怪力少女・近江兼伝・第6部「さようなら茜」

この小説は表題にあるように全11部からなる連載小説の第6部になります。どうか最初から読むようにしてください。
主人公の茜は光栄高校に進学します。そこで意外な人物に会うことになります。

やがて春が来て、茜は私立光栄高校に入学した。
茜は特特待生なので、制服のブレザーなども支給されたが、間下部はそれとは別にもう一揃い買った。

入学式に行くと新品の制服を着た男女の新入生がたくさん集まっていた。
驚いたことは、中学1年のときに友達だった、元木京子と押屋怜子がいたことだった。
そして、これは茜も知っていたことだが、野沢英一も入学していた。

また、特待生や特特待生が他の生徒と別に並ばされたり、みんなの前で公表されたりしなかったのは茜としてはほっとしたところだった。
だが、スポーツ特待生の場合は部活動の中で紹介されるし、成績優秀の特待生の場合は進学クラスの中で紹介されるので、全く秘密になることはないそうだ。


入学式では北島麻衣子理事長が挨拶をした。
校長は通り一遍の式辞を言っただけだが、理事長のは少し具体的なことを言ってると茜は思った。

「光栄高校には360人の生徒がいます。君たちは120人ちょっきりです。
でも、入学してからの事情でやめる子もいます。
1人でもやめると授業料が学校に入って来ないので、すぐ1人入学させます。
もちろん他の高校からの中途転学者とか高校浪人の人ね。
声をかければ喜んで入ってくれそうな、しかも親がお金持ちの子をたくさん調べてるの。
だから、あなたたちに問題があれば容赦なく退学させることもしますよ。
だって、問題のある生徒はこの学校の評判を傷つけますからね。
逆にこの学校の評判を高めてくれるような生徒は大歓迎です。
スポーツの得意な子、成績の良い子で優秀な人は特待生として優遇されるわ。
特待生は全体の10パーセント。つまり、新入生には12人いるの。
今年はスポーツ関係で6人、学業優秀者で6人います。
その中でも特に優秀な人がいた場合、特特待生としてさらに特別な優遇が受けられます。
主に経済的優遇措置ですけどね。
今年は学業関係で1名、スポーツ関係で1名います。特特待生が入学するのは本校では7年ぶりです。
もちろんこの人たちも成績が落ちたりスポーツ大会での結果が悪かったときは資格が奪われます。
普通の生徒に戻るか退学するかです。
それから普通の生徒のみなさん、あなたたちは高い授業料を払っているので、胸を張って学校に来てください。
成績が悪いと落第することはありますが、そのことの為に退学させることはありません。
はっきり言っておきますが、どこかの店で万引きしたりすれば、それだけで退学になることがあります。
教師に暴力を振るっても退学になります。
してはいけないことをすれば当然その責任を取らなければなりません。
もうそのことが分かる年齢の筈です。
それと言い忘れましたが、授業料の滞納はお家の方に催促と警告が届きます。
警告が2回されたとき、もうこの学校を辞めてもらうことになります。
もちろん滞納した分はしっかり徴収しますけどね。
だから、親から授業料を預かってそれを小遣いに使ってしまう子はアウトです。
もっともそうならないように、今は銀行振り込みでもできますからね。
校長先生は教育者なので、為になるお話をなさったと思いますが、私は経営者なのでこういう話をしました。
ですからあなた達は小学校や中学校にいるときみたいに、少々のことは先生たちの愛で許されるなんて思っていたらとんでもないことになりますよ。
はっきり言います。この学校の為にならないと判断された子は即やめてもらいます。
長い目で見てとか、善意に解釈してとかそんな悠長なことは言ってられません。
悪い生徒を甘やかしていると学校が潰れてしまうからです。
私のした話よく覚えておいてください。そして自分の行動はどうあるべきかよく考えておいてください。
これで終わります。」

ずいぶん言いづらいことをはっきり言うなと茜は思った。
だが、同時に分かりやすい話し方だとも思った。



進行役の職員が次に新入生代表による『新入生の誓い』をしてもらうことを告げた。
そして新入生代表の名前が呼ばれた。

「新入生代表、魚住 弘!」
「はい」

茜は、そのとき初めて知った。銀海町の頃友達だった弘が入学していたことを。
だが、弘は茜が女だということも、今の名前が近江兼ではなく木崎茜だということも知らない。
顔を見たら分かるだろうか?と茜は思った。

(だが、名前も性別も違うから気づかないかもしれない。あれから3年経つ。
男だと嘘をついていたことが分かったら怒るだろうな。とても名乗れないな。)



入学式も終わって教室に移った。茜は4組で知り合いはいなかった。
魚住弘と元木京子が1組で、2組が野沢英一、3組が押屋怜子とばらばらだった。
担任は池田正という若い男性教師だった。専門は体育で、学生時代体操選手だったという。


その後理事長室に呼び出された。特待生だけが呼ばれたのだ。
集まった生徒の体格は対照的だった。半分はほっそりした痩せ型か小太りの生徒なのに対し、後の半分はがっちりした筋肉質の体格だった。
彼らもそれとなく雰囲気で分かるらしく、長テーブルを挟んで二つの類型に分かれて座った。
茜は当然運動系の側に座ったのだが、隣の筋肉男が茜の肩を小突いた。

「お前あっちの方でないのか?」

茜の体格がほっそりしているので学業組でないのかと言っているのだ。

「私、頭悪くて・・」

茜は笑って頭を搔いてみせた。

「だとしてもこっちの方でもないだろう、どう見ても。お前間違えて呼ばれたんじゃ・・」
「皆さんスポーツかなんかで特待生なんですよね」
「ああ、俺はアマレスで特待生だ。」
「私はその・・柔道なんです」
「柔道・・・お前が?」

これには一緒に座っていた運動系の生徒たちが思わず笑ってしまっていた。
向かい側にいた学業組も驚いた顔をしたが、一人だけ驚かない者がいた。
なんとそこにいたのは元木京子だった。
頭の良い子だとは思っていたが、特待生になっているとは思わなかった。

「木崎茜さんのことを知らないんですか?
県の中学生柔道大会で個人優勝した柔道2段の辰野さんを破った人ですよ。」
「なんだって?おかしいじゃないか?じゃあ、何故自分が優勝しないんだ?」

そう聞いたのはアマレスの男子だった。

「個人戦には出ていないで、団体戦にだけ出ていたんです。もちろん団体戦では優勝しました。」
「お前,じゃあそれで柔道何段なんだ?」
「初級・・かな?白帯しか締められないから」

これが大うけしてみんな一斉に笑った。そこへ理事長が入って来た。

「ずいぶん盛り上がっているわね。木崎さんの話題かな?」

痩せた北島麻衣子理事長は両手に大きな紙袋を重そうに提げて来て、茜の前と弘の前にどんと置いた。

「教科書よ。持って行ってね。事務室に取りに行って来たの。ああ、重かった。」


一同みんなシンとなった。教科書を無料で貰えるのは特特待生だけだからだ。

「これで誰と誰が特特待生だか分かったわね。えーっと、レスリングの神林君」
「は・・はい」
「隣の木崎さんは柔道だけど、レスリングの人とも戦えるから後で胸を借りると良いわ。」
「じょ・・・冗談でしょ。僕はフリースタイルの74キロ級ですよ。この人は女性だし・・
体重も僕の半分くらいしかないじゃないですか?」


だが、理事長は意味ありげに笑うと話を続けた。

「他の運動系の人たちも自分の競技でこの木崎さんと勝負してみてほしいの。
それであなたたちの競技で使えそうだとわかったら、私に教えて。いいわね?」

茜は一生懸命首を振ってとんでもないとアピールしたが、他の生徒は不思議そうに茜と理事長の顔を見比べていた。

「運動系の人たちは早速今日から部活に出てもらうわ。
但し木崎さんは私が連れて歩くから、柔道部にはまだ行かなくていい。
学業組の人たちに言うけど、あなたたちは特に部活に制限はない。
要は一流大学に進学してもらえれば、私としては文句がないわけだから。
けれども文化部に入って何かしたいなら、それも構わない。
それが自分の学業にプラスになるのならという意味よ。
そして定期的に行われる全国模試で一定以上の成績を取れない場合は、あなた達の特待生の資格は剥奪されて一般生徒に格下げになります。
運動系の人達にも言っておきます。怪我だけはしないでね。
それだけであなた達の投資価値がなくなるのだから。
食事にも安全にも気をつけて自分の体調を管理することです。
あなたちの体は財産だと思ってください。
くれぐれも自己破産することのないようにね。それじゃ、解散です。」



茜は理事長に捕まってまた運動部廻りをさせられることになった。
早速行ったのは、レスリング部だった。
だが、女の部長の石狩が茜を拒否した。

「理事長、レスリング男子の特待生は久しぶりだったはずです。
それを入学早々潰す気ですか?
木崎さんはレスリングは素人ですが、対戦相手に大打撃を与える力があると思うので、危険です。
私も彼女と対戦した後立ち直るのに長い時間がかかりました。」

そばで聞いていた神林は納得いかない顔をした。

「先輩、何言ってるんですか?僕がこの小さい女に負ける筈がないじゃないですか。やらせてくださいよ。」
「そう・・そんなにやりたいなら、柔道着を着て対戦しなさい。
だいたい男のあなたが、水着のようなユニフォームを着た女子を押さえ込むことに抵抗を感じないかな?」

この言葉で神林は黙ってしまった。
ところが理事長はその言葉に飛びついて来た。

「そう、柔道着でやるのなら良いのね。それじゃあ,神林君をちょっと借りるわね。
彼が負けてもレスリングで負けた訳じゃないから良いでしょ?」
「神林君,君どうしてもやりたいの?」
「先輩,こう言っちゃあ悪いけど、何かレスリングってものを軽く見られているような・・・だから悔しいんですよ」
「あなたに言っておく。
この木崎さんって子は弱そうに見えるけど、昨年ここに来たとき運動部の猛者たちを何人も破った格闘家なの。」
「先輩、俺頭が悪いから体で経験しなきゃ分からないし、納得できないんすよ」
「しょうがないわね。それじゃあ、勝てるかもしれないからやっといで。でも負けても気にしないこと。」
「はい」

神林は柔道場に行って稽古着を借りた。茜も柔道着を着せられた。
「俺は柔道着を着てるけどレスリングで戦う。
お互い背中か両肩を床につけたら負けということにしようじゃないか。」
「どうしてもやるんですか?理事長さんはやらせたがっているけど、私はあまり気乗りしない。
私は断ることができないから、あなたに断ってもらえればよかったんだけど。」
「もう引き返せないから、さっさと始めよう。」

神林が両手を広げて構えると、茜も両手を出して相手とがっしりと手を組んだ。
茜はひょいと手首を返し、下から掬い上げるようにして神林の腕を絞り上げた。
神林の両腕は肘が伸ばされて曲げることもできない。
両腕は並んで揃えられ上に上げられる。完全に力負けしているのだ。
茜は手を解いて神林を解放した。

「今度はどうします?」

茜にそう言われて、神林はタックルして行った。実に素早い動きだった。
だが茜は左足を後ろに下げて腰を少し後退して沈めると右手を前に出して神林の額を手で押さえた。
それで神林のタックルは失敗した。
何度も神林は試みたがそれ以上近づくことも相手を掴むこともできない。

(くそっ!!滑稽だ。)

神林はタックルを諦めて、すくっと立った。
直立して茜に近づくと柔道の体勢で組もうとした。
だが、それは見せかけで投げを狙って組み付こうとした。
神林としては首投げか胴を抱え投げにするか、または背後に廻って裏投げするかその辺りを狙った積もりだ。
レスリングには衣服を掴んで投げる技はないからだ。
茜は神林が接近してきたので、襟や袖を掴んで体を一閃して背負い投げをかけた。
レスリング選手なので、こういうときは腰を下げたり抱きついたりして防ぐものだが、その間もなかった。
背中を思い切り叩きつけられて神林は床の上に伸びた。

(これが特特待生の実力か・・・)



柔道部の生徒は茜については十分知っているので、予想した結果を見ているように静かな反応だった。
また、理事長が茜を連れて柔道場から出て行くときも、何も言わなかった。


「光栄高校には運動部はあっても、団体競技中心の部活はないの。」

理事長は歩きながら茜に説明した。

「例えば野球。野球は高校野球連盟が特待生を認めてないの。
でも、その前にこっちから言いたいな。特待生にはできないって。
だって、9人いるレギュラーのどこまでを特待生にするの?
9人とも特待生にすれば経費がものすごくかかるわ。
球技でも卓球やバドミントンなら優秀な子を呼べる。
だけどバスケやバレー、サッカーなど人数を揃えなければいけない種目は面倒なの。
こんな小さい高校が名前を上げるとしたら一人でも有望な選手を集めて結果を出すこと。
だから個人競技が中心になるの。
でも、神林君みたいにレスリングで特待生を呼んでも、練習相手がいない。
男性の先輩で同じ重量の選手は殆どいないとなると、彼は井の中の蛙になってしまう。
だからあなたを使って先制パンチを食らわせたのよ。」

茜は、これからもこの調子で使われるのだろうなと、顔を曇らせた。




背戸浦刑務所の面会室で堂島は子分筋の外崎という男と会っていた。

「社長、お変わりありませんか?」
「ああ、心配事があって夜眠られないことがある。」
「それはお身内のことですか?」
「ああ、例の姪御のことが心配でな。
我侭し放題でこの先が心配だ。
早く独り立ちして旅立てるようにしてやりたいんだ。」
「ならすぐにでも」
「まあ、待て。
姪御のことを何かと世話を焼くお偉い旦那さんたちがいてな、当分は無理だろう。
独り立ちできる時期が来るまで待ってやりたいんだ。
可愛い姪御だからな。旦那さんたちの機嫌も損ねちゃいけないことだし」
「ではそのときが来たら、必ず。」
「ああ、お世話になる人は外からお迎えすることになると思うがその方にも失礼のないように宜しく頼む」
「わかりました。外から何か差し入れたいと思うのですが何がいいですか」
「ウーロン茶かな。キムチかな?ああ、どっちでも任せるよ」
「ではまた。伺います」
「あ、そうしてくれ。姪御のことはそれとなく見守ってやってほしい」
「はい、かしこまりました」




堂島興行の社長と面会して来た外崎は外に待たせてあった車に乗ると、行く先を告げて走らせた。
「木崎茜の件なんて言ってました、親父さん?」
運転手が聞くと、男は低い声で呟いた。
「今はまずい。警察の上層部に知り合いがいるらしく、木崎をやれば徹底的に背後関係を調べられるから危険だって言うんだ。」
「親っさんがそう言ったんですか?」
「ああ、内輪話に見せかけて、符丁の話をしてきたのさ」
「じゃあ、やらないんで?」
「待てと言った。やるときはチンパンか蛇頭のヒットマンがいいとも。」
「そりゃあ、楽しみですね」
こういう会話が交わされていることはまだ誰も知らなかった。



茜は高校に入った途端気がかりなことが沢山増えた。



一つは北島理事長である。彼女の要求に逆らうことができないのが辛い。
彼女にとって、茜は利用価値のある商品であるらしい。
だから特特待生という経済的な援助・・つまり投資をしているのだ。
だから柔道で特特待生になっているとはいえ、他のスポーツとも対決させられるのは断りきれない気がするし、気が重いのだ。



まだある。柔道部の練習に出るために新聞配達の夕刊をやめたことだ。
これで定期的な収入が半減する。
そのためアルバイトをしたいが、部活の時間帯とダブルことが多くてできない。



そして柔道部の練習が筋トレと組み手中心なのだがそれが辛い。
辛いというのは茜の場合他の部員とニュアンスが違う。
腕立て伏せ・腹筋・背筋・各種ウェート・トレーニングなど、茜には時間の無駄のような気がするのだ。
茜の怪力はトレーニングの結果ではない。生まれつきの体質によるものだ。
筋トレをしなくても成長に伴って筋力がどんどん上がって行くのだ。
組み手も技を覚えるのに最初は為になるが、覚えてしまうと相手がいなくなる。
極端なことをいうと、今持っている技だけで部員の全員を倒せるのだ。
背負い投げだけで勝とうとすれば、全員背負い投げで一本ずつ取れる。
そんなことがわかっているので、組み手で時間がつぶされるのがつらい。
また、組み手では男子部員が茜を指名して申し込んで来ることが多い。
そういうときには容赦なく投げ飛ばすことにしている。
また、通常の女子相手のときには、ときどきわざと投げられてあげないと、相手の練習にならないというのもある。
それも、茜にとってはやや苦痛になっている。そういうのが面倒なのだ。



もう一つは、喧嘩や暴力沙汰に対して処分が厳しいということである。
茜は好戦的な方ではないが、光栄高校には結構手の悪い生徒がいて嫌がらせや挑発を行うことが多い。
殊更、特特待生に対しては僻みもあるのだろうが、見る目つきに敵意を感じることが多いのだ。
けれども、もしトラブルに巻き込まれたらスポーツ選手はそれが不可抗力であっても、暴力を振るうことは許されない。
暴力事件を起こしたら、スポーツ大会の出場は禁止される。
そういう手かせ足かせがあるというのもまた気の重いことなのだ。



そして何より最も気になることと言えば、魚住弘の存在である。
花山からは間下部を通して、堂島興行にはまだ警戒は必要だと言われている。
だから今自分の正体を言って、魚住一家と以前のように親しくなることは絶対にできないのだ。
だから、弘には自分の正体を知られてはいけない。
けれど、すぐ間近にいていつでも話しかけるチャンスがあるというのに、それを我慢しなければならないのが、茜には辛いことだった。



そしてもう一つ不安なことがある。
高校に入ってから気づいたことだが、時々誰かに見張られているような気がするのだ。
例えばカメラを向けられて写真を撮られたような気がしたこともあった。
だが、別のものを撮っていたかもしれなかったので、その辺が微妙だった。



間下部は、頷きながら茜の心配事を聞いていたが、口を開いた。

「理事長は他にどんなスポーツをやらせようとしているんだ?」
「球技で、卓球とバドミントンをやらされそうです。」
「相手の球を全部受けて打ち返すと良い。」
「でも・・」
「それをとんでもない方向に打ってやるんだ。そうすれば理事長は諦めるだろう。」
「わざと負けるんですか?」
「そうだ、球技には才能がないと思ってもらうしかないだろう。
但し格闘技は柔道やボクシングの他に何があるか分からないが、負けなくてもいい。徹底的に研究するといい。必ず役に立つときが来るような気がするからな。
それと、柔道の練習は自分なりの練習メニューがあるからと言って、部活の練習を免除して貰え。
理事長は結果を大事にするタイプらしいから、大会で勝って優勝すれば文句はない筈だ。
それと、魚住家とはとにかく関わるな。
それだけ茜にとって大事な人達なら、絶対に気づかれては駄目だ。
向こうが気づけば、監視の目にも気づかれる。
たぶん茜を監視しているのは間違いなく堂島の息がかかった者だ。
そして、魚住家が銀海町の住民だと分かれば、茜の正体もばれてしまう。
今、茜は堂島興行の社長以下子分たちを刑務所にぶちこんだ張本人ということで恨まれているんだ。
近江兼だと気づかれたからではない。
花山さんの方から、とにかく気をつけるようにと言って来た。」
「はい」

茜は緊張した。
自分がターゲットになっているということがはっきりしたからだ。

「最後に暴力事件に関してだが、防御を装った攻撃というか・・防御イコール攻撃ということなら、正当防衛になる。
まあ、そういうことに巻き込まれないように努力することも必要だが、かといって逃げて廻ることもない。
それと、誰かを守るために茜が力を使ったとしてもそれは誰かのための防御であって、大義名分がある。
仮にそれで退学になったりしても、それは退学にする方がおかしいというくらいの気概を持たなければ駄目だ。恐れるな。私の言いたい事はそれだけだ。」
「ありがとう。ダディ、お陰で気持ちが楽になったよ。」
「なに、いつでも相談に乗るから。スパゲッティ食べて行けよ。」
「はい!」



魚住弘は、最初県立高校に入る積もりだったが、光栄高校から特特待生の誘いを受け進路を変更した。
妹も2年後に県立に進学するとすれば、少しでも親の負担を少なくしたかったからだ。

しかし通学し始めて色々驚いたことが多かった。

入学式の日は分からなかったが、まず女子がけばけばしい化粧をして来ること。
付け睫毛をしたりアイシャドーを塗ったり、校則で定められているスカート丈も無視して極端に短かったり。
しかも上級生の女の子が、自分のことを見に来て流し目をしてきたり。

一番驚いたのは、制服を着ているのにどのクラスにもいない男子生徒がいること。
そして、休み時間になると突然現れて小遣い銭を一般学生からせびったり、脅したりする。

「あいつらゴミ学生って言うんだよ」

事情通の大井という同級生が教えてくれた。

「以前この学校にいた奴らだが、退学になったんだな。でも、制服は持っているんで、一般の学生に紛れているんだ。」
「そんなことどうして許されるんだい?」
「許してないよ。ただ、学校側が取り締まれていないっていうか、目を盗んで神出鬼没に現れるんだ。」
「一応犯罪だよね?どうして警察呼ばないの?」
「そんなことすれば、学校の評判落とすだろう?そういうこと。」
「全くよく分からない、変だよ、この学校は。」
「それより魚住君、君気をつけた方が良いよ。君はゴミ学生たちに狙われているみたいだ。」
「なぜ?」
「うーーん、多分・・・あいつらは学校から退学させられた腹いせをしに学校に来るんだ。
だから、学校から特別扱いされている特特待生の君は格好のターゲットになるらしい。
そう言っているのを耳にはさんだもんだから」

そういうと大井は離れて行った。



ちょうど1週間たったときだった。廊下に出た弘はいきなり数人の男子生徒に囲まれた。
どのクラスにもいない学生たちだ。弘は予め全学生の顔を覚えていたからすぐ分かった。

「ちょっと付き合ってもらおうか、優秀な特特待生さん」


弘が外に連れ出されそうになっているとき、何気なく窓の外を見ると中庭に木崎茜が本を読んで座っているのが見えた。
中庭の木の下で敷物を敷いて座っている。遠足なんかで敷く敷物だ。敷物?
なぜそんなものを?
そう思ったとき、彼女がこっちを見て立ち上がるのが見えた。
それから先は数人・・6人の偽学生たちが弘を引っ立てて上靴のまま非常口から外に連れ出した。
物置の陰に連れ出されるといきなり一人に腹を殴られた。

「うう・・」

弘は苦しくなって屈み込んだ。
そのとき囲んでいた男たちのうちの2人が急にいなくなった。
そして誰かが弘の手を引っ張り、男たちの輪から連れ出した。
顔を上げると、それは木崎茜だった。

「魚住君、ちょっと離れていて」

そういうとすぐ追いかけてきた4人の男たちに一喝した。
「来ないで!」
「そういうお前も特特待生の木崎って女だな。ちょうどいい。」

違う方向からたった今いなくなった2人がよろよろしながらやって来た。

「誰かに後ろから引っ張られて放り投げられたんだが、まさかその女か?」
「おい、気をつけろ。こいつレスリングの神林を投げ飛ばしたっていうぞ」
「それはデマだ。こいつは同じくらいの重量ランクの女同士の柔道ごっこで強かったってだけの奴だ。
こんなの俺一人でひねってやる。」
「ついでにさらって行こうか。結構可愛いし」
「そうそう」



茜は見回した。彼らはまだ警戒してないので茜を囲んでいない。
正面から茜の顔を見て、品定めをしているのだ。
顔は闘争モードというのにはにやけ過ぎているし、性的な関心を抱いているのがはっきりしていた。
茜はそれを利用することにした。咄嗟の判断だ。
つまり襲われて被害を受けそうになり夢中で抵抗しているうちに・・・というパターンだ。
幸い弘が目撃者になっている。

「捕まえろ!」
「きゃー!!」


茜は叫ぶことにした。
一斉に彼らは茜を襲った。正面の男が抱きついて来た。

「きゃー!!」


逃げようと背中を向けた背後から抱きついた男の鳩尾を後ろ肘打ちでダメージを与えておきながら、茜はその男を背負いながらもがいている振りをした。
すると左側からと右側から二人の男が掴まえにきた。
茜は背負っていた男を放して二人に左右の肘打ちを見舞った。
二人とも吹っ飛ばないように掴んで、自分が二人に捕まってもがいているように暴れてみせた。

「離して!!何をするの」


他の三人が更に笑いながら迫って来た。

「おい、加藤何倒れてんだ?どこかぶつけたか?」
「こら、もたもたしないで、脱がしてしまえ」
「どら俺に任せろよ」

茜の両脇にくっついている男たちを押しのけるようにして他の三人が、背後と正面そして左から襲って来た。
茜が両脇で掴んでいた男たちを離すと、彼らは仲間たちによって後ろに押しのけられ倒れて行った。

「きゃーっ!!やめて!!」

茜は正面の男の股間を膝で蹴り上げた。その足を後ろに振り上げると、踵で背後の男の股間を蹴った。
一瞬のことである。
当然前後の二人は崩れ落ちて行ったが、左側から抱きついて来た男はその状況をまだ理解していなかった。

「離して!!」

茜は頭を左側に曲げて横方向の頭突きを相手の顔に見舞った。
鼻骨を潰されて最後の男は鼻から血を噴出して倒れた。
茜はすぐ弘の手を掴んで走り出した。

「逃げよう!」

逃げようと言っても、相手は6人とも完全にダウン状態なのだが、茜としては襲われて逃げているように演じなければならなかったのだ。
幸いこういう修羅場を見慣れていない弘はよく状況を理解していないみたいだったので、茜はその演技で押し通すことにした。




弘は驚いた。木崎茜は6人の男たちに襲われたのだ。
男たちに掴まって悲鳴をあげながらもがいている木崎茜だったが、なぜか男たちが次から次へと倒れて行った。
木崎は確か48キロ以下女子柔道の優秀選手だが、大の男を6人も倒す力はないはずだ。
柔道の技も使わずにどうやって逃げ切れたのか?
どうして男たちは倒れて行ったのか?・・・不思議だった。


木崎茜は弘を1組の教室まで送ってくれた。

「あの・・木崎さん、ありがとう。それと聞いてもいいかな?」


弘は4組の教室に戻ろうとする木崎茜に尋ねた。

「何をやったんだい?どうしてあの6人から逃げられたのかな?」

木崎茜はにこっと笑って、悪戯っぽく言った。

「それは秘密だよ。それをばらしたら魚住君に襲われたとき逃げられないもの」
「えっ・・、僕はそんな・・・」
「あはは・・冗談、冗談。魚住君はそんなことしないか・・・」

最後の語尾を意味ありげにフェイドアウトさせて、木崎茜は走り去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、弘はつぶやいた。

「もう一つ聞きたいことがあるんだけどな。
どうして1組の見える中庭に来て本を読んでいたんだよ?
それにどうして敷物まで敷いて・・・・・?」

だが、その問いに答えてくれる筈の木崎茜はもうそこにはいなかった。


    


茜は柔道部員達に囲まれていた。

「筋トレを一緒にできないとはどういう意味だ?」

3年生で部長をしている君田昇2段が茜を問いただす。

「理事長から好きにさせてやってくれと頼まれたからやむをえないとは思うが、なんの説明もなければ部員のみんなが納得しないだろう?」
「私の体は筋トレをしても無駄なんです。
筋肉で動くのではなく気の力で動くようになっているからです。」
「なんだ、それは?超能力の類か?」
「いえ、子供の頃下宿していた中国人の人に訓練を受けてそういう体質になってしまったのです。」
「中国3000年の歴史って奴か・・・。じゃあ、その証明をしてみせてくれ」
「たとえば腕立て伏せはどの程度できれば合格なんですか?」
「俺は特待生じゃないけれど、指3本で100回できる。
女子のお前にそこまで期待するのは酷だが特特待生だったらそうなるまで挑戦してみても良いのではないか?」
「100回もしなくても1回だけしてみますね」

茜は左手を背中に回して右手の人差し指3本で片手腕立て伏せの体勢になった。

「この状態で1回だけやってみます」

茜は右腕を目一杯折り曲げてその腕だけで全身を支えた。
次にしたことは誰も見たことのない動きだった。
茜が右腕をぴんっと伸ばすと全身が跳ね上がり直立の姿勢になった。
柔道部員は驚きの声をあげた。
片腕一本だけの力で伏せていた体をバネが弾むように立たせたのだから。

「他の背筋とかウェートトレーニングの方の証明は勘弁してもらえますか?
見世物にはなりたくないので・・」
「どんな訓練をしたのだ?俺たちにも教えてくれ」
「そうしたいのですが、私にもわからなのです。
その先生は私に気を当てながら、体質改善をしてくれたのですがやり方までは教えてくれませんでした。
あいにくその先生は今は行方不明でいらっしゃりませんが・・。
それをされるとどんなきつい運動も疲れずに楽にできたのです。
その代わり皆さんたちのような立派な体格にはならないみたいで・・・」

茜は少し羨ましそうにそう付け足した。
そうやって、茜は部員達に納得してもらった。




卓球部の津田梢は部長の菅野晴男に急ぎの報告?に来た。

「先輩、い・・逸材です!」
「何がだ、津田?主語を言え。」
「木崎茜さんです。」
「って誰だ、そいつは?そんな部員いなかったろう?」
「先輩、言ったじゃないですか。
柔道部の特特待生が無謀にも卓球やらせてくれってほざいてるから、お前が相手してやれって」
「ああ、言った。それが?」
「それが木崎茜さんなんですよ」



津田梢は2年生で、昨年県大会で個人戦4位を取った。
卓球部はこの学校ではマイナーだが、津田梢はその中ではホープだった。
卓球部のマドンナとも言われているすらりとした容姿もさることながらその実力もここではピカ1だったのだ。
それが柔道部から来たという1年生の女子と卓球台を挟んで向かいあっている。

「一応ラケットの握り方は説明したし、打ち方もこういう風ね。で、ちょっとラリーやってみる?」
「はい、よろしくお願いします。」

津田梢は初めは(柔道部の癖に何故卓球なんだ、ふざけるな)と思ったが、様子では理事長に無理やりやらされているらしく態度も素直なのでいつの間にか親切に指導していた。
ペンホルダーよりもシェイクハンドの握り方がいいらしく、ラケットも新しいラバーのを持たせてやった。
初めは山形にピンポンごっこでラリーをしたが、飲み込みがいいようなので次第にロングストロークにして行った。
台から2mくらい離れてロングで打つと相手は大抵打てなくなる。
だが、相手も真似をして2mくらい離れて打ち返してきた。
津田梢はさらに離れながら少しずつ本式の試合のように強く打って行った。
もちろん少しずつドライブをかけて前廻りの回転をかけて行くのである。
これで普通に受けると球が上に上がって相手コートに届かない。
だが、相手も見よう見真似でドライブをかけてきた。

(あれれ・・・初心者だよね・・ドライブできるの?)

津田梢は、遊びはここまでだとバックスマッシュをかけた。
肘を腹につけて手首をひねりながら前腕を急激に折り曲げて打つ高等技術だ。
パシーンと音がして相手のバックに球が打ち込まれた。
すると,いつの間にか左手にラケットを持った相手がサウスポーのフォアハンドで打ち返して来た。
ピシーッと球が目にも止まらぬ勢いで飛んで来て、津田梢はバックで受けきれなかった。
それにしてもラケットの持ち替えには驚いた。そんな暇はないはずだ。
しかもきちんとコートに球を入れている。
バックよりもフォアの方が同じスマッシュでも勢いが違う。してやられた。

(本当に初心者かしら?)

津田梢は試しに初心者では受けられない横回転サーブを出した。
ドライブは前廻りの回転だとすると、カットは後ろ廻り。
横回転は上下を軸にして右または左方向に回転する打ち方だ。
まともに打ち返そうとすれば球が左右のどちらかに大きく外れて返ってしまう。
津田梢はフェイクの動きでどちらに回転したかわからなようにして、実は右から左へラケットを当てて球を送った。
それを打ち返しても相手にとって右側の方に大きく外れてコートから外れる寸法だ。
だが、相手はそれを横回転で返してコートに入れて来た。

(そんな馬鹿な?!)

津田梢は今度はカットボールにして返した。
これで相手の返球はネットに引っかかるだろう、そう確信した。
それを相手はドライブで返してきた。罠にはまってくれたと思った。
普通に返してもネットに引っかかるのにドライブなんかかけたら、球は下に向かってもぐりこんでネットにすら届かなくなる・・・筈だった。
だが、球はこっちのコートに入って自分の後方に飛んで行ったのだ。

「あなたも人が悪いね。初めてじゃないよね?しかもかなりやってる。中学で県大会にも出ていたでしょう?
それもかなり上位の成績で?」
「えっ、今の練習でそんな風に思うんですか?これやるの、きょう初めてです。」
「じゃあ、どうして球の回転を見分けられるの?」
「球の回転を見たからです。」
「えっ・・・・」

津田梢は空気を飲み込んだ。そしてきょう一番の疑問をぶつけてみた。

「最後の・・・あれはどうやったの?カットボールをドライブで返したら普通相手コートに届かないよ」
「最後のは・・・球が落ちるよりも速く前へ送り出した積もりですけど」
「・・・・・・」
「あの、理事長に言われているんですけど。試合みたいに本気でやってもらって来いって・・。」
「なに言ってるの?私途中からずっと本気だったわよ」
「えっ?そ・・・そうなんですか。困ったな・・・」
「あなた、お名前なんて言ったっけ?」
「木崎です。木崎茜」
「そう、ちょっと待っててね」

以上が、津田梢が部長の菅野晴男のところに駆け込む前の状況だった。




菅野晴男はラケットを構えて、球を打つ前に茜に言った。

「俺は県大会では上位に入賞しないが、それでも津田よりは強い筈だ。
初めから本気でやるから、君も本気でかかってきてほしい」
「は・・・はい」

菅野は得体の知れないクニャクニャサーブを出した。変則のカットサーブである。
それを茜はドライブで返した。だが、ネットにひっかっからないで逆にコートからはみ出てしまった。

「うん?」

それを手で受けた菅野は首を傾げた。(正確に外れてる)
次に横回転サーブを出してみた。それも返って来たがコートから外れた。

「う・・・まただ」

外れた球を手で受けて首を傾げる。(きれいに外れてる)
今度は普通の緩い球をサーブした。今度はコートに入って返って来る。
菅野はそれをフォアハンドスマッシュで打ち込んだ。
パシーッ!ピシーッ!茜もスマッシュで返してそれがコートから外れた。

「いい加減にしろ!!」

温厚で人望が厚かった部長の菅野は突然切れた。

「えっ?な・・なにがですか?」
「とぼけるな。俺は本気でかかってきてほしいと最初に言ったろう。
どういう積もりだ!」
「すみません。やっぱりこういうのは苦手で・・・」
「嘘だ。わざと外してるのがわかるんだ。おい、津田見ててどう思った?」
「部長の言うとおりです。卓球に見込みがあると思われると困るみたいです」
「そうか、やっぱり・・木田茜さんと言ったな。
君は理事長にどう報告してほしいんだ?」
「・・できれば、見込みがないと・・」
「よしわかった。望み通りにしてやるから、今は本気でやり合おう。
その方が俺も気持ちがいい。」
「あ・・・ありがとうございます」




「行っちゃいましたね、部長」
「ああ、もったいないな。あれなら県大会でも優勝できるかもしれない」
「ラケットの持ち替えを横で見ましたけど、電光石火っていうんですか、ああいうの。」
「始めから両手に1枚ずつ持っててもああはいかない。凄腕だな。」
「持ち替えはルール違反じゃないですよね」
「当たり前だ。それをする奴がいないのは、難しくてできないからだ。」
「いましたね。簡単にやる人が・・」
「うん・・・いた。だが、約束は守らないと」
「でも、こっそり練習相手に来てもらいたいですね」

卓球部の頂点の二人はそんな会話をしていた。



「いいよ、もう。頭あげて、そんなに謝らなくてもいいから」
「すみません。大事なラケットを・・」
「いや、長い間使っていると金属疲労で折れることあるからさ。
気にしなくていいよ」

バドミントン部の部長の唐原良夫は90度に腰を曲げて謝っている茜を逆に慰めていた。
足元には柄の金属のところがくの字に折れ曲がっているラケットがある。

「じゃあ、理事長には本当にそう言っていいんだね。
基本がなってないから難しいって。
本当はなんかすごい可能性を感じるんだけどな。うん」




「唐原部長・・このラケットですが・・」

女子マネージャーの榊原が何かを訴えようとしてたが、それを唐原は遮った。

「知ってる。購入したばかりの最高級製品だ。
それを空振りしただけで折ってしまった。どこにもぶつけていないんだ」
「どういうことですか?」
「腕を振るスピード・・・特に手首のスナップのスピードが速すぎて、ラケットがついていけなかったんだよ。」
「そんなことは普通・・」
「ない、絶対にない。」
「それとおろしたてのシャトルコックが一個ばらばらにほぐれてしまいました」
「うん、人間でなくてよかったな」

バドミントン部での会話だった。
ここでも茜はこのスポーツには向いてないという報告をしてもらうことを約束してもらった。




古谷菜々美は剣道部所属で仲間内からは「魔剣の古谷」とまで言われた凄腕の女性剣士だった。
彼女の燕返しは県大会の決勝で相手選手を気絶させたほどの荒技であったが、暴力事件をその直後に起こしたために優勝は取り消された。
暴力事件というのは、彼女の言い分だと「売られた喧嘩を買った」までのことだが、高校剣道連盟ではそういう理屈は通らない。
結局向こう2年間出場停止処分を受けた。
今2年生の古谷には在学中は県大会に出るチャンスもなく、特待生の資格も失ってしまった。
おまけに小学校のときから通っていた剣道道場の誠心塾までも破門になってしまったのだ。
その喧嘩で古谷菜々美は木刀一本で他校の男子生徒3人に重傷を負わせたのだ。
決勝で破った相手は燕返しの技で頚椎損傷になり入院することになった。
その高校ではマドンナ的存在だった彼女のファンである男子生徒が仇を取ろうと三人で襲ったのだが、どういう訳か試合に不必要な木刀を持ち歩いていた古谷が素手の三人を燕返しで倒したのだ。
三人の生徒は運動部に属さない一般の生徒であったこと、彼らは素手であったこと、更に顎の骨を砕かれるなど重傷だったことも古谷菜々美には不利な条件になった。
ただ襲われたのは古谷だったのに、そのことが少しも考慮されていないことが彼女としては納得がいかなかったし、なにもかも投げ出したくなるくらい荒れた気持ちになっているのだ。
実際彼女はもうこの学校もやめてやるという気持ちになっていた。
その前に自分の特待生の資格を奪った学校側に仕返しをしたかった。
なにかと行動に問題があって退学処分になったかつての同級生の男子がそんなときに、古谷に近づいて来た。
決して好きになれる相手ではなかった。
むしろ軽蔑していた部類の人間だったが、その男の悪魔の囁きに耳を傾けた。
特特待生の木崎茜に自分たち6人が酷い目にあった。
けれどもそのことは学校側も知らないから資格は奪われていない。
お前が学校やめてもいい気持ちでいるなら、そいつとやりあって道連れにしてやったらどうだ。
久しぶりの特特待生で学校側も大事にしているから、学校側には相当な痛手になるぞ。


1年4組の教室に休み時間来た古谷は手に持っていた拍子木をカッチカッチと鳴らしていた。
拍子木といっても火の用心に使う大きなものではない。
長さは普通の箸くらいで楽器として使う樫の木製のものだ。
音楽の時間の合奏の練習で拍子木のパートになったので持ち歩いていたのだ。
ボンクラな顔をしている男どもには目もくれず、古谷は女子の顔を見渡した。
柔道の特特待生で男6人を倒したというから相当の体格に違いない。
それに該当するのが一人いた。
窓際の席で椅子に横座りして片膝を立てている筋肉デブの女だ。
横目で睨みながらメンチを切ってきてる。見るからに凶暴な顔だ。
なるほどこいつなら男6人を料理しそうな感じだ。
友達になるわけじゃないから一々自己紹介もいらないし、名前の確認も必要ない。
カッチカッチと拍子木を鳴らしながら古谷はその筋肉デブに近づいて行った。
もちろん目はそらさずに。つまりお前に用事があるんだと態度で示すために。
相手も目をそらさずにゆっくり立ち上がった。上背もかなりある。
「もしかして蔦漆会の連中か?」
その筋肉デブは訳のわからないことを言った。
「どうでもいい。お前が気に入らない」
古谷菜々美は薄笑いを浮かべて挑発した。
実際言葉はどうでもいい。喧嘩する理由もどうでもいい。そんな気持ちだった。
「いい度胸だ、こるるらああ・・!」
巻き舌で吼えると相手は両手で古谷の襟首を掴んだ。
一瞬古谷の足が床から浮き上がった。つるし上げられたのだ。
古谷は相手の両手の甲を拍子木でピシッと挟み撃ちする。

「ひっ!」

そして、右手の拍子木で相手の頭をコーンと叩いた。

「ああっ!」

頭を抱えてしゃがみこんだところを向こう脛を足で蹴った。

「痛い・・やめてくれ。」
「つまらないな。かかってこいよ。暴力事件にならないだろう。」
「てめえ、一体誰だ。俺が黒土筆の特攻隊長だって知ってごろまいてるのか?」
「黒土筆?知らん。お前木崎じゃないのか?」
「誰だそれ?そんな奴しらねえな」
「なんだ。木崎茜はどこにいる?出て来い」

もう相手に興味を失って背を向けると周りを見渡した。
そのとき後ろから覆いかぶさるように特攻隊長が襲ってきた。
古谷は振り返らずに逆手に持っていた拍子木を相手の鳩尾あたりに突っ込んだ。

「うっぷ!」

音を立てて相手は倒れるが古谷は振り返らない。

「いないのか?」

近くの女子生徒を睨みつけると、震えながら答えてきた。

「あの・・・もしかして、休み時間になると、いつも中庭の木の下で読書している人かもしれません。」
「そうか・・・読書か。似合わねえな・・」

古谷はまたカッチカッチと拍子木を鳴らして教室を後にした。

古谷菜々美は見た。あの女嘘ついたな。
木の下で読書してるのは本物の文学少女って奴じゃないか。
可愛い顔してるからきっと自分の好きな男を取られるんじゃないかと妬まれているんだろう。
さっきみたいに名前を確認しないでやっつけてくれたら、さぞいい気味だ。
恐らくそんなとこだろう。
だが、折角ここまで来たのだから一応確認だけはしておこう。
まず本人ではないことは確実だが・・。
古谷菜々美は拍子木を鳴らしながら近づいて行った。相手は顔を上げた。
不思議そうに丸い目をして古谷菜々美を眺めている。
睫毛の長いその目は、その奥に敵意も恐怖もなくむしろ人懐こい温かなものを持っていた。違う。
絶対こいつじゃない、と古谷菜々美思った。
ふと持っている本の表紙を見ると、「柔道の技術」と書いてあった。
それは「ハイネの愛の詩集」でも「若草物語」でもなかった。
「お前・・・木崎・・・茜・・・か?」
「はいっ」

名前を呼ばれて、嬉しそうに目を輝かせた茜を見て、古谷菜々美は調子が狂った。

「ふ・・ふざけんな!」
「えっ?」
「男6人も倒したろう?お前が・・、それにしても信じられないな・・」
「ああ、あの偽学生の人達ですか。あの人達は魚住という男子を特特待生だという理由だけで袋叩きにしようとしたので、逃がしてあげたんです。」
「そのときに6人を倒したのか?どうやって?」
「そ・・それは。あの人達がが私をつかまえようとして襲ってきたので」
「だから正当防衛で6人も倒したのか?どうやってだ?」
「それは僕も知りたいな」

その声に二人が振り向くと、いつの間にか魚住弘がそばに立っていた。
茜はゆっくりと口を開いた。

「私は、柔道をしてるけど、体が小さいし臆病なんです。
だから、こっそりスタンガンを持って歩いているんです。」
「スタンガン?見せてみろ」
「見せられません。持ち物検査されてもわからない小さいもので、わかってしまったら没収されますから、誰にも見せられません。」
「チクってやろうか」
「無駄です。それは嘘だったと言って否定しますから」
「それは超小型の新型なのかな?
あのとき全然持っているのがわからなかったな」

また魚住弘が口を挟んできたので、古谷菜々美は言った。

「悪いけど、あんた。ちょっと席を外してくれるかな。木崎茜と二人きりで話したいんだけど」
「ああ、ごめん。
2年生の古谷さんが木崎さんに何の用かなって気になったものだから」
「お前、私の名前を知っているのか?」
「はい、剣道がものすごく強い古谷菜々美さんでしょ。有名だから知ってます」

実は魚住弘は全校生徒の顔と名前を暗記しているだけでなく、簡単な経歴なども頭に入れてあるのだった。
そういう意味では大抵の教師よりも生徒を把握していた。

「それでは僕は失礼します。どうもお邪魔しました。木崎さん気をつけてね」

魚住弘が去ると、中庭の木のそばで二人だけになった。


魚住弘は中庭の二人を廊下の窓から見ていた。
そして茜のことを気にしていた。
彼は理事長室で初めて茜を見たとき衝撃を受けたことを覚えている。
顔も声も近江兼とそっくりだったのだ。
そこで同級生で特待生の元木京子に茜のことを尋ねてみた。


元木京子からは次のような情報があった。
自然災害で町全体が消滅した西入江町の数少ない生存者だということ。
記憶障害があって全ては思い出せないが、小学校時代は病弱でまともに登校していなかったこと。
そのため学力は極端に遅れていて、中学入学当時はひらがなを読むのがやっとだったこと。
けれども腕力が強くて、誰も敵わなかったらしい。
本人はそれをひけらかさず友人の前では乱暴な言動はしなかったとも。
腕力の秘密に関しては、聞いた噂だと謎の中国人に特別な訓練を受けてそうなったらしいこと。
新聞配達をずっと続けていて、生活費を自分でも稼いでいるらしいこと。

「これ以上は教えられないです。後は自分で聞いてみたらどうですか?」

最後に元木京子はこう付け加えた。

「そんなに木崎さんのことが気になりますか?もしかして・・・ですか?」
「なんのことかな?ありがとう。お陰でだいぶわかったよ。
同じ特待生のことで気になったものだから」

弘は思い出した、近江兼のことを。顔が似ている。そして腕力が強いことも。
兼ちゃんは男の子だったが、年齢も同じだ。
そして学校に通ってなかったことで学力が低いことも。
近江兼は女の子のように綺麗な子だった。
だが、実は本当に女の子だったのではないか?
石田村から消えた時期と青布根市に来た頃が一致している。
だが他人の空似ということもある。
確かにあの時期に西入り江町が被災したことも確かだ。
魚住弘は木崎茜のことを近江兼だとは確信できずにいた。



茜は古谷菜々美のことを実は事前に知っていた。
剣道部女子では竹内香織3段がいるが、実際は古谷菜々美2段の方が実力が上であるということ。
古谷が2段なのは年齢的なものが関係してたのだが、例の暴力事件で今後の昇段は難しいだろうという見方もある。
実は先日理事長に連れられて剣道部に乗り込んだとき、古谷菜々美が部活に顔を出してないことがわかり、対戦を日延べしたのだ。


「ですから、古谷さんが私と対戦したいのでしたら、是非剣道部に顔を出して試合の日をセットしてください。」
「私はそれでも構わないけど、本当にいいのか?あんた剣道は素人なんだろう?
私は県大会の決勝で相手を入院させた人間だぞ。怪我してもしらないぞ。
下手したら死ぬよ。」
「たとえそうだとしても、私は断れない立場だから。
本当に気の毒だと思ったら、古谷さんがパスしてくれないですか?」
「そりゃ気の毒だ。だが私は断らないよ。それに、やるからにはガチでやるし、その結果あんたがどうなろうと私の知ったことじゃない。
実際あんたにひどいことをするかもしれない。いや、はっきり言っておく。
ひどいことをするよ。病院に送ってやるよ。
それも特特待生としてやっていけなくなるようにしてやる積もりだ。
それが嫌なら理事長に泣きついて頼むがいいよ。」
「・・・こう考えることにします。古谷さんは真剣に勝負する。
で、その結果私が怪我をするかもしれない。
だからと言って、手加減する訳にはいかない。真剣勝負だから・・ですね。」
「・・・・」
「では、そのときまた会いましょう。私も真剣に戦うようにします。」

それだけ言うと、茜は古谷菜々美を残して中庭を後にした。



やがて対決のときが来た。
茜の希望で最初は3年生の竹内香織3段と対決した。
剣道の防具や手ぬぐいなどはすべて剣道部員に着せてもらった茜は、面は視界を悪くするなと思った。
だが、他の者がよく言うように防具が重いとは全然思わなかった。
恐らく茜には戦国時代の鎧兜を着せても、全然気にならなかっただろうと思う。

茜は力任せに相手の竹刀を弾き飛ばすこともできたが、それは避けた。
さすが3段の竹内は剣先が鋭く攻め方も変化に富んでいて、一瞬の気もぬけなかった。
茜は防戦一方に見えた。とにかく茜は竹内の竹刀を受けることに専念していたのだ。
面が来たら横一文字に竹刀で上段受けをし、胴が来たら横になぎ払って、小手が来たら、剣先をさばいて打たせないようにした。
竹内もスピードに変化をつけて、茜の隙を狙ってくるのだが、茜は相手の攻撃のリズムにぴったりと合わせて受け太刀をするのだった。

「足のさばき方も剣道らしくなってきた」

そうつぶやいたのは古谷菜々美だった。
次第に竹内は小手面、小手胴と連続攻撃をしたきた。
小手面胴、面面、面胴と電光石火の如く、気合と共に打ち込む。
茜はそれらの全てを受け太刀でしのぐ。
竹内は途中から気づいたことがある。
自分の動きがコピーされているのではないかと思ったのだ。
初めはぎこちなかった茜の足運びも次第に摺り足がさまになって来て、竹内の動きに無意識に合わせてくる感じなのだ。
受け太刀をしながら茜は竹内の攻撃パターンを学習している様子が見えるのだ。
やがて竹内は動かなくなった。中段つまり正眼の構えのまま止まった。
茜も同じく剣先を相手の目に向けて止まった。

「次に勝負する気だな、竹内は・・・」

古谷はまたつぶやいた。そして、古谷の言う通り竹内はそれを狙っていた。
じっと動かずにいて相手がそれに慣れたときに渾身の一撃を打ち込む積もりだった。

「いやー!」

全く予期せぬタイミングで突然竹内は面を狙って竹刀を突き当てるように出した。
だが、茜はその出鼻をくじくように小手を入れた。
竹内の面は茜の頭を叩いたが、その前に小手を打たれたのだ。
ほんの僅かな差だった。
審判はそれを見て茜の方に旗をあげた。
見ている限りごく普通の剣道の試合で、茜が特殊な力を使ったという印象はなかった。

「つまらない試合だった」

古谷はまたつぶやいた。

(私の勝負に備えて、剣道の動きを勉強したかったのかもしれないが、なんの参考にもならないよ。
私の燕返しは見ることができないうちに決まってしまうから。
勉強して覚えられる技とは違うんだ。)



さて次の対戦は一瞬にして決まった。
竹内香織は押しも押されぬ3段でその技のスピードには格段のものがあったが、僅かの差で茜の方が速かった。
しかし、古谷香織はその茜のスピードでも勝てる自信があった。
「魔剣の古谷」と異名をとったのにはそれなりの理由があるのだ。
(自分は木崎より速い。)古谷はそう確信した。

試合開始と同時に古谷は気合をあげて竹刀を振り下ろした。
茜は紙一重の差で間合いが届かないのを知って受け太刀をせず、右側に竹刀を開いた。野球のバットをやや水平に構えるのに似た形だ。

「きえええっっ!!」

古谷は左足を前にして下に下げた竹刀を上に持ち上げた。
真剣なら刀の峰の部分で顎を打ち砕く動きだ。
だが、古谷の場合は剣先が相手の顎に達した後で左手一本で竹刀を持って、剣先を更に遠くまで伸ばすやり方で燕返しに突き技を加えたような形になっていた。
つまり相手には間合いの外にいたと思わせといて、急に剣先が長く伸びてくる技なのだ。
だから普通の燕返し(燕返しそのものが普通とはいえないが)でも速いのに、この応用技は更に逃げ切れないスピードがあるのだ。

ところが次の瞬間二つのことが同時に起こった。
茜の上体が後ろにのけぞって古谷の剣先が面の上を滑ってしまったこと。
そしてのけぞりながら茜が右手だけで竹刀を横殴りに振って古谷の横面を叩いたこと。

「バッシーン!!」

通常体をそらした状態で横面を打っても、相手には届かないものだが、剣先を滑らした古谷が間合いに深く入り込んでいたためヒットしたのである。
その後で茜はブリッジのバック転をしてすっくと立った。
古谷菜々美は宙を泳ぐように前方に体を投げ出して倒れた。
その間2・3秒だった。
茜の勝因は、後ろにのけぞる動きが急激だったこと。
そして普通以上に体が柔軟なためにのけぞる角度が大きかったこと。
そして野球のバットの動きとのけぞりながらのスイング。

(私も武蔵にならって、古谷さんの燕返しを研究してたの)

茜が心の中でそう呟いた言葉は勿論誰にも聞こえなかった。
実は茜はロッキー尾崎の忠告を守っていたのだった。
古谷菜々美はほんの短時間意識を失っていたが、やがて自分の力で起き上がり礼をして下がった。
古谷は茜の目を見ようとはせず、黙ったまま剣道場から抜けて行った。




魚住弘は電話で中学2年になる妹の香に話しかけていた。

「お前、兼ちゃんのこと覚えているか?」
「なに突然そんなこと言うの?」
「いやもし街中ですれ違っても、気づくことがあるかなって・・」
「私ならわかるわ。」
「でもあれから三年たっていて顔も大人になってるだろうし、ただ顔が似ているというだけでは本人とは限らないからな。」
「お兄ちゃん、見かけたの?兼ちゃんに似た人を?」
「あっ・・ああ。だけど、決定的な証拠がないから声をかけられなかった。」
「だって、本人なら向こうも気づくじゃないの?」
「覚えているだろう?魚住家を巻き込みたくないって離れて行った事情を?
たとえ気づいたとしても声はかけないと思うな、向こうからは」
「じゃあ、お兄ちゃんに教えとく。
私よく兼ちゃんにお姫様抱っこしてもらってたでしょ?
そのとき見たんだけど、兼ちゃんの左耳の下1cmくらいの首のところにホクロがあるんだよ。
それが動かぬ証拠だから、今度確かめてね」


そう言われて弘は木崎茜の左耳を思い浮かべようとした。
だが、すぐ気づいた。耳も耳の下も髪の毛で隠れて見えないことを。



戸塚健吉は青布根市では郊外の地区出身で高校中退者だった。
今は塗装工をしているが、彼にはもう一つの顔があった。
バイクギャングというはみ出しグループのヘッドなのだ。
彼らの人数ははっきりしない。全員顔に目から下を覆い隠すマスクをしている。
その為メンバーの識別も困難である。特徴は神出鬼没。
彼は小さい頃から勉強は苦手だったが、悪知恵はいつもぴか一だった。
彼のモットーは悪いことをしても見つからなければ悪くない。
証拠がなければ悪くない。見つからなければしていけないことなんてない。
但し、それを言うだけにドジな奴は仲間に入れない。仲間の足を引っ張るからだ。
はしこい小悪人ばかりを集めて他に例を見ないほどの悪知恵グループを作ったのだ。


今井藤吾という腹心が戸塚健吉に言って来た。

「光栄高校のゴミたちが一人の女に手こずっているみたいですね、へへへ」
「女なら自分たちでなんとかできるだろう。人数いるんだからな・・ふふふ。」
「そういったんですよね。好きにすりゃいいだろうって。
ところが6人でかかって、いっぺんにのばされちゃったってね、」
「そりゃ相撲取りみたいな奴かな、ああ・・・あまり係わり合いたくねえな。」
「それが小柄でスマートな美形だってね。おいしいっすよ。へへへ」
「そりゃ・・おいしいな。俺たちで頂くか。ふふふ・・・」

話している最中常にへらへら笑いながらの会話である。なんとも締まらない。
彼らは今まで一度も物事を真面目に考えたことがないようである。
いや、ある。悪知恵を考えるときだけは真面目になるのだ。

「チームのみんなを集めようか?パーティの始まりだ。ふふふ」




それは突然起こった。
茜が高校の校門から出てから、誰かに尾行されている感じがして振り返った。
すると後ろからバイクが一台近づいて来た。マスクをした男が一人いきなり
白い粉のようなものを茜に投げつける。
目潰しだと、一瞬思った茜はそれをよけた。バイクはそのまま去った。
すると後ろから今度は2台のバイクが来た。
2台とも奇声を上げながら鉄パイプのようなものを振りかざしている。
茜を挟むように走ってくるとパイプで殴りかかった。
茜は横とびをしてやり過ごした。
バイクはしつこくせずそのまま通り過ぎる。

バイクが消えた方向は帰り道なのでそのまま行くと角を曲がったところに、彼らは待っていた。
バイクが10台行く手を塞いでいた。
そこは少し広い原っぱになっているので、彼らとしては動きやすかったのだろう。
奇声を上げて楽しそうに、10台のバイクは茜の周りを廻り始めた。
全員マスクをしている。顔半分が隠れるマスクで色々な模様がついている。
中にはふざけてドラえもんやミッキーマウスのキャラがついているのもある。
茜は自然にマスクの模様を読み取った。水玉。縦じま。ごま塩。ハート。髑髏。ヒマワリ。狼。ひよこ。
全部で10種類。なんともふざけている。
茜は無視して歩き始めた。そして腰を入れて行く手を塞ぐバイクの男を蹴った。
髑髏マークのマスクの男がバイクから5mくらい先に飛んでいった。
バイクも横転して3mくらい滑って行く。

「きゃっほー、すげえぞ。こいつ!」
「目潰しだ。目潰しかませ!」

輪から抜け出た茜に向かって一斉に男たちは白い塊を投げた。
顔に向かって飛んできた一つを手に取るとオブラートのようなものの中に白い粉が入っている。外れて飛んでくるのはそのままにして、体に当たりそうなものだけ、茜はひょいひょいと避けた。
そして、幾つかを手にキャッチすると投げ返してやった。
茜は石を投げて鳥を取ったことがあったので、これが良く当たる。
水玉と縦じまと狼に当たって、目潰しが成功した。

「いてー!!」「うわー、やられた!」

目に入った3人はバイクから転げ落ちて痛がった。一体何を使ったのだろうと思った。
目潰しなら普通の粉でじゅうぶんなのに。
まさか角膜に傷をつけるようなものを入れたのではと逆に心配した。
主のいないバイクが勝手に走ってから倒れたりしている。

ひよこが茜に向かって銃のようなものを構えた。
反射的に茜は横っ飛びに逃げた。パンッと音がしてネットのようなものが飛んできた。
茜はそれも横っ飛びで逃れ、端っこを手で掴むと投げ返した。
ネットは綺麗に広がらなかったがそれでも半開きの状態でひよこの上半身に絡み付いた。頭と右腕に絡み付いて身動きできないようだ。

「うわーっ、誰か取ってくれ」

今度は奇声を上げて残りの5人が鉄パイプで殴りかかって来た。
しかしバイクに乗っているので当たったときは勢いがあって効果抜群だろうが、ちょうど良い距離にまで近づかないと届かない。
それに一度にせいぜい2台ずつしか近づけないのも事実だ。
しかも同じ方向から攻めないと仲間同士ぶつかるので、空振りで素通りした者は迂回して戻らなければならない。
茜は間合いが長すぎるので、退屈そうに突っ立って待っていた。
そこへ丁度いい間合いのバイクが向かって来た。
乗っていたミッキーマウスは目を輝かせて鉄パイプを高く構えている。
茜の右側を通り抜けざまに叩いて行く積もりらしい。
左側から来た男は左利きでもなさそうなのに左手に鉄パイプを持ってやって来た。ドラえもんだ。
茜はこっちは間合いが近すぎると思った。
つまり鉄パイプで殴る前に茜の体にバイクをぶつけるか、鉄パイプの手元に近いところで殴ることになる感じだった。
茜は右足一本で左に跳ぶと体を反転し、ドラえもんの前輪の上辺りを左足で回し蹴りした。
腰が入っていたし、右足がしっかり地面を踏んでいたので、ドラえもんのバイクはミッキーのバイクにぶつかって行った。
そして何故か2台のバイクに乗っていた二人はお互いの体を叩いていた。
バイクは転倒しライダーたちは地面に放り投げられた。
それを見ていた残りの3人はバイクを止めて降りた。

「だから言ったんだ。このやり方はかえって危ないって。」
「よし3人でやろう。」

ごま塩が茜の右側を廻って背後に廻ろうとした。
その瞬間、茜はごま塩に跳びかかった。
振りかざす鉄パイプを掴んでひったくると右足で相手の腹に足裏を当てて蹴離した。
ごま塩は7mほど飛んだ。そして背中から地面に着地して伸びてしまった。
飛びすぎたので茜は足の力加減がわからなかったなと思った。
せいぜい5mくらいにしてやらないと、重傷になる・・と。
茜はハートとヒマワリの鉄パイプを叩き飛ばすと、自分の持っている鉄パイプを突きつけ聞いた。

「で?なんなの・・あんたたち?」
「つ・・つええ・・・」
「そんなことどうでもいいから、どうして私を襲ったの?警察に行く?」
「お前光栄高校のゴミ学生を6人やったろう?その仕返しを頼まれたんだよ」
「じゃあ、そういうときは先にそれを言ってから攻撃してほしいな」
「お・・俺たちは卑怯が売りだから・・・」
「自分で言ってりゃ世話ないよ。で、続ける?これ使わないから」

茜は鉄パイプを遠くに放り投げた。
二人は顔を見合わせて頷きあうとヒマワリが言った。

「いや・・やっぱりやめとくよ。お前素手で6人やったんだろう?
今度人数揃えて出直すよ。やられた仲間を連れていかなきゃいけないし」
「そうした方がいいよ。だけど今度来たら警察に突き出すよ。」
「おれに決定権がないんだ。あのドラえもんとミッキーのマスクが頭だから」
「じゃあ、言っといて。そのこと」
「わ・・わかった。逃がしてくれるんだな?ありがとう」
「私に礼を言ったら、後で怒られるんじゃない?」
「い・・いや。じゃあ、俺たち片付けがあるから」
「わかった。じゃあ、ここで」

なにか友達と別れるように茜はその場を離れた。
そして地面に投げておいた鞄を拾うと埃をはたいて何事もなかったように歩き出した。
その後ろ姿を見送ってヒマワリが呟いた。

「かなわねえよ。俺この件は降りたい。」
「俺も・・。今度やったら、警察に突き出される前に殺されるかも」



1年4組の教室に入って行くと、大岩郁子が茜を睨みながらやって来た。
大岩郁子はクラスで一番体が大きい女生徒である。

「前から聞こうと思ってたんだけどな、木崎」
「はい?」
「お前さ、ヤットウやってる古谷って知ってるだろう?」
「ヤットウって何ですか?」
「あれだよ、竹刀振り回してるやつ。」
「剣道ですね。古谷さん?知ってますよ。2年生ですよね。」
「お前あいつにやられなかったか?」
「えっ?別になんとも。どうしてですか」
「ふうん。やられなかったってことは、ダチってことか」
「友達ってことですか?うーん、どうかな微妙ですね」
「少なくても、俺と古谷ではお前は古谷の方に近いってことだ」
「そうですね。大岩さんとは口を利くのが今日が初めてですし、
古谷さんとは少し前に・・」

そこでいきなり大岩郁子が茜の顔を殴ってきた。
バッシッ!茜はそれを手で受け止めた。

「いきなり何をするんですか?」
「てめえ受けたな俺のパンチ?!」
「あっ、喧嘩はいやです」

茜は同級生と立ち回りたくないので、さっと椅子から立って大岩郁子の拳を離すと身を翻して逃げた。

「待てこらっ、ただでおかねえ!!」

古今東西「待て」と言われて待った者はいない。
茜は教室を出ると姿をくらました。実に逃げ足が速かった。
そしてチャイムが鳴る直前に戻ると着席した。大岩は離れた席で睨んでる。
そして5分休みになると、茜は大岩郁子のところに行った。

「古谷さんと何があったかわからないですけど、私が関係していたんですか?」

少し落ちつきを取り戻した大岩郁子がそれでも不機嫌な顔で言った。

「お前と間違えられてぼこられた。だからお前にも原因がある。
あいつとお前にたっぷり礼をしなきゃおさまらねえ」
「それは申し訳ないことをしました。」
「悪いがここで謝らねえでくれ。
普通はそれで収まっても、俺たちの世界では収まらねえんだよ、それじゃあ。
俺の面目が潰れたままじゃ仲間にも顔向けができねえ。
やられっぱなしで引き下がっちゃ、もう表も歩けない、わかるか?
お前さっき俺のパンチを軽く受けたな。
あのとき一発だけ殴られていてくれれば、それで終わったのに。
この後は、もう俺一人じゃねえから、その積もりでいろ。」
「どうするんです?」
「後で連絡するよ。逃げんなよ。」

茜は腕を組んで天井を見上げた。そして大岩の肩に軽く手を置いた。

「逃げたらあんたの顔がますます立たなくなるんだよね。それだけはしないよ」
「おめえ・・・」

茜が席に戻って行った。大岩は次の言葉を殆ど聞こえない声で言った。

「・・わかってんじゃねえか。」



青布根市はもともとは海岸近くの青布根町と山側の上布根町、その間にある歌布根町、中布根町、下布根町、田布根町、森布根町の7つの町が合併して市になったものだ。
中でも青布根町は海岸近くで産業も盛んで経済的に豊かだった。
合併に関しては青布根町の経済力に頼るところが大きかったため、当の町民は合併には反対だったという。
そこで条件として新しい市名を敢えて「青布根市」とすることで、町民の合意をとりつけたらしい。
そのため青布根町立青布根中学校は青布根市立青布根中学校となり、市の代表的中学校のような感じになってしまったと言われる。

他の6つの町民はそのことを認める代わりに、それぞれの町にある中学校を統合せずに継続することを条件とした。
高校は中心地である旧青布根地区に集中しているが、集まっている生徒はそれぞれ出身中学校が違い、地区ごとのグループを作っていることが普通である。

地区グループというと町内会の子供版のような印象を受けるが、地区の結びつきの強いところでは小学生から中高生、有職少年らによる超学校的組織が存在し、他地区グループとの抗争に発展する場合も少なくない。
ここは昔、外様大名墨宮公の治める布根見藩があったところで青布根地区は商人の町だが、殿様のいた上布根町は上級武士の町だった。
そして地区グループの対立が最も激しいのは、歌布根地区の「黒土筆」と中布根地区の「蔦漆」のグループだった。
この両者のグループ名には伝統があって、それぞれの先祖の家紋に由来するらしい。

郷土史研究家によると、中布根地区には中堅の武士層が住んでいて、その中心的存在が蔦漆の紋を持つ侍大将の漆原家だった。
また歌布根地区というのは、昔秀吉公の茶会で楽曲を担当していた芸能集団の一人で室井某という者が黒土筆の家紋を頂き、墨宮家の家臣に推薦されてやって来たと言われている。
当然以前からの家臣である漆原家を中心とする中堅武士層には反目されていたが、秀吉公をバックに持っていたがため発言力が強く藩内での地位を築いてきたために、関が原でも石田方につくことを強く主張し、徳川びいきの墨宮公をも説得したという。

その因縁が子々孫々にまで伝わり現在の地区グループの対立にまで発展していると言われる。
最も現代的で現実的な商人地区の青布根地区に来た茜には、そういうこととは無縁でいたため、勿論そんな裏の地域事情は知る由もない。



ここは歌布根地区に最も近い青布根町のはずれの倉庫跡である。今は寂れているが青布根町の商業の中心が現在の場所に移る前に栄えていた場所である。
古谷菜々美は車に乗せられて、その倉庫跡に連れて来られた。
来てみると黒鉢巻に黒い陣羽織のいでたちをした女ばかり30名ほどが待ち構えていた。
みんな木刀を持っていて、中には木製の薙刀を持っている者もいた。

「なんだよ。一人じゃ敵わないから、数に頼るのか?」

古谷菜々美は敵の中心人物を探すように見回した。
すると一斉に全員がしゃがんだ。何かの合図があったらしい。
一人だけ正面の奥にセーラー服の少女が立っていた。陣羽織も着ていない。

「それ県立高校の制服だな。お前がボスか?ずいぶん生っちょろい親分だな」

すると背後から体の大きい女が背中をどついた。

「生意気な口を利くな。座れ!」

古谷はどんとコンクリートの床にあぐらをかいて座った。

「おお、座ったぞ。それで・・どうする積もりだ。全員でフクロにするのか?」
「私は黒土筆の代表の室井栄子だ。お前のことは調べさせてもらった。」
「調べたからどうだっていうんだ?何か面白いことがわかったか?」

また、後ろから背中をどんっと蹴られた。

「放っておけ。言わせておけばいいのだ。」


室井栄子は色白の弱弱しい感じの少女だが、言葉には力があり他の者はそれに従っているようだ。
そしてまた話し始めた。

「お前は下級武士の出で剣道を学んだようだが、覚えた剣は邪剣だとか。心の修養はしていなかったようだな。
そのため、誠心塾も破門になったとか。」
「言いづらいことをはっきり言ってくれるね。ああそうだ。それで?」
「特待生の資格も奪われてやけになり、問題を起こして退学にでもなろうとしたらしいな。」
「そこまで分かってるなら、なぜ学校にチクらない?
古谷って生徒が下級生の女の子に乱暴しましたとさってな。
そうすりゃ、私も退学できたのに。いまだにお沙汰なしなんだよ」
「ふん。退学したけりゃ、お前が退学届けをすればそれで済む。
お前はまだ自分のしたことの重大さを理解していないようだな。」
「ああわかんないね。わかんないから教えてくれよ。何が問題なんだ?」
「お前が乱暴した大岩郁子は黒土筆の大事な看板なんだよ。
その看板をいきなり引きずり倒して泥塗れにしたのだ。
しかも人違いだったというではないか。
理由も言わず名乗りあいもせず、下賎の者の喧嘩のように叩き潰したのだ。
人違いと分かった後もなんの詫びもせずに去ったという。
これは大岩個人が受けた恥辱ではなく、黒土筆が受けたものだということだ。」
「知らねえよ、そんなの。確かに悪かったな。だがな、考えてもみろ。
黒土筆なんてのも、そんなこと言ってたような気がするが、私に分かる訳ないだろう」
「お前が分かっているか分かっていないかは問題じゃない。
お前がお前の都合でそうしたように、こっちもこっちの都合でそうさせてもらう。」
「なんだよ。要するにみんなでフクロにするってんだろう?
やれよ、もったいぶらないで。
こっちに来る時だってこっちのでかい奴らに無理やり連れて来られたんだからさ。」
「一応お前は剣を得意とするのだろう?
だから自分の得意な剣で自分を守ってみろ。私たちは全員でお前を潰す。」
「ということは私に木刀をくれるってことかい?いいのかい?
最低でも一人は大怪我をするよ。
うまく行けば2・3人入院して顔を整形しなきゃいけないことになる。
それでも私に木刀を渡すのかい?私もただじゃやられないよ」
「慌てるな、お前が剣を頼みとするなら一人二人と言わず5人でも10人でも倒すがいい。
但し条件が一つ有る。一番最初に倒すのは私にしてくれ。
その後は誰をやってもかまわないが。約束するか?」
「ああ、喜んで。お前を一番先にやれるとはいい気分だよ。」
「いけません、それは!」
周囲の者が室井栄子にやめるように言った。

「黙れ。
この者も必死だろうから、お前たちの誰かを切り殺す覚悟で来るだろう。
それだけは止めたいから、私が最初に剣を交える約束をしたのだ。
口出しはならぬ。さあ、木刀を与えよ。」

言われて一人の女が木刀を古谷に渡す。
その正面では室井栄子も木刀を構えている。

「いいか、この者が動く前に攻撃してはならない。もう少し離れるのだ。
さあ、古谷とやらお前が仕掛ける前にこちらは動かない。
いつでも始めるがいい。」
「そんな悠長なこと言ってていいのかな。後悔するなよ。」

古谷菜々美は室井栄子の呼吸を計った。
二人とも中段の構えで剣先の間の距離は僅か2m。
他の者も大体同じ位の距離だ。
古谷菜々美は室井栄子を剣道の初心者だと見た。
息が荒いし、剣先が緊張で震えている。
室井が息を吐ききったとき、古谷は動いた。

「きええええーーっ!!」


古谷菜々美は見た、室井が思わず目を閉じたのを。剣先もぶれている。
古谷の気合が終わったときに小室の顎は砕けていたはずだった。
だが・・・。
どんっと室井にぶつかった者がいた。大岩郁子だ。
室井は横の方に飛ばされ、古谷の剣先は大岩の鎖骨に当たった。
次の瞬間無数の木刀が古谷を襲い、古谷菜々美は床に崩れ落ちた。

「やめよ!倒れた者を打つのは武士道に反する。」

室井栄子はそう言った後、大岩の鎖骨を調べていたが大丈夫なようだった。
無数の木刀が襲ってきたために最後の決めの突きができなかったためである。
そのとき、古谷は室井の意図がわかった。

(室井を最初に襲わせることによって、何がなんでも室井を守ろうとみんな必死になるに違いない。
恐らく室井はそこに賭けたのだ。
もしそうしなかったら、犠牲者が一人目が出た時点で腰が引ける者が出てきたかもしれない。
室井が最初に犠牲的精神を宣言することにより、自分たちは最初に襲われないという安心感と、そんな立派な人を何が何でも守らなければいけないという忠誠心のような気持ちができて、士気が高まったのだ。こいつは全部計算していた。)
「さて、古谷。これでお前を許した訳ではない。黒土筆の看板を汚したからにはそれ相応の報いを受けてもらう。台を出せ。」

言われて、硬い木の机のような台が出された。
他の者たちが古谷を立ち上がらせ、左手の甲を上に向けて手首や腕を押さえつけた。

「これは初めから決めていたことだから、許せ。剣道で大事なのは左手だ。
その左手を木刀で一回だけ叩かせてもらう。多分骨が何本か折れるだろう。
その後病院に連れて行って、治療費も払ってやる。
うまくいけば治って元通り剣を握れるかもしれない。
もちろんそうでない場合の方が多いだろう。それがお前が受ける報いだ」
「やめろ!!それだけはやめろ!!」

古谷は泣き叫んだ。

「そうです。やめてください。」

入り口の方で声がした。
みんなが振り返ると茜が数人の黒土筆のメンバーと共に立っていた。

「そういうお前は木崎茜か。これが終わってからにしようと、時間をずらして迎えを出したのだが、意外と早かったな」

室井の問いかけに、茜に付き添ってきたメンバーは言った。

「それが全然抵抗せずに、自分から進んでついてきたもので・・・」
「なるほど・・それはわかったが、何故止める?
古谷はお前を狙った相手ではなかったのか?
もう剣道の勝負に勝ったから友情でも湧いたか?」
「実はさっきから見ていたのです。あなたたちの黒土筆の名誉を守るためという言い分は分からないでもないのですが、剣士から剣を奪うのはいくらなんでも可哀そうです。泣いているではありませんか。もう十分ではないですか」
「十分かどうかは私たちが判断することだ。木崎茜お前の判断ではない。」
「それじゃあ最初に聞いておきます。 古谷さんは左手を潰すという報復をするのでしたら、私には何をする積もりですか?」
「話が早いな。お前は直接黒土筆を汚した訳ではないが、結果的にそのことに関わったから、古谷よりも軽くしてやる。
どちらかの鎖骨を木刀で叩かせてもらう。
鎖骨は柔道の試合や練習中も折れることがある。
だが、そのことで再起不能になることはない。
勿論、その前にお前にも戦うチャンスはやる。」
「それはどういうチャンスですか?」
「二通り考えている。お前は柔道の選手だ。だから素手で戦うことが得意だ。
我々も素手で相手をしよう。そしてお前を押さえつけて刑を執行する。
もう一つは古谷と同じ条件だ。お前も我々も木刀を持つ。
何人かは薙刀を使うものもいるが、その者たちが手を煩わせるまでもないだろう。
どちらでも、お前に選ばせてやる。勘違いしないでもらいたい。
お前にはなんの恨みもない。
ただ、我々の名誉を汚したことに関わっているから排除するのだ。」
「それじゃあ、こうしませんか?私は木刀を持たない。
あなたたちは木刀でも薙刀でも持つ。そして、私が押さえつけられたら、私の鎖骨一本と左手を木刀で叩いてもらうってことにして・・・・」
「それで・・・?」
「古谷さんを今そのまま帰してあげるのです。
その分私が請け負うということで手をうちませんか?」
「お前・・・頭がおかしいのか?お前に不利なことばかりではないか」
「でも、私も怪我をしたり、逆に人に怪我をさせたら特特待生の資格を失うので、そう簡単にやられないし、またできるならあなたたちを病院に送るような手荒なことはしたくないのです。だから、なんとか上手に考えます。」
室井栄子は目を瞑った。
そして腕組をした。そしてやや間を置いてから口を開いた。

「お前が少し頭が足りないのはよくわかった。
だが、言っていることは立派な心がけだ。
知恵が足りない者をそれだけの理由でその意見を退けたくない。
自分を犠牲にした提案を退ければ、そういう美しい魂を否定することになる。
私としては納得がいかない部分もあるが、お前がそういうことで帳尻を合わせるというなら、敢えて提案に乗ってやろう。
古谷菜々美、お前はこの木崎茜に足を向けて寝ることはできないぞ。去れ。」
古谷菜々美は解放されて茜に近づいて行った。
「お前、なぜそこまでする?左手を潰したら柔道だって再起不能になるんだぞ」
「大丈夫です。私のことは心配しないで下さい。その代わりただで助けた訳ではありません。
あなたに貸しておきます。そのうち返してもらう。それだけの話です。忘れないで下さいよ。さあ、もう行って。」
「お前・・・・」

古谷は何人かのメンバーに連れられて倉庫から外に出された。
茜はゆっくり歩き出した。

「どこへ行く?」

室井栄子の問いかけに茜はゆっくり大きな声で話した。

「倉庫から外には出ませんから安心して下さい。古谷さんのときは先に動くのは古谷さんでしたね。」

茜は喋りながら倉庫の隅の丁度角になる場所に土嚢のような袋が積まれている場所に近づいた。
高さが1mくらいで広さは4畳半くらいだ。茜はそこにヒョイと上がった。

「私の場合はあなたたちに先に仕掛けてもらいます。さあ、どうぞいつでも来てください。」

室井栄子は薄笑いを浮かべた。

「なるほど一端の兵法家を気取って、地の利を選んだか。だが、お前の選んだ選択でも結果は同じこと。
みんな捕まえろ。」

そして1対30人の戦いが始まった。


室井栄子の号令で一斉に黒い陣羽織が走った。

最初に駆け上がって来た一人目を迎えに出た茜は、持っていた木刀を構える前にひったくり、足で腹の辺りを蹴離した。つまり膝を曲げた状態で足裏を相手の腹に当てて足を急激に伸ばして飛ばすのである。
相手の腹にダメージはないが、体が遠くに飛ぶ。
軽くやったのだがその後ろに続く二人が飛んできた体にぶつかって一緒に転倒した。

殆ど同時に駆け上がった2人目からも木刀を奪うと、やはり足で胸の辺りを蹴離す。
後続の人間にぶつかり、やはり3人ほどが下の床で転倒する。

すでに上に上がった二人が左右から打ちかかるのを、左右に持った木刀で払った。
このとき、前を向いた状態で自分の背後の方向に木刀を払ったので、木刀は2本とも後ろの壁に飛んで行った。

落ちた木刀を拾いに行こうとする3人目を自分も壁側に戻りながら、木刀を持ったまま茜は肘打ちで4mほど飛ばした。これも後続の者を2人巻き込んで台の下へ転倒した。

4人目も壁側に来ていたので、やはり肘打ちで台下へ飛ばす。3人が巻き込まれて転倒する。

次にもう既に台の上にあがっている5人目、6人目、7人目、8人目を続けて木刀を叩き落として肘打ちで場外へ飛ばす。その際、人が集まっているところに狙って飛ばしたので、後続する勢いがやや鈍った。

その隙に茜は台の上で落ちている木刀をすばやく後方の壁側に放って、拾えないようにした。

「薙刀で攻めよ!」

室井栄子は声を張り上げた。薙刀を持った三人が上がると他の者は降りた。
薙刀を振り回すときに邪魔になるからである。
薙刀は木製の刀身が60cm、柄の部分が180cmで計240cmだから、90cm~1mの木刀の2倍半ほどの長さになる。
だが、茜にしてみれば小回りの利く木刀より、掴みやすいのだ。

一本を掴むと掴んだまま前に走り、相手を押し飛ばした。
逆さまにに持った薙刀で左右の薙刀をパパンと一閃させて手元近くを叩くと、二人とも薙刀を落とす。
手にした薙刀を大きくビュンビュン振り回して、少し周りの人間を遠ざけると茜は持っていた薙刀を後ろの壁に向かって投げた。
壁側と積んだ土嚢の間には10cmほどの隙間があり、殆どの木刀はその隙間に落ちていたし、薙刀はうまい具合に壁に立てかけるように刺さった。

もう一本を手にして、また回りの人間を遠ざけると、それも後ろの壁と土嚢の間に突き刺して、茜は最後の一本を手にした。

そして、土嚢の台の上の端まで出て来て、その薙刀をビュンビュンと音を立てて振り回した。
敢えて木刀を構えて出て来ようとする者もいたが、わざとそういう者の持つ木刀を思い切り弾き飛ばした。
飛ばされた木刀は倉庫の高い天井にぶつかってから床に落ちてくるので、思わず逃げ惑う者もいた。
茜はピタッと薙刀を構えると、室井栄子に向かって言った。

「どうします?今の人は強く木刀を弾いたので、ちょっと手を傷めたかもしれませんね。
このまま全員の木刀を奪うまで続けますか?
それとも、お互い武器を使わずに素手で戦うってのはどうですか?」
「お前は一体何者だ?素手で木刀や薙刀を奪い取るというのは柳生の白羽取りか何かを修めたのか?」
「いえ、ただ手が普通の人より早くて力があるだけです。
でもこういう武器を使うと大怪我をさせてしまいそうで、心配なんです。どうです?
今残っている木刀十数本をここに出してくれませんか?
後ろの壁の隙間に置いておきますから、それを使わずに戦うことを約束してくれれば私も武器を使いません。」

ふーっとため息が聞こえた。室井栄子である。

「わかった。お前は義を重んじる潔いところがあるから、よもや嘘は言うまい。
みんなも約束を守って最後まで武器は手にしないように。
破れば我らの恥辱になるから心して守ること。さあ、木刀を差し出せ。」

室井に言われて、木刀を持っている者は全員木刀を土嚢の台の上に置いた。
茜はそれを集めて背後の壁に置いた。持っていた薙刀も壁の間に立てた。

「それじゃあ、どうぞ皆さん続けましょう。」
「いいのか?武器を持たないお前が不利な気がするが・・・」
「不利なのか有利なのか私にもわかりません。でもやってみましょう。」
「みんな、この者には悪いが、この勝負いただきだ。みんなでぐるりと囲んで押しつぶすのだ。」

すると次々に台に上がって女たちが押し寄せて来た。
茜は囲まれる一歩手前で目の前の二人を押し出した。
するとその後ろの人間も押し出され、茜の背後の人間も一緒についてきて、茜を押し出そうとした。
茜は台から落ちる前に振り返り次々に左右に掻き分けるようにして、背後に突き飛ばした。
つまり台から引き落として行った。
込み合っていた人垣がまばらになると残っていた者を次から次へと突き飛ばした。

茜は相撲の押し出しや打っちゃりや突き出しの要領でどんどん台から外に出した。
殴りかかる者もいたが、簡単に掴まれたりかわされたりして、その後突き飛ばされる。
蹴りも膝や肘で受けられたり、足を掴まれたりして、そのまま放り出される。
下に落とされた者もまた上がってそして突き飛ばされて、誰かの下敷きになったり、背中をコンクリートの床に打ち付けたりして次第に起き上がれなくなる者が増えて行った。

最後になるとふらふらしながら台にあがるところを、茜に軽くちょんと押されただけで転げ落ちて倒れてしまう者もいた。
一人ぽつんと立っていた室井栄子を見つけると、茜は台から飛び降りて捕まえた。
室井栄子の両腕を後ろ手にしたまま、左腕で上半身を巻きつけると、右手で膝裏を支えてお姫さま抱っこのように担ぎ上げた。

「こらっ、離せ。木崎!どうする積もりだ。」
「ちょっとだけ人質になってください。」
「ならなくてももうお前の勝ちは見えてるではないか。その上私を辱める積もりか」
「とんでもないですよ、室井さん。
これ以上この人達を傷つけたくないから、あなたが人質になって手を引かせてください。」

見ると何度も台から突き飛ばされてあちこちぶつけて痛がっている者が殆どだった。
立つことができる者も戦う気力はもう残っていなかった。


「終わらせてあげてください。あなたを人質にしたのは私が引き分けを望むためです」
「それはお前が不利なときに使う手ではないか?」
「室井さんを人質にしたということは、そういうことじゃないですか?どうです。
それで手を打ちましょう?」
「それで黒土筆の面目は守れるのか・・・」
「そういうことです。引き分けです。」
「わかった・・・。だが、この格好は嫌だ。降ろしてくれ」

室井は、茜から解放されると、黒土筆のメンバーに告げた。


「みんな、私が人質になった。木崎は条件として引き分けを望むそうだ。私を助けると思って手を引いてくれ」

手を引けと言われても、もう戦う元気もない者たちばかりだったが、その言葉の裏の意味を早くも悟って、みんな頷いて、立ち上がった。
大岩郁子が前に出てきた。彼女は4回ほど突き落とされて満身創痍だったが、代表して挨拶に来た。

「木崎茜、要求どおり手を引いて引き分けにするから、お頭を解放してくれ」
「わかった。室井さんそっちに行ってください」

形式的に室井は大岩の方に行き、保護された形になった。
だがすぐ室井は引き返してきて、茜に握手を求めた。

「ありがとう。お前のように強くて爽やかな者に会うのは初めてだ。
引き分けなら手打ちだ。飲み物もご馳走もないから握手ですまそう」
「はい、それでは・・」

室井栄子と茜は固く握手した。すると大岩郁子も握手してきた。

「よかった。同じクラスでこれから顔を合わせるのも気まずくなくなった。」
「ここであったことは絶対・・・」
「わかってる。それは俺たちも同じだ。」

古谷菜々美を送って来た三人のメンバーがちょうど戻って来たので、車で送ってもらうことになった。
室井栄子が見送るとき茜に言った。

「光栄高校には大岩の他にうちの者が10人ほどいる。
きょうここに来ていない者もいるが、なにか困ったことがあったら、力になれると思う。
その時は大岩に言ってくれればいい。」
「ありがとうございます。」
「ではまた。また会える事を楽しみにしているぞ」
「はい」

そうして黒土筆との奇妙な戦いは終わった。



男は51歳だった。
母親と二人暮らしだったが、病気で入院しているため今は一人暮らしだ。
バツイチで、定職もなく、体が弱いところがあるという理由で生活保護を受けている。だが、その殆どはパチンコなどにつぎ込んで浪費してしまう。
無精ひげに薄汚れた服。誰も気味悪がって近づかない。

「旦那さん、青銀通りのパチンコ屋まで乗せてってくれませんか?
いやね、1000円しかなくてパチンコで稼ぎたいんですよ。」
「悪いけど方向が違うんでね」
「はあ・・・」

車の持ち主に断られるとまたふらふらと歩き出した。
そこに女子高校生が通りがかった。締まった体つきで長くすらりと伸びた足が眩しい。
ちょうど人通りの少ない路地の方に向かったので、ついむらむらと欲情が湧いた。
男は後ろから忍び寄ると女子高校生に背後から抱きついた。

「とおっ!!」

若い女の子の体を抱きしめたと思ったら、その感触もわからないまま男は投げ飛ばされた。
背中を思い切り打ち付けて苦痛に顔を歪めていると、更に別の苦痛が襲った。
腕を捻られて無理やり立たされたのだ。

「おっさん、痴漢する相手を間違えたね。」

交番まで連れて行かれて男は巡査に引き渡された。

「いやはやお強いですね。何かやっているのですか?」
「柔道2段です。空手は初段。あと剣道は2段です。それと簿記は2級」
「す・・すごいですね。簿記では痴漢は倒せないですけど」
「名前は高橋彩夏です。将来警察に行く積もりです。」
「じゃあ、僕の後輩になるのですね」
「いや・・・あのう。巡査じゃなくて。犯罪心理の勉強をしてキャリアの道を目指します。」
「はあ・・じゃあ、僕の上官になるかもしれないんですね」
「そういうことです。そのときは宜しく協力してください」
「は・・はあ、では、結構ですから。もうお引取りください」
「もう二度と同じことをしないように、ちょん切ってあげてくださいよ」
「そ・・それは、ちょっと」
「甘いなあ、今の警察は。私が上になったらびしびし改革する積もりだけど」
「そのときまた、ご意見を伺います」

高橋彩夏が帰った後、交番の若い巡査は独り言を言った。

「俺に権力があったら、裏に手を回して絶対今の子を合格させないようにするんだが・・」



高橋彩夏は青布根商業高校の2年生で柔道部所属だが剣道の誠心塾にも通っている。
ちょうど道場に行くと、珍しい人間が来ていた。古谷菜々美だ。確か暴力事件を起こして破門になった女だ。
自分と同じ高校2年生で2段だが、「燕返し」という魔剣を使う。
あまりにも危険なので道場内では使用を禁止されたほどだ。
だが、突き技と同じ扱いなので、剣道の試合では高校生以上は許されているという。
その技で県大会の決勝で相手の頚椎を傷めて入院させた。
その同級生の男子3人とトラブルになり、木刀で大怪我をさせてしまった。それが破門の原因になったという。
だが、破門をしたのはそのことを咎めた師範に対して、反省の色を見せなかったのが原因だという。
破門されたとき二度とここに来ないとまで言って出ていった古谷だった。それが何故??
高橋彩夏は不思議に思った。

草薙師範はもう一人の小柄な少女と親しげに話をしていた。
その横であれだけ傲慢だった古谷菜々美が俯き加減にして畏まっている。
そのとき草薙師範と高橋彩夏の目が合った。

「おお、そうそう。木崎さんこの子が高橋彩夏と言って、柔道も剣道も2段の子だよ。おまけに空手もやる。」

高橋彩夏は面白くなかった。
性格の悪い古谷菜々美は戻ってくるみたいだし、草薙師範が自分を呼び捨てにして、相手の少女にさんづけをしているからだ。
どう見ても私の方が年上だろうに!高橋彩夏は心の中で叫んだ。

「そうだ。高橋、お前木崎さんと対戦してみたら?」

(まただ。呼び捨てとさんづけ・・対戦?何をだ。あっち向いてほいでもやるのか?)

草薙師範はそういうと高橋が返事をしないうちに、またその少女の方を向いて話始めた。
剣道なんかを先にやってみますか?とか伺いを立てている。

(剣道?私は2段だぞ!ってことはこのやせっぽちも2段なのか?いやその筈はない。
あ・・もしかしてこの女は金持ちのお嬢様で誠心塾に多額の寄付でもしてるのか。

でもって、私はわざと負けるように師範にこっそり頼まれるとか・・・)

訳の分からない妄想をしているうちに、いつの間にか茜と高橋彩夏は剣道着を着て向かい合っていた。

(剣道着を着るのに古谷菜々美に着せてもらっていた。
これで全てわかったぞ。やっぱりこいつはお嬢さんで、こいつの口利きで破門を解かれたんだ。
で剣道もわからない癖に私と対戦しようとしている。)

高橋彩夏は中段に構えて面を取ろうと思った。左足を前にしてじりじりと摺り足で間合いをはかった。
だが、相手は右足を前に出している。
こっちが上背がある分リーチも長いし、右足が前に出ているなら間合いがここまで届かないだろう。そう思った。

「めーんっっ!」

高橋彩夏が面を打ちに行くと。いきなりスコーンと頭を叩かれた。
見るとそれまで両手で持っていた竹刀を右手一本で持って打ってきている。
しかも両手で打たれたより強い打ち方だった。
右足が前で右手で打ったから剣先が伸びたのだ。

「今のは伸ばして打ったから伸ばし面?ですか。ははは、高橋やられたな」

(はははじゃないよ。なんで右手で打つんだ?お前はぎっちょか?)

高橋が内心悔しがっていると、草薙師範は今度は柔道か空手でとか頼んでいる。

(あのね、剣道だけでなく柔道まで2段なのは高校2年生で全国に何人いると思っているんだ?
おまけに空手初段と簿記2級まで持っているといったら、高校2年生なら私一人しかいないだろうよ!
お前の変則的剣道に不意打ちされて一応剣道をやるのはわかったが、柔道とか空手とかまでできるわけないだろう!)

高橋彩夏はそんなことを考えているうちに面胴の防具を外して、剣道衣と袴だけになって木崎茜と相対していた。もちろん板の間の上である。」

「あの高橋さん、空手でも柔道でもどちらでもいいですから私を打ち負かしてみて下さい。
もちろん板の間に投げつけても構いません。」

木崎茜がそう言うのを聞いて高橋彩夏は、こいつは頭がおかしいと思った。

(剣道だけでなく柔道や空手の有段者になるため、自分の才能や天分もさることながら、どれだけ血の滲む苦労と努力を重ねて来たと思っているんだ。剣道でまぐれで勝ったからといって、いい気になるなよ。この金持ち娘が!)

つかつかと近づくと、棒立ちしている相手の間合いに入った。

「セイヤー!!」

との掛け声とともに顔面二段突きを見舞った・・・と思った。
だが左右の拳を相手は両手で握って掴まえている。引っ張っても外せない。

「では、もう一度」

木崎茜がそういうと、手を離してだらんと両手をさげた。つまり構えていない。

「オッス!!」

今度は中段突きだった。5・6発の連打をする積もりだったが、最初の2発で掴まった。
拳を引こうにも壁にボンドでくっつけたようにびくともしない。
動くのは自分の体だけだ。

「蹴ってもいいですよ」

そういうと木崎茜はまた手を離してくれた。
もうこのときは高橋彩夏は相手の恐ろしさがわかってきた。

(とんでもない奴だ。フルコンタクト空手風林館の初段といえば普通の空手の2段の実力がある。
その必殺のパンチを幼児の手を掴むように受けてしまう。
まるで、3年前に聞いた伝説の少女武術家みたいな話だ。あれは、法螺話だと思っていたが・・)

高橋彩夏は3年前の護身術研修には参加していなかった。
参加者は木崎茜のことについては口止めされていたので、根拠のない噂話程度で終わっていたのだ。
そのため、誠心塾・風林館・田丸道場の3つをすべて通っていた武術少女の高橋彩夏にも茜の存在は知られていなかったのだ。
高橋彩夏は連続の蹴りの攻撃をした。
だが、それらはすべて軽くいなされてしまった。
最後には足を掴まれ動けなくなった。足を離すと木崎茜が言った。

「次は柔道でやってみてください。安心して下さい。私は板の間に投げたりしません。
高橋さんはその積もりでやっても構いませんよ。」

高橋彩夏は相手が自分より完全に上だと思った。

(たぶん柔道も強いだろう。いや待て柔道なら勝てるかもしれない。私は今年の市内対抗の有力候補なんだ。
ウェイトも私の方があるし・・・)

だが高橋が組んだ途端、腕が外されて手首と肘が固められた。

(これって腕絡みという関節技じゃん。
昨年中学生の県大会で使われたって話は聞いたことがあるけど、まさかこいつ?)

「ではもう一度、今度はこれは使いません。」

手を解いた瞬間、高橋は狙っていた背負い投げをしかけた。
背負い投げは投げる前の体勢にいかに早くなるかが大切で、このタイミングは高橋彩夏は実によかった。
相手の重心をしっかり背中に移してもう投げられる。

「とおおっ!」


気合とともに投げた積もりだったが、予想以上に相手が早く飛んで行った。
というより木崎の体が投げられるより速く回転して、床に打ち付けられる前に足で着地したのだ。

「えっ?」

何故か高橋は木崎に担がれていた。今度は自分が背負い投げを受ける番だ。
そして投げられたと思った。板の間に投げないと言ったくせに、と一瞬思った。
ところが打ち付けられる寸前に投げのスピードが急に落ちて、ふわりと両足で着地できた。
そうなるように木崎がしっかり掴んで離さなかったのである。
まるで子供相手に大人が投げる真似をしてみせたのと同じである。

「どうもありがとうございます。」

と言ったのは木崎茜の方だった。

「ど・・・どうも」

自分の得意な分野ですべて打ち負かされた高橋はすっかりへこんでしまった。

高橋彩夏がしょげているとき、草薙師範が近づいて来た。

「高橋、お前はついてるぞ。いったい誰に相手になってもらったと思ってるんだ?」
「はあ?」
「噂くらい聞いたことがあるだろう?
一応法螺話ってことになっているが、葛城の面打ちを手で掴んで竹刀を飛ばしたって話?」
「あれ、葛城に聞いたら、法螺だって言ってましたし」
「その他にもずいぶん具体的な法螺話が伝わっていたろう?」
「ええ、笑っちゃうのは田丸道場の兵頭さんが私に向かって、お前より小さい女の子にのされたり投げ飛ばされたことがあるって言えば信じるかなどと冗談を言ったことがあります。」
「冗談じゃない。それがすべて3年前実際に起きたことで、その女の子というのがこの木崎茜さんだ。
訳があって、口止めされたため、誰も本当のことだと言えなかったんだ。だからお前も秘密を守れ。」
「は・・はい」
「今度、あそこに畏まっている古谷菜々美が復帰した。
木崎さんに燕返しを破られてその技を封印する約束で、私に詫びを入れてきた。
木崎さんの口利きだから私も許した。これからはお前のよきライバルとして共に研鑽に励むように。」
「は・・はい」
「どうだ。少し天狗の鼻が短くなったか?お前には良い経験だと思って、特別に木崎さんに頼んだんだ。
この経験を無駄にするなよ」
「は・・はい。わかりました。ありがとうございます。」

草薙師範の説教を聞いた後は、高橋彩夏も古谷菜々美と同じくすっかり畏まってしまった。



古谷菜々美は誠心塾を出ようとする茜を呼び止めた。

「またまた茜さんに大きな借りができちゃったね。どうして返したらいいんだろう」
「そんな心配しなくていいよ、古谷さん。友達になってくれればそれでいいから」
「いや、友達は畏れ多い。家来になるよ」
「そう・・・友達は駄目か・・・まあ、なんでもいいよ。それで古谷さんがいいなら。じゃあ、また」

そう言いながら歩き始めた茜の顔にはいつもの笑顔はなかった。



漆原家は布根見藩の侍大将だった祖先を持つ家柄であり、中堅武士層の子孫が多く住むここ中布根地区の中心的存在であった。
漆原克己は県立高校の3年生で幼い頃から文武両道を仕込まれて育った。
中学生の頃から木刀や竹刀の4・5倍も重い日本刀を素振りし、今では至難の業とされる「枝きり水車」を果たせるようになった。
彼に限らず中布根の衆は皆、剣道場や空手柔道の道場には通わず、一族の中で剣の道や古武道の格闘術を伝承し日々鍛錬を重ねていたのだ。

中布根地区の衆は歌布根地区の衆を軽蔑していた。
もともと彼らの祖先は田楽師や芸人の類であり、川原乞食と変わらない。
その卑しい身分の者が同じく卑しい百姓出の秀吉に取り立てられ、勝手に藩に入り込んで来た。
名字帯刀を許された成り上がり者で、藩侯までも惑わしそのせいで関が原で敗れた。
また、芸能を重んじるあまり女にも発言権があり、武士を名乗りながら男社会の家長制度を重視せず、どちらかというと女系社会を構成している。
そういう秩序を無視した異端の一族を、武士の仲間とは認めたくないし、もちろん同化して血を汚したくない。

地区グループというのが若者を中心としてできていたのだが、黒土筆の方は昔から女ばかりで構成されていて、なにかと目障りだった。
だが、男が中心の蔦漆の地区グループは女を相手にしては男の沽券に関わるとして、決して相手にしていなかった。
それが最近女性版「蔦漆」というのができたらしい。
最近といってもここ2・3年のことだが、それを束ねているのが年子の妹の道子だという。
最近は女も強くなって、男の言うことなど聞かなくなった。
黒土筆がのさばっているのを見かねた道子が男では埒があかないと新蔦漆を結成したのだ。
それから、両グループが悉くあちこちで衝突したという話を聞く。
しかし所詮女の喧嘩だ。男が鼻を突っ込むのは恥さらしになる。

それともう一つ高校2年の室井栄子の存在だ。実は県立高校で同じ生徒会の役員をしている。
そして漆原克己は密かに室井栄子のことを気にかけているのだ。
だから妹の戦ごっこが深刻にならないことを祈っているのだ。



漆原道子は参謀の鈴木明美から報告を聞いていた。

「そうか、黒土筆の連中は皆殆どが打撲や擦り傷を負っているってことね。
それに関わっているらしいのが光栄高校2年の古谷菜々美と1年の木崎茜という生徒で、その他の出入りがなかったって、これは面白いことだわ。」
「は・・見張っていた者の観察によりますと、彼らは集会前と後では様子が全く違っていたとのこと。
木刀などはいつも磨いてピカピカにしていたのが、傷だらけで中にはヒビ割れていたものもああったとか、明らかに過酷な戦闘訓練をしていたものと思われます。」
「してその・・光栄高校の2名の役割は一体何なの?」
「それも調査ずみでございます。
古谷菜々美は昨年県の剣道大会で一旦優勝しその後暴力事件を起こして取り消された剣道2段ですが、魔剣「燕返し」の使い手です。」
「なんなの?その燕返しってのは?」
「はあ、何でも一度振り下ろした刀を振り上げて刀の峰で相手の顎を砕く荒技でございます。
決勝の相手は面の上からそれを食らい、顎は無事だったものの、衝撃で頚椎を損傷して入院したとか」
「まあ、下品な技ね。いかにも黒土筆の好みそうな技だわ。品格のかけらもない」
「そして、木崎茜ですがこれが光栄高校では7年ぶりの特特待生でして」
「またわからない言葉ね。なに特特・・・って?」
「特待生の中の特待生という意味でして、県大会に出れば必ず優勝し、全国でも上位を狙える生徒にだけ与えられる優遇措置らしいです。木崎は柔道部に所属しています。」
「それでわかったわ。黒土筆はその二人を顧問に迎えて剣術と格闘術の特訓をしていたのね。
つまり近いうちに私たちと一戦交える積もりで戦闘訓練を始めたということだわ。」
「いかが致しましょうか?お嬢」
「その魔剣とかいう気味の悪いのはちょっと置いといて、1年生の木崎ってどんな子?
さぞかしごつい体なんでしょうね?」
「それが背丈はこのくらいで、ほっそりした美少女だとか」
「ああ、それはいいわね。柔道って体重別もあるんでしょ、きっと?
そのクラスできっといい成績を中学時代とってたのね。
まだ1年生になったばかりだし、その燕返しよりは扱いやすそうね。
きっと技術がすぐれているから、コーチとして優秀なんだわ。その子を連れてきてね。」
「どうなさるお積りですか?黒土筆に知れたら・・」
「余計な心配しなくていいから、あなたはもう少し二人の詳しい情報を集めてね。特に木崎茜のはうんと詳しくね。」
「は、お嬢・・」



「木崎茜様でいらっしゃいますね?」
顔立ちの良いスーツを着た青年が3人ほど茜の前に現れた。
そばには高級な車が止まっている。
校門を出てしばらく歩いた後のことだ。きっと校門からつけてきたに違いないと思った。

「あなたたちは?」
「はい、室井栄子様からあなたをお連れしてくれと頼まれまして、お迎えにあがりました。」
「室井さん?でもあのときの女の人たちではないのね?車も違うし」
「きょうは我々男たちも一緒に接待することになりまして」
「はあ、それでは」

茜は胡散臭い感じがしたが、別に男が3・4人いようと平気なので素直に従って様子を見ることにした。
やがて車は中布根地区の自治会館に止まった。
案内されるままについて行くと、ホールのような所に出た。丸いテーブルにオードブルや飲み物が並んでいる。
立式のパーティ会場のようだ。
大勢の女たちが待っていたが、室井栄子や大岩郁子の姿はなかった。
全員赤い陣羽織を着ていて、明らかに黒土筆ではないことがわかる。
一人の少女が茜に近づいて来た。
少し派手な感じのする大人びた雰囲気の子だった。

「あなた木崎茜さんね?私蔦漆の漆原道子というの。宜しくね」
「つまり嘘をついて私を連れてきたんですね?」
「そうよ、初めから名乗ったら来てくれないじゃない。
あなただって、若い男の子が迎えに来たからほいほいとついてきたんでしょ?図星でしょ」
「・・・・」
「でも気をつけなきゃ駄目よ。男だけの車に黙ってついてきちゃ何があっても不思議はないんだから」
「その心配はないです。私は自分の身は守れますから」
「ほほほ・・・柔道ができるからって自信があるようね」
「漆原さんも大勢に守られているから優位に立っている積もりなんですね?」
「生意気ね。ちょっと滝口、一回泣かしておやり」

茜を迎えに来ていた若い男たちが近づいて来た。茜は待っていた。
三人とも顔立ちもよくスマートな体つきだが、背も高くスーツの下には贅肉のないしなやかな筋肉を忍ばせているようだ。
茜は三人を観察した。
正面から近づいて来るのが、代表して口を利いていた男だから滝口というのだろう。
背後に廻ろうとしているのは無表情な能面のような顔の男。
少し離れた所で立っているのは体格が一番がっちりしている感じで、ギリシャ彫刻のような男だ。
自分の出番はないとばかりに別な方向を見ている。

能面が背後から茜の二の腕をぎっちりと掴んだ。
男の大きい手は茜の細い二の腕を掴んだとき親指と他の指が殆どくっつきそうだった。
滝口は茜の正面に立つと、表情を変えずに平手で頬を打ってきた。
茜は腕を掴まれたまま、手を素早く動かし滝口の手首を掴んだ。
左手で逆手に相手の右手首を掴んだので、そのまま手首を逆時計方向に捻って相手をしゃがませた。
相手は自分の手の下を潜って捻れを戻そうにも背が高いために咄嗟にできなかったのだ。
茜は右足を深く後ろに下げると右肘で能面の鳩尾に一発見舞った。
多分5mくらい後方に飛んだと茜は思った。ドシーンと何かにぶつかった音がした。
その右手で近くにあった滝口の顔をパーンと叩いた。滝口は白目を出して床に倒れた。
能面に腕を掴まれてから5秒ほどのできごとだった。

もっとも、茜としては黒土筆のときと違ってのんびりやった積もりだった。
だから異変に気づいたギリシャ男が血相を変えて突進して来たときも慌てず攻撃してくるのを待った。
男はいきなり右回し蹴りをして来た。茜は頭をさげていなした。
空振りして体勢を整えないうちに茜は突進して相手のお尻の辺りを両手でトーンと突いた。
腰をしっかり落として突き飛ばしたので、大きな男の体が空中を飛んで近くのテーブルにぶつかって行った。
ご馳走や飲み物がひっくり返って男は顔も服も食べ物塗れになった。
どこか打ったらしく上半身をやっと起こしたもののそれ以上立つことはできなかった。

漆原道子を始め蔦漆の一同は茜の強さに驚いてしばらく口も利けなかった。

「あなたは何?変身しない超人ハルク?宇宙人?その体でどうしてそんなにパワーがあるの?」

茜は肩を竦めた。

「ところで、漆原さんの用事って何ですか?
私を脅して何かを聞き出すためですか?
それともご馳走で釣って仲間に引き入れようとしているんですか?
言っておきますが、そこに伸びている男の人たちを餌に私がついてきたと思った大間違いですよ。
この人達よりもっと良い男を知ってますから」

茜はこのことを単に口上で言っただけで、具体的な男性の顔が浮かんだわけではない。


「わ・・悪かったわ。あなたはどうやら普通の軽い女の子じゃないようね。
相手を自分たちのレベルで判断しちゃまずいよね。本当に・・。」
「随分謙遜しますね。私は漆原さんが普通の軽い女の子だとは思いませんけど」
「ありがとう、そう言ってくれて。私たちお友達になれそうね」
「それはわかりません。ところで私はとんでもない失敗をしてしまいました」
「な・・なんのこと?」
「もう帰りたいのですが、車で送ってくれそうな男の人達を3人とも倒してしまったことです。
タクシー代もありませんし」
「あ、それは大丈夫。他にも免許を持っているのがいるから」
「じゃあ、申し訳ありませんが送っていただけませんか?」
「ま・・・まだ良いじゃないの。来たばかりだし。こっちの用事もすんでないし」
「はっきり言ってもいいですか?きょうは騙されて連れてこられました。
始めから蔦漆の漆原さんであることを名乗って招待を受けたなら用事も伺いますが、きょうは聞く気はおきません。
送って頂けないのならもう歩いてでも帰ります。」
「聞き分けのない子ね。じゃあ力づくでも言う事を聞いてもらうわよ」
「あなたがそう言う積もりなら、私も力を使いますよ」
「どうやって?」
「たとえば、あなたを人質にするとか」
「人質にする前にそれを言っちゃ駄目じゃない?」
「いえ、大丈夫です。多分」
「みんな、こいつを・・・」
「しっ、黙って」
茜は素早く動いた。寄り添うように漆原道子の左側に立って左手で彼女の左手首を掴んだ。
そして右手を彼女の肘に絡ませるようにして自分の左手首を掴む。
第三者から見れば背の小さい茜が漆原の腕に腕を絡めて甘えているように見える。

「何をしてるの?」

漆原の問いに茜は声を落として答えた。

「私がちょっと力を入れればあなたの腕に激痛が走り、さらに力を入れれば肘の関節が壊れます。
そうなれば完全に治るのは難しくなります。」
「そんな馬鹿なことあるわけ・・」
「ええっ!?そうなんですか?送ってくれるんですか、ありがとうございます」

茜は大きな声を出して、ちょっと力を入れた。
漆原道子は痛みで顔をしかめ小さな声を漏らしたが、茜の声に消された。

「わかりましたね。あなたは私を青布根町まで一緒に車に乗って送ってくれるのです。」
「わかった。だから力を入れないで・・・」
「さあ、私もあなたも笑顔ですよ。笑顔でいてください。」
「ああ、菊池と安部、車出して。この子を送って行くから、あははは。」
「そうです。その調子です。ありがとうございます。感謝します。」
「全くあなたって子は食えない子ね」
「それと折角食事まで用意して下さって、食べずに帰るのは申し訳ありません。
でも、私は夕食は家族と食べることに決めているので、もうこのお心遣いはしないで下さい。」
「あなたって不思議な子ね。敵にまわしたくない気がしてきた」
「勘違いしないでください。私はあなたの敵にも味方にもなる積もりはありませんから」
「それどういう意味?」
「そのままの意味です」

車が用意されて前の方に菊池と安部が乗り、後部席に漆原と茜が乗った。

「漆原さん、腕を解きますが命令を変えないでくださいね」
「あら?解放してくれるの?」
「その代わり指を一本だけ握らせてもらいます。変なことしたらへし折ります。
ものすごく痛いですから、その積もりで」
「ああ、やっぱり。でもさっきよりは楽だわ。」
「一応聞きますが、どんな用件だったんですか?」
「黒土筆と倉庫跡で会っていたでしょ?一体何をしてたのか聞きたかったの」
「そうですか。その質問はたとえあなたが最初から礼を尽くして質問したとしても答えられないことなんです。
たとえあなたが私の親友だとしてもです。
だから許してくれませんか?あ、もうそろそろこの辺りでいいです。
後は歩いて帰りますから」
「さすがプロね。口が堅いわ」
「・・・?」

茜は近所で降ろしてもらい、車が立ち去るのを見送った。


漆原道子は参謀の鈴木明美と話していた。
他の者は散乱した会場を片付けている。
三人の男たちは痛む体を庇いながら、会場を出て行った。

「だから、あの木崎茜は生活の為に色々アルバイトをしているのだと思う。
あの腕を使ってよ。そういう意味でプロなのよ。
だから顧客情報は守秘するってこと。あの言葉ではっきりしたわ。
彼女は戦闘訓練のためのトレーナーとして雇われた。もう一人の燕返しも同じ。
だから、こっちもそういう奴らの戦法を研究する必要があるの。
敵を知り味方を知るものは百戦危うからずってね。」
「それに最適の人物を知っています。高橋彩夏という青布根商業高校2年の女です。
なんと古谷菜々美と同じ剣道2段で、しかも柔道も2段、おまけに空手は初段だとか。
一人で3人分のコーチができるのです。」
「まあ、それは安上がりね。その子を礼を尽くして連れて来て。
今度はあの役に立たない男どもは使わないで、蔦漆の三役でお迎えするのよ」
「は・・・」
「木崎茜が男っ気がない寂しい女の子って情報だったから、お兄様のグループから飛び切りの美男子をこっそり借りて来たのに、全く逆効果だったわ。」
「申し訳ありません。とんだ早とちりで」
「もういいわ。今の件さっそくセットしてよ。」
「畏まりました、お嬢」



漆原克己は実に困りきった顔をしていた。
蔦漆の特攻隊長、岡達也が青筋を浮かべて3人の男を睨みつけている。

「お前たちは女たちの蔦漆に関わるなと普段から若に言われているのに、何故のこのこと使い走りをしているのだ?!
しかもたった一人の女に3人ともあっという間に倒されたとか。
そればかりかお前たちがだらしなく倒れている間に、お嬢様が人質に取られて、おめおめと逃げられたというではないか?
その後お前たちはお嬢様に口止めされているのを良いことに本部の我々に報告を怠った。
滝口!亀田!三浦!腹を切れ、腹を!」

漆原克己は慌てた。

「まあまあ、岡さんそんな無茶は言わずに・・。
妹に無理やり頼まれれば彼らとしては断りきれないし、口止めされればそれは守らざるを得ない・・・。
それに、その木崎とかいう女、この3人を僅か数秒で倒したというからには余程の使い手。
女に負けたといえば聞こえが悪いが、見ていた者の様子では男の我々でも真似できないような武術だったとか。亀田や三浦などは5m以上飛ばされたというし、
滝口などは平手打ちを手で掴まれ捻り倒された後、掌底打ちのような技で僅か一発で失神したという。
事情通の話では、木崎茜という女子は青布根では知る人ぞ知る武術家というではないか。
幼い頃に謎の中国武術を修めて、子供の頃より大人を手玉にとっているとも聞く。
だとすれば彼らを責めることはできないではないか。」
「若・・・それは私も先ほど伺いました。だが、このままでは蔦漆が笑いものになります。」
「だが、木崎茜も妹に騙されて連れて来られたりしている。
先に手を出したのもこちら側だと聞くし、相手の落ち度は見られない。
それに妹を人質にとったとはいえ、実に相手を敬う礼儀正しい態度だったという。
女子ながら武士の心を持つ立派な人物のような気がするのだが・・・」
「若、それは私も分かっています。だが相手の人柄とこれは別問題と心得ます。」

別問題と言われて漆原克己は黙り込んでしまった。そうなのだ。
漆原克己は蔦漆の看板を守らなければならない立場なのだ。
しかも、そもそもの原因は妹にある。そしてそのことを絶対岡達也は言わない。
漆原達也としては迷惑をかけた3人のメンバーを不問にする条件で、木崎茜と決着をつけることに同意をしなければならなかった。



「会長・・学校祭のテーマはこれでいいですね?」
「はい、色々ありがとうございます、室井さん。お陰で目鼻がつきました」
「いえ、これからがんばりましょう。」

県立高校の生徒会室で会長の漆原克己と副会長の室井栄子が話している。
ごく普通の高校生の会話だった。
それぞれの地区グループでの態度とは打って変わって爽やかな口調で同じ人物とはとても思えない。
この二人がそれぞれの別の立場に戻るとき、また別の顔を持たなければならないとは、誰が想像できただろう。
漆原克己は窓の外を見て独り言のように言った。

「木崎茜さんという人はどんな人でしょうね?私にはとても良い人のような気がするのですが・・」
「・・・・・」
「そんな人と争わなければならないとすれば、僕は自分の立場に縛られて動くしか能のない人間ということになる。」
「あなたのような人でした」
「えっ?」
「いえ・・・なんでもありません。きょうはこれで」
「あ、はい。お疲れ様でした」

室井栄子が言った一言・・自分のようだと言った木崎茜とは・・・?
そして室井栄子は、どんな気持ちでそれを言ったのか、漆原克己は考え込んでしまった。



高橋彩夏は大好物の美晴屋のケーキを口にしながら、紅茶を飲んでいた。

「高校生のアルバイトって時給どのくらい?」

そう尋ねたのは向かいの席に座っていた漆原道子だった。

「私コンビニでバイトやってるんですけど、だいたい・・・」

高橋彩夏は小さい声で相場を言った。

「10倍。その10倍出すわ。しかも仕事はあなたの得意な武術の指導よ」
「ど・・どなたにそれを教えればいいのですか?」
「私たちのグループよ。決して怪しいグループじゃないわ。
私たちは古武道を日々鍛錬しているけど、あなたのやっている新しい剣道だとか格闘技は知らないの。
だからあなたに教えてもらいたいなって・・」
「あの・・そういう話とても嬉しいんですが、私のそれぞれの師匠というか指導者が許してくれないんですよ。」
「あら、私たちは秘密結社と同じく絶対秘密は守るわ。
その代わりあなたも秘密を守って。家族にも恋人にも恩人にも飼い犬にもよ。
勿論それぞれの師匠にも秘密にするの。
だって、あなただってとっても可愛いし、新しい服とか買いたいでしょ?
一回3時間で7日間、勿論ぶっ続けじゃなくて、あなたの都合のいい日を選んで構わないわ。」
「うわあ・・とってもいい話で夢のようです。でも、どうしてですか?
古武道には古武道の武術を修得する流れというものがある筈ですよね。
それを全く体系の違う現代武術を取り入れたら混乱が起きませんか?」
「それがね。私たちは古い伝統も大切だけど、新しい風も必要なのよ。
だから現代武術の良い所を取り入れて、伝統武術の生き残りをかけているのよ」

高橋彩夏は残りのケーキを一口で平らげた。

「そうなんですか、本当に?だったら思うんですけど・・。
古武道が自分の立ち位置をそんなに簡単に変えるとは思えないし。
私はてっきり、現代武術を研究してそれに打ち勝つ方法を考えるのだとばかり」

漆原道子は声を上げて笑った。高橋彩夏も一緒に笑った。

「彩夏さんったら、考えすぎ。
そりゃあ、現代武術より私たちの武術が優れているとわかったら取り入れはしないわよ。
でも優れている面がわかったら?
当然そういうことがあるとあなたは思っていません?
だからあなたはそういう面を私たちにみせなければならない。
そういうこと。おわかり?」
「うわあ、責任重大ですね。これは一種の戦いじゃないですか、もしかして」
「そう、その積もりで教えに来て。っていうか引き受けてくれたと考えていいわね?」
「まさか、ケーキを食い逃げする訳にもいかないし・・」
「よっし!じゃあ、取引成立ね」

漆原道子は両手で高橋彩夏の手をしっかり握った。だが、高橋彩夏の笑顔の奥に不安な影があった。



校門を出たとき、背の高い青年が茜にお辞儀をした。
「木崎茜さんですね?私は漆原克己というものです。」
「漆原・・?じゃあ・」
「はい。蔦漆の代表者です。先日は妹が大変失礼を」
「私に何か?」
「ちょっとだけお話できませんか?」
「私は構いませんが・・」



ハンバーガーショップで茜は出された飲み物に手をつけず、水ばかり飲んでいた。
漆原克己も注文したフライドポテトやハンバーガーには手をつけず、水ばかり飲んでいた。
そして重い口を開いた。


「10万円あります。失礼ながらあなたの生活費の足しにできると思います。
これでちょっとしたアルバイトをして頂けませんか?
いえ、ちょっっとしただなんて、そんなことありません。
大変なアルバイトです。実は武術指導を・・蔦漆男組のメンバーに武術指導をして頂きたいのです。
時間はそうですね。1日で済みますが、何か事故があったらそこで中断します。
指導するあなたに事故があった場合は病院代を別に支払わせて頂きます。」


茜は漆原の額に滲む汗を見ながら静かに微笑んだ。

「漆原克己さん、お申し出確かにお受けします。指導と言っても実戦での指導ということですね?
場合によっては大勢との対戦も交えて・・・」
「もし構わなければ・・」
「できれば送り迎えしていただけませんか?中布根町までは遠いので。
あ、もし病院に送って頂けるなら、その場合は青布根総合クリニックに送って頂きたいのですが?
あそこが家に一番近いので」
「わかりました。それと、この謝礼のことですが・・」
「蔦漆の方々には秘密事項ということですか?その方がよければ構いませんが・・」
「ありがとうございます。宜しくお願い致します。それと本当に申し訳ありません。」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。で、いつにしますか?」
「実はこれからでは・・?」



漆原克己が電話をかけるとすぐ迎えの車が来た。
運転していたのはあの滝口だった。茜は後部席に、漆原は助手席に乗って中布根町に車は向かった。
中布根町の漆原邸には武術道場があり、茜はそこに案内された。
道場の格子窓から、その様子を覗いて入る者がいる。漆原道子だった。
彼女は顔を出すことを禁じられていたが、どうにも気になってこっそり覗き見しているのだ。


最初に上座に茜とともに座った漆原克己が、25名の参加者を前に口を開いた。
「木崎茜さんは若年ながら、武術家として知られている。
きょうはお招きして我ら古武術の技がどれだけ通用するか試させて頂くことにした。
その前に木崎さんの希望で我々の武術を披露したい。用意をするように」
木崎茜は道場から借りた剣道衣と袴をはいており、他の者も同じような出で立ちだった。

最初に木刀で戦いを見せてくれた。
赤鉢巻と白鉢巻のグループに分かれ、それぞれ5人ずつ計10名の混戦状態をやって見せた。
構えは木刀を脇構えにして接近戦の様相を呈した。
刀で切る動作は寸止めか、相手の体に木刀を押し当てて強く引くことで勝ちとなる。
突きの場合は突き立ててみせる。
味方に刀がぶつからないように振るうのだが、敵なら背中から切っても足を切ってもOKだった。
実際の戦の兵法を再現していて、平和管理の厳しい江戸時代を潜ってきてよくぞ生き残ったと思うほど、好戦的な武術だった。
突きは腹でも腿でも胸でもどこでもいい。また、肩口や首や二の腕を切ってもいい。
足の甲に突き刺すのもありという。なんでもありという点では、決して上品ではない。
倒れた相手にまたがって胸に突き刺す動作もある。剣道では見られない風景だ。

その次に刀を持った相手に接近戦で組み打ちをしかける技を見せた。
これは木刀をもった者と素手の者が二人で型を演じた。
相手が刀を振り下ろす前に間合いの中に飛び込んで手元を掴む。
そして腕を捻じ伏せ、片足を跨がせてロックする。
または手を掴んだまま転び、両足で相手の肩や腋の下を押さえて、腕を引っ張りながら相手を投げ飛ばす。
後ろから忍び寄って羽交い絞めにしたり、首を絞めたりする動作もあった。

最後に素手の二人が格闘する「組み打ち」を見せた。
目立った技は首を腕で絡めて投げる「首投げ」、後ろから首を絞めて背中で担ぐ技。

耳を肘で打つ技、目潰しで指を入れる技など、現代なら反則というべきものも紹介された。
蹴り技は向こう脛や膝頭、膝裏を蹴ったり。足の甲や指を踏み砕く技中心で、ハイキックはなかった。
もちろん金的蹴りもあった。
パンチは打ち技の一つで、喉や目や耳鼻などを狙う。五感を狂わせ戦闘能力を奪うことを主な狙いとしている。
一通り見て、茜はあまりにも現代武術と違うことに驚いた。


そして、漆原克己が茜に木刀を渡して道場中央に招いてから、全員に言った。

「これから実戦の研修を行う。まず木崎さんと木刀で対戦してもらう。
一人ずつかかって行き、一人が敗れたら次と言う具合に連続10人抜きをする。
必ずしも木崎さんが10人抜くとは限らない。
10人抜く者が現れるまで行う。では木崎さんから宜しくお願いします。始め!」
「滝口参る!いざっ」

例の滝口が一番手になって突進してきた。

「でやああああっ!!」

顔・・口の辺りを狙って突きをして来た。
それは寸止めとか押し当てるとかいうものではなく、完全に喉まで貫けとばかりの突きだった。
剣先を伸ばすため左足を前にし、左手一本で突いたが、茜が軽く木刀で右にいなしたため、体が前に泳いだ。
その左手を左手一本で掴んで担ぐと一本背負いで投げた。
ダーンッと床を滑って3mほど先に行ってからそのまま仰向けに伸びている。
早速2人ほどが手足を持って片付ける。


「亀田参る!いざっ!」

無表情な能面の男が突進してくると手前で倒れ滑るように近づくと、寝転びながら茜の足を狙って、木刀を払った。これも寸止めではなく脛の骨を折る目的で打ち付けてきたとしか思えない激しさだった。
茜は右手で木刀を脛に当てて受け太刀をすると、左手一本で前方転回し、亀田のすぐ脇に着地し、寝ている亀田の首にちょんと木刀の先を当てた。

「うおうーっ!!」

ところが亀田は無表情な顔のまま雄たけびをすると、立ち上がって茜に打ちかかった。
茜は左手で木刀を掴むと遠くに放り投げた。
それでも亀田は茜にむしゃぶりついてきたので、茜は仕方なく顎を掌底で突き上げてダウンさせた。

「今のが真剣だったら手で掴むことができなかったはず」

そう言ったのは特攻隊長の岡達也だった。

「今のが真剣だったら、その前に首がなかったのでは?」

茜はそう切り返した。

「どうします?皆さん寸止めする気がないようですし、私の寸止めは一本と認めていないようなので、こちらもきちんと当てましょうか?」
「望むところだ。三浦行け!」

岡の号令で三浦が突進してきた。どうやら失態をした例の3人が先鋒を押し付けられたようだ。
茜は戦法を変えた。向こうが来るのを受け太刀せず、こちらから迎えに行くことにした。
三浦はマサカリのように大上段から木刀を振り下ろす勢いだったが、茜はそれを飛び上がりざま弾き飛ばした。
着地した茜は三浦の懐に入って肘打ちを食らわせると、三浦は再び5mほど空中を飛んで、座っている仲間のところにぶつかって行った。
さらに弾かれた木刀も見物席に落ちていったので、蔦漆の道場生達は慌てふためいた。
「上谷参る!いざっ!」
横の方から声が聞こえ、側面から男が斬りかかった。
かなり近づいてから声をかけたものと思われる。パシーンと音がする。
茜が男の木刀を高く弾き飛ばしたのだ。
「芦屋参る!でやあああっ!!」
茜は剣先の下を潜って5番目の男の間合いに入ると鳩尾に肘打ちした。
男は宙を飛んでから近くの壁にぶつかって倒れた。
4番目の上谷がまだうろうろしているので茜は目の前に木刀の剣先を突きつけた。
「当てますか?」
上谷は首を振って戻って行った。
「内海参る!いざっ!」
手足が長く上背がある男で木刀を水平に斜めに無茶苦茶に振り回す。
パシーンとそれを叩き落すと剣先を鼻先につけた。
「突きますか?」
内海は慌てて戻る。
茜は岡に言った。
「あと四人で十人ですね。」

岡は憤然として言った。

「四天王の荒井、野村、川村、菅原四人とも出ろ!いっぺんにかかれ!」


男たちがどっと突進してきた。漆原が何か言ったが、彼らの雄叫びで聞こえなかった。

「でっやあああ!」「きええいいい!」「うるああああ!」「だああっ!!」

茜は一瞬で四人の攻撃パターンを分析した。
正面12時の顎ヒゲの男は相打ち覚悟で突きを狙って腹部を刺しに来る。
右側2時の右眉に切れ目のある男は茜の後頭部を斜め下に斬り下ろす積もりだ。
右側3時の眼鏡の男は背後に廻って背中をやや斜め水平に斬る体勢だ。
そして左側10時の頬に大きなホクロがある男は茜の下半身を特に足の辺りを叩き斬る構えだった。
茜は10時の方向に跳んだ。
飛んでくるホクロ男の剣先を受け太刀しながら腰を入れて腹の辺りを蹴離した。
ホクロ男は大きく後方に飛んで壁にぶつかった。
一方急に目標物が見えなくなったために、切れ眉男はいなくなった茜の後頭部めがけて木刀を斬り下ろしたため、相打ちの突きを狙って飛び出してきた顎ひげ男の胸の辺りを強く叩きつけることになった。
そればかりではない背後から背中を斬ろうとした眼鏡男はやはり飛び離れる茜を追うように斬りつけたため、またしても顎ヒゲ男の右脇腹を斜めに叩きつけることになった。

「うーん」

顎ヒゲ男は苦痛に顔を歪めてその場に座り込んでしまった。
味方を斬ってしまった切れ眉男と眼鏡男は顔を見合わせると茜の方に向かって突進して行った。
だが、二人とも茜が待ち受けているのに気がつかなかった。
迎えに出て軽くジャンプした茜はパパーンと二人の木刀を弾き飛ばすと、痺れた手を押さえている二人に問いかけた。

「降参ですか?それともまだやりますか?」

二人はすごすごと戻って行った。


漆原は岡に近づき小声で言った。

「岡さん、四天王との1対4の対決は10人抜きの後にやる予定だったのでは?」
「すみません。ついかっとしてしまって・・」
「まあ仕方ない。早めにやったということで説明しておく。
だがこの分では、次の素手の戦いも結果が見えているような気がするが」
「素手の格闘の10人抜きは中止しましょう。その代わり、その後の1対5人というのを1対10人でやってはどうでしょうか?」
「いくらなんでもそれは・・いや、聞いてみよう」

漆原は茜に説明に行った。予定が急に変更になったことを詫び、新しい提案をした。

「私は構いませんよ。
でもそうなると、少々手荒なことをしてしまいますが、良いですか。
恐らく皆さんに降参する余裕はあげられないと思います。」
「木崎さん、これがもし駄目なら私があなたと木刀で対決しなければなりません。剣では私が一番強いのです。
そして格闘では岡が一番強いので10人の中に入ってもらいます。
もし、あなたに何かあったらすぐ私が中断します。
では本当にいいのですね?」
「素手で10人の男の人と同時に戦ったことは今までありません。
でも私は私の最善を尽くします。お気遣いありがとうございます。」

中央に並んだ10人は体格も立派な者たちばかりだった。
背が低い者でも170cmはあり、160cmに届かない茜には10cm以上も大きい。
一番背が高い者は180cm以上あり、それが2・3人いた。
筋骨逞しい男たちが10人茜にかかって行くとすれば、これは試合というより虐殺か屠殺の場面を想像してしまいそうである。

漆原はいくら蔦漆の名前を守るためとはいえ、岡の提案を呑んでしまったことを後悔していた。

(もしこの少女になにかあったら、自分の権限で即中止させなければならない。

この対戦そのものがこちらの勝利になったとしても決して蔦漆の名誉にはならない。)

だが、試合は始まってしまった。



茜は着衣を改めるという理由で、少し時間かせぎをしながら10人の男を観察した。
横一列に並んで静かに立っている男達は、剣での試合では出て来ていない者ばかりだった。
しかも間違いなく成人男性ばかりだった。

向かって左から、やたらと腰周りの太いずんぐりした甕(かめ)のような男、足腰が強そうだと思った。
2番目が逆三角形の顔をした男。
3番目が185cm前後もありそうな、馬面の男。馬力がありそうだと思う。
その次が頬骨がやたらと出ている男。身長も180cm以上ある。馬面の次に背が高い。
次が肩幅が背丈の割に異常に広い男。次が眉毛の薄い男で殆ど眉がない。その隣は頬に傷のある男。
この男も180cm前後の身長だった。坊主頭の男。顎ヒゲの男。
そして、額にいつも青筋を立てている特攻隊長の岡達也という男。

どの人間も通常の男よりは筋骨逞しく、この10人が揃って町を歩けば、やくざでも道を譲って逃げ出すのではないかと思われる迫力があった。


「用意ができました。お願いします。」

茜が言うと、漆原克己は開始の合図をした。
すると一斉に怒号のような耳をつんざく気合の叫びが道場にこだました。
横一列だった彼らは対面する茜目指して、囲むように走り出した。
茜は12時の方向に跳躍した。
そこにいたのは180cmほどもある頬傷の男だった。
茜はいったいどのくらい高く跳躍できるのだろう?実は茜自身も知らない。
だが、茜はトランポリンの選手が跳んでいるところを見て思ったことがある。
あんな大きな器械を使わなくてもそのくらいは跳べるのにと。
一度そのことを間下部に言ったところ、人前では絶対そんなに跳んでは駄目だと念を押された。
茜がこのとき跳んだとき、茜の足の先が頬傷の男の顔の真ん中に来ていた。
ブシッ!と鼻血を吹いて、棒が倒れるように頬傷が真後ろに倒れた。

「一人」

と茜が呟いた。殆どの人間が茜が急にいなくなったと思った。
お互いぶつかりそうになり、慌ててブレーキをかけた車のように動きが止まった。
茜は着地すると3時の方向に走った。男達は振り返って追い始めた。
道場の角近くに来ると、茜は5時の方向に方向変え、道場の対角を目指し走り出した。

正面にいたのは頬傷の男だった。
茜は飛びつくと両手で頭を掴み、腹の辺りを膝で蹴った。男は崩れた。

「二人」

9時から坊主頭が来たので左肘で鳩尾を打ちつけた。
坊主頭はすぐ後ろにいた顎ヒゲの男を巻き込んで3mくらい飛んだ。

「三人」

右から眉なし男、左から岡が迫ってきたので、茜は飛び込み前転をしてやり過ごし、正面にいた逆三角男を肘打ちで5mほど飛ばした。
今度も右から馬面、左から甕が迫って来たので、飛んで行く逆三角を追うように走りぬけた。

「四人」

茜は倒れている逆三角を飛び越えて角近くの壁を蹴ると、180度方向転換をしちょうど正面にいた馬面に向かって跳躍した。
茜は両手の指を組んでそれを馬面の顎に引っ掛け、馬面の頭上で大きく弧を描いて前方転回をした。
茜の体はブリッジをするように弓なりに反って、両足は馬面の背中に着地した。
茜は両足を馬面の胴に絡ませると、今度はジャックナイフのように体を前に折り曲げた。
馬面は立ったままえび固めを受けた状態になり口から泡をふいた。

「げえーっ!!」

足を解いた茜が床に着地すると、その後ろで大きな木が倒れるように馬面が倒れた。

「五人」

振り返ると11時の方向に肩幅男、1時の方向に甕が来ていた。
茜は11時の方向に走り、肩幅男の顎を掌底で突き上げた。
肩幅男は声も立てず真後ろに倒れた。

「六人」

茜が振り返るのと背後から来た甕が両手で首を絞めて来るのは殆ど同時だった。
茜は軽く甕の目と耳を両手で叩くと、手を離した甕の腹にしっかり肘打ちをした。甕の重いからだが3mほど後ろに飛んで行った。

「七人」

茜は落ち着いて9時の方向に向き直った。そして2時に岡、11時に眉なし、ずっと離れて12時にふらふらした顎ヒゲの姿を認めた。

「うおおおお!」

顎ヒゲが雄叫びをあげて茜に突進して来た。
他の二人は構えたまま動かない。
顎ヒゲが跳躍すると茜の胸めがけて右足で蹴って来た。
それと同時に他の二人も動いた。同時攻撃を狙ったのだ。
茜は左に体を避けて顎ヒゲの右足を掴み頭上高く上げた。
そのまま手を離し、正面にいた眉なしの顎に掌底突きを見舞う。
眉なしの体は一瞬浮いてその後、後方に倒れて行った。
そのとき、顎ヒゲが頭を下にして床に落ちて気絶した。

「八人、九人」

茜が言っているうちに岡が右廻し蹴りをして来た。
茜はすれすれで頭を下げてそれをかわす。岡は更に左足で後ろ廻し蹴りをしてきた。
茜は腰を下げて手を重ね右肘で受けた。
左足を痛めたらしいのに、岡は奇声を発して右ストレートを出して来た。次に左。
両方とも茜は受けてからそれを離し、懐に飛び込んで背負い投げをかけた。
ダーンと床に叩き付けたが、それでも起き上がろうとする岡の額に手を当てて床にトンッと打ちつけた。

「十人」

周りを見回すと茜が立っているところを中心に円を描くように10人の男たちが倒れていてびくとも動かない。

「休憩室に運べ」

漆原克己は少女の武術とパワーに驚いた。

(まさかここまで強いとは・・・)

残りの者達は倒れている者を手分けして運んで行った。


その後5人の男たちが漆原克己のところに直訴に来た。
代表の神埼という男が直訴の内容を茜のいる前で伝えた。

「実は我々は10人抜きのときに7番目8番目9番目10番目11番目に出る予定だったんです。
ところが途中で予定が変更になったために、出ることができませんでした。
すると我々の出る幕が全然ないということになります。
木崎茜と対戦させてください。」
「一人ずつか?」
「四天王が一度にかかっても敵わなかった相手ですから。5人でやりたいです。
それに木刀を持たせたら弾き飛ばされるのが目に見えている。それっ!」

神埼の合図で、神埼も含めた5人が木刀を構え、素手の茜を囲んだ。
そして道場の中央に移るように目で茜を促した。

「待て、勝手なことをするな。それじゃあ闇討ちと同じではないか」

漆原の叱責に神埼は答えた。

「まず、闇討ちではないことの証明に、木崎茜の了解をとります。
それと全員一人一人名乗ります。それと十分距離をとって囲みます。
最後に若の合図がなければ始めません。そして若が中止を命じたならすぐ止めます。
これでどうですか?」
「・・・・・」
「どうですか?若!!?」
「木崎さんに聞いてみよ」
「木崎茜!いかに?!」

茜は肩を竦めた。

「あなたたちだけ戦えないのは悔いの残ることでしょう。
でも、ハンディを与えた分、手加減はできませんが・・・」
「むしろ我々はそれを望んでいる!承諾と見た。神埼だ。」

12時の神埼が名乗ると、2時が島本と名乗る。5時が江原。7時が楠本。
10時が木下と次々に名乗った。そして頷き合うと数m遠ざかった。

「若・・・お願いします」


漆原は目顔で茜に承諾を求めると合図した。


「いやあ!!」

神埼が打ちかかって来た。しかし、他の4人は動かない。
茜は上段からの面を両手で挟み木刀を取り上げた。
それを道場のはるか端に放り投げると、神埼が構えた。

「いざ、組み打ちを!」
「構わないけど、他の者はなぜ打ちかからないのですか?」
「問答無用!」

神埼が掴みかかるのを巴投げで床に叩きつけて、茜はすくっと立った。

「まだまだ!」

痛む背中を押して神埼は起き上がろうとする。他の4人は構えたまま動かない。

「とどめを受けぬうちは戦い続ける。それが蔦漆の心意気だ!」


搾り出すような声でそう叫ぶ神埼に茜は近づくと、後頭部に左手を添えて、右手で額を突いた。ガクンと頭部に衝撃を受けた神埼はその場に倒れる。

「てやーーー!木下参る!」

背後にいた木下が突きの構えで突進して来る。だが十分振り返る余裕があった。
茜は体を翻して剣先を避け左手で相手の手元を掴むと右掌底で顎を打った。
木下は木刀を持ったまま崩れる。

「島本参る!」

3時方向から島本が打ちかかる。かいくぐって一本背負いで投げた後、床に頭を打ちつけて気絶させた。
最後は二人が左右から名乗りながら打ちかかって来た。
茜は両手で木刀を2本とも掴むと引き抜き、江原、楠本の順で肘打ちで5mくらい飛ばして倒した。


その後、茜は漆原と一緒に倒れた5人に活を入れて廻った。
漆原克己は休憩室で休んでいる者たちも道場に呼び戻すように指示してから、茜に言った。

「今の5人の心意気を見せられたからには、私があなたと対決するのを避ける訳にはいかないのです。」
「そういうことになりそうですね。その前にお茶を一杯頂けますか?
私はよそで飲食をするのは避けているのですが、漆原さんを信用してご馳走になりたいのです。」

漆原は早速自らポットと急須セットを持って来てくれて自らお茶を入れてくれた。
茜はそれをおいしそうに飲むと、道場に全員が揃ったのを見計らって提案した。

「ところであなたと勝負する前に私はちゃんとした仕事がしたいのですが」
「なんのことですか?」
「私が蔦漆の人たちの剣を見て感じたことは小手の技が見られないというです。
それで小手の指導を漆原さんにしたいのですが。
というのは、折角武術指導に来て、ただ、みんなを打ちのめすだけで帰っては、ちゃんと務めを果たしてないような気がするからです。」
「はあ。しかし小手というのは手首を切り落とすのとどう違うのですか?」
「はい、それが小手とも言えるのですが、刀の平らな部分・・・つまり平地(ひらじ)の部分で手の甲を打てば、相手は刀を握れなくなります。
峰や刃を当てると骨が折れたり切れたりしますが、無用な殺傷を避けるために、そういう小手もいいかと」
「そうですね。それでは教えていただきましょう」
「私が最初に面打ちの形で絶好の場所で止めて見せます。それから本番の面打ちに行きますから、そのとき寸止めで同じ場所で左手の甲を打ってください。私は右手だけになりますので、刀身を払うのです。そうすれば私は剣を取り落とす。
実際にやって覚えて下さい。」
「わかりました。ではご指導宜しくお願い致します。」

漆原は嬉しかった。茜が茶を望んだのも、ワンポイント指南を申し出たのも、最後の勝負の前の緊張感をほぐしてくれるためだったと感じたからだ。
道場生は二人の会話の内容はわからない。
やがて二人が道場の中央に出ると、漆原は道場生にも説明しようとした。

「これから・・」
「説明は必要ないのでは?」
「そうですか、では」

茜は静かに礼をした。漆原もただの練習なのにと思いつつも礼をした。

「てやっ!」

茜が珍しく掛け声をかけて面打ちの動作をして途中で止めた。
間合いがまだ長いし、見ている者にはただの牽制に見えたに違いない。
だが、事前の打ち合わせ通り小手を打つ場所を教えたのだ。次の瞬間。

「でやーっ!」


茜は一気に前に躍り出て面打ちをしかけた。

「とおーっ!」

漆原は指導された通りに一回目の形の所で茜の左手の甲に寸止めし、刀身を払った。
だが寸止めしたはずなのに茜の甲に木刀が当たった。
木刀は予定通り床に落ちたが、当たってしまったのは予定外だった。
さらに予定以外だったのは、道場生が感嘆の声を上げ、拍手したことだった。
漆原は道場生が試合で茜に勝ったと勘違いしていると思い声をあげた。

「違う。聞いてくれ、これは・・」
「漆原さん。手の甲を傷めたみたいです」


茜が左手を押さえて訴えて来た。

「約束しましたよね。私に事故があったらそこで中断すると。
どうやらあなたとの試合はできないみたいです。」
「すまない。私が未熟で」
「いえ、どうやら私に原因があったみたいです。なぜか左側にぶれてしまって」
「とにかく、皆がこれを試合と勘違いしているみたいなので説明しないと」
「それより私はこれから着替えますので病院に送って頂けませんか?
皆さんには、私が帰ってからゆっくり説明してくださればいいのでは?
そうでないと皆さんは、怪我をしている私に無理やりでも試合をさせるかもしれませんから。
そんなのごめんです。」
「わかりました。」



滝口に車で待たせておいて、漆原克己は病院まで付き添った。
処置室から出て来た茜をみると左手に包帯を巻いている。
驚いた漆原に茜は笑顔で言った。

「がんばったんですよ。どこも悪くないからそのまま帰れと医者に言われたんですが、せめて怪我人らしくなにかしてくれと。そうしたら、手の甲に湿布を貼ってさらに包帯で巻いてくれたんです。」
「本当に大丈夫だったんですか?」
「ですから湿布と包帯、それに診察料とられますよ。もちろん約束通り払ってくれるんですよね?きょう保険証もって来てないので高いかもしれませんが、後で余分な分お返しします」
「大丈夫です。返してくれなくてもいいですから。たいした怪我でなくてよかったです、本当に。」



会計に支払いをすませると漆原は車に戻ろうとした。
だが茜は一緒に玄関について行き、車で待っている滝口に包帯を見られるようにした。

「漆原さん、皆さん方への説明は一回でいいですから。あれは練習だったんだと。それ以上は無用です。
私にとっては、あれは10万円分の指導の積もりです。
道場生の皆さんはきっとそう信じたい方に解釈するかもしれませんが、それはそれで良いと私は思ってます。
では、お元気で。」
「そうだったんですか・・・色々ありがとう、木崎さん。忘れません。」

そうして茜は漆原と別れた。



離れた所でその様子をじっと見ていたのは外崎という男だった。

「なかなか一人でいることがない女だ。」

そう呟くとどこかへ姿をくらました。


佐野満が家でゲームをしていると、常岡がやってきた。

「外に出ないか?」
「ああ、もうちょっとでこれ終わるから」
「車手に入ったんだ。」
「うん?」

佐野が手を止めると、常岡が一気に話し始めた。
「魚住の奴、最近早く帰るみたいだ。車があればさらって連れていけるだろう?
だろう?もうあの木崎とかいう女はとても手に負えないし、あの女のいないとこでやっちゃおうぜ。
あの女は駄目だ。古谷も駄目だったし、バイクギャングの連中も歯が立たなかった。」
「その車どこにある?」
「近くに隠してある。使ったらどこかに捨てるから、今日中にすましたいんだ。」

常岡が声を落としてそう言ったので、佐野は盗難車だと悟った。

「根本や鹿野たちはいるか?」
「駄目だ、あいつら何処かに行って、掴めない。佐々木と東屋はじきにここに来ることになってる。」
「じゃあ、やるか」

そういうと佐野はゲームの画面を見て、コントローラーを床に投げた。

「ええい、くそっ!こんなのやってられねえ!」




茜は退学した偽学生の仲間が一人校門のあたりでうろうろしているのを見て、怪しく思った。

(きょうは制服を着ていない。だが、学校に何の用だろう?)


隠れて様子を窺うと、急に何かに気づいて門の外に走って行った。
何に気づいたのか辺りを見回すと、ちょうど魚住弘が帰宅するところが見えた。

(まさか・・あいつら弘を待ち伏せして・・)


茜は離れて弘の後をつけた。




佐野たちは車の中で待機していた。そこへ東屋が息を切らして走って来た。

「来たぞ!あいつ一人だった。もうすぐここを通る」

彼らが待ち伏せしていた場所は人通りの少ない道路だ。
じっと待っていると、向こうの方から魚住の姿が見えた。

「来た。まあ、待て。ここまで来たら飛び出そう。」
そのとき車の運転席にいた常岡が言った。
「あ・・あれはなんだ?木崎じゃないのか?!」

その声に他の3人が見ると魚住の後方から後をつけてくる茜の姿が見えた。
佐野は首を振った。


「ちくしょう!なんでいつもあいつが邪魔をするんだ。自分もゴミ4組にいるくせに!
中止だ、常岡・・Uターンして引き返そう」

すると常岡がリーダーの佐野に食ってかかった。

「冗談じゃねえ!どんな思いして車持って来たと思ってんだ。
きょうしか使えないんだ。ぐずぐずしてたら警察に届けられて足がついてしまうんだ!」

佐野も怒鳴った。

「じゃあ、どうしろってんだ?えっ!?じゃあ、お前の好きにやってみろ」
「ああ、好きにさせてもらうさ。お前の計画は今まで全部だめだったじゃねえか。見てろ。俺ならこうする!」

常岡はアクセルをふかした。そして急発進しタイヤが悲鳴をあげた。

「何するんだ!」「常さん、まさか?!」「ひえーっ!」

他の3人がパニックになって騒ぐのも構わず常岡の運転する車は魚住に向かって突っ込んで行った。




茜は弘に向かって車が突っ込んで来るのを見て、走った。

(間に合うか?はねられたら弘が死んでしまう!)

弘の背後から茜が飛びついたとき、目の前に車があった。
ドンッと全身に衝撃が走った。
茜はそのとき意識がはっきりしていた。
だが、茜は自分の体が空中を飛んでいながら、何故か生暖かいねっとりした液体の中をゆっくり動いているような感覚であることに気がついた。
時間がゼリーのようにゆっくり流れて行く。下を見ると車がナメクジのようにのろのろと動いている。
その進路からはずれて弘が道路に転がって行く。
それも超スローモーションで。
車の中には運転している男の狂気に満ちた形相がはっきり見てとれた。
助手席の男がすっかりうろたえている。後ろにも二人乗っている。

(あのときの6人のうちの4人だ。)

茜は状況を非常に冷静に見ていた。
何故かわからないが、こんなことを聞いたことがある。
人は死に直面すると、時間感覚のスイッチが切り替わり僅か数秒を数分に感じることがあると。

(これがきっとそうなんだ。きっと死なずに助かろうとする、原始的な本能かなにかがこういう風に感じさせるんだ。)

茜は、だとすれば今何をすべきか考えた。

(このままだとアスファルトの路面に頭から叩きつけられ、その後あの車に轢かれる。
上手に着地し、車の進路から脱出しなきゃ!)


茜は少し体をそらしてバック宙の体勢になった。茜の体はじれったくなるほどゆっくりと回転し始めた。
体もすぐには頭の命令を聞いてくれない。筋肉を動かそうと思ってからややしばらくして動いてくれる。
しかも全身が鉛のように重い。そして堅い。まるで自分の手足なのに鉄棒を曲げるように力がいる。
長い時間がたったように思えた。
足がようやく地面についたとき、もう車は半分の距離まで縮まっていた。
茜は横に飛んだ。そのとき時間が戻った。猛スピードで車が通り過ぎる。
茜は全身に激しい痛みを覚えて気を失った。




病室は二人部屋だった。入り口には「王李花」と「木崎茜」の札がかかっていた。
木崎茜はベッドで眠っていた。


魚住弘は自分が茜に助けられたこと、そのため茜が身代わりになったことを知った。
茜に押されて路上に転がった弘は、すぐ起き上がることができたが、歩道に倒れている茜を見て救急車を呼んだのだ。
一応弘も医者の診察を受けたが、すり傷だけでなんの異常もなかった。

弘はカーテンを開けて茜のベッドに近づいた。
弘は、仰向けに寝ている茜の左耳にかかっている髪の毛をそっと掻き分けてみた。耳の下1cmほどのところに、妹が言っていたホクロが確かにあった!
弘は殆ど聞こえないような小さな声で寝ている茜に話しかけた。

「兼ちゃん、君だったのか。君は中庭で本を読む振りをして、いつも僕の教室の方を見守ってくれていたんだね。
そしてきょうも心配して僕の後をつけてきて、助けてくれた。ありがとう。
もう知らない振りをするのはやめようよ。どんなに君に会いたかったか。
君はわからないだろうね。
お父さんもお母さんも香も、今でも君のことを話題にするんだ。
どうしてるかってね。ちゃんと元気でやってるかってね。
こんな姿を見たら、それこそ・・それも僕のために・・・」

弘は声を詰まらせた。

「待ってるんだよ。今みんなを呼んでくる。もうどこにも行っちゃ駄目だ。」

小さい声でそういうと、弘は病室を出た。


その少し離れた詰め所の一角で、間下部は担当医の野口と話していた。
野口は全身の骨のレントゲン写真を見せていた。

「木崎茜さん15歳ですが、肋骨が7箇所、骨盤が2箇所大腿骨が3箇所が折れた跡があります。」

野口は平板な口調でそれを告げた。まるで本を棒読みしているような無感情な口調だ。
間下部は思わず聞き返した。

「折れた跡・・と言いますと?」
「それが事故に遭ったのは今日なんですが、まるで何年か前の骨折のように折れた跡だけ残して骨がくっついているんです。折れたのは間違いなく今日なんですが、今日のうちに直ってしまったということですね。」
「そんなことってあるんですか?」
「滅多にありませんが、子供のように非常に柔らかい骨の場合軟骨組織が骨折部分にすぐ染みて行って固まってしまうということがあるかもしれません。
けれども12箇所全部そうなったというのは私も初耳です。」

野口医師は70歳近い老人だが、驚くべきことを口にしていながら、あくまで普通の口調で続けた。

「それと超音波映像で内臓の状態を調べてみたのですが、内臓破裂とか出血とかそういう兆候は一切見られませんでした。
つまり、猛スピードの車にはね飛ばされて10m以上飛んだのに、内臓は健康そのものです。」
「そういうことってあるんですか?」

間下部は馬鹿の一つ覚えのように、同じ質問を繰り返した。

「一例だけあります。木崎茜さんの場合がそうです。としかいえないですね。」

野口医師はなにがあっても自分は決して驚かないと人生のどこかで決めたのか、平板な口調でそう言った。

「ありがとうございます。ではすぐ退院できるのですか?」
「と言いたいのですが、運動機能検査とかまだ検査がいくつかありますので、もう2・3日は入院していてもらいます。」
「わかりました。宜しくお願いします。」



茜が目を覚ましたとき隣から若い女性の声がした。
「起きたの?」
カーテンを開けると、隣のベッドに上半身を起こした女性が笑顔で茜を見ている。
「私、ワン リーフア。あなたは?」
見た感じ日本人と変わらないが、言葉はたどたどしい。アジア系の外国人女性なのだろう。
「木崎茜です」
「きざ・・きざ・・あか・・?」
「あかねです」
「おう、あかね。あーかーねですか。」
「はい、ワンさんはどこの国の人ですか」
「中国よ。あかねは日本人?」
「はい。」
「でも、あかねは本当の名前ですか?」
「えっ?」
「あかねが寝ているとき、男の子が違う名前で呼んでいたような気したね。」
「たとえば、どんな?」
「ケンケンとか・・」

病室で二人きりだと話が自然とはずみ、王李花(ワンリーフア)は自分の身の上を話し始めた。
彼女は日本に出稼ぎに来たが滞在期間が切れて警察に逮捕される前に日本人と結婚をしたので、日本に長くいれることになったと話した。

「でも、私怖いね。ここへは働いているところで乱暴されて怪我をして来た。
でもいつ警察が来て入管に連れていかれるかわからないからびくびく。」

王李花は怯えたように入り口の方を見た。



そのとき、病室の入り口をノックする音がして、王李花の体がビクッと動いた。
戸が開くと花束を持った男が立っていた。
その男はたどたどしい日本語でこう言った。

「きざぎ・・あがねさん いますか?」

王李花の顔はぱっと輝いた。彼女は入り口側のベッドにいた。
そして両手を広げてその男に言った。

「あーかーね、あかねなのね」

男は花束を王李花に放った。その手には拳銃が握られていた。
銃声とともに王李花は顔を撃たれて血に塗れて倒れた。
男が茜にも銃口を向けて発砲するのと、茜がベッドから下に落ちるのが殆ど同時だった。
男は何発も茜に発砲した。茜のベッドが自分に向かって飛んで来ても止めなかった。



青布根署の刑事たちは当惑していた。

「俺たちの前に県警が動くなんて異例のことだな?」
「所轄の分からない所で県警独自で捜査していたとしか思えないな。」

よれよれののコートに擦り切れた靴の似たような二人が顔を突き合わせ、タバコを吸っている。


「間の抜けた話だな。管轄内の殺人事件について記者と一緒に発表を聞くなんて」
「しっ。発表が始まるぞ。あれは県警の内海部長じゃあないか?」
「本当だ。一昨年うちの署に来たお偉いさんだ。」


青布根署の記者会見室で内海部長が、書いたものを読み上げていた。

「・・・そういうことで王李花さんはその場で即死、木崎茜さんは警察病院に運ばれて間もなく死亡しました。
犯人は蛇頭の中国人で、現場に倒れているところを逮捕しました。
使われた拳銃はトカレフTT-33です。
何かご質問はありますか?はい、あなた」

「現代日報の青木です。蛇頭のヒットマンは同室だった二人のどちらをターゲットにしたのですか?
また、何故二人とも殺害したのですか?その辺をちょっと。」
「まだ、捜査中ですのでなんとも言えません。ただ今のところは王李花さんとのつながりで捜査しています。二つ目のご質問もまだはっきりは言えませんが、殺害現場に居合わせた者も巻き添えにしてしまうというのは蛇頭のやり口としてはよく知られています。詳しくは今後の捜査で明らかにしたいと思います。他に?はい、あなた。」

「毎日タイムズの小林です。被害者の二人が被弾した弾丸の数と被弾箇所について。
それと犯人が現場で発射した弾丸は何発だったのか教えて頂けないでしょうか?」
「即死した王李花さんは1発。病院搬送後亡くなった木崎茜さんは2発被弾しております。被弾箇所については遺族の心情を考えて発表を控えさせて頂きます。
発射弾丸については、ただいま調査中です。他に。はい、あなた?」

「轟速報の釜石です。現場に犯人が倒れていたということですが、何故そうなっていたのですか?」
「詳しくは申せません。被害者からなんらかの抵抗を受けた結果なのか、それとも犯人が持病を持っていて発作に見舞われたのか、今後の捜査で明らかになって行くものと思われます。ほかになければ・・・あっ、どうぞ」

「犯人についてですが、蛇頭以外に詳しいことはまだ分かっていませんか?
また、背後関係について何か掴んでいることは?」
「お名前は?」
「あ、失礼しました。順風新聞の立花です。もう一つあるんですが、今回の捜査は地元の警察の前に県警本部が乗り出していますが・・」
「すみません。ご質問はここまでにして頂きたいと思います。色々捜査上の機密事項もありますので、これ以上はお答えできません。」

内海部長はそこで強引に会見を終わらせた。


記者たちが帰った後、例の青布根署の刑事二人はタバコをふかしながら喋った。

「記者発表で憶測を随分言ったじゃないか?情報操作の匂いがしないか?」
「一方じゃ、全くノーコメントのもあるし、なんか匂うな今回は」
「ま、我々下っ端のあずかり知らぬことさ、どっちにせよ」

そういうと二人はその場を去った。



高台墓地共同納骨室には火葬場からお骨を入れた箱を花山芳江が運んで来た。
花山太一と新岡長治もいる。
そのすぐ傍に内海部長ともう一人のスーツ姿の男がいた。
光栄高校の北島理事長、魚住一家の4人、柔道部の部員達、漆原克己、室井栄子、大岩郁子、元木京子、野村英一、武井をはじめとする中学時代の番格仲間がここに集まって来た。
誠心塾、風林館、田丸道場の関係者も駆けつけていた。

係員が花山芳江からお骨を受け取ると棚の上に置いた。
参加者は思い思いのまま花束や供物をその周りに供える。
担当係員はちらりと内海部長の方を見てから咳払いをし、話し始めた。

「えー、皆さん。仏様はまだ15歳の少女だったとか。
ご遺体の損傷が激しいため、火葬場でもお別れができなかったかもしれませんが、どうぞ生前のお元気な姿を思い浮かべて、ここでお別れをしてください。
皆さんたちの心の中に故人がいつまでも生き続けていられるよう心をこめて合掌願います。
これから私の拙い経をします。では」

それから、決して謙遜ではない拙い調子はずれのお経を唱える中、関係者は合掌した。
担当者が金属プレートを電動ドライバーで壁に貼り付けた。
そのプレートには「木崎茜」と記されていた。担当者は一礼してから言った。

「では、どうぞ皆さんお引取りください。お骨は後ほど納めさせて頂きます。」

武井が不満そうに声をあげた。

「茜さんをここで納骨しないんですか?ジュンさんのときはしたじゃないですか」

そのとき花山太一が低い声で言った。

「いいんだよ、お嬢さん。なんでもお骨が入り口に固まっていて崩して均さなければならないそうだ。
きれいにしてから納めてもらうんだ。任せよう」
「はい・・そういうことなら」

武井はそれでしぶしぶ納得して引き下がった。



担当者を帰した後、内海部長とスーツ姿の男、それと花山夫妻と新岡長治が残った。
新岡長治は警察幹部を前にしても臆せず質問した。

「県警のお偉いさんの内海さんと、そちらさんは?」
「警察庁の理事官をしている勝俣と言います」
「警察庁というと国家警察じゃあないですか?これはまた大掛かりなことで」

長治の疑問に勝俣というスーツ姿の男が答えた。

「近江兼さんを守るためには我々が動かなければならなかったということです。
あなたたちの戸籍偽造の罪は問いませんが、その代わり分かってますね?」
「はい、木崎茜はここで死にました。
そのお骨も納骨することに立ち会いました。ですから、もうわしらはあの子と会うことはないでしょう。」
「では、この王李花の遺骨は中国の遺族のもとに返します。名札プレートだけはそのままにしておきましょう。そして本物の木崎茜さんの遺骨が西入江町から届いたらここに納めて貰って下さい。」
「一つ良いですか?」

今度は花山太一が内海部長に聞いた。

「何ですか?」
「どうしてわかったんです?茜が本人ではなかったことが?」
「西入江町で歯科医をしていた者が災害前に患者のデータを持って2年間の海外研修に行っていたんですよ。
戻ってから木崎茜さんの歯型と遺骨を照合してわかったんです。」
「そうか、海外研修とは気づかなかった。
けれども縁を切っていたとは言え、遠い親戚の子だから見つけてもらってよかった・・・。
そう考えるべきだろう。」
「では、私達はこれで」

勝俣理事官がそう言って、立ち去ろうとすると立花芳江が呼び止めた。


「待って下さい。お願いがあります。もう茜はこの世に存在しないけど・・」

気丈な立花芳江だが珍しく目を赤くして訴えた。

「そして名前も経歴も全く違う女の子が一人どこか知らない所に現れることになるのでしょうけど。
お願いですから・・今度こそ親しい者たちと別れることがないような、温かい家族に恵まれるようなそんな人生を用意してあげてください」
「努力はしますが、それも本人しだいです。失礼」

立ち去る二人を見送りながら、ハンカチをきつく握り締める花山芳江の手指は真っ白になって震えていた。
花山太一はそんな芳江の肩にそっと手を廻した。
新岡長治は独り言のように言った。

「長かったな。
12年間あの子を見守って来たが、わしら極道が似合わないことをするには長すぎたのかもしれないな。」
「へえ」

返事をする花山太一に新岡長治は静かに言った。

「あの子はなくなった娘さんが連れてきたのかもしれないぜ。後で礼を言っておけよ。で、間下部はどうしている?」
「本当に死んだと思って、酒びたりになっています。」
「そのままにしておけ。本当のことを言ったら日本中探し回るに違いないから」
「へい」

それきり3人は何も語らず歩き始めた。長い一日がゆっくり暮れようとしている。




           (第6部完結。第7部へと続く)

怪力少女・近江兼伝・第6部「さようなら茜」

茜は死んでいなかった。けれども死んだことにしなければいけなかった。ではこの次には茜はどのように生きて行くことになるのか?どんな名前でどんな生き方をしなければいけないのか?第7部を読まれたし!!

怪力少女・近江兼伝・第6部「さようなら茜」

推薦入学でとうとう高校に入学した茜はもう1人の特特待生に出会う。その特特待生とは一体何者か?また彼を狙う退学生のグループとは?茜は何故彼を守らなければならないのか?そして理事長が茜に要求する運動クラブ巡りにどう対処して行ったのか?また退学生たちは魔剣「燕返し」の使い手古谷やバイクギャングなどに茜を倒すように唆す。そして茜はいつの間にか地区グループの「黒土筆」と「蔦漆」の両方から狙われることになる。その一方で堂島興行が放ったヒットマンが茜の命を狙って来て・・・とうとう茜は・・・。さあ、どうなる?

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-25

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