紗絹が生まれた日

 その日は関西東海地方で記録的な積雪を観測し、紳一は大阪の取材から帰ろうにも新幹線、在来線の運転見合わせ、飛行機は欠航、高速道路も通行止めという状態でホテルの部屋でうろうろと歩き回る。
 出産予定日が近い芙美子を昌子たちに預けて出張に出ていて、いつでも帰って来られるよう上司に願い出ていたのだが、天気のせいで身動きとれない状態であった。
 妊娠中はつわりも軽く、問題なく産み月まで過ごしてきた。
 ただ、お産は何があるかわからなく、自分の母親が命を落としているだけに芙美子は精神的に不安定になっていた。
 そして、仕事先に産気づいたという連絡が入ったが、足止めを食らってしまったのだった。
 定期的に昌子が状況を伝えるためにホテルの部屋の電話が鳴り、紳一ははらはらしながら受話器を取る。
「ああ、お袋。どう?」
 ――だいぶ進んでいるようだよ。大丈夫だよ。芙美子ちゃん頑張ってるよ。
「うん。とにかく無事でいてほしい」
 紳一が悲痛な声を出す。
 ――心配せずに。そっちが雨に変わるといいねえ。
「うん。本当に。とにかく動いたらすぐ向かうから」
 皆が祈るように過ごす夜となった。紳一はしんしんと積もる雪を見ていた。
 ネオンに浮かび上がる降雪を見ながら、まもなく三十歳の誕生日を迎える自分は、二十代の時とは生きる姿勢を異とする必要があると思った。芙美子の人生を背負ったつもりでいたが、日々の生活の中では逆に甘えてしまっている気分になってしまい、随分と支えられていると思っていた。しかし、これからはそういうわけにいかない。

 ――父になる。

「どうか無事に生まれてくれ」
 待ってるぞ……。
 電話が鳴る。
「はい」
 ――紳一。分娩室に入ったよ。もうすぐ生まれるよ。
「うん」
 新幹線の最終も終わった時刻となっていて、雪の状況が落ち着いても移動のすべはなく朝まで待つしかない。
「きっと無事に生まれる。芙美ちゃんも大丈夫」
 電話を切った後、両手を握り合わせる。
 どうか、この祈りが通じますように。
 東京方面の東の方角を向きながら祈る。
 宗教というものをまったく意識せずに生きてきたが、今は祈る対象があるのなら、それに縋りたいと思った。
 どうか、どうか、どうか……。
 再び電話が鳴る。
 ――紳一! 生まれたよ! 女の子だよ! 二人とも元気だよ!
 絶句した。
「……………」
 ――紳一、聞いている?
「う、うん。女の子……ああ……」
 ――かわいいこだよ!
 感極まった様子で、正太郎も電話口で何か言っている。
「うん。うん」
 無事に生まれた。
 芙美子も問題ない。
 紳一はへなへなとその場に座り込んでいた。


 ******


 翌日は打って変わったような晴天となり、気温をあげていくと午前中には新幹線が通常運転となり、紳一は飛び乗るように乗り、何とか自由席の最後の一席に座り込むと、後から来た人たちの小さな舌打ちが聞こえ、心の中で、よし、ついてるぞとほくそ笑む。
 結局一睡もできずに過ごしていた為、東京駅までしばらく眠っていけると思うと眠気が襲ってくる。まもなく京都、というアナウンスを聞いた時点で眠りの中に入っていった。
 夢の中に、入っていったのだった。

「しんのすけ」
 へ?
 芙美子が自分をそう呼ぶ声が聞こえた。
 普段は紳ちゃん以外で呼ばれたことはない。

 しんのすけ……。

 とあるアニメ作品を連想しながら呼ばれたほうを見ると、驚く。芙美子は時代劇で見るような着物姿だったのだ。
「しんのすけ。殿が明後日には江戸入りされるそうよ」
 殿?
 その格好と意味がわからず、何のことなのか聞こうと思った。
「わん」
 へ?
 それが自分の声だと思えなかった。
「でも……、きっとまたすぐ中屋敷に行ってしまうわ。今回こそお渡りいただけると嬉しいのですけど」
「わん! わん!」
 間違いなく犬の声だった。
「ありがとう。しんのすけ。そうね、きっと来てくださるわね」
 芙美子が溜息を吐きながら月明かりに照らされる庭を見る。その先には見事な日本庭園が広がっていた。
「しんのすけ。わたくし、真野の家に帰りたいわ。母上とかるた遊びをしたいの」
 鹿威しの音が響く。
「そして、母上に伺ってみたいのです」
 遠くを見る。
「いかようにしたら殿のお心をわたくしの方に向かせることができようかと」
 思わず、くうぅぅんと鳴いてしまう。
「いかようにしたら父上と母上のように仲睦まじくお過ごしになれようかと。お尋ねしてみたいのです」

 芙美子……!

「わん!」

 言葉ではなかった。
 芙美子の膝に乗ると背中を撫でられ気持ちよくなる。その心地よさはよく知っていて、そうか、自分は前世では芙美子のペットだったのか、となぜか大変納得する。
 犬でも何でもそばにいられるのならいいかと思ってしまった。


 そして翌々日、芙美子を不幸にしているお殿様とかいう野郎がやってきた。
「道中ご無事で何よりでござりました。殿にはご機嫌麗しゅう」
 豪華で殿好みの絢爛な打ち掛けを羽織り、頭を下げていると、お殿様はその姿をまじまじと見ていた。
「うむ。こちらは変わりないようだな」
「はい。恙なく過ごしております」
「一献」
「あ。あ、は、はい」
「なんだ。その意外そうな顔は」
「そ、そのような顔などいたしておりませぬ」
 そう言いながら芙美子は真っ赤な顔をしていた。
 上屋敷で酒を飲むということはそのまま過ごすということであり、明らかに芙美子は嬉しくて舞い上がっていた。
 おいおい、一応来世では俺様が夫なんだがな、と寝たふりをしながらその二人のやりとりを聞く。
「しんのすけは相変わらず眠ってばかりだな」
「はい。滅多なことでは吠えずにおとなしくて世話も楽です」
 そうだ、俺は人を困らせるのが嫌いなんだとばかり耳を立てて尻尾をぶんと振る。
「聞こえているようだぞ」
「ええ。よく話を聞いていて、言葉もわかっているようで」
「そうか。これは立派な従僕だ」
 悪かったな…と吠えたくなった。
「姫」
「はい、殿」
「そのかいどりはよく似合っておる。美しいぞ」
 何としても引き留めたいという一心で誂えた打ち掛けであった。
「気に召していただき嬉しゅう存じまする」
 そんな思いが通じたことが嬉しく、恥じらう様子が可愛らしい芙美子に明らかに欲情していく殿様の態度にしんのすけは嫌悪感を持つ。

 やめろ……、と尻尾をばたんと畳に打ち付ける。

「時に……、姫」
「はい」
「国許でまたひとり子供が生まれる。可愛がってやってほしい」
「え。……あ、は……い……」
 このタイミングで言うことか? とつい片目を開けてしまった。
「だから、そなたは気に病むことはない」
「は……、お心遣い痛み入りまする」
 声が震えていた。
「子供など他のおなごが生めばいいのだ」
 芙美子が顔色を変える。
「今宵はそなたと過ごす。実はな、子がなせぬ身体でもそなたが一番肌に合うのだ」
 芙美子は深く傷ついた表情をした。
 むくりと起き上がり、部屋の外に行く。
 これ以上見ていられるはずがなかった。
 廊下に出るまで歩いたが、庭先に下りてからは走り出した。
「しんのすけ君! どちらにいかれるのですか! 御前様が心配されますよ!」
 女中が追ってくる。
「わん!」
 追ってくるな!
 わおーんと遠吠えになった。



 次の日からは殿様は中屋敷に住まわせている側室のところに入り浸り、芙美子はまた孤閨をかこつことになり、寂しい夜を過ごす。
「ねえ。しんのすけ。わたくしに子があればきっと殿もそばにいてくださったのよね」
 芙美子が切羽詰まった表情で言う。
 それは違うと思うぞ、と思いながらも寝たふりをした。
「父上にも国許にたくさんの側室のお方様がおいででしたけれど、母上を特別に扱っていらっしゃって父上在府の時はとてもお幸せそうで。中屋敷にお泊まりなどされなかったのよ」
 撫でられている背中に落ちる涙を感じた。
「きっとわたくしがいけないのですね」
 違うぞ。お前は悪くないぞ。
「わたくしが至らぬゆえ、だめなのですね」

 違う、お前はだめじゃない。
 だめなんかじゃない!

 起きあがって泣き濡れる芙美子の顔を舐める。

「しんのすけ?」

 泣くな。

「うふふ、くすぐったいわ」

 そうだ、笑え。

 あんな野郎、こっちから願い下げだ。

 俺がお前を幸せにしてやる。

 お前を笑わせてやる。

 お前を守ってやる。

「まもなく終点東京、東京です。どなたさまもお忘れ物のないようお支度してお待ちください」
 はっと起きる。
 今のは、夢だったのかと紳一は頭を抱えながら荷物を棚から下ろすため立ち上がり、苦しくなった胸を押さえる。
 ふっと笑う。
 前世が犬というのは夢でも悲しいものがあるぞと自嘲し、だが、一笑に付すものではないと思った。それだけ芙美子とは強い絆があるのだと確信させ、それを気づかせてくれる夢だったからだ。
 東京駅からタクシーに乗り、病院に向かう。
 産科のフロアは他の病棟と違い、明るい。
 陽光が差し込んでいる中庭を通り過ぎ、昌子に言われていた部屋にたどり着くと、子供を抱いている芙美子がいた。
 震えてくる。
 足が動かなくなってしまったかと思った。
「紳ちゃん! おかえりなさい!」
 夢の中の芙美子と重なる。
「…………………」
「今ね、お乳の時間なの。まだうまく出ないけど」
 しかし、こちらの芙美子の方が数倍美しいと思った。
「へ、へえ……」
「ほら、そんなところに立っていないで。パパ来ましたよぉ」
「うん」
 一歩一歩近づく。
「はい。ここにこうして手をやって。そうそう背中をきちんと支えて。首を、そうよ」
 嬉しそうな幸せそうな母の表情だった。
「うん。うわ、こわいね」
「大丈夫よ。いいね、パパに抱っこですねぇ」
「この子か」
「ねえ、かわいいでしょう」
 くしゃくしゃで真っ赤な顔をしている。
 想像していたよりもずしりと重みを感じた。
「これがおなかの中に入っていたなんて」
「大変だったわよ。すっごく苦しかった」
 そう言いながらも達成感に満ちていた。
「お疲れさま。よく頑張ったね」
「うん。ありがとう」
 表情が輝かしい。
「お母さんだね」
「うん、お父さん」
 俺が守ってみせる。

紗絹が生まれた日

紗絹が生まれた日

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted