なめくじ
その日、私はとんでもなく腹が立っていた。
理由は忘れた。ただ自分が、感情の制御も満足にできない子供だったのは覚えている。
家を出て、宛もなく歩いた。霧雨がでていて、湿っぽい日だった。
私はどこかの空き地らしきところに入った。それも理由は忘れた。初めから無かった気もする。道路沿い以外の三方をコンクリートの壁で隔てられた場所だった。
壁にはナメクジが所狭しと這っていた。大小問わず、かなりの数だった。
のらりくらりと動くその姿を見て、私は無性に苛立った。なぜ自分を差し置いて、こいつらは干満と這っていられるのか。不公平ではないか。
繰り返し言うが、そのとき、私は子供だった。まるで自分が神にでもなったようでいて、好奇心の働くまま、弱者を弄んで優越感を得ることがごく自然のことのように思っていた。
遅く、抵抗もせず、脆い軟体動物。自称神にとって、それらは怒りを発散させるために最適の道具であった。
今思えば、八つ当たりでしかない。しかし、再三になるが、私は子供だったのだ。天誅だ。自分の行いをそう言う風に正当化した。
次は標的を探した。・・・・・・決めた、こいつだ。周りの大きなナメクジ達よりも、ひときわ大きなそいつに目を付けた私は、手頃な石ころを手に取り、次々に投げてやった。
そしていくつか投げた内のひとつが命中した。反応が楽しみだった。しかし、ナメクジは、つのを少しばかり引っ込めて体を縮こまらせたかと思うと、またすぐに遅々とした歩行を始めた。
それは私をいっそう腹立たせた。神である自分を無視するのか、何様のつもりだ。許さない。もっと恐怖するべきだ。
頭に血が上った私は、何を思ったか、もはや石ころとは呼べない大きさのコンクリート編を両手で抱えて持ってくると、全身を使ってそいつに投げつけた。
岩は鈍い音を立てて地面に落ちた。ナメクジの姿が露わになる。私は何を感じてそれを見ただろうか。期待。不安。或いは、何も考える余裕など無かったかもしれない。
その光景を、私は一生忘れない。
無惨に千切れた胴体。壁を伝う緑の体液。
そして、なおも前へ前へと這い続ける絶え絶えの命・・・・・・。
寸前までの激昂などとうに忘れていた。私は恐ろしくてたまらなかった。
人と違う色をした血が。痛みを感じず、なお生を行使し続ける命が。それを奪おうとした自分の行いが。
私は、とたんに自分がちっぽけな存在であるように思えて来た。如何なる干渉を受けようと、ただ真摯に自分の目的だけを遂行せんとするそれが、とてつもなく尊く、大きく思えた。何が神だ。私は子供だ、幼い子供だった! そのときになって、初めてそう自覚したのだった。
その後、そのナメクジがどうなったか知らない。私は罪から目を背けるように、その場を走り去ってしまった。
それから私は、虫を殺すことが出来なくなった。優しさなどでは決してない。他の何でもない、生きるために生きている命が、何よりも弱く、しかし何よりも強い意志を持つ命が、恐ろしくてたまらないのである。
なめくじ