怪力少女・近江茜伝・第7部「渚の風」

この小説は表題にあるように、全11部からなる長編小説の第7部にあたります。
主人公は木崎茜として中学時代そして高校1年生の途中までを過ごしたが、銃撃されたことをきっかけにしてその履歴をすべて捨て去った。そして全く別人として生活することを強いられる。この第7部はそのスタートになる。
さて、主人公はどんな新しい名前でどんな人生を過ごすことになるのだろうか?

首都にはときどき正体不明の建物が存在する。
上雁区には公務員宿舎といいながら殆ど入居者がいない建物があって、都民から批判されて、民間に払い下げになったマンションがあった。
塚嘉区には警察関係と見られる人間がよく出入りする建物があるが、「塚嘉区警察支援センター」という表札が貼り付けてある。
物好きな人間が調べたところによると、警察支援センターという名前の建物は首都23区中塚嘉区だけで、他には存在しないとのことだった。
では、ここに出入りしている警察関係者とはどういう人たちなのか、これがさっぱりわからないという。
出入りする人を捕まえて聞いても、ノーコメントで、全くガードが固い。

きょうも車が一台着いたかと思えば、パンツ・スーツを着た30代の女性と10代半ばのジャージ姿の少女が降りて来て、建物の中に消えて行った。



その女性は相原香苗と名乗った。
美人というよりハンサムな凛々しさを持つ容貌で、話しかけるとき決して目を逸らさず相手を見つめ続ける。

「あなたは木島茜という名前を3年半使った。
その前は石田村の兼(けん)ちゃんと言われて7年間。
その前は本名だった近江兼(かね)で5年間。
まず、近江兼(かね)は戸籍上死亡しているから復活はできない。
いくら国家権力を使っても、あなたにこの名前を取り戻させることはできないの。
当時警察官が死亡確認に立ち会わなかった事実を警察としては認める訳にはいかないから。
ここまでは良い?」

殺風景な部屋に小さなテーブルと2つの椅子。窓のない部屋にベージュ色の壁。
少女を見据える相原香苗の顔を天井の蛍光灯が照らすが、少女はショートヘアの後姿しか見えない。
少女は少し間をおいてからこっくりと頷いた。

「はい」
「もちろん兼(けん)ちゃんは使えない。あなたは女の子だから。
これもわかるね。
それで、木崎茜だけど、これは来る途中でも言ったけれど、実在の女の子で死亡していることがわかったの。
本人が行方不明のときは、あなたが名前を使っていたけれど、これも無理。
実は何ヶ月も前からそれがわかっていて、ある時期生きている木崎茜と死亡した木崎茜が同時に存在していたのよ。
でも、内海部長が上層部に頼んでストップさせた。県警だけの権限では戸籍を偽ったことを隠せないからね。
特別措置というのを使ったわけ。
だから、なんらかの方法で生きている方の木崎茜を消さなければいけなかったの。
その計画を進めているうちに拳銃発砲事件が起きた。
あなたは死んではいなかったけれど死んだことにしたのはそういうわけ。」

「・・・・」

「蛇頭のヒットマンは堂島興行の外崎という男に頼まれてあなたを殺しに行った。
咄嗟に勘違いして王李花を撃ち殺したけれど、すぐ勘違いに気づいてあなたを撃った。
どちらにしても目撃者は殺す積もりだったけどね。
けれども警察としては堂島興行の人間を大量逮捕することに協力してくれたあなたが報復を受けて撃たれたとは発表できない。
そんなことをすれば、誰も警察に協力しなくなるから。
だから、同じ中国人同士のトラブルかもしれないという匂いをばら撒いて、この件を曖昧にしたの。
もちろん犯人も外崎も服役中の堂島もそれ相応の刑罰は受けるけれど、そのことは大きく発表はしないというわけ。
ここまでで何かある?」

少し間をおいて、少女の後ろ姿は声を出した。

「それで私はこれからどうなるのですか?」

「さっき、特別措置を使って、戸籍を偽ったことを不問にしたと言ったけれど、それには条件があるの。
その条件をあなたが受け入れることを前提にして、特別措置が行われたのだけど、いいかな?」

「どんな条件ですか?」

「あなたに警察補助員になってもらうということ。初めて聞く言葉でしょ?
一般の人は勿論、警察関係の人でもこの言葉がわかるのは少ないかもしれないね。
あなたは警察で一番下の階級をなんと言うか知ってるよね。
いわゆる新米のお巡りさん・・・」

「巡査・・ですか?」

「そうそう知ってるじゃない。じゃあ一番上の階級は?」


「警視総監でしょ?]

「その通り。巡査から始まって9段階ある階級のトップが警視総監よ。首都警察である警視庁のトップね。
だから警察で一番偉い職名は警視総監かというと、実はそうじゃないの。
階級名はないけれど警視総監の上の人がいるのよ。それが警察庁長官なの。
しいていえば下から数えて10番目の頂点ね。私は下から数えて6番目の警視正が階級名、そして職名は室長。内海さんは私より一つ上の警視長が階級で、職名が部長。わかってきた?
どうしてこんな話をするかというと、あなたにしてもらう警察補助員というのも階級がないの。
そういう意味では警察庁長官と同じね。」

「でも、実際は巡査の下ですよね・・。私高校中退ですし。」

「そうね。学歴的にいえばあなたは中卒ね。
いいづらいけれど最低学歴に近いかな?そういう意味では巡査の下かも。
だけどあなたは私の直属の部下になるから、警視と同格かもしれないよ。
地方の警察署の署長さん並だよ。
というか、警察庁長官と同じく階級がないから私以上かも。
なんて喜ばせたのは、実は裏があるからなの。それは給金のこと。
交通補助員のように常勤の場合は給金がでるけど、あなたは非常勤補助員だから定期的収入がないの。
あるのはお手当てだけ。
いくら国家権力をフルに発動してもあなた一人を養えないなんて情けないけど、これが現実。
警察予算も監査が厳しくなって特別予算が組めないの。」

「すると、私はどうやって食べて行くんですか?」

「さすが自分で生活費を稼いでいただけあって、良い質問をするわね。
ここからは大事なことだから、よく聞いてね。
あなたは警察補助員として位置付けられているけど、給料支給の対象ではないの。
だから、あなたがお手柄を立てたり、仕事をしたときは、一般市民が協力してくれたのと同じ扱いになる。
いわゆる協力費とか報奨金という形で支給される。
でも、それだけじゃあ食べていけないから上司である私がアルバイト先を見つけて収入の目途を立ててやる・・・ってこと。」

「なんだか最初の警視と同格という話からだいぶ変わってきましたね。
それでもう一つ気になることがあるんですが・・・」

「なに?」

「私の住民票はどうなるんです?戸籍もないし、名前もないから保険証も支給されないし、簡単なカードも貯金通帳も作れないんです。
それに以前作っていた木島茜の貯金通帳には苦労して貯めた蓄えがあったのに、それも全部置いてきたことになります。」

「一つじゃないわね、それ。
まず、通帳は解約して現金にしたものを預かっています。後で渡すね。
それとあなたの名前はきょうから深庄渚(ふかじょうなぎさ)と言います。
これは初めから言っておくけど今実際に生きている人の名前です。
つい最近アメリカ市民になって日本領事館にそのことを届けなかった人がいて、日本国籍がそのまま残っていたの。いわゆる二重国籍ね。
実はその人はあなたの前任者でわざとそうしてくれたんだけどね。
つまり、あなたに戸籍のプレゼントをすると言い残して渡米した。
だから、あなたは死ぬまでこの名前を使えるわ。
その子は施設出身者で天涯孤独の身。あなたに良く似ている。
ただ一つ問題があるのは年齢が20歳だってこと。
8月14日が誕生日だったのよ。
年が明けたら成人式にも出てね。着物は貸し衣装でいいから。
成人って言ったよね。だから法的には保護者の必要のない年齢なの。
あなたの保護者はあなた自身。
もちろんあなたは児童ではないから、児童保護法が適用されない。
何か質問ある?」

「私はアメリカ市民にはなれないんですね?なる積もりはありませんんが」
「そうね、もし将来移住するなら、アメリカ以外を選んで。」

「渚さんてどんな人だったんですか?」

「幼い頃から甲賀忍法を修めてきた子で、13歳のときに家族が事故で死に、施設に移された。
そこから15歳のとき脱走して不良チームの頭になっていたのをスカウトしたの。
16歳のときから警察補助員として協力してもらって、ついこの間アメリカの情報機関で働くためにアメリカに渡った。
そんなとこね。
彼女も学歴は中卒。身長は170cmだからモデル級ね。
警察の組織内では階級を持っていなかったけれど、政府要人のSPの補助員もやった。」

「SPの補助員って?」


「私服を着て一般人を装いながらやるSPよ。
お手当てが沢山でるから、今度やってもらうわね。
いい?きょうからあなたは深庄渚。
もう誰もあなたの名前は奪うことはできないわ。」

「はい。ところで最後に質問がありますが、私の住所はどこですか?」

「渚さんがアメリカに渡る直前に引越しして生活に必要な荷物を運んでおいたアパートがこの近くにあるから、これから行ってみようね。
敷金と家賃半年分は前払いして行ってくれたから、ライフラインの分だけ心配すればいいよ、とりあえずは。」

「いろいろありがとうございます。」

「ところで、一つ忠告。たとえば新聞配達とかそういう仕事はしないこと。
配達の時間帯に新しい任務が命じられたら対応できないから。
アルバイトも私が見つけるので、勝手にしないこと。いいわね?」

「は・・・はい」
「勿論、自分の過去の世界に足を踏み入れることは禁止。
残酷かもしれないけれどそれが深庄渚の人生のためなの。」

「人が死ぬってそういうことなんですね」

「えっ?」

「私が生きていた世界は回りに色々な人が一生懸命生きていて、それぞれの物語を持っていました。
その物語はまだほんの途中だったのに、ある日突然私が死ぬことになって、その続きを見ることができなくなってしまったんです。
まるでテレビのドラマを最終回までみないうちに、突然放映を打ち切りにされたみたいな・・。」

「そうね。死ぬってことはそういうことね。きっと。
それを生きている深庄渚、あなたが味わっているということね。
でもドラマの続きを絶対見ようとしてはいけないよ。
そのドラマに深庄渚が出演することは決してできないんだから。」

「はい」


「確認するね。あなたは誰?」

「深庄渚、20歳、誕生日は8月14日でした。」


「へえー若く見えるわ。まるで10代半ば。その秘訣は何?」

「食べ物に好き嫌いしないことです。それに気持ちがまだ子供で・・」

「その調子・・でも、後の方は駄目。なめられちゃうから。」

「でも背伸びしたくないんです。気持ちが若いって良いことだと思います。」

「まあ、任せるわ。それとあなた運転免許持ってるから。」

「えっ?」

「まあ、そのうちどこかで練習しましょう。」

「は・・・はい」

「最後に手術のことだけど・・・今腕の良い医者を捜しているところなの。もう少し待ってくれる。
費用はこっちで持ってあげるから。」

「はい、大丈夫です。私別に気にしてません。」

「駄目よ。女の子なんだから。それにそのうち任務の内容上元の顔が必要になるわ。」

「はい、お任せします。」

そう言って椅子から立ち上がってこちらを向いた少女・・深庄渚の右頬には横一直線の弾痕が痛々しくも刻まれていた。



葦野組土木現場ではプレハブの事務所の中で社長の葦野篤志が頭を抱えていた。
横には事務員の女性神林伊織が心配そうにしてお茶の入った湯飲みをそっと置く。

「社長、先ほど一人来てくれると連絡がありました。」

「重機を運転する人間はいるんだが、手作業する奴が10人いなくなったんだぞ。
一人くらい来てもらっても明日の作業に間に合わないんだ。
きっと阿古沼組の奴らが脅すか金で釣ってこっちに来ないようにしたんだ。
本当は今日中に運び終わる筈だったのに!!」

葦野篤志は拳で机を叩いた。
湯飲みのお茶が少しこぼれたのを神林伊織は布巾で慌てて拭く。



そのとき、事務所に一人の少女が入って来た。だが、その顔を見て二人とも驚いた。
作業着服姿のその子は身長155cmほどでほっそりした体。恐らく体重は40kgほどだろう。
年齢はどう見ても十代半ば。
だが一番驚いたことは、右頬に横一文字に肌色の絆創膏を貼っていた。。

「お前は誰だ?なんの用だ?」


葦野篤志が怒鳴ると、少女は言った。

「社長さんですね。土木作業員を募集していると聞いて来ました。」


「女子供にできる仕事じゃない。そんなことも分からないのか!」

50歳の貫禄で葦野篤志は一喝したが、その奇妙な少女は動じる風もない。

「社長さん私は20歳なので子供じゃありません。それに女でも男に負けない力があります。」

「いい加減な寝言を言ってるんじゃない。今忙しいからつまみ出される前に出て行け。」

葦野は本当にその少女をつまみ出す勢いだった。彼は今最高に虫の居所が悪いのだ。

「いい加減じゃありません。ここに年齢の証明書があります。力だって試してもらえばわかります。」

「この餓鬼!!いい加減にしろ!!」

神林伊織が止めようとしたが、葦野篤志は椅子を蹴って飛び出した。
若い頃から土方をやって鍛えた体は衰えていない。
今でも生意気な若い男を張り倒したり、投げ飛ばしている。
だが、その力で少女を殴ったら大怪我をするかもしれないという理性が、このときは飛んでいた。
バッシ!と節くれだった右手が少女の頭に当たったと思った。
だが少女は左手の掌を外に向けて葦野の太い手首を握っている。
手首の半分しか指が届いていないのに、強い力で外れない。

「社長さん、力があるのはわかっていただけましたか?
今保険証と運転免許証をお見せしますから、手を離します。」

「えっ・・・ああ。見かけによらずものすごい力だね。驚いたよ」


葦野は右手を解放された後、掴まれた手首をしきりにさすりながらすっかり怒りがおさまっていた。
渡された保険証も運転免許証も間違いなく20歳であることを示している。
だが葦野は力なく首を横に振った。

「折角あんたに来てもらったが、あと9人いなきゃ間に合わないんだ。
それでぎりぎり間に合うかなって。」

「どんな仕事です?10人も必要な作業って?」

「石膏ボードを3階の建物の各階のそれぞれの部屋に480枚運ぶ仕事だ。
それを6時間以内にやらないと間に合わない。
私は別の作業があるから手伝えないし、他の社員は重機を動かす別の仕事がある。
明日別の業者が入ってそれを使って作業することになっているんだ。
まあ、こんなことあんたに言っても始まらないが・・」

「石膏ボードの重さはどのくらいですか?」

「15mmボードだから1枚20kg近くある。それを普通の作業員は2枚ずつ運ぶ、一往復するのに余裕を見ても平均15分、1時間で8枚なら6時間で48枚。
だから10人でぎりぎりなんだ。
休憩時間を考えないで、この計算さ。
それに石膏ボードは気をつけて運ばないと駄目なんだ。
ぶつけたり落としたりすると簡単に割れたり欠けたりする。」


「それで日当は幾ら払う積もりだったんですか?」

「この作業に12万円しか予算を組んでない。もちろん、こっちの取り分はない。
だから、一人に12,000円ということになる。」

「社長さん、見取り図と各部屋に置く枚数がわかるものを見せて頂けませんか。
慎重にゆっくり運んでおきますから。」


「だから、一部だけ運んでも意味がないんだ。たとえあんたが寝ないで朝までやったとしても終わらないし・・・」

「もし、今日中に終わったら私に12万円下さいますか?」

「ええっ!!?どんな手品を使うというんだ、あんた?」


葦野篤志は目を見開いて、深庄渚を見つめた。



深庄渚は、足場の補強を頼んだ。
250kgの重さに耐えられるように板を重ねてもらった。
そして丈夫で幅広いベルトを一巻き借りた。
そしてトラックで運ばれて来て重ねてあった石膏ボードを10枚ずつ運ぶのにベルトを回して一束にして担いだ。
普通2枚の石膏ボードを運ぶにも歩く速さの2~3倍は時間がかかるものだ。
それを渚は早足で運んだ。一往復するのに平均2~3分で、どこにもぶつけずに石膏ボードを10枚ずつ運んだ。
1時間もすると半分の240枚を運んだ。渚は30人分の仕事をしていることになる。



さて、後一時間がんばろうと、石膏ボード置き場に戻ったとき、7人の風体の良くない男たちが集まっていた。

「なんだ、これは?終わってしまうじゃねえか!」

「葦野の野郎、どこから作業員を雇ったんだ?全部押さえた筈なのに!」

渚が彼らの目の前で10枚の石膏ボードを担いで運んで行くと、男達は驚いてなにやら指差していた。
すぐまた次に石膏ボードを運ぶために戻ると、男達は立ちふさがった。
渚を見ると、手ぬぐいで鉢巻をした赤鬼のような顔の男が言った。

「おほほう!!絆創膏のねえちゃんよ。力持ちだな。少しは休めよ。」

するとその横にいた色の黒い達磨みたいな太った男が渚を嘗め回すような目で見て言った。

「ねえちゃん、その顔はどうしたい?猫にでも引っ掻かれたかい?」

渚は男達を見回してよく聞こえるように言った。

「すみません。そこどいてくれませんか?仕事の邪魔ですので」

すると、一斉に男たちが笑った。黒シャツに白いスーツを着た男が言った。

「仕事をやめればどいてやるよ。」

するとアロハシャツの男がその白スーツに調子を合わせるように言った。


「俺たちと一緒に来いよ。もっといい仕事があるからさ。」

「お断りします。だからどいてください。」


渚は男達を見回した。
土木作業員らしい服装は5人で白シャツとアロハは筋者がかった感じだった。
赤鬼、黒達磨の他に大きな木槌の形をした掛矢(かけや)を持った腹巻の男。
角スコップを肩に担いだニッカボッカの男。金属バットを持った野球帽の男。

「聞き分けのない餓鬼だな。」

白スーツは、男たちの方を振り返った。

「餓鬼は俺が何とかするから、お前らはその辺を壊してやれ!」


そういうと一人で渚の方に近づいて来た。
首ねっこでも掴む積もりだったのか白スーツが奥襟に伸ばして来た手を、渚は無造作に掴むと後ろ手に捻り上げそのまま頭上に担ぎ上げた。

「うううう・・あああ!こいつ化け物だあ!」

白スーツが叫ぶと、他の男たちが駆け寄って来た。
茜はアロハに向かって白スーツを投げた。
白スーツは4mほど飛んでアロハに命中した。
二人とも重なって地面に転がって、そのまま伸びてしまった。

「だからヤクザは体力がないってんだよ。」

そう言って黒達磨が赤鬼と一緒に渚に向かって来た。

「ねえちゃん、馬鹿力だけじゃ喧嘩にゃ勝てねえぜ。」

赤鬼が丸太のような太い腕を振り上げて、殴りかかって来た。
だがそれより速く渚はその腹のど真ん中に頭突きをかました。

「うぷ・・・こいつ・・喧嘩慣れしてやがる」

よろよろと赤鬼がふらつくと、その場に崩れるように倒れた。

「この小娘!」

黒達磨が頭突きで下に向けていた渚の顔を蹴り上げて来た。
渚は顔を振ってよけると、蹴り足を抱えて上に放る。
大きな体は仰向けに倒れて背中を地面に打ち付けた。
手に獲物を持った3人の男は同時にかかってきた。
ニッカボッカが角スコップを水平に振って渚の首を狙ってきた。
野球帽は渚の頭に金属バットを振り下ろしてくる。
渚は上半身を後ろにそらして避けると、ニッカボッカのスコップが勢い余って野球帽の男の胸に当たった。
野球帽の男の金属バットは地面を叩いて鈍い音を立てる。
その直後、腹巻が掛矢を渚に振り下ろして来た。
渚は両手で受けるとそれを奪い取って遠くに投げた。


そのときパトカーのサイレンが聞こえて来た。
渚は金属バットを踏みつけると、野球帽の手から外れた。
ニッカボッカが再度振り下ろして来た角スコップも柄を掴んで遠くに投げる。
腹巻とニッカボッカが掴みかかってきたのを、渚は肘打ちで3mほど飛ばした。
そしてまだかかってこようとする野球帽の顔を平手でどんと突くと、野球帽はその場に倒れた。


事務所から事務員の神林伊織が戸口から出て様子を見ていた。
離れた現場にいた葦野篤志社長もかけつけてきた。
パトカー2台から制服警官6人と私服の刑事らしき人間が降りて来た。
神林伊織が声を上げた。

「お巡りさん、ここにみんな倒れています。」

倒れている7人の真ん中で立っている渚を見ると、刑事が叫んだ。

「動くな、そこの女・・・あっ、まだ子供だな?」

「刑事さんその人は違います。正当防衛です。」

葦野は刑事を止めた。だが、体の大きい方の刑事が渚を組み伏せようと腕を取った。
渚は腕を取らせはしたが、ねじ伏せられはしなかった。

「違います、その子はうちの作業員です。」

葦野は再度訴えた。

「一応騒動を起こした当事者のようだから連行する。」


渚はポケットから相原香苗から貰った自分の名刺を差し出した。

「これ見てください。私は警察補助員です。」


「なんだ、これは?警察庁防犯室嘱託補助員 深庄渚 だって?
こんな物作って遊んでいるんじゃないよ!!」

「遊びじゃないわ」

刑事と渚が振り返ると相原室長がいつの間にかすぐ近くに立っていた。
相原室長はつかつかと歩み寄ると自分の警察手帳を刑事に見せた。
刑事は二人ともそれを見て最敬礼した。

「警視正殿!!」

その声を聞いて他の警官達も敬礼した。
相原室長は、渚を指差した。

「この者は私の直属の部下で今回潜入捜査させた者です。
そこに倒れている人間は阿古沼建設に雇われたごろつきで刑法234条にある威力業務妨害をしたところを彼女が現行犯逮捕するところです。」

「あの・・警視正殿・・この補助員・・さんは、警官でもないのに逮捕できないんじゃ・・」

刑事がきょとんとしてそういうと、相原室長が一喝した。

「愚か者!刑事訴訟法第213条で『現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる。』とあるのを、お前は知らないのか?基本中の基本だろうが!もう一度警察学校に行って来い。」

「は・・・・も・・申し訳ありません」

「それと・・・」

相原室長は2台のパトカーと6人の巡査達をじろりと見てから再び二人の刑事を叱りつけた。

「7人の男が建築現場に侵入してきたと通報があったのに、パトカー2台に満員の乗員?
じゃあ、逮捕した7人はどうやって運ぶの?」

返事もできない刑事の代わりに渚が手をあげた。

「あの・・室長。葦野さんのトラックを借りて、運べば良いと思います。」

葦野篤志は大きく頷いた。

「ああ、これは石膏ボードを運んだトラックで・・今空いているから、使っても構いませんよ。どうぞどうぞ」

「あ・・運転なら私がします。運転免許持ってますから。」

渚がそういうと、相原室長が耳打ちした。

「深庄・・お前運転できないじゃないか・・」


「私、石田村にいたとき、村のみんなを手伝ってトラックなんかいっつも運転してました。
村の子たちはみんなそうですよ」

巡査たちが男達に手錠をかけると、まだ朦朧としている男達を渚はひょいひょいと担ぎ上げて荷台に乗せた。
警察署に着いた時には男達もトラックに揺らされてすっかり目を覚ましていた。
それどころか渚の運転が荒っぽいので、体のあちこちが痛いと贅沢な訴えをしていた。
また、彼らの全身は石膏ボードの粉塗れで見るも無残な様子だった。
渚はまた彼らを猫の子を摘まみ出すように次々とトラックから降ろすと、またトラックを運転して戻ろうとした。そのとき相原室長が追いかけて来た。

「待て。深庄!このまま帰る積もりなの?」

「トラックを返さなければいけないし、仕事も半分残っているんです。」

「そうか、お金を稼がなきゃね。じゃあやって来なさい。こっちは任せておけばいいから」

「ところで・・室長?どうしてさっきタイミング良く現れたんですか?」

「警察無線で通報内容を聞いたから、深庄のバイト先だと思って駆けつけただけだよ。嬉しかったでしょう?」

「でもさっき潜入捜査だって・・私自分でも知らないうちにそんなことやっていたんですか?」

「深庄を助けるために咄嗟に言った方便よ。そんなことはどうでも良いから、しっかり金稼いどいで!」

渚はその後残りの仕事を片付けて、社長から12万円の労賃を貰った。
見知らぬ都会に来て、初めて稼いだ収入だからとても嬉しかった。

深庄渚はその後、相原室長から現行犯逮捕に関する簡単な講義を受けた。



スナック『フィー・ドラ・フォレ』のママは50代半ばで、かつては一流の店で働いていたこともあるという昔話を店の女の子に話すのが口癖になっているという。
源氏名を葵と言って、華やかなりし頃使った名前をずっと守っているのだ。
その葵は目の前の女を見て首を横に振った。


「駄目だね。うちは客商売だよ。警察のお偉いさんからの紹介だから引き受けたもののさ。
ほっぺに絆創膏なんか貼った子を客の前になんか出せないよ。」

「あのう、ビールのジョッキをいっぺんに10本運ぶ人が欲しいって聞いたので来たんですけど。」

そう言って食い下がったのは、深庄渚だった。

「それはウエイターだろう?あんたは女の子じゃないか?
それにビールの特大ジョッキー一体何キロあると思ってるの?2・5キロだよ。
10本なら25キロ。あんたそんな細腕で25キロも運べる訳ないよ。」

「運べます。なんなら今ビールの代わりに水でも入れてやってみますか?」

「言ったね。後で泣き面かいても知らないよ」



『フィー・ドラ・フォレ』は今日は大盛況だ。
新しく来た女ウエイターが大人気で、たった一日で名物になりつつあるのだ。
ビールの特大ジョッキー10本を軽々と運び、店の中を駆け回っても一滴も零さない。
年齢は20歳と言うが、中高生のような童顔で顔になぜか絆創膏を貼っている。
飼っている猫が凶暴らしいという噂があるが、本当かどうかはわからない。
ドレスを着ずに男装のまま働いているが、悪戯な客がタッチしたり抱きつこうとしても、素早く身をかわして誰も触ることができない。

渚は一晩で8000円貰えるので当分この仕事を続けることにした。
各テーブルの呼び出し鈴が鳴ると、飛んで行き注文を聞くとカウンターに行ってオーダーを言う。
飲み物ができたら運んで行き、テーブルに置いて来る。それが実に素早い。
お盆を二つ持って走ることもある。だが、こんなことは渚には何でもない。
あるとき酔いつぶれた客に店が手を焼いているとき、外まで担いでタクシーに載せたことがある。
それが100キロを越す肥大漢だったのだが、お盆を運ぶのと同じようにすいすいと運んで行ったので、客も店の者も驚嘆した。



働き始めてから3日たっていた時だった。筋者と思われる5人の男達が客のテーブルにわざとぶつかりながら入って来た。
客達は浮き足だって帰り始めようとする。

「おっと、いけねえ。手がすべっちゃった。悪かったね。あっ、足も当たっちゃった。ごめんねぇ~!」

そして客が出て行った後のテーブルの上の物を音を立てて、床に落とした。
グラスやボトルなどのガラス製品が床にぶつかって割れた。

「ああ~大変な粗相をしちまったぜ。」

「お前たち、営業妨害だ。とっとと帰るんだ。」


ママの葵は気丈に抗議した。

「お前たちだと?!それが客に向かっていう言葉か!」

そういうとまたあたりの物を蹴ってひっくり返した。
激しい音が店の中に響き、流れていた音楽もやむ。

「こういうことが起きたら困るから、札を買っておけって言ったろうが!」

そう吐き捨てるように言ったリーダー格の男の体が急に宙に浮き上がった。

「な・・・なんだ。うわー!!は・・離せ」

すると男はどんと床に落ちた。背中を打って男はすぐ起き上がれない。
側に立っていたのは深庄渚だった。

「えーっと、刑法234条の威力業務妨害の罪であなたたちを、一般人の立場で現行犯逮捕します。
それは刑事訴訟法213条に基づいています。」

深庄渚は棒読みの台詞のようにそう言った。
4人の極道たちは一瞬戸惑っていたが、すぐ我に返ると闘争モードになった。

「ふざけるな、この餓鬼!極道の俺たちに喧嘩を売るとはいい度胸だ!」

そう言ってビール瓶を割って振り回して来た男を渚はうるさそうに避けた。
そして子供からおもちゃを取り上げるように割れた瓶をもぎ取って、顎を掌で突き上げた。
男の体はその場に崩れた。

「それと器物・・器物損壊の罪も当てはまります。これは刑法261条だったっけ?」

深庄渚は、戦う方よりも罪状をあげる方に心を砕いているようだ。
他の3人は渚が只者でないことを感じ、身構えてはいるがなかなか飛び掛って来れない。
また出口の方に移動しようとしても、深庄渚が進路を塞ぐように動くので、逃げ出すこともできない。
茶髪の若い男がポケットからバタフライナイフを取り出して素早いナイフアクションをして見せた。
深庄はそのアクションにはあまり興味を示さずに続けた。

「あ、それ銃刀法違反ですよ。それと・・」

茶髪が振り回して来たナイフを持つ手首を右手でキャッチした深庄は相手を手繰り寄せて左の掌で顔を突いた。茶髪はそれで沈んだ。

「ナイフをシャーペン回しみたいに曲芸してみせても、意味ないと思います。
タイのナイフ使いの方が・・あっ、もう聞いてないですね」

「やろう!」「てめえ!」

残りの二人がかかって来たのを最初の一人を背負い投げで床に叩きつけると、もう一人は出口に向かって逃げた。渚はその背中に飛びついて首を決めた。
最後の一人は完全に落ちた。
更にリーダー格の男とたった今投げた一人が痛む背中をさすりながら逃げようとしたのを、深庄は一人ずつ絞めて落とした。



「渚さん、あんたってすごいね。さすが警察からの推薦だわ。」

ママは深庄の手を握って喜んだ。

「早速警察に連絡した方がいいよね」

「あ、その前に私の上司に連絡させて下さい。」

深庄渚は百円ショップで買ってきた、プラスチック製の結束ひもを取り出して、一人ひとりの両手首と両足首を止めると、ガムテープで口を塞いでから、店内の奥の目立たないところに運び込み固めておいた。
その後、相原室長に連絡すると、早速地元警察のマル暴担当がやって来てそのまま引き取って行った。


しばらくすると相原室長が来た。

「今の奴らは店の前に『暴力排除の店』という札を掲げれば何もおきないとか言って、札を高い金額で売りつけてたのよ。
札は1ヶ月ごとにデザインが違ったものと取り替えなければならない。
いわゆる巧みなみかじめ料の集金ね。ここのママはそれを拒否したから、嫌がらせに来たってことね。」

深庄渚は先ほどから思っていた疑問を口にした。

「室長が紹介してくれる仕事はどうしてトラブルが多いんですか?」

「それは気のせいよ・・・と言っても、もう駄目か。実は、あなたにはそういう場所でわざわざ働かせているの。
警察には色々な相談が寄せられるけれど、それをいちいち警察は取り合ってくれない・・
・・・・中には深刻なものもあるのによ。
私はそんな事例を拾いあげて、深庄に現場に働きに行ってもらい、犯罪を目撃させていた訳。
あなたには黙っていて悪かったけれど、一種の潜入捜査ね。」

「だから、法律を暗記させたり、結束バンドを買わせたりしたんですか?」

「今結束バンドを10本使ったわね。警察庁から一本につき2,000円のお手当てが出るのよ。また、買い足しておきなさい。
但し、一人につき2本までしか使っちゃ駄目。」

「はい!」

嬉しそうにしている渚からママに目線を移すと相原室長は作り笑いをした。

「それから、ママには悪いけど、深庄は今日までで辞めさせるから。・・次の仕事があるんでね。」

「それは困ります」


「大丈夫よ。もうあいつらは来ないように手を回したから。他の組が来たら、また連絡して」

「違います。そうじゃなくて、渚さんは名物ウエイターで店の売り上げをあげてくれてるんですよ。」

「それは計算外だったなあ。でも、ごめん。きょうの分の給金払ってやってね。すぐ連れて帰るから。」

そういうと、室長は深庄渚に言った。

「すぐそのウエイター服脱いで着替えて来て、大事な仕事がこれからあるから。」


相原室長は深庄渚を待たせていた車に乗せると早速説明を始めた。

「民間の警備会社で身辺警護を引き受ける業者は沢山あるけど、最近競争が激しくてね。
自分たちを売り込むために、ライバル会社の妨害をする所が出ているらしいの。
顧客にまで手を出さないけれど、ボデイガードを倒してその無能振りを暴いてしまうという業務妨害ね。
そのやり方を見ると、必ず身辺警護についた人数と同数の人数で襲って、素手または道具による攻撃をしてガードマンたちを彼らの顧客の見てる前で倒してしまうのがパターン。
この1週間でほぼ毎日のようにそういうことが起きていて、どうやって調べるのか警護の時間帯やコースまでわかっているらしいの。
ちょうどこれから夜の時間帯に一件警護計画のある警備会社があってね。
今夜あたり危ないと通報があった。もちろん警察は取り合ってなかったけどね。
というのは襲われた警備会社は届出はするけれど、正式に訴えないのが殆どだから。
そこでその警備会社とコンタクトをとって、あなたを補助に回すことにしたの。
もし、このボディガード・アタッカー・・略してBOGAボガね。一人でも生け捕れたらお手柄よ。」

「一人でもっていいますが・・・」

深庄渚は首を傾げた。

「一人はないと思います。
ゼロか全員だと思います。向こうも商売人だったら一人だけ置いて逃げる訳ないと思うし・・・それと気になるんですが依頼人には本当に手を出さないんですか?」

「依頼人に手を出したら告訴するだろうし、警察も本気で乗り出すでしょ?
そういう馬鹿はしないのよ、きっと。
この一週間で10件ほどあったけど、全部顧客には手を出していないわ。
もちろん自分たちの顧客ではないけれど、いずれそうなることを見越してるのね。」

「10件とも同じメンバーなんですか?」


「特徴は共通していて・・最大7人まで分かっている。ちょっと待ってね。」

相原室長は手帳を開くと読み上げた。

「身長170cm、サラリーマン風、皮の黒い鞄を手に持っている。中に鉄板のような堅いものが入っていて、それをいきなりすれ違いざまに叩きつける。空手のような技も使ってくる。
革靴の先がやはり固いものが詰めてあって、蹴られるとダメージが大きい。
あと・・・」

全部聞いた後で深庄渚は、質問した。

「きょうのボデイガードは何人ですか?」


「5人だそうよ。さあ、着いた。」

帝都ホテルで車を降りた二人はロビーに向かった。
ロビーのソファーに座っていたのは5人の男女だった。男4人に女1人だ。
室長は名刺を差し出すと深庄渚を紹介した。

「この子が補助員です。」

紹介された深庄渚は身長は中学2年のときから身長が止まっていて155cm、体重も40kgほどの細身の体。ジーンズにジージャンのラフな格好でで頬に絆創膏を貼ったティーンエイジャーのような印象である。
おまけに化粧っ気もない。
だが、相原は彼らが深庄の感想を言う前に釘を刺した。

「この子について感想を色々持つのは構いませんがそれを口にしたり顔色に出さない方がいいでしょう。
人は見かけによらないものですから。深庄と言います。
本人は童顔ですが、間違いなく成人です。初めに聞いておきます。
この補助員にあなたたちに加勢することを望みますか?
それとも離れて見守ることを望みますか?」

5人は顔を見合わせてお互いに肩を竦めてみせた。

「できれば安全な所で見守ってもらう方を・・」

「分かりました。深庄、そういうことだから、この人たちが戦っている間は手を出さないこと。」

これを言われたとき、本当に良いんですかそれで?とその5人に確認したい気持ちだった。
明らかに自分のことを足手まといだと考えているようだからだ。
だが、そう言わなくても良かったと後で思い知ることになるとは深庄渚には想像もつかなかったことだろう。
リーダーの男は宇津井と言った。彼は渚にも分かるように説明した。

「我々は19:30から22:30の3時間、身辺警護の任務につく。対象者は篠原睦月さん19歳。大学1年生。
篠原食品の社長令嬢だ。
最近脅迫めいた怪文書が頻繁に届いているという。
だが、今夜はご令嬢が街中を歩いて買い物をしたいという希望を持っていらっしゃるので、我々は時間の許す限りその任につく。質問は?」

女性の警護員が手を上げた。

「買ったものを持つのも任務のうちに入りますか?」

「それは、使用人の男性がすることになっている。彼も普段はボディガードの役目をしてるらしいが、今回は特に危険度が高いということで我々が加勢することになった。
なお、その男性に対しては我々は警護の責任がない。」

「特に攻撃が予想されるコースはありますか?」

そう聞いたのは、キャジュアルな服装をした男性だった。女性はパンツスーツ姿だが、その他の男性は宇津井だけがスーツで後は茶髪のジーンズ姿の男とか、まちまちの格好をしていた。

「ご令嬢の希望コースでは、あくまでも予定だが、裏美松通りを30分ほど歩きたいとのことだ。
あそこは防犯用監視カメラのないところも多く、路地が多いので身を隠して待ち伏せしやすいので、要注意だ。後は・・・」

その説明が終わったころ、茶髪の若者風の警護員が深庄の方を見た。

「それで、こちらの警察補助員の方の役割は?」

「犯人及び犯行の確認と警察への連絡を受け持っているそうです。宜しくお願い致します。」

宇津井が丁寧にお辞儀をしたので、深庄渚は慌ててお辞儀を返した。
だが、自分の役割がそうなっているとは深庄も初めて聞いたので変な気持ちだった。
室長にはそういうアバウトなところがあるようだ。
そこへ若くて背の高い女性と上品な感じの男性が現れた。依頼人であろう。
お付きの男性が警護員たちに声をかけた。

「お嬢様ここにいる5名の者が今回警護につきます。
皆さん、篠原睦月お嬢様です。ご挨拶して下さい。」

すると一斉に警護員は頭を下げた。
深庄渚はちょっと離れたところでぼんやり突っ立ていると、篠原は早速見つけた。

「その子はなんなの?こっちを見ているけど」

宇津井が慌てて言い繕った。

「あの・・こっちの人は警察の方から来た人で・・子供に見えますがお嬢様より一つ上だそうです。」

すると篠原美保はしげしげと値踏みするように深庄渚を見て首を傾げた。

「大人なのに化粧もしてないんだ。ああ、一見子供風に変装してるって訳ね。
で、その絆創膏は犯人と格闘してできた傷?それとも猫にひっかっかれたとか?」

深庄は肩を竦めて、お嬢様の質問に答えた。

「拳銃の弾がかすって頬が裂けたんです。」

篠原美保は驚いた。

「拳銃?よく当たらなかったわね。」

「いえ、当たりました。2発。右の鎖骨下と左太ももに。」

これには篠原美保以外の人間も凍りついた様子だった。篠原はぱっと顔を輝かせた。

「それじゃあ、あなたは本物のSPなのね?!」

「いえ、違います。SPというのは警視庁の警察官ですが、私は警察庁の補助員で警察官ではありません。」

「なんだ。そうなの。」

篠原はもう深庄に興味を失ったように宇津井の方を向いた。

「で、あなたちは私を守るのに武器は持っているの?」

「法で定められた装備はしています。残念ながらそんなに強力な武器はありません。

特殊警棒とかそのくらいです。」

「警棒なら私もハンドバッグに持っているわ。
その他にスタンガンと催涙スプレーもね。
私剣道初段で合気道も一級だから十分戦えるけれど、あなたたちに任せるわね。」

「はい、お任せください」

宇津井が頭を下げたが、篠原睦月は見向きもせずに歩き出した。

「行くわ」

5人は周りを遠巻きにして歩き出した。まるで大名行列だなと渚は思った。
対向して歩いて来る通行人を近づけないように、巧みに自分を楯にして歩く様子はさすがにプロの警護員だと思った。
それをちょっとの間見送っていた渚はやがて距離を保ちながら歩き出した。



いつの間にかお付きの男性の両手には沢山の紙袋がぶら下がっていた。
裏美松通りにさしかかったころは深庄は100mほど離れて歩いていた。
離れたところで確認する役割だからだ。
すると一行と深庄の中間あたりの路地から3人の男が出て来て、後を付け始めた。
間もなく一行の前方50mほどの路地から二人の男がなにやら言い合いしながら出て来て近づいて来る。
警護員たちが緊張するのが渚にも伝わった。
前方の二人は一行のことには気にも留めずに言い争いに夢中になってすぐ手前まで近づいて来た。
陽動作戦だと深庄は思った。なぜなら背後の3人は声も立てず足音も立てず近づいているからだ。
多分背後の仲間が合図をしたのだろう。
5人の襲撃者は一斉に警護員に襲いかかった。
最初の一瞬で前の二人が一人の警護員を全く同時に襲った。なにか強力な獲物で頭部と足を同時に叩いた。それと同じ一瞬に背後の二人が一人の警護員を、もう一人は一人の女性警護員を獲物で攻撃した。
その次の一瞬で残りの二人の警護員が警棒を抜いて臨戦態勢に入った。
けれどもそのうちの一人の宇津井は前の二人と背後の一人に同時に攻撃されて、もう一人の茶髪は背後の二人に同時に攻撃された。
襲撃者は更に倒れた警護員の様子を見て起き上がろうとする者をさらに打ち据えていた。
倒れている者の中には頭から血を流している者もいた。

深庄渚は立ちすくんだ。自分なら・・自分なら、あの攻撃を防げたろうか?
特に宇津井が受けた攻撃は絶対防げなかった。
カチカチと音がしたので、何の音かなと思った。
それは渚の歯が震えてぶつかり合う音だった。
渚は心底怖い物を見た気がした。

(あの中に自分も加わっていたら確実に倒されていた。
青布根市では最強と言われた自分は波打ち際で遊んでいた子供のようなものだったんだ。
でもたった今深い海の底を覗いたような気がする。)

すると100m先で新たなことが起きた。
それまで篠原睦月を庇うように立っていたお付きの男性が警棒を振るって襲撃者達に立ち向かって行ったのだ。
篠原美保も同じように警棒とスプレーで立ち向かって行った。
だが、男性の方は同時に二人の男に攻撃されて倒され、篠原睦月は囲まれて取り押さえられた。
暴れる篠原睦月は、さらにスタンガンを出して一人でも倒そうともがくが、腹にパンチを受けておとなしくなる。
5人の襲撃者たちは篠原睦月を引き立てて路地の方に入って行った。

(事情が変わった。依頼人には手を出さない筈なのに、手を出したということは、依頼人の身に危険が迫っているかもしれない。)

深庄渚は彼らが消えた路地の入り口に向かって急いで走った。


だが深庄渚が路地の入り口にたどり着いたとき、目の前に男達が待ち構えていた。
反射的に渚は飛び退いた。すると又、歯がカチカチとなり始めた。
心臓も激しく鼓動を打ち始めた。渚にとってこういうことは滅多にない。
石田村にいた頃、バドミントンをしていた村の子がスズメバチに襲われたとき以来だ。
そのときは両手にラケットを持って振り回し、すべての蜂を叩き落した。

そのとき背後から篠原睦月の声が聞こえた。

「その子は警察よ。あなたたちもこれでおしまいね。じきに警察が来るわ」

男達は顔を見合わせてから叫んだ。

「捕まえろ!」「始末しよう」「まだ連絡していないはずだ」

渚はいったん逃げる振りをして、逆に路地の中に向かった。
意表をついたため、彼らに一瞬の隙ができたのを利用して走りぬけた。
つまり渚は自ら袋小路の奥に走って行ったのである。

「馬鹿な女だ」「よし捕まえろ」

彼らはばらばらと走って迫って来る。渚は正面にある住宅の塀を見た。
2mくらいの高さだがひょいと飛び上がると、今度はそこから住宅の一階部分の屋根に移った。

「フリーランニングやってる奴だ。瀬古田お前行け」

渚は屋根から屋根に飛び移って移動して行ったが、同じようにして追いかけて来る男がいる。
仲間内でも身軽な男なのだろう。
だが、癖なのだろうか不必要なときに宙返りをしたりして自分の技量を見せびらかすようなところがあった。
渚は飛び移りながら周囲の建物や路地などの環境その他を理解して行った。
無人島のマンハンターに追われてサバイバルした経験が蘇ってくる。
資材置き場に立てかけてある9尺ほどの角材を一本手に取ると、それで棒高跳びのようにして地面から一気に住宅の2階の屋根に移り、そこからまた地面に飛び降りた。これには瀬古田はついて来れなかった。
渚は9尺の角材を持ったとき、黒土筆のグループと戦ったときの薙刀を思い出した。全く同じ長さだ。



突然空から降って来たように渚が現れたとき、襲撃者たちは驚いた。
しかも手には長い角材を持っている。そして渚の攻撃が始まった。
普通1寸5分9尺の角材は角ばって持ちづらいし重いので木刀のように自由に振り回せない。そう、渚以外は。渚なら素早く動かせる。
彼らのうちの二人を打ち据えた直後だった。
光栄高校のバドミントン部で起きたことと同じ現象が起きた。

角材が自らの重みで二つに折れたのだ。渚は折れた角材を両手に持って残りの男たち2人を叩きのめした。
彼らが手にしている武器は木刀より短く、渚の角材の方がパワーがあった。
遅れて戻って来た瀬古田も渚は角材で叩きのめした。

渚は路地の入り口に落ちていたハイヒールを拾って来ると、呆然と突っ立っている篠原睦月に渡した。
しかし片方の踵はとれていた。
渚は相原室長に連絡すると、男たちを結束バンドで拘束して地面に転がしておいた。
それからまだ呆然と突っ立ている篠原睦月に背中を向けると言った。

「私におぶさってください。」

ドレスを着ていた篠原睦月は一瞬躊躇ったが、素直に背負われるままになった。
渚はまるで背中に何も乗っていないかのように身軽に駆け出すと、警護員が襲撃された場所に戻った。
男達はなんとか起き上がっていたが、怪我の状態はかなりだった。
特に三人に同時に攻撃された宇津井は立ち上がれないほどだった。
さいわいお付きの男性はなんとか歩けるようで買い物をした袋を両手にしっかり持っていた。
警察と救急車が殆ど同時に着き、怪我人は病院に運ばれ、犯人はそのまま引き渡された。
篠原睦月は使用人と共に一旦帰宅することになった。
相原室長は渚に言った。

「ご苦労様。でもどうしたの?浮かない顔してるわね。」

「いえ、なんでもありません。ちょっときょうは疲れたのかも。」

だが深庄渚は、例の襲撃のときの様子を思い出していたのだった。

(もし、私が警護員と一緒に行動していたら、私もあの奇襲にやられていたかもしれない。)

「そうね、きょうはちょっと働きすぎかもね。だからゆっくり休むといいわ。」

そして相原香苗室長は思い出したように付け加えた。

「それと・・・腕の良い美容形成外科医が見つかったので、明日にでも連れて行くね。じゃあ、お休み」


      


「ちょっと良いかな?」

渚に話しかけて来たのは中年の女性だった。

「あなた高校生よね。学校はどうしたの?サボっちゃったの?」

渚はにっこりと笑って免許証を出して見せた。

「警察の少年係りの方ですか?ご苦労様です」

その女性は、免許証と渚の顔を何度も見比べてから、作り笑いをした。

「ごめんなさい。とっても可愛らしく見えたものだから」

そういうとバツが悪そうに退散して行った。
渚はこの辺りは風紀が悪いので補導に歩いているのだと思った。



次に渚の前に現れたのは二人連れのやや大柄な女の子達だった。
恐らく渚より1つか2つ上だろう。
団栗目のソバカスの子と小さく垂れた目の子だ。
団栗目が言った。

「悪いけどうちら今朝から何も食べてないんだ。お金貸してくれない?」

渚は肩を竦めてみせた。

「私も貧乏で苦労してるの。ごめんね。」

すると垂れ目が食い下がった。

「じゃあ、うちらは良いから、友達を助けてくれない?
その子は3日も水しか飲んでいないんだ。
すぐそこの公園の隅っこで倒れているんだよ。とにかく見に来てよ。
嘘じゃないから」

そういうと一人は手を引っ張り、一人は肩を抱くようにしてぐいぐいと人通りのない方へと連れて行こうとする。
渚はこの話を殆ど信じてはいなかったが、それでも逆らわずに引っ張られて行った。一応嫌々ながらの様子を見せていたが・・・。


公園の隅に待っていたのは若い男達6人だった。
渚は男達を一瞬見回して頭に焼き付けた。殆どが茶髪か金髪だった。
鼻ピアスの男。モヒカンの男。胸毛の男。手首にタトゥーの男。バンダナの男。
モミアゲも髪も長い狼男のような男。
団栗目が鼻ピアスに言った。

「ね、可愛い子でしょ?2,000円ちょうだい。」

「1,000円でいいだろう。」

「今どき一人500円じゃ碌な物食べられないよ。約束だろう」

「ちぇっ、その代わりまた連れて来いよ」


そのときモヒカンが渚を指差して言った。

「おい、こいつ頭が弱いかも。逃げようとしないぜ。ま、逃がす積もりはねえけどよ」

一斉に男達が渚を見た。その渚は1000円ずつ握って喜んでいる二人に向かって言った。

「つまり・・・私をこの男達に2,000円で売ったってことね?」

やや間延びした言い方に二人は吹き出した。垂れ目は言った。

「悪いね。騙されたあんたが悪いのよ。じゃあね。」


二人は行こうとした。だが、渚は止めた。

「ちょっと待ってて」

渚は団栗目の左手と垂れ目の右手を背後から掴むとぐいと引いて結束バンドでつないだ。
そして更に団栗目の右手と垂れ目の左手を掴んでそれもつないだ。
つまり二人は背中合わせに手錠をかけられた状態になったのだ。
男達は呆気に取られて見ていた。

「罪名ははっきりしないけど、たぶん人身売買の現行犯で逮捕するね。逃げないでね。
まあ、逃げづらいと思うけど」

渚は男達を見回した。

「あなたたちも、人身売買の買う方ね、きっと。これから現行犯逮捕するね」

男達は笑い出した。大うけしたと言う感じでモヒカンなどは転げまわって笑った。
渚は笑いが止むのを辛抱強く待った。そして笑いは止んだ。

「こっちがお前を逮捕してやるよ。」

胸毛男が本物そっくりの手錠を手にして渚の右
手をつかみ手錠をかけようとした。
タイミング良く渚が手を引いたので、手錠は胸毛男の左手にかかってしまった。
渚はうろたえた胸毛の右手から手錠を奪うと、右手にももう一方の手錠をかけた。

「こいつ本気だ。やばいぞ!」「やっちまえ!」

タトゥー男が掴みかかるのを渚はジャンプして顔を叩いた。ビシッー!と音がする。
着地した渚はバック転したかと思うと背後の狼ヘアーの男の顎を蹴った。そして側転。
蹴り上げて来たバンダナ男の右足を掴むと急に持ち上げて転倒させる。
そこから助走して離れた所から構えていた鼻ピアスに向かって跳びあがった。
喉元に右腕の下腕をぶつけると鼻ピアスは倒れる。モヒカンがタックルして来た。
渚は後頭部を手刀で叩いた。
渚は男達に結束バンドで手足を拘束し、地面に転がした。二人の女の子も両足を結束バンドで結び、背中合わせに座らせた。


それからいったん通りに戻り少年係の女性を見つけると、名刺を見せて挨拶した。

「まあ、とにかくそこの公園に行って見て下さい。私はこれから用事があるので、後はお任せします。」

少年係りの女性が何か言おうとしたが、渚はさっさとそこを立ち去った。



店の名前は「フォルスタッフ」と言った。
マスターは太った陽気な感じの男だったが、渚を見て未成年はだめだと玄関払いしようとした。
もめているとき、奥の方から声をかけたのは相原香苗室長だった。

「ごめんね。今度待ち合わせるときは喫茶店とかパフェにするね。」

と言いながらそれほどすまなそうには思ってない様子の室長だった。

「ここ警察関係者がよく出入りするからうるさいのよ.
それに傷跡を消したら、余計子供っぽく見えてしまったのも原因かな?
もっと老け顔だったら良かったのに。美少女まっしぐらだもんね。」

席に着くとオレンジジュースを頼んでくれた室長は一綴りの報告書を渚の目の前に置いた。
渚はちょっと見たが文章が難しくて読めなかった。それを言うと室長は言った。

「そうそう、この間のBOGA(ボガ)の件、助かったわ。
海外で軍隊経験のある連中だったのよ。
自分たちで警備会社に売り込んでライバル会社をつぶす手伝いをしてたの。
一味と関係していた会社も逮捕したわ。ところがね・・・・。」

室長はそこで言葉を切って報告書を指差した。

「新しいBOGA(ボガ)が現れたのよ。
前のと違う点はマルタイ・・つまり警護される人間ね、その人間までも襲われてしまうの。
そこまでならよくある不幸な話なんだけど、もう一つは・・・。」

室長は報告書のページをめくりながら、ある場所を指差して行った。


「これ、これ、これ・・・・・。依頼しているのは全部同じ会社の社長なの。
襲われたマルタイはその会社の社員ばかり。会社の名前は中東商会。
社長は朝山信吾という50代の男。業界の評判はよくないわ。
それで警護に失敗した警備会社には損害賠償を請求している。
なにか匂わない?」

「襲われやすい会社とか?きっと敵が多いのかも」

「そういう場合もあるだろうけど、襲われた社員はどうも社長の眼鏡に適わない人間が多いらしくて、その後責任をとらされて解雇されているの。
5件ともみんなよ。
なんでも大事なものを奪われた責任をとらされてということらしいわ。」
「じゃあ、リストラするためにわざわざそういう危険な任務を・・」
「ところが分からないのは、警護する警備会社は評判の良いところばかり捜して、人員も4・5人つけてあげていることなの。
普通、平の社員にそんなに警護はつけないと思うけど。」

「じゃあ、やっぱり本当に狙われているのかも」

「それを確かめるため、これから補助についてくれる?」

「離れてても・・・いいですか?」

「なによ、それ?無敵の深庄が随分弱音を吐くじゃない」

「あのう・・・武器がないから・・」

「そういうことなら」

室長は自分の隣に置いてあったリュックと紙袋をテーブルの上に上げた。

「トイレを借りて着替えて来てくれる?脱いだものは私があずかるから。」


10分後相原室長の前に出た深庄渚はさしずめ野球少女といった出で立ちだった。
野球帽に黒縁の伊達眼鏡。スタジャンにユニフォームのシャツとパンツ。
そしてリュック型の野球バッグのわきからは水色のおもちゃのバットの柄がはみ出ている。

「他は我慢できますが、このオモチャのバットだけは勘弁してもらいたいんですけど。」

「深庄が着替えている間所轄の少年課に問い合わせたんだけど、高校生の女子2名と男子6名補導されたみたいだね。
でも、今度からは私を通してくれないと困るな。」

「あ、すみません。どうしてわかったんですか?」


「それは機密事項だから言えないな。
で、実はそのバットだけど、長さが50cm。
水色に柄のところに白赤黄のラインが入っているのは、オモチャですよって思わせるための騙しね。
深庄は特殊警棒が嫌いだったわね。
あれは、普通の力で叩いてもコンクリートを砕くほど強力だから、相手の骨を砕く恐れがある。
特殊警棒は収納時は20cmで振り出すと60cmになるものがあるから、携帯に便利だし、戦うときの長さもあるけど、深庄には確かに向かない。
頭に使えば頭蓋骨を砕いて殺してしまうからね。
このバットは強化ゴムでできていて、重さが1キロ。
中にピアノ線の束が芯になっていて、弾力があるの。
日本刀やマサカリで切ろうとしても、切れない特殊なゴムだから、十分武器になると思わない?
これ、値段が10万円なの。
特殊警棒なら5・6本買える値段だから無くさないでね。
そのスタジャンも一応防刃服になっているから、特注です。
リュックの中には結束バンド以外何も入ってないけど、自分の好きなものを入れるといいわ。
それとリュックの脇には内部にバットを納めるケースがあって、しっかり固定してある。
そしてケースそのものはは特殊な構造になっている。
だからバットは着脱には有る程度の力がいるから、普通の人には抜けないと思うよ。
慣れてくれば西部のガンマンなみに素早く抜けると思うけれど。
何か質問ある?」

いつも一気に喋る相原室長の最後の一言は、これだけ説明したんだから質問はあるはずないわね、と言ってるように聞こえる。

「ありません。実際に何かを叩いてみたいです。」

「ところで、深庄は弱気でそうするのじゃなく、ぜひ強気でその格好で離れて歩いてほしいの。
どうみても深庄は少年か少女に見えると思うから、関係者ではないふりをしてもらうことになる。
そして何か始まったとき加わってほしい。
警護側には野球少年または野球少女が助っ人に行くと伝えてあるから。
因みに警備会社は業界では一流の武闘会警備部という所。」

「もしかしてアクション映画に出演している武闘会ですか?」

「あれは武闘会映画部。他にも武闘会武術部というのがあって、それ全体で武闘会という株式会社になっている、一種の武術プロダクションね。」

「はあ、それだったら。私の出る幕はないのでは・・・」

「彼らはそれでも、マルタイを守るのが役目だから、退散させることはできても襲撃者を捕まえようとはしない。深庄がそれをやるの。」

「わ・・・かりました。で、これから行くんですか?」

「話が早い。そういうこと。行くよ。」

相原室長は伝票をさっと掴むとレジに向かって大股で歩いて行った。
深庄渚はコップに半分になったオレンジジュースを飲み干すと後を追った。



中東商会の社員倉月岳(がく)は突然社長秘書から1週間アルミケースを預けることを告げられた。
社長秘書は次の指示をした。

「重要機密が入ったケースだ。1週間守り抜いてほしい。
家には帰らず指定したホテルに泊まること。
日中決まった時間に都内の指定箇所を徒歩で廻ること。
その際機密が奪われる危険があるから、ボディガードをつける。
社長が期間中、現れてアルミケースを受け取るので、決してダミーを用いないこと。
いつ社長が現れるかは知らせることはできない。
ボディガードは最高のメンバーをつけるが、機密を守りきれなかった場合は責任をとってやめてもらう。
以上だ。」


倉月岳にはなんのことかさっぱりわからない。
彼は研究部門の人間だが、最近その研究は社の方針で中止になった。
だから今研究とは関係ない閑職を与えられていたのだが、突然の重要任務を受けて当惑している。
そのアルミケースを何故守らなければいけないのか?なぜ自分が持って歩かなければいけないのか?
詳しいことは一切知らされない。
30歳になった倉月は他社への転職を考えていた矢先だったので、余計不安になった。
聞くところによると、同じような任務を与えられた人間が暴漢に襲われて怪我をして入院したり解雇されたりということがあったらしい。
それも一人や二人ではなく相当数の社員がそんな目にあっているのだという。
彼は何かの陰謀が働いている気がして身の危険を感じ、警察に相談したのだ。
だが、所轄の警察は実際に起こっていない事件には関わってくれない。
一応話は聞いたので記録はするが、着手はしない。
だがそういう記録を専門にチェックする機関があったのだ。
そういう機関からの問い合わせが倉月のところに来た。
だが、それっきり音沙汰がない。
なんらかの手立てをしてくれると期待したのだが、またもや不安は高まった。



任務が始まると意味不明な行動を強いられることになった。
ホテルを5人の護衛と共に出た倉月は一点目のポイントに向かって歩いていた。
その日にどんなコースでどこどこを行くのかは当日の朝早く指示が来る。
必ず指定された時刻までにアルミケースを持って、指定された場所に行かなければならない。
歩く道筋まで道路地図で指定されている。
そして何箇所か指定されたポイントで指定されたものを手に入れる。
最後のポイントは必ず本社秘書室で手に入れたものを秘書に手渡す。
そういうことが3日続いた。その3日間で倉月が気がついたことがある。
始めは偶然かと思っていたが、100mほど離れて野球少年らしき子供が尾行しているのである。
そのことをボディガードに告げると、まさかのときの為の助っ人が別機関から配属されているのだという。
その姿が野球少年に見えると言われているので心配ないと言われた。
倉月は非力な子供の姿に見えたので、緊急のときに応援を呼ぶ連絡員の役割をしているのかと思った。
だがそれでは間に合わないかもしれないな、と同時に不安にも思った。



4日目のことである。コースに人通りの少ない裏通りが指示された。
もしかして今日あたり危ないなと思いボディガードにも警告した。
案の定襲撃は起こった。裏通りに入ったとき、前後を5人の男たちに囲まれたのだ。
男達は手に警棒のようなものを持っていたが、ボディガードたちの取り出したものとは形が違っていた。
倉月を囲むような格好でボディガードたちは身構えた。
戦いが始まったとき、後方から物凄いスピードで野球少年が突進して来た。
オモチャのバットを振りかざして走って来る。
少年が到着したとき、早くもガードマン側の劣勢が明らかになっていた。
襲撃側の警棒の大きさが一回り大きく、先端がスタンガンになっているものを使っているため、スチール製の警棒に接触しただけで、取っ手が絶縁されていても放電して倒されてしまうのだ。
既に3人が倒されて、残りの二人が必死に倉月を守っている状態だった。

「こらーっ!!」

聞こえたのは女の子の甲高い叫び声だった。
飛び込んできたのは野球少年ではなく、野球少女だったのだ。
少女は一発目で襲撃者の70cm以上あるスタンガン型警棒を50cmほどのバットで叩き飛ばすと、2発目で飛び上がりながら襲撃者の頭を叩いた。
ボクンと音がして、一人がノックアウトされたボクサーのように路上に崩れ倒れて行く。
少女の攻撃は2拍子だった。次の襲撃者も一撃目のバットでスタンガンを飛ばされ、その次に頭部を叩かれる。そして倒れる。
3人になった襲撃者はこの新手の助っ人に集中攻撃を仕掛けたが、側転やバック転で攻撃をかわしながら、3人目のスタンガンを弾き飛してから金的を蹴り上げる。
仲間を3人も倒されたので逃げ腰になった襲撃者を驚異的なジャンプで飛び上がると、少女は後頭部を叩く。
4人目が倒れ、最後の一人が少女に待ったをした。

「待ってくれ。降参だ。お前は一体何者なんだ?
お前のことは社長から聞いてないぞ。」

それを聞いて、倉月岳は、すべてを悟った。これは社長が仕組んだ茶番だと。



   

そのとき倉月岳は一台の車が近づいて来たのを見た。
車は止まり、でっぷりと太った男が降りて来た。中東商事の朝山社長だ。

「よう、倉月、ご苦労。それをこっちへ渡せ」

「はい・・」

倉月は持っていたアルミケースを社長に渡した。

「おい、こいつらを自由にしてやれ」

朝山は警護員たちに襲撃者たちの解放を命じた。

「困ります。この人たちは暴行の現行犯です」

野球少女がそういうと、朝山は鼻で笑った。

「暴行?それはあんたじゃないのかね?おい、お前たち」

朝山は警護員たちに向かって聞いた。

「お前たちもこいつらに暴行を受けて3人も倒されたって告訴するかい?」

警護員たちは首を振った。

「じゃあ、こいつらの暴行罪が成立しない訳だ。
大人の世界に餓鬼が首を突っ込まないでほしいな。
さあ、こいつらを自由にしてやれ」

警護員達はカッターナイフで結束バンドを切って、襲撃者たちを自由にした。
男達はさっさと逃げてしまった。
野球少女を見ると口惜しさでぶるぶる震えている。

「倉月、もう任務は終わった。会社に戻れ」


朝山がそういうと、倉月が首を横に振った。

「社長、私は今日限りで辞めさせてもらいます。」

「なんだ、そうか。頚にする手間が省けたな。退職金はないぞ」

「朝山信吾!」

倉月岳は社長の名を呼び捨てにすると、睨みつけた。

「なんだ、無礼な奴だな。頭がおかしくなったか?」

「お前は自分でごろつきを雇って、社員を襲わせたな。
そのアルミケースには何も入ってないだろう。
そんなものを守らせて失敗させてそれを口実に頚にするために」

「何言ってるんだ?最高の一流のボディガードをつけたじゃないか?
一体警備会社に幾ら払ってると思ってんだ?」

「今まで5回とも警備会社にも失敗させて、賠償金と称して逆に巻きあげていたじゃないか。
社長は一銭も払っていないよ。
むしろそれで稼いでいたじゃないか」

「たまたま警備の者たちが弱かっただけだ。
じゃあ、警備会社の方が勝つことだってある。そういう場合はどう説明する?
それでも賠償金を狙っていると言えるか?」

「それこそ社長の思う壺じゃないか。きっとこう言うんだろう?
今のは君たちを試したんだ。君たちこそ私の求める人材だってね。
社長は前から自分の身辺を守ってくれる最強の警備会社を捜していたじゃないか。
業界でも評判が悪く敵が多いあんたのことだからな。」

「ふん、勝手にほざけ。負け犬ほどよく吼える。倉月、お前はもう終わりだ。
ボディガードなしで外を歩くときは気をつけろ。」

そういうと、車に戻りかけてから、警護員たちに向かって怒鳴った。

「お前たちも役立たずだ。さっさと行け。金は全額払えないぞ」

そういうと車に乗って立ち去った。その後警護員達も帰り始めた。
一人の警護員が立ち尽くしている野球少女に声をかけて連絡先を聞いていた。
後に倉月と少女だけになると、倉月は言った。

「深庄さんと言ったね。」

深庄が顔をこっちに向けると倉月は頭を下げた。

「お願いだから、僕のボディガードになってくれないか?」



相原室長は難しい顔をしていた。

「その朝山って社長は食えない男だね。
証拠の犯人たちを逃がしてしまうし、警備会社の弱みは利用するし。
で、その倉月って男の警護は引き受けたの?」


「はい、外出して狙われそうなときは連絡するからって・・・」

「仕方ないね。
きっと朝山の雇った奴に狙われるから、今度こそ逃がさないでね。
それと倉月って人には悪いけど、ほんのかすり傷でもいいから襲われて怪我をしてから助けてね。
深庄のことだから、相手に指一本も触れさせないというのをやりかねない。
それだと傷害罪が成立しないからね。そこんとこ頼むよ。」

「はい」

「で、武闘会の方はなんて言ってきてるの?スカウトかい?」

「はい、映画部の方に応募しないかってお誘いです。もちろん断りました。」
「そうだね、死んだはずの木崎茜が出演する映画が全国放映になったら大騒ぎだものね。
とにかくいくら良いことでも新聞やメディアに出たら大変だからね。」

「わかってます」

渚はそういうことがあってたまるかと思いながら頷いた。




ところがそういうことが案外簡単に起きるものなのだ。
倉月に頼まれて警護に着いたときのことだった。
倉月には奥さんと3歳の男の子がいて、その日は動物園に連れて行くことになっていた。
電車に乗って動物園に行き、帰りに食事をして帰るまでの間、心配だから守ってほしいということだった。
男の子は野球少女姿の渚にすぐ懐いてくれた。
動物園に入るとき離れたところから3人くらいの男がこっちの様子を窺っているのが見えた。
朝山に雇われた男達だろう。
まさかボディガードがいるとは知らないで3人に頼んだか、と思った。
そのまま、園内に入ったが遠巻きに様子を窺いながら尾行してくる。


そのとき騒ぎが起こった。白熊の池に人が落ちたというのだ。
渚は走った。柵を乗り越え躊躇わず池に飛び降りた。
落ちた人間は酔った中年の男だった。白熊は興奮して二人に近づいて来る。
頭上の柵の外では観衆たちが悲鳴をあげた。柵までは3mくらいの高さがある。
渚は力いっぱい男を担ぎ上げて上に放り投げた。
男は柵の内側の1mくらいの幅の縁にうまい具合に乗っかった。柵の外から人々が男を引き上げる。
そのとき白熊が渚に襲いかかった。
渚は水に腰まで漬かっていたがジャンプして白熊の頭上を飛ぶ。
水柱が渚の後を追うように空中高く伸びて行った。
白熊の背中に着地した渚は、パニックになって走り回る白熊の背中から再び飛んで、池の外に着地。
そこから走って、3m近い高さの壁を一気に駆け上った。


「うわあ、すごい!」「あれ女の子じゃない?!」「スーパーマンみたい!」

渚はしまったと思って身を隠そうとした。
そのとき倉月一家のことを捜して見回した。いた!
3人の男達に引き立てられて爬虫類館の建物の陰の方に連れて行かれるのを!
渚は走った。建物の裏に着くと、倉月が殴られていた。口の端から血が出ている。
よし!もういい。渚は奥さんを捕まえている男にまず襲いかかった。
男達は獲物を持っていなかったので、奥さんや子供から引き離すと思い切り突き飛ばした。
最初の男は10mくらい飛んだ。
さいわい柔らかい草の上に落ちたので大事にはならなかったと思うが、渚は早速次からは力を制撫した。
倉月を殴っていた男を一本背負いで投げると最後に倉月を後ろから押さえていた男も首根っこを捕まえて担ぎ上げ地面に投げつけた。
結束バンドで三人とも拘束し終わったとき、人々が押し寄せて来た。

「私は顔を知られたくないので逃げますから、ここで警察が来るのを待って下さい。」


カメラなどを構えた人たちが何人もいて渚の姿を撮影しようとしているので、野球帽を深くかぶってその場を猛スピードで逃げ出した。
トイレに隠れて、リュックの中に入れてあった服と着替えると、渚は相原室長に連絡した。
パトカーが動物園の入り口に止まり、警官と相原が爬虫類館の裏側に駆けつけた。

「倉月さんを暴行したのはこの男達ですね。
深庄はちょっと訳があって隠れてますが、署まで一緒に来て頂けませんか?」

相原はせっかくの家族サービスの時間を中断させて申し訳ないと謝りながら、これで朝山社長を訴えることができると喜んでいた。



塚嘉区警察支援センターの防犯室で相原室長が渚と向かい合って座っていた。
相原室長は報告書をめくりながら説明していた。

「そういう訳で、朝山社長は暴行・傷害罪で逮捕したわ。
あいつが逃がした5人の男達も逮捕した。
落として行ったスタンガンのついていた指紋で足がついたのよ。
倉月さんを襲うように指示したのは秘書がやったことだと言い張ったけれど、その前の件のこともあるし口座の振込みなど物的証拠もあったので、言い逃れができなくなったってことね。
それと、動物園の白熊の池の件だけど」

報告書を閉じると相原室長は渚の顔を真っ直ぐ見た。

「折角用意したバットもユニフォームも当分は使えないわね。
謎の野球少女人命を救助とか、平和な家族を襲った暴漢3名をノックアウトとか、新聞や雑誌に書きまくられているよ。
写真も後ろ姿をばっちり撮られているし、目撃者の話から15・6歳の女の子で身長体重の予想まで記事に載ってるよ。
倉月さんは何も言わないし、警察も何も言わないけれど、一つだけ問題があるの。」

「な・何ですか?」


「武闘会映画部の方から、深庄のことは秘密にするからスタントマンとして出演させてくれと依頼があったのよ。」

「断ったてくれたでしょ、もちろん?」

「顔は絶対分からないようにするし、架空の芸名も用意するというし、また報酬も通常の倍額払うって言うから・・・。」

「もしかして、引き受けた?」

「深庄のバイトの面倒をみるのも私だから、悪い話じゃないと思ってね」

「ああ・・・・」

深庄渚はがっくりとうな垂れた。
だが、相原はそんなことはお構いなしにメモ用紙を渡した。
そこには『佐野原逸香』と書かれていた。

「何ですか、これ?」

「さのはらいつか・・・深庄の新しい芸名よ。その名前で行っておいで」

「・・・・・」



武闘会館は臼雲区にある大きな建物で建築面積5万平方メートルと言われる。
本来の目的である武道の修練を目指す武術部よりも、収益を上げている映画部や警備部が今は勢いが盛んである。
映画部では撮影に使う町や村があり、宿泊施設や飲食店・ストアーなども完備している。
言ってみれば建物自体が一つの町のようなものなのだ。
だから渚のような田舎者が迷い込むとなかなか目的の場所にたどり着けないことになる。

「すみません。あの・・映画村ってどこですか?」

「ここ、武術部の3階だから1階に戻ってからもう一度誰かに聞いてくれる?」

「あ・・・はい」


1階に戻ってからもう一度道を聞くと、全然正反対の方向に来ていたことがわかった。
映画村についてから、3人に道を聞いて、やっとそれらしい場所についた。
第3スタジオの入り口からそっと中を覗くと、殺風景な倉庫の中を連想させる薄暗い空間が広がっていた。

「おーい、暗いからライトつけろ!」

誰かが叫ぶと突然中が明るくなった。そして中にいる人間もはっきり見えた。
そしてその中に渚が知っている人間が二人いた!
劇団クローバーの五十嵐彩芽と般若ジャパンの鬼子母神だ。
その他にもさまざまな男女が集まっていたが真ん中にいる男はヒゲを生やしてメガホンを握っているから監督だろうと渚は思った。

「あと来てないのは誰だって?きょうは初日だろう?」

横にいた助監督らしい男が名簿を見ながら言った。

「佐野原逸香という20歳の女性スタントマンです。
警備部の強い推薦でスカウトされた新人だとか」

「カーン!」

突然監督はメガホンを床に叩きつけた。

「誰だろうが関係ない。
スタントマンごときで初日のミーティングに間に合わないとはどういう心がけをしてるんだ!!」

助監督は急いでメガホンを拾って恐る恐る監督に手渡した。

「全く監督の言う通りだね。ふざけた奴もいるもんだ。」

そう言ったのは鬼子母神だった。

「20歳の娘っ子が来ないからって、私が待たされるのかい?
来たらお礼を言わなきゃね。」

「すみません、鬼子母神さん、今すぐ始めますので」

助監督はさっそく鬼子母神を宥める。
監督は名簿を見て、また声を荒立てた。

「なんだ?この演技指導補助員というのは?俺は聞いてないぞ?」

助監督はまた慌てて監督を宥めるようにして説明した。

「これは映画部の上の方からの強い推薦で演技力を高めるための補助として劇団クローバーの五十嵐彩芽さんに来てもらっているんです。」

「なんだあ?また上からの強い推薦か?演技力だってえ?
俺達はアクション映画を作るんだ。演技力がなんになる?
そんなもの犬の餌みたいなもんだ。
眉毛をぴくぴく動かせてもパンチやキックの一つも満足にできなきゃ何にもならないんだ。
俺達はそういう世界に生きているんだよ。」

「それは違うよ監督さん」

そう言ったのは鬼子母神だった。

「わたしらもリングの上で凄むことはある。それも演技だし、演出だよ。
へらへら笑って殴りあったって誰も見向きはしない。
私も少しでも強そうに見えるなら、そういう演技を教えてもらいたいよ。
それにこの子は私も一緒に仕事したことがあるから良く知ってる。
半端な仕事はしないはずだから、嫌わないでやってくれないかい?」

監督は少しトーンダウンした。そして話題を変えた。

「主役の竜胆沙希(りんどうさき)はどこだ?」

「はい」

「うーん、小さいな。アクションはできるか?」

「一応武術部で1ヶ月特訓を受けました。」


「撮影となるとまた違う動きが必要だ。演技の経験は?」

助監督は慌てて口を挟んだ。

「監督、竜胆さんは映画に2本、ドラマに一本出ている売れっ子新人です。」

「そうか。でもアクションは初めてなんだろう?」

「はい、がんばります」

たぶん監督は怒りをぶつける相手の佐野原逸香がいないのでいらいらしていると思った。
だが、渚としては今顔を出す訳にはいかない。
過去の自分を知っている人間が二人もいるからである。
そのとき入り口から覗いている渚に声をかける者がいた。

「君?何やってるの?」

見た感じスタッフの青年かと思われる。
ジーンズにTシャツ姿のラフな格好だからだ。

「あ・・あのお願いが・・」

渚は青年に手を合わせた。

「なに?どうしたの?なにか困ったことでも」

「あの・・中にいる鬼子母神さんというプロレスラーと劇団クローバーの五十嵐さんをこっそり呼んでほしいのですが・・」

「君の名前は?」

「私の名前は言わないで下さい。今ちょっとまずいのでお願いです。」

「ふうん・・とにかく大事な用なんだね?」

「は・・はい」

「ちょっと待ってて」

中に入った青年は手をあげて中の者に挨拶した。

「あっ、星塚静夜さん、お待ちしてましたよ。」

そう言ったのは例の助監督だった。

「困りますよ、静夜さん。あなたが遅れると他にしめしが・・」

そう言ったのは監督だった。監督も一目置く人間らしい。

「そうそう。鬼子母神さんとえーと劇団クローバーの五十嵐さんでしたっけ。
ドアの外で可愛い女の子がお二人に会いたいって呼んでましたよ。」

「誰だよ、人を呼びつける奴は?」

鬼子母神が機嫌を悪くしてどしどしと足音を立てて、その後を五十嵐が小走りでやって来た。
がらっとドアを開けた鬼子母神は渚を見て凍りついた。

「あ・・・あんたは!」

それを急いで口に指を当てて黙らせる。
五十嵐も驚いて幽霊でもみるような顔をしている。

「訳は後でゆっくり話しますから、今は黙っててください。
私は佐野原逸香と言う名前になっているので、決して他の人に前の名前を言わないでくれますか。
今日が終わったら時間を少しもらえますか?」

二人とも黙って頷く。よほどショックが大きかったらしい。
先に二人を中に戻してから、たった今来たように渚は走って入って行った。

「すみません。佐野原です。遅れて申し訳ありません。」

「お前か!!」

監督はメガホンを渚に投げつけた。
渚はそれをぱっと片手で受け止めると監督の所に行って手渡した。

「本当に申し訳ありません。」


「申し訳ないで済むと思うか!鬼子母神さんをわざわざ待たせてただで済むと思うのか!
ねえ、鬼子母神さん、なんとか言ってやってくださいよ」

言われた鬼子母神はぼうっとして言った。

「そうだな、私をおんぶしてここを一周したら許してやるよ」

「ええっ?!」

一同が耳を疑った。
鬼子母神というのは恐ろしい奴だとは知っていたが、あんな普通の顔をして残酷なことを言うものだと心に思ったのだ。
なぜなら鬼子母神は筋肉質とはいえ90kgくらいの体重がある。
一方佐野原逸香は40kg満たない小柄で細い女の子だ。
とても20歳とは思えない童顔で中学生か高校生の小さい方にしか見えない。

「はい、わかりました」

「ちょっと待った。それじゃあ物足りないな。おい五十嵐、私におぶされ」

言われて五十嵐は断りもせず気安く鬼子母神に負ぶさった。
五十嵐は渚くらいの体格だから合計130kgくらいになる。
だが、渚は五十嵐を負ぶった鬼子母神をひょいと背負うとなんと空気の人形を背負ってでもいるかのように勢い良く走り出したのだ。
その走りは何も背負わないで一緒に走った者がいたとしても追いつかないほどのスピードだった。
あっという間に一周した渚は二人を下ろすと監督に言った。

「すみません。これで許してもらえますか?」

「お前・・・すごい力だな。だ・・だがスタントマンで初日の遅刻は・・・」

「もういいだろう、監督。」

そう言ったのは鬼子母神だった。

「監督が私に振ったんだ。
振られた私がこれで許すと言ったのに、許さなかったら私の面子が丸つぶれになるんだけど、それでもいいのかい?」

「い・・いや、そういう積もりは。わかった。それじゃあ全体説明に入る」

その言葉に助監督はシナリオを配り始めた。
シナリオには「易力拳少女伝説」と書いてあった。


渚は休憩時間に「易力拳少女伝説」をなんとか読もうとした。
だが読むには読んだがよく内容がわからなかった。
横にいた五十嵐はとっくに読み終えて、渚が読み終わるのを待って話しかけた。

「アクションの場面中心に書いているから、あらすじはいい加減だね。
登場人物の心理も殆ど書かれてないし、どういう風に役作りしたらいいかこれじゃあわからない。
アクション映画ってこんなにいい加減に作るものとは思わなかった。
アクションの時間だけは細かく決めているけど、殆どがアクションだからこれじゃあ飽きてしまう。」

「いったいどういう話ですか?」


「拳法の老師に主人公の孫娘が易力拳という秘拳を習う。
そして免許皆伝になったとき、実はお前の両親は二人とも拳法家だったが、悪い拳法家にだまし討ちにされて殺されたと打ち明ける。
それで娘は両親の復讐をする。まあ、よくあるストーリーよね。」

「あらすじがいい加減だといいましたけれど」

「それなのよ。鬼子母神さんが悪役に雇われた怪力女の役なんだけど、それには負けてしまうの。
そこへ人気アクションスターの静夜さんが突然やって来て、鬼子母神さんをやっつけてしまう。
まあ、なんて頼もしい方って娘は惚れてしまうのね。
で、悪の元締めも静夜さんが9分通りやっつけてしまって、最後のとどめを娘にやらせる。
主人公は娘の筈なのに、いつの間にか主役が静夜さんになっている。
おかしいよね。じゃあ、題名を変えればいいのにって話よ。」

「どうすればいいんですか?」

「あくまでも主人公が娘なんだから、最後まで勝たせるべきよ。
折角の秘拳が全然役に立たないなんて、詐欺よ。」

「はあ・・・娘が勝てばいいんですね。」

渚はもう一度シナリオを手に取って、最初の部分を見た。


スタッフのところでは、
監督:土本信夫
助監督:井出宗助
カメラ:佐藤勉ほか
照明:篠原恭子ほか
音響:鍋島達也ほか
脚本:土本信夫
美術:高橋結香
アクション指導:辰波五郎
易力拳指導  :謝 志強(シェイ・ズイチャン)
演技指導:土本信夫
演技指導補助員:五十嵐彩芽


そしてキャストのところでは

天王寺詩織 (主役):竜胆沙希
 同上   (子役):榎本有歌
早乙女翔馬(準主役):星塚静夜
鬼瓦権九郎 (悪役):金渕剛
牙王   (準悪役):鬼子母神
天王寺善翁(祖父役):嵩岸悦郎
天王寺五郎(父親役):時田篤志
天王寺美咲(母親役):岡野達子
天王寺の弟子たち  :武闘会アクションクラブ
鬼瓦の門人たち   :武闘会アクションクラブ
スタント      :武闘会スタントクラブ
  同上      :佐野原逸香



「私一番最後だな・・」

渚は何故か大きく頷いた。

「よし、この天王寺詩織を最後まで勝たせるぞ」



一方五十嵐は役者の一人ひとりに話しかけたり質問したりした。
星塚静夜にはいきなり次の問いかけをした?

「静夜さんって格好いいけど、この映画では気をつけないとイメージダウンになるね。どうしてだと思う?」


「ど・・どうしてですか?」

「このシナリオの持つ矛盾の犠牲になってしまうってこと」

「あの・・・もっと分かりやすく教えてくれませんか?」

「それはね・・・」




土本監督が回想シーンから取ると声をかけた。
ところが両親の役の時田篤志と岡野達子がごね始めた。

「どうしてこのシーンが撮れないというんだ?
易力拳の継承者として弟子を指導しているところだろう?
この後殺される所も撮るから、うまく行けば今日中に終わるんだ。
そしたら、君達は次の仕事に回れるんだぞ。
打ち上げのときは招待するから、早く撮らせてくれ」

時田が監督を真っ直ぐ見て言った。

「じゃあ、聞きますが。どうやって易力拳の動きを見せるんですか?
易力拳の継承者だと言いましたが、私は易力拳というものをまだ見たことがないんです。
中国でもあまり知られていない拳法だそうですが、その型とか動きを勉強する時間を下さい。」

「私も同じ考えです」

岡野達子も大きく同意した。

「そんなものちょちょっと普通の空手の型でいいんだよ。
映画を見る人間にそんなことまで分かる奴はいないんだから。」

「でも、易力拳の老師が指導に来ているのに・・・」

「それは秘拳の部分だけ指導をしてもらうので良いんだよ。

君らはまだ秘拳まで習わないうちに殺されるから必要ないんだ。」

「そういう映画を見る人を騙すようなことはしたくないんです。
見る人が見れば本物かどうか分かってしまう筈ですから・・」

「どうしたんだい?時田ちゃん、いっつもほいほいとなんでもやってくれてたんじゃないか?」

「土本監督・・・役作りってわかりますか?
役者は台詞を喋ってないときでも、カメラに映っている間は心の中で台詞を喋り続けているんだそうです。
昔、大仏が壊れて修理しようとしたとき、大仏の靴下のはがれたところから足の指が出てきたと言います。
昔の職人は靴下の中なんか見えないのに、ちゃんと見えないところまで大事にしてたんです。
土本さん、映画作りもそうじゃないですか?」

「わかった!あいつだな。あの生意気な演劇かぶれの五十嵐とかいう女に吹き込まれたな。
あいつはどこ行った?畜生俺の仕事の足を引っ張りやがって!」

そこへやって来たのは悪役の鬼瓦権九郎役の金渕剛だ。

「土本監督、ちょっと聞いても良いですか?」

「なんだ?あんたの出番はもっと後だ。休んでていいから」

「そういう訳にはいきません。出番までに解決しておかなければならない問題があるんです。」

「なんだよ、言ってみろよ」

「俺は易力拳に対してどんな態度でいれば良いんですか?
つまり優れた拳法だから嫉妬して潰そうとしたのか?
それとも逆に馬鹿にして、自分の方が優れていると思って潰そうとしたのか」

「どっちでもあんたの好きな解釈でいいよ。そんなのはカメラに映らないんだから。」

「そういう訳にはいきません。昔大仏の修理をしたときに・・・」

「お前さんもか!?畜生あいつはどこへ行った?今も他の誰かに吹き込んでいやがるのか?!」

土本監督はメガホンを床に叩きつけると、五十嵐を捜しに大股で歩いて行った。
五十嵐は渚と話をしていた。

「この・・てめえ!!いい加減にしろ!」

土本が顔を真っ赤にしていきり立っているのを五十嵐は不思議そうに眺めた。
それが余計土本の怒りの炎を激しくさせた。

「とぼけやがって!どこまで俺の邪魔をすれば気がすむんだ。」

「お手伝いしている積もりですが・・」

「何もするな!お前が余計なことを役者に吹き込んだために、みんな変なことを言い出しやがって前に進めないじゃないか!!」

「準備もしないで前に進んでどうするんですか?
一つ一つの場面を丁寧にするのが映画作りじゃないですか。
ところで監督がこの映画を作るときのこだわりはなんですか?」

「な・・なにこだわり?」

「優れた映画人は作品を作るうえで必ずこだわりを持っています。
こうでなければいけない。それ以外じゃ駄目だという・・」

「おう、あるよ。アクションだよ。俺はアクションを撮って30年だよ。
お前たちのようなひよっ子とは違うんだ。」

「で、どんなこだわりをお持ちですか?」

「そんなことお前に聞かせる必要はない。出来上がった作品を見ればわかる」

「それじゃあ、この映画の題名を『易力拳少女伝説』とした訳は?
なにかこだわりがおありなんでしょう?」

「今、美少女ファイターとかそういうのが旬なんだよ。

酔拳とか五獣拳とかはもう知られているから、目新しいところで易力拳というのを捜し出したんだ。
題名を聞いただけでわくわくするようなそんな映画にしたいから、そういう題名にこだわったんだ。」

「でも、そういう題名を見て映画を見に来る人ってどんなことを期待しますか?」

「どういう意味だ?」

「易力拳ってどんな拳法だろうなとか、その拳法を修めた少女はどれだけ強いんだろうなとか・・そういう気持ちでわくわくするのじゃないですか?」

「そりゃそうだ。そのためにそういう題にしたんだ。」

「だから、後継者の拳法が普通の空手の型だったらがっかりしますよね。
それと折角秘拳を修めた少女が悪役のナンバー2に負けてしまったらがっかりしませんか?」

「何を言ってる?いくら強くても所詮女だ。男には敵わないんだよ。
そんなことは武術界では常識だろう。
敵わないと知ったとき、女らしさに戻って強い男に恋するんだ。」

「はあ・・それじゃあ静夜さんの早乙女翔馬という人はどんな拳法を使うんですか?」

「普通の空手だよ。」

「折角題名にまで書かれたのに易力拳はなんの役にも立たなかったんですね。
少女も伝説にもなんにもならなかった。題名と内容が全然違う。
つまり、羊頭狗肉ですね。わかりませんか?偽装表示ということです。」

「きっさまー!!俺の映画をインチキ呼ばわりしやがったな!!」

土本監督が五十嵐に飛びかかろうとすると渚が後ろから抱きついて止めた。

「離せ!馬鹿ぢから!離すんだ!」

だが、渚は友達の五十嵐に乱暴されたら困るので、土本を離さない。
助監督の井出が走って来た。渚は井出が来たので土本を離した。

「井出!きょうはやめだ!みんな易力拳を勉強したいっていうからさせてやれ。
俺は家に帰って一杯飲んでくる。やってられねえ!」

土本は憤然としてスタジオから出て行った。



ところが五十嵐は、監督の指示だというので、易力拳の勉強会にした。
アクションクラブやスタントの人も含めて、通訳つきで勉強会が始まった。
謝老師は年齢は70歳くらい、渚とほとんど変わらない小柄で痩せた老人だった。
通訳は日本人のお弟子さんで岡という40歳前後の男性だった。
なにやら中国語で話しているのを通訳の男が日本語に直す。

「易力拳はもともとは身を守るための拳法として中国奥地の民族が発展させて来たものです。
けれども長い間奥地に留まって細々と伝承されて来たため、広く知られることはありませんでした。
大切なことは足腰の鍛錬と低い姿勢、全身を一本の鞭のように一体化させる動きです。
そしてこれは最も重要なことですが、意念を用いて気の流れを理解することです。」

老師は腰を低くして助手のお腹に手を当てた。

「フンッ!」

老師が僅かに腕を伸ばしただけで、弟子は3mも後方に飛んだ。

「今のは足の裏から出たパワーが足を上ってお腹や胸を通って肩から腕、そして掌に伝わったため、腕は僅かしか伸ばしていないのに、私の体が飛んだといいます。
力は足が鞭の柄だとすると、手が鞭の先になるような感じで伝わったのです。
自分の体が鞭だとイメージして、今のを二人一組でやってみてください。
気をつけることは、決して足からのパワーを頭に持って行かないことです。
脳震盪とか鞭打ちになりますから」

渚は岡野達子と一緒にやった。岡野が最初に渚のお腹に手を当てて1mほど飛ばした。
渚はなるべく弱めにやったのだが、相手は5mも飛んでしまった。
老師も含めてみんな驚く。老師が弟子になにやら喋った。

「老師は今の女の子がとても素質があると言っています。
ぜひ個人レッスンをしたいと。」

これには五十嵐も賛成してくれた。
教えてもらったことを他の人にも教えるという約束で、明日から早めに来て習うことになった。




「いわゆるFBIの証人保護プログラムみたいなものかな?」

そう言ったのは五十嵐彩芽だった。

「命を狙われる危険のある人を保護するために全く違う戸籍を用意してあげるというシステムね。

そういうのが日本にもあったとは」

「でも私の場合は特殊な例なので、誰でもそうしてくれるとは限らないらしいです」

「それと凄いのは15歳なのに20歳ってことになってるのが強烈だね。
実際に20歳になったときには、法的には25歳なんだ。
いつもNプラス5の人生なんだね。」


「はい、もうなんとでも言ってください。」

ここは臼雲区の武闘会館の近くの焼肉屋だった。
鬼子母神のおごりで食べさせてもらうことになったのだ。

「ところで木崎・・・じゃなかった佐野原だったよね。
またプリンセス・ヘル頼めるかな?
テレビカメラの入ってないときにするから。ちょっと困ったことがあって。」

「わあ、どうしよう!焼肉もう食べちゃったし」

「それと名前は佐野原でいいから、般若ジャパンには遊びにきてほしい。
みんなには事情を話しておくから」

「私も!私ね、SARONとよく会うんだけど、今度3人で会わない?」

五十嵐も仲間に合わせたがっていた。渚も会いたいが、室長に禁じられている。

「あ・・あんまり派手に会うのはちょっと・・。ごめんなさい」

五十嵐彩芽はそういう渚を見てにっこり笑った。

「じゃあ、こっそり会おうね」

渚は頷いてから鬼子母神の顔を見た。

「鬼子母神さん・・困ったことって・・?」

「いいよ、また後で話すから。ここじゃ興ざめする話だからさ」

その日は、それで三人は別れた。



ところが次の日になっても監督の土本が出て来ない。
五十嵐がみんなを集めた。

「監督がどうして出てこないのかよくわかりませんが、私達は自分の役を深める勉強をしなければいけないと思います。
それで、皆さんには個々にお話したと思いますが、今日は脚本分析をして少しでも素敵な映画になるように皆さんで考えていきませんか?」

五十嵐はみんなを車座に座らせ、シナリオの1ページ目から検討して行った。


その間渚と主役の竜胆沙希・子役の榎本有歌は、謝老師および弟子の岡と共に易力拳の基本を稽古した。
子役は武術部から推薦されて来た子なので動きが良く、子供なのですぐ覚える。
また、渚も筋力も柔軟性もスピードもあるのですぐものにできた。
問題は竜胆で低い姿勢がどうしてもできない。
立ち姿勢で構えたりさばいたりするのはうまいが、易力拳の特徴である低い姿勢での技が動きだけさえできない。
足腰を長年鍛錬した結果できる技なので、仕方のないことなのだ。
だが、竜胆は必死に練習し、筋肉痛で歩けないほどがんばった。
旋風脚という技は足をプロペラのように回しながら相手の脚をなぎ払い倒す技だ。
竜胆はがんばって最初の一回転ができるまでになった。
子役も5・6回転できるようになった。

「あなたはどのくらいできるのかと老子が聞いております。」

渚はやってみせた。独楽のように回転させながら移動し縦横無尽に動いた。
後半はカポエイラのように上半身攻撃の動きも混ぜながらやめろというまで続けた。

また、手腕による攻撃は相手の手首を握ったり肘を取ったり肩を押さえたりで地面に押さえつける技が多かった。
その他には体当たり・投げ技・突き飛ばし、絞め技・関節技・打撃技を習った。

「易力拳に秘拳ともいうべきものがあるとすれば・・一番最初に教えたあの技です。
あれは、使い方によっては内臓を破壊することもできるそうです。」

弟子の岡は老師の言葉を通訳した。

「また、打撃技で人体の急所を攻撃すれば、軽くて失神、再起不能や死亡に至ることもあるということです。
けれどもあくまでも易力拳は敵の攻撃を防ぎ、退けるのが目的なのです。」

渚は易力拳の使い方がだいたい理解できたと思ったが、最後の秘拳だけはよく理解できなかった。
けれども、それを覚える必要はないと渚は思った。
そのとき、五十嵐が他のキャストたちと一緒にやって来た。

「シナリオ分析が終わったから、一応聞いてくれるかな?」


五十嵐は大きい模造紙を繋いだものを持ってきて、壁に貼った。
そこに大学ノートに書いた文を切り抜いて貼り付けてあった。
字も大きいのや小さいの、きちんとした字乱雑な走り書きさまざまな字体のメモが入り混じっていた。

「あなたたち3人にも読んでもらいたくて持ってきたの。これはみんなで話し合って決めたシナリオの改正案よ。一応時間の流れに従ってストーリーを書いているけど、実際は成人になった詩織が免許皆伝になるところから始めて、それ以前のは回想場面として流すといいと思う。」

竜胆は五十嵐に質問した。

「監督の留守に勝手に決めても良いんですか?」

「助監督が監督に電話をしたら、私たちが頭を下げにくるまで出て来ないと言ったそうよ。
私達はただ意見を言っただけなのに、それが気に入らなかったみたい。
でも自分がいなければ映画ができないと思っているので出てこないの。
こういう場合は助監督がその代行をするしかないから、助監督の許可を得たわ。
だからこの改正案の線で先に進みましょう。
監督の意見は監督が出て来てから伺うことにすればいいのだから。」

竜胆と子役の榎本そして渚は新しいシナリオを声を出しながら読んで行った。
それが以下の通りである。




(改正版シナリオ)
大陸の奥地で習った易力拳を日本に持ち帰った天王寺善翁はひっそりと田舎で弟子をとって教えていた。
畑を耕しながら拳の鍛錬をし、心も磨いている毎日だった。
亡き妻の忘れ形見である娘の美咲も美しく成長し、拳法も上達した。
そこへ遠くから二人の青年がやってくる。
鬼瓦権九郎と波佐間五郎だった。二人は空手家だが、易力拳に魅力を覚え弟子入りをする。

(以上は場面には出さない。土台の知識として押さえておく)

(場面1.美咲がやくざに絡まれるがふりほどいて難を逃れる。
一緒にいた五郎も同じように戦いを避けて一緒に逃げる。
それを離れて見ていた鬼瓦はやくざの後をつけ呼び止めて全員を半殺しにする。)

だが鬼瓦は易力拳を人を傷つけることに用いようとするため、善翁は彼を破門にする。
(場面2。善翁に破門を言い渡され憎悪の表情を五郎に向け去って行く鬼瓦)

五郎は美咲といつしか結ばれ、易力拳の後継者となる。

(場面3。五郎と美咲が弟子を指導しながら、お互いを見交わす)

詩織も生まれて祖父の善翁は孫娘を可愛がる。

(場面4。善翁が赤ん坊を美咲から受け取り『詩織』と呼びながら顔をほころばせる)

五郎は易力拳を都市部にも広めようと都市に出向いて大きな道場を建てようとする。


(場面5。道場にする土地と建物を買って喜んでいる二人、そこへならず者が来る。
自分たちの習っているものこそ本当の易力拳だといい、勝負を挑む。
軽く打ち負かしてしまうが、どうも易力拳のようでありながらあまりにも攻撃的な技なので、彼らの道場に様子をみにいくことにする。)

しかし、近くにも同じく『易力拳』を唱える道場があり、五郎が気になるので行ってみると鬼瓦がやっていた。
しかも、自分勝手に作り変えている。

(場面6。易力拳の看板をかけている道場にいたのは、鬼瓦だった。
その稽古風景を見て、易力拳とは似つかないものだと二人は憤る)


勝手に易力拳の名前を使ったこと、内容を作り変えたことを詰問すると、鬼瓦は五郎を果し合いで倒す。
そして一緒に来ていた美咲も倒す。

(場面7。道場を訪問した二人は、鬼瓦に勝手に看板をあげたこと。
しかも内容が違うものを易力拳だと主張することを問題視する。
鬼瓦は強い方が武術として生き残ると主張。勝負を挑む。
周りを囲まれている中で一方的に鬼瓦が攻撃を始める。
五郎はそれらをすべて防ぐが、美咲が数人に取り押さえられているのを見て気がそれる瞬間に鬼瓦の邪拳が五郎を襲い倒してしまう。
美咲は振りほどいて五郎に駆け寄るが、急所を何箇所もやられて危険な状態だ。
五郎を支えて帰ろうとする美咲に鬼瓦は、このまま帰す訳にはいかないと言う。
弟子たちが美咲に襲い掛かる。美咲は何人も倒すが、弟子たちに押さえられ最後に鬼瓦の邪拳によって倒される。道場の外に放り出された二人。)
傷ついて戻って来た五郎と美咲を善翁は看病するがやがて息を引き取る。

(場面8。激しい風雨の夜。傷ついた二人が善翁と詩織の待つ農村に戻って来た。
戸口で倒れた二人を弟子たちが運んで寝かせる。
善翁は詩織を寝かせて、事の真相を聞く。五郎は口も利けないほど弱っていたが
美咲はなんとかあったことを善翁に伝える。やがて二人とも息を引き取る。
お墓で弟子たちと一緒に花を供える善翁。幼い詩織は弟子の一人に抱かれている。)

農家の子供である翔馬は善翁のところに拳を習いに通っていた。
幼い詩織も一緒に習っていた。

(場面9。善翁の指導のもと。翔馬と詩織が易力拳の特別授業を受けている。
詩織だけだと訓練が辛過ぎるので、拳法に関心を持っている農家の子供の翔馬につき合わせたのだ。)


だが、やがて翔馬は都市へ働きに行く。

(場面10。青年になった翔馬が就職のため都市に行くところ。善翁や詩織に別れを告げる)

そこで「易力拳」の名前にひかれて、鬼瓦の道場に入る。

(場面11。易力拳の看板を見て顔が輝く翔馬。入門して型を練習した後、首を傾げる様子。)

そして道場でも1・2を争う腕前となる。


(場面12。何ヵ月後に翔馬が二人や三人を相手にしても勝ってしまうところ。
もう、お前は素質があるから道場じゃ1・2の腕前だと先輩達に言われる。
だが翔馬はそれほど嬉しそうでもない。そういう翔馬を見て変わった奴だと先輩達は言う。)

詩織は成長して免許皆伝になるが善翁に両親のことを打ち明けられる。


(場面13.善翁が最後の秘伝を詩織に伝えるところ。肝心なところは耳打ちするので、視聴者にも聞こえない。詩織は太い樹木の幹に手を当て、圧力を与えると木の葉が一斉に落ちてくる。
善翁はその様子を見てにっこり笑うが突然倒れる。
布団に寝ている善翁が枕元に詩織を呼んで、両親が買った道場があることを告げる。その道場がある都会に行って、両親の夢を実現してほしいと言う。
そして、両親が何故死んだのかについてもついに打ち明ける。だが、無益な争いをしてはいけない。
それは易力拳の教えに反すると言い残す。)


善翁は息を引き取り、詩織は父母の道場を再建するために都会に出る。

(場面14.お墓の前で詩織が両親や祖父に誓うところ。必ず易力拳を世に広めますと。
そして両親が買っていた道場を掃除してそこで看板をあげる。
詩織が一人でがんばって道場を掃除しているところ)

そこへ鬼瓦の配下の者が道場破りに来る。彼らは邪拳を使うが詩織は撃退してしまう。


(場面15.6人の男が道場にずかずか上がりこんで、床を汚す。
出て行くように言うと、男達はいきなり襲い掛かる。あっという間に詩織は男達を倒すと引き取ってもらう。)

詩織は男達に案内させて鬼瓦の道場に乗り込む。
しかし、それは戦うためではなく、妨害しないように頼むためだった。

しかし、鬼瓦は詩織を倒そうと襲いかかり戦いになって、最後に詩織が勝つ。

(場面16。道場に行くとそこにいたのは翔馬だった。
詩織は鬼瓦に道場に妨害に来るのはやめてほしいと丁寧に頼んだ。
だが鬼瓦は、この世界は強いものが残るのだ。
邪魔されたくなかったら、ここでお前の強さを証明してみろと言う。
鬼瓦の合図で弟子たちが詩織を襲おうとする。そのとき翔馬が前に出て来る。
鬼瓦や他の弟子たちが詩織を襲おうとしていることを知り、卑怯なことはやめろと言って詩織を守る側につく。
そこへ鬼子母神の役の牙王が現れ、詩織に襲い掛かる。詩織は最初は怪力に何度も突き飛ばされるが、やがて反撃する。他の弟子たちが牙王に加勢しようとすると翔馬がそうさせない。そして詩織は牙王を倒す。
詩織が予想以上に強いので鬼瓦は猟銃を取り出して狙いをつける。
翔馬が鬼瓦の手からそれを奪おうとして撃たれる。鬼瓦は再び詩織を狙おうとするが、牙王が銃を取り上げ銃身を曲げてしまう。
「いくらお前が悪党でもプライドくらいはあるだろう」そう言って、また倒れる。
弟子たちと鬼瓦を相手に詩織の必殺拳が炸裂する。詩織は鬼瓦の邪拳をことごとく封じて最後に秘拳を使って、鬼瓦を再起不能にする。)

エピローグ。
(場面17.肩を打たれた翔馬が手を吊って詩織と仲良く歩いている。
新しい道場の前で二人は顔を見交わすと中に入る。
弟子たちの中にはかつて鬼瓦の弟子だった者もいた。
詩織は挨拶をした後、みんなに語りかける。
「易力拳は争うための拳ではありません。共に歩むための拳です。
私と一緒に拳の道を歩きましょう!」
弟子達はいっせいに「おすっ」と返事をする。
詩織は易力拳の型のひとつをすばやくしてみせて、気合をあげる。
「とおりゃーあ!!」エンディングの音楽が流れる。)


渚は言った。

「な・・なんか知らないけれど前のよりは格好よくなったね。」

「そうですね。これなら主役って感じがします。でもアクションが大変そう。」

そう言ったのは竜胆沙希だった。そう言いながらも満足そうな笑みを浮かべていたのだ。


目のきつい頬のこけた男が渚たちに話しかけてきた。

「失礼。アクション指導の辰波だ。ちょっと動きを合わせるのをやりたいので、来てくれ。」

竜胆と渚が行くと道場内のセットが用意されていた。と言っても壁の半分がないので妙な感じだが。
そこに6人のならず者スタイルの男達が待っていた。
竜胆が真ん中に立たされ、男達が周りを囲む形になった。
なにやらややこしい動きを指導されて、竜胆は汗をかいていた。
竜胆は一生懸命に動くのだが、スピードがついていけない。

「駄目だ!ちょっとスタントのお前やってみろ」


渚はそう言われて黙って辰波の顔を見ていた。

「なんだ?どうしたできないのか?そういえばスタントは初めてだってな」

「というより・・・」

渚はゆっくり言った。

「今の動きは易力拳の動きじゃありません。易力拳らしい技が一つも使ってないからおかしいです。」

「なんだと?!じゃあ、お前やってみろ?」

「やってもいいんですが、実際に当てるんですか?それともすれすれに当てる真似ですか?」

辰波は笑った。ぞっとする爬虫類のような冷たい笑いだ。目が笑ってないのだ。

「実際に当てて貰った方が迫力があっていいんだ。
その代わりこいつらも本当に当てて良いという条件だがな。」

辰波は6人の顔を見た。6人も目配せしながら口元を歪めて笑った。

「じゃあ、俺の振り付けがお気に召さないようだから、自由にやってもらおうか。
そうそう勉ちゃん、カメラ回してくれるかな?二度とできない絵が撮れるかもしれないから」

騒ぎに気づいて五十嵐や鬼子母神、その他のキャストたちも集まって来た。
渚は6人のならず者役に言った。

「すみません。動きの打ち合わせって面倒ですから、本気でかかってきてください。
実際に当てるからちょっと痛いかもしれませんが、加減しますので」

6人はそういう渚をせせら笑うかのように顔を見合わせると一斉にかかってきた。
要するに生意気な新米スタントマンを袋叩きにして自分が何者かを思い知らせてやるという気らしい。
勝負は2秒で終わった。彼らは突然渚の姿を見失った。と思ったら足をすくわれて転倒した。
渚が旋風脚で柔らかく全員の足を薙ぎ払ったのである。
その後、渚はすっくと立ち上がって、何が何だかわからなくて倒れている6人に話しかけた。

「どうです?そんなに痛くなかったでしょう?ゆっくりそっとやりましたから。」

そういうと、口を開けたままの辰波にも笑顔で話しかけた。

「違う技もありますけど・・それもやってみますか?もちろんやられ役の皆さんが構わないというならですが」

辰波はゆっくりかぶりを振った。

「勉ちゃん。今の絵撮ったかい?俺速過ぎてよく見えなかったんだ。」

カメラの再生を見ながら辰波は何度も見直してから顔を上げた。

「俺はこれだけのリアルなファイトを見たことがない。
これに比べれば今まで俺がやってたのは学芸会のお遊戯だ。使おう!これを使おう!
なあ、井出ちゃん、そうしようよ」

井出助監督は辰波とカメラマンの佐藤の顔を見比べながら、もごもごと言った。

「・・・だから、衣装も普段着だし、カメラだって予想できない動きだったから、きちんと枠内に収まってないし・・・一回やってもらうわけには・・・」

辰波は声を高くした。

「お前さんは、だから万年助監督だって言うんだよ。もう一回同じことをやらせてみろ。
この・・・佐野原さんはやってくれると思うけど、こいつら6人は無理だ。
もう怯えているから同じ絵は撮れない。さっきは、この人をなめてかかっていた。
そして本気でぼこる積もりでいた。それを逆にやられてしまったときの驚いた顔。
これと同じ絵はどんな天才でも撮れないんだよ。それはお前さんにもわかるだろう?えっ?井出ちゃんよ!」
「じ・・じゃあ・・・今着ている自前の衣装を主役にも着せるんですか?
そしてカメラワークもこのままで?」

「アクションの辰波が言うんだ。間違いない。衣装がなんだ?
カメラワークだって、この方がリアリティがあってたまらなく痺れる。わかんないかい?
お前さん、最後まで土本監督をここに呼ばないでくれ。そしてお前さんが名監督としてデビューするんだ。
よし、後その竜胆と、この6人を使って前後のつなぎをやってくれ」
「あのスタントの顔なんか見えてないかい?」
「動きが速すぎて見えてないよ。ああ、そうだ。佐野原さんになにか新しい服を出してやってくれ。
衣装係に言ってな。」
「どうして?」
「井出ちゃん、今日も冴えないね。佐野原さんの服を竜胆沙希に着せるんだよ。
そしたら佐野原さんの着る服がなくなるだろう。」
「ああ、そうか・・。佐野原さん、すみません。その服竜胆さんに貸してやってください。
更衣室に違う服持って行かせますから。」



辰波は武術の実力者に対しては、はっきりと敬意を示すらしく、以後渚はさんづけで呼ばれるようになった。
そして、辰波が6人を集めると今日のことを固く口止めした。

「アクションクラブの仲間たちに佐野原さんの実力のことを決して言わないこと。
言えばビビッて腰が引けてしまうから、良い絵が撮れないんだ。
それからお前達は今のファイトシーンの前後をこれから撮るから、そのままの衣装で道場に入って来い。」

それからが大変だった。渚のファイトシーンに合わせて、6人の立ち位置になるように何回も歩かせた。
竜胆も渚の最初の位置に来るように、床掃除の姿勢から始まってファイトシーンの最初の形までを何度も繰り返した。
それが終わると、6人をそれぞれ倒れた場所に行かせて、竜胆を戦いが終わりすっくと立ち上がるところから撮った。そして一言。

「まだ乱暴する積もりですか?」

「よしカット!」

そう言ったのは辰波だった。井出は弱弱しく抗議した。

「それって、辰波さん。僕の仕事じゃないですか」


「ははは・・そうだった。悪い悪い。」




その後、渚はキャストのみんなに易力拳の動きを伝授することにした。
面白いことに師匠の善翁や五郎たちよりも弟子役の若い連中の方が動きを覚えるのが早かった。
困ったことは鬼瓦の邪拳の動きだった。これは謝老師に相談した。
すると邪拳ではないが、目鼻耳などを攻撃したり、人体の正中線(正面の人間を縦に二分する線。
急所が集中している)への攻撃。頚椎や背骨・腎臓への攻撃は、イメージとして邪拳に見えるかもしれない、とのことだった。
攻撃法としては五本の指先を一箇所に集めて突く方法。手刀・肘・一指拳などで打つ方法などがある。
だが、手指を鷲の爪のように鉤状に曲げて顔面を攻撃するのは獣じみていて邪拳らしいとのコメントがあった。)
要するに邪拳という拳法の型は存在しないが、襲われてもいないのに攻撃の目的で拳を使用すれば、邪拳だということだった。
つまり易力拳流に言えば、拳を使う目的によって正邪が判断されるというのだ。
そんな風で大体易力拳と邪拳の動きは関係者に伝えることができた。



渚が一息ついていると、老師の弟子の岡が渚に耳打ちをしてきた。

「謝老師があなたに秘伝を伝えたいと言ってます」



岡は言った。

「老師は私にもやり方を教えてくれましたが、私はできませんでした。
相手の体に手を当てて、一瞬で相手を突き飛ばす技は一番最初にやりましたね。
それを突き飛ばさずに当てる方法が秘伝です。
見た目は同じでどう違うのかはわかりづらいです。」

謝老師は手ぬぐいを持って現れた。
手ぬぐいを持って手首のスナップを利かせて急に引くとパチンと音がする。
謝老師は手ぬぐいの先を指差して何か言ってる。

「鞭の動きで先端に近い折り返し地点が最も力が加わるところだと言ってます。」

謝老師は頭を指差し手ぬぐいの先を指差す。

「鞭の先端がどこに届くか頭の中でイメージすると言ってます。」

老師は自分の足の先から脛や腿を撫で上げて、腰、腹、胸、そして腕から手首を撫で最後に掌を指差します。

「足の先から掌までを一本の鞭と考えるように。」

そして謝老師は掌から先の空間を指で撫でる。

「そして掌から先に見えない鞭が続いて先端まで伸びていると考えます。」

謝老師は岡の腹に手を当て、もう一方の手で岡の背中よりも後ろの空間を指差します。

「見えない鞭の先端がずっと先のほうだと体がその場所まで飛ぶことになります。
けれども、遠くに飛ばすにはそれだけ力が要ります。
この技は正式にはソンリーチャンと言います。掌の大砲という意味です。」

老師は掌の先の空間を指差してそれをだんだん掌に近づけて行った。

「鞭の先が近くなればなるほど、鞭の動きはすばやくなります。
そして鞭の先が人間や物の中にあるとき、人や物は飛ばされませんが、すさまじい振動が生まれます。
つまり内部を振動させるのです。」


謝老師は自分の体を指差してなにやら喋り続ける。

「例えば鞭の先が相手の背骨にあるとき、背骨が振動します。
内臓にあるとき内蔵が振動します。
相手の皮膚の表面にあるとき、皮膚が振動します。
この技がビエンシェンティという秘伝です。体内の鞭という意味です。」

謝老師はコンクリートの壁に手を当てた。一瞬壁が振動した。

「ビエンシェンティで壁の表面に近いところを振動させました。やってみてください」

渚は壁に手を当てた。
少しずつ試しているとだんだん微かに振動するようになった。
だが老師のようには大きく振動はしない。
岡は老師に何か言われて渚に説明した。

「人体の大部分は水でできています。
その水が振動することにより、体内に直接衝撃を与えることができるのです。
今のやり方で樹木の幹の中心を振動させれば樹木全体が振動します。
それができたら秘伝を修得したことになります。
後は自分で練習してください。老師はそう申しております。」

それから渚は暇さえあれば壁に手を当てていた。




1週間してから土本監督がふらりとスタジオに訪れた。

「どうだ。わかったか。お前達は俺がいなきゃ何もできないんだ。」

そう言った後、井出監督代行のもと、みんなが仕事をしているので、言葉を飲み込んだ。
そして、壁に貼ってある改正シナリオ案を見て、しばらく黙っていた。
そして何も言わずに出て行ってしまった。

それから井出監督代行のもとに土本から連絡が来た。

「あのシナリオで構わないが、一箇所だけ俺の考えを入れた場面をつくりたい。
そのときはまた連絡するから宜しく。」


一方渚はアクションシーンでフル活躍していた。
辰波は、新しい格闘シーンのたびにわざと新しい人間を集めて本気で攻撃させた。
そのたびに渚は易力拳の新しい技を使うようにして見せ場を作った。
ただ秘伝だけは使わないようにしていた。
振動するとどうなるのかわからなかったからだ。
免許皆伝の場面では、実際の自然木に手を当てて振動させ何百枚もの葉を落とすことができた。
謝老師はなにかと渚に教えたがった。渚も撮影の合間に色々なことを教わった。


鬼瓦との対決シーン以外すべてのシーンを撮り終わったころ、ぶらりと土本がやって来た。
彼のことを監督だと思っている人間は一人もいないのだが。

「よう、最後の対決の前にもう一つアクションを入れてくれないか。
その馬鹿ぢからの娘と対決させたい男がいるんだ。
もちろん鬼瓦が用意した刺客という設定でガチ勝負をさせたいんだがいいかね?」

鬼子母神は土本の前に立ちはだかり一喝した。

「あんたねえ、もうこれで最後の最後ってときに邪魔しに来ないでよ。
もう監督でもなんでもないんだから」

「うるせえよ。引っ込んでろ、馬鹿女。」


「な・・・なんだって?」

「アモン出て来い」

すると背後からぬーっと出て来たのはあの筋肉ゴリラのプロレスラー、アモン鈴木だった。
土本は目をぎらぎらさせて笑っていた。

「さあ、見せてもらおうか。カメラを回してくれ。易力拳は女が使っても無敵だってことを証明してもらおう。
おい馬鹿力!倒してみろ、こいつを」


アモン鈴木は大きなテーブルを掴むと頭上に振り上げ、渚に向かって振り下ろして来た。
渚はそれを手で受けるともぎ取って水平に振り回してアモン鈴木にぶつけた。
そんなことができるのは、アモンの記憶ではただ一人。

「プ・・プリンセスヘル!!」

アモン鈴木の目の奥に恐怖の色が見えた。
渚は間合いをつめるとアモンの腹に手を当ててビエンシェンティの秘拳を放った。

「・・・・」

アモンは立ち尽くしていた。目を大きく剥いて口を開けて・・・。
そして数秒間の沈黙の後、骨がなくなったようにぐんにゃりと崩れた。
謝老師が駆けつけて、アモンの体を調べていた。

「1時間くらいは起きられないそうです。けれども後遺症はないそうです。」

岡が老師の説明を通訳した。
だがアモンよりも長く立ち尽くしていたのは土本だった。
辰波が土本に近づいて行った。

「あんたの気持ちは分かるよ。この映画を潰したかったんだろう?
だが、今回は相手が悪い。
この佐野原さんはね、俺もあんたも長年待ち続けて来た本物だったんだ。
竜胆沙希は実に良いスタントマンに恵まれたもんだ。
この映画は悪いけどヒットするよ。」

土本は何も言わずうなだれるとそっと出て行った。
カメラマンの佐藤は誰に言うともなく聞いた。

「今の絵も使うんですか?」

すると渚は即答した。

「易力拳でない部分があったから駄目ですよ。それに秘拳は最後にだけ使うことになっているから」

鬼瓦役の金渕は渚に言った。

「俺にも今の技を使うのかい?」

「大丈夫です。やる真似だけですから。でも今のアモン鈴木さんの反応は参考にしてくださいね」

「う・・うん」

結構コワモテの悪役でしられている彼さえも歯がかたかた鳴って震えていた。
その後、金渕がアモンの映像を何度も見て演技の勉強をしたことは言うまでもない。



辰波の言うように「易力拳少女伝説」はそれなりにヒットした。
だが、熱心にそれを見たのは「リアルファイト」に対してマニアックな人たちだった。
いわゆる華麗なアクションとは一線を画しているため、そういう「花」を望む映画ファンには向いていなかった。
いわゆる「玄人受け」する映画だったともいえる。
また、武術社会は男社会のため、女が主人公で最後まで戦う映画というのはなかなか受け入れられなかった。
その中で収益をなんとか上げられるほどにヒットしたのだから、成功のうちに入るだろう。
実際土本監督が作った今までのアクション映画よりも動員数が多かった。
井出宗助監督は、もう助監督ではなかったし。
五十嵐彩芽はこれを期に武闘会映画部から重用されるようになった。
ただ佐野原逸香というアクションスターはそれ以来姿を消した。
佐野原逸香=プリンセス・ヘルということが知られてしまったからである。



光栄高校の特特待生の魚住弘は、同級生の大井に呼び止められていた。

「このDVD見てみろよ。ほら、前にいたろう?特特待生で目茶目茶強かった奴。
あんな感じでこの女すごいんだ。本物のファイトシーンだから。」

「僕はあんまりそういうのは」

「いいだろう?たまには見れよ、こういうの。あ、それ、コピーだから返さなくてもいいから」

弘は無造作にDVDを鞄に突っ込んだが、ふと大井の言葉を思い出した。

(ほら、前にいたろう?特特待生で目茶目茶強かった奴。
あんな感じでこの女すごいんだ。)

弘は木崎茜のことを思い出した。




「お兄ちゃん何してるの?変なもの見てる訳じゃあ・・」

香が居間に入って来たので、弘は振り返った。

「お前も見てみろよ。この主役。」

「あっ、知ってる。竜胆沙希でしょ。お兄ちゃんの好み?」

「ではなくて、主役のスタントマンだ。早すぎて顔が殆どわからないが、ほらここ」

弘は画像を一時停止すると、格闘シーンの途中で止まった。

「見えないか、ホクロ?左耳の下にあるだろう?」

「あ、本当だ。じゃあ、兼ちゃん?でも死んだよね」

「兼ちゃんが女だったってことは信じるよな」

「うん」

「実は死んでなかったんだとしたら?」

それから弘は自分の疑問をぶつけた。兼ちゃんこと木島茜の遺体を見た者は誰もいないこと。
拳銃で撃たれた箇所が最後まで公表されなかったこと。
破損がひどいというので出棺の際もお別れできなかったこと。
焼いたお骨はその場で納骨されなかったこと。
その後の捜査状況が発表されなかったこと。
なにやら警察権力がむりやり事実を隠蔽しているような感じがするというのだ。

「もしだよ。もしあの中国人が日本人に頼まれて木崎茜を狙ったものだとすれば、警察はそれを公表するのを躊躇うはずだよ。
頼んだ日本人が木崎茜の協力で逮捕された堂島興行の関係者だったら?
木崎茜が警察に協力して逮捕させた奴らに仕返しされて射たれたというのは、警察としては面目丸つぶれだと思う。
それと先月僕は全国模試の表彰式に出た後、西入江町に寄ったんだ。
そしてわかったことは、木崎茜は4年前に遺骨が発見されて今年になって歯型から本人確認されたということなんだ。
お骨は焼かれていたけれど、兼ちゃんの木崎茜が死んだ日の後で青布根市に送られている。
だから今共同墓地にあるのは本物のお骨で、あのときのお骨は入ってないということなんだ。
だって、同じ名前の人物のお骨を2種類入れるのはおかしいだろう?」

「じゃあ、誰のお骨だったの?あのとき焼いたのは?」

「多分、そのときに一緒に撃たれた中国人女性の遺体だと思う。
彼女は間違いなく死んでそれを木崎茜の遺体だと見せかけて焼いたと思う。
僕はあの日の前後にあの中国人女性が火葬場で焼かれたかどうか情報公開を求めたが、そういう事実はないという返事だった。
それじゃあおかしい事になる。
新聞記事に小さく女性の遺骨は中国本土の実家に届けられたと書いてあったから。日本のどこかで焼いたはずだ。
でも青布根市で死んだのに、他所に持って行って焼く必要があるだろうか?
そんなことをしたら輸送の経費がかかるし、そうする意味がない。
だから、あの遺骨は火葬場では木島茜の遺体を焼いたものだとなっているけど、すり返られていたんだということになる。」

「今、兼ちゃんはどこにいるの?」

「きっと首都だよ。
つまりこの武闘会映画部のスタントマンで特別出演している佐野原逸香という女性が、兼ちゃんだということになる。
僕はいつだったか首都動物園で白熊池に現れた野球少女も兼ちゃんだったような気がするんだ。」

「あの・・酔っ払いのおじさんを3mも放り上げて、自分も3mの壁を駆け上ったスーパーマンみたいな人?」

「そうだよ。あれができるのは兼ちゃんくらいだよ。
だから兼ちゃんは首都にいる事は確かなんだ。でも会うことは難しいだろうな。
首都は広いもの。」

そこまで話すと弘は長い溜息をついた。




鬼子母神から連絡が来たのは、映画の撮影が終わってしばらくしてからだった。

「友永幸絵って覚えているかい?」

鬼子母神が車の中で話しかける。

「ええ、サバイバルゲームのとき住民票を貸してくれた道場生の人ですね。」

「あいつがストーカーに会っているんだ。」

「彼女なら相手をぶっとばせばすむことじゃ」

「ところが、気味の悪い奴らしいんだ。尾行されていると思えば、何処にも相手の姿が見えない。
急に現れたと思えば急に消える。」

「忍者みたいな・・・」

「とにかく捕まえることができない。男だというんだが、捕まえてやってくれないか?
今日の夜アパートに帰るとききっと現れると思うから。」

「わかりました。で、それまでは待機ですか」

「とんでもない。そっちの方はついでの用事で、本命の用事がこれからあるんだ。
あんたの腕を信頼して頼むんだが・・・」

その後は言いにくそうに鬼子母神は黙り込んでしまった。

「一体どんなことですか?」

「うん・・・それは・・」

そう言いながら車は般若ジャパンの道場ではなく、大きなビルの前に止まった。

「あ、これ被ってくれ」

鬼子母神はプリンセス・ヘルの覆面を渡した。

「一体何があるんですか?」

「頼むから何も聞かないで言うとおりにしてくれ。もう後戻りができないんだ。」

覆面を被ったまま鬼子母神と一緒に建物の中に入るとそこはどうやらテレビ局らしい。
渚はだんだん不安になってきた。

「これは室長の許可をもらわないと・・」

「頼む。事後承認で許してもらってくれ。私があやまるから。」

「でも・・」

鬼子母神はホールの隅に渚を連れて行くと両手で渚の手を握り、頭を下げた。

「般若ジャパンも火の車なんだ。
私が映画出演したのも道場生たちに食わせるためさ。
あんたが出演してくれれば、これをきっかけに私をテレビでも使ってくれるというんだよ。そうすれば、収入の道ができる。今回だけでいいから、勿論向こうはあんたには破格の出演料を用意してくれてるから。」

「何をするんですか?一体?」


「男のプロレスラーを3人倒してほしいんだ」




スタジオに用意された席には渚を含めて5人の女性が座っていた。
大抵は大人の女性で体格がよかった。
そして全員がプリンセスヘルの覆面をしていた。
そして女性アナウンサーの声が流れた。

「私はプロレスラーを他のプロレスラーから守るボディガードの仕事をしています。
名前はプリンセス・ヘルと言います。」

すると、解答者席からどよめきが起きた。

「ありえないでしょう?!」「まさかですよね」「嘘でしょう!」



                     
それより1時間前。ここは出演者控え室A。若い男のスタッフが喋っている。

「えー出演者の皆さん。あなたたちは『見つけろ本物』という番組の最後3番目に出てもらいます。
だれが本物かはあなたたちにもわかりません。また分かろうとしないでください。
番組では解答者が一つずつ質問します。
それを正直に答えれば偽ものだとばれてしまう場合は嘘をついてください。
後、最後に本物かどうかを試すテストがあります。偽者さんはテストが嫌な場合は途中でやめて構いません。
でも本物さんは最後までやってください。
もし、テストに失敗してしまった場合は本物が本物でなくなるので、罰ゲームが待っています。
あなたの場合は覆面を脱いで歌を歌ってもらいます。そしてノーギャラになります。
成功した場合は予め聞いている出題者の願いが叶えられます。
そして本物さんは通常の3倍のギャラが支払われます。
以上です。私は吉塚徹と言います。何かわからないことがあったら声をかけてください。では失礼します。」

吉塚は、その足ですぐ控え室Dに行った。
そこには恐ろしく大きな男達が三人待っていた。

「えーっと、自由プロレスのアサシン手塚さん、革命レスリング協会の金剛力也さん、最強プロレスのゴーレム大塚さん、ご足労頂いてありがとうございます。
皆さん達は『見つけろ本物』という番組の一番最後のテストに出てもらいます。
出題者は般若ジャパンの鬼子母神さんで、プロレスラーからプロレスラーを守るボディガードが本物かどうかテストする役です。
守られる人は鬼子母神さんですが、あなたたちはとにかく鬼子母神さんをスタジオ上手から下手に行かせないで襲ってください。ベルが鳴ると中止してください。ベルは司会助手の蓮華清美さんが鳴らします。
本物候補は5人います。偽者は逃げるだけの人もいれば立ち向かう人もいます。
けれど偽者の場合は手加減してやってください。
全員女性ですので、気をつけてやってください。
本物は水玉のワンピースを着ています。あなたたちはそれを破ってください。
その下は普通の服を着ているので大丈夫です。まあ、演出ですね。
その後は本気で戦ってください。
プロデューサーによると、多分皆さんたちが勝って、ギャラも事前にお約束した額をお支払いすることになると思います。
けれども万が一皆さんたちが負けてしまったら、ギャラは全部相手の本物さんのものになり、あなたたちはノーギャラになります。
それと、これは秘密ですが、鬼子母神さんはプロレスラーですから多少皆さんが傷めつけても大丈夫だと思いますので、気絶や流血にならない程度にやっつけてください。そうでないとプロレス仲間で慣れ合いをしていると思われますので。」

説明を聞いている男達はいずれも180cm~2mくらいの身長だった。
おそらく3人とも体重は100キロ以上だろう。
鍛え抜かれた鋼のような筋肉、胸板には濃い胸毛が生えているものも。
無造作にガウンを羽織っているが、その下はトランクスタイツ一つだけである。



渚はトイレの中で覆面を外して開けた窓から風を受けていた。
すると隣の男子トイレも窓を開けていたらしく二人の男の話し声が聞こえて来た。

「本当にあの鬼子母神という女はやけくそになってとんでもないガセを持ち込んできたものだ。
ま、そういうわけだから、しっかりお灸をすえてやってくれ。
ケイ峰岡君。司会者の君が舵取りをちゃんとしてくれないとね」

「海舞部長。あの女の願いごとは何ですか?」

「まあ、どうせ適わないとは思うけど、番組のレギュラー解答者になることだってさ。」

「それは大変。ははは。じゃあ、今回の最下位解答者を下ろしてその代わりという条件ではどうですか?」

「それだと天然キャラの呉野愛香がおろされてしまう。
あの子が馬鹿なことを言うから視聴者は自分の方が頭が良いと喜んでくれるんだ。
今回だけは、最下位にならないようにこっそり助けてやってくれよ。
まあ、テストが成功するとは思えないけれどね。」

「因みにこっそり教えてくださいよ。誰ですか、その降りても良いって解答者は」

「大女優の末永理恵さんかな?ギャラは高いし、どうも上から目線で喋るので視聴者の評判はそれほどよくない。あと竹山教授かな。
コメントが堅苦しくって詰まらない。だが、今回はそうならないよ。
それより鬼子母神の罰ゲームを何か面白いことを考えてくれ。」

「どうですか?三人のレスラーに一発ずつ技を決めてもらうってのは?」

「それもいいね。その線で行こう。あいつに歌を歌わせても視聴率が下がるからな」

「それじゃあ、そろそろ行きましょうか?プロデューサー様」


「ああ」


渚はトイレの出口まで出て何気なく二人の顔を確認した。
向こうは全然気づかずにそのまま行ってしまった。
渚が再び覆面を被って部屋に戻ると女性スタイリストが待っていた。
手には紺に白い水玉のワンピースを持っている。

「5番の方、この服をその上から着て下さい。」

「でもジーンズをはいているのでスカートの下からはみ出ます。」

「そうですね。じゃあ短パンを用意します。白いタイツとピンクのスニーカーもね。」

スタイリストは手品師のようにすぐ必要なものをぱっと出して渚に着せた。
ワンピースを着た後、渚はあることに気づいてスタイリストに言った。

「これ、ちょっと仕付け悪いですね。すぐほころんでしまいそうですよ。」

「急いで作ったからそうなのかも。まあ番組が終わるまで持たせればいいから。」

そして本番を迎えた。



「ケイ峰岡さん、きょうの最後はどんな人ですか?」

「蓮華さん、では出題者を呼んでみましょう。どうぞ!」

ゲストゲートに白い霧が舞い上がり、登場したのは鬼子母神だった。
司会助手の蓮華清美は迎えに行った。

「ああ、これは般若ジャパンの鬼子母神さんではないですか」

そう言って出題者席に座らせた。だが、丁寧な扱いはそこまでだった。
司会者のケイ峰岡は馬鹿にしたように笑った。

「鬼子母神さん、今回はとんでもないネタを持ってきてくれたそうで」

「・・・ある意味とんでもないかもしれません。」

「あららら・・認めちゃったよ。で、どんな本物を用意したんですか?」

「プロレスラーを他のプロレスラーから守ってくれるボディガードです。」

「はあっ?そんな人いないでしょう!プロレスラーったら最強じゃあないですか?
もしかして銃かなんかで守るんですか?」

「いえ、基本的に素手で守ります。」

「そりゃあ普通のプロレスラーよりもかなり大きい筋肉マンでしょうね」

「いえ、女性です。体もそんなに大きくはありません。」

「一体何十人で守るんですか?まあ、何百人も肉の壁を作れば可能かもしれませんが」

「・・・一人です。」

「鬼子母神さん。冗談はやめましょう?今あなたが認めれば止めにしますから、残った時間は私のトークでつなぎましょう。
なんせ生中ですから、あなたが全国に恥をさらすんですよ。えっ?止めない?
じゃあ、仕方ない。
それが本物だったらあなたの願いごとを叶えてあげましょう。
願い事は何ですか?」

「・・この番組のレギュラー解答者になることです。」

「ひえーーーっ!!これはきつい。あなたはここにいる6人のうち一人を蹴落として自分がレギュラーになるというんですね。面白い。で、そうでなかったら、あなたはピエロですよ。いいんですか?」

「・・・構いません」

「それじゃあ、こうしましょう。きょうの最下位の解答者を下ろしてあなたを入れることにしましょう。
プロデューサーの海舞部長が約束してくれました。でも、本物が出なかった場合は恐怖の罰ゲームです。
それでは、本物候補の5人が待っている候補席のカーテンを開けて下さい。蓮華さん出題を読んで下さい。」

カーテンが開くと5人の女性が覆面をしたまま椅子に座っている。
渚は5番目の椅子に座っていた。出題が女性の声で流れた。

「私はプロレスラーを他のプロレスラーから守るボディガードの仕事をしています。
名前はプリンセス・ヘルと言います。」

ケイ峰岡は5人の候補者を一通り見回して最後に渚に目を留めた。

「わあー!鬼子母神さん、おいこら鬼子母神!5番目はないんじゃない?
1番から4番もないとは思うけど、もっと違う偽者用意できなかったの?
ああ、時間がなかったから、自分の娘か親戚の子に頼んだのかい。
頭数揃えるために頼むって。
でもね、こういう初めっから偽者だと分かる候補は連れてこないでくれよ。
覆面でよく見えないけどきっと可愛い女の子だろう。
まあ、解答者は初めからこの子を外すから、当たる確率は少しあがるけどね。」

ケイはそう言うと質問タイムに移った。

「それでは解答者の呉野愛香さん、なにか質問してみてください」

呉野愛香は人差し指を額につけて考える様子を見せるが、質問をした。

「あのう・・好きな食べ物はなんですか?」

ケイ峰岡はずっこけてから突っ込んだ。

「愛香さん、ボディガードと食べ物はなんか関係があるんですか?」

「もしかして変わったものをたべてるかもしれないと思って。私はマンゴープリンが大好きです」

「誰もあなたの好物は聞いてない!!では一番の方、今の質問に答えてください」

「ゴボウサラダです。」


「2番の方」「果物類です」

「3番の方」「和食ですね」

「4番の方」「焼肉です」

「5番の方」「・・・・」

「5番の方、好きな食べ物は?」

渚は少し考えてから答えた。

「好き嫌いないので・・・」

これには解答者たちが笑った。


「お母さんや先生にそう言われているんだね。いい子だ」

そう言ったのは竹山教授だった。

「では、小南健一さん、どうぞ質問を」

若いハンサムな歌手の小南は素敵な笑顔で聞いた。

「彼氏はいますか?」


一番から順に答えた。

「います」「います」「いません」「いません」「いません」

「これは小南さん、どうしてこんな質問を?」

「はい、彼氏がいる人なら、そんな危険な仕事をさせないと思うので」

「なあるほど。そうすると、5番の人も有力候補ということになりますね」


「いや、彼女の場合はまだ若すぎていないのでしょう。十分可愛いし」

「では武術に詳しい源田四郎さん、どうぞ」

「たとえば実際に暴漢が来たときどういう技を使って守りますか?一番の方」

「はい、合気道の技で守ります」

「2番の方は?」「急所狙いで・・・」

「3番の方」「キックですね」

「4番の方」「ここではいえません。楽屋でテストする人が聞いているので秘密です。」

ケイ峰岡はハタと手を打った。

「なあるほど、前もってばらしたら技を封じられるから企業秘密ということですね。これは4番優勢だぞ。
では、5番の方」

「・・ええと、その場になってみなければわかりません。」

「いえ、わかりますよ。君は真っ直ぐに逃げた方がいい。では竹山教授」

「うーん、もし君自身が痴漢に襲われたらどうしますか?」

「一番の方」「大丈夫です」

「2番の方」「撃退します」

「3番の方」「もちろん蹴り出してやります。」

「4番の方」「相手の顔を見てからどうするか決めます」

また、ここで解答者席が笑った。

「いい男だったらもう痴漢させてやるって訳?うふふふ」

そう言ったのはグラビアアイドルの霧中杏里だった。

「霧中杏里さん、質問をどうぞ」

「ではみなさん、力瘤を見せて下さい。」

5人が一斉に腕をまくって力瘤を見せる。ケイ峰岡は首を横に振る。

「5番の君、力瘤を見せてって言ったんだよ。ないじゃない。ないものは見せられないよねえ。」

「・・・・・・」

「ケイ峰岡さん、あんた。その子をいびるのはやめな」

そう言ったのは大女優の末永理恵だった。

「その子だって、鬼子母神に無理やり頼まれてそこに座ってるんだ思うよ。
ただでさえ恥ずかしいと思ってるに違いないのに、そうやって構うのはやめたらどうだい。
えーと5番のあんた、年は幾つ?」

「20歳です」

「ほら、ごらんよ。だれでもわかる嘘をつかなきゃいけないんだ。」

「わ・・わかりました。末永さん、今のは質問ですか」

「な訳ないでしょ。私の質問はね。あんたたちはここに来るのに鬼子母神にどうやって頼まれたんだい?」

「一番」「ぜひあなたの力を貸してくださいと言われました」


「2番」「一緒にテレビデビューしようと言われました」

「3番」「あなたを紹介したいので出てくれと」

「4番」「私を助けてくれと頼まれました」

「5番」「ここに来る前に突然頼まれました。」

ケイ峰岡は笑った。

「やっぱりぎりぎり頭数が足りなかったんだ。」

けれども末永が睨んだので、それ以上は口をつぐんだ。


「ええと、それでは解答者の皆さん、本物はだれだと思いますか?呉野愛香さん」


「5番です。なんかとっても可愛いから」

「呉野さん、いいんですか、外れたら最下位になりますよ」

「それは困るな」


「じゃあ、何番にしますか?」

「可愛いから5番!」

「もう日本語通じないなあ!では勝手にしてください。小南君」

「なにか武術一筋って感じがしますので、3番です」

「源田さん、武術オタクとして何番ですか?」

「4番ですね。一番筋肉量が多い感じがします。それも格闘技系の体つきです。
もしかしたらプロレスラーに対抗できるかもしれないと・・・」

「竹山教授は」

「いやね。どうしても答えなくては駄目かね。どだい無理でしょう?
プロレスラーを襲うプロレスラーならかなり強いはず。
それをこの人たちの誰かが撃退するなんてまず考えられないですね。だから、本物はいない方に賭けます」

「なるほど、そう来ましたか。では霧中さん。」

「うーん、力瘤は確かに4番の人がすごかったけれど、2番の人の足がしっかりしていて足腰が強そう。
戦いの基本は足腰だと思うから2番にします。」

「なるほど、では最後に末永さん。」

「私もいないと思うね。実は私知ってるのよ。テストするプロレスラー見ちゃったの、偶然・・。
あの人たちに一人で立ち向かうなんて絶対無理。
これ、プロデューサの意地悪ね。
よりによって最強の人選をしてぶつけ、無理やり偽者にしてしまおうとする意図が見え見えだわ。
だから本物はいないの方に賭けるけど、本当はいるんだよね。
だから可哀そうなことするなよって製作の方に言いたいな。」

「あ・・あのそれじゃあ、以上で締め切ります。
では、5人の候補者は出題者とともに袖の方に待機していて下さい。
お迎えします。3人のプロレスラーです。」

蓮華が3人を紹介した。

「自由プロレス所属、アサシン手塚。190センチ106キロ。
革命レスリング協会所属金剛力也。192センチ 110キロ。
最強プロレス所属ゴーレム大塚。203センチ 123キロ。」

彼らがガウンを脱ぐと逞しい筋肉の塊が現れた。
解答者は驚く。小南健一は首を横に振った。

「無理ですよ。やる前からわかっている。もうこれから変えられませんか?」

ケイ峰岡は満面の笑みを浮かべた。

「残念、もう締め切りです。蓮華君得点の説明をしてあげなさい」

「はい。ただ今の得点は呉野愛香さん0点、小南健一さん1点、源田四郎さん2点、竹山教授1点、霧中杏里さん1点、末永理恵さん2点です。
もし、1番が本物の場合は誰も賭けていないので呉野0、小南1、源田2、霧中1で変わりませんが、偽者に賭けた竹山・末永の両氏がマイナス3点になるので、それぞれー2・-1となり、最下位の竹山教授がレギュラー降板ということになります。」

「だから、ありえないって」

そういって笑ったのは竹山教授だった。蓮華の説明は続く。


「2番が本物の場合は、霧中さんに7点入ります。これは偽者に賭けたお二人の分の点数が加算されるからです。この場合も竹山教授が最下位で降板です。3番が本物の場合は小南さんに7点で、後は今と同じです。
4番が本物の場合は源田さんい7点で、後は同じ。5番が本物の場合は呉野さんに7点はいります。
なお7点以上入るのは番組始まって以来なので、ヨーロッパ一周旅行1週間と副賞100万円が当たります。」

「うわあ、嬉しいわ!!」

そう言って飛び上がったのは呉野愛香だった。早速ケイが突っ込む。
「だから、まだ当たってないし、それにあなたのが一番望み薄。残念でした。」

けれど、呉野はそんな司会者の皮肉など何処吹く風ではしゃいでいた。

「ふー、こんなに幸せな人見たことないよ。蓮華さん、続けて」

「そして、本物が一人もいなかった場合ですが、竹山教授と末永さんに3点ずつ入るので、それぞれ持ち点が4点と5点になります。最高賞の末永さんにはお肌をつるつるに守るナスタチューム石鹸1年分を差し上げます。ヨーロッパ旅行はありません。」

「ひどい!3つとも正解なのに!!」

末永理恵は膨れてみせた。


「なお、今の場合本物がいなかったということで、最下位の呉野さんもレギュラーに留まります。」

「うわあ、嬉しい!じゃあ、どうなっても嬉しいわ」

そう言って呆れさせたのはもちろん呉野愛香だった。
ケイ峰岡は一段と声を張り上げた。

「それではいよいよテストを始めます。スタジオ中央に3人のレスラーさんがいます。
上手から鬼子母神を守りながら1番から順に入場し、見事下手まで行きつけることができたら本物です。
それでは1番から始めて下さい。」


                       
1番の女性が鬼子母神の前を歩きながら中央まで来た。
アサシン手塚が1番を掴まえようとすると、さっと横に飛んで鬼子母神を置いてきぼりにして下手に逃げ去った。

「1番は偽者ですね。従って鬼子母神は守られることはなく、酷い目にあうんですねえ。」

ケイの一言で、鬼子母神はアサシン手塚と金剛力也に両腕を掴まれて、ゴーレム大塚の方に飛ばされた。
飛ぶように走って来る鬼子母神をゴーレム大塚はカウンター気味に喉のあたりをラリアートをかました。

「げほっげほっ!」

鬼子母神が倒れた後咳き込むのを見て、司会者も助手も笑った。

「うわあ、悪役の鬼子母神さんがなんとも気の毒なことですね、あははは」

「今のはしっかり入りましたよね、うふふふ」

金剛力也はさらに鬼子母神を抱え上げてバックブリーカーをかけた。
鬼子母神が転げまわって苦しがるのを、司会たちは笑い転げる。

「そうそう蓮華さん、そろそろベルを鳴らさないと最後まで持たないよ」

「ああ、そうでした。つい忘れてました。」

蓮華はもたもたとベルを取り出し小さく鳴らす。
それでも聞こえないようなのでやっと大きく鳴らし攻撃を中止させた。
その間鬼子母神はヘッドロックやボディスラム、ストンピングなどを受けていた。
ケイは腹を抱えながら引き返して行く鬼子母神に声をかける。

「大丈夫ですか?鬼子母神?すぐ次できますか?」

鬼子母神は大きく頷いて袖に消えた。

「では2番の方どうぞ!」

ケイはすぐ呼び出した。少しの間もとらずすぐにである。
2番の女性がふらふらする鬼子母神を支えるようにして現れたが、すぐ鬼子母神を見捨てて驚くべきスピードで走り抜けて行った。
2・3回鬼子母神が攻撃を受けたので蓮華がベルを鳴らそうとすると、ケイはそれを手で止めてもう少しやらせろと指示した。
1回目と同じくらい攻撃を受けた後、やっとベルが鳴った。
鬼子母神はそれでも自分で起き上がった。
しかし戻ろうとするとき躓いて転んだ。すぐさま司会者達は笑った。

「大丈夫ですかねえ?これでもし本物が現れなかったらどうなるんでしょう?」

「そうですね、時間がないので3番を呼びましょう」


呼ばれて出て来た3番の女性は空手の構えをして、アサシン手塚に立ち向かって行った。
連続の蹴りだがアサシンはわざと蹴らせて全然平気だとアピールした。
しまいには足を掴んで逆さに吊るした。

「ああ、アサシンさん偽者は逃がしてあげてください。ターゲットは鬼子母神ですから」

ケイの言葉に3番を床に下ろすとレスラー達はまた鬼子母神に攻撃を始めた。
鬼子母神はもうふらふらでスープレックスやパイルドライバーを受けて気絶寸前だった。
立ち上がっても千鳥足で真っ直ぐ歩けないので、それが滑稽らしくレスラーも司会者も会場も笑った。
解答者の中にもつらされて笑った者もいるかもしれない。
けれど呉野愛香だけは両手で顔を覆い見ないようにしていた。
ベルが鳴り攻撃は中止になったが、鬼子母神がなかなか起き上がれない。
4番の女性が迎えに来た。そして肩をかしながら袖に引っ込んだ。

「それでは4番の方、どうぞ。どうやらこの人が本命かな?」

袖から怒ったような顔で4番が顔を出した。


「もうちょっと待って下さい。社長を休ませてほしい!」

ケイはニヤニヤ笑い、揚げ足を取った。

「今鬼子母神のことを社長と言ったね、ということは君は般若ジャパンの道場生だな?
社長命令でこのネタに一枚絡んだのかい?なるほど君が本物か?
じゃあ、君だけでも出て来て戦えよ。でも社長も袖から出してくれ。
なるべく社長が休めるように君ができるだけ時間稼ぎをすればいいだろう。」

袖から少しだけ鬼子母神を出して座らせると4番の女性は声を張り上げて突進して行った。
アサシン手塚にドロップキックを見舞い倒すと、ニースタンプをした。
続いて金剛力也にドロップキックをするがかわされて床に落ちる。
金剛はそれを立たるとミドルキックで胸の辺りを蹴る。それをさらにアサシンが背中を蹴る。
二人で代わりばんこに蹴っているうちに4番は倒れる。
それを抱え上げて床に落とし、スープレックスやバックドロップを決める。
二人で4番の両腕を持ってゴーレムの方に投げるとカウンターで2m以上の大男のキックを受ける。
もろに背中から床に落ちた4番は起き上がることができない。
ケイは明るい声を張り上げる。

「あら、本物の最有力候補の4番が倒れてしまったね。
じゃあ、鬼子母神は守ることができなかったんだ。
かわいそうに社長またやられるよ。今度はとどめだね、きっと。
5番はやる必要ないし。」

アサシンが袖に座っている鬼子母神に近づいて行った。
だが、数歩手前で立ち止まった。
渚が鬼子母神を担いで歩いて来たのだ。
90キロ近い体重のぐったりした鬼子母神を両手で頭上に抱えると歩いて来る。
それが半分も体重のない小さな女の子だ。
アサシン手塚が我に返り掴まえようとすると、突然渚は走り出した。
あまりにも早いので3人のレスラーは触ることもできなかった。
下手の方に鬼子母神を置くと、また渚は歩いて戻って来た。
一番近くにいたのは2m以上の巨人ゴーレム大塚だった。
突然渚はダッシュして壁を駆け上がるようにゴーレムの胸あたりまで駆け上がった。
そしてその後真下にストンと落ちる直前、渚はゴーレムの両目を叩いた。
そのときゴーレムも渚のワンピースを掴んで引き裂いた。
ゴーレムの手に破けたワンピースが残り、渚は短パンに色シャツという姿になった。
目を押さえて痛がるゴーレムの股下を前転して潜ると、金剛力也のまん前に来てお腹に手を当てた。
すると渚の体が一瞬ぴくっと動いたと思うと金剛力也の体が飛んだ。
飛んだ場所は6m先の司会者がいたところだ。
ケイ峰岡と蓮華清美は金剛力也の110キロの体重の直撃を受け共に倒れ下敷きになった。
渚はまだ目をこすっているゴーレムには構わずにアサシン手塚に近づいて行った。
そして体を沈めると旋風脚で右足の脛を蹴った。だがそれくらいでは倒れない。
渚はすぐ逆回転させて脹脛側を蹴る。そしてまた逆回転して脛を蹴る。それをすさまじい速さで繰り返した。2秒くらいで3往復の蹴りだった。
アサシン手塚の右足は崩れて倒れた。すると低くなったアサシンの顔に蹴りが入った。
それでもまだ動いているアサシンの頭に手を当てると渚の体がピクンと動いた。
それだけでアサシンはぐにゃぐにゃとなって倒れた。秘拳を放ったのだ。
そのときゴーレムも金剛も持ち直して渚に向かって来た。
渚は低い姿勢で近づいて来たので、二人とも前のめりになって構えてきた。
それを渚は手を床につけてカポエイラの動きで二人の顔を2回くらいづつ蹴った。さらに前のめりになるのを頭に手をかけ膝蹴りで頭部を攻撃した。
二人ともかなりの力で頭部を打ったが、プロレスラーは首を鍛えているので簡単に脳震盪にならない。
それで頭に手を当てて秘拳を放った。結果3人とも秘拳を受けて気絶した。
渚は下手に行くと鬼子母神に肩を貸して出題者席に座らせ、自分は候補席に戻った。
痛む体を抱えてケイ峰岡はマイクを握った。

「それでは驚くべき結果になりました。
鬼子母神・・さんは決していい加減なことを言ったのではなく・・・」

「では、他の本物候補さんたちも席に着いて自己紹介してください」

蓮華清美もふらふらしながら喋るのだが二人の息が合うまでにはいかない。
司会がかなり参っているようなので1番から順に自己紹介を始めた。

「1番、森野洋子、テニス選手です。」

「2番、亀山早苗、陸上選手です。」

「3番、剣淵奈津、空手初段です。」

「4番、烏丸、般若ジャパン所属のプロレスラーです。」

だが、渚は黙っていた。本名を言えないからである。

「あっ!!」

そう突然声を上げたのは武術オタクの源田四郎だった。

「思い出しました。5番のプリンセス・ヘルさんは『易力拳少女伝説』の映画で竜胆沙希ちゃんのスタントマンをやっていた佐野原逸香さんですね。
使っている技や体勢が易力拳だったので!!」

「ああ、そうですか、ちょっと気づくのが遅くて残念でしたね。あはは・・」

だが、ケイ峰岡は元気がなかった。

「あの、すごかったですね。5番の方、なにか一言」

渚は立ち上がると言った。

「どうして・・・・」

「えっ?」

「どうして・・・鬼子母神さんがやっつけられているとき笑ったのですか?今は笑っていないのに。」

「あの・・それは・・・」

「ところで倒れているレスラーさんたちはどうします?」

「スタッフの皆さん、三人のレスラーたちを舞台裏に運んで休ませてやってください。
プリンセス・ヘルさん、気がつかないでどうもすみません。」

なぜかケイ峰岡はもうへらへらせずに神妙だった。
渚は率先して一番重いゴーレムを担ぐと軽々と運んで行った。
他の本物候補もスタッフに手を貸して運んでいた。

「うわあ、嬉しい!ヨーロッパ旅行当たっちゃった!」

突然声を上げたのは呉野愛香だった。
ケイは我に返ったように声をかけた。

「すごかったねえ、5番の本物」

「えっ?愛香怖くてよく見てなかったからわかんなかった。
小南君が私が旅行に行けるよって教えてくれたからわかったの」

「ああ・・・・そうなんだ。」

「5番の可愛い女の子にお礼しなくちゃ。
えーと、プリンセス・ヘルさんだったかしら。私の楽屋に来てね。
マンゴープリン食べさせてあげる」

「愛香ちゃん、もう少し良いものをお礼にあげたら」

「うーん、そんなこと愛香言われてもよくわかんない」

「そ・・そうだね」

蓮華がケイを横でつつく。時間だからまとめろと言うのだ。

「それじゃあ、来週からは新メンバーの鬼子母神さんをお迎えして始めたいと思います。

ああ、そうそう。本物さんにはスペシャルなギャラをお渡しします。」

蓮華が大きな看板プレートに30万円と書いたものを渚に渡した。
だが、渚は提案した。4等分して3人のレスラーにもあげてほしいと。
それは受け入れられ、渚は7万5千円だけ受け取って楽屋に戻った。


渚が呉野愛香の部屋に行くと、呉野愛香は渚に抱きついて来た。

「木崎茜さんでしょ?私すぐ分かったわ。
あなたは二度までも私を助けてくれた。いつか約束したわね。
きちんとお礼をするって、だから副賞の100万円受け取って。
これでようやく恩返しができるわ。」

「呉野さん、100万円って普通の額じゃないですよ、そんなに貰う訳にはいか・・・」

「シー、黙って。私は天然お馬鹿キャラの呉野愛香よ。
今は佐野原さんていうのね?じゃあ、マンゴープリン確かに食べてもらったわ。じゃあ、お元気で。
愛香断られても難しいことよくわかんないから、もう出てってね。」

そういうと、また渚に抱きついてからドアを開けた。
渚はそのまま懐に100万円を入れて出てきた。



車に乗ってから覆面を取り鬼子母神に話しかけた。

「鬼子母神さん、あんなテレビでも出るのですか?」

「君にはわからないよ。折角のギャラを四等分にしてあいつらに分けてやるなんて。そのお金があれば、道場生に腹一杯食べさせてあげられるんだよ。」

「それじゃあ、私の取り分の7万5千円、般若ジャパンに寄付しますか。」

「とっときな。私はあんたのお陰で収入の道ができた。
プロデューサーは睨んでいたけどね。今回はかなりの出費だったろう。
けれども私の言葉を信じないで、番組の中で私を笑いものにしようとしたあいつらが悪いんだ。
佐野原、今回は本当に強引で悪かったね。ところで疲れているところ悪いけど、道場に寄ってくれないかい?」

道場に着くと道場生が全員玄関で待っていた。

「社長、おめでとうございます。」「木崎さん、ありがとうございます。」

「おいおい、木崎さんじゃなくて佐野原さんだ。間違えるなよ。早速お祝いの乾杯をしようじゃないか」

鬼子母神の一言でみんな歓声をあげた。
例のごとくみんなジュースで乾杯して焼肉を食べた。
友永幸恵が渚の隣に座った。

「ストーカーに遭ってるんだって?」

渚が聞くと友永は頷く。そして時計を見る。

「いつもこの時間に帰るんだけど、必ず現れるんだよ。
すばしこい奴で、私に挑発してるように見える。
どうだ。俺はこれだけ速く動けるんだぞ、みたいな」

「行こう。そして、掴まえて戻ってこよう」

渚は友永の手を引っ張って外に出た。
まもなくその男は現れた。姿を見せた後ぱっと消えるように立ち去る。渚は追った。
その男はフリーランニングのような動きで塀の上や障害物を乗り越えて走り回る。
いつもは友永の行く先行く先を先回りして姿を現すのだが、今回は渚が先回りして掴まえた。

「離せ!何者だ、お前は?」

「それはこっちが聞きたいね。とにかくついておいで」

道場に連れて戻ると意外と小柄な男で165cmくらいの20代半ばの若者だった。
焼肉を食いながら鬼子母神が男の肩に手をかけて聞いた。

「名前は?」

「あ・・・荒川翔です。」

「何で、ストーカーしてんだよ?友永なんて大した良い女でもないのに」

「伝説のサバイバーだからです。
無人島マンハントゲームで最後まで生き残った人なので、その人よりすばしこく動けることを証明したくて。
でも、全然追いかけてくれないし、相手にしてもらえなかった。」

「馬鹿だねえ、あれは友永じゃないよ。名前を貸しただけなんだから」


「えっ?そうなんですか?じゃあ、優勝したのは?」

「お前を捕まえた人だよ。」

荒川翔と名乗った男は、驚いて渚を見た。

「まだ若いじゃありませんか?」

「だから名前を貸したんだよ。成人でないと参加できないからね」

「お名前をぜひ」

「駄目だよ。今度こっちをストーカーする積もりだろう?
だけどお前みたいなのはすぐ掴まって酷い目にあうよ。
この人は普通の人じゃないんだから、関わらない方が命が安全だというものだ。」

「は・・はい」

「行きな、もう。見逃がしてやるから」

「はい、す・・すみません」

荒川翔は急いで道場から逃げて行った。その後を道場生の笑い声が追いかけた。
そうやって、その日は渚も楽しく過ごした。

        



相原香苗室長は防犯室のソファーに凭れていた。
横に紅茶のカップを持った渚がいる。

「あのね、深庄。『見つけろ本物』への出演は、騙されて連れて行かれたとはいえ、私が許可してないことだからね。」

「はい」

神妙に答える渚に室長は少し微笑んで続けた。

「そう言っても、こうも窮屈だと、早く解放されて自由になりたいと思うだろう?案外その願いが来期に叶うよ。
春になったら私警視庁に行くから。」

「ええ?!」

「そう驚くことないよ、私達は行ったり来たりしながら箔をつけていくんだから。といっても階級はそのままだけどね。で、後任の室長も決まっている。
男だよ。そこで引継ぎだけど正直に言えない事がある。
深庄は1年もここにいないけど、書類上は5年半いることになっているんだ。
つまりアメリカに行った本物がそのままここで勤めているという処理をしてきたの。
あとで本物のデータをプリントアウトして渡すから、しっかり覚えておいてね。
で、問題は身長の記入のところが170cmになっているから、それを改ざんしてある。
体重は56キロになっているけど、ダイエットして痩せたことにすればいい。
問題は忍法の修行をしてきたことや、施設にいたこと、不良グループの頭だったことについては、なるべく話題にされるのを避けた方がいい。
だって、知らないことだものね。」

そこで渚にさっさと紅茶を飲めと手で促すと続けた。

「それと、今度の男は頭が固いから、アルバイトの斡旋もしてくれないし、報奨金についても無頓着だから、今までと同じ積もりでいたら忽ち飢え死にすることになると思う。
だから、契約規定も手をつけて書き換えた。公文書偽造だね。
つまりあんたはボランティアの協力員であり、それとは別に自分の仕事がある。
だから仕事に支障がないときは協力するがそうでないときは断れる。
もし報奨金が貰えなかったら気分を害して、その次から仕事を断ってもいい。
そういう自由な立場にしておいたから。わかるね?
もし、警察補助員そのものを辞めたいときは、そのことを申し出れば受理されるようにする。
何か質問は?」

そう言われて渚はしばらく考えてた。

「あの、そうすると私がここに来た経緯は?」


「全く知らないことになってるよ。
知っているのは警察庁長官とあんたの知っている部長ともう一人の警視正だけ。」

「わかりました。それじゃあ、佐野原逸香としてアクション映画にでも出してもらおうかな?」

「おっと私がいるうちは駄目だよ。勝手な判断は。
ところで仕事が入った。これから北部地方の江差万町」に飛んでもらう。」

「な・・・なんですか今度は?」

「前に話したろう。SPの補助員の仕事もあるって。最重要人物の警護の仕事が入ったの。
ところで、雪は初めて?」

「は・・はい。」

渚は暗い顔になっていた。なぜなら彼女は寒がりだからだ。
それに、渚はSPの補助員は7・8回も経験していることになっていると聞かされたからだ。




絵差万町は昔カワウソが沢山住んでいたらしく、町名もそこから来ているとバスガイドが説明していた。
ガイドは熊の子供は虫のように小さいのだと言う話や、地元の歌などを歌って聞かせたりして、観光バスでもないのに親切だなと渚は思った。
バスの中はヒーターが利いていて、思い切り厚着をしてきた渚は暑くて眠くなっていた。
だが、バスから降りたときはもっと厚着をしたくなるくらい寒かった。
雪は上から真っ直ぐ降るものだと思っていた渚は裏切られた感じだった。
斜めに線のように見えるのが雪で、一粒一粒離れて見えるのではなかった。
そしてたまに風で煽られて地面から雪煙が舞い上がる。
それが鼻の頭に当たるとツーンと痛くなる。涙まで出て来る。
これは大変だと思った。マスクをするとマスクが息で濡れてその後凍る。
自分の息が真っ白に見えるのも初めての経験だった。
渚は本当に自分の境遇を呪った。15歳の少女が無理やり20歳と偽って、外国の知らないおっさんを守るために見知らぬ極寒の地に追いやられる。
ベテランでもないのにベテランということになっていて、雪国経験もばっちりということになっている。
人のことなど守っている場合か!だれか私を守ってほしい。
そんなことを考えながら雪道の坂を何度も滑りそうになりながら登って行くと、
やっと山頂のホテルについた。

なぜバスはここまで来てくれないんだ?他の人は車で登ってきているのに!
それに途中で何度も警察官に止められてそのたびに身分証明書を提出するのにはうんざりした。
エジンバラホテルの入り口で身分証を出すと支配人室に呼ばれた。
目が大きい痩せた男が出て来て、渚の全身を何度も見ながら首を傾げた。

「深庄渚さん?あなたは本当に20歳なんですか?
私はお客を相手に何十年も仕事をしているけれど、どうみても14・5歳にしか見えないんだけれど。」

渚は相手の胸の名札を見てから答えた。


「支配人の余市屋伸輔さん。私この正月成人式に出て来ました。
これがその写真です。それでこれが運転免許証です。
これが名刺で警察補助員という仕事で来ているんです。
私は子供に見えるので、特別任務に適しているということで採用されています。」

余市屋は写真と免許証だけ返して名刺はポケットに仕舞った。


「あなたは雪国に何度も勤務に来ているとのことでしたが、ここに登って来るときの歩き方。
やたらに着膨れした、その着こなしを見てもどうもそうとは思えないんですが
・・また、運転免許があるようですが、冬道の経験はおありですか?」

余市屋の鋭い指摘が刃物のようにグサリグサリと突き刺さり、渚は涙が出そうになった。

(そうですよ、あなたのいう通り私は15歳の無垢な女の子で、免許なんかないし雪の中を歩くのも初めてなんです。)

よほどそう言ってやりたかった。けれども用意していた答えを言わなければいけなかった。

「やはり何回か来たくらいでは雪国の厳しい自然にはなかなか慣れることは難しいです。
雪道運転は殆どありませんが冬タイヤの車だったら、ゆっくり運転すれば下の町まで行って帰って来れると思います。」

「その分じゃあ、スキーもできないでしょう?」

「それは仕事上必要でしたら覚えます。
誰かに1時間も教えて頂ければ、後は自分で練習して1日くらいでこの山を駆け巡ってみせます。」


「一応私はあなたの正体を知っていますが、他の従業員は知りません。
今回のVIP訪問で人員は不足してるので、あなたにも臨時の従業員として働いてもらいます。
これから同僚に紹介しますが、あなたは新参者なので先輩たちの言う事をよく聞いて真面目に働いて下さい。」

そういうと支配人は従業員待機室に渚を連れて行った。
予め召集がかかっていたらしく、15人の制服を着た従業員が待機していた。
水色の制服が4人、紺色が10人、ベージュ色が1人。全員女性だ。

「全員はいないと思うけど、いない人には教えておいてください。この人は深庄さん。
子供に見えますが20歳です。清掃係りに入ってもらいます。
制服は水色のを着てもらいます。
こっちの方には慣れてないみたいなので教えてやってください。
顔をしっかり覚えておいてください。では後はよろしく。」

支配人が出て行くと他の色は出て行き、水色の制服が4人残った。
4人は顔を見合わせてなにやら笑った。一番年長らしい女が渚に言った。

「私達は部屋以外の場所の清掃担当だ。あんたにはトイレをやってもらう。
一応5・6・7階のトイレ掃除ね、やり方はこのマニュアルに書いてあるから。」

「はい」


ロッカーを割り当てられ、支給された制服を着て、マスクをし、5階の男子トイレから始めた。
清掃中の立看を入り口に置いてプラスチックグローブをはき、バケツに水を入れて洗剤をつけタイル床をデッキブラシでこする。水で流してモップで水をふき取る。
個室も同じように床はこすってふき取る。便器は専用ブラシでこする。
縁は拭き取り、中は水で流す。
そして小便器も専用ブラシでこすり、縁は拭き取り中は流す。
汚れが落ちない場合は薬剤を使う。鼻につく強い薬だ。
同じように手洗い場も磨いて拭く。手洗い用洗剤を補給して鏡をクリームクレンザーで磨いて曇りを取る。
後はトイレットペーパーの補給をする。
掃除用具をきちんと揃え、窓も拭く。
ついでに個室の壁やドアノブも磨いた。
いつの間にかマニュアル以上のことをして渚は仕事に夢中になっていた。
石田村にいた頃は泊まった家の掃除はいつもしていた。
中でも大事なのはトイレと台所だ。
一つを掃除すると後の5箇所は要領が良くなってスピーディにできた。
それがその日に割り当てられた仕事だったので、渚は着替えて外に出てみた。


「何をやってるんですか?」

そこにはあの支配人が立っていた。
それで仕事が終わったので外を見学していると答えると、5・6・7階のトイレを一緒に見に行くと言った。
支配人は個室のすべて、便器のすべて、手洗い場の状態や鏡まで見た。
最後に掃除用具入れを見て、違う階にも行った。
全部見た後、時計を見て支配人は渚に言った。

「深庄さん、この短い間にこれだけ綺麗にしたんですか?よろしい。あなたは自由時間にして宜しい。
午後からまた別の仕事の指示があります。」


渚は坂を下りて町のスケートリンクに行った。
スケート靴を借りてへっぴり腰で柵に掴まっていると、若い男の子が声をかけて乗り方を教えようとしてくれる。

「ちょっとお辞儀をするようにして、膝は緩める。
それでまず片足ずつしっかり上げて歩いてごらん。
氷についている方の足だけで立つ積もりで。そうそう足が開き過ぎないように引き寄せて・・・。
もう一方の足を引き寄せてから真横に出す。
出した足を氷につけて反対の足を真横に氷を蹴りながら引き寄せる。
転びそうになったらしゃがんじゃえばいいよ。そうそう」

そんなことを言われながら1周もすると、滑る要領がわかってきた。

「君足首がしっかりしてるね。
最初は足首がぐらぐらしてバランスが保てないんだけど、君は大丈夫だ。
それとスケート靴の紐の結び方がおかしいので直してあげるよ。」

「ありがとうございます」

「なにいいんだ。聞きたいことがあったら、声をかけて」

そういうとその男の子はすいすいと滑って行ってしまった。
かなり速いスピードなのでフォームを真似て低い姿勢を保つようにするとだんだん速くなって来た。
だが、コーナーでの滑り方がよくわからない。コーナーで待っていて、男の子に声をかけると止まってくれた。

「もうコーナーリングを覚えようとするなんて、すごい進歩だね。
いいよ、真ん中に行って足運びを練習しよう。」


足運びをして見せながら男の子はまた説明する。

「左へ左へと横歩きする感じだよ。
そのとき右のインエッジと左のアウトエッジをしっかり氷にくいこませてスリップしないようにすること。
当然左側に体が傾くね。
そうしないと遠心力で体が右側に持っていかれるから。じゃあ、実際にコーナーでやってみよう。」

それでコーナーでやってみると意味が分かった。
スケートは動くので横歩きの積もりでもきちんと曲線に沿って滑ることができるのだ。

「あの、ありがとうございます。ここのコーチをしているんですか?」

「違うけれど、コーチに教えてもらったことと同じ事を教えただけだから」

男の子はにっこりと笑うとまた滑ってどこかに行ってしまった。
気がつくと、その男の子は今度は小さな男の子に滑り方を教えていた。
人に教えることが好きないい人間に出会ったのだと渚は思った。
年齢は渚と同じくらいだろうか。だが名前も聞かないしもう会うこともないだろうと思った。
滑るのが面白くなってどんどん滑っていると後ろから追いかけて来る声が聞こえる。

「頼むから止まって!速すぎるよ」

さっきの男の子が息を切らして追いかけて来た。

「君、僕をからかっていたのかい?本当はスケートの選手だろう?
競技用の滑りはここじゃ危ないから、スピードを落としてほしいんだ。
ほら、みんな怖がっている。」

「あっ、ごめんなさい。でもきょう初めて教えてもらったから騙したりからかったりしてません。」

「そうか・・だとしたら君はすごい筋力だね。決してそうは見えないのに。
今の半分くらいのスピードにしてくれれば大丈夫だと思うよ。
ごめんね、疑ったりして。それじゃあ」

男の子はまた滑って行ってしまった。必要なことしか喋らない子だなと思った。
貸し靴を返して帰ろうとしたとき、ロビーで例の男の子が自動販売機のカップラーメンを食べているのが見えた。

「さっきはありがとう」


渚が礼を言って去ろうとすると、男の子は呼び止めた。

「もしかして雪のないところから来たのかな?」


「そうです。だからスケートは初めてだったんです。」

「そうか、すごいな。覚えるのが早いもの。驚いた」

「あの・・・スキーできますか?」

「もちろん。人並みにだけど。覚えたい?」


「あ、はい。」

「きっと君ならすぐ覚えるよ。ええと」

「深庄渚って言います。」

「ああ、僕は山本功っていうんだ。この近くに住んでる。
簡単なスキー場が近くにあるから、貸しスキーもやってるし、いつでも教えるよ。」

「ええと、私ホテルに戻らなきゃいけないからまた出直します。どこに行けば?」

連絡する場所を聞いて渚は山本少年と別れた。


山頂のホテルへは、降りるときは素通りさせてくれたのに登るときは検問が厳しい。
いい加減に顔を覚えてほしいと思った。
ホテルに戻ると、すぐ制服に着替えた。
痩せたぎょろ目の支配人の余市屋がすぐ飛んできた。

「深庄さん、ベージュの制服を着てベッドメイキングをやって下さい。
あなたの上司からの命令で、あらゆる業務をこなせるようにしてくれと。」

「はい・・・ありがたい上司で」

だが、最後の方は聞こえないように言った。
まだ肝心のVIPが来るのは1週間も先なのにどうしてこんなに早めに準備しなきゃいけないのかと渚は不思議だった。
石田村ではお祭りの準備だって3日前からだったというのに・・・。
ベージュの服を着て仕事場に向かう途中、清掃係りの先輩に会った。

「おやおや、猛スピードでトイレ掃除が終わったと思ったら、今度は部屋廻りの仕事かい?こき使われるねえ」

仲間と笑いながら通り過ぎて行き、背後からまた声をかけた。

「明日は廊下やホールの清掃やってもらうけど、あんまり今日みたいに速くしない方がいいよ。
休み休みやるんだよ。」

渚は頷きながらそれに応えたが、きっと守れない気がした。
さっさと終わらせることができるものを長引かせて仕事する意味が分からないからだ。
先輩にベッドメイキングの方法を教わって共同作業をして行ったが、渚はすぐ要領を覚えたので後は1人で廻ることにした。
とりあえず20部屋終えて控え室に戻るところを、またしても支配人が来て仕事をチェックした。

「仕事を覚えるのが早いね。きょうはもういいよ。ところで昼食はとったのかな?」

「いえ、そういえばまだです。」

「レストランにいけば、従業員用定食を出してくれるから。必ず名札を見せること。それじゃあ。」

「あの、もう仕事がないのですか?」

「君ならまだまだできるとは思うが、きょうは初日だし少し骨休めするといい」


「はい、ありがとうございます。」

「従業員は基本的に通いだが、君はここに泊まってもらう。これが鍵だ。
狭い部屋だが滞在中は我慢してくれ。」

「はい」

そういう訳で渚は再び山を降りて山本少年と連絡をとった。



「ずいぶん早く体が空いたんだね」

「うん、折角だからスキーも早めに教えてもらおうと思って」

「君才能があるからきっとすぐ覚えると思うよ」

貸しスキーのところで靴やストックを見て貰っている時に
山本少年より年長の感じの若者たちどやどやと入って来た。
他のお客さんのことなど気にもせず大声を張り上げ、大きな音を立てて騒いでいる。
スノーボードを持って来ているようだが雪のついたボードを平気であちこちに散乱させている。
渚はその様子からすぐどんな種類の人間かわかったが、今は関わらないようにしていた。
だが、そのうちの1人が山本少年に声をかけた。

「おう、お前は山本の功じゃあないか?女連れか?もう・・・」


なにやら下品なことを口にして渚の方をぎらぎらした目で見てきた。

「行こう」

渚は山本を促すとそこを出た。彼らはしばらく二人をなにやら囁きながら見送っていたが、リフトの方に向かった。

「まず最初は下の方の緩やかな斜面で練習しよう」

山本は準備体操から始め、スキーをはいたまま回れ右の仕方などを教えた。

「ボーゲンというのを覚えよう。八の字にしてスキーの先を縮める。
膝は緩める。インエッヂを立てて軽くブレーキをかけながら滑り降りる。
そうそう。右のインエッヂに力を入れれば左にまがる。逆なら右に曲がる。
90度曲がれば斜面に垂直になるから止まる。
今右側を向いているから右足が斜面の上の方にあり、左足が斜面の下の方にあるね。
このとき右足を山足、左足を谷足っていう。向きが逆なら左右逆になるね。」

最初は足がばらばらの方向に行ったり転んだりしたが、すぐ乗り方を覚えた。

「じゃあ、ボーゲンから左右に曲がるとき途中で板を平行にしてごらん。
ほら、またボーゲンにして反対カーブ。途中で板をそろえる。
これがシュテム・ターンだよ。 って、すごいな。もうできたの?」

スキーを平行にするとスピードが出てくる。

「ここはリフトを使わないから自力で斜面を登る。
深庄さんは関節が柔らかそうだから、逆八の字にして登るといい。」

渚は上に向かって登っているうちに力を込めて雪を蹴るようにした。
すると斜面をまるでスケートを滑るように登って行った。

「驚いたなあ。坂を登るのにスケーティングして行くなんて、初めて見たよ。
深庄さんってすごくバネがあるんだね。」

「さっきの男の人たちがこっちに向かって来るけどどうします?」

「リフトに行こう。あいつらには関わらない方がいい。」


たった今まで二人がいた場所にスノーボードの若者たちが雪煙をあげて突っ込んで来た。
話し言葉より1・2オクターブ高い奇声をあげて、その場所に固まって二人を見ている。
そして彼らもリフトの列に加わり後から乗って来た。

(スキーをはいてなければ締めてやるところだが・・)


渚がこんなこと心の中でつぶやいているとは誰も気がつかないだろう。
上まで行くと山本に伴走してもらいながら、ボーゲンとシュテム・ターンを混ぜながら滑り降りて行った。
もちろんゆっくりとである。
途中でスノボーの若者たちが前をすれすれに横切ったりして、ハエのように付きまとう。
それで渚はスキーを平行にしてスピードを上げて行った。

「危ないよ、直滑降は!スピードがですぎる。」

渚は板を平行に保ったまま左右にカーブさせた。

「パラレルターンだ。それ今やってるのはパラレルターンだよ。
それを小刻みに連続させればウェルデンだよ。そうそうその通り。驚いた。
なんでもすぐ覚えるんだから」

そうかこれがウェルデンか、と思った瞬間にスノーボードが前を横切ったために、渚はバランスを崩して転倒した。
結構斜面がきつかったので、渚は何回転も廻ってから止まった。

「危ないじゃないか!」

山本が怒っている声が聞こえた。そしてすぐ傍に来て声をかけた。

「深庄さん、大丈夫かい?骨が折れたんじゃあ・・」

というのは、渚がアクロバットのような不自然なねじれた姿勢で倒れていたからだ。
だが、渚は手足を元通りにして立ち上がった。

「大丈夫。私、体が柔らかいから平気だよ」

そしてまたウェルデンを始めた。だが、また別のスノーボードが左から突っ込んで来た。
まん前でブレーキをかけ雪煙をわざとかけてくるのだ。

「やめろ!危ないじゃないか」

山本の叫ぶ声が聞こえる。渚はボーゲンに形を変えた。
するとスノーボーダーたちは先に行ってしまった。減速したからだ。
だが、ちょっと先に止まってこっちを向いて待っている。

「山本君先に行ってるね。」

「えっ?」

渚は直滑降の形にした。そして真っ直ぐ彼らの間を通過した。
すぐ彼らが追いかける気配がした。だが、渚はとんでもないことを始めた。
体を極端に前傾してスケーティングを始めたのだ。
ほんの4・5回雪を蹴っただけで恐ろしいスピードになった。
その後直滑降で滑ったが息ができないほど風圧がすごかった。
後ろの方でスピードに追いつけなくて転倒する音が聞こえた。
ちょうど目の前に小さなジャンプ台があり、子供たちが3・4mジャンプするのに使っていた。
渚はそこをジャンプした。
真似をしてジャンプし転落した男の悲鳴が聞こえた。
着地して待っていると、少ししてから山本が追いついて来た。

「まったく・・・斜面の下に向かってスケーティングするなんて・・・君は
驚くべき人だね。それだけじゃあない。
あの悪連中、あちこちで転んでいるけど、全員ぶっちぎるなんて!
そしてあのジャンプ台いくらがんばっても5・6mが限度だっていうのに・・20m近く飛んだよ。
君はオリンピックに出れるよ」

「あの連中、山本君にいちゃもんつけてこないかな?」

「いいよ、僕は。それより深庄さん、スキーを返したら早く逃げた方がいいよ。
あいつらコケにされたと思ってるからきっと・・・」

「良くないよ。もし山本君があいつらにやられるようなことがあったら、申し訳ないもの」

「大丈夫だよ。僕は土地の者だし殺されることはない。でも、君は女の子だから何をされるかわからない。
早く逃げて」

「わかった。逃げるよ。ごめんね。でも山本君も今すぐ逃げて」


           
スキーを返した後二人は急ぎ足で歩いた。山本少年は気が気でない様子で言った。

「駄目だよ。僕と一緒にいたら、僕は深庄さんを守れない。だから先に逃げてほしいんだ。」

「雪のない路面はないかな」


「えっ?」

人通りの少ない田舎道で渚は立ち止まると、山本少年に言った。

「少し先で待ってて、片をつけるから」

「何を言ってるんだい?ほらもうあいつらこっちに走ってくるよ」

「山本君が私を守れなくても気にしないで。私は私を守れるから」

そういうと山本少年を前に突き飛ばした。
そっとやったのだが、雪の路面をすべって山本はカーリングのように10mも滑って行った。
そのときばらばらと足音が乱れ、渚の周りに7人の若者たちが追いついて来た。

「なにか私に用ですか?」

渚は静かに尋ねながら彼らを観察した。
赤いダウンコート、黄色いダウンコート、ニット帽、ミラーのゴーグル、顎ひげ、茶髪、耳にピアス。その7人だ。

「お前結構やるじゃないか。つきあってもらおうか」

顎ひげが言った。

「断るよ。」

「お前断る立場にないだろう?どうやって俺たちから逃げる積もりでいるんだ。」

「言っておくけど、逃げるのは私じゃないよ」

「はあ?」

「今のうちだよ、おとなしく家に帰れば許してあげる」

当然の反応だが彼らは笑った。この女は顔は可愛いが頭がおかしいと。

「もう行くよ。止めたらただじゃすまないから」

渚は前に歩き出した。
11時に顎ひげ。1時に耳ピアス。2時に赤コート。3時にニット帽。4時に黄コート。7時に茶髪。
9時にゴーグルがいた。

「おい!」

顎ひげと耳ピアスが両肩を掴んで来た。
その手首を掴むと渚は逆上がりのように足を上げて二人の後頭部を蹴った。
そしてまた体勢を戻すと手を離し歩き始めた。
二人は渚が通り過ぎた後その場に倒れた。

「こ・・このやろう!待て!」

成り行きに驚きながらも、赤コートが右側から掴みかかって来た。
その片手を左手で掴むと、右手をお腹に当て、ひょいと担いで左側に放り投げた。
ドシンと圧雪の上に落下しうなり声が聞こえた。
渚は歩きながら言った。

「さわると怪我するよ。あと4人だね」

「くらえ」

右からニット帽がスノーボードを振りかざして襲いかかった。
ほぼ同時に左からゴーグルがボードで叩いて来た。
背後からもボードを持って襲い掛かる気配が。
渚は後方転回の形になってブリッジのように後ろに反って両手を路面に着くと左右から来たボードを蹴り上げた。そして側方転回して、背後からの攻撃を避けた。遠くの方に渚が蹴り上げたボードが落ちる音が聞こえた。
渚が立ったとき、10時の方向に茶髪と黄コートがボードを構えていた。
そして7時あたりからニット帽とゴーグルが襲いっかった。
次の瞬間渚の体が急に消えて四人とも転倒した。
渚は体を沈めて旋風脚で下腿部を薙ぎ払ったのだ。
ボードを持っていた茶髪や黄コートが転ぶときに打ち所が悪かったらしい。
「そう言う物を振り回すと却って危ないよ」
まだ立ち上がって来ようとするニット帽とゴーグルに渚は言った。

「今倒れている人をそのままにしていたら凍死するかもしれないよ。
そういうことも考えて、もうやめたら?」

「お前は一体何者なんだ?」

「あなたたちを暴行未遂の現行犯で逮捕できる立場の人間だよ。
見かけで判断しないで、結果を見てよく考えてほしいな」

「警察関係か?」

「あたり。あの子に手を出したらもう見逃さないから覚えておくようにね。」

そういうと、渚は歩き出した。
あっけにとられて見ている山本少年を立たせて、肩に手をやると笑った。

「もう大丈夫。きょうは沢山教えてくれてありがとう。」

渚は振り返らずに山頂のホテルに向かった。
さすがに今度は警察は顔を覚えたらしく、顔パスで通れた。




次の日渚は百万円以上もする自動床洗浄機を片手で持ちながら割り当てられた各階を磨いて廻った。
障害物はすべて手でどけて磨いた後元通りに戻す。
洗浄機は両手で持たないとコントロールが利かなくなるのが常識だが、渚は片手でこなすので作業も早い。
その後、彼女は率先して階段掃除をした。階段や手すり途中の壁にある額縁を拭くなどして廻った。
特に踊り場の高い窓の下の棚状になった部分なども埃が溜まっていても気づかれない場合が多く、そこも丁寧に拭き取った。
これは一階から屋上までの階段をすべて行った。
そして支配人を呼び止めて、幾つかの 品物を見せた。

「ダイヤの指輪だと思いますが、7階のフロアで見つかりました。掲示板の下にありました。
それと、階段に飾っていた額縁の上に真珠のイアリングが片方だけ載ってました。
後、7階と6階の踊り場の窓の下の凹んだところにこれが載っていました。」

最後に渡したのはUSBメモリーだった。
支配人の顔が見る見る青ざめ額から汗を出した。

「こ・・これは。先月スイートにお泊りのお客様が酔ってどこかに落としたと騒いでおられたダイヤの指輪に違いない。あの場所は何度も掃除しているのに何故見つからなかったのだろう?」
「掲示板が重くて掃除のときによけられなかったからだと思います。
私は力があるのでできましたが」

支配人はイアリングを見て首を傾げた。

「届出はなかったが、確かどなたかのお客様がしていたイアリングのような気がする。はて、どなただったか?」

最後にUSBメモリについては全く記憶がないと言った。

「一応他の二つは拾得物のリストに入れて問い合わせがあったら答えられるようにしよう。
ダイヤの指輪はすぐお客様に連絡しよう。深庄さんお手柄だ。」

その日の夜、従業員が帰る前に召集され、深庄のお手柄を紹介した。

「社長じきじきの指示で社長賞として金一封が出る。はい、おめでとう」

後で中身をみると3万円が入っていた。
それから支配人は従業員たちに説明した。


「深庄さんは最初は清掃関係をやってもらっていたが、ベッドメーキングも経験してもらった。
数日後のVIP訪問に備えて応援に来てもらった人材だが、接客の方も応援してもらう予定だ。
短期間の応援だから先輩たちは仕事を要領よく教えてほしい。
清掃やベッドメーキングについては先輩の指導がよかったので、大変覚えやすかったと言っている。
特に清掃係りの皆さん、おかげさまで紛失物は見つかった。
大変感謝している。」

実は支配人が清掃係が今まで何をしていたんだと叱る積もりでいたのを、渚のたってのお願いでこういう風に言わされたのだ。
清掃係の4人は額から汗を出して作り笑いをし、渚に愛想を振りまいた。
大事に備えて内部に敵を作りたくなかったのだ。



いよいよ2日前になったとき、警視庁からSPが来た。
彼らが来たときちょうど渚は水色の制服を着てロビーの床を磨いていた。
5人の男性に1人の女性で、6人とも黒いスーツを着ている。
背が高く女性も170cm以上ありそうだ。男性は平均180cmといったところか。
スーツの下は防弾チョッキでも着ているのだろうか。
また、スーツの下は拳銃が忍ばせていると見えて上着のボタンははずしてある。
まっすぐフロントに向かうと代表者らしい顔の四角い男性が口早に言った。

「我々は警視庁警備部警護課の課員である。支配人に会いたい。」

渚が床清浄機を回しながら近づくと女性課員に睨まれた。
慌ててスイッチを切って立っていると、また睨んだ。

「そこで何をしているんですか?」

「いえ、ちょっと疲れたから立ったまま休憩を・・」

「少し離れた所で休んで下さい。」

「いえ・・私は・・」

「早く!」

仕方なく10mくらい離れて渚は立っていた。
女性課員はあくまで警戒している。隣の課員に囁いているのが聞こえる。

「あんな子供がここにいること自体、ここの警備状態おかしいと思います。」

そこへ余市屋支配人が現れた。

「防犯関係で一番詳しいものを呼んで下さい」

そう言われて支配人は渚の方に指をさした。

「それなら、あそこに」

女性課員をはじめ、SPたちは呆気に取られて渚を見た。




小柄な渚の後ろを屈強の男女が6人ついて行く。渚は説明する。

「これが3番目の非常口です。侵入経路にも逃走経路にもなりえます。」

「しかし、この山頂のホテルでは、途中で警察が網を張っているから、実際に侵入は無理ではないか?」

「夜の闇に紛れて登ってくれば侵入可能です。逃走の場合はスキーを使えば振り切れますし」

「現実に不可能だろう。理論上成立するというだけの話だ。」

「いえ、私が実際試みました。

夜中にここまで来たのと昼間にここから降りたのをやってみたところ、誰も気づきませんでした」

「ええっ?!」

「私もやりたくなかったのですが、上司の命令で試してみました。
夜中は寒かったです。」

「あなたの上司は?つまり誰の直属?」

「相原室長です。」

「室長の階級は?」

「警視正です。」

すると6人とも直立して敬礼した。

「警視どの!」


渚は笑いながらまあまあと宥めた。

「私は階級がないのです。だからリラックスしてください。」

渚はスイートルームに案内すると窓を見せた。

「とても眺めのいい景色ですが、逆にあの景色に紛れ込んでここを狙撃するとすれば・・・最短200mのところから狙えるらしいです。
室長が私の報告をもとに計算しました。200mって安全圏ではないのですか?」

「腕のいいスナイパーなら300mのところからも狙撃するというからな。」

「それでは昼間でもブラインドを下ろさなければなりませんね。
本当に狙われる危険があるのならですが・・・夜は陰が映るので窓に近づくことは避けてください。
あ、これも室長の助言です。」

バスルームやクローゼットを見せて、それから収納スペースの棚などを見せた。

「この棚などは意外と盲点で、体の柔らかいものなら中に潜むことができます。」

「それは無理だろう」

「いえ、私なら楽々入れます。私よりもっと大きくても体が柔らかかったら可能だと・・・これも室長が言ってました。
後、テレビの下の物入れですが中の金庫を抜けば、私でも簡単に潜めます。」

ドアの状態も検分した。

「このドアの下の僅かな隙間から催涙ガスを入れれば、皆さん達は大変な目に会います。
すぐ隙間を塞げる物を近くに置いておいたほうがいいと」

「それも相原室長が?」

「はい」

次はスイートルームのある7階のフロアについてだ。

「周囲の部屋は皆さんたちにあてがわれた両脇の部屋以外は空き部屋にしてますが、なんらかの方法で施錠を解いて中に潜む可能性もあります。
ですから定期的にチェックする必要があります。そのときはスィートルーム同様バスルーム・クローゼットその他を見る必要があります。尚、スィートルーム周辺は監視カメラでホテル警備部で監視しています。」

侵入・逃走経路の可能性の確認。攻撃方法の可能性について室長から言われていたことをSPに一通り説明すると、渚は言った。

「後はそちらの警視庁関係の上司の方が指示を出してくるでしょうから、どうぞそちらに従ってください。
室長のは参考程度にしていただければ良いと言ってました。
それと、私ですが表立っては協力できません。陰ながら応援させていただくという立場です。
だから、人の見てる前で私に話しかけたりしないでください。
知らん振りしていただければ幸いです。SPの補助員というのはそういう立場なので、よろしくお願い致します。」

そう言って、渚はSPと別れた。
いよいよその日が近づいて来た。


相原香苗はやや緊張した面持ちで査問委員会の席に立った。

「階級と職名は?」

「警視正。警察庁管轄警察支援センター防犯室長です。」

「当日朝、エジンバラホテルに着いたとき、深庄補助員にどんな指導をしましたか?」

「はい、それは・・・・」




相原室長からの連絡で渚はロービーに行った。
カフェでコーヒーを飲んでいた相原室長は手をあげると渚を招いた。

「ゴルチェン共和国のアルガトロ大統領は今朝の9時にここに着くわ。
ゴルチェン共和国は貴重な天然資源を持っている国でわが国にとっては大切な国ね。
午後からは江差万町の屋台村を訪れてホテルに戻る。
夜には大臣たちも来て歓迎デナーパーティをすることになる。
明朝立って首都に行くけれどそこから先は別働隊が動くことになってるから、そこでお役御免よ。何か頼む?」

「いいです。7階の清掃がありますので」

「極秘情報だけれど、ゴルチェン人と思われる外国人が日本の暴力団から拳銃を四挺買っている。
ただしゴルチェン人は留学生も含めて何万人も来ているから特定はできないけれどね。」

「大統領が同国人から狙われる理由はなんですか?」

「それは私もわからない。
政策上の問題だと思うけれど、国内に過激な反対組織があって、命を狙おうとしているのは確か。
だから、十分気をつけてね。」


「はい。ウエイトレスさんがこっちに来るので、もう行きます。」


渚はその場を離れて7階に向かった。



査問官は口を開いた。


「階級と職名は?」

「階級はありません。職名は警察支援センター防犯室付き非常勤警察補助員です。」


「深庄補助員は。当日の朝7階の清掃に行って、何に気づきましたか?」

「廊下に落ちていた水滴です」



渚は業務用エレベーターで自動床清浄機を7階まで運ぶと、西側廊下から掃除をして行った。
東側の非常口近くまで来て、おやっと思った。
東端の725号室のドアの前から非常口までの床が濡れている。ここは空き室になっているはずだ。
清浄機のスイッチを切って、様子を見ることにした。
非常口の内鍵を手で開けて非常階段を見ると、昨夜遅くまで降った雪の上に新しい足跡があった。
大きな複数の人間の足跡で、すべて7階に向かって登る方向である。
何者かが真夜中に侵入して来たに違いない。渚は一階まで非常階段を下りた。
山道を麓から深い雪をこいで登ってきた足跡があった。
そして非常階段の下の雪だまりが変な形をしていたのでほろってみると、スキー用具が出て来た。
スキー・ストック・靴バッグなど4組ずつあった。



査問官は口を開いた。

「そのとき深庄補助員は非常階段の下に何組のスキー用具を見ましたか?」

「3組です。」

「それは、ゲレンデ用ですか、アルペン用ですか?」

「私はその区別がわかりません。」

「では雪の上にスキーの跡は見えましたか?」


「すみません。気づきませんでした。
あったかもしれませんが、足跡の方に気を取られて、気づきませんでした。」



渚は非常階段を登って戻ると非常口をロックし、725号室のドアに耳を当ててみた。
すると突然ドアが内側に開き、渚は部屋の中に引き込まれた。




査問官は口を開いた。

「どうして、その時点で上司に報告しなかったのですか?」

「迂闊でした。向こうが気づいているとは思わなかったもので・・」

「それで部屋にいたのは何人だったのです?」

「3人でした。」




三人の男が拳銃を渚に突きつけていた。
彼らは早口で訳の分からない言語を喋っていた。
そして、彼らのきつい体臭が渚の鼻腔を襲った。
頭の後ろに突きつけている男、顔が岩のようにごつごつしていて目が小さく離れている。
その男は仲間からクルトゥと呼ばれていた。渚の奥襟を掴んでいた。
渚の左二の腕を掴んで脇の下に銃口を突きつけた男は、皺だらけの顔の男だった。
仲間内からマイムンと呼ばれている。
そして正面から渚の顎を掴んで、無理やり口の中に銃口を突っ込んだ男。
ギャルゲダンと呼ばれているその男は、異常に目が釣りあがっていて口の端も上に向いているので、いつも笑っているようなぞっとする顔をしていた。
彼は渚の顎から手を離すと、その手でゆっくり撃鉄を起こした。
他の二人は銃口を離した。(やられる!)渚はそう思った。




査問官は口を開いた。

「そのとき何故彼らは撃つのを止めたのです?」

「恐らく拳銃はまずいと思ったのでしょう。」



そのとき、奥の方から誰かが声をかけた。
その男は非常に穏やかな声でギャルゲダンに語りかけていた。男の名前はケチェというらしい。
ギャルゲダンは頷くと渚の口から銃身を抜いた。
ケチェが近づくと日向に干した干草のような匂いがした。
そして渚を見たケチェは山羊のような優しい穏やかな目をしていた。
彼ははっきりした日本語で言った。

「年はいくつだ?」

渚は余市屋支配人から、どうみても14・5歳にしか見えないと言われたことを思い出して、答えた。

「じ・・14歳です」

「まだ子供なのになぜ働いている?」

「た・・食べるためです。」

「この国は豊かだと聞いていたが、まだお前のように貧しくて働かなければいけない子供がいるのだな。
わが国と同じだ。」

そしてケチェは他の者になにやら指示をすると、渚は水色の制服の上からガムテープでぐるぐる巻きにされた。
最後に口もガムテープでふさがれた。

「怖がらなくていい。お前は殺さない。我々は貧しい者のために立ち上がった。
だから、国は違っても、貧しい家庭の子供であるお前は殺さない。
全てが終わった後、お前は生きたままここで発見され救い出されるだろう。
だから安心してこのままで数時間我慢しているのだ。
騒いだりしない限り、乱暴なことはしないから静かにしてるのだ。」

渚は必死に頷いた。

その後、渚はクロゼットの中に入れられた。



査問官は口を開いた。

「なぜ彼らは深庄補助員をクロゼットの中に入れたのだと思いますか?」

「多分、私をどうやって処分するか相談するのに時間が必要だったのでしょう」



ケチェはこのグループのリーダー格だと思った。
他の三人に比べて教養も知性もある感じだった。
だが、ケチェはこれから何処かへ出かけるみたいだった。
しっかり着こんでリュックを背負うと他の三人に挨拶をした。

「バルト、ゴルチェン!」


すると他の三人も同じ言葉を言った。

「バルト、ゴルチェン!!」

そっと、ドアから出て非常口から出て行った様子が分かった。
きっと隠しておいたスキーで下に下りるのだろう。


渚は全身に力をこめてガムテープを音がしないようにゆっくりちぎった。口からもはがした。
外を覗くと入り口側でクルトゥが拳銃をいじっていた。
どういうわけか部屋の真ん中にあったテーブルを窓側にぴったりつけて、ギャルゲダンが窓を背に腰掛けていた。
そして体を捻って窓の外を指差すと指で丸を作ってマイムンに合図した。マイムンはそれを見て頷き、渚のいるクロゼットを指差して手刀で自分の喉を切る真似をした。
ギャルゲダンは窓を大きく開いた。
そしてマイムンがこっちに向かって来る。

(あいつら!リーダーの命令にそむいて私を殺そうとしているな!
しかも7階の窓から放り投げて雪の斜面に落とそうとしている!)

とにかく一瞬の勝負だった。
クロゼットの扉を開けた途端、マイムンの体は壁まで飛んで背中を強く打った。
それを見てクルトゥがクロゼットの方に銃を向けようとしたとき、目の前の空中に渚がいた。
マイムンは顔を蹴られた。そのときギャルゲダンは銃を抜いていた。
そして撃鉄を起こしたとき、渚は窓側のテーブルの下まで滑り込んで、ギャルゲダンの両足を掴んで思い切り上に上げた。

「パンッ」という乾いた音がした。一瞬渚は撃たれたと思ったが、すぐ起きて銃を取り上げようと思った。
だが、体を起こしてみるとギャルゲダンの姿は何処にもなかった。
彼は窓から外に落ちてしまったのだ。



査問官は口を開いた。

「その男を窓から落とす以外に方法はなかったのですか?」

「落とす積もりはありませんでした。
でも彼はすでに撃鉄を起こしてましたから銃口の狙いを外すために足を持ち上げたのです。
その後銃を奪う積もりだったのですが結果としてああいうことになりました。」



下を覗いてもどこに落ちたかわからない。すぐ渚は残った二人を確保した。
室内の電話を取ると相原室長に短く報告し、すぐ部屋の外に出た。
そのとき聞いたような気がした、『バルト・ゴルチェン!』という言葉を。
だが、渚はケチェのことが気になっていた。
非常口から外を見るとかすかにスキーの跡が山の裾野の方に続いている。
もう遠くに行ったから捕まらないだろう。そんな変なことを考えて何故かほっとしていた。
引き返すとすぐ武装警官たちが8名ほど来た。
ドアを指差し彼らを中に入れたが、彼らはすぐ戻って来て渚に言った。

「死んでいますよ。二人とも」

驚いて中に入ると、マイムンとクルトゥは結束バンドで手足を縛られたまま、血を吐いて倒れていた。




査問官は口を開いた。

「なぜ、彼らを置いて部屋の外に出たのですか?」

「手足を拘束していたので何もできないと思ったからです。」

「もし深庄補助員が部屋に残っていたら、彼らの死を食い止めることができたと思いましたか?」

「できたとは思いません。奥歯に青酸カリを仕込んであったとは、後日わかったことですから」

「それでは質問を変えます。その日の午後のことです。」

「はい」




江差万町の屋台村では特設のテントが並び、炭火で焼く肉や魚介類の香ばしい香りが会場に充満していた。
その一角で豚串を焼いてビールを飲ませているテントではテーブルで陽気な外人の声が響いていた。

「そう、私アメリカのアイオワ州から来ました。キリスト教の伝道のためです。
ああ、英会話も教えますよ。来たばかりですから、まだ教会に行ってないですけど、この先の福音教会です。」

「伝道師さんはビールを飲んでもいいのですか?」

「もっちろんです!そんなに堅苦しくないですから」

一緒に仲良く飲んでいるのは若い男女六人ほどだ。ここで知り合って意気投合したのだろう。
すると、屋台村の入り口の方が騒がしくなって来た。

「なんですか?どうかしましたか?」

「外国の偉い人が来るって言ってましたから、きっとそれじゃあないかと?」

「おお、もしかしてアメリカの大統領かも、それじゃあ一言ご挨拶しなくては」


「あはは、そうですね、見に行きましょう」

テントの前に立って彼らが横一列に並ぶと、警官がもう少し下がるようにとトラロープのついたコーンを置いた。
次第に国賓の行列のような物が近づくと、アメリカの伝道師は寒そうに震えながら懐に手を入れて待つようになった。
その背中に手を当てた者がいる。なにやらピクンとした動きと共に伝道師の体は崩れた。
それを支えたのは渚だった。若者たちが気がついて騒ぎ出すと、渚は連れの者だから心配しないでと言って、伝道師を連れ出した。



査問官は質問した。

「深庄補助員はそのとき彼に何をしたのですか?そして彼に何が起こったのですか?」

「ただ、話しかけようと背中をポンと叩いただけです。
けれども緊張の最高潮だった彼は、見つかったと思いどきっとしたと思います。
後はよくわかりませんが、きっと心臓発作かなにかを起こしたのだと思います。」

「偶然心臓発作かなにかで倒れたというわけですね。」

「はい、それ以外説明できません。」

「深庄補助員が何かをしたという訳ではないのですね?」

「あの時点ではただ疑わしいというだけですから、一般人を傷つけるようなことはできません。」



少し離れた所まで連れて行くとベンチに座らせ、体を探った。
懐から拳銃、ズボンの下からベルトつきの鞘に入ったナイフを見つけた。
渚はそれをガードレール下の雪の積もった谷底へ放り投げた。



査問官はまた質問した。

「その拳銃の種類は?またナイフの種類は?」

「私は拳銃を扱っていませんので、種類はわかりません。ナイフも同じです。」

「なぜ、大事な証拠の武器を投げたのですか?」

「私は拳銃を使えないので、取り返されたら困るので遠くに投げました。」

「弾丸を抜き取れば済むことではありませんか。わざわざ投げなくても」

「弾丸の抜き取り方も知らないのです。」

それを聞いて、査問官はノートに何か書き加えていた。



渚はケチェをベンチに座らせて言った。

「ケチェさん、もうあなたはこれでテロ行為はできない。
もうお国に帰りなさい。」

「お前は・・・・・?」


「ホテルの掃除婦です。制服を着てないので気づかなかったでしょう?」

「なぜ、こんなことを・・・?」

「あなたが拳銃を抜いた瞬間銃殺されます。わが国のSPは準備しています。
私はあなたには命の借りがある。だから見逃してあげます。
もう行ってください。」

「どこにも行かない。もう計画は失敗した。
お前がここにいるということは彼らは生きていないということだ。
だから、こそこそネズミのように逃げはしない。」

「何を言っているのですか?誰もあなたのことを知らない。
だからここを立ち去れば良いのです。」

「お前は、私に命を助けてもらったと思ってるのか?それは大違いだ。
あのとき私は彼らに言った。
私の娘も14歳だ。だから私の見てる前で殺さないでほしい。
私が出発してから殺せと。
そのとき、銃やナイフを使って血を流すようなことはせずに、窓から落とせばいい。そうすれば楽に死ねるだろう。
本人には命を助けると言って安心させておくから騒がないだろう。
死の恐怖だけは味あわせないで殺してくれと」

「で・・では・・・」


「結果的にあのとき殺さなかったことが、生き延びたことになったかもしれないが、別にそれはお前の運が良かっただけで、私がお前を助けたことにはならない。」

「なぜ、それを今言うのですか?」

「お前は私を逃がせば借りを返したことになると思ってるから、真実を言ったまでだ。
私はネズミのように逃げない。それは不名誉なことだ。
私は英雄として死ぬ道を選ぶ。バルト・ドルチェン!!」

そういうと、何か奥歯を噛み締めるような動作をし、苦しみ始めた。
そして血を吐いて痙攣しながら死んでいった。
渚は首を横に振り、嗚咽した。何故か分からないが涙がしばらく止まらなかった。



査問官は眼鏡を拭いてから言った。

「これは非常に重要なことです。だから正直に答えてください。
深庄補助員は彼が自害した後、しばらく死体にすがって泣いていましたね。死体を何度も叩いたりして。
それは何故ですか?」

「同じ日に4人の人間の死を目撃したのです。
折角生け捕りにしようと思っていたのに、またしても死なれてしまって、きっと口惜しかったのだと思います。」

「目撃によると、深庄補助員は彼と結構会話をしていたようですね。
その内容はどんなものだったんですか?」

「よく覚えていませんが。私は日本語で、もう逃げられないからおとなしく観念しなさい、とかそんなことを言っていたと思います。
向こうは日本語と向こうの言葉を混ぜて言ってました。
殆どは聞き取れなかったですが、お前たちに捕まるくらいならバルト・ゴルチェンだとかなんとか言ってました。」

「ちょっと意味不明ですね。
ところで、深庄補助員は彼に対してどんな感情を持っていましたか?
はっきり言いますが、同情や共感のようなものを持っていませんでしたか?」

渚は少し考えた。そして口を開いた。

「ありえませんね。
彼らは自分の命も他人の命も紙のように軽いものだと思っています。
冷酷無情で人の心を持っているとは思えません。
そんな人間に同情とか共感とかおきるわけはありません。」

「しかし・・・・」

そのとき部屋の電話機が鳴った。査問官は受話器を取った。

「はい、これは長官殿。はい・・・はい・・・査問委員会の当初の目的を逸脱することのないように・・・ですね。わかりました。」

査問官は咳払いをしてから相原室長と渚に言った。

「国賓を狙った4人のテロリストの死に関して、当査問委員会は相原室長及び深庄補助員に過失があったとは認めないとの結論に達した。
よって、両名は退席して宜しい。ああ、それと・・」

査問官は相原室長を傍に呼んで耳打ちした。

「拳銃やナイフの種類くらい教えておけ。それと弾丸の抜き方も。
谷間の雪の中を捜索するのにどれだけ予算がかかると思っているんだ?」

「・・・」



相原香苗室長はコーヒーを飲みながら溜息をついた。

「本当に今回だけは肝が冷えたわ。
深庄に、テロリストを逃がそうとしてたって打ち明けられたとき目の前が暗くなったからね。
そして査問委員会でしょ。
変なこと深庄が言い出すんじゃないかとひやひやしてたんだから。
ま、なんとか打ち合わせてた通りに答えられたから、私もモニターで見ていた長官もほっとしたところね。
それにしてもあの査問官、私と同じ階級のくせに態度でかかったなあ。
それに妙にしつこいし。銃の扱い教えておけだって?
銃の携行も許されない一般人のボランティアにどうしてそこまでする必要あるのよ?」

そう言った後、相原室長は渚を見た。渚は質問した。

「あのう、バルト・ドルチェンってどういう意味ですか?」

「そうそう、それね。長官がアルガトロ大統領に聞いたそうよ。
ところが大統領嫌な顔をして、その言葉が嫌いらしくノーコメントだったそうよ。
仕方なく、通訳官に聞いたところ、『ドルチェンのために』という意味だそうですって。笑えるわね。」


            (7部終わり8部に続く)

怪力少女・近江茜伝・第7部「渚の風」

まさに危機一髪のところを免れた渚。テロリストたちは1人として生き残らなかった。
こんな危険な仕事はもう渚にはさせたくないものと思うのだが・・さて次はどうなるのか?

怪力少女・近江茜伝・第7部「渚の風」

塚嘉区警察支援センターというところに現れた相原香苗と謎の少女とは? そして警察補助員と言う仕事の実態とは?主人公は建築作業員やウェイター?の仕事をしながら、何故かトラブルに巻き込まれる。実はそれが主人公の本当の仕事だったことも知らずに・・。やがてボディガードたちを襲うボディガード・アタッカーとの対決が起きる。その後やむをえない事情から、スタントマンとして映画出演をすることになったが、その場所に主人公の過去を知る者が二人も現れて・・・。そのときに中国の幻の拳法「易力拳」とも出会うことになる。 そして振り付け師の五十嵐と監督の対立が起きて映画制作の行方はどうなるか? また、鬼子母神が主人公に頼んだ2つの依頼とは? そしてとうとう主人公は外国のテロリストと対決することになる。果たして主人公の運命はいかに?

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-25

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著作権法内での利用のみを許可します。

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