practice(147)



 
 夢中になっている。
 昼間に訪れてから,いつものように通してもらえた工房で静かに響く雑談を交わし,小さい抽斗を閉めたコーヒーミルが机の端に退けられ,そこで働く唯一の職人でもある工房長が,丸椅子からゆっくりと立ち上がった。棚からロールが取り上げられ,トンと置かれたところから,お孫さんのシールが目立つ壁に向かって丁寧に転がされ,初めて目の当たりにする機会。大事な布地のひとつである。触れていいという許しのもとで,触れた指の腹がスルッと抜ける手触りから,電灯の明かりを淡く返す表面に,裁断前の長い長い時間が音も立てずに動かなくなる。見た目通りの細やかさに,皺を伸ばす癖のついた手つきは,その意味のないことを繰り返して,その都度飲み込んだものとともに,じっくりと味わって,休みなく,黙り込んでいくしかない。
 考えは浮かぶ。
 幾つあるのか,色はこれだけなのか,仕上げまでにかかる時間は?既に契約済みの他社は,弊社には,これを卸してくれる気になって,頂けたのか。言い値は?驚くものになるのだろうか?どれだけの額を,上は了承するのだろうか。もし渋るのであればともに連れ立って,その前に,工房長にお伺いを立ててから,出来るだけこうして,触れさせて貰えれば,そこから先の説得は早くなるはず。そこから先,その先。商機は逃せない。来季には必ず,いや滑り込みで今季でも可能か。活かせる型を引っ張り出して,試作品のひとつでも完成させることが出来れば。通される袖口から伸ばされる腕と手に,吸い付く軽い感触のイメージ。広い窓側を歩く工房長の影が覆い被さり,気付かされた意識が捉える,何も言わない口もとが緩みながら尋ね,着たいという欲求から,何より自分が逃れられない。それを素直に認めた。
「うん。」
 後から思えば失礼であったが,返事は逆光の先に届いていた。



 春先。
 そうそう,とついでに聞かされていた急勾配が思っていた以上の疲労と印象を残し,チャイムがないドアの前と,紐でぶらんと掛けられた簡易な作りのプレートが,最初の記憶となることが無かった訪問時。四人目のお孫さんが無事に生まれたことで,病院へ向かおうとしていた工房長は,こちらが開ける前にドアノブを捻り,遮るもののない玄関先で少し見上げる初対面を済ませてから,悪いが今日は後にしてくれ,ゆっくり話は聞けないんでね。と,背中を向けて鍵を閉めた。ニット帽にがっしりとした肩がもそっと動いて,戸締りを確かめていた。どちらへ,は慌てて割り込ませた質問で,病院,であったことには色んな推測を働かせてしまい,二の句を酷く慌てさせた。あ,あの,どこか具合が?失礼ですが,それは?
 工房長はこちらを見ないで訂正した。
「逆だな。逆。元気に生まれたんだ。」
 車で来たのかね?と目を見て言われ,いえ,今日はバスで。あとは徒歩でと答えた。工房長に「なら,坂の終わりまで,一緒に行くかね?」と気づかってもらい,営業車で借りて来なかったことを後悔しながら自己紹介と訪問の目的,前担当者であったワカタベさんの話をしながら急勾配を息も切れ切れに,早く下る工房長の横から離されないように,足元の砂利ばかりを踏んづけていた。
「ワカタベくんは元気かね?」
「はい,今は広報に移って,早速一つ。リーダーを任されそうだと言っていました。」
 工房長は笑う。
「こちらに来ても,彼は喋ってばかりだった。」
「ワカタベさんも,そう,言っていました。」
  呼吸の間に,笑顔になったことを辛うじて込めて言った。それが上手くいったのかどうかも分からない身体的疲労の蓄積が,足のつま先をもつれさせようと試みる,それを食い止めるのに必死になって,工房長の方を向けなくなっていった。どうにか顔を上げても,高くなっていく青い景色に止まった。そこに工房長は居なかった。
「さすがに産衣までは扱っていなかったな,君のところは。」
 工房長の声は尋ねてきた。はい,と慌ててすぐに答えた。
「産衣までは。幼児向けは,男女共ありますが。」
「そうか。」
 お生まれになったお孫さんの体重について,それから,三番目の娘さんが入院されている病院の所在地を知った後は平らに続く終わりが近づき,持っていた鞄の金具部分や,工房長の底を叩く早い音とか,存在感を気付かせるポケットの鍵とか,身近なものが合間を埋めて,次に訪問するときには何か持って行った方が良いなと,考え始めるようになっていた。果物か,いや,乳幼児に必要な哺乳瓶とか,そういうものか。
「男の子か女の子か。君はどちらだと思う?」
 工房長は聞いてきた。
「あ,そういえば。聞かれていないのですか?」
 気付きとともに,聞いてみた。
「うむ。楽しみにな。もちろんどっちでも,こちらは喜ぶのだが。君は?子供は?」
「一人,男の子が。乳母車を立って押してます。」
 かたかたという, 廊下の様子をぼんやりと思い出す。避けるために,立ち止まることも増えてきた。歩みは遅れる。少し離れる。
 その分,先を行くことになった工房長は,「そうか,」と相槌を打って,
「なら,男の子でも良いのだろうな。」と
 と顔を上げながら言っていた。樹々の重なりに阻まれて,雲も頭上を越えていた。平らな地点には辿り着いていた。
「次もまた,来るのだろ?」
 工房長にそう尋ねられて,はい,また必ず,と返事をし,時間帯は同じでいいという緩い約束を頂いた。
「今日は特別だからな。」
 そう言って軽く手を挙げ,病院のある反対方向へと向かう工房長の背中をある程度まで見送って,振り返り,さりげなく足首を回し,涼しさが強めの風を首すじに受けて,汗が引いて,寒くもなった。
 四人目だと言っていたから,哺乳瓶は余るかもしれない。
 そう思い直して振り返り,失礼ながら,僕もお供してもいいですかと,言いたくなったことを口の中で転がしながら,歩道に近い地面を駆け出しながら,追い付くまで,かちゃかちゃと鳴らして,聞きに向かった。



 風が逃げて,もう一度,涼しさが強く感じられた。



 若い頃,と工房長が言うと写真が机上に広げられた。幼い頃の白黒写真は枚数が少なく,枚数は増えても,未だカラーにはならない色褪せた時代には教科書でしか見たことがないような機械が大量に並べられて,止まった職人たちの姿がとても新鮮なもののようだった。
「どれが私か,分からないだろ?」
 工房長は肩越しにからかいを楽しむ。
「すいません,正直に言って。なんとなくでなら,この辺りでしょうか?」
 近かったな,と言って訂正された箇所も,写真の長方形の真ん中辺りで,どちらに指をさしても近くなる,そういう場所だった。具体的にどれですか?と尋ねても,それ以上は工房長にも絞りきれない。長い時間をともにした分だけ,忘れることも必要になる。
「こういう写真も,あるからな。」
 と若い男女が恥ずかしそうに,二人で写る初めての写真にはにかんでいる。少し背が低く,肩がしっかりとしているシルエットの男性は,眉と目が織りなす強い印象が,今も同じ工房長であることを教える。もう一人の女性にはまず細身のシルエットに気を引かれて,それから整った顔立ちに気付けば,たまに工房を訪れ,三色のタッパーを包んだお昼ご飯を手渡してお帰りになられる工房長の奥さんとは似ても似つかない,活発な立ち姿を乱すことなく,長い髪を後ろに結んで,視線を離さない捉え方をする。手に持っている大きめの布みたいなものは,エプロンのようなものか,当時の工房長はそれを着ていないのだが。
「奥さま,ではないですね。当時,お付き合いされていた方ですか?」
 丸椅子を避け,机の端に手をかけながら立っている工房長に,隠したりしない笑みを見せながら,その写真の下で待っている他の写真にも目を移す。帽子を被り,ボートと池が入り込む木陰のベンチに一人座るその女性は,レンズが向けられていることにも気付かずに,拗ねているような横顔で対岸を見つめているようで,同じ位置で撮ったと思われるもう一枚では,帽子を手で押さえて,レンズに気づいた瞬間の真っさらな表情を,絵にしている。あとは有名観光地の建物の前といった写真たちで,その二枚だけで,「二人の関係はそうに決まっている。」と決めつけても,問題はないように思えた。
「画家志望だったんだ,彼女は。留学したのだが,その間も連絡は取り合い,帰国したときには時間を作り,会って,共に過ごしていた。大戦への流れが高まっていく中でも,そこに留まった。そのために,一時期連絡がつかなくなったんだが,画家仲間とともに南に逃れて,彼女は無事だった。そこで旦那と出会い,ひとりの子供に恵まれ,その子供が成人した頃に,その旦那には先立たれた。不慮の事故だったらしい。酔っ払ってもいたようだ。」
 工房長はじっと語った。捲ることを止め,手の中に収めていた写真には,カラーの風景だけが残っている。車の中から撮ったと思われるアングルで,車内のフロントガラスの向こうに,真っ直ぐと走る別の車の後ろから,当時のナンバーが窺える。後部座席からめいっぱいに身を乗り出して,手を振っている子供は,誰と名乗らずに,笑顔を見せている。カメラに写らないところで,振られた手はあったのかもしれない。
「今は,どうなされて?」
 工房長にも聞いてみた。工房長は頷く。
「元気だ。絵画教室を開いているよ。変わりない。」
 端的に答えられて,工房長にはそれ以上,聞くことをしなかった。ただ聞かずに分かったのは,工房長は今もその彼女と連絡は取り合っているのだ,ということだった。確認は出来なかった。工房長にはそれ以上,聞くことをしなかったのだ。
「同じ年数の昔,となると,君の場合は,生まれていないことになるか。歳はいくつだ?」
 歳を答えた。意外だな,と言われた。
「ぎりぎり,オムツは取れてるか。そんな時分の恋物語でも聞いてみたいが,覚えてるか?どうだ?」
 工房長は机から離した手と腕で,がっしりとした腕組みをし,真剣な目で聞いてくる。借り受けたままの写真とともに,頭の中にあった思い出を,当時人気の空飛ぶヒーローなどを掻き分けて,淡い気持ちと整理しようとしたが,記憶の像は薄すぎて,上手い形になりはしない。鮮明な記憶としてあるのは,もっと後のことだ。ともに縁側を走って,転んだりした。近所よりは遠くの,遠くの出来事。
「言えないか?」
 それと,何より恥ずかしくなってしまった。



 だから忘れることも必要なのか。冗談半分でも,そこには何かの複雑さが入り込む。



 弟子となられたユウヤ君が淹れてくれたお茶を飲みながら,工房長とは最近の業界の動向や,身内の話(初めての新人の教育に手を焼いていたので),それから工房長と奥さまに勧められた森林浴のコースに妻と息子と行ってきた際の,デジカメ写真を机の上で展開しながら,お土産の袋を破いて,饅頭を頬張り,代わりに頂いた外国のクッキーは包んでもらって,持って帰ることにしていた。それはユウヤ君が器用な手つきでしてくれた。工房長はギブスをはめている足を杖で支えて,丸椅子のあったところからむず痒そうに,見届けていた。
「ありがとう。助かるよ。」
 お気になさらず,と背の高い格好でやんわりと答えたユウヤ君は,工房長の湯飲みの減りを見て,もう一杯如何ですか?と聞いた。おう,とばかりに湯飲みを少し前に出した工房長は,丸椅子を元に戻そうとしていたので,これはこちらで手伝った。丸椅子の上に工房長が座って,適量の湯気を見せる,ごつごつとした湯飲みが,日入りの良い午前中の明るみで映えたその色味を,きちんと見せていた。鳴き声が聞こえた。
「意外か?」
 工房長が漏らす。
「ワカタベさんは,そう言っていました。」
 指に伝わる,熱さに遊ぶ。もう一度お茶をすすって,工房長の言葉を待った。
「理由は言わんさ。見ればわかるだろうからな。ほれ。」
 と杖を上げて,杖を下ろす。工房長の目は,弱さとも取れる柔らかさを見せる。がっしりとした肩が下手なかたちで竦められて,ニット帽は室内で休んでいる。赤い色をして,橙色にも見えた。
「手ではないですけどね。」
「まあ,確かにな。」
 冗談も言えた。苦笑いであるけれど,工房長もそれに応じていた。伸びた窓が欠伸をしたように,床の上に寝転がっていた。
 工房長が言う。
「勿体無い,という感じはするんだがな。あいつにとっても,自分自身にとっても。行けるとこまで,行けるもんだと思っていたんだが,いざ転けてみると,これもまた勿体無くてな。当然同じものにならなくても,残せるものは,今は残してみたい。」
「有難い,というべきですね。一営業マンとしても。」
 肯定の返事は,スーツに身を包んで,帰り道を待つ机の上の紙袋に描かれた舟の胴体に,視線が合わさったままだった。静けさはまた訪れた。それから何度も訪れた。
 オムツの初恋。そうであったのでないかという機会は,調査と検証の結果とともに,最後に与えられた。眩しい思いをして来た。舌先に甘みもよく残っていた。
 踵に借りた靴ヘラを刺し,廊下に影を伸ばしながら,開いたドアから出て行く私を,工房長は見送る。工房に押して閉めたら,急勾配を下っていた。高くなっていく青空に,控えめに言って,慣れてきたに留まる足を運んで,その日は振り返ることをしなかった。紙袋がカサカサと鳴って,樹々のどこかの葉が擦れて,風は匂いを連れていた。色が段々と変わっていた。
 呼び止められるにはまだ早い。砂利道が踏ん張りを認めていた。



 通される袖口から伸ばされる腕と手に,吸い付く軽い感触のイメージ。ロールに止まって,進んでいく裁断の過程が,しゃきっと鳴る。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-21

Copyrighted
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