怪力少女・近江兼伝・第5部「風雲の記」
この小説は表題にあるように、全11部からなる連載小説の第5部になります。どうか最初から読むようにしてください。
主人公はとうとう中学3年生になります。そして修学旅行に行くことになりますが、そこでも大きなトラブルが待っていました。こういうことは実際にあることだとだけ言っておきます。
3年生はクラス替えはなかったが、どういう訳か茜のクラスだけ担任が綿谷先生から中島先生に代わった。
中島先生は生徒指導の先生で、制服事件のときに茜たちに理解を示した教師だった。
茜としては進路も決めてくれた綿谷先生に続けて貰いたかったが、中島先生も信頼できる先生なので、そのまま受け入れたという感じだ。
番格の格付けは早速開かれ、茜も招待された。
屋上に候補者を集めたのは新三年の野沢英一だった。
「俺は暫定の代表として総番の代理を務めている。
一応卒業生がいたとき、2年生の中ではトップだったからという理由だ。
男は新一年生に一人候補者がいるので、2年生と戦ってもらう。
女子の方は2年生の中で入れ替わりが起きているので、3年生と対戦してもらう。
3年生には吉本さんしかいない。」
当の吉本は並んでいる9人の2年生女子の顔を見て,溜息をついた。
「頭から順番にやらなくても、大体わかるよ。上から3人は私より強い,多分ね。
4人目の時田が私とやって私が勝っていたけどぎりぎりの勝負だったんで、やってみなきゃわからない。
で、時田とやらせてくれないかな。」
時田と言われた2年生は早速吉本の前に出て来た。
二人は蹴り合いをしたが、なかなか決まらず最後は吉本が時田の首を抱えて、首投げをした。
そのまま倒れた相手の首を決めて、降参させたので、吉本の勝ちになった。
だが、そのすぐ上の鎌内という2年生は、蹴り合いもパンチも吉本より切れが良く、蹴りやパンチを5・6発食らった吉本はダウンして負けた。
「けっ、やっぱり私の言う通りになっちゃったな。」
2年生の上の3人は、影の2番格と言われる長内に鍛えられたらしい。
名前は浅野・山岸・鎌内である。自動的に浅野が女子の総番になった。
男子の10番目の1年生の葛城は9番に挑戦して善戦したが、最後はノックアウトされた。
「くそうっ!木刀があれば絶対負けないのに」
「葛城君これはステゴロで決める序列だから・・・」
野沢はそういって葛城を宥めた。
「野沢さん、長内さんに空手を習ったそうですね」
女子の総番の浅野が野沢に近づいて来た。
「私とあなたのどっちが長内さんの一番弟子に相応しいか決めませんか?」
「いいよ、じゃあまず握手から」
野沢は浅野と握手した途端、手を掴んだままその手を背中に回して一回転した。
浅野の右手は時計方向に捻られたので、浅野は自分の腕の下を潜って捻れを戻した。
けれども、野沢は浅野の手首を両手で持って、逆方向に捻った。
浅野は右手を捻られたまま背中に回されてロックされた。
「野沢さん、卑怯ですよ。これ、空手の技じゃないし」
野沢は背後から浅野の耳元に囁いた。
「そうだよ。だから、君が一番弟子に相応しいのさ。」
「ちゃ・・・ちゃんと勝負してくださいよ!」
「君みたいな可愛い子にキックやパンチをできる訳ないじゃないか」
そして耳の辺りに息を吹きかけた。
「あ・・そ・・そんな」
浅野は野沢から体を離すと顔を真っ赤にして走り去った。
長内はそういう野沢を見て茜に言った。
「野沢さんって、硬派じゃねえし。」
「うん、知ってるよ。だから始末が悪いんだ。長内も誘惑されないように気をつけてね。」
「女に対しては本気でないのは知ってますよ。でも、茜さんには特別かも」
「その口縫ってやろうか」
「いえいえ、とんでもない」
こうして番格の格付けは無事終わった。
そして就学旅行の時期になった。
茜は断ったが花山氏から就学旅行費とそのための準備資金や小遣いが渡された。
間下部からは不思議な物が渡された。
洗面用具入れくらいの黒い袋だ。中には布製のものがきつく畳んで入っている。
「携帯のレインコートなら支給されるって聞いてるよ、ダディ」
「就学旅行で厄介なのは他校とのトラブルだ。こっちが求めなくても向こうで売ってくる喧嘩もある。
けれども喧嘩をすれば問題行動ということで、推薦入学が取り消されることもある。
どうしても、ふりかかる火の粉を払いたいときがきたら、一回だけこれを使え。使ったら処分すること。いいな」
「レインコートでないことは確かだね。何?」
「使う必要がないときは知る必要もないものだ」
中身を見ないまま茜はその黒いバッグを旅行かばんに忍ばせた。
神農町は馬喰(ばくろう)市で有名な町だ。
牛や馬の仲買人を馬喰というが、この町はそういう人たちで溢れ返っている。
神農中学校は3年生だけでも76人で2クラスの小規模校だが、馬喰の子弟が多くその結束力も大きい。
特にこの地域の人間は気が荒く、駆け引きに巧みで、情報に敏感だ。
男も女も幼いころから、馬喰市の喧騒の中で育ってきた。
潮巻温泉ホテルにたまたま修学旅行で一緒になったのは、130名4クラスの中規模校の青布根中と6クラス224名の大規模校の岩浜中、そして76人2クラスの神農中だった。
他校との接触によるトラブルは引率教師たちの神経を尖らせるところだが、その時点では、誰も神農中のことは念頭には置いてなかった。
船乗りや漁師の子弟が多い岩浜中は、昔から徒党を組んで集団による騒乱事件が起きていた所だ。
青布根中の生徒は、彼らに関わらないように強く事前指導されていた。
もともと青布根中の番長組織は個人の腕力の序列を決める為のもので、徒党を組んで戦争ごっこをする向きにはできていない。
また、組織の代表格に当たる者たちはどちらかというと陰番的性格が強く、表立って騒ぐのを嫌う。進路についても大事に考えており、問題を起こして進学に影響を与えるような軽薄さはない。
だから、服装などで目だっている訳でもなく、目をつけられる可能性は極めて低いのだ。
大浴場の使用は岩浜中と神農中に時間で区切って使用されることになっていたが、青布根中は部屋の風呂で間に合わせていた。
予約の順番の関係でそうなってしまったらしい。
3つの中学校は別館の2階3階に分かれて部屋を取ってあり、2階は岩浜中、3階は青布根中と神農中だった。
だが、同じ3階といっても二つの中学校は離れたところに部屋を取ってあり、接触する危険はなかった。
上り下りする階段も別々にあり、エレベーターの使用は禁止されていたので、顔を合わすこともない。
問題は大浴場のある地下1階だ。
そこにはゲームコーナーがあって、自然と足が向き他校との接触が起きやすい。
もちろんゲームコーナーに立ち寄ることは禁止されているが、大浴場に行く用事のついでに足を伸ばすことはできる。
自由時間の夜8時ごろ、大浴場付近で生徒同士のトラブルが起きているという情報があって、茜は野沢に誘われて様子を見に行った。
二人がそこに着いたときには、二つのグループが睨み合っていた。
両方ともジャージ姿で、手には入浴道具を持っていた。青ジャージには「岩浜中」、緑ジャージには「神農中」というロゴがついている。
話の切れ端から判断すると、8時までが神農中の入浴時間なのに、8時前に岩浜中の生徒が入って来たことが原因らしい。
興味深いことは岩浜中の生徒は男子ばかり10名ほどなのに対し、神農中は男女共にいて、その数も7・8人だったのが、どんどん増えて行って20人くらいになって行ったことだ。
8時を過ぎたので入浴しに集まりかけた岩浜中の生徒はグループには加わらずに遠巻きに見ているか、そのまま風呂に入って行こうとした。
けれど、神農中の別部隊が男湯の入り口に立っていて、中に入れさせない。
「お前らの方で15分早く入って来たんだ。15分遅らせて入ってもらう。」
神農中の中心にいた男子はドスの利いた声でそう言った。
それは中学生の声ではなく、すっかり声をつぶした馬喰の親分の声だった。
腕を組んだまま立っているその生徒は、決して大きな体ではなかったが、辺りを威圧する雰囲気を持っていて、他のメンバーも彼を中心に一枚岩で纏まっている様子なのだ。
一方体格も大きい子が目立つ岩浜中の生徒は、雑然とした集まりで中心になる者がいない。
個々ばらばらに対応している感じで、主張もはっきりしない。
岩浜中の一般の生徒は無理やり中に入ろうとする者もいたが、神農中の生徒はその人間に一斉に飛び掛り排除するので、誰も突破できない。
「俺たちには関係ないだろう」
そう言った生徒の声に、神農中のボスは声を荒げた。
「てめえらは、いつもそうなのか?!
迷惑をかけたのが同じ学校の人間なのに、自分には関係ないと言えるのか?!
てめえらも連帯責任だろうが!」
「そうだ!!」「そうだ、恥を知れ!」
ボスの言葉に他のメンバーも間髪を入れずに同調する。
それがパワーとなって周りの生徒たちを威圧する。
「やろう!黙って聞いてれば調子に乗りやがって」
岩浜中の体の大きい生徒がボスに向かって殴りかかってきた。
「押さえろ」
ボスの一言で、神農中の生徒が一斉にその生徒一人を取り押さえた。
女子も一緒になって両手両足を押さえると、その生徒は床に押し付けられた。
「暴力はいけないな。
特に自分の悪いことを誤魔化すために暴力で決着をつけようとするのは、兄さん・・・外道のすることだ。」
「くそ・・」
「兄さん・・・俺は神農中の手越というんだが、兄さんの名前は?」
「岩浜中の五堂だ。こんなことしてただで済むと思うなよ。」
「五堂か。網元の馬鹿息子だな。岩浜中の頭は誰だ?お前じゃないことはすぐわかる。」
「頭は俺だ。」
「じゃあ、お前が一番喧嘩が強いのか?」
「ち・・違う。それなら八巻だ。うちの番長だ。」
「そいつに伝えろ。強いのを集めてかかって来いってな。相手してやるからよ。離してやれ」
その一言で五堂は放された。
「ちょうど15分過ぎた。埃を落としてくるといいや。その汚い面を良く洗うんだな」
手越の言葉に他のメンバーも笑ってそこから引き上げた。
岩浜中の人間はのそのそと風呂場に入り始めた。
それからすぐに手越は茜達の方を指差して、配下に言った。
「連れて来い。」
野沢には男子が3人、茜には女子が二人囲んで、腕を取った。
「逆らわないで・・・」
茜は野沢にそう言うと、大人しく彼らの部屋に連れて行かれた。
茜たちは校名の入った小豆色のジャージを着ていたので、青布根中だということに早くから気づかれていた。
自由時間に地下に来る用事もないことも把握されていた。
「まあ、お茶でも出してやれや」
手越の言葉に女子がお茶を入れて二人の前に音を立てて置いた。
茜はそれを手に取るとうまそうに飲み干した。
「ごちそうさま。ところで私たちになにか?」
手越は茜をじっと見てから、野沢と見比べた。
「俺は手越だが、お前たちの名前を聞いてもいいかい?」
「私は木崎茜。で、こっちは野沢英一さんです。」
「木崎・・・さんかい?お前こんなにたくさんに囲まれて怖くないのかい?」
「私のこと、みんな怖いと思う?それと同じだね」
「青布根中には番格組織があるって聞いたが、あんたはその頭かい?」
茜はいきなりそう言われたので、流石に驚いた。すると野沢が口を開いた。
「この人は番格組織の中に入ってない人だけれど、青布根の代表者みたいな人だよ。
因みに俺は総番になっている。」
「じゃあ、お前たちに宣戦布告すれば戦争ができるんだな」
「できないね。番格組織は個人の力をランク付けする為のもので、他校と戦争するためのものじゃないから」
「ステゴロ・タイマンを希望するなら相手してやってもいいけど、それ以外はお断りですね。」
茜もそう付け加えた。
手越は鼻で笑った。
「信長に負けた武田騎馬軍団みたいなことを言ってやがる。
まあ、いい。戦争したくないっていうんなら、今晩はしないでおこう。
どうせ、青布根中とは明日の客船で一緒になるからな。それまでお預けだ。」
茜は言った。
「今晩しないのは嬉しいけど、明日だってしないよ、戦争なんて。」
「こっちが攻めて行ってから動いたら手遅れになるんじゃないか。用意しておけよ。さあ、お客さんのお帰りだ」
そうやって、茜たちは彼らの部屋から解放された。
3階の二つの学校の中間地点にエレベーターホールがあり、そこのベンチに中島先生が座って待っていて二人を出迎えた。
「神農中の部屋から出てきたようだけど、なにかトラブルでも?」
茜はにっこり笑ってお辞儀した。
「あ、全然大丈夫です。特に今夜は何もありません。うちの学校は大丈夫です。」
「そうかい。それはよかった。じゃあ、今夜はその言葉を信じてぐっすり寝よう」
「その方が良いです。ゆっくり休んで明日に備えて下さい。おやすみなさい」
「おやすみ」
「手越の奴、人数をかなり集めて戦争する積もりだな。」
野沢が茜に漏らした。
「もしかすると、獲物も使うかもしれないね。それと・・・」
茜も気になっていたことを口にした。
「あの手越って男、私のことをどこまで見抜いたんだろう」
「あ、それは大丈夫。茜さんがあんまり堂々としているから、お前はそんなに偉いのかとカマをかけたんだよ。
多分美貌で男に君臨する女王様タイプだと思ったらしい。僕が常に茜さんをたてる素振りを見せていたから」
「野沢さんに対してはどうだった?」
「戸惑っていたよ。そう見せないようにしてたけどね。なかなか鋭い男で、俺の目の奥にある英子を感じ取ったかもしれない。もっと言うと、茜さんには男として興味を持っていたみたいだね。
それを他の信奉者の女子が感じ取って、あんなお茶の出し方になった。」
「焼き餅ってこと?ナンパの人って観察力が半端でないね」
「茜さんがざっくりすぎるんですよ。もっともそこが魅力だけど」
「ああ、やめて。そういうこと聞きたくないし」
「はいはい。で、どうします?あの連中」
「今夜の様子を見てからで良いと思うけど、何人かに見張りをしてもらおうよ。」
「そうします」
そうして、その晩は神農中の動きを密かに監視する特別班が作られた。
就寝時刻がとうに過ぎた1時頃。茜の部屋に連絡が入った。
吉本が部屋の入り口で茜に耳打ちした。
「神農中が岩浜中を潰したそうですよ」
少し時間が戻って手越の部屋。
「お前たち、今の二人どう思う?」
「顔立ちが良すぎて気に食わないね」
茜にお茶を出した女が口を尖らせた。
「そういうことじゃなくて、妙に自信に溢れていたな。ステゴロ・タイマンじゃ絶対負けないぞみたいな」
「ていうか武器を持って大勢でかかって来ないでってことかも」
女がそう言って笑っても、手越は笑わなかった。
「あの野沢という奴が余程強いか・・・それで安心してあんな態度だったのか。
分からん女だ。それにあの男・・野沢だが、俺を見透かすような目をしやがって。気味の悪い奴だ。」
「どっちにしろ、手越さん。きょうは岩浜の奴らを・・・」
「そうだ。ちょっとこのホテルの略図を見てみろ。」
それから手越は兵隊の配置と戦場の設定をした。
風呂からあがった八巻は取り巻きの連中と一緒に3階のエレベーターに向かった。
階段を使わなければならないのだが、鼻からそんな規則を守る積もりはない。
2階のドアが開くと、そこに神農中の生徒が待ち構えていた。
2階は岩浜中の専用階だが、エレベーターホールには近づかないことになっているので、逆用されたのだ。
「おっと、八巻さんたち降りないで5階まで付き合ってくれないかい?」
人数はほぼ同数だし、腕に覚えのある八巻はそのまま5階に行くことに同意した。
5階につくと、改装中の札があり、誰もいない。
ちょっと広いホールまで歩くと、神農中の生徒は手を上げた。
「出て来い」
すると、倍の数の神農中の生徒たちが集まってきて、八巻たちを囲んだ。
「貴様ら汚えぞ」
しばらくしてから五堂の部屋に神農中の女子たちが3人で迎えに来た。
「あんたたちの仲間の八巻ってのが呼んでるよ。うちらの男たちと戦争するから強いの連れて来いってさ。」
「場所はどこだ」
「言えないね。案内するからついてきな。」
「おう、坂崎たちを呼んで来い。戦争だとよ」
五堂はたっぷり10人ほど集めると、案内されるまま、エレベーターで5階まで来た。
ドアが開くと5人くらいの女子が待っていて、さらに案内する。
「こっちだよ。始めるのを待ってるから。」
曲がり角を曲がって広い場所に出ると男だけでも20人以上待ち構えている。
どこにも八巻の姿はない。
「おい、引き返せ。はめられた」
ところが後ろには女子8人の他にいつの間にか男が10人くらい通路を塞いでいる。
神農中のほぼ半数の生徒が5階に集まっていたのだ。
岩浜中の男たちは一人につき3人がかりくらいで押さえられ、腹を殴るなどされた。
「顔はやめておけよ。いい男が台無しになる。謝って降参したら許してやれ」
五堂には敬意を払って5人くらいの人間が攻撃を加えていた。
気の強い女もいて、顔に平手打ちをしていた。
「顔はやめろと言ってるだろう。」
手越は紙を持ってきた。
「ここに降伏状を書いてもらう。
お前が頭だからな。
番長の八巻の署名も拇印も押してあるから、お前が連名で書けば負けを認めたことになる。」
署名を書かせると、今度は賠償金についての交渉が始まった。
「お前たちは敗戦校だから、自分の生徒たちから賠償金を集めろ。
まだ手をつけてないジュースやお菓子も持って来い。もし,先公たちにばれたら自分たちがしたことにするんだ。俺たちを裏切らないように写真を撮らせてもらう。よし、パンツ一丁になれ。」
女子が撮影班になってパチパチ撮りまくる。
岩浜の男たちは上半身裸にされ、膝間づかされて胸に「負け組」とマジックで書かれて写真を何枚も撮られる。
おまけに住所も聞かれて裏切ったら後で写真を家に送ると脅かされる。
そのやり口は中学生のやり方を遥かに超えた悪質なものだった。
密かに岩浜中の部屋に集金係が回って一人500円以上のカンパとお菓子やジュースの拠出が行われ、それが5階の手越たちのもとに全て集まったのは1時過ぎだった。
1階ホールで知り合った岩浜中の女子と仲良くなった野沢は、これらの詳しい様子を聞きだして番格たちに報告した。
「今朝は早めに神農中は出発するが、うちらは男女合わせて6人しか戦える人間がいない。
向こうは5倍以上の兵隊がいるからまともにやっても勝ち目はない。」
「なんで、あんな小さい学校なのに兵隊が多いのだ?」
「俺たちは生徒の中のごく一部だけれど、あいつらはほぼ全員が突っ張りで兵隊になるんだ。
学校が小さいからと油断して岩浜はやられたらしい。」
今年の番格は2年生が多いため、3年生は茜と吉本で女子2人、野沢以下4人の男子で計6人なのだ。
「向こうの女は茜さんを気に入らないみたいだから、女子もターゲットにする積りだと思う。
だから吉本も危ない。」
「男みたいに上半身裸にされて写真を撮られるのかい?ひえーっ、お嫁に行けなくなるよ。」
吉本はおどけながらも半泣きになった。
「まさかそんことまでしないと思うけど、顔にかかれそうだね。ウンチマークとか」
茜はけろりとそう言ってから、仲間を見渡した。
「私に任せて。絶対挑発に乗らないこと。非戦を貫いてね」
茜はそれから考え込んだ。
ホテルでは早々と別れたはずの神農中とは大型遊覧客船「ゆったり号」で再び顔を合わせることになった。
甲板からの景色は眺めの良いものだが、誰も甲板に出たがらない。
なぜかというと、木刀を持った神農中の生徒が要所要所に配置されて見張っているからだ。
教師たちも気味悪がって近づけない。
見張りはトイレの出入り口にもいて、怖くて一人では行けない状態だ。
青布根中の女教師が3人組の女子に問いただした。
「ここで何をしているの?」
だが、彼女らはただ立ち話してるだけだと言い、木刀のことを聞かれてもお土産に買ったものを持っているだけだと答えた。
その後で恐ろしい目つきで睨んで、
「よその学校の先公が余計な口出すんじゃねえ」
と啖呵を切られたそうだ。
実際彼らはそこに立っているだけで特に何をするわけでもないが、青布根中の生徒が近づくと凶暴な目つきで睨んだり、行く手にトンッと足を出して見せたりして、微妙なプレッシャーをかけてくるのだ。
手越から迎えが来たので、野沢と茜は再び彼らに会うことにした。
甲板の一角で二人は彼らと対面した。
「どうだ。降伏するか?それとも戦うか?どっちかに決めろ。
降伏するなら兵隊は引き上げて自由に見学させてやる。戦うなら兵隊をここに呼べ。」
手越の言葉に茜は明るく答えた。
「じゃあ、こっちも言うよ。
木刀を今すぐしまっておかないとうちの学校の懲罰委員があなたたちを攻撃することになってるんだけどそれでもいい?」
「なんだその懲罰委員っていうのは?何人いるんだ」
そのとき野沢は言葉を添えた。
「懲罰委員というのは人数にすれば100人くらいに相当するかな」
「はは・・・。馬鹿を言うな。
お前たちの学校の生徒たちの間抜け面を見ても、兵隊が100人も集まるわけがない。せいぜい一桁どまりだろう。」
手越の眼力の鋭さに感心しながら、茜はそれを顔に出さずに続けた。
「今からすぐにでも武装解除しないと罰が下るから、その積りでね。野沢さん、もう行こう。」
茜はそこから立ち去ろうとした。
「待て!」
手越は茜を睨みながら物凄い形相で笑った。
「お姫様でいられるのも今のうちだ。その皮を剥いてやるから楽しみにしてろよ」
それには答えずに茜はにこっと笑うと甲板を後にした。
青布根中の船室に戻ったとき、ちょうど中島先生が点呼をしていた。
「これから荷物の整理と点検を行うので、外に出ないように」
茜は中島先生に耳打ちした。
「先生、体調が悪くてトイレに行きたいのですが」
「分かった。一人で大丈夫かな?」
「ちょっと怖い人たちがいるので、野沢君についてってもらいます。」
中島先生は茜が「怖い」と言ったので少し笑いかけたが、すぐ真顔に戻り頷いた。
「そうだね。ついてってもらいなさい。」
中島先生は、茜が小さい黒いバッグを荷物から出して手にしたのを見た。
(生理用品とか入れているんだろうが、ずいぶん地味な色だな)
そう思ったがすぐそのことは忘れた。
野沢は女子トイレの前で陣取っている神農中の女子三人に言った。
「君らの親分の手越というのが見張りをやめさせているよ。聞いてないの?」
三人は慌てて甲板の方に様子を見に行った。
野沢は茜に目で合図をすると、自分は船室に戻って行った。
茜は個室にはいると、間下部からもらった黒い小バッグを開けてみた。
「うわー、なんだこれ。恥ずかしいな。」
中に入っていたのは黒猫の顔をした目だし帽で耳もついていて目と口が開いている。
そして薄い黒い生地でできた上下の衣装もあった。靴の上から被せる靴下カバーのような物も入っていた。
黒いズボンにはお尻に尻尾までついている。
つまり黒猫スタイルの仮装コスプレグッズだったのだ。
急いで着替えると用意していた布バッグに制服を入れて掃除用具入れに隠した。
茜は素早く動いた。甲板以外の船内に配置されている見張りは6箇所だ。
この女子トイレに3人。少し離れた男子トイレに男3人。
反対側のトイレ2箇所にも3人ずつ。
甲板に通じる出口2箇所に3人ずつの計18人だが、そのうちの女子3名は今甲板に行った。
彼女らが野沢の偽情報に気づいて、手越たちが動くまでには3分くらいしかないだろう。
男子トイレに走って行った茜は、木刀を肩に担いだ男子が自分に気づいたのを見た。
一人は横向きで木刀を構えて素振りをしていた。もう一人は向こうを見ていた。
あと3mという距離になったときに、茜はジャンプして自分に気づいている男に向かって両手を伸ばした。
正面の男は、黒猫のコスチュームを着た人間が空中を飛んで来て両手を差し伸べている・・そう思ったに違いない。
茜は左手で相手の右手の木刀を掴んで、右手で相手の喉を掴んだ。
そのまま相手は仰向けに倒れこみ、向こうを向いていた男の背中にぶつかった。
ぶつけられた男は前のめりになって膝をついた。
そのときに持っていた木刀を床に落とした。
横で素振りをしていた男は驚いて振り返る。
茜は喉を掴んだ男の頭を軽く床にトンッと打ちつける。
その直後素振りの男が振り上げた木刀を打ち下ろしてきたが、その前に茜は男の片足を掴んでひょいと持ち上げる。
男は仰向けに転倒して床に体を強く打った。
膝をついている男は体をおこそうとしたが背後から茜が後頭部を平手で叩いた。
その間3秒くらいだった。
茜は船尾側から甲板に出る出口に行き、3人の男子が見張りをしているところに近づいた。
「なんだ、こいつは?」「なにかのパーティか?」
茜はフラリと出された木刀の先を掴むと彼らのうちの二人の手から引っこ抜いた。
奪った木刀で額にポコンポコンと面を打つと、打たれた二人はそのまま倒れた。
残った一人が奇声をあげて打ちかかってきたが、木刀で払うと、相手の木刀が飛ばされて天井に刺さった。
3人目も脳天に一撃を受けて気絶した。6秒くらいかかった。
あまり早くすると頭を割ってしまうから、加減するのに手間取ったのである。
茜は反対側のトイレに向かった。つまり船尾から船首側に走って行った。
茜は戦闘時間よりも移動時間の方が時間がかかると思いながら走った。
途中二人連れの女子生徒とすれ違ったが、妙なコスプレに顔を見合わせて笑っていたりした。
こっちのトイレは男女のトイレが隣り合わせなので、男女6人が木刀を構えて見張っている。
トイレについた時、女子3人が声を上げた。
「あら、黒猫のコスプレよ。なに?」
茜は男子3人に近づいた。
右二人の木刀を掴むとひったくって、左手に持った木刀で左側の男の木刀を叩き落した。
そして木刀を持ったままの拳で右二人の鳩尾をポンポンと突いた。
左の男は左足の回し蹴りでチョンとお腹を蹴った。
それだけで3人は倒れた。2秒くらいで終わった。
「な・・なに。こいつ」
3人の女子たちは木刀を振り回し始めた。
だが、腰が引けていた。茜は両手の木刀でパパパーンと3人の木刀を叩き飛ばした。
逃げようとする3人のうち2人を頭を掴んで鉢合わせにし、残りの一人の頭を両手で挟むようにしてパーンと打ち付けた。4秒で終わった。
船首の方から甲板に出る出口に向かうと男子が3人見張っていた。
茜が近づいてもおしゃべりをして気がつかないので、顔の前でパチンと手を叩いた。
音に驚いて振り返った3人に顔面に掌底突きを食らわせて3秒で倒した。
甲板ではちょうど船尾の女子トイレにいた3人が、偽情報を確かめに行って手越達と会っているところだった。
「なに?青布根中の男がそんなことを言ったって?なに企んでいやがる?」
そのとき手越は船首の出口から黒ずくめの人物が飛び出て来るのを見た。
両手に木刀を持って近くにいた5人組に向かって襲い掛かって行くところだ。
「おーい!襲撃だ!やっつけろ!!」
手越は声を絞り出して張り叫んだ。
黒い人物は二刀流を使ってバッシバッシと音を立てながら、味方の木刀を弾き飛ばしている。
弾き飛ばされた者は、木刀を握った手が痺れたらしく押さえている。
実際木刀そのものに激しい衝撃が伝わるらしく、一回合わせただけで木刀から手を離している。
弾き飛ばされた木刀は、周りにビュンビュン飛んで行くので、危なくて近寄れないほどである。
また5人を相手にしているのに、決して囲まれることがない動きである。
横に動いて後ろに回るようにしても、そういう人間から襲われる。
「みんなー、あそこに集まれー!!あいつを倒せ!みんなでかかれ!!」
手越も叫びながら、戦闘場所に走って行く。
「きゃーっ!!」「危ねー!!」
近づこうとする者は激しい勢いで木刀を叩かれる。
木刀はとんでもない方向に飛ぶので、むやみやたらに近づけない。
茜は甲板に出て最初の5人を襲ったときわかったことがある。
甲板では少し強めに木刀を弾いた。
その結果、相手は手を傷めるかして戦闘意欲を失うことがわかったのだ。
木刀を弾かれたときの強い力で生身の体を叩かれたらどうなるか、そういう恐怖がたった一回の衝撃で十分わかるらしいのだ。
だから、それ以上の攻撃は加えなかった。
また、遠巻きにその様子を見ている者も木刀を持っていない者に攻撃しないことがわかると、自分から木刀を投げ捨てる者が続出した。
茜は木刀を構えている5人くらいのかたまりに近づき、両手の木刀を振り回して見せた。
そのとき、空気を切る音がビュンビュンと唸らせ、バシーッと一人の木刀を弾き飛ばして見せた。
木刀は空中高く舞い上がり、海の上に落ちて行った。
これだけで他の4人は木刀を捨てた。
もう手越以外は木刀を手にしている者はいなくなっていた。
茜はゆっくり手越の方に歩いて行った。
3mくらいまで近づくと、茜は木刀を捨てて片手の掌を上にしてかかって来いと手招きした。
手越は一瞬躊躇ったがすぐに木刀を振り上げて突進して来た。
茜はひょいと体をかわして木刀を掴み相手の手からもぎ取った。
カランカランと甲板の床の上を木刀は転がり、茜は手越の懐に飛び込むと肘打ちで前方5mほどに弾き飛ばした。
宙を飛んでから着地するとき床に背中を強く打ち付けた手越は起き上がることができなかった。
茜は周りで震えながら見ている神農中の生徒をそのままにして船内に戻った。
見張りのいない女子トイレに入って着替えをすませると、黒猫のコスプレ衣装は処分した。
制服を着て、髪を梳かしてから船室に戻ると神農中の方で大騒ぎになっていた。
向こうの学校の教師が中島先生に抗議しに来た。
「お宅の生徒がうちの生徒たちを襲って船内で十数人が倒れているんです。」
中島先生は相手の教師に同調するように大きく頷いて言った。
「それは大変です。どんな生徒ですか?何人くらいでしたか?」
そのうちに甲板から神農中の生徒たちがどんどん戻って来て、手越も肩を支えられながら戻って来た。
違う教師がまた来て、中島先生に言った。
「黒猫のコスプレを着た全身真っ黒な人間です。その人間が一人で大暴れしたそうです。
うちの手越という生徒が怪我をしてます。」
「で、どうしてうちの生徒だと?」
「それは、この船には青布根中さんしか他にいないじゃないですか?」
「でもうちの生徒は20分前から荷物整理と点検でここから出ていないんですが、トイレに行ってた女の子はいますけど」
「・・・・・」
「学校は確かにうちと神農さんだけですが、僅かながら一般客もいるようですし、うちの生徒がたった一人でそんなことをするというのは現実的ではない気がしますが」
「懲罰委員をやっている子っていますか?」
「はて?そんなのは初耳だけれど、どこから聞いたのですか?」
茜は中島先生の袖を引いて耳打ちした。
中島先生はにこにこしながら頷いて、それからまた相手の教師に言った。
「うちの生徒がお宅の生徒にはったりで言った言葉らしいですな。
お宅の生徒があちこちで木刀を持ってうちの生徒を怖がらせていたものだから、つい口から出任せで言った言葉らしいですよ。
あ、トイレに行っていたのはこの女の子ですが、体調が悪くてずっとトイレに入っていたそうです。
この子しかここから抜けてませんから、うちの生徒が犯人だとするとこの子が犯人ということになりますが、果たしてそういうことになりますか?」
二人の教師は茜を見た。
155cmくらいのほっそりした女の子が丸い目を見開いて二人を見ている。
形の良い眉が不安そうに寄って、長い睫毛がときどき上下に震えている。
とても木刀を持った十数人を短時間で倒した犯人とは思えない。
「いえ、こっちの勘違いかもしれません。うちの生徒の態度が一般客の反感を買っておきたことかもしれません。考えてみれば子供のできることじゃありませんしね。いや、どうも失礼致しました。」
トラブルはそれで終わった。
船を降りてから、中島先生は茜に聞いた。
「木島さん、黒猫のコスチューム持っていますか?」
「いえ、持っていませんが・・」
「というかそういうものを、修学旅行に持って来るということがまずありえないことだよね」
「はい。修学旅行はコスプレ大会ではないので・・」
「かといって、旅行中買い物をする場所でもそんな物は売ってなかったし」
「はい。木刀なら売っていたらしいですが、どこの売り場も売り切れになっていました。」
「今君の荷物を検査しても当然出て来ないだろうね」
「はい、初めからそんなもの持ってきていないので」
「となると矢張りうちの学校は関係ないな。
ところで岩浜中の先生から聞いたことだが、神農中のことを相手の教育委員会に報告するそうだ。
そうなると集団による、暴行と恐喝事件を見過ごした管理責任が問われるらしいよ。」
「そうなんですか。子供の喧嘩も度が過ぎると大変なことになりそうですね」
中島先生は静かに微笑むと、茜の頭をとんとんと撫でた。
「くそっ、あいつだ。あの女だ。とても信じられないことだが、あいつだったんだ」
ホテルに着いた神農中の手越は悔しがった。
手越の部屋には部屋に割り当てられた生徒以外は誰もいない。
同室の男子の一人が恐る恐る手越に尋ねた。
「今度は広国第1中というのが同じホテルだけど、また戦争するのかい?
もうみんな怖がって誰もやりたがらないと思うけど」
「うるさい。もうその話はするな」
背中いっぱいに湿布を貼って寝込んでいる手越は寝返りをうって背中を向けた。
首都中心部にある格闘技の殿堂バトル・アリーナ「修羅堂」では、特設リング上で一人の女子レスラーがマイクを握っていた。
「般若ジャパンの鬼子母神、よーく聞けえー。
WHAトリオタッグタイトルは俺たちが頂くうー。
地獄の三姉妹は地獄を見ることになるだろーう。
もうお前たちの時代は終わった。
真の悪役レスラーは悪魔協会のゴルゴン三姉妹だということを分からせてやるー。」
メインイベントの試合を終えて、花道を帰りかけた地獄の三姉妹が足を止めて振り返る。
悪魔協会のゴルゴン三姉妹とのタイトルマッチの試合を予告するためのパーフォーマンスだが、できるだけ本気っぽくやるという打ち合わせだった。
リング上では最近注目を浴びてきた、ステンノー桂・エウリュアレ紅葉・メデユーサ桜のゴルゴン三姉妹が派手なガウンを着て強面ポーズを作っている。
マイクを握っているのは長女役のステンノー桂だ。
地獄の三姉妹がこの後リングに戻って舌戦して、彼女らの挑戦を受けることを宣言するという運びだった。
リング下でスタッフからマイクを受け取った鬼子母神は他の二姉妹と共に軽やかにリングに上がると応酬した。
「試合が終わったリングで誰かが騒いでいるかと思えば、
悪魔協会とかいう団体で俺たちの真似をしているゴルゴン三姉妹とかいう新米レスラーかい。
はっきり言って俺たちに挑戦するなんて10年早いよ。顔洗って出直して来な。」
「馬鹿野郎!10年も待っていたら、お前たちはよぼよぼの婆あじゃあねえか。
まだ体が動けるうちに相手になってやるから感謝しな!」
「お前たち死にたいのか?三人とも舌の噛みそうなご大層な名前つけやがって、はったりだけじゃあタイトルは取れないぞ。かかってくるなら、入院覚悟で来るんだな。それでもいいなら相手になってやるよ」
「決まったな。確かに俺たちの挑戦を受けるって言ったな。これでお前たちの引退は決まったも同然だ。」
「御託はいらねえから、さっさと消えろ。目障りだ。」
鬼子母神がステンノー桂の肩を軽く押した。
「何すんだよ」
ステンノー桂が鬼子母神の肩を押し返す。
ここで6人が取っ組み合いをしようとするところへ、お互いのスタッフが止めに入る算段だった。
実際スタッフがタイミングよくリングに駆け上がって割って入ってきた。
そのとき、一人の体格の良い男が牛鬼に向かってラリアート攻撃をした。
その男は筋肉ゴリラのような大男で鬼子母神たちがスマートに見えたから、かなりの体格差だといえる。
ふらついた牛鬼をその男は担ぎ上げてロープ最上段からリング下に放り投げた。
そんな打ち合わせはしていないので、鬼子母神は怒り狂った。
「てめえ。何しやがる。」
男にかかって行った鬼子母神は、いきなり喉をチョップで打たれて仰向けに倒れる。
男は次に虎夜叉に掴みかかると、膝蹴りで腹を蹴った。
リングに倒れた二人を横目で見て笑いながら、男はマイクを取ってガッツポーズをした。
「俺は悪魔協会のアモン鈴木だ。
こんな弱い奴らはゴルゴン三姉妹の敵じゃない。タイトルマッチはこいつらの血で染めてやる。
楽しみにするんだ。」
そういうとアモン鈴木はマイクで倒れている鬼子母神の頭を数発殴った。
止めに入ったスタッフも殴られて3人ほど倒れた。
その後、悪魔協会側のレスラーやスタッフはリングを降りて花道を意気揚々と歩いて行った。
鬼子母神の額から血が流れて顔が赤く染まった。
そしてスタッフに助けられて起き上がると、自分を殴って凹んだマイクを持った。
「アモン鈴木、お前がセコンドについて今みたいに手を出す積りか。
言っておくが本番で手を出したら火傷することになるぜ。」
するとリング下が騒がしくなった。
「大変です。牛鬼さんが・・・」
スタッフが蒼ざめて、鬼子母神に報告した。
夏の真っ盛りうだるような暑さだった。
バトルアリーナ「修羅堂」の中はクーラーが利いていたが、別な意味での熱気が会場に満ちていた。
不気味な音楽が鳴り響き、点滅するフラッシュライトに照らされてWHAトリオタッグタイトルに挑戦する、ゴルゴン三姉妹が登場した。
ステンノー桂は桂の葉の模様のガウン、エウリュアレ紅葉は紅葉の、メデユーサ桜は桜の模様のガウンを着て花道を降りて来た。
そして彼女らの背後に悪魔の黒い衣装を着た筋肉ゴリラのアモン鈴木が控えていた。
音楽が変わるとロックのリズムに合わせてチャンピオンの地獄の三姉妹がやって来た。
先頭の鬼子母神は左の肩に小柄な覆面レスラーを乗せていた。
レスラーにしては体が細く小さい、まるで少女のような体形である。
二番目に虎夜叉、そして最後に現れた牛鬼は左肩にサポーターをつけていた。
三人とも腰にはチャンピオンベルトをつけていた。
ガウンはお揃いの「般若ジャパン」のロゴが入ったものだった。
リングアナウンサーの呼び出しも終わり、チャンピオンベルトの返還やレフリーの説明も済んでそれぞれのコーナーにレスラーたちが戻りかけたとき、挑戦者側のセコンドであるアモン鈴木が地獄の三姉妹たちの背中に向かって襲い掛かった。
そのとき、マスクをした小柄なレスラーがジャンプしてアモン鈴木の首に両足を挟むようにして飛びついた。
まさに驚異的なジャンプ力である。
そして、パパパーンとアモン鈴木の頭部を数度叩くと、足で首を挟めたまま仰向けにのけぞりブリッジのようになると、アモンの腰を掴み体を伸ばした。
アモンは首を前方に引っ張られて前のめりになり、覆面レスラーは足を外して床に足をつけると、アモンの腰を持ち上げた。
小柄なレスラーは自分の体の何倍も重いアモンの体をうつぶせのまま持ち上げてロープ際まで走って行った。恐るべき怪力である。
そこから暴れるアモンをものともせず、覆面レスラーはなんとロープ最上段を越えて彼を放り投げたのだ。
すぐさま覆面レスラーは自分も軽々と最上段を飛び越えるとリング下に飛び降りて行った。
リング下では覆面レスラーが起き上がろうとするアモンを背後からスリーパーホールドをかけて落としていた。
それが終わるとリング下を回ってチャンピオン側のエプロンに戻って行った。
リング上ではゴングがなる前に鬼子母神からメッセージが送られた。
マイクを握った鬼子母神はゴルゴン三姉妹と会場に向かって説明した。
「ゴルゴン三姉妹、それに会場のみんな。今アモン鈴木がセコンドの立場を忘れて我々を攻撃しようとしたのを、この可愛い覆面レスラーが阻止したのを見たと思う。彼女の名前はプリンセスヘル。私たちのボディ・ガードだ。
今回のタイトル戦を邪魔して汚そうとする奴らは、誰であろうとこの小さな巨人プリンセスヘルがお仕置きをすることになっている。
レスラーのお前たちには手を出さないが、お前たちが彼女に手を出したらただではすまない。
それだけは覚えておいた方がいい。
体は小さいが地獄の王女の名前の通りとてつもなく強い。
できれば彼女が試合が終わるまで動く必要がないことをお前たちのために祈ってやる。
お前たちが実力だけで俺たちに敵わないと思って呼んだ応援もなんの役にも立たないことがこれでわかったろう。
無駄な希望は捨てて、死ぬ気でかかって来い。」
会場は沸いた。
この間の挑戦宣言でアモン鈴木の乱入によって、牛鬼が肩を怪我して、鬼子母神が血まみれになった。
今回もアモンの妨害が予想されていたために、下手をするとタイトルマッチは途中で試合中止になるのではないかという恐れもあったのだ。
だが、強力な用心棒が来て、妨害を排除して試合をさせるという。
しかもその用心棒というのが可憐な少女のような細身の美形であるので、会場の関心は高まった。
ゴングが鳴り、試合が始まった。試合はベテランの地獄の三姉妹が優位のまま進んでいた。
リング下で目を覚ましたアモン鈴木は何かをしようとロープを超えてリングに上がろうとしていた。
プリンセスヘルがその小さな体でロープを揺すると、その振動が反対側のアモンの方にも伝わり、アモンはロープの間でバランスを失いリング下に転落した。
アモンが起き上がるとすでに目の前にプリンセスヘルが立っていた。
実に素早い動きだ。
リング上では牛鬼がメデューサ桜と戦っている。
ゴルゴン側エプロンにいたステンノー桂とエウリュアレ紅葉がアマンに加勢してプリンセスヘルにかかって行った。
観客はリング上よりもリング下の乱闘を見ようと身を乗り出した。
パイプ椅子を両手に掴んだステンノー桂がプリンセスヘルの頭上にぶつける。
だが、頭を横に振ってかわしたヘルはその椅子を片手で奪い取り、水平に振って桂の横腹に打ちつけた。
ボクンと鈍い音がして桂が身を屈めて崩れる。
エウリュアレ紅葉は回し蹴りでプリンセスを襲うが簡単にかわされて、お尻を蹴飛ばされて4mほど飛びアマンの方にぶつかって行った。
アマン鈴木は長テーブルを持ち上げ、プリンセスヘルを叩き潰そうとするが、簡単に受け止められ、逆にテーブルを奪われて3回ほど頭を叩かれる。
3回目にはテーブルが壊れて、アマンも白目をむき出して卒倒する。
プリンセスはそれで自分たちのエプロンに戻ろうとするが、ステンノーがその背後からドロップキックを浴びせる。
だが、どういう訳かプリンスヘルにはわかるらしく、かわされてしまう。
着地する前に桂は体を空中で抱えられ、そのまま向かって来たエウリュアレ紅葉に放り投げられた。二人とも重なるようになって地面に落ちる。
二人はそれ以上プリンセスを追うのをやめて、アモンの介抱をし始めた。
だが、アモンはテーブルが壊れるほど頭を打ったので容易には目を覚まさない。これで二度目の失神である。
その間リング上では牛鬼がメデゥーサを体固めで一本とった。
アモンが三度妨害を企てたのは、鬼子母神がエウリュアレ紅葉を回転エビ固めで決めようとしているのをリングに出て阻止しようとしたときだ。
このときはアモンだけでなくステンノー桂やメデューサ桜も飛び出して、鬼子母神をキックしようとした。
ステンノー桂には虎夜叉がメデューサ桜には牛鬼が飛び掛り妨害を阻止した。
弾丸のようにリングに飛び出したプリンセスヘルはカウンター気味にアモンのボデイに肘打ちを入れた。
ものすごい音がしてアモンの体が空中を飛んでコーナーポストにぶつかり、その後リングのマットにベタンと倒れた。
アモンはうつぶせに倒れたまま動かず、スタッフによって場外に運ばれて行った。
タイトル戦は防衛に成功し、鬼子母神は再びプリンセスヘルを肩に担ぐと意気揚々と退場して行った。
花道ではプリンセスに触ろうと観客が手を伸ばすが、スタッフががっちり周りをガードして触らせなかった。
プロレス雑誌の記者が般若ジャパンの控え室に押しかけたが地獄の三姉妹のインタビューはできたものの、プリンセスヘルの姿はどこにもなく取材することはできなかった。
角刈りのレスラーと金髪のレスラーが三姉妹の荷物を持ってバスに移動した。
「いいよ。木崎さん、もう出て来ても」
バスの中で角刈りが手に提げていた小さなバッグのファスナーを開けると、体をアルマジロのように丸めていた茜が体を伸ばして出て来た。
通常の、茜くらいの女の子が入ることは不可能な小さなバッグに入ることができたのは、母親譲りの軟体体質のお陰だ。
般若ジャパンの道場に戻った茜は、今回のボディガード代の入った封筒を受け取った。
鬼子母神は茜の手を両手で握って頭を下げた。
「約束通り、木崎の名前は決して明かさないように気をつけた。だが、もしかすると、あんたが素顔でアイドルのボディガードをしたときのことを覚えている人間がいて、そこから嗅ぎつけられたら困るから、私の方からあのアイドルに頼んでおこう。未成年にあんなことを頼んだとあっては後々問題になると困るからな。
だが、今回はあんたしか頼る人間はいなかったんだ。それはわかってほしい。本当にありがとう。」
「いきなり青布根市に迎えに来たときは驚きましたよ。夏休み中だったから良かったですけど。新聞配達の方は手を回してくれたので助かりました。」
「本当にすまなかった。苦労をかけたね。明日は都内見学も兼ねて面白い所に案内する積りだ。きょうはここの客間に泊まってゆっくり休んでくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
翌日最初に案内されたのはカポエイラという武術の道場だった。
茜は以前映像で見たことのあるブレイクダンスに似ていると思った。
「こういう動きも覚えておけば、木崎の場合何かの役に立つんじゃないかと思ってね。」
鬼子母神は演武を見入る茜に話しかけた。
「そうですね。私の場合手の動きが殆どで、足で攻撃したことがあまりないから」
「木崎の場合、足で地面を踏ん張って、その力を手に伝えることで体重差を克服しているからね。だから、ハイキックは使わないよね。」
「そうですね。ハイキックはウェイトのある相手だと撥ね返されてしまいますから。下から突き上げる場合は別ですが、それなら掌底で間に合うし。」
「でも、どうだろう。少しくらいの体重差なら回転とスピードで補えるんじゃないかな。ちょっと待っててくれないか。基本的な動きを伝授してもらえるように話をつけてくるから。」
鬼子母神はブラジル人のインストラクターに頼んで茜にコーチしてもらえるように手配していた。
「問題は目の見る方向。周りにぶつからないように足を振り回す。距離のとり方も重要。
予定してないのに、ぶつかるのはノーグッドだが、狙ったものはヒットさせなければ、ただのダンスになる。
だからいつも目で見ている。自分の足がどう動くか目を離せない。わかるか」
インストラクターはほんの10分ほど教えただけだが、茜はわりと覚えが早かった。
基本的なダンスに似た足の運び方とヘッドスピンに似た足の回転などはすぐできるようになった。
「まるで前からやっていたように上手だ。だが、問題はコントロールすること、わかるか?
これに触らないようにやってみろ」
スポンジ製の長くて太い棒をインストラクターは持つと、茜の間合いの中に突き出した。
そしてそれをゆっくりと上下左右動かした。
「間違って蹴っても柔らかいから大丈夫。これをできる人間は滅多にいない。やってみろ。」
茜は猛スピードで足を回転した。片手側転から逆立ちのスピン。
逆立ちの回し蹴りのような技から回転方向や軸を変えて上から打ち下ろす技、下から顎などを蹴り上げる技、急に相手の側面に移動する動きなど、教えられた以外の動きをしてみせた。
だが、インストラクターが突き出すスポンジ棒にはぎりぎりのところで見切って外していた。
スポンジ棒に蹴りの方向を邪魔されても、滑らかに回転は変えられ動きに不自然な中断はなかった。
「すばらしい!私でもできない。あなた素晴らしい。達人の動きができる。
それに体がとても柔らかいから逆立ちの姿勢と立ち姿勢が簡単に変化する。
では、今度は当ててもらう。テニスボールを放るから、ヒットしてほしい。
これはとても難しい。距離が届かないのもあるから、そのときあなたが近づくこと。
これは10個投げて1個当たってもグッドだ。では始める。」
インストラクターは軟式テニスボールを放った。
間合いのぎりぎりのところが、最も蹴りやすいのは、野球の打球と同じだろう。
一度体の近くに来てしまったら、近すぎてヒットできない。
だからそうなる前にキックすることになるので、非常に難しいと言える。
だが、茜は空中に飛来するものを手で掴むことに慣れていたので、その感覚を思い出しながら足を使った。
最初外れたがそのうち連続してヒットするようになった。
一度コツを覚えると一度に2個放ってもそのうちの一個は必ずヒットできるようになった。
だが、手と違って足の場合回転の軸や方向を咄嗟に変えることは難しいので、手でピンポン玉を取ったときと同じという訳にはいかなかった。
それでもインストラクターはただただ驚くばかりだった。
「たぶん、今あなたと私試合しても、私こてんぱんだね。」
次に連れて行かれたところはタイ料理の店だった。
だが、料理を食べるためではなく、店主のナイフ技を見せるためだった。
目にも止まらぬ早業という所だが、茜は正直こういうのを見るのは苦手だった。
鬼子母神が茜に耳打ちした。
「木崎がいかに素手の戦いが強くても、ナイフで刺されたりすれば血も出るし、筋も切られる。
私はあんたがボデイガードや用心棒の仕事をするとき、最低ナイフと対決することもあると思ってる。
さすがに銃だったらもうお手上げだが、ナイフだったらなんとか対抗できるように勉強しておいた方がいい。
まあ、刺されたり切られたりしないようにするにはどうしたらいいか、考えておくのもいいかもしれない。
そういう危険な道を選ばなければそれに越したことはないがな。」
どうも、鬼子母神は茜の戦闘能力を高めるためだけの目的で都内見学を計画したようだった。
「あのう・・普通の女の子の喜びそうな見学場所って組んでないんですか?」
茜の質問に鬼子母神は肩を竦めた。
「それはこの次に行くストリートファイトの後で何か考えよう。」
「ええっ?!」
ロッキー尾崎はもともとはボクサーだった。
日系の2世でアメリカ在住だった。
だが、ボクサーとしては成功できずにアンダーグランドの世界に入ってしまった。
いわゆる非合法のストリートファイトである。
多くの賭け金が動くこの世界では、ギャングなどが八百長を要求することもある。
ただロッキーはボクサーとしても三流だったので期待されず、噛ませ犬的な扱いを受けていた。
もともと彼にはボクサーになる前の喧嘩修行時代があり、ボクシングにはいるきっかけも喧嘩だった。
もとプロボクサーだった男を喧嘩の殴り合いで倒して、名前をあげボクシング関係者に勧誘されたのだった。
だが、殴り合いとボクシングは違う。
ボクシングにはルールがあり、殴り方も制限されている。
そのため、彼は喧嘩の才能をすっかり封じ込めたままボクシングで芽を出さずそのままストリートファイトでも才能を眠らせていたのだった。
目覚めたのは突然のことだった。
殆ど負け試合になりかかっていたある時のこと、相手のパンチでふらふらになりダウンしかかったとき、無意識で出したパンチが相手の顎にあたった。
正面の相手に凭れ掛かるように倒れて行ったとき、体を捻って出した右ストレートが、相手の顎を真下から捕えたのだ。
この奇跡的なパンチで逆転勝利を収めたロッキー尾崎は、これを期に次々と意表を突く攻撃を生み出した。
ボクシングでは禁止されている鉄槌撃ち(握った拳の小指側でハンマーのように打ち据えること)やエルボーなどは勿論のこと、指を開いた状態で相手の顔面を打つ目潰しや耳を両手で挟み撃ちする攻撃など自在に使いこなした。
体にスピンをかけて打つパンチも喧嘩ではよく使っていた。
また、相手の足の甲を踏み砕いたり、向こう脛を蹴ったりする足技も復活させた。
伸びきった相手の膝頭を蹴って、皿を割ってしまうやり方は、実戦の喧嘩で覚えていたことだ。
ストリートファイトは急所攻撃も許される。その他投げ技・絞め技・関節技のほかに、頭部への肘撃ち・膝蹴りもある。
命に関わる荒技が使われるので、廃人になったり障害者になったり死亡することも珍しくない。
ロッキーにはルールに縛られたボクシングでは日の目を見なかったが、皮肉にも日の当たらない地下の世界で花を咲かせることができた。
そして彼はついに連勝チャンピオンとして頂点に登った。
だがどんな強者でもいつかは破れ落ちぶれて捨てられるのが常だ。
幸い、ロッキー尾崎は軽症のまま引退できたのだ。
引退を決意したときからギャングと組んで八百長で負ける試合を続けて三回行なった。
初めの二回は惜しくも負けたという感じで、最後はだらしなく負けたという感じで、すべて勝てる相手だったのにも拘わらずそういう演出をした。
最後の相手は勝利を告げられリングから降りた後控え室で具合を悪くした。
八百長の謝礼は最後のは受け取らずに、ロッキー尾崎は日本に高飛びした。
以来「実戦護身術」などという看板を掲げて、芸能人などを門弟にして金を稼いでいる。
その内容はストリートファイトで覚えた喧嘩術である。
鬼子母神も、またその道場生もそこに通って喧嘩術を覚え、プロレスに使えそうな技を覚えたという。
ロッキー尾崎は郊外の広い敷地に屋敷と道場を構え優雅に暮らしていたが、今は客間のモニター画面に注目している。
すぐそばには鬼子母神が座っていて、同じように画面を見入っている。
「お前はオレンジジュースが嫌いだそうだな」
ロッキー尾崎がそういうと、鬼子母神は頷いた。
「あの甘ったるい味が嫌なんです。」
「だが、家の庭園に数千匹いるという虻は、あの甘い香りが大好きでな?」
モニター画面には畳敷きの大広間に一人だけポツンと座っている少女が映っている。
少女の前には飲みかけのオレンジジュースが置かれていた。
少女は座ったまま素早く空中で両手を振り回しては床に下ろす動作を先ほどから繰り返している。
「なにか盛んに空気を掴んでいるような動きですね。」
「なにか掴んで、畳の上に並べているようだ。もう少し拡大してみよう」
画面は少女のすぐ前の畳を大写しにした。
そこにはきれいに並べられた虻の死骸が10列くらい映っていた。
「実はわざと甘い味のオレンジジュースを出したのだ。
蜂蜜を加えてあるから、くど過ぎて一口しか飲まなかったろう。
余っているジュースの匂いに惹かれて、庭中の虻どもが群がってきている。
それにしても100匹近くも素手で殺すとは恐ろしい子だ。」
「そろそろ迎えに行って来ます。もう我々がカメラで観察していることに気づいていると思いますし」
「その方がいい。虻の死骸に混ざってスズメ蜂が3匹死んでいる。
いや、お前が行かなくても良い。ちょっと教えてやりたいことがあるから。」
ロッキー尾崎は大広間に向かうと一人で待っていた少女に話しかけた。
「君危ないよ。スズメ蜂も来てるから。」
そういうとロッキーは小さなスプレーを取り出して自分の体にかけた。
「ガムのような匂いがしますね」
「ああ、これはハーブのエキスだよ。この匂いが虫は嫌いだから寄り付かない。
こうやって口臭にも利く。」
そう言いながらロッキー尾崎は自分の口にもシュッとかけてみせた。
「そうだ、君にもかけてやろう。服にかけると良い。」
ロッキーは親切に少女の胸やお腹のあたりや背中にもハーブのスプレーをかけた。
「髪の毛にもちょっとかけよう。そうすると顔を狙わなくなる。」
「あっ・・」
「どうした?変なところにかかったかな?」
「目に染みて目が開けられないです」
「ごめん。目にかけた訳じゃないけど、ハーブの蒸気が目に染みたんだと思う。目を洗うといい。さあ、ついておいで。」
「すみません。あっ!!」
ロッキー尾崎はいつの間にかポケットから出したスタンガンで少女を攻撃した。
ロッキー尾崎は倒れた少女を抱きかかえると、鬼子母神の待つ客間に戻って来た。
「師匠、その子は大事な恩人なんです。何をなさるんですか?」
さすがに鬼子母神は顔色を変えた。
ロッキー尾崎は立ち上がりかけた鬼子母神を手で制して、微笑んだ。
「大丈夫。私はこの子のために大事なことを教えているんだよ。
もうすぐ目が覚めると思うから待とうじゃないか」
茜は目を覚ますと自分がソファーの背に凭れるように座らせられているのに気づいた。
はっとして自分のを着衣の状態を確かめてから、ロッキー尾崎と鬼子母神の姿を見据えた。
「乱暴なことをしてすまない。
なぜあんなことをしたかわかるかね?
鬼子母神も私のしたことに腹を立てているようだから、二人ともようく聞いてほしい。」
ロッキー尾崎はタバコを一服吸ってから火を消した。
「君が素手の戦いでは最強だということは鬼子母神から聞いている。
だとしたら、素手の戦いに関しては私の教えることは何もない。
だが、実際の喧嘩となると話が違う。
獲物を使うことは卑怯なことだが、相手を倒すことが最優先の喧嘩ではそんなことも言ってられない。
君は私が持っているハーブの香水が無害なものだと思い込んでしまった。
また、私が鬼子母神君の師匠だということで信頼もしてくれた。
だから君への目潰しが成功したと思う。
恐らく君は初めて他人に倒された経験をしただろう。
だが、それが私であったのが幸いだったと思ってくれ。
もうわかっただろう。
実際に君が修羅の道を歩むとしたら、こういうことも起こりうるということを知っていてほしいのだ。
これから君が出会う人間の全てが礼儀正しい武人ばかりとは限らない。
むしろそういう人間は少ないと思っていい。
そのためにも、自分の実力は他人に見せないようにしなくてはいけないのだ。
なぜなら実力を知られると、その実力でも打ち負かす方法を相手は研究してくるからだ。」
ロッキー尾崎はそこで一度言葉を止めて、天井を見上げた。
「・・・ところで、宮本武蔵は何故あんなに強かったかということなんだが。
巌流島のときは沢山の立会人がいたが、完全に一対一の決闘のときにはすごい決め技を使っていたという説がある。
全く意表をつく、想像もつかない裏技だな。
全く相手は手品にかかったみたいに簡単に倒されたというんだ。
だが、宮本武蔵は手品の種がばれないように、目撃した対戦相手を殺してしまうことで証拠を隠滅してしまった。
だから誰も宮本武蔵の決め技を解明することはできなかった。
その代わり武蔵の方は、対戦する相手に勝つ方法を徹底的に研究したそうだ。
そして勝つ見込みが十分できたときにだけ戦っていたから強かったというんだ。」
そこで、また言葉を止めたロッキー尾崎は今度は自分の手のひらをじっと眺めていた。
そして顔を上げて続けた。
「それと・・目撃したとしてもどうにも他人には真似できないものが武蔵にはあった。
それは君と同じ怪力だよ。
だから二刀流を使えたのだ。片手で振り回す刀で両手で掴んだ相手の刀を弾き飛ばす剛力があったんだ。
そして、刀が刃こぼれしても武蔵は平気だった。
なぜなら刀で切るのではなく殆どは刀で撲殺していたからだ。
切れない刀で撲って相手の頭蓋骨を砕くなんてのは、よほどの怪力なんだよ。
吉岡道場の大勢の人間と戦うことができたのはそういう利点もあったからだ。
だから、君が見かけは全然怪力の持ち主に見えないというのも、相手を油断させる武器になるが、それが全ての人間の知るところになったら、君はもうお終いになる。
つまりこういうことだ。」
ロッキー尾崎はそういい終わると、素早く手に拳銃を持って茜に向かって引き金を引いた。
殆ど同時に茜は二人の間にあったテーブルをロッキー尾崎に向かって蹴り上げた。
飛んできたテーブルを足で止めたロッキー尾崎は高らかに笑った。
「お見事。だが、君の胸のシャツを見てごらん。」
茜は自分の胸を見ると、赤いインクの染みがついていた。
「大丈夫、そのインクは時間がたつと消えるようになっている。
つまり君の実力を知った敵は最終手段として、飛び道具を持ち出すことになるということなんだ。
君は私を信頼してたから、ほんの少し反撃が遅れたね。
でもこの次こういうことがあったら、最悪でも自分の急所をはずして着弾するくらいまでは心がけないとね。
それより、飛び道具を持ち出さないと勝てないと思わせるようなことは慎む方がベストといえるが・・。
これで、私の話は終わりだ。
十分に気をつけて、長生きするように。」
ロッキー尾崎はそう言って鬼子母神に目顔で合図すると、その場で腕を組んで黙りこんでしまった。
鬼子母神は茜を促すとロッキー尾崎に礼をして客間を退出した。
たった一人客間に残されたロッキー尾崎は、ぽつりと呟いた。
「そんなことにだけはなってほしくないものだがね。」
「悪かったね、ひどい目に遭わせる事になって。
あの師匠なら必ず何か為になることを教えてくれる筈だったんだが・・・」
「いえ、為になりました。
ロッキー尾崎先生は、私が忘れないように体で教えてくれたんだと思います。」
「そうかい?そう思ってくれると私も救われるんだが・・」
「お願いがあります。」
「なんだい。」
「例えばこういうことをやっている所はないでしょうか」
茜はなにやら低い声で鬼子母神に囁いた。
「ふむう、私はそういうのには縁がないけど、知り合いに好きな奴がいるから当たってやるよ。
ちょっと、時間がかかるけどいいかい?」
「はい、すみません。お世話になります。」
二人の会話はそこで途切れた。
船が着いたのは小さな島だった。
戦闘服を着た男たちが30人上陸した。
彼らは迷彩服に身を包み、顔に墨を塗って、銃を装備していた。
背中には1日分の食料などを入れたリュックを担ぎ、足音を立てずにそろりそろりと歩いた。
彼らはターゲットを狙ってハンティングを始めたのだ。
彼らより一日早くそのターゲットたちは上陸している。
ターゲットは銃を使わない。罠を用いない。
ターゲットは迷彩服を着ない。
ターゲットは一箇所(10m四方)に1時間以上留まると、全ハンターにその位置を知らせる装置を身につけなければならない。
ターゲットはハンターを攻撃しない。
ターゲットは逃げるのみで、24時間逃げ切ったら100万円を手にすることができる。
ターゲットの身長・体重のデータや顔写真は各自に配られている。
つまり、これから始まるのはマンハンティングなのだ。
しかも懸賞金がついている。
見事ターゲットを仕留めた者には、一人につき10万円が褒美として渡されるのだ。
ターゲットの数は30人、ハンターと同数である。
これは間違いなく法治国家内で行われている出来事だった。
スポンサーはプラモデルの大手企業プラトイ社。
この会社では戦闘服、ゲーム用シューティングガンなどを販売している。
命中すると相手の体にインクがつくシューティングガンは、実体験型戦争訓練に使われるもので、それで戦争ごっこをして楽しむ大人もいるのだ。
普通は敵味方のグループに分かれて戦うなどするのだが、今回は一方的な「人狩り」のスタイルでゲームが展開される。
ターゲットの希望者はいずれも足に自信のある、逃げの天才が集まっている。
一方ハンターは何度も戦争ごっこをしているその道の常連や、実際に傭兵経験のあるプロも混ざっているのだ。
このゲームは圧倒的にハンターに有利である。
ハンターが完全勝利すればスポンサーは300万円の懸賞金ですむ。
だが、もしターゲットが一人生き残れば390万円、二人生き残れば480万円の出費になる。
こんなことはありえないが、ターゲットが全員逃げ切れば3000万円の出費である。
だから、ハンターに有利にルールを決めてあるのだ。
特にターゲットは黄色い上下の支給服を着ることになっていて、これは圧倒的に不利である。
唯一ターゲットの便宜を図った点は、一日前に島に上陸して地理をよく理解する時間を与えられているということだ。
ゲームが始まって1時間以内になんと12人の人間が仕留められた。
インクで汚れたターゲットが仮設本部に連れて来られて、ハンターの得点が記録される。
そして13時間経ったとき、朝9時に始まったハンティングは残りを一人残すのみとなった。
もう夜の十時なので、殆どのハンターは明日早朝のハンティングに希望を託して、テントに入った。
だが、たった10万円の為にターゲットを追うのではなく、自分の名誉やプライドの為に夜通しターゲットを追い続けようとする者も少なからずいた。
徹夜して疲れきり判断力や行動力を鈍らせるよりも、早朝すっきりした体調でハンティングをするというのも作戦と言える。
つまり、最後の一人になったターゲットは徹夜組によって休むまもなく追い回され、早朝組によって猛烈な追い討ちを受けることになるのだ。
そして夜が明けた。
早朝組が一斉に動き出すと、徹夜組が疲れきった表情で戻って来た。
「ターゲット番号23番は、20歳の女ということだが、どう見ても10代の少女って感じだ。
ところがこいつが夜の闇に目を慣らしていて、懐中電灯に照らされることもないし、レザー光線を当てることもできない。
おまけに獣のような素早い動きで、気配を感じたと思ったらあっという間に姿が見えなくなる。
少しやすんでから、明るいところで参加するよ。」
「そうした方がいい。まだタイムリミットまで4時間近くある。」
早朝組はそういって励まして別れた。ところが明るくなって有利になったのはハンターだけじゃなかった。
23番は自分だけの獣道?を持っていて、それが島中に網の目のように張り巡らされているのだ。
恐らくハンター到着前の一日間で、その道を作ったのだと思われる。
不思議なことに、道というからには通常切れ目がないものだが、23番の道は切れ目だらけなのだ。
足跡を辿って追跡しても、行き止まりになり、どこに続くのかわからなくなる。
9時になって、本部に23番が姿を現したときは、仕留められたターゲット達も含めて、ハンターたちが顔を見ようと押し寄せた。
彼女の顔は泥で灰色になっていた。
頭にはバンダナを巻いていたのだろうが、それも乾いた泥で柄も分からない状態だ。
黄色い上下の支給服は草の汁や泥で迷彩服並みに目立たなくなっていた。
それだけでなく、服のあちらこちらが引っかき傷のようにかぎ裂きになっていて、穴だらけになっていた。
そこから覗く皮膚には乾いた血がこびりついていて、無数の傷を受けていることが分かる。
だが、どこを探しても赤い特殊なインクの染みはなかった。
ハンターもターゲットも一斉に彼女に惜しみない拍手と賛辞を与えた。
23番は深々と礼をして、それに応えた。
23番の本名は友永幸絵という名前だった。
「よかったね。茜。なんとかうまく誤魔化したね。私の住民票抄本貸してあげてよかった。」
「そのお礼で1割の10万円を差し上げます。」
「社長の鬼子母神さんから、協力するように言われてたんだから気を使わなくていいんだよ。」
般若ジャパンの道場生の友永幸絵は、10万円を手にして顔をほころばせた。
本日付けで青布根中学校2年に転入した吉田則夫は、地面に散乱した教科書やノートを拾い集めた。
ついさっき帰り道に同級生の5人組に鞄の中身をぶちまけられたのだ。
理由は態度が気に入らないということだった。
と言われても全然心当たりがない。
(教室の前に立って挨拶をして、空いてる席に座って、話しかけられたらにこやかに返事をしたし、先生に当てられたら平凡に答えたし。
給食は最初からおかわりはしなかったし、柄の悪そうなのとは目を合わせなかったし。
まてよ・・もう一度最初からだ。)
吉田則夫は何か見落としていることがないか思い出そうとした。
(教室の前に立って挨拶をして、空いてる席に座って、話しかけられたらにこやかに返事をしたし・・・。
話しかけられたらにこやかに返事をしたし・・・って誰が話しかけてきたんだっけ?
確か隣の女の子だったな。青井・・・いや蒼井沙耶とか言ったっけ。
そういえば可愛い子だった。
確か部活動はどこに入るのかと聞いてたな。
運動部は疲れるから文化部で楽なところに入る積もりだと、そう答えた。
そしたら演劇部に男子が少ないから入らないかと勧誘されたんだっけ。
男子が少ないというのがちょっと躊躇ったし、他にどんなのがあるかわからなかったから、考えておきますって、返事をしたんだ。
そしたら、その蒼井沙耶とかいう子が、にっこり笑って俺の肩にやんわりタッチして、お願いしますねって言った・・・。
そのとき俺は少しにやけていたかもしれない。はあ、考えさせてください。
とか言いながらちょっと鼻の下を伸ばしていたかもしれない。
そのとき誰かと目があったな?
そうだ。教室の端っこの方であの五人組が俺の方をじっと見ていた。
その目は好意的じゃなかったな。
転校してきたばかりの俺を気に入らないって感じだった。
そうか、あの蒼井沙耶って子は、あのクラスでも飛びぬけて可愛い子だったから、みんなのアイドル的存在なんだ。
それを俺ごときが肩を触られて、にやけていたもんだから、気に食わなかったんだ。
誤解だ。全くの誤解だ。俺は美人獲得の為の雄同士の戦いのレースには参加しない主義なんだ。
確かにあの蒼井沙耶って子は可愛い。演劇部でもお姫様役が似合うだろう。
でもあくまでも観賞用の女子で、友達になろうとは思わないし、まして恋人にするために手強いライバル達と戦うなんて真っ平御免だ。
俺は平和主義っていうか、喧嘩が弱いっていうか、無駄な争いはしたくないのだ。
そうだ。あの蒼井沙耶って子と距離をおけばいいのだ。
そうすれば、あの5人組の誤解も解けるだろう。
そうだ。
帰りに渡されたクラブ活動の一覧表、あれを見て演劇部以外を決めるのだ。
明日学校へ行って、話しかけられたら、すみません、もう他のクラブに決めてしまいましたって言えばいい。
それで、彼女は俺に関心を持たなくなる。
その様子を見て5人組も俺に関心を持たなくなる。
だが、おかしいな、あの紙はどこに行ったのだろう。)
「捜し物はこれですか?」
目の前に出されたのは、まさしくそのプリントだった。
そのプリントを持つ手はセーラー服の袖から出ていて、顔を上げると一人の女生徒が立っていた。
(学年バッジを見ると3年生だが、童顔の可愛い女の子だ。
丸い目に長い睫毛,ふんわりとした唇。小柄だけどすらりとしたスタイル。
蒼井沙耶と並んでも見劣りしない美人だ。ああ、きょうはこれで2度目だ。
もうしばらく美人に声をかけられることはないだろうな。
貴重なチャンスをきょう2回も使ってしまったし。)
「あ、どうも。それです。ありがとうございます。」
女生徒は渡した後、首を傾げて聞いた。
「これ、春に配られる紙だよね。どうして今持っているんですか?」
「あ、僕転校生だから、これから決めようと思って。
先輩はどこのクラブですか?」
「私?私は色々渡り歩いているけど、強いて言えば柔道部かな?」
「じ・・柔道部?全然そういう風には見えないですけど。
でもなぜ渡り歩いてるんですか?それ許されるんですか?」
「私新聞配達してるから、授業のクラブだけで、部活動には出ていないのよ。」
「格好良い!!新聞配達ですか?勤労少女じゃないすか?憧れます。」
吉田則夫は新聞配達という言葉に魅力を感じた。
何か自立した大人を感じさせるし、運動が苦手な彼にも根性があれば出来そうな気がしたからだ。
それになんと言っても、部活動に出なくてもいいというのが魅力的だった。
女生徒は吉田の気持ちがわかったのか助言をくれた。
「あのね、パソコンクラブとか、読書クラブだったら帰宅部みたいなものだから、部活動はないのよ」
「それはいいですね。でも・・・」
蒼井沙耶に言うときに、帰宅部に入りたいから演劇はお断りするというのはどうも格好が悪いなと、吉田則夫は思った。
それよりも新聞配達があるので、部活動には出られない・・という方が格好良い。
「あの、先輩。俺・・新聞配達できないでしょうか?」
「えっ?」
新聞配達店の社長灰枝辰児は、木崎茜が連れてきた吉田則夫を見て腕を組んだ。
どう見ても家が貧しくて生活の為に新聞配達をする種類の子には見えない。
着ている物がブランド品だし、靴も真新しい。
顔はどことなく贅沢でふやけた感じで差し迫っているという緊張感が漂っていないのだ。
第一早寝早起きする規則正しい雰囲気が伝わらないのだ。
「木崎さん、あのねー」
灰枝は吉田の方を見ずに茜に向かって言った。
「今担当して貰っている区域は通常は二人分の区域なんだよ。
しかも、山間地だからベテランでも尻込みする所だ。
それをこの全くの素人のこの子に引き継がせるって、正気とは思えないんだけどな。
いや、悪いけどこの子だったら、平地の1区域分でも無理だと思うけど。」
「1ヶ月間の訓練期間で教えたいと思うんですけど」
「無理だよ。君と同じ真似ができる人間は青布根市内何処を捜してもいない。
ましてこんなひ弱そうな少年なら3日で倒れるね。いや、二日目から起きられないと思う。」
「わかりました。とりあえずきょうの夕刊一緒に連れてってみせます。それで本人に決めさせます。」
茜が席を外したときに灰枝社長は吉田則夫を掴まえて質問した。
「吉田君と言ったね。君の家はご両親が揃っているのかね。」
「はい」
「ご兄弟は?」
「小学生の妹が一人います。」
「毎日のお小遣いの額は?」
「特にありません。必要な物はその都度相談して買って貰います。」
「どうして新聞配達をしたいの?経済的に困っている訳ではないんだろう?」
「新聞配達をする、というライフスタイルに憧れるんです。」
「ラ・・・ライフスタイルね~。朝は普段何時に起きるの?」
「7時ごろですね。ちょっと低血圧だから、目覚めが悪くって」
「夜は何時に寝るの?」
「11時から12時の間かな?面白いテレビ番組があると、もうちょっと遅いかも」
「よし、わかった。君はもう帰った方がいい。木崎さんには私の方から話しておくから。」
「いえ、俺は木崎さんと約束したんで、きょうの夕刊は付き合いますよ」
「吉田君、君は何も知らないんだ。木崎さんとは今日あったばかりなんだろう?」
「はあ・・」
「あの子を見かけで判断してはいけないよ。そうだな。身長2mの大男を想像してごらん。」
「はあ、しました。それが?」
「何百キロのバーベルを軽々と持ち上げるような力持ちで、全身筋肉の固まりだ。想像したかい?」
「プロレスラーみたいな大男ですね。しましたよ。」
「しかも、走ればものすごいスピードで自転車でも追いつけないほどだ。想像したかい?」
「だんだん難しくなりますね。ちょっと想像できません。そうなると、スプリンターの筋肉ですから、もっとスマートになります。」
「そうだろう。それが木崎さんだ。想像できない力を持っているんだ。
彼女の配達記録を破る人間は今後も現れないだろう。
彼女は配達区域では何十キロもの新聞を体につけたまま、走るんだそうだ。
恐らく君はその後を何も持たずに追いかけるだけで息が上がってしまうだろう。」
「・・・・・」
「決して大袈裟に言ってる訳ではないんだ。
しかも、彼女は真面目な子だから、一度約束したからには必ず実行しなければならないと思っている。そのためにはあらゆる努力をする。
たとえば朝起きれない君の家に夜中に迎えに行くかもしれない。
たとえ君の部屋が2階にあっても、彼女は簡単によじ登って、窓から侵入し君の枕元に立つことができるんだ。」
「それじゃあ、忍者か、特殊部隊じゃないですか」
「それ以上だよ。君が血反吐を吐いて入院しない限り、君を自分と同じ配達員にしようと全精力を注ぐことだろう。」
「社長さん、俺のことが気に入らないから、大袈裟に言ってやめさせようとしてませんか?」
「わかった。そうだな・・・口で言ってもわからないよな。じゃあ、行って来い。自分の目で見るんだ。
400軒分一緒に走って来て、またここに戻って来なさい。
それから、また今と同じ話をしてあげよう。
そうすれば私の話を信じることだろうから。」
「木崎さん、もう俺駄目です。配達区域あと半分残っているんですか?
俺ただついて走ってるだけなのに、もう腹が痛くて心臓も苦しいです。」
吉田則夫は汗だくになってぜいぜい咳をしていた。
茜はその様子に肩を落とした。
「そう・・折角意欲はあったんだけどね。ちょっと無理だったかな・・ごめんね。」
「とんでもない。ゴホゴホッ、謝るのはこっちです。」
「いいよ。販売店に戻って自転車返してきてね。社長さんには私から言っておくから。本当にごめんね。」
「は・・はい。い・・いいえ。本当にすみませんでした。」
茜は地べたに座り込んだ吉田を後に残して配達の続きをしに行った。
配達を続けながら茜の頭の中ではある後悔が渦巻いていた。
(新聞配達が格好いいなんて・・言ってくれたもんだから、つい嬉しくなっちゃって・・ちょっと考えれば無理だったのに。
かえって傷つけちゃったかな・・・本当に馬鹿なことしちゃった。本当に馬鹿なことを。)
灰枝社長は吉田少年の話を黙って最後まで聞いていた。
それから静かに口を開いた。
「そうだね・・・。君の志は決して間違いじゃなかった。
それに君は無理だと言っても自分でやってみるまでは納得しようとしなかった。
文字通り刀折れ矢尽きるまで彼女に付き合ったんだ。
だからもういいよ。
新聞配達は彼女の後をなんとか分担して引き継がせることにする。
君はもっと自分に向いたことを見つけてそこで頑張れば良い。」
「はあ、口ほどにもなく本当にすみません。社長さん・・・。」
深いため息をついて帰りかける吉田則夫に向かって、灰枝社長は声をかけた。
「吉田君、これだけは言っておく。私は決して君を軽蔑していない。君も自信を失うことは何もないんだ。」
「はい、ありがとうございます。」
翌日、吉田則夫は蒼井沙耶に頭を下げて言った。
「ごめんなさい。昨日やっぱり考えたんだけど、違うクラブにすることにしたんで・・・」
最後までは言わずにもう一度頭を下げた。前を向いてから、自分はこんなに頭を下げれる人間だったかと不思議に思った。
「参考までに教えて。どのクラブ?」
蒼井沙耶が聞いて来たので、吉田則夫は相手の目を見て素直に答えた。
「たぶんパソコンクラブか読書クラブ、そのどちらか。つまり帰宅部ですね。
俺・・早めに家に帰ってごろごろしてるのが好きだから。本当にごめん。」
格好悪いと思われても良いと思った。
それがありのままの自分なんだから、軽蔑されてもいい、そう思った。
また前を向くと、蒼井沙耶はまた話しかけてきたので、再び横を向いた。
すると蒼井沙耶は前を向いたまま、目だけこちらに向けて喋った。
「勘違いしないでね。私は吉田君をその他大勢の役だとか力仕事をしてもらいたくて誘ったんじゃないんだから。昨日自己紹介してくれたでしょ?
声がよく通ってとても良かったし、表情なんか見てお芝居の才能があると思ったからなの。」
そんなこと言われてちょっと良い気持ちになったところで、蒼井沙耶がこっちを向いてじっと見つめながら吉田に言った。
「ちょうど学校祭に向けてやる演劇の脚本で主役の私の相手役の男子がいなくて困っているところなの。演技のこととかわからないことは私が教えてあげようと思う。だからもう一度考えて見てくれない?
帰宅部なんて、絶対もったいないよ。」
蒼井沙耶は弓矢や鉄砲を使わなかった。だが、じっと見つめるその目は吉田の心臓を貫くような殺傷力があった。
(わかったよ。そこまでいうんなら、俺演劇部に入るよ)
その言葉が喉まで出かかったとき、吉田の頭に木島茜の言葉が思い浮かんだ。
社長さんには私から言っておくから。本当にごめんね。
そして灰枝社長の言葉も。
吉田君、これだけは言っておく。私は決して君を軽蔑していない。
(でも、あのあとすぐこれに飛びついても、きっと今の俺なら失敗する。
まだ俺の中での問題が整理されてないんだ。)
吉田則夫は前を向いて深呼吸をしてから蒼井沙耶の方を向いた。
吉田は蒼井の強力な視線を鼻先10cmのところで食い止める気持ちで、精一杯見つめ返した。
「蒼井さん、俺自分でも帰宅して家でごろごろなんて格好悪いなと分かってるんだ。
でもね。俺的にはそれよりもっと格好悪いことがあるんだ・・・・。」
「なに?」
「似合わないことやって俺でなくなってしまうこと・・・かな?だからごめん。」
そうだけ言うと吉田は前を向いて頬杖をついた。そろそろ、朝のHRが始まる。
(やっと言えた。これで俺の平和が一部戻って来た。
だが、新聞配達の件はどうする?
俺がこれから死ぬ気で鍛錬して、大嫌いな運動部に負けないくらい血反吐を吐くような練習をしてもあの先輩の真似は絶対できない。
じゃあ、どうやってこの敗北感を癒せばいいんだ?
そうだ。普通の配達区域ができるようにすればいいんだ。
自転車を使って配達できるようにするんだ。
そうすれば、ベテランの配達員が先輩の区域を引き受けて、その人の区域を俺が担当すれば、回り巡って先輩の助けをしたことになる。
取り合えず明日から早朝マラソンだ。基礎体力ができたころ、このことを先輩に言って相談してみよう。)
そこまで考えたとき吉田則夫の顔はぱっと明るくなって、背筋を伸ばすとガッツポーズをした。
そして、小さな声で「よしっ!」とつぶやいた。
「沙耶どうしたの?あいつに何言われたの?」
隣の方で女子が集まっているので、ふと横を見ると蒼井沙耶が机にうつ伏せてすすり泣いている。
「なんでもない。なんでもないから・・。」
蒼井沙耶はそう言って否定するが、周りの女子は怖い目で吉田を睨んでいる。
「こら,てめえ蒼井に何言ったんだ?あんっ!」
いつの間にか例の5人組が吉田則夫のところに来て、机を蹴ってきたりした。
「あんたたちに関係ない!!吉田君に構わないでっ!」
顔を上げた蒼井沙耶が濡れた瞳のまま5人組を睨んで一喝すると、コワモテの連中がすごすごと席に戻って行った。
「本当になんでもないから、ちょっと悲しいこと思い出してしまったの。だから」
蒼井はハンカチで涙を拭うと女子たちを席に戻るように手で促した。
女子たちは不思議そうに吉田の方を見ながら戻って行った。
吉田のような・・・石を投げれば必ず十中八九当たるような凡庸なタイプの男子にとって、これは一生に一度あるかないかの青春の大事件だったのだが、吉田はそのことについて深く考えなかった。
それよりも折角平和が訪れたと思ったのに、蒼井が泣き出したことで厄介なことにならなければいいがと迷惑に思っただけだった。
そして再びどうやって体を鍛えるかそのことに集中し始めた。
(まず早寝早起きだ。そういう生活態度を見せて家族に俺の変化をアピールするんだ。テレビとかはニュース番組だけにしよう。
ドラマとかは見るのをやめよう。
俺の人生をドラマチックにすればいいんだ。
バラエティなんか見て馬鹿笑いするのもやめる。笑っている場合か。
音楽番組だって、好きな音楽を走りながら聴けばそれでいい。
飯もきちんと食べよう。好き嫌いをなくすんだ。
体に良いものを食べて、間食はやめだ。俺は今日から生まれ変わるんだ。)
給食時間、吉田が大嫌いな切干大根が出た。
吉田に限らず切干大根とか金平ゴボウのような昔からの惣菜料理というのは人気がなく毎回残量が多い。
その代わりそういうメニューのときにはプリンのような人気のデザートがついてくるのだ。
何故か吉田のお椀には給食当番の女子が切干大根を山盛り入れてよこした。
他の生徒にはほんの一口分しか入れていないのにだ。
本来ならこれは嫌がらせなので、吉田は文句を言って減らすようにできるのだが、彼は敢えて言わなかった。
「ありがとう。これ栄養があるって聞いてるから、全部食べるよ」
みんな一斉に吉田の顔を見た。
席に戻って給食が始まると、吉田は嬉しそうに食べ始めた。
食事だって、自分を変えるための苦行だと思えば良い。
その覚悟で食べ始めると、意外とおいしいので気が抜けるくらいだった。
(そうだ。こういうものは好き嫌いしないで感謝して食べるのが、本来の食事なんだ。)
ふと横を見ると、蒼井のお椀に切干大根が普通に盛られているので驚いた。
お椀の半分くらい入っているのだ。
実は吉田の盛り付けのときの様子を見て、蒼井が後で当番に頼んで普通に入れてもらったものだ。
最後のデザートのプリンについては吉田は考えた。
それを手に持ちながら、どうしようと思った。それを食べるのはたやすい。
だが今回だけ、これを政治的な目的に使おうと思った。
(朝のできごとで俺はクラスの人気者の蒼井沙耶を泣かした悪者だと疑われている。
切干大根の盛り付けもきっとそのせいだろう。
そう思われ続けるのは今後厄介だ。このプリンを犠牲にしてなんとかイメージアップをしよう。)
吉田則夫は、隣の蒼井沙耶がおいしそうにプリンを食べ終わったのを見計らってプリンをぱっと差し出した。
「朝はごめん。これ食べて」
その様子を周りの人間が見ている。
蒼井は首を横に振って遠慮するが、それを手で制して吉田は言った。
「ほんのお詫びだから。食べなかったら誰かにあげて」
それを聞きつけて、自分が欲しいと近くの男子が言ったが、蒼井は「駄目」と言って、鞄の中にしまってしまった。
家に持って帰って食べるらしい。
吉田は周囲の自分を見る目が和らいできたのを感じて、これでやっと平和が戻ったと思った。
蒼井沙耶は吉田則夫に演劇部への誘いを断られたことに納得がいかなかった。
きょう一日吉田則夫は何か分からないものに心を奪われていて、それが原因で断ってきたらしいと蒼井は思った。
蒼井は部活に行く前に吉田が学校を出るのを見て、こっそり離れたところから様子を窺った。
すると吉田則夫が一人の女生徒を見つけて走り寄って挨拶していた。
二言三言言葉を交わすと吉田は深く礼をしてまた歩き出した。
吉田と別れた女生徒に近づくと3年生のバッジをつけているのがわかった。
「すみません。あの、今吉田君と話していたようですけど、お知り合いなんですか?」
「あなたは?」
「吉田君の同級生です。」
「仲良しなの?」
「というか隣の席です。部活に勧誘したんですけど断られました。」
「そう・・同級生と言っても色々な人がいるのね」
「どういう意味ですか?」
「昨日・・だよね。彼が転校して来たの。男子が5人帰り道取り囲んで鞄の中身をばら撒いて行ったわ。
転校したばかりの彼を知っているのなら同級生だと思うけど」
「えっ?」
「そのとき、風で飛んだプリントを一枚拾ってあげたの。あなただってそうしたでしょ、きっと。
私これから新聞配達があるから失礼するわ。じゃあ」
蒼井沙耶が何か言う前に、その上級生は歩き出した。
蒼井がそこに立ちすくんで見送っていると、10歩くらい行ってから女生徒は振り返った。
「私は木崎茜。あなたは?」
「蒼井沙耶です。」
そのとき風が吹いて茜のショートの髪が顔に被さった。
そのため茜の表情は見えなかったが、右手を挙げるとまた歩き出した。
蒼井沙耶は我に返ると、腕時計を見て校舎の方に急いだ。
「おい待てこら」
いつの間にか吉田則夫の背後に5人組が迫っていた。
「なんかますます気に食わないんだよな」
吉田則夫の肩口を掴むと引っ立てるように袋小路の中に連れ込んだ。
「お前と蒼井は一体どうなってんだよ」
再び吉田の鞄の中身は地面にばら撒かれた。
「なんとか言えよ、こら」
今度は鞄だけでなく吉田が小突き回された。
「やめたらどうです、そんなこと。」
声がしたので一斉にそっちの方を見ると、一人の女生徒が立っていた。
「何だ、お前?」
「3年生の木崎です。あなた達何をやっているんですか?
5人がかりで無抵抗の人に暴力を振るって、それが知らない土地に初めて来た人間に対する歓迎の仕方なんですか?」
「なんだ。こいつ吉田が転校生だって知ってるのか?知り合いか?」
「昨日同じ事をしてましたね。そのとき見ていて、初めてこの人に声をかけたんです。
ずいぶん酷いことをするなと思いましたよ。」
「先輩・・・危ないです。こいつら滅茶苦茶するから、逃げてください」
「でも、黙って見過ごせないよ。この人達には自分がそうだったらってこと考えてほしいなと思うから。」
「何てめらだけで勝手に喋ってんだよ、ふざけてんじゃねえ。」
5人の中で顔が白狐のような男生徒が茜に近づくと両肩を掴んで揺すぶった。
「踊らせてやろうか、あんっ!!」
茜は肩を掴んだ両手をぱっと払って、軽く相手の頬を平手打ちした。
「何をするんです。」
「てめー!」
白狐は拳を振るって茜の顔を殴りに来た。
茜はそれを手で受け止め、軽く捻ってのけぞったところを足をかけて仰向けに倒した。
相手は背中を反動をつけて地面に打ち付けたため、苦しそうな呻き声をあげた。
「話し合いで解決しませんか?」
「気をつけろ、こいつ強いぞ。」「やろう!遊んでやろうか!」
他の4人が茜を囲んだ。もう吉田のことは放置したままだった。
「話が通じないんですか?乱暴はやめましょう。」
「今更遅いんだよ。何寝言ほざいてる!」
誰かがそう言うと、4人は一斉にとびかかって行った。
正面の男子は右回し蹴り。
背後の男子は背中に中段蹴り。
右側の男子は右回し蹴りで顔面狙い。
左側の男子は上段蹴り。
つまり前後左右から蹴りの集中攻撃を始めたのである。
茜は1時の方向に側方転回し包囲陣から抜けた。
正面の男子は回し蹴りが空振りして体が右側に捩れたところを背後の男子が中段蹴りで腰を蹴った。
その背後の男子は右側の男子の回し蹴りが喉元にヒットして後ろにのけぞる。
その直後に左側の男子が飛び上がり気味に上段蹴りしたので、空振りした足がそのまま右側の男子の右側頭部に当たった。
結果背後にいた男子と右側の男子が起き上がれないほどのダメージを受けたのだ。
左側にいた男子だけが無傷で茜に向かって同じ上段蹴りをして来た。
茜はほんの少し頭を左に傾げてそれをかわした。
空振りした男子はそのまま前のめりに3・4歩進んだ。
そこを最初正面にいて腰を蹴られた男子が右の大振りのフックを出したので
前のめりに入って来た男の後頭部にヒットした。
ゴンッと音がしてフックの男子は拳を押さえて蹲る。
叩かれた男子もまた後頭部を手で押さえて膝を着く。
「数を頼んで何でもできると思っているから、一人で考えようとしないのかな?
あなたたちのしていることは格好悪いことだと思う。
どうせ5人一緒に動くんだったら、友達を助けたり励ましたり良いことを協力してすればとっても素敵なのに。
あなたたちにも必ずそれができる筈だと思うけどな。考えてみてくれる?」
「うるせい・・」
「そう・・・邪魔したね。でも、これからは吉田君には手を出さない方がいいよ。
私じゃないけど、あなたたちがそうしないように監視する者がいるから。」
「い・・いい加減なことを言うな」
「そう?じゃあ試しに明日から実行してみたら?」
「な・・・なんだよ」
「もう一度言うよ。私の名前は3年の木崎茜。
私がいい加減なことを言うかどうか誰か詳しい人に聞いてごらん。」
茜は呆気に取られて見ていた吉田則夫を目で促すとそこを立ち去らせた。
翌日。5人組は同級生の鎌内という女子に声をかけられた。
「あんたたちね、こともあろうに3年の木崎さんにちょっかい出したんだって?
長内さんがあんたたちを呼んでるよ。」
「長内って、この学校で一番強いって評判の空手女か?」
「言っとくけど、2年の番格は男も女もみんな長内さんの子分だから。
長内さんに睨まれたらあんたたちの中学校生活は終わってるよ。」
中休み屋上に行くと長内由紀はいなかったが、2年の浅野と山岸という二人の女生徒が鎌内と一緒に待っていた。
「なんだ?長内じゃないのか?女が三人何の用だ?」
強がる5人組たちに、浅野が優しく声をかけた。
「長内さんが出たら大袈裟になるから、私が代わりに来たの。私2年生の浅野と言います。
番格組織のことはご存知?」
「ああ、聞いたことはあるけど・・」
「私、総番を張ってる浅野と言います。長内さんは別格なので・・」
「そ・・総番?!」
「ここにいるのは女子のトップ3です。男子の人たちを呼ぶとまた大袈裟になるので私たちだけで来ました。」
「な・・なんの用ですか?」
5人組の中で主に口を利いているのは白狐だが、知らず知らず敬語を使い始めた。
「あなたたちが昨日会った木崎茜さんは、私たちでも滅多に口を利いてもらえない神様みたいな人です。
その人があなたたちのクラスの吉田君という転校生のことを心配しています。
遠い所から知らない学校に来た生徒が転校一日目に同級生たちに虐められている。
私たちの学校がそんな冷たい人間ばかりだと思われるのはとても悲しいと。
そんな悲しいことにならないようにみんなで見守ってあげてほしいと。
そしてあなたたちのことも、折角5人が仲間になっているのだから、人から喜んでもらえるようなことで力を合わせて頂けたら素敵だなとも。」
「は・・・はい」
「分かって頂けますか?」
5人組は顔を見合わせてうなづき合うと、白狐が大きく頷いた。
「は・・はい。その通りにします。」
浅野はそれから下を向いて黙っていたがその沈黙が長かったので、白狐は不安になって尋ねた。
「あ・・あの、他にまだなにか?」
浅野はナンバー3の鎌内の方を見ながら、首を横に振ると、5人組に向かって言った。
「実は、長内さんは木崎茜さんにあなたたちが歯向かったことを大変怒ってらして、この鎌内たちにお仕置きをするように命じてたんですけど、私はそんなことをさせたくないと思ってるんです。」
「鎌内が、俺たちをですか?」
「ご存知ないかもしれないですけど、鎌内の場合、素手の戦いではあなたたちのうちの二人と一緒に相手をしても酷い目に遭うのはあなた達の方です。
山内なら3人まではお相手ができるでしょう?私の場合は言わないでおきます。
どうします?この二人とあなたたち5人が戦ってみますか?
でも、男子の皆さんにもプライドがあると思うので、この二人と戦う代わりにあなたたちに反省の意味をこめて何かしてもらうことで長内さんには許してもらうよう私の方でお願いすることはできると思います。」
白狐は他の4人の顔を見回してから浅野の方に顔を向けた。
「た・・たとえばどういうことを・・・?」
昼休み、中島先生は茜と推薦入学のことについて話しながら3階の窓から何気なく外を見た。
「あっ、あれは2年生の5人グループじゃないか。何やってるんだ?」
「なんですか?」
茜も窓から外を覗く例の5人組がゴミ袋を持って軍手で校舎周辺のゴミを拾い集めている。
「あいつらがあんなことをするなんて、いったい何があったんだ。」
「先生。あの子たち素敵ですね。」
「あ・・ああ」
「私、手伝って来ます。」
「えっ?」
中島先生が振り返ったとき、もうすでに茜の姿はそこになかった。
「あ・・木島さん。この間は大変失礼しました。」
「本当にごめんなさい。俺たち反省してますから」
茜の姿を見て5人組は慌てふためいた。
「いいの、そんなことは。私とても嬉しいな。私も一緒にやらせて」
「いえ、そんなこと」
2階の窓から5人と茜がゴミ拾いをしているのを見て、長内由紀は浅野たちに言った。
「こうなるから嫌だと言ったんだ。まさか茜さんにやらせて私たちが黙って見ている訳にはいかないだろう?」
「はい・・すみません。ここまでは読んでいませんでした」
その昼休み更に多くの生徒たちがゴミ拾いに加わり、後に美談として全校集会のときに校長がそのことにふれたという。
五十嵐彩芽は劇団クローバーの劇団員だった。
団長の相川は酔狂な性格で自分独自の基準で劇団員にランク付けをしていた。
それによると、三つ葉団員は台詞の持てない団員で、四葉団員から初めて役をもらえる実力があるということになる。
因みに団長の自分は六つ葉で、唯一五十嵐彩芽だけが七つ葉団員だという。
しかしいくら演技力を評価されても劇団は貧乏だし、仕事もアルバイト的な話しかない。
ある日のことである。
そのアルバイト先で知り合った茜が一人の少年を連れて会いに来た。
「この子吉田君っていうんです。芝居の素質を見てあげてくれませんか?」
「ええっ!先輩、俺演劇部に入らないって言ったじゃないすか」
「いいよそれで。ただ蒼井さんが言ってること本当かどうか興味があって」
「酷いすよ。俺先輩の興味を満足させる人ですか?」
「私も、配達したいという吉田君の興味を満足させてあげた積もりだけど」
「はい、わかりました。このお姉さんの言うとおりにすれば良いんですね」
吉田則夫は五十嵐彩芽に連れられて劇団の稽古場に連れて行かれた。
しばらくすると五十嵐に連れられて吉田が戻って来た。
「団長の基準だと五つ葉の才能があるって。
だから中学の演劇部だったら主役を張れる器らしいよ。」
「どうやってわかったんですか?」
「簡単なお芝居をさせてどう演じるかで見たんですよ。
例えば台詞のないとき心の中で何を喋っているのか。
裏の演技っていうんですけど役柄を理解していないと難しいですね。
それと、全体の流れの中で自分がどんな役目を果たしているのかが分かる人とどうしてもわからない人がいるけど、彼は分かる人らしいということです。」
「わかりました。ということは新聞配達よりも演劇部の方が向いているってことですね。」
「先輩、俺諦めてませんから」
「私はどっちでも構わないよ。吉田君の決めることだから。
五十嵐さん、どうもありがとうございました。」
「とんでもない。それより今度の土曜日都合つけてくれましたか?」
「ええ。待ち合わせ時間と場所、後で教えて下さい。」
3人はそこで別れた。
茜はその後吉田則夫とは接触していないが、彼が演劇部に入ったことは人づてに聞いた。
五十嵐彩芽の依頼は一緒にアルバイトした本保という歌手の卵に関するものだった。
プロダクションが彼女を売り込むために仮面歌手としてデビューさせることになったのだ。
その秘密を守るための警護が茜に依頼されたのだ。
本保沙論は高音域の歌を得意としていてその類の歌ならなんでもカバーをこなせるが、持ち歌がない。
器用貧乏?な彼女を売り出すには神秘的な演出が必要だと考えたプロダクションが「仮面歌手SARON」としてデビューさせることにしたのだ。
それを作詞家作曲家に見せて、なんとか歌を作ってもらおうというのが狙いらしい。
だが折角の神秘的な演出もマスコミに見抜かれては計画が台無しになる。
趣旨を理解してルールを守ってくれるのは大手筋のメディアで、一部週刊誌は暴露専門が売りなのでそんなことは通用しない。
隠せば隠すほど覗きたくなる読者心理を利用するという編集方針なので、格好の餌食といえる。
また、フリーのカメラマンや記者などの中には握った秘密を高く売りつけて生活している者もいるので、秘密はほぼ暴かれるリスクが高いと考えていい。
そういう事情のもとで五十嵐彩芽にダミーの依頼があったのだが、五十嵐は前述の「暴き屋」たちの追及を逃れるための切り札として茜を思いついたのだ。
フリーのカメラマン伴野安治は仲間うちから通称「バンジー」とか「野蛮ジー」と呼ばれている。
カメラマンというのは体力がいる。どんな場面でも撮れるということは被写体の人間よりも体力がいるということだ。
大柄だが無駄肉は一切ついてない。
東南アジアの無法地帯に行っても無事帰ってくる体力と度胸がある。
酒も強いし喧嘩も強い。
戦場の弾丸の下を潜って来たこともある。
その為と言うわけではないが、芸能関係の取材では強引なところがある。
力任せの取材というか、無理やりドアを開けてカメラを回したり、相手の体を掴んで引き止めたりして、後で訴えられることもあった。
だから業界では要注意人物になっているのだ。
けれども彼だけが危険な存在ではない。
スクープを取るためなら家族でも売り飛ばすような連中が1ダース以上もいるのだ。
「サンライトレコードで仮面歌手をデビューさせるって?」
野蛮ジーこと伴野安治は北羅音楽ホールに集まった記者仲間に聞いた。
「らしいよ。まあ、歌手を売り出すために会社も苦労するね。」
「だけど、サンライトの歌手年鑑を調べれば大体誰だか予想がつくじゃねえか」
「それが、新規に違う所から採用した歌手らしいから、そこからは推理できないんだ。」
「歌がうまいんだろう、きっと。仮面で売り出すということは声だけで聞かせるものがあるってことだから。
それだけうまい奴ならどこかで知られているはずだぜ。」
「だといいが、それを調べているだけで膨大な時間がかかるし、その結果やっぱりわからなかったってことになることが多い。」
「ふん、まあそうだな。だが、これを暴けば高く売れるぜ。
仮面歌手と言っても、仮面を被りっぱなしってことはない筈だ。
控え室の出入りやホールからの出入りで、どこかで仮面を外して正体を現す瞬間がある。」
「そこを狙うのか?」
「ああ、その気になれば、必ず撮れる筈だ。
外さなかったら、手が滑ったふりをして外してやってもいい。」
伴野安治はにやりと笑った。
北羅音楽ホールのコンサート会場では1500人収容の客席がほぼ満席だった。
音楽関係者には招待券が配られていたし、レコード会社の抱える有名人気歌手も多数出演するということもあって、一般客も大勢詰め掛けたのだ。
1ベルが鳴ってアナウンスが入ると2ベルが鳴り、客電が落ちた。
幕が上がって、サンライトレコードの歌手たちが紹介され、次々に歌声を披露する。
いよいよ前半の終わりごろとなったとき、ステージの照明が消えて会場が静かになった。
観客は何事が起こるか息を殺して待っていると、静かな歌声が聞こえた。
それは賛美歌として知られている「アメイジング・グレイス」だった。
透き通るような声が会場に流れると、ステージにスポットが当てられ、一人の女性歌手の姿が照らし出された。
観客は、その歌手の声の美しさに魅了された。
まるで天界から聞こえる天使の歌声のようだった。
その声を聞くだけで心に溜まっていた全てのわだかまりが流れて行くような、心洗われる歌声だった。
また、実際これだけの高音をきれいに出す歌手は滅多にいなかっただろう。
それはロングヘアに蝶の仮面をつけた若い女性歌手だった。
彼女の姿は白いロングドレスを着ているので暗いステージに浮き上がって見えた。
それは天使の降臨を思わせた演出だった。
歌い終わると、アナウンスが流れ、今のは新人歌手SARONだと紹介された。
SARONが仮面をつけたまま頭を下げるとスポットは消えた。
再びステージが明るくなったときには別の歌手が現れ歌い始めた。
「今だ。控え室に行く廊下を通るはずだ。」
伴野を先頭に一斉に記者たちが動き出した。
舞台裏から控え室に通じる廊下に出ると、ちょうど白いドレスを着た仮面歌手がスタッフの女性と一緒に控え室の方に急いでいるのが見えた。
「追いつくぞ。カメラを回せ」「控え室に入る前に掴まえるんだ。」
記者たちは口々に何か叫びながら走り出した。
あと数メートルで追いつくと言うところで、スタッフの女性が急に連絡用のドアを閉めた。
鍵をかけるドアではないので、引っ張れば開くはずだがいくら引っ張ってもびくともしない。
「どけ、俺が開ける。誰か押さえていやがるな。」
伴野が自慢の力を振り絞って引っ張るがそれでも開かない。
伴野の体に数人が手をかけ、4・5人がかりで声を揃えて引っ張る。
実はスタッフ姿の茜がドアの向こうで壁に足をかけて、開かないように引っ張っているのだ。
スタッフはジーンズに黄色いジャケットとキャップを身に着けている。
そこへ五十嵐彩芽がダミーの服を控え室で脱いで、スタッフの服に着替えて茜の所に来た。
つまり、本物の本保沙論はまだ舞台裏にいて、彼女の衣装を着て出て来たのは五十嵐彩芽だったのである。
彼女は歩き方から身振りまで本保の動作をコピーしていたのである。
「衣装は?」
「控え室の着替えコーナーにあるから。」
「わかった。」
五十嵐が控え室とは反対方向へ行くと、茜はドアを離して控え室に急いだ。
急にドアが開いたので4・5人の男たちは塊になって後方に飛んで行った。
ところが他の記者たちもそれに巻き込まれて倒れたので、混乱が起きた。
また、ドアノブがすっぽり抜けて壊れてしまい、余計騒ぎが大きくなった。
茜は控え室に行くと大急ぎでスタッフ用の衣装を脱ぎバッグに詰めると、ロングヘアーのカツラと蝶の仮面、白いドレスを着ると控え室から飛び出した。
ちょうどそこへ伴野たちがカメラを構えて走って来た。
一方舞台裏に着いた五十嵐彩芽は、スタッフ姿で待っていた本保沙論を連れて、会社のバスが待っている通用門から出た。
茜は普通に3階の廊下を歩いていた。10m先から5m先にまで記者たちが迫ったとき、角を曲がった。
そこは階段だった。茜はひらりと体を跳躍させると一気に踊り場へそこから2階のフロアへ、そしてまた2階から1階の間の踊り場へと素早く移動した。
そして、一階へは普通に歩いて降りて行った。
その姿を一階ホールにいた別の記者たちが見ていた。
「あっ、仮面歌手のSARONだ。」
誰かがそういうと、みんな一斉に茜の方に走って来た。
茜は階段の近くの非常口から外に出ると正面の玄関とは反対方向に歩いて行った。
「あの角を曲がればそこは行き止まりだ。」
記者たちは角を曲がった茜を追って走り出した。
茜は角を曲がった途端、スカートの裾を腰で縛って、行き止まりにそびえる2mほどの高さのコンクリート塀に向かって走り出した。
先にバッグを塀の向こうに放り投げると、垂直な壁に足をつけて駆け上がった。
記者たちが角を曲がったときには、行き止まりの空間には誰もいなかった。
茜はそこから姿を消して再びスタッフ用の服装に着替えると、SARONの衣装をリバーシブルのバッグを裏返してから詰め込んだ。
そして通用門の方に向かい、会社のバスに乗り込んだ。
そこで顔を合わせた3人は成功を祈ってジュースを乾杯した。
伴野安治は鉛筆を振りながら仲間に向かって言った。
「今回のSARONのデビューには謎が4つある。
一つ目は何故あれだけの実力がありながら、この1年間話題にならなかったということだ。
例えばレコード会社がスカウトした大型新人なら、なんらかの歌の大会で優勝したとかそういう記録が残っているはずだ。
だが、どこを調べてもそれに該当する人間はいない。
後の3つは、今回の件だ。
何故ドアが開かなかったか?何故階段の所で消えたか?何故行き止まりの袋小路で消えたかだ。」
「もう一つある。サンライトレコードのバスを尾行したところ、それらしき人間がバスを降りていないということだ。」
「それはわかる。スタッフの服に着替えればそれで済むからだ。
待てよ・・・スタッフの服・・・そうか、入れ替わったんだ。」
「何どういうことだ、野蛮ジー」
「俺たちが追いかけて行った二人連れ、あいつらが控え室で入れ代わったんだよ。
SARONがスタッフの服を着て、スタッフの服を着た奴がSARONの服を着た。」
「それで、どうやって謎が解けるんだ?」
「こういうことだ。あの二人は控え室に向かって逃げて行った。あの二人が通った直後に別の力持ちの男たちがドアが開かないようにしっかり引っ張った。」
「みんなで引っ張っても開かなかったからな。向こうも大勢用意してたんだろう。」
「それで、いきなりドアを離して俺たちが転倒している間に、男たちは姿を消し次の仕掛けの準備をしに行った。もちろん例の二人も衣装を取り替えて入れ替わった。本物はスタッフのふりをして堂々と外に出たし、入れ替わって舞台衣装を着た奴は実はスタントマンだった。」
「スタントマンかなるほど」
「SARONはハイヒールを履いていたが、俺たちが後で追いかけた奴は確かスニーカーを履いていた。
そしてドアを引いていた男たちは2階の階段あたりにマットかなんか敷いて、スタントマンが一気に飛び降りて姿を消したように見せかけた。」
「うんうん」
「今度は1階に下りて行ったスタントマンは非常口から出て、あらかじめ用意していた梯子を上って、その後梯子を引き上げて姿を消した。」
「梯子かなるほど!!だけど、何故その推理を俺たちに教えてくれるんだ?自分だけの独占記事で売り込めば小遣いくらいにはなるのに」
「俺はそんな小さいことはどうでもいいんだ。久しぶりに燃えて来たぞ。
いいか必ずサンライトレコードはもう一回仮面歌手をご披露する筈だ。
そのとき暴いてやるよ。この俺様がな。向こうが正体を明かす前になっ!!」
伴野安治は目を剥き出して残酷な笑い顔を見せた。
伴野のこの推理は少しずつ粉飾されて各誌で紹介された。
その中であるフリーカメラマンの言葉として、伴野の挑戦的な言葉が紹介された。
「これが多分野蛮ジーとか言われている伴野カメラマンだわ。」
五十嵐彩芽は何冊もの週刊誌の一つを閉じるとそう呟いた。
「私が書いたシナリオの一部が見破られている。
SARONの顔見せはもう一回あるから、それまでに作戦を練っておかないと」
「今度は別のシナリオを用意するのかい?」
劇団クローバーの団長相川は五十嵐に尋ねた。
「ええ、この伴野さんの推理が正しかったという前提で私たちがどう動くかを予想して、その通りに動くと見せかけるの」
「本当にお前はシナリオ書きの天才だな。
そのダミーのシナリオを見破って連中が動いても本当のシナリオではその裏を書くということだな。」
「うーん、そう簡単に行くかどうかわからないけど、本保さんを守るためにはやらなきゃね、なんとしてでも」
五十嵐彩芽はそういうと、盛んにメモを取り始めた。
一方伴野は「暴き屋」たちと盟約を結びチームを組んでいた。
北羅音楽ホールの間取りや構造を徹底的に調べ、その全てに網を張ったのだ。
「いくら何でも俺たちがこれだけ推理を公開したんだから、また同じ手を使うとは思えない。多分その裏をかく作戦に出る筈だ。じゃあ、そのまた裏をかこう。
俺は約束する。俺たちグループでスクープを取ったら、分け前は等分しよう。
額は少なくなるが、それを問題にするのはやめよう。
誰が証拠の絵を撮ってもみんなのスクープだ。抜け駆けは許さない。
もしそれをやったら、ほかのみんなでこの世界で飯を食えなくしてやろうじゃないか。
いいかみんなで知恵を出し合うんだ。暴き屋の意地を見せてやろうじゃないか。」
実際、暴き屋たちは知恵を出し合った。
俺ならこうする。まてよこう来るかもしれない、などと推理を重ねた。
そしていよいよ、その日がやって来た。
北羅音楽ホールでSARONが新曲を発表する日が来た。
作詞・作曲は若手のシンガーソングライターのMYUで、SARONの記事が発表されたのを読んで興味を覚えて作ったという。
皮肉にも招待券はもらっていたが、当日は別の用事で来れなかったという。
題名は「ミラクル・サロン」で、神出鬼没の謎の歌手のことを歌った歌である。
MYUが自分の作った歌を他の歌手に贈るのは、これが初めてでこの点でも話題を呼んでいる。
サンライトレコードのやり方として、必ず一人の歌手に絞らず他の歌手も出演させて、それぞれのファン層を動員するというのが常道である。
今回は多数のベテラン歌手をさしおいてコンサートの「トリ」をSARONが務めるという。
余程新曲のヒットに自信があるのだろうともっぱらの噂だ。
伴野たちは朝から忙しく動き回っていた。
「野蛮ジー、塀の所に梯子がかかっていました。」
「多分今回はダミーだろう。そこは使わないと踏んだ。
だが、使う場合も考えて塀の向こう側にも待機させている。
一階の非常口はもう一つある。そこにも人間を配置している。後、考えられるのは・・」
伴野は仲間ににやりと笑って見せて言った。
「・・2階か3階から直接ダイビングする場合だ。その場合はトランポリンかマットを用意するからわかるだろう。
だが、それはスタントマンを使う筈だから本人ではない。
けれども一応ひっかっかったふりをして、それも追いかけるのだ。そして、そのカラクリを暴いてやるのだ。」
いよいよコンサートが始まり、プログラムが進行して、SARONが歌う番になった。
「ミラクルサロン」はSARONのために作られた曲で音域も本人にぴったり合い、そしてテンポは軽快で楽しいが山場で不思議世界を演出した曲調になっている。
確かに大ヒットを予感させる逸品であった。
万雷の拍手とともに幕が下りると、伴野たちは待ち構えた。
舞台裏の出口で伴野が見張っていると、SARONらしい声が聞こえてきた。
「飲み物用意していてって言ったじゃない。もう喉がからからなんだから」
「すみません、SARONさん、今ジュース買ってきますから」
そう言いながらスタッフの女の子が慌てて出て来た。
「急いで!」
中から不機嫌な声が聞こえる。これも記事になるな、と伴野はほくそえむ。
待っていると例の女の子が缶ジュースを持って走って来た。
舞台裏に入ると、また声が聞こえる。
「なにこれ?私オレンジジュース嫌いなのよ。もっと別なのなかったの?
ピーチとか?」
「あのピーチ買って来ます。」
「いいわよ、もう!あんたここはいいから、早く例の連絡してきて。
バスの中で食べる弁当は末善のトリ飯弁当にしてくれた?」
「は・・はい、じゃあ行ってきます」
また慌てて飛び出した女の子を捕まえて伴野は声をかけた。
「大変だね、ご苦労さん。せいぜいがんばってください。」
「あ・・・はい。ありがとうございます。失礼します。」
パシリの女の子のスタッフはまたそそくさと走り去って行った。
それからしばらくすると、小声で話す声が聞こえてもう一人のスタッフの女の子が顔を出した。
伴野を見ると嫌な顔をして睨んだ。
「すみません。関係者以外ここに近寄らないでください。」
無愛想な低い声でそう言うと伴野がその場から離れるまで睨み続けていた。
伴野が物陰から見張っていると、チェックのバッグを持ったスタッフの子とブルーのドレスを着たSARONが出て来た。
遠くから会話の内容が聞こえる。
「駄目ですよ。急がないと」
「だって、緊張したら行きたくなったんだもの」
二人はすぐ近くのトイレに入った。
すると、スタッフの女の子がトイレの入り口から出て来てそわそわ誰かを待っている様子だ。
予定が狂って焦っているのが手に取るようにわかる。
間もなくすると体格の良い男性スタッフがやってきて、女の子に言った。
「なにやってるんだ?みんな待ってるのに。」
「とりあえずバッグだけ持って行ってください。調子が悪いみたいで」
男性スタッフは不機嫌そうにチェックのバッグを持つと言った。
「重いな,一体何が入ってるんだよ?」
「新潟のファンの人がお米をくれたらしいんです.その他壊れやすい物も入っているから大事に扱ってください。」
伴野はそのチェックのバッグを先ほど女の子が持っていたのを思い出して、体つきは小さいが意外に力があるのだなと思った。
女の子はまた中に入って声をかけていた。
「SARONさん、まだですか?」
「もうちょっと待って、そんなに急かせないでよ」
「はい、でも急いでくださいよ」
女の子はまた入り口に立って誰も近づかないようにしていた。
それから少したった。
するとトイレの中に様子を見に行った女の子が急に騒ぎ出した。
「SARONさん、SARONさん!!どこにいるんですか?」
「どうしたんだ?!」
伴野はそれが女子トイレであることも忘れて中に飛び込んだ。
「いないんです。SARONさんが何処にも・・・どうしよう!!」
半べそをかいたスタッフの子を尻目に、伴野は個室トイレのドアを全て開けた。
掃除用具入れも調べた。
だが、トイレには誰もいなかった。
伴野はたった一つあるトイレの窓から顔を出した。
そこは3階だが下には仲間が見張っていた。
「おい、誰か飛び降りなかったか、ここから?」
「誰も。ずっと見張ってたけど一人も見てないよ」
「おかしいな」
「どうしよう・・どうしよう」
スタッフの女の子は半べそをかいている。
伴野は頭を働かせた。
(もしかして、あのバッグの中に入っていたのでは・・・いや、ありえない。
幼児ならともかく大人の女性があんなに小さくなるはずがない。
それに、バッグが持ち去られた後もSARONはいた。
『もうちょっと待ってよ。そんなに急かせないでよ』
確かそういうことを言ってた。
待てよ、もう一つ可能性がある。
天井だ。天井に外れる板があって、屋根裏から脱出するとか。)
伴野は掃除用のモップで天井の板を隈なくつついてみたが、外れる板はなかった。
それから床も壁も調べたがそんな仕掛けはあるはずもなかった。
伴野が頭を悩ませている間に、1階では別のできごとが起きていた。
1階のトイレから突然SARONが現れたのだ。
そのトイレは通用門の近くで、ブルーのドレスを着たSARONはすぐ外に出て会社のバスに乗り込んだ。
バスの窓は目隠しをしているので中は見えない。
もちろん暴き屋のメンバーが通用門も見張っていたが、ちょうどスタッフの女の子に話しかけられて気を許しているときだった。
それに動きが素早かったので、見たと思ったときにはバスの中に入っていたのだ。
「あっ、SARONさんが戻って来た。飲み物を用意しないとまた怒られる。」
見張りに話しかけていたスタッフの女の子はすぐバスに乗った。
しばらくすると三階にいた女の子がべそをかきながらやって来て、これも同じくバスに乗った。
「うまく行ったね。」
べそをかいていた女の子は五十嵐彩芽だった。
満面の笑顔でもう泣いていない。すべて演技だったのだ。
パシリの女の子は本保沙論だった。
そしてSARONの服を着ていたのは茜だった。
「きょうは楽だったな。私は一言も喋らなくて、五十嵐さんが二人分の台詞を言ってくれてたから」
茜がそういうと、本保も笑って言った。
「後で私の素顔が紹介されたとき、伴野さん悔しがるだろうな。
一番隠さなければならない私が素顔ですぐそばにいたんだから。
通用門の見張りの人も、私がずっと話しかけているのに気づいていないし。」
「それにしても」
茜は五十嵐の顔をまじまじと見ながら言った。
「どうして、SARONさんと不機嫌なスタッフの子の両方を演じ分けることができたんですか?
まるで二人の人間が会話しているみたいでした。声も全然違うし」
五十嵐彩芽は笑いながら言った。
「そうね、うちの団長の相川さんが言うにはだよ。
六つ葉団員はシナリオが書けて演出や監督ができるんだって。
でもって、七つ葉団員は、これは私だけなんだけど、人格変換ができるということ。
ま、言ってみれば自由に人格を出し入れできる多重人格者みたいなものね。
あ、もちろん多重人格じゃないよ、私は。」
「すごいな」
「なに言ってるの。それより茜さんの方がもっとすごいよ。
階段や塀をジャンプしたり、小さくなってバッグに入ったりできるんだもの。
今回はバッグで移動したから窮屈な思いをさせたけれど、おかげでトイレからトイレの瞬間移動が成功したわ。」
この後、茜は五十嵐からサンライトレコードから出た謝礼の分け前をもらった。
(怪力少女伝 第5部完 第6部へ続く)
怪力少女・近江兼伝・第5部「風雲の記」
天才的な役者の五十嵐彩芽と組んで見事SARONを守りきった茜。いよいよ今度は光栄高校への進学になります。そこで意外な人物と会うことになります。