かくされんぼ

この指とまれ

 しばらく前に偶然見つけた近所のアンティークショップ。その店内は思っていたよりずっと埃っぽくて、そこかしこから陰気な感じが漂っていた。
 窓ガラスは曇っていて店内は全体的に薄暗いし、カウンターの向こうに見える店主らしい人影はお客が入ってきたというのにちっとも反応を示す気配がない。テーブルの上に並べられたいくつもの置時計はてんでばらばらに時間を刻み、ガラス戸棚の奥ではくすんだ色合いの皿が列をなして大小ちぐはぐな目玉のようにこっちを向いている。ちょっぴり期待に胸を躍らせてこのお店の扉を押し開けたときの気分なんてとうに失せていて、今ではただ居心地の悪さばかりが募っていた。
 ……もう、帰ろう。
 小さく溜め息をついて踵を返しかけた時、視界の端に映り込んだ何かに気を取られて足が止まった。
 それは、ちょうど赤ん坊くらいの大きさをしたクマのぬいぐるみだった。窓際に飾られたそれは、周りに並べられている人形や小物に比べて大して埃も被っておらず、まだ真新しいようにも見える。黒く丸い目があどけなさを感じさせるのに対してデフォルメされた口元は不機嫌そうで、まるでむくれた小さな男の子みたいだった。
 そのぬいぐるみの足元に立てかけられた値札を見て、わたしは目を疑った。安かったのだ。嘘みたいに。
 その場でしばらく悩んで、それから、わたしは恐る恐る手を伸ばした。
「あの、すみません」
 そう声をかけ、カウンターへ歩を進める。店の奥へと進むにつれて暗さも増していくようで気味の悪さは拭いきれなかったけれど、いまさら気にしたってしょうがないと割り切る。結構近くまで行っても店主さんは微動だにしなくて、それがまたわたしの不安を一層煽った。
 ……まさか死んでないよね、なんて。
 不謹慎にも程があるけれど、重苦しい空気も手伝ってあまり冗談に感じない。わたしがカウンターのすぐ前まで辿り着いたところで、ようやく店主さんは顔を上げた。
 なぁんだ、生きてるんじゃん。
 もうだいぶ灰色がかった髪に、まばらな無精ヒゲ。くたびれた風貌の店主さんは本を読んでいるうちにそのまま眠ってしまっていたらしく、手から滑り落ちそうになっていた文庫本をカウンターに乱雑に置いた。同じく鼻からずり落ちかけていた大ぶりの眼鏡をくいと押し上げてわたしを一瞥し、顔をしかめる。無愛想な対応で心が折れそうになるけれど、ここまで来ておいて引き下がるわけにもいかない。
「このぬいぐるみ、値段見たらめちゃくちゃ安かったんですけど、ゼロ一個少なくないですか?」
 店主さんは目線をふらふらとさまよわせ、やがてわたしの腕に抱え込まれたぬいぐるみに焦点を定めた。ゆったりとした動作で眼鏡を頭の上に乗っけて、大きな咳払いを一つ。
「そいつはな、安くていいんだよ。正直ずっと店に置いときたいようなもんでもないし」
「訳アリなんですか?」
 思わず、わたしは勢い込んで聞き返していた。自分ではあまり意識していなかったけれど、どうやらわたしはこのぬいぐるみの持つ独特の雰囲気に当てられて、何かいわくの一つや二つでもありはしないかと期待してしまっていたらしい。
 しかし、店主さんはゆるゆるとかぶりを振った。
「いや、ただの拾いもんだよ。テレビ局で観覧の募集やって人を集めるだろ。あれの収録が終わる頃を見計らってスタジオに潜り込むとな、大抵一人か二人はぬいぐるみになって転がってる」
 そう言って、店主さんは唇の端を吊り上げるように薄く笑った。その得意げな表情を前にして、わたしはなんだか気が抜けてしまった。わたしだって、オカルト系の話は嫌いじゃない。テレビにクマのぬいぐるみと聞けばある都市伝説がすかさず脳裏に浮かぶくらいには嗜んでもいる。それにしたって、お店の人からこうも商品のことを胡散臭く言われるというのは……。
 何だか微妙な空気になって、店主さんは気まずそうにもう一度咳払いをした。
「なんだ、その……そいつのこと、気に入ったか」
「そこそこ、ううん、結構いいかな。名前は、そうだな……ロンパー、なんて」
 思い浮かべるのは、口の利き方を知らないヤンチャな子供。大人を困らせて、お仕置きされてしまうのだ。
 店主さんは鼻を鳴らしたが、もう一度、今度ははっきり判るほどの笑みを浮かべた。
「まあ、お似合いかもしれんな」
「これ、ください」

 店を出ると、町はもうすっかり夕焼けに染め上げられていた。夏の陽は本当に沈むのが早い。家路についたわたしのポケットの中では、英世さん一枚と引き替えにしてゲットした硬貨が数枚踊っていた。

もういいかい

 わたしの住んでいるコーポは外観こそ築十数年分の煤け具合が惜しみなく出ているけれど、内装は小ぎれいでなかなかに住みやすい。
 家に帰ってドアを開けばそのすぐ左手はキッチンで、右側には手前からお風呂、洗面台、トイレが並ぶ。目の前には奥へと続く廊下があって、その突き当たりが部屋だ。部屋にあるものと言えばテーブルとベッド、小物棚、あとは服を適当に押し込んだクローゼットと滅多に見ない持ち腐れのテレビくらい。たいして飾りっけもない、質素な空間。
 見慣れているはずのその部屋が、ここ何日かはどこか異質なものに感じられる。
 それもこれも、アイツのせいだ。
 買い物帰りの格好そのままで、わたしは部屋の入口からベッドを……その上にぽつんと置かれたテディベアを睨んだ。全体を見渡すとそこだけがやけにファンシーで、女の子の部屋かと言いたくなる。まぁ、女子だけども。別に、ぬいぐるみを抱いて眠る趣味なんてない。大学の友達だって、わたしの家のベッドをぬいぐるみが占領しているなんて想像だにしていないだろう。
 この子を買ったのは、「ひとりかくれんぼ」のためだ。
 ひとりかくれんぼ。
 いつからか囁かれるようになった都市伝説の一つで、色々と解りにくいところはあるけれど要は幽霊を呼び出す降霊の儀式のことだ。そして、その儀式をやるためにはぬいぐるみを使わなくちゃいけない。ぬいぐるみなんて実家にもほとんど置いていないから、手頃なテディベアを手に入れられたのは本当に運が良かった。
「ただいま、ロンパー」
 テディベアと無言で見つめ合ううちに言いようのない気持ち悪さを感じて、一人暮らしを始めてからは言うこともなくなった挨拶がふと口をついて出る。気持ちを切り替えて部屋に入り、買ってきたばかりの荷物をテーブルの上に降ろした。
 今日のこの買い物で、ひとりかくれんぼに必要な道具は全部揃ったことになる。

 降霊術と言えば、有名どころはやはり「こっくりさん」だろう。紙に五十音と「はい」「いいえ」の選択肢、そして鳥居を表す記号を書き、硬貨に指を乗せて霊とコミュニケーションをとるあれだ。ひとりかくれんぼも根っこのところは同じで、支度をしてから霊を呼び、接触する。
 それをやろう、と。そう思ったのだ。
 まずは、霊が取り憑くための依り代を用意する。これは呼び出した霊にちゃんとした姿かたちを与えてあげるためで、そのために必要なのがぬいぐるみというわけだ。
「ロンパー、出番だよ」
 そう声をかけて、ベッドの上に鎮座していたぬいぐるみの頭をひっ掴みテーブルに転がす。続いて小物入れからハサミを取ってきて、テーブルの前に座り込んだ。
 ここからは少々荒療治になる。
 手にしたハサミの刃先をぬいぐるみのまるっとしたお腹に引っかけて裂き、生地の綻んだところから切り開く。そのお腹の中に入っていた綿を抜き取り、代わりにお米と自分の爪を入れる。それから、買い物袋をまさぐってついさっき調達したばかりの裁縫道具一式を取り出した。
 えぇ、持っていませんでしたとも。わざわざ新しく買いましたとも。
 女子力なんて、それこそ都市伝説だ。
 ともかく、裂いたお腹の傷を赤い糸でなんとか縫いあわせて糸の余りを胴体に巻き付ける。この赤い糸は体中を巡る血管を表していて、中に詰めたお米には生命力の意味合いがあるのだとか。
 次に、ぐるぐる巻きにされてボンレスハムみたくなったロンパーを連れてお風呂場へ向かった。ロンパーを適当なところに放って蛇口をひねり、バスタブに水を溜めていく。水が溜まるのを待つ間に儀式に必要な他の準備を済ませておこうと、わたしはお風呂場を出た。
 心霊体験をするときには欠かせない道具と言えば、やはり塩だ。
 盛り塩なんかを想像してもらえば解りやすいと思うけれど、塩というのは清めのアイテムとして重宝されている。ひとりかくれんぼでも塩の持つ意味はかなり大きくて、儀式を終わらせるためには絶対に欠かせない。流しで塩水をコップ一杯、気持ち濃い目にこしらえて、ひとまずそれをシンクの横に置いた。
 お風呂場では、ロンパーがバスタブの縁に引っかかって待っていた。
 蛇口を締めて水を止め、テディベアの短い足を掴んで水の上で逆さ吊りに捧げ持つ。ひとりかくれんぼを始めるにはまず、本物のかくれんぼと同じように誰が鬼なのかをはっきりさせないといけない。つまり、自分の名前を唱えてわたしが最初の鬼だと宣言するのだ。
 テディベアの、どこに焦点が合っているのかも判らない黒い目をじっと見据えてわたしは言った。
「最初の鬼は希未(のぞみ)だから。最初の鬼は希未だから。最初の鬼は希未だから」
 一言一句、噛み締めるように言葉にしていく。
 テディベアの足から、手を離す。
 バシャンというよりはどぷんに近い重たい音と共に水が勢いよく跳ね上げられ、辺りに散った。
 それから家中の電気を消して部屋に戻り、久々にテレビの電源を入れた。テレビをつけるのも、霊を呼ぶために必要な手順らしい。詳しいことは分からないけれど、霊は電気や磁気に寄ってくるなんて話もあるから、そういうものなのだろう。これで画面に砂嵐でも映ればそれっぽい雰囲気が出そうなものを、いまどきは終夜放送のおかげでいつでも明るいったらない。仕方がないから、もともと契約をしていないチャンネルの真っ暗な画面で妥協する。
 これで、部屋の準備も整った。
 次の手順は、本物のかくれんぼと同じだ。鬼であるわたしが、「いーち、にー、さーん……」と声に出して十まで数え上げる。
 ずっと幼い頃にやっていたように。
 早く探しに行きたい気持ちを抑えて、ごまかさずに。
 そうして、いよいよロンパーを見つけに行く。
 けれど、お風呂場を前にしてわたしははたと立ち止まった。ひとりかくれんぼには欠かせない道具を一つ、まだ用意していなかったことに気付いたのだ。慌てて背後にある流しの下の戸棚を開け、必要な物を取り出す。
 ひとりかくれんぼの手順は間違いなく頭に入っているはずなのに、いざ実際にやってみればこのザマだ。ここにきて初めて、わたしは自分が緊張しているのに気付かされた。大きく息を吐き、ロンパーの待つお風呂場に戻る。そして……。
「ロンパー、みーつけた」
 そう言って、水を吸ったぬいぐるみの体に持ってきたばかりのナイフを突き立てた。
 さらに続けて唱える。
「次はロンパーが鬼だから、次はロンパーが鬼だから、次はロンパーが鬼だから!」
 言った。
 言えた!
 わたしはロンパーを見つけて鬼の役目を終えた。今度は、ロンパーが鬼になってあたしを探しに来る番だ。これでもう、後には引けない。
 無惨な姿をさらすぬいぐるみを残してその場を離れ、流し台に置いていた塩水のコップを掴んで奥の部屋へと足早に移動する。薄暗い中で壁掛け時計を見れば、夜中の二時を過ぎたところだった。草木も眠る丑三つ時。これでいい。時間も儀式にとっては大事な要素だ。
 あとはただ隠れて、鬼が探しに来るのを待つだけだ。クローゼットの扉を開け、その狭いスペースに身を潜める。
「あたしは鬼なんかに負けない。絶対に返り討ちにするから」
 そうひとりごちて、クローゼットの扉を閉じた。

もういいよ

 どれくらい時間が経っただろう。真っ暗なクローゼットの中には、時計などあるはずもない。スマホでもあればと思うけれど、生憎それも鞄の中だ。
 熱帯夜なのだろう。閉めきったクローゼットの中では湿度がぐんぐんと上がり続け、空気はあっという間に蒸しかえった。すぐにもじっとりと肌が汗ばみはじめ、わたしはその不快感に身を捩った。とは言え今このクローゼットからほいほい出て行くわけにもいかないわけで、息を潜めてじっと耐える。
 せっかくのひとりかくれんぼなのに、やる日を間違えたかな。
 そんなことを考えたりもするけれど、今となってはもう後の祭りだ。諦めてその場に腰を下ろし、せめて少しでも快適な環境をつくろうと周りに積まれた色々な物を押しやって場所を確保する。
 こうして隠れていると、やっぱり思い出すのは、小さい頃かくれんぼをして遊んだ時のことだ。かくれんぼなんて、そう頻繁にやっていたわけじゃない。むしろ、かなり稀だったくらいだ。それでも、かくれんぼという遊びの風景は記憶にしっかりと焼き付いている。
 それはきっと、昔からあたしの頭に巣くって離れない、つまらない疑問のせい。かくれんぼの度に、不思議で仕方なかったのだ。鬼に見つかるとゲームが終わってしまうっていう、当たり前と言えば当たり前ことが。
 昔話に出てくるような鬼は確かに強くて恐ろしくて、人間なんか一捻りにされてしまう。そのことを、みんな常識みたいに知っている。うんと小さな頃に読み聞かせてもらったおとぎ話に、そう書いてあったから。
 それでもやっぱり、あたしには鬼に見つかったらそれだけで負けになってしまうのがどうしても納得いかなかった。お前がそれ以上どんなに足掻いても負けは負け、何をやっても無駄なんだって言われているような気がした。
 子供のくせしてどこまでひねくれているのかと言われそうだけれど、裏を返せば見下されるのが癪に障るっていう、どこまでも負けず嫌いな子供らしい自己主張だったんだと今は思う。
 でもそんなひねくれた子供が少しだけ成長して、いらない知恵までつけて、もしかしたら鬼をやっつけてもいい世界だってあるんじゃないかと思うようになった。
 子供同士のかくれんぼで鬼になった友達を殴ったり唾を吐きかけたりしようものならみんなにドン引きされて避けられて、下手したらその後ずっといじめられるのが目に見えている。そんなこと、小さい頃のあたしだってやらない。
 でも、ひとりかくれんぼならそんな無法もきっと許される。鬼に遭遇したら、塩水を吹きかけてやっていい。ずたずたに引き裂いて燃やしてしまったっていい。
 それがなんだか、もうすぐ大人になってしまうあたしにはとても魅力的に思えたのだ。
 そうだ、鬼なんて倒してしまえばいい。気持ちが、逸る。
 その時、どこかでくぐもった物音がした。
 とっさに息を呑んで身構え、耳をそばだてる。
 ……やっぱり聞こえる。敢えて文字にするなら、「ゴズズ……ゴズズ……」みたいな感じか。鈍く、やや重く……何かが……そう、擦りつけるような、そんな音。クローゼットの扉が邪魔をして上手く聞き取れないけれど、でも、これは。
 来……た……?
 だめだ、実際に目で確かめないと全く状況が解らない。でもそのためには……。
 扉にそっと手を押し当てて、少しだけ力を入れる。扉はわずかに揺れたけれど、そこから先は固くてぐっと押し込まないことには(ひら)かない。
 でも、もしそんなことをすれば大きな音がするだろう。そして音を立ててしまえば、ここはもう隠れ場所の意味を為さなくなってしまう。
 それは、嫌だ。
 でも、そうしない限り何も見えない。解らない。
 それなら、もうやることは決まっている。慌てて暗闇の中でコップをまさぐり、塩水を口に含ませた。塩には清めの効果がある。だから、これでもう大丈夫。あとはここから出て鬼を倒すだけだ。ここから出て……。
 じっとりとした汗が、額や手の平に滲む。口の中に含んだ塩水が次第にぬるくなり、吐き気を催させる。
 ……倒すんじゃなかったのか。鬼なんか怖くないんじゃなかったのか。
 ここを出ろ。
 早く出ろ!
 どうしてだろう、体が全く言うことをきいてくれない。
 震えが、止まらない。

 クローゼットの中に満ちた空気はすっかり澱みきって、思考を胡乱にしていく。時間の感覚もすっかり希薄になってしまった。なんだか、もうずっと長いことこの暗闇に閉じこもっているような気がする。
 物音はいつの間にか止んでいた。
 扉を押し開けようとしていたはずの手は、いつからか扉が開けられるのを拒むようにその縁を押さえていた。
「……うぅ」
 ピチャリと、腿に生暖かい液体が零れおちた。背筋にぞわりと寒気が走り、慌てて手でその液体を払い飛ばす。汗ばんだ肌の上でねっとりと絡むそれが自分の口から垂れたものだと気付くのに、少しだけ時間がかかった。恐る恐る口元に手をやると、唇から顎までを覆うように湿った感触がある。
 ……そっか、塩水か。
 この儀式を終わらせるためには欠かせない道具だったのに。
 あたしは座り込んだ姿勢のまま、膝を抱えてその間に顔を埋めた。
 鬼に見つかったらそれだけでゲームオーバーだなんて、不条理にも程があると思っていた。人間は頭を使って作戦を立てられるし、道具や武器だって使う。自分一人の力では到底歯が立たないような強敵に対しても、互角かそれ以上にやり合う術を持っている。もう、大昔の人達みたいに神様に助けを乞う必要もない。だから、相手が鬼だからなんて理由で簡単に屈してやるいわれなんてどこにもない。そう思っていた。
 でも、ルールはやっぱりルールだったんだ。
 どんなに不条理でもその決まりは絶対で、世界はそれに従って動いているんだ。だから、鬼に見つかれば、そこで負け。やられる前にせめて一矢報いてやれるはず、なんて御託には何の意味もない。
 「鬼」っていうのは、きっとそういうのとは違う。
 自分の方が大きいだとか力が強いだとか、そんな話じゃない。それはあたしたちとは完全に切り離された異質な「何か」で、それと人間を比べようなんていう考え自体がそもそも勘違いも甚だしいことみたいだった。
 鬼は強い。鬼に見つかったらゲームオーバー。それがルール。
 そんなの、勝てっこない。
 息苦しさが、募っていく。
 一度は止んだ震えなのに、口元が情けなくわななきだす。唇の震えは、まるで伝染するかのように手まで行き渡り、やがて全身を支配していった。
 まだ何を目にしたわけでも、されたわけでもない。それなのに一人クローゼットの中で膝を抱えるあたしは、傍目に見ればきっと滑稽だ。でも、だからって、どうしようもなかった。
 もう、朝が来るまでこうして閉じこもっていようか。夜が明ければこんな悪夢は終わってくれるって信じて、目を閉じていようか。そうすれば、きっと……。
 いや、駄目だ。
 諦めそうになるのを、すんでのところで踏みとどまる。ひとりかくれんぼには時間制限がある。それを過ぎるとどうなってしまうのか、それは分からない。けれど、わざわざルールを破りたいとは思えなかった。
 もう後に引くことは出来ない。先に延ばすことも叶わない。今、終わらせる以外に道はない。そうだ、どうせ後がないのなら。
 クローゼットの扉を押し開く。さっきまであんなに固かった扉は、嘘のようにあっけなく開いた。
 鬼を、殺せ。
 気付けば、体の震えは収まっていた。
 ゆっくりと辺りを見渡す。小さな鬼の姿は見当たらなかったけれど、代わりに、ぬいぐるみの腹を裂くために使ったハサミがテーブルの上に置かれたままになっているのを見つけた。ゆっくりとテーブルに近づき、ハサミに手を伸ばす。
 蒸し返すような夏の夜の空気の中でもそのハサミはひんやりとしていて、その鈍い冷たさが今は心地よかった。ほら、塩水なんかよりもこっちの方がずっといい。
 あたしは、その冷たい頼もしさを手に部屋を出た。

見ぃつけた

 バスタブの中に、ロンパーはいない。
 そんなこと、見る前からとうに分かっていた。知っていたと言った方がいいかもしれない。
 ひとりかくれんぼに手を出した人間がどんな物を目の当たりにすることになるのか、あたしは色々なところで見聞きしていたのだから。それは映画や漫画なんかの創作物から、動画サイトに上げられた肝試しの実況まで、あれこれと。だから、そこにいるはずのロンパーが姿を消していても、パニックには陥らずに済んだ。
 それでも、気味が悪いことに変わりはない。
 ここに、いたはずなのに。
 全く動きのない水面を見つめる。
 背後で、何かが倒れる音がした。
 振り返っても、そこには静かな暗がりしかない。
「……ねぇ、出てきなよ。鬼なんだからさ、ほら、探しにこなきゃ……」
 声に出して鬼を呼んでおきながら、音を立てないように忍び足で進んでいく。そんなの変だってことくらい自分でもよく解っているけれど、これ以上大胆に動き回ることなんて到底出来そうになかったし、だからと言って口を閉じてしまえば、きっと正気ではいられない。
 そっか、あたしがさっきから話しかけてた相手って、自分なのか。
 あたしは鬼と戦わなくちゃいけないのに、自分自身の恐怖心を持て余して四苦八苦しているなんて。それは、ひどくつまらないことに思えた。
 悄然として肩を落とす。その足元に、ふと、ひんやりとした感触が走った。
 馴染みのない感覚に、一瞬、風でも吹き込んだのかと早とちりする。けれど、冷たい何かが触れたその部分から一気に鋭い痺れが噴き出すような感じがして、あたしは自分の勘違いを思い知らされた。
「……っ!」
 わけも解らず手で足をさすると、指先がぬるりとした感触に行き当たった。そして、ふくらはぎを横切るぱっくりとした裂け目にも。
「え?」
 不思議に思って目をやれば、指先がなんだか黒く汚れている。それから、さっきまでその指が触れていた足も。痛みの原因がその裂け目にあるってことも、このどす黒い汚れが同じくその裂け目から生まれていることも、解っている。普通、こんな裂け目が勝手に足に出来たりしないのも、知っている。こういうのは、何か鋭い物がかすった時に出来るものだから。例えば、刃物で切りつけられるとか。だから。
 急いで戻らないと。
 早く部屋に。
 部屋に。
 たいして広くもないコーポの一室で、あたしは目と鼻の先にある部屋に逃げるためだけに全力で駆け出した。そうした方がいい理由があるわけでもない。ただ頭が一杯で、それ以外にどうするかなんて考えられやしなかっただけだ。
 そこから数歩も進まないうちに、再び足元を違和感が襲った。今度は、さっきよりもずっと早くそれが足を傷つけられた痛みだと理解する。その鋭い痛みに体がひきつったのも束の間、足がもつれたあたしはそのままうつぶせに転倒した。
 床で頭をしたたかに打ち、ぼうとする意識の中でふくらはぎや足首の辺りが鈍く熱を持ったようにじんじんと苛んでくる。そう言えば、ロンパーを刺すのに使ったナイフ、風呂場に置きっぱなしだったな。そんなことが頭をよぎる。
 何やってるんだろ、あたし。
 どうして無様に倒れているんだろう。
 鬼に会ったらずたずたにしてやるはずだったのに。
 視線はふらふらと彷徨って一向に焦点を結ばない。けれど、先の方にはぼんやりと、だらしなく伸びた手が横たわっていた。そして、その手に握られた鈍く光るハサミも。
 そっか、そうだった。まだ、何もかも終わったわけじゃないんだ。
 腕に、力を込める。勢いをつけて体を起こし、振り向きざまに腕を思いっきり振り切った。ただ必死で、目も堅くつむったままで狙いも何もあったものじゃない。それでも、刃先は何かに引っ掛かって、それを乱雑に引き裂いた。
 耳に、じゃらじゃらと不快な音が届く。きっと、あいつの腹にみっちりと詰め込まれた大量の米粒が、ぼたぼたと床に散らばる音だ。
 鬼を傷つけてやったという高揚感があたしを満たし、まだ足りないと焚きつける。ハサミを逆手に持ち替えて、あたしはそいつに覆いかぶさる。
 黒々とした目が、あたしを覗き込んでいた。

 どれくらい、そうしていただろう。
 気付けば、痛む足を引きずって目の前のトイレに駆け込んでいた。
 鍵をかけ、両手でドアノブを固く握りしめる。扉一枚隔てたその向こうには、あれがいる。あれが、今もきっと、黒い瞳であたしを……。
 けれども、時間はそのまま何事もなく過ぎていった。
 ドアノブは握りしめたままで、その場にへたり込む。完全に気を緩めてしまうとそのまま意識まで手放してしまいそうで、ひんやりとしたドアに額を押し当てた。
 とにかく、考えることを止めてはいけない。だから、考える。大丈夫。考えることなら、その取っ掛かりのようなものなら、既にあるから。
 あの時、あの黒光りする目に覗き込まれた時。
 あたしは、その目の奥に渦巻いているものを少しだけ理解できたような気がしたのだ。想いとか感情とか、そういうものを。
 あたしは、それに耐えられなくて逃げたのだ。
 だって、それを認めてしまうのは恐ろしいことだから。
 あたしは、鬼という存在は(はな)から自分とは全く異なっていて、何一つ相容れる余地なんてないんだと思っていた。だからこそ、人間相手では到底使えないような手でやっつけてもいい存在なんだと無邪気に信じられた。なのに、もし鬼が本当はあたしと通じ合える存在だとしたら? 目が合うだけで、何かを分かち合えてしまうのだとしたら?
 嫌だ。
 あんなおぞましい存在と自分の間に結びつきがあると考えるだけでも、肌が粟立つ。だいたい、自分がそんな化け物に親近感を覚えるなんて、考えるだけでもどうかしている。でも……あたしと鬼が結び付く、そうなるだけの理由は、ちゃんとある。
 降霊術をするために、あたしは色々な準備をした。ロンパーのお腹の中に米や爪を入れたり、赤い糸でぐるぐる巻きにしたり。米は、生命力を表している。赤い糸は、血管を。じゃあ、爪は? きっと、それが鍵だ。
 それがあたしと鬼を繋いでいるんだ。
 霊的な儀式の道具に、自分の体の一部を織り込む。そう考えると、一見不可解なこの手順もそう珍しいものではないような気がしてくる。むしろ、そういう儀式はひとりかくれんぼなんかよりもよっぽど一般的に知られているはずだ。
 丑の刻参りという呪術がある。
 呪いの藁人形を憎い相手に見立てて釘を打ち込むというやつだ。あの儀式では、人形に呪う相手の髪の毛を編み込んだり血液を染みこませたりする。人の形をした物に、本物の人間の体の一部を合わせてその相手に見立てる。
 つまりは、そういうことなんだ。
 隠れているのはあたしで、それを探しに来る鬼もわたし。あたしと(わたし)、ひとりっきりのかくれんぼ。
 それなら、鬼の恐ろしさの理由だって理解できてしまう。
 まず、ぬいぐるみに生命力を与えるための道具に米を選んだこと。米の白い色が表すのは、清浄だ。そして、霊に人の形を与えられるために水を張ったこと。それはきっと、水回りが霊場になりやすいというだけでなく、水に浸すという行為に(みそぎ)を受けるという意味合いも持たせている。
 だから、あたしが降ろした鬼はどこまでも、少なくともあたし自身なんかよりはずっと清らかだ。
 鬼と言えば悪いヤツだなんて先入観が頭にこびりついているせいで、鬼が現れれば退治するべきだなんて思い上がってしまう。けれど、そもそも善悪なんてものは絶対的な価値じゃない。だから、鬼が悪者だとは限らない。むしろ、ひとりかくれんぼなんて儀式を面白半分に試して、霊魂という人知を越えた存在をどうこうしてやろうなんて思い上がる人間の方がよっぽど悪い、という見方だって出来る。
 なのに、あたしはその疚しい穢れを抑えていてくれていたかもしれない塩水を捨ててしまった。
 鬼を殺すだなんて、悪い冗談にも程がある。
 きっと、消されてしまうのはあたしの方だ。
 興味本位で禁忌を犯した罪を鬼に裁かれて。
 その気になればあたしは、大学の友達がまず追っては来ない遠くまで行ける。口うるさい両親のお小言に耳を塞ぐことも、癪に障る妹から目を逸らすことも。もしかしたら、社会から身を隠してしまうことだって出来てしまうかもしれない。
 でも、わたし自身からは逃げられない。
 気が付けば、ロンパーの黒々とした目が私を覗き込んでいる。
 かくれんぼの最後は、幼い頃の記憶にあるよりもずっと呆気なかった。

かくされんぼ

かくされんぼ

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-10-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. この指とまれ
  2. もういいかい
  3. もういいよ
  4. 見ぃつけた