怪力少女・近江兼伝・第4部「流水の記」

表題にある通り、全11部の連載小説の中の第4部になります。
どうか最初から読むようにして下さい。
中学女子柔道の県大会に出ることになった茜。団体戦のためオーダー表の提出の仕方で勝敗の分かれ目になることも。その辺の駆け引きも含めて柔道の試合を楽しんでもらえればと思います。
柔道のことをあまり知らない人でも読めるように書いた積もりですが・・いかがでしょうか?

柔道県大会は広国市の市立体育館で行われる。
女子団体戦8校、男子団体戦32校で行われる。
女子は最初から準準決勝で、3試合勝ち抜けば優勝である。
男子の場合は対戦式で最初に3勝したチームの勝ちだが、女子の場合は対戦式だが、先峰から主将戦まで5試合とも終わってから3勝以上を勝者とする。
つまり、出場校も少ないこともあり、できるだけ試合の機会を与えようという主催側の配慮である。
一応、準準決勝ではくじ引きで次のようになった。


第一試合(広国南中学校 VS 小室中学校)
第二試合(広国中央中学校 VS 森山中学校)
第三試合(青布根中学校  VS 山石中学校)
第四試合(稲葉中学校  VS 華島中学校)


山石中学校女子柔道部の部長の牛島里美はオーダー表を持って監督と相談してた。

「青布根中学校は県大会に初めて出てきますよね、監督」
「うん、個人戦はあるが、団体戦は初めてだ。
地域ブロック大会での資料を手に入れてきた。
実力で言うと3年の田丸、これは去年個人戦で登場した田丸の妹になる。
こいつは初段だ。お前と同じだが、姉と同じで体重がある。
そして上四方固めとか送り襟絞めとかいういやらしい技で決めている。」
「何番目で出てきますかね」
「県大会初めてだからうまくいけば素直に主将で五番目に出てくると思う。」
「駆け引きしないんですか?」
「ブロック大会ではすべてオーダーが実力の逆順になっている。だから、こっちはその裏をかけばいい。」
「副将は誰ですか?」
「佐々木こいつは一級茶帯だ。内股が得意だ。
中堅は同じく一級の長尾だが、鎖骨を折って出場できない。
だから、今まで次峰だった西村が中堅に出てくると予想される。こいつは2級で足払いと背負い投げをやたらしかけるがあまり成功しない。」
「カモですね。」
「でもって、今まで先峰だった鈴木が次峰で出てくると予想する。こいつは三級茶帯だ。決め技はあまりないが、ねばって手こずらせる。引き分けの経験が結構ある。」
「嫌ですね。で、先峰は補欠だった選手ですか」
「木崎といって、これが白帯で、噂だと本当の初心者みたいだ。」
「スパイを放しますか?」
「さきにオーダーを出さなきゃいけないだろう。どうする?初戦はうちの先峰をそのままぶつけるか?うちはお前以外全部茶帯だから大丈夫だろう。」
「あまりこんなことしたくないんですが、主将戦にうちの一年生ぶつけて、私副将戦でやれば四勝は確実な気がするんですが。」
「うん。一年生は白石か。3級茶帯だからまず初段の田丸にはかなわないだろう。
で、先峰を新田が2級で白帯の田崎をやる。これは勝てる。
次峰は1級の我妻で相手は三級の鈴木だ。これも勝てる。
中堅も1級の今野で相手は2級の西村だ。勝てるだろう。
で、副将が牛島お前で黒帯だ。相手は茶帯の佐々木だ。これも勝てる。よし、この作戦で行こう。」



一方、青布根中学校の部長田丸秀美初段は部員と相談していた。
顧問の先生は柔道は素人で生徒にオーダーを任せていたからだ。
集まっているのは、副部長の佐々木郁子1級。西村香2級。ここまでが3年生。
あとは、2年生で3級の鈴木美里。同じく2年生の木崎茜の初級白帯が顔を揃えている。

「私聞いたんだけど県大会って、オーダーを目茶目茶崩して先に勝ちに来るってのが結構あるんだってね。」

田丸が部員に言った。

「だから、地域ブロックのときみたいに馬鹿正直にオーダー出す必要ないんだよ」
「じゃあ、どうします?」

副部長の佐々木が聞くと、田丸は大きく頷いた。

「つまり、我が部の三強が先に三勝しちゃうの。私とあんたと西村でやる。
で、副将に木崎、主将戦に鈴木をやるってのはどうかな?」
「あっ、いいかも。それで行きましょう。まさか副将に白帯持ってくるとは思わないでしょう?
で、木崎あんたはどんな技できるの?」

佐々木に聞かれて茜は正直に答えた。

「受身と足払いと背負い投げと巴投げの四つしか知りません」
「受身は技じゃないよ。受身で相手を倒した奴はいないんだから。
その四つのどれでも思いっきりやんな。駄目もとでいいから。」
「はい。」
「佐々木、木崎は案外ダークホースなんだよ。試合経験はあまりないけど絞め技も持ってるらしい」

田丸がそういうと、佐々木は喜んだ。

「そうなんだ。よし、木崎、しめてやれ。もうなんでもやってくれ」

田丸は鈴木に言った。

「あんたは主将だけど、とにかくねばれ。技なんかかけなくてもいいから、引き分けに持っていけ。」
「はい」


そんな風に相談してたので、第一試合は見てなかった。
そして第二試合が始まるちょっと前にオーダーが発表された。

(先峰戦) 新田2級(山石)VS 田丸初段(青布根)
(次峰戦) 我妻1級(山石)VS 佐々木1級(青布根)
(中堅戦) 今野1級(山石)VS 西村2級 (青布根)
(副将戦) 牛島初段(山石)VS 木崎初級 (青布根)
(主将戦) 白石3級(山石)VS 鈴木3級 (青布根)

次峰戦の佐々木が腕を組んだ。

「我妻って大外刈りが決め技らしいぞ。じゃあ、私の内股との戦いってことになるな。」
中堅戦の西村は今野の情報を集めていた。

「今野は背負い投げが得意らしい。私とかぶってるなあ。やりづらい!」

田丸は鈴木の背中を叩いて景気づけをしてた。

「鈴木。お前じっくり言って、引き分けに持って言ってもいいし、相手が焦ってたら技を返してもいいぞ。」

田丸は茜のところにも来た。

「田崎・・さん。姉から聞いてる。相手は初段だけど頼むよ」

そう囁くとすっと通り過ぎた。



第一試合は小室中学校が広国南を3-2で負かして、準決勝に進んだ。

第二試合が始まり、先峰戦になった。
青布根の田丸が山石の新田を押さえ込みで一本勝ち。

次峰戦は山石の我妻が青布根の新田を大外刈りで有効。判定勝ちになった。


中堅戦は山石の今野が青布根の西村と背負い投げのかけ合いをして最後に判定勝ち。


そして副将戦を迎えた。
山石側はもう勝ったも同然と喜んでいた。
部長の牛島は元気良く監督に声をかけた。

「監督、勝ちに行ってきます。なんか体格も貧弱ですね。あれは柔道というよりも卓球かテニスって感じ。
道を間違えましたね、あの木崎って子」
「だけど、顔の表情見てると全然緊張してないぞ。油断するなよ」
「白帯にどうやったら負けるんですか、嫌ですよ監督」

牛島は茜と向かい合って気づいたことがある。
これから試合をするというのに、闘志も恐怖も相手から感じないのだ。
まして自分は初段の上級者だ。
それとも始めから勝負を諦めて開き直っているのか、顔がかすかに微笑んでいるような感じもする。
牛島は小さくつぶやいた。

「おい、少しは緊張すれよ。これからお前と楽しいダンスを踊るわけじゃないんだ、木島」

もちろん、相手には聞こえないが顔の表情でなにか伝わったと思った。
試合開始の合図で茜が襟と袖を掴んできたので、牛島は鼻で笑った。

(私と組めると思ったのかい、十年早いよ)

そして、軽く茜の手を払いのけようとした。
だが、茜の手は襟からも袖からも外れなかった。

(あれ、どうしてはずれないんだ?)

一瞬、牛島が戸惑いを見せたとき、茜の体が沈んだ。
牛島は前のめりになったと思ったら、空中に浮かんだ。

「あ、巴投げだ!」

会場の誰かが叫んだ。
ダーンと、会場に響き渡る音。
茜は牛島を掴んだ手を離さずに投げたので、牛島は背中から落ちた。

「えっ?」

牛島は何が起きたか信じられなかった。
審判は相手の方の勝利を判定している。
つまり、自分は学年も下で体格も劣る、段位もはるかに格下の相手に秒殺されたのだ。


牛島は呆然として監督のところに戻って来た。

「監督・・何がおきたか私にはわかりません。」
「俺も見ていてわからなかった。普通あの体勢で巴投げは成功しないだろう。
その前になんで襟を掴ませたんだ?というか振り払えなかったんだ?」
「手が縫いつけられたみたいにくっついて離れませんでした。」
「・・・・・」
「これで2-2になったので、あとは主将戦で白石に期待するしかありません。」
「・・そうだな・・・・」

主将戦は3級の茶帯通しだった。
鈴木はとにかく引き分けてもいいという感じで粘り通した。
だが、白石は牛島からも期待されてたので、勝ちを焦るあまり、技をしかけて不発になったり、返されてしまったりでポイントが下がってしまった。
結果青布根の鈴木の優勢勝ちになった。
青布根はぎりぎりのところで勝ちを拾って準決勝進出を決めた。



準準決勝の四試合が全部終わって準決勝の対戦が決まった。

第一試合 小室中 VS 森山中
第二試合 青布根中 VS 華島中


田丸はオーダー用紙を持って選手たちに言った。

「やっぱり今回はブロックのときと同じく段位の低い順から行こう。鈴木に最後を任せて負担をかけてしまった。」

佐々木はしょんぼりしてたが口を開いた。

「木崎、鈴木、西村、私、田丸さんの順ですか?華島の方はどんなオーダーだったんですか?」
「さきほどの試合では、小野田1級、徳成初段、和田初段、前野1級、辰野2段の順だ」
「中学生で2段なんているんですか?」
「15歳になっていれば昇段試験を受けられるのでいても不思議はないよ」
「正直どうやっても無理でしょ。勝てないですよ」

そこへ一人の男子生徒がやってきた。

「こんにちは。選手の皆さん、お疲れ様です。」

そう言いながら、缶ジュースを差し入れてくれた。

「ありがとうございます。えーっと、あなたは?」

田丸の問いかけに、長髪で綺麗な顔立ちのその男子はにっこりと笑った。

「あ、僕は木崎さんのファンで、野沢と言います。
僕きょうは私服で来たのでたった今華島中の生徒に紛れて、オーダー順について聞いて来ましたよ。」
「えっ、そんなことどうやって聞いて来たの?」
「いえ、オーダー表はそのままでいいよねって、言っているのが聞こえたんです。」
「ありがとう。じゃあ、準準決勝のときと同じってことだね。みんな、どうする?」

佐々木はメモを見ながら悩んだ。

「勝とうと思えば先峰の小野田1級か副将の前野1級しかいないけど。
どっちがいいか、試合見てないものだからわからない・・・。」
「小野田さんは初段相手に勝ってます。前野さんは同じ一級の相手と引き分けてます。」

そう教えたのは野沢英一だった。

「じゃあ、前野とやろう。わざわざ勢いづいている相手を選ぶことはないから。」

田丸は野沢に笑いかけて

「野沢君、私は辰野二段は無理だから、徳成初段か和田初段のどちらかとやるしかないと思うけど、なんか情報ない?」
「どちらも一本勝ちです。でも、体格は徳成さんの方が小柄ですね」
「じゃあ、徳成にしよう。ということは次峰だな。でも困ったな。辰野や和田と誰がやればいいかな?」
「辰野さんには木崎さんがいいんじゃないですか?さっきも有段者に勝ってるし。」
「でもそれなら手堅く和田にぶつけた方がまだ希望が持てるような気がする」
「僕はフアンとして、木崎さんが辰野さんと勝負するところ見たいな」
「田丸さん、私やってもいいです。」

茜がそう言ったので、すぐ決まった。主将戦だ。
残りの和田初段には西村2級が、小野田1級には鈴木3級が対戦することにした。
そしてオーダーが発表された。

先峰戦  小野田1級(華島)級VS鈴木3級(青布根)
次峰戦  徳成初段(華島)VS田丸初段(青布根)
中堅戦  和田初段(華島)VS西村2級(青布根)
副将戦  前野1級(華島)VS佐々木1級(青布根)
主将戦  辰野2段(華島)VS木崎初級(青布根)



試合前に華島中の部長辰野楓がやって来た。

「すみません。華島中の辰野ですが、木崎さんいらっしゃいますか?」

柔道選手としては均整のとれた体格をした背の高い少女だった。
田丸が慌てて茜をかばう様に前に立ちはだかった。

「辰野さん、困りますよ。試合前に対戦相手に会いに来るなんて」
「いいじゃないですか。だって、すごく興味あるんです。ちょっとだけ見せてくださいよ。」
「触った振りして怪我でもさせられたら困るんですから」
「そんな汚いことしませんから、会わせてください」
「田丸さん、いいですよ。私見られても」

茜は田丸を宥めて、前に出た。

「こんにちは、辰野さんですね。試合のときは宜しくお願いします。」
「こんにちは・・・・・うわあ、可愛い。えっ、嘘。あなたが山石中の牛島さんを巴投げで破ったご本人?」
「・・・木崎です。」
「あなた柔道どのくらいやってるの?本当に初級?」
「去年高校生のお姉さんに一日だけ教えてもらいました。」
「それじゃあ、初級ですらないよね。
そのとき巴投げを教えてもらったの?巴投げなんて、今どきやる人少ないよ。
成功率低いもの。一日習っただけでよくできたよね。
しかも一年ぶりなんでしょ?」
「はあ・・・」
「はい、そこまで。もうそれ以上は企業秘密だから、駄目です、辰野さん」

田丸がまた強引に真ん中に割って入ってきた。

「そんなこと言わないで、お願い田丸さん」

辰野が田丸をハグして甘えるように言った。

「ダ・・駄目。女の色気は女には通じないんだから」
「田丸さん、いいじゃないですか、別に隠すようなことないですよ」

茜は田丸を宥めてまた、前に出た。

「ありがとう。木崎さん。あなた、他に何かスポーツしてた?」
「スポーツじゃないけど、一日だけクラシックバレーの教室に見学に行って・・・」
「見学に行って・・?」
「少し、ターンだとかジャンプだとか一緒にしてきました。」
「少し体触っていい?」
「だめ、辰野さん。触ったら料金とるよ」

田丸が止める間もなく辰野は茜の体を触った。
両肩から腕をすーっと撫で降ろすと、今度はしゃがんで茜の両腿とふくらはぎをすーっと撫で下ろした。
そして最後に立ち上がって手を触ってから首を傾げた。

「握力がある手のようには見えないけど・・・・」

そして、柔道着の上から肩にかけていたポシェットからキャンディを5・6個出すと、田丸の手に握らせた。

「はい、これ料金ね。どうもありがとう。田丸さん」

そう言って行きかけた辰野は振り返って茜に言った。

「木崎さん、あなたの筋肉ってとっても不思議」

茜が返答に困っていると、辰野はそのまま行ってしまった。

「どういう意味ですか今の?田丸さん」
「その手にはのらないこと。ただ揺さぶりをかけてるだけだから」



「辰野さん、どこへ行ってたんですか?」
和田一美が戻って来た部長に尋ねた。
辰野楓は浮かない顔をしている。
「見てきたよ、木崎って子」
「見てきたんですか?」
「どうも納得いかないし、不安でしょうがない」
「牛島との試合ですか?」
「ああ、牛島は素人に負けるような選手じゃない。」
「素人?」
「木崎は柔道をやったことが殆どないんだ。驚くだろう?それが巴投げだよ。」
「初級って言ってましたね」
「初級ですらないよ。1日しか勉強してないんだから。」
「普通そんな子に初段は負けませんよね」
「それも、筋肉隆々のモンスターというなら話がわかるが・・・。」
「遠目に見ても小柄で細い子でしたよね。案外、着やせして中身は鋼鉄の体だったとか・・ははは・・冗談ですけど」
「実は触ってきたんだよ。もうルール違反は承知の上さ。どうだったと思う。」
「どうだったんですか?」
「まるで骨がないみたいにふにゃふにゃした・・・なんというか力仕事をしたことが一度もないお姫様みたいな体だったよ」
「げっ・・・そんな馬鹿な話ないでしょ・・」
「和田、あんた確か牛島とやったことがあるよな」
「はい、負けましたけど」
「牛島の襟を掴むことできるか?」
「掴ませませんもの。自分は掴むくせに」
「あいつは牛島より先に掴んで、巴投げをした後も放さなかったんだぞ」
「そ・・・そうでしたね。だから、体を起こせなかったんだった」
「それって、どのくらいの力がいると思う」
「男の有段者くらいの力でしょうね。それも大人の・・・」
「じゃあ、私も勝てないね」
「ええっ・・・まさか・・・」
「そう・・・そのまさかだよ。だから不安なんだ。」
「監督はなんて・・・」
「私にもわかんないのに、監督にわかるわけないだろう」
「はあ・・・・」
それきり二人は黙り込んでしまった。


そうこうしているうちに準決勝第二試合の開始時間になった。



先峰戦は前の試合で初段を破った小野田1級と鈴木3級の試合だ。

鈴木はよく粘ったが小野田が通常の背負い投げではかからないと見て、膝をつけて引き落とす背負い落しで、一本勝ちになる。


次峰戦は徳成と田丸の初段同士。
体重に勝る田丸が技をかけようとして崩れた徳成を帯の後ろを掴んで仰向けに倒し、袈裟固めで押さえ込んで一本勝ち。


中堅戦は和田初段が西村2級の首を抱え、腰の上で上体を回転させて投げる、腰車で一本勝ち。


副将戦では前野1級が佐々木1級の内股を警戒して、横に逃げたところを大外刈りで一本を取られる。
佐々木は前の試合で相手から大外刈りを何度もかけられたため、それでヒントを得たという。


そしていよいよ2-2ので同点で主将戦を迎えた。
田丸は茜に囁いた。

「勝てそうかい?」
「異種格闘技なら勝てるかもしれませんが、柔道のルールで勝つのは難しいです。あの、前から絞める技ってありますか?」
「突っ込み絞めってのがある。両手でこういう風に襟を掴んで絞める方法だよ」
「できたらやってみます。」


茜は、試合開始早々、辰野を掴んで背負い投げをかけた。
しかし背後から足を絡ませて投げさせなかった。
巴投げにしようとしたら、一緒にしゃがんで投げさせない。
その状態で茜は相手の右袖を掴んでいた左手を相手の右襟に移した。
右手は左襟を掴んでいたので、その両手で両襟を絞めた。突っ込み絞めである。
普通なら軽く振り払ってしまうところだが、何故か辰野は茜の手から逃れることができなかった。
このままだと落ちてしまう。辰野は勝負の行方を見切った。
そして、タップをして降参した。一瞬の勝負だった。
辰野は緩められた襟を直しながら咳をした。

「うう・・・死ぬかと思った。この技もたった一日で覚えたの」
「これはさっき田丸さんから教えてもらったんです。
だって、投げさせてくれなさそうだったから、絞めるしかないじゃないですか」
「そこ、話をしないで挨拶!」

審判に注意されて二人は所定の位置につき礼をした。
またしても青布根は勝って、決勝に進んだ。



準決勝の第一試合は終わっていて、小室中学が決勝に上がっていた。
決勝戦は、青布根中と小室中の対戦になった。
そこで、オーダー表を配る前に決勝戦のやり方に選択の余地があることが告げられた。
つまり、準決勝までは対戦式で五試合とも終える方法だった。
けれど、もし両チームとも希望した場合、勝ち抜き方式に変えることができるというものだ。


「だけど県大会の決勝ではこういう特別枠の勝ち抜きってのもあるけど、使われた試しがないよね。」 

田丸が佐々木にオーダー用紙を振りながら言った。

「勝ち抜きにするためには両チームの希望が一致しなければ駄目だから、要するに面倒なんですよ」
「でも、もしできるなら勝ち抜きにしたいな。だって、辰野楓を破った白帯がうちにはいるんだからさ。」
「一応聞いてみようか、小室中の安藤に」
「そうだな、私が聞いてくるわ。」


数分後田丸は機嫌よく戻って来た。

「OKだわ。向こうも勝ち抜きが良いって言ってきた。」
「どうして向こうも承知したんでしょうね?」
「それは外人選手がいるからです」

爽やかな笑顔で再登場したのは、野沢英一だった。

「ドイツ人留学生で、ゲルダ・ジークリートという子が、ずっと、サブミッションで勝ち進んでいます。」
「サブミッションか・・・」


田丸は暗い表情になった。

「つまり、関節技ってことだね。立ち技でやるとしたら肘固めかな」
「はい、アーム・ロック・・・いわゆる腕がらみという技です。それだけで有段者を何人も破ってます。
握力や腕力も相当なものですよ」
「段位は?」
「向こうでも、それだけを習ってきたようで、他の技をしらないから日本では白帯扱いです。」
「うちと同じく最強の白帯がいるってことね・・」

田丸は佐々木と相談して茜だけを最後にして、後は段位の低いものから順にオーダーを決めた。
そして、決勝戦前に対戦順が発表された。



青布根中 鈴木3級ー西村2級ー佐々木1級ー田丸初段ー木崎初級
小室中  ジークリット初級ー神埼1級ー小野寺2級ー立花初段ー安藤初段


「おいおい、いきなりゲルダかい。下手したら4人抜きされるかも。」

そこで急きょ腕がらみの対策になった。
茜は腕がらみの方法を教え込まれ、他の四人にかける役をやった。
腕がらみのやり方は、相手の手首を握った自分の手首をもう一方の手で掴むのだが、掴むときに相手肘周辺にからむようにして極めるのだ。
そうすると相手の肘に負担がかかり降参することになる。
茜はかなり力を制撫してかけたが、それでも一度極めると誰もそこから逃れることはできなかった。
つまり、そうなる前になんとか逃げなければならない。
または、そうなる前にこっちから技をかけて倒さなければならないのだ。
だが、技をかけようと襟を掴んだ途端その手首を掴まれるため、向こうの技の方が速いのだ。
そうこうしている内に、試合が始まった。



第一戦 ゲルダ 対 鈴木

ゲルダは身長170cmほどあり、肩幅も広い筋肉質の少女だった。
一方鈴木は160cm前後で上背だけでも10cm違う。
ゲルダはリーチが長いので、近づくと鈴木が先に捕まってしまう。
それで、逃げてばかりいると、教育的指導が入った。
つまり、鈴木が消極的なので、もっと積極的に攻めろという指導だ。
そこで鈴木は足元に飛び込んでゲルダの左足を掴み、ひっくり返そうとした。
ところがゲルダは屈み込んだ鈴木の後ろ帯を掴み、鈴木の腰を持ち上げた。
鈴木は腰を捻って逃げようとした。
ゲルダは帯を掴んだ手を離し、鈴木の背中の上に覆い被さり、押しつぶそうとした。
鈴木は相手の足を掴んだ手を離し、逃れようとする。
鈴木は亀状態になり、ゲルダも攻めあぐねて、「待て」がかかった。
再びスタンドに戻り、鈴木は今度はゲルダの腕の下を掻い潜って、胴に抱きついた。
鈴木は両手で帯の後ろを掴み相撲の両差し上体になった。
だが、ゲルダは自分の右手を背中に廻し鈴木の左手首を掴んで帯から引き剥がした。
そして左手を上から鈴木の脇の下を潜らせて、自分の右手首を掴む。
それで腕がらみが極まった。
鈴木は健闘空しく、タップをして降参した。


「くそっ、なんて馬鹿力なんだ。万力に掴まれたみたいだったよ」

戻ってきた鈴木はそう言って悔しがった。

「鈴木、お前はよくがんばったよ。私がなんとかする。」

西村が眦を上げて立ち上がった。




第二戦 ゲルダ 対 西村

試合開始と同時に西村はゲルダの懐に飛び込んで背負い投げをかけた。
物凄いスピードである。
だが、ゲルダの両足は床から浮くこともなかった。
ゲルダは背後から西村を抱きかかえて、倒そうとする。
西村はうつ伏せのまま体を丸めて逃れる。
審判から「待て」がかかり、再びスタンドに。
再び西村が飛び込むと今度は相手の襟を掴んだ右手首を右手で掴まれて襟から離された。
そのまま捻るように下げられると、ゲルダの左手が下から掬うように絡んできて、腕がらみを極められた。
西村はどうすることもできずにタップして、負けを認めた。


「いくら速くても同じ技をかければ二度目は捕まる」

戻って来た西村に佐々木がこっそり言う。西村はその通りだと頷く。




第三戦 ゲルダ 対 佐々木

佐々木がゲルダの左襟を右手で掴んだとき、ゲルダは佐々木の右手首を右手でつかんだ。
そしてゲルダが佐々木の右手を襟から引き剥がそうとした瞬間、佐々木はゲルダの右足に足払いをかけた。
向かって左方向に倒れるゲルダの右袖を強く引きながら、佐々木は右手首を掴まれたまま、襟を離さず体をゲルダの上体にぶつけて行った。
そのため、ゲルダは倒れながら仰向けになり、背中から床に落ちた。
佐々木の一本勝ちだった。
青布根側からどっと歓声があがる。




第四戦 神埼1級 対 佐々木1級

佐々木はゲルダに見事に勝ったが、神埼に対して精彩がなかった。
そして、皮肉にも自分の最も得意とする内股で一本を取られた。
試合開始から僅か1分ほどだった。


「一体どうしたんだ?」

田丸が戻って来た佐々木に聞くと、右手を振ってみせた。

「ゲルダを倒したとき、あいつ右手を離さないもんだから、手首を傷めたんだよ」

つまり右手首を捻挫したため、力が入らず技をかけられなかったのだ。


第五戦 神埼1級 対 田丸初段

試合開始直後、内股をかけようとした神埼を背後から送り襟締めにして、田丸の勝ち。あっという間に決まった。



第六戦 小野寺2級 対 田丸初段

田丸が小野寺を引きずり倒して上四方固めで押さえ込んだ。


第七戦 立花初段 対 田丸初段

しばらく膠着状態が続いたが、立花がいきなり田丸の足を取って、仰向けに倒した。
それまで上体ばかり攻めてきていたので、田丸は油断していたのだ。


「木崎・・・さん、頼む。後二人・・」

田丸は木崎とすれ違いざまにそう囁いた。



第八戦 立花初段 対 木崎初級

茜は155cmの身長だが、立花は165cmくらいあり、横幅もあって、体格差が目立つ。
試合開始と同時に立花が茜の襟を掴んだ。
茜はその手首を掴み、腕がらみに持って行こうとする。
立花は茜の力が意外に強いので慌ててそれを振りほどく。
実は茜はわざと力を抜いて振りほどかせたのだ。
振りほどいた瞬間上背の低い茜は体を沈め、相手の両足を掴んだ。
立花は鼻で笑った。
その前の試合で自分がやったことを真似しているからだ。
そして、足を踏ん張っている限り、こんな小さい相手に倒されることがないと知っているからだ。
だが、立花は両足が束ねられ持ち上げられるのを感じた。
次の瞬間立花は仰向けに倒されて背中を床に打ち付けていた。
立花はどうして自分が倒されたのかわからなかった。


「腕がらみもやろうとしてたな」

安藤が肩を落して戻ってきた立花に聞いた。

「それは大した力ではなかったんですが、足を掬われるとき並みの力ではなかったような気が・・・」
「あの体格でありえないだろう。立花の油断じゃないのか?」
「だって、あの体勢で普通足をとられないじゃないですか?」
「そう言われれば・・・辰野を突っ込み締めで一本勝ちした奴だから、かなりの力があるんだろうな」

そんな会話がなされた。



第九戦 (最終戦) 安藤初段 対 木崎初級

安藤はゲルダより僅かに背が低い168cmだが、横幅も厚みもずっとあって、体重が80kgほどあった。
茜の体重はその半分ほどである。
だが、勝負はあっという間についた。
茜と安藤が組んだ瞬間、背負い投げで安藤が宙を飛んで床に打ちつけられた。
誰も茜がそんな技をかけるとは思っていなかった。
決勝戦の最終試合が秒殺の技だったので、会場がどよめいた。
隣でやっている男子の試合を見ていた観客も、その瞬間女子の試合場の方に目を移したほどだ。




女子の決勝戦が終わると、試合場は男子の試合で使われることになり、全試合が終わって表彰式になるまで、茜たちは控え室に移ることになった。
遠くから来ている選手たちもいるので、優勝チームと準優勝チーム以外は先に帰ってしまう。それで、一応柔道マットを敷いた控え室もがらんとしていた。
女子選手控え室に柔道着を着た男子たちが入ってきたのは、茜たちがお茶を飲んだ後、ごろごろしていたときだった。

「ここ青布根中だよな。木崎茜いるか?」
「なにさ、あんたたち失礼じゃない?」

田丸が無礼な男どもを一喝した。

「自分の方は名乗りもしないで、しかもいきなり呼び捨てなの?それにここは女子控え室よ。
用事があるなら、ずかずか入って来ないで、ノックして入り口で呼び出すのが普通でしょ?
そんなこともわかんないの?」
「うるせいな、ばばあ黙ってろ。でぶ。」
「なに・・・なんですって!!」

怒った田丸の方を無視して、最初の男は茜に言った。

「お前、広国南中の藤崎さん知ってるだろう。午前中の個人戦で優勝した二段の方だ。」


茜は窓の方を見て座っていて、首を廻してちらっと見たが、また何も言わずに視線を元に戻した。

「おい、なんだ?その態度は?お前女の個人戦の優勝者の辰野楓を破ったろう?
だから実質女のナンバーワンだろうが?だから、藤崎さんが挨拶に来てやったのになんでシカトしてんだ。」

茜よりも20cmくらい背が高いその男子が、座っている茜の背後から肩に手をかけぐいっと引いた。
茜は仰向けに倒されたが、すぐそのまま回転してすくっと立ち上がった。
そしていつの間にか自分の肩を掴んだ手を腕がらみで極めていた。

「痛・・痛い・・・やめろ」

茜が腕がらみを解くと、その男はいきなり茜の胸倉を掴んできた。

「てめえ、なにしやがる、女のくせに!!」

茜はその手を掴むと襟から外しながら捻って足払いで倒した。
男は思い切り倒れて柔道畳の上に音をたてて打ちつけられた。
入って来たのは5人だったが、残りの四人のうち三人が茜に迫って来た。

「こいつを連れて行け。礼儀を知らない奴だ」

最初の男は茶帯だが、後の四人は黒帯である。
つまり三人の黒帯が茜を囲んで連れて行こうとしていたのだ。

「やめてよ、先生方に言いつけるよ」

田丸が怒りに声を震わせた。

「デブは黙ってろ!!」

すると男たちに囲まれて姿が見えないところから声が聞こえた。

「大丈夫・・・柔道はわかんないけど・・・」

茜はようやく喋った。


「・・・格闘技ならわかるから」

そう言った途端、鈍い音が三つ連続して聞こえたと思うと、茜を囲んでいた三人の体が吹っ飛んだ。
茜は肘うちで左右と後方の男子を飛ばしたのだ。
二メートルほど飛んだだけですんだのも茜は力を加減していたからだ。
一瞬にして男子の黒帯を三人倒した茜を、控え室にいた小室中の女子選手が驚いて見ていた。
また、華崎中の辰野も黙って見ていた。
小室中のゲルダは、一部始終を見ながら、男子選手たちの無礼に腹を立てていたようだ。
それで、倒れている男子たちの襟首を掴まえて、二人いっぺんに引きずって行き、部屋の外に放り出した。

「オトトイ、キヤガレ!」

そして、残りの二人も襟首を掴んで引きずって行こうとしたのを、今まで黙って見ていた男がいきなり飛び掛り背中を蹴った。

「ドイツは引っ込め!」

苦しんで膝をついたゲルダに更に攻撃しようとしたその男子に茜は両手を広げて制した。

「どけ、木崎!」

男は茜を掴むと大外刈りをかけてきた。
茜は逆に大外刈りをかけ返して、3mほど前方に投げ飛ばした。
それ以上遠くに飛ばすと壁にぶつかるからその程度でやめたのだ。
ゲルダは、倒れた男のところに行くと起こしながら、腕がらみをかけた。

「ウデヘシオッテヤロカ、アン?」
「参った、参ったから」

ゲルダが腕をほどいてやると、男は強がって言った。

「俺は広国南の藤崎だ。青布根の木崎と小室中のゲルダ、覚えとけよ」

そういうと、他の二人を促しながら、出て行った。

「あれが、藤崎か・・」

田丸は呆れたように、ため息をついた。

「兄貴がヤクザもんだって噂だよ。」

それで、茜は思い出した。
一年前神宮山で顔面にキックをお見舞いした男の弟なのだ。
そういえば、体つきがよく似ている。
兄を一回り小さくしたような感じで、骨格や顔まで似ているのだ。
茜は田丸の方を見て言った。

「いったい、あの人たち何しに来たの?」
「さあ、あんたにやられに来た訳じゃないことは確かね」


その後、表彰式では藤崎達と顔を合わせても茜は知らぬふりをしていた。
男子の団体では広国南中はベスト4まで残ったらしいが、その後敗退していた。
個人戦の優勝は女子は辰野、男子は藤崎だった。
団体戦の優勝は女子は青布根、男子は伊井塚中学校である。

柔道大会はこうして幕を閉じた。



体育館横のプールにあるシャワー室で汗を流してから更衣室で私服に着替えると、ようやく生きた心地がして茜は青布根中のみんなと一緒に引率教師の待つ体育館入り口に向かった。
ところが、プールを出ると、広国南中の男子たちが待ち構えていた。
藤崎は木刀を持って、茜に突きつけた。

「おい、木崎。お前、俺の女になれ。」


青布根の他の4人は広国南の男子達に遮られて、茜から離された。
選手以外の生徒も来てるので、総勢10人と言ったところか。
茜はそのうちの5人くらいに囲まれて、藤崎に木刀を突きつけられている。
茜は目の前に突きつけられている木刀には目もくれず、藤崎を半身の体で睨みつけた。

「私のことが好きってこと?」
「お前そのものは好きじゃねえよ。体が気に入ってるんだ。」
「はあっ?」
「そんな小さい体ですごいパワーを持っているから、俺とお前の間なら超ストロングな子どもができるってことよ。」
「・・・・」
「もっとも、子どもができる前には二人ですることがあるけどな。あまり気がすすまないけどよ」

そこで、藤崎と周りの男子たちが声を立てて笑った。
次の瞬間、1秒以内に次のことが起こった。
茜は片手で木刀の先を掴んで藤崎の手から抜き取って、そのまま木刀を逆さまに持ったまま、藤崎の頭を叩いたのだ。
スコーンと高い音がして、藤崎は地面に倒れた。

「他にもいる?馬鹿なこと言いたい人」

茜が見回すと、男子たちは顔色を蒼くして道を開けた。
木刀を放り投げると、茜は青布根のメンバーと一緒に体育館入り口に向かった。


ある秋の日、学校からの帰り道、卒業生の武井が作業服を着た格好で待っていた。

「しばらくです、武井さん」
「木崎さん、ちょっといいかな?」

武井は自分の実家の工務店で大工の手間をやっているとのこと。
女ながら男に負けない体力があるから、仕事もばりばりやっていたいところだが、このところ不況でなかなか仕事がないという。

「そこでアルバイトをすることになったんだけど、二人じゃないと駄目だって言うんだよ。」
「まさか、私に付き合えっていう訳じゃないよね、武井さん?」
「今度の日曜日だけど、時間は10時から2時までで、昼休みもあるんだ。」
「だけど、中学生ってことばれたら、まずいもの」

武井の話しだと、やることは着ぐるみに入って動き回る仕事らしい。
ただ、体力がいるので、女子でなおかつ体力のある人間でなければ駄目だということだ。

「なんで、女の子なの?男の方が体力あるじゃない?」
「一応可愛い系キャラで小さいから、木崎さんの体格に合うんだよ。
一応身振りなんかも女の子の方が可愛らしくできるし」
「いや、やっぱりそういうの、苦手だし・・・」

とは言うものの、結局武井の生活を助けるためにも協力することにした。
先方には小柄な高校一年生ということで誤魔化すことにするらしい。

「まず、終わった後シャワーを浴びらせてもらえるらしいけど、汗で下着もベショベショになるらしいから、着替えを用意しなきゃ駄目だよ。」



日曜日の朝が来た。
新聞配達を終えた茜は朝食を取った後、タオルや着替えと弁当を持って、イベント会場に出かけて行った。
間下部には文句を言われそうなので秘密にしておいてある。
青布根中央公園内の野外舞台には、バス2台が待機していた。
そのうちの一台が女性用で、簡易シャワー室もついていた。
汗をかくので、二人ともまったく下着だけの姿で着ぐるみを着ることになった。
武井は蛙、茜はピンクのウサギの動物着ぐるみだった。
熊の着ぐるみを着た佐原という女性が、動きについて簡単に教えてくれた。

「顔の表情は一定だから、身振りを大きくして表現するのね。あ、それからセリフは一切なし。
声を出しちゃ駄目なの」

その後幾つかの動作のパターンを練習させてくれた。
着ぐるみの覗き穴は頭部の開けた口についていた。
いずれにしても、視界は通常時の半分くらいしかない。
出動時間は11:00~12:00と1:00~2:00の合計2時間だ。
その後、シャワーを浴びたり着替えたりするので、すぐ配達に行かなければならない。


11:00になったので、一回目の出動をすることに。
といっても、着ぐるみにはあまり台本らしきものもない。
あちこちに愛想を振りまいて歩くのが仕事だ。
ステージで何か始まればステージの曲に合わせてリズムをとって踊ったりする。


昼休みになって、茜は武井と空いている客席に座って弁当を開いた。
そこへ二人の女の子が一緒に食べようとやってきた。
ギターで弾き語りをする歌手と芝居をする役者だった。
といっても、彼女らはまだ専属マネージャーもついていない、ほんの駆け出しなのだ。

武井は五十嵐という役者に質問した。

「五十嵐さんたちは広国芸能プロ専属なんですか?」
「いやいや違うのよ。私は劇団クローバーというところに属していて、広国芸能は仕事の世話をしてくれてるだけなの。武井さんたちも広国芸能でお金をくれるんでしょ?」
「はい、そうです。そっちの本保さんも同じですか?」
「私は全くフリーなんですよ。路上で歌ったり・・広国さんからは結婚式で歌のプレゼントしに行く仕事など世話してもらってるんだけど。」
「本保さんは持ち歌とかあるんですか?」
「ないない、自分では作れないし、かと言って歌作ってくれる人いないし。カバー専門よ」
「あ、そうそう。あなたたちも芸能プロの人から聞いてた?」
「なんのことです?」

五十嵐の言葉に武井は首を傾げた。

「堂島興行というところが、イベント潰しに来るかもしれないって話」

この「堂島興行」という言葉に茜は反応した。

「ええっ?」
「なに?あなた知ってるの?」
「もしかして・・・それヤクザ・・・・・・?」
「そうらしいよ。だからそれらしいの現れたら即逃げた方が良いって・・・」

武井がそのとき、茜に目配せしながら言った。

「でも、ただ舞台を潰されるのも馬鹿らしいだろう?
私でできることがあったらしてあげるよ。
でも・・もし、私でも駄目なときはもう一人強い味方がいるから」
「本当?嬉しいな。そのときは頼むね」


そこへ、アイドルの呉野愛香のマネージャーが来た。

「すみません、五十嵐さん。うちの愛香が午後の演技どうしたらいいかって?」
「あ、大丈夫ですよ。とても上手にできてましたから。愛香さんに午後も同じように宜しくってお伝えください。」
「そうですか。七つ葉クローバーの五十嵐さんがそう仰るなら大丈夫ですね。ありがとうございます。」
「いえいえとんでもない」

マネージャーが帰った後、茜は五十嵐に聞いた。

「七つ葉クローバーってなんのことですか?」
「うちの劇団クローバーって名前でしょ?だから褒めるためにそんな言い方したんだと思うよ」

その話はそれで終わった。


休憩が終わりかけると、酔っ払いの男が三人観客席の前の方にやってきて騒ぎ始めた。

「おい、まだ始めないのか!」
「早く始めろ!」

赤頭巾役の呉野愛香が出てくると、下卑た野次を飛ばした。


「おい、姉ちゃん!早く脱いで見せてくれ」
「こっち来て一緒に飲もう」

愛香が困っていると、狼役の五十嵐が出てきた。頭に狼の首をつけているが顔は出している。

「赤頭巾ちゃん、どうしたの?」


愛香は酔っ払い達の方を指差して困りきった顔をする。

「ああ、あれは沼のガマ蛙が鳴いているんだよ。どうも悪い水を飲みすぎたみたいだね」

そこで会場が笑う。酔っ払いたちは顔を赤くして怒る。


「これからどこへ行くの、赤頭巾ちゃんは?」
「二人とも早く脱いで見せろ!!」

そのとき、武井が酔っ払いの方に近づいて行った。
そして蛙の着ぐるみのまま、低い声で言った。

「いい加減にしてくださいよ、お客さん」
「なんだとう。てめえも女だな。おめえも脱げ」


五十嵐は仕方なくアドリブで芝居を続けることにしたらしい。

「ふうん、そうかい。病気のお婆ちゃんのお見舞いに行くのかい。でもあれをごらんよ。
緑色の蛙さんがガマ蛙さんたちと話し合っているよ。多分鳴き声がうるさいとかなんとか言ってるんだろうね。」

一人の酔っ払いが武井の体に手をかけた。
武井はそれを振り払った。

「お客さん、小さいお子さんたちも見ているんですから、やめましょうね」

いつの間にか、茜のピンクのウサギもそばに来て一緒に言った。

「そうだよ。お酒の飲みすぎですよ。お家に帰って休んだ方がいいですよ」
「何だ、お前生意気なこと言って、顔見せろ」
「あっ、だめです。とっちゃ」
「いててて」

茜は被り物を取ろうとした男の指を一本掴んでいた。

「顔を見せたら、良い子のみんなががっかりするじゃないですか」
「放せ!」
「乱暴しないですか」
「そんな約束できない」

ステージでは五十嵐が本保を呼んで、歌を歌わせることにした。

「蛙さんやウサギさんたちの話が済むまで、お歌を聞いててもらいましょうね。」

結局観客は、本保の歌をバックに聞きながら、ステージ下前列のやり取りを見守ることになった。
赤頭巾と狼も観客と一緒になりゆきを見守っている。
酔っ払いは三人とも茜たちを囲んで、着ぐるみを剥がそうとし始めた。
武井も茜の真似をして一人の指を掴んだ。茜は二人分の指を掴んだまま押し問答をしている。

「こらっ、なめた真似すんな。」

茜に指を掴まれた男の一人が,空いている手でポケットからナイフを取り出した。
茜はすばやくそれを奪って遠くに投げた。
その間、指を放されたもう一人の男が、茜に掴みかかろうとしたが、すぐにまた指を掴まれてしまった。

「手を放すから、おじさん達もう帰ってよ。イベントの邪魔になるから」


男たちが暴れようとすると、指を強く握る。
とうとう男たちは降参した。
茜と武井は指を放してやって、男たちが立ち去るのを見送った。

「狼さん、こっちはもういいよ」

茜はステージに向かって手を振った。
そしてお芝居がまた始まった。
五十嵐は猟師の役もやり、お芝居を終わらせた。
本保の他に呉野も歌を歌った。
呉野の歌を聞いたときに、茜は自分の方が上手に歌えると思った。
そうして、午後の部もなんとか無事に終わった。



バスの中のシャワーを浴びて着替えをした茜は武井と一緒に帰り仕度をしていた。
バイトの日当は、今回のお手柄もあって、少し割り増しにしてくれた。
上機嫌で帰ろうとした二人の横に車が止まり、中から愛想の良い男が出て来た。

「あー、えーーと。広国芸能の者ですが、確かきょう酔っ払いの三人を追い払ってくれた着ぐるみのバイトの方ですよね。」
「はい、そうですけど」
「うちの社長が是非ご招待するようにとこう申しておりまして、お二人をお迎えに来た次第です。」
「ああ、そうなんですか?どうする、木崎さん」
「行ってみますか」

後部席にその男と武井・茜が乗ると、前の席に運転する男と助手席の男がいた。
助手席の男はとても大きい体で相撲取りのような体格だった。
運転手はごつい感じで、ちょっとゴリラっぽいのも妙に不釣合いな印象だった。
後ろに乗っている男は一番洗練された雰囲気だが、愛想笑いをやめると冷たい狐目になるのが気になった。



市内のマンションに着くと、3Fの一室の前に着いた。

「どうぞお入り下さい」

ドアを開けると狐目が二人に先に入るように勧める。
武井と茜が中に入ると、正面にカメラを構えた男がいた。その横に注射器を持ってにやにや笑った男。
奥の方にベッドがあり、裸の上半身に刺青を一杯に彫っている男が二人待っていた。

「これは・・・」


茜が騙されたと思ったとき、背後で鍵がかかる音がした。
武井を相撲取りが後ろから羽交い絞めにして、茜をゴリラが両肩を掴んできた。
狐目が薄笑いしながら、言う声が聞こえた。

「さっきはうちの者が世話になったな。たっぷりお礼させてもらうよ。
後からあの三人も一緒に加わって君たちと楽しみたいってさ。まず大きい子からお注射しようか」

相撲取りが暴れる武井を軽々と運んで注射器の男のところに連れて行く。


「木崎さん、助けて!」

狐目が茜の方を薄笑いしながら見た。茜はもう行動をおこしていた。
両肩を掴まれたまま、後ろを振り向いたので、ゴリラは前方に飛ばされた。
狐目と目を合わせた茜はそのまま狐目の顔を平手で押して、ドアに頭をぶつける。
今度はドアを足で蹴るようにして前方に飛び出すと、倒れたゴリラの頭をトンッと踏んづけて
ジャンプした。
注射器の男は茜が非常に高い位置で飛んで来るのを見て目を見開いた。
男は次の瞬間胸の辺りを蹴られて仰向けに倒れる。
倒れる途中、自分の上の方の空中を茜が通り過ぎるのを見た。
茜が奥のベッドの手前に着地すると、ドアの近くの狐目がドタリと床に倒れた。
僅か遅れて注射器の男が後頭部や背中を床に打ち付けて倒れた。
ゴリラは茜に頭を踏まれたとき床に額をぶつけたらしくピクリとも身動きしない。
茜は後ろを振り向かずそのまま、ベッドにいた刺青男に飛びかかった。
茜はベッドに腰掛けた刺青男の正面から顔面を掌底突きをした。
一発で男は白目を出してベッドから転げ落ちた。
もう一人はどこから出したのか長ドスを持ち出してきた。
鞘から抜き身を出そうとしてるとき、茜は体を倒して頭部を蹴った。
鼻から血を噴出して、男は横倒しに倒れた。
茜は振り返ると、武井を捕まえている相撲取りのような男の背後に飛んで行った。
そこで茜は大男の背中に飛びつき裸絞めをした。
武井の羽交い絞めはほどけ、その後大木が倒れるように男は倒れた。
カメラを構えている男だけ残ったが、茜はその男を襲わなかった。
ドアをノックする音が聞こえて、茜は内側からロックを解いた。
ドアが開いて、三人が入って来ると、一人目の金的を蹴って、二人目を背負い投げ、三人目を肘うちで鳩尾を突いた。
三人とも苦しみもだえていたが、茜は三人とも頭を床に打ちつけて伸ばしてしまった。
茜は、最後にカメラマンの男に言った。
「今の映像、こっちに渡してもらえる?」
「こんな映像滅多に撮れないのに・・仕方がない」
男はメモリーのようなものを外して茜に渡した。
武井は茜のあまりの強さに呆然としていた。
「おじさん、警察に電話してくれるかな?ここの場所と覚せい剤のこと。それとなにか他にも悪いことしてるでしょ。」
「断ったら・・・」
「全部の手足を骨折するとものすごく痛いって聞いたけど、試してみますか?」
「いや、言う通りにする。その代わり、そういうのは勘弁してくれ」
男は110番して、言われた通りのことを通報した。
向こうでは詳しく様子を聞こうとしていたが、茜は背後から送り襟締めをして気絶させた。
その後電話はすぐ切った。
そして、カメラマンだけ口や手足をガムテープで縛ってトイレに入れた。
息を吹き返した他の仲間に通報したことを言わせない為である。
そして、ゴリラのポケットから車のキーを奪うとゴミ箱の中に入れた。
これは、逃走手段を奪うためだ。
「武井さん、さあ、逃げようよ」
茜は武井の手を引いて部屋から脱出した。


翌日の新聞で、青布根市内のマンションの一室で10人の男たちが逮捕されたこと。
容疑は覚せい剤所持と児童ポルノ所持だということ。彼らが堂島興行という暴力団の構成員であること。
また、堂島興行の事務所も家宅捜索した結果、覚せい剤と銃刀類が発見され、社長の堂島も逮捕されたことが報じられていた。
茜は、新聞を読むとそれを畳んで、自転車に乗せた。
もちろん朝刊の配達である。
自転車を走らせながら茜は思った。
ほんの偶然にも茜は自分の両親の宿敵に一矢を報いることができたのだと。




茜は学校の授業を受けていた。
そのとき呼び出されて校長室に行くと、警察が来ていた。
青布根警察署の署長という人が茜を両手で包むような握手で迎えると、何度も頭を下げて礼を言った。

「お名前は実は以前から知っておりました。
市内の武術家の間では無敵と言われている木崎さんですから。
この度は、堂島興行の逮捕にご協力下さいましてありがとうございます。」

校長は最初はきょとんとしていたが、とにかく悪いことではないとわかってほっとした様子だった。

「実は警察署で感謝状を差し上げたいので、これからご一緒願えるでしょうか」


茜は校長の顔を見たが、行ってきなさいという目顔だったので、頷いた。

「それと・・大事な証拠品になるのですが、カメラマンがあなたに渡したという映像メモリーをこちらにお渡し願えないでしょうか」
「あ・・・、ごめんなさい。あれ目茶目茶に壊して投げてしまいました」

実は壊していなかったのだが、あれが勝手に出回ると色々まずいのでそういう嘘を言った。

「残念です・・。とても貴重な映像だったのに・・いえ、証拠品だったのにですね」
「ごめんなさい。勝手に撮影されてたから、許せないと思って・・・」



警察署に着くと、大きな会議室みたいなところに署員が大勢制服姿で集まっていて、新聞記者も来ていた。
武井も呼ばれていたが、どうも茜が注目の的になっているらしい。
茜は署長に頼んで、新聞記者には名前や写真を公表しないでほしいと告げた。
少女Aという形で記事に載せるなら良いが、逮捕に協力したことの具体的な内容は記述しないでほしいと何度も念を押した。
従って、武術の心得のある少女Aは拉致され監禁されそうになったところを自力で逃げ出して警察に通報し今回の逮捕となった・・・というような表現で記者たちに紹介された。

「なにしろ、思春期の年頃ですから、あまり強いとボーイフレンドに嫌われても嫌だろうし・・・まあ、その点も考慮してやってください」

と、署長は記者たちを言いくるめてくれた。


しかし、表彰式や取材のすべてが終わった後、茜は交換条件を提示された。

「実は署員の中に、あれだけの人数のやくざどもをあなたのような小柄な少女が倒すなんて信じられないという者が沢山おりまして、実地に検分させてほしいと騒ぐもので・・・」


茜は警察署内の道場のようなところに案内されたのだった。
体格の良い署員が柔道着を着て10名以上待機していた。

「この人たちは県警本部から来た方たちで、どうしても断ることができなかったんです。
検分させて納得しないと報告書を信用しないというものですから。」
「ど・・・どうすればいいのですか?」
「同じように倒してみろというのです」
「ええっ?!」

     

青布根市警察署の道場に柔道着を着て並んでいるのは20代~30代の血気盛んな男たちのように思えた。
市警察署長は茜に耳打ちした。

「県警本部の人たちで、年は私より若くても私より偉い人もいるんです。」
「そんなことは私に関係ないです。あの人たちはどうしろと言ってるんですか?」
「つまり・・・実力を見せてほしいということなんです。」
「なぜ柔道着を着てるんですか?」
「スーツ姿では服が傷むからということで、署員の柔道着を貸しました」
「で、私は学校から真っ直ぐ連れて来られたので、セーラー服なんですが・・・」
「では、婦人警官の柔道着で小さいのをお貸しします。」
「その前に、あの人たちの代表の人と話をしたいんですが・・・」
「わかりました。ちょっと待ってください」


待っている間、茜の方をじろじろ見る男たちの視線がどれも報告書を鼻から信じていないということを物語っていた。
婦人警官が来て柔道着を渡した。
茜は白帯を頼んで持ってきてもらい、更衣室でセーラー服を脱ぎ着替えた。
更衣室から戻ると、本部の内海部長という30代の男性が待っていた。

「話があるということだが、何かね?」
「あの、実地検分とかいうの、どうしてもやらなくてはいけないのですか?」
「その為に我々が来てるのだから」
「はあ・・で、どうやってするんですか?」
「我々と対戦してもらう」
「一人ずつ・・・ですか?」
「本番では一遍に10人と戦ったのだろう?」
「いえ・・一人ずつでした」
「そんな馬鹿な・・・10人の人間が大人しく順番を待って戦ったというのかね?」
「向こうは油断してましたし、戦う体制が整う前に私が奇襲的に襲ったので、僅かな時間差ですけど、一人ずつ倒しました。」
「どのくらいの時間差かね?」
「2秒か3秒くらいかな?」

実際のところは1秒以内だったが、茜はわざと長めに言った。

「よし、それじゃあ3秒おきに一人ずつ君に飛び掛るようにしよう。だから先の人間を3秒以内に倒せなかったら、二人一遍に相手にすることになる。それも駄目だったら3人・・・という風に増えて行くことになるが、いいかね?」
「でも、警察の人ってヤクザよりは強いでしょう?
それにあの人たちは戦う準備をしてなかったけれど、皆さんは始めから準備しているし・・・。
私はあのときは注射を打たれて酷い目に遭うと思って無我夢中だったので、とても乱暴なことをしたけれど警察の皆さんにはなんの恨みもないし、あまり乱暴なことをしたくないんです。」
「つまり、何を言いたいのかね?」
「どうせあのときと同じことはできないのだから、思い切って異種格闘技的な1対1の試合にしてくれませんか?あのときは気絶させてしまったけれど、そんなことはしたくないのでギブアップしたら負けという風にしてほしいんです。」
「それじゃあ、3秒以上かかりそうだね」
「3秒以内だと気絶させるような荒い技になるので、皆さんたちに使いたくないんです。」
「ちょっと待って、みんなの意見を聞いてくるから」
内海部長は本部の人間達のところに戻り、なにやら話していたが、戻って来た。
「1対1はOKだそうだ。それから勝っても負けても一つの試合が終わったらすぐ次の試合をする。全員12人いるが12人とも対戦してほしい。」
「でも、実際のときは10人でした」
「その分君の要求を呑んで時間的に余裕を持たせたのだから、そこは2人分余分なのは了解してほしい」
「はい、他に何かありますか」
「それと、3人ほど、気絶させる技を使っても良いという者がいるんだが。
というのは、実際そういうのが可能かどうか本部としても知っておきたいからだ。
その代わり、その者たちは、スポーツや武術というより、喧嘩と同じくルール無用の戦い方をしてくるかもしれない。もともと、ヤクザなんかもルールなしの戦い方をするからね。」
「ではその人たちは試合の始めに気絶希望とか言ってください。」


内海は戻って説明をしていた。
体育館の真ん中に茜は立ったまま待っていた。
内海が叫んだ。

「それじゃあ、始めるよ。一人目」
「気絶希望!」

最初の一人がそう言って飛び出してきたとき、会場はどっと笑いが溢れた。
男はいきなり茜の髪の毛を掴もうと手を頭に伸ばしてきた。
その手首を掴んだ、茜は引き寄せて顔面を平手で叩いた。
男は仰向けに倒れるのを、茜はそっと後頭部に手を当てて床にぶつかるのを防いだ。
会場では驚きの声が一斉にあがった。


すぐ2番目の男が走ってきた。
近づきざまいきなり廻し蹴りをしてきた。
体を後退させて紙一重で避けると、軸足の膝裏を軽く蹴って倒した。
背後から首を極めて、タップさせる。
これも秒殺なので、会場はシーンとした。


3番目は大きな男が来た。190cmくらいの巨漢だ。
不敵ににやっと笑うと、

「気絶希望」

と言った。
茜は、いきなりダッシュして飛び上がると、両手で襟首を掴みぶら下がった。
手は交差させている。相手は手をばたばたさせていたが、襟を完全に取られていたので、そのまま崩れ落ちるように倒れた。
これを見て会場はぞっとした。
どうやら今の男が一番強かったらしい。


4番目の男は柔道の構えで近づいてきたが、逆に茜に巴投げを投げられた後、馬乗りにされて、顔面に拳を寸止めされた。

「参ったですか?」
「ま・・参った」


五番目の男はボクシングのフットワークで来たが、出したパンチの手を両手ともに掴まれ、振りほどこうともがいているうちに腕がらみをかけられ、降参した。


六番目の男はかかってくる前に言った。

「すみません。二人がかりは駄目ですか?」
「だめじゃないですけれど、二人以上は手加減できないんです。気絶させたり、痛かったり、苦しかったりする場合がありますけど・・」

それでも良いと、六番目と七番目の男が二人でかかってきた。
一人は上半身、もう一人は足を取る積もりらしい。
茜は右側の男の懐に飛び込み肘うちを入れた。
その男は3m飛んだ。
左側の男は前足を取ろうとしたが、胸を蹴られて仰向けに倒れる。
そのまま、二人とも起き上がれなかった。


すると何を勘違いしたか、打ち合わせにはない行動に出てきた。
つまり、内海部長を含む残りの5人全員が一斉に飛び掛ってきたのだ。
茜は逃げた。逃げながら5人が一遍にかかって来られないように、ばらばらに散らした。

「打ち合わせと違いますよ!内海部長さん」
「でも、これが実際の場面に一番近いじゃないか」
「乱暴な技使っても良いんですか?」
「ああ、その代わりこっちもなんでもありで行かせて・・・」

8人目の男が追いついて茜を背後から首に腕を巻きつけてきた。
茜はその腕の袖を取って、背負い投げのような投げをした。
勢いがついていたせいか、その男は4・5mも投げ飛ばされた。
それは背中をしたたかに打ち付けたらしく起きあがれない様子だった。


残り四人になったとき、茜は急に逃げるのをやめた。
追いついた9人目は足払い、10人目は腰車で投げられた。
11人目は巴投げ、12人目の内海部長は背負い投げで投げられた。
技をかけて投げるまでのスピードが速いので、矢継ぎ早という言葉がぴったりだった。
もちろん、これで彼らがダウンした訳ではないが、十分実力は見せられたと茜は判断した。

「もういいですか?」

茜は投げられても起き上がって向かって来る男たちを手で制して終了を提案した。
茜はわざと最後の何人かはそれほどダメージを与えずに手加減した。
もちろん、代表の内海部長もその中に入っている。
徹底的に叩きのめして敗北感を与えることは恨みを買いそうな気がしてやめたのだ。

「もう疲れたからこれで許して下さい。」


このことが相手に花を持たせることになり、良い結果を生んだ。
内海部長はそれじゃあ、これでやめてやるかという立場になり、大変上機嫌で検分を終えることができたのだ。
結果は報告書通りであることが認められ、おまけに協力した茜には報奨金が県警察から出ることになった。
その額は僅かなので、内海部長自ら本部の署員にカンパを求めてそれに内海部長がいくらか足して7万円も包んでくれた。

「これは、木崎さんに対する私たちの気持ちです。被害者であり、災難にありながら勇敢に戦った木崎さんのことを疑って無理なことをお願いして大変失礼いたしました。これを生活費の足しにしてください」

茜が経済的に困窮していることも報告事項の中に入っていたのだ。
内海部長は最初のときとは打って変わって丁寧な態度で接してきた。
本部の署員もいわゆるキャリア組と言われる警察組織の中のエリート達らしいが、始めの頃の偉ぶった感じはなくなっていて、茜に対して握手を求めてきたりして好意的だった。
中には名刺を手渡して、何か困ったことがあったら、いつでも連絡してほしいと申し出る者もいた。
若い男の中には、茜を気に入ってしまって話しかけ続けて離さない者もいた。
茜は決してうるさがらず、そういう者に対しても笑顔で受け答えした。
それがまた好感度を得たらしく、大変和気藹々のうちに彼らとお別れすることができた。


茜はこっそりその中から2万円を武井に渡した。

「武井さんにも怖い思いをさせたから」
「ありがとう。助かるよ」



数日後、広国芸能プロから連絡が来た。

「警察署長さんから聞いて、こちらだと伺ったものですから」

若い女性がケーキを持って直接橘荘にやってきた。

「実は女性芸能人の警護を密かにお願いしたいのです。」

それは平日の一日のことだが、手回しが良いことに、新聞販売店にも学校にも既に許可を取っているという。

「市の警察署長と県警本部からのお墨付きということで、特別措置として認められているそうなので、隠れてする必要はありません。それと失礼ながらそれなりの謝礼を差し上げますので、宜しくお願いします」

それで中学生としては異例のSPまがいの仕事を翌日することになったのだ。

当日は指定されたところに自転車で行った。Tシャツとジーパンという軽装で行ったが、向こうへ着くとスタイリストに着替えさせられた。

「アイドルと一緒に行動するので、似たような服装にしないと目だってしまうんですよ」

おまけに軽く化粧までされたので、茜は閉口した。
だが髪はきちんと結んで、スカートではなくパンツにするなど、活動的な身なりにしてくれたところには配慮が見られた。
また、靴はスニーカーとまでは行かなかったが、ローヒールのものにしてくれた。


女性たちはこの間と同じ呉野愛香というアイドルと役者の五十嵐と歌手の本保だった。
守るのはその子たちだが、一緒に合流するのが女子プロレスのメンバーだという。
ヒールと言って、いわゆる悪役レスラーのメンバーと顔合わせしなければならないのだ。
五十嵐は言う。

「日本の女子プロレス界でも極悪と言われている地獄の三姉妹というのがいてね。鬼子母神、虎夜叉、牛鬼という怖いお姉さんたちなんだ。」

本保はさらに言う。

「どういう訳かアイドルと顔合わせすることが多くてね、それでアイドルがチャラチャラしてるとかぶりっ子してるとか言って絡むんですね。もっともアイドルはチャラチャラしてなんぼですから、言ってることが無理なんですよ」

そこへ愛香のマネージャーという女性が言う。

「うちの愛香はご存知の通り、演技力もないし歌も下手だから、ドジで天然が売りなんですよ。
そこに親しみを感じてもらおうとキャラを作ってるんですけど、そんな怖い人たちにいじられたら素に戻ってしまってキャラが壊れてしまうんですよ。もう今からびびってますから」

そこでマネージャーに頼まれて、愛香の妹分という触れ込みで常にくっついていることになった。

呉野愛香は舞台で見たのとはだいぶ違って、楽屋では結構饒舌だった。

「木崎さん、お願いね。一応私あなたのこと茜ちゃんっていうから、あなたは私のことお姉ちゃんと呼んで。
もし、あの人たちが私になにかしようとしたら必ず守って。」

茜はそんなことはないだろうと思いながらも一応うんうんと頷いていた。

「私、アイドルとは言いながらそれほどビッグじゃないから、言い換えるとこれから売り出す成長株なんだけど、そういう場合ってあの人たちが好んで餌食にするらしいの。
売れっ子に変なことしたら非難されるでしょ。そういうずるいとこあるんだから、本当に怖いの。
絶対守ってよ。髪の毛引っ張って引きずり回されたり、恥ずかし固めといって、足を全開されてしまったりした新人がいるの。」

それから愛香は茜をハグして、頬擦りまでしてきた。茜は肩を竦めるしかなかった。



会場は体育館のような所だったが、中央にリングが設置されていて、そこをステージ代わりにして歌ったりお芝居をしたりするのだ。
だが、中心はプロレスでシングルマッチ三つの後、地獄の三姉妹とマスク美姉妹の六人タッグマッチがメインイベントになる。
マスク美姉妹は、その場で急造された俄かチームで中身は身内の女子プロレスラーを使っているらしい。
当然実力は地獄の三姉妹が上ということになり、彼女らがこの場所での主役ということになるのだ。
あくまでも芸能プロからの三人はプロレスの幕間に出される息抜きの色物としての役割で協力している訳だが、どっちがどっちの引き立て役になるかは、微妙な問題がある。
本来なら、逞しい女子プロレスに花を添えるという形だが、荒々しいヒールたちに引き比べてアイドルの可憐さがより目立つという効果もあるのだ。
そうだとしたら、ヒールたちにとっては面白くないことだし、アイドルを泥沼に引きずりこんで思い切り汚してやりたくなる衝動もおきるかもしれない。


歌手の本保は試合の最初にレスラーたちのテーマソングを歌ったりして、それなりに溶け込んでいた。
役者の五十嵐はセミファイナル(最後から二番目の試合)の前に一回、メインイベントの前に一回の計二回のコント仕立ての短いお芝居を呉野愛香と一緒にした。
もちろん、劇団所属のベテラン役者なのでプロレス側にも気を使った内容だったが、同時にプロダクションからも頼まれていることもあって、呉野愛香の魅力を引き出すことにも熱心だった。
その中にちょっと真似事のプロレスで呉野が五十嵐を投げ飛ばす場面もあった。
これはプロレスとの関連から入れたもので、これは五十嵐が上手に投げられた演技をしたからできたものだ。
だが、この場面が逆にイチャモンをつけられる材料になってしまったのだ。


メインイベントが終わった後、花束を持った呉野・五十嵐・本保が地獄の三姉妹に勝利の祝福をしにリングにあがり、その後、椅子に座って軽いおしゃべりをするという段取りになっていた。
三姉妹も快く花束を受け取り、椅子に座って始めは和気藹々と話をしていた。
呉野の横には椅子に座らずにまだ幼い顔の少女が立っていた。

「あ、この子妹分の茜って言います。身の回りの世話してもらってます」

三姉妹が気にして見たので、そうやって呉野は説明した。
話は試合のこととかテーマソングのこととか進んで行ったが、それも終わってついに来るべきものが来た。
口火を切ったのは、長女の鬼子母神だった。

「ところで愛香ちゃん、お芝居でプロレス技をやってたね」
「ああ、あれは五十嵐さんが上手に投げられてくれたからで、私は全然そういうのはできないんですよ」

それで終わるはずだった。だが、ここから鬼子母神の態度はがらりと変わった。

「ふん、これだけ沢山のプロレスファンが来ている中でずい分中途半端なことしてくれたもんだね。
どうだい、ファンの皆さん、ひとつ本物のプロレス技というものを呉野愛香に見せてやろうと思うんだが、やってみせてもいいかな?!」

男性客の多いファンのみんなはアイドルがプロレス技をかけられるところを見られるということで残酷な楽しみに歓声をあげた。

「いいぞ!やってくれ。見せてくれ!」
「そうだね、ファンの要望とあらば仕方ないみせてやるか」

鬼子母神は立ち上がって呉野愛香に近づいた。

「鬼子母神さん、勘弁してください。私プロレスなんて全然できないんですから」
「だから、教えてやろうって言ってるんだよ。」


鬼子母神が呉野の手を取ろうとしたとき、それまで歓声を上げて騒々しかった会場が水を打ったように鎮まりかえった。
それまで黙って突っ立ていた小柄でやせっぽちの少女が、ついと前に出て鬼子母神の前に立ちはだかったからだ。
身長だけでも15cmほど差があるが、体の幅は半分しかない少女が鬼子母神の顔を見上げている。

「何だ、この餓鬼は?」
「お姉さんの代わりに私に教えて」
「お前、餓鬼だろう。児童虐待になるからどいてろ」
「木崎茜」
「なに?」
「餓鬼じゃないよ、木崎茜っていうんだ。」
「ほう・・・いっちょ前の口利くんだな。よしその度胸を認めて教えてやろうじゃないか」

鬼子母神はリングの端っこに茜を連れて行くと、うつぶせに寝かせて馬乗りになった。

「これから、キャメルクラッチというのを教えてやる。痛かったらタップするんだ」
「キャラメル・・?」
「キャラメルじゃない。キャメルクラッチだ。」

会場はどっと笑う。
鬼子母神は茜の顎に両手をかけ、ぐいっと持ち上げた。
背中は逆エビのように反って曲げらていく。

「あれれ、ずいぶん柔らかいんだな。」

鬼子母神が仰向けに倒れそうになっても茜は平気な顔をしている。

「逃げてもいいの?」
「馬鹿野郎。この技はロックされてるから逃げることなんてできないんだよ」

すると、茜は技をかけられたまま、体を真っ直ぐに伸ばした。
その結果、通常ありえないことが起きた。
鬼子母神の体が空中高く飛んで前方のロープの外に放り出されたのだ。
会場はざわめいた。
茜は立ち上がると、相手がどこに消えたのか探すようにきょろきょろ辺りを見回している。
三女の牛鬼がリング下で倒れている鬼子母神を助け起こしている間、次女の虎夜叉が茜に近づいてきた。

「お前、いったい何者だ?」
「木崎茜・・」
「みんなー、見てたろう。この木崎茜ってのは呉野愛香のボディガードらしいぞ。
こいつを倒さないと呉野愛香のつり天井とか恥ずかし固めは見られないぞ。
ただの餓鬼じゃない。やっつけてもいいかー!!?」

群集心理というのは恐ろしいもので、これに賛成すればご褒美が待っていると思ったのか、会場では一斉に歓声があがった。

「やれやれっ!早く!」

虎夜叉はロープの反動を利用して茜に向かってラリアートをかましてきた。
それを軽く避けながら、足をかけたので、虎夜叉は前のめりにベッタリと倒れた。
茜はその背中に馬乗りになると、さっき見たばかりのキャメルクラッチをしかけた。

「ぎえーっ!!」

悲鳴をあげた虎夜叉はタップして降参した。
会場は大騒ぎだった。
名うてのレスラーが無名の少女に手玉にとられているのだから、騒がない方がおかしい。
三女の牛鬼が椅子を持って向かって行こうとするのを、止めたのは鬼子母神だった。

「みんなー、ごめん。きょうはこの子の勝ちだ。私も今までこんな強い子見たことない。
ぜひ、プロレスの仲間に入れたいと思うけど、きょうは呉野愛香さんの妹分として、彼女を守りに来たらしい。
だから、このまま帰してあげようと思う。これ以上本気でやりあったら、ただじゃすまなくなるもの。
ファイトマネーもなしで血を流すのも馬鹿らしいからきょうはこれでお開きだ。
だから、とりあえず・・・」

鬼子母神は茜の手を取ると高々と上げて、叫んだ。

「木崎茜の勝ちだーっ!文句あるかー?」

すると、会場は鬼子母神の潔さに拍手をした。
鬼子母神は茜と別れ際に囁いた。

「何も悪いことしないから、一回うちに来てくれないか?」


茜は思わず頷いていた。




「茜ちゃん、ありがとう。あなたってスーパー・ボディガードだよ」

呉野愛香は楽屋に戻ると茜に抱きつき涙を流して感謝してきた。

「マネージャー、茜ちゃんに渡すお金、私から渡したいからちょうだい」

呉野愛香は封筒の中を確かめてから茜に言った。

「10万円入っているけど、本当はもっとあげたいけどごめんね。きょうの私のギャラの全額だから。
プロダクションには私が自前で払う。だから受け取って」

茜は5万円だけ取って、後は呉野に返そうとしたが、どうしても受け取らなかった。

「あなたはきょう私のアイドル生命が終わるのを救ってくれたの。
だからこれだけじゃ足りないくらいなんだよ。
足りない分は私が売れるようになるまで貸しておいてね」

茜は仕方なく受け取った。




その後、楽屋に女子プロレス協会の者が名刺を持ってきた。

「木崎さん、鬼子母神がきょうは大変失礼したと。この住所の道場にぜひ来てください。
ご招待しますとのことです。」

茜は名刺を受け取った。

だが、その道場に行ったのは、だいぶ後のことだった。


女子プロレス「般若JAPAN」は、喧嘩の強い女ばかり集まってできたプロレス集団である。
鬼子母神は都市ギャングの女ボスで、女ばかりの集団で恐喝強盗などをやっていた過去がある。
地獄の三姉妹と言いながら、本当の姉妹ではなく、次女の虎夜叉もチームを率いてあちこちで暴れまわる女のごろつきグループの親玉だった。三女の牛鬼は「ぎゅうき」と呼ばれているバイク仲間の頭だった。
そういうのがトップに立って、プロレス道場を開いているので、集まって来る志願者は気の荒い崩れた感じの者が多い。



首都にある、この道場に別の用事のついでに茜が顔を出したのは、年の瀬も押し迫る12月半ばのことだった。

「ごめんください」

正面玄関から入ると、寒い冬なのに汗を拭きながら出てきたのは、丸太ん棒のような太い手足をした、目つきの怖い女だった。

「ここから入らないで、横の勝手口に廻りな。」
「あ、はい」

言われた通り横に入ると小さな入り口があった。

「ごめんください」

そこから顔を出してもう一度声をかけると、今とは別の声が聞こえた。

「中に入って」
「あのー、木崎茜といいますが・・・」

角刈り頭の大きな女がぬっと顔を出して、茜をじろじろ見た。

「茜か。ずいぶんコマイ体してんね。あんた、そんなんで力あるの?」
「ある方だと思います。」
「いや・・どう見ても無理だね。これ外に運べないだろう。」

角刈りがドラム缶をぽんと叩いた。鈍い音がするので、中に何か入っている。
中には生ゴミのようなものが八分目ほど入っている。
一応取っ手が二つ付いているので、そこに両手をかけて持ち上げてみた。
茜にしては水を張った洗面器を持ち上げるのと大差ない感じだった。

「お・・お前すごいな。その体でよく力が出るな。」

ドラム缶のゴミを外に出した後、茜は角刈りにトレーニングルームに連れて行かれた。

「バーベルとかダンベルとか片付けてほしいんだ。
そのままじゃ重いから、重りを外して移動した後また付けてくれ。
これは怪我するといけないから、ゆっくり慎重にやってくれ」

そのとき、角刈りが誰かに呼び出されたので、部屋から出た。
壁を見ると置き場所が図入りで貼ってあるので、茜はそのまま片付けた。



1・2分後に角刈りが戻ったとき、全部片付け終わっていたので、角刈りは驚いて飛び出て行った。
すぐに大勢の女たちが戻って来た。
彼女らはいずれも強面で大柄の女たちで、片付けられた部屋と茜を交互に見比べて信じられないと言った風にしばらく突っ立っていた。
いかり肩の女が一番重そうなバーベルを指差して、茜に言った。

「お前、あれこっちに持って来てみせてくれ」

茜は首を横に振った。片付けたばかりなのにと思ったからだ。

「なんで言うとおりにしねえんだ、こら」

いかり肩は気色ばんで一歩茜に近づいた。
普通これで、歯の根がカタカタ言って合わなくなるはずだが、茜は顔色を変えずに相手を見ている。

「おい、子ども相手にまずいぞ」

将棋の駒を逆さにしたような顔の女が横からいかり肩を止めた。
いかり肩はそれを無視するように茜の頬を平手で打ってきた。

「いてて・・・」

ブシッという音がして飛んで来た平手の手首を茜がチョップで払う。


「このや・・・」

いかり肩が次の攻撃をしようとしたとき、茜がくるりと回れ右をして、壁の方に向かって歩き始める。
一番重いバーベルをひょいと持ち上げると、いかり肩のところまで持って来た。

「はい」

咄嗟に手渡されていかり肩は両手で受け取ったが、茜が手を離した途端バーベルは床にドンッと落ちた。
いかり肩は手を離さなかったので、前のめりにお辞儀した形になった。
周りの人間はどよめいた。茜は誰に聞くともなく聞いた。

「鬼子母神さんいますか?」
「アルバイトがうちの社長に何の用だ?」

将棋の駒が問いただしてきた。

「アルバイトじゃありません。鬼子母神さんに呼ばれて来たんです。」
「ってことはスカウトされたってことか?」
「わかりません。とにかく一度来てみてくれと招待されたみたいな・・・」

金髪の坊主頭の女が前に出てきた。

「ってことは、新人と同じ扱いをしてもいいってことだな」
「リングに連れて来な」

後ろの方でそういったのは左頬に大きな赤痣がある女だった。
とにかく茜の顔の高さに胸の膨らみがあるような大柄な女たちばかりだから、囲まれれば周りが完全に見えなくなる。



囲まれながら歩いて行くと目隠しされて連れて行かれると同じで、何処をどうやって歩いているのかわからない。
囲みが取れたとき、いつの間にかリングのある部屋に来ていた。
リングに上がらされると、茜の他に5人の女が上がった。
丸太、いかり肩、将棋、角刈り、金髪の五人だ。赤痣はレフリーとして普段着を着ている。
赤痣が茜に説明を始めた。

「これからバトルロワイヤルというのをやる。まあ、新人歓迎の行事みたいなものだ。
みんなプロレス用の格好をしてるが、お前はスタジャンとジーンズだから、ちょっと不利かもしれない。
まあ、服なんかはすぐ脱がされてしまうと思うが、女同士だから気にしないでほしい。
お前にちょうど良いコスチュームがないから仕方がない。
ルールは簡単だ。急所攻めやパンチはいけない。誰が誰を狙ってもいい。
両肩を床に3秒間押さえられたら負け。または降参するか、気絶したり戦闘不能になったら負けということだ。
これは負けた者が抜けて行って、最後の一人になるまで続ける。
だが、新人の場合は降参は5回目でようやく抜けることができる。何か質問があるか?」

茜は手を上げた。


「やらなくちゃ駄目なんですか?これって、苛めみたいなんですけど」

赤痣がフフンと笑って言った。

「社長がお前になんと言ったかわからないが、社長に呼ばれたってことはプロレスラーにスカウトされたってことだ。社長は絶対バレリーナーやピアニストを道場には招待しないんだ。
プロレスラーとして通用するかどうかは、私らが体で試すことにしている。
いくら社長がなんと言っても、こればかりは私らのルールに従ってもらう。」

茜は何か言おうとしたが、赤痣は開始のゴングを鳴らさせた。
ゴングが鳴った途端他の五人は茜を狙い始めた。
新人歓迎と聞いたときから予想していたことだった。
茜にとっては「服を脱がされる」という言葉が一番嫌だった。
男みたいな体格の大人の女たちに服を脱がされるなんて、死んでも嫌だと思った。
だから茜としては死に物狂いだった。
鬼子母神をリング下に落したときは、普通の人間なら大怪我していたところだが彼女は平気で起き上がってきた。
プロレスラーは鍛えているので、投げられたくらいでダメージは受けないという。
ましてリングは弾力があるので衝撃はない。
また、レスラーは首を鍛えているので、簡単には脳震盪がおきない。
そして彼らは裸に近い体なので、柔道の技はかけづらい。
だから、いつものように力を加減すると、酷い目に遭うのはこっちの方になる。
茜は咄嗟の瞬間にそう思った。そして、体が先に動いていた。
茜の正面を12時の方向とすると、左側から10時に丸太、11時にいかり肩、12時に金髪、1時に角刈り、その向こう側に将棋の駒、2時にレフリーの赤痣がいた。


茜は相手を待たずに12時の金髪に向かって突進した。
左からいかり肩が進路を阻んだが、ジャンプして相手の頭に手をついて跳び箱のように跳び越した。
そしてその勢いで金髪の腹部を両手で押すと、金髪は数メートル後方に飛ばされてコーナーポストに背中を打ちつけた。
金髪が前方に倒れこむ前に茜は追いついて、顔を掌底で押して後頭部をコーナーポストに打ちつけた。


茜が振り返ると、12時の方向にいかり肩、10時の方向に将棋の駒が迫っていた。
少し離れて11時に角刈り、1時に丸太がいた。
茜は11時の方向に突進した。右手にいかり肩、左手に将棋の駒が行く手を阻んだ。
茜はまた飛び上がるふりをして飛び込み前転のように床を転がって二人を潜り抜けた。
角刈りの肩に両手をかけて飛びつくと、その頭上を台上前方転回し着地する前に首に両手をかけた。
角刈りは背後から首を絞められ、そのまま後ろ向きに体を反らされた。
茜は背中に角刈りを乗せたまま逆さにすると、手を持ち替えて胴体を持った。
そのまま頭を床に打ちつけてから放り出した。


茜は右側に体を向けた。すると12時に丸太、3時にいかり肩と将棋の駒、4時にレフリーがいた。
最初に攻撃した金髪がこのとき倒れた。
丸太が突進して来たので、茜も迎え撃った。カウンター気味に体当たりする。
そのとき腹部に肘うちを入れたので、丸太は後方に飛んでロープにぶつかりその反動で前方に体が投げ出される。
そこをカウンター気味に顎を掌底で打った。丸太は倒れ始めた。


振り返ると、12時に呆れた顔で突っ立っているレフリーの赤痣と、11時方面から近づいて来る将棋の駒といかり肩がいた。
丸太が倒れるのと、二人のレスラーが突進してくるのが殆ど同時だった。
将棋の駒は茜の右手を、いかり肩は左手を掴んで二人がかりで引っ張ってコーナーポストにぶつけようとした。
茜はコーナーポストを足で蹴ってそれを防いだ。
そしてそのままの勢いで駆け上がり、コーナーポストのてっぺんに登った。
そしてリング中央の二人に向かって飛んだ。
二人は空中で茜を受け止めようと横に並んで手を伸ばした。
二人のリーチは長いし、茜は体重が35kg程度だから、簡単にキャッチされ床に叩きつけられると見ている者は思ったことだろう。
しかし、差し出された四本の腕は一瞬に打ち払われて、茜の両手は二人の頭を掴んで鉢合わせさせた。
互いの即頭部を打ちつけられ、二人は白目を剥いて倒れた。


茜は右横からレフリーが近づいて来るのに気づいていたが、勝利のために手を取ってくれるものと思っていた。
突然レフリー役の筈の赤痣が髪の毛を掴んで来たときは驚いた。
瞬間茜は相手のその手首を力いっぱい握った。

「ぎゃあ!!」


手の力が緩んだのでその手を離すと、赤痣は恐怖に引きつって右手を押さえていた。
彼女の右手首がみるみる紫色に腫れあがって倍の太さになったのだ。

「レフリーが攻撃するからですよ」

茜は静かにそう言った。

「他の人はそのうち目を覚ますでしょう。でもあなたは病院に行った方が良いです。内出血してます。
放っておくと壊死して手首を切り落とすことになりますよ。」
「なんでお前はそんなことまで知っているんだ。まだ餓鬼のくせに。」
「私の師匠だった人が教えてくれたんです。力一杯やるとそういうことになるって。
だから、いつも本気を出さないようにしてたのに、あなたが急にあんなことをするものだから」
「悪かった。あんまり強いもんだからついお仕置きをしたくなって・・」

茜はリング下にいた別のレスラーに赤痣を病院に連れて行くように言い、三姉妹の所在を尋ねた。
今度は丁寧に応対してきた。

「社長と専務と常務は役員室にいます。今呼んできます」



リングで気絶しているレスラーたちは次々に目を覚まし始めた。
彼女らは意識を取り戻したときに部屋の中のある一点を必ず見ていた。
茜もその方向を見ると壁の一箇所に監視カメラのレンズが光っていた。
きっと役員室のモニター画面で最初から見ていたのだなと茜は思った。



地獄の三姉妹は間もなく姿を現した。鬼子母神は笑顔で茜に近づいて来た。

「レスラーたちが無礼を働いたようで、申し訳なかったね」
「・・・・・」
「プロレスをしたのは初めてかい」
「プロレスだったのかどうか・・どうでした?見てたんでしょう?」
「もうばれていたようだね。ごめんごめん。
お手並みが見たかったもんだから、わざと仕組んだのさ。怒ってるかい?」
「ええ、少し。悪いことは何もしないと言ってたのに」
「ほんの挨拶代わりだよ。私らは体をぶつけ合って会話をするんだ。
これで、うちの連中もあんたと親しくなったって、そう思ってほしい。」
「はあ・・・」
「おい、みんな。折角のお客さんだ。プロレスの真面目な技など見せてやってくれ。」

鬼子母神の声がけでレスラーたちは,技の名前を言いながらやり方を見せていた。


一通り基本技を見せた後、鬼子母神は茜に話しかけた。

「見ていればわかったと思うが、あんたが使えそうな技はそう多くないだろう?
自分の体重の倍以上もある相手を倒すのは大変なことだ。
だからあんたはさっき自分なりに工夫して技を創っていた。
あの肘うちは見事だったな。その小さい体で相手をコーナーポストまで飛ばしたんだからな。
他の技も、まあ難点もあるがよく工夫している。しかも直感的に閃いて技を繰り出している感じだ。
だけど、本当のことを言っていいかい?」
「えっ?」
「あんたはプロレスには向かないよ。」
「・・・・」
「要するに勝負が早すぎるんだ。強すぎると言ってもいいかな?
あれじゃあ、お客さんが楽しめないだろうし、対戦相手が嫌がって誰もいなくなる。」
「はあ・・・」
「だが、向いている仕事なら他に沢山あると思う。たとえばボディガードだ。
相手は絶対あんたを見て油断するだろうし、相手が複数で来ても秒殺できるからだ。
プロレスラーのボディガードもできると思う。
私なんかはみんなに憎まれているから特に頼みたいよ。
きょうは来てくれてありがとう。役員室に食事を用意したから、一緒に食べて行ってくれ」

そのとき、今まで黙っていた牛鬼が口を開いた。

「木崎さん、私だけあんたと勝負してないんだよ。このまま別れたら後悔する。
頼むから相手してくれないかい」
「乱暴なことしませんか?反則技とか椅子を振り回すとか・・」
「し・・・しない。だから」



茜はリングに上がった。
牛鬼も上がった。二人は向かい合って構えたが動かなかった。
実は茜は相手が一人なので、先に攻撃させようとしてたのだ。
また、牛鬼はいつもの反則ラフプレーができないので、どう攻めていいか迷っていた。
とりあえず牛鬼はロープに向かって走り反動でスピードを上げて走ったが、二度三度繰り返しただけだった。

「何やってるさっさと攻めろ!」

鬼子母神が叱咤すると、それをきっかけにして牛鬼が茜に飛びかかった。
体を掴もうと伸ばしてきた手を茜は素早く掴み、手繰り寄せて腕がらみをかけた。
あっという間の出来事だった。

「ギ・・ギブ・・・ギブアップ」

実力者の牛鬼がいとも簡単に秒殺されたので、レスラーたちは呆気に取られた。
虎夜叉は笑って言った。

「なるほど、これじゃあすぐ終わってしまうから、面白くない。社長の言うとおりだ。」


役員室ではモニター画面を見ながら焼肉をご馳走してくれた。
モニターにはバトルロワイヤルの様子、技の紹介、牛鬼との対戦が録画されていた。
それを見ながらみんなで焼肉を食べジュースを飲んだりした。
もちろん中学生の茜に配慮してアルコール抜きにしたのである。
また、茜の希望で茜が映っている画像だけ削除してもらった。


帰りの列車に間に合うように鬼子母神は自家用車で送ってくれた。

「今度青布根まで送り迎えするから、ぜひまた来てくれ」

鬼子母神は茜が気に入ったようで別れ際にそう言って握手してきた。
そして、お土産だと言って、いつの間に用意したのか高級お菓子の詰め合わせを持たせてくれた。

茜は列車に乗ってから、また来たいなと思った。


綿谷晃は相談室で個人調書を開いた。
木崎茜に関するページは非常に多く記載されていた。

西入江町で被災し家族を失い、心因的な部分記憶喪失になっている。
体も弱かったらしく学校は殆ど出席していなくて、始めの頃は小学校1年生程度の学力もなかった。
しかし住民票も戸籍もないだけでなく、学校の指導要録なども一切ない。
遠縁にあたる花山家に引き取られているが、養子縁組はしていない為旧姓のままである。
花山家は家庭の事情があるので、保護者代理人として間下部という人物が学校側と接触している。

だが、木崎茜は様々な事件に関係している。
タミフル服用による屋上からの飛び降り事件などは全校を騒がせた。
また、1年生の段階で男女合わせて腕力で一番だという噂もあった。
それを裏付けるような事件や事故も数多くある。
けれども本人が腕力を誇示して起こしたと思われる事例は皆無である。

その後、市内の武道家に問い合わせたところ、若年ながら武術家としても最強の部類であるということも分かり、噂が本当であることもわかった。
教師の観察報告を総合すると、本人は非常に礼儀正しく、正義感のある女子であることがわかっている。
中学校体育連盟主催の県の柔道大会で臨時の助っ人として、団体戦に出たが彼女の貢献で優勝できたという。
また、その際個人戦の優勝者を簡単に破っている。
柔道そのものの知識や経験は殆どなかったにも拘わらずだ。

校外では覚せい剤の一味を逮捕するのに協力したということで、警察署から表彰状も貰っている。

問題は学力である。非常に学習態度もよく理解力が優れているにも拘わらず、スタートが非常に遅れていたため、学年相応の学力に達していない。


間下部はため息をついた。
この生徒にどうやって進路指導をしてやればいいのか。
ドアのノック音が聞こえ、木崎茜が入室してきた。


「えっ?中学校卒業した後、進学しないって?」
「はい、学費を払わなければいけないので、そんな余裕はありません。」
「光栄高校に特別待遇生徒の募集がある。柔道の実績で交渉してみようか?」
「授業料が免除でも、教科書代や制服代、ジャージや教材費その他でお金がかかります。スポーツ関係だと遠征費も馬鹿になりません。」
「光栄高校には光栄育英財団というのがあってね。特待生にも特別枠を設け、学校に関わる全ての費用を負担してくれる制度があるんだ。勿論その資格審査を通らなければいけないんだがな。」
「でも先生、どうしてそこまでしてくれるんですか?
その代わりに何か支払うものがあるんじゃないんですか?」
「支払うものは実績だよ。柔道の大会で優勝したり賞を取ったりすることで、学校の宣伝になる。
つまり光栄高校の広告塔になることが支払いになる訳だ。」
「途中で怪我をしたりして、その役目ができないときはどうするんですか?」
「特待生の資格を失い、一般生徒として通学するか、希望によって退学するかになる。
しかし、それまで負担された費用は返却する必要はないとのことだ。
これは学校側とすれば一種の投資だからね。」
「ダディと相談してみます。」
「そうするといい。間下部さんはその辺が詳しいから」


青布根市内にある大きな私立高校といえば光栄高校が最も有名である。
今その柔道道場に理事長が訪れていて、場内はいささか緊張した空気に包まれていた。
顧問の教師が柔道部員を集めた。

「柔道部に特特待生を入れるかどうかの審査をしたいので、君たちに協力してもらう。
普通の特待生の資格は、県大会個人戦で三位以内に入ることが最低条件だが、今回は特特待生ということなので資格判定は更に厳しいことになる。
資格判定の希望者は女子だが、県大会個人戦で優勝できることは勿論、男子の特待生に勝てる実力があることが要求される。
何か質問あるか?」

ごつい体をした男子選手が手を上げた。

「で、その希望者はいつ来るんです?ここには来てないようですけど」

顧問の達磨のような顔をした教師は言われて辺りを見回す。

「そういえば、いないようですね。理事長その生徒はいつ来るんですか?」

光栄高校の理事長である北島麻衣子は、自分の横に立っていた小柄な女の子を前に押し出した。
どう見ても柔道選手には見えない細身の体だ。

「この子です。」

その少女を見た顧問の達磨先生は笑ってしまった。

「理事長さん、冗談はやめましょう。
その子なら身体検査でまず落ちます。体が全然できてないじゃないですか?
男子と試合なんて無理です。女子選手と組んでもたちまち骨折ですよ」

北島理事長は忍耐強く顧問の教師の言い分を聞いていた。

「そう言わずにこの子に合う柔道着を出してあげて。授業用の小さいサイズのがあったでしょう。
それと帯は白帯を出して」


白帯という言葉で部員はあちこちで思わず吹き出していたようだ。
特特待生ともあろう者が白帯ということはありえないからだ。
だが、同時に少女の体格から受ける印象は白帯以外にありえない感じもして、妙に納得もできるのだった。
大きい女子選手に付き添われて更衣室で着替えてきた少女はみんなの前に立った。
それはショートカットの髪に、真ん丸い目。長い睫毛が印象的な幼い顔の少女だった。
達磨先生はため息をついて理事長の方を見た。

「どうしてもやらなければいけないんですか?
白帯は初心者でしょう?特特待生は有段者でなければ無理じゃないですか?

それにこの体・・こんな可愛い女の子に怪我させちゃ申し訳ないですよ。」

選手たちは男女とも先生の言葉に大きく頷いている。
理事長はその言葉を遮った。

「怪我の心配はありません。むしろそっちの方が怪我しないかと心配してるんですから。」

この言葉に黒帯を締めている女子選手の一人が興奮して立ち上がった。

「先生、やらせてください。怪我の心配がないなら思い切りできそうですから」

理事長はその言葉も遮った。

「女子は必要ありません。県大会で個人優勝した子を負かしていますから。男子の特待生を出して下さい」

この言葉に他の部員たちも立ち上がった。みんな顔を赤くして目を吊り上げている。
理事長の言葉に理不尽なものを感じて怒っているのだ。
そういう険悪な空気の中で少女は中央にしょんぼり立っていて、いかにも頼りなげである。

「やらせてください!」

女子選手は肩を怒らせて顧問に訴える。顧問は理事長の方を見て肩をすくめる。

「いいでしょう?ちょっとだけなら」
「勝手にしてください。時間の無駄だと思いますがね」
「よし、じゃあ始めるぞ」



顧問が開始の合図をすると、女子選手はつかつかと近寄って少女の襟を掴んだ。
勿論少女は次の瞬間引きずりまわされて畳に叩きつけられると皆が思っていた。
だが、どうやったかわからないくらいのスピードで少女は背負い投げで女子選手を投げ飛ばしていた。
畳を打つ激しい音がして、あっと言う間に少女は一本勝ちしていた。
「え?」
審判を務めていた達磨先生は口を開けたまま、床に倒れている教え子を見た。
女子の二段で県大会4位のため特待生にはなれなかったが、かなりの実力者だ。
そして、丸い目をして立っている少女を見た。
少女はさっきと同じく居心地悪そうに立っている。


達磨先生はじっと少女を見て信じられないとでもいうように首をゆっくり横に振った。
それから男子選手を一人指差して、出て来るように言った。
もう会場では笑う者も怒る者もいない。みんな静まり返って息を止めている。

「あの・・うちには男子の特待生が二人います。
今出て来たのは折茂選手で県大会3位2位3位の成績を修めています。それでは」

先ほどの女子選手も上背があったが、男子となると更に体格がよく、少女と並ぶと大人と子どものように見える。
試合が始まると少女が相手の懐に飛び込んで、いきなり大外刈りをかけた。
これも見事に決まった。
見ていた者は試合をゆっくり見る暇もなく、技をかける瞬間を見落とした者もいたほどだ。



達磨先生はすっかり狼狽していた。そして一人の堂々とした体格の選手を指差した。

「橋詰選手です。青布根の三四郎と言われて、現在三段です。県大会では2位・優勝・優勝です。
勿論特待生でうちのホープです。」

言われた橋詰選手は少女を知っているらしく、握手をした。

「木崎さん久しぶりですね。お手柔らかにお願いしますよ」
「いえ、こちらこそ」

もちろん少女は木崎茜であった。試合が始まると襟や袖の取り合いの攻防が始まった。
互いの腕が複雑に絡むようになったかと思うと、橋詰がタップした。
茜が腕がらみで橋詰を降参させたのだ。


 
北島麻衣子は眼鏡を真っ直ぐに直して、顧問教師に言った。

「じゃあ、資格検定は合格ということで、来年の春入学させます。」
「は・・・はい」

理事長と茜が道場から出て行った後、達磨先生は橋詰選手に聞いた。

「一体あの子はどういう子なんだい?」
「そうですね。素手で戦えば最強の部類じゃないでしょうか。体の作りが普通の人と違うので見かけで判断できない人です。」

このようにして茜の高校進学が2年生のうちに内定したのである。
これは光栄高校としても極めて異例のことだったが、後にもう一人異例ともいうべき特特待生が内定していたことがわかる。しかし、これは別の話である。



「あなた、レスリングはしたことある?」

北島理事長は廊下を歩きながら茜に尋ねた。

「プロレスならちょっとやったことありますけど」
「プロレスごっこの間違いでしょ。そうじゃなくて本格的なアマチュアレスリングよ。フリースタイルの女子の特待生がいるけど、対戦してみる?相手の両肩を一秒以上床につければ勝ちよ。但し、柔道みたいに絞め技・関節技は使えないの。勿論打撃技は禁止よ」

ルールなどがすらすら出て来るところをみると、普段からこの競技に関心を持っているようである。


レスリング道場に来ると、ワンピースの水着みたいなユニフォームを着た二人の女子が組み合っていた。
お互い前傾姿勢で腰を落して、腕を取り合ったり、足をタックルしたり、上から被さって押しつぶそうとしたりしていた。
しまいには二人とも寝転がって、もつれ合い、最後に一方がもう一方の両肩を床につけた。
それで勝負はついたらしい。


「なんだか・・・」

茜は見ていて思わずつぶやいた。

「何?なんだか何?」
「いえ、何でもないです。やはりやめときます。柔道とはだいぶ違うようですから」
「そう・・残念ね。せっかく良い勝負が見られると思ったのに」

すると、今試合をしていた勝者の子が二人に近づいて来た。
近づくと、筋肉質の逞しい肢体が観察できた。

「理事長さん、この子柔道するんですか?今私たちの試合見てなんか感想を持ったみたいですけど」
「柔道も含めた素手の格闘技が得意らしいの。あなたと対決させてみたかったんだけど、やりたくないようで。あ、紹介するわ。青布根中2年の木崎茜さんよ。木崎さん、こちらレスリングで特待生の石狩奈美子さん。
ここの2年生。」

茜がぺこりと頭を下げると、石狩も頭を下げたが目は茜を睨みつけていた。

「悪いけど、あなたの感想少し聞こえたんだけど。もしかしてアマレスを馬鹿にしてない?」
「・・・・」
「なんだか・・・の後の言葉が聞きたいな。なんだか・・かっこ悪い?なんだか鈍くさい?
はっきり言ってほしいな?」

茜は深呼吸をした。そして頭を下げた。

「ごめんなさい。けっして馬鹿にした訳じゃあありません。」
「じゃあ、教えて正直に。なんだか・・・何?」
「正直に言います。なんだか・・・私に向いてないな・・・て」

これを聞いて石狩が憤然として腕を組んだ。
一瞬横を向いたが、また向き直ると茜に言った。

「わかったわ。向いてるか向いてないか、やってみない?ユニフォームと靴。
それに白ハンカチも貸してあげるから。マウスピースや膝サポーターもなんなら貸してあげる。
私48kg級だけど、あなたかなり軽そうね。なんならハンディあげようか?」

茜は困ったように理事長を見た。だが理事長は乗り気である。

「やってごらんなさいよ。こんな経験滅多にあるもんじゃないわ」

仕方なしに茜は更衣室でユニフォームを着て靴を履いた。だが、マウスピースとかサポーターはつけなかった。
丸いリングの印がある床の中央で石狩と向かい合った茜は、顧問の教師の笛の合図で見よう見真似のレスリングを始めた。



石狩はどんな技をかけるか最初から決めていたようで、いきなり茜の右脇の下に頭を突っ込んできて
両腕ごと胴を抱え込んだ。
それを解くのは簡単だったが、茜は様子を見た。
石狩はそのまま後ろにブリッジするように反り投げをした。
当然茜の頭は床に激突することになる。
このとき茜は無造作に石狩の両腕のロックを振り解いて、両手を床に着き前方転回をして着地した。
石狩は振り解かれた腕で頭を庇い、ブリッジの姿勢から体を捻って立ち上がった。

「私のスープレックスを破ったね。なんで投げる前に解かなかったの?できたでしょう?」
「なにをするのかなと思って・・・」
「やっぱり馬鹿にしてない?」
「いえ・・そんな」

今度は石狩が茜の首に右腕を廻して首投げをしようとした。
ところが茜は背後から石狩を抱え上げて首を外し、前方に放り投げた。
背中を打ち付けて急いで立ち上がった石狩は驚いたように茜を見た。

「何やっても通じないのね。それじゃあ・・」

石狩は床を転がるように飛び出すと、すばやく背後に廻って茜の胴を抱えた。
この後背後から胴を抱えたまま、反り投げをする体勢だ。
いわゆるジャーマン・スーピレックスである。
このまま茜の両肩を床につけたままフォールに持って行く積もりだ。
茜は一度腰を沈めた。その気配に石狩は力をこめて反り投げをしようとした。
このとき茜は石狩が持ち上げる前に自分から勢い良くバック転をした。
石狩の反り投げブリッジの勢いに茜のバック転の勢いが加算された。
石狩の体は引っ張られて仰向けのまま宙に浮いた。
茜は転回の後半で体を丸めて回転の勢いを速めたので、石狩の腕は茜の体から振り解かれた。
石狩の体は仰向けのまま床に落ちてその上から茜は両肩を押さえた。
しかも両膝で石狩の頭をしっかり挟んでいるので動かすことができない。

「それまで。」

審判役の教師は二人を並ばせた後、茜の手を上げた。

「とてもユニークな勝ち方ですね。こんなやり方は見たことがありませんな」

審判役の教師の言葉に理事長は言った。

「この後、ボクシング部に連れて行く積もりです。
男子しかいないけれど、またユニークな戦いが見られそうです。」

茜は驚いて理事長の横顔を見た。


風見良一は高校2年生。アマチュアボクシングのジュニア・フライ級だ。
全国大会にも出場していて、青布根光栄高校ではアマチュアボクシングの特待生である。
ボクシングは自己管理が難しく、禁欲的なスポーツなので、彼は規則正しい練習計画に従っている。
縄跳びが終わってサンドバッグの2分間打ち1分間休止を3回繰り返すメニューを始めたときに、理事長が見知らぬ女の子を連れて入って来た。

「風見君ちょっと良い?」

良一はタイマーが鳴るまで止めなかった。全速力全開でサンドバッグを連打し、2分を知らせるブザーで止めた。

「1分しかありません。何でしょうか?」
「この子とスパーリングしてくれる?」

良一はちらっとセーラー服の女子を見た。

「アンダー15の37.5kg以下級ですか?ウェイトが合いません。お断りします。」
「この子はそういうことやってるんじゃないの」
「じゃあ、なおさらです。自分用のヘッドギアや胸やお腹につけるガードなどないでしょう?
ここにはそういうものは備え付けていませんので。失礼。」

1分経過のブザーが鳴ったので、良一は再び連打を始めた。
正直休止時間には頭の中を空っぽにしていたいのに、あれこれ質問に答えるのは迷惑な話だ。
2分経過のブザーが鳴り、良一はまた椅子に座った。

「まだ、何か?」
「スパーリングが駄目となると、何かこの子のボクシングの素質を見る方法はない?」
「まずそのセーラー服を脱いで運動に適した格好をしてきてから相談に乗ります」
「わかったわ。それ終わったらちょっと待っててね」

良一としては、自分の練習スケジュールを中断されるので非常に腹立たしいのだが、理事長の機嫌を損ねると特待生の資格も危なくなる。
連打が終わるとパンチングボールを叩きながら待っていた。
どこかの運動部から借りてきたらしい、短パンとシャツの姿で女の子は現れた。

「何年生?」

どぎまぎした様子のその子を見て、こいつには罪がないと思いながら、努めて優しく聞いた。
理事長は離れたところで腰掛けて高見の見物をしている。

「中2です。」
「ボクシングやったことは?」
「いえ・・ありません。」
「じゃあ、格闘技は?」
「中国のある武術をちょっとだけ」

やれやれ・・と思って良一は女の子を見た。
太極拳とか少林寺とかやっている子は見たことがあるが、中途半端にやってもボクシングのスピードとパワーには付いて来れないことが殆どだ。
女の子の真ん丸い目を見て、この子も物好きな理事長の被害者なんだと思った。
変わった武術をやっているというのでボクシングに通用するかどうか見たいと思ったのだろう。

「汗を思い切り流したことある?」

良一はできるだけ丁寧な調子で聞いた。

「あんまりありません。」

女の子の餅のようなきめ細かい肌を見て、そうだろうと思った。
汗を何度も滝のように流して、汗疹に苦しみながら、毛穴をすっかり全開させる、そんな経験はないだろう。
汗を流した肌は見ればわかる。
汗が乾いて塩になって肌にこびりつくまで練習した人間の肌はこのようなきれいな肌ではない。

「いいよ。素手でいいから、さっき僕がやったみたいにこのサンドバッグを叩いてみてごらん。
疲れたらやめていいよ。」

そういうと、サンドバッグの前に女の子を立たせてストップウォッチを構えた。
女の子はしばらくサンドバッグの前に立って考え事をしていたが、いきなり連打を始めた。
良一はストップウォッチを押しながら、「あっ」と思った。
パンチのスピードと叩く音つまり強さが良一と同じなのだ。
グローブをつけていないとはいえ、それではすぐ息があがるし、テーピングしていない拳を傷めるかもしれない。
だが、どうせその前に30秒も持たないだろうと、良一は高をくくった。
ベンチに寝そべると連打の音だけ聞いて、息が上がるのを待った。


連打の音は規則正しく乱れない。良一は思わずうとうととした。
慌てて体を起こしてストップウォッチを見ると5分以上立っている。
良一は急いで脇にあったバスタオルを女の子の方に向かって投げた。
女の子を見るときょとんとした顔でバスタオルを握っている。
良一は女の子の顔を見て思わず鳥肌が立った。
何故ならその顔に一滴の汗も流れていなかったからだ。

「今まで5分以上も君は叩き続けていたんだろう?」
「はい・・・もっと叩きますか?」
「だって全開パワーで連打したら汗が出ないのがおかしいよ」
「全開?違います。本当に軽く叩いただけですから、こんなのでは汗かきません。」
「・・・・・」

良一は思わず女の子に近づいた。そして腕とか肩を触った。

「あ・・な・・なにするんですか。触らないでください」
「全然熱くなってない。筋肉もパンプアップしてない。汗ばんでもいない。なぜだ?」
「わかりません。あの私一応女の子ですから、男の人に触られるのはちょっと」
「ごめん。つい夢中になって・・」

良一は慌てて手を引っ込めた。本当に女の子の腕だった。
特に鍛えていない。お転婆なことは一切しないお嬢さんの腕だった。
肩の三角筋も薄いし、グローブを持つより詩集でも持っていた方が似合う体なのだ。
良一はピンポン玉の入った箱を出した。
女の子の前にも空の箱を置いてから課題を言った。

「僕が君に向かってピンポン玉を幾つか投げるから、できるだけ受け取ってその箱に入れてくれ。
じゃあ、始めるよ」

良一は2個または3個くらい掴むと無造作に放り投げた。
まあ、一個掴めば普通だろう。だが2個以上掴むのは動態視力と手のスピードが必要だ。
ピンポン玉が床に落ちる音と箱の中に落ちる音は違う。
出鱈目に投げるために、あまり女の子の方を見ずに投げているが、どうも床に落ちる音が聞こえない。
良一は4個5個ずつ増やして行き、しまいにはそれをかなりのスピードで投げつけるようにした。
それでも床に零れ落ちる音が聞こえない。
変に思って良一は顔を上げた。
そして良一は見た、一度に5個思い切り投げたときも、そのすべてをキャッチして箱の中に落としている少女の姿を。
まるで三面六臂の阿修羅のように、一球なりとも逃がさずに掴んでいる姿を見て、良一は再び鳥肌が立った。

「君ってもしかして飛んでいる蝿も掴むことができるんじゃあ・・」

女の子に近づきながら良一は笑いながらそう話しかけた。

「ええ、小さいころから飛んでる虫は何でも掴みました。」
「それじゃあ、これも・・」

射程距離に近づいた良一は女の子の顔の前に寸止めのパンチを左右一発ずつ素早く出した。
ビシビシッ!と音がしたので、良一は間合いを間違えて顔に当ててしまったと思った。
けれども女の子の顔の前の良一の拳は両方とも手で受け止めらていた。
それもしっかりと掴まれていて、出した拳を引くこともできなかった。

「ごめん。もうわかったから離してくれるかな」

女の子に背を向けて良一は理事長の方に真っ直ぐ歩き出した。

「どう?あの子。ボクシングできそう?」

理事長の質問に良一は一呼吸置いてから言った。

「どうしてスパーリングさせたかったかやっとわかりましたよ。」
「じゃあ、やってみせてくれる?」
「いえ、ボクシングのルールではそういうマッチは禁止されてます。でも、もし非公式にやったとしても」
「やったとしても?」
「僕はあの子の敵ではありません。」

良一は本能的に少女の恐るべき力を見抜き戦慄していたのだ。
たとえウエートが違っても、絶対敵わない。彼はそう思った。

「あの・・理事長。彼女は?」
「ああ、木崎茜さんといってね、うちの高校に来年の春特特待生として入ることになった子よ。
一応柔道でということなんだけど、色々使えそう」


そういうと理事長はにやりと笑った。

「理事長・・・お願いが」

今度は良一の方で頼み込んだ。




理事長が席を外した後、風見良一は木崎茜と向かい合って立っていた。

「私が風見さんを殴るんですか?」
「いや、そうじゃなくて寸止めと言って、1・2cm手前で止めるパンチだよ」
「パンチを寸止めする場所は?」
「顔や胸やお腹でトランクスより上ならいい。」
「どうしてするんですか?」
「君のパンチのスピードに僕がついていけるかどうかを見たいんだ」
「わかりました。とりあえず2・30発打ってみます」

茜は連続パンチを繰り出した。
そのスピードはサンドバッグを叩いたときよりも速く、良一は一つのパンチも避けることができなかった。

「参った・・・」

良一が降参したとき、練習場に人の気配がした。

「だらしねえな。それでもボクシングの特待生かよ」

5・6人の人相の良くない男たちが入ってきたのだ。どうみても高校生ではない。

「あなたたちは誰です?」

良一は、不審な侵入者を問いただした。

「俺たちはここの卒業生だ。後輩の練習を見に来たんだ。
なんだ、今のボクシング部は女を相手に殴られる練習をしてるのか?」
「他の者はどうした?」
「帰りました。僕は先輩たちのことは知らないし、事前に連絡を受けていないので、突然来られても・・・」
「なんだ?その態度は。折角来てやったのに、それが先輩に向かって言う言葉か?」
「確か学校からも卒業生に連絡が行っていると思います。
運動部の先輩が突然訪問したり、通常とは違う練習をさせたりするのは止めるようにと。」
「その通常の練習が、女相手の人間サンドバッグかよ。そっちの女はいつからボクシング部に入ったんだ?
確か女子ボクシング部はなかったはずだが」
「この子は違います。理事長が連れてきた入学予定者です。」

こういうやり取りの間、茜は入って来た男たちを観察してた。

入って来た男たちは全部で5人。だが、入り口の向こうでじっと様子を見ている男がもう一人いる。
その男が一番強そうで、ボス格に当たるらしい。剃刀のような鋭い目つきをしている。
主に口を利いているのは、パンチパーマの男と、アロハシャツの男だ。
その他に黒地にバラと竜の白い模様のシャツを着た男。白地に赤と黒の縦縞が入ったシャツの男。
黄色いパーカーを着た男。全部で6人だった。
茜は、男たちの雰囲気で、すぐ暴力に訴えて物事を解決しようとするタイプばかりであることが伝わってきた。
もうすぐ男たちは風見という選手をしごきと称していたぶる積もりだろう。
そして、茜を見る目つきは獲物を狙う獣のようなものを感じる。

「そうか、入学予定者ってことは俺たちの後輩になる人間ってことだな。
お前と一緒に特訓してやろうじゃないか。」
「結構です。断ります」

パーマがそう言ったとき、茜は間髪を入れずに言った。

「素性もはっきりしない人にあれこれ指図されたくありません。」

茜がそう言ったのは、男たちを風見にではなく自分に引き付けるためだ。

「聞いたか?」

パーマもアロハもにやにやしながら茜に近づいて来た。

「怖いもの知らずとはこのことだな。まず礼儀ってものを教えてやろう」


基本的に茜は攻撃しない者に反撃したくないので、相手に攻撃の口実を与えたかった。

「礼儀を知らないのはあなたたちではないのですか?」
「この女、言わせておけば!!」

アロハが先に茜を本気で殴りに来た。相手の右フックを左手で受けて右肘を鳩尾に入れた。
ボクンと音がして、アロハが前方に3mくらい飛んだ。
そしてそのまま床に伸びてしまった。

「きっさっまあー!!」

パーマが構えて左ジャブを出したのを茜は右手で掴んだ。

すぐ右ストレートが出されたが茜はそれも左手で掴んだ。
そして相手の左手を離して、両手で右手を掴むと引き寄せて右腕全体を肩に乗せて一本背負い投げを決めた。
だが、その投げ方は相手を床に打ち付ける寸前に腕を急激に引くため、回転が速くなり、板の間に激しい音を立てて叩きつけられるというものだった。
バッシーン!!パーマは唸って起き上がることができなかった。
その点はプロレスラーよりもヤワだなと思った。
背中を向けている茜に向かって他の三人が走りよって来た。
今の戦いぶりを見てなおかつ攻撃してくるとは、余程暴力が好きなのか、それとも馬鹿なのか・・それとも自分は強いと勘違いしてるのか・・・。
振り返ると、目の前に黒シャツがいた。
いきなり右ストレートが出てきたので、茜はカウンター気味に平手を顔の真ん中に打ちつけた。
パンッ!黒シャツが後ろにのけぞって倒れるとき、縦縞とパーカーが左右から同時に殴りかかった。
縦縞のパンチを掴んだ茜はパーカーの胸をキックした。
パーカーが5mほど前方に飛ぶ、縦縞は首に手刀を打たれて倒れる。
あっという間に5人が倒れた。
風見良一はあっけにとられて茜を見ていた。
茜は入り口の男の方を見ずに言った。

「そこにいる目のきつい人。あなたはどうしますか?」
「お前ボクシングじゃねえな」
「はい、今までボクシングはしたことありません。」
「柔術ってやつか?」
「わかりません。色んなのが混ざってます。」
「どっちにしても俺には敵わない相手だ。驚いたな、見たところ体ができているようには見えないが、すごいパワーだ。仲間を連れて退散するよ。」
「そうですか。そうして下さい。」

剃刀男は伸びている男たちを起こして連れて出て行った。
風見はしばらく凍りついたように立ち尽くしていたが、ようやく口を利いた。

「ありがとう。木崎さんのお陰で助かったよ、僕。」
「いえ、良いんです。もう私帰りますから理事長に挨拶して行きます。」
「そうかい。入学したときは心から歓迎するよ。」
「はい、ありがとうございます。」

風見良一は理事長室まで付いて来てくれて、さらに玄関まで見送ってくれた。


その後、光栄高校には入学式の日までくることはなかった。


(怪力少女・近江兼伝・第4部「流水の記」完。第5部に続く)

怪力少女・近江兼伝・第4部「流水の記」

中学2年生にしてすでに光栄高校の特特待生としての推薦入学が決まった茜。
これまでにも色々な修羅場に巻き込まれて行った茜は今後どうなるのか?

怪力少女・近江兼伝・第4部「流水の記」

中学2年生の主人公は全くの初心者でありながら柔道の県大会に出場する。 また、たまたま行ったアルバイトがきっかけで因縁の組関係者と衝突。 さらにアイドルの依頼で凶悪プロレスラーから守るボディガードの仕事まで。 そして高校の特待生の中の特待生である、特特待生に推薦してもらうために、高校生のスポーツ猛者たちと対戦することになる。主人公の平和はいつ訪れるのか!?

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-25

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