14年の音
10年前、交通事故によって記憶が入れ替わった
当時14歳の少年、恭一と克英。
彼らはやがて成人し、記憶の入れ違ったまま別々の道を歩んでいく。
一方10年前、都内某区でおきた女性殺害事件の被害者の息子、
当時14歳の少年、陽治は、その後恭一の元彼女と交際することになる。
そして10年後のとある日に、3人の少年と1人の少女の運命が
奇妙に重なり合う……。
1
そうして僕は救急車によって運ばれた。
意識は混乱し、今僕を取り囲む医師や看護婦たちが懸命に動き回っているのだけがぼんやりと見えた。うっすらと目を開けた僕に向かって、1人の若い医師が「恭一くん?わかるかな?わかったらまばたきしてみてね」と言った。僕はまばたきをしようと目を閉じたがそのまま意識が遠ざかっていったー。
山本恭一が目を覚ましたのはそれから一ヵ月後のことだった。もはや植物人間状態となることも考えられると田中医師から宣告されて家族は希望の光を見失っていた。そんな中恭一は一ヵ月経ったある日にぱちりと目を開いた。横の椅子に座って居眠りをしていた母親がそれに気づいて田中医師に急いで知らせに行った。その間に恭一は今自分を取り巻く状況を必死に理解しようとしていた。
そうだ自分はー。あのとき階段から落ちたんだ。だから今、強く打ったと思われる左半身がものすごく痛い。おまけに頭は包帯でぐるぐる巻きにされているようで正直きつかった。痛みを堪えて恭一は右手を動かしてみた。右手はあまり異常がなく痛みもほとんど感じなかった。そのため開いて閉じてを繰り返せても特に喜びを感じるわけでもなかった。
「先生、ほら、恭一が」
病室に入って来た母と田中医師は恭一を見て驚いた表情を浮かべた。
「自分の名前を言えるかな」
田中医師は恭一の傍に歩み寄ってそう言った。恭一は普通に山本恭一と答えた。
「歳はいくつ?」
田中医師はボードに挟んだ紙にボールペンですらすらと何かを書き込んでいた。恭一は14歳とまた普通に答えた。
その後の質問にも恭一は特になんの異常もなく答えた。痛みを感じるのは頭と左半身だけと言うと、田中医師はそこを強く打っていたからねと言った。
「いやあそれにしても、恭一君の回復力はすごいですよ。車にぶつかってこんな大けがをして、一ヵ月で目を覚まして記憶障害も特にないなんて」
田中医師は立ち上がってそう言った。恭一は彼の言葉に何か引っかかる物を感じたが気にしないことにした。
「看護婦を何人か読んできます。恭一君の体調が安静になり次第精密検査を行いますので」
田中医師が部屋を出た。入れ替わるように母が恭一の傍に寄って来た。
「恭一…本当に心配したのよ。あなたが目を覚ましてくれて、本当に嬉しいわ、お母さん」
母は心から安堵した様子であった。恭一は口元に笑みを浮かべた。
「冴子ちゃんはね、軽い怪我で済んだのよ。本当にもう…二人乗りなんかしちゃだめだからね、絶対に」
「え?…二人乗り?」
恭一は困惑した。二人乗りって何だ?自分は階段から落ちてこうなったんじゃないのか?あのとき、誰かに強く押されて……。
「どうしたのよ恭一。どこか痛むの?先生、呼ぶわよ」
母は心配そうに立ち上がった。恭一は右手でそれを制して、俺は二人乗していたのかと尋ねた。
「あらいやだ。冴子ちゃんとデートしていたんじゃないの、あなた」
母はもう一度傍に座った。恭一はさらに困惑した表情を浮かべる。
「冴子って…誰?」
「……何言ってるの恭一。あなたの彼女じゃないの?」
「知らない…冴子なんて知らない!俺は誰かに…階段から突き落とされたんだ!!沙衣子なんて奴しらねぇよ!」
「恭一!落ち着いてよ恭一!!先生!恭一が!」
病室に田中医師がやってきて、次々と看護婦たちもやってきた。暴れる恭一は押さえつけられ、また、意識が遠のいていったのであるー。
冴子は病院の待合室で泣いていた。先ほど恭一の母親から、恭一の記憶障害について告げられたのだ。彼は名前、年齢、住所、電話番号などは記憶に残っていたものの、事故に遭った原因と、冴子のことをすっかり忘れているのだという。いや、忘れているのではなく、完全に記憶から消えてしまっているらしい。そんなはずはないと思った。恭一と自分の間に何ら欠落はなかったし、ずっと一緒にいられると思っていたのだ。それなのに……。恭一が事故に遭ったのは自分のせいだと冴子は思っていた。あの日恭一に二人乗りをしようと提案をしたのは
自分だし、信号が点滅しかけているのに渡ってしまえと言ったのも自分であったからだ。どうしようかと思った。どう責任を取ればいいのだろう。恭一に謝りたい。でも今謝ってもきっと何の返事ももらえない。彼の頭の中に、今柏谷冴子はいないのだ。
「冴子、大丈夫か」
はっとして顔を上げるとそこには昔からの親友の孝雄がいた。孝雄は恭一とも仲がよく、男の友達では冴子の唯一の理解者であった。
「私……恭一の記憶から、消えちゃったの……」
孝雄は冴子の隣に座った。
「…知ってるよ。さっき、恭一のお母さんから聞いた。なんか……階段で突き落とされたって言ってるんだろ?」
冴子はこくりと頷いた。孝雄はふぅとため息をつく。
「なんなんだろな……。なんで恭一、あんなになっちゃったんだろ」
「ねぇ孝雄…」
冴子は蚊の鳴くような声でそう呟いた。
「なんだよ?」
「恭一は……思い出してくれるかな?」
「え?」
冴子は顔を上げた。涙で顔はぐちゃぐちゃだったが、それでも孝雄には美しく見えた。
「恭一は……私のこと、いつか、思い出してくれるよね……?」
何て答えればいいのかわからなかった。孝雄は黙って、冴子の肩を抱いた。冴子はまた、静かにすすり泣いていた。
2
俺は今どこにいる?
ハッと目が覚めた。しかし体中が痛んで起き上がることすらできない。どうやらここは病院のようだ。胸がずきずきと痛む、早くここから出してくれ!
「克英……!起きたか」
ふいに親父の声が聞こえて俺は横を見た。親父が病室から急いで出て行って、入れ違いに医師が入って来た。そして、親父も後から戻ってくる。
「克英君!…これは奇跡的な回復ですね」
医師は至って冷静だった。俺の脈拍を確認した後、名前は何というか、年齢はいくつか、住所と電話番号は何か、生年月日はなにかなどを聞いてきた。俺はその質問の一つ一つにちゃんと答えていった。医師は安堵した表情を浮かべ、親父のほうに向き直った。
「中村さん、克英君の記憶になんら異常はなさそうです。克英君の体調が安静になり次第精密検査を行いますので、よろしくお願いします」
「わかりました。本当にありがとうございます」
親父が医師に頭を下げた。医師は病室から去って行く。俺は考えた。あのとき俺は車にぶつかったんだった。そのとき……後ろに女を乗せていただろうか。まぁ恐らくあれは絶対に女だ。あいつがもっとスピード上げてだの、信号無視しろだの俺に言ったからこうなったんだ。くそあいつめ、どこの何て言う女だ?……思い出せない。顔はぼんやりと思い浮かぶが、名前は最初っから知らないみたいにすっかり記憶にない。俺はこの大事な部分だけ忘れているようだな。あの女め、見つけたら取っ捕まえてボコボコにしてやる。容赦はしない。
「克英……よかったよ、お前が起きてくれて」
親父は目に涙を浮かべそう言っている。俺はそれは無視して親父に尋ねた。
「おい、あの女はどこだ?」
「あ?女…?一体なんことを言っているんだお前は」
親父はぽかんと困惑している。俺はますますいらだった。
「俺の後ろに乗ってた女だよ!あいつのせいで俺はこんな風に怪我をしたんだよ。あいつはどこなんだよ?おい親父!」
親父はますます困惑した表情を浮かべた。夢の中で何かあったのかと、冗談じみた声で言う。
「んなわけねぇだろ?俺がふざけるとでも思ってるのか?俺を事故らせたあの女だよ?どこにいるんだ!?」
俺があんまり必死になって怒鳴るから、親父は遂に心配したのか、お前は事故に何かあってないぞと言った。同級生のお友達と喧嘩になって、階段から突き落とされたんだと。
「そんなわけないだろ?その友達って誰だよ?」
「加藤君だよ、今外にいるから。呼んでくるな」
親父は立ち上がり、加藤君、と廊下に向かって呼んだ。すると、俺の知らない1人の少年が、すまなさそうに病室に入って来た。
「克英……。あの時はごめんな」
彼はそう言うと頭を下げた。とたんに俺は怖くなった。こいつは誰だ?一体どこのどいつだ?
「誰だよ……誰だよお前!近寄るなよ!!帰れ、帰れ帰れ!!!!」
無我夢中になって俺はそう叫んだ。呆然と立ち尽くす親父と少年を前に、俺は暴れ狂っていたー。
3
田中徹也は焦っていた。
一体全体どうなっているんだ、あの山本とかいうガキは。自分の事故の記憶を覚えていないなんて、しかもそれが全く別の原因だと言い張るなんて、こんな患者初めてみた。あいつは一体なんなんだ?もし病院側の治療ミスでああなったら一体俺はどうなる?全国からの注目の的になって、世間から批判を受け、そして俺は周りから冷たい視線を送られるんだ。俺は一体どうなるんだ?あいつをどうにかしなくちゃいけない。あいつは少し狂っている。恐らく自分の状況がつかめず、勝手な妄想を自分の中で繰り広げているんだろう。そう思えばいいと思った。だけど……あいつの言ったことには妙に引っかかるものがあった。理屈なんてないが、医者の勘というか、あいつはもしかすると……徹也は自分の机のノートパソコンを開いた。ぱちぱちと、暗い部屋でキーボードを叩く音が響く。そこで徹也はあるサイトを見つけて、自分の考えに確信を持った。
僕は暗い路地を歩いていた。先ほど母親と男3人が家で話し合い、その結果母親は男達に300万を手渡すことになった。僕はその様子を台所から見届けた後、母に黙って家を出た。男達が去っていったあと、母はテーブルに顔を突っ伏して、肩を震わせ泣いていた。
悩む母に一言も声をかけられない僕は親不孝な奴だと思う。母は父が残していった多額の借金を返すために水商売までやっているのだ。それを見て弱みにつけ込んだよくわからない頭のおかしな業者が毎日毎日母の元を訪れて、何と取引したのかはわからないが母から300万を取っていってしまった。恐らく男達はもう二度と母の前に現れないだろう。そしてサギして取った300万をこれからの人生に悠々と使っていくのだ。
僕たち家族を崩壊させたのはまず父にあると思っている。父は誰か知らない女と付き合って、母を見捨てていた。酒を飲み、家には帰ってこないし、僕と母だって最初はまじめに働いてくれているのだと思っていた。いや、そう思い込むようにしていた。だけどある日母に限界が来たのだ。僕が12歳の時に、母は父とリビングで口論をした末に離婚した。父は多額の借金を払うことなく家に残して雲のように消えていった。そのときも僕は、台所から2人の口論の様子を見ているだけだったのである。
僕がもっとしっかりした息子なら、と毎日悩まされる。結局僕が存在しているところで、母にはなんのプラスにもならないのだ。今の母の一番の支えは「金」だ。今母は、恐らく僕のために働いているとは到底考えられない。きっと、自分が生きていくために、金を稼ぐために我武者らに働いているんだ。だから僕があの家にいるのは邪魔なだけなんだ。お荷物なんだ、自分は。大通りに出て、何気なく歩道を左に曲がった。今頃母はどうしているだろう。僕を捜しているだろうか。いや、それはないと思う。きっと、邪魔者が消えてせいせいしたとでも思っているんじゃないか。それを考えるとなんだか辛くなった。死にたくなった。家にいたくない。もう出てったほうが僕はいいんだ。それで母もきっと心の中のわだかまりが取れるかもしれないし、僕だって一つの悩みが消えて楽になるから。
ふと顔を上げた。気がつくと雨が降っていて、僕はそれに打たれてびしょ濡れだった。着ていたものがトレーナーだったから寒くはなかったけれど、心の中にぽっかりと空いた穴に雨が埋まるような感じで、僕にはその雨が心地よく感じられた。空を見上げる。曇り空から延々と降り続く水の粒。僕は大声を上げて笑った。笑えばどうにかなると思った。どうにかなってほしかった。もう、生きているという実感さえ、湧いてこない。
「こら、危ねぇよ、そこどけ!!」
そばにあったガソリンスタンドから出てきた車の主に、大声で怒鳴られた。僕は笑うのをやめ、そこを静かにどいた。
さすがに相手も驚いたのか、ばつが悪そうに道路を走っていった。
「君さ、そこで突っ立ていられると、お客様が道路に出れなくて困るんだよ、だからどいてくれないかな」
ガソリンスタンドからこちらへ駆けてきて、僕にそう言ったのは若い店員であった。しっかりとビニール傘を差し、僕を1ミリもその中に入れようとしなかった。
「すみません」
僕はそう吐き捨てると、またどこに行くあてもなく歩きはじめた。しばらく歩いているうちに雨は止み、僕の髪もいつのまにか乾いていた。夜になって、繁華街を歩いていると、酒に酔った男に絡まれ殴られた。僕は何も感じずに、それらを無視して歩き続けた。感情というものは消え、なのに涙がゆっくりと僕の頬を辿っている。
気がついてふと顔を上げると、目の前には巨大な病院があった。ライトに照らされて、暗闇の中に白く光る病院の中に、僕はなんの迷いもなく入っていった。
4
「はい、では面会を終了させていただきます」
田中医師のその声で、恭一の母はゆっくりと椅子から立ち上がった。じゃあね、恭一と母がそう言うと、恭一は軽く右手を上げた。そして、病室を去っていく母を見つめてから、彼は田中医師のほうを向いた。
「先生」
「なんだい」
田中医師はボードに何か書きながらそう答えた。
「僕はなんで……記憶がなくなってしまったんでしょうか?」
「それは事故に遭ったからに決まっているだろう」
「でもなんで……その、冴子さんの記憶だけ」
田中医師は手をとめて顔を上げた。恭一は背筋がゾクリとしたのを感じた。彼の目は冷たい。まるで氷のようだ。
「一部の記憶がなくなってしまう患者は君以外にも大勢いる」
彼はそう言ってから、ボードを恭一に見せた。
「昔、僕の先輩に向山さんという人がいた。その人は2年前に亡くなってしまったんだが、その人の死因がこれまた不可解なものでね」
ボードには、精神に異常をきたす病と書かれている。
「彼が死ぬ前に、最後に治療していた患者は、精神疾患を患っていた。どんな症状だったかはプライバシーだから言えないけど、ひとつだけ言えることは、君と同じく一部の記憶が飛んでしまっていたんだ」
田中医師はボードにまた何かを書いている。そして書き終わるとすぐに、恭一にそれを見せた。
「それまでなら他の患者にも大勢そういう人がいる。だけど他の人と違ったもの。それは、同じ症状の患者と、記憶が入れ替わっているということ」
「え?」
思わず声を上げる。恭一ははっとして、すみませんと小さくつぶやいた。
「都内に住むある女性が、自分は車に乗っていたら交通事故に遭ったと言っていた。しかし、彼女が述べている証言は、向山さんが治療していた患者が遭った事故とまったく同じだったんだ」
ボードには、そのときの事故についての様子が書かれていた。
向山さんが治療した患者は、自分は自転車に乗っているときに坂から転倒したと言っていた。しかしそれは、都内に住む女性が遭った事故であった。つまり、事故原因の記憶が、2人の間で入れ替わってしまっていることになっている。
「じゃあそれで……なんで向山さんは」
恭一がそうたずねると、田中医師はうつむいた。
「彼はその治療を進めているうちに、現代医療では解明できないことにぶち当たった。そして精神的に狂ってしまい、自殺したんだ」
ゴクリとつばを飲む。恭一はまた背筋がぞっとする感じに襲われた。
「じゃあ要するに……僕はその症状だと」
「その症状の可能性も否めない」
田中医師はボードに書いてあったことを、置いてあった雑巾で全て消した。
「実は昨日、君と同じような症状になってる患者を見つけてね。これまた近い病院の人なんだけど、それを聞いてから、ちょっと、あのことをおもいだしてね……」
「そうなんですか……」
恭一は呆然とした。もし、自分が他の誰かと記憶が入れ替わっていたら……。俺じゃない他の誰かが、階段から突き落とされて、俺じゃない他の誰かの記憶は、2人乗りでの交通事故ということになっているのだろう。
「まあこれから精密検査などを行っていく上で、真相は明らかになると思う。ちなみに君は、この少年を知らないかな?」
田中医師はポケットのなかから、一枚の写真を取り出し、恭一に差し出した。
恭一が写真を受け取ると、そこには、一人の柄の悪い少年が写っていた。茶色のかかったサングラスを鼻にかけ、上目遣いでこちらをにらんでいる。しかし顔自体が柄が悪いわけでは無く、写真の彼自身はどちらかというと美男子の部類に入る顔だった。
「さあ……知らないです」
こんな少年はみたことがなかった。写真を返すと、田中医師はふうとため息をついた。
「そうか……この少年が、君と記憶が入れ替わっている少年なんだよ」
田中医師は写真をポケットにしまい、ホワイトボードを手に持ちながらそう言った。
「またあとで来るから」
彼はそう言うと、病室を出て行ってしまった。
5
あの事故から何年たっただろうか。
電車から見える夜景を眺めながら、ふいに、柏谷冴子の脳裏に浮かび上がったのは、10年前のあの忌まわしい事故だ。
やがて停車駅に着き、車両から降りる。人数の少ない夜の駅を出て、冴子は自宅への帰路を歩む。
「ただいま」
白の五階建てマンションに彼女は住んでいた。玄関のドアを開けると、奥の部屋から「おかえり」と声がする。
「夕飯食べてくれた?お金テーブルの上に置いといたんだけど」
冴子はそう言いながら、リビングに入る。
「牛丼買ってきて、食べた。おつり、置いといたから」
やがてリビングに現れたのは、背が高く細い、顔の整った男であった。彼は新山陽治といった。
「ああ、ありがと」
「これ、お前の分」
陽治は、何かの入ったビニール袋を冴子に渡した。冴子はそれを受け取ると、ビニール袋のなかをのぞき、顔をしかめた。
「あたし、牛丼なんか食べないよ。太っちゃうじゃない。せっかくダイエットうまくいったのに、もう」
荷物を床に置いて、イスに座る。陽治も、テーブルを挟んで向い側に座った。
「前に、冴子が牛丼が好きって言ってたから」
「え?そんなこと言ったっけ、あたし」
嫌だと言ってもなんだかんだ牛丼をおいしそうに食べる冴子を見て、陽治は微笑んだ。
「冴子は、なんでもおいしそうに食べるよな」
「やだな、それってガツガツ食べてるってこと?」
「そういうわけじゃないけど」
「女性なら、おしとやかに食べるべきなのよ。おいしそうに食べるってイコール、ガツガツ食べてるってことになっちゃうでしょ」
冴子は一度箸を置き、わざとらしくゆっくりと箸を持ち直してから、今度はさっきの2倍くらいの遅さで牛丼を食べ始めた。
「まあ確かに、早食いすると体に悪い」
陽治は笑いながら立ち上がり、キッチンに向かった。冴子は陽治の背中に向かって「ほらみろ、やっぱりあんたはあたしがガツガツ食べてるって思ってたんだ!」と大声をあげた。
「そんなことないってば」
ビールを両手に2つもって、陽治はキッチンから現れた。そして1つを冴子に差し出すと、もう1つはふたをあけて自分で飲んだ。
「牛丼にビール……。あたしに太ってほしいのね」
膨れっ面でそう言うと、冴子は立ち上がりビールを陽治の胸に押し付けた。
「いらないの?」
「いらなーい。あたし太りたくないの。夜のビールって太るのよ」
冴子はまた自席に戻り、もう一口分しか残っていない牛丼を少しずつ食べた。
「本当に冴子はおもしろい奴だ」
陽治は口元に笑みを浮かべたまま、そう言った。
2人は3年前に知り合った。山手線で人身事故がおこったとき、陽治と冴子は同じ列車に乗っていた。そのときの陽治の姿を、冴子は今でも覚えている。
満員電車のなか、自分の隣でドアにもたれかかり、列車が急ブレーキをかけたときにとっさに冴子の手を握った陽治の顔を。
「大丈夫ですか?」
こんなときに痴漢か、と冴子は陽治をけり飛ばしそうになった。しかし、そうして陽治の顔をみたとき、冴子は息がとまった。
「かっこいい……」
「え?」
「いや、あの、そのすみませんでした、支えてくれてありがとうございます」
気づけば冴子の手はまだ陽治に握られたままだった。
「あ、ごめんなさい」
陽治は気を遣ったのか、握っていた手を離した。
「いえ、その……」
冴子はなんだか急に怖くなってきて、声が小さくなった。
周りを見渡すと、立っていた乗客はみんな倒れていて、自分と目の前の男だけが立ち尽くしていた。
「どうやって帰ろう」
陽治は新宿の駅前に立ち尽くし困った顔をした。
「どこで降りるつもりだったんですか?」
「僕、乗り継いで、錦糸町のほうまで……」
「タクシーで帰るとかは」
「タクシー代ほどお金持ってないんです」
陽治は苦笑して、うつむいた。これからどうしようか考えているようだった。
「じゃああたしが出しますよ、あたしも家、そっちのほうなんで」
とっさにそんなことを言っていた。嘘だ、自分の家はあいにくここ新宿にあるのに。
「そんなことはできません。歩いて帰ります、ここから」
「いや、いいんです。さっきあたしを支えてくれたお礼ですから」
冴子の力強い目に負けたのか、陽治は
「あとで絶対に返します、本当に申し訳ない」
といってタクシーに乗ることを承諾した。
「名前、なんていうんですか」
「僕の?新山陽治です」
「なんて書くんですか?」
「新しい山に、太陽の陽に治る」
「へえ、ヨウジさん」
冴子はちらりと彼の横顔をみた。本当に端正な顔立ちである。こんな人と会話していることが奇跡だ。
「あなたは?」
「え、あたしですか。あたしは、柏谷冴子っていいます。冴えてるに子供の子で」
「冴えてる子ですね」
「えっ、ああ、まあ」
陽治はフッと微笑むと、いい名前だとつぶやいた。
「おいくつですか」
「21です。陽治さんは?」
「驚いたな、同い年ですよ。僕てっきり高校生かと思っていました。だからさっきもなんだか申し訳ない気がして……」
陽治は本当に驚いているらしく、冴子の頭のてっぺんからつま先まで眺めるように見た。
「ひどいなあ、でもよく言われるんです。童顔なわけではないと思うんだけど……」
「いや、幼いですよ、でもかわいいです」
陽治の顔を見ると、彼はにっこりと笑っている。冴子は思わず頬を赤らめた。
「陽治さんは逆に25歳くらいかと思いました」
冴子は動揺を隠すために思っていることとは真逆なことを言った。
「僕は逆に周りから老けてるって言われるんです。そうかなあって思うんですけど、やっぱり冴子さんもそう見えましたか」
言葉のわりに彼は嫌でもないようで、あごに少し生えている無精髭をさわった。
「彼女とかいるんですか?」
冴子は好奇心で聞いてみた。すると陽治は、一点を見つめた考えて、口を開いた。
「今はいないけど、前はいました」
「へえ、まあ一人や二人はいますよね」
なんだ今はいないのかと冴子は内心がっかりもしたが逆にうれしさもこみ上げて来た。その感情をなんとか表情に出すまいとする。
「僕運が悪いんですよ。前の人も、なんかちょっとあれな人で」
「あれな人?」
「まあ、簡単に言うと、遊びみたいな」
「ああ、軽い人だったんですね」
「あれ以来女性が怖くなりましたよ。冴子さんといまこうやって話しているけど、女の人と話す事自体が久しぶりのことなんです」
陽治はそう言うと、窓の外を眺めた。冴子は陽治の過去にきっとなにか辛いことでもあったのだろうと思い、それ以上詮索するのはやめた。
沈黙は続き、車内は車の走行音と、運転手が聞いているラジオだけになった。秋葉原のあたりを通過する頃、ちょうど今流行のバンドグループの曲が流れ始めた。冴子は目を瞑ってそれを聞いているうちに睡魔に襲われた。まだ時間はあるだろうと、冴子は夢への誘いに身を任せた。
雨が降っていた。
自転車2人乗り。前を運転しているのは、忘れることのない恭一。見慣れた背中はなぜか幾分小さく見えた。
「飛ばすぞ冴子、しっかり捕まってろ!」
強く降る雨の中で無邪気にそう叫ぶ恭一。
あたしはこの先なにが起こるか知っている。
「恭一とめて!危ないから!止まって!」
「何言ってるんだよ、お前が乗りたいって言ったんだろ。黙って捕まってろ!」
「本当に危ないからやめて!」
「大丈夫だって」
突然自転車が右に大きく曲がった。町の海岸沿いのガードレールに差し掛かったのである。
あと100mもしないうちに、あたしたちは事故に遭う。
「恭一!お願い止まって、信号赤だよ!」
「うるさいなあ、大丈夫だって」
恭一がこちらを振り向いた瞬間、前方から軽トラックが現れた。
「前、前!恭一!」
冴子は思わず恭一の着るTシャツを思い切り掴んだー。
「冴子さん、着きましたよ。冴子さん」
強く肩を揺すられた。ハッとして目を開ける。目の前には、新山陽治の顔があった。
「起きた。錦糸町着きましたよ」
冴子はタクシーの中にいた。オレンジ色の光で、陽治の顔に影ができる。
「あ……ごめんなさい。あっ!お金!」
冴子は急いでバックの中から財布を取り出した。メーターに表示された料金はとてもじゃないが高額だった。
「割り勘にしましょう、2000円なら僕も持ってます」
そういうと、陽治は運転手にぐしゃぐしゃな1000円札を二枚差し出した。
「これで全財産なくなっちゃった」
「いや、私が全部払いますから」
財布のなかには昨日バイトでもらったなけなしの金が入っていた。冴子は、メーターに表示されている額を全て払おうとした。
「どうします、この2000円」
運転手は道の邪魔になっていることを気にしているようで、早くしろと催促している様子だった。
「ああそれは……はい」
冴子は2000円を運転手から受け取ると、それを陽治の胸に押し付けた。
「でも……」
「早く出ましょう!」
陽治の腕を引っぱり、冴子は外に出た。
錦糸町の街は街頭がまだまだついていて明るかった。
最近できたばかりのショッピングモールのネオンが輝いている。
「なんかすみません、送ってもらって、お金も……」
陽治は右手に掴んだ2000円を眺めると、それを冴子に差し出した。
「いや、いいですから、タクシー代くらい」
「でもそれじゃあ僕の気が済まない」
「いいですから」
「さっき」
冴子が陽治を振り払い帰ろうとしたときだった。
突然陽治がこう叫んだのだ。
「あなたはタクシーのなかで泣いていたんだ。声を押し殺すように。蚊の鳴くような声で泣いていた」
ネオンの光で陽治の顔が明るみになった。彼の着ているミリタリーコートとジーンズの色まではっきりわかる。
「なにかあったんですか」
冴子はうつむいた。あの夢だ。あの日以来毎日欠かさず見ている、あの忌まわしい夢。忘れられない夢。
「俺に聞かせてください」
顔を上げると、陽治は冴子のすぐそばにいた。彼の顔はやはり端正だった。
ただこのとき気づいたのは、彼の瞳の奥に、なにか寂しさというか、孤独というような深い闇があるということだった。
「なんでかわからないけど、俺……あなたのこと放っておけないんです」
気がついたら冴子は陽治に抱きしめられていた。決してきつくではなかった。優しく、今にも壊れそうな物をそっと抱きしめるように。
「うっ……」
冴子は陽治の胸のなかで泣いた。
これが2人の出会いである。
「なにぼーっとしてんの」
ふいに現実に引き戻された。冴子は缶ビールを右手に持ち、過去へと引きずり込まれているところだった。
「冴子らしくない」
陽治はテレビを見ていたようで、奥のリビングのソファに座ってこちらを覗いている感じだった。
「ううん、平気だよ」
なんでもないという風にしてみる。陽治はそれ以上詮索してくることもなく、ふうんといってまた視線をテレビに戻した。
冴子は陽治のこんなところがすきだった。前の彼氏は、何かあるとしつこく原因を追求してきて、そのたびにストレスが溜まった。けれど陽治はそんなことをしない。
彼もそれを嫌っているからだ。
「ねえ陽治」
「何」
冴子はソファに座る陽治のところに行くと、思わず彼の首に飛びついた。
「危ないな!首絞まるよ」
言葉の割に彼は嬉しそうで、首に回っている冴子の腕をそっと掴んだ。
「……泣いてるのか」
リモコンでテレビを消すと、陽治は冴子の腕を離し、そして向き直った。冴子はソファの淵に顔を埋めていた。
「泣くなよ」
陽治は冴子を抱きしめた。冴子の肩は小刻みに震えている。
「なんで泣くの?」
「……思い出して」
「何を」
「昔のこと」
「ああ、この前言ってた……記憶喪失の」
「言わないで」
冴子がふいに顔を上げた。その反動で陽治は倒れそうになったが、彼女の腕を掴んでいたこともあってなんとか体勢を整えた。
「危ないよ」
「…ごめん。でも言わないでほしいの。あたしね、このこと夢にいっつもいっつも出てくるんだ。もう忘れたいのに。でもこれはあたしへの罰なの。あたしがあのとき2人乗りしようなんて言わなかったら……あんなことにはならなかったのに。…今は陽治だけど、あのときはね、あたし本当にあの人のことが好きだった。まだ中学生だったけど、ずっと一緒にいようって言い合ってたんだよ。そんな人が、あたしのことだけを忘れるなんて、あの時は本当に耐えられなかった。でもこれは罰なんだから、しょうがないよね」
言葉とぎれとぎれに、彼女はそう言った。
陽治は冴子を、今度は力一杯抱きしめると、一呼吸置いてから、その力を緩めた。
「そんな罰、俺が全部なくしてやる」
6
「ちょっと、折原さん、企画書の最後のページ、まとめといてもらってもいい?あたしの娘が学校でジャングルジムから落ちたらしいの!今すぐ行かないとだから、ね?頼むわね」
西野英子は早口にそう言うと編集室を出て行ってしまった。折原孝雄はため息をつく。渡された企画書は、最後のページどころかまだ筋書き程度しかできていなかったからだ。
労働基準法違反だ、訴えたいと言いたいところだが、実際それが今の状況に適例するのかもわからず、ただ渡された企画書をぱらぱらと眺めることしかできなかった。
「折原先輩、大丈夫ですか?…西野さんの娘さん、ジャングルジムから落っこちたっていうそうですけど、かなりひどいみたいなんです」
呆然とする孝雄に声をかけてきたのは、同じ編集室で働く星川沙百合である。亜麻色の髪の乙女を連想させる美女で、透き通った白い肌に、細く高い鼻、大きな猫目が形よく配置されている。
「そうなんだよ、あいつったらまったく、本当にいつもいつも……なんか面倒な仕事があると、都合良く俺に仕事を任せる」
2人はハハハと笑った。西野の娘の容態が大したことないことくらい、もうわかっていた。こんなことはよくあることで、彼女は企画書を書くときは必ず娘を使って早退する。
「じゃあなんで編集部なんか入ったんだよって話だよなあ」
「まあいいんじゃないんですか、やるときはやる西野先輩って言われてるし」
「でも、自分の娘を早退の理由に使うなんてな……」
孝雄は苦笑した。西野はシングルマザーで、夫は五年前に亡くなっていた。
「折原先輩は結婚とかなさらないんですか」
ふいに沙百合がそう聞いてきた。彼女はごく自然にそのことを聞いてきたようだったが、孝雄の心中はドキッとして、そして辛い記憶がよみがえりはじめた。
「うーん……今は、いいかなあ」
孝雄はそう答えると、ちらりと自分の左手に目をやった。彼の色黒で太い腕に巻かれていたのは、中学時代好きだった柏谷冴子がくれたミサンガであった。
「克英、ちゃんと話聞いてる?」
皆賀レイナはソファに座っていた。腰までのばした漆黒のストレートヘアをなびかせ振り向く。彼女の横には娘で5歳になったばかりの玲百奈(れもな)がちょこんと座っている。
「パパ……」
「ああ、うん、聞いてるってば。で何、引っ越ししたいの?そんなの無理だよ、お前と玲百奈にいくらかかってると思ってるんだ。笑わせんなよ」
キッチンから缶ビールを持って現れたのは、180cmは軽くありそうな長身で、切れ長の目をした顔の綺麗な男であった。男は克英と呼ばれ、面倒くさそうにレイナの向いに座った。
「わかってるのあんた。マスコミが私のところに次から次へとやってくるのよ。もうこんな生活うんざり。私が何をしたっていうのよ、子供と夫がいてその夫が大企業の社長だって公表しただけでこの有様。あなたにも多少は、責任があるのよ、責任が」
レイナは一気にそうせき立てると、またも長い髪をなびかせて今度は玲百奈のほうに向いた。
「玲百奈だって、こんな狭いマンションいやでしょ?もっと大きい、そう、海辺の一軒家なんかに住みたいわよね!?そしたら夏は毎日砂浜でバーベキューよ」
レイナは立ち上がり、大きな窓の外を覗く。まるでホテルのようだ。
「こんな……お台場の埋め立て地。はじめは高層マンションに憧れてたから、いいと思ってたけど。実際住んでみたらねえ。大地震とかおきたら津波でパアよ。私怖いもの、それにさあ…」
「海辺の一軒家のほうがよっぽど津波の危険がある」
「うるさいわねえ、とりあえず私はこんな家いやなの!!あなた社長でしょう?お金いっぱいあるくせに」
せっかくの美しい顔が、今は怒りに塗れて鬼のようになってしまっている。克英は呆れたとつぶやき、缶ビールを手にリビングを出ようとした。
「ちょっとどこ行くのよ」
「パパお出かけするの?」
それまで黙っていた玲百奈も口を開く。彼女は母親に似て漆黒の髪をしていたが、顔は父親そっくりであった。
「散歩に行ってくる、玲百奈も来るか?」
玲百奈は仁王立ちの母親と父親を見比べたあと、父親のほうへとかけていった。レイナはああもうと嘆いて、ソファに突っ伏した。
「ちょっとよく考えてろ。お前そのうち思考回路が停止しちゃうぜ?」
克英はそう言うと、缶ビールをキッチンのテーブルに置いて、玲百奈の手を引いて玄関へと向かった。靴をはき、玄関のドアノブに手をかけたとき、後ろを振り返ってみたが、レイナはそこにはいなかった。
「パパ、あのね……あたし」
「ん?なんだい?」
ゆりかもめに乗ってお台場臨海公園前に下り、その周辺を散歩している途中、玲百奈がとつぜん口を開いた。
「あたしね……引っ越したくない」
「どうして?」
「友達……さよならしなくちゃならないでしょう?」
克英は玲百奈の顔を見た。克英に似て切れ長だか綺麗な目は潤んでいた。
「うん……パパはわかってるよ」
克英は自分たち夫婦によって、この子の安らぎはどんどん奪われていってしまっているのかもしれないと、ふと感じた。
「ね、この服見て?可愛くない?あたしこういう、さりげなくフリルのついてるスカートが好きなんだよねえ。ねえ陽治、どう、似合う?」
陽治と冴子は休日を利用して地元の大型ショッピングモールにやってきていた。今時流行りなレトロ風の服を多く扱っている店に入店すると、冴子はまず一番奥の棚へと走り、そこに複数掛けてあったスカートのうちの一枚を選んだ。
「うん、似合うよ。でも俺はこっちの色の方がいいと思うな」
陽治は冴子のかざすスカートのすぐ隣に掛けてあった、色違いのスカートを手に取った。冴子は赤のスカートと違い、ベージュの落ち着いたカラーであった。
「でもそれは地味じゃない?トップスを大人っぽく見せたいから、ボトムスは赤がいいのよねえ。まあでもそっちもいいかもしんないけどさ!」
こうやって洋服を選んでいるときの冴子はとても幸せそうだった。冴子はアパレル関係の仕事に就職している。だからお洒落には気を抜かず、しかし厚化粧するわけでもなく、もともとの顔の美しい部分や体のラインを引き立たせるようなメイクや洋服を選ぶのが上手かった。
「あ、この色いいかも!ちょっと暗めだけど、でも茶色もアリだよね」
鏡に向かって自分の姿を確認しながら冴子が言った。彼女があてていたのは、少し明るめのチョコレートのような色のスカートだった。
7
「えっと、こちらへどうぞ……」
黒のスーツを身にまとった女が、恭一を案内した。ビル内は茶色と黒をベースにしていて、大理石の壁が恭一と女の全身をぼんやりと映している。
「海老名社長、あの、こちらの方が……」
五階までエレベーターでのぼり、降りてすぐ手前に社長室は存在した。海老名社長室と金の彫りで書かれている。
「ああ、お呼びしていた山本くんだ。ほら、どうぞどうぞ、こちらへどうぞ。あ、悪いけど下沢くんは外に出ていてくれ。彼と2人きりで話しがしたいんでね」
「わかりました」
女は一礼すると部屋をでた。恭一は言われるがままにこれまた黒のソファに腰掛けた。
「今日はわざわざお越し頂き、本当に申し訳ない。あなたにどうしても聞きたいことがあって、呼ぶことになった」
「はい……」
「一昨日、当社の者が君のもとへ訪れたはずだ」
「ああ……来ま、いえ、いらっしゃいました」
「まあその通りなんだがね、我が社では定期的にスカウト活動を行っている」
「ああ、それも言われました」
海老名は恭一の向かいに座り、なんだかいろいろ書いてある冊子を見せた。
「ここに一通りのことが書いてある。君は、スカウトに応じ、私と会話すること快諾したらしいが」
「まあ、快諾というか……ちょうど、職もなかったんで」
「あはは、そうかいそうかい。けれど君のような男、今までにもスカウトされたこともあるんじゃないのか?」
「えーと、いや、僕の覚えてる限りでは……ないです」
「ふむ」
海老名はある書類に目を通した。それは一昨日恭一が、スカウトマンに書かされた履歴書であった。
「スカウト?」
「はい、我が社では新しいエンターテイメントを追求するために、様々な人材を発掘しています。そのため定期的に、街でスカウトを行っているんです」
一昨日突然家へやってきたのは、某有名芸能プロダクションの社員であった。清水と入江という男2人組が、突撃訪問してきたのである。
「えーと、なんで僕に?」
「誠に勝手ながら、先ほどあなたが道を歩いているところをついていってたんです。そうしたらあなたがここのアパートに入ったので……」
清水と入江は顔を合わせた。恭一は困惑した。スカウトというものを体験したことがなかったからだ。まるでストーカーではないか。
「ああ、そうなんですか。まあなんのスカウトだか知りませんけど、僕そういうの興味ないんで」
「いえ、お話だけでも聞いて下さい。売れれば契約初年度から年収2000万も夢じゃないんです」
清水のほうが一歩前に出た。彼は茶色のかかった髪をしていて、眼鏡をかけていた。
「いやいや、そんな……僕が芸能人なんて、そんな……」
恭一は思わず、玄関に掛けてある鏡を見た。鏡に映った自分の顔を見た。確かに悪いというわけでもないが、特別いいというわけでもない。毎日みている顔なので、こんなんが世間に受けるのかと疑問を抱いた。
「契約金も、具体的な数字は明かせませんが高額です。是非うちの社長に一度お会いいただけませんか?」
驚いた。まさかいきなり社長のお出ましとは。スカウトとはそんな軽いもんなんだよと、確か友人が話していた気がする。
「ええでも……いつですか」
「あっ、えっと、明日はどうでしょうか」
「明日?そんな急ですよ。明日はバイトが」
「ああじゃあ明後日なら空いていらっしゃいますか?なるべく早い方がいいので」
「あー…明後日なら」
「ありがとうございます、あ、これ資料なのでよくお読み下さい。それから、こちらの履歴書をお書きいただいても…」
「ちょっと待って下さい、そんな、それじゃこの場で契約してるみたいじゃないですか。困りますよそれじゃあ。第一あなた方が本当にそのプロダクションの方なのかもわかりませんし……」
「そういうことならご心配なく」
入江がすっと前に出てきて、自分のスーツの胸ポケットから何やら社員カードのようなものを取り出した。
「ここに某プロダクションの名前が書いてあるでしょう。それにこのバーコードリーダは、当社の社員しか持っていないシステムなんです」
「そんなの作ろうと思えばいくらだって……」
「山本さん、社長です」
清水が割って入ってきて、恭一に携帯電話を手渡した。恭一は困惑した表情を浮かべたが、いいから出てと清水に言われ、仕方がなく電話に出た。
「…もしもし」
『ああ、もしもし。私は◯◯プロダクションの海老名繁光代表取締役です。突然のスカウト訪問、ご迷惑をおかけし申し訳ございません』
ゴクリと唾を飲んだ。この落ち着き払った声は、テレビで聞いたことのある声である。有名プロダクション社長の海老名繁光。名前はおそらく日本国民ならだれでも知っていることであろう。
「あの……明後日」
『ああ、明後日私と直接お会いしお話をさせて頂きたいんですがよろしいでしょうか。詳しいことはうちの社員からお聞きになられてると思いますが』
恭一はちらと2人をみた。どちらも満面の笑みで彼をみている。
『まあ、その2人はうちの社員でも凄腕のスカウトマンなんですよ。だからきっと山本さんが素晴らしい方なのだと期待しています。明後日、午後1時頃に本社にお越しになって下さい。受付に行って頂ければ案内しますので』
はあ、と気のない返事をしたときにはもう、清水に携帯電話を奪われていた。
「ちょっと話が急過ぎますよ。いくらなんでも……」
「大丈夫です」
入江は相変わらず満面の笑みで玄関のドアを開けた。
「僕たちのスカウトした方は、全員成功しているんですよ。今では超大物の◯◯さんという方がいらっしゃるでしょう、あの方も僕ら2人がスカウトしたんです。こうやって、あなたと同じように。こちらの履歴書、お下記になっていただけますね?」
もう断りざるおえないので仕方がなく履歴書に記入を始めた。恭一がいろいろ書いてあるあいだ、清水が小声で社長と通話している。その表情実には嬉しそうだった。
恭一が履歴書を書き終えると、ちょうど清水が海老名との電話を終え、玄関から出た。
「それでは明後日、お待ちしております」
2人は一礼すると、満面の笑みのまま家を出て行った。
恭一は呆然と立ち尽くし、渡されたパンフレットや冊子を見つめ、そしてそれから鏡を見た。
先ほどよりか自分の顔に自信が持てた気がした。
「でも芸能人って…そんな、僕なんかがなっていいものなんでしょうか」
「いいや、君のルックスはかなりのものだよ。それより君は、中学生のときに事故に遭ったみたいだね」
海老名の視線は一点に止まっていた。恭一はギクリとする。
「ええ、ああ、まあ」
と気のない返事をして、その話題については触れてほしくないという風にうつむいてみた。
が、しかし、海老名はそういうところで気の利かない男であった。
「どんな事故だった?」
「え、あの、その、2人乗りしてて…」
「それで?」
「信号無視して車に横からぶつかって、まあ」
「これまた危ないことする子だったんだねえ」
海老名は声を上げて笑った。何がおかしいのか恭一には理解できなかったが、とりあえず黙っていることにした。
「まあ俺も羽目を外していたよ、中坊のころなんかはね」
履歴書をテーブルに置き、腕を組むと、海老名は昔懐かしいというように語り始めた。
「君とおなじみたいに、自転車で2人乗りして事故に遭ったりとか、そういうのじゃないけどガキの頃はよく万引きなんかもしてたなあ。思い出すと俺は随分な悪ガキだったよ」
そうですか、と小声で答え、恭一は向かい側の壁にかけられてある時計を目にした。特に用はなかったが、早くこの場を立ち去りたいという気持ちでいっぱいになっていた。
最初にここに来てから30分経過していた。
「まあ君が乗り気じゃないなら、この話は断ち切るとしよう。でも小さな雑誌でもいいから、出てくれないかな?契約金は高額なものだし、君にとって損することはないだろう。むしろ得ばかりだ。歩いていれば声をかけられ、かっこいいかっこいいともてはやされる。いい話じゃないか?」
ズイと身を乗り出し、海老名はにんまりと笑った。歩いていて声をかけられるのが一番困ると答えると、じゃあサングラスでもなんでもかければいいだろうと反論がくる。
「本当にこの通りなんですか。なんかもう信じられなくて……」
「君もなかなか大口叩くやつだなあ。当たり前だ。世界の海老名が言っているのだからね」
本当に豪語を次から次へと話す奴だなと恭一は思った。まあ、この契約金がその通りなら、別に芸能界入りも悪くないかもしれない。売れるかは微妙な所だが。
「わかりました。契約します」
海老名は腕をほどき、今度は満面の笑みで
「本当かい。これは大物が生まれるぞ」
と言った。
8
冬がきた。陽治と冴子は2人でお台場にやってきていた。お台場の海でいろいろ語り、そのあとパレットタウン方面で買い物を楽しんだあと、また海岸沿いを並んで歩いた。
「この間買ったスカート履いてみたけど、うん、陽治におすすめされた色でよかったかも。トップス赤にボトムスベージュでも似合うかもしれない」
冴子の笑顔はひまわりみたいだ。陽治のよく使う慣用句の通り、彼女の笑顔がひまわりそのものであった。屈託のない笑顔に、陽治は安らぎを感じる。
「うん、似合ってるよ。すごく」
「ありがとう、なんか、陽治にそう言われると嬉しいかも」
2人の影は夕日に照らされていた。
14年の音