超人旋風記 (7) その2
異世界の物語は嫌いではない。
しかし何一つ鍛錬もしていない主人公が、突然異能の力を持ち、大活躍するなんてあり得ないと思っている。
その力が誰かに与えられたものだとしても、使いこなすために血の滲むような訓練が要る筈だ。僕も大して丈夫でもなかった身体を、徹底的にいじめ抜くことで強くしてきた。
だから僕の描く主人公にも、そうさせたい。そうあらせたい。
死んだと思われていた相馬は生きていた。
南大西洋の島で1人の女に助けられ、手厚い看護を受けていたのだ。
だが、その後フランスに赴いた彼を、謎の包囲網が追い立てに掛かる。それはヨーロッパ全域を支配下に置こうとする、暗黒街の新勢力だった。古い暗黒街の知己に手助けして貰い、どうにかヨーロッパを脱出した相馬は、瓜生のラスベガスへの誘いが、実は罠であることを見抜き、米国へと急ぐ。
クルーガーの隠れ家に転がり込み、何とか〈エスメラルダ機関〉の尻尾だけは掴んだ相馬、瓜生、剣吾は、若林の仇を討つべく、ワシントンにデービッドを追う。
第7章 復讐行 その2
(8)
――ああ、上空10000メートルからの落下は、流石にきつかったぜ。
…リオで、ギュントを追い詰めたと思った瞬間、飛び込んだ場所は狭い密室だった。しかも自分のいるその密室が、空を飛んでいるらしいと気づいたのは…、
ロケットが射ち出された随分後の話であった。
震動と、掛かるGの物凄さに、相馬は転げ回った挙句、標本のように壁に貼りつけられた。どうにか体を起こせたのは、震動が始まって丸3分は過ぎた頃であった。M29カスタムをホルスターに収め、スチール壁の一部を腕力に任せて引っ剥がすと、どうやら今自分がいた場所が格納スペースであり、それもロケットらしいものの内部であると気づくに至った。
古めかしい部品につけられた表示や記号は、全部ドイツ語だった。
――おいおい、V1ロケットかよ。
流石、ネオ・ナチス、補助部品に電子機器を組み込んで入るようだが、この時代にこんな代物を隠し持っていようとは。
感心している場合ではなかった。遂に外殻の一部に穴を空けた相馬は、気圧の差に吸い出されそうになった。見下ろして愕然とする。外は恐らく海だろうななどと思ってはいたのだが。
海は海だった。しかし波頭1つ見えなかった。相馬の目でも判別できる筈もなかった。ロケットと海のほぼ中間に、雲が漂っていた。
この角度で雲を見下ろせるということは、ロケットは少なくとも数千メートル上空に達したことになる。
引き続き歩き回り、パイプをよじ登って、どうにかエンジンの中枢を見つけた。果たして、ロケットは高度9000メートルを超えようとしていた。そこで相馬は再び愕然とさせられる。この大昔の遺物が叩き出した高度にではない。
ここだけは精密な電子機器の並ぶ中枢部分、高度計の斜め上に、タイマーを見つけたからだ。
それが何を意味しているかは一目瞭然だった。ロケットがどこかに墜ちる寸前までのんびり構えている積もりだった相馬は、慌てふためいた挙句、タイマーを弄るのを諦めた。自分の電子機器音痴ぶりに腹を立て、毒づきながら逃げ場、いや、隠れ場所を探した。
また勉強するものが増えた。
…ロケットは大西洋上の、10000メートルの上空にて爆発した。
エンジンから離れ、特に厚い壁に囲まれた一角で爆発を逃れた相馬の、パラシュートも何もない落下が始まった。息もつけない速度の落下状態で、相馬は必死で空中で這い回った。昔、登場人物が落下の最中に空中で平泳ぎするという映画を観て、そんな馬鹿なと嘲笑っていたものだったが、いざ同じ立場に立ってみると、必死にクロールをしている自分がいた。
もがきにもがいて、どうにか同じ速度で落下するロケットの破片群に近づいた。2メートル四方の、外殻の1部を掴まえる。さしもの超人兵士相馬と言えど、10000メートル上空から海面に直接叩きつけられれば、木っ端微塵になることだろう。
外殻を下にして顔に吹きつける風を避けた。ようやく呼吸を取り戻せた。すぐ目の前を、筋雲が通過していく。来るべき衝突の瞬間に備え、相馬は全身に力を溜め込んでいった。
煙草が吸いたい…。
衝突の直前、下にした外殻から上に跳躍した。ほんの僅かでも衝撃の落下を和らげようという苦肉の策だった。まあ、超音速で落下した外殻と自分だ。大した効果はなかった。
相馬は上に跳んだ瞬間、全身の筋肉を緊張させた。
外殻は海面に跳ね飛ばされた。直後に相馬の体も水面に激突した。衝撃はロケットの爆発、傭兵時代に受けた敵の絨毯爆撃の比ではなかった。〈賢者の城〉で受けたスティンガーの爆発さえ、これに比べれは午睡のようなものだったろう。
着ていたサンローランのサマースーツはズタズタに裂けた。右腕を庇うために前に組んでいた左腕は筋肉が破裂し、骨は粉砕骨折寸前までばらばらになった。両膝も砕け、腿の筋肉は裂け、大腿骨の折れた右脚があり得ない方向を向いた。肋骨はほぼ全部折れ、背骨の2箇所がずれ、骨盤が割れた。肝臓や脾臓、膵臓から膀胱にかけ、少なくとも6つの内蔵が破裂した。
それでも死ななかったのは、やはり上に跳んでちょっとでも衝撃を和らげたお陰だろう…、相馬は思った。助かったのは奇跡だ、などとは絶対思いたくなかった。奇跡なんぞがあるとして、こんなところでギュントなどのために費やすのは勿体ない。
後に知ったのだが、墜落したのは公海上だった。相馬は動けないまま、丸1日漂い続けた。血の臭いを嗅ぎつけた鮫が、遠巻きに泳いでいた。もっとも首だけは動かせた相馬は、鮫をその殺気に満ちた視線で牽制し続けた。鮫も身の危険を察したのだろう。彼が完全にへたばるまで待つかのように、延々と周囲を泳ぎ続けた。
その間に、破裂した内臓はどうにか血管と繋がった。腕や腿の裂けた筋肉も出血を止めた。そこまでが限界だった。体内に残っていたエネルギーが、損傷を回復させ切る前に尽きたのだ。損傷はあまりに深刻で、且つ多すぎた。もしその海域に、1艘の小型クルーザー、ヤマハ53コンバーチブルが通り掛からなかったら、そのまま鮫の餌になるしかなかったことだろう。
――最初見つけた時は、飛行機事故か何かで海に落ちた死体かと思ったわ。
クルーザーを操っていたのは、1人の女だった。
ショットガンで鮫を追い払った女に引き上げられた相馬は、そのままある島へと運ばれた。後にそこが、大西洋上に浮かぶ群島独立国の1つ、カーボベルデ共和国の一角だと知ることになる。何と相馬は、リオ・デ・ジャネイロの海岸線からアフリカ西海岸にまで運ばれていたのである。
その北に位置するバルベラント諸島1つ、ラッサ島に、女個人の所有物だという、大き過ぎはしないが豪華且つ優雅なコテージがあった。相馬はそこで女の手厚い看護を受け…、
1箇月半を過ごした。
――引き上げた時には、絶対に助からないと思ってたけどね。
それでも相馬は助かった。
骨折が繋がり、裂けた筋肉が塞がり、破裂した内臓が復元するまで丸々1週間を要した。その間、点滴以外の栄養を摂取できなかった相馬の体重は激減した。点滴を吸収するスピードもとんでもなかったと言う。掛かりつけの医者のところの点滴のボトルはすぐに底を尽き、大病院から取り寄せる言い訳に苦労したのだそうだ。その間相馬は何度もうなされ、夢と現の狭間を往復した。時折、熱に潤んだ視界に女の横顔が見えた。
朦朧とした相馬には、その横顔が、今は捨て去った母や姉に見えたりもしたものだった。
1週間後に、ようやく相馬は意識を取り戻した。
女独りで住むには広すぎるコテージには、昼間はコックも兼ねるらしい年配の召使夫婦が常駐し、数日に1度、パイロットを兼ねる初老の召使もやってきた。誰かが具合を悪くした際には、掛かりつけの医者が水陸両用飛行艇で運ばれてくる。この1週間は2日に1度やってきた。口止めの必要がない程、つき合いも長いとのことだった。食糧や酒の類も空輸されると言う。女は少なくとも相当の資産家か、その娘ではないかと思われた。
年齢は20代後半、あるいは30そこそこ。ウェーブした金色のショートヘア、整った顔立ち、化粧1つしていないのに、青みがかって見える瞼の縁。どれも美しかった。それだけではない。お茶の淹れ方、椅子の引き方、1つ1つの所作がお仕着せではない優雅さに満ちていた。幼少期からどこかの修道院で徹底して仕込まれたか、厳しい家庭教師がついていたのだろう。ただの金持ちではない、相当の名家の子女であることが窺えた。
ただ、時折とても暗い眼差しをした。
女は、カトリーヌとだけ、名乗った。
10日目に女の支えつきではあったが、どうにか立ち歩けるまでになった。相馬は腹の底から安堵した。何しろそれまでは、カトリーヌに下の世話までされていたのだ。
――赤ん坊じゃないんだ。いつまでもオムツなんかしてられるか。
――へえ、ニホンの男って、そういう風に照れ隠しするんだ。
パジャマ姿で、浜辺を支えられて歩きながら、思わず顔を赤くしそうになった相馬に、潮風にその金色のショートヘアをなびかせたカトリーヌは、実に悪戯っぽく微笑みかけたものだった。
下の世話ばかりでなく、カトリーヌは意識を失っている最中の相馬の全身を洗ってくれてもいたのだそうだ。深窓の良家の子女にしては甲斐甲斐しすぎではないかとも思えた。何が彼女のナイチンゲール精神に火を点けたものなのやら。相馬はそれを最後まで訊けずに終わった。
そして彼女が何者であるのかも、最後まで訊けなかった。
…2週間で動けるようになった。
――信じられないわ、死体同然だった人が。
――その動く死体を見つけて、よく警察を呼ぼうって気にならなかったな。
――呼んでも良かったけどね。映画じゃ大抵、警察が来る前に蘇った死体に襲われてみんな死ぬでしょ? と言うのは冗談。
カトリーヌはその深い眼差しで、相馬を見つめた。
――ここの海を血で汚したくなかっただけ。
なかなかの慧眼だと言えた。もし警察に連絡していれば、漏れた情報がフランスなりアメリカなり、相馬が会いたくない連中に行くのは間違いなかっただろう。そうなれば追ってきた連中との間で、どんな壮絶な場面になったことやら。
この女、頭も素晴らしくいいらしい…。
それから1週間。入念なストレッチと、勉強していたヨガとで、ずれてしまった背骨、股関節を嵌め込んだ。しかし回復にエネルギーの大半を費やされ、痩せてしまった筋肉や骨はすぐには戻せなかった。相馬はカトリーヌに濃厚な料理を頼み、彼女の危惧を他所に片っ端から平らげ、この島で出来る運動――ランニングや懸垂、腕立て伏せ、暖炉の薪割りなど――で、どうにか筋肉の張りだけは取り戻した。
食事の後、召使夫婦が食器を運ぶ中、テーブルの上を手際よく片づけ、拭いているカトリーヌを見て、老召使が笑った。
――昔とは隔世の感がありますな。修道院に入られる前のカトリーヌ様は、床に落ちた紙屑1つ拾わない方でしたから。
――言わないで爺や、あの頃のことは。
――そうなんだ。その頃の君に出会ってなくてよかったよ。無条件で嫌いな奴リストの1番に載せてただろうからな。
しかし愕然としたことがあった。
16日目の朝、ふと鏡を見た相馬は、前髪に相当量の白髪が混じっていることに気づいたのである。
すぐにわかった。受けたダメージがあまりに重すぎたのだ。それを回復しようと、身体がありったけのエネルギーを使った。一気に老けこんでしまうくらいに。
超人としての力の発動1つにしても、この先気をつけなければならないようだ。無理をして力を使い切った瞬間、あっという間に老化して、死んでしまうこともあり得るのだ…。
22日目の夕方、海辺に面したベランダで、籐の長椅子に体を沈めた相馬は、コックから貰ったベンソン&ヘッジスの輸出用煙草を咥え、海に沈む夕陽を眺めていた。
アメリカやフランス、イギリスの情報機関だけじゃない。ネオ・ナチスなんて組織も加わりやがった。何もしていないのに、敵ばかり増える。この先俺たちが生きているってだけで、一体どれだけ敵が湧いて出るものやら。取り敢えず若林は無事なんだろうか。瓜生の馬鹿にはこのことを連絡するか、迷うところではあるな。
しかし知らせてはおかねばなるまい。瓜生とあのギュントとの間には、何やら深い…。
忍ばせた足音が背後に近づいた。相馬は自分の首筋に伸びてきた手首を右手で掴んでいた。その手に剃刀――刃は起こしていなかったが――が握られていたからだ。相馬の空いた左手には、ハイスタンダード・デリンジャーが隠れていた。
ボロボロになったスーツやシャツは捨てられていたが、2丁の銃は予備の弾とともに戸棚に隠されていた。それを見つけ出した相馬は、S&W・M29カスタムをパジャマ下の腹に、ハイスタンダード・デリンジャーは左手首に、それぞれ裂いたタオルで括りつけていたのだった。
カトリーヌは大して驚かなかった。相馬の人並み外れた回復力を見てしまった彼女だ。色々気づいてはいたのだろう。そんな彼女だからこそ、警察を呼ばないという洞察も働いたのだろう。
ただ、少しだけ物悲しい顔になった。
――そんなものをいつも身につけていないと、安心できないんだ。
そして相馬の、髭の伸びた顎と、産毛の伸びた襟足とを、そっと撫でた。
愛銃M29カスタムは、激突の衝撃でシリンダー弾倉が変形し、6発中3発の装填が不可能になっていた。詰まっていた弾を抜くのにも苦労したのだ。スピードローダーに詰め、スーツのあちこちに忍ばせておいた予備の44マグナム弾も、36発中15発の薬莢が割れ、海水の浸入を許していた。
この島では部品交換も整備も無理だし、予備の弾丸も贖えない。しかし6発のうち3発は発射できることを、相馬はカトリーヌに黙って出掛けた島の南の断崖にて確かめた。撃鉄が何とか作動し、銃身が曲がっていないのが救いだった。
21発のうち6発を撃って、弾の無事も確かめた。これなら敵が来ても、何とか出来そうだ…、試射を済ませ、相馬は本当に安心したのだ。
彼女の言葉に、相馬は顔では苦笑しながらも、内心本気で恐れ入っていた。確かに、俺はこの銃を傍らに置いておくことでしか安心できないでいる。
この女は、そんな俺の、貧乏性で脆弱な本性に、いとも簡単に気づいてしまった…。
翌日の夜、ストレッチを済ませ、トイレから戻ると、ベッドに人型の膨らみがあった。
22マグナムのデリンジャーを左掌に隠し、その場に立ち止まった相馬に、シーツから顔を出したカトリーヌが言った。
――枕が硬いわ。
相馬はM29カスタムを枕の下に忍ばせて寝ていた。
――よくこんなものを敷いて眠れるわね。
上体を起こし、短い髪を掻き上げた際、シーツがはだけ、ベッドランプの淡い光の中で、大きくはないが形の良い乳房が揺れた。
――今更だけど、警察なんかに連絡しないでよかったわ。
それから島を去るまでの20余日、2人は文字通り、毎日毎晩交わって過ごした。
回復した相馬の底なしの体力に、カトリーヌは溺れた。そして底なしはカトリーヌも同じだった。いつまでも枯れない泉で、相馬の性欲を文字通り受け止めてみせた。
中で果てることを求められた時には、流石に相馬も躊躇した。超人兵士には子供が出来にくい。肉体の変貌とともに遺伝子辺りも変わってしまったのかも知れない。〈賢者の城〉で、累計数千人もの女が集められ、毎晩乱痴気騒ぎが行われながらも、妊娠した女が1人もいなかったのがいい例だ。ヤング博士はそれを実に残念がっていたものだ。それがわかっていながらも、やはり相馬は怯んでしまった。
だがカトリーヌは、相馬が外で弾けることを許さなかった。
数では瓜生に到底敵わないが、相馬とていろいろな女と交渉を持ってきた。イチモツに瓜生程の自信のない相馬は、常人時代から、前戯から後戯に至るまでの、世間でテクニックと言われるものを磨いてきた。だからそれなりに女たちに愛されてもきたのだ。
そんな彼も、欧米の女たちのゆるゆるの締まりにはいつも苦笑いを浮かべさせられてきたものだった。抱くだけなら整形していない韓国女か運動選手の中国女、ブラジルのティーンに限るとさえ内心では思っていた。もっとも性格のいい韓国女、金に汚くない中国女、身元のちゃんとしたブラジル娘には出会ったことがない。だが、カトリーヌは違った。最初こそまたか、と思ったが、一度絶頂に達してからというもの、彼女の内部は信じ難い優しさと柔らかさで相馬の先端を包み込むようになった。
そんなカトリーヌに、相馬も溺れた。
昼間は釣りに行くと称し、彼女のヤマハ53コンバーチブルの艇上で、夜は召使のいなくなったコテージの彼女のベッドで。抑えようにも抑え切れない彼女の喘ぎ声や悲鳴、嗚咽が陽光に輝く波間に、コテージ外の夜の闇に響き渡った。
――ある男を、棄てたの。
何十回目かの絶頂の後、失神寸前でベッドに崩れ落ちた彼女が、その頬に残る涙を拭いてやる相馬に、呟いた。
――俗に言う、政略結婚、って奴ね。結婚式の日取りも決めた後だったわ。もちろん父は猛反対した。私の我儘が周囲にどれだけの迷惑や影響を及ぼすか、考えろとも言われた。でも、どうしても駄目だった。周囲には似合いのカップルだなんて言われたけど、私にはあの男と一緒に老後を迎えるなんてことが、どうしても考えられなかった。
――それはそれで満足して、結婚しちまう女だって、山ほどいるだろ。
――私の友達にもいるわ。でも、満足なんて、するわけがない。安楽さだとか、将来の安定だとか、そんなもので何とか目を瞑って我慢する生活が待ってるだけ…。
――それも1つの幸せなんじゃないか?
――本気で言ってる? 私はイヤ。私は私の納得できる生き方しかしない。
――強いんだな。
カトリーヌは微笑み、首を振った。相馬が火を点けたベンソン&ヘッジスを1口だけ吸い、相馬に返す。
――実はつい最近までね、自分に自信が持てなかった。父の反対を押し切って、結婚を破棄して、こんな場所にまで逃げてきて、それなのにそれを後悔しそうな自分がいたわ。そして、あなたに出逢った。
カトリーヌは目を開け、相馬を見上げた。
――こんなになったの、初めてだった。
目が潤んでいた。
――あなたに初めて天国に連れてって貰った後ね、周りの景色までが違って見えたの。そして、わかった。私は間違ってなかった、って。
――そうか。
――あの男とじゃ、絶対無理だったでしょうね。なあに? どうしてそんな顔するの?
――前の男なのに、ひどいことを言う。俺もいつかそんな風に言われるんだろうなあ。多分、木偶の坊ぶりじゃ俺の方が上だし。
――言わないわよ。
カトリーヌは上体を起こし、相馬の唇を自分の唇で塞いだ。笑いながら首に抱きついてくる。
――言わない。信じて。あなたが私を変えたのよ。
44日目の日暮れ時。
夕食後、海に面したベランダで、涼しい海風を受けながら、相馬の襟足を剃っていたカトリーヌが呟いた。
――この生活が、いつまで続くと思う?
頬に当たる風が心地よかった。首を撫でる剃刀はもっと気持ちよかった。うっとりと目を閉じた相馬は薄く笑った。
――いつまでも続けばいいな。
――思ってもいないくせに。
カトリーヌが冗談めかしながらも恨めしげに言った。
いや、本当にそう思ってるんだ…、という言葉を、相馬は口に出せなかった。
それは本当の気持ちでもあった。彼女がそう望むなら、ずっとここで暮らしてもいいかな、などと思ったりもしていた。相馬はカトリーヌに心の一部を許した。それは彼にとっては破格のことだったのだ。
今、彼女に首を剃らせているのも、その現れだった。己の回復力を当てにしている以上に、相馬は既に彼女のことを許容していた。彼女を側に眠れるのもそうだ。骨抜きになりつつある気がしていた。瓜生には死んでも見せたくない光景だった。
しかしここで暮らしても、長続きはしないだろうという予感もあった。彼には、少なくとも娑婆で銃弾をぶち込みたい相手が、2人ばかり残っていた。
そして、この強いカトリーヌが、こんな島での生活で終わる女ではないとも思っていた。
保ったとして、1年だろう。俺が望んだとしても、カトリーヌは必ず俺の元を去る。
だから言えなかった。
襟足、額、瞼の上を剃り終え、蒸しタオルで彼の顔を拭ったカトリーヌが、瞼の上に唇を這わせてきた。目玉まで舐められた。相馬は彼女を抱き上げ、ベッドに向かった。リモコンで灯りを消す。
彼の首に腕を巻きつけた彼女の目が、月明かりの下、潤んでいるように見えた。それは相馬の錯覚だったろうか。
それが最後の夜になった。
また来てもいいか? またどこかで会えるか…? それがどうしても、最後まで言えなかった…。
目を覚ました時には、カトリーヌはいなくなっていた。召使が相馬のために、服と靴を持ってきた。ポール・スミス・コレクションの小奇麗なスーツは、完全に彼の寸法に合わせて作ってあった。エンツォ・ボナフェの靴もぴったりだった。
鏡を覗くと、結構な量があった白髪が、見事になくなっていた。
サントアンタン島までグラマンG44水陸両用飛行艇で運ばれ――そこで相馬はようやく、自分のいた場所を知ったのだった――、これまた用意して貰っていた航空券で、ダカールまで向かった。
ダカールまで来れば、頂戴した100億ドルの幾許かを偽名で預ける米国系銀行から、金を引き出せた。相馬はカードは作らない。〈賢者の城〉で〈R〉の名を聞いて、気になって調べて愕然とした。世界の金融市場に張り巡らされている連中の勢力と言ったら…。彼は世界の銀行という銀行への信用を奪われた。スイス銀行ですら例外ではないのだ。だから彼は持ち金の中から100万ドルだけを、何かあった際の当座の資金として、あちこちの銀行に分けて預けていた。
ようやく自腹でホテルに落ち着けた相馬は、迷いはしたものの、ヨーロッパの隅っこに設けたアジトに向かうのに、ひとまず空路でフランスに赴くことに決めた。彼の顔が利くマルセイユの顔役に頼んで、アテネまで運んで貰う積もりだった。
北スペイン、サン・セバスティアンの東にあるイルンの空港に降り立った相馬は、その足で、かつての傭兵仲間であり、今は小規模ながらも地元の顔役になっているサム・ビショップを訪ねるために、バイヨンヌに向かった。
他にも親しい人間もいる中、ビショップを選んだのは、銃を手に入れたかったからだ。
表向きはマルセイユから運ばれるアンティーク家具を扱う商人であるビショップは、相馬を大層歓迎してくれた。豪華な食事の後、アドゥール川の東岸、サン・テスプリ地区のフェル橋沿いにある、ビショップ自身に彼所有の倉庫にまで送り届けられる。倉庫と言っても2階にはベッド、バスまで置かれていた。夜間の倉庫番のための仮眠室とのことだった。
多少埃っぽく、鼠の糞の臭いがしたが、シーツもベッドも清潔で、ダニも南京虫もいなかった。翌日までの仮眠なら取れそうな気がした。銃を用意してくれと伝え損ねたが、明日でもいいか、と思い、早々にベッドに潜り込んだ。バイヨンヌの雑貨屋で買ったインスタントコーヒーにコニャックを垂らし、スペイン産の煙草フォーチュンを5本灰にした後、目を閉じる。
真夜中を過ぎた頃。
浅い眠りに入っていた相馬は、ベッドの上で目覚めた。何かが迫っているのを感じたのだ。開け放った木の窓の外に広がる暗闇を、一層暗く見せる、ヴェールにも似た殺気。首筋から背中にかけてざわざわと這い上がってくる。悪寒にも似た殺気だ。壊れたボーム&メルシェの代わりにダカールで買ったカシオの安物デジタルは、午前1時という文字を出していた。
ベッドから床に転がり、壁を這うように窓から外を覗く。ヘッドライトを消し、御丁寧に防音マフラーで排気音まで抑えた車5台が、倉庫の庭に集結しつつあった。もっとも相馬の耳には抑えたエンジン音も騒音に近かったし、梟より利く夜目には、乗っていた男たちの動きなど簡単に見て取れた。
男たちはまず、多くの家具が保管された倉庫の1階にガソリンを撒き、火を放った。
大半が木製のアンティーク家具が盛大に燃え始める中、外からの銃撃が始まった。そして火を突っ切って、6人の男たちが倉庫に突入してきた。これも相馬のいる2階目がけて、自動操縦やサブマシンガンを撃ちまくる。
相馬は枕の下から、S&W・M29カスタムを抜いた。
反撃がないのを、相馬が既に外からの銃撃に斃れたものと思い込んだらしい。6人は軋む階段を駆け上ってきた。シリンダー弾倉は変形したまま、6発中3発しか装填できないM29だったが、相馬にはそれで充分だった。
部屋に飛び込んできた3人を瞬時に射殺した相馬は、目にも留まらぬ速さで倒れた1人から、ベレッタAR自動小銃を奪い取った。
味方が撃たれたのを知った残り3人は、慌てて階段を引き返そうとした。だが、逃げる相手の背中を容赦なく撃てるのが相馬だ。小銃のフルオート掃射を受けた3人は即死し、階段を転げ落ちた。
外の連中は、追い立てられた相馬が窓から飛び出してくるのを待っていた。
1階に火を放ったのは、突入した連中が殺られても、最終的に相馬を燻し出せればいいという考えかららしい。しかし彼らは超人兵士相馬の耐久力を知らなかった。相馬は激しい運動直後でも、丸4分は呼吸を止めていられるのだ。
1階の火が2階に移った。相馬のいた仮眠室にも火の手が回り、壁やベッドが燃え始める。しかしいつまで経っても相馬は飛び出してこない。車の側から2階を撃っていた11人が、倉庫の入り口に集まってきた。それを確認した相馬は、もうもうと煙を噴き出す窓から抜け出し、彼らの背後に音もなく飛び降りた。
燃える家具群を倉庫入り口で眺めているだけの11人の背中を、相馬はベレッタ自動小銃のフルオート掃射で薙ぎ払った。
売られたらしい。
死体にビショップの屋敷で見た顔はいなかった。しかし自分の居場所を知るものは、ビショップ以外いない筈だった。相馬を匿う場所を、ビショップは腹心にさえ漏らさなかったのだ。車の1台、フィアット・プントを奪い、倉庫を後にした相馬は、もちろん予告もなしにビショップの屋敷に向かった。
豪華な邸宅で、地下の車庫入口の鋼鉄のシャッターをこじ開けようとした相馬はまたも愕然とした。たかだか1トン足らずの扉を、両手で持ち上げられない!
全身を踏ん張って、ようやく扉は開いた。非常ベルが鳴り響く中、相馬は己の筋力の低下に茫然としていた。生死の境を彷徨う大怪我の回復に、体中のエネルギーを相当費やし、消耗したせいもあろうが、あの1箇月半の休息の間に、ある程度は戻した積もりでいたのだ。
アジトに戻ったら、根本的に身体を鍛え直さねばならんな…。
侵入者撃退に現れたボディガード10余人をたちまち片づけた相馬は、情婦とともにこもる寝室で銃を構えて待っていたビショップと対面した。あっさりと銃を奪い、椅子に両手足を縛りつけ、車庫から持ち出してきたニッパーで20本の指全てを潰すと、ビショップは猿轡の隙間から、息も絶え絶えに白状し始めた。
スペイン、そしてフランスの暗黒街の地図が、書き換えられようとしていた。
そして新たに進出してきた連中により、相馬の首に懸賞金が懸けられた。1億ドル。
その額はかつて生死を共にした戦友を裏切りに導くに充分というわけだったのだろう。しかも彼だけではない。瓜生や若林にも同じ額が懸けられていた。
黒幕がどんな奴なのかは、一切知らない、ビショップは言った。会うどころか、声を聞くことも未だに出来ないでいる、と。2箇月近く前のある日、子飼いの手下の大半を1晩にして片づけられ、この邸宅まで押し入られたビショップは、代理人と名乗る男に、忠誠を誓う事を約束させられたのだと言う。
新しいその組織は、上納金や縄張りを寄越せなどとは言わなかった。代わりに突きつけられたのが、相馬を片づけろという命令と、その報酬額のみ。減らされた兵隊は、すぐに新組織から補充された。それもビショップが部下にしていた勇猛を以って知られるバスクの男たちより、遥かに優秀な面々が。これで尻尾を振らないほうがどうかしている、とビショップは叫んだ。
猛然と腹を立てた相馬は、俺だけじゃない、俺の組織だけじゃない、ヨーロッパ全域の組織という組織に奴らの手が及んでいる筈だ、と自己弁護を続けるビショップを、情婦とともに射殺した。車庫にあったアウディA3クーペに、屋敷のあちこちにあった武器数種類と弾薬を積み、金庫の金を奪い、バイヨンヌを脱出する。
124号高速道路に入ったアウディは、ピレネー山脈越えに掛かった。
オートマティック車を運転しているといつも眠くなる相馬だったが、今日ばかりは眠気を煙草で追い払う必要はなかった。代わりに煙草の本数は増えた。それでもフォーチュンの吸殻を灰皿に残す愚は犯さない。
久々に追われる身になり、緊張を取り戻した全身に、はっきりと伝わってきた。背後から、或いは前方から、はたまた山並からさえも、じわじわと迫る敵の気配が。錯覚でも妄想でもない。戦場で身につけ、鍛えてきた感覚だ。
軍団に拉致された頃、瓜生や他の超人兵士が、“殺気を感じる”だの“迫ってくる敵の気配”がどうのという話をしているのを耳にした。平穏な生活しか送ってこなかった一般人相馬は、そんなものを感じ取る奴を、それまで漫画でしか見たことがなかった。現実に、存在するのか…、単に負けるのが癪だという理由だけで、内心どうしてもそれを手に入れたくなった。そんな相馬は、戦闘技術の習得を目的に赴いた世界の戦場で、それを強制的に養わざるを得ない状況に何度も追い込まれた。戦場巡りを繰り返し、生命の危機に毎日のように瀕していれば、弥が上にも感覚も研ぎ澄まされたのだ。旧モザンビークのジャングルで大部隊に囲まれ、迫ってくる敵の気配を皮膚に、背中に、全身に感じた時には、状況にも関わらず小躍りしたものだ。視線まで察知する瓜生の感覚程、精度が高いわけではなかったが、戦場では充分に通用したし、何より己で鍛え、手に入れたという自負があった。しかもその感覚は自転車に乗る時の要領に似て、一度身につくと手放せないものだとも知った。その感覚が伝えてきた。
自分を追い立て始めた奴らがいる。
それも、かつてない規模で。
イトスギやケヤキの美しい森を見下ろす高速道路にアウディを走らせながら、相馬は珍しく背中に汗をかいた。何という対応の早さだ。ビショップに最初に連絡を入れてから、まだ1日経っていないのだ。ビショップの証言は正しかった。全域と言うのは大袈裟だとしても、少なくとも南ヨーロッパのかなりのエリアが、敵の監視網に入っているのだろう。
この追跡に比べれば、ブラックペガサス軍団の追跡など穴だらけの網に等しかった。俺がそう思うくらいだから、瓜生辺りはさぞ簡単に見つかっちまうだろう。
――実はこれから少し後、パリにて瓜生も、この監視に晒されていた。もっともその時彼には別の追跡者がついていたために、監視側も手出しを控えたのだったが。
トゥールーズを越え、城塞都市カルカッソンヌに入る手前で、遂に第1陣に追いつかれた。
夜明けを迎える寸前、薄明に幻影のように浮かび上がる城塞の外壁を見下ろす葡萄畑を横切る道路で、アウディは2台の車に迫られた。1台はベンツ、もう1台はマセラティだ。1流どころには及ばないものの、イタリアの純正スポーツカーであるマセラティには、安全性、性能の良さでは定評のあるアウディも敵わない。たちまち追い越された。背後からは重戦車のようなベンツ500SELが、何度もアウディの尻を、バンパーが変形する程突き上げた。ベンツを逃れようにも、前を蛇行するマセラティが邪魔でスピードを上げられない。
遂にアウディは道路を追い出され、葡萄畑の丘の途中にある、煉瓦造りの納屋に激突した。
車体フレームが歪む程の激突だった。ボンネットがひしゃげ、セルが火花を上げた瞬間、漏れたガソリンに引火した。相馬は火が車体に回る前にアウディから飛び出した。同時に左右に停まった2台の追跡車から銃火が閃いた。数箇所撃たれながらも、相馬は奪ってきた武器――第2次大戦時から未だ現役という骨董品、シャテルローMle1924軽機関銃を乱射した。2台の車は穴だらけになり、マセラティは呆気なく炎上した。悲鳴を上げながら2人の男が転がり出る。ベンツから怒声が上がる中、相馬はその2人を射殺した。
そこで初めて、相馬は連中が喋っているのがフランス語ではないことに気づいた。
ベンツの2人も射殺し終え、フォーチュンの最後の1本を咥えた相馬は、4人の懐を探ってみた。どの死体も身元の手掛かりになりそうなものは何も所持していなかった。しかし死体全員の顔を見比べてみて、相馬は思った。ラテンの血を濃く顕すそれらの顔、それに、さっきの言葉。こいつら、イタリア人か?
イタリア人が、またどうしてこんな場所で俺を狙う?
リーダーと思しき男のポケットから、自分の顔写真を見つけた。望遠レンズで撮られたものだった。背後に見える建物から、フォート・ブラッグ基地の外庭でのものらしいと気づいたが、いつカメラの前に顔を晒したものやら。
――その写真は基地の外に待機していたドロシー・ヘンダーソンと、一緒にいたビリー・エマーソンの苦心の1枚であると、もちろん相馬は知らない。
そこからの移動は少々骨が折れた。手持ちの武器は故障を抱えた愛銃S&W・M29カスタムと、22マグナム2発しか詰まっていないデリンジャー、ビショップ邸で奪ったコートに隠せるウージー短機関銃に制限された。ウージーの弾倉をコートのポケットに突っ込み、オード川の近くまで徒歩で移動、バスを捕まえ、ポン・ヌフ橋を越え、駅へ向かう。
ナルボンヌ行きの急行列車に乗り込んだ相馬は、車内販売のコーヒーを啜り、駅で買えたゴロワーズ・ブリュに火を点け、ようやく一息ついた。そして小さく毒づく。本当はマルセイユに入る前に、エクス・アン・プロヴァンス辺りでちょいと優雅に過ごす積もりだったのに、全部パーだ。
…マルセイユの顔役ジョルジュ・ビゴーは、10代の頃、フランスがナチス・ドイツに占領された際、ド・ゴールたちとともにレジスタンスとして戦った闘士だった。今は貿易会社会長に収まっている彼だが、裏では南フランスの暗黒街のドンの1人として、その名をヨーロッパの闇社会に知られていた。
そのビゴーの縄張りにある港沿い一帯の酒場は、相馬がマルセイユを訪れた時には、彼か腹心の部下たちとの繋ぎをつける連絡所も兼ねていた。
その酒場5軒が全て閉まっていた。しかもシャルル・リボン通りの坂道、サン・ニコラ要塞を正面に眺める1等地に建つビゴーの大邸宅は見張られていた。7月末のこの時期には珍しく、空には厚い雲が垂れこめていた。しかし曇った空の下でも、停泊した色とりどりのヨットやクルーザーが鮮やかだった。対して数多くの漁船が停泊する旧港は、灰色に沈んで見えた。その旧港を見渡せる大通り、サン・ニコラ要塞にも負けない壁に囲まれたビゴーの邸宅を、計7台の車が取り巻いていた。
また顔写真を照合されては堪らない。相馬は車への接近を避けた。全てフランスナンバーだったが、乗っているのがフランス人とは限らない。どうにかして邸宅に入り込みたかったが、電話線が切られているらしく、電話が通じない。
ビゴーの腹心、組織のナンバー2であるシベール・モンティニャックの緊急番号に電話を架けてみた。モンティニャックは組織の実務を預かる男で、相馬のような雇われ者が闇の仕事を引き受け、動く時の司令官でもある。だから対立組織に狙われることも多い。敵の襲撃を受けたモンティニャックを、相馬は1度ならず助けたことがあった。その件以来、彼の信頼を得た相馬だったが、緊急番号を使うのは今回が初めてだった。
取り上げられた受話器は、無言で下ろされた。
不吉な予感を覚えた相馬は公衆電話を離れた。隠れる場所がないのに気づき、通行人がいないのをいいことに、超人兵士の腕力と脚力で3階建てのアパルトマンの壁をヤモリのようにさーっとよじ登り、上から様子を窺った。果たして、2人の男が電話ボックスに近づいてきたのは、離れて1分も経たないうちだった。
電話ボックスを調べた2人が立ち去るのを待って、相馬はアパルトマンの屋根から降りた。同じ電話ボックスを使うとは思うまいとばかりに、そこからナンバー3の腹心マルセル・ベジャールの自宅を調べ、架けてみた。どうにかベジャールを電話口にまで呼び出し、彼の口からモンティニャックが暗殺されたことを知るに至る。
夜1時、ベジャールは2人のボディガードとともに、市立オペラ座の中庭に現れた。相馬を見つけざま、大きく鼻を鳴らす。
――相変わらず人を撃つ時は、相手の目を見ないのか? 肝っ玉の小さい殺し屋だぜ。
中庭のベンチで立ち上がった相馬は、暗がりにもう1人隠れているのを感覚で察知していた。ベジャールたちの目では捉え切れぬ速度でM29カスタムを抜いてみせ、言い返す。
――その方が夢見がいいんだよ。あんたも試してみたらどうだ? 襲撃を恐れて表にもろくに出られないあんたに、俺並の殺しがこなせればの話だけどな。
これまでのベジャールなら、自分から吹っ掛けておきながら、余所者に侮辱されたなどと喚き出していたところだ。街のチンピラがそのまま大組織の幹部に収まったような男だからだ。しかし今の彼は、相馬の揶揄に苦い笑みを浮かべただけだった。モンティニャックと違い、余所者相馬に組織内にて大きな顔になられるのを明らかに嫌がっていたベジャールだが、そんなこだわりやわだかまりすら、今の彼は忘れているようだった。
彼の案内で、ヴュー・ポールの地下鉄駅に入った相馬は、地下鉄と並行して走る地下水道跡に足を踏み入れた。瓜生の好むスーパーカーで走り回れるようなパリの地下水道程ではないが、16世紀から造られ、19世紀に完備されたという水道の遺跡は充分に広かった。トーチ型のマグライトを照らし、ベジャールたち4人と相馬は、ビゴーの邸宅地下にまで通じる抜け道に入った。
ベジャールは言った。
――流石にこの道までは、イタ公どもも知らないんだ。
相馬は眉を顰めた。ここでもまた、イタリア人か。コーザ・ノストラ全盛期ならともかく、その大半がアメリカに行ってしまった現在のイタリアに、ビゴー一味を脅かせるような組織が存在しただろうか。
――アメリカに渡ったのは幹部連中ばかりさ。今でも親分たちはシチリアに残ってる。島からアメリカを遠隔操作してるってわけだ。
夜も2時近かったが、ベジャールからの連絡を受けていたビゴーは、相馬を正装で出迎えた。邸宅の奥まった居間に通されると、執事が夜食を持ってきてくれた。タルト・フランベ――薄く伸ばしたパン生地に、玉葱、ベーコンを乗せ、クリームを掛けて窯で焼いたアルザス風ピザ――だった。バイヨンヌ以来ろくな飯にありついていなかった相馬は、有難くそのタルト・フランベ1枚を食べ切った。ゴロワーズに火を点け、熱いカフェ・オ・レにほっとしていると、ビゴーがこの2箇月の出来事を話し始めた。
ビゴーはビショップと同じことを言った。フランスだけではない、ヨーロッパの相当広い範囲の暗黒街の地図が、あっという間に丸ごと書き換えられてしまった。
台頭してきたのはイタリアの組織だと言う。少なくともこの南フランスに、3つのイタリア系組織が出張ってきた。しかもそれらは、これまでビゴーがそれなりに上手く付き合ってきたシチリア系マフィア――コーザ・ノストラとも違う組織だと言う。目立った場所では別々に行動している3つだが、実は根深いところでは1人のボスによって動かされているのではないか、ビゴーはそんな憶測を口にした。バラバラに動いているように見せかけながら、ビゴーの組織を追い詰める足並みは揃っていたからだ。
そのボスの正体はわかっていない。唯一わかるのは、そいつが実在すると仮定した場合、相当の大物だろうと言うことだけだった。
フランスの官憲までもが、そいつの言いなりに動いているからだ。
これまでビゴーの組織やシチリア系組織の大抵の活動に目を瞑り、甘い汁の分前すら求めてきた官憲が、あらゆる手段の摘発に躍起になり始めた。麻薬は言うに及ばず、酒場での少額のノミ行為にまで目を光らせ始めた。ビゴーの後ろ盾になっていた社会党が突然沈黙を決め込み、縄張り下にあった施設は次々と閉鎖に追い込まれた。直後に乗り込んできたのは、名前からしてイタリア系とわかる組織だった。彼らがビゴーの縄張りに侵入してくるのに対しては、官憲は完全に沈黙を守った。シチリア系の連中と並んでビゴーの組織と持ちつ持たれつの関係を築いてきたコルシカ系の面々は、早々マルセイユから引き上げた。官憲が手懐けられた以上、勝ち目はないとわかったからだ。
シチリア系組織の誰もが、新しく出張ってきた組織にしても人間にしても、これまで見たこともない奴らだと言っていた。イタリア人でありながら、フランスの官憲にまで圧力を掛けられる人物…、ビゴーは組織の全力を上げ、その正体を探りに掛かった。しかし人海戦術も、コネというコネを駆使しての調査もはかどっていなかった。途轍もなく高い壁が調査を阻んでいた。
――お前だけは何とか脱出させてやれそうだ。
数箇月ぶりの再会に過ぎないというのに、ビゴーは数年分老けてしまったかに見えた。70近い年齢ながら2人の愛人を囲うバイタリティの持ち主が、急に老人らしくなってしまい、疲れたような顔で言った。
――本来ならお前に例の黒幕を捜し出し、暗殺してくれと頼むところだが、活動資金源を根こそぎ奪われつつある今の儂らには、お前に仕事を頼むだけの余裕がない。
相馬はビショップのところから奪ってきた30万フランと、手持ちの10万ドルをビゴーに手渡した。
――活動の足しにしてくれ。わかってる、これは貸すだけだ。あんたらの組織が元通りになったら、きちんと返して貰う。
そして口には出さなかったが、手が空いた時には報酬なしで、そのイタリア人黒幕とやらを調べ上げてやろうとも思っていた。ビゴーにはそれだけの借りがあった。軍団から逃げ出してすぐ、当座の金もなく困っていた相馬を、配下の1人マルソー――相馬の傭兵仲間――の口利きがあったとは言え、ボディガードとしては法外な報酬で雇ってくれたのはビゴーなのだ。
自分に都合の悪いものなら何でも切り捨ててきた相馬だが、恩を受けた相手にだけは何らかの形でお返しをしてきた。今回もそうだ。
必ずビゴーに報いる。
フランスを離れる直前に、ドイツやスペイン、そしてイタリアに散らばっているかつての傭兵仲間たちの中でも、信用に足る面々に連絡を入れておいた。パリのルノワにもだ。ビショップよりは相馬と親しい彼らは、口々にビショップの裏切りを罵った。ビショップと違い、引退した今はそれぞれ正業に就いている彼らだが、目は曇ってはいないようだった。自分の周囲に垂れ込める妙な気配には、皆気づいていた。国内の変わった動きには目を配っておくと約束してくれた。
マルセイユからはビゴーの息の掛かった貨物船で出発した。そのまま地中海を東に進み、シチリア島沖を越え、ミルトア海からクレタ海に入り、6日後にアテネの港で降ろして貰う。
アテネ郊外カリテアには、これまた目立たない場所に偽名で買い取った小さな専用ドックに、ジェリコ45FTを係留してあった。オーナーズとVIPの2キャビンを備える豪華クルーザーだが、エンジンは軍用高速艇のものに積み替えさせ、時速60ノットまで叩き出せるようにしてある。アテネから1時間でミルトア海に浮かぶ孤島ファルコネラ島に到着するという速さだ。
ミロス島やクレタ島に囲まれ、ほんの10軒ばかりの漁師の家しかないこの小島の、人の出入りのない裏側に、相馬は総額1億ドル掛けて自分専用のアジトを建設していた。傭兵修行を始めて間もなく、ボスニア内戦に参加した折に近くを通り掛かり、一目惚れしてしまった海と島だった。纏まったカネが手に入ったら、必ず住もうと心に決めた場所だった。
100億ドルという空前の大金を手に入れて、それが叶ったわけだ。もう1つ、ニュージーランドの外れにもここと同じアジトを作った。実は金持ちになって最初に頭に浮かんだのが、これで世界中に設けたアジトの維持費に困らないという実にしみったれた感慨でしかなかったことに、相馬は内心自分に絶望しそうになった。どうも俺は大金を持っていい人種ではないらしい。300億ドルなんて、一生掛かっても使い切れないかも知れない。
地上では普通の1軒屋にしか見えないアジトだが、地下は4層に分かれ、総面積は優に500平方メートルを超える。電気は形だけは引いているが、大半は地下4階に置かれた発電機とバッテリーとが供給する。もともと気候のいいミルトア海なので、エアコンなどは滅多に使わなかった。但し極端に雨が少ない地方なので、水の蒸留だけは必要だった。石灰分の多い水を蒸留するための機械は、高額なものを買い入れた。
他の3層はトレーニング場、弾丸の製造や銃の調整の出来るレンジルームのついた室内射撃場、そして核戦争が起きて滅亡を待つだけになっても1年以上過ごせる食糧や水を保存できるシェルターであった。バスルームや寝室もついている。
地上の居住部分は、まだ内部が全く片づいていなかった。若林に片づけを手伝って貰う積もりでいたのだが、あのイギリスの事件以来、彼とははぐれた形になったままだ。ふと若林のことが気になったりした。その日は射撃場やトレーニング場に送られてきた荷物を開き、〈賢者の城〉でクルーガーが設計してくれたものと寸分違わぬトレーニングマシンを組み立て、数トンはあるそれを超人兵士の力を駆使して設置するのに1日が潰れた。
翌日も午前は荷の整理に費やした相馬は、午後から、実に1年半ぶりにトレーニングを再開した。
若林の義手同様、ガス圧を利用したトレーニングマシンだ。3トンもの負荷を掛けられる。クルーガーの図面を元に製作したのは、ブルドーザーやらフォークリフトをチューンナップするのが専門のオーストラリアの工場だったが、何のための機械なのか最後まで訊きたがった。彼らには口止め料の意味も込め、3倍の報酬を支払っておいた。建物もそうだ。いくら豪華な造りとは言え、城でもないアジトに1億ドルもの金を要したのは、口止め料を惜しまなかったためである。
超人兵士にされてすぐの頃は、見様見真似で始めたトレーニングだったが、今は結構本格的なものに近づけられた。それも、なるべく超人兵士の力を発動せず、常人の力のまま負荷を徐々に上げていくのだ。そうすることで、いざ力が必要となった時に、鍛えた自前の肉体に超人兵士のパワーが加わり、並の超人が発揮できる以上の力を出せることを、相馬は経験で知っていた。チェストプレス、スクワット、レッグエクステンション、リストカール、ダンベルプレス、デクライン・ダンベルプレス、後背筋を鍛えるプルダウン、脊柱筋を鍛えるデッドリフト…。
超人兵士の力を発動しないようにするには、意識を筋肉に向けず、別の方向に逸らすのが効果的だった。頭をいろいろな考えで満たす中、かつて抱いてきた女たちの記憶を動員するのが一番だとわかった。トレーニングの最中、脳裏に、学生時代から始まり超人兵士にされた後まで関係した女たちの肢体が渦巻いた。しかしカトリーヌのことだけは出てこなかった。あれだけの時間をともに過ごした女は、超人兵士になる前もなった後も、彼女しかいなかった。にも関わらず、彼女との交わりは夢の中の出来事のようで、実感が伴わないからだろう、そう思っていた。
1日8時間から12時間をトレーニングに費やした。ウェイトトレーニングの合間にはヨガやランニングを行った。島の周囲を走り、険しい断崖を登った。食事には特に気を遣うことなく、身体が求めていると思えるものを摂り続けた。自前で作るだけでは身体の求めるものに追いつかず、各種ビタミンのタブレット、大量のプロテインやグルタミン、クレアチン、BCAAなどはサプリメントで摂取した。糖分とクエン酸は果物で補充する。地中海は果物の宝庫なのだ。
他の時間は階上の整理、室内射撃場の整理で潰した。食っては眠り、起きてはトレーニングに励み、身体の調整に専念した。
汗にまみれても決してトレーニング中は水に手を伸ばさなかった。スポーツ医学に反したこだわりだが、相馬は最近のスポーツ医学を信じていなかった。運動中に水分は失われる、補給しなければ脱水症状に陥る、それは真実だろう。しかしそれは同時に肉体なり精神なりを甘やかすことに繋がっている気がして仕方がない。昔に比べ、近年のスポーツ選手に怪我人や故障者が多いのも、それとあながち無関係ではないと相馬は思っている。
身体のあちこちに吹き出物が現れ、それらを潰し、次が出なくなってくる頃、肉体が本物の張りを取り戻し始めた。2週間掛かった。超人兵士の力を動員したチェストプレスで2トン、レッグプレスで4トンを持ち上げることが出来るまでになる。
だが、まだ不完全だ。外側の筋肉を鍛えても、身体の奥底、骨の周囲についた各筋肉が落ちたままだ。軍団にいた頃、その筋肉の存在にようやく気づいた。それが不足しているせいで、いくら空手を習っても、蹴りがなかなか上達しなかったのだともわかった。どうにか育て上げたその筋肉が、落下のダメージとその後の休養のためにすっかり落ちてしまったこともわかっていた。
白髪の再発にだけは注意を払いつつ、相馬はトレーニングを続け、5日に1度、ジェリコ高速艇でカリテアまで買い出しに出掛けた。島では売っていない新鮮な野菜や果物、肉やソーセージ、ベーコンを買い、水や日用品を補充、ペリプテロ――ギリシャのキオスク――で煙草も買い込む。世界各地から私書箱に届けられた荷物――手当たり次第に注文していた書物や銃器、その部品、頼んでいたオーディオ機材、愛用の銃に使う種々の弾丸を自作するためのハンド・ローディング機材や旋盤など――を受け取るためでもあった。
身体奥底の筋肉を戻しつつ、愛銃M29カスタムを修理し、アジトの全フロアを見栄えのするものに整頓し終えた頃、9月になっていた。
いつもの買い出しを終え、島に戻った相馬は、漁師たちから新鮮な魚貝類を買い込んで、アジトに帰宅した。カサゴとマトウダイ、スズキのブイヤベースと、マグロの塩漬けのステーキを中心とした夕食を平らげ、サウナで汗とともに悪いものを絞り出し、ジャグジーバスにゆっくり浸かった後、夕陽の見える寝室兼居間にて時間を掛けてコーヒー豆を挽いた。淫靡な記憶には蘇ってこなかったカトリーヌの面影が、この場所でははっきり蘇るのが不思議だった。
豆は注文で取り寄せたマウカメドウズの深煎りだった。それを粗目に挽き、ドリッパーに移すのだが、相馬はその前に敷いた濾紙まで湯で濡らした。紙の臭いがコーヒーに移るのが嫌だったからだ。水にはアテネやカリテアでも簡単に手に入るボルヴィックやエヴィアンを使う。クルーガーまでもが相馬のコーヒーは絶賛してくれている。悪い気はしなかった。学生の頃から、コーヒーにだけは手間と金を掛けてきたのだ。
そう言えばこの趣味の始まりも、当時の恋人の味覚に負けたくなかったからだったっけ…。
粗い豆が湯を吸い、膨らむと、居間にコーヒーの芳香が漂った。相馬は褐色の滴が落ち切るまでの間、CDをセットし、キャビネットからアイリッシュウィスキー〈ボウモア〉の壜を持ち出してくる。酒を好んで飲まない相馬だが、この酒だけはイギリスの事件の際、すっかり気に入ってしまったのだ。
ボウモアをコーヒーに垂らし、マスターウォールのソファに深々と腰掛けると、ナカミチのCDプレイヤーに繋がれたBOSEのスピーカーが、深い弦楽奏を鳴らし始めた。イ・ムジチの演奏によるヴィヴァルディの『四季』だ。相馬は特に〈冬〉の第1楽章が好きだった。
低い弦楽の旋律が身体の深い場所をえぐるように鳴り始め、次第に高くなっていく。その真ん中を、アーヨ奏でるヴァイオリンの高音がつんざくように貫く。たかが10人の演奏とは思えない圧倒的な迫力で、主旋律のメロディが居間に朗々と響き渡る。きついトルコ葉をブレンドしてある〈キングジョージ〉に火を点け、陶然と聞き惚れながらウィスキー入りコーヒーを啜る相馬は、ソファに横になり、読みかけの『キャプテンと敵』を手に取った。精神、肉体の緊張がほぐれていくのがわかる。
9月のこの時期は、気温と言い湿度と言い、最高だった。もっとも港町があるだけあって、蝿が多く、窓を開け放つわけには行かないのが難点だった。建てて4箇月経たないのに、海風を受けていない北東の窓や壁は、既に蝿の糞や卵だらけだ。
しかしこの天候も永久には続かない。まあ、寒くなるこれから先は、ニュージーランドのアジトに移ればいいだけの話だ。
この生活を死ぬまで続けることも出来るのだ。
もっとも、こんな生活ばかりを送っていたら、自分が駄目になることはわかっていた。平穏と安逸は、人間の野性を鈍らせる。肉体を鍛える作業を怠っただけで、衰え、敵に撃たれ死んでいった超人兵士たちが何人いたことか。その点、まだ相馬にはやることが残っていた。約2名に対する恨みが消えたわけではなかったし、ビゴーへの恩返しは結構な手間暇を食いそうな事案であった。
身体が納得いくくらい戻ったら、動き始めるとしよう。そう思った時、しばらく瓜生や若林に連絡を取っていなかったことを思い出した。
本を置いた相馬は電話を取り上げた。
島の人間には電話を引いたことは秘密にしてある。貧しい島では電話も珍しく、これがバレると誰彼構わず毎日のように電話を借りに来られるに決まっていた。だから海底に電話線を敷く時も、工事を内密に進めて貰わねばならなかった。お陰で口止め料を含め、米ドルで5万ドルを毟られた。ブラックペガサスの苦労がわかった気になった。
久々にドイツの電話会社に連絡を入れる。
その会社はサービスの1つとして、注文に応じたメッセージの保管をやっていた。瓜生、若林、相馬の3人はそこの1回線を買い取り、月に1度、そのメッセージセンターに近況を吹き込むことにしていた。緊急の要件がある時は、メッセージセンターから指定した番号にメッセージが転送される仕組みもあった。電報での連絡が出来なくなって、どうにか思いついた手段だった。若林とロンドンで再会したのも、この回線を使ってのことだった。が、元来不精な瓜生などは月1度の吹き込みさえ忘れることが多かったし、相馬に至ってはこの2箇月間、電話も出来なかったし緊急連絡を受け取れる場所にもいなかったわけだが。
最新のメッセージは瓜生からのものだった。
――久々に会わねえか? ベガスに新しいカジノホテルがオープンするんだってよ。根こそぎ掻っ攫ってやろうじゃねえの。
それを聞いた相馬は、音楽を止めた。もう2度ばかりメッセージを繰り返させる。コーヒーを啜っていたその眉が顰められた。
妙な気がした。
確かに瓜生の馬鹿は無類の新しもの好きだ。しかし使う車と遊ぶ場所に関してだけはこだわりを持っている。どこの誰に追われていようが、そこだけは変えない。自分の認めた1流ドコロにしか手を伸ばさない男なのだ。そんなあいつが、評判の立つ前の新しいカジノで散財しようだなどと…。相馬がそれに気づき得たのは、彼が若林と違い、いつも瓜生のことを懐疑的に観察していたからだった。そしてこの時の彼の勘は正しかった。
そのメッセージは、フォート・ブラッグ基地で録音された瓜生の声を繋ぎ合わせ、口調のリズムまでをコンピューターで解析して仕上げられた、NSA苦心の作であった。そして瓜生には、緊急連絡を使って相馬の声を繋いだものが送られてあった。
もちろん作らせたのはデービッドだ。
その後に若林のメッセージも入っていた。行く積もりらしい。相馬はすぐさま、オレゴンのクルーガーに連絡を入れた。
――調べ物をしろ、だと?
朝に弱いクルーガーは実に不機嫌に言った。アメリカはまだ午前だった。
――お前と言い若林と言い、儂をただの便利屋だとしか思っておらんだろう。
散々文句を言いつつ、クルーガーは1時間足らずで、〈ラ・ホヤ・インペリアル〉のことを調べ上げてくれた。
――おい相馬、このホテルは何だ?
――それは俺の質問だ。
――随分デカいホテルだが、株主も不明、出資者も不明。少なくとも合衆国内でこのホテルの建設に出資した民間法人は1つもないぞ。
――じゃあ、他の国からの出資ってことか?
もしかして、〈R〉かとも思った。
――いや、ウォール街の記録も今見てるんだが、この1年で合衆国に流れ込んだ金がここに使われた形跡は皆無だ。
――どういう、ことだ?
クルーガーは苛立たしげに言った。
――わからんか。これだけの規模のホテルを造った金が、どこから出たのかわからんと言うことだ。どこかの法人が内密に出資したというなら、国税局が動き出している筈だが、それもない。どこの銀行からも借り入れすらしていないんだ。億単位か、それに近い額のドルを、誰の助けも借りず、国税局からも疑われずに動かしたと言うことだ。
――軍か、政府か?
――それはわからん。記録の残らない、しかも国税局を黙らせるだけの手段が、もしかしたらあるのかも知れん。唯一言えるのは、このホテルを建てた人間が、まともな一般人ではないということだ。
相馬は今度こそ確信した。やはりこいつは罠だ。
――そう言えば、若林が近いうちにこっちに来るとか言っておったが、まさかその前にこの怪しいホテルに泊まろうとかしておらんだろうな? 止めておけよ。儂にはまるで…、
その言葉を最後まで聞き終わらぬうちに、相馬は礼を言って電話を切った。
約束は、14日になっていた。もう13日の夕方ではないか。相馬は慌てて出発した。集合が現地時間なのが幸いだった。時差が9時間はあるので、どうにか間に合うかも知れなかった。
肉体、特に身体の奥底の筋肉も、まだ完全回復とまでは行っていない。しかしそれも後回しだ。
数本の電話を架けた後、相馬は1掴みの現金とM29カスタム、デリンジャーだけを持ち、ジェリコ高速艇で島を出た。
イベリア航空便でパリにまで飛び、ニューヨーク行きの便に乗り換える。悪天候などの邪魔は入らなかったが、3時間の待ち時間が間に生じた。相馬はジリジリしながらド・ゴール空港で、そして機内での数時間を過ごし、安全ベルトの金具を掴み潰しそうになった。
ニューヨークのアジトから持ち出したのは、これまたお馴染みのガリルARM自動小銃だった。もちろん〈賢者の城〉で失くしたのとは別のものだ。相馬はこの銃を20丁買い込み、部品から銃身から全部精密に調べさせ、特に精度のいい3丁をカスタム化していた。失くした1丁はいずれ補充しなければならない。
それと、ブローニングM2機関銃にも使われる50口径――12.7ミリ弾を使用するバーレットM82ライフルも抱え出した。軽装甲車の車体など簡単に貫通できるため、アンチ・マテリアル・ライフルとして分類されているバーレットだが、弾丸の威力が大きすぎるせいか、半自動式の機関部が故障することも多いと聞いていた――現に、故障した。いずれ知己のカスタムメーカーに調整を頼む積もりだったが、その暇はなかったわけだ。代わりに弾丸は、弾頭にペトン爆薬を詰めた特注品を持っていくことにする。
愛用の拳銃2丁を身につけ、分解した長物2丁をトランクに詰めた相馬は、飛行機は使わなかった。荷物検査に引っ掛かりたくなかったからだ。エルムスフォードに開店したばかりの日本人オーナーの中古車ショップで、偽造免許証とそれで作った保険証書を使い即金で、中古のトヨタMR2を買う。走行距離はたったの7000キロ、中も外も新車同然だった。オートマティック車ではないからと売られたのだそうだ。ズボラなアメリカ人はマニュアル車を面倒臭がると瓜生から聞いていたが、本当だな…。
運転に自信があるわけではないのに、純正スポーツカーを買ってしまった。ままよ…、派手な黄色のMR2を、相馬は発進させた。市街ではクラッチの繋ぎ具合やらを確かめたくて、ついつい慎重な運転になるが、ニューヨークを抜けたと同時に、アクセルを目一杯踏み込んだ。
ラスベガスを目指して。
(9)
…火を点けたウィンストンを咥えたまま、相馬は転がる超人兵士4人に近づいた。4人の死を確認して歩く。ディオールの象牙色のサマースーツの背中を眺めながら、失神寸前の瓜生が言った。
「お前、死んだって聞いてたぞ。ロケットで上空に打ち上げられて」
「ああ、死にかけた」頭を失った死体を蹴り飛ばし、転がるマドセンにはM29カスタムから止めの1発を撃ち込み、相馬は言った。「1万メートルからの落下は流石にきつかったぜ」
「しかし生き残ったわけだ。しぶといねえ。おまけに美味しいところを持ってくじゃねえか」
「当たり前だ。お前とは普段の行いが違う」
巨漢クレイブンの死体の胸ポケットから、リモコン装置らしきものを取り上げた相馬は、唇をへの字に曲げた。瓜生と剣吾を同時に見遣る。「若林はどこだ?」
ボウイナイフを握り締め、片膝をついていた剣吾の肩がピクリ、と揺れた。撃たれた腹を押さえ、腕の力だけで上体を起こした瓜生が、居心地悪げに目を逸らした。穴だらけになった腹からは今も血が溢れ出し、床のコンクリートを黒く染めていた。流れ出す血そのものが黒かった。肝臓や胆嚢を貫かれ、腸がパンクさせられていた。漏れた胆汁や排泄物が、血に混じって銃創から流れ出しているのだ。
白かったトレーナーも赤と黒の縞になっていた。このままでは全身に雑菌が回って、ひどいことになるだろう。
しかし相馬の目は、瓜生より剣吾に向いていた。正しくは彼の手が握る、見覚えのある義手の1部に。相馬の顔つきが変わった。咥えていた煙草が落ちる。
「おい、若林は…」
「死んだよ」
床に落ちた、ヘナヘナになったベレー帽を拾い上げ、瓜生が投げやりに言った。
相馬の表情が凍りついた。
…ヨーロッパからここまで、ずっと超人兵士4人に追わて続けていたこと。彼らの視線があまりに強烈だったためだろうか、このホテルでの監視に気づかなかったこと。そもそもこのホテル自体が、1つの巨大な罠だったこと。
「1つ、見落としはあるがな」瓜生の説明を聞いていた相馬が、声だけは穏やかに、言った。「ヨーロッパでお前を監視してたのは、多分こいつらだけじゃない」
「心当たりがあるのかよ」
「後でだ。で?」
「奴ら、俺たちの連絡方法を割り出してやがったんだ」
「ああ、知ってるよ。そしてお前の声に細工した」
「お前のもだ」
「成程ね。お前の言う、奴ら、ってのは?」
「あのデービッドの野郎だよ。それと、あの、デルタの隊長の…」
「スコットか!」
相馬の奥歯が軋んだ。また、あいつか…。
〈賢者の城〉でもあいつに出し抜かれた形で終わった。いつか必ず借りを返してやる。その思いが燻り続いていた。娑婆で銃弾を撃ち込みたい2人の1人は、あのスコットだった。
しかし今度は“燻って”では済まなくなった。
瓜生は半分どうでもよかったが、若林は相馬にとって大事な――それなりに、ではあったが――相棒だった。その若林が死んだ。殺された。それにあのスコットが一枚噛んでいる。握り込んだ拳がメリメリメリッ、と音を立てた。
どんなことをしてでも銃弾をぶち込まなくてはならない相手の順列が変わった。
最近ようやく本気になることを覚えた相馬だった。そして今、若林の死が、他人を信じず、歯牙にも掛けなかった彼を、また1つ変えようとしていた…。
「ゲームみたいな罠が仕掛けられてた。若林の奴、俺を庇って酸を浴び、那智を庇ってレーザーを食らった」
目を背け、ヘッ、と嗤った瓜生は、腹に激痛が走ったらしく、しばし苦悶した。しかし苦悶が治まっても、その顔をすぐには上げなかった。呟く。
…馬鹿な奴だぜ、俺たち他人を救うために、自分を盾にしやがった。そもそもロマンチストだとは思ってたが、それに殉じるたあ恐れ入ったよ、全く。
ようやく顔を上げた瓜生は血塗れの禿頭を、手にしたベレー帽で拭った。薄い頭皮に食い込んでいたコンクリートや銃弾の欠片が、回復とともに押し出され、パラパラと床にこぼれた。ひしゃげたベレー帽を被り直し、「おい、煙草くれよ」
「その怪我で煙草なんて吸ってみろ。10秒であの世に行くことになるぞ」
その瞬間、ボウイナイフを床に突き立て、剣吾が立ち上がった。
相馬が顔を向ける間もなかった。剣吾の動きは怪我人のそれではなかった。グシャッ、という音が響き、相馬の目が追いついた時には、殴り飛ばされた瓜生が、駐車場をボールのように転がされていくところだった。1台のクライスラーの車体にその痩身をめり込ませる。
枯葉のようなベレー帽が彼に遅れて、駐車場を転がっていった。
瓜生の頬骨は車体同様凹んでいた。しばしの間、視線が定まらない。開け放った口から奥歯が2本、血とともに転がり落ちる。
「何が、馬鹿だ」
剣吾が燃えるような眼差しで瓜生を睨み、クライスラーの前まで歩み寄った。
「命まで救われて、それが感謝の代わりに出す言葉か」
「………」
「若林はな、そこまでしてあんたを守りたかったんだ。なぜだか、わかるか?」
ほとんど原型を留めていない剣道着から、十数発の銃弾がこぼれ落ちた。
「あんたは、若林にとって、仲間だった。彼が、やっとのことで見つけた、彼にとっては特別な人間だったんだ」
ようやく視界の定まった瓜生が顔を上げた。同時にその顔に怯えが走った。
ギラギラ光る剣吾の眼差しに、尋常ではないものが宿っていた。
「それなのにあんたは、こともあろうに若林を裏切り者呼ばわりしたんだぞ!」
相馬が制止する間もなかった。次の動きも相馬には見えなかった。こいつ、しばらく会ってない間に、とんでもない力を身につけてないか…?
剣吾は握り込んだ右拳を瓜生の顔目がけて突き出していた。
瓜生のもたれ掛かるクライスラーが横転した。
車体には大穴が空き、煙が上がった。車内に設置された警報装置が耳障りなブザー音を上げ始める。大口径レーザーに裂かれ、ようやく薄皮が張ったばかりの剣吾の右拳も、再度肉が裂けていた。
相馬が安堵の表情を浮かべ、すぐに消した。ウィンストンをもう1本咥え直し、右手にマグナム、左手にリモコンスイッチを持ったまま、外の様子を探りに、駐車場の出口に向かう。さっきの台詞は、いつもの瓜生の減らず口だ。若林の死を悼み、誰よりも申し訳ないと思っているのは、多分あいつなのだ。馬鹿はお前だ。それも相変わらずだ。こんな時くらい、ちゃんと口に出せばいいものを…。
傷の塞がったばかりの瓜生の禿頭が、じっとりと汗を浮かべていた。目には未だ、微かな怯えがあった。剣吾は瓜生を見ていなかった。血塗れの己の拳を見つめるだけ、いや、それすら今の彼の目には映っていなかった。
「だが、そんなあんたでも、若林は守った」
そう、何としてでも守りたかったんだ…。
「だから僕も、あんたの命は取らない。でも忘れるな」
「………」
「僕はあんたのことを決して許さない」
…銃声が止んだのに安心したかのように、再び野次馬が集まり始めた。人が人を呼び、野次馬は1000人以上に膨れ上がった。1等地とは言えないこんな場所に建てられ、会員制だか何だか知らないが、地元民を一切寄せつけなかったこのホテルで、今一体何が起こっているのか、興味が興味を呼び、それが人々の足を進めた。そんな中…、
ホテル〈ラ・ホヤ・インペリアル〉は、クレイブンの仕掛けたHMX爆薬により、大爆発を起こし、倒壊した。
ホテルの無事だった方の壁が崩れ落ちた。瓦礫やガラスが飛び交った。野次馬の先頭集団はその2つにもろに巻き込まれた。少なくとも30人以上の死者が出た。まだ日の暮れるまでには間のあるラスベガスは大混乱に陥った。
救急車や消防車に加え、だんまりを決め込んでいた市警も今度ばかりは出動してきた。しかし10台のパトカー群は、逃げる人々の波にぶつかり、現場に辿り着けもしなかった。たった30人の制服警官では、押し寄せる数百人のパニックを収拾できよう筈もなかった。そもそも合衆国で最も治安の良い都市の1つラスベガスだ。未曾有の大惨事が起きたとしても、弛み切ったラスベガス市警にどうにか出来るわけがなかったのだ。
そのパニックを縫うように、相馬の運転する派手な黄色のトヨタMR2が、瓜生の指示に従い、裏道を抜け出しつつあった。
「お前にしちゃ、なかなかの車を選んだじゃねえか。ただ、色が悪いな」
「吐かせ。それよりシートベルトをしろ」
「傷が痛えんだ。シートベルトは勘弁しろ」
剣吾は相馬の探してきたホテルの従業員用のシャツとズボンを着せられていた。上には昼間若林がBMWのサイドボックスに入れっ放しにしていた革ジャンパーを羽織った。ジャンパーの下には、奪ったボウイナイフ――象牙の柄のバック社製ウォールハンギング・ボウイ――が握られていた。ボロ布と化した剣道着はラ・フォルシュの死体に着せた。瓜生の方は腹の傷の回復が思わしくなかったため、ズボンを替えられなかった。仕方なく今の服の上からコックの白衣を纏わせた。頭にはベレー帽の代わりに、これまた白のコック帽を乗せた。
その瓜生を、チャールストン・ブールーバードで降ろした。相馬の運転では安心できない、自分の車を使う、と言い張ってのことだったが、狭い後部座席から剣吾の発する拒絶に耐え切れなくなって、というのが本音だろう。MR2の助手席から、時折チラチラとバックミラーを窺う瓜生の目が、珍しくおどおどしていたのに相馬は気づいていた。
落ち合う先だけを決めて、瓜生はMR2のドアを閉めた。まだ激痛が残るらしく、腹を押さえ、何度も倒れそうになりながら路地裏に消えていく。
助手席に移った剣吾が、シートに敷いていた血除けのビニールを畳んだ。窓の外に目を遣る。「爆破する必要があったのか?」
「当然だ」シフトレバーを1速から2速に変え、重いクラッチをゆっくり離し、アクセルを浅く踏み込んだ相馬は、バックミラーを覗いた。ここからでは上がる煙を除いては、ホテルの惨状は見えなかった。周囲を油断なく窺い、ゆっくりとトヨタを走らせる。「ホテルが無事なままだと、お前たちの死体がないのがすぐバレる。敵の捜索が始まる前に、出来るだけ遠くに逃げとかなくちゃならんからな」
ようやく車がスムーズに走れる道路に出た。3速から4速に入れた相馬は、シガレットライターで咥えたウィンストンに火を点けた。状況を知るために、カーラジオを入れ、ダイヤルを合わせる。巻き添えを食った連中は気の毒と言えなくもないが、野次馬やってて自分たちだけは無事でいようとか考えてる連中には、いい薬だっただろうぜ。人間、生きていくだけで何らかのリスクがつき纏うってことを思い知るべきだ。
「痛い目に遭いたくなけりゃ、野次馬なんてやらなきゃいいんだよ」
相馬はシフトを5速に上げ、アクセルを思い切り踏み込んだ。MR2は蹴飛ばされたような加速を始めた。スーパーカーの乗り心地には及ばないが、200キロを出してもMR2の車体は揺れも軋みもしなかった。相馬はここに来た時同様、超人の感覚を動員して、ハンドルを握った。豪快なエンジン音を上げ、同じ方向に向かう車をどんどん追い抜きながら、MR2は太陽の沈む地平線に向かって走る。
目的地は、オレゴン…。
(10)
…オレゴンは合衆国で最も自然保護に熱心な州として知られる。
州名の由来が不明なのは、合衆国でも珍しい。中央を流れるコロンビア川の語源がオレゴンだったという説もある。『サンセット州』『ビーバー州』などのニックネームが、ここの環境保護に対する姿勢を物語っている。訪れる観光客は多いが、住民の本音も、環境破壊を恐れるが故に、“訪問は歓迎するも滞在は嫌う”と言うものらしい。
州都はセイレムだが、最大都市はポートランドだ。そこでも人口は40万人を超える程度だ。流行を受けつけず、人を呼ぶアトラクションなどにも安易に飛びつかない。この土地を愛する多くの人々が、ここは古き善きアメリカを最も色濃く残すと口を揃えて言う。
ポートランドは薔薇の都として名高い。街のあちこちに街路樹とともに薔薇の植え込みが点在し、季節的な盛りを過ぎた今も、かなりの数の大輪が道行く人々の目を楽しませる。マウント・フッドやマウント・セントヘレンズなどの高峰をすぐ目の前にし、温帯と冷帯の境目に当たる街の郊外は、杉や樅などの常緑樹と、イチョウやポプラなどの広葉樹が文字通り混在している。
そのポートランド郊外、街外れからルート24に入ってすぐの、グレシャムという小さな町に、ハワード・クルーガーの家があった。
軍団に拉致され、2度と娑婆に戻れないかも知れない畏れもあるというのに、クルーガーは細工に細工を重ねていた。軍団で高度な研究に取り組む合間に、ブラックペガサスの機能を借りてカナダの州や市役所、警察のコンピューターに侵入し、自分の失踪記録を全て削除した。自分の関わりのある人間や組織には、手紙なり電話なり、怪しまれない程度の頻度で連絡を入れた。
ブラックペガサスには自分が拉致されたことを気づかれないためと巧みに言いくるめながら、実はクルーガーは自分が戻れた時に備え、軍団にいた事実をとことん隠蔽してしまっていた。戻った際に合衆国だのどこだのの政府やら諜報機関やらに訊問され、行動の自由を奪われるなど真っ平だったからだ。
その徹底した用心深さ故、クルーガーはどこの国からの疑いも招いていなかった。もともと人間嫌いで通っていた彼だ。どこかに隠遁し、数年顔を見せないくらいは大して珍しくもないと思われていたようだ。おまけにグレシャムのこの家は彼名義のものではない。取った特許は数知れず、金を生む木である彼に集まってくる、甘い汁を吸いたがる寄生虫も多かった。そいつらを巧みに手懐け、手に入れた1つがこの家というわけだ。
それでもこの家の連絡先は相馬、若林、瓜生にだけは教えておいてくれたのだった。
高台の上にある家は、全部で4部屋しかない1軒家だった。
坂の下を流れるコロンビア川が眼前に見渡せ、道路に面した表の庭からはマウント・フッドの雄大な眺めが一望できる。近隣は高所得者の集う閑静な住宅街で、クルーガーの家の小ささは際立っていた。
しかし地下は2階まであり、相馬のアジトに似て、地上の面積の数倍のスペースを持っていた。似ているのも当然、相馬のアジトも設計したのはクルーガーなのだ。
手に入れた時には地上の建物しかなかったこの家の、地下を掘り下げるのには、相馬のアジト以上の手間が掛かった。何しろ環境破壊に対しては目くじらでは済まないオレゴンの中だ。工事は徹底した内密裡に済ませる必要があった。ここでもクルーガーのコネが物を言い、内密に仕事を請け負ってくれる連中はすぐに手配できた。その連中にはクルーガーは自分の正体を明かした。明かしたからこそ研究施設が必要であることの正当性を説くことも、この家の謂わば改造とでも呼ぶべき大改修を、怪しまれずに終わらせることも出来たのだ。
そのクルーガーがこだわったのが、研究施設の確保だった。地下の2フロアには巨大な発電機と、彼が自ら収集した最新機材が山のように積まれてある。手に入れたこの家の改造と並んで金が掛かった。改修にかなりの額を既に注ぎ込んでいたため、流石に資金不足に陥りそうにもなったのだが、トレーニング機材やアジトの設計を頼んだ礼金として、相馬が当座の不足分を補填したりもしていた。
そしてなぜか若林までもが、補填には一枚加わっていた…。
もっともこの3日間は、相馬も瓜生も、そして剣吾も、クルーガー自慢の研究施設を見物する余裕などまるでなかった。
地上のガレージに、ブラウンのランドローバー・ディスカバリーが滑り込んできた。2台分あるスペースの1台分には、瓜生のフェラーリF40が停められていた。相馬のトヨタMR2は裏庭に放置されていた。
そのフェラーリの横にローバーを停め、大きな買い物袋を抱えたクルーガーが降りてくる。
家の地上部分、最も奥まった場所にある寝室で、瓜生が呻き声を上げ続けていた。
広大なベッドを1人で占領した瓜生の裸の腕には、3本の注射針が突き刺さっていた。注射針の1本は薬品と抗生物質とが調合されたボトルに、別の2本は血漿製剤と栄養剤、そして点滴のボトルに繋がっていた。3本のボトルが吊り下げられたスタンドを引き摺りながら、トイレで下痢と嘔吐を繰り返す瓜生は、ただでさえ痩せていたのがますます痩せこけた。
相馬の場合と違い、ここは合衆国国内だ。医者を呼ぶわけには行かなかった。薬はクルーガーと相馬とで知識を出し合い、本から調べ、偽造した処方箋でクルーガーがポートランドの薬局から仕入れてきた。今の瓜生には必要最低限の手当にしかならなかった。後は超人の回復力に賭けるしかなかった。
レーザーで撃ち抜かれた腰椎は、細かい神経の接合を除いてひとまず回復した。銃弾に貫かれた身体もだ。しかしパンクした腹の中でズタズタにされた腸の回復だけは遅れた。雑菌の住処であり、人体で最も腐敗の進み易い箇所でもある腸だ。その怪我は、蜥蜴の回復力を誇る超人瓜生をしても、生と死の境目を彷徨わせる程の重篤なものとなった。下手に食事を抜いたりしていなかったのも災いした。腸は腐敗と回復を繰り返し、瓜生に40度を超える高熱をもたらした。それでも水が飲めないのだ。飲めばたちまち死んでいたことだろう。だから生理食塩水と乳酸リンゲル液をブレンドした点滴で、脱水症状が危険な領域にまで達するのを防ぐしかなかった。
「超人兵士でもここまで苦しむことになるとはな」灯りを消した寝室を覗いては、相馬は何度も呟いた。「撃たれるなら、腸は避けろってことだな」
ただでさえ腸が弱かった相馬だ。瓜生以上に苦しむことになるだろう。
「まだ言っておるのか。撃たれる真似をしなきゃ済む話だろうが。そろそろお前らも平和に暮らすことを覚えろ」ガレージから居間に入ってきたクルーガーが、テーブルの上にローバーのキーと買い物袋を置いた。ドスンとソファに尻を沈め、ホルベックのパイプを磨きながら、不機嫌そうに唸る。「そんなことより、早く飯を作れ」
「へーいへい」
ワイシャツ姿の相馬はクルーガーがグレシャムで買ってきた食材をキッチンに運んだ。まずラム肉の塊に、塩と胡椒を擦り込み始める。あちこちに出歩くわけには行かない彼らの代わりに、居候される側のクルーガーに買い物まで頼むしかなかったのだ。それは流石に気が咎め、料理は相馬が担当した。
火を消してしばらく経つアルミのドラム鍋で、1度煮立ち溶けた大蒜と玉葱のスープに、大量に投入した多種のキノコから出たエキスが絶妙に滲み込んでいた。それを塩と胡椒で味付けし、もう1度温め直しながら、その中にラム肉を漬け込み、灰汁を取りながら丁寧に煮込んでいく。安物の赤ワイン半壜と切り分けたトマトも鍋に投入し、弱火にして蓋を閉じた相馬は、その手を休ませることなく紅茶を淹れた。熱いポットを居間に運んでくる。
「おう、来た来た」
居間のソファで踏ん反り返ったクルーガーが、ロイヤル・クラウン・ダービーの金彩縁の花柄カップに口をつけた。
「こいつに任せておけば、紅茶だけは美味く飲めるわい」
「だけは、ってのが余計だ」
紅茶党のクルーガーは、ロンドンのトワイニングからわざわざ質のいい早摘みを届けさせていた。相馬には実はコーヒーだけでなく、嗜好品になら何でも手を伸ばしてみる節操の無さがあった。だからクルーガーの紅茶も、実に巧みに淹れてみせる。
「お前も飲まんか?」
カップの半分飲んだ紅茶にアルマニャックを垂らしたクルーガーが、居間の隅にワイシャツ姿で腰を下ろす剣吾に声を掛けた。
応えは、なかった。
3日間、剣吾は何もしなかった。居間の隅にじっと座り込み、奪ったボウイナイフを傍らに置き、ただ暗がりで瞼を閉じているだけであった。それでも眠ってはいないとは、今のように声を掛けると目を開けるため、すぐわかった。暗がりに切れ長の目だけが光っていた。相馬や瓜生がそんな顔をしていれば、辛気臭いと怒鳴っただろうクルーガーも、剣吾相手では何も言えなかった。
剣吾と若林が、短い間にどれだけ深い繋がりを築いたか、彼は知っていた。
「おい相馬、飯はまだか」
「待ってろよ。まだ煮込み始めたばかりだ。あんたは腹を減らしたガキか」
「とっととせい。お前と言い若林と言い、人をこき使うだけこき使ったんだ。たまには儂のために働け」
「何だ、若林まであんたに何か言いつけたのか?」
「ドルを円に替えろだの、それも恐ろしい額だぞ、それに精神科の良い医者を探せだの。儂は電話帳か何かか。死んだ今では文句も言えんわ」
精神科の医者、だと…、呟いた相馬は何だかわからない顔をしていたが、自分の紅茶を注ぎソファに座った瞬間、剣吾が視界に入った。ああ、と声を上げる。
クルーガーは目で、そうだ、と頷いた。
そのクルーガーの文句が止む瞬間があった。剣吾の羽織ってきた若林のNAVの革ジャケットから、小奇麗にラップされたパイプ煙草が出てきたのを見たのだ。流石に声を詰まらせたクルーガーの、白く濃い眉毛がしょぼしょぼと動いた。
クルーガーだけではない。相馬もキッチンに立ち、料理をしたり紅茶を淹れたりしながら、ふと視線を彷徨わせる一瞬があったし、気絶している際も唸っていた瓜生ですら、ふと静かになる時間があった。
…相馬が仕上げに、ドラム鍋にパプリカとシナモンパウダーを少量入れた。黒胡椒と煮込んだトマトの芳香が居間にまで漂ってきた。呻いていた瓜生が嗄れた声を上げる。
「畜生、俺にも食わせろ」
「おう、食ってもいいぞ。1口であの世行きだ。今、持って行ってやる」
「てめえ覚えてろよ相馬」
相馬は笑いながらキッチンに戻り、バケットを切り分けた。切り口にバターを塗り、ガーリックパウダーを薄く振ってオーブンに突っ込む。気配を感じ、雲の垂れ込める窓の外を見遣ると、1頭の鹿がキッチンを覗き込んでいた。
しばし見つめ合った後、鹿は跳ねながら、丘の上の森の方角に消えた。
ラムシチューとガーリックトースト、シーザースサラダが居間のテーブルに並んだ。瓜生の罵詈雑言を無視して、相馬は早速ラム肉に齧りついた。
「おい、サムライ君、食わんか?」
冷やしたシャルドネをグラスに注ぎながら、クルーガーが剣吾に声を掛けた。「これから大きなイベントが待っているんだ。主役のお前さんが何も食わないじゃ、それこそ肝心な時に力が出んぞ」
その言葉に、剣吾はようやく腰を上げた。
赤ワインに煮込まれたラム肉は、角煮にも似た食感で剣吾の口の中でほろほろと崩れ、溶けた。相馬の作る食事も本格的だと若林も言っていたが、本当だった。それを言うと、相馬は居心地悪げに目を逸らし、ソースはパンで掬って食べな、とぶっきらぼうに言った。会話はそこで途切れ、瓜生の唸り声と文句だけがBGM代わりに流れていた。
食事が終わった後、後片づけに掛かった相馬を剣吾が手伝った。
「ああ、その皿はこっちの棚だ」皿を洗いながら、相馬がキッチンの隅を指さした。その視線が再び彷徨うのを、剣吾は見た。
「やっぱり、若林がいないと、違うものかい?」
「当たり前だ」我に返り、相馬は言った。「こんな生活を送ってる俺たちだ。いつどこで、誰が欠けても不思議じゃないが」
しかし、それでも…、そういう声に、僅かに力がこもった。
「若林は相棒だった」
剣吾は頷いた。深く頷いた。暗くなり始めた窓の外に目を向け、「若林は、言っていた。昔は、俺がいなくなっても、誰も気にしなかった、って」
「何だと?」
「でも、今の自分には、いなくなったら少しは悲しんでくれそうな仲間がいるって」
「そんなことを吐かしてやがったのか、あの…」
馬鹿野郎は…、相馬の手の中で、洗っていた皿がピシッと音を立て、割れた。
見ろ、少しは悲しんでくれる、どころの話じゃない。
あんたはみんなの心に大穴を空けたんだ。
その剣吾は1つだけ、クルーガーに頼み事をした。
隠れ家から日本への国際電話を架けさせて貰ったのだ。
電話の相手は村上麟一だった。
自然に見えるように、クルーガーが村上のナイフを注文する、という偽装をすることにした。剣吾は村上に、見本を装った形で例の完成品を、至急送ってくれるよう頼んだ。ポートランドにある、クルーガーの私書箱の宛先も伝える。
そして、マリアに代わって貰った。
「新しい着物を一枚、村上さんの荷物に入れておいてくれないか」
声の調子1つで、マリアは異変を察した。何か、あったのね?
それには答えず、剣吾は言った。
「御免よ、まだもう少し、帰れない」
気を、つけてね。
「わかった…」
…翌日も厚く曇っていた。日差しの入らない室内は薄暗く、そして寒かった。壁のチューリップランプと、暖炉で燃える薪だけが、ほのかな灯りを灯すだけの居間で、テレビのニュースがラスベガスでのホテル爆破事件の続報を伝えていた。ようやく煙の収まった〈ラ・ホヤ・インペリアル〉はまだ瓦礫の撤去も始まっていないようだった。ABCのレポーターが声高に現地警察の捜査の遅れを揶揄し、CNNの解説委員たちは事件がコロンビアの麻薬シンジゲートの内部抗争が引き金となったものだと口を揃えて断言した。
「何だこのニュースは」居間の隅に置かれた机を占領するIBMのコンピューター前に陣取ったクルーガーが、ホルベックのパイプ片手に首を振った。「憶測ばかりだ。しかも近隣住民の犠牲者は報道されているのに、ホテル内部の犠牲者のことは一切出てこない」
「そりゃ、犠牲者全員が身元を明らかに出来ない連中ばっかりだからだよ」
「こんなニュースに、よく苦情が出ないもんだ」
「出ても黙殺してるんじゃないか?」
「報道管制が徹底しているということか」
「初日にまる1日の特集を組んだ爆発と犠牲者のニュースがだぜ、昨日は15分、今日は7分に短縮だ。早いとこ、この事件をみんなの記憶から消し去りたいって意図が丸わかりだと思わないか」
ノーネクタイ姿の相馬が、ピュア・ダージリンで淹れた紅茶のポットとカップを机に置いた。滞在も4日目になり、シャツのカラーがよれ始めていた。自分と剣吾の分の紅茶はテーブルに運び、ソファに腰掛け、クルーガー自慢のパイプのコレクションから失敬した海泡石のパイプに、ロイヤルヴィンテージNo.2の葉を詰め始める。
クルーガーは露骨に嫌な顔をした。「また儂のコレクションを汚す積もりだな? メアシャムパイプは変色し易いんだぞ」
「何がコレクションだ。どうせ使いもしないんだろう。俺はこいつの、道具本来の使命を果たさせてやろうとしてるんだ」
「ほざけ初心者め。どうせ火皿に水ばかり溜めて、最後まで吸えないくせに」
「そいつは只今、修行中で御座います」
相馬は靴底で点けたオハイオ・ブルーチップの黄燐マッチで、詰めたパイプの葉に火を移した。むっくりと身を起こした葉を親指で押し潰して火を消し、2本目のマッチで今度はまんべんなく火を点けていく。やがて白い煙とともに、パイプ葉ならではの芳香が居間に漂い始めた。
くつろいだ顔をした相馬は、紅茶を口に運んだ。「しかし、瓦礫の撤去がまだだってのは助かるな」
それは即ち、敵が彼らの死体をまだ探している最中だということだ。
「それはわからんぞ」クルーガーが言った。「あの映像も、実はカモフラージュかも知れん」
「まあ、そうでないことを祈るさ。それより昨日で下準備の作業は終わったんだろう? 続きを頼むぜ」
リモコンでテレビの音量を下げたクルーガーは紅茶を啜り、コンピューターに向き直った。「この儂を便利屋扱いするのは、地球上、お前たちくらいしかおるまいて」
「そう言うな。イベントの大詰めだ。宜しく頼む」
ぼやきつつも、指はキーボードの上をホロヴィッツよりも流麗に走り回った。実際クルーガーはピアノを嗜み、その腕前は大したものなのだ。居間の隅には、ファツィオリの名品が1台鎮座している。
政府のコンピューターへの侵入が始まった。鍛えてきたハッキングの手際は、ブラックペガサスですら誤魔化した。痕跡を読み取られるヘマなどしよう筈がない。「サイモン・デービッドだったな」
「ああ、それと、ランディ・スコット。デルタフォースの小隊長だ」
「よくフルネームで覚えてるもんだぜ」寝室から瓜生の声がした。「ヒマな奴ってのは、頭ばっかりデカくなるわけかよ」
「俺はお前と違って、頭と身体、両方鍛えてる。だから記憶も確かなんだよ」相馬は寝室に言い返した。「まあ、デルタの存在自体、合衆国の公式記録じゃボヤかしてるかも知れないがな」
「儂を誰だと思っておる雛っ子めが。奥の奥まで入り込んでみせるわい」
その通りだった。相馬が消えた火を何度も点け直し、パイプ初心者を丸出しにした小1時間後、クルーガーのコンピューターは合衆国政府の部外秘資料を閲覧し始めていた。「あったぞ、R・スコット」
「お見事」相馬はディスプレイを覗き込んだ。その肩越しに、剣吾も。「随分若い頃の写真だな。1957年生まれ、テキサス出身。1975年、陸軍に入隊、か」
「1985年、少尉の時に合衆国統合特殊作戦司令部に配属、か。これがデルタ入隊だな。ほう、先月結婚したばかりとあるぞ。お相手は、シャーロット・ムーア」
ムーア…? 首を傾げたクルーガーは、もう1台のコンピューターで検索を始めた。「あった。聞き覚えがある筈だ。SASの指揮官の娘とはな」
「面白そうだな。プリントアウトを頼む。両方だ」相馬はパイプの火皿から、水を出してベトベトになった葉の滓を掻き出した。パイプとは修行である、どんどん水を出し給え、と言ったのは、どこの文豪だったか。「デービッドの方に入ってくれ」
30分後、3杯目の紅茶を飲み干したクルーガーが、ホルベックのパイプを灰皿の上で叩いた。1片の葉の滓も残していない、さらさらの灰が、灰皿に落ちた。経験の賜物であり、熟練の差だ。
「目が疲れてきたわい」
「弱音とは、あんたらしくもない」
「お前には年長者への思い遣りというものが足りん」パイプに新しい葉を詰めながら、クルーガーは椅子を引いた。相馬と剣吾を側に招く。目を細め、ディスプレイを覗いた相馬は快哉の声を漏らした。まだ珍しいカラーのディスプレイの中には…、
「こいつの顔は忘れようにも忘れられるもんじゃない」
剣吾が頷いた。
デービッドの顔写真と、その経歴とが映し出されていた。
「こうやって御丁寧に整理されているとはな」
「全部暗号にされとるわい」クルーガーがキーを叩いた。写真がモザイクになり、次いでバラバラになった。ファイルの文字も全部崩れ、何が何だかわからない数字の羅列に変わった。何だこれは、と振り向いた相馬に、クルーガーは言った。
「乱数表だ。ある一定の配列に従って解かなければ、いつまで経っても読み取れない仕組みだ。これはNSAお得意のカットアップ乱数表だな。機密ファイルは全てこうやって暗号化されて仕舞い込まれているわけだ」
「これを全部解読したわけか」
相馬が感心の溜息をついた時、寝室から瓜生の声がした。「騙されるな相馬。この爺はな、ビルトモアのソフトを使ってやがるんだ」
「懐かしい名前だな」
ブラックペガサスに拉致された科学者の中に、明らかに異質な人間が混じっていた。アイク・ビルトモア。幼い頃からダウン症を患っていた彼は、日常のコミュニケーションにすら困る男だった。しかし、一旦数字を前にすると、どんな複雑な計算でも瞬時に解いてみせたものだ。
「あいつに掛かればどんな数字の暗号だって、足し算引き算と差はなかったのは覚えてるだろう」
「ああ、ありゃあ確かに暗号解読の天才だったな」ブラックペガサスが世界のどのコンピューターでも侵入し、データ全てを読み込めたのは、彼の能力をソフト化したお陰でもあったのだ。「だが、夜中の徘徊癖だけは止められなかった」
「そうだ。あいつが崖から落ちて死んだ際、この爺、遺品からソフトの元データをコピーしてやがったんだ」
相馬は笑った。そう言えば、夜中にうろつき回ってるあいつを、いつも真っ先に探しに出たのも若林だったっけ。
しかし同時に考える。今の連絡網があっさり露見したのは、こんな手の込んだ仕掛けを、俺が使えなかったのと、瓜生が面倒臭がったのが原因だ。俺たちの次の連絡網には、暗号通信の導入なんかも考えなくちゃならんな…。
「ゴタゴタ吐かすな。これが手に入ってたからこそ、ブラックペガサスの裏も書けたし、お前らを逃がすことも出来たんだ」クルーガーは咳払いして、もう1度キーを叩いた。瞬時に文字と写真が鮮明になった。
この分だと、予定の方も掴めそうだな…、写真を睨む相馬と剣吾の横で、経歴を詳しく見ていたクルーガーが、濃い眉を顰めた。「こいつ、CIA所属じゃないな」
「何?」
相馬と、寝室の瓜生が同時に声を上げた。
見ろ、とクルーガーがリストの1角を指した。「確かに在籍はしていた。しかし1988年までの話だ。現在は…」
〈エスメラルダ機関〉所属…? 相馬が呟いた。「何だこのエスメラルダ機関というのは」
剣吾が首を振った。「初めて聞く名前だ」
「儂も初耳だ」と、同じく首を振ったクルーガーが、そうか、と頷いた。「それで、ラ・ホヤ、か」
「あのホテルの名前か」
「西海岸に、ラ・ホヤの海、という場所があってな」クルーガーはデュポンのパイプ用ライターでホルベックに火を灯した。実にのどかな海岸だ。風光明媚というのはあの場所のためにつけられた形容だな。私有地ではないと思うんだが、どういうわけか訪れる人間も少なくて、自然の景観が荒らされずに残っている。但し、日差しの強さだけは参ったがな…。
「知る人間は少ないが、そこには別名がある。〈エスメラルダ海岸〉」
瞠目した相馬の前で、パイプから1筋の煙を立ち上らせたクルーガーは肩を竦めた。まあ、ただの地名の一致に過ぎないし、それがどうしたと言われればそれまでだが、な…、と呟き、相馬と剣吾を下がらせ、検索の続きに掛かった。
そのファイルには、デービッドの経歴以外のデータは見つからなかった。画面が次々と切り替わり、ニュースや新聞では滅多にお目に掛かれない名前や機関、事件名がディスプレイに並び始めた。しかしそれなのに…、
おかしいな、ないぞ…、クルーガーは首を傾げた。ここにないということは、もう1つ奥のファイルか?
「だとすれば、とんでもない機関だぞ、エスメラルダ機関とかいう奴らは」
「何なんだ、もう1つ奥のファイルってのは?」
「合衆国最高機密、って奴だ」
クルーガーは事もなげに言い放った。
そのファイルは膨大だった。膨大な量の情報に満たされていた。時間は多少掛かったが、ビルトモア・ソフトは執拗に挑み続け、乱数を解読していった。ディスプレイに物凄い数と密度の写真や図、リストが並んだ。軽く目を通しただけで、相馬は目眩がしそうになった。時間があればゆっくり読みたいものばかりだった。ニクソンの不祥事の顛末が最初のページに、JFK事件が3ページ目に記載されていた。11ページにはロズウェル事件が出てきた。
〈エスメラルダ機関〉の名は、130ページを越える頃にようやく現れた。ファイルの最も奥まった箇所だろうな、とクルーガーが呟いた。
それも、何の説明もなく、ただ1行、名前だけが。
キーボードをあれやこれやと叩いてみたクルーガーが、再度首を傾げた。ファイルがない。何をどうやってもエスメラルダ機関の説明が読み出せない。隠しコマンドすら発見できないのだ。
それどころか…、
「マズい!」
クルーガーが突然唸った。56歳とは思えない反応で、コンピューターの電源コードを引っこ抜く。ついでに電話線も切ってしまう。
何が起きたかわからない相馬と剣吾の前で、クルーガーは椅子に深々と体を沈めた。火の消えかけたパイプをスパスパと吸っているうちに、1筋の煙がすうっと立ち上る。何事だ、と訊いた相馬に、無言で空のカップを押しやった。
注ぎ直した紅茶に、大量のアルマニャックを足したクルーガーは、それを一息に飲み干した。ようやく大きな息をつく。
「時間を掛けて作った侵入経路が、パーだわい」
「どうしたってんだ、一体?」
「簡単な話よ。ファイルを読み出すためのキーワードを探すのに、ビルトモア・ソフトと、儂の手持ちの解読武器を幾つか仕掛けてみたんだ。その瞬間に、向こうさんのコンピューターがこっちを逆探知しようと動き出したわけだ」
「ビルトモアのソフトも通じなかったのか」
「全く歯が立たなんだ」
とんでもない防御があったもんだわい…、クルーガーは長時間の作業で強張った肩や背中を、椅子の上で伸ばした。
「おい、揉まんか」
相馬は力を加減して、クルーガーの首と背中を揉み始めた。心地よさげに呻いたクルーガーだったが、強すぎる、と文句をつけるのだけは忘れない。「途轍もない素早さだった。ここから直接侵入していたら、1発で儂の仕業だと露見したろうな」
普段からいろいろなコンピューターに侵入しているクルーガーだ。そんな事態がいつかはあるかもという用心は常にしていた。そしてそれを回避するための手段を、あちこちに手を伸ばし、学んでもいた。いろいろな回線を経由することで、逆探知を避ける率を高められると知ったクルーガーは、ヨーロッパ数箇国の回線事業会社のルートを、時と場合に応じて組み換え組み直すという方法を編み出していた。
今回もその手段を使った。3日を掛けて大枚はたいて、20本近い回線のパズルを組み上げていたのだ。それが一瞬にして読まれた。
寝室から瓜生が喚いた。「ここがバレるって心配はねえんだろうな?」
「それは免れた。しかしドイツの…、最後から3番目までのルートは読まれたと思っていいな。反応速度と言い追跡能力と言い、下手をするとあの腐れコンピューターの上を行くぞ」
もういい、と相馬の手から逃れ、クルーガーは紅茶を淹れ直した。パイプ片手に、首を振る。最高機密のファイルに名前しか載っていない、おまけに侵入者への追跡も万全、か。
「お前たち、やっぱりエラいのを敵に回したらしいぞ」
流石にこの時は、相馬も、寝室の瓜生も、反論の一言も返せなかった。
暖炉の上のヘルムレの置き時計が、静まり返った居間の中に、微かな音で時を刻んでいた。暖炉の薪がパチッ、という音を立て、弾けた。クルーガーのパイプが遂に火を消した。窓の外を、あの鹿が通り過ぎた。だが、クルーガーはライターに手を伸ばすのを忘れ、居間を一瞥した鹿に相馬は視線を返せなかった。
沈黙が重苦しい中、剣吾が口を開いた。
「別に、その何とかって機関について知ろうとは思わない」
クルーガーが首を回し、相馬が横を見た。
剣吾は2人に眼差しを返した。まだ暗くはあったが、真っ直ぐな視線を。「デービッドとスコット、この2人の行く先がわかれば充分だ」
「簡単に言うがなサムライ君、ルート1つ新しく作るにしても、手間と金が掛かるんだぞ」
「急がせたらどのくらい余分に掛かるってんだ?」
今度は剣吾も振り返った。
3本のチューブを繋いだ瓜生が、点滴のキャスターを引っ張り、寝室から出てきた。壁の灯りとと暖炉の火が照らす中、顔色は青白いを通り越し、黒ずんでさえ見えた。しかし禿げた頭に脂汗を浮かべながらも、瓜生は猛禽類の目と不敵な笑みとを取り戻していた。
「お前、大丈夫なのか?」
「ああ、ようやく熱が下がり始めたよ。まあ、41度が39度に、って程度だけどな。しかし峠は越えたらしい。随分楽になってきた」
ヘラヘラと笑ってみせた瓜生は言った。「で、どうなんだ? カネを出せば急かすことも出来るのか?」
クルーガーはふむ、と腕を組んだ。「危険は伴うが、出来なくはなかろう」
「じゃあ、すぐに掛かってくれ。いくら掛かっても構わねえ。俺が出す」
瓜生は笑顔を引っ込めた。
「その代わり、糞爺、デービッドとスコットの野郎の居所は、何としてでも突き止めろよ。大至急だ」
(11)
…ラスベガスのホテル爆破事件から7日。
そしてクルーガーの隠れ家に転がり込んで6日が過ぎた。
村上麟一に頼んだものが、航空便で送られてきた。マリアが仕立て、洗っておいてくれた作務衣と白い剣道着も同じ荷に入っていた。ポートランドの私書箱からそれを受け取ったクルーガーが隠れ家に戻ったのが夜の7時。
剣吾はようやく、着慣れた和服に袖を通すことが出来た。
そして、新しい錦織りの袋の中身を確かめ、それを左手に提げる。
隠れ家の地下作業場で、ボルトと銃腔にクロームメッキを施し、買い込んできたブッシュネルの24倍スコープのネジを、ロックタイトの瞬間接着剤で固定したバーレット・ライフルを抱えた相馬が、その剣吾に言った。
「出掛けるか」
2人は隠れ家を出た。標高が少し高いため、流石に夜は冷え込み、息も白くなる。表の道には、フェラーリF40が待っていた。
新しいアップルベレーを頭に載せ、まだ少し青白い顔の瓜生が、既に運転席に収まっていた。黙って助手席を前にずらす。瓜生を一瞥もせず、剣吾は狭いリアスペースに入った。座席もなく、荷物が置けるか置けないかという小さなスペースに、剣吾は器用に長身を畳み込んだ。錦織りの袋を胸に抱くようにして、腰を落ち着ける。
「そこはエンジン音がうるさいからな」
座席を戻しながら、瓜生が声を掛けた。
剣吾はそれも無視した。
ついさっきまで、剣吾は瓜生がともに来るのを拒んでいたのである。
若林を裏切り者扱いしたあんたになど、来て欲しくない、口にこそ出さなかったが、剣吾の眼差しは明らかにそう言っていた。相馬とクルーガーが何とか執り成さなければ、剣吾は瓜生の参加を最後まで認めなかったであろう。
厚手のガウンを着たクルーガーが、フェラーリの横に立った。
「気をつけて行け」
3日間、不眠不休の作業は、さしものクルーガーをも大層疲弊させていた。見送りに出てくるのもやっとという憔悴ぶりだった。
「あんたこそちゃんと休めよ。もう若くはないんだ」
「散々人をこき使っておいて何だ。とっとと若林の仇を取ってこい」
笑った相馬が助手席に潜り込んだ。後部の剣吾の隣にライフルバッグとバーレット・ライフルを置く。同時に瓜生がキーを回し、エンジンを掛けた。横隔膜を痙攣させかねない轟音と震動が、相馬と剣吾の尻に伝わってきた。
H型のシフトレバーを左下1速に入れ直し、オルガン型のアクセルペダルを軽く踏み込むと、フェラーリはゆっくりと進み始めた。
時計は午後8時を回った。
「飛ばすからな。揺れるぞ」
瓜生が言った。
「おう、お手柔らかに頼むわ」
相馬は軽く笑い、後方に去っていくクルーガーに手を振った。
2速で次第に速度を上げながら、フェラーリが公道に出た。瓜生が閃くような手捌きで、シフトを3速に上げた。フェラーリは蹴飛ばされたように加速を開始した。
閑静な住宅街にジェット機に似た轟音を響かせ、赤い悍馬は疾走した。4速に入れると、前を走るセダンやトラックが、まるで逆走しているかのような速度で追い抜かれた。
前に何が現れても、瓜生は動じもせず、的確に車を操った。そのシフトとステアリング捌き、アクセルワークは、まるでビデオの早送りを見ているかのような動きだった。久しぶりに瓜生のドライビングを側で見た相馬は、少々癪ではあったが、認めざるを得なかった。やはり運転に関しては、こいつは俺なんかより数段上手だ、と。
軽い車体は大いに振動した。エンジンの轟音は耳を弄し、脳までシェイクしそうだ。しかし助手席の相馬は、イヤーウィスパーの耳栓を突っ込み、うとうとし始める始末だった。瓜生の運転を信頼しているからでもあった。しかし瓜生にはそれがつまらない。舌打ちしてバックミラーで窺うと、剣吾はエンジン音など聞こえてもいないかのように、暗い窓の外を見つめているだけだった。1秒に1回飛び込んでくる街灯のオレンジ色に浮かび上がるその横顔は冷たく、且つ厳しかった。
威かし甲斐のない奴らだぜ…、瓜生は唇を歪めた。
それよりジョルジーニョの奴、急な頼みだったのは確かだが、ちゃんと用意してくれてっかな…。
ポートランドを北上したフェラーリは、メアリーズ・コーナーの先で右折、ルート12に入った。そこで5速に上げる。時速は遂に300キロを超えた。このままカスケード山脈を越えてルート90を捕まえ、そこから東海岸を目指すのだ…。
…従業員や客としてホテルに入らせた200余名の工作員、掃除屋、デルタ隊員たちの死体は、ほぼ身元の照合が終わった。地元警察とFBIに潜り込んでいる機関の構成員から報告があった。炎に焼かれた地下1階、確信を込めて仕掛けた最大の罠からは、若林と見られる超人兵士1名分の死体が炭化していたそうだ。
そして特に爆発の激しかった駐車場には、掃除屋20余名の死体の他に、黒のサラトガスーツを着た身元不明の屍4体も見つかっていた。ホテルに突入してきた4人らしい。やはりブラックペガサス軍団の生き残りだった。
だが、デービッドの求めるもう2人分の死体がなかった。
もう1度隈なく探せ、デービッドは命じた。しかし死体は出なかった。地下のどのステージにも、駐車場にも、肉片の1つ、骨の1片も残されていなかった。
あの罠から逃げ果せたと言うのか!
デービッドは驚愕するより激怒した。冗談ではない。あの罠を用意するのに、一体どれだけの手間を掛けたと思っているのだ。そもそもデービッドは、資金集めから罠の建設まで、上層部の許可を得ず、全てを独断で進めていた。必ず成功するという自信があったからこそ、だった。これで成果が若林1人しかいなかったとなれば、どんな非難、誹謗、突き上げが待っているか知れたものではなかった。
果たして、デービッドは2日前、上司ラッセルから連絡を受けた。
機関が自分を呼び出した、と。
どうやら、罠建設の費用を融通した企業の1つが、機関の誰かに事の次第を漏らしたものらしい。機関の関連施設に逃げ帰り、しばし息を潜めていたデービッドに、ラッセルは言った。フォート・ベルボア基地で待てとの伝言が届いている、と。
どうやら、機関の査問会に掛けられるらしい。
〈エスメラルダ機関〉主要メンバーも出席するとのことだった。主要な人間全員のことなど、末端構成員のデービッドが知る筈もなかったが、それでも何人かは見知っていた。銀幕出身の操り人形に過ぎなかった大統領を好きなように操ったとも言う元特別補佐官。ノースロップがLTVからミサイル部門を買い取った時の仲介役だった、軍事シンクタンク〈ガーゴイル〉の一員である元国務次官。政府要人ではないが、合衆国の経済を陰で操る1人とまで噂されるユダヤ系アメリカ人。
だが、そんな連中は椅子の飾りに等しい、デービッドはそう思っていた。
彼にとって唯一恐るるに足る人間は、カサンドラ以外にいなかった。
何しろカサンドラは、デービッドにとって神だからだ。
軍中央が主導して、中等と南米を繋ぐ闇資金とルートを作り上げたことがあった。CIAは間に立って動いていた。8年前、その闇資金の存在と、ルートを揉み消そうとした軍の醜聞が、新聞にすっぱ抜かれた。記者に協力したと噂されたデービッドはCIA内部で孤立した。実際は他の部署からの漏洩だったのだが、その新聞社の記者から情報収集をしていたデービッドがスケープゴートにされたのだ。
そんな時に、初めてカサンドラに出会った。喚問のため、当時の上司、そして副長官と国務省に呼ばれた時だった。
CIAの副長官が、若いカサンドラにやたらと愛想をふりまくのを、実に妙な目で見ていたことは覚えている。カサンドラはデービッドを見て、言ったものだ。
――君の優秀な情報収集能力を、もっと有効に使える場所が見つかるよ。近いうちにね。
変なことを言う男だ、くらいにしか、その時は思わなかった。しかしやがていろんな場所からの情報で、デービッドはカサンドラがCIA副長官どころか、もっと途方もない連中――前述のような――を顎で使ってしまうような存在であることを知るに至る。
2年後の88年、デービッドは先輩局員ラッセルから、ある機関へ、それもホワイトハウスのトップしか知らないような最重要機関へ出向すること、その機関が情報収集に卓越した人材を求めていることを聞かされた。自分もそこに移りたいものだ、と半分冗談めかして口にしたところ、3日後、突然彼も出向が決まった。顔にこそ出さなかったが、デービッドはほっとした。これで針の筵だったCIAからも離れられる。
機関の責任者から直に出迎えを受けたデービッドは立ち尽くした。
そこに立っていたのは、あのカサンドラであった。
表情を滅多に買えないカサンドラが、彼に静かに微笑みかけたように見えた。その瞬間から、カサンドラはデービッドの神になった。比喩的な意味ではなく、デービッドはカサンドラのことを、人の姿を借りた神が地上に降りてきたのだと本気で信じたのだ。
それが証拠に、その後デービッドに与えられる任務は、彼の得意とする分野ばかりとなった。水を得た魚よろしく、デービッドは八面六臂の活躍を見せた。機関の性質上、表立った評価表彰こそなかったが、デービッドは仕事の出来る人材としての評価を着実に積み上げた。見たか。神がついている以上、私に失敗などあり得ないのだ。
そのカサンドラが、査問会に顔を出すと言う。ラッセルは暗にそう言った。
神の怒りを買うだけならまだしも、見捨てられるようなことになったら、それこそ自分には明日がない。デービッドは本気でそう思った。他の出席者などどうでもよい。デービッドはカサンドラだけには跪いてでも許しを請う覚悟だった。
仕事を片づけ、早々に眠り、デービッドは早朝のワシントンを後にした。
あの作戦の日以来、なぜかスコットと連絡がつかなかった。現在別の任に就いており、手が離せないという話だけは聞かされた。彼は機関のメンバーではないが、いずれ何らかの形で査問を受けるらしい。それを伝えに来たデルタの隊員3人が、デービッドの護衛についてくれていた。スコットの命令だと言う。
正直、有難かった。あの罠から逃げ出した瓜生と剣吾が、いつ自分を襲ってもおかしくはないのだ。自分の予定は機関の主要メンバーにしか知られておらず、記録されたとしても合衆国極秘ファイルにしか載らない筈だった。それもとびきりの極秘ファイルだ。
しかし並外れた追跡能力を持つ奴らだ。安心などしていられなかった。フォート・ベルボア基地への短い移動にも、LAV300ST装甲車辺りで向かいたかったところだが、流石に許可されなかった。デービッドの盾になってくれそうなのは、機関の運転手と護衛4名、そしてデルタの3人のみであった。
デービッドは護衛の増援を呼ぶことにした。そして用心のため、本来11時到着でいい予定を繰り上げ、6時に出発した。
彼を含めた9人は黒塗りの2台の政府公用車――防弾装甲に覆われた黒のリンカーンとキャデラック――に分乗し、肌寒く、まだ車も人も少ないインディペンデンス・アベニューを西に向かった。
スミソニアン・メトロ駅の手前で1回、パトカーに停められた。NYPDの制服警官が身分の確認を求めてきたのだ。助手席の護衛が表向きの身分証――国防省所属の――を出し、警官に見せ、現在公務の最中であることを宣言した。他の護衛たちは駅周辺の通行人や停まっている車を油断なく窺った。シボレーのワゴン、フォードの4ドア、ランニングをしているカップル、犬に散歩をさせている初老の婦人と話し込む中年の男…。武器を隠し持っていそうな人間はいなかった。一応念のため、鷲鼻の警官のIDカード番号を控えておく。
リンカーンの開いた窓からデービッドの乗る後部座席までを覗いた制服警官は、エドガー・O・ランコー、という妙な名前だった。
鷲鼻をひくつかせ、青い目をパチパチさせながら、制服警官は言った。「O・ランコ―ってのはウチの母方から受け継いだ名前でしてね。王藍皇。あたしはこれでも中国系なんですよ」
頷いたデービッドは、どう見ても中国系には見えない警官を下がらせ、運転手に頷いた。リンカーンは静かに発進した。すぐ後にキャデラックが続く。
2台を見送った制服警官は、パトカーに戻った。通信機を掴む。
「いたぜ。奴だ」
青いコンタクトレンズの奥から、猛禽類の目が、遠ざかる2台を睨んでいた。
2台がルート1号線を左折したのを確かめるように、停まっていたシボレーとフォードからバラバラと降りてきた男たち、ランニングをしていたカップルが、あっという間にパトカーの警告灯ランプと公用ナンバープレートを外し、NYPDのマークと塗装のシールを剥がし取った。驚いた顔の犬を連れた婦人と中年男に、手にしたカメラを示し、自主映画の撮影なんですよ、と笑顔を見せる。
王藍皇と名乗った警官は、脱いだ制服を偽パトカーに放り込み、男たちに手を振った。そのまま背中を見せて歩き出す。農務省ビルの陰に停めた赤い車に向かって…。
…ルート1号線にて、北の方から向かってきた3台のクライスラーが合流した。デービッドが呼び寄せた、子飼いの掃除屋たち10人だった。機関の護衛たちはそれに気づきはしたものの、何も言わなかった。デービッドも反論を許す積もりはなかった。重武装した掃除屋たちの乗る3台に、自分たち2台の前後を護らせる。
ジェファーソン記念館を擁するポトマック公園を抜けた黒塗りの2台と、これを囲むように走る3台の眼下を、ポトマック川が過ぎていった。川沿岸の古い港町アレクサンドリアまで5分。
そこを過ぎれば僅か20分足らずでフォート・ベルボア基地に到着だ。
防弾装甲に覆われたリンカーンの後部座席に収まりながらも、油断なく車の前後に目を配っていたデービッドだったが、高速道路上に掲げられたアレクサンドリアの表示を目にして、ようやく緊張を解いた。腫れの引いたばかりの額の瘤を撫で、座席に背中を預ける。
時計は6時16分を指していた。太陽が顔を出し、数も増え始めたワシントン方面に向かう対向車のフロントガラスに眩しく反射した。この7日間、緊張を強いられてきた目には強すぎる刺激だった。デービッドは瞼を閉じた。
その瞬間、運転手が警告の叫びを上げた。
対向車線とは打って変わって、下り車線はガラ空きだった。前にも後にも、1台の影もなかった。目を開けたデービッドは、助手席に座る護衛の肩を押しのけ、フロントガラスから前方に目を凝らした。前を走る2台のクライスラーの、そのまた遙か前方、片側5車線ある高速道路のど真ん中に立つ人影を見つけた。
白のキモノ…。
…明け方の涼しい風を受け、白の剣道着の袖や袴をはためかせながら、剣吾は顔を出した朝日に目を細め、細く絞ったバンダナを額に巻いた。新しい錦織りの袋の口を開け、白鞘を抜き、まだ掌に馴染み切っていない、細目のパラシュートコードを目貫代わりに巻きつけた柄を軽く握る。
固い鯉口を切ると、研ぎ上げて間もない刀身が、朝日を反射した。単に目を射るだけの鏡のような反射とは違う。ワシントンの青空を映す刀身には、注意すれば波のような縞模様が走っていることが見て取れたろう。そのダマスカス模様は、この刀が幾層にも重ねた鋼を圧延し、忠実に研ぎ上げたことを示していた。
村上麟一が精魂込めて叩き、鍛え上げ、寡黙な彼をして、自分の最高傑作であると言わしめた業物である。
炭素含有量の違う2種類以上の鋼材を重ねて鍛造することで、刀身に複雑な波状紋や渦巻状紋が現れる。かつて、シリアのダマスカスでこのような模様を持つ刀剣が多数製造されたことから、この縞をダマスカス模様と呼ぶ。
現在では模様の方にのみ注目と人気が集まり、カスタムナイフメーカーたちの多くがニッケルやステンレス、クロームなどを使い、鑑賞用として挙って造るダマスカスナイフだが、実は昔からダマスカスの刀剣は、切れ味にこそ評判があった。
鑑賞用の刀剣など造りたくなかった村上は、独自にナイフの鋼材と鍛造法についての研究を重ね、ヨーロッパやアメリカのナイフメーカーとは一味違ったものを編み出そうとしていた。そんな彼が着目した1つが、大昔のインドにあったと言われるフラートという2段製鉄法と、そこから生み出される素材だった。
小さな坩堝で長時間掛けて溶かした種々の金属片を、長い時は24時間以上加熱し続け、デンドライトと呼ばれる巨晶偏析を有する小インゴットを造る。それを加熱しながら鍛伸することで、巨晶を均等に残す素延べの刀剣とする。
村上はその地金造りに、坩堝に入れる金属片の中に、粉末合金ZDPと並んで世界最高の刃物鋼材として名高いマルエージング鋼とともに、自分が保管していたあるものを放り込んだ。照れながら漏らしたところによると、
――隕石だよ。
伊豆に移り住んで2年目、庭先の竹林に墜ちてきた隕石の欠片を、村上は大切に保管していた。昔、天文少年だったという思い入れがあったというだけではない。この隕石の素晴らしさに魅了されたのだ。
隕石を細かく調べ上げた村上は、その金属バランスに驚嘆した。鉄、クローム、バナジウムなどが実に精妙なバランスで配合されていた。それも信じ難い密度の結合で。道理で家に運び込む際、重かった筈である。たかが人の頭くらいの隕石を、村上は手で持ち上げることが出来なかったのだ。
いつの日か、自身が鍛え上げるナイフか刀剣に、これを使おう、村上は思った。それも、己の全てを注ぎ込める1本に、これを使おう、と。
マルエージング鋼を混ぜたのは、欠片に炭素成分が多かったからだ。マルエージング鋼混入により、生み出された鋼材は類稀な柔性と剛性を兼ね備えた逸品になった。
新しい刀の幅は、F・カーターの鍛えた前の刀より若干狭かった。しかし厚みは倍以上あった。戦場刀である胴田貫に匹敵する厚みだった。これだけの厚みと、剣吾の腕とがあれば、例え1000人斬ったとしても、鋼が傷むことはあるまい。現に村上はそれを目指したのだ。
長さも増していた。刀身だけで1尺――1メートル弱――あった。そこに、村上自身がこれまで造り上げた中で最も硬いと豪語するエッジをつけた。ロックウェル硬度で71を叩き出したという代物だ。
普通の刀剣なら両刃造りにするところを、表刃は切刃造り、裏は鎬造りにした刀を金属粉末で丁寧に磨き上げると、刃の表面にうっすらとダマスカス模様が浮かび上がった。天の落とし子と、マルエージング鋼とが生み出す美しい波目模様は、伊豆の波打ち際を思わせた。
同封された手紙には、剣吾にこの刀の銘をつけて欲しい、とあった。
剣吾は少し考え、〈雷刃〉と名づけた。
深く考えてのことではなかった。暗沢山でのあの鍛錬が脳裏をよぎったためでもあったろう。
〈雷刃〉を抜き放った剣吾は、白鞘を腰に差し、刀を一重身に構えた。長い髪がポトマック川からの風に撫でられ、後ろになびいた。前髪の辺りに、数本白いものが混じっていた。細められた目が、上ってくる朝日の僅か左から走ってくる5台の車を見据えていた。
――さあ…、
――来い。
リンカーンの後部座席で、デービッドが護衛たちと携帯電話に怒鳴った。
「殺せ!」
前を走るクライスラーに、後ろのもう1台が追いつき、並んだ。助手席や後部座席から、火器を手にした掃除屋たちが身を乗り出した。CAR15カービンが先陣を切って吠え、5.56ミリNATO弾がアスファルトに点線を穿っていく。
銃弾が達する寸前、剣吾はすっと半身を下げた。銃弾は剣道着をかすめもしなかった。それを見た先頭のクライスラーの運転手が怒声を上げた。車体を剣吾に向け、アクセルを目一杯踏み込む。剣吾を轢き殺さんと速度を上げ…、
前輪をバーストさせた。
スピードの上がっていたクライスラーは揺れる車体を制御できず、物凄いスピンに陥った。運転手は慌ててブレーキを踏みながらハンドルを逆方向に切り、車体を制動しようとした。同時にフロントガラスが四散した。運転手の頭部が粉々に砕け散る。
スピンの止まらない先頭の1台に、もう1台のクライスラーが追突した。先頭車輌で身を乗り出していた3人の掃除屋たちが投げ出され、路上に叩きつけられた。1人は体をとんでもない向きにへし折られて絶命する。スピードの乗ったまま追突した2台目は、先頭の車輌を横転させた。対向車線を走っていた車の驚きのクラクションが、朝の高速道路に木霊した。
リンカーンの運転手が急ブレーキを踏んだため、デービッドは前の座席に、瘤が引っ込んだばかりの広い額を打ちつけた。しかしリンカーンは前の2台に突っ込む前に停止していた。機関の運転手は的確な判断力の持ち主だった。リンカーンをバックさせるのに些かの遅滞もなかった。
だが、そのリンカーンの尻に、3台目のクライスラーが迫っていた。
激突される寸前に、デービッドは見た。
クライスラーのフロントガラスが砕け散り、ハンドルを切ろうとした運転手の顔が木っ端微塵に吹っ飛ぶのを。
狙撃か!
気づいたと同時に、3台目のクライスラーがリンカーンに激突した。衝突の衝撃を全身に受け、再度頭を打ったデービッドの意識が僅かの間、途切れた。
…ルート1号線を2キロ近く彼方に眺める墓地の丘にて。
ワイシャツ姿の相馬が、丈の短い草地に、2脚を立てて固定したバーレット・ライフルの、弁当箱のような弾倉を替えた。
上る朝日が右目に眩しかった。鼻柱にかいた汗の脂で滑るレイバンのシューティング・グラスをずり上げ、スコープを覗き込む。2キロも先になると、ブッシュネルの24倍スコープに映る標的も小さいことこの上なく、しかも動いている。しかしそんなことを苦にもせず、相馬は正確無比の狙撃を遂行した。先行した1台目のクライスラーの前輪と運転席、2台目のクライスラーの運転席、そして最後尾を走ってきた3台目のこれまた運転席を、1発ずつで撃ち抜いた。どんなマグナムライフルも敵わない凄まじい銃声が墓地に木霊し、1発撃つ毎に、栄養ドリンクの壜にも似た50口径キャリバー弾の薬莢が飛び出した。
追突されたリンカーンから、武器を構えた3人が路上に飛び出した。黒いスーツの3人は政府関係者の護衛と思われた。2つ目の弾倉を叩き込み、ボルトを引いた相馬は躊躇うこともなく、バーレットの引き金を絞った。
銃口に装着されたマズルブレーキが、地面の草を吹き飛ばす。銃口から噴き出す炎とガスとを、反動を殺すためのブレーキとして有効活用しているのだ。そうでもしなければ総重量12キロのバーレットとは言え、反動で銃が跳ね上がってしまったことだろう。12.7ミリ50キャリバー弾とは、それ程の威力を持つのだ。
だから2キロを飛んでも殺傷力は殺がれない。おまけに弾頭には例のペトン爆薬が詰まっている。護衛たち3人が身につけるブリストル社製防弾ベストなど簡単に貫通し、その体を引き千切り、ボウリングのピンのように跳ね飛ばす。
先頭のクライスラーから路上に投げ出された2人がのろのろと立ち上がったのが見えた。相馬はその2人も撃ち飛ばした。
そこでバーレット・ライフルは、排莢口に薬莢を詰まらせた。
またか…、相馬は舌打ちした。ボルトを引いてみたが、詰まった薬莢が変形してしまったらしく、排莢口から出てこない。所詮付焼刃のカスタムではどうにもならなかった。次はもう少し故障に強いアンチマテリアルライフルを買おう。
後はあいつに任せるか…、相馬はネクタイを緩めて立ち上がり、大きく伸びをした。ブッシュネルのスコープの中で、唯一無事なキャデラックが剣吾の手前50メートルのところで停止した…。
墓地の敷地内に、腹に堪えるエンジン音が響いた。相馬の背後に、フェラーリF40が滑るように走ってきて、停まった。
開いたドアから降りてきたのは、白いトレーナー姿のあの偽警官、王藍皇であった。
墓石の1つに掛けておいたディオールの上着からウィンストンを1本抜いた相馬は、ロブスのチャッカブーツの靴底で点火したマッチで火を点した。
「一体何だその顔は」
深々と煙を吸い込み、笑い出す。
鷲鼻をひくつかせた王藍皇は、顎に手を遣り、顔を引き毟った。軟性ゴムとラテックスで出来た顔が剥がれ、中から瓜生の顔が現れた。流石に汗まみれだ。「いいだろ。この顔がイチバンちゃんとした表情が出せんだよ」
「変装の方は凄いとは思うぜ。ゴムのマスクが表情を変えるなんざあ、お前、ハリウッドに行っても成功するよ。問題は名前だ。エドガー・アラン・ポーをモジッてエドガー・オラン・コーだと? そんな名前があって堪るか」
瓜生がどうしても譲らなかったため、相馬が頭を絞って、その発音に漢字を当て嵌めた。エドガー・王藍皇。しかしその名を知った上で瓜生がしてきた変装がこの顔だ。「どう見ても純正ゲルマンかアングロサクソンじゃねえか。少しは考えて変装しろ」
トレーナーで頭を拭った瓜生は、じろりと相馬を睨み返し、アップルベレーを載せた。
消えたマッチを上着のポケットに突っ込んだ相馬は、バーレットの銃身とストックを分解し、持参したライフルバッグに、無線通信機とともに無造作に放り込み、フェラーリの後部座席に投げ込んだ。バッグに収まっていたガリルARMライフルは、上着の側に立て掛けてあった。「どうした。御機嫌だな」
瓜生は鼻を鳴らしただけであった。
わからないではない。瓜生に割り振られた役割はドライバーと、ハズレを引かないための用心にデービッドが確実にこちらに向かっているかを確かめることだけだったのだから。
…クルーガーの不眠不休の作業で、デービッドの予定らしきものを掴んだのが昨日の夕方だった。瓜生の金を惜しみなく遣い、何度もルートを構築し直し、その度に逆探知の危険を冒しながら入り込んだ最高機密ファイルからは、結局何も発見できなかった。
ようやくエスメラルダ機関らしき組織の名前と、デービッドの名前らしき記述を発見できたのは、軍のファイルからであった。
――このE機関、ってのがそれか。フォート・ベルボア基地に予定が取ってあるな。査問会、とある。出席者のリストは、Maj.Dとあるが、これが…、
――少佐Dか。これが多分デービッドだな。査問会ってことは、あのホテルの1件か?
――儂が知るか。
――シンクタンク〈G〉のウーリッチ、民間人、とあるが。
――〈ガーゴイル〉のブレント・ウーリッチか。元国務次官だ。どうやら当たりだな。
――知り合いか?
――まさか。新聞でお馴染みの名前っていうだけだ。まあ、それにしても突けば突く程、色んなモノが飛び出してくるな。空恐ろしくなってくるわい。
――そんなに凄い奴なのか?
――合衆国内外の軍需産業の合同・合併を顎で操れるシンクタンクのボスが、一介の出席者に過ぎないんだ。一体どれだけのスケールの敵なのか、見当もつかんわ。
――Col.Rとあるな。ラッセルの野郎かもな。あいつが査問会の中心メンバーか? このBGってのは…、
――ブリガーデ・ジェネラル、准将だな。しかしこいつには名前がない。
――じゃあ、大して重要人物じゃないんだろ。そいつはいいや。それより明日じゃねえか。急がなくちゃ間に合わんぞ。
会の始まりは現地時間で午前11時とあったが、襲撃を想定したデービッドが早く出立しないとも限らない。何としても夜明け前にワシントンに到着する必要があった。フェラーリF40のポテンシャルを存分に発揮させた瓜生は1晩掛からずに、オレゴンからヴァージニアまで、剣吾と相馬を運んでみせた。ニューヨークにいるイタリア系のカーディーラー、ヴィットリオ・ジョルジーニョに繋ぎをつけ、偽パトカーやエキストラの手配までさせてもいた。
しかし、この復讐行の最後の仕上げに瓜生が加わるのを、剣吾は無言で拒んだ。
「何だったら今からでも手伝いに行ってきたらどうだ?」吹いてくる風に煙草の煙を乗せながら、相馬が言った。「お前の奥の手なら、あそこまでひとっ飛びだろうが」
実は相馬も見たことがない。しかし噂は若林から聞いていた。この瓜生に、あちこちの戦場で“禿鷹”の異名を取らせることになったと言う、奥の手。
現に瓜生はその奥の手を使うべく、出掛ける直前までクルーガーの隠れ家で、ジャケットに細工を施していたのだ。
「もう、いいや。俺は不要なんだからよ」瓜生は唇を尖らせた。「あいつ、俺には若林の仇を討つ資格はねえとでも言いてえんだろ」
相馬は苦笑するしかない。300億ドルを吹っ掛けた件と言い、〈賢者の城〉にドロシーを連れて行った上に、そこでやらかした件と言い、こいつが常に、誰もが思ってもみなかったようなことを仕出かす奴だとは知っていた。
だが、若林を殺され、自分ですら熱くなって狙撃銃をぶっ放している最中、こいつは剣吾に拒まれた程度のことで、子供のように拗ねてしまったのだ。プラスにであろうがマイナスにであろうが、他人の期待というものを…、
「ことごとく裏切ってくれるぜ、お前は」
うるせえな、瓜生は言った。「俺に期待なんかするんじゃねえよ」
ふっと表情を和ませた相馬は、ウィンストンとマッチを1本ずつ、瓜生に投げた。
「まあ、ふて腐れるな。お前の運転は大したものだった」
「何だいきなり」
「だからこうやって間に合いもしたんだ。俺が運転してたら絶対無理だったろうな」
「へっ、お前に褒められると気持ちワリイぜ」
「後は那智の腕前を拝見と行こう」
相馬はブッシュネルのスコープで高速道路に視線を戻した。瓜生はフェラーリの運転席に踏ん反り返り、黙って煙草に火を点けた。
無傷のキャデラックは、エンジンを掛けたまま動けずにいた。
まだ狙撃があるかも知れなかったからだ。防弾ガラスは役に立たないとわかった。運転手も、3人のデルタ隊員たちも、装甲の厚い車内に伏せているしかない。
それでも、先頭車輌から投げ出され、路上で立ち上がった2人が撃たれたのを最後に、銃声は止んだ。先頭車輌に追突したクライスラーから、掃除屋3人が降りてきた。リンカーンに追突した最後尾の1台からも2人が。皆、よろめきながらも、どうにか車の陰に身を隠す。
しかしその間銃声は轟かず、誰も撃たれなかった。
恐らく狙撃手に何か起こったのだ。弾が切れたか、銃が故障でも起こしたか。
デルタ隊員たちと頷き合った運転手が身を起こした。ハンドルを握り直し、アクセルを踏み込む。キャデラックは急発進した。
50メートル前方で、未だ静かに刀を構えたまま動かない剣吾に向かって。
2台目と最後尾の車の陰にいた5人も、各々の武器を剣吾に向けていた。1人は顔中血塗れ、明らかに腕が折れている者もいた。しかし流石デービッドが選んだ現役の掃除屋たちだった。怖気づくこともなく、援護射撃の出来る体勢で、剣吾に突っ込んでいくキャデラックを見守っていた。
馬力だけはあるキャデラックは、50メートルの距離を一気に詰めた。そこで運転手は己の目を疑った。
剣吾の姿が消え失せたのだ。
遠くで見守る面々の目にも、剣吾の動きは留まらなかった。同時に、巨大なハンマーに突き上げられたかのように、キャデラックの横腹が凹んだ。そのまま高速道路のコンクリートの壁にフロントをめり込ませる。
剣吾が身を翻しざま、キャデラックの横腹に後ろ蹴りを浴びせたのだ。
キャデラックが壁に激突した時には、剣吾は先頭と2台目のクライスラーの陰にいる3人の前に立っていた。横転したクライスラーのホイールアームがキュン…! という高音を上げた。リアタイヤが路上に転がった。クランクルーム毎切断されたエグゾーストチャージャーがガスを噴き出した。そして掃除屋たちが次の瞬きをした時には、剣吾はいなくなっていた。えっ、と見回した時には、最後尾の1台を盾にする2人の前に立っていた。
そして、またしても消えた。
ほんのついさっき、剣吾が立っていた場所を、リアタイヤがゆっくりと転がっていった。
銃を上げようとした掃除屋3人の胸から、青空に向かって血飛沫が上がった。3人が3人とも、上半身だけが路上に落ちた。剣吾は意図して車を斬ったわけではない。3人の体をいとも簡単に抜けた刀の切っ先が、その向こうのホイールアームとエンジンに当たっただけだ。
今見たものが現実とは思えなかったのだろう、最後尾の2人が目を見開き、立ち上がろうとした。その首が順番に路上に落ち、転がった。
その時既に、剣吾は自分が壁にまで蹴り飛ばしたキャデラックの横に立っていた。
衝撃に脳震盪を起こしかけ、それでも後部座席から銃を構えたデルタ隊員は、顔に微かな風を感じた。ドアを開けてもいないのに、路上に転がり落ちる。しかも、ドア毎。
キャデラックの後部ドアが、中のそいつもろとも、縦に切断されていた。
車内で目を見開いた別の隊員は、横薙ぎに払われた刀に、キャデラックのリアピラー毎、首を刎ね飛ばされていた。次いでセンターピラー毎3人目の首を、フロントピラーと一緒に運転手の頸動脈を薙ぎ斬る。キャデラックの車内に鮮血の噴水が上がった。命乞いする間もなかった。あったとしても、今の剣吾は容赦なく同じことをしたであろう。
転がっていたタイヤが止まり、アスファルトの上に揺れながら倒れた。
斬られた4人、首を落とされた5人とも、信じられないと言いたげな死に顔をしていた。当然だろう。剣吾の動きが見えなかった彼らは、自分がどうやって死んだのかもわかっていなかったのだから。
あちこちの路上にゆっくりと、血溜まりが広がり始めた。
〈雷刃〉の切れ味はF・カーターの比ではなかった。剣吾の掌には人や車どころか、何かを斬ったという感触すら残らなかった。厚いダマスカス模様の刀身には、血も脂の1滴も付着していない。かすっただけで車のホイールアームを切断し、窓ガラス毎3本のピラーを切り刻んだにも関わらず、ミクロン単位での欠けすら生じていなかった。
それを一瞥にて確かめた剣吾は、5台の車の中央で尻をひしゃげさせたリンカーンに近づいた。
村上さん。仰った通りです。
この刀は、まさに最高だ。
リンカーンの中で、デービッドが必死に何か叫び、運転手が懸命にエンジンを再スタートさせようとしていた。しかしセルは回るものの、エンジンは一向に掛からない。
リンカーンの左に立った剣吾は、抜身の〈雷刃〉を大きく横に一閃させた。
またしても、ドアが切断された。しかも今度は、前と後ろ両方だ。フロントドアの上半分が路上に落ち、その上にベレッタを握った運転手が、シートの背もたれとともに落ちてきた。己の死に気づかない下半身は、まだ車内でアクセルを踏んでいた。
今日の剣吾には本当に容赦がなかった。〈雷刃〉をその場でヒュンと振る。血切り。
後部座席で動きを凍りつかせたデービッドが剣吾を見つめていた。剣吾は数歩下がった。もちろん、出てこい、という無言の威圧だ。デービッドはすぐに察した。充血した目に怯えの色を走らせながらも…、
デービッドはリンカーンを降りてきた。足をガクガクさせつつ、剣吾の前に立つ。
「来るとは、思っていた」
剣吾は表情も変えず、〈雷刃〉の尖端を、デービッドの顔に向けた。
「あなたにこれを向ける日が来るなんて思わなかった」
「ああ、私もだ」
「あなたには目を覚ました時から世話になった。こうやって刀を向けるのは心苦しいとも思う。だが」
剣吾の目が再度、すっと細められた。
「あなたは僕の大切な友人を殺した」
肩から、背から、そして眼差しから発せられたのは、殺気と呼ぶにはあまりに冷ややかな空気だった。それがデービッドの頬を引きつらせる。2人の間を、乾いた秋の風が緩やかに吹き抜ける。
ところが、
心苦しい、だと…、震える唇でデービッドは呟いた。「貴様、そんなことを、思っていたのか」
剣吾は意外そうな顔をした。流石に命乞いはしないだろうとは思っていたが、怯え、震えるデービッドの顔に、歪んだ笑みが広がり始めたのだ。「笑わせてくれる。世話になった、だと? 当たり前だろう。貴様の身の回りをきちんと整え、監視する。それは私に最初から与えられていた任務だったんだからな」
「………」
「まだわからないか? では教えてやる。フォート・ブラッグで若林が指摘した矛盾点という奴を覚えているか?」
「………」
「奴の着眼点は正しかったんだよ。貴様は我々が造り上げた最初の超人兵士だ。それも、ペガサスが超人兵士を造り出す遥か以前にな!」
暴走したペガサスが超人兵士の量産を画策し、世界の兵器市場に売り込もうとまでしていたのを知っているか。本来それは、この合衆国と、政府に巣食う武器商人たちの目論見だったんだ。
なぜなら超人兵士の誕生は、我々の組織が最初に開発した技術だからだ。
「その最初の結晶が、貴様だ」
貴様も途中から疑ってはいただろう。世界のあちこちに貴様を引きずり回しての、あの大立ち回りは全部、貴様が超人兵士として使い物になるかどうかを測定するための実験だ。途中から目的が変わってきたがな。
「ペガサスの暴走、超人兵士軍団の誕生、全てを闇に葬る必要が生じた。表沙汰になったとして、元を辿れば、それは合衆国の、我々の組織の画策だったと、いずれ誰かが気づいただろうからな。
そうなる前にペガサスを破壊しなければならなかった。その尖兵として、貴様を送り込む手筈となった。ところが我々は驚いたよ。プロトタイプに過ぎなかった貴様が、ペガサスが造り上げた改良型以上の進化を遂げたんだからな。貴様の活躍には本当に驚いたよ。貴様はまさに、合衆国の生んだ最高傑作兵器だ!」
デービッドは脂汗の浮いた額を朝日に光らせ、勝ち誇ったように叫んだ。震えも止まっていた。
その激昂ぶりにも、言葉の内容にも、剣吾は大して驚かなかった。フォート・ブラッグで若林の言ったことは覚えていたからだ。
それを今頃蒸し返すとは、時間稼ぎでもする積もりか?
しかしデービッドの次の台詞は、剣吾を凍りつかせるものだった。
「何しろ貴様は、最初から超人兵士になることを運命づけられていたんだからな」
「最初?」
「ああ、そうだとも。教えてやる。貴様はあの客船に乗った時から、我々の手に落ちる運命だった。ある御方がそれを命じた」
「何だと…」
まさか、あの事故が…。
「ああ、そうだ。心苦しくなど思う必要はないぞ。あの船と、貴様の家族を、事故に見せかけて海の底に沈めたのも、実は我々だ。貴様の運命は最初から決められていた。貴様か、或いはあの船に乗っていた誰かがこうなることは、最初から決まっていたのだ!」完全に開き直ってしまったらしいデービッドは、己に酔ったように叫んだ。対向車線にさえ車通りのなくなった高速道路上に、その声だけが響き渡った。「何しろ我々の組織は神の組織だからな。人間1人の運命など簡単に変えられる!」
「〈エスメラルダ機関〉とかいう、組織か…」
「よく調べ上げた。そうだとも。我々の手元には貴様のデータも充分に残っている。ペガサスの造った超人兵士のデータも奪った。この先、貴様のような、或いは貴様以上の超人兵士も、いくらでも造れる。そしてその兵士たちが、新しい秩序を創り、人間たちを新しい時代へと向かわせる礎となる。その新世紀を統括する者こそ、我々〈エスメラルダ機関〉の長だ。私はその御方、我らが神の片腕となって、軍団の指揮を執る。
貴様の役割は決まっている。我々の礎の1つとなり、そして死んでいく。それが我らの神から貴様に与えられた運命だ!」
そうか。
やっぱり、そうだったか。
その言葉を聞かされているうちに、剣吾の脳裏に、またあの暗い海が蘇った。
真っ暗な空の下、同じような真っ暗な波間を流されていく自分、荒れ狂う波濤に翻弄され、飲み込まれそうになる自分が見えた。その波からは決して逃れられない。
現に布由美は波濤に飲まれ、2度と浮かび上がってきてはくれなかった…。
以前、思ったことがあった。あの波こそ、自分を押し流す運命なのではないかと。
布由美を飲み込み、自分を元に戻れない怪物への道に押し流したのはあの波…、
そう、所詮は運命だったのだ、と。
その時は、布由美を失い、ヤースミーンに拒絶されたばかりだった。剣吾は半ば諦めていた。悟った積もりにさえなっていた。だが、それは相手が自分の手に負えない、あまりに巨大な存在に思えての、ただの逃避でしかなかったかも知れない。そして剣吾の無意識は、どこかでデービッドがその波と繋がっていることを察していた。連れ回された他の場所でも、あのパリの夜でも、デービッドが何か言い出す度に、得体の知れない戦慄を感じていた。あれは多分、彼の口から今の宣告――貴様の運命は、我々がずっと握ってきたのだ――を受けるのが怖かったのだ。
もしあの時、今の宣告を聞いていたなら、剣吾の精神は押し潰されていただけかも知れない。
しかし、マリアに出逢い、若林に出会い、ブラックペガサス追討に出る直前の剣吾は違っていた。そして…、
今の彼はもっと違っていた。
怒りが全身をおののかせ、震わせた。布由美を、未来を奪われた怒り。それが髪の毛を逆立てた。ヤースミーンを畏れさせた殺気が表情に差した。視界の奥で、赤い文字が明滅を始めた。
だが、それは今度も、最後まで文字にならなかった。
今の剣吾には、殺戮マシーンになろうとする自分を抑え込めるだけの強さがあった。
布由美の死がもたらした苦痛は、今以って治まってはいない。しかしその痛みを単純に怒りに変えたところで、布由美は帰ってはこない。
自分が見なければならないのは今なのだ。
剣吾には今この瞬間、守るべき人がいた。例えこの先どんな運命が待ち受けていようが、それを捻じ曲げてでも守らねばならぬ人が。
もちろん、恐ろしくないと言えば嘘になる。あの事故を、布由美の死を、個人の生死を、いとも簡単に手玉に取るような存在がこの世にいて、そいつが世界を動かしているのだとしたら。そいつが眉1本、指1本動かす毎に、誰かが布由美のように死ぬのだとしたら…。
それでも、今の剣吾には、そいつが恐ろしいと思える以上に、許せないと思える強さがあった。彼は己を鍛え上げ、それを自らの手で備えたのだ。
もしそいつが、僕からマリアを奪おうとするのであれば。そしてそいつがデービッドの言う通り、この世に現れた“神”なのだとしたら。
僕は喜んで、運命になど逆らって見せよう。
神にだって戦いを挑もう。
運命とは、命を運ぶものだ。
誰かから運んで貰うのを待つものではない。
どこかで聞いたのだったか、或いは読んだものだったか。その時の剣吾にはピンと来ない言葉だった。
しかし、今はわかる。
痛い程、わかる。
「残念だが、僕の命を運ぶのは、あなた達じゃない」
デービッドが笑みを引っ込めた。「何だ、それは」
「僕とマリアの命は、僕たち自身で運んでいく。この先、何が起ころうと、ずっと」
あくまで静かな口調だった。「僕たちの運命を操れると思うなら、やってみるがいい。でも、何があっても、僕は負けない。あなた達の思い通りにさせなどしない」
ワシントンの方から、パトカーのサイレンが接近してきた。ヘリコプターの近づく音もする。ようやく誰かが通報し、ワシントン市警が動き出したのだ。一瞬、デービッドの顔がパッと輝いた。
だが、剣吾は慌てもしなかった。〈雷刃〉を肩に担ぐような型――八相――に構えた。
「きっとだ」
静かに言った剣吾は、血切りの後、〈雷刃〉を静かに鞘に収めた。鯉口が静かに鳴った。ゆっくりと踵を返し、デービッドに背を向け、歩き出す。
…小高い墓地の上からその様子を眺めていた相馬が、ホッとしたようにブッシュネルのスコープから目を離した。
デービッドを目の前にしながら、いつまで経っても手を出さない剣吾に、内心苛々させられていたのだ。ワシントン方面からパトカー群がやってきているのも、ここからは見えた。あいつまさか、時間稼ぎに引っ掛かっているんじゃないだろうな。バーレットが故障した今、ここからではデービッドを撃つことも出来ない。愛銃S&W・M29カスタム、ガリル自動小銃では、2キロは遠すぎる。
しかし、どうやら…、
「終わったらしいぜ」
相馬はフェラーリの瓜生に声を掛けた。「さて、那智を拾って帰るとしようや」
瓜生はむっつりとした顔で上体を起こし、ウィンストンの吸殻を灰皿に捨てた。アイドリング中のフェラーリのハンドルを握る。
…リンカーンを背に、剣吾を見送っていたデービッドは、視線をそっと左右に走らせた。
切断された前のドアに、運転手兼護衛の上半身が俯せに乗っていた。その手が握る、ベレッタM9が目に入る。それを掴もうと、そっと護衛の死体に向かって足を踏み出し、手を伸ばそうと上体を傾けたその時、
デービッドの顔はアスファルトの路面に叩きつけたれていた。内出血している額をまたも強打する。
転んだ、らしい。
馬鹿な。いくら目前の恐怖から脱することが出来たばかりとは言っても、私ともあろうものが、足をもつれさせるとは。
倒れたデービッドの視界の彼方で、剣吾の体がふわりと浮き上がり、高速道路の壁に立つのが見えた。返り血1滴浴びていない白のキモノがはためいた。そのまま下に飛び降りる。どうやら下の道路に、迎えが来るらしい。さっきの狙撃の主、相馬か、或いは瓜生だろう。馬鹿め、こんな場所にまでノコノコ現れおって。ニュージャージー全域を封鎖し、戒厳令を敷かせてやる。必ず袋の鼠にしてやるからな。
しかし、なぜ私は、立ち上がれないのだ?
足を動かそうとするのだが、力が入らない。まるで存在が失くなったかのようだ。そして、銃に伸びかけた手にも。視界が次第に暗くなっていくような気がする。なぜだ? まさか、斬られたのか、私は?
いや、馬鹿な。いつ斬られたと言うのだ? 私は痛みすら感じてはいない。
10台以上のパトカーがサイレンを鳴り響かせ、すぐ近くにまで迫ってきた。頭上低空をヘリコプターが通り過ぎる。それに遅れて、数羽のヒタキが鋭い鳴き声を上げ、デービッドのすぐ上をかすめ過ぎた。それをちゃんと聴き取ったデービッドは、唇の隅に笑みを浮かべた。耳だって聞こえる。唇もちゃんと動かせる。それ見ろ、私は無事だ。斬られてなどいない。
どうやら、また、気を失うようだが。
このみっともない姿を、警官たちにどう言い訳したらいいのか…。
デービッドは、己が胴から両断されたことに、最後まで気づかなかった。ベレッタに手を伸ばそうとしたまま、事切れる。その背後で、リンカーンの前に立っていた下半身が、クシャンと膝を折って、倒れた。あまりにも鮮やかなその切り口からは、血の1滴も流れていなかった。
それが、デービッドが事切れた瞬間、思い出したように溢れ出した。腸がゆっくりとはみ出してきた。アスファルトの上で伸びた脚がビクビクっと痙攣し…、
乾いた穏やかな風が、5台の車から微かに上がる煙と、漏れたガソリンと、路上一面を濡らす血の臭いを、辺りに撒き散らし始めていた…。
超人旋風記 (7) その2