怪力少女・近江兼伝・第8部「波浪の記」

前任者の相原警視正は転勤になり、新しい上司がやって来た。

ところが命じられた新しい任務は高額の報酬がつくものの、一風変わったミッションばかりだった。

いったいこの任務の真意はなんなのだろうか?

春になり辰巳真治という人物から支援センターに呼び出された。
30代半ばのその男は顔立ちは生真面目な感じだが、何故か渚の目を真っ直ぐ見ずぼそぼそと話をする。
聞こえないときは渚が聞き返し、ほんの少し大きめに喋るが、またそのうち声が小さくなる。

「前任者の相原さんから言われたんだけど、君の収入の道を考えないと駄目だそうなんだね。
それで、防犯室の本来の役目を考えると広報活動だと思うので、都内の何箇所かを選んで防犯便りを作ろうと思う。
君は広報補助員として、事務的なことをやってもらうので、その分の収入は僅かだがあると思う。
それと別にこれは極秘プロジェクトなんだが・・・」

そう言って、初めて真っ直ぐ渚を見て聞いた。

「君は20歳ということだが、実際は16歳くらいに見える。
これは潜入捜査員として非常に有利なことだ。
だが、もし君が男の子の振りをしたらどうだろう?
12~14才くらいの少年に見えると思う。
丸みを帯びた体つきになっていないから好都合だと思う。
問題は少年らしい演技ができるかどうかだ。
実は少年としての潜入捜査活動のプロジェクトがある。
これを最後までやり通すと君に総額200万円ほどの収入が見込まれる。
一ヶ月くらい余裕をあげるから、それまでできるかどうか考えてくれ。
とりあえず支度金を20万円渡すので、その準備をしてくれ。
13歳前後の少年に見えるかどうかは実際に街頭に出てテストして見る。
その結果80パーセントの割合で男の子に見られたら合格になる。
合格しなければこのミッションは行わない。そうなると、このミッションは違う部署に持って行かれるだろう。
20万円は使った分は返さなくてもいいが、余った分返してもらう。
使った分は領収書をつけてもらう。では、準備ができたら教えてくれ。
それまではデスクワークで週3日くらい出て来てもらう。」

「あの、防犯便りってどうするんですか?」

「都内23区の中で犯罪多発地帯のベスト4を選んで、4通りの防犯便りを作成するのを手伝ってもらう。
印刷した防犯便りはそれぞれの地区の町内会に渡るように連合町内会組織に回し回覧してもらうが、それとは別にピックアップした場所に200部直接配布をする。
それが4箇所だから800部直接手で配ることになる。
これはアルバイトに頼んで・・・」

「それは、私にやらせてください。その分の収入ももらいたいので」

「それは構わない。
ではきょうは取り合えず、今朝僕が読んだ新聞が7種類あるけれど、印をつけた事件の切り抜きをやってほしい。
その間、私は各区の所轄警察署の未決事案をオンラインで拾っているので、終わった後相談しよう。つまり、どれを記事にして便りに載せるかをね。」

「あの・・・未決事案って、はっきり言うと所轄が受け付けたけれど忙しくって扱えない事件ですよね。」

「一番多いのは失踪者・家出人で、近所同士のトラブル、ストーカー被害などがその次に続く。
暴力的な嫌がらせとかの訴えも多いが、実際にはっきり被害が出ないととりあげないのが普通だ。
君はこれにも乗り出して行ったそうだね。」

「はい、それで報奨金とか協力費の名目で収入を得ていました。
うまい具合に紹介されたバイト先に勤めているときに遭遇したので、そういう面でも収入がありました。」

「君には悪いが、そういう仕事のセットは本来の防犯室の仕事ではないので、私にはできないと思う。
前任者は特別な才能があって、それができたのだと思うけど、私には無理だ。」

「駄目ですか・・・」

「すまん、君の才能をフルに使ってほしいと上からも言われているんだが、その仕組みが今一つわからない。」

「私の方で勝手にオンラインを覗いて、出向いてはいけませんか?」

「それなら、君が一般人として行うことだから構わないと思うけれど」

「その後、何かあって、犯罪を目撃し現行犯を逮捕したときに、室長に連絡すれば所轄を呼んでくれますか?」

「そこなんだよな。所轄になんて言うのか・・」

「部下を潜入捜査させていた結果逮捕者が出たので引き取りに行ってほしいと」

「でも、潜入捜査させていた訳じゃあ・・・」

「ああ、なんて頭が固いんですか。
実際に犯罪があったんだから、そう言っても構わないじゃあないですか」

「うーん」

辰巳室長は頭を抱え込んでしまって返事をしなくなった。
渚は頭が熱くなって来たので、それ以上は口を利かず、切り抜き仕事に没頭した。

(今度の室長はやりづらいし、堅物だからこっちが干上がってしまうかも。
こうなると、その特別プログラムとか言うのに期待するしかない)



五十嵐彩芽はすっかり偉くなって、武術映画の脚本や演出なども手がけていて、映画部に自分の部屋も持っていた。

「よく相談してくれたわ。佐野原さん。
仕事上男の子のふりをしなきゃ駄目ってことね。
どんな仕事かは聞かないでおく。
佐野原さんはいわゆる演技力が特別あるとは思えないから、そういう場合には取って置きの奥の手があるの。
エリクソン方式と言ってね、イメージで心を誘導してなりきるようにしむけるの。」

「エリクソン?」

「ところで佐野原さんは男の子の振りをしたことがある?」

「あ・・・あります」


「その頃のことを思い出してごらん。みんな周りの人もあなたのことを男の子だと思っていたかな?」

「知らない人はそう思ってました」

「もともと1人の人間の心の中に男の子の部分と女の子の部分があるんだよ、きっと。
だからそのときのあなたがそのまま成長したと考えるといいんだよ。」


「そのまま成長した・・・」

「そう・・・ところで、この香水いい匂いがするでしょ?」

「ええ、何の匂いですか、いい匂いですね」

「この匂いは一度嗅ぐと忘れないと思うよ。
もともと人間の嗅覚というのは時を超越して記憶に刻まれるものなの。
このにおいを嗅ぐと深く息を吸い込むたびにリラックスしてとってもゆったりした気持ちになるの。
大切なことはリラックスすること。
そうすると身構えることがなくなるから、偏見もなくなり、自分の中の男の子の部分が自然に顔を出すようになる。
ちょっと、どれだけリラックスしたか実験してみようか・・・?
あなたの掌にコインを一枚載せるね。
あなたはとても力持ちだからコイン一枚くらい持ち上げるのはなんともないはずだけど、本当にリラックスしていれば、その一枚ですら重くて持っていることが難しく感じるはず。だから手がだんだん下に下がってくるよね。
ほら、すばらしい。リラックスしてるよ。掌が下がってきてるもの。
顔の表情もすっかりリラックスしてるよ。
もう大丈夫、あなたの男の子の心をだしてごらん。
自分のことをなんて言うの?」

「僕・・・いや、俺かな?」

「その調子、女の子好き?」

「いや、女ってぺらぺら喋るからうるさいだけだよ。」

「私も女の子だけど」

「お姉さんは、大人の女だから落ち着いてるだろう」

「君は何歳くらい?」

「うーん、多分14歳かそのくらいかな?」

「甘い物好きかな?エクレアとか」

「食わないよ、そんなもの。腹がすいたら飯を食えばいいだろう。」

「憧れる人っている?」

「プロレスラーのアサシン手塚とか金剛力也かな、あんなマッチョに憧れるよ」

「ようし、じゃあ今の君がいつでも簡単に出れるようにしてあげる。
いい?君が君に似合った格好をしたときに君が出てくるんだよ。
当たり前の話だね。君が君らしい男の子の服を着たときに君は君になれる。
じゃあ、女性用のスーツを着たらどうなる?」

「成人女性になれる・・」


「じゃあ、可愛い少女の服を着ると?」

「女の子になる」

「そうだよ、今は女性の格好をしてるから、成人女性になれるよ」

「はい」

「以上です。終わったよ。」

「えっ、もう・・ですか?エリクソンが・・終わったのですか?」

「そう・・あとはこの香水をあげる。
男の子の格好をした後、緊張しているようだったらにおいを嗅いでリラックスするといいわ。」

「あの、エリクソンの代金を・・・」

「いらないよ。その代わり今度一緒に三人で食事しよう。」


「はい。そんなんでいいなら、ぜひ」


1週間くらい経ってから渚は町で男の子の服を買って、髪は自分でカットして支援センターに行った。
防犯室に入る前に香水の匂いを嗅いでから、ノックした。

「どうぞ」

中から辰巳室長の返事があったので、ドアを開けて中に入った。

「すみません。ここに行けと深庄という人に言われて来ました。
おじさん、辰巳って人ですか?」

「ああ、そうだが・・で、ここに来てどうすれと言ったんだ?彼女は?」


「汽車賃を貰って家に帰れと」

「なに?お前は家出したのか?」

「ああ・・いえ、はい。で、汽車賃ください」

「家はどこだ?」


「北部地方の江差万町」

「深庄の奴、とんでもないこと私に振りやがって!」

「俺が誰だかっわかりませんか、おじさん?」

「なに?」

辰巳は渚を見て数秒黙っていたが、やがて顔をほころばせた。


「化けたな・・深庄君。すっかり騙されたよ。」

「室長さんにお願いがあるんだけどさ。この格好でいる限り深庄に戻れないんだ。
服と中身がセットになってるから、このキャラのままで良いですか?」

「あ・・ああ、役作りに徹すると役者もそうなると聞いたことがある。
専門家に相談したのか?」

「はい、これ」

渚は領収書を渡した。そこには以下のことが書いてあった。

『10万円領収致しました。但し、演技指導レッスン料 5日分として。
 武闘会映画部演技指導担当インストラクター 五十嵐彩芽  』

これは渚がちゃっかり五十嵐に頼んで書いてもらった領収書だった。
その他に、少年の服代とか靴代、帽子代、下着代、ヘアカット代の領収書などを出した。
そのうちのヘアカット代は架空の理容室の領収書を使った。
それでも78000円余ったので、それを室長に差し出した。
だが、それは室長は受け取らなかった。

「これからやるテストに合格したら返す必要はない。
それから、男の子でいるときは、お前の名前はナリアキだ。
そして俺のことを『兄貴』と呼べ。では行くぞ」



亜麻木区亜麻木町は若者のファッション街と言われている。
その人通りの多い所で渚は通行人を捕まえてアンケートをとっている。

「すみません。アルバイトでアンケート取ってます。
このファッションブックから、僕に似合いそうな服を一つ選んでくれませんか?」

渡されたファッションブックは手製の物で、男女のファッションが写真つきで交互に並んでいる。
それぞれの服には番号がついていて、その番号を聞くと渚は一覧表に書き込む。
縦10マス横10マスの計100マスが埋まるまで続ける。
中には「君は男の子?」と確かめたり名前を聞いてきたりする場合は、番号を書かずに三角を書く。
すぐ傍で辰巳室長がチェックしているのでごまかすことができない。
なるべくファッションに興味がありそうなおしゃれな人を選ばないと協力してくれないから、その辺も気を使う。
「悪いけど急いでるから」とか断られることも多い。
100マス埋めるために実に500人以上の人に声をかけた。
つまり5人に1人しか協力してくれなかったのだ。
もっとも目的が本人の性別判断だとはわからないようにやっているので、余計何のためのアンケートか怪しまれることが多いのだ。
その場で辰巳室長は服装番号のうち女性用や中性用を選んだものを×印で消して行く。
×や△でないものを数えると83個あった。つまり、合格だった。


「それじゃあ、一番沢山選んだものから順番に何点か買って行くぞ。
このブックに載せたものは全部この辺りの店で売ってるものばかりだ。」

「ええっ?」

信じられないことだが、辰巳は8種類もの服装の組み合わせを色々な店を廻ってすべて買った。
もちろん帽子から靴下・靴に至るまで、小さな小物やアクセサリも全てである。
紙袋や箱を持つと渚の姿は見えなくなった。

「重くはないけど・・・運び辛いよ。兄貴、手伝ってくれよ」

「全部お前のものだから、自分で運べ。前が見えなかったら俺から離れるな」

「あああ、優しい兄貴だよ、全く」



センターに着くと、3枚の掲示板で囲んで臨時の着替え室を作り、8通りの格好をさせられ全て撮影された。
360度の角度で色々ポーズをつけさせられ、動画でしっかり撮られた。

「ねえ、兄貴。何のためにこんなことするんですか?
俺ジュニア・モデルとしてどこかのモデルクラブに潜入するんですか?」

「よし、きょうはこれまでだ。今度から深庄の服も持って来い。
広報の仕事をさせたくても、ナリアキじゃあ仕事をさせられそうにない。」


渚は驚いて30万円の入った封筒を何度も中身を見直した。
室長はそれを渡すとき、確かにこう言った。

「これでナリアキプログラムというミッションの第一段階が終わったので、最初に渡した20万円に加えて30万円で計50万円を渡す。
あと、3段階のミッションがある。その都度50万円が渡される。
ミッションは簡単なのものから難しいものまであるが、金額は同じ50万円だ。
明日は第2段階のミッションがある。
尚、今日買った衣類などは全てのミッションが終わった後、自宅に持って行って自分の物にして良い。」

渚は考えた。今日、自分はいったい何をしたのだろう?
色々な店を廻って男の子用のファッションを買い漁った。
そして、それを着て撮影。それだけで50万円?
それに服を買っただけで数十万円かかった筈だ。それも自分のものにして良い?
そんなうまい話があるだろうか?どこかでこんな話を聞いたことがある。
好きなだけ服を買ってもらって、法外なお小遣いももらって、その後・・・・。
もしかして辰巳室長は自分に援助交際を望んでいるのだろうか?
それも美少年趣味の・・・?
だが、もし迫って来たら、お金を叩きつけて秘拳をお見舞いしてやる。
でも、お金はもったいないな。どうしよう?
そうだ。貰った分はそのままにして、その先はお断りということにしよう。
それとも半分だけ返して、人の道というものを諭して聞かせようか?
渚はその日はずっとあれこれと悩んでいたが、夜になるとそのまま寝てしまった。



翌日2つめのミッションが伝えられた。
まず、昨日選んだ服の中から3番目くらいの人気の服を着るように指示があった。

「なぜ、一番人気の服じゃ駄目なんですか?」

「ナリアキプログラムの考案者がそれを望んでいるからだ」


渚はまた分からなくなった。
このミッションには考案者がいるのか?それはこの辰巳室長ではない?
ではもっと上の・・下手すると警察庁長官が、そういう好みなのか?
辰巳は小さな器具を大事そうに取り出した。

「これは絶対壊してはいけない大事な物だ。」

頭に被るバンダナの中央にブローチのようにつけられた豆粒のような黒い物。

「それともう一つ・・・」

襟元に小さなタイピンのようなものをつける。

「バンダナにつけたのは超小型カメラだ。そして襟につけたのはマイクだ。
私から25m以上離れると、カメラもマイクも利かなくなるから注意してほしい。
これは3番目のミッションにも使うから、絶対壊さないようにしてくれ。
それでは現地に行ったときにミッションの内容を伝える。」


亜麻木町に着いた時、辰巳室長は非常に変わったミッションを伝えた。

「ここは亜麻木町駅だ。
ここから幾つか角を曲がって行くと有名な亜麻木通りがある。
今日一日こことそこを何往復もしてもらう。
但し、必ず女の子に声をかけること。できれば可愛い女の子が良い。
待つときはなるべく立ち止まって目と目が合った子が良い。
そして、亜麻木通りに行く道を聞くのだ。
亜麻木通りに着いてしまえば亜麻木駅への道のりを聞けば良い。
それをできるだけ繰り返すのだ。
名前を聞かれたらナリアキと名乗れば良い。
誘われたら食事をしても良い。コーヒーを飲んでも良い。
だが、映画は駄目だ。暗い場所はいけない。
私は常に離れた所で撮影している。マイクの音もモニターしている。
良いと言うまでこの行動を繰り返すこと。
できれば、楽しく会話できればそれでいい。」

「あのう・・・もしかして、ナンパするってことですか?」

「というより逆ナンパ待ちだ。君から積極的になる必要はない。」

「はあ、俺って男として魅力あるんでしょうか?」

「それは私もわからない。
女の子の気持ちになってみないとわからないことだ。
だが、君はそうやってると結構可愛いから、女でも可愛い男が好きだというのもいるような気がする。」

「大変確信に満ちた力強いお言葉ありがとうございます、兄貴」

「このミッションが成功すれば50万円渡すからがんばってくれ。では」

またしても、意味不明なミッションを与えられた。渚はそう思った。
女の自分が男の子の振りをして声をかける。そして逆ナンされるのを待つ?
意味わかんねー!!だが、こんな高収入のバイトは他に絶対ない!!
やるしかない!!渚はそう思って、最初の女の子たちに声をかけた。

「あの・・亜麻木通りってどっち行けば良いか、わかるかい?」

「亜麻木通り?知らないの?信じられなーい」

二人連れの女の子は笑いながらそのまま行ってしまった。

(教えてくれよ、せめて。)

少し腹が立ちながら、ちょっと年上のお姉さんタイプの女性に声をかけた。

「君・・その格好でそういう質問はいけないよ」

19歳くらいのその女性は、笑ってそう言った。

「どうしてですか?この格好おかしいですか?」

「だって、流行の先端行ってるじゃない。
田舎者ならわかるけど、都会っ子が道を聞くっておかしいよ。
わかってるのにナンパ目的で声をかけてるとしか思えないもの。」

「実は田舎者なんです。
北部地方から出てきたばかりで、服は都会に住んでる従兄弟のを送ってもらったんです。」

「本当に?駄目駄目騙されないよ。
それ、最新のものだし、亜麻木通りの店のウィンドゥに飾ってあった奴だもの。」

「ごめんなさい。お姉さんに声をかけたくて、他に思いつかなくて道を聞きました。もう行ってください。」


「うふふふ、やっぱりね。で、声をかけたらその後どうする積もりだったの?」

「あ・・あの、ちょっとお話できればそれで良かったんです。
どうするって・・・何も考えてませんでした。すみません。」

「コーヒーでもおごってあげようか?」

「えっ、本当ですか?良いんですか、本当に」

「冗談よ。それじゃあ、成功祈ってるね、バイバイ!」

渚は2連敗で落ち込んだ。女が女をナンパするなんてどだい無理な話しだ。
そこを母娘らしい二人連れと目が合った。
母親は30代半ば、娘は12歳くらいだ。

「あら、亜麻木通りなら今行って来た所よ。ほらあそこに黄色いビルがあるでしょ?そこを右に曲がって・・・・」

母親が説明している間、娘はじっと渚を見て恥ずかしそうに笑っていた。
美人母娘に礼を言って別れると、少し元気になった渚はそれから声をかけまくった。
一度成功すると不思議なもので、聞く人聞く人親切に道を教えてくれる。
中には説明している間中最高の笑顔を崩さず見つめてくれていた女性もいた。

ミッションを実行しながら、渚は思った。
このミッションは潜入捜査とかそういうのではない。
ミッションの名を借りた個人的な要望のもとに作られたプログラムだ。
きっと内気で醜く、女性に声もかけられない、見向きもされない寂しい男性のために、こんな映像を撮ってるんだ。
何故かお金は沢山持っている、そんな男性・・年齢はどのくらいだろう?
お金持ちだから年長者なんだろう?それとも老人?
女性に笑顔で話しかけられ見つめられる、ただそのことだけを望んでいるのだ。
第1ミッションは、この第2ミッションのための準備にすぎない。
だがそれは心の片隅に過ぎった一時的な憶測に過ぎなかった。



何度も繰り返していると、渚は同じ事を聞くのが嫌になってしまい、とんちんかんな事を言ってしまうことがあった。

「何言ってるの?君、中坊でしょ?飯おごれって失礼じゃない!」

「あっ、俺そんなこと言った?きっと腹減ってたんだな。いいよいいよ、金持ってないだろう?
俺持ってるから何かうまい物食べよう。」

「馬鹿みたい。いったいどうしたいのよ?あんたのおごりで何か食べれば言い訳?」

「いや、やっぱり割り勘にしよう。じゃあ、行こう行こう。」

「って、何も言ってないじゃないの。一体何を食べるのよ?」


「もう、牛丼でもカレーでも何でもいいよ。おごってくれる?」

「言ってることが目茶目茶ね。じゃあ、カレーおごれば良いのね?」

渚も空腹でふらふらだったので、自分で何を言ってるかわからなかったが、いつのまにかカレーをおごってもらうことになったので、後はおとなしくついて行った。
カレーの大盛りを頼んでもらって、あっと言う間に平らげた渚を見て、相手の女の子は自分のも前に出した。

「食べなさいよ。まあ、いい食べっぷりね。」

「あ・・・ありがとう」

そういえば、辰巳室長はランチタイムもとってくれてなかった。
もう3時になるから、これだけ腹が空くのも当然と思い、譲ってもらった皿もあっという間に空にした。

「ごちそうさま。」


「外に出ようか」

女の子はさっさと先に立ってレジで会計をすませると、後から出て来た渚に向かってにっこり笑った。

「さあ、カレーをおごったよ。君は私に何をしてくれるの?」

「ええっ!?そうなのかい?」

渚は一瞬戸惑ったが、女の子をひょいとお姫様抱っこすると、走り出した。

「ちょっちょっ・・・止めて、止めて!!」

渚は100mくらい人ごみの中を走りぬけた後、立ち止まりそっと女の子を下ろした。

「ああ、驚いた。君すごい力だね。ああ、それにしても恥ずかしい。」

「ごめん、却って迷惑だったかい。何かしなきゃと思って・・」

「いや、とても楽しかった。お姫様抱っこなんてされるの子供のとき以来だよ」

「それじゃあ、俺はこれで・・・」

「あら・・割とあっさりね。ちょっとがっかりって嘘。じゃあバイバイ」


そこで立ち止まってると、辰巳室長が怒って走って来た。

「言っただろう、25m以上離れるなって・・お陰で途中で音声と画像が切れたじゃないか」

「すみません、兄貴。でも、これって本当にミッションなんですか?」


「ミッションだ。疑問を持つな」

そろそろ4時近くなってきて、もう切り上げ時かなと思っているとき、向こうから4人の男女がやって来た。
男3人が女1人と言い争いしながらやって来る。
4人とも17・8歳くらいの若者で渚より1・2個上という感じだ。
ミッション中なので構わずにやり過ごす積もりだったが、つい目が行ってしまう。
それに渚は立ち止まっていたので、ずっと見ていたというのが相手にもわかった。

「おいこら、坊主。何見てんだよ?」

「やめなさいよ。中学生じゃないの」

男がいちゃもんつけて来たのを女の子はにっこり笑って渚に言った。

「気にしないで。早く行きなさい。こんなのに関わることないから」

「こんなのとは何だ!てめえ!」

いちゃもんをつけて来た金髪の男が女を叩いた。

「何するのよ!顔叩かないでよ!」

「それがどうした?おいそこの餓鬼ちょっと来い」

渚が自分のことを指差して確かめたところ、確かに呼ばれているらしい。

「お前以外に誰がいるんだよ!!」


他の二人、刈上げ頭と紫のサングラスが両脇から渚を掴んで通りの外れに連れて行った。

「その子関係ないでしょ。離してあげなよ!」

「お前は黙ってろ。お前は後でゆっくり焼きを入れてやる。」

両腕を左右から掴まれた渚の前に金髪が指をポキポキ鳴らして立った。

「いいか、勝手に見てるんじゃねえよ」

渚は掴まれていた腕をぱっと広げると、殴りかかって来た金髪の顎をチョンと軽く蹴り上げた。

「ぎゃああああ!!」

口から血を出して、金髪男は地面を転げまわった。
舌を噛んだらしい。

「この野郎!」

他の二人がかかって来たので、まず体を沈めて旋風脚で足を薙ぎ払い倒した。
そして1人ずつ横面に回し蹴りを入れてノックアウトした。

「君強いね。ありがとう。」

女の子は逃げようと言って、渚の手を引っ張って走り出した。

「待って、あんまり走ると・・・」

渚は25m以上離れることができないので走るのをやめた。

「大丈夫だよ、俺は。お姉さんだけ逃げるといい。」

「なんだ。一緒に逃げてくれないの?お礼に何かおごってやろうと思ったのに」

「実はたった今遅い昼を食べたばかりで、お腹一杯なんだ。」

「じゃあ、コーヒー」

「う・・うん、それでお姉さんの気がすむなら」

「よし、決定。行くよ」


「歩いて行こうよ。急ぐことないから」

正直渚はこういうミッションは苦手だった。女の子から早く解放されたかった。
でも、ミッションの目的が逆ナンで、これが本日初めてだから中止する訳にはいかない。


コーヒーを飲みながら女の子は渚に言った。

「ナリアキ君ってのか?14歳?中2だね。君、本当に強いね、3人もやっつけて・・・。
でも、君って不思議だね。君くらいの年ごろなら、もっと私を見ると女を意識して、ギラギラしたりドキドキしたりするのに、何か弟と話しているみたいだから。」

「ド・・ドキドキしてますよ、俺。お姉さんいけてますから」

「じゃあ、これからどっか行く?」


「あっ、きょうはゆっくり休んで下さい。さっき叩かれたところ大丈夫ですか?」

「やっぱり・・いいよいいよ、解放してあげるよ。ナリアキ君」

女の子はコーヒーの払いを済ますと先に立って歩いた。
その後姿に渚は声をかけた。

「あの・・さっきの人たち大丈夫ですか?またお姉さんに何かしないかな?」


「大丈夫。二度と会うことないと思うから、あいつたちとはね。
ボーリング場で絡まれて掴まって逃げられなくなったの。
あのままだと何処かに連れ込まれて監禁されてたかもしれなかった。
本当に助かったよ。ありがとう。」

「そうだったんだ。良かったです。役に立てて。それじゃあ」

「ナリアキ君、私の名前聞かないの?」

「聞いて良いんですか?」

「邦美(くにみ)って言うの。
亜麻木ジャズダンスクラブにいるから、今度会いに来て」

「あ、はい。ぜひ」

だが、渚は本気でそう言ったのではなかった。
社交的辞令というものだった。
そこで、辰巳室長からミッション終了の合図があった。



またしても50万円受け取って渚が封筒を握り締めていると、辰巳は言った。

「明日はなるべく運動に適した格好をしてくるように。
逆に言えば少し傷んでも惜しくない服がいい。
それからセンターに戻ったら、例のファッションの服は持って帰って良い。
明日は、ある意味過酷なミッションになるから、きょうは十分休んでおくように」

「兄貴、いったいこれ何のミッションなんですか?
俺やってる最中気になって気になって・・・」


「最後のミッションを始める前に教える。それまでは従ってくれ。」

「明日の服だけど、買ってもらった服で一番派手なのを着てきます。
派手なの好きじゃないから、傷んでも惜しくないし」

「好きにしてくれ。」

渚は、明日一体どんなミッションかなと思った。
孤独な金持ち男を慰めるために、何か過酷なことをする?
だが、渚にはそれがどういうことか想像もつかなかった。


その日も目覚めは良かった。
深庄渚としての格好・・・と言ってもこれも、もともとボーイッシュな服装だが・・その格好でセンターに行くと、すぐ着替えるように言われた。
予め防犯室に置いておいた5番人気の、一番派手派手なファッションの服を着ると、これなら破けても惜しくないなと渚は大きく頷いた。
そして、例の香水を嗅いでリラックスすると、ナリアキになった。
それから辰巳室長がニット帽の中央に例のボタン型カメラをつけて、襟にマイクをつけると言った。

「きょうのミッションは犯罪多発地区ナンバー・スリーの小巣華町(こすげちょう)に午前中。午後にはナンバー・フォーの亜麻木町裏街道に行く。
そこで、犯罪に巻き込まれた人を見つけて助け出す。
但し犯人逮捕はしない。」

「兄貴、どうして多発地帯ナンバーワンのところを選ばないんだよ?」

「そういう所は、主に夜に犯罪が集中している。
時間外だし、暗いと撮影しずらい。
午前中の犯罪のナンバーワンと午後夕方までの時間のナンバーワンの地区を選んだのだ。」

「犯人逮捕しないというのはどうして?野放しにするのかい、危ないだろう?」

「警察通報は通行人とか目撃者に任せればいい。
そうしないと事情聴取で時間がロスする。それと、もう一つ大切なことがある。
犯人にでも被害者にでも目撃者にでもいいから、必ずナリアキという名前を告げることを忘れないことだ。」

「それがナリアキプログラム・・・だから?」

「そうだ。必ず犯罪に遭遇すること。できるだけ沢山。それがミッションだ」

「もう一つ。お昼は食べさせてもらえるんでしょうね、兄貴?」

「もちろん。昨日の場合は、相手におごらせるためにわざと食べさせなかった。私はこっそり食べていたが・・・」

「きったねえなー!!血も涙もないよ、兄貴って。」

だが、今回のミッションがいわゆる『荒事』だと分かると、渚は『野球少女』の野球バッグとゴムバットを背中に背負うことにした。
バッグには結束バンドの他、色々なグッズが詰まっている。


小巣華町は郊外の住宅街だが、9時半から10時までの間に主婦たち中心に、買い物目当てにどっと人が出る。
すぐ近くに大型ショッピングモールがあり、歩いて10分前後で行けるので、みんな財布の入ったバッグを持って行く。
それを狙って引ったくりをする者が後を絶たない。
最近は自転車によるもので、しかも集団のひったくりグループが出て来た。
ひったくられてバッグを離さなかったために転倒し骨折したり重傷になった老婦人たちの話もある。
もう一つ、夫婦揃って出かける老夫婦の留守宅を狙って入る空き巣もいる。
空き巣は大体自分の縄張りエリアを持っていて、その範囲内の家のことなら本人たちより詳しく研究している。
どこの窓が入りやすいかとか、お金はどこに隠しているとか、冷蔵庫にはどんなものがあるのかとか、買い物の時間はどのくらいとか、実に詳しく調査している。



渚がショッピングモール側から住宅街の方に歩いていると、それはたまたま起こった。
向こうから十数名の主婦達がこっちに向かって歩いて来ている。
これからモールで買い物をするのだろう。
中には自転車に乗って来る人たちもいる。
その背後のずっと向こうに自転車を止めて主婦たちの方を指差しなにやら話し合っている男達の一団がいた。
打ち合わせが終わったらしく、自転車の一団が猛烈にスピードをあげて主婦たちに向かい突進した。
そして次々に背後から追い抜きざまにバッグ類を奪ってこっちに向かって来るではないか。
奪ったバッグを仲間に声を掛けて投げると、受け取った者がそれを荷台の入れ物に入れる。
バッグを離さないでがんばる主婦がいると、反対側の背後から別の者が近づいて殴りつけて手を離させる。
中には転倒し引きずられている主婦も。
だが、そうやってがんばるのは比較的若い主婦で、年配の女性は簡単に奪われてしまう。
彼らは仕事が終わると車道側に降り、歩道にいた渚とすれ違って行き過ぎようとした。
そのとき渚は車道に躍り出て先頭の自転車の前輪を横から蹴った。
自転車は転倒し、続く者2台も巻き込まれて倒れた。
渚はゴムバットを握っていた。
3人の男たちをポコポコポコと打ちのめすと、更に車道の中央に逃げようとする後続の自転車に向かって、転倒した自転車を持ち上げ投げつけた。
車道の真っ只中なので、車がクラクションを鳴らしてブレーキを踏んだりするが、犯人たちも必死に逃げようして、反対車線にまで出ようとする。
車の運転手達は停車してその様子を見ていた。
1人の派手な格好をした少年がおもちゃのバットを振り回して、自転車の男達を次から次へと打ち倒して行く。
離れて逃げて行こうとする者には、自転車を投げつけ自転車を転倒させる。
立ち向かおうとする者もいたが、小柄なその少年は獣のようにすばしっこく、恐ろしく強かった。
あっという間に叩きのめされ、たった一発の攻撃で倒れて立ち上がれないでいる。
なにしろ車の屋根なぞ軽く飛び越えるジャンプ力があり、いくら逃げようとしても空から降ってくるように襲い掛かってゴムバットをお見舞いするのだから、誰も敵わない。
こんな見世物は滅多にないと、車から降りて見学する者まで出た。
バッグを奪われた主婦たちも追いついて来て、車道まで出て倒れている者からバッグを取り返していた。
中には倒れている犯人の体を思い切り蹴飛ばしている主婦もいた。

「すみません。ひったくり犯人のグループなんですが、歩道の方に運ぶの手伝ってくれませんか?」

そのスーパー少年は、見学している運転手たちに頭をさげて協力を依頼した。

「おういいとも。あんちゃん強いね?一体何者なんだい?」

「俺、ナリアキって言います。こういう悪い奴許せなくて。
すみません。自転車もこっちに運んで下さい。」

犯人を引きずって運んでいる最中も、腹の虫の納まらない主婦は追いかけて何度も叩いていた。

「おばさんたち、あんまりやり過ぎると暴行罪になるから、その辺にしとけば。」

「あんた、本当にありがとうね。おかげでお金を取り戻せたよ。だけど、こいつら憎くてどうしようもないよ!」

「じゃあ、これあげるから手錠の代わりに縛っといて。で、誰か警察に通報してくれれば、牢屋に入れてくれるよ」

渚は犯人の数だけ結束バンドを主婦たちに渡した。

「ちょっと、どこへ行くの?お手柄だから新聞にでも載せてもらわないと」

「あの・・・俺、正義を守る別の仕事があるから、後はよろしく」

「あんた!名前は?」

「ナリアキです。じゃあ、どうも。
それから引きずられたり、殴られた人もいたようですから、救急車も呼んであげてください。」

そして最後の自転車を車道から出して、歩道の片隅に積み上げると、運転手たちに手を降った。

「どうぞ、ご迷惑をかけました。気をつけて運転してって下さい。」


「おう、あんちゃん。かっこいいぞ!」

運転手たちも主婦も拍手した。
仕方なしに渚はその場を走って姿を消すことにした。


「こんなところに隠れていたのか、ナリアキ?」

辰巳室長が住宅の物置の陰から出てきた渚を見て言った。

「だって、100m以上離れたらいけないんだろう?ヒーローが退場するためには、隠れるしかないじゃないか」

「塀を乗り越えた後、地面にしゃがんだようだったから、すぐにわかったがな。」

「隠れている間だけど、妙な動きをする男を見つけたよ。
住宅の間をきょうろきょろしながら動き回っていた。」

「それはきっと空き巣だ。」

「ようし、忍び込もうとするところを掴まえてやれ」


そういうと、渚はひょいとコンクリートの塀の上に上がり、その上を走り出した。
こっちの方がよほど怪しい動きなのだが、それをあまり気にしてなかった。
幅10cmほどの塀の上を地面を走るごとく走り回ると、視点が高いのですぐにその男を見つけることができた。
窓から侵入しようとしている所を、掴まえて腕をねじ上げた。

「こら、おっさん、あんた空き巣だろう?俺はナリアキっていうんだ。
悪い奴は許せない」

「勘弁してくれ、家には七人の子供がいてお腹を空かして・・」

「ボコン!」

そんなことをいちいち聞いていたら面倒なのでゴムバットで眠らせると、結束バンドで手足を拘束し、頬っぺたに油性ペンで『空き巣』と書いた。
侵入した家の玄関の方に運んで転がすと、また走り出した。

一体空き巣の縄張りはどのくらい広いのか、1000軒分の広さかそれともその倍か?
道路で仕切られた区画単位で幾つ分とか、決めているのだろうが、その中心に空き巣本人の家があるのには違いない。
渚はなるべく辰巳から遠ざからないように、それでも素早く塀や屋根を伝って周囲の状況を観察した。
そして昼近くなってそろそろ諦めようとした頃、ある家のベランダから土足のまま出て来た男を見つけた。
塀の上から見てるとバッグから金目のものを抜き取って、足元に投げていた。
ベランダのガラスは割られていて、そこから侵入したらしい。

男が顔を上げるといつの間にか目の前に少年が立っていた。

「おっさん、空き巣だね。ちょっと仕事が粗いタイプだね」

「なんだ?俺はここの家の・・・」

「俺、ナリアキって言うんだ。空き巣の取締役だよ。」

「だから、俺はここの人間だ。空き巣なんかじゃ・・・」

「ボコン!」

全く泥棒の言い訳なんかは聞いていてもきりがない。
渚は盗った物も触らずにそのまま男の手足を拘束して、顔に『空き巣』と書くと、その場に転がしておいた。


ちょうど、昼になったので、渚は辰巳に昼食を要求した。

「まさか、食事は自分のお金でという訳じゃないですよね、兄貴?」

ショッピング・モールのレストランは例の主婦たちと顔を合わせると面倒だということで、近くのはやらないラーメン屋で昼を済ませると、亜麻木町の方に移動することになった。


「失敗しましたね、兄貴。
こっちの方がおしゃれな食べ物屋がいっぱいあるのに」

そんなことを言いながら歩いてると、なぜか辰巳が渚に近づいて来る。

「なんですか、兄貴?近すぎますよ。」

「この辺は若者グループのたまり場なんだ。私みたいなおっさんは、『親父狩り』の対象だ。」

「わかりました。ちゃんと守りますから10mくらいは離れて下さい。」

そう言っているうちに、7人の子供たちが向こうからやって来た。
彼らが『グループ』の人間だということはすぐにわかった。
手に手にぶっそうな獲物を持っているからだ。
彼らは14・5歳から17・8歳の男の子たちだが、死んだ魚のような目をしていた。
そして、まっすぐ渚たちの方に向かって来た。
渚は、辰巳に後ろに下がるように言うと、彼らを短時間のうちに観察した。
リーダーではないが、先頭に立って来るのが14・5歳の男の子だった。
渚はこの男の子を『アイドル』と名づけた。アイドルの獲物は『釘バット』だ。
その次の3人は鉄パイプを持った17・8歳の子で、高校生なのか有職少年なのかは定かではない。
きているシャツで『赤』『黒』『花』と名づけた。
後ろの3人の中央が着ているものが他と違い、リーダー格らしかった。
だから、『リーダー』と勝手に名づけた。それが実際にリーダーなのか、そうでないのかは渚にはどうでもよかった。
戦いに入る前に、相手に呼び名をつけたかったのである。
最後列の3人は金属バットを持っていた。右側の男は『サングラス』をしていた。
そして左側の男は顎に『ヒゲ』を生やしていた。
これで、全員の呼び名が決まった、と渚が思ったとき、なんの前触れもなく『アイドル』が渚の脛に向かって釘バットを打ち付けて来た。
背中から抜いたゴムバットでそれを打ち払うと、『アイドル』の釘バットは30m以上も遠くに弾き飛ばされていた。
多分『アイドル』が足を狙って相手を倒し、他の人間が倒れた相手を滅多打ちにするというのがいつもの順序なんだろう、と渚は思った。

「痛っ・・・て・・てめえ、何者だ!?」

『アイドル』は痺れる手をさすりながら渚に聞いた。

「相手が何者かわからないのに襲って来たのか?お前たち悪い奴だな。
悪い奴らは俺が許さない。俺は悪い奴らを退治するナリアキだ。」

「ふざけんな!」


「ボコン!」


『アイドル』が倒れるとすぐに他の6人は動いた。
1時の方向の『花』が斜め右から鉄パイプを渚の右肩あたりめがけて打ち下ろして来た。
11時の『赤』が斜め左から渚の左肩めがけて鉄パイプを打ち下ろす。
12時の『黒』は大上段に構えて渚の頭頂めがけて打ち下ろす。
この攻撃は同時に見えたがほんの僅かに『花』が早かった。
渚は右手に持ったゴムバットで鉄パイプを弾くと、鉄パイプは10mほど飛んだ。
そして返す手で『黒』の真正面からの鉄パイプを左側に弾いた。
それも10mほど飛んだ。そして『赤』の鉄パイプは渚は左手で掴んでいた。
その鉄パイプを相手の手から引っこ抜くと、背後の方に放った。
獲物を失った3人は慌てて次の3人の背後に隠れた。
新手の3人は金属バットを構えて前に出た。
1時の『サングラス』が、バットをフルスィングして渚に迫って来た。
2度3度振って来たのを間合いの外に出て避けたが最後は間合いに入ってボコンと頭を叩いた。
すぐ11時の『ヒゲ』が斜め下から掬い上げるようにバットを振り回して来た。
バットをフルスィングするのは当たれば威力があるが、味方に当たると困るので一人ずつしかかかって来れない。
それに振り切ったときに僅かに動きが止まる。渚のスピードはそれで十分だった。
2・3回金属バットを振り回した『ヒゲ』が、ちょうど右上に振り切ったとき、渚は飛び込んで腹を蹴離した。
『ヒゲ』は飛んで背後にいた『赤』にぶつかって二人ともさらに3mほど飛んで折り重なるように倒れた。
すぐ、『リーダー』が目茶目茶にバットを振り回して来た。渚はゴムバットでそれを叩き落とすと、ステップインして腹を蹴離した。
『リーダー』は3m飛んで、逃げ腰だった『黒』と『花』の二人にぶつかって、折り重なって倒れた。
もうそれで7人すべてが倒れた。
意識がある者もない者も戦闘能力は失っていた。

「兄貴、行きますよ」

渚は背後に隠れていた辰巳室長に声をかけると前に進んだ。


亜麻木町裏街道には組の事務所が最近増えてきたという噂がある。
事務所と言っても正式なものではなく、出先機関で覆面状態だから、表から見てもわからない。
亜麻木町は若者が集まる町で、当然家出娘や家に帰らない不帰宅娘も沢山いる。
そして亜麻木町には多くの『グループ』がいる。
組の人間はこの2つに目をつけた。
つまり『グループ』を利用して家出娘や不帰宅娘をかどわかせ、お小遣いと引き換えに買い取るのだ。
その後、組の者は娘たちを風俗に勤めさせ、金づるにして行くのだ。
いわゆる古典的なしのぎの一手法と言える。
若者グループが『食事』などを餌にして娘たちをかどわかしても、それを警察は取り締まれない。
若者同士で仲良くして何が悪い、ということになるからだ。
実際娘たちも、その時点でかどわかされていることに気づかないから、余計なお世話だと思うに違いない。
そうでないことが分かるのは、彼らから組の怖いお兄さんたちに引き渡されるときだが、これは素早くやるのでなかなか証拠が掴めない。

この『引渡し』の場面をたまたま見たのが、その日偶然だったというしかない。
渚は、裏街道を歩いていて『グループ』の人間にその後も何回も会うが、ちょっかいを出して来た場合は『倍返し』にして撃退して行った。
また、『喝あげ』の場面も2・3見たので、声をかけやめさせた。
もちろん声をかけただけで相手はやめないので、実力行使をしたことになるが。

そうやって歩いていると、露天駐車場にボックスカーが何台も止まって、若者の『グループ』らしき者と、組の人間らしき者が集まって話しているのを見た。
ちょうど、話し終わって一台のボックスカーから10代の女の子が5・6人引きずり出されて、違う車に押し込まれそうなところを見た。
『グループ』から組へ女の子が引き渡されている現場である。
渚はその意味はもちろん知らなかったが、いやがる娘たちを小突きながら男達が車に乗せようとしているのだけはわかった。

「兄貴、聞こえるかい。ちょっと先の道路際で待っててくれるかい。
車で拾うから。」

渚は物陰から近づいて、娘たちが乗せられたボックスカーに近づいた。
車の外ではお金の数を数えて『グループ』に渡している様子だ。
運転席側の窓を叩くと、人相のよくない男が窓を開けた。

「なんだ?」

渚のことを『グループ』の一員だと思って一瞬油断したのだろう。
手を伸ばしてロックを外すと運転席のドアを思い切り開けて、男を引きずり落とした。
渚が運転席に乗り込むと、助手席にいたごつい男が何かをしようとした。
だが、渚は側頭部を掌で突いて気絶させた。ドアを閉めると車を発進する。
後ろの方にも男が1人乗っていたらしく。なにやら怒鳴っている。
道路際で待っていた辰巳室長の前で止まると、助手席側のドアを開けて男を放り出し、辰巳室長を乗せた。
そして後部席の引き戸式のドアを開けると、女の子たちを乗り越えて奥に座って喚いていた男を一撃で黙らせた。
もう車が追いかけて来たので、すぐに運転席に戻り、急発進した。
室長に言って、リュックから結束バンドを出してもらい、女の子に渡した。
女の子達は気絶した男を結束バンドで拘束した。

女の子は全部で六人いた。渚は亜麻木町の表通りに出ると、室長に言った。

「今ちょうど信号が赤になったからこのまま突破するよ」

車を強引に通過させるとすぐ角を曲がって室長と女の子だけを下ろした。

「録音や撮影はここまでです。この子達を保護してもらってください。」

「ナリアキはどこへ行くんだ?」

「俺の方におびき寄せてまきます。」

彼らを下ろして建物の陰に隠れたのを確かめると発進した。
少し前に進んで交差点でゆっくり右折した。ミラーに後続の車が見えた。
窓ガラスに目隠しフィルムを貼っているので、まだ女の子たちが乗っていると思っているに違いない。
郊外に出るとこっちも向こうもスピードをあげて本格的なカーチェイスになった。
渚は山道の方に逃げた。途中で拘束した男を道路際に捨てて行き、山の上の方に車を走らせた。
そこで渚はあることに気がついた。
この山は一本道が螺旋状になっていて、山頂で道が終わるようになっている。
つまり行き止まりになっていることに気づいたのだ。
山頂の手前で車を止めると、渚は車の下に潜り込んだ。
すぐに追いかけて来た車がその後ろに止まった。ボックスカー2台と外車2台だ。
3台は組の車で1台が『グループ』の車だった。
渚が乗って来た車のドアを開けて、中にいないのを確かめると、辺りを捜し始めた。

「男の餓鬼1人と女六人だ。行き止まりに気づいて下りて逃げたから手分けして掴まえるぞ。」

少しすると、二人の組の者らしい話し声が聞こえた。

「その餓鬼は女の知り合いか家族かな?」

「俺たちから女を奪うとはいい度胸だ。」

「まずはコンクリート詰めにして海に沈めるしかないだろうな」

男達はびっくりして渚を見た。突然現れたからだ。
だが、彼らは声を出す暇もなかった。
なにしろ渚はジャンプすると1人は顔に右膝での膝蹴り、もう1人は左足で頭を横蹴りしたのだから、ひとたまりもなかったのだ。


道路にはガードレールもない。
路肩は弱いが道路の外側は少し段差があって20cmほど低いが割りと平らな草地になっている。
渚は追いかけて来た車のサイドを持って道路の外にひっくり返して行った。
ボックスカー2台と外車2台の全てを10秒以内に全部ひっくり返すと、再び乗って来たボックスカーに乗って何回か切り返してUターンした。

今度は一本道を降りて行った。途中で組の者や『グループ』の者に会ったが、すぐには気づかず道を開けてくれた後で騒ぎ始めた。
だが、そのときには渚はスピードを出してさっさと町に降りて辰巳室長と合流した。


現場にはすぐ武装警官が30名以上出動し、山の中でうろうろしていた者を根こそぎ補導・逮捕した。

「未成年者拉致・監禁ということで、『グループ』の子5人、組の者16名捕まえたということだ。
女の子達は親の家に帰したが、これに懲りてくれるといいが・・・。」

辰巳室長はそう言った後、渚に言った。

「悪いが、ちょっとこの後ブティックに寄ってもらう。」



亜麻木町の婦人物を扱っている所で、渚が試着させられたのはお嬢さん風の白を基調としたドレッシーな服だった。
しかも辰巳室長が用意した髪の長いウィッグを頭に被っての着せ替えである。
ちょっと踵の高い白い靴や鍔にフリルのついたハットなども組み合わせた。
渚は既に「女の子パターン」に戻っていた。

「あの・・辰巳さん、どうしてこういう服装にするのですか?」


「明日の最後のミッションに使うのでね」

それ以上は言わず、一揃いのものを買うと、渚に渡した。

「明日これを着て来てくれ」

渚は今まで男の格好のミッションだったので、混乱した。
結局、今回のミッションはなんだったのだろう?
手にはたった今手渡された50万円の入った封筒を握っていた。



翌日渚は恥ずかしいのでセンターに着いてから着替えた。
長い髪にフリルのハット、白いドレスにエナメルの靴。
そしてハンドバッグまで持って渚は身づくろいした。

「私は自分のことをなんて言えば良いのですか?」

「上原秀美という名前にしておいてくれ、だがわざわざ名乗る必要もない。」


車で着いた場所は病院のような大きな建物だった。
そこには『難病治療法研究所』という看板がかかっていた。
辰巳室長は止めた車の中で説明を始めた。

「私には今29歳になる弟がいる。辰巳成明という。
14歳のときにネモスリー病という脳が麻痺して行く難病にかかった。
この病気は世界でも珍しく治療法は全くない。
最後には脳死して植物人間になってしまう病気だ。
普通の病院では入院代が莫大にかかるのだが、成明はここを見つけた。
ここでは脳死するまでの間、研究協力費が毎月出る。
脳死してからは出なくなるが10年間そのまま生かされて研究される。
それも契約に入っている。もちろん無料だ。
家に全く経済的負担がかからない代わりに自分の体をモルモットとして提供することになる。
成明は自分の意思でそう決めた。
彼は14歳の少年の心のまま少しずつ脳の機能を失って行った。
最初に運動機能が失われ、やがて言葉も喋られなくなった。
成明がまだ言葉が喋られるときに聞いたことがある。
もし神様が病気を治すこと以外で三つの願い事を叶えてくれると約束してくれたら、どんな願いごとをするのか?と。」

辰巳室長は遠い目をして、その頃のことを思い出していた。



ベッドに寝ていた成明はこの話しに目を輝かせた。

「そうだね、僕お洒落してみたいよ。
最新の流行のファッションでばっちり決めてみたいな。
まるでモデルみたいに頭のてっぺんから足の先まで完璧にして、何着も何着も色々なパターンで着こなしてみたいな。」

そう言った後ちょっと恥ずかしそうに二つ目の願いごとを付け加えた。

「それと可愛い女の子に話しかけてほんの少しでもいいから話をしたいな。
それも道行く女の子に何人も何人もだよ。
どういう訳かみんな可愛くて美人の人ばかりなんだ。
飽きるほど一杯一杯沢山の女の子に話しかけてみたいな。
うーん、本当は話しかけてもらいたいのかな?
あなたって素敵だねって言ってもらいたいのかな?できれば逆ナンされたい。」

そう言いながら成明は大学生の兄に恥ずかしそうに顔を赤らめてみせた。

「3つ目になると、もう神様も呆れるくらいの無茶な願い事だね。」

そういうと成明はとっても楽しそうな顔をして言った。

「正義のヒーローってのを一回やってみたいな。
僕は無茶苦茶強くて、弱い人を助けて悪い人間をこてんぱんにのしてしまうんだ。
世の中には体が健康なのに人を傷つけたり踏みにじったりして平気な悪い奴がいるものね。
僕はそういう悪い奴をやっつけてこらしめてやりたいよ。」

そう言ってしまった後、何か思い出したようになって成明は少し暗い顔になった。

「どうしたんだ?」

「いや・・・もう3つ願い事を使っちゃったから・・・」

「どうせ、お喋りの話題なんだから、願い事もう一つ増やしてもいいじゃないか?」

兄の言葉に成明は、真面目な顔をして口を開いた。

「もし、許されるなら・・・僕が、もしこの病気にかかってなかったとしたら出会う運命になっていた将来の奥さんに会ってみたい。
きっと、前世でも夫婦で、来世でも夫婦でずっと縁のある女性なんだよ。
今回だけは都合で一緒になれなかったけれど、一目だけでもあってみたいな。
そして、言うんだ。心の声で、今回はごめんね。でも、この次は一緒になろうねって。
そう言って手を握りしめてみたい。」

兄の真治は、弟の方を見ずにぼそっと言った。

「その子は・・その女の子はどんな子なんだい?
前世の記憶を辿って教えてくれよ」

兄の声が少し震えていたことなど気づかずに成明はすらすらと楽しそうに答えた。

「うん。髪の長い子だよ。目が丸くて睫毛が長いんだ。
白いドレスがよく似合って、鍔の大きいハットを被っているんだ。
エナメルのちょっと踵の高い靴をはいて、可愛いハンドバッグを小脇に抱えているのがとってもよく似合ってる。
声もきれいで、きっと歌もうまいだろうな。
名前は平凡なんだ。けれども上田とか上原とか上のつく苗字がいいな。
なんとなく上品に聞こえるだろう。名前は頭が良くて美しい感じがいい。
秀美とか、そんな名前なんだ。なーんてね。」

それだけ言うと成明は疲れたみたいで、やがてベッドの上で眠り出した。
真治は、忘れないうちにと聞いたことをすべてメモにして書き残した。
いつか・・・成明が意識があるうちにこの願い事を全部叶えてやろうと。


「病室には大きなデスプレイがあって、画像も見れるし音声もヘッドホーンで聞けるようになっている。」

辰巳真治室長は渚に説明した。

「君がナリアキの身代わりになって着てくれた8種類のファッションの映像を見せたとき、ナリアキは目を輝かせて喜んだよ。
発病から15年経っているのにナリアキは驚異的にがんばっている。
まだ、感情もしっかり残っていて、質問にも瞬きで返事ができるんだ。
『はい』なら一回、『いいえ』なら2回でね。研究所の医師もこれは奇跡的なことだと言ってる。
通常は、その3分の1の期間で脳死してしまうのだから。
2つ目のミッションの女の子に道を聞く画像と音声は、本人が驚いていた。
まるで自分が実際に経験しているみたいだと言っていた。
そういう風に私が質問して答えさせたんだけどね。
ナリアキの14歳のころの身長でいえば、ちょうど君の額の辺りが彼の目の高さになるんだ。
だから画像はリアルに伝わったと思う。
君の声もナリアキの声の質に似ていたから自分の声のように思えたと思う。
そして3回目の映像は、彼はとても興奮していた。
まさか実際にこんなに強くなれるなんて思わなかったそうだ。
最後の六人の女の子の映像は深庄君と別れてからは手持ちのカメラで撮影したから、彼女らがナリアキにお礼をいうところまで見せることができた。
深庄君、本当にありがとう。後はただ、
ほんの短い間でいいから、その格好で会ってやってほしい。そしてできるなら優しく手を握ってやってほしいんだ。」

そこまで話すと辰巳室長はハンカチで目頭を押さえた。
渚は頷くと、辰巳成明の病室に向かった。



渚は学芸会に出たことがない。
専門家の五十嵐彩芽も演劇の才能があるとは言わなかった。
だから上原秀美などという作り物の人物を演じるなんてできっこなかった。
だから、深庄渚として・・いや近江兼として会う積もりでいた。
私はお兄さんに頼まれたの。実は映像に映っていたナリアキも私。
お兄さんは研究協力費を使ってあなたの願い事を叶えようと私に頼んだ。
私には嘘は言えない。私はお金をもらって正義の味方も演じたの。
そして、今はあなたの運命の人を演じてお金を貰うことになっている。
ごめんね。私は本物じゃないけれど、その積もりになってくれる?
私じゃあ不足かもしれないけれど、一生懸命着飾ってきたから。
あなたは優しいお兄さんを持ってよかったね。ああ、それからなんと言おう。
嘘は嫌だ。死んで行く人間を騙したくない。
そう思って渚はドアを開けた。

そこに待っていたのは自分を澄んだ目で見つめている寝たきりの男の子だった。
29歳と言ってもどこか年齢を超越して少年のような目をした表情。
渚は口を開いていた。そして予想外の言葉が飛び出していた。

「神様から特別許しを貰って成明さん、あなたに会いに来ました。
私の名前は上原秀美です。」

そういうと、渚は成明のか細い手をそっと握った。

「成明さん、前世でもっずっと夫婦だったのを覚えている?
その前もその前もずっと一緒だったんだよ。
今回はごめんね。でも、大丈夫。来世にはまた一緒になれるよ。
だから安心してね。」

すると成明はゆっくりと目を一回だけ閉じた。
その目から涙が流れて横向きの顔の上を伝って行った。
その涙を見ていると渚の鼻がツーンと痛くなって目頭が熱くなった。

「そうだ、成明さんの代わりに逆ナンされたり、悪い人と戦った男の子だけど・・・」

渚は思い切って言ってみた。

「成明さんの名前をこれからも使っていいかって・・・
あなたに聞いてほしいと頼まれたの・・いいのかな、使っても?」

すると、成明はゆっくり一回瞬きをした。

「ありがとう。そう伝えるね。」

渚はそれ以上成明を見ているのは辛かった。
彼はそれだけ澄んで真っ直ぐな目をして渚を見ていたから。

「神様が決めた時間がそろそろ終わってしまうから、もう行っていいかな?」


成明はまたゆっくり瞬きを一回して少し笑ったように見えた。
渚は成明の顔に顔を近づけ、その涙の跡のある頬に軽くキスをして部屋を出た。
何故か体がぶるぶる震えていた。

車で待っていた辰巳と目を合わせると渚は大きく頷いた。
辰巳は何も言わずに封筒を渡すと車を発進させた。


新聞報道にこんな記事が出た。

『ナリアキ』と名乗る少年、首都に現る!
(前略)
13・4歳と思われる『ナリアキ』と名乗る少年が小巣華町ショッピングモール付近に現れ、集団ひったくり犯8名をたった一人で捕まえた。
犯人集団は自転車に乗っていたのにも拘らず、徒歩空拳の少年が全て逃亡を阻止したという。
ひったくり犯に奪われた金品は全て無事持ち主に戻った。
だが、都民の通報で警察が現地に到着したときは、お手柄の少年は姿を消していたという。
同日、小巣華町内の2軒の住宅から、不審な男が自宅の傍に手足を拘束されているという通報が家人からあり、警察が取り調べたところ、2名ともその家に入った空き巣であることが判明。
空き巣2名ともは『ナリアキ』と名乗る少年に捕らえられたと供述した。
また、同日午後に亜麻木町裏街道にて『ナリアキ』と名乗る少年が3件の恐喝現場に現れて、被害者たちを救ったという報告があった。
(中略)
最大の出来事は同じ裏街道で夕刻に、6名の10代女子が暴力団関係者らに拉致・監禁されているところを、『ナリアキ』と名乗る少年が救出。
自らは山間地に犯人たちをおびき寄せ、乗って来た車を使用不能にして、逃走できないようにしたもの。その直後警察が出動し事件に関わった少年5名と暴力団関係者16名を補導・逮捕したもの。
これら一連の事件解決にすべて「ナリアキ」という少年が貢献していたということだが、目撃者によると身長は150cm~160cmで細身の体、流行のファッションに身を固めた少年だという。
しかし、その動きは俊敏を極め、筋力も尋常ではなかったという。
専門家の話しによれば、特殊な訓練を受けた者でなければ、そのような行動はできないだろうとのこと。
たった一日だけ首都に現れた『ナリアキ』という少年は一体何者か謎は深まるばかりである。
(後略)

似たような記事は多くの新聞・テレビなどで取り上げられた。



あのミッション以来渚は辰巳真治室長に1週間ぶりに呼びだされた。

「潜入捜査などと言って、君を騙してすまなかったな」


そういう室長に渚は首を横に振った。

「騙されたとは思っていませんから、気にしないでください。
それより、成明さんはその後どうですか?」

辰巳室長は静かに微笑んだ。

「最後のミッションについては、自分が夢を見ていたのだと思っていたようだった。
それだけ聞き出すのにも、かなり苦労したけれどね。
何度もせがむので、同じ映像を何度も何度も見せてあげたよ。
そしてとても満足そうにしていた。
そして昨晩8時2分過ぎにとても安らかに眠って行ったよ。
つまり全ての脳の活動が止まったんだ。
後10年間彼はこの世に法的には存在することになる。
もし差し支えなかったら、今後も辰巳成明の名前を使ってあげてくれないか」

「はい、なるべくそうさせて頂きます。ご本人にも許可を得ていますから。
そうですか成明さんが・・・」

そう言うと、渚は言葉を詰まらせた。

「ありがとう・・・」

室長はそれ以上は言わずに自分のデスクに戻った。



「佐野原さん、こっち!!」

五十嵐彩芽が店の奥から手を振って渚を呼んだ。
五十嵐には深庄の名前は教えていない。
佐野原逸香というスタントマンの名前で通っている。
五十嵐が入り口を見張っていた奥の場所からさらに奥の方に行くと、ドアつきの小部屋があり、そこにSARONが待っていた。
SARONは一応仮面を外してメディアに顔を出しているから、変装していた。
それが茶髪のヤンキーっぽい格好をしていたから、全くわからなかった。

「こういうときの変装は五十嵐さんに頼むんだよ。
サングラスにマスクは絶対駄目なんだってさ。
これだとみんな目をそらしてくれるから都合がいいんだ。」

一通り、食べ物や飲み物を注文した後、五十嵐が週刊誌のページを開いて渚の前に置いた。


「いろんなことやってるね。」

開かれたページには『ナリアキという謎の少年ヒーロー』という記事が・・・。

「えっ、これ・・・どうして?」

渚は思わずうろたえて、口をパクパクさせた。

「どうしてわかったかって?こんなの佐野原以外にいないじゃないの。」

「こんなのって?」

「その記事よく読んでごらん。車を1人で4台もひっくり返しているんだよ。
身長や肉付きから考えて絶対不可能だよね、あんた以外は・・
それに、あんたが少年を演じるのに私・・・力貸してるし。」

「お願いだから・・」


「あったり前でしょ、誰にも言わないよ。
それより『ナリアキ』で売り出さない?」

「アクション映画ですか?」

「そう・・佐野原逸香がプリンセス・ヘルだってばれているから、あんたはもう映画に出ないって言ったけれど、『ナリアキ』なら良いよ。顔出しもOKだし。」

「でも、佐野原だってすぐばれてしまいます。」

「そこが作戦よ。佐野原逸香の弟だってことにすれば良いのよ。
そうすれば顔が似ているのも当たり前になる。
それに『ナリアキ』は話題性があるよね。
幻の女スタントマン佐野原の弟であり、謎のヒーロー『ナリアキ』だから。
顔は出すけれど君の戸籍も通っている中学校も全部謎のままにしておく。
そうすると仮面歌手SARONのときみたいにみんな関心を持ってくれる。」

「あの・・・演技はあまり上手じゃないんだけれど」

「なに言ってるの。女はみんな生まれつきの演技者って言うじゃない」

「いつも五十嵐さんが言ってることと違いますね。
人によって演技力に個人差があるって・・・。」

SARONがそのとき喋った。

「ちょっと・・・私がいること二人とも忘れてないよね」
「そうそう、その新しい映画にSARONも出てもらうんだ。
挿入歌を歌ってもらうことになる。」

渚は首を傾げた。

「主題歌じゃなくて?」

SARONは渚を見てにっこり笑った。

「主題歌ってアクション映画の場合は難しいのよ。
殴ったり蹴ったりするのを歌詞にして歌うなら男性歌手の勇ましい声の方がいいし。
だからアクションとは直接関係ないやさしいバラード調で・・・歌詞も愛とか幸福とか安らぎをテーマにしてさり気なく流す方が映画の内容とバランスが取れるって言うか・・・。そういうさり気ない歌だから主題歌という大上段な言い方しないのね。
でも、それとは別に主題歌があるかというと、それしかないけれど」

渚は五十嵐の方を見た。

「どんな映画なんですか?」

「題名は『必殺鳥人拳』と言う仮の題名。実はこういう拳法は実在しないのよ。
内容的に似た拳法はあるけどね。つまり鳥のように飛び舞いながら相手を倒すという足技中心の拳法ね。
実際これはワイヤーを使わなければ無理ね。
でも主人公の少年時代を『ナリアキ』君がやってくれれば、修行途中の驚異的なジャンプ力とかをリアルに表現できると思う。ワイヤーなしでね。」

「いえ、いくら私でも空は飛べないし、跳んだら一回地面に降りなきゃその次のジャンプはできないですよ。
つまり、ぴょんぴょん蛙のように跳ぶことになりますけれど。
そんなんで戦えるんですか?
空中にいる間は攻撃はかわされやすいし、防御はしづらいんですけど。」

「その辺は後で相談しよう。
あ、注文したものが来たみたいだから、まず食べようよ。」

渚は相変わらずノンアルコールだが、五十嵐は構わずにワインなどを飲んでいる。
SARONはアルコールは飲めないので、アルコール抜きのカクテルのようなものを頼んでいた。
SARONはグラスを傾けながら独り言のように喋りだした。

「私、コンサートすることになったんだけれど。
サンライト・レコードが今までやっていたオムニバス的なコンサートじゃなくてワンマン・コンサートになりそうなの。」

五十嵐の目がきらりと光った。

「だって、SARONには持ち歌が3つくらいしかないじゃないの。
どうやって繋ぐ積もりなの?まさか昔作った歌も披露する気?」

「しないよ。そこまで私傲慢じゃないから。3曲以外はカバーで繋ぐ積もり」

「ってことは、他の歌手の持ち歌を歌って、自分の方がうまいぞって見せ付ける積もり?」

「五十嵐さん、いつからそんなに意地悪になったの?そんなんじゃないよ。
誰もがよく知っている名曲を歌わせてもらって、お客さんを飽きさせないように
したいから。
良い歌はいつ歌っても良い歌だと思うし、そういう良い歌をできるだけ選んで、一緒に口ずさんでもらってもいいし。
私が歌うことの意味は、歌う声が違えばその歌の魅力を別の角度から感じてもらえるかなって・・・そのくらいかな。
もちろん、持ち歌にしている歌手さんと比べて見劣りするような歌い方はしない積もり。
でも、競争するんじゃなくて、比べなくても良い、別の種類の歌い方というか歌手の個性というか、それを歌を通して感じてもらえればいいなって」

「わかったよ、わかったよ。SARON、あんたらしいよ。
ごめんね、わざと変なこと言って・・。
あんたほど謙虚な歌手はいないから、さっきの発言は取り消しだよ」

渚は二人が何を言ってるのか半分ほども理解できなかったが、この二人は本当に親友なんだなと思った。
自分はおまけかな?とも思ってちょっと寂しくなった。


「佐野原さん、今何考えてた?」

五十嵐は渚の顔を見て指をさした。

「もしかして、私ここは自分の居場所ではないとかそんな寂しいこと考えてなかった?
駄目だよ。すぐ顔に出るんだから。あんたは私たちよりかなり年下だけど、同じ仲間だよ。同志だよ。
戦友と言ってもいい。ねえ、SARON?」


「そう、私たちの言ってることわからなかったら、どんどん聞いてね。
佐野原さんも自分のこと教えてほしいし。私達は仲間なんだから」

「は・・はい、ありがとうございます。」

そう言われると渚は少し嬉しくなって飲み物のおかわりを頼んだ。
そして口を開いた。

「五十嵐さんでも、SARONさんでも、私にできるような仕事お世話していただけませんか?」

五十嵐彩芽は驚いて言った。

「何言ってるの?だからさっき『なりあき』でデビューしようって言ったじゃない。」


「それは是非やらせてください。
実は私ついこの間普段とは桁違いの収入を得ました。
でもそういうのとか、映画出演のギャラとかは貯金したいのです。
それとは別に普段の生活費を稼ぐ仕事がしたいのですが、そういう地道な収入の道がないのです。
そうすると貯金を切り崩して食べなければいけません。
そんなことをするとすぐ貯金を使い果たしてしまいます。
貯金は何か困ったときのための資金にしたいので・・・。
ですから、皆さんの身の回りに力のいる仕事はありませんか?
私は学歴もないし資格もないので体だけが資本なんです。
力仕事なら自信があります。それはお二人ともご存知ですよね。
ないですか?なにか、そんな仕事が・・・」

「そんなに困っているの?」

SARONが渚の顔を覗き込むように身を乗り出した。

「貯金に手をつけないと決めているので、もう手元には殆どお金が残っていません。
家には僅かなお米と野菜の切れ端と調味料しか残っていません。
実は、きょうはご馳走になるというので、食いだめしようと思って来ました。」

五十嵐が渚の両肩を掴んで揺すった。

「どうしてあんたは頭が固いの?
貯金をちょっとだけ下ろして肉を買いなさいよ。でないと、死ぬよ!
それにどうして映画のギャラを生活費に当てちゃ駄目なの?理由を言って!」

渚は両肩を掴まれたまま、悲しそうな目をして答えた。

「たとえば私が『ナリアキ』でデビューしますよね。
それをどのくらい続けられると思いますか?
15歳の『ナリアキ』が声変わりもしないし、喉仏も出ないし、ヒゲも生えずに、顔立ちもゴツゴツした骨っぽい顔にならずにいつまでも女のような顔をしていたらおかしいでしょ?
14歳だからぎりぎりセーフの顔も15歳とか16歳になったら、もう男の子には見られない・・・そんな気がします。
だから、はじめから女として長続きしそうな仕事はないかと・・・」

五十嵐は渚から手を離すと腕を組んだ。

「いわゆるスタッフ仕事ね・・これがキャストだったら適当にできるんだけど、スタッフ仕事となるときちんとした履歴書とか住民票とかが必要になるから、未成年のあんたには世話できる仕事がないんだ。」

「私もよ。付き人でも戸籍謄本がいるらしいから」

SARONもそう言って付け加えた.

「成人できちんとした戸籍があれば良いのですか?」


渚がそう言ったので、五十嵐が手を振った。

「そりゃそうだけど、そんな戸籍ある訳ないじゃない。今16歳のあなたに」

「実は私は戸籍上20歳なんです。」

「ええっ?!」

二人とも飛び上がらんばかりに驚いた。



「そうなの?あんたは深庄渚っていうの、法的には?」

五十嵐彩芽はしげしげと渚を見た。

「それじゃあ、佐野原は・・・えーと深庄だったけ?ややこしいな。
私の関係は避けた方が良いよ。SARONの方で使ってもらった方がいい。
だって、女のままだったら佐野原逸香だってわかってしまうもの。
ねえ、SARON。何かない?」

SARONはしばらく下を向いていた。それから同じくらい上を向いていた。

「いいよ、いいよ、ないなら良いよ。私が違うとこで見つけるから」

五十嵐が言うと、SARONは待ってと手を伸ばした。

「サンライト・レコードの大道具部・・・かな?」

「あれって大工もできなきゃ駄目なんじゃ・・・絵も描けなきゃ駄目だし」

「作る方じゃなくて、セットしたりほぐしたりするのに力のある人が欲しいらしいの。
住民票と保証人がいれば雇ってくれるはずだから、私が保証人になっていいから。
お金は高校生のアルバイトより安いかもしれない。時給えーと」

「やらせて下さい、それ!」

渚はSARONの手を握って頭を下げた。

「ちょっと待った。それやっぱり駄目!それじゃあ映画に出られなくなるから」

そう言ったのは五十嵐彩芽だった。

「もっと時間に融通の利く仕事で佐野原だってばれない方法を考える。」

「いえ、五十嵐さん。私、映画の方を諦めます。」

「そんなこと言わないで、もう決めてたんだからあなたの出演!
佐野原・・・じゃなかった『ナリアキ』が出てくれないと成り立たないの。
今回は他にも新人を発掘してあるし、それがすべておじゃんになる。」

「わかりました。じゃあ、その時間の融通の利く、私の正体がばれない方法を明日までに考えて下さい。
それ以上時間がかかると私は餓死してしまうので、SARONさんの所に走ります。」

「情け容赦ないね」

「命がかかっているので」



辰巳室長は渚と向かい合って座っていた。ここはセンターの防犯室だ。

「うん。確かに君の言うとおり定時的な収入は必要だし、今まで数年間補助員として貢献してきたんだから、君の意志を尊重すべきだと思う。
契約内容にも、いつでも君の都合で解約できるとあるから問題ない。
じゃあ、この契約解除の書類ににサインして。」

渚は書類にサインするとセンターを出た。



渚は五十嵐の個室で彼女に会っていた。渚はナリアキの格好をしていた。

「武闘会館の社員食堂で賄い婦の仕事がある。それと掃除婦の仕事。
あとは家政婦の仕事。他には土木作業員。撮影の為の穴掘りとか色々な力仕事を担当する。
全部武闘会館の中でできる仕事だけど、従業員が休んだときの欠員補充要員として、会社に登録しておいたから、なるべく沢山稼げるようにシフトを組んでおいてあげる。書類上のことは問題ないから」

「ありがとうございます。」

そのとき、ドアがノックされた。

「どうぞ」

五十嵐がそういうと、きちんとした身なりをした17歳前後の娘が入って来た。
その娘は渚を見て目を見開いた。

「ナリアキ・・さん?」

渚はびっくりしてその娘をよく見た。
それはナリアキ・プログラムの2つ目のミッションのときに出会ってコーヒーをおごってくれた『邦美』という女の子だった。


「あれ・・?ナリアキ知ってるの、この子を?」

五十嵐が渚に聞くと、渚は頭を搔きながら照れてみせた。

「ええ、偶然亜麻木町でちょっと知り合って、それ以来なんですが」

「この人、亜麻木ジャズダンスクラブの伊豆屋邦美さん。
独創的な創作ダンスを創る才能があるから、振り付け師として来てもらったの。」

渚は耳を疑った。

「振り付け師って、アクション指導の間違いじゃないんですか?」

五十嵐は手で椅子を示して、伊豆屋邦美を座らせてから説明した。

「武術と舞踊は両方とも神事から始まっていると言われるだけあって、密接に関係しているのよ。
もちろんこの二つは目的が別々だから、完全には一致しない。
武術はできるだけ敵を効率よく倒すのが目的。
舞踊は肉体の美しさを動きを通して表現するのが目的。
だから強い武術が美しいとは限らないし、美しい武術が強いとは限らない。
優れた舞踊が武術に応用できるとは限らない。そういうことね。
でも舞踊の美しさが武術に取り入れられたら、敵を倒すことだけが目的の、がさつな武術を、見て楽しむものにできるじゃない?
つまり舞踏と武術を神事の昔以来再構築して映像芸術として一体化するってことね。
まあ、ブルース・リーの映画もそうだし、みんなやってることだけどね。」

渚は五十嵐の言っていることがわからず首を傾げた。

「でも敵を倒すとき動きの美しさなんか考えていたら、逆にやられてしまわないかなあ」

「あっ、ナリアキは心配しないで。
ナリアキが出る所はなるべくリアル路線で行くから。」

そこまで言うと今度は伊豆屋邦美に向かって話した。

「この子の動きをよく観察して、そこから鳥人拳というものを創作して行ってもらいたいの。
それじゃあ、キャストの集まりは明日の午前9時、場所は映画村のスタジオCでね。」

「あの、五十嵐さん。私まだ自分が何故スカウトされたのかわかりません。
私なんかで良いんでしょうか?まして踊りならともかく武術なんて全く私はしりませんし。」


「わかる、わかる。
でも私が何故あなたをスカウトしたかというと、あなたが体の動きに関する感性を持っているからなの。
しかも、武術の動きに通じる無駄のない、しかも美しい動きがどういうものかを知っているからなの」

「そんなこと言われても。」

「まあ、最初はじっと観察しててね。そのうちわかってくるから」

「はあ・・・」

「きょうは、これからナリアキと打ち合わせがあるから、あなたはもういいわ。
明日からよろしくね。あと、これ。
中国武術の色々な流派の表演が入ったDVDだけど、見ておいてね、明日までに」

なにやら紙袋に一杯入ったものを渡すと、五十嵐彩芽は伊豆屋邦美をドアまで見送った。
そして渚の方を見た。


「さってっと。あなたには新しい深庄渚になってもらうわ。
ハリウッドの特殊メイク技術の力を借りてね。
特殊メイクは普通長い時間がかかるものだけど、簡略式のものが手に入ったの。
シリコン製で顔にぴったりつくマスクがあるの。
目は同じ大きさだとつなぎ目がわかるから、少し小さめにしてある。
細くて垂れ目になるわ。あと、ほっぺが膨らんでる。
顔の輪郭の所が境目が見えるので髪の毛で誤魔化す。
後、鼻の穴と口も微かに境目が見えるのでマスクをしてもらう。
眉毛は少ししか動かないので黒縁の伊達めがねで誤魔化す。
一番しやすい表情は微かな笑顔ね。ほらつけてごらん。
マスクをしなくてもそんなに目立たないでしょ?
そして顔の輪郭を隠すような髪の毛のウィッグ。
ちょっと陰気臭くなるけど我慢してね。
用心のためにマスクで顔半分を隠す。
顔はおでぶちゃんだから体も膨らませる必要がある。
そのためにあなたに合わせたボディスーツを用意しておいたよ。
胴体と二の腕や太ももを少しずつ肉付きを良くしている。
それに従って着る服のサイズもOサイズになるから、それも各種揃えた。
仕事別に着ることができるようにしてるから安心して。
もう、あなたは可愛い女の子じゃなくて、ちょっと太ってて何処にでもいそうなそれほど美人じゃない娘さん。
必ず着替えるときはこの部屋の奥にある私の仮眠室を使ってね。
私が寝てても構わないからね。
早速、『ナリアキ』のスケジュールとぶつからないように仕事のシフトを組んだから。これがシフト表ね。
他の人にうっかり見られても暗号が使ってあるからわからないから。
Nがナリアキ。Kが家政婦。Sが掃除婦。Mが賄い婦。Dが土木作業員。
でも、見られないようにしてね。落としても駄目よ。
場所はこれから口頭で壁の構内地図を見ながら教えるから頭に叩き込んでおいてね。えーと、きょうこれから行くところはMだから・・・・」



「なんだ。20歳の若い娘が来るって聞いてたから期待してたのにお前か?」

武闘会社員食堂調理部主任は20代の男だった。
名前は田中義男で、管理栄養士の資格証明が壁に額縁つきで飾ってあった。
調理に当たっている賄い婦は殆どが中年の女性だった。
主任はその中で若い男なので、浮いた存在に見える。
渚をじろじろ見て疑わしそうに言った。

「調理の経験はあるのか?」

「自分で食べるものは自分で作っていますが、その程度です。」

「何か作ってみてくれ。この辺にある材料で」

「はい、それじゃあ・・」

賄い婦たちが集まって来た。

「ほら、また始まったよ。臨時の補充要員だって言ってるのに何もそんなこと要求しなくてもいいのにさ。」

「管理栄養士って言っても理屈だけで、自分では料理したこともないくせに主任面してさ。」

「他では威張れないもんだからね。ちょっと、あの新米娘、チャーハンを作るみたいだよ。
包丁さばき結構慣れてるね。」


「だけど、あの中華なべはまずいよ。
あれはチャーハン用のじゃなくて、大量に酢豚など作るときの鍋だよ。
あれじゃあ、ヘラでかき回すだけで、鍋は重過ぎて振れないよ。」

火力の強いガスコンロで中華なべを熱すると、渚は油を入れて、といた卵を入れる。
ジューと卵が固まる前にご飯を入れかき混ぜる。
それに刻んだチャーシューと刻みねぎを入れて、最大の炎の中で鍋を振った。
しかも片手で振って舞い上がるチャーハンが炎に触れて焦げる。
もう一方の手でヘラを操りサクサクと切る。
醤油を鍋に回して少し振ってから火を止めて、皿にふわっと盛る。

「簡単なものですけど・・・味見してみてください」

田中主任がスプーンを取って食べようとすると、賄い婦の女たちが一斉に駆け寄って手に手にスプーンを持ち試食し始めた。
田中主任は残りの一口分しか食べられなかった。

「うーん、素人にしては・・・」

田中主任がもったいぶって何か批評をしようとしたとき、賄い婦たちが口々に喋りだした。

「あんた、深庄さんて言うの?すごいね。」「とっても、おいしいよ。」
「あの中華なべを片手で振るなんてプロでもできないよ、すごいね」
「本当は調理師の免許持ってるんでしょ?」「若いのにやるね」
「これから宜しくね。」「びっちり来てほしいよ。あんたみたいな助っ人なら」

若くてころっとしたおでぶちゃんの深庄補充要員は、おばさんたちにすぐに受け入れられた。


もともとは盛り付け用の助っ人に呼ばれていたのだが、調理の腕が良いということで、チャーハンなど中華なべの焼き物専門にやらされた。
大きい中華なべは熱したとき冷めづらいので、一度に5人前とかでも、鍋を振ることさえできれば調理可能なのだ。
但しそれだけの腕力がある人間はいないので今まで誰もしなかっただけの話だ。
5人前のチャーハンを空中高く炎の中で舞わせながら、鍋を振る渚の姿は他の賄い婦の手をしばしば止めさせた。

「見れば見るほどほれぼれするねえ。」「伝説の補充要員さんだね」
「ちょっと、手を休めないでよ!」「あ、ごめん」


その日の賄い飯は渚のチャーハンということになり、10人分のチャーハンと中華スープを作って、みんなで食べた。
主任だけがみんなと離れて別のものを食べているので、渚が不思議に思って見ると、ベテランの賄い婦が言った。

「主任は自分の弁当を食べるのさ。賄い飯は調理班だけのものだからね。」

渚は疑問に思ったことをまた口にした。

「ここにはシェフはいないのですか?」

「調理師免許を持つ者は何人かいるけれど、シェフは常駐していなんだ。」

「常駐していないというのは?」

「ときどき来てくれるんだよ。色々なところから交替でね。
そして、料理について指導してくれる。」

渚は今度シフトを組むときは、なるべくシェフの指導がある日にしてもらおうと思った。


翌日9時に映画村に集まると井出宗助監督が待っていた。
横には五十嵐彩芽副監督兼演出が控えている。
五十嵐はシナリオ原案なる冊子をみんなに配った。

「仮題は『必殺鳥人拳』となっていますが、変える積もりでいます。
このままだと鳥人拳という拳法の凄さを伝えるだけの映画になってしまいそうだからです。
一応あらすじはありますが、不完全なものです。
キャストの皆さんと一緒にミーティングを重ねて内容を膨らませて行きたいと考えています。
では、シナリオを読んで頂き30分後にまたミーティングをしましょう」

渚はシナリオの最初を見た。
スタッフとキャストが書かれていた。


(スタッフ)

監督 :井出宗助
助監督:五十嵐彩芽
演出 :五十嵐彩芽
カメラ:佐藤勉
照明 :篠原恭子ほか
音響 :鍋島達也ほか
原案 :五十嵐彩芽
美術 :高橋結香
振付 :伊豆屋邦美
アクション指導:辰波五郎
ワイヤー技術指導:空知功治


(キャスト)

鈴木 誠 (主役):星塚静夜
 同上 (14歳):ナリアキ
 同上  (7歳):西野徹
古川沙世(準主役):紀藤みつる
 同上  (子役):九条ゆかり
鈴木甲機 (祖父):嵩岸悦郎
古川栄一 (社長):金渕剛
古川華代 (妻) :狭山杏
安田和馬 (悪役):時田篤志
 同上  (子役):新岡新
鈴木幸子 (母親):岡野達子
安田組の男たち  :武闘会アクションクラブ
 不良たち    :武闘会ジュニア・アクションクラブ
スタント     :武闘会スタントクラブ

  
次にあらすじの原案というのが書いてあった。


     (あらすじ原案)
泣き虫の鈴木誠は学校の帰りいじめっ子たちに追われているところを謎の老人に助けられる。
老人は誰にも言わないなら、虐められないように鍛えてやると約束する。
特訓の結果、誠は鳥人拳という拳法を身につける。そして7年が経った。
後は自分で鍛錬することと、拳法を身につけていることは人に知られてはならないことを言い残して、老人は去る。
誠はたまたま不良に襲われていた古川沙世を覆面をして助ける。
家に帰ると男達が来て母親と誠を無理矢理どこかへ連れて行く。
連れて行かれた所は古川沙世の父親古川栄一の邸宅だった。
古川栄一は誠の母親の幸子を捨てて現在の妻と結婚した男だ。
彼は幸子に生活費を渡す代わりに誠を引き取りたいと言った。
幸子は断った。だが、認知だけはしてくれと言った。
誠は自分に父親がいて、沙世が腹違いの妹だと知って驚いたが、自分は今のままがいいと母親と同じく断った。
それから8年の月日が経ち、22才の誠は女性下着メーカーの開発部に勤めていた。
だが、沙世の婚約者の安田和馬という男が手下を使って誠の命を狙っていることがわかり、覆面をして安田組に殴りこみに行く。
そして安田和馬に悪事のすべてを白状させ謝らせる。
それを沙世はたまたま聞いていた。そして安田に婚約破棄を告げる。
次の日沙世は誠に会いに来る。いきなり頬を叩いてから一言言う。

「やっぱりあなたじゃないわね。ちょっとでも思った私が馬鹿だった。
あなたが、あの覆面の人かなって・・。でもあの人はそんなにとろくない。」


読み終わって渚はよく筋書きがのみこめなかった。
やがてミーティングが始まった。
会議室の車座になったテーブルについて、主なキャストやスタッフが顔合わせをした。
五十嵐の司会で最初は自己紹介からということになった。

「監督の井出宗助です。監督としては2作目ですが,がんばりますので皆さん協力して下さい。」

カメラ・照明・音響・美術も終わり、振付の番になった。

「振付の伊豆屋邦美です。五十嵐さんにお誘いを受けて来ましたが、武術については何にも知らなくて足手まといにならないように頑張りますので、宜しくお願い致します。」

そのすぐ次の辰波が不機嫌な顔で立ち上がると顔を上向きにして吐き捨てるように言った。

「アクション指導の辰波だ。なにやら武術のことを知らない者が振り付けとして来ているようだが、今回の作品はミュージカルでもやるのかな?
俺の土俵の中に異質な踊りが入って来てもらっては迷惑なんだが、その辺はどうなっているのかな?ま、おいおい話を聞かせてもらおうとは思っているがね。」

五十嵐はちょっと手を上げた。

「振付については新しい要素が入り込んだので、今までの形に慣れている人には戸惑いもあると思うのですが、今仰ったようにおいおい趣旨などをお知らせして行きたいと思いますので、長い目で見て頂きたいと思います。
不愉快な印象を持たれたとすれば私の責任ですのでどうかお許しください。」

次の男が立ち上がった。

「えー、ワイヤー技術指導の空知です。香港映画界で数年やって来ました。
私のも異質な要素かもしれませんが、嫌わずにやって下さい。
ワイヤーの動きは現実の動きではありえないので、リアル志向の方には嫌われるかもしれませんが、製作側の意図に従って動きたいと思いますので宜しくお願い致します。」

それが終わると、キャストの自己紹介になった。

「星塚静夜です。今回は主役を頂きまして光栄に思っています。
前回のときにご一緒した方も何人かいらしてるので心強いです。
それと今回は前回いらしてた佐野原逸香さんの弟さんが、私の少年時代をやってくれるということで、大変心強く思っています。どうぞ宜しくお願いします。」

渚の番になって恐る恐る立ち上がった。

「俺・・僕は、映画は初めてで、演技も・・学芸会にも出たことないので、迷惑かけるかもしれません。すみません。始めに謝っておきます。どうもナリアキです。」

少しクスクスと笑いが出たので、空気が和んだかなと渚は思った。

そのとき、12・3才の美しい少女が渚に話しかけた。

「ナリアキって、あの新聞に出たナリアキと同じですか?」

渚が返答に詰まっているときに五十嵐が口を開いた。

「九条ゆかりちゃん、その部分は謎ということにしてるんです。
だからそうだとも言えないし、そうでないとも言わないんですよ」

九条ゆかりは渚の方を盗み見しながら五十嵐に言った。

「私にちゃんづけは止めて下さい。一応他のキャストと同じ立場ですし。
私が気になったのはあのナリアキという男の子が何故、正義のヒーローぶってあんなことをしたのかってこと・・
本人に会ったら聞きたかったからです。
なぜ自分の名前を言いふらしたのかとか、なぜ未成年なのに車を運転したのかとか、色々聞いてみたいなと思ってたからです。
でも、本人でないのかもしれないのですね。
本人でないなら、わざわざ思わせぶりに苗字抜きでナリアキって芸名にしなくても良いのでは。
他人のふりをするなんて卑怯だなって・・これは私の感想です。」

この発言で、アクション指導の辰巳のときよりも、さらに場の空気が凍り付いてしまった。
7才の子役がなにやらぼそぼそ喋って座った後、九条の手前隣の女性が立った。

「古川沙世役の紀藤みつるです。今回は天才子役の九条ゆかり・・・さんの後を演技するということでまるごと食われてしまうのではないかと心配しています。どうぞよろしく。特に九条さん、お手柔らかにね」

九条ゆかりが立つと、渚の方だけを見て話し始めた。

「私は紀藤さんの演技について邪魔する積もりはありません。
ただ自分の持ち場で一生懸命やるだけです。私が一番気になるのは共演者です。
シナリオ原案を見ると沙世が誠に対してどんな感情でいるのかがとても重要だと思いました。
だから、共演者がどんな人かってことや、たとえ演技でもどんな感情を相手に持てるのかってことが役作りの上で大切になると思います。
そういう意味で共演者ナリアキ・・・さんの正体が曖昧なのは困るのです。
以上です。宜しくお願いします。」

次に中年の男性が立ち上がった。渚が見たことがある顔だった。

「鈴木甲機役の嵩岸悦郎です。主人公の祖父なんですね。
前回の映画も祖父役です。
実際はそんなに老けていないんですが映画では白髪にして演技します。
なにか今回は本格的な演技人の人も入って来てるので、勉強になるなって思っています。」

またその次も渚には顔なじみの男性だった。

「古川栄一役の金渕剛です。古川土建の社長です。
前回も悪い男でしたが、今回もなにやら恋人を捨てて、違う女性に走るという男の風上にも置けない酷い奴で・・。
本人は奥さん孝行な善良な男ですので、誤解のないように願います。」

すぐ次の女性が立った。

「・・・の妻の古川華代役の狭山杏です。宜しくお願いします」

次に立ったのは前回殺された役をやった男だった。

「時田篤志です。前回は良い役だったのですがすぐ殺されました。
今回は金渕さんよりも更に悪い・・・もうどうにもならない卑劣漢の役です。
シナリオ原案を見て、私の役者としてのイメージが下がるなと心配しましたが、読み終わった後で考えました。
今度は最後まで死なない役だし、私の役者としての演技も幅広く深みがでるかなと思いました。
どうぞ宜しく。本人はとても心の綺麗な人間です。」

次に体格の良い少年が立った。険しい表情をしていた。九条ゆかりの方をちらちら見ながら言った。

「僕は卑劣漢の少年時代をやります。僕は16才ですが14才くらいの役です。
僕は武術部出身ですからできれば鈴木誠の役をやりたかったです。
僕は無免許運転もしなかったし、悪い奴をぶちのめしながら自分の名前を宣伝しなかったから、九条さんと共演しても役作りに悩ませることはないと思うのですが。
卑怯な役はもっと適任者がいるような気がしますが、もし気づいたならいつでも言って下さい。
役を交代しますので。あ、新岡新(あらた)と言います。」

渚は上から読んでも下から読んでも同じ名前だなと思った。
最後にこれもよく知っている女性が立った。
しかし、渚は初めて見る顔つきをするように努力した。

「私は主人公の母親役です。鈴木幸子役の岡野達子です。
シングルマザーでそこの社長さんに捨てられる役です。
その前はその卑劣漢役の時田さんと夫婦で揃って殺されます。
今の社長さん役にね。ですから金渕さんには役の上で二つも貸しがあります。
この次の映画では私が金渕さんを捨てたり殺したりしてみたいです。」

うまい具合に最後は笑いで終わった。




「私は五十嵐です。シナリオ原案は書きましたが、これから皆さんと一緒に練り上げて行きたいと思います。
どなたからでも切り出して下さい。シナリオに対する意見でも質問でも。」

嵩岸悦郎が手をあげた。

「私は謎の老人ということですが、実は主人公の祖父だったんですね?
つまり母親の鈴木幸子の父親なんですよね。
それなのに何故幸子に堂々と会わないのですか?同じ町に住んでいるのでしょう?」

五十嵐は頷いて、疑問は尤もだと言ってから説明した。

「多分この人は自分の妻や娘の幸子を放ったらかしにして蒸発したか、放浪していたので娘の幸子に合わす顔がないんですよね。
で、たまたま中国にいたことがあって鳥人拳を伝授されることになった・・
そんな感じかなと思うのですが、詳しくは私も分かりません。」

「なるほど、同じ町に住んでいるから見かけることがあるはずだが、気がつかないということは幸子が小さいときに蒸発したんですね、きっと。
それともう一つ気になるのは、鳥人拳を修得したことを何故誰に対しても秘密にしなければならないのですか?
人を助けるときにも覆面をしなければならないなんて窮屈ですよね。」

「中国では変面という技術がありますよね。
それは国家機密で勝手に人に広めたら罰せられると言います。
 武術でもその武門によって門外不出というのはごく普通にあることなのです。
きっと祖父は掟を破って孫に伝えたので、それが明るみになると祖父が罰せられるということなのだと思います。こんなんで良いですか?」

「はい。よくわかりました。お陰で役作りのヒントが貰えました」

「あの・・・ちょっと良いですか?」

手を上げたのは天才子役と歌われている九条ゆかりだった。



九条ゆかりはシナリオを手にして首を傾げた。

「これは、私とは直接関係ないのですが、最後のシーンが納得できません。
大人の古川沙世が鈴木誠を叩いて相手が避けなかったから、覆面の人のはずがない。
こんなにとろい奴のはずがないからって、ちょっと乱暴な感じがします。
まさか女性がいきなり自分を叩くはずがないと思っていた場合、男性は油断することだってあると思うし、第一叩いて相手を試すなんて少しでも感謝している相手にできることではないと思います。」

五十嵐は珍しく舌を出して更に頭を搔いてみせた。

「そうなんだよね。九条さん、私もここんとこは眠たくて何かオチが欲しくて力技を使って終わらせたみたい。
なんか良い方法はないかしら?」

10才以上も年下の九条に五十嵐は本気で相談している。

「そうですね・・・」

九条ゆかりはツンとした鼻をやや上に向けて半眼にしていたが、やがて口を開いた。

「こんなのはどうでしょう?
古川沙世は鈴木誠が覆面の人ではないかと思って、誠に聞くのです。
『あなたって、もしかして・・あなたって・・もしかして・・』
そのときに、鈴木誠がちょっと後ずさりしたときに何かに躓いて格好悪く転んでしまうのです。
そして上に置いてあった物が鈴木の頭の上に落ちてきたりして、すごくとろい感じを丸出しにするんです。
そうなりながら鈴木誠は聞きます。
『もしかして・・なんですか?沙世さん?』
いえなんでもないのと言った後で古川沙世はぼそっと呟くのです。
『違う。こいつの筈がない・・・』って。どうですか、こんな感じは?」

「良いねえ!!それ頂き。九条さんあなた脚本家になれるよ。」

五十嵐にほめられて九条ゆかりはちょっと照れた様子を見せた。

「たとえばの例ですから、参考にしてもらえれば嬉しいです。
実は聞きたかったことは別にあるのです。」

「どんなこと?」

「ゆかりは助けられる前に覆面をしていない誠を見ているのかということです。
そして同じ日に古川邸に鈴木母子が来たときに、誠に会っているのかということです。」

「その辺は深く考えていなかったわ。どっちがいいかしら?」

「会っていた方が良いと思います。
しかも古川沙世が襲われているとき、鈴木誠が通りがかってこそこそと逃げるのを見るのです。
実は覆面をして再登場するために一度身を隠すためだったんですが、沙世は困っている自分を見捨てた薄情な弱虫だと思って恨みに思うのです。
だから母親と自分の邸宅に来たとき、あのときの弱虫が来た思って軽蔑の目で見るんですね。
そして、こんな男が自分の腹違いの兄かと思うと嫌悪感を抱くのです。」

「あ、それいいわね。採用採用!即採用よ。」

「よかったです。そうしてもらえると、私は共演者に対してどんな感情で演技するといいのかはっきりするからです。
だから、ナリアキ・・・さんの謎に関しては今のまま曖昧で構いません。
はっきりした所で結果は同じですけれど」

紀藤みつるが手をあげた。

「あのう、私の役は安田和馬と婚約しますけれど、なんでそんな素行の悪い男と付き合うことになったんですか?」

五十嵐は腕を組んで唸った。そして紀藤を指差して何度も頷いて見せた。

「そう!それなのよ。
8年前に沙世を救った覆面の男は実は自分だったと偽の告白をするんだよね。
実はこいつは古川土建の下請けの安田組の跡取りの筈だったけれど、自分が婿入りして古川土建の会社と財産を狙ってったてのはどうかしら?
沙世はあのとき助けてもらったという恩義があるから、それで付き合い始めたのね。」

「どうして、和馬は沙世が襲われたことを知っているんですか?」

「実はあのときの不良の親玉は安田和馬だったのよ。
子分に襲わせておいてぎりぎりのとこで自分が登場して助けることになっていたのよ。
とにかく古川沙世に近づいて会社と財産がほしかったのね。」

するとまた九条ゆかりが手をあげた。

「でも、古川土建が財産を狙われるほどの大きな会社だったら、その令嬢の古川沙世はのこのこ歩きまわるでしょうか?きっとお抱え運転手の車で送り迎えされているのでは?」

「そうねえ・・・どうしましょう?九条さん何か良い考えはない?」

「仕方ないですね。それじゃあ、こういうのはどうでしょう?
車の通り道に資材置き場があって、不良たちがその資材を倒して道を塞ぐというのは?
それをどけていたら学校に遅刻するから車から降りて歩いて行くことにするんです。
その途中を待ち伏せていた不良たちが襲うというのは?」

「まあ、なんて素敵!それなら社長令嬢でも襲えるわね」

「それと気になることがあるんですが・・・」

「なに?」

「古川沙世を襲う不良の人数は何人なんでしょうか?
あまり多いと鈴木誠が逃げるのは無理ないなと思うし、少ないと映画的に見せ場がなくなるような気がするのですが・・」

そのとき渚は手をあげた。

「やっぱり・・10人くらいいないとすぐ終わってしまうから・・」

辰波がそれを聞きつけて渚に質問した。

「それじゃあ、ナリアキ君はお姉さんと同じくらい強いのかい?
いくら中学生くらいと言っても10人倒すというのはかなり強くないと」

「姉貴と本気で戦ったことはないけれど、ふざけて戦ってもどちらかが負けるとかいうことはなかったです。
それと、易力拳も姉貴に教えてもらって秘拳も修得しました。」

「そいつはすごい。じゃあ、ぜひ10人くらいと戦った方がいい。」

「それじゃあ、困ります!」

そう言ったのは九条ゆかりだった。

「せいぜい3人くらいにして下さい。
それなら何もしないで逃げて行く鈴木誠を恨めしく思えるし、軽蔑できる気がするから」

「いや、お嬢さんそれは違うね。」

辰波は反論した。

「資材を倒すにも車を立ち往生させる量のものを動かすんだから10人いれば納得できるし、それにたとえ相手が十人いても大声で助けを呼んでくれるとか何かをしてくれるならともかくも、何もせずにただ逃げる男なら軽蔑しても良いんだよ」

「でも、そんなことをしたら自分だってただですまないじゃないですか。
それにその時点では赤の他人が襲われているだけだし・・」

「違うんだよ!お嬢さん。」

「お嬢さんじゃあありません。九条ゆかりです。」


「お嬢さん。あんたは鈴木誠と目が合うんだ。助けてと目顔で訴えるんだ。
可愛い美少女のあんたがだよ。
そしたら男って自分が半殺しの目にあおうとも10人の男に向かって行くもんだよ。
男って馬鹿なんだ。一対一でも勝てるかどうかわからないのに10人でも向かって行くんだ。
それを目をそらして逃げ出すのは男じゃない。
というか、あなたの女の子としての魅力を認めないというかそれよりも恐怖心の方が大きかったということだから、軽蔑していいんだよ。」

「でも、実際は無理じゃないですか、助けるなんて」

「あんたは理屈でそう言ってるけれど、実際の場面に遭遇したらそうは思わないだろうよ。
嘘でもいいから自分を助けるために立ち向かって欲しいと思うもんだ。
人の心なんて理屈じゃないんだよ」

「わかりました。それじゃあ半分の5人ってことで」

「一桁なら9人だね。」

「それなら多すぎます。6人で」

「8人にしないか」

「7人ならどうです。」

「よしそれで決まりだ。7人だ」

何か魚の競りみたいな感じで7人に決まった。
それが収まると今度は金渕剛が手をあげた。

「一体・・古川栄一というこの社長は誠に対してどう思っているのかさっぱりわからないです。
鈴木幸子を捨てて華代と婚約したときに、幸子の妊娠の事実を知っていたのかどうか?
それがはっきりしないんですよ。」

五十嵐は大きく頷いて良い所を鋭く突いてきたと褒めた。


「まあ、妊娠の事実を幸子から告げられるんですよね。
でも、卑怯にも華代と結婚したいから、子供を堕すように言うんですよ。
それで、裏切られたことを知り、幸子は古川の前から姿を消して誠を生むってのはどうかしら」

「一体、華代ってそんなに良い女なんですか?
なんで子供までできてるのに裏切るのか、それだけの価値のある女なのかって疑問が湧くんですよ。」

「えーと、例えば華代は豊島華代と言って、豊島不動産という大きな会社の令嬢で結婚することによってメリットが大きいとか」

「なるほど。それで納得しました。
じゃあ、何故・・後で誠を引き取りたいと言うんですか。
一度堕胎させようとした子供を、恥ずかしげもなく引き取りたいなんて」

「奥さんの華代さんは沙世を生んだ後、子宮の病気で子供を生めない体になってしまったので、男の子がいないとか」

「跡継ぎの問題ですか?婿をとるということもできますよね・・」

「一時はそう思って諦めていたんですが、更に8年の月日が経って、自分が癌にかかっていて余命数年ということがわかったというのはどうかしら?
気が弱くなって、きっと遺言を書いたのだと思う。
財産の何割かを誠にも残すとかなんとか・・。それを安田和馬が知って、誠を殺そうとしたのだと思う。
古川の財産は全部自分が貰おうと思っていたから」

「うーん、そうなんですか。それなら繋がる」

今度は渚が手をあげた。

「実はずっと気になっていたことがあるんですが。古川さんの通っている中学校も誠君の通ってる中学校も不良たちの学校も同じ所ですか?
それなら幾ら不良でも顔はわかってしまうだろうし、そんなことはできないと思うんですが」

五十嵐が答えようと口を開けたとき九条ゆかりがよく通る声で言った。

「古川沙世は大金持ちの令嬢だから有名私立中学校に通っているんですよ。
それで、誠と不良たちは普通の貧乏中学校に通っている。こんなのはドラマの常識だわ」

そう言った後、九条ゆかりは渚を横目で見てからツンと顔をそむけた。
渚はそれに気づかないみたいに次の質問をした。

「それと誠は覆面をすると言うんですが、普通に中学校に通っている中学生が覆面なんか持ち歩いているんでしょうか?どうもその辺がよくわからなくて」

これも五十嵐が何か説明しようとすると、九条ゆかりが先に口を出した。

「そんな小道具のことで悩むなんて。役作りと何の関係もないことなのに。
例えば運動をする人だったら、汗を拭く手ぬぐいでもタオルでも持っているじゃない。
そういうもので顔を隠せば覆面になると思うわ。
できれば2本タオルがあれば額や眉を隠して鼻や口を隠せるでしょう?
学生服に学年とかのバッジがついてるから、ばれるのが嫌なら上着を脱いで戦えば良いじゃない。
それより私は学芸会にも出たことがないという、あなたの演技が心配だわ。
あっ、年上の男の人に失礼だったかもしれないけれど、演技面では私の方が先輩だと思うので、ちょっとご忠告までに。」

「・・・・・」

渚は絶対この女の子には口では敵わないと思った。
するとそれまで黙っていた主役の星塚静夜が渚の方を見て笑った。

「大丈夫。僕が台詞の喋り方とか表情なんか教えてあげるよ。
その代わりアクションなんか得意そうだから、僕に教えてくれよ。」

「あ、はい。ありがとうございます」

星塚は今度は五十嵐の方を見て決まり悪そうに笑うと言った。

「ところで何故下着メーカーの開発部なんですか?」

五十嵐は九条ゆかりの方を反射的に見たが、これには全然発言する様子がないので安心して話し始めた。

「この映画の主人公の魅力っていわば格差の魅力なんですよね。
男らしい人が男らしく振舞って終わる映画もあるけれど、そうでないのもある。
スーパーマンだって普段は普通の新聞記者だし、スパイダーマンも普段は平凡な男の子だよね。
映画を見る観客と同じ平凡な人間が実はとっても強いヒーローだというところに格差があり、面白みがあるんだと思うの。
だから下着メーカーの開発といえば、どうやったら快適な下着ができるか研究する仕事だから確かに男らしいとは言えないですわ。
それがいざ覆面をして戦ったとき、物凄く強いから格差が生まれ感動があると思うの。
いい意味で観客を裏切って感動させるという手法よ。」

「なるほど・・・」

星塚は誰に言うともなくこう続けた。

「でも私のときの覆面は、できれば女性用の下着で間に合わせるのでなく、違うものを用意したいですね」

笑い声が聞こえて、今日はこの辺りでと五十嵐がミーティングを終了させた。
会議室からみんなが退室した後、九条ゆかりを五十嵐が呼び止めた。

「九条さん、きょうはあなたのお陰でシナリオが具体化できて本当に助かったわ」

だが九条はじっと五十嵐の顔を見てから言った。

「五十嵐さんて、本当にずるいですね。
何もかも計算して原案をわざと不完全にして出しているんだもの。
みんなに疑問を出させてみんなで解決して作り上げていったように見せかけているけれど、本当は五十嵐さんが始めから完全なものを作っていた・・・そうじゃないんですか?」

五十嵐はこの言葉に一瞬凍結した様子だったが、すぐ満面の笑顔を見せた。

「いやだなあ、なんのことかなってびっくりしたじゃない。
私はそんなに計算する人間じゃないよ。本当にみんなのお陰で助かったんだから」

すると九条ゆかりはうっすらと笑った。

「それでは、そういうことにしておきましょうね」

そしてくるりと向きを変えると出口に向かって歩き出した。
その背中に五十嵐彩芽が言葉を投げかけた。

「で、ナリアキにあれだけ突っかかった訳は?自分に関心をひきつけるため?」

九条ゆかりは振り返らずに満面の笑顔を作ってから言った。

「何のことですか?
共演者がしっかりしてくれないと、私の演技にも影響があるから色々言ったとは思いますけれど。」


僅か13才の子役はそう言うと五十嵐を会議室に残して出て行った。


一方、渚は土木作業部という所に深庄渚ととして顔を出していた。
赤鬼のような顔の大男が剣先スコップの先を渚の鼻先に突きつけた。

「おい、不細工な姉ちゃん。
土方の補充要員が来ると聞いたから待っていたらお前が来たんだ。
馬鹿にするなって言いたいな。お前なら自分の墓穴でも掘れないだろう。
スコップを持っているが、使い方を知っているのかい。」

渚はうっすらと笑った。そして次の瞬間相手のスコップをもぎ取っていた。



12人いる土木作業部の男達は呆気にとられて渚を見ていた。
両手に一本ずつスコップを手にした渚は、いきなりそれを振り回し始めた。
両腕を一杯に伸ばしてそのままスコップを水平に保ったまま、独楽のように廻ったのである。
それが並みの速さではない。1秒間に2回転くらいの速さなのだ。
みんな一斉に後ずさりした。ぶつかったらただではすまないからである。
そのうち渚は体の軸を少しずつ移動し始めた。みんなは逃げ廻った。

「危ねえ!!この姉ちゃん狂ってる。」「ぶつかったら切れるぞ!!」

渚の独楽は軸が斜めになって、地面の石に剣先が触れると鋭い音と共に火花が飛んだ。


「やめてくれ!!」

赤鬼が言うと、渚はピタリと止まった。
十数秒間廻っていたから30回転前後高速で回転していたのに、ふらつかずに止まったので、またまたみんなびっくりした。

「スコップの扱い知ってるでしょう?それとももっとやってみせる?」

「い・・意味が違うだろう。」

「石膏ボード10枚ずつ運んだことある?」

「な・・・なに??」

「葦野組の現場で会ったことあるよね」

「ええっ!!?お前なんかいなかったぞ」

「あのときの力持ちのお姉さんが私だよ。ちょっと食べ過ぎて太ったけれどね」

「ええっ!!?」

赤鬼はもう1人の黒達磨のような男と顔を見合わせた。
二人とも急にぺこぺこと頭を下げた。

「頼む。あの時のことは秘密にしてくれ。この通りだ。
あのことがわかったらここを頸になってしまう。」

「言わないよ、あんたたちが真面目に働いている限りはね。」

「すまなかった。あんたが来てくれれば100人力だ。」

赤鬼と黒達磨はここではリーダー格らしく、みんなを集めた。

「みんな、補充要員として来てくださった深庄さんだ。
この人は俺たちが以前から知ってた人で実は物凄い人だ。
俺たちの何十倍も仕事のできる人だから、決して逆らわないようにしてほしい。
もっとも逆らったら只ではすまなくなると思うけれどな。」

赤鬼はそういうと、渚を現場に案内してくれた。
映画村の林の中に長さ4mくらいの丸太が10本置いてあった。

「これを地上2mの高さになるように土に埋める作業です。
何でもこの丸太の柱の上に人が乗って跳びまわるとか、すごいこと考えますね。
間隔は確か1mくらいとか言ってたな。
土に埋めるのは1mくらいだから、少し鋸で切らなきゃなりません。」

「いや・・切らない方が良いと思うよ。」

渚は人が乗って飛び回るなら土に埋める部分も2mにしなければ駄目だと言った。
それだけでなく丸太の土に埋まる部分に腐れ止めの薬を塗らなければいけないし、穴と丸太の間に石を詰めてしっかり固めないといけないと言った。

「何もそこまでしなくても・・・」

誰かがそう言ったのを赤鬼が叱った。

「言うことを聞かないか。この人がその方が良いと言ってるんだから間違いないんだ。」

深さ2mの穴を掘るのは大変な仕事だ。
最初の1m50cmくらいまではなんとか掘れる。その後が掘れない。
その残りの部分を渚が掘って廻った。すると、あっという間に終わった。
渚は最後の穴の底から一跳びで外に出ると、丸太のてっぺんの角を落とすように黒達磨に頼んだ。
他の者は石を運んで来て穴の傍に置いた。
誰かがガソリンスタンドから廃オイルを貰ってきて、腐れ止め代わりに丸太の根本に塗った。
穴は縦に3列、横に3列の9個は2m間隔で掘った。
そして一個だけ角から3m離してあった。
それから丸太を穴の中に立てて石を詰め土をかけ上から叩いて根本を固めた。
高さ2mの丸太の柱が2mまたは3m間隔で聳えている。

「終わりました。深庄さんのお陰でいい物ができました」

赤鬼はそう言って頭を下げた。


みんなが引き上げると渚はひょいと一本の丸太柱に登ってそのてっぺんでジャンプした。
そして2m遠くの別の柱に飛び移った。

「結構難しいな・・・」

丸太のてっぺんに着地した後少しぐらついた渚はそう呟いた。
その日は少し柱の上で跳びまわっていた。



「な・・・なんだ。これは注文したのと丸太の間隔が違うぞ」

アクション指導の辰波五郎は土木作業部の立てた丸太の柱を見て驚いた。

「間隔は1mと言ったのに、倍の2mになっている。
助走もなしでこんな距離跳べるわけないじゃないか。
1mでも足を滑らせれば危ないというのに受注ミスだ。
このはみ出た丸太なんか3mも離れている。本物の鳥人でなきゃ無理だろう!!」

「一体どうしたんですか?」

五十嵐がやって来て、辰波から話を聞くと土木作業部に電話をかける。

「一体どうなってるの?えっ、深庄という人が責任を持つって・・・」


電話を切ると五十嵐は辰波に言った。

「とにかくこれでナリアキにできるかどうか聞いてみて」

「五十嵐さん、聞く前からわかってるって、2mですよ。
そりゃナリアキ君なら2m以上跳べるかもしれない。但し地上の砂場でね。
どこに着地するかわからないでやみくもに跳べば2m以上飛べるかもしれない。
けれども直径20cmの丸太の上に着地しなければ墜落するという悪条件では無理です。
そして2mというのは縦方向や横方向に飛ぶ場合の距離であって、斜めに跳べば3m近い距離になる。
でも、斜めにも跳ばなければ跳躍の修行風景を撮れない。
1m間隔なら、斜めは1.5m弱だから不可能な話ではなかった。
でもこれは2m間隔です。
立ち幅跳びの世界記録は3m台ですから、この距離では斜めはなおさら無理でしょう。」

そのうちだんだんメンバーが集まって来た。
みんながざわざわ騒ぐ中、辰波は声を高くして訴えた。

「この工事だって、お金がかかっているんです。
きょうちょっと体慣らししてもらって、早めに撮影したいと思ってたのに・・
今から1m間隔にする為に丸太を追加して埋めてもらうと、17・8本の丸太がいるんです。
そうすると、予算的に無理だから、今のままのを4本残して6本を抜いて埋めなおせば、発注通りになります。そのための費用は向こう持ちにさせます。」

周りの人間のざわめきが更に大きくなったので、辰波の声が聞こえなくなった。

「おい、いい加減にしてくれ。こっちは大事な話をしてるんだ!!」

辰波が怒鳴ると、皆が一斉に丸太柱の上を指差した。
辰波が何気なく指差す方を見ると、驚くべきものを見た。
ナリアキが・・・つまり渚が丸太の上を自由自在に跳び廻っているのだ。
しかも3m近いとされている斜め方向をダイビングのように跳ぶと逆立ちの姿勢で次の丸太上を両手で着地し、そのままブリッジして同じ丸太の上に両足を着地させた。
物凄く柔軟な体で背中方向に閉じたコンパスのように体を折り畳み、それから立ち上がった。
更にジャンプすると次の丸太には始めから両足で着地した。
次に縦方向に2mの間隔の所を片足で踏み切り、片足で着地し、その足で踏み切ってもう片方の足で着地してみせた。
そして最後は離れ業をやった。
斜めに4本並んでいるところを端から跳んで3本目のところで前方宙返りをして4本目に着地したのだ。
その後降りるときも前方宙返りをして地面に降りた。
それから丸太柱から離れると助走をつけて跳びあがった。
そして角の丸太に飛び移ったかと思うとすぐまた大ジャンプをした。
角の丸太から縦方向で2本先の丸太の隣の丸太に飛び移ったのだ。
そして縦方向にポンポンと戻って来るとまた地面に飛び降りた。

「今どこを跳んだんだ?」

辰波が巻尺を引っ張って空知という男に手伝ってもらいながら測ったところ、渚が跳んだ距離は4・5m近くあった。

「助走をつけたとしても上方向に飛んだ後だから、助走の勢いは殺されていた筈。それを4m以上も・・・」

「すみません。俺が土木作業部の人に頼んで間隔を広げてもらったんです。
このくらい広げないと却って跳び辛いものだから。」

しばらくそこに居合わせた全員が凍り付いていた。
その静かな中、渚の声だけが響いていた。

「それにジャンプするとき、相当強く丸太を蹴離すので、地面の下には2mの深さに丸太を埋めてもらいました。
更に周りに石を詰めて固めてます。
それと、丸太のてっぺんは角を落としてもらいました。
着地するとき角に足裏が当たると痛いので。」

「そうだったのか・・・そうか・・・そうか・・」

辰波は何度も頷くと、やがて明るい顔になった。

「こいつは行けるぞ、ワイヤーなしですごい絵が撮れる!
佐藤の勉ちゃんカメラ回して!」

「ちょっと待って!」

五十嵐がストップをかけた。

「衣装を決めてないから、今日は我慢して。辰波さん」

「うーん、そうか。丸太もナリアキ君も逃げないから良いとしよう。」

五十嵐は7人の少年たちを呼んだ。15・6歳の体格の良い少年たちだ。
155cmの小粒な渚に比べて、160cmから170cmくらいの背丈がある。
「アクション・ジュニアクラブから来てもらったの。
辰波さん、この子たちには前回のように本気で戦わせては駄目。
実際にナリアキの蹴りがヒットして怪我をさせたら保護者から訴えられるから。」
「じゃあ、蹴る真似ですか?わかりました。
まず蹴られた積もりで倒れる練習をさせましょう。」
辰波は別の場所に少年達を連れて行った。

五十嵐は井出監督に、他のキャストに出来上がったシナリオの読み合わせをするように頼んだ。
だが、渚はその場に残した。

渚は五十嵐に言った。

「あのう、あの人たちを倒すのに鳥人拳を使うんですね。
だとすると何人かに足場代わりになってもらわないと、すぐ地面に降りてしまいます。
それと戦う場所に壁とか台とか塀のようなものがあると、それを足場にして空中に長く留まれるんですが・・・」

そのとき、伊豆屋邦美が話しに加わって来た。

「あの五十嵐さん、今ナリアキさんが丸太の柱の上でやった動きを取りいれたらどうでしょうか。」

「どんな動きだったっけ?」

「ちょっと丸太の上では無理なので地面の上で再現してみますね。」

そういうと、伊豆屋は地面に丸太代わりに目印を置いた。

「ちょっと間隔を実際より狭くしてます。あんなには跳べないので・・」
そういうと伊豆屋邦美はすばやく跳躍したり宙返りをしたりして、渚の動きを再現してみせた。
それは辰波が見る前からの動きもすべて含めているので、かなり長い時間のものだった。
渚自身も覚えていない動きもすべて再現した。
驚いたことにコンパスを閉じるようなブリッジも再現していたし、地上に降りるときの宙返りも、同じ高さの地面で宙返りして再現していた。
だが、微妙に何かが違った。渚は伊豆屋に質問した。

「お姉さん、俺の動きを何か変えたのかな?違って見えたんだけれど」

すると伊豆屋邦美はにっこりした。


「ええ、空中にいるときできるだけ腕を翼のように広げて見せたの。
鳥人拳だから鳥のように見えるといいかなって・・・鳥人拳は足技が中心だから手が暇になるので、何かさせたくて」

「まだ他にも変えたような気がする。足の動きが・・・」

「そう・・ナリアキさんはさっき丸太の上を跳んでいたけれど、これが実際の人間の体だったら、足場にするだけでなく蹴りを入れなければ倒せないと思って、
着地する足と蹴り離す足を別にしたの。
同じ足だと人間に使う場合軟着陸になってしまうから。」

「俺の動きを全部記憶してたのかい?」

「ええ、どういう訳かそういうのが得意で、踊りも一度見ただけで覚えることが多いし・・あのときのナリアキさんの戦い方も覚えているよ」

「あの時って?」

五十嵐が聞いたので、二人同時になんでもないと誤魔化した。



そこへ少年達を連れて辰波がやって来た。

「ナリアキ君、とりあえず蹴る真似をして見せてほしい。
手は一切使わずに足だけでこの子たちを倒して欲しいんだ。
但し1cm以上離して蹴る真似をして欲しい。
今は練習だから、ジャンプしなくて同じ地面の上で戦ってほしい?
いいかな?」

「どんな技でも良いんですか?」

「もちろん」

渚は7人の少年の中に飛び込んで行った。なにやら素早く動くと戻って来た。

「終わりました。」

「えっ?終わったって・・まだ皆立っているけれど」

辰波が少年たちの方を見ると、後から気づいたように3人ほどゆっくり決まり悪そうに倒れた。
それでもぼんやり立っている少年たちの方へ行ったのは伊豆屋邦美だった。

「ちょっと、今のをゆっくりやってあげるわね。」


伊豆屋は少年たちの体の位置を決めて、倒れている少年も立たせた。

「これが最初の君たちの位置。君と君はこういう風に足を薙ぎ払われたの。」

二人の少年に旋風脚の動きをスローでやって見せた。
少年はそう言われて倒れてみせた。
次に伊豆屋は側転して3人目の少年の顎すれすれに足を蹴ってみせた。

「これが君には見えたのね。だから倒れたけれど咄嗟にわからなかった。
速過ぎて蹴られたのかどうか判断できなかった。」


「はい」

そう言うと3番目の少年も倒れた。
それから伊豆屋は側転して逆立ちの状態で足を回した。
それで二人の少年の胸の辺りをかすって行った。

「君は後で気がついたけれど、もう1人の君は気がつかなかったんだね。」

さらにそう言われた二人が倒れた。
残りの二人の間に立った伊豆屋は正面の少年に前蹴りの動作を見せて、返す足で背後の少年を後ろ蹴りで蹴る真似をした。

「前にいる君は気づいたけれど、後ろの君は蹴られたことに気づいていなかったね。」

最後の二人も納得して倒れた。


「驚いた。伊豆屋さん・・・」

辰巳五郎は言葉が丁寧になった。そして伊豆屋に頭を下げた。

「あなたのことを誤解していた。
顔合わせのときは大変失礼した。武術は知らないと言ってたので、本当に知らなかったのかと・・」

「いえ、本当に知らないんです。ただ人間の動きとして見れば踊りも武術も変わらないので」

「いやあ、全くすまない。敬服しました。
恥ずかしながら私も今のナリアキ君の動きを見極めることができなかったのに・・だが、どうしたものでしょう?
ナリアキ君の動きが速過ぎて、この子たちが気づかないのです。
この子達に動体視力の訓練をしますか?」

伊豆屋はまた素敵な笑顔でにっこり笑った。

「アクションクラブに所属しているのだから、既に相当訓練をしているものと思います。
ナリアキ君の動きがそれを上回るスピードだったので気づかなかったのです。
でも、大丈夫。私に良いアイディアがあります。」

「えっ、それはどんなアイディアですか?」

辰波五郎は驚いてにこやかな伊豆屋邦美の顔をまじまじと見つめた。



伊豆屋邦美は渚を呼んだ。

「ナリアキ君、君は蹴り技のとき、足のどの部分でヒットするの?」

「足の指の根本の部分で足裏のところと、足の小指側の足裏と足の甲の境目のところ。
それと、踵。靴を履いていれば土踏まずを中心として足裏全体。
それと足の甲。足の甲と足首の境目。そんなとこかな・・・。」

「その蹴り技を1cm以上相手から離してやる場合、相手の体に一番近い足の場所を教えて」


「えーっと・・・それは一箇所だけです。つま先です。」

「そうね。じゃあ、あなたの靴のつま先に紐をつけるわ。」

「はあ?」


伊豆屋邦美は五十嵐に頼んで細い木綿の紐を5cmほどに切ったものを渚の靴のつま先に接着剤でくっつけた。
辰波五郎はきょとんとしていた。

「これがアイディア・・・ですか?」

「はい、ナリアキ君が蹴る真似をしたとき、この紐が少年たちの体に当たります。
かすかな衝撃があるはずですから、それでヒットしたことを知ってもらって倒れることにするのです。」

「なるほど。顔などに当たればわかるけれど、胴体だとか服の上から当てられると気づきづらいから、注意して感じるようにするという訳ですか」

「どうしてもわからない人には裸になってもらいますが、そこまでしなくても感じるようにしてほしいと思います。」

「佐藤の勉ちゃん、紐は後で消せるかなあ」

カメラマンの佐藤勉は笑って言った。

「ナリアキ君の蹴りは速いから映らないと思うよ。」


早速やってみることにした。
ところが始めると「ひっ!」とか「あっ!」とか言う短い悲鳴が聞こえ、それと共に実にリアルに少年達は倒れて行った。
辰波は喜んで倒れている少年たちの所に駆け寄った。

「うまいぞ!声まで出して真に迫っていた。さすが演技派だ」

ところが少年たちは否定した。

「違います。痛いんです。鞭の先で叩かれたように鋭く痛むんです。」

そう言われてよく見ると、顔を蹴られた子などは頬に赤く跡が残っていた。
服の上からも十分に感じたと言うから裸になる必要がないことがわかった。
また靴の先の紐もばらばらにほどけて取り替えなければならないほどだった。
試しに空中に前蹴りを渚にさせたところ、蹴った後の足の戻しが速いときにパチンという音がした。
つまり渚の足全体が鞭のように動きその鞭の先が紐になった訳だ。
これで一つ課題が解決した訳だ。


そして今度の課題は鳥人拳の動きでどうアクションをするかと言うことになった。
伊豆屋邦美が辰波に言った。

「まず、丸太の上でやった動きを生きた少年達の体の上でできるかどうかってことなんです。」

「うーん、それは俺も悩んでいたことなんです。
ちょっとやってもらうしかないでしょう」

まず少年たち一人ひとりに向かって渚がジャンプして肩の上に乗る実験をした。
渚は体が軽いと言っても40キロあるので、しっかり支えられた少年は3人ほどしかいなかった。
辰波は残りの4人に繰り返し練習させて、なんとか持ちこたえるようにさせた。

「もともと足腰を鍛えていた子供たちだから、慣れればぐらつかなくなる筈です」

辰波は全員合格させれたことで満足な笑みを浮かべた。
今度は少年たちを一列に並べて猫背にさせてその背中の上を渚に跳んで渡らせた。
間隔は1mから始めて2mにした。
そうすると着地の衝撃がその分強くなるので崩れる者が出てきた。
するとその最後にに伊豆屋邦美が混ざって3m離れたところに立った。

「いいんですか?」

渚は伊豆屋の背中めがけて飛んだ。
だが伊豆屋の体は全然崩れなかった。
少年たちは驚いた。伊豆屋は彼らに説明した。

「バレーのリフティングで男の人が女の人を持ち上げるのがあるでしょ?
あれは女の人が協力しているから持ち上げられるの。
今の場合は私がナリアキ君に協力して受け止めたの。
確かに私は踊りで鍛えているけれど、筋力はあなたたちの方があるのは間違いない。
君達はナリアキ君に一方的に飛びかかられていると思っているうちは体が硬くなって衝撃を強く感じると思う。
でも受け止める気持ちでいると柔らかくふわっと受け止めるから、そう卵がぶつかっても割れないように受ける・・そんな気持ちで受けるとうまく行くと思うよ。」

少年たちは伊豆屋にできたものが自分にできない筈がないと今度は意欲を見せた。
結果、全員2mも3mも合格した。
そうなると不思議なもので、丸太と同じ間隔で並んで真っ直ぐに立っても、渚が肩に飛びついてもぐらぐらしなくなった。
ほんの少し膝を緩めて衝撃を消すコツを身に着けたのだ。
そして着地した後ジャンプするときに膝を緊張させてジャンプしやすいようにするコツも身に着けた。


少年たちもすっかり乗り気になって盛り上がってきたときに、九条ゆかりが現れた。

「すみませんけど、ナリアキさんに用事があるんですが」


美少女が不機嫌な顔をして現れると、少年たちは自分たちが悪いことをしたような気になって、道を開けた。

「なんですか?」

「シナリオの読み合わせに来ないでもう動きの練習ですか?
ものには順序というものがあると思うのですけれど」


「で、なんの用事ですか、俺に?」

相手は年下だけれど渚はタメ口はきかないようにした。

「初めてあなたと会ったときの場面の演技の練習ができなくて困っているんです」

「古川沙世が襲われるところですか?あそこは俺には台詞がないんですけれど」

「台詞がないと演技がないとでも?それじゃあ学芸会の子供と同じじゃないですか」

「どうしたら良いんですか?九条さん」

「私がこの人たちに襲われているところを通りがかって私の方を見て下さい。
ちょっとすみませんけれど、皆さん私を囲んで襲う真似をして下さい。
本当にしちゃ駄目ですよ」

九条ゆかりは年上の少年たちに指示をした。
少年たちから見れば年下とはいえ、有名な少女スターだから逆らえない。
渚は少し離れて歩いて通り過ぎる真似をした。そして九条の方を見た。
すると九条が必死に救いを求める目をして渚を見た。
渚はどきんとした。自分は女なのにこんなにどきんとしている。
これが男の子だったら完全に虜になったと思った。
渚は目をそらして慌てて通り過ぎた。
すると九条が渚を呼んだ。最高に不機嫌な顔をしている。

「今のはどういう演技ですか、ナリアキさん?」

「どういう演技って・・こそこそ逃げたところです」

「そういう解釈なんですか?変ですね。
実際は私を救おうとして覆面をしにどこか身を隠すところを捜しに行くのではなかったのですか?」

「そ・・そうですけれど」

「じゃあ、心の中で『この子をなんとしても助けなきゃ、そうだ。どこかで顔を隠して・・・』というようなことを思いながら演技して下さい。」

渚は先生に怒られた生徒のようにしょんぼりして、もう一度やり直す為に最初の場所まで歩いて戻った。
通りすがりに異変に気がついて渚はそちらを見る演技をした。
ここはうまく行ったと思った。
しかし九条ゆかりの視線に掴まったときに、彼女の魔力を振り払うように目をそらして急いでは早足で去った。
つい反射的にそうしてしまったのだ。
今度は九条ゆかりが追いかけて来て怖い顔をした。

「ナリアキさん、さっきより悪いじゃないですか。あまりにもひどいじゃないですか。」

「な・・・何がですか?」

「まるで、こんな奴に関わると碌なことがない・・とでも言ってるような表情でしたよ。共演者にそんな風に思われるなんて、私・・・」

九条ゆかりは怒ったままの顔で涙が頬を伝った。渚は怖いと心底思った。

「あ・・・俺は演技ってよくわからないから・・練習するから、ご・ごめん」

「そうして下さい。できるようになったら見せて下さい。
演技は心でするものだから見せかけは駄目ですよ。
ここがうまくできなかったら、その先に進めないですから・・」

そういうと九条ゆかりは戻って行った。渚はへたへたと座り込んだ。

「無敵のナリアキも天才子役には形なしね。」

そう言ったのは五十嵐だった。
五十嵐はそういう渚の困った様子を楽しんでいるようだった。
彼女は渚が女であることを知っていたから心の動きを見通していたようだった。
だが、すぐ近くにいた伊豆屋邦美は立ち去って行く九条ゆかりの背中を険しい顔で睨んでいた。

「ああいう自分中心の天才だからスターになれるんですね」

伊豆屋は誰に言うともなくぽつりと呟いた。


「すみません。静夜さん、俺どうしてもこの演技ができなくて」

渚は星塚静夜が出て来るのを待って話しかけた。

「ふむう、九条ゆかりがそんなことを・・」

星塚は渚にゆっくり噛んで含めるように言った。


「いいかい。九条ゆかりは古川沙世という可愛い女の子だ。
こんな可愛い女の子を君は今まで見たこともない。
その子が君に目で救いを求めている。
『助けて、あなたなら私を助けてくれるわね』って。
君は男として奮い立った。『よし、なんとしてもあの女の子を助けよう!』
だが、君が鳥人拳を使うところを人に見られてはいけない。禁じられているからだ。
だから変装するか顔を隠すかしなければならない。急ごう!
急がないと、あの可愛い子が酷い目にあってしまう。間に合えばいいが!
って、そういうことを本気で考えながら走って行けばいいんだよ。」

「はい、ありがとうございます。家に帰ってから鏡を見てやってみます。」

渚は感謝した振りをした。こういうときは実に上手に演技できるのにと思った。
すると五十嵐彩芽に呼び止められた。

「来なさい、私の部屋に」


五十嵐の専用の部屋で渚は座っていた。五十嵐は静かに語りかけていた。

「あんたは女なんだから男の子の気持ちになるってのがどだい無理な話しよ。
あの子は13才なのに女の武器を使って、あんたを本気にさせようとしている。
でも磁石のプラスとプラスが反発するように、とっさに拒否してしまうんだよね。
それは仕方ない自然な現象よ。だから、解釈を変えるの。
あなたは女の気持ちのままで構わない。妹のような子が身近にいなかった?
その子が酷い目にあって、なんとか助けようとしたことがなかった?」

「ありました。村の子で私より年下の男の子と女の子がバドミントンをしてて。
スズメバチの巣に羽根がぶつかって・・。
だから私は二人のラケットを両手に持って全部叩き落としたんです。」

「すごい武勇伝を持っているわね。それよ。九条ゆかりがその女の子だと思えば良い。
その子があんたに救いを求めて必死に目で訴えていると考えるのよ。
不良少年たちはスズメバチよ。
で、それを退治するには覆面をして顔を保護しなければならない。
覆面もラケットも少し先のところに隠してある。
あんたは急いでそこに覆面とラケットを取りに行く。
早くしないと、その子はスズメバチに刺されて命取りになるかもしれない。」

「あ・・・わかります。」

「さあ、この香水を嗅いでリラックスするのよ。あなたは必ず演技ができる」

「はい・・・なんとかできそうな気がしました」

こうしてまた、五十嵐の『エリクソン術』の世話になった。



不良役の少年たちは次の7人だった。
木村健吾(キム)、岡林靖男(岡ちゃん)、前原功治(コウジ)、
芦田智一(トモ)、仙崎徹(トオル)、梶山洋二(カジ)、天野守(マモル)。
みんなニックネームで呼び合い、休憩時間などは結構ふざけあっていた。
渚は実際は彼らより年上か同年齢だが、2才サバを読んでいるので年下ということになっている。
だが、渚のことを『ナリアキ』の『アッキ』で呼んで、タメ口をしても許してくれる。
確かに顔は怖い感じの子ばかり集めているが、性格は人懐こくて素直なので、渚はすぐに打ち解けた。

「アッキ、お前結構九条ゆかりちゃんと口利く機会多いだろう。」

顔が馬面のカジが渚のわき腹を小突いて来た。

「不幸にも共演者ということだからな。それが?」

「俺たちのことなんか言ってなかったか?」

「なんかって?なんにも言ってないよ」

「そうだよなあ。あいつはスターだもんなあ。
俺たちのことなんか目にも止まらないよなあ」

「あっ、そういえば言ってた。」

「なになに、なんて言ってたんだ?」

すると他の少年たちも渚の前に集まり始めた。
「早く言え誰のことを言ってたんだ。アッキ教えろ俺か?俺のことか?」

「いや、誰ということじゃなくて・・その。」

「なんだ。早く教えろ、こら!」


マモルが渚の首に腕を回してグイグイ絞めて来た。

「ちょっと、やめろって!喋られないだろう!」

渚はわざと外さないで苦しそうに訴えた。

「そうだ、やめろマモル。話を聞きたいから」

キムが言うとマモルも首から腕を外した。

「実は古川沙世を襲う場面のことを気にしてた。
あんまり乱暴なことしないでほしいとか・・」

みんなは一斉に顔を見合わせると首を振った。


「しないよ!するもんか!なあ!九条ゆかりだよ。」

するとカジが目を閉じて言った。

「乱暴はしなけれど、どさくさに紛れて抱きしめたい!」

「キモイ!そんなの許される訳ないだろう!」

トモがカジの後頭部をペッチンと平手で叩いた。
キムは真顔になって言った。

「かと言って、俺達は不良のろくでなしということになっているから、九条さんの体に全然触らずに演技する訳にはいかないんだ。
例えば小突いたり、持っている鞄をひったくって中身をばら撒いたり肩とか腕を掴んで引っ立てて行くくらいはしなきゃ襲ったことにならない。
それ以上のこと・・・たとえば叩いたり背後から抱きしめたりというようなことは絶対したくないけれど、辰波さんがどこまで要求するかにかかっている。
もし叩けと言われたら、九条さんは叩かれても良いと言うだろう。
だけど俺なら本当に叩いているように見せる方法を知っているから、それを使いたい」

「なんだ。なんだ。教えろ、そのやり方。」

「駄目だ。これは絶対秘密だ。手品の種を教えるようなものだから、教えることはできない。
それよりももっと重要なことがある。」


「なんだ?キム教えろ?その重要なことってなんだ?」

いつも眉間に皺を寄せている出っ歯のキムは声を低くした。


「もし九条さんを背後から抱きしめるというか首に腕を回して後ろ向きに引っ張って行くというような場面が要求されるとする。」

「うんうん。でも何故背後からなんだ?前からやればいいじゃないか」

「背後から引きずって行けば、九条さんの顔や表情がはっきり撮れるだろう?
だからそういう場面がどうしても欲しいと言われたら誰がやるかだ?」

「みんなで代わり番こにやるとか」

「不自然だ。誰か1人なんだよ。そういうときアッキみたいな良い男がやるなら九条さんも文句は言わないだろう。だがアッキは不良役じゃない。
この7人のうち誰かがやらなくてはいけない。それを決めるのは誰だと思う?」

「辰波さんだろう?」

「違う」

「井出監督か、それとも五十嵐さんか?」


「違う。九条さんだよ。九条ゆかりさんがこっそり・・・五十嵐さんあたりに耳打ちして、五十嵐さんが辰波さんにこっそり言うんだよ。」

「ええっ?!そうなのかい??!」

みんなは一斉に驚いた。キムは咳払いすると厳かに言った。

「皆も自覚している通り、俺達はアクション・ジュニアクラブでは選りすぐりの『不良顔』だ。
つまり人相が悪い。
はっきり言うと女性にもてない顔だ。
九条さんはそういう俺たちに後ろから抱きつかれるのは嫌に決まってる。
嫌だけれど、もしそうしなければならないとしたら、同じ嫌でも物凄く嫌なのとちょっと嫌なのとのどっちにするかといえば・・・」

「そりゃ、ちょっと嫌な方がいいに決まってる。」

「そうだ。俺たち7人のうち、それが誰かを決めてもらうんだ。
嫌な程度が一番軽い人間は誰か・・九条ゆかりさんに選んでもらうのさ。」

「おおっ!!」

少年たちは歓喜の声をあげて盛り上がった。

渚は馬鹿馬鹿しくなって、そっとそこから抜け出そうとした。

「アッキ!ちょっと待ってくれ」

キムが渚を呼び止めた。

「な・・・なんだよ。俺、こういう話は苦手だから」

「お前に頼みがある。九条さんに今のことを聞いてほしい」

「ええっ!?」



呼び出された九条ゆかりは、渚に言った。

「つまり、演技する準備ができたってことですか?」

渚は頷くと自分の立ち位置の方を指差した。

「じゃあ、俺は向こうから歩いて来るから」

九条は少年達の間に立ってスタンバイした。
歩いていた渚は騒ぎに気づいてそっちの方を見た。
不良少年達が1人の少女を囲んで何処かへ連れ去ろうとしている。
少女がこっちを見た。大人の女の顔で自分を救ってくれと訴えている。
違う!そうじゃない。背伸びしているけれど、あれはまだあどけない子供だ。
村の子供と同じだ。スズメバチに囲まれている!
助けてやらなきゃ!!渚は急いで覆面とラケットのある草むらに向かって走った。


「どうでしたか?できたと思うけれど」

渚の問いに九条ゆかりは考え込んでいた。

「この時点では、私が妹だと言うことは分からない筈ですよね。」

「うん、でも多分自分より年下の女の子だということくらいは分かるけれど」

「うまく言えないけれど・・」

九条ゆかりはどこかひっかかっているような微妙な顔つきをして言った。

「私が変化球で投げたボールを直球で返されたような、変な感じ。
でも、演技はできていたと思います。解釈の違いはあるけれど」

「よかった。ところで、相談があるんだけれど」

「なんですか?」

渚は少年たちの方をちらっと見てから切り出した。

「この後、俺が覆面をして助けに戻って来るまでの間、黙って待っている訳じゃないよね。
不良たちは当然君の体に触れることになるけれど、どこまでしていいのか、不良役の人たちが悩んでいるんだ。」

「そんなこと言われても監督が決めることだから、監督が決めたら私は女優だからできる限りのことを演じるし・・」

「じゃあ、はっきり言おう。
あいつらは古川沙世を小突いたり押したりしなきゃいけないだろうって。」


「そりゃ、するでしょう。そのくらいのことは」

「あと・・肩を掴んだり、腕を掴んだりまではしなきゃ、それらしくないだろうって」

「それで・・?」

「思いつくのはそれぐらいだって」

「それで、どうしたらいいのか悩んでいるということですね」

「君が人気スターだから下手なことはできないって遠慮してるんだ。」


「私から話してみたいから一緒について来てくれますか」

九条ゆかりは少年達の方に歩いて行った。
渚は仕方なくその後をついて行った。
九条ゆかりは少年たちにお辞儀をすると少年達も慌ててお辞儀した。

「皆さん、今ナリアキさんから聞きました。
実はあなたたちは卑劣漢の安田和馬さんから、私が未来の婚約者だから決して傷つけないように言われているのです。
ですから、叩くのは絶対いけません。女の子同士で叩き合う演技をしたことがありますが、男の人は力が強いし本番で夢中になったり、手が滑ったりすることもあります。
私が知っている例でも、鼓膜が破けた人や鼻骨や歯が折れた人が何人もいます。
私は顔に痣ができただけでも命取りです。
ただ皆さんが叩きもしないで私を連れて行くのはリアリティがないので、逆に私の方で激しく抵抗することで、その感じを出したいと思っています。
私は向こう脛を蹴飛ばしたり、引っかいたり、噛み付いたり、叩いたりするかもしれません。
でもそれは勘弁してください。なるべく手加減しますので。
本当に勝手なんですが、それに対してあなたたちは私を押さえつけて連れて行くことをメインにしてください。
但し顔を抑えるのは止めて下さい。頭は構いません。首もしかたありません。
腕や肩も良いでしょう。でもそれ以外は遠慮してください。
私には10万人以上のファンクラブの会員がいます。
中には熱狂的な男性ファンもいて、出演映画が出るたびに場面場面の細かい所までチェックしている人がいるそうです。
もしあなたたちの1人でもそれ以外のところに手を触れたら、アクション・ジュニアクラブの名鑑を調べてその人を突き止めると思います。
その後、その人に大変迷惑なことになるかもしれません。
脅迫されるだけなら良いのですが、実際に手を出す人もいるかもしれないからです。
ファンにそんな人が入るとは信じたくないのですが、実例があるのでしかたありません。
あなたたちは私を襲う前に安田和馬に叩かれたり蹴られたりする場面があります。
それは和馬が沙世を助けるときの練習の場面だそうです。
そして私を襲うときに私に抵抗されて痛い目にあいます。
最後に鈴木誠にやっつけられる場面があります。つまり、やっつけられることが続きます。
怪我をしないように気をつけて演技されることを祈ってます。
それと・・・他の場合はパンチやキックが当たった振りをすることもあると思いますが、私の場合は本気で抵抗させてもらいます。
私は女なので力も弱いから、その点は許してください。
以上です。何かありますか?」

キムが恐る恐る手をあげた。

「例えば叩く真似とかは駄目ですか?
本当に叩いたように見えるやり方を知っているからです。音もします。」

「それは構いませんが、本当に叩いたように見えるとしたら、それだけであなたは狙われます。
だから、お勧めできません。」

キムはさらに食い下がった。

「あの、あなたを押さえつけるとしたら全員は無理ですが、2・3人が中心になって押さえると思うのですが、その人選をどうしたら良いでしょう?」

「あなたたちが戦って、勝ち残った人というのはどうでしょう?」

「えっ!?」

「もちろん冗談です。そういうことは私たちが決めることではなく、そのためにアクション指導や演出の人がいるんですから、指示に従えばいいんです。
他になかったら、もういいでしょうか?それではこれから宜しくお願い致します。」

九条ゆかりはまた丁寧にお辞儀した。慌てて少年たちもお辞儀した。
九条ゆかりは渚の方を見て目顔で呼んだ。


少年たちからだいぶ離れたところで九条は渚に言った。

「あなたは、あの人たちの使い走りですか?
今度何か頼まれたら、自分で直接言うように、きっぱり断って下さい。
今はあなたの顔を立てて、説明に行きましたがこういうことはこれきりにして下さい。いいですね、ナリアキさん。」

渚は自分より3才下の九条にそう言われて返す言葉もなかった。



よりによって!と渚は思った。
よりによって、映画村の清掃担当に回されるとは!!そうなのだ。
きょうはナリアキの練習スケジュールを早めに終わって、清掃補充要員として働きに行ったのだが、割り当てられたのが映画村なのだ。
そこで五十嵐彩芽のところに直行して事情を話した。

「声のトーンを低くして囁き声のように。あと少し田舎訛りを入れるといいよ」

つまり、ナリアキと同じ声の質だと怪しまれるというのだ。
同じく映画村の清掃担当に回された松本キミさんというお婆さんは渚に言った。

「みんな映画村には行きたがらないんだよ。
大監督とか大スターだとか人を見下すような連中が多いからってね。
まあ、あんたみたいな臨時の人とか私みたいな使い古しの婆さんが押し付けられるのさ。
いいかい。
私達は二人しかいないから1・2階は私で、3・4階はあんたで掃除するけれど、廊下とトイレだけで十分だよ。
各部屋は本当はしなきゃいけないことになってるけれど、行けば邪魔にされるし嫌な思いをするからね。
それに夜間人がいなくなったときに専門に部屋のクリーニングをする人が別にいるから、良いんだよ。
それでなきゃ、人員はこの倍いても間に合わないからね。
じゃあ、頑張ろうね、お互い。」

渚は江差万町のエジンバラホテルでもトイレ掃除や床掃除を経験していたので要領よく仕事ができた。



4階の廊下が最後で終わったので帰ろうとしたとき、中年の女性から声をかけられた。

「ちょっと、あなた。掃除婦さんね」

「はあ、そうでずが・・」

「ちょっとこの部屋掃除してほしいんだけど」

「はあ、お部屋は夜別の者がやるごどになっでいるんで」

「そう言わずにお願いするわよ。チップをはずむから」

「はあ、でも、おぐざま・・」

「これでお願い」

中年女性は1000円札を2枚渚に握らせた。

「それじゃあ、一緒にいでぐだざい。」


「あら、どうして」
「きじょう品が紛失すだら、うだがわれるのがやだがら」

「まあ、しかたないわね」

指定された部屋は『特別室A』としか書いてなかった。
中に入るとホテルのVIPルームのような仕様になっていて、居間にはソファとテーブルやテレビがあり、カーペットには羽毛が落ちていた。
それは奥の寝室のようなところから飛んで来ているらしく、寝室に行くとベッドや床一面に羽毛が散らかっていた。
ベッドの上にはぺちゃんこになった枕の残骸が落ちている。
室内には隅に掃除機が設置してあったので、早速羽毛を吸い取り始めた。
ベッドの下もクローゼットの中も綺麗に吸い取った。かけてあった服にも羽毛がついていたので、点検しながら取り除いた。
ついでに乱れたベッドのメイキングをして、ソファやテーブルを避けて全体を清掃し始めた。
破けた枕はゴミ処理にして、交換の枕を物品庫から持って来て交換した。
中年女性は立ち会う約束をしたので、そこにずっと立って見ていた。
バスルームの中も磨き、更に窓を開けてテレビなどの後ろも清掃し、その後鏡や窓ガラスを磨いた。
渚は女性の前に行くと、エプロンのポケットからビニール袋を取り出し、その中の物を見せた。

「お部屋のながに落ぢでいだものでず。ベッドのすだの絨毯のすだにブレスレッドが挟まっていまずだ。
テレビの裏にライター、ソファのすぎまに指輪とボールペンが挟まっでいまずだ。お心当たりの物がありまずが?」

「まあ、その指輪!私のものよ。
数日前からなくて、担当の人にも頼んでいたんですけど、見つからなかったんです。
でも他の品物は心当たりないわ」

「それじゃあ、指輪だげおわだすしまず。あどは管理者にわだじまずので」


「ちょっと待ってあなたよく見つけたわね。」

「わだすが掃除すればよくあるごどでず。では・・」


「ああ、待って待って。何かお礼しなくちゃ」

「いいんでず。さっきいだだぎますだがら」

そのとき部屋に誰か入って来た。渚がそちらを見ると九条ゆかりが立っていた。

「お母さん、誰その人?」

「お部屋の掃除を頼んだ人よ。私がなくした指輪を見つけてくれて」

「あら、あったの?それじゃあ他にも何かなかったかしら」

九条がそう言ったので渚はポケットからビニール袋を出して見せた。

「ああ、違う・・そこにはないわ」


「じゃあ、やっぱりこの部屋ではなかったのよ。」

「そうね・・。色々あのとき歩いたから・・・」

渚は九条ゆかりに聞いた。

「あのう、なにがなぐされだんだべか?」

「昨日小さな石を落としたの。
いいえ、宝石じゃなくてパワーストーンと言って、それがあると今までいい事があったから。
高いものじゃないんだけれど、もう手に入らないから」

「どんな色で大ぎざはどんなだが。」

「あっ、捜してくれるの?お豆くらいの大きさで薄緑色で艶々してて表面に銀色の斑点があるの。
でも、きっと無理。昨日はいらいらしててどこを歩いたかわからないから・・」

「3階の女子トイレにいっだごどありまずが?」

「えっ、そんなとこ・・・行ったかもしれない。どうして?」

「3階の女子トイレのスチームの下に・・・」

そう言って渚は別のポケットからビニール袋を取り出した。
その中には別の物と一緒に緑色の石が入っていた。

「あった!!それよ!ありがとう!」

石を受け取った九条ゆかりは両手の指先にそれを持ってしばらく見つめていたが、それを大事に寝室の小物入れに入れると渚の所に戻って来た。
そしていきなり渚に抱きついた。

「あら、お嬢様。どうすだんでず?」

「ありがとう。本当にありがとう。あなたは幸運の女神様だわ。
この石は私の演技のパワーの源なの。
ベルギーに行ったとき、これを道端で買って、それ以来どんどんうまく行って・・・これがなくなったから昨日私・・・枕を破いて暴れたの。」

「まあ、そんなことまで、この人に・・」

母親がたしなめると、九条ゆかりは静かに言った。

「隠しても何かあったことはこの人には分かっていた筈よ。
だから正直に打ち明けて秘密を守ってもらうの。」

渚は大きくうなづいて大丈夫と言った。

「石をなぐすだがら、爆発こいただね。」

「うん、そう。その前にも酷い男の子がいてね。ちゃんと演技してくれないの。
きょうはしてくれたけれど・・。それでいらいらして石をなくしてしまったから、余計爆発したのかな?
そういうことってあるでしょ?
ところで、あなたのお名前は、何て読むのその名札の名前?」

「ふがじょうなぎざだす。」


「ふかじょう・・なぎさ・・さん?失礼ですけど今おいくつですの?」

「はだじだす」

「20才なんですか。私よりずっとお姉さんですね。
お母さん、何か深庄さんにお礼をしましょうよ。私とお母さんの分」

「いらんだす。おぐざまがらおがねもらったし、おじょうさんがらハグすでもらっだがら」

そういうと、渚は二人が止める間もなく部屋を出て来た。
渚は頭の中で色々と考えた。

(ああ、驚いた。九条ゆかりの控え室って一流ホテル並みなんだ・・
それに昨日ナリアキの酷い演技で九条さんを傷つけてしまったんだ。
それでパワーストーンを失くして、それが原因でヒステリーを起こしてしまった。
もちろん、こんなことは絶対誰にも言えない。
そういうことはきちんと守ってあげなくては・・自分のことを信頼して言ってくれたんだから。)

渚は大人びていていつも隙のない九条ゆかりの弱い面を見て逆に安心したような気持ちになった。



次の日辰波が渚を待ち構えていた。

「ナリアキ君、きょうは古川沙世が襲われて、君が助けるところまでをなんとか撮ってしまいたいと思ってるんだ」

辰波の背後には五十嵐彩芽と伊豆屋邦美がにこにこして立っていた。
そして、少年達と九条ゆかりも。


渚は鈴木誠として通学途中の演技をしていた。
騒ぎを聞いてそっちの方を見ると、一人の女の子が7人の不良たちに囲まれている。
その子と目が合った。(助けて・・お兄さん)そう言った気がした。
明らかに九条ゆかりは昨日と演技を変えていた。
そうだ、急いで顔を隠して戻って来なければ・・・
カメラから外れた位置で素早く上着を脱ぎ、手ぬぐいを2本使って覆面をして出番を待った。


少し前に戻って、辰波は古川沙世を襲う場面について説明していた。
内容は九条ゆかりの事務所を通して伝えられており、事前に九条から少年達に伝えられていた通りだった。

「ところで誰がどういう動きをするかということだが、これは打ち合わせはしない。
君達は不良少年になった積もりで演技してほしい。
勿論事前に安田和馬に決して傷つけたりしてはいけないと謝礼付きで念を押されていることもあるので、抑えつけて別の場所に連れ出そうとするのが今回の君たちの使命なのだ。
だが、それを古川本人に悟られてはいけない。
むしろ、酷い目に合わせられるという恐怖心を与えるように演技しなくてはいけない。
つまり演技するように演技するのだ。芝居をする芝居だ。」

この説明をしている間の少年たちの顔を気づかれないように見ていた者がいた。
それは渚だった。
キムは途中から辰波の話を聞いてなかった。
自分は真っ先に九条の体を押さえる役をゲットする、そんなことで頭が一杯の様子だった。
辰波の方を見ている振りをしているが実際は虚空を見ていた。
同じような目をしていたのがカジだった。
彼は完全に上の方を見ていてうっとりした顔をしていた。
マモルは隣のトオルと目配せをしてなにやら含み笑いをして聞いていた。
トオルもときどきマモルを小突いていた。
岡ちゃんとトモとコウジだけは必死に辰波の話を聞き逃さないようにしていた。
渚は少年たちのことは気の良い奴たちだとは思っていたが、なにか別の物が4人の少年達を支配しているような気がして悲しかった。


渚が上着を脱ぎながら振り返ったときから、少年たちは動いた。
まずキムが九条の背後から首に腕を回した。
九条はその腕に噛み付き、足の甲を踏んだ。
声を漏らしてキムは離れた。左右にマモルとトオルが腕と肩を押さえていた。
正面からカジがうっとりした顔で両手を伸ばして近づいて来た。
九条は思い切りカジの向こう脛を蹴った。カジは声も出さずに転げた。
右腕を掴んでいたマモルの足を踏んづけた九条は、マオルが手を離すと、自由になった右手で左肩を押さえていたトオルの顔を叩いた。

「こいつめ、ぶっ殺すぞ」

岡ちゃんが凄い目つきで啖呵を切ると左手を九条の喉に当てて右手で殴ろうとするように拳を振り上げて睨みつけた。
すると九条は震えて体が竦んだようになった。

「おとなしくするんだよ!」

右側からトモが肩を押さえてこれも2・3回揺すってみせた。

「い・・・いや」

九条の声は震えたが反撃できずにいた。
岡ちゃんはコウジに目で合図するとコウジは背後に廻った。
岡ちゃんは九条の左側に廻り腕を軽く掴む。
しかし激しく掴んでいるように小刻みに揺すった。
九条が後ろを振り返ると、コウジが激しく笑った。

「はっはっは・・小鳥ちゃん、捕まえたぜ!!」


そう言って両手で九条の頭を挟むと前に向かせた。
つまりカメラ側に顔を向けたのだ。九条の顔は絶望的な表情になっていた。
その後コウジは九条の頭を両手で挟んだまま少しずつバックして別な所へ連れて行く演技をした。
両脇の二人も体をわざと大きく動かして抵抗する九条に手を焼いているような演技をして少しずつ後ろへずれて移動して行った。
九条は足をばたばたさせたが自分を押さえている3人には反撃しなかった。
だが、その他の者が近づくと空いている足で蹴りつけたりして必死に抵抗した。
そして、辰波が合図をしてカットになった。



そこでミーティングが始まった。辰波が少年達に話した。

「このシーンはこのまま使おうと思う。井出監督のOKが出た。
古川沙世は始めは必死に抵抗するが、結局は大勢の男の力には敵わないことがわかり絶望している様子が実に生々しく撮れた。
この後覆面をした鈴木誠が鳥人拳で君たちを倒す場面を撮るが、まず最初に古川沙世を抑えている3人を空中殺法で倒すのが先だ。
鈴木誠は古川の背後から来るから、コウジが物音に振り返って構える。
で、鈴木つまりナリアキ君がコウジを土台にして跳躍するので、コウジは前に2mくらい出ていてほしい。」

「3m半にして下さい。こっちは助走しますので」


渚はそう言った。

「よし、3m半だ。ナリアキ君はジャンプしてコウジの肩に着地しすぐジャンプする。
コウジは呼吸を合わせてやってくれ。
だが、ナリアキが飛んだときに一応後頭部か首の後ろを蹴られたという設定で前の方に激しく倒れてくれ。
タイミングが難しいと思うが・・」

「はい」

コウジは大きく頷いた。

「そして両脇の二人は九条さんを放して振り返ってくれ。
これもタイミングが難しいが、コウジが倒れるときに声を出してくれるとか」

「それは難しいと思うので、俺の方で声を出します。とおっとか、ジャンプするときに。」

渚がそう言うと辰波と岡ちゃんとトモが頷いた。

「よし、そのタイミングで振り返れば、もう頭上にナリアキ君が来ていると思うから頭を蹴られたことにして後ろに倒れてくれ。ちょっと危ないから、気をつけてほしい。そして他の4人だが・・」



全て打ち合わせた後、休憩を挟んで本番撮りということになった。
だがキムとかマモルたちが何か不満を言っているようだった。
渚が近づくといったん黙り込んだが、少したつと口を開いた。

「九条さんって結局汚いよな。始めから俺とかマモルやトオルには触られるのが嫌だったんだ。
カジもだ。こいつの馬面がお気に召さなかったんだ。
九条さんの熱烈なファンなのによ、思い切り蹴飛ばされたんだぜ。
ああ、俺は出っ歯で顔は皺っぽいし体に触られたくないでしょうよ。
だけど腕に噛み付くことはないだろう。おまけに足を思い切り踏んづけた。
マモルもトオルもやられた。だが、あいつらは・・」

そういうと離れた所に座っている3人を見た。岡ちゃんとトモとコウジだ。

「いくら体に触っても揺すっても脅されても抵抗してないんだ。
あいつらと俺たちはどこに差があるってんだ。あいつらかなり人相悪いぜ。
ああ、そうか。やっぱり、ああいうのが好みなんだよな」

聞いていられないのでその場を離れようとするとキムは言った。

「なあ、アッキよ。聞いてくれないか?九条さんに。どうして差別するんだって」

渚はため息をついた。

「勘弁してくれよ。俺はあんたたちの使い走りじゃないんだ。そんなに気になるんなら自分で聞けば良いだろう。」

するとキムは睨みつけて来た。マモルとトオルも険しい顔になった。
カジだけがただおどおどしていた。
キムはマモルたちの方を見てから薄笑いした。

「良いのかい、そんなこと言って。
この後俺たちの協力がなければ次の場面は撮れないんだぜ。」

「次の場面が撮れなければ困るのは俺だけじゃないだろう。」

「ふん、わかった。いいさ。
俺たちは呼び捨てなのに、お前は君づけで辰波さんから呼ばれているからいい気になってるんだな。
ようし、わかったよ。俺たちで九条さんに抗議しに行くよ。
その代わりもう俺たちには怖いものはないんだ。
安田和馬とのシーンも全部撮り終わっているし、後はこの次のシーンで俺達は終わりなんだから、俺たちがごねたら最初から違うメンバーで撮りなおせば良いんだ。
もう辞めたって良いんだ。その覚悟だからな。おい、行くぞ。」

キムは立ち上がってマモルとトオルも立った。
そしてぐずぐずしているカジも引っ張って九条ゆかりが休憩している場所に向かった。
渚は黙って見送っていた。

(聞いても答えははっきりしているのに・・。)



「ああ、そういうことですか。」

九条ゆかりは4人の言い分を聞いた後、立ち上がって頭を下げた。

「前もって言っておいたとはいえ、すみませんでした。
痛い思いをさせてごめんなさい。でも、あれは咄嗟の判断でそうしたのです。
あなたたちは私を脅す演技をしないで近づいて来ました。
そのまま掴まってしまえば、馴れ合いのお芝居みたいになるので抵抗したのです。
他の3人の人は怖い顔をして言葉でも動作でも脅して来ました。
つまり不良の演技をしていたのです。だから私は震え上がり抵抗する気力を失う演技ができたのです。
あなたたちも一生懸命だったとは思いますが、私の目から見たとき、素のままの状態で接触して来た感じだったのでああするしかなかったのです。
本当にごめんなさい。」

4人はそのまますごすごと戻って行った。
渚も同じことを感じていたが敢えて言わなかったのだ。
渚が言っても九条が言ったようには納得しなかっただろうからだ。
だが4人のうちの3人は渚の方を険悪な表情でまだ見ていたので、自分のことをまだ逆恨みしているなと感じた。
彼らには九条に対して恨む理由がなくなり、その分の鬱憤を渚に向けているようなのだ。
それが次の場面に本番撮りのときに現れた。


「きえーっ!!」

鈴木誠演じるナリアキ、つまり渚の奇声を聞いて、コウジは九条から離れて振り返り、3m半前に進んだ。
頭上に渚が来ていて両肩で受け止めると、後ろにジャンプできるように体を伸ばした。

「はっ!」


掛け声と共に渚がジャンプするとき、コウジの後頭部に『ピシッ!』と紐の先が鋭く当たった。

「うっ!」

短い声を漏らしてコウジは前方に倒れた。打ち合わせ通りだ。
既にトモと岡ちゃんが九条から離れて振り返っている。
九条は巻き込まれない為にしゃがみこんだ。
体の柔らかい渚は両足を水平に開いて二人の額に紐を当てた。

「ひっ!」「うぐ!」


二人は仰向けに倒れた。倒れた場所には石が落ちてないように事前に二人が拾っていたので思い切り後ろに倒れることができた。


次は12時の方向にマモル、1時の方向にキムがいた。
また11時の方向にカジとトオルがいた。予定ではこうである。
キムの体めがけてジャンプして、キムを土台にしてマモルを三角跳びのキックで倒す。
キムから離れるときに着地とは別の足で蹴離してヒットさせたように見せる。
キムは後方に倒れ、マモルも頭部を回し蹴りで紐を当てられ横跳びに倒れる。
その後いったん地面に着地した渚の正面にトオルとカジが並んで立っているので、渚は前方宙返りをした後、振り下ろした足で二人に紐を当てる。
『回転踵落とし』とか『胴まわし回転蹴り』と呼ばれる捨て身技である。
しかも同時に二人にヒットさせるので難易度が高い。
つまり『三角跳び』という伝説の技と、『回転踵落とし』を両足で行うという離れ業をここで見せる予定だったのだ。
だが、実際はこうならなかった。



渚はキムに向かってジャンプした。だが土台になる筈のキムが体を沈めて着地できないようにした。
渚の体は空中で前のめりになった。
するとマモルが顔を下にして落ちて行く渚を待ち構えたように下から回し蹴りで顔を狙って来た。まともに食らえば鼻骨は潰れ酷い『男前』の顔になるはずだ。
渚は空中で足がかりを求めた。キムの肩がかなり低い所にあったが、それを蹴った。

「トン!」

ちょうどキムの首と肩の境目に足が当たり、渚の体が上に跳ね上がった。
渚は体を丸めて回転させてから足を伸ばしたが、マモルが近すぎたためまともに踵がマモルの頭に当たった。
キムとマモルが本当の打撃を浴びて倒れた。

すぐ目の前にカジとトオルがいる。渚はジャンプして二人にむかって前方宙返りをした。
そして紐の先を二人に当てようとした。だが、当たったのはカジだけだった。
トオルは体を引いて踵落としを外し、地面に落ちた渚に向かって突進して来た。
足を大きく上げて踏みつける動作だった。
カジは紐がヒットしたのに倒れないでぐずぐずしている。
渚は体を横に転がしてトオルの攻撃を避けると、突っ立っているカジの胸めがけてドロップキックをした。

カジの体は3mほど後方に飛んで行き、背中から地面に叩きつけられた。
そして渚は地面に落下するときにバック転のように手から着地して、背後から襲って来たトオルの胸を両足で蹴った。
今度は手を地面につけていたので、勢い良く飛んだが、ちょうどその方向にキムがいたので、激しくぶつかり折り重なって倒れた。


「カット!」


辰波が顔を真っ赤にしてキムたちのところに走って行った。

「貴様ら何考えているんだっ!!」

だが、撮影を指示通りに行わなかった4人の少年は返事をしたくても声も出せない状態だった。
気絶こそしてなかったが、立ち上がれないことは勿論痛みで意識も朦朧としていたに違いない。
渚は咄嗟のこととはいえ、なるべくダメージが少ないようにヒットさせたのだが、少年達にはかなり強かったようだ。

「打ち合わせ通りに動くのはナリアキ君を守るためではないんだ。
お前たちに怪我をさせないように時間をかけてやっているんだ。
お前達は誰を相手にしてると思ってるんだ?!
無敵のプリンセス・ヘルを知ってるな?
あの最強のプロレスラー3人を秒殺したプリンセス・ヘル!
幻の秘拳スタントマン佐野原逸香さんの弟さんだぞ。
そして実力は・・それと同等かそれ以上か俺にもわからないんだ。
馬鹿野郎!お前達は親しく口を利いてもらってたからと言って、自分たちと同等の気持ちでいたのか?
もうお前達は終わりだ!!だが、今の絵はそのまま貰う。
また撮りなおしなんてごめんだ。もうお前たちなんて知らない!!
どこにでも行ってしまえ!お前たちのしたことはしっかり見たぞ。
アクションクラブの事務局にきっちり報告させてもらうからな。
時間はたっぷりあるぞ。もう映画界にはもどれないからな。
だからゆっくり自分たちのしたことが、どんなに馬鹿なことだったのか振り返るといい。
大馬鹿野郎!」

渚は何も言わずに岡ちゃんやトモやコウジと一緒に4人の少年達を医務室のある本館に運び始めた。
だが、辰波はそれを追いかけるようにして、いつまでもいつまでも怒鳴り続けていた。


映画『鳥人拳への道』は人気子役スター九条ゆかりが出演するということで彼女の事務所のほうで大々的に宣伝してくれた。
また武術映画ファンにとっては、佐野原逸香の弟のナリアキが出演するということで、話題を呼んだし、そのナリアキが新聞やメディアを騒がしたナリアキと同一人物かどうかも話題になった。
しかし、五十嵐の主張でその点は曖昧にして謎のままにした。
打ち上げには例の4人の少年も呼ばれた。
辰波が渚に頭を下げて彼らの過ちを不問にしてくれと頼んだのだ。
彼らの保護者も彼らを伴って渚のところに詫びを入れて来た。
本人たちも泣きながら謝ったので、渚は許した。
彼らは年下ということになっている渚に兄貴と呼んで土下座して謝った。

「兄貴、本当にすまない。」「許して下さい、兄貴」

もう、渚のことは「アッキ」と呼ばなかった。
彼らは辰波の温情で映画界から追放されずにすんだのである。
渚は思った。
男の子って女の子のことになると、頭がおかしくなって狂ってしまうのかなと。
それじゃあ、女の子もそうなのか?そこまで考えると身震いがした。
嫌だいやだ。男のために理性を失うような馬鹿な女になりたくない・・
だけど自分は結構馬鹿なところがあるから気をつけないと・・
そこまで考えると、渚はその先を考えるのをやめた。
そういうことを深く考えるのは得意じゃないし、面倒臭いからだ。


映画『鳥人拳への道』はヒットした。
だが皮肉にも最も人気が高かった場面は、子役が活躍したあの場面だった。
古川沙世が襲われて抵抗するところ、鈴木誠が覆面して例の4人を倒すところ、この2つの場面が最も話題を呼んだ。
この場面はそれぞれの子役が打ち合わせなしでしたリアル・ファイトだったので何か観客に訴えるものがあったのかもしれない。
渚は試写会で観客に挨拶したのが『ナリアキ』の服を着た最後だった。
後は深庄渚として武闘館に変装してアルバイトに行く以外は、普通に女の子として生活していた。


ある日、アパートのベランダから外を眺めていると、立派な乗用車がアパートの前に止まり、一人の少女が降りて来た。
身なりも美しくどこかで見た記憶があったような気がしたが、洗濯の続きがあったのですぐそのことは忘れた。
するとチャイムが鳴った。

「はい?どなたですか」


「九条ゆかりです」

「えっ?九条さん?」

「その声はナリアキさんね。お姉さんいらっしゃる?」

「えっ?お・・お姉さん?ちょっと待って下さい」

渚は何がなんだかわからなかった。
だが、とりあえずナリアキにならなければならず、急いで服を着替え玄関の靴を変えて、香水を嗅いでリラックスした。
久しぶりのナリアキだった。
ドアを開けると綺麗に着飾った九条ゆかりが手に紙袋を持って立っていた。

「どうしてここが?」

「すみません。中に入ってもいいでしょうか?」

「ええ、でも今俺ひとりだから。」

「あら、お姉さんはきょう仕事が休みの筈なのに。」

「ちょっと用事があって、出かけているんだけど」

「じゃあ、待たせてもらってもいいでしょうか」

そういうと九条はドアの内側に入ってドアを閉めた。

「でも、俺もこれから出かけるから・・」

「そうなの・・じゃあ、これをお姉さんに渡してほしいの」

九条は持っていた紙袋をナリアキに渡すとまた、出て行こうとした。

「ちょっと、待って。どうしてここが分かったんですか?」

「武闘会館の管理室の人に深庄渚さんの住所を聞いたの。
そのときに私が映画俳優だから、映画関係の名簿を調べてくれたらしくて
、あなたのお姉さんの佐野原逸香さんの本名が深庄渚さんだとわかったんです。
その深庄さんが補充要員としてアルバイトをしていることは知らなかったみたいです。
本当に驚いたわ。深庄さんがあなたのお姉さんだなんて・・
だって言葉の訛りがあなたには全くないのに」

「あがってください」

「えっ、でも出かけるんじゃあ」

「いいです。少し時間がありますし、お茶くらいは出しますから」

渚は、お茶を入れながらどうやってごまかそうかと思った。
もしかすると、九条は渚のことを詳しく調べているのかもしれない。
そうすれば、そういうことも計算に入れて話さなければならないと思った。

「どこまで知っているんですか、姉のことを?」

「実は・・私の知っている深庄さんがあなたのお姉さんと同一人物かどうか自信がなかったので、戸籍と住民票を照らし合わせて調べたんです。
でも、深庄さんには弟がいなかったので同姓同名の別人がいるのかと思ったんです。
けれども清掃補充要員の深庄さんの住所も佐野原逸香さんの本名である深庄さんの住所もここだから、同一人物らしいことがわかったんです。
すると全くわからなくなっちゃったの。
あなたは一体誰?
あなたは深庄さんの戸籍に載っていないし、深庄さんのような訛りもない。
本当はそれを教えてほしくて・・」

渚はお茶を用意しながら答えを準備していてよかったと思った。

「実は姉とは父親が違うんです。事情があって別々のところで育ちました。
ごく最近になって俺にも姉がいることを知ったんです。
姉は佐野原逸香と名乗っていたときは俺とそっくりというか、両方とも母親似なんですが、今はストレス太りで映画界からも引退しています。
姉のことを九条さんが知っていたなんて、俺あまりの偶然で驚きました。
なんでも話してくれる姉貴ですが、九条さんのことは一言も言ってなかったから」

それを聞いて九条ゆかりはにっこり笑った。

「さすがお姉さんね。実は私とお姉さんの間で秘密があるの。決して漏らしてはいけない秘密ね。
それを守ってくれてたから、あなたには私のことを話さなかったと思うわ。気になる?」

「いいですよ。女同士の秘密とかあんまり知りたくないですから」

「そう・・よかった。でも、かえって言いにくいことを言わせてしまったようで御免なさい。」

「いえ、それより。このことは言わないで下さい。誰にも。
特に姉がアルバイトをしていることは黙っていて下さい。
姉はスタントマンを引退したのですから」

「わかりました。私から言うことはないでしょう。もう一つ良いですか?」

「何ですか?九条さん」

「私はきょう撮影があって、学校を早引きして来ました。これから撮影所に行くところで、その前にここに寄ったんですけれど、ナリアキ君は学校は?」

渚はしまったと思った。この答えは考えていなかった。
仕方なく一番わかりやすい返事を用意した。
「ちぇっ、ばれたか。きょう仮病を使って学校を休んだんです。
そしてゲームセンターにでも行こうかと・・悪いことはできないもんだなあ。」

「うふふ、そうだったの。仮病を使ったなら、おとなしく家にいた方がいいですよ。
洗濯の途中だったんでしょう?さっき、洗濯機がとまったみたいだったけれど」


「ああ、洗濯ね。それは姉に言いつけられて・・・。
仮病のことを目をつぶってもらう代わりにそういう仕事がまわってくるってことですね。」

「ナリアキ君、良い匂いするね。お姉さんの香水悪戯したでしょ?」

「ああ、もう。女の子って色々なことに気づくなあ。
もう帰ってくれませんか?これ以上観察されると心臓に悪いから」

「はいはい。お邪魔しました。ではお姉さんに宜しくね」

やっと九条ゆかりに帰ってもらって、貰った紙袋の中を見ると、お洒落なネックレスとイアリングが入っていた。

「食べ物の方が良かったんだけどなあ」


まだナリアキの格好をしていた渚はそう言った。

すると、またチャイムが鳴った。

「はい。」

「九条です。ちょっとだけ良いですか」


ドアを開けると九条ゆかりがいきなり入って来て、ドアを閉めた。

「あ、な・・なんですか。俺、今出かけるとこだって・・・」

「どんな格好で深庄渚さん?」

「えっ!?」

「あなたはナリアキさんじゃなくて、深庄渚さんでしょ?」

「・・・・・」

「私がここに来たとき、ベランダから女の子が見ていた。
今外に出てその部屋を確かめてみたらこの部屋に間違いなかった。
ナリアキさん、あなたは女の人ですよね。20才の深庄渚という・・・。
でも、20才には見えない。もしかすると、それも嘘かもしれない。」

「ちょっと。待ってくれよ。何言ってるんだかわからないよ。
つまり、俺が女だってこと?本気でそんなこと言ってるんですか?」

すると九条ゆかりはいきなり渚に抱きついて来た。

「な・・何をするんだ。正気かい?」

「ほら、深庄渚さんと同じ匂いがする。
あのときはマスクと体に詰め物をしていたでしょ?
それにどこの方言かわからない田舎訛りも不自然だったわ。」
「・・・・・・・」



渚はゆっくりと九条ゆかりの体を離すと部屋の中にあがってもらった。
それから、奥の部屋で普段の渚の姿に戻ってから九条ゆかりと向かい合って座った。


「九条さん、いつから気がついていたのですか?」


九条ゆかりはじっと渚の姿を見つめていたがにっこり笑って言った。

「すてきなお姉さまね。憧れちゃうな」

「・・・・」

「私は3才のときから芸能界に入ってお芝居をしてきた人間です。
だから相手が演技しているとき、なんとなく心の声が聞こえるんです。
嘘をつくときも演技の一種だから、なんとなくわかっちゃうことがある。
お芝居をしている人がみんなそうかというとそうでもない。
私の場合はそれが敏感だから『天才』とか言われるみたいですね。
でも、五十嵐さんみたいに器用ではない。
あの人こそ演技の天才といえるんでしょうね。
あなたがナリアキさんとして現れたとき、正直女性だとはわからなかった。
ただとても綺麗な顔の男の人だとは思ったけれど・・。
でも普通の男の子とはどこか違う。
だから、色々あなたを突いて反応を見ようとしたわ。
でもあなたは普通の男の子なら見せてくれる筈の反応をしてくれなかった。
女の子の私に全く関心がないというか・・話す言葉の奥にそういう冷たいものを感じたの。
私が襲われて助けを求める演技にも乗って来なかった。
あのときは凄く腹が立ったわ。こんな扱いを受けたのは初めてだったし。
ところが全然別なところであなたのことがわかった。
掃除婦の深庄渚さんに感謝して抱きついたとき、懐かしい匂いがしたの。
あなたはナリアキとして私と話すときも微かに香水の匂いをさせていたんですよ。
初めは香水だとは思わなかったけれど、わかったの。
アロマ療法で使うサンダルウッド、つまり白檀の香りだって。
よく気持ちを落ち着けたり瞑想するときに使うというインド産のアロマオイルね。
それと同じ匂いがした。
しかも香りというのは本人の体臭と混ざって独特の香りになるものだから、それが同じ匂いだということは深庄さんはナリアキ君と同一人物かもしれない。
咄嗟にそう思ったわ。
そして抱きついているとき、顔の皮膚や体の感触でハリウッドの変装技術を使っていることがすぐわかった。
そうすると、あの不自然な訛りも怪しくなるし、初めは男のナリアキ君が悪戯で掃除婦に化けて私の所に来たとも思ったけれど、調べて行くうちにその逆ではないかと思ったの。
つまり女の深庄さんが男のナリアキ君に成りすましているのではないかって。
後は簡単だったわ。そう推理して色々なことを考えて行くとすべて当てはまる。
そして調べて行くと深庄渚さんとナリアキ君が繋がった。
だから、ここに来る前から確信してたの。
それでなければ、いくら相手がナリアキ君でも男の子1人だけの部屋に上がりこまないよ。
どう、渚さん?私、頭良いでしょ?そんな困った顔しないでください。」

「九条ゆかりさん、あなたはまだ13才の子供なのに、演技の天才というだけでなく、頭の良さも大人顔負けですね。
その通りです。私は男の子の振りをしてました。でも遊びではなく生活の為です。
あの新聞で騒がれたナリアキも私ですが、遊びでやったのではなくそういう仕事を命じられてしたことです。
詳しくは言えませんが、わかってください。
あなたはこのことを利用して私を追い詰めたりしませんよね。」

「追い詰めはしないわ。でもお願いがあるの。」

「なんですか?」

「あなたと仲良くしたい。女の子同士の友達として・・本当は何才なの?」

「20才としか言えません。聞かないで下さい。」

「友達になってくれる?」

「無理です。あなたのような有名人と一緒に歩いたら目立ちすぎます。」

「そうかあ・・・目立つと都合が悪いんですね。
今の姿は人目には曝したくない。だから変装して働いている・・。」

「事情は言えませんが、今の姿をメディアには出せないのです。
この姿で友達になれば当然ですが、変装した深庄でもあなたの周りをうろうろしてたらマスコミが怪しみます。
誰も掃除婦なんか注意して見ないから、今までやっていけたけれど、注意して見られたらすぐわかってしまいます。
盆踊りの仮装大会みたいなお粗末な変装ですから。
また、ナリアキの姿なら余計危ないです。
九条渚に共演者のボーイフレンドが・・・なんて騒がれ化けの皮を剥がされてしまいます。」

「分かったわ。何が心配なのかも十分わかったから。
あなたのことを絶対秘密にするし、メディアに曝すようなことはしない。
どう?この部屋ごと私の屋敷に引っ越して来ない?
お金のことなんか心配しなくていいですから、一緒に生活しませんか?
私、渚さんを見つけてもう手放したくない気持ちなの。
もうあなたのような人には絶対会えない気がするから、だから言う通りにして、お願い!!」

渚は考え込んだ。そして九条ゆかりの手を握った。

「私のことをそんなに思ってくれるなら、言う通りにしてみます。
いつ引っ越せば良いですか?」

「本当?嬉しい!!じゃあ、明日午前9時ごろ業者を寄越すわ。
準備は一切しなくていいから、全部荷造りして解いてくれるのもやってくれるから。
引越しの費用は全部私のほうで持ちますから、心配しないでね。」

「わかりました。色々お世話になります。宜しくお願いします。」

「どう?これから私の家に来て夕食を一緒にしない?
そしてもうきょうから泊まってくれる?荷物は明日運べばいい訳だし」

「あ、きょうの夕食の食材用意しているので・・それにこの部屋と最後のお別れをゆっくりしようかなって・・」

「そう・・・それじゃあ、明日待ってるわね。うふふ、楽しみだなあ。
今夜眠れないかも・・」


九条ゆかりがはしゃいで帰った後、渚はある業者に電話した。
彼らはすぐやって来た。こっそり訪れた彼らは低い声で言った。

「夜逃げ屋です。今夜中にということですが・・・」

「すみません。荷物をまとめておきますので、夜遅くなってからこっそり来てください。」


「わかりました。時間は・・・・」



それから渚は猛スピードで働いた。冷蔵庫のものは一まとめにして、ビニール袋に入れ、ゴミも分別してゴミ袋に入れた。
衣類、食器類、家電製品を簡単荷作りすると、部屋の掃除を始めた。
大きい家具もヒョイヒョイと避けながらすっかり掃除機で吸い取ると、バケツに湯を入れ、雑巾で吹き掃除を始めた。
バスルームも便器やバスタブ、排水口も洗剤を使ってピカピカに磨いた。
キッチンの換気扇、シンク、ガスレンジもピカピカに磨く。
物置や靴箱の中もすっかりきれいにして、電灯の笠の埃も拭き取り、カーテン以外は全部荷造りした。
いつも手作りしていた食事も今回はコンビニで弁当を買って済ませ、アパート管理人宛てと九条ゆかり宛に手紙を書いた。

以下に再現するが実際の手紙はあまり難しい漢字は使っていない。


管理人さんへ、
事情は言えませんが、突然引越ししなければいけなくなりました。
今月の家賃を置いて行きます。申し訳ありません。
敷金は迷惑料として受け取ってください。
                  深庄 渚


九条ゆかりさんへ
ゆかりさん、本当にごめんなさい。
あなたの好意はありがたいのですが、それに甘えてしまうと私は駄目になってしまう気がするので姿を消すことにします。
あなたはとても誠実で心優しい人ですから、私の秘密は守ってくださると信じています。
それとプレゼントして下さったネックレスとイアリングは私には勿体無いのでお返しします。
いつまでもお元気で。お友達になると嘘をついて、本当にごめんなさい。
あなたはとても素敵な女の子ですから、きっと私なんかよりもっともっと素晴らしいお友達に恵まれることと思います。
またそうなることを願ってます。お体を大切に。
映画でもがんばって、いつか大女優になって下さい。陰ながら応援しています。

                 深庄渚


業者は夜中にこっそり来た。既に荷物はまとめられていて、運ぶのにも渚が手伝ったのですぐ荷積みは終わった。
最後にカーテンを外して部屋の明かりを消すと、2通の手紙をがらんとした部屋の真ん中に置いておいた。
部屋の鍵はかけずに、鍵は管理人宛の封筒に入れた。


貸し倉庫に荷物を収めると、渚は業者にお金を払い、カプセルホテルに泊まった。

ホテルの従業員の女の子がホットミルクを持ってきてくれた。

「サービスです。ゆっくりお休みください」

「ありがとう」

ホットミルクを飲むと疲れが出てきたのか眠くなった。

「明日から部屋探しか・・・」

渚はそのまま泥のように眠った。


   (第8部「波浪の記」おわり     第9部へ続く)

怪力少女・近江兼伝・第8部「波浪の記」

なぜ深庄渚は九条ゆかりから逃れたのか?この後いったいどうする積りなのか?

怪力少女・近江兼伝・第8部「波浪の記」

新しい上司に持ちかけられた任務は何故か奇妙なことばかりだった。しかも高額な報酬だ。だが、渚は最後にその任務の本当の意味を知るのだ。 主人公は行きがかり上「ナリアキ」という芸名で映画出演することになったが、そこで天才子役と言われる九条ゆかりに散々悩まされる。その一方で賄い婦・土木作業員・掃除婦・家政婦の仕事を続けるうちに九条ゆかりと顔を合わせることに。 また武闘会ジュニア・アクションクラブの少年達との衝突が渚を悩ませる。 そして九条ゆかりは渚の正体を見破ろうと迫ってくるのだ。どうする渚?

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-25

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