「ゆかりさん、あなたは頭が良い。でも私はそんなに良くないんです。
言ってる意味がよくわかりません。」

「私も自分で何を知りたいのかよくわからないの。
私は自分の周りで何が起きているのか見えないことがある。
それがなんなのか、私からは確かめようもない。
でも私から少し離れたところで観察すればそれが何か分かるかもしれない。
それにこのやり方だと渚さんにも好都合だと思うし・・・。
きょうここに帰って来てからどんな些細なことでも良いから、気のついたことを教えてほしいの」

「ゆかりさん、言ってることが哲学的でよく理解できないんですが」

「それじゃあ、こう言ったらどうでしょう?きょう一日私を監視して。
そして私の周囲の人たちの動きとかも見張っていてほしいの。
誰にも気づかれないようにこっそり細かい気のついたことをメモして後で教えてほしいの。
これで良い?」

「はい、何のためにそうするのかはまだわかりませんけど、とりあえずやることはわかりました。」

「いくらお友達でもそんなことで一日を潰させるのだから、それに見合ったお礼は払います。
お金の方がいいかなあ・・失礼じゃないかなあ・・。まあ、それは後で・・。
ここにICレコーダーと超小型カメラがあります。
ICレコーダーはメモ帳代わりで、カメラはボタン型だから服につけられる。
帽子は深く被ると目が隠れるキャップを用意したから、顔を見られる心配はないわ。
念のため伊達めがねも用意しました。
あなたの部屋のクロゼットにあなたのサイズに合わせた服を各種揃えてあるから、適当に着ていってね。
元の服もあるからそれでも構わないけれど。
あ、なんのためにって話しでしたよね?
何の為にやるのか私にもわからないの。
でもやってみれば何のためなのかが分かるかもしれない。
行くときも帰るときも車は別々。
渚さんが注目されることのないようにそうします。
私はあなたにタクシーを用意しておくのでそれを使ってね。
料金は払う必要はないし、行き先を告げる必要もないですから」

「ええ・・・」

「あと・・私の関係者であなたのことを知らせてない人がたくさんいると思いますので、怪しまれないようにしてくださいね。渚さんなら絶対できると思うから」

「ゆかりさん・・・私のことをどのくらい調べたんですか?
これは私立探偵か専門の捜査員の仕事ですよね?」

「武闘会館映画部の情報から警備部の推薦があってあなたが映画界に入って来たということを突き止めました。
警備部から聞いたところあなたが警察庁と関係があることを知って、その後あらゆる伝手を使ってやっとあなたが警察補助員という特殊な仕事をしていたことを知ったの。
何度も警視総監賞や警察長官賞を貰っている人だってことも。
でも、私があなたを欲しいのは、そういう能力のことだけじゃなくて、今まで会ったどんな人にもないものをあなたが持っていて、あなたといると安らぎを感じるからなの。
だから信じてね。
渚さんを一方的に利用しようなんて考えている訳じゃあないってことを。」

「ええ・・それは・・もちろん」

「だから、逃げ出さないでね。きっと後悔させないようにしますから」

「だ・・大丈夫です」


渚はとにかく様子をみることにした。
そしてゆかりの情報収集能力の高さに改めて驚いた。
だが、ゆかりは何を恐れているのだろう?
彼女を脅かしているものは一体何なのだろう?


夜になってゆかりが渚の部屋に来た。そして話し合った。

「ゆかりさんにお願いがあります。決して私の姿を捜さないで下さい。
あなたの目の動きで私のことがわかってしまいます。
何度もひやひやしました。もちろんすぐ姿を隠しましたけれどね。」

「ごめんなさい。捜してもいないから本当にいなくなったのかと思って。
それで、きょう一日何か気のついたことありました。」


「どのことに気がついたらゆかりさんが満足するのかわかりませんが、あくまで私が個人的に気のついたことしか言えません。
まず、あなたは暇さえあれば・・いえ、暇がなくても、いつも何かしてますね。
何か教科書のようなものを読んでいたりノートに何か書いたり、あれは勉強をしているのでしょうか」

「そうよ。1月に5日くらいしか登校しないから勉強しなくちゃね。」

「そのことを皆知っていて、邪魔しないように気をつかってますね。
それにあなたは台詞をしっかり覚えていて、全くNGを出しませんね。」

「ありがとう。そう心がけているから」

「あなたがトイレに行くときとかは必ず背の高い女の人がついて行きますね。
あれはボディガードですか?」

「事務所の人よ。一応心配して付き添ってくれるの」

「撮影所に入るとき、何人も男性たちが固まっていて、ゆかりさんの後から歩く人をチェックしてました。」

「ファンクラブの親衛隊の人たちで、勝手に熱狂的なファンが私に接触しないようにチェックしているの」

「あなたのファンかもしれませんが、あなたぐらいの年頃の男の子をスタジオ内で見かけましたね。」

「ちょっと待って。ファンはスタジオ内には入れないはずよ。」

「それじゃあ、スタッフかキャストかその家族でしょうか?」

「まずキャストにはいないわ、今日の場合。
別の日にはいても今日は絶対にいない。家族も私の母以外は来てない。
じゃあ、その子は何者?どんな子かわかる?」

「写真に写っていると思います。」

渚は大きな画面にカメラを接続してもらい、捜した。
色々な人物を取り捲ったらしく、ゆかりは笑いながら、この人は誰誰だと説明していた。
問題の少年が出て来る前にゆかりがストップをかけた。

「ちょっと戻して」

画面が出るとスタジオの外の柱の陰に誰かが立っている。

「誰だろう、この人?」

「男の人ですね。スタッフじゃないですか?」

「こんな人見たことないなあ・・他にも映っていないですか?」

捜すともう一枚だけ廊下のトイレの陰にそれらしい人物が少しだけ見えていた。
だが、2枚とも体の一部だけしか映っておらず、顔は全然分からなかった。
そうしているうちに例の少年が現れた。
この子は全身がはっきり映っていた。けれどもゆかりは首を傾げた。

「全く心当たりのない子だわ。キャストにもこういう子はいないし。」

とにかく最後まで写真を見ることにした。
するとゆかりが短い悲鳴をあげた。

「どうしたんですか、ゆかりさん?」

「この写真・・」

ゆかりは指をさした。それはゆかりの映っている写真だった。
ゆかりは台本を手に他の俳優の演技を見ているところだった。
その背後の物陰に1人の女性がゆかりを睨んでいた。
その目は憎悪に燃えていた。誰にも見られていないと思い、自分の裸の感情をむき出しにしていたのだろう。

「誰ですか、この人は?」


「怖い・・・この人私を呪い殺すような目をしている。」

「誰なんですか?キャストですか」

「そう。私の先輩俳優の夏宮しのぶさん。
私が指名される前に主役候補だったと聞いてたわ。
でも今回準主役に廻された。
初顔合わせのときには一緒にがんばりましょうねって言ってくれてたのに。
この目が怖い。私のことを心底から憎んでいる。」

「落ち着いて下さい。ゆかりさん、そろそろ言って下さらない?
今まで何が不安だったのか?」

ゆかりは呼吸を整えてからしばらく頭の中を整理していた。

「この撮影所に通うようになってから、いつも誰かに見張られているような不安な気持ちになっていたの。
そしてシナリオのページが破けていたり、配られたお弁当に髪の毛が入っていたり、そんな変なことが続いたりしたんです。
衣装を手に取ったら、中からスズメバチが2匹出て来て大騒ぎになったこともあったわ。
私の控え室に蛇が出て来て、捕まえて貰ったらそれがマムシだったことも。
でも、この2つは一歩間違えれば大変なことになっていたような気がするし、誰かがわざとしなければそういうことは起こらないと思うの。
お母さんは、人一倍神経質になって、いつもすみずみまで点検するんだけれど、何か気のつかないところで変なことが起きるんです。
だから、渚さんにこんなことをお願いしたんです。」

渚はゆかりの肩に手を置いた。


「大丈夫よ、ゆかりさん。必ず突き止めてみせるわ。私に任せてみて」

渚は今度は本気にゆかりのために一働きする気持ちになっていた。

なんだか九条ゆかりが助けを必要する弱い女の子に思えてきたからだ。


その日渚は朝早く起き、朝食を作って済ませると、タクシーに乗って撮影所に行った。
撮影所の周りをずっと廻って地形や建物の間取りなど全て調べた。
また、守衛の人に撮影所のことを色々尋ねてみたりした。
その結果、この撮影所は郊外の緑豊かな場所に昔からあるため、外部に対して閉鎖的な構造になっていないということがわかった。
つまり出入りしようと思えばどこからでも侵入できるということだ。
夏などは窓を開けていれば、窓からでも入れるし、非常口のような所は至るところにある。
九条ゆかりの控え室は1階にあり、窓から侵入しやすいこともわかった。
またドアも常に鍵をかけているとは限らない。
渚はさらに行動範囲を広げて周囲の住宅の有無を調べた。
すると、近くに集落のような住宅群があることがわかった。
首都でもこんな辺鄙な所もあるのだなと渚は感心した。
撮影所の裏手の空き地に車が駐車した跡を見つけた。

(通常の駐車場ではない所に車を止めた跡があるということは?
こっそり来て見つからないようにするため?)

何者かが、遠くからこっそり車で撮影所に来ている・・・


渚は更に住宅群を調べた。近くからも来ている者もいる筈だと渚は確信した。
住宅群はそんなに多くなかった。渚は一軒の住宅の前で立ち止まった。
林を背に建っているその住宅は、林側に庭があり、そこにある物を見た。
大きな焼酎用の3ℓのペットボトルだ。中に半分ほど赤い液体が入っている。
それをちらっと見た渚はその住宅の表札を見てから、少し離れた所で様子を見ていた。
庭に置いてあったペットボトルの瓶。

渚はその瓶がスズメバチを捕るための罠だと知っていた。
石田村の斉藤清おじさんに教えてもらって渚も作ったことがあるから知っているのだ。
潰した西瓜かトマトに酒と砂糖と酢を混ぜてペットボトルに半分ほど入れる。
ペットボトルは蓋をするが胴体の上の方にU字型の切れ目を入れて窓を作る。
窓は下の部分を起こして庇(ひさし)のようにし雨水が入らないようにする。
するとその窓からスズメバチが入り液を飲もうとするが溺れるのがいやで上に逃げる。
入った窓から逃げればいいものをスズメバチはとにかくてっぺんから出ようとして、最後には疲れて落ちて溺れる。



やがて1人の少年が家から出てきて林の奥の方に向かった。
手には割り箸と小瓶を持っていた。
さらにじっと待っていると、少年は小瓶に何か入れて戻って来た。
渚は通行人のふりをして少年とすれ違った。
間違いなく写真に写っていた少年だと分かった。
少年の名前は表札にも書いてあった。
子供は男の子と女の子の二人だから男の子の名前が少年の名前だ。
山下正夫という名前だった。

山下正夫は小瓶に毛虫を入れていた。渚はその毛虫の正体を知っていた。
毒蛾の幼虫で皮膚がかぶれる。それが顔や全身に広がることも有る。
渚は石田村でも見たことがあったから憶えていたのだ。
山下正夫が何のためにかは分からないが、何をしようとしているかはわかった。
山下正夫はあの罠から蜂を溺れる前に蓋から取り出して、九条ゆかりの衣装に忍ばせたに違いない。
マムシもきっと彼の仕業だろう。そして今回の生き物も危険だ。
そういう危険な虫や生き物を扱うことに慣れているのだと思った。



そして、撮影所に戻った。今度は撮影所の屋上に登った。
屋上は普段使われていないらしく、ドアは開いたが、下に泥が溜まり草が生え放題だった。
しかも至るところに風で飛んできたらしいゴミが散らかっている。
長い間放置されていたことがわかるさびしい風景だった。
渚はそこから裏手の、車が止まっていたと思われる場所と、住宅群の方を見張った。
そして、撮影所の正面の方もときどき見た。
全ての方向に目を配り出入りをチェックするためである。


やがて住宅群の方からやって来る人影を見た。山下正夫である。
彼は真っ直ぐ九条ゆかりの部屋のある方向に向かって来る。
窓の外から様子を窺い部屋に誰もいないのを確かめたのか窓を開けようとしていた。
けれども朝早かったために窓は鍵が閉まっている。
山下正夫は石を掴んで窓に向かって投げようとした。

「待ちなさい!」

渚は声をかけると2階建ての屋上から飛び降りた。
急に目の前に人間が降って来たので山下正夫はびっくりした。
渚は彼から石と小瓶を奪い取ると両方とも遠くに放り投げた。

「山田正夫君・・・だね?」

「えっ、どうして知ってる?」

「九条ゆかりさんにスズメバチやマムシのプレゼントをしたのは君でしょう?」

「お前は一体誰だ!」

「今度は毒蛾を持って来た。君割り箸で摘まんできたんでしょう?
私ならそんなことしないな。毒蛾は触らなくても近づくだけで危ないんだよ。
スズメバチやマムシと訳が違うもの。
細かい糸が空中に飛んでそれが触れただけでかぶれるんだから」

「あ・・・お前はさっきすれ違った・・俺のことを探ってたのか?」

「探っていたのは君の方だよ、昨日もこそこそスタジオをうろついてたよね。」

「俺のことをどうする積もりだ」

「どうするかな?でも、もう君は二度とこんな真似はできないことは確かだよ。
名前も分かってるし、家もわかっている。警察に届ければすぐ逮捕されるよ」

すると山下正夫は笑った。

「逮捕だって、お前馬鹿じゃないのか?俺達は児童だから補導されることはあっても逮捕されることはないんだよ。」

「もちろん知ってるよ。君にもわかりやすく言っただけ。頭は良いようだね。
でも使い方が間違ってるね。
さあ、君をどうするかは、何故こんなことをするのか聞いてから決めようかな。」

「見逃してくれるのか?」

山下正夫は体格も渚と変わらないが、屋上から飛び降りた渚の体術を見て力では敵わないと本能的に悟っているらしく、物理的な抵抗はする気はないようだ。

「憧れのスターを傷つけて自分の物にした気持ちになりたかったの?」

「馬鹿を言え。そんなんじゃない。あいつが邪魔なんだよ。
スターの癖に俺の邪魔をしやがって!」

「一体なんのこと?九条ゆかりさんが君に何をしたって言うの?」

「お前知ってるか?あいつは映画やドラマに出演して学校には殆ど行ってないのを?」


「うん。月に5回くらいだって言ってた。それがどうしたの?」

「でもあいつは家庭教師を雇って遅れた勉強を取り戻し、毎日学校に通っている奴よりも成績が良いんだ。」

「偉いじゃないの。撮影の合間も勉強してがんばっているよ」

「それで人並みなら俺も文句は言わないよ。
だけどあいつ全国模試の3教科で10番になったんだ。」

「へえー、ゆかりさんが?すごいね」

「感心すんじゃねえ!!
3教科模試ってのは正式なものじゃなくて今回実験的にやったものだ。
それで俺が初めて10番から落ちて11番になったんだ。」

「いいじゃない11番だって凄いよ。君やっぱり頭が良いんだね。」

「やめろ!!屋上から飛び降りてもぴんぴんしている体育会系馬鹿に褒められても嬉しくなんかない。
今度正式に5教科の模試がある。でも今まで10番だった俺があいつのために11番になるかもしれないんだよ!!」

山下正夫ははき捨てるように言った。

「だから、10番が11番になったってそんなに変わりないじゃない。
全国だよ。どうして胸を張っていられないの?」

「違うんだ。10番以内だとベスト・テン・メンバーになって、表彰式に出られるんだ。
賞状とメダルが貰えるんだぞ。」

「でも、実力で決めるんだから仕方がないじゃない。
それにまだ5教科のはこれからでしょう?
5教科なら君が勝つかもしれない。やってみなければわからないよ。
毛虫を集める時間があったら、勉強してがんばりなよ」

「あいつは5教科でもだんだん上がって来たんだよ。
映画やドラマで忙しくてそんな時間がないはずなのに急に出て来たんだ!
あいつはもう天才子役だと言われて成功してるだろう。
それで十分じゃないか。なんで全国模試まで顔を出して、俺を脅かすんだ!」

「君・・・そんなことより夢を持ちなよ。君はどんな人になりたいの?
尊敬する人は誰?」

「俺が尊敬するのはヒットラーだ。」

「誰・・それ?」

「お前ヒットラーも知らないのか?そのくらい小学生でも知ってるぞ。
ナチス・ドイツの独裁者でユダヤ人を全滅させようとした英雄だ。」

「それがどうして英雄なのよ。どうしてそんな人を尊敬するの?」


「ヒットラーは邪魔者のユダヤ人を始末したんだ。俺も邪魔者を始末したい。」

「君・・・それってすごく危険な考えだと思う。絶対間違っているよ」

「そんな上品なこと言っても、いざとなれば誰だって自分の前に立ちふさがる邪魔者を消したいと思うんだ。
それが普通さ。」


渚は呆気にとられて山下正夫を見た。するとどこからか声がした。

「賛成よ、山下君。だから私の邪魔をするあなたは、私にとって邪魔者だから始末しても良い訳ね。違う?」

振り返るといつの間にか窓を開けて九条ゆかりがが顔を出していた。


「く・・・九条ゆかり・・」

山下正夫は言葉が詰まった。

「九条さん、いつから聞いていたの?」

渚はゆかりに聞いた。

「渚さんが上から飛び降りたときからよ。
ところで、山下正夫君この次の模試私休もうか?」

「えっ、本当かい?」

「嘘に決まってるでしょ。
山下君、あなたの人生って他人に左右される人生なの?
あなたもしかして私のように生まれたかった?もちろん女として?」

「女?ありえねえだろう。」


「そうよね、あなたは男の子に生まれたんだから、男の子として生きていこうとする。」

「当たり前じゃねえか、そんなこと。」

「そうよ。当たり前のことなのにどうしてわからないの?
あなたは他人になれない。他人を羨むのはやめようよ。
私が何をどうがんばろうとあなたには関係ないじゃない。
あなたはあなたに与えられた環境の中で、与えられた条件の中でベストを尽くせばいいじゃない。
私は私の境遇の中でがんばってる。それを羨んだり邪魔にする方がおかしいよ。
さってと・・さっきの続きだけど、警察呼んでも良いかな?」

「そ・・それは・・・」

「人間、自分のしたことに責任とろうよ。
君だって将来官僚かなにかになりたくて頑張っているんでしょ?
自分に責任取れない官僚なんて嫌だなあ・・。
それとも独裁者?ヒットラーだって責任とって自殺したんだよ。」

「ごめ・・」

「なに?聞こえないよ?」

「ごめんなさい。九条さん・・だから」

「だから警察呼ばないでって?
それくらいの根性なら最初からしない方がよかったね。
もう消えてちょうだい。二度と私に変なプレゼント持ってこないで!
そして今度一緒に10番以内になったら、笑って表彰式で会おうよ。
せめてそのくらいの気持ちを持ってくれなきゃ、君をライバルとして認めないからね!」

「一緒に10番以内になったら、ライバルとして認めてくれるのか?」

「なってからの話しだからね、お馬鹿さん。」

「あ・・ありがとう。俺がんばる。だから許してくれ」

「ああ、もうじれったい。気が変わって警察呼ばないうちにいなくなってよ」


「うん・・そうする。すみませんでした」

山下正夫は慌てて家に帰って行った。



渚は九条ゆかりをしげしげと見た。

「なによ、私そんなに見とれるほど綺麗?」

「九条さん、あなたってすごいね。
私が何を言っても馬鹿にされるだけだったのに、あなたが喋ったら白旗揚げて退散しちゃった。」

「あら、渚さん自分のことを棚にあげてよく言いますね。
あのひねくれ者、あなたには正直に本心を話していたじゃない。
気がつかなかった?心を開いていたよ。それがあなたの力よ。
九分通りあなたが解決してたのを、私が仕上げを横取りしただけだから」

「そ・・・そうなの?」


「まったく、そんなことにも気がつかないなんて・・渚さんて良い人ね。
それじゃあ、私そろそろスタジオに行くから。
きょうは私にびっちり付かなくても自由に動いて下さる?
その方がやりやすいでしょう?それと・・今の件ありがとう。感謝してます。」

九条ゆかりは渚に深々と頭を下げた。
そして渚に笑顔を投げかけるとすーっと部屋の中に消えて行った。
渚はしばらくぼんやり立っていたが、気がついて再び屋上に登った。
すると、例の場所に車が駐車してあるの見えた。

(いつの間に来てたんだろう・・)

急いで飛び降りると、車を見た。左ハンドルの高級な外車だ。
渚はナンバーをメモすると、電話をかけた。

「辰巳室長ですか?調べてもらいたいナンバーがあるんですが」




渚は不審な男がいないか撮影所の中を調べまわった。
だがなかなか見つからない。大っぴらに捜査できないのももどかしい。
すると映画記念室という、展示場のような所に来た。
この映画会社で出した映画のポスターが年代別に貼られている。
そこで目に止まったのが『夏宮しのぶ』という名前だった。
時代劇の主役としてシリーズ物に出ている。題名を見ると以下の通りである。

「じゃじゃ馬姫とお家騒動」
「じゃじゃ馬姫の町探検」
「じゃじゃ馬姫の捕り物帳」
「じゃじゃ馬姫と黒頭巾」
「じゃじゃ馬姫と用心棒」
「じゃじゃ馬姫と盗賊団」

それが全部夏宮しのぶが主役のじゃじゃ馬姫役になっている。
監督は座間亨監督。原作者は小野寺正。脚色は色々変わっている。
するとちょっと離れた所に新しいポスターがあった。
まだ封切り前の映画で正月封切り予定と札が貼ってある。

「じゃじゃ馬姫の七変化」

それは監督は同じだが主役は九条ゆかりになっている。
そしてその横に腰元綾乃役として夏宮しのぶの名前があった。
主役の次だから準主役なのだろう。
その近くに新聞の切り抜きを貼ったスクラップブックがあったので、見てみると
「じゃじゃ馬姫」シリーズの原作者の言葉が載っていた。  


 

     (小野寺正さんのコメント)

(前略)
夏宮しのぶさんの「じゃじゃ馬姫」シリーズは一時代を築いた。
毎年お正月映画の定番として6年間家族連れの観客を楽しませてくれた。
座間監督から主役をこのままにして、成長して行くじゃじゃ馬姫の脚本を作りたいとの申し出があったが、お断りした。
私が原作で描きたかったのはあくまで少女のじゃじゃ馬姫であり、少女だからこそじゃじゃ馬が魅力なので成長した女性では作風が変わってしまうからだ。
今回九条ゆかりさんが抜擢されて新しいじゃじゃ馬姫シリーズを始めてくれるとのことだが、また一味違う姫を見せてくれると楽しみにしている。
また、新旧のじゃじゃ馬姫が共演してバトンタッチしてくれるという企画も微笑ましく拍手を送りたい。
数多くの名子役が何人もこの作品に挑戦してくれることを今後も楽しみにしている。(後略)



渚は夏宮しのぶの姿を求めてスタジオに行ったが、九条ゆかりは演技していたが夏宮しのぶの姿はなかった。
出番がなかったのだろう。

シナリオを破いたり、弁当に髪の毛を入れたのは恐らく夏宮なのかもしれない。
渚はそう思ってなにかやりきれない気持ちになった。
渚は胸騒ぎがして九条ゆかりの控え室に行くことにした。
そこはまだ調べていないし、不審な男が侵入しているかもしれない。
また、夏宮しのぶが忍び込んでなにやら嫌がらせの細工をするかもしれない。
渚が九条の控え室に近づくと二人の女性の言い争う声が聞こえた。

「とうとう現場を押さえたわ!あなたは何の為にこんなことを!」

「知らないわ、何のことですか?放して下さい。」

二人の女性がもみ合って出て来た。そのうちの1人が夏宮しのぶだった。
やっぱり夏宮しのぶが何か細工をしに忍び込んだのだ。
もう1人の女性はスタッフのようだ。
きっと、九条ゆかりへの悪戯が度を越しているので警戒してくれていたのだろう。

渚は腰元姿の夏宮に近づき後ろから抱きすくめた。

「あっ、誰?」

夏宮は声を出した。その声は・・・。
そしてもう1人の女性が何故か逃げ出した。渚は間違えたのだ。
夏宮を放すと、渚はダッシュして逃げる女性を捕まえた。

「放して!誰よ、あんた!?」

その女性をうつ伏せに床に倒すと後ろ手に結束バンドをかけた。
そして、渚は夏宮に頭を下げた。

「失礼しました。勘違いしまして、こっちが犯人なんですね?」

「あら、あなたも犯人捜しをしていたの?どちらの方?」

「九条さんに頼まれて調べていた者です。どういうことか教えてくれませんか?」

「ゆかりさんに悪戯がされていたのは前から聞いていたけれど、人の噂では私が犯人じゃないかって思われていたらしいの。
とんでもないわ。自分の後継者に嫌がらせなんかしない。
昨日たまたまスタジオの陰からこの人が九条さんの髪を直すふりをして、剃刀のような物を首の襟に入れようとしたのを見たの。
でもタイミングが悪かったらしくて途中でやめた。この人は交代で来るスタイリストよ。
きょうはこの人が変なときに抜け出すから後をつけたらここに入ってゆかりさんのハンドバッグにコップの水を空けているのを見つけたの。」



渚はポケットから問題の写真を取り出した。
スタジオの陰から夏宮しのぶが恐ろしい顔で睨んでいた相手は九条ではなかった。
九条の背後でスタイリストの子が九条の髪をいじっていたのだ。
手元は九条に隠れてよく見えないが、夏宮しのぶはそのスタイリストを睨んでいたのだ。

渚は頷くと、その女性を起こして尋ねた。

「あなたのしたことは器物破損罪になります。
夏宮さんがあなたを現行犯逮捕するところを私は手伝いました。
最初は勘違いして邪魔しちゃったですけどね。
何故あなたはこんなことをしたんですか?」

「・・・九条さんが、もう1人のスタイリストのことをよく褒めていたから、癪にさわって」

「別にあなたのことをけなしていた訳じゃないんでしょう?」

するとその女性は泣き崩れた。

渚は肩を竦めて夏宮しのぶを見た。夏宮は笑って頷いた。

「あなた放してあげて。後でこの子をゆかりさんに謝罪させるわ。
でも、この子はきっと頸になるわね。」

渚はカッターを持っていなかったので、歯で噛み切って外した。

「さあ、おいで。行くよ」

夏宮にせかされてスタイリストはうな垂れてついて行く。


渚は少し離れて後をついていたが、何故かスタジオ近くのトイレの辺りで人々が集まっていた。
九条の事務所の背の高い女性が床に座り込んでいる。

「ここで待っていたら、急に後ろからハンカチを口や鼻に当てられて、なんか薬の匂いがしてちょっと気を失ったんです。
そして気がついたら、トイレに九条ゆかりさんがいなくなっていて・・」

九条ゆかりの母親がうろたえていた。

「誘拐されたんだわ。ゆかりが・・・大変、どうしよう!!」

渚は(しまった)と思った。
大急ぎで裏手に廻ると、例の外車がなくなっていた。

(車で連れだされたんだ)

渚はゆかりに張り付いていなかったことを悔やみ、唇を噛んだ。

(一体・・・どこへ・・・・?)


九条ゆかりはじゃじゃ馬姫の着物姿で椅子に座っていた。
目を覚ますと、広い部屋の中だった。
日本間の20畳くらいの部屋で周りは襖と障子で囲まれている。
薄目を開けると、沢山の人間の気配がした。
自分の目の前には痣だらけ傷だらけの男が横たわっていた。
その向こうには頬に傷の有る中年の男が腰掛けていた。
周りには男達が立っている。そのうちの1人が書類とペンを持ってきた。
正面の男が口を開いた。

「そこにサインと拇印を押してもらおうか」

「何ですか、これは?」

九条ゆかりは気丈に言った。中央の男は倒れている男を顎でさした。

「その男の代わりに借金を払うという誓約書だ。」

「誰ですか、この人は?」

「冷たいことを言うなよ、お前の親父さんじゃないか」


「そういう人は知りません。
1年前私の契約金を全部持ち出してギャンブルに使い果たした人がいたようですが、母と離婚しているし私とも縁を切っているので、私には父と呼ぶ人はいないのです。
ですから、この人は赤の他人です。
赤の他人の借金を払ういわれはありません。」

「じゃあ、仕方がないな。こいつの内臓を切り売りして返してもらうとするか?
それでいいんだな?」

「殺人は良いか悪いか私に聞くなら、答えははっきりしてるでしょう。
違法行為ですから。
でも、犯罪を犯すのはあなたたちで、その責任はあなたたちが負うものです。」

「お嬢ちゃん、口が減らないな。
この後お前がどうなるのか知っててそんな口を利いてるのかい?」

「・・・・・・」


「書類にサインすれば、スターのままで活躍できるが、それを拒否すればお前の利用価値がなくなるから、もうお前はその辺からかどわかしてきた家出娘と同じ値打ちしかなくなるんだよ。
いや、それ以下だな。家出娘は生きていられるが、なまじ有名人だから足がつく。
外に出せば誘拐されたと騒ぎ立てるだろうから、首輪でもつけて飼っておくか。
うちの息子がお前のファンだというから、ペット代わりに与えるのも良い。
だが、あいつは飽きっぽい奴でな。何日かしたら見向きもしなくなるだろう。
ま、最後はコンクリートで固めて海に沈めるか。その辺で落ち着くだろうがな。」

「・・・・・・」

「どうした?急におとなしくなったな。
気が変わって親孝行娘になってみる気になったかな?」

そのとき外が騒がしくなくなった。

「なんだ?様子を見て来い」

ボスの命令で、男達が外に出ようとすると、若い男がいきなり飛び込んで来た。
だが、年齢は二十歳前後だろうが口から涎を垂らしてシャツのボタンが掛け違いになっている。


「ぼ・・・坊ちゃん」

男達は若い男を阻止しようとせずに中に入れてしまう。

「パパア、九条ゆかりさんを連れて来たってえ?本当う」

「則雄!ここに来るなと言ったろう!部屋に戻ってろ。
今、お前のお嫁さんになってもらう為の準備をしているんだ。」


則夫と言われた男は椅子に座っている九条ゆかりを見てぱっと顔を輝かせた。

「本当?ぼ・・ぼくのお嫁さんになってくれるの?」

「あなたは、私のファンなのですか?」

「はい。だ・・・大ファンですう!」

「それはとっても嬉しいですが、私には10万人のファンがいます。
1人のファンのためだけにお嫁さんにはなれません。」

「パパア!駄目だって。駄目だから帰してあげて。
でもその前にサインがほしいな」

「則雄、大丈夫だ。パパが言うことをきくお注射をたくさん打って、素直な嫁さんにしてあげるから。
部屋に戻ってなさい」

「あっ、もしかして・・
お注射って・・シャブ漬けとかいう頭がおかしくなるやつ?  
駄目だよ。それならゆかりさんがゆかりさんでなくなるから、やだやだ!」

ボスは目で合図すると則雄を無理矢理連れ出すように男たちに命じた。
5人くらいの男達が則雄の手足を捕まえて襖を開けて広間から連れ出そうととした。
襖が閉じられ襖の外で則雄が騒ぎ立てる声だけが響く。
ボスの男は目で合図すると男が二人、椅子に座っている九条ゆかりを押さえつけた。
三人目の男が注射器を持って近づくと、思い切り蹴られた。
ボスが蹴られた男から注射器を受け取るとその男に言った。

「お前は足を押さえてろ。俺が直接打ってやる。」

男は九条ゆかりの両足を抱えて押さえつけると、ボスが九条の振袖をまくった。
白い腕が剥きだしになると、ボスは注射器を構えて薄笑いをした。

「お前が選んだ道だ。馬鹿な娘だ。」


そのとき激しい音がして襖が倒れた。と同時に人間が飛んで来た。
ボスは咄嗟に横に動いて避けた。
だが九条を押さえていた男達の背中にも男が1人飛んで来てぶつかったので、九条も男達も椅子ごと倒れた。
他にもドスン!ドスン!ドスン!と畳の上に男達が降って来た。
飛んで来た方向を見ると、則雄が怒った顔で立っている。

「則雄・・・・お前!?」

ボスが驚いて声をあげると、則雄は九条ゆかりの方へ走り寄った。

「九条さあん、大丈夫う?」

その後に1人の少年がリュックを背負って立っていた。
則雄の陰に隠れて見えなかったのだ。小柄な14才くらいの少年だ。
則雄は倒れている椅子をどけて九条ゆかりを助け起こして少年の背後に連れて来た。

「駄目じゃないか、パパア。九条さんに悪いことしたらあ!」

だが、ボスの男は則雄には答えずに少年に言った。

「誰だ・・・お前は?」

「俺は辰巳成明(たつみなりあき)だ。ただのナリアキでもいいぜ」

「ナリアキ・・・もしかして、あのナリアキか?」

「どのナリアキか知らないけれど、とにかくナリアキだ」

ボスの合図で男達はかかって行った。始めの4・5人は足を薙ぎ払われて転倒し、その後少年は跳びあがって二人の男の頭部を軽く蹴った。
それだけで二人の男はぐんにゃりして倒れたし最初に足を払われた男達は脛を抱えて苦痛のあまり立てないでいる。
着地したと同時に少年は手にゴム製のオモチャのバットを手にしていて、3人の男を叩きのめした。
彼らは手に匕首を持っていたが、それを使う暇がなかった。
ボスは床の間に走って行って、飾ってあった日本刀を抜いた。
だが、少年はすぐ追いかけて来て、オモチャのバットで日本刀を叩き折ってしまった。
ボスは痺れる手で怒鳴った。まだ3人ほどの男が立っていた。

「チャカ持って来い!」

3人の男が部屋の外に出ようとすると、少年はボスの頭を素早くバットで叩いてから男達の後を跳んで追いついた。

「ボクン」「ボクン」「ボクン」

部屋を出ようとした3人は背後から後頭部などを叩かれその場に崩れた。
だが、一番最初に九条ゆかりを押さえつけていた男が懐に手を入れて立ち上がった。

「俺がチャカ持ってます。ボス」

だが、ボスは気絶して返事をしない。

「この餓鬼あ、よくも!」

男が少年に向かって拳銃を向けようとすると、少年は横に飛んで襖に体当たりした。そして叫んだ。

「兄貴!」

すると他の襖も一斉に内側に倒れて、拳銃を構えた警察官が大勢現れた。

「そこまでだ!手をあげろ!」

声を出したのは辰巳真治警視正だった。
男は拳銃を床に落として手を上げた。
警官たちは一斉に男達に手錠をかけて廻った。
といっても、殆どの者が戦闘不能状態だったから、抵抗する者はいなかった。
警官が則雄にも手錠をかけようとすると、九条ゆかりはそれを止めた。

「その人は違います。放してあげてください。」

警官から解放された則雄は油性ペンを持って来てゆかりに渡した。

「サ・・サインしてください。」

そう言うと則雄は背中を向けた。九条はシャツの背中にサインした。

「守ってくれてありがとう。則雄さん、あなたは私のファンクラブに入ってますか?」

「は・・はい、入ってます。」

「では、この後すぐファンクラブをやめてください。
自分からやめるようにしてね。」

「ええっ?!ど・・どうして?パパのせいかなあ?」

「他のファンの人たちにあなたが誰かすぐわかってしまうからです。
そしたらあなたが酷い目にあう。
それは耐えられないからファンクラブには近づかないで下さい。」

「は・・・はい。でもファンです。」

「ありがとう。」

そして、担架で運ばれて行く父親の方に近づいて行った。

「もうこれに懲りたら普通に働いて生きて行ってほしい。
そうなっても赤の他人であることには変わりないけれど・・」

その後は言葉が続かず九条ゆかりはそこから離れて行った。
辰巳真治室長はナリアキ少年と九条ゆかりを手招きした。

「送ろう。パトカーが待ってる」


門の外に出ると沢山の野次馬が遠巻きに集まっていた。
中に報道関係のカメラやテレビカメラも構えられていて一斉にフラッシュが焚かれ、質問が矢継ぎ早やに出された。

「九条ゆかりさん、怪我はありませんか?」  「何を要求されたのですか?」

「撮影所から直接誘拐されたのですか?」    「ナリアキさんとの関係は?」

「救急車で運ばれた人は誰ですか?」    「九条さん、一言お願いします」

「ナリアキさん、どうしてここにいるんですか?」


だが、九条ゆかりは下を向いて歩き、ただ頭を下げるばかりだった。


「すみません。すみません。ご心配をかけました。もう大丈夫です」

ナリアキは聞かれてもどう言ったらいいかわからないうちにパトカーに乗った。


九条ゆかりは、あったことを手短に辰巳室長に話した。

「怪我はなんともないですか?
もしなんでしたらこれから警察病院に行って診察してもらいますが・・」


辰巳室長の問いに九条ゆかりはしっかりと答えた。

「大丈夫です。
椅子ごと前に倒れたときに私の足を押さえていた人がクッションになって、その上に被さって倒れたので大事には至らなかったです。」

辰巳は渚の方を見て小声で言った。

「人間を飛ばすときは気をつけてくれよ。」

そして、また九条ゆかりの方を見て言った。

「これからまた調書を取るために長い時間付き合って頂くのは大変ですから、このままお家にお送りします。
ええと、ナリアキはその後でアパートに送るよ」

九条ゆかりは何か言おうとしたが、渚は手で止めた。

「いえ、同じ場所で降ろして下さい。後は電車で帰ります。兄貴も忙しいでしょうから」

九条ゆかり家の前で二人は降りるとパトカーを見送りながら門の前で手を振った。
そして、パトカーがまだ見えるうちに、渚は九条に頭を下げて駅の方の道を歩き始めた。
20歩くらい歩いてから渚は回れ右して九条の家に戻った。
九条ゆかりは腕を組んで待っていた。

「面倒な小芝居をするんですね。いっそ、ここに住んでいることを公表したら?」

「九条さんのファンに殺されますよ。俺一応男ってことになってるし」

「そうだったね。でも、この後大変だよ。もうナリアキの格好はやめないと」

「中に入りましょう。誰かに見られたらいけないし」



中に戻るとメイドさんたちと一緒に母親が待ち構えていた。
母親はゆかりを抱きしめると色々堰を切ったように喋り始めたが、ゆかりはただ頷いて多くは語らなかった。


渚は普段の服装に戻ると、ゆかりがやって来た。
渚は夏宮しのぶのことを報告した。

「そうだったの。私のとんだ誤解だったのね。よかった。
あの人の演技には少しも私に対する悪意が感じられなかったから、余程しっかりした仮面を被ってるのかと恐ろしかったけれど、とんだ勘違い。
でも、スタイリストさんは山下君と同じく、全然私の気づかない所で恨んだりしてたのね。
人間て難しいね。そして、スターって難しい。
スターになるのも難しいけれど、なった後も気をつけることがいっぱいだね。」

「それは政治家や大臣も同じですね。
人に注目されるというのは大変なことだから。
あっ、どうしよう。私もそうだ。」

「なに?ナリアキのこと?まず私たちのことが絶対話題になるわね。
以前共演した相手が何故誘拐された現場にいたのか?
一緒に誘拐された訳ではないから、そこに警察と一緒に・・・
実際は警察より先に駆けつけた訳だけど・・そんなことを説明しなきゃならなくなる。」

「きっと、辰巳室長がなんとか言い繕ってくれる思うけれど。
もうナリアキの格好はしたくないな。
ナリアキとして顔を出せば、また嘘をつかなければいけないから・・・。」

「それときっと父のことも根掘り葉掘り探られると思う。
今まで秘密にしていたけれど、もう隠し通せないし。
家庭の事情が丸裸にされてしまう・・・。
場合によっては、今の映画を途中で降ろされるかもしれない。
今回のことで、私のイメージが大幅にダウンするから・・・」

二人にとっては、危機を脱して助かった喜びよりも、事件が公になって反響が広がることへの心配の方が大きかったのだった。
だが、さすがに今回は打つ手も浮かばずそのまま夜になって眠るしかなかった。



翌日の新聞報道によると以下のことが報じられていた。


(九条ゆかり拉致監禁される!救ったのはナリアキ)

(前略)
撮影所から拉致された人気子役スターの九条ゆかりさん(13才)は、広域暴力団大和連合の傘下の坂上組の組長、坂上博治郎宅に軟禁されていた。
映画「鳥人拳への道」で共演していたナリアキさん(仮名)は今回九条さんからの依頼で不審な人物について個人的に捜査をしていたとのこと。
その最中に起きた今回の事件だった。
(中略)
九条さん救出に際しては、ナリアキさんも警察への通報をし、他の警察官を導いて協力したという。
なお、ナリアキさんの年齢その他の詳細については本人の希望もあり、非公開とされているとのこと。
また、事件の日に現場から運び出された重傷の男性については、今回の拉致事件とは別に捜査を続けているとのこと。。(後略)



当初は以上のような内容だった。
しかし後日の報道では、次々と新事実が報道されたのだった。

     

 
轟日報の記事(抜粋)

(九条ゆかりさん誘拐事件の新事実)

(前略)九条ゆかりさんの父親の九条昭義さんはギャンブルによる借金を払えず、坂上組の組員に暴行リンチを受けた。なお、本人は昨年妻の松江文子さんと離婚している。坂上組は父親の借金の肩代わりをするという証文にサインさせようと九条ゆかりさんを誘拐し強要したもの。九条ゆかりさんが断ると、覚せい剤を注射して廃人にしようとした傷害未遂の事実があった。昭義さんは保護されて警察病院で治療中だが、全治1ヶ月の重傷とのこと。(中略)
なお、坂上組の組長以下19名は誘拐・監禁・暴行傷害・薬物法違反等々の罪で逮捕された。
東遊キネマ撮影所では『じゃじゃうま姫の七変化』の撮影を一時休止している。
今後の撮影継続については映画会社内でよく検討して決めて行きたいとのこと。
(後略)


『週刊突撃芸能』の記事(見出しのみ)

(13才の天才子役スターの父親との確執)
(子役俳優同士の異性間の関係とは?九条ゆかりとナリアキ)
(ギャンブルに溺れた九条昭義の転落ぶり)


他の週刊誌の記事などとも読み合わせてみると、以下のことが報じられたといえる。

(1)九条昭義がギャンブルに溺れ会社をやめて、ゆかりの映画出演の契約金を全部持ち出して使い果たした。それが原因で九条ゆかりの両親は離婚。ゆかりは母親に引き取られた。

(2)離婚後も九条昭義はギャンブルがやめられず溺れて行った。
借金も増えて、闇金融から借りて返すなど雪だるま式に加速して行った。
最後に債権の全てが坂上組に買い取られ、今回の事件になったこと。

(3)九条ゆかりとナリアキは『鳥人拳への道』の共演以来個人的に交際があって、自分が何者かに狙われていることを察知した九条がナリアキに相談したらしい。九条が誘拐されたとき、すぐ手を打つことができたのはナリアキの功績だということ。


だが、週刊誌の方は更に根掘り葉掘り探って、話題を広げて行った。
2・3例をあげると・・・。



(『週刊暴露芸能』の記事からの抜粋)

(九条ゆかり!家族ぐるみの不純異性交遊か?)

近所の目撃者の話によると事件当日九条ゆかりとナリアキは九条宅に二人で入り、その後ずっと出てこなかったという。
家族も黙認して男子を泊まらせるということが実際に行われたのである。
映画を共演したことがきっかけで親しくなり恋愛や結婚に発展する俳優同士の例はよくあることだが、未成年の例は極めて稀である。
九条ゆかりは3才のときから芸能界デビューし、幼いときから大人の世界に入り込んだためか、非常に早熟で考え方も大人であると周囲の者が口を揃えて証言している。
一方、ナリアキは彗星の如く現れた存在だが、推定年齢14才前後ながら、その武術・体術のレベルは成人レベルを超えて超人的なものだとされている。
有る意味でこちらも極めて早熟した肉体の持ち主と言えるだろう。
この早熟な二人が出会ってロマンスに発展することは避けられぬ運命だったかもしれないが、それにしても二人とも未成年で義務教育年齢であることを考えると、本人たちの自覚と自制がなかったのかという疑問が起きる。
また、同居している家族は、この『恋人』のお泊りを知っていたのだろうか?
当然知っていたと考えるのが妥当だが、稼ぎ頭の九条ゆかりの意思に逆らうことができなかったのではと推測せざるをえない。
だとすれば、母親だけの家庭で既に親としての権限もない崩壊家庭なのだろうか。
もし、その晩に仮になにかのできごとがあったとするなら、近い将来九条ゆかりの妊娠騒動が起きるかもしれない。
(なお、この記事には九条宅に入ろうとしている二人の極めて不鮮明な写真がついていた。それは本人かどうか確認できないようなものだった。)


(『週刊どっぷり芸能』からの抜粋記事)



(天才子役の泥沼!九条ゆかりとナリアキ、謎の女性との三角関係!)


九条ゆかりが坂上組組員らに誘拐された日、前日から謎の女性が撮影所に出入りして、何かを探っていたという証言があった。特に当日は共演者の夏宮しのぶさんがその女性と言葉を交わしており、九条ゆかりに依頼されて周囲の不審な人間を調べていると言ったのをはっきり耳にしたという。
しかし今までの情報だと九条ゆかりが依頼したのはナリアキであり、実際に通報し現場に駆けつけたのはナリアキだった。
つまりナリアキは九条に頼まれたことを謎の女性に頼み、謎の女性から知らされて九条の誘拐の事実を知ったということになる。
とすれば、ナリアキとその女性は非常に親しい関係だと言わざるを得ない。
人気子役スター九条ゆかりは下手をするとナリアキに二股をかけられているのかもしれないという可能性がある。
この三角関係の謎を解くにはナリアキとその謎の女性に登場してもらわなければならないだろう。



さらに週刊誌のバッシングはだんだん激しくなった。



(『週刊聞き込み情報』の抜粋記事)

(人気子役俳優九条ゆかりの裏の顔)

清純で心優しいイメージで売り出し、ファンクラブ会員数10万人と言われている、最大級人気子役俳優、九条ゆかりだが、意外な裏の顔を持っていることが関係者の証言で明らかになった。

(共演した子役の1人の証言)

「あの人はね、優しくて礼儀正しいと思われているらしいけれど、ひどくきつい性格でぐさりと胸に突き刺さるようなことをすらりと言う人なんだ。
頭が良いから言い方も隙がなくて、相手は言い返せない。
ただでさえ人気スターだから下手なこと言えないと気を使うのに、相手を追い詰めて心が折れるようなことを平気で言うんだ。
これは言えばばれるから書いてもらいたくないけれど、他の子役たちと一緒に共演しても僕のような好みに合わない人間は扱いが違うんだ。明らかに共演者を差別していて、そのことに対しても尤もらしい理由を言って自己弁護するんだよ。
だから二度と共演したいとは思わないね。お気に入りで贔屓された人はそう思わないだろうけれど。
特にナリアキのような顔立ちのいい好みの人には特別扱いすると思うよ」



(身近なスタッフの証言)

「あの人の冷酷なところは、私に落ち度があったら直接注意してくれれば良いのに、他の仲間をべた褒めして暗に私はそれに比べて全然駄目だというようなことを皮肉っぽく伝えてくることなの。私が言われたわけでないから、いい訳もできないし言い返すこともできない。とても悲しい思いをしたわ。
それだけでなく、他の共演者に頼んで私を見張ったり、やることが陰険で耐えられない。それで、私は自分からやめました。」


(『週刊津々浦々』の抜粋記事)

(九条ゆかり、ファンクラブ脱会者続出!)

清純な仮面を被った子役スター九条ゆかりは今回の事件で崩壊した家庭の事情が明らかになった。
そして、各週刊誌の報道でもあきらかになったように、撮影所での人間関係でも歪んだ性格を見せるなどの二重性を持っていたと言われているのだ。
撮影途中の映画『じゃじゃ馬姫の七変化』も再開の見込みがないまま自然消滅するか主役の降板が囁かれている。
そんな矢先彼女のファンクラブの会員で心ある者は率先して退会し始めたと言われる。

「メールをして真偽を問いただしてもなしのつぶてだし、もう本人も認めているような感じだからこっちの方でやめてやろうかと」

ある元ファンは、そう言って違うスターの顔写真を見せてくれた。

「今度はこの人にする。家庭もしっかりしてるし変な噂もないし」

噂によると1割の1万人近くがファンクラブから抜けて行ったという。
九条ゆかりの芸能生活に最大の危機が訪れたといえよう。(後略)




「渚さん、私・・ただ涙が止まらないの。
こんな酷いことまで書かれて事務所からも早く弁明の記者会見をしなさいと催促されますし・・
もう静かに休んで、心の痛みを癒したいのに、みなさんはそっとしておいてくれません・・」

九条ゆかりは家にこもったままだった。屋敷の外には常にマスコミ関係者が見張っている。
渚はゆかりに言った。

「ナリアキは実は私だって白状すれば、変な誤解も解けるかなあ・・」

「駄目です、そんなこと。
それでしたらあなたが皆を騙していたことになって、それこそ何を言われるかわかりません・・・。
お友達のあなたを犠牲にして私だけ助かろうとは思いません」

そのときメイドさんが一通の封筒を持ってきた。

「ゆかり様、郵便です」

ゆかりは封筒を手にすると目を輝かせた。


「全国学力審査委員会からですわ。今回の模試の結果が出たんです」

「いつ受けたんですか?」

「先週学校に出たとき受けたんです。
騒がれている最中だから行きたくなかったのですが
でもそれに負けたくなかったので、力の限りがんばりました」

興奮して封を切り、中の手紙を広げると九条ゆかりは叫んだ。

「やりました!!私、中学1年生の部で全国10位に入りました。
嬉しいです、もう俳優はやめて勉強一筋にしてみましょうか?」

九条ゆかりはちょっとその辺を軽く踊って歩いてみせたが、もう一度手紙を見つめてなにやら考え込んだ。

「どうしたの、ゆかりさん?」

「10位以内の表彰式に参加するかどうか返事を出さなければいけません。
どうしましょう?こんなときに人前に出たくありません。」

「でも折角のチャンスじゃないですか、こんなことでもがんばっているんだぞって、名誉挽回しなきゃ・・。
行きましょうよ。」


「行かなくても、賞状とメダルは送られてきますし、全国模試の結果は公表されますから、私ががんばっていることくらいはわかって頂けると思います。
3教科で10位になったときも、そのことを取り上げて褒めてくれた週刊誌があったでしょうか?
きっと、今回もわざと無視されるような気がします。
私のマイナスイメージのキャンペーン中ですから。」

「私が離れて見守ってあげるから、行こうよ、ゆかりさん」

「でも・・・・・」



九条ゆかりの屋敷の前には大きな鉄の柵があり、その前で12・3人のマスコミ関係者が張り込んでいた。
だが、その殆どは『暴き屋』と言われるスクープ狙いのカメラマンだった。
中でも仲間内から『野蛮ジー』と呼ばれている伴野安治は無法で野蛮、狡猾な男として芸能界からは恐れられていた。

「そのうち九条ゆかりは必ず出て来る。そのときがシャッターチャンスだ。
徹底的に食いついて付きまとって撮りまくってやるさ。」

すると電動式の鉄柵門が開いた。みんな一斉にカメラを構える。
お抱え運転手が運転する高級車が門から出て来た。
後部席にちらりと見えたおしゃれな帽子と上品なドレス大きなサングラスをかけている少女の姿が見えた。

「九条ゆかりだ!!」  「九条ゆかりが外出するぞ!」

暴き屋たちはシャッターを押した後、すぐさま自分のバイクに跳び乗った。
10台以上のバイクが高級車を追った。
見失うと困るとばかり露骨にバイクを近づける。
信号が黄色でも赤になっても突っ込んで行く。
バイクが車に近づきすぎて接触しないかと思われるくらい遠慮会釈のない追跡だ。
危ないのは運転しながらフラッシュを焚いてバイクがバランスを失ったりすることだ。
また自分がベストの位置につこうと『暴き屋』同士が割り込み合うのも、いつ大事故が起きてもおかしくない状況を生んでいる。
それが嫌なら車を止めろと言わんばかりに車の前後を付きまとう。
まるでバイク・ギャングさながらの無法ぶりである。
30分レースが続いた後、車は都内でも有名なケーキ屋の前に止まった。
運転手にドアを開けられて後部席の少女が降りてきた。
フラッシュが一斉に焚かれる。

「九条さんサングラスを外して下さい」 「ゆかりさん、これからどこへ?」

少女はサングラスを外して『暴き屋』達を見回す。


「何ですか、あなたたちは?車に付きまとってあぶないじゃありませんか?」

そう言ったのは20代の女性だった。

「あんたは誰だ?九条ゆかりじゃないのか?」

「ゆかり様は外出されません。私は九条家のメイドでゆかり様に頼まれて、ケーキを買いに来たのです。」

「なんでそんなお洒落をして買い物に来るんだ?」

「メイド服で外出しろとでも?折角の外出の機会だから余所行きの服を着たんです。
何を私が着ようとそれこそ余計なお世話じゃありませんか」

暴き屋たちは呆気に取られて、メイドがケーキを買って車に戻るまで突っ立ていた。
そして車が九条家に戻り始めると今度は大人しく距離を保ってついて行った。




少し時間が戻って、九条家にタクシーが入って行った。
タクシーが門を出ると、後部席に黒いキャップを目深に被った少女が乗っているのが見えた。
それをにんまりとして物陰から見送っていたのは野蛮ジーこと伴野安治だった。

「ふん、他の者は騙せても俺は騙されないぞ。
大体自分の家から出て行くのに最初からサングラスをかける奴がどこにいる?
九条ゆかりは出かけるときはサングラスなどかけたことがない。
つまりマスコミの目をくらます為のダミーだよ。
本物は粗末ななりでタクシーと来たか、俺の狙い通りだ。」

伴野は目立たないように静かにバイクでタクシーをつけて行った。
タクシーはコンビニの前で止まると、少女が降りて来た。
タクシーを待たせたまま、黒いキャップを目深に被りスタジャン・ジーンズ姿の少女が店に入って行った。
伴野はすばやくタクシーの後部席を覗いて他に人間がいないか確かめるとコンビニの方にゆっくり歩いて行った。
少女はお茶のペットボトルを左手に持って戻って来た。

「九条ゆかり!うまく化けたな」

伴野安治はすれ違いざま右手にカメラを構えて左手で少女のキャップを払い落とした。

「ビシッ!!」

払い落としたはずだった。だがその左手は少女の右手で打ち払われていた。
そのため実際フラッシュは焚かれたが顔を写すことはできなかったのだ。

「なにするんですか!おじさん」


伴野は驚いた。
自分の体の半分もない少女に叩かれた左手が痺れて痛みすら感じない。

「お前は九条じゃないのか?」

「違います。気安く触らないでくれませんか?」

「言え!九条ゆかりはどこだ」

伴野は少女に掴みかかろうとした。


「何をするんです。!」

少女は伴野の体を突き放した。
伴野の体は3mほどよろよろと後退りした。

「触らないでと言ったじゃありませんか」

ちらっと横目で伴野を一瞥すると少女はタクシーに乗った。
走り去って行くタクシーを見て伴野ははっとした。

「そうか!これもダミーだったんだ。
俺様みたいに物事の裏を読み取る人間がいることも計算して、この後にもう一台車を出してそれに乗って出るんだ。ああ、もう間に合わない!」

伴野は拳を固めて自分の膝を叩いた。

「くそ、九条ゆかりは餓鬼のくせに頭がいい奴だと聞いた。
裏の裏を読んでいたとは・・・
あれ以来だ。仮面歌手SARON以来の屈辱だ!」




タクシーは首都教育会館の前に止まった。
トランクから少女が大きなバッグを出すと軽く肩に担いだ。

「それじゃあ、どうも帰りにまた宜しくお願いします。」

「はい。大きなバッグですけれど、軽そうですね。」

「ええ、中には何も入ってないんで」

少女はにっこり笑うと建物の中に入り、有料ロッカールームに直行した。
ロッカールームに空のバッグを突っ込むと少女は九条ゆかりに言った。

「窮屈な思いをさせてごめんなさい。このアイディアは五十嵐さんが思いついたものなの。
ちょうど良いバッグがあってよかったよ。」



首都教育会館の1階大ホールは表彰式会場になっていて、時間前から小学校高学年から中学生、そして高校生までの生徒が保護者と一緒に待っていた。

「あれ、九条ゆかりじゃない?」「そうだ。九条ゆかりだ」

「ぎりぎり10位に入ったから喜んで来たのかな?」

「よく顔を出せたね、あれだけ書かれて」

悲しいことに子供だけでなく、付き添って来た大人までもがそんな陰口を叩いた。


眼鏡をかけた痩せた少年がゆかりに近づいて来て吐き捨てるように言った。

「ここは神聖な場所だから、汚れたスターに来て欲しくないんだよ。
中学校1年生の部で7位に入ったけれど、君がいると折角の気分も台無しだ。
帰ってくれよ。賞状なら家で待ってれば届くからさ。」

すると横から年長の男生徒の声がした。

「折角の7位の成績も今の君の発言で台無しだね。
君は活字を丸呑みにして真実はどこにあるのか見えていないんだね。」

背の高いすらっとした高校生らしき男性がそこに立って笑っていた。

「誰なんだ、あんたは?」

「高校2年生の部で1位の魚住弘と言うんだけどね。」

「えっ、あの3年連続全国1位で教育新聞に載っていた・・・
あの・・・家庭教師もつかず、塾にも行かないで1位を取った魚住さんですか?ぼ・・ぼく尊敬しています」

「いいよいいよ、尊敬しなくても。
それよりもう少し物事を総合的に見る訓練をした方がいいよ。えーと・・」

「榊昇(さかきのぼる)です。どういうことですか?」

「榊君、今九条さんのことを批判したけれど、どれだけ調べてそんな結論になったんだい?」

「えっ?」

「偏った意見や一方的な記事も沢山ある中で、何が本当かを見極めるためにはできるだけ沢山の資料を調べて、矛盾点を取り除いて行く作業が必要なんだ。
そして、1人の人間を本当に批判するためには、その人以上にその人のことを理解していなければできないことなんだよ。
本当に理解した人がする批判は核心をついて、その人の心に響くものなんだ。
君もそんな批判ができるように、もう少し成長してほしいな。
君のレベルはただ相手を見当違いに傷つけてるに過ぎないから・・」

言われた榊少年は顔を赤くして立ち去って行った。


「あのう、あんな風に言って頂いて、ありがとうございます」

九条ゆかりが礼を言うと、魚住弘は声を低くして言った。

「お礼を言うのはこっちです。僕の命の恩人を連れて来てくれてありがとう。」


「えっ、なんのことです?」

「しー、そこにいる顔を隠している人のことです」

渚はびっくりした。魚住弘がここに来ていることは予想できたが、まさか自分が見つかるとは思わなかったからだ。




表彰式が終わって教育会館内の小会議室を借りた魚住弘は二人の少女を前にして喋り続けていた。

「この人との出会いは訳があって詳しくは言えませんが、僕の命を助けてくれた恩人で、ずっと捜し続けていた人です。
最初に見つけたのは『易力拳少女伝説』というアクション映画で佐野原逸香というスタントマンとして出ていたこと。
その次に何度かプリンセス・ヘルという覆面姿で登場したこと。
動物園に現れて酔っ払いを助けた『野球少女』。
そしてナリアキという新聞やメディアを騒がせた謎の少年。
さらに『鳥人拳への道』で九条さんと共演したナリアキ。
まだありますよ。
東遊キネマ撮影所に現れたキャップを目深に被った謎の女性。
全て同一人物の、この人ですよね。
そして、そのことを九条ゆかりさんあなたは知っているけれど公表できない。
あなたほど一生懸命生きている人はいないのに、誰もそのことに気づいていない。
そして困っているあなたを助けようと隣に座っているその人は、自分こそがナリアキだと公表しようかまで考えている。」

「ど・・どうしてそこまでわかるのですか?渚さんのことを・・」


「渚さんというのですか・・それだけは知りませんでした。
でも、渚さんがあなたの家に住んでいるらしいことは知っていますよ」

「どうしてですか?盗聴でもしているのですか?」

「簡単な推理ですよ。渚さんの性格・・あなたの性格・・起きた事件の数々、そういうことを総合して考え合わせていけば、そういう結論になるんです。
ところで誠に勝手ながら今回のこと、私の知恵を使ってくれませんか?
あなたを窮地から抜け出させてあげたいのです。あなたのお陰で渚さんに会えた。だから、ほんのお礼です。」

九条ゆかりは体を乗り出した。

「教えて下さい。どんな方法があるんですか?」


        

魚住弘は九条ゆかりの目を見て言った。

「わかりませんか?佐野原逸香さんに出て貰うんですよ、その帽子を被って。」

「でも佐野原逸香さんはプリンセス・ヘルだと知られているから、もう登場できないのでは?」

「よく考えて下さい。
佐野原逸香さんの素顔は武闘館の一部の人しか知らないのでは?
だから記者会見で顔を見せる必要はないと思います。
帽子を深く被って、その存在だけを知らせれば良いのです。
あなたの家にいるのは、この佐野原さんで弟さんと映画を共演したときに、弟さんの紹介で知り合った。
意気投合して家に越して来て貰って、一緒に住むようになった。
だから色々なことにも相談に乗ってもらったということにすれば良いのです。」

「でも、相談はナリアキさんにしたということになってます。」

「そこですよ。
ナリアキさんは自己顕示欲が強いから顔を見せるのが平気なんです。
でも佐野原逸香さんは極端に恥しがり屋だからメディアの表舞台に立ちたがらない。
だから、撮影所にはこっそり不審な人物の調査に行ってくれたけれど、坂上組の現場には弟に頼んで行ってもらった。
弟のナリアキさんはあなたの屋敷で待っている姉のところに報告しに屋敷に入り、泊まっていったのです。」

「でも、ナリアキさんも一緒に会見に出ないのは不自然でないですか?
恥しがり屋の佐野原さんが出て、出たがり屋のナリアキさんが出ないというのは矛盾しませんか?」

「そこも考えています。ナリアキさんはアメリカ国籍で、今回は就労ビザで映画出演をしたということにするのです。
佐野原さんは日本国籍なのにどうして姉と弟で違うのかということに関しては家庭の事情ということにしましょう。
母親または父親が違うとしてもいいし。
とにかくナリアキさんは滞在期間が切れるのでアメリカに戻って行った、ということにするのです。
もともとナリアキという名前は本名じゃないから確かめようがないですよね。
その後日本に来なければ、ナリアキさんは完全に消滅します。
どうですか?このアイディアは?」
「そうですね・・渚さんの意見が聞きたいです。
魚住さんの作戦はどうでしょうか?」

渚は自分に振られて、咄嗟に思い浮かばなかった。
というのは長い間全く接触してなかった弘がこんなにも自分のことを詳しく知っていて、今回のことも冷静に分析していることにただただ驚いていたからだ。

「あ・・・多分良いと思います。佐野原逸香が一回だけ姿を見せても、その後現れなければいい訳ですから、全然構わないです。」

「渚さんが良いのなら私も構わないです・・・。じゃあ魚住さん、まず何をすればいいのですか?」


九条ゆかりのファンからの問い合わせメールに事務所の名前で一括返信があった。
同じ文面のメールがファンクラブ会員全員にも出された。


内容を要約すると・・・ご心配をおかけしました。
色々な誤解が重なって週刊誌などでさまざまな憶測が1人歩きしているようです。
近く本人から記者会見で真相を説明し、誤解を解きたいと申しておりますので、どうか釈明の機会を与えて頂ければと思います。
また、本人は未成年で家庭的にも悩みが多く、それを乗り越えようと必死に頑張っております。
どうかファンの皆さん、九条ゆかりを支えて下さり、今後も前にも増して一層のご愛顧を頂ければ幸いでございます。
また、数多くの非難・攻撃にも拘わらず、風評に惑わされず最後まで信じてファンでいて下さった多くの会員の方々には心から感謝致しております。
誠にありがとうございます。・・・と言った内容で、本人の感謝の言葉も添えてあった。


これがきっかけで流れが変わって来た。
もともとファンは九条ゆかりを信じたい気持ちがあったので、それまで真相が分からずに口を閉ざして耐えていたファン層が発言し始めた。
臨時のファン集会のような者が地区別に行われ、意見の交換が行われた。

「もともと週刊誌の記事を鵜呑みにする積もりはなかったし、それにしても酷いことを書きすぎると腹が立っていたんですよ。」

「まだ子役の女の子を社会的に抹殺するような仕打ちは、いくら言論の自由と言っても規制できないのかと思ってました。」

「だいたい本人の弁明も聞かずに、一方的にメディアの口車に乗って退会した人たちは、本当にファンだったのかって言いたいです。
何故信じて待ってあげなかったんですか?
九条ゆかりさんが一番辛くて耐えている人だったのに、ファンなら一緒に辛さを共有してあげられなかったのかって・・・。」

「お父さんのこととゆかりさんは関係ないじゃない。
ゆかりさんは巻き込まれて誘拐までされたのよ。そんな犯罪の被害者だった気の毒な立場の女の子の背中に容赦なく石を投げつけるなんて、人間ができることじゃないよ。人の不幸を食い物にしている鬼よ。」


流れはそういう方向に変わった。
そして記者会見に向けて九条ゆかりを支えて応援しようという動きがあった。
一部のファンは応援メッセージを横断幕に書いて九条家の前まで行き、門の外から励ましたが、ファンクラブの会長名で近所迷惑になるし、会見前は本人をそっとしておいてほしいとの意向が伝えられ中止にした。


また、会見の内容は事前にファンクラブ会長に伝えられており、バッシングの内容の一つ一つについてもオフレコの話として事務所から真相を伝えられていた。
ファンクラブの会長は地区別のファンクラブのリーダー格の人たちにに極秘情報として伝えた。
そして、これは『内輪話』としてファンクラブ内の小集会などを通じて口コミで伝えられた。
だから、ファンクラブの殆どの会員は記者会見前に会見で得られる内容よりも詳しい知識を得ていたのである。
これは魚住弘が九条に授けた作戦だった。

「週刊誌が悪意に満ちた非難をあなたにしたのは酷いけれど、その一つ一つに釈明する必要はないですよ。
きっと誤解があったのだと思います。そう思われるのも私が未熟なためだったのではないでしょうか・・というように抽象的にまとめるといいのです。
具体的なことは「裏話」として密かにファンクラブに伝えるのです。
ファンの皆さんは、あなたが潔白だということを具体的に情報がほしいのです。
それが密かに伝われば、後はファンの人たちがあなたの代わりに誤解を解いて廻ってくれます。
同時にファンの人はあなたにはそれを求めていません。
会見では、そんな根も葉もない話はいちいち相手にしないあなたを見たいのです。
それがスターだから。」

九条ゆかりはこの路線に沿って、事務所に持ちかけたのである。
事務所はすぐこの案に乗って、早速動いたという訳である。



会見の様子はテレビに流れた。スポーツ新聞や芸能誌、そしてあることないこと書いた当の週刊誌らも、その様子を載せた。
そのうちの一つのある週刊誌は、その様子をこう書いている。

事務所の代表と九条ゆかりの横に帽子を深く被った若い女性が座ったいた。
それが佐野原逸香だという。本社の記者が質問した。

「あなたが佐野原逸香ご本人だという証拠はありますか?
事務所のアルバイトの女の子でないことを今証明できますか?
私たちも佐野原逸香さんと実際にあったことがないので」


するとその女性は帽子の上から頭を搔きながら、口元をほころばせた。

「そうですねえ、顔を見せてもわからないですし、見せたくないですし・・。
ここにいる皆さんを易力拳で10人くらい選んで倒すとか、そんなこともできないし・・・」

そう言って立ち上がると後ろの壁に手を当てて、トンと押したような動きを見せた。
すると地震のような振動が壁を中心に起きて、壁にかけてあった油絵の額が外れて落ちて来た。
額を元通りにして座りながらその女性は言った。


「易力拳の秘拳です。これができるのは老師と私と弟の3人だけです。」

記者は驚いて、このとき間違いなくこの女性が、あの伝説のスタントマンの佐野原逸香本人だとわかった。
私はかつて本誌に『九条ゆかりは不純異性交遊をしているのではないか』と書いた。
『している』とは断定しなかった。
あくまで手に入った資料や情報を元に推測しただけだ。
そして、今新しい情報がわかったから、それを元に推測するに、九条ゆかりは『不純異性交遊はしていないのではないか』という新たな推測がうまれた。
だが「していない」とは断定はしていない。
我々ペンを持つ者は神の如く完全な知識・情報を得ることはできないのである。
読者諸君もそういうことを踏まえて、本誌を読んでほしい。
だが、本誌とは違って、断定的に九条ゆかりに関して斬りまくった他誌があまた存在する。
そういう書き方をして、未成年の子役スターを傷つけた三流週刊誌こそ、謝罪すべきであろう。
さもなくば、廃刊にして看板を下ろすべきである。(JK)



この記者が指摘した『他誌』に該当する週刊誌も皆似たような論調で自己弁護をして、決して謝罪文は載せなかった。載せると裁判に持ち込まれたとき不利になるからである。



まるでもつれた毛糸が一箇所解けると後はスルスルと解れて行くように、九条ゆかりへの攻撃はぴたりと止んだ。
また退会したファンクラブの会員もちゃっかり元に戻って、仲間には自分は最後まで信じていたから退会なんかしていないと言い繕う者も出て来た。
本人が黙っていればファンクラブの事務局しか入退会の動きはわからないから、そういう人間も出てくるという訳だ。
また、『じゃじゃ馬姫の七変化』の映画撮影も東遊キネマで再開した。
もちろん九条ゆかり主演の線は変わらなかった。



「渚様、ゆかり様からお電話です。」

メイドさんが渚を呼びに来たので、電話に出るとゆかりの真剣な声が聞こえた。

「渚さん、今整理している荷物元通りにしてね。
あなたが家を出ようとしても、また前のように見張りがついているから逃がさないんですからね。」

「ど・・どうしてわかったんですか?ゆかりさん」

「私は渚さんの貯金通帳を預かっていますでしょ?
大好きな渚さんに逃げられたくないからです。
その代わり、いくらでも引き出せるカードを預けましたね。
でも、そのカードもちゃんとチェックしているんです。。
あなたは通帳とほぼ同額のお金を下ろしていました。
ということはそのお金を持って、私の前から消えようとしているってことだってわかるんです。
多分あなたは、そのカードと一緒に置手紙を置いて、こんなこと書くのでしょうね。
ゆかりさんが持っている私の通帳は印鑑と代理人承諾書を置きましたから解約して現金を受け取って下さい。
同額のお金はカードから頂きました。
本当にお世話になりました。いつまでも人気スターとして輝いていて下さい。
陰ながらいつも応援しています。ではお元気で。私を捜さないで下さい。
・・・きっとこんなことを書いて私を泣かせる積もりですね。」

「・・・・・・・」


「私が困っているときは決して私を見捨てませんでした。
でも、私がもう大丈夫だとわかると安心して離れて行く・・・
渚さんはそんな人なんですね。でも、お願いです。ずっととは言いません。
もう少し側にいて下さい。今の撮影が終わったら一緒に部屋を探しましょう。
住む所は違っても友達でい続けてほしいのです。魚住さんからも言われてます。
行方不明にしないでくれと・・・。」

「ゆかりさん。わかりました・・・でも驚いたです。置き手紙の内容が予定していた文章と殆ど同じだったから・・もう無断では出ていきません。だから、撮影を頑張ってください。」

「本当ですよ。約束ですよ」

「ええ、約束します。」

そのときなにやら門の外が騒がしくなった。

「何か外が騒がしいから様子を見て来ます。それじゃあ切りますよ」

渚は部屋を出るとメイドさんと鉢合わせになった。

「あっ、渚様!表で佐野原逸香に用事があると、柄の悪い男達が集まってます。
警察を呼びましょうか?」

「いえ、ちょっと待って下さい。私が様子を見て来ます。」

渚は黒いキャップを目深に被り門の方に向かった。
すると鉄柵の向こうに10人ほどの男達が集まっていた。
着ている服が特攻服と言われるもので、なにやら渚が読めない難しい字を服全体に書いている。
傍に人数分のバイクが止めてあるので、どう見てもバイク・ギャングとしか思えない。

「一体何の用事ですか?私に・・」

鉄柵ごしに渚は真ん中に立っている背の高い男に聞いた。
男はちょっと首を傾げ気味にして顎ひげを撫ぜながら塩辛声で喋った。

「あんたよう、素手で戦ったら最強だって話だろう。
俺らもそれにはほぼ賛成なんだけどよう。
じゃあ、俺らのチームで素手喧嘩(すてごろ)が最強の10人と相手してほしいと思ってよう。
勝っても負けても良い思い出になるから、やらねえか?」

渚は腕を組んだ。

「そういうのは、ちょっと・・・。筋を通して申し込むのはわかるんですけど」

「駄目かよう。じゃあ、こっちでよう、あんたによう、喧嘩を売らなきゃ買ってくれないってことかよう」

「い・・・いえ、そんなもの売られても買えません。」

「だろうなあ。じゃあ、こっちでなんとか買ってもらうように考えるからよう。
後で気を悪くしないでくれよなあ。それじゃあ、いちおう挨拶はしたからよう」

男はくるりと背を向けると手を大きく振って引き上げの合図をした。
男達はバイクにそれぞれ乗ってエンジンをかけた。
背の高い男は振り返り、エンジンの音に負けないように怒鳴った。

「俺らはようっ!!『どくまきあくらん』って言うんだっ!!
俺は頭の『きょうじ』だっ!!」

そして自分の服に書いてる漢字を手でなぞった。
そこには『毒魔鬼悪乱 狂児』と書いてあった。
渚は彼らが立ち去った後、首を横に振った。

「字が難しいし、覚えづらいよ・・だいいち意味がわかんない。」

渚は部屋に戻って荷物を元に戻し始めた。
するとまた、表の方が騒がしくなり、メイドさんが走って来た。

「大変です、今度はさっきの倍くらいの男達が来て騒いでいます。」



外に出てみると、服装の違うバイク・ギャングが10人ずつ2組が鉄柵の向こうからこっちを見ていた。

「一体何事ですか?」

渚は呆れてそれぞれのグループの先頭に立っている男達二人に尋ねた。
白い服を着ている男は黒い顔に白い歯を出して笑いながら言った。

「いやねえ、佐野原あ逸香あさんにい、用事があってねえ」

「私ですが・・・」

「じゃあ、これえ、受け取ってもらえんかねえ」

障子紙に墨で書いた手紙を鉄柵の間から差し入れて寄越した。

「おお、わしもじゃあ!」

黒い服を着たモミアゲの長いサルのような顔の男も似たような手紙を寄越した。
表書きを見ると『すてごろ、果たし状』と書いてあった。
中を開くと、白い服の男が渡したものは
『佐野原逸香殿 刻限は明日午後2時 場所は港湾区 第3埠頭21番倉庫 東部神風連合 斑髑髏 総長 豪児以下10名』
と書いてあった。グループ名が読めないので渚は聞いた。

「ここのところなんて書いてあるんですか?」

「ぶちどくろってえ言うんだがねえ。髑髏に斑模様がついてたら怖いからねえ。」

渚は怖いというより、気持ち悪いと思ったがそれは言わなかった。
そして黒い服の男が渡した物も見た
。『佐野原逸香殿 刻限は明日午後2時 場所は港湾区 第3埠頭21番倉庫 東部神風連合 首狩り隊 代表 兆児以下10名』

「時間も場所も同じですね。」

「わしら、東部神風連合のグループがじゃ、一堂に会するのじゃ。」


「そんなところ行きたくないですよ。」

「来なければ佐野原逸香はわしらから逃げたということになるんじゃ。
いいんじゃね、それで?わしらの不戦勝ってことになるんじゃ。」

「そんなこと勝手に言ってもらっても・・・。
それにどうしてこんなこと急に言い出したんです?
さっきは毒まきなんとかというグループが時間も場所も言わずに口だけで勝負しようって言ってきましたし」

「ほう、毒魔鬼悪乱が来たかねえ、それも時間も場所も同じってことでえ、宜しくう。
あいつう、アホやなあ。果たし状も持たんとう、何やってるかねえ?」

そう言ったのは白い服の豪児だった。そして思い出したように付け加えた。

「あんたとはねえ、みんな前から勝負したかったんだねえ。
で、九条ゆかりの家にいることわかって、俺らで招待しようってことになってねえ。」

「招待と言われても・・行きたくないです。」

「大丈夫だねえ、行きたくなるようになんとかするからねえ。」

そういうと、手で合図して彼らは引き上げて行こうとした。
渚は気になって質問した。

「あの・・あなたたちの・・その神風連合とかいうのは、全部で何グループあるのですか?」

黒い服の兆児という男が答えた。

「全部で5グループあるんじゃが、今回は3つだけにしたんじゃい。
5つならあんたも疲れるだろうからって、そういうことにしたんじゃが。」

そういうとエンジン音を響かせて走り去った。

「思いやりがあるのか、ないのか全然わからない・・・」

渚はそう呟いたが、もう来ないと思うとほっとした。
それでなければ近所から苦情が来るに違いないからだ。
渚は知らん振りすることに決めた。無視すれば諦めるだろう。
逃げたとかなんとか言っても勝手に言わせておけばいい。
だいたい1人に対して10人単位で果し合いを申し込むなんておかしい。
青布根中では『タイマン・素手喧嘩』が原則だった。
それに港湾区第3埠頭の21番倉庫なんて行った事もないし、たどり着くまでに日が暮れてしまいそうだ。



夜になって九条ゆかりが帰宅し、メイドさんから聞いて渚のところに来た。

「バイク族の人が大勢で何しに来たんですか?」

「私と勝負したいって、もちろん断りましたけれど」

「勝負って、喧嘩ですか?怖いですね。」

「やっぱりここにいるとそういうことも起きるし、なるべく早く部屋を見つけようかと思っているんですけれど、どう思います、ゆかりさん?」

「わかりました。撮影が終わらなくても休みの日に一緒に探しましょう。」

意外と簡単にゆかりが承諾してくれたので渚もほっとした。




翌日昼過ぎに彼らは来た。3グループ30人が鉄柵門の前にバイクを止め、座り込んでいる。
その他に乗用車が一台とまっていた。
メイドさんが怖がって渚に知らせに来た。
渚は始めは無視していたが、いつまでも動かないというので仕方なく出て行った。

「すみません。もう帰ってくれませんか。
あなたたちがそこにいるとこの家の人に迷惑がかかるし・・。」

すると一番最初に来た狂児という男が顔を上げて言った。

「それが俺らの狙いよう。佐野原のよう。迎えに来たんだよう。
黙って車に乗ってくれねえかよう。帰りも送るからよう。」

「・・・・・・」

すると車のドアがバタンと閉まる音がして、誰かがこっちに歩いて来た。
女だ。ピンクの長い特攻服を着て、顔にラメで模様をつけている。
背は高くスタイルも良いが、男勝りのオーラを放っている。

「佐野原逸香さん・・ですねっっ?!
あたし、東部神風連合のレディース治乱桜(ちらんざくら)の総長、ハイキックの真琴(まこと)と申します。
なにやら無骨な男どもが礼儀も知らずにご挨拶したようですが、決して逸香さんに害を与える積もりはありませんっっ!!
このあたしが保障いたしますから、どうか一緒にいらしって下さいっっ!!」

渚が返答に迷っていると、ハイキックの真琴は大きく頷いて言った。

「そうですか・・やっぱりあたしらのような者とは付き合えないと・・・ごもっともなことですっっ!
失礼いたしましたっっ!!おい、みんな諦めて引き上げるよっ!!」



「ちょ・・ちょっと待ってください。真琴さん・・」

渚が思わず声を出すと、ハイキックの真琴は満面を笑顔にして言った。

「そうですかっ!!来てくれるんですか?ありがとうございますっっ!!」

「い・・いや、あ・・あの・・」

「えっ!だ・・駄目なんですか?どっちなんですっっ?」

「わかりました。真琴さんを信じて行きます。」

「ありがとうございますっっ!!では門を開けて出て来て下さいっっ!」

そういうと背の高いハイキックの真琴は90度の礼をした。
渚は鉄柵門を開けるとメイドさんたちに咎められるような気がしたので、助走してから鉄柵の横の、高さ2mほどの塀の上に張られた高圧電線の上をジャンプして跳び超えた。
渚が跳び越えて来たことに気づかずに、彼らは門の内側を見ながら待っていた。

「一度家の中に入ったのかなあ。着替えでもしてくるんだろうか・・」

ハイキックの真琴はそんなことを呟いていたが、他の男達が真琴の後ろを指差した。

「なんだよ?後ろに何がいるって言うんだ?その手は食わないよ。」

「お前がよう、待ってる人が後ろにいるってよう!」

狂児の言葉に振り返ると真琴はびっくりした。

「い・・いつの間にっ!?どうやって出たんですかっっ?」

「ちょっと、そこを跳び越えて」

「あ・・危ないですよっ!感電するじゃないですかっっ?!」

「そうですね・・・・ではお願いします」

車の後部席に乗ると、隣に真琴が座った。
運転席と助手席にも真琴と同じ服を着た女性が座っている。
年齢は分からないが、3人とも渚よりずっと年上なのは確かだった。

「いいかいっっ!佐野原さんが乗ってるんだから、スピードは法定速度に近い感じで行くんだよっっ!
有名人が乗っている車がサツに捕まったらご迷惑だろう。」

「総長、男共のバイクが邪魔で運転しづらいっすっっ!!」

それもその筈、30台のバイクが前後を護衛するかのように乗用車に伴走している。
真琴は窓を開けて叫んだ。

「おっすっっ、男の皆さんは、目立って仕方がないから先に行って下さいっっ!!」

男共はぶつぶつ言いながら先に離れて行った。


港湾区第3埠頭の21番倉庫というところに着いたときは、渚は驚いた。
倉庫の外には200台以上のバイクが停まっていたからだ。
21番倉庫は他の倉庫が海側に面しているのに対して、海から離れた山側に建っていて目立たない場所にあった。
渚は黒いキャップを目深に被ったままだったが、真琴が顔を見せてほしいと頼んで来た。
渚は見せてもいいが条件がありますと耳打ちした。
真琴は各グループの頭に渚の条件を伝えるように配下の女性に言って、伝令を走らせた。
伝令が戻って来て全てが伝えられたことを知らされると、渚は帽子を脱いだ。
渚は治乱桜のグループの中で椅子を用意され座っていたが、渚が帽子を脱ぐとき周りにレディースたちが集まった。

「おうっ!」「若い!!っていうか可愛いっっ!!」「えっ?これで20才?」

「私より若く見えるようっ!」「男が見に来たから隠せ隠せ!」

皆口々に言うので渚は恥ずかしくなった。
ハイキック真琴が渚の顔を見てから何やら考え事をしていた。
そこへ狂児がやって来た。

「治乱桜のう、そろそろ俺らの相手してよう、もらえるよう言ってくれよう!」

「駄目だ・・・」

「えっ、なんて言ったお前?正気か?何で駄目なんだよう?」

「可愛いから・・・」

「何だって?」

「狂児さん、佐野原逸香さんの顔を見せてもらってごらん。」

「おう・・」

狂児が近づくとレディースたちは囲んでいた輪を解いて渚を見せた。

「見て来たぞ。それがどうしたんだよう?」

「可愛いだろう?」

「ああ、可愛いだろう。ナリアキの姉さんだから、そっくりだってんだよう。」

「だから、駄目だよ。男に顔を殴られたら痣ができたり、腫れたりするだろう。
顔が曲がってしまうかもしれない。だから絶対嫌だよ。」

「お前よう!!話が違うだろうがよう!!やらせろ!!」

「いやだ!!」

「この野郎!!」

狂児が真琴に手をあげた。だが、その手はしっかりと誰かに掴まれた。
渚だった。渚は狂児に言った。

「相手をすればいいんですね。行きましょう」

レディース達はざわめいた。真琴は首を横に振りながら渚の背中を見送った。

「駄目だよう。明けても暮れても喧嘩三昧の男達・・その中でも最強のメンバーだよ。
それが10人も一度にかかって勝てる訳がない。映画と違うんだから。
いいかい。みんな、佐野原さんがやられたらすぐ止めに入るんだよ。
体張って止めるんだよ。」

「おうっす!」「わかりました。真琴さんっっ!!」「承知っすっっ!!」

レディースたちは倉庫の中央の戦いの輪の周りに散らばって待機した。


渚は中央にちょっと照れくさそうにして立っていた。
狂児はルールの説明を始めた。まわりには9人の男達がいる。

「これから10人でかからせてもらうからよう。
遠慮なく映画みたいにぶっとばしてもらっても構わないからよう。
その代わり、こっちもよう、本気でかからせてもらうからよう!
素手喧嘩だから、獲物は使わない・・あと、戦えなくなったり、降参したりすれば、それで終わりだからよう。なんかあるかよう?」

「ありません。いつ始めますか?」

「おい、治乱桜のよう。合図してくれ。」

真琴は渚の方を見て頷いてから声を出した。

「はじめてっっ!!」

その声と同時に男達が動いた。黙って突っ立ている渚に突進して行った。
最初はぶつからないように少しずらしてかかって行った。
一人目は右回し蹴りを頭部を狙って出した。
タイミングよく体を沈めた渚は、相手の軸足の左足を右旋風脚で薙ぎ払った。
非常に低い位置での回し蹴りみたいなものである。
床すれすれに軸足を払われたので。空振りしてバランスを崩した体はかなり勢い良く床に倒れた。コンクリートの床だから右腰の辺りを強く打って転倒した。
渚は左方向に一回転した後旋風脚の右足をすぐ左足に揃えて畳み込むと、しゃがんだ姿勢から後ろに伸びながらバック転の形になった。
背後から来た男の腹の辺りを逆さの姿勢のまま足で蹴った。
逆立ちしたまま前蹴りをした形になる。男の体はくの字になって後ろに飛び尻餅をついてから仰向けに倒れた。
合計5mくらい飛んだ。


蹴った後前方転回して立つと、その次の男が正面から右フックを出して来た。
それを左手で受け払うと同時に右手の掌底・・つまり掌の下の手首に近い部分でトーンと相手の顎をついた。
相手は下から突き上げられた形になるので遠くには飛ばずに微かに体が浮いてから真後ろに仰向けに倒れて行った。
そのとき、顎を打たれたのが原因か、または後ろに倒れたとき後頭部を床に打ったためか脳震盪を起こして気絶した。


以上最初の3人だけ詳しく述べてみたが、これが3秒から4秒の出来事なので、これから全部詳しく述べるとなると長くなりすぎるので普通に書くことにする。

渚は左に側転して、斜め逆立ちのまま左から来た男を両足を揃えて胸を蹴った。
男は3m後方に飛んで倒れた。
今度は5人目と6人目が渚が立ち上がったとき2時の方向から突進して来た。
同時にかかって来たが、渚はすぐさま跳びあがり空中二段蹴りで二人の胸と頭を蹴った。
胸を蹴られた男は苦しそうに膝まづき、頭を蹴られた男はぐんにゃりと崩れるように倒れた。


残りの4人は顔を見合わせた。
彼らは前後左右から渚を囲むように近づいて行った。
彼らは打撃系をやめて組み付いて押さえつけようとしたのだ。
渚は体を沈めて前方の男を突き飛ばした。そして背後の男を肘打ちで飛ばした。
二人とも5m飛んで転倒した。

左右から男達が渚に掴みかかった。だが、渚は左右に腕を伸ばし、掌で二人の顔面をパンと当てた。
二人ともクターとなってダウンした。
始まってから11・2秒の戦いだった。

最後の4人が一瞬攻撃を躊躇っていなかったら10秒程度で終わっていたかもしれない。


「つ・・・強い。やっぱ、伝説のスタントマンだ。」

真琴は渚があまりにも強かったために非常に感動していた。
今倒された男は毒魔鬼悪乱で最強の10人で、自分でもその1人とやり合って勝てる自信はない。
それ程の男達があっという間に倒されたのだ。
しかも総長の狂児は早いうちに倒されている。


毒魔鬼悪乱のメンバーが出て来て倒れている男達を運んだ。
肩を貸されて歩いている者もいたが、気絶したままで4人がかりで運ばれている者もいた。


色の黒い斑髑髏の豪児が白い歯を見せて中央に歩いて来た。

「あんたあ、滅茶苦茶強いねえ。良いんだよ。今みたいに思い切りやってくれてえ・・俺らも死ぬ気でやらしてもらうからねえ。ほな、始めるかねえ。」

豪児は背後の男達に前を向いて渚をみたまま言った。

「先に俺にやらせてくれえ。
俺がやられたらねえ、一気にせめてかまわないよねえ。」

そういうと、合図もなしで豪児は渚に突進して行った。


           
豪児は間合い外側で回し蹴りの後ろ蹴りとかジャブとストレートの組み合わせなどをして、フェイントをかけてみた。
だが渚はかかってくるのが最初は豪児だけだとわかっているので、のんびり突っ立っていた。
突然豪児は渚に向かって飛び込んだ。そして空中で前方宙返りして回転踵落としを狙って来た。
渚は見事な技だと思った。自分のときよりもきれいに飛んでいるとそんなことを思った。
だが、渚は少しだけ体を開くと踵落としを外した。
豪児は床に落ちた。だが、渚は攻撃しない。豪児は起き上がると舌打ちをした。

「ちっ!見切られてるねえ。だけどねえ、恥ずかしいから、今度はねえ、すぐ反撃しちゃってくれねえか。
遊ばれてるようで嫌なんでねえ。」


「わかりました。じゃあ、どうぞ」

豪児はステップインして間合いに入ると、右フックをし左方向へ一回転すると、左の裏拳を打ってきた。
だが二つとも外されると、すぐ右回し蹴りを出して来た。
この裏拳と回し蹴りは殆ど同時に近いほど間隔が短かったが、渚も裏拳を避けると同時に体を沈めてステップインした。
豪児は自分の回し蹴りが太ももの辺りで渚の横腹に触れたと思ったが、その前に腹の辺りに重い衝撃を感じた。渚が掌で押したのだ。
豪児は5m後ろに飛んだ。尻餅を着いた豪児は怒鳴った。

「死ぬ気で行けえっ!」

男達が一斉に吼えて突進して行くと、豪児は仰向けに倒れた。
今度は渚は待たずに迎えに行った。ジャンプしたのだ。
正面の二人の頭上で位置の高い前方宙返りをすると、二人の後頭部を両手で叩いた。
そしてその背後にいた男達の二人に両足で踵落としをした。
一瞬で4人の男が倒れた。正面に男達が密集していたのでできた技である。
渚は床に落ちて着地する前に両手をついてバック転をしすぐ右方向に側転をした。
踵落としをされた二人が倒れたときに渚の姿を見失った後方の3人は、左側で仲間の1人が背負い投げで自分たちの方に飛ばされて来るのを見て慌てた。
だが、3人のうち2人は飛んで来た仲間にぶつかって折り重なって倒れた。
残りの1人は右側に逃げて助かった。
そして誰かと体がぶつかって、残りは自分以外あと2人しかいないことに気づいた。
そして渚の方を振り向いたとき、すぐ目の前に渚がいて両手で突き飛ばされた気がした。背中に仲間の二人がぶつかり折り重なって転倒する感覚・・・そして体が痺れて動けなくなった。



最初の豪児のときに少し時間をかけたが、後の9人はかなり短い時間で倒した。
再び斑髑髏のグループが床に倒れている仲間を運び始めた。
最初の毒魔鬼悪乱の者たちは自分たちの陣営で休んでいるが、まだ起き上がられないでいる。
そして首狩り隊の兆児以下10人が出て来た。
兆児が頭を搔きながら前に出て来た。

「実は佐野原さんにのう、頼みがあるんじゃが良いかね?」

「なんでしょう?」

「わしら相談したんじゃけど、3つお願いがあるんじゃ。」


「多いですね。でも一応言って見て下さい。」

「まず、1人ずつ相手してもらってくれないかね。わしらも1人ずつかかっていくよって。」

「それは構いません。」

「それと、遊ぶのはやめてくれないかね。
わしらにもプライドっちゅうもんがあるからに、やるときゃ一気にやってほしいんじゃが。」

「わかりました。豪児さんにも言われましたから」

「それと、投げるのと突き飛ばすのは勘弁してくれんかね。コンクリートは固いんじゃけに」

「1人ずつなら当然そうします。クッションになる仲間がいないですから」

「じゃあ、始めてもいいかのう?」

「ちょっと待ってください。えーと、1人ずつは良いとして、攻められたらかわすだけでなくすぐ反撃する

・・と投げない飛ばさないですね。」

「良いかね?」

「あっ、ちょっと待って下さい。1人が終わったら倒れた人をすぐ運んでくれますか?
冷たい床にいつまでも寝かせているのはかわいそうですから。」

「ああ、そうする。あんたが倒れてもそうするじゃが、おい、運ぶのを専門にやるのを待機させとくんじゃが!。」

一人目の男がボクシングスタイルでやってきた。
渚はパパンと相手が出したパンチを手で払うと顎の辺りを掌でチョンと突いた。
崩れ落ちるのを渚は抱きとめて静かに床に下ろす。

「一人目です。運んで下さい」

「は・・・速いな。これがボクシングの試合だったら、客は金返せと騒ぎ出すじゃが・・」

兆児は唸った。
はからずも鬼子母神が言ったことと同じことを言ってるなと渚は思った。
二人目はハイキックで回し蹴りをして来たが、体を沈めた渚が軸足を薙ぎ払って倒すと、すぐ仰向けに倒れている相手の頭を押さえて掌底突きを構えた。

「とどめをさしますか?」

「ま・・・参った」

二人目は降参して歩いて帰ろうとした。

「お前、とどめをさしてもらわんかい?歩いて戻るのは恥ずかしいんじゃい。」

「は・・」

兆児に言われた男は、すぐ渚の所に戻って寝転がってさっきと同じ体勢になった。

「お願いしますっっ!!」

渚は仕方なしに額に軽い秘拳を放って気絶させた。
そうしながら、このグループが一番面倒だなと思った。
3番目の男は飛びかかってきて両手で渚の首を絞めようとした。
だがその前に相手の両手首を持って持ち上げると足払いで倒し、その上に膝頭を落とし腹を打った。
投げてはいけないと言われたので打撃系にしたが、苦しそうに唸ったので悪いことしたかなと一瞬思った。

もう渚も面倒臭くなって、4番目・5番目・6番目のときは相手が攻撃を仕掛ける前に間合いに飛び込み掌で顎を打った。3人とも同じ技で失神した。

「来るとわかってても速くて避けられないんじゃ。おっそろしいことじゃが」



兆児は手でタイムのサインをすると、4人で相談し始めた。
最後は4人一緒にと言ってくるだろうと思ったら、果たしてその通りだった。
フォーメーションは四方から囲まずに二人並んで構えて、その背後にまた二人並んで構えるというものだった。
つまり二人同時に上段と下段を攻撃すれば、そのうち一方がヒットするだろうという計算らしい。それを避けても次の第2波があると考えているのだろうと思った。
だが渚はこれが終われば帰れると思ったので早くすませたかった。
でも、前の二人を突き飛ばして後ろの二人にぶつければ一瞬で終わるが、そういうのは嫌がっていたのでどうしようと思った。


特に考えていた訳ではない。向こうが動き出したのでジャンプした。
そして両膝で前の二人の胸を蹴った。
そのとき相手の肩に手をかけて腕立て前方転回し、途中で後ろの二人の胸にドロップキックを浴びせた。
反動で背後の二人の背中に渚の頭や肩がぶつかって、彼らは前方にうつ伏せに倒れ、ドロップキックを受けた方は後方に仰向けに倒れた。
渚はうつ伏せに倒れた男達の上に背中から落下したが、これで終わりだと思うとほっとして立ち上がった。


すると今までと違う青い服を着た男達がそれも10人じゃなくて全員出て来たらしく、40人以上いる。
ハイキックの真琴が声を上げた。

「なにしてるんだっっ!!何の真似だっっ?!爆走無情の冷児!!」

怜児と言われた男は、渚を遠巻きに囲んだ輪のどこかにいた。
野太い声だけが人垣の中から聞こえて来た。

「気に入らないことの一つ。佐野原逸香をこのまま返すこと。
気に入らないことの二つ目。負けるとわかって10人ずつちまちまやったこと。
気に入らないことの三つ目。俺たちが外されたこと。」

「それはあんたたちが人数制限に反対したからっっ!!」

「気に入らないことの四つ目!東部神風連合が負けたままで引き下がること!」

そういうと、人垣の中から立ち上がった者がいる。大きい。
今までしゃがんでいたのだろうか?2mもある大男が現れたのだ。

「あんたっっ!!他の総長たちが倒れているのを良いことに、何勝手なことやってるんだよ!?」

「東部神風連合の伝説のためだ。
爆走無情の我々が総力戦で佐野原逸香を生贄にして縛り上げて記念写真を撮ろうと思ってな。」

「それは駄目だって言ったじゃないかっっ!本人が顔見せする代わりの条件だった筈。
それにあんたらは最初の約束に入ってないんだっっ!!
勝手すると、私らが許さないよっっ!!」

「お前らが手を出したら、その服を破いて外に放り出してやる。
いいか、他のグループも俺たちの邪魔をするんじゃねえ!!」

「つまり・・・掟破りなんですね」

そう言ったのは渚だった。

「じゃあ、私もルールを守らなくても言い訳ですね。
これだけ沢山いるから突き飛ばしたり投げ飛ばして他の人間にぶつければ
20人や30人すぐ倒れますよ。
私が本気で拳を放てば人間は10mは飛びます。
そうなったら、入院して命が助かってもきっとバイクに乗れない体になるでしょう?
以前数を頼んで私を倒そうとした人たちがいましたが、その人たちは倒された後、顔にウンチマークを描かれて写真に撮られました。
写真が好きなようでしたら、真琴さんにその写真を撮ってもらっても良いです。」

渚は小学生の作文発表会のように、棒読みのような喋り方で言った。
何を喋れば良いのか考えながら喋ったからだ。
渚はこういう風に言葉で脅すことに慣れてなかったから、そんな感じになったのだ。

「はったりだ!」

冷児は周りの仲間に聞かせるように声をあげた。体と同じく大きな声だった。
きっとお寺の鐘と同じく遠くまで聞こえることだろうと渚は思った。

「そうでないことを証明しても良いですが、ここでゲームをしませんか?」

「なんだ。それは?」

「あなたたちのグループ全員で怜児さんを守るのです。私は怜次さんを狙います。
もちろん全員で私にかかってきても構いませんよ。
でも、怜児さんが倒された時点でゲームオーバーです。
どうです?やってみますか?」

「面白い。乗ろうじゃないか。おいみんな、この小女が俺にたどり着く前に押さえつけてぼこぼこにしてしまえ!
やれ!!」

みんながどんなゲームか頭で理解している一瞬の間があった。
だが、渚は動いていた。
本当は怜児を中心にして人間の壁を作らなければいけないのに、渚を囲んだ輪の一角に冷児がいたので、壁が薄かった。
渚は跳びあがると体格の良い1人の男の肩を土台にして飛んだ。
気のついたときには冷児の顔の前には渚の足があった。

「ズコン!」

鈍い音がして冷児が蹴られ、ふらふらするとぐんにゃりと倒れた。
輪の外に出た渚は、言った。

「これでゲームオーバーです。真琴さん、もう帰っても良いですか?」

「あっ、は・・はいっ!今お送りしますっっ。
爆走無情のみんなっっ、冷児さんを病院に運びな。きっと鼻の骨が折れているよ。
ルールを無視するからだよっっ!!あんたらもリーダーを代えた方がいいんじゃないかいっっ?!」

真琴は自分が制裁を加えたかのようにそう言って叱りつけた。



それから男達を残して治乱桜のメンバーが30人ほど倉庫の外に出て来た。
三脚のカメラを構えて自分たちの記念写真を撮るのだという。
一列10人になって前列はウンチ座りをし、二列目は腰を折って顔を上げ、三列目はたち姿勢で並んだ。前列真ん中を空けてあるのでどうしたのかと思っていると、
真琴が来て耳打ちした。

「帽子を被って顔を半分隠したままでいいから、中に入ってほしいんですっっ!
お願いですっっ!」

渚は困ってしまったが少し考えてから言った。

「二つ条件があります。真ん中はあなたの席ですから詰めて下さい。
私は後ろの脇に映ります。
もうひとつは私だと言う事をメンバー以外の人に言わないで下さい。
もしこの写真が出回ったりしたら、私ではないといいますから。」

渚は背後の横に立ってカメラに映る瞬間にちょっと横向きに歩いて通り過ぎるポーズをした。
つまり、たまたま通りがかって写ってしまった無関係な通行人を演じたのである。
それでもメンバーは喜んでくれたみたいだった。



車で九条家の近くまで送ってもらうと塀を跳び越え、こっそり部屋に戻ろうとした。
だが、メイドさんに見つかってしまい、感電するのでそういうことは絶対やめてほしいと叱られた。
九条ゆかりが戻ってからも報告されたらしく、ゆかりからも10分ほど説教された。
不謹慎かもしれないが、渚は自分のことを案じて叱ってくれる存在が嬉しかった。

ゆかりは早めに帰って来たので、これから部屋を見に行くという。
人に頼んで武闘会館の近くに部屋を見つけ、仮契約をしたという。
家賃も以前住んでいた所と同じくらいで、広さも同じくらいだった。
渚としては申し分ない条件だった。
だが、ゆかりは空家賃と敷金は自分が出すから、引越しは1ヵ月後の『じゃじゃ馬姫』の撮影終了まで待ってほしいと言った。
その一ヶ月間の間に渚にしてもらいたいことがあると言うのだ。



それが何かは九条家に戻ってわかった。
ゆかりの部屋に呼ばれた渚は部屋に眼鏡をかけた若い女性がいたので驚いた。

「こんにちは、逸香さんですね。
私はゆかりさんの家庭教師をしている大学生の島田真希と言います。
ゆかりさんに頼まれてあなたに基礎学力の指導を集中的にすることになりました。
よろしくお願いしますね。期間は一ヶ月です。逸香さんのアルバイトがない日はなるべく長い時間やりたいので、私の受講時間と調整して時間割を作りました。
多いときは5時間、少ないときは1時間。合計120時間になります。
絶対私を縛り上げて逃げ出すとか、そういうことはしないで下さいと、ゆかりさんも言ってました。」

「は・・・はい」

渚は家庭教師というものを初めて見たのでどきどきした。   



                    
島田真希は渚に聞いた。将来どんな人生をすごしたいのかと。

「思いつくままでいいから言ってみてほしいの。
それによって、あなたが必要な基礎学力が何かを考えるから。
つまり、あなたに一ヶ月間何を教えるかの計画。教育カリキュラムという奴ね。
それが、あなたの夢によって決まるの。だから本心を言ってね」

渚は石田村のことを思い出した。父や母が若いとき過ごした村。村の人々。
畑で作った作物。そして力仕事と料理。

「何か仕事をしている人が良い。できれば土をいじって花を育てたり、野菜を作ったりもしてみたい。
それと・・・料理のことを勉強したい。そして色々な人とお喋りしたり食事をしたり・・・」

「調理師とか栄養士の免許を取るとか?」

「何ですか、それ?」

「自分で食べる物を作る時は免許は要らないけれど、仕事で料理を作ってお金をもらう場合、調理師免許というのがいるのよ。そこまでは考えてない?」

「うーん。考えてなかったですけれど、考えてもいいかなあ?」

「畑をやったり花を育てるのは経験があるみたいだから下地ができてるよね。
力仕事も得意なみたいだし・・・後は生きていくのに必要な教養かな・・・」

「できましたか?カリキュラム?」

「うふふ・・そんなインスタントラーメンみたいにすぐにできないわよ。
でも最初のイメージはできたわ。
あなたは料理が好きだから調理師になるために絶対必要な基礎学力を身につけておくと役に立つと思う。
けれども家庭科の勉強はしない。あなたは得意だった思うから。
算数の勉強よ。数学とまでは行かないけれど、分数とか割合とかグラフの簡単な作り方や見方を勉強するの。
そうすれば調理師や栄養士に必要な計算がわかるようになる。
それと国語力ね。科目としての国語科じゃなくて、社会や理科や算数の教科書を読むにも国語力がいるの。調理師の本にも栄養士の本にも漢字がある。
その中でも特に必要なのは漢字を書いたり読んだりする力ね。
漢字は中学3年生までに習う漢字が大体常用漢字になっているから、2000字近くある漢字をまず読めるようにして、その後で書けるようにする。
でも、車を買うにも基本仕様とオプションがあるから、漢字にもあるわけね。
あなたは料理が好きだから醤油という字を書けなければいけない。胡椒という字もね。野菜が好きだから西瓜とか南瓜・・人参とか南蛮・・なんか読み書きできると楽しいわね。
花が好きなら薔薇という字も紫陽花という字も書けると楽しい。
そういうのをすっと書ける人はそんなにいないよ。特に醤油とか薔薇はね。
でもそういう難しいのを少しでも覚えておくと自信がつくんだよ。
だから、算数は分数とか割合を中心に、それを元にグラフの勉強もする。
それから国語は漢字の勉強をする。それで色々な本を読んだり、新聞や雑誌を読むことができるでしょ?
私が教えることは・・そうね・・喩えて言うなら、畑に撒く種みたいなものね。
それだけじゃあ、食べられない。太陽の光を当てて、水や養分を与えて、雑草を取ったりして面倒を見ることで立派な野菜ができるの。
だから、私が教えた後はあなたが自分で勉強したことをどんどん膨らませることが必要なの。
でも、種がなければ全てが始まらない。それが私の言う基礎学力・・つまり、あなたの夢を育てる為の種よ。わかってくれた?あら・・どうしたの?」

島田真希は驚いた。渚の目に涙が光っていたからだ。渚は島田の手を握った。

「島田先生、先生の言うこととってもよくわかります。
だから嬉しくて、涙が出て来たみたいです。
私、がんばりますから教えて下さい。」

「そう・・がんばろうね。」


こうして1ヶ月間の島田先生による特訓が始まったのだった。
島田先生は学生で講義にもでなければいけないし、ゆかりの家庭教師もしているので超忙しいのだが、渚の面倒を実によく見てくれた。
島田先生は分数を教えるのに折り紙を使って教えてくれた。
それで、渚は今まで分からなかったこと・・なぜ二分の一と三分の一をたすと六分の五になるのかがわかった。
そして百分率が分数の一種だということがわかって、割合もよく理解した。
漢字は部首の意味から教えてくれた。
木扁と魚扁の意味とか漢字の語源とか楽しくわかりやすく教えてくれた。
薔薇と醤油の書き方を覚えたときはものすごく褒めてくれた。
日本人一億人いる中で、この二つの字をきちんと書ける人間がどれだけいるかとそんな話までして、渚のやる気に火をつけた。
そうなると速かった。漢字は書き順も含めて何度も書く練習をした。
常用漢字は読めるようになったので、書けるように練習を重ねた。
そうやって、アルバイトもしながら一ヶ月が過ぎた。




島田真希は渚に言った。

「常用漢字は9割方書けるようになったね。読みの方は全部できるから後は時間の問題かな。
その代わり常用漢字以外の漢字も結構覚えたからだいぶ自信がついたと思う。後は新聞を読んだり、本を読んだりしてたくさん覚えていくことだよ。」

「はい。」

「分数も割合も意味がすっかり分かるようになった。グラフの書き方も見方も分かる。調理師試験の問題集がここにあるから、自分でも勉強して行ってほしいな。わからないことがあったら、私に聞きに来ていいから」

「はい。」

「それじゃあ、佐野原さんこれからもがんばってください。」

「島田先生ありがとうございました。なんてお礼を言っていいか」

「それはゆかりさんに言ってね。私はただ頼まれただけだから」

「それでもありがとうございました。」


渚は頭を下げた。

「ところで佐野原さんのことを、ゆかりさんがたまに渚さんって言うことがあるんだけれど、それって本名?」

「あ・・はい。佐野原逸香は芸名ですから。でもこれは秘密で」

「わかったわ。じゃあ元気でね。渚さん」

「はい。島田先生も」

最後は二人で握手した。




九条ゆかりは渚に言った。


「渚さん、本当に長い間我が家に引き止めてしまってごめんなさい。
でも、私ときどきここに来てもいいですか?渚さんとは長いお付き合いをしたいから。
ずっとお友達でいたいですから。」

「もちろんですよ、ゆかりさん。とにかく映画が完成しておめでとう。
私も封切りになったら見に行きますね。
それと1ヶ月間家庭教師のプレゼントありがとう。
なにより嬉しいプレゼントだったよ。」


「あれは、ほんのお礼の一部。渚さんにはあのときお世話になったから。
お友達の魚住さんにもお世話になったから、宜しくお伝えください。」

「どうでしょう・・・会うことあるかなあ?」

「いえ、会いますよ、必ず。私がここの住所を教えましたから」

「えっ?」

「魚住さんは渚さんにはこれから絶対必要な人になる・・・そんな気がします。
魚住さんからも頼まれてたんです。渚さんが行方不明にならないように気をつけて下さいとね。」

「・・・」

「それも私の積りではお礼の一つに数えられているんですよ、本当は。
それと、これをあなたにプレゼントします。」

それはシリコン製のマスクだった。ウィッグも入れて何セットもあった。

「これは、あなたが使っているのよりも精巧なできですから、マスクをして顔を半分隠さなくても大丈夫ですよ。
但し真夏の暑いときは使えないと思います。少年と太った女性とお婆さんのが3つ入っています。

但しお婆さんのを被るときは、顔以外の皮膚は露出しちゃ駄目。手も手袋を履いて皺がないのを隠さないといけません。
私もここに来るとき、マスクを被ってくるかもしれません。今回自分用にも取り寄せましたから」

「それじゃあ、どんなマスクを買ったのかは聞かないでおきます。
そのときの楽しみにしたいですから。ではまた・・」

渚はゆかりとも握手して別れた。



「そのマスク・・私があげた奴よりも精巧にできてるわね。顔を隠さなくても良いところが凄いな」

五十嵐綾芽は渚の新しい顔を見て感想を言った。

「いつだったか、私の顔型を取られたことがあって、それを元に作って貰ったらしいです。」

「そうかあ、それならパーフェクトね。ぴったりな訳だわ。
それしたまま食事できる?」

「できます。やってみましたから。但しシャワーや水泳は駄目です。」

「それじゃあ、これから社員食堂に行って、ランチを食べて来ようよ。」

「うわあ、勇気がいりますね。この顔・・・前のと微妙に違うんですけれど。」

「大丈夫、同じように太っているし、体型は前と同じだし、前のときは顔を半分隠してたからばれないよ。」

食堂に行くと賄い婦の仲間が首を傾げて渚を見ている。
渚は自分を指差し、私ですと言った。賄いの小母さんは言った。

「あら、深庄さんかい?マスクをしてなかったから誰かと思ったよ。」

どうやら辛うじて合格したようだ。

「ほらね、印象が違うのはマスクを外したせいだと思っているよ。
そのうち、そのうっとしいウィッグも外すといいよ。
思い切って髪を切ったってことにして・・」


食堂の片隅でカレーライスを食べながら、五十嵐は映画のことを話した。

「ナリアキがアメリカに帰ったってことになったから、ナリアキ主演の予定だった映画がお流れになってしまったよ。とほほ・・だね。
いくら精巧にできているとはいえ、少年の顔マスクを被って出てもらう訳にはいかないし。
その代わり佐野原逸香のスタントマンはこれからも頼むかもしれないよ。」

「はい。わかりました」

「なんでも・・バイク・ギャングが九条の家まで押しかけて行ったんだって?」

「あれれ、よく知ってますね」

「座間亨監督って知ってる?じゃじゃ馬姫シリーズの監督だよ。
九条ゆかりが撮影所でその話をしたそうだよ。
それで、たまたま監督仲間で顔合わせすることがあって、その話題が出たの。」

「あのときは驚きました。でも、あれ以来誰も来なかったからほっとしました。」

「それがあったのは一月前のことだったよね?」

「はい。そうです。そのくらいです。」

五十嵐は腕を組んで渚を見た。

「なんですか?なにかあるんですか、五十嵐さん?」


「いや・・・私の取り越し苦労だったら良いんだけれどね。
そのバイク・ギャングたちは自分たちが負けた果し合いだったから、口を閉ざして来たと思うけれど流石に一ヶ月も経てば、その話は組織の外に漏れて伝わって行くんじゃないかと思ってね」

「伝わると・・・どうなるんですか?」

「真似して、あんたの首を狙う奴が出て来る可能性があるね。」

「よしてくださいよ。首だなんて」

「私は、たまたまアクション映画に関わっちゃったから、こういう武術とか喧嘩の世界のことを研究することになってしまったけれど・・男って強いやつを見ると挑戦して倒したくなるものらしいよ。」

「・・・・?」

「ほら、動物園の猿山にもボス猿がいるけれど、ナンバーツーの若い猿が挑戦するでしょう?
あれと同じなんだよ。」


「でも、あれはオス同士の話しでしょう?」

「そう・・哺乳類のオスはオットセイのように一番強いのは誰かを戦って決めることが多いんだよね。
そして勝った者がメスを独占できる。
より強い子孫を残すために、そういうことがインプットされてるわけなの。
でも、あんたはメスかもしれないけれど、メスがそんなに強い訳ないから、とにかく強いものを倒すという本能がオスにインプットされているから、あんたは狙われるってわけよ。
それは本能的なものだから止められないと思う。」

「じゃあ、これから一体なにが起こるんですか?」

「きっと九条の家に新手が押しかけるかもしれないね。」

「考え過ぎですよ」

「そうならいいけれどね。でも、この話が漏れたら絶対起きないという保障はないよ」

「考えすぎですって・・。土木部に午後からシフトがあるので」

「ああ、行ってらっしゃい。九条にあんたはどこか分からないところに引っ越したって、何かのついでに発表させたら」

「わざわざそんなこと言うのが不自然ですよ」

「そうだね。」

渚は五十嵐の部屋を出て、土木部の現場に向かった。




「おい、佐野原逸香の引越し先がわかったか?」

年配の男が若い男に言った。

「大丈夫ですわ。引越し業者に使われてるもんが知ってる奴だったんで、こっそり教えてもらいましたわ。
で、顔も確認しました。部屋を何回か出入りしてたもんでね。
ナリアキに似ていて美人だって噂でしたが、噂は当てにならないもんですわ。
弟に似ていなかったし、顔も体も太ってて、本当にあれで竜胆沙希の身代わりにスタントマンやったんでしょうかね?」

「あれから、太ったんだろう。だが、つい一ヶ月前でも東遊神風連合の主だった連中を総なめにしたんだ。
腕は全然衰えていない筈だ。」


「で、後を尾行したんですが、なんと武闘会館に入って行って、そこで土木部の欠員補充要員として働いているんですわ。
名前も、きっと本名でしょうか・・深庄渚と言ってましたわ。」

「お手柄だ。後は私の出番だ。ご苦労さん、きょうはゆっくりしてくれ」

年配の男は1万円札を何枚か若い男に渡した。

「ありがとうございます。相良さん。これが顔写真です。」

相良という男は若い男から写真を受け取った。
そこには顔マスクを被って変装している渚の写真が写っていた。


                  
「なんだよ、おっさん。俺たちになんか用かい?」

六人の若者がタバコを吸ってたむろしてしてる所に相良が頭を下げてへらへら笑っていた。

「兄さんたち、強そうだね。それで頼みがあるんだがね。
たばこ銭稼いで見る気はないかい?」

「なんだよ、おっさん誰かをぼこればいいのかい?いくら出すんだ。」

「相手は女1人なんだけどね。1人1000円でどうだい?」

「馬鹿にするなよ。女をぼこればサツに捕まる危険があるだろうが。
1000円じゃ安いよ。おっさんもっと出せよ。」

「兄さんたち、それは前金だよ。金だけ貰って逃げられたら困るからね。
・・・そうだな。

あんたたちの誰か1人でもいい、その女を一発でも殴ってくれたら、一人5000円ずつ追加しようじゃないか」

「本当だな、おっさん。一発でも良いんだな。
けどよ、俺たちが殴ってる間におっさんに逃げられたら困るよなあ。
よし、1人おっさんの見張りに残しておこうじゃないか。」

「よし、じゃあ決まりだね。まず前金6000円渡すから、分けてくれよ。
後の3万円は成功報酬だから、見届けてからでいいだろう?」


若者たちは教えられた女が来るのを待った。
そして、ターゲットの女が道の向こうに現れた。

「ずいぶん小さい女だな。あんなのなら5人も必要ないんじゃねえか?」

「俺はよ、プロレスラーのようなでかい女を想像してたぜ。」

「よし、軽く一発殴ってそれでやめようぜ。」

「馬鹿野郎。折角女をぼこれるんだから泣いて顔脹れるまで殴ってみようぜ。
面白えだろうが!!」


「そうか。それもいいかもな。」

女が近づくと若者達は道を塞いで通られなくした。

「おい、こらどけよ。」

若者たちは飛べない小鳥をいたぶる野良猫のように笑った。
げらげら笑う声が路上に響いた。
女は小太りの女だがまだ若かった。

「どけってんだよっ!!」

若者はいきなりグーを出して女の顔を殴った。

「ブシッ!!」

だが倒れたのは、手を出した若者の方だった。
女は若者の右フックを左手で払うと同時に掌で顎の辺りを突いたらしい。
驚くべきことはたったそれだけで、若者がダウンしたことだ。

「こいつっ!」

他の4人の顔色が変わった。ただの女でないことが今の一撃で分かったからだ。
若者たちは3時と9時、11時と1時に分かれた。

「おい、みんな気をつけろ。見かけに騙されるな」「わかってるっ!」

「二人後ろに廻れ」「せーので一気にかかるんだ。」「同士討ちすんなよ」

「回し蹴りはするなよ、ぶつかるから」「わかってる、じゃあ行くぞ」

「せーの!!」

4人が一斉に前蹴りで女に飛びかかって行った。だが女は上に飛んで前方の二人を両足で胸の辺りを蹴った。

「ドドンッ!」

二人とも胸骨のあたりを蹴られたらしく息が詰まったようになってうつ伏せに倒れた。
着地した女は後ろから襲い掛かる若者たちを振り返りざま、2回転の回し蹴りで倒した。

「ブシッ!」「ブシッ!」

5人の若者たちは路上に倒れて動かない。
女はそのまま何事もなかったかのように歩き始めた。

「な・・・なんだ、あれは?恐ろしく強い女じゃないか?」

相良についていた若者が驚いて言った。

「おっさん、もしかして俺たちをはめたな!」

若者は相良の襟首を掴んだ。
だが、相良はその手を掴んで軽く捻ると、足払いで若者を後ろ向きに倒した。
路面に背中を叩きつけられて若者は苦痛で唸った。
それを相良は丁寧にも2度ほど腹を踏みつけて動けなくした。

「はめてはいないよ。一発でも殴るなり蹴るなりしてたら、本当に払う気だったんだ。」




「すみません。深庄渚さんですね?」


渚に後ろから声をかける男がいた。振り返ると40歳くらいの中肉中背の男が立っていた。

「相良と言います。お時間いただけませんか?」

「あなたですか、さっきの男達をけしかけたのは?
先ほどは遠くで様子を見てましたね?」

「気づいていましたか・・でも、あれは仕方がないのです」


「なにが・・です?」


「ああでもしないと、あなたが佐野原逸香さんかどうか確かめようがないからです。」

「な・・・何を言ってるんです?」

「隠しても無駄です。あなたのことは調査してるんですから」

「・・・」

「勿論、秘密は守ります。ですからちょっとお時間を頂けないでしょうかね?」

「これから、仕事があるんです」

「では何時に終わりますか?」



渚が相良に案内されたところは、あるビルの中の体育館のような広い所に、リングが4つもある場所だった。
それぞれのリングでは、ボクシングのグローブをはめている者やプロレススタイルの者、柔道着や空手着を着ている者などさまざまな者が戦っていた。

「異種格闘技場です。
4つのリングで4ブロックに分かれてトーナメントをしているのですよ。
今は準準決勝です。これで今回のベスト4が決まります。」

「そして、最後の1人になるまで戦うのですか?」

「それが今回のチャンピオンになります。」

「それで、私にどうしろと?」

「あなたが易力拳の正当な継承者だと言うことは誰でも知ってます。
だから易力拳がどれだけ強いのか証明してほしいのです。
チャンピオンが決まったら、その人間と戦ってほしいのです。」

「相良さん、どんな事情があるのかはわかりませんが、それはできないのです。
易力拳は身を守るための武術で、他流派と争うことを好まないのです。
まして強さを誇示する為に戦うのは、最も禁止されていることなのです。」

「易力拳がそのような拳法だということはよくわかっていますよ。
では、身を守るとき以外どんなときに戦うのですか?」


「大切な人を守る為、拳の正義を貫く為・・・そういう時です。」

「では、聞いて下さい。私はこの異種格闘技大会の主催者ですが、始めは戦うメンバーを集めるのに酷い苦労をしたものです。」

そう言って、相良はこの大会のことを語り始めた。

「けれど、回を重ねるごとに応募者が多くなり、抽選で出場者を決めています。
そして一度出場した選手は、チャンピオン以外断っています。
第7回目のチャンピオンにアジア系のハーフでトゥレン・ツァ・ロンという男がチャンピオンになりました。
一応プロレス出身ということですが、本人に言わせれば強すぎて頸になったとのことです。確かに強かったのですが・・。
ところで新チャンピオンは前回までのグランドチャンピオンに挑戦することができます。
けれども彼はどんなチャンピオンが挑戦してもなんとか毎回勝ち続けるのです。
あるとき彼は自分の国に帰るので、もう試合に出ないと言いました。
私が主催者としてそれは困る。国に帰ったとしても、旅費を払うからグランドチャンピオンである限り出場してくれと頼みました。
彼は旅費だけでなくもう少し別の褒美がほしいと言いました。
ファイトマネー以外に何が欲しいのだと聞くと、私の娘が欲しいと言うのです。
それも今すぐでなくてもいい。
もし自分が第17回大会のグランドチャンピオンの防衛に勝てたら、娘との結婚を認めて欲しいと言ったのです。」

相良は手に持っていたペットボトルの水を飲み干した。

「その頃、娘はまだ15歳で雑誌のモデルなどもしていたんですが、彼のことは別に何とも思っていなかったはずです。
また、その頃の彼は強いと言っても、まだ強い人間はいるという気がしてましたから、この競技で11回もグランドチャンピオンになるのは不可能だと思いました。
だから、私は娘に断りなくその約束をしてしまいました。
というのは、それまでなら彼は負けると思っていたからです。
というのは、そのころは私も発掘されていない強い格闘家を沢山知っていたし、彼よりも強いという者を沢山知っていたからです。
彼は国に帰りましたが、大会のときには必ず来るようになりました。
私は、意識的に大会のレベルを上げて、より強い選手を募集しました。
早く彼を破ってもらいたかったから、強い格闘家がいると聞けば海外にでもどこにでも行って参加を促したものです。
だが、その次の13回大会から彼の体格に変化が起きました。異常に筋肉がつき始めてきたのです。
真っ先にドーピングを疑って検査をしましたが、なんのプラス反応は出ませんでした。体質的なものだったのです。
ミオスタチン異常というのを聞いたことがありますか?
まるで筋肉の鎧を着たような牛とかマウスの写真を見たことがありませんか?
つまり筋肉の発達を抑制するミオスタチンという物質が体内に不足する体質なのです。
不足の程度が小さければ均整のとれた筋肉質の体になりますが、不足の程度が大きければ、筋肉が異常に発達します。
彼はきっとそれまでは、薬用ミオスタチンを服用して体型を普通に保っていたのかもしれません。
だが、彼はそれをやめた。異常な筋力をつけるために、試合に勝つためにです。
そして、彼は勝ち進んで来て、とうとう今回は17回目の大会になってしまった。
だが、彼の姿は今や筋肉のモンスターです。
娘など彼が軽く抱きしめただけで、全身の骨を折られてしまうでしょう。
私は娘に黙っている訳にいかなくなり、そのことを打ち明けたら・・もうすぐ20才になる娘は睡眠薬を大量に飲んで自殺しようとしたのです。
なぜなら娘はそれまでずっと大会のチャンピオンに花束を差し上げる役をしてくれていましたし、彼の姿を見ていつも怖がっていたからです。
そして、トゥレン・ツァ・ロンはこうも言いました。
もし、約束を破り娘を他の男と結婚させたり、自分と結婚させまいとどこかに隠したり逃がしたりするなら、お前の命はもらうと。

トゥレン・ツァ・ロン・・このままでは彼は、今回のチャンピオンにも勝つことでしょう。
だが、特例としてチャンピオンの質が低い場合はグランドチャンピオンに挑戦させる前に役員推薦の選手と戦わせてその勝者が挑戦権を得ることができると、会の規約にあります。
私はこの規約を使って、あなたを今回のチャンピオンに挑戦させ、打ち負かしてグランドチャンピオンと戦ってもらいたいのです。
私はどんなに非難されてもいい。
だが、1人の娘を助けると思って戦っていただけませんか?
これは・・あなたの言う、拳の正義・・・戦う理由になりませんか?」

そこまで言うと、相良は床に膝まづき渚に土下座した。

「お願いです。娘を救って下さい。深庄さん!!」

渚は事情を聞いてなんとかしてあげたいと思った。
だが、このままでは戦えない。それで、渚は相良に言った。

「そういうことならお引き受けしたいと思います。
けれども、ひとつ問題があります、相良さん。
実は私の今の姿は変装した姿です。
町の不良に襲われたときにはこのままでも戦えますが、試合となると違います。
格闘のプロと戦うのですから、下手すると変装が取れてしまいます。
だからせめてプロレス用のユニフォームか空手着が欲しいのと、顔を隠すのに丈夫な覆面が欲しいのです。
私のサイズにあったものが用意できますか?」

相良の顔はぱっと輝いた。

「私は異種格闘技の主催者であると同時に世界各国の格闘技の研究家です。
当然格闘に最適な着衣や覆面の研究もして博物館も持っています。
あなたのサイズにあった覆面やレスリング用のユニフォームもあると思います。
女性用の胸を守るサポーターや腹部を守るサポーターもあります。
膝サポーターやシューズもあります。
但し、ヘッドギアの着用は、この大会では禁止になっているので使えません。
今、娘を呼んで案内させます。チャンピオンが決まるまで1時間ほどあると
思いますので、それまでに戻って来て下さい。」


すぐに相良の娘が来た。
モデルをしているだけあって170cm以上の身長でスタイルが良く、整った顔立ちをした美人だった。
相良は誇らしげに渚に娘を紹介した。

「娘の芽衣です。格闘技にも詳しいので、佐野原さんの相談に乗れると思います。」



芽衣の案内で博物館のある階に行くと、女性用の格闘技用着衣専門のコーナーがあった。
空手着にも胸元に紐がついていて、着衣が乱れないようになっていた。
レスリング用のユニフォームやサポーターもあった。
だが、芽衣は渚にある格闘着を見せた。
軽くて非常に丈夫な繊維でできている着衣で上着とパンツが一体化したものだった。
しかし外見は上下に分かれて見えるものだ。
上着も帯で締められた空手着のように見えるが、実は中でつながっているというものだった。
それは、レスリングのような体を接して戦う場合にも、着衣が乱れず簡単に脱げないもので、しかも空手着のような外見をしたものだった。
レスリングのユニフォームのように体の線が出ないが、役割はほぼ同じというものだった。
また、形は空手着に近いが色合いが上下違っていてカジュアルな服を連想するもので、格闘着だとは分からないデザインだった。
これなら着たままでも町を歩けるかもしれない、と渚は思った。
次にシューズも同じように一見スニーカーのように見える靴があった。
これもしっかり紐で結んで、簡単には脱げない丈夫なものだった。
また、パンチンググローブも捜そうとしたので、それは断った。
渚は戦いに拳を使ったことはなかったからだ。
だから易力拳の拳の技はすべて掌で代用したほどだ。
最後に芽衣は最後に頭のサイズにあった覆面を見つけてくれた。
女性用らしく、黄色とピンクで模様のついたものだった。
芽衣は実にてきぱきと選んでくれたので、全部揃えるのに15分とかからなかった。


すると、芽衣は映写資料室というところに渚を連れて行った。

「決勝戦に出ると予想される二人は空手タイプとプライドタイプの選手です。
同じ選手ではありませんが、両タイプの選手の試合の映像があります。」

40インチほどのテレビ画面にその映像を映して見せてくれた。
まずは空手タイプの選手の試合からだった。
空手タイプと言っても、キックボクシングも含めた打撃系の格闘技で離れて戦うのを主としている。
これは渚にもよく理解できた。

次はプライドタイプを見せてもらった。
もちろんこれも殴る蹴るはあるが、最後はレスリングみたいに組み付いて、関節技を極めるのが主な戦い方だった。
渚は男性と体を絡ませて戦うのはしたことがないので、この戦い方は気がすすまないなと思った。

芽衣沙はマウント姿勢について解説してくれた。

「相手に馬乗りになった方が常に有利だと思うのは間違いです。
仰向けに倒れた相手に文字通り馬乗りになって自分の足が相手の腰より上にあれば有利です。
けれども、相手の足が自分の腰より上に絡みついてきた場合は、いくら体勢が上になっても不利なのです。
最初の方は相手をパンチで頭部などを攻撃しやすいです。
でも後の方は逆に相手にわき腹などを手や膝で攻撃されます。
佐野原さんの場合は出場選手に比べて極端に体格が劣るので、その分どの体勢になっても不利だと思います。
なぜなら、上になっても下になっても足の位置にも関わらず、相手のリーチが長いのでパンチが届いてしまうからです。
それに反してそっちのパンチは相手の顔に届かないでしょう。
つまりつかまってしまえば勝ち目はないと思います。」


次に芽衣はトゥレン・ツァ・ロンの試合を5年前から順番に見せてくれた。
驚くべきはトゥレン・ツァ・ロンの体型だった。
身長は180cmほどで格闘家としては普通のサイズだが、筋肉が岩の如く隆々として、まるでボディビラーのような体格だった。
その戦い方は豊富な技とスピードを持ちながら更に凄まじいパワー溢れるものだ。
5年前の13回目のチャンピオンはカポエイラの選手だったが、トゥレン・ツァ・ロンは彼の両足を掴んで、振り回しマットに叩きつけた。
14回目のときのトゥレン・ツァ・ロンは更に筋肉が異常に発達し、『筋肉戦車』というあだ名がついたほどだった。
そのときのチャンピオンはキックボクシングを主にした戦い方だったが、パンチやキックを浴びせても平気で相手の体を捕まえて腕十字固めという技で降参させた。

15回目のときは腕の太さが対戦相手の太ももと同じ太さになっていた。
従って、彼のパンチはキックと同じ威力があり、相手はブロックしても防ぎ切れなかった。
そしてあっという間にチャンピオンの空手家をノックアウトした。

16回目のときの彼の姿はまさしく筋肉の鎧を身に纏った戦士のようだった。
相手はレスリングの選手だったが、体当たりで突き飛ばして、ロープで跳ね返り戻って来たところを水平チョップで胸板を叩いて倒した。相手はそれで既に気を失っていた。


芽衣は言った。

「トゥレン・ツァ・ロンは今年はさらに筋肉をつけて来ました。
私から見ればもう人間の形をしていない気がします。」

「闘技場に戻りましょう」

「そうですね。
佐野原さん、私はあなたの素顔も見たし体も見ましたが、到底トゥレン・ツァ・ロンに勝てる力を持っているとは思えません。
その前にチャンピオンとも対戦するのでしょうが、決勝候補のどちらに当たっても勝ち目があるとは思えません。
でも、父はあなたを信じるようにと言いました。
ですから、全ての試合が終わるまでは私は早まったことはしない積もりです。
ただ祈っています。奇跡がおきることを・・・」

「そうして下さい、芽衣さん。案外奇跡が起こるかもしれませんよ。」




決勝戦は別の場所で行われていた。
渚たちが着いたときは、沢山の観客がいつの間にか集まり会場は満員状態だった。
準決勝まではまばらな観客しかいなかったのに、と渚は思った。
ちょうどプライド系の選手が空手系の選手を膝十字固めという技で降参させたところだった。
両者が30分以上戦った末の決着だったという。
会場では歓喜に騒ぐ者と落胆して項垂れる者がはっきり見て取れて明暗を分けていた。


主催者の相良が渚を連れてリングに上がりマイクを握った。

「ただ今の試合で今回のチャンピオンはレオ・バルデス選手に決まりました。
けれどもグランド・チャンピオンのトゥレン・ツァ・ロン選手に挑戦する前にここにいるミス・パンサーと戦ってもらいます。
これは異種格闘技大会の規約に基づいてあるもので、チャンピオンがグランドチャンピオンに挑戦する実力があるかどうか試すものです。
もし、チャンピオンがミス・パンサーに敗れた場合は、ミスパンサーが代わりにグランド・チャンピオンに挑戦します。
そして、もしグランドチャンピオンが敗れるようなことがあった場合は、次回からは振り出しに戻って、新しくチャンピオンになった者がグランド・チャンピオンとなります。」


これには会場からブーイングが起こっただけでなく、チャンピオンに決まったばかりのレオ・バルデス選手がクレイムをつけた。

「人を馬鹿にするのも大概にしろ!そんな小娘を相手に戦っていれるか!
どうしてもと言うなら、俺と今戦った空手家の根岸竜虎と戦わせてみろ。
彼に勝つことができたなら、相手になってやってもいい。」

会場はその案に納得した。相良は渚の方を向いた。渚は頷いた。
レフリーと共に根岸竜虎がリングに上がってきた。
175cmの身長だが顔も体も真四角と言った印象で、がっちりした体だった。
空手着を着ていて、パンチンググローブをつけていた。
レフリーを挟んで頭一つ低い渚を見下ろしながら竜虎は言った。

「ヘッドギアをつけなくていいのか?」

渚は頷いた。

「見たところ大人には見えないが、その辺は大丈夫なのか?」


「8月に21歳になりましたから大丈夫です。」

「何か失恋したとか、世の中が嫌になったりしたのか?自殺行為だぞ」

「いいえ、それよりも遠慮しないで下さい。私も全力で戦いますから」

「わかった。」



レフリーがルールを説明した。後頭部と頚椎への攻撃は駄目、男性への急所攻撃は駄目。
目潰し・頸絞めは駄目。顔面への肘または膝攻撃は駄目、などなどだった。


「ファイト!」

竜虎は半身になって構えた。
相手を侮らず真剣に立ち向かおうとする態度が、渚には好ましかった。
渚は普段はそういうことをしないのだが、一応構えらしいことをした。
そうしないと礼儀に反すると思ったからだ。

竜虎はいきなり右の前蹴りで渚の胸の辺りを蹴った。
渚は体を半身にして蹴りをかすらせ、竜虎の右足首を両手で掴んだ。
そのまま持ち上げて相手を転倒させる動きを見せたが、すぐ手を放し、懐にステップインした。
渚は肘打ちを竜虎の腹部に入れると、竜虎はロープまで飛んで跳ね返り、マット中央にうつ伏せに倒れた。
渚は背中に跳び乗って相手の顎に両手をかけて持ち上げた。
キャメル・クラッチという技だ。竜虎はタップして降参した。


会場はどよめいた。そして口々に叫んだ。

「プリンセス・ヘルだ!」「佐野原逸香だ!!」

レフリーは二人を並べて手を握ると、渚の手を上げた。

チャンピオンのレオ・バルデスは相良に質問した。

「観客は彼女のことをプリンセス・ヘルとかサノハラとか呼んでいるが、一体なんのことだ?
ミス・パンサーは今の試合を見てもかなりの実力があると見た。
さては名の有るファイターなのか?これから戦う相手のことを知る権利があるから聞いている。」

「残念ながら・・・」

相良は斜め下を向いて言った。

「彼女との約束なので、彼女の正体については詳しく述べることはできない。
ミス・パンサーとだけしか言えない。
だが、今見たように彼女のことを素手で戦えば最強だという者もいる。
あなたも今回の大会で最強のチャンピオンだ。
そして最強同士がぶつかって、どちらが最強かを決める、それだけだ。
そして、その後もう1人の最強が待っている。」

レオ・バルデスはゆっくり頷いた。

「わかった。」



再び渚はリングに上がり、レオ・バルデスと対峙した。
リング下では芽衣が両手を胸の前で合わせていた。

「一度目の奇跡が起きたわ。あと2回奇跡が起きれば・・」


レオ・バルデスは身長185cmで、渚と30cmも違う。
渚の目の前には相手の胸がある。
体重は80キロで、よく締まった体と柔軟な筋肉を持っている。
彼はとにかく渚を掴まえたかった。
グランドの戦いに持っていけば自分の得意分野になるからだ。
レオ・バルデスは間合いの外でボクシングやキックの真似をした。
だが、渚は届かないことがわかっているので、構えたまま動かない。
バルデスはフェイントで頭を狙ってパンチを出す振りをしてから、渚の下半身にタックルした。
渚は膝を出してバルデスの顎をチョンと蹴り上げた。
バルデスは前のめりになってうつ伏せに倒れた。
レフリーがすぐ中に入った。

「膝で顔面を蹴ったら駄目だ。」

「すみません」


バルデスは今度は上から押しつぶそうと右手を渚の頭頂につけてぐいっと下げようとした。
渚は左手でバルデスの右手首を掴んで引き寄せると、右手でバルデスのお腹の辺りに手を当てて、持ち上げて放り投げた。
バルデスはロープ最上段を越えてリング下に転落した。
またも、レフリーが注意をした。

「ロープ最上段からリング下に投げるのも禁止されている。」

「すみません。」


レフリーはバルデスを少し休ませてから試合を再開した。
渚はパンチやキックでない相手の攻め方を見て、自分が打撃で迎え撃つのはどんなものかちょっと迷っていた。
バルデスはまた、渚の下半身にタックルして来た。
反射的に渚はバルデスの顔面を平手でついた。
バルデスは横転して動きが鈍ったので、渚はすぐ攻めることができたが、相手が鼻血を出したので、借りた格闘着が血で汚れるのは嫌だなと思った。
それで、相手に鼻血の止血をして貰うようにレフリーに申し込んだ。

「普通はそのまま続けるんだけれどね」

そう言いながら、セコンドの人に頼んでバルデスの鼻血を止めて貰った。

観客席では芽衣が首を振っていた。

「嫌な予感がするわ。折角の攻撃のチャンスだったのに、それを逃がすなんて・・
佐野原さんは何を考えているのかしら?」


鼻血を止めた後バルデスは再度渚にタックルしてきた。
今度は渚は下半身をがっちり抱えられて、尻餅をついた。


「あっ、駄目!マウント姿勢をとられたら、もう勝ち目はないわ!!」

芽衣は思わず悲鳴をあげた。

バルデスは驚いた。
渚がバルデスの頭に両手を当てるとスルリと下半身が腕から抜けて行ったからだ。
このタックルは外されたことがないので、驚いたのだ。
そして、うつ伏せのバルデスの頭を渚はしゃがんで両膝で挟んだ。
渚はバルデスの背中に逆さから覆いかぶさると、両手で胴体を抱えてそのまま立ち上がった。
バルデスは足をばたばたさせたが、逆さに持ち上げられて、頭は渚の膝の間に挟まれている。
渚はそのまま尻餅を搗くように腰を床に落とした。脳天逆落とし・・・・・いわゆるパイル・ドライバーという、プロレス技だ。
渚はすぐバルデスを仰向けに倒し、背後からスリーパー・ホールド
・・裸絞めを極めた。バルデスはタップして降参した。


「二度目の奇跡が起きたわ。三度目はあるかしら?いや、あってほしい」


芽衣は闘技場の上手の方を見守った。
やがて上手の方から外国の民族音楽のような曲とともにフード付きの黒いマントに包まれた人物が登場した。
身長178cm、体重150kgのグランドチャンピオン、トゥレン・ツァ・ロンその人だった。
筋肉質の体で150kgの体重があるということは、いかに筋肉の量が多いかということになるが、彼はそれを観衆の前で見せようとしていた。
マントに覆われた体は肥大漢のように膨れて見えたが、リングアナウンサーのコールでマントを脱ぎ捨てたとき、観衆は息を呑んだ。
無数の大小の筋肉の塊がうねうねと全身を包んでいて、腕や足が人間の胴体のような太さと重量をもって膨れ上がっている。
それらの筋肉に血を送り込む為に血管が浮き出て網の目のように張り巡らされている。
トゥレン・ツァ・ロンは全身の筋肉を怒張させ、吼えた。

「うおーーーーっっ!!!」

まるでその姿は筋肉でできた獣だった。筋肉獣である。
その後、彼のスタッフ達がリングにブルーシートを広げて敷いた。
そしてトゥレン・ツァ・ロンはビール瓶にタオルを巻いて腕に挟んだ。

「バキーン!」

腕に挟んだビール瓶は割れて中のビールがガラスの破片と共に飛び散った。
彼は反対の腕でもそれをやってみせた。
ブルーシートは片付けられ、5人程のスタッフが手に分厚いフライパンを一つずつ持って並んでいる。
トゥレン・ツァ・ロンはそれを一つ受け取るとグンニャリと内側に向けて真っ二つに折り曲げた。
それをスタッフに戻すと、そのスタッフは二つに折り曲げたフライパンを高々と頭上に差し上げて観客に見せて廻った。
それを次から次へとやってみせて、とうとう5つのフライパンの全てを二つに折り曲げてみせたのだ。

「そろそろ私が上がっても構わないでしょうか?」

渚は相良に尋ねた。
相良の隣に座っていた芽衣は渚に言った。

「もし、あの腕でヘッドロックでもされたら、あなたの頭はあのビール瓶みたいに割れてしまいます。
もし、あの手に掴まったら、体のどの部分を掴まれても、あのフライパンのように・・・」

「芽衣さん、もう良いです。もう一回奇跡が起きることを祈って下さい。
私も全力で戦うだけです。」

自分に挑戦する選手が渚だと知ってトゥレン・ツァ・ロンは少なからず驚いたようだった。
だが、今回のチャンピオンを破って自分に挑戦するのだということをスタッフから聞いて、少し目の色を変えて真剣な顔になった。
そして遂にレフリーが手を上げて試合開始の合図をした。

「ファイト!!」


「バチンッ!!」

トゥレン・ツァ・ロンは右ストレートを渚の頭部に向かって放った。
それを渚は左手で受け止めたが、踏ん張っていた足がリングの床を擦って、ほんの10cmほど後退した。
渚のシューズの底のゴムが摩擦熱で焦げた。
次にトゥレン・ツァ・ロンは左フックを出した。
渚は右手でブロックしたが体ごと左に5mほど飛んだ。
前後には足を踏ん張ることができたが、横方向は弱かったのだ。
試合が開始してから1秒以内のできごとだった。
ロープまで飛んだ渚は咄嗟にロープを掴んで撥ね返らないようにした。
だが、トゥレン・ツァ・ロンは渚に向かって突進して来た。
右廻し蹴りと左後ろ廻し蹴りの連続を高さを変えて来たが、渚は体を低く沈めて2発とも外して凌いだ。
渚は相手の一瞬の隙を衝いて、軸足の右足に足をかけ腹の辺りを一気に押した。
左後ろ廻し蹴りを終えたばかりでようやく正面を向いたときに押されたので、トゥレン・ツァ・ロンは仰向けに倒れながら後方に5mほど飛んだ。
だが床に背中をつけた状態からバネのようにひょいと起き上がると、すぐに構えた。
その顔は渚のパワーに驚いているようだった。
次にトゥレン・ツァ・ロンは組み付いて押しつぶそうとしたらしい。
両手で渚の両肩を掴んで押して来た。
渚は柔らかい体を利用して右足で相手の胸を蹴放した。
だが、体が後ろに飛んだのは渚だった。
渚はロープに背中でぶつかり跳ね返った勢いで、相手の腹に肘打ちをした。
腰を入れてたので、トゥレン・ツァ・ロンは反対端のロープまで飛んだ。
だが筋肉の鎧に守られているために跳ね返って渚の前に立ったときも、両手を広げて全く平気であることをアピールした。
固い綱を編みこんだような腹筋を手で叩いてみせて、笑った。

「筋肉に守られているから平気だ!」

渚は両手の平手でトゥレン・ツァ・ロンのわき腹を挟み打ちした。

「パーン!!」

そこにも珍しく筋肉がついていたが、一瞬相手の呼吸が止まった。
間髪を入れず渚はトゥレン・ツァ・ロンの腹に手を当てた。
観客は『ピクン』と渚の体が僅かに震えたのを見た気がした。
それでトゥレン・ツァ・ロンは膝をついた。
渚は彼の額に手を当て、再度秘拳を放った。
今度は確実にトゥレン・ツァ・ロンは膝を折ったまま仰向けに倒れた。
まるで大きな荷物が倒れるように無造作に床に叩きつけられた。
トゥレン・ツァ・ロンは口から泡を吹いていた。
スタッフ達はリングに上がり彼を5人がかりで運んで行った。
レフリーは渚の手を上げてコールした。

「ミス・パンサー!!」

会場はどよめいた。
相良はリングに上がって、渚の横に立った。


「試合前に申しましたが、ミス・パンサーはグランド・チャンピオンとしての資格を放棄しているため、次回からは出場しません。
次回からは全員初出場のメンバーで大会を行います。」




渚は、目の前の札束を見て当惑していた。相良は500万円あると言った。

「こんなに貰えません。
この・・格闘着が素敵なので、これを貰えればそれで良いです。」

「これは純粋な興行収入からの謝礼です。
決して不法な格闘技賭博などはしていません。
観客が少ないのを疑っているようですが、別会場で大画面モニターで見て貰っているのです。
決勝戦でも会場に入りきらないので、都内何箇所も別会場を設けています。
もっとも、この大会を利用して不当な格闘技賭博をしている組織があるという噂は聞くことがありますが、私達は一切関与していません。
それでなければ17回も続けることはできないですよ。
あなたには、まだお礼をしなければいけないと思っています。
これはほんの規定通りのファイトマネーにすぎませんから。
とりあえず、その格闘着でよかったらお持ち帰り下さい。
芽衣に案内させて、サイズに合うものなら何でも持って帰って下さい。
また改めてご挨拶したいと思います。」



だが、芽衣は渚を博物館に連れて行かずにブティックに連れて行った。
芽衣は辛抱強く渚の意見を聞いて一緒に服選びを考えてくれた。

「佐野原さん。今、とても会いたい人がいませんか?」


芽衣はそんなことを渚に聞いた。
「その人に会いに行くとき、どんな服を着て行きたいですか?
その服が見つかるまでお付き合いします。
そしてその服をプレゼントさせて下さい。」

最後にその服を選んだとき、芽衣は言った。

「やっと出会えましたね。きっとこの服はあなたが来るのをずっと待っていたのだと思いますよ。」

そう言って、その服をカードで買って渚に渡して付け加えた。

「それと、武術関係のものはいつでも必要なときに私に言って下さい。
あの博物館にあるものはいつでもあなたが使えます。
全部持って行っても構いませんが、お部屋に入りきらないでしょう?
だから、博物館に置いておく積りでいて下さい。」

「きょうは本当にありがとう、芽衣さん。」

「いえ、私の方こそありがとうございます。」

夜遅くなって来たので、渚は芽衣と別れて部屋に帰った。




翌日、土木部の仕事があるので道を急いでいると、突然男達に囲まれた。
昨日の6人の若者たちだ。だが、彼らはすぐ後ろに下がった。
そして、彼らの背後から来た男達と入れ替わった。
渚はその男達の目を見て危険だなと思った。
たった3人だったが、もし素手で戦って駄目なら刃物、それでも駄目なら拳銃を持ち出してでも相手を殺してやるという目をしていた。
つまり行く所まで行くという危険な目をしているのだ。
開かれた襟や半袖から刺青がはみ出ている。渚は関わるのは嫌だった。
間合いの外まで跳び退り、掌を広げて相手に向けた。

「なにか私にご用ですか?」

三人とも五分刈りの頭で黒や白や藍色のシャツを着ている。
黒シャツがやや顎を引いて三白眼になると、ゆっくり首を横に振った。

「面倒みてる若いのが、あんたに痛めつけられたって言うんでね。」

「私はいきなり襲われたから自分を守ったまでです」

「そんなことは関係ないんだ。あんた、素人じゃないだろう?」

「どういう意味ですか?」

「命のやりとりをしたことがあるだろう?
わしらを見てもあまり表情を変えない。無表情なんだよ。
相当修羅場を潜ったことがあると見たぜ。」

それは変装マスクのせいだと言おうとしたが、まさかそれは言えない。
それに戦いの場数は踏んでいることは確かだが、その通りだとも言えない。
要するに町のチンピラを手なずけていた地回りのヤクザが、彼らに貸しを作るために乗り出して来たという訳だ。
渚がこの時刻にこの場所を通ると思って、待ち伏せしていたのだろう。
とすると、このコースは通勤コースから外さなければいけない。
それと、ヤクザには関わりあいたくない。この3人をやれば、組全体が動く恐れがある。
武闘会館に通う欠員補充要員の深庄渚として、ヤクザの組と大立ち回りすることは職を失う恐れがある。
とすれば、ここは『36計逃げるに如かず』である。
渚が総合的に情勢判断をしてこの結論に達するまでには1秒もかからなかった。



渚は回れ右をして走った。

「あっ、逃げやがった!」「こら、待て!」

ヤクザは少し追いかけたが、もとより渚の足には追いつかない。
また彼らもしつこくは追いかけなかった。それで十分面子が立ったからだ。

また、もと来た道を引き返して物陰から彼らのやり取りを見ると、ヤクザ達は若者達に案の定『恩』を売っていた。

「また何かあったら言って来い。
だがお前たちもただ頼みごとだけじゃあ、この先男にはなれない。
本物の男は受けた恩義は3倍にして返すもんだ。覚えておけ」

いわゆる『やくざの3倍返し』理論を教育していた。
渚はそっとその場を離れ、違う道を選んで武闘会館に向かった。



「ええっ!!土俵を作るんですか?」

赤鬼は黒達磨の顔を見て首を振った。
担当者の青木という男は紙に印刷したものを渡した。

「材料の土や砂や砂利、それに縄や俵も注文して運んである。
作り方はその書類に書いてあるから、その通りに作ってほしい。明日から3日以内に作って欲しい。」

「だけど、土俵ってのは専門家でないと・・・」

「一応土木部だろう?できなかったら、土木部は解散してもらうしかないけれどな。
きょうは作り方を勉強して明日からとりかかってもらう。」

「はあ・・・」

「今度、武術部に相撲部門ができたんだ。期日までにできないと大変なことになる。
雑に作って土俵が壊れても困る。丁寧にしっかり作ってくれ。
正規の土俵つくりは3日かけるそうだから、がんばってくれ。」

「・・・・・・」


渚が土木部に行くと赤鬼以下10名が頭を抱えている。
赤鬼は書類を見てぼやいている。


「土俵なんて、専門に作る職人がいないとできる訳ないだろう。
しかも直径15尺って言うんだ。えーっと、4m55cmだとよ」

「屋根とか柱も建てるんですか」

そう言ったのは、来たばかりの渚だった。

「いや・・それは・・」

「村の祭りで土俵を作ったとき、手伝ったことがあるよ。
柱や屋根が要らないなら、なんとかなるよ。やってみようよ」

「深庄さん、あんたは救いの神様だよ。」


その日は作り方や段取りを確認して次の日から三日間、渚たちは土俵作りをに精を出した。
自然と渚が監督のような立場になり、みんなが渚を頼りにしたので、家政婦の仕事が入っていたが、無理を言って変えてもらった。
俵を埋め込み、その縁に土をつけて叩いて固めると、立派な土俵ができた。
渚も皆に声をかけて最後の点検をしていた。

「俵に巻いた縄の結び目は下にして隠れていますね?
得俵や上り口の俵も砂利がびっしり詰まって、しっかりしてますね?」

みんなで色々点検して大丈夫ということになった。
赤鬼が黒達磨に言った。

「おい、実際に相撲を取って試してみないか?
足元の砂の加減がいいかどうか見たいしよ。」

「そうだな、いっちょうやってみるか」

二人が四股を踏んで、取っ組み合いを始めると、他の者は土俵の周りでやんややんやと声援を始めた。
渚は離れた所で見ていて、あの後土俵の上を均して再度仕上げなければいけないなと考えていた。
すると、どこからともなく大男が現れて土俵に駆け上がると、赤鬼と黒達磨の襟首を掴んで土俵の下へ放り投げた。

「貴様ら!!土俵開きする前に、土俵を汚すとはどういう積もりだ!!」


その大男は190cmほどの身長だが、体の横幅は90cmほどもあり、普通のドアなら通り抜けられずにつっかえてしまうほど太っていた。
その大男が土俵の下でひっくり返っている赤鬼と黒達磨に近づくといきなり平手で二人を叩き始めた。



二人を叩いている大男の所に何者かがぶつかって来た。
そして大男が急に3mほど飛ばされた。渚が突き飛ばしたのだ。
突き飛ばされて転倒した大男に向かって渚は言った。

「やめて下さい。土俵を汚しているのはあなたじゃないですか!!」

起き上がった大男は渚を睨みつけた。

「なんだと!!いつ俺が?!」

「土俵を苦労して作っている人を叩くなんて、これ以上の汚し方はないと思います。」

「こいつらが作っているって?」

「そうです。この土俵は今日中に完成する予定で、まだできあがっていません。
足場がしっかりしているかどうか、実際に二人がかりで取っ組み合いをして試してみたんです。」

大男のトーンが少し低くなった。
どうやら別の職人が作った土俵の上で通りがかった者が相撲を取ったと勘違いしたらしい。
だが、彼も引っ込みがつかないようだった。

「だが、土俵開き前に相撲を取るなんてのは・・」

「できあがった土俵の上で土俵開き前に相撲を取るのはよくないことでしょう。
でも、まだ途中です。この後土均しをして完成した後、トラロープを張ります。
そして注文主に引き渡します。
それ以前に私たちが土俵の上で飛んだり跳ねたりしても汚したことにはならないのです。
まだ製作途中の土俵なんですから、土俵とは言えないからです。」

大男は顔を赤くして体を震わせた。

「やい、女!こ・・・小娘のくせに達者な口をききおって!
し・・神聖な土俵を作るのに女が手を出すとは、な・・何事だ!
それを、どう説明する?」

渚は、悲しそうに赤鬼と黒達磨の顔を見た。そして大男に言った。

「どうして女が土俵を作ってはいけないのですか?」

「女は不浄の者だ。それこそ土俵を汚すことになるからだ。」

「それじゃあ、土俵開きは何の為にするのですか?」

「土俵を清めて使えるようにするためだ。」

「それじゃあ、土俵開きのときに神主さんにお願いすればいいじゃないですか。
この土俵は女が監督して作った土俵だから清めて下さいと。」


「な・・なに!」

「それに土木部にこの依頼が入ったときに,私が土俵造りに加わることは依頼主も知っていた筈です。
それが駄目だというのなら、この土俵を依頼主に見せて私たちが労賃を貰った後、造り直すなりお好きなようにして貰って下さい。
そうすると、土俵開きはもう3・4日遅れるとは思いますが。」

「く・・くそー!!女は口が達者だ。やい、女!!
さっきはよくも突き飛ばしてくれたな!!」

「私は深庄と言います。あなたはなんと言うお名前ですか?」

「な・・なんだ?急に・」

「私のことを『女』と言ってばかりいるので、名前をお知らせしたんです。」

「俺は、さか・・・天野と言う。そんなことはどうでもいい。
さっきはよくも突き飛ばしたな!!」

「それはごめんなさい。本当にごめんなさい。
でもこの二人を叩いていたからやめさせたかったので、しょうがないじゃありませんか?
天野さんも誤解があったとはいえ、二人を投げたり叩いたりしたので謝って頂けませんか?」

「う・・それは」

「お願いです。私も天野さんに謝ったじゃありませんか?」

天野はしばらく肩で息をしていたが、二人の前に来ると大声で怒鳴った。

「悪かったなっ!!これで良いか!!」

そして立ち去り際に渚を睨みつけた。

「おい。ふ・・深庄と言ったな。土俵開きには必ず顔を出せよ。
作った者も当然参加しなきゃいけない。担当の者にも言っておくからな。」



天野が行った後、赤鬼が手をポンと打った。

「そうだ。どこかで見たことがあったと思ったら、ありゃ逆巻灘(さかまきなだ)だ。」

すると黒達磨も大きく頷いた。

「髷を結ってなかったからわからなかった。十両で、傷害事件を起こして相撲界から追放された男だよ。」

「プロの関取だったんですか?」

渚は驚いて聞き返した。赤鬼は説明した。

「十両で優勝したときに幕内力士になれるはずだったんだが、酒に酔って暴れて一般人を何人も怪我させてしまったんだ。
それで相撲協会も除名処分にしたんだ。それが、武闘会に拾われるとはなあ。」

黒達磨も相槌を打った。

「武闘会なら相撲協会の規則に縛られないだろう。
確かに実力のある力士なんて、捜しても簡単には見つからない。
逆巻灘なら将来の横綱と期待されていた逸材だからなあ。」

「ところで補充要員の私でも土俵開きに顔を出さなければいけないんでしょうか?」

渚が言うと、他の者達は一斉に頷いた。

「だって、あんたは総監督だったろう?」



土俵開きの当日が来た。渚はもちろん土木部の10人も全員顔を出した。
神主は幣を持って払い、祝詞をあげる。施工主を代表して青木、力士を代表して天野、工事者を代表して渚がそれぞれ玉串を捧げた。
その後、太鼓を鳴らし邪気払いを済ませると、青木が挨拶をする。

「担当の青木です。この度、武闘会に相撲部門が新設され、このように土俵開きもでき大変嬉しく思っております。
この後早速初相撲をして頂き、土俵を使って頂きたいと思います。
力士を代表して天野が初相撲で提案があると言うので説明してもらいます。」

天野が大きな体を揺すって出て来た。既に廻しを締めている。

「えー、このたびは、この土俵を作って下さった土木部の皆さんに感謝を込めて、その方たちと初相撲を取りたいと思います。
どうかお1人ずつ出て来て下さい。」

赤鬼が恐る恐る土俵にあがると、天野は四つに組んで赤鬼に押し出しをさせた。
得俵で踏ん張って見せて、ふわりと持ち上げ「うっちゃり」で赤鬼を土俵の外に出した。
赤鬼が転ばないようにそっと下ろした。
天野はにっこり笑って言った。

「得俵の調子も良いみたいですなあ。」

次の黒達磨では一度押されて見せるが、つり出して勝つ。
残りの8人も似たような展開で、最初は負けて見せて最後はやんわりと持ち上げたり、そっと投げたりして勝ってみせた。

「これで、土俵の引継ぎができましたね」

青木が笑って言うと、天野は首を横に振った。

「いえ、工事の総監督がまだ出てきてません。深庄さん、どうぞ」

渚は天野に向かって肩をすくめた。


「女の私が土俵に上がると汚れるのでは?」

「そんなことはありません。この土俵も喜んでくれると思います。」


だが、そういう天野の目の奥に何か怪しい光を感じた渚は警戒した。

「それじゃあ参加させて頂きます。
でも、最後くらいは勝たせてくれるんでしょうね?」

「それは勝負をしてみなければわかりませんよ。」

天野は目の奥でにんまりと笑った。渚は悟った。何か企んでいるなと。
天野は先に両手をついて待っていた。渚は片手をついて考えた。
何かされる前に勝ってしまおうと・・。
立会いの時が勝負だ、と思った渚は、両手を土につけた途端動いた。
まだ天野が立ち上がらないうちに、渚は前に飛び出し相手の両肩をドンと押した。
天野は後ろに尻餅をついてしまった。

「ありがとう。天野さん、勝たせてくれて」

天野はいやいやとか言って誤魔化していたが、目は笑ってなかった。



土俵開きが終わって渚は帰り道を急いでいた。
その途中で天野は待ち伏せしていた。

「素人に負けたとあっちゃ、俺の沽券に関わるんだよ」

「やっぱりあのとき本気で私を投げ飛ばす気だったんですね。」

「そうよ。あのとき突き飛ばされて転んだときは大恥をかかせてくれたな。
そのお礼をしてやろうとしたら、またしてもやられた。
もう勘弁できない。もう一回勝負しろ!!」

「土俵のないところで勝負ですか?
それじゃあ、ストリート・ファイトじゃないですか。
天野さんは得意の相撲でやるんでしょう?
じゃあ、私も得意な武術を使って戦いますよ。
いいですか、それで?」

「まて、ここは場所が悪い。すぐそこに良い場所がある。ついて来い。」

ついて行くと、確かに草に覆われた空き地があった。
周りは木に囲まれ人目にもつかない。

「言っとくが、お前が女で体が小さくて、まだ全然若いなんてことは、勝負には関係ないからな。」

「こういうときには差別しないんですね、逆巻灘関」

「うっ・・・知っていたのか?」

「いや、土木部の人たちが言ってたから」

「行くぞ・・・いや・・お前が来い」

「それほどしたいわけじゃあ・・」

「じゃあ、俺から行く。見てろ!」

天野が突進して来た。
渚は右に跳んで、天野が向き直る前に横腹に両手を当て突き飛ばした。
天野は巨体を横向きのまま飛ばされた。5mほど飛んで思い切り転んだ。
天野は起き上がると、怒りだした。

「こらっ!!避けるな。正々堂々とぶつかり合わないか!!」

「それはさっきやったじゃないですか?」


「あれも先手必勝の奇策だ。」

「まともにぶつかれば体重の軽い方が飛ぶに決まってます。
それに、あまりぶつかりたくない訳があるんです。」

「なんだ、それは?」

「その・・化粧が剥げたり、着てるものが脱げるとか・・」

「やめた。馬鹿らしくなった。それに勝負はついてるし」

「ちょっと待って下さい。やってみましょう。」

「やってみるって、何を?」

「そのまともにぶつかったらどうなるか?」

「お前も変わってるなあ。今、ぶつかりたくないって言ったばかりじゃないか」

「1回だけぶつかってみましょう。私もやったことがないので。
たぶん私が飛ばされると思いますが、結果どうなってもそれでやめましょう。」

「わかった。一回だけやってみよう。じゃあ、こっから行くぞ!!」

「はい、どうぞ!」

渚は、足を踏ん張って体勢を低く構えた。
地球を味方にすればどうなるか見たかったのだ。
向かって来る天野に渚はこっちからも飛びこんで行った。

「ドスッ!!」


渚は飛ばされなかった。だが、前のめりになった体は起こされた。
渚が先に潜ったので、両手を相手の腹につけることができた。
渚の後ろ足を支点にして、天野の体が持ち上がり前方に浮き上がった。
そのままだと天野の体はうつ伏せに落ちて、渚は仰向けに倒れ下敷きになる。
だが、渚は体を一旦僅かに反らせた後、すぐ伸ばした。
その時はもう後方45度に渚の体も倒れかけていた。
渚が手を当てた場所が天野の重心よりも下だったらしく、天野の体が前方宙返りのように回転して背中から地面に落ちて行った。
200キロ近い巨体が地響きを立てて地面に衝突した。
渚は後ろに倒れそうだったが、体を反らせてブリッジのような形になりながらも、頭は地面に着けずに体を直立姿勢に戻した。

「できた!!」

渚は思わず叫んだ。


「な・・・何ができただ。いててて・・」

天野は自分の体重のため衝撃が大きかったらしく、かなり痛そうに立ち上がった。


「今のは・・・反り投げの一種か?巴投げでもスープレックスでもない。
見たことない技だ。それに余程の怪力がなければできない技だ。
それに・・・よく転ばずに立ち直ったな。体が柔らかいっていうか・・・」

「天野さん、今のは偶然できたんです。天野さんのお陰です。あっ・・・」

渚は急に顔を背けた。顔マスクが剥がれかけたからだ。

「な・・なんだ・・?化粧でも剥げたか?」

「い・・いや、もう大丈夫です。」

「おい、深庄・・さんよ。俺はあんんたが気に入った。だが、変な意味じゃないぞ。
あんたは女だが・・・そういう意味じゃなくて、あんたみたいな強い奴は初めてだから気に入ったんだ。
一緒に飲みに行こう!
青木さんに聞いたけど、もう21歳だからアルコールはOKなんだろう?」

まさか本当の自分は来年の3月3日に17歳になるとも言えず、天野が肩に回した手を振りほどけもせず、そのまま夜の街に連れて行かれた。


「あんたが男だったら綺麗どころが揃っている所へ案内するんだが、女のあんたには失礼だから女っ気がないところにしよう。」

「いや、別に良いですよ。
私はそういうこと気にしないから、行きたい所へ行って下さい。」

渚がそう答えたのは、酔った天野を相手にしてくれる女性がいた方が自分が楽だと思ったからだ。
天野は喜んで大きな店に渚を引っ張って行った。
店に行くと女の子が二人付いた。ベテランのナオミという女性が天野に付き、新人のカナエという女性が渚の横に座った。
天野は渚と向かい合わせになり、ウィスキーのボトルを取って水割りを作って寄越す。
だが、渚はそれは口をつける真似だけして飲まず、カナエに頼んでノンアルコールのカクテルを作ってもらいそれを飲んだ。

「あんたみたいな強い女はいないよ。いや・・・まてよ。いるとすれば、あれだ。
プ・・プリンセス・・・ヘ・・ヘ・・」

「ヘル・・・でしょ。その名前はここでは禁句よ」

ナオミが声を低くして天野の唇に人差し指を当てた。だが、天野はピッチが速かったので酔っていた。
声のトーンは下がらなかった。

「そうだ!プリンセス・ヘルだ。あの女は強い!だがあんたも同じくらい強い!」

「駄目よ。向こうの席でその名前を聞くと機嫌が悪くなる人たちがいるから・・」

ナオミが止めたが、天野は聞いちゃあいない。


「なにが悪いんだ。会話の流れで出て来たんだ。げ・・・言論の自由じゃないか。
プリンセス・ヘル!プリンセス・ヘル!プリンセス・ヘル!!
これの何処が悪い!?」

「ガッシャーン!!!」

いきなり渚たちのテーブルが蹴られた。

「誰が強いって?!おい、デブ。もう一度言ってみろ。」

ボックス席にやって来たのは3人くらいだと思ったが、向こうの大きな席から更に10人くらいの男達がやって来た。

「だから言ったのに、カナエちゃん行くよ。」

ナオミはカナエを誘ってすぐ逃げ出した。
天野は渚のカクテルグラスをそっと持ち上げて、半分くらいこぼれているのを見て顔をしかめた。
だが、それを渚に手渡すと、自分はウィスキーのボトルの口を閉めて座席の横に置く。

「おい、なんとか言ったらどうなんだ!?誰が強いって?!」


男はわざと腕をまくって刺青を見せた。
天野は目の前の3人の男を見るとにんまりと笑って言った。

「それはね。プリンセス・ヘルだよ!」

そう言った途端男達は動き出したが、それよりも早く天野はテーブルの天板を下から撥ね上げた。

「バキッ!!」

テーブルは床に固定されていたらしいが、止めていた螺子釘ごとすっぽ抜けた。
テーブルの上に載っていたオードブル・グラス・水差し・氷も一緒になって、テーブルの天板が男達にぶつかった。
渚はカクテルグラスを掴んだまま凍りついた。困ったことになったと思った。
天野は椅子の上に置いたボトルを渚に向かって放った。渚はそれを受け取る。
天野は次に3人掛けの椅子を持ち上げると、後から走って来る別の男達に向かって投げた。
ぶつかった男達が何人か倒れた。
渚はすぐ左手にカクテルグラス、右手にボトルを持って椅子から立ち上がった。
天野は今渚が座っていた椅子を持ち上げて、それも男達に向かって投げた。

「天野さん、逃げましょう!!相手が悪いです。」

渚はグラスもボトルも足元に置いて天野の手を引っ張って走り出した。

「待て待て、逃げる前に確かめたいことがある。」

「なんですか?急いで下さい」

天野は入り口近くの大きな椅子を掴むとそれを高く差し上げて、追って来る男達の方に構えた。

「深庄さん、俺のズボンの右ポケットに財布がある。
そこからとりあえず一万円出して、そこで震えているナオミに渡してくれ。
で、勘定がそれで足りるかどうか確かめてくれ」

渚は言うとおりにして金額が合ってるかどうか聞いた。ナオミは答えた。

「いいです。これで。」

「いいそうです。だから早く逃げましょう天野さん、確かめたんですから」

「違う。確かめたいのはそんなことじゃない。やい、お前ら」

そういうと、天野は男達の方に言った。

「おい、あんたらよ・・・
なぜ、プリンセス・ヘルの名前を聞くと頭に来るんだ?」

すると男達の背後から年配の男の声が聞こえた。

「教えとこう。賭けをしたんだよ。1000万円ほど出してな。
そのプリンセス・ヘルとかが出て来なければ3倍ほどに増えたはずだったのさ。」

「そうかい。俺だったら、プリンセス・ヘルに賭けてたね。
ま、負けることもあるから賭けなんだよ。
それは自分たちのせいで、俺のせいじゃあない。」

「なにいーっ!!」

男達が2・3人前に飛び出て来たところに天野は椅子を投げつけた。

「逃げるぞ!!深庄さん」


足は渚の方が速かったが、まさか天野を置いても行けず、待ちながら逃げた。
だが、天野は追いつかれそうになると立ち止まり、物をぶつけたり体当たりして追っ手に痛手を与えて行ったので、だんだん追って来る者が減って来た。

だが、逃げ込んだ町が不案内だったので、袋小路に迷い込んでしまった。
一度減った追っ手の数もまた復活して大勢になって迫って来る。
渚は2m半ほどある塀を駆け上った。

「器用なことするねえ、深庄さん」

「天野さん、手を出して下さい。引っ張ってあげますから」

「いくらなんでもそりゃ無理でしょう」

「やってみなければわからないでしょう」

天野の手を掴むと、塀の上にしゃがんだ渚は踏ん張った足を伸ばしながら、後ろに反った。
天野の体は塀を越えて反対側に渚と一緒に落ちて行った。
狭い塀の上ではバランスが取れなかったのだ。
だが、先に足を下にして落ちた渚は逆さまに落ちてくる天野を受け止めて、地面にそっと下ろした。

「いててて・・・今、塀の上で腹をぶつけて、こすった・・」

「行きましょう。すぐ乗り越えて来ます。」

「悪い。先に逃げてくれ。ちょっと動けない」

渚が言った通り塀の向こう側では、男達の声が聞こえた。

「あの女、普通の女じゃなねえぞ。あのでかいのを引っ張りあげたの見ただろ。」

「おい、台になれ。」「よし、行け。」「逃がすんじゃねえ!!」

男達は塀の上に顔を出し始めた。だが、天野は腹をぶつけて動けない。
仕方なしに渚は塀を乗り越えて来た最初の男の腹を蹴放して壁にぶつけた。
男は後頭部と背中を塀の壁に打ち付けてその場に崩れた。

「ああ、どうしよう。こういうのと関わり合いたくないんだけれど」

渚は天野に聞かせるように愚痴をこぼした。
2番目と3番目の男が降りて来た。
うずくまっている天野を見て蹴りを入れようとしたので2番目の男を跳びあがりざまの回し蹴りで頭をヒットさせた。
そんなに強く蹴らなかったが、それで十分気絶した。
3番目の男が殴りかかって来たのを掴まえて持ち上げたとき、4番目の男と5番目の男が塀から顔を出したので、彼らに向かって放り投げた。
「わっ!!」「ひぇっ!!」
面倒なので渚は天野を担いだ。
「な・・何をする積りだ?深庄さん」
「もう・・担いで走るよ」
「そんな無茶な・俺は198キロあるんだ。」
200キロでいいのに、そんなスーパーの特売値段みたいな数字を言わなくても・・・と渚は思った。

だが渚は天野を頭上に持ち上げると、そのまま走り出した。
うつ伏せのままの天野の胴体を持って走り出した渚は自分の足音がズンズン地響きを立てているのを聞いていた。

「な・・なんか俺スーパーマンになって飛んでいるみたいだな。」

「なに呑気なこと言ってるんですか。」


1キロくらい走った後、渚は天野を下ろした。

「ふー、ここまで来ればもう大丈夫です。後はタクシーでも拾って帰って下さい。
私は歩いて帰ります。」

渚がそう言っている間、天野は渚の顔をまじまじと見つめて驚いている。


「深庄さん・・あんた顔が違うよ。子供みたいな顔になってる」

渚は思わず顔に手を当てた。顔マスクが取れていたのだ。


渚は顔マスクが外れていたことへの動揺を隠し平静を装った。

「何を言ってるんですか、天野さん?私可愛いですか?」

「お・・おう。可愛く見える。アイドルみたいだ。」

「それは、天野さんが酔っ払っているからですよ。」

「そうか。ずっと酔っ払っていたい気分だ。」

「いい加減にして下さいよ。それじゃあ、私は行きますから」

天野と別れた後、渚は来た道を引き返し始めた。
幸い追っ手の男達とは会わなかった。
例の塀の所に来ると草むらに顔マスクが落ちていた。男達の姿はもうない。
足元が暗かったため、よほど気をつけないとわからなかった。
拾ってみると、ゴミのように踏みつけられていたせいか、相当傷んでいた。

「困ったなあ、明日からどうしよう?」

渚は肩をすくめた。



「あら・・何かご用ですか、お婆さん?」

五十嵐綾芽は部屋に入って来た老婆に驚いた。

「私ですよ、五十嵐さん」

老婆が顔マスクを外すと渚の顔が現れた。
ついでに白髪のウィッグや首に巻いていたネッカチーフ、薄手の手袋なども脱いだ。

「渚さんだったの?いったいどうしたの。いつもの小太り娘は?」

「それが・・・」



五十嵐は渚にコーヒーを勧めながら、自分でも口をつけた。

「そうだったの。やくざ屋さんにね。そりゃ、厄介だね。
渚さん、一度殺されかけたのに、まだ懲りないのですか?
お馬鹿としか言いようがないなあ。
第一なんで本当は未成年なのに、ほいほいとその相撲取りについて行ったの。
しかもそんな店なんかに。」

渚は考えた。なぜついて行ったんだろうと。それで思い出した。

「その天野って人が、私が女とかそういう意味ではなくて、気に入ったって言ってくれたのが、嬉しかったのかなって・・・今思えば・・です。」

「じゃあ、あなたもその相撲取りが気に入ったの?」

「その・・・男の人としてではなくて・・格闘技仲間みたいな感じで・・・」

「わかりました。あなたは本当にそういう脆いところがあるんだよね。
つまり淋しがり屋なの。1人でも生きていくという反面ね・・・。
だから、そういう言葉に弱いんですよ。自分の弱点を知っておくことね。
でも、顔マスクが壊れたのは正解ですね。もう、それ使えないわよ。」

「でも、前の顔があるからマスクをして・・・」

「あれも捨てた方がいいです。太り体型のスポンジもゴミに出すこと。
渚さんは武闘会の中なら大丈夫だと思っているらしいけれど、とんでもない。
ここは外部の者が簡単に出入りできるし、天野って元力士がここにいるって
わかるのは時間の問題だよ。
そうすれば芋づる式にあなたの面が割れる。
あのお方たちは、面子を一番大事にするから、テーブルや椅子をぶつけられて、そのまま許してくれると思う?」

「お・・思わないです。だから、私もとんでもないことに巻き込まれたなって」

「そのナオミとかカナエとかいうホステスさんと一緒に逃げればよかったんだよ。
あなたが侠気を出して、天野を見捨てなかった気持ちはわかるけれど、御身が一番だってこと忘れちゃいけないよ。」

「どうしよう。天野さんが危ない。」

「駄目ですよ、また助けようとしたら。
天野は有名人のうちに入るから、逃げる所はないと思う。
調べれば故郷でも実家でもすぐわかってしまうから、掴まるね。」

「どこの組かわかれば、それを事務所ごと全滅させるとか・・」

「あなた・・17にもなって、小学生の発想しかできないんですか?
あなたが全滅させたはずの、なんとか興行がヒットマンを雇ったんでしたよね」

「そうでした・・」

「いくら腕に自信があっても、カラスとやくざには構わない方が利口です。
よく肝に銘じておいて下さいね。よし、今回は私がなんとかしてあげますから、
もう二度と、そんな馬鹿な真似はしないで下さいね。」

「はい・・・」

五十嵐にさんざん油を絞られて渚はすっかり意気消沈してしまった。


五十嵐は書類を調べていた。

「深庄渚の戸籍を調べると祖母にあたる深庄琴乃(ふかじょうことの)という72才のお婆さんが生きていることになっているよね。
そのお婆さんが故郷から出て来て孫娘のところに転がり込んだことにしましょう。
住民票は移していないけれど長期滞在しちゃうの。
そして、孫娘のあなたはちょっと何かのクイズで海外旅行が当選してしばらく出かける。
それで孫娘のあけた仕事の穴は祖母が埋めることになったってことに強引に持っていくわ。
臨時の代理だから難しい書類はいらないと思う。
それだけでどのくらいの期間持つかわからないけれど、やってみてごらん。
とりあえず、エリクソンのカウンセリングで老婆の心理や喋り方動作を身につけてもらうわ。」

そこまで説明すると五十嵐は渚をゆったりした椅子に座らせた。

「ところで五十嵐さん、エリクソンって五十嵐さんが考え付いた方法なんですか?」

「エリクソンって人の名前だよ。
つまりこのやり方はエリクソンって人が考えたんだよ。
この人は病気でね、手足が殆ど動かなかったの。
でも頭がとってもいいから、人の心の観察が上手で心の奥底にある色々な人格を引き出す方法を知っていたのよ。
で、私はある大学の心理教室でエリクソンのやり方を一般公開講座で教えてくれるというので、お金を払って習いに行ったわけ。
でも、水を飲んだら砂糖水の味がするというような初歩的なことはできても、人格変換まではとても難しいとされているんだけれど、私は簡単にできたの。
どうしてだと思う?
だって、人格変換は私が演技の上で普段からやっていることだから。
経験的にその感覚がわかるの。だから人にもその状態を導ける。
なんでも人格変換に関してだけは教えてくれた大学の先生よりも上手らしいんだ。
私くらいできる人は全国でも何人もいないそうだよ。」

「すごいですね。」

「じゃあ、まず呼吸法からやって行こうよ。」


渚が完全にリラックスしてから五十嵐は静かに語りかけた。

「あなたが今まで出会ったお年寄りの中で、よく知っているお婆さんは誰ですか?
その人の声の質や喋り方を覚えていますか?どんな癖や身振りをしてたでしょうか?
もちろん、あなたはそのお婆さんの事が好きなんでしょうね。
さあ、この香水の香りを嗅いでリラックスしてください。
あなたがそのお婆さんの顔マスクをつけるときには、お婆さんの喋り方や動作ができるようになります。」


「五十嵐さん・・どうもありがとうね。じゃあ、私は行くから・・」

「待って、首筋と手は隠してね。きょうはこの間延期した家政婦のしごとだから」




渚は家政婦部の事務所で担当の中年女性と話していた。

「21才の深庄さんが来る思ったら、72才の深庄さんが来たんですか?」

「大丈夫でございますよ。体はいたって健康ですから、できますとも。」

「お孫さんはいつ戻って来るんですか?」

「2・3週間で戻って来ると思いますけれど、その間は私が代わりに働きますのでなんとか宜しくお願いいたしますよ。ねえ、あなた梶原さんでしたよね」


「そうですね。一応映画部の部長さんの依頼書もついていることだし・・」

「あっ、これ。そこの売店で買って来たお饅頭ですけれど、よかったら食べて下さいね。」

「あら、すみませんね、そんなお気遣いは宜しいんですのに。」

「ところで、どんなお宅に伺えば宜しいんですの?」

「そうそうそれね・・ちょっと待って下さいよ」

胸に梶原の名札をつけたその事務員は書類綴りをめくった。

「武闘会館の家政婦部は会館内にある、役員の公宅と外部にある私宅の両方を担当しているんだけれど、深庄さんには公宅の方を・・・あら、社長の公宅だわ。
よりによってこんなのが廻ってくるとはねえ。」

「あら、梶原さん・・・教えて下さいな。何か問題でもございますんですの?」

梶原は眉間に皺を寄せて声を低めた。

「ここには若くて綺麗な家政婦は絶対送らないことになっているんです。
社長が手が早くて今まで何人も・・・・」

「あらまあ、それなら私なら大丈夫でございますわね。
こんなお婆ちゃんですし。孫が戻って来ても大丈夫だと思いますわ。あの子は器量が良くないですから。」


「それはクリアされるんですけれど、気に入らない家政婦が行くとどういう訳かお孫さんを呼んで世話をさせるんですよ。その孫というのが有名な性悪で・・・」

「まあ、お幾つなんでございますの?」

「男のお子さんですけれど、家政婦仲間では『ギドラ』とか『デビル』とか言われている7才の子です。
とにかく幾ら掃除しても暴れまわるし、散らかすし、物は壊すし、家政婦に悪戯するし、一回行けば誰でもぼろぼろになって帰って来ます。深庄さんの場合体力や気力が持つかどうか・・・・」

「私も体力なら若い人には負けませんよ。それで、することは何でしょうか?」

「社長が待っていると思うので、直接聞いて下さい。
なんでも行く人によって、さまざまな要求をするみたいで・・・」

「そのお孫さんはきっと社長さんに似たんでしょうねえ」

「耐え切れなかったら、途中で戻って来ても構いませんから、それでは宜しくお願いします」


梶原に公宅の場所を聞いて、渚は早速そこへ向かった。

公宅はすぐ分かった。大きな家だが何かのっぺらぼうな感じの家だった。
大きな表札に『武闘会社長宅』と書いてあって、その下に『武田闘司』とあった。
なるほど『武闘会』というのは社長の名前から来ているのか、と渚は思った。
チャイムを押すと、インターホーンから男の野太い声が聞こえた。

「誰だ?どこの婆さんだ?」

渚がよく見るとカメラのレンズが正面にある。

「家政婦部から来たんですがね。深庄と申します。よろしくお願いします。」

「帰ってくれ。婆さんじゃ役に立たない。」

「なんですか、社長さんは若い娘の方が良かったんでございますか?
はて、若い娘の方が良いってどんなお仕事なんでしょうね?
私は大抵のことはできますですよ。それじゃあ、入らせてもらいますよ」

「ドアはロックされてるから開かない。帰ってくれ。」

「武田さん、それじゃあ私は納得できませんですよ。
若い娘にできて、この私にできない家事ってどんなことでしょうかねえ。
それを聞いて私がごもっともだと納得できたら退散いたしますけれど。
まさか武田闘司さん、あなたは家事以外のことをさせようとしているのじゃないでしょうね?」

「な・・・何を言ってるか!!
うちの孫の面倒をみなきゃいけないから、年寄りには無理だと言ってるんだ。」

「あれまあ、そのお孫さんは家政婦は若い娘の方が良いと仰ってるんですか?」

「そうじゃないが、うちの孫はやんちゃだから年寄りには体が持たないと言ってるんだよ。」

「あいにく私は体だけは丈夫でねえ。社長さん、お気遣い無用でございますよ。
だからドアを開けて下さいませんか。お願いしますよ。」

「もう勝手にしろ!!今開けるから入って来い。後で後悔しても知らんぞ。」

ドアロックがカチッと外れる音がしたので、渚は中に入って行った。
中に入ると誰もいないので靴を脱いで居間に入ると、ソファにふんぞり返っている男がいる。
顔は非常に不機嫌な色をして、渚の方を見ようともしない。

「社長さんの武田さんでございますか?初めまして深庄と申します。
どうぞ宜しくお願い致します。」

渚は男の正面に廻ると丁寧に挨拶した。男は苦りきった顔をしている。
渚は男を観察した。年齢は50代後半だろうか、濃い眉毛に大きな目と獅子鼻、への字に結んだ大きな口。そして骨太な体で岩を思わせるがっちりした体格。
武芸百般に通じるという話を聞いたこともあるので、なるほどと思った。
だが、若い女には目が無いというのは武芸家としてはしまりがない話だ。

「社長さん、お孫さんはどちらにいらっしゃるのですか?」

「孫の名前は徹(とおる)と言う。さっき呼んだからじきに来るだろう。
家の中を汚すと思うから、片付けてやってくれ。決して怒らないこと。
叩くのも駄目だ。昼には何か好きなものを食べさせてやってくれ。
おやつを欲しがったら自由に与えていい。冷蔵庫に食材やおやつが入っている。
5時過ぎになったら親が迎えに来る。そしたらあんたも帰って良い。
そこの封筒に5000円入っている。何か買わなければいけないものがあったら使ってくれ。但し領収書かレシートは入れておいてくれ。
何も使ってないのに金がなくなるようなことだけはないようにしてくれ。
わしはこれから出かける。
あんたの仕事ぶりは後で知ることになるが、あれだけの口を利いたんだ。
途中で逃げ出すようなことだけはやめてもらおう。」

そう言うと武田はさっさと玄関から出て行った。
渚は玄関の画像を見て、社長が出て行くところを確認した。
モニター画面の傍にドアロックのボタンがあったので、それを押してロックした。
そして、家の中を見回った。
台所や風呂場などの水周りを見て、居間以外の部屋も見回った。
一つの部屋はオモチャが山積みになっていた。
渚はオモチャを一つ一つ手に取って見た。それから、渚は掃除を始めた。
家具を動かしながら、掃除機をかけて行く。
すると隅っこから探偵ノートというのが出て来た。
埃を被っていたのをふき取ってみると、1年前の日付が書いてあった。
中を見ると『たけだとおる』と書いてある。孫の名前だ。
『ちょうさこうもく』という所に、誕生日や好きなものを書き込むところがあって、自分のことを書き込むようになっているらしい。
そこにも細かい字で色々と詳しく書き込んでいた。
それをビニール袋に入れるとエプロンのポケットに入れた。
一通り居間や部屋を掃除した後、水周りを見た。トイレ掃除をして便器をピカピカに磨くと、台所のシンクの排水口に溜まったゴミを取り除いた。
ステンレスのシンクは重曹があったので、それでピカピカに磨く。
風呂場も排水口の髪の毛などを取り除いて湯船やタイルを洗った。
冷蔵庫の中も調べて傷んだ食材は捨てた。食器棚の食器もヒビの入ったものを捨てた。
鍋や食器や調味料の並べ方を整える。そして冷蔵庫も食器棚も中を拭き掃除した。
そのときチャイムが鳴った。


渚はモニターを見ると7才くらいの男の子が威張って立っていた。

「はい?どちら様でしょうか?」

「いいから、さっさと開けろ!」

まるでさっきの社長と同じ口調だったので、渚は可笑しくなった。


「と申しましても、知らない人を中に入れてはいけないことになってますので。」

「僕が来ることはジイジから聞いてるだろう!!」

「僕・・ですか?僕というのはどなたですか?お名前を聞かせてくれませんか?」

「ふざけるな!!家政婦のくせに、生意気だぞ!!」

「でも、最近『俺俺詐欺』というのがあるそうで、もしかしてこれは新しい『僕僕詐欺』じゃないかと心配なんです。」

「僕僕詐欺?あははは・・馬鹿言ってんじゃないよ。」

「ですから名前を教えてくれませんか?」

「武田徹!!」

「わかりました。では、これから玄関に行きますからそこで待っていて下さい。」

「ドアロックを開ければいいじゃないか!」

「いえいえ、まだ確かめたいことがあるんです。」

「なんだ?名前ちゃんと言ったのに面倒臭いな!!」

渚はドアのロックを手で開けて、チェーンを外さずにちょっとだけ開けた。
徹はドアを引っ張ってガタガタ言わせた。

「なんで、ちゃんと開けないんだよう!!こらっ、開けろ!!」

「それがですね。徹さん、最近の僕僕詐欺は、名前も調べて私みたいな年寄りを騙すと言うじゃありませんか?
もしかして本物の徹さんをどこかに閉じ込めて、ここに来ているのが偽者だったらどうします?
私は怖いんですよ。私は本物の徹さんを見たことがないんです。」

「怖いもんか!お前は大人だろう?僕は子供じゃないか!どうして怖いんだ?」

「でも、もしかしてあなたの仲間が見えない所に隠れているかもしれないじゃありませんか?
そしてドアを開けた途端包丁を持って『手を上げろ!』とか言ったら・・」

「あははは・・・馬鹿だよ。それはピストルの場合でしょ」

「ああ、そうなんですか?ずいぶん詳しいんですね。
もしかしてピストル強盗の経験があるとか・・・」

「違うって!!僕はこんな子供でしょっ!ありえないでしょっ!!」

「でも、アメリカでは8才の子がピストルで人を撃ち殺したという事件がありました。」

「うーん、そうか。じゃあ、どうしたら僕を信じてくれるの?」

「ここに本物の徹さんのことを調べた調査項目があるんですよ。
私の質問に答えてくれますか?」

「ふーん。調査項目?ジイジが作ったのかな?いいぞ、言ってみろ」

「誕生日は何月何日ですか?」

「7月17日だ。」

「ご名答。じゃあ、その誕生花は?」

「えっ、そんなことジイジが知ってるの?白バラだよ」

「それも、ご名答。もしかして本物の徹さんかなあ・・」

「だから最初から本物だって言ってるだろう!!」

「でも言葉が乱暴だから、中に入れたとたん狼のようになったりして」

「な・・・ならない・・ならないですよ、おばあさん」

「私、深庄と言います。深庄さんって言ってみてくれませんか?」

「深庄さん・・・これでいい?」

「なんか声が優しくなってきた。もしかして良い人かもしれないですねえ」

「そっ・・・そうですよ。だから早く開けて!!」

「血液型は?」

「Bだよ。B!」

「B型ですって言ってみて下さい。」

「B型です!お婆さん」

「深庄さんです。」


「B型です!深庄さん!」

「うーん、ますます本物らしくなってきましたねえ。」

「らしくってなんだよ。まだ、疑ってるの・・・ですか?」

「今のところ80パーセントくらい信じています。」

「天気予報じゃないんだからっ!!ないんですから・・」

「それじゃあ、80パーセント本物みたいなので、中に入ってもらいますが、変なことしないでくださいましね、
徹さん。」

「えっ、中に入れてくれるの。変なこと、もっちろんしないよ、深庄さん!」

「しーっ、大きな声出さないで。
隠れているあなたの仲間に聞こえたら、どうするんです?」

徹は渚に合わせて小さな声になった。
「だから・・・そんな人いないって言ってるでしょ」

「じゃあ、1・2の3でドアを開けますから、すぐ入って下さい。」

「わかったよ、深庄さん」

「1・2の3」

ドアを開けると徹は飛び込んで来た。渚はすぐロックして、チェーンをかけた。
すると、徹は靴を脱ぎ捨てて中にどたどたと入って行った。

「徹さん、待って下さい。靴を揃えないと・・」

「深庄さんが揃えてよ。家政婦なんだから・・」

「それは家政婦の仕事じゃありません。」

「ええっ?じゃあ、家政婦ってどんな仕事をするの?」

「徹さんができないことを代わりにしてさしあげるのが家政婦です。
でも、靴を揃えるのは徹さんでもできるじゃあございませんか?」

「わかったよ。揃えりゃ良いんでしょ。」

徹は靴を揃えた。

「お偉いですね。自分で靴を揃える人は、もう大人と同じくらい偉いのですよ。
本当にご立派です。でも、徹さん。
こういう風に揃えると出て行くとき直さなくてもよろしいでございましょう?」

渚は靴先の向きを出口側に向けてやった。

「なるほど、そうだね。深庄さん、頭良いね」

「この形を出船と言うのでございますよ。
ちょうど船が港から沖に向かって出る形だからでございます。」

「出船かあ。なるほどね。」

徹はにっこりと笑った。
それから二人で一緒にオモチャで遊んだ。
遊びながら徹は自分の家族のことを話してくれた。
お父さんは武闘会に勤めている。お母さんはブティックを経営している。
二人とも忙しくて昼間学校から帰って来ても、家政婦しかいない。
きょうのような休みの日でも、両親はいない。
自分の家でもジイジの家でも行けば家政婦が話し相手だけれど、家政婦は忙しくて自分と遊んでくれない。
友達は習い事をやっているから、一緒に遊ぶスケジュールが一致しない。
そういう自分も少林寺拳法や剣道や英語を習っている。
家政婦はしょっちゅう代わるのでなかなか仲良くなる機会がない。
深庄さんはおもしろいし一緒に遊んでくれるから、ずっと来てほしい。
そんなことを徹は話してくれた。
渚はこの少年は自分と同じくさびしがり屋なんだと思った。



オモチャ遊びが終わったとき、渚は言った。

「徹さんはブロックを集めて下さい。私はその他のオモチャを片付けます。」

「駄目だよ。その逆の方が次のとき僕が遊びやすいよ。
ブロックならすぐ見つかるけれど、その他のはどこに置いたか僕が覚えておかないと困るから。」

「なるほどですね。さすが徹さんは賢い人でございますね。
じゃあ、そうしましょう。」

二人で手分けして片付けながら、今度は昼ごはんの相談になった。

「僕はインスタント・ラーメンが食べたいよ。
後、死んだお婆ちゃんがよく作ってくれたナスビの油焼きが食べたいな。
でも、両方ともお母さんが食べちゃいけないって言うんだ。」

「どうしてでございます?」

「インスタント・ラーメンは栄養が足りないから駄目なんだって。
あと、ナスビの油いためは僕食べ過ぎて胸焼けしたことがあるから。
それはナスビは油を沢山吸い取るから脂肪分の取りすぎが原因なんだって」

「大丈夫です。二つとも作りましょう!私とってもいい方法を知ってますよ。
ただ、二つともになると多すぎますから、半分くらいの量を作りますね。」

「それなら、普通に作って深庄さんも一緒に食べようよ。
家政婦さんって絶対一緒に食べてくれないんだ。食べてくれるよね?」

「そうですね。それじゃあ、一緒に食べましょう。」

「僕も手伝いたいな。」

「良いですよ。それじゃあ、こっちのインスタントラーメンを煮るのをやって下さい。
時間の関係上、水から中火でお湯を沸かしてから入れて下さいね。」

水の量や火加減を指示しながら、渚は肉と野菜を素早く切って強火で炒める。
次に湯が沸くのを待っている徹にナスビを輪切りにさせる。
それをフライパンに水と一緒に入れて強火で煮る。
ラーメンの湯が沸いたので、徹に麺と汁を入れさせた。
ナスビを煮た湯を捨てて、油を僅かに入れ油焼きにする。
隣でそれを見てて徹は言う。

「あれれ?ナスビは全然油を吸わないね。」

「先に煮たから、水分が染みているので、油が中まで入っていかないんでございますよ。」

「なるほど頭がいいですね深庄さんって。あっ、ラーメン煮えたみたい。」

「じゃあ小どんぶりに二人分に分けて入れて下さいな。
そして、さっき炒めた肉野菜をトッピングして頂けますか。
最後に葱を今刻みますから、それも上に入れて下さいまし。」

渚は焦げ目が付いたナスビを二皿に分けた。
そして茶碗に半分量のご飯を入れた。そしてテーブルに二人で運んだ。
「インスタントラーメンも野菜や肉が入っているから栄養不足にならないし、ナスビも水分を含めてから炒めると油が少なくてすむのですよ。」

「ご飯を半分つけたのはどうして?」

「ラーメンが半分だから、足りない気がしてつけたんですよ。」

「それじゃあ・・」

「そうそう、こういうとき言う言葉があるんでしたね、確か『いただきます』って。一緒に言いましょうか?」

「そうだね」

終わった後も『ごちそうさま』を一緒に言った。
そういうことが徹にも渚にもとても楽しいことだった。
その後も徹は後片付けを手伝いたがったりした。
それから、少林寺拳法の相手をしてやったり、新聞紙で作った剣でちゃんばらごっこを一緒にしたりして、渚は徹とすっかり友達になった。
親が迎えに来る5時近くなると、徹はなぎさに何度もまた来てほしいと頼んだ。
渚もなるべく来るようにしたいと言った。
徹だけでなく渚も、とっても楽しかったからだ。
そして渚はエプロンのポケットからビニール袋を出して、徹の『探偵手帳』を渡した。徹はとても喜んだ。失くしてしまったと思っていたからだ。
それから、掃除していたときに出て来たその他の品物も渡して、社長さんに渡すように頼んだ。
徹は引き受けたと言った。
母親が迎えに来ると徹は渚にお別れの挨拶をしたので、母親はびっくりしていた。
その後、何がどうなったか渚はまったく知らなかった。


五十嵐に呼ばれて彼女の部屋に行くと、渚は驚いた。

「申し訳ない。渚・・・あんたは頸になった。
もう武闘会のアルバイトは一切できないから」


渚には何がなんだかわからなかった。



武田社長からの電話は直接五十嵐のところに来た。

「映画部の五十嵐部長かね?
あんたの推薦で来た深庄という婆さんだが、もうここには来させないでくれ。」

「何か不都合でもありましたか?」

「不都合も何も、孫の面倒を見てくれと頼んだら、孫を使って片付けや食事の支度や後片付けなど労働をさせたんだ。
孫は騙されて働かされてそれでも楽しかったと喜んでいるが、家政婦の仕事を雇い主の子供にさせるなんてとんでもない話だ。
それだけでない。図々しくも孫と一緒に家政婦の分際で昼を一緒にとったという。
それも、親が禁止している食べ物ばかりを食べさせたというではないか。
それも子供をたぶらかして、これなら大丈夫と食べさせたという。
その後子供は楽しそうに話しているが、家事も禄にしないで殆どの時間を子供と遊んで過ごしている。そんな家政婦はいらん。
最初に来たときもわしに反抗的な態度をとって、言うことを聞かなかった。
最初から気に食わなかったんだ。だから、頸だ。」

「あのう、あのお婆さんは契約しているアルバイトの深庄渚という娘さんの祖母にあたる人です。
娘さんが海外旅行が当たったので、その代わりに来ていただけですから、もう来るなと言えばもう行かせませんし。
頸にしなくてもやめると思います。」

「それも調べて知ってるよ。頸というのは海外旅行に行ってる娘もだ。
孫の仕事も台無しにした婆さんってことで、少しは反省するだろう。」

「でも、娘さんまでは・・・」

「悪いがそこまでしなければあの婆さんはわからないと思う。
あんたの知り合いだと思うが、娘さんにはよく言って聞かせてくれ。
悪いのはあの婆さんだと。
ああいう婆さんだとわかってて、代わりを頼んだ本人にも責任があるんだ。」

「・・・・・」

そういう経緯で渚は社長の一言で頸になったのだ。


一方徹は武田社長に会う度に言った。

「ねえ、ジイジ。あの深庄さんはいつまた来るの?
僕、あの家政婦さんが大好きなんだよ。毎日来てほしいよ。」

「そうかい。徹・・でもジイジが聞いたところによると、あのお婆さん年には敵わないらしくて徹の相手をしてとても疲れたらしく、あの後もう来たくないって言ってたらしいよ。だからもう来ないって言ってるよ。」

「そんなことない。必ずまた来るって約束したんだから!!」

徹はそういう形で渚から引き離されたのだ。
大人たちの無理解の結果、彼は、また元通りの悪い子になってしまった。
いや正確に言うと前よりもっと酷い『モンスター』になってしまったのだ。
だが、それはまた別の不幸な物語である。


   (第9部終わり 第10部「最終章」に続く)

怪力少女・近江兼伝・第9部「迷宮の章」

五十嵐の尽力も空しく、とうとう武闘会のアルバイトもできなくなった渚。さてこの後どうしたものか?

怪力少女・近江兼伝・第9部「迷宮の章」

再び九条ゆかりの手中に落ちた渚。そのゆかりに依頼された仕事とは?ゆかりの身にふりかかる3つの災難の正体とは?その中で最大の災難はゆかりの誘拐だった? それだけでなくあることないこと書き立てるマスコミのバッシング。その解決策を示してくれたのは意外な人物だった。 渚は居候の最中に東部神風連合というバイク・ギャングたちに果たし状を突きつけられる。 また町の若者たちを使って渚を試した相良という男は渚に異種格闘技大会への出場を依頼する。それは愛娘を助ける為に筋肉モンスターの格闘家を倒してほしいという依頼だった。 暴力事件で相撲協会を退会させられた天野という男と戦う羽目になった渚は、勝負の後誘われて夜の飲食店に同行した。その結果組の人間に追われる羽目に。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-25

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