くゆる
一、くゆる
美佳は、喫煙家であった。とりわけ、ベランダでタバコを呑むのが好きだった。
タバコを止めろと言われたこともあった。健康に悪いから。臭いが嫌いだから。キスをした時味が悪いから。
そんなことを言った男とは、だいぶ前に別れた。健康志向で、気が弱いと言えるほど優しくて、わがまま放題の美佳を上手に甘やかしてくれて、セックスではちょうど良い程度にサドっ気があって、美佳を満足させることに満足を得るような、男。
タバコの煙を口に含む。マルボロの赤のボックスが美佳のお気に入り。ふわっと軽いのに、肺に入れると喉元にクッとキツいアクセントが来て、フーッと口の片端しから吐き出すと薫り高い後味が残る。
「なんで別れちゃったの? あんなにいい人だったのに!」
十年来の親友のさやかにはそう詰問された。
「あーあー、どっちかってと彼、私と同んなじタイプだったからさ、美佳とは上手くいくと思ったんだけどねー。うまーく、こう、美佳のこと転がしてさ」
「うーん、なんか、気持ち悪かったんだよね」
「え、どゆこと?」
そう、気持ちが悪かった。
祐介……その別れた男は、顔が気持ち悪かった。
別段不細工とかいうわけではない。ただ、ニヤニヤと、表面に張り付いたような薄ら笑いが気持ち悪かったのである。
「毎日まいにち、決まった時間に電話してきてさ、最初はそれも良かったし、あ、大事にされてるなって思って幸せ感じたりしたけど、時間がこう経つにつれ、なんて言うのかな、祐介っていつまで経っても私にご機嫌伺いしてくるんだよね、今いい? とか、迷惑じゃなかった? とか、それで、いや別に迷惑じゃないよ、嬉しいよ、とか言うと、変に安心したような声で、ああ、良かった、って言うわけ、それが妙に、感動してるぜ! みたいな、嘘っぽい、演技っぽい声だもんで、なんかだんだん気持ち悪くなってきちゃって、嫌んなってきたっていうか」
「えー、なんだろ、それって」
「なんかね、付き合ってる内にだんだん、違うな、コレは違うな、って気持ちが膨らんで、そんで、別れちゃった」
「そっかー、まあー、付き合ってみないとわかんないことってあるもんねぇ」
間延びしたさやかの声と、美佳が飲み干したコカ・コーラの、ズゾゾロロロ、という断末魔、白と黄色の縦縞のストローが舌に当たるあの感覚が、おやつどきの生ぬるい風とともに行き過ぎる。
見ると、大分タバコの灰が長くなっている。それを何気無くベランダの手すりにトンと叩きつけ、あっ、しまった、と思う。
バッと身を乗り出して灰の行方を探すと、またやってしまった、下の家のベランダの手すりに豪快に飛び散っている。アパートってこれだから嫌だ。
まるで投身自殺の死体のようだ、と、不謹慎なことを考えて、また三秒ほど灰を凝視、そして、まあいっか、と、再び元のポジションに戻ってタバコを口にやった。
そもそも美佳は、祐介と好き合って付き合ったわけではない。共通の知人を通して知り合って、なんとなく二人で会うようになって、セックスが先で、付き合い始めた。
あの少し斜視気味な目と、のっぺりとした骨格、小ぶりでそこだけは形のいい唇……。そこまで思い出して、美佳はブンブンとかぶりを振った。その、唇が、嫌いだった。
セックスは、悪くなかった。でも、内容などほとんど思い出せない。ただ祐介は美佳の体を舐め回すのが好きで、腰のくびれの少し下……細身の美佳の浮き出た骨盤、特に左の出っ張りが感じるということを発見した初めての人間である。その時の愛撫、よがってよがって、涙が零れるほど感じて、許しを乞うてもなお責めたてられた、あの快感だけは、今も身体が火照ることがある。
それと、騎乗位。
祐介は正常位やバックでいくことはほとんどなかった。というか、美佳が思い出せる祐介は、騎乗位で繋がったところの、痩せぎすで浮き出た骨盤、美佳の尻に添えられた細い手が肉に食い込む感覚、快感に耐えぎゅっと寄せられた眉根、そんなぶつ切りの身体的特徴ばかりイメージに残っている。
だから、次の男とセックスする時美佳は、騎乗位の時腰に手を添えられ前後させられるのを嫌った。無理にでも身体を起こさせ、抱きついて、あの時の記憶を振り払っていた。
ジリジリと燃えるタバコ。灰になる所はまるで、爬虫類の鱗のようだ、と思った。それまですべすべだった白い紙が、朱い炎に焼かれ、ビキビキと裂けて白と黒の燃えカスに変貌していく様はまた、トカゲじみた祐介の顔を思い出させた……。
「別れた男のことなんてさ、セックスか嫌な思いさせられた記憶でしか思い出さないよね」
「ああー、なんとなくわかる」
思い出の中では、ここでさやかが相槌を打ったような気がする。
「あの男はこういう愛撫をした、とか、あの口癖気持ち悪かったな、とか、こういうところ嫌いだったな、とかは、身体の感覚も伴って自然に思い出すけどさ、幸せ感じたこととか、あああの時は楽しかったなとか、ポジティブなことって、まず先に頭で考えて、フムフムそういやそういうことあったな、って思い出す気がする」
「美佳は幸せな恋愛してないからなー、って言って、私もなんだけど」
「甘いもの食べたい」
「あ、いいね」
さやかと会うと食い意地ばっかりだ。でもそこが気楽で、だから居やすい相手である。
「嫌な感覚の方が、強烈だよね」
メニュー表からケーキを物色しながら、さやかが言う。
「私、ガトーショコラとコーヒーのセットにしよう。そういうのって、脳みそのなにがしと関係あるのかね」
「あ、取られた。なににしようかな…。痛みは痛覚っていう皮膚刺激があるけど、幸せって脳からの伝達物質じゃん、じゃあショートケーキと紅茶のセットだな、すいません」
さやかは店員を呼び付け、なお喋り続ける。
「ってことは、痛みの方が快楽よりも原始的な感覚ってことになるよね、動物だって痛みは感じるわけだし」
「そういやそんな記事ネットで読んだ、心理的な痛みを感じると肉体的な痛みも感じることがある、みたいな」
「お待たせいたしました」
「あ、ガトーショコラとコーヒーのセットひとつと、ショートケーキと紅茶のセットひとつ」
「ガトーショコラとコーヒーのセットひとつと、ショートケーキと紅茶のセットひとつですね、以上でよろしかったでしょうか? かしこまりました、失礼いたします」
店員が十分離れたのを確認して美佳が顔をしかめる。
「やっぱ、何回聞いても、よろしかったでしょうか、は変な日本語だよね」
「どうしよ、気にしたことない。まあ、話を戻すと、そういう心が痛む時って、ことセックスだ恋愛だにおいては肉体的な刺激を伴うからさ、脳の深い所に、動物的な、危機、として刻まれるのかもよ」
さやかはこういう話を大真面目な顔で言うから、やめられない。
「あははは、恋愛に命の危機は大げさでしょう」
「いやいや、大事だよ、だって人間という動物の子孫繁栄に関わることだからね……」
思考的な幸せはいとも簡単に消えていくのに、肉体的な嫌悪感はいつまだたっても消えやしない。突如湧いてきた苛立ちが、唇、肩、背中、秘部に襲いかる。よくそこに触れられた、腕を回され、撫で回された。
いやだいやだ、と、また長くなってしまったタバコの灰を、今度は下の階にぶちまけないよう高く掲げ、風に乗せて世界に葬る。散ってしまえば形も残らない燃えカスよ、向かいの家庭菜園の肥やしになってしまえ。眼下を白いバンが通り過ぎる。
もう一度トントンとタバコを指で叩き、細かい灰片を浮遊させたら、下からタバコの熱気を当てて、上昇気流、上昇気流、としばし小学生の理科を楽しむ。美佳はこういう子供っぽいことが好きだ。
きっとあの人が見たらさぞかし怒るんだろうな。こういうマナー違反がなにより嫌いな人間である。
巻紙に印刷された、Marbolo、の文字まで火はあと少し。その残りの一吸いを、思い切り吸い込む。喉元に、キッ、ときく煙の味は、吸い始めよりも刺激的で、副流煙が鼻と目に染みる。しまった、思いっきり目に入った。これは痛い。
それもなんとか堪えて、ふーっ、と、今日一番の長い吐き出し。真っ直ぐ吹き飛ばしたはずなのに、少し茶味がかった煙は風に流され、美佳の目の前で散り散りになっていく。そこに確かに煙の粒子があるはずなのに、もう、形を成していない。
チラリと下の家を覗き込めば、投下してしまったタバコの灰バクダンはいつの間にか綺麗にどこかに行ってしまっていて、自然風さまさま、と、心の中で舌を出す。
ベランダの床に押し付けタバコの火を消す、ちくしょう、ちゃんと消えなかった。こういうのが一番ストレスだ。
二度目はちゃんと火も煙も消え、タバコを押し付けた跡はスリッパで踏み付けて誤魔化し、ちょうどいい頃合いで鳴る洗濯機のブザーに、はいはい、チョット待っててね、と応え、美佳はベランダを後にした。
二、うごめく
野島は目の前に広げられた膨大な量の写真を見て、思わず顔をしかめた。そこに写っているのは野島の大切な恋人ばかりだったからである。
「あのさぁ……それで、これを撮って、どうしたかったわけ?」
たまらない嫌悪感が、野島を襲う。
恋人が道を歩いている、洗濯物を干している、下着姿で部屋の中にいる、駅で飲み物を買っている、職場で働いている、電話で話している。今の家のものから、実家に住んでいた頃、大学時代に遡るまで、無防備な、恋人の目が、無邪気に野島を見つめ返す。
「そんなに早坂さんのこと、好きだったの?」
「早坂さんは私の恋人だよ!」
猛り切った怒号が、飛んでくる。
「うるせぇんだよ、おめぇはぁ」
素行の悪そうな怒鳴り声とともに、ゴッ、と鈍い音が古い建物内に響く。野島はそれにも嫌な気分になった。「やめて、そういうのいらないから」
「でも野島さんよぉ」
「ノジマくんが止めろっつったら止めんだよ」
遅かった。野島が何かを言う前に、大の男一人が五m吹っ飛んだ。壁に思い切り叩きつけられた男は白目を剥いて口から泡を吹いている。
「だぁから、そういうのいらないって言ってるの。話通じる?」
「だってよ、ノジマくんがよ」
「暴力とか俺嫌いだから。立川、わかった? 第一ね、プロが簡単に手を出すんじゃないよ。話は俺がするから」
「うぅ……わかったよ」
野島の声に、立川と呼ばれた大男がシュンとなる。まったく、こいつらときたら、殴るか怒鳴るかしか脳がないのか。しかしそんな連中にコトを頼んだのは間違いなく野島本人である。溜息が出てしまった。
事の起こりは、何気ない日常の中に潜んでいた。
「ねぇ、奏さん、パンツが一枚無い」
早坂さんがそう訴えて来たのは、春先のことだった。
「え、どっかに混じってないの」
「それが、全部洗ったものひっくり返したんだけど、無くって。でも昨日履いてたパンツ、そのまま洗濯機に入れたんだよ、そんなもの無くなるかなぁ」
「早坂さんが食べちゃったんじゃないの」
「食べないよ、そんなもの!」
もう、奏さんってば、とむくれる顔が可愛くて、心の中でにやけてしまったのを覚えている。
その時はそのパンツをそこまで気にも留めていなかった。早坂さんがものを無くすのはしょっちゅうだ。どうせどこかからか出てくるんだろう、と。
しかし、忘れた頃に早坂さんが再び、奏さん、と訴えて来た。
「ねぇねぇ、私の靴下知らない?」
「また無くしたの?」
「そうなのかなぁ、でもここにちゃんと干した記憶あるんだけどなぁ」
早坂さんが、洗濯物を外し終えた物干しハンガーを指で弾く。
「また早坂さんの気のせいだよ」
「どっか落っこちちゃったのかな、お気に入りだったんだけどな」
「もう、本当気を付けなさい」
「ごめぇん」
ペロッと舌を出す早坂さんは、素晴らしい笑顔をしていた。
また、サービス業をしていて休みが不定期な早坂さんと珍しく休日を合わせられた日の朝のことだったか。
二人にとってそういう日は、前の夜早寝をして朝一番で出かけるのが恒例になっている。この初夏の日もそうする予定だった。
朝六時の静寂の中、うとうとと気持ち良く微睡んでいると、
『ピンポーン』
と、インターホンが鳴ったのである。
ガバッ、と早坂さんが布団から起き上がり、出ようとするのを、制した。
「いいよ、どうせ宗教の勧誘でしょ」
すん、と軽く鼻を鳴らしてまた布団に潜り込んだ早坂さんを再び腕の中へ収める。
と、再び、
『ピンポンピンポンピンポーン』
今度はしつこくインターホンを鳴らしてくる。それでも無視していると、
『ドンドンドンドンドン!』
『ガチャガチャ、ガツンガツン、ガン』
玄関のドアを激しく叩き、ドアノブを回して扉を開こうとする音が響く。
目だけチラリと視線を寄越して無言に訴えてくる早坂さんに、大丈夫だよ、と答える。少し静かになった後、微かに人の立ち去る足音が聞こえた。
「ビックリしたねぇ」
小さな声で言う早坂さんは、少し怯えているようだ。
「大丈夫、前もあんなん来て、うるせぇな、って出たら、メッチャ宗教の勧誘してこようとしたから。あとは水道の検針のオッチャンで、その場で料金取られたこともあったし。今回もその手合いでしょ」
「そっか」
「まだ起きるには早いから、もう少し寝よう」
「うん」
髪を撫でると、すぐにすうすうと寝息を立てる早坂さん。ほっとしたんだろうことは、腕枕にかかる頭の重みでわかる。
自分はこの可愛い人をこの手で守るんだ、と眠りに落ちながら思ったように思う。
それからもこの「ドアドンドン」はしばしば現れた。大抵この人物は来る時間帯が決まっていたので、ドアを叩かれるのは早坂さんが出かけた後か、二人で一緒に居る時であった。早坂さんも徐々にこの「ドアドンドン」に慣れたのか、ただ少し乱暴な「ごめんください」だと思うことにしたのか、さほど怖がる様子も無くなって行った。
「早坂さん、鍵開いてたよ」
ある日野島が家に帰ると、玄関が施錠されていなかったことがあった。
「あっ、忘れてた、さっき洗濯物取り込んでね、それまではチェーンもかけてたんだけど、その時外してかけ忘れてた」
へへっ、と笑う早坂さんの笑顔は野島の好きな笑顔のまま。
「ちゃんと鍵かけなきゃだめだよ、何年か前にこの辺で起こった誘拐殺人事件だって犯人捕まってないんだし、世の中物騒なんだから。三分鍵開いてたらそれは丸一日玄関開けっ放しにしてるのと同じなんだからね」
「はぁい」
少しキツ目の野島の口調に反省顔の早坂さん。それがまた可愛くて、野島の顔が緩む。
「お金とか、物なんて、いいのそんなもん、どれだけ盗られたって。それより早坂さんが安全なことが大事なんだよ」
「うん」
「ちょっと、なにキュンとしてんの?」
「えっ!」
「雰囲気に出過ぎだよ」
「恥ずかしい、恥ずかしい」
早坂さんの笑い声につられて、野島も笑った。だが、心の片隅には気にかかることがあった。
ゴミを出して来ると言って、アパートの外へ行く。道路を挟んで向かいに、トヨタのミニバンが停まっている。人は乗っていない。
いつからいた? この車は。
さっさとゴミを集積所に突っ込んで、部屋に駆け戻った。
「ねぇ、奏さん、ジャガイモ上手く皮剥けない」
「早坂さん」
見たら、包丁でジャガイモの身ごと皮を削ぎ落としている早坂さんがいた。
「なんでピーラー使わないの」
「あっ、そんな文明の利器があったね」
「うん、気付こうね」
あはは、と、早坂さんがまた、笑った。
野島の電話が鳴ったのは、数日後のことだった。早坂さんが仕事に出、休みだった野島が一人で夕飯を食べている時である。
「もしもし」
「もしもしぃ?」
やけに甲高い、女の声である。
「野島さんのぉ、お電話ですぅ?」
「どちら様です?」
「早坂さんの、彼氏さんですよねぇ」
「違います、旦那です」
「えぇ? 聞いてた話と違う……」
咄嗟に出た、嘘。ブツブツとひとりごちる女の声が、ねっとりと、まつわりつく。
「え、二年前の三月からぁ、付き合ってるんですよねぇ? デパートのバイトの、先輩でしょぉ?」
「違います、三年前の八月からだし、インターネット関連の会社の同期です。それより、なんであなたがそんなこと知ってるんです?」
「今年の三月末から、一緒にアパートで暮らしてるんですよねぇ?」
先方は、こちらからの質問は気に入らないらしい。
「いや、昨年の十二月に結婚して持ち家に住んでますよ」
「えぇ? そんなはずないですよぉ」
「調べたんですか? 探偵でも使って? 無能ですね、その探偵」
電話の向こうは、無言である。
「もういいです? ラーメンがのびるんで」
言いながら、カレーをつつく。
「……なんでぇ、野島さんみたいな人が早坂さんと付き合ってるんですかぁ」
答える前に、電話が切れた。
めんどくせぇ。溜息が出た。
早坂さんは、モテる。
電話の女が言うように、野島と早坂さんは、二年前の三月から付き合い始めた。野島が勤めていたデパートのサービスカウンターへバイトとして入ってきたのが早坂さんだ。野島は、教育係を務めた。
八歳年下の彼女に、一目惚れした。
背が高くて、細身で、ショートカットで、化粧気がない。手入れもしていない眉毛はサバサバとした雰囲気に良くあっていた。
なにより、話すのが楽しかった。頭が良かった。
「早坂さんて、天然だよね」
早坂さんが勤務三日目にして五回目の、机へのクラッシュを見て、そう言った。
「え? そうですか? 初めて言われました」
キョトンとした顔で、返してくる。
「天然だよねって言われて、その顔するのは、真性の天然だよ」
「やだ、恥ずかしい」
はにかむ目尻に、完全に、惚れた。
「彼氏はいるの?」
「はい」
恥ずかしそうに言う顔は、幸せそうだった。
だがそんな早坂さんに参る人間は、野島だけではなかった。職場の男どもは、八割がた早坂さんに惚れた。そして、女も。客もだった。女子高の演劇部で鍛えられたモテオーラは、尋常ではなかった。
このストーカーだって、そのオーラに参った一人だろう。容疑者なんて、数知れない。
そして使った、禁じ手だった。
「そもそもさあ、なんでこんなことになった?」
無駄と分かって、立川に尋ねた。
「だってやっぱ、こういうのって、危険じゃん」
「俺は、ストーカーみたいなのがいるからちょっと素性を調べてくれって言っただけじゃん、その本人を誘拐してタコ殴りにしてどうすんの」
立川は、野島の後輩だった。家が近所で、よくツルんでいた。腕っぷしの強いのだけが取り柄で、そのうちその腕っぷしを買われ始めた警備業が、今ではすっかり生業になっている。少しくらい危ない仕事も日常茶飯事らしい。
その立川に、ストーカーの調査を依頼した自分が、バカだったと、野島は少し後悔した。
ストーカーが分かったから、と、連れて来られたのがこの古倉庫だった。
中に入って、丸裸にされ顔の原型を留めていないほど殴られたのであろう、一人の女がいた。
「ここは映画の中か」
見た瞬間、野島は天を仰いだ。
「二三日家の周りに張ってたらさぁ、ノジマくんの言ったとおりトヨタのミニバンがずっといるじゃん、早坂さんが家から出たらそのミニバンがずっと追いかけて行くわけ、それが何回もあったから、うん、捕まえた」
誇らしげな立川の呑気さが、この状況では羨ましくもあった。
「それで、あの女は?」
女は膝まづかされ、髪の毛を男に掴まれながらようやく床に座っていた。
「早坂さんの、高校生の時の同級生だったよ」
「早坂さんは私の恋人だよぉおお」
いきなり、女が吠えた。
「お前みたいな薄汚い男なんか、早坂さんが好きになるわけがないんだよお」
「うるせぇんだよ、お前はぁ」
女の頭を掴んでいた男が、そのまま女の顔を床に叩きつける。
「やめてくれる、そういうの」
野島が顔を引きつらせる。
「でも野島さんよぉ」
男が抗議の声を上げたのがまずかった。
「ノジマくんが止めろっつったら止めんだよ」
立川がそう言うのを聞いた瞬間、野島が何かを言う前に、立川は男を殴り飛ばしていた。周りの男たちが慌てて介抱にあたる。
「だぁから、そういうのいらないって言ってるの。話通じる?」
野島は、立川を叱った。いつも、こういう役回りだ。
「だってよ、ノジマくんがよ」
「暴力とか俺嫌いだから。立川、わかった? 第一ね、プロが簡単に手を出すんじゃないよ。話は俺がするから」
「うぅ……わかったよ」
野島の語気に、立川がシュンとなる。大男のくせして、野島にだけは弱いのが立川である。
「さて」
野島は女に問う。
「そんなに好きだったの? 早坂さんのこと」
バサバサと、早坂さんの写真を床にばら撒く。
「そもそもなんでそんなに好きになったわけ」
「クラスで浮いてた私に、早坂さんは優しくしてくれたんだよ。早坂さんは私のことが好きだったんだよ」
「はぁ?」
ギロリ、と女が野島の顔を睨めつける。切れ長と言うよりは細く三白眼に近い目は眼窩に深く落ちくぼみ、頬は痩け、腫れぼったい唇は紫にパサついて、そこだけ異様に艶の良い長い黒髪が、今は振り乱されてボサボサと顔を覆い隠していた。
「好きじゃなかったら、話しかけたりしないだろ、優しくしないだろ、私のことを愛してくれてるんだよ」
論理の飛躍に、付いていけない。
「早坂さんがね、あんたみたいな男と一緒にいるなんて、あり得ないことなんだよ」
「いやいや、今、現実、俺と一緒にいるし」
「お前がたぶらかしてるんだろ、早坂さんは優しいから、そこにつけこんでお前が早坂さんのこと縛り付けてるんだ、私ならもっと早坂さんのことを幸せにできる」
野島は頭を抱える。
「例えば?」
「お前は早坂さんに借金させてるだろ、私ならもっと働いて、早坂さんに楽な生活をさせる」
「どうやってするわけ?」
「私なら体を売れる」
「バカかお前、そんなもん俺だって売れるってんだよ」
野島の言葉に女が眉をひそめる。
「お前が風俗店に行ったってすぐに客なんか取れねえよ。でも俺はな、今すぐにでも、三秒後にでも客取れっぞ。そのツテがある。お前なんかよりナンボでも多く稼げるわ」
「じゃあやれよ! 今すぐよお」
女が突っかかってくる。
「そういう話してんじゃねぇだろ、お前のそんな甘い展望で金の話すんな、つってんだ。第一な、恋人がそんなことをして稼いだ金を早坂さんが喜んで受け取るような女だと思ってるわけ? とんだ勘違いだよ」
「私なら、私なら早坂さんをもっと大事にできる、気持ちを安心させられる」
女が一枚の写真を掴んで、わめく。その中で、早坂さんは涙を拭いている。仕事の帰り道だろうか。
「だったらどうした、早坂さんの隣にいるのは俺だろうが。早坂さんが選んで、隣にいたいと言ってるのは、俺なんだよ。お前の好きな早坂さんは、俺とセックスしてんだよ。早坂さんが感じてる顔をお前は一回でも見たことあんのか」
「あぁああぁあああ、うるさぁああぁい」
女の怒号が耳をつんざく。
「何回でも、言ってやる。お前は、早坂さんの、恋人じゃない。俺の女に手を出そうとするなら、黙っちゃいねぇぞ」
「殺してやる、殺してやるぅうう」
立川曰く、買ったばかりで未開封の出刃包丁も見つかったと言う。ご丁寧に、早川さんだけでなく野島のことも付け狙っていたらしい映像や写真も出てきたのだ。
だがしかし野島はそんな言葉に脅されるほどヤワな精神など持ち合わせていなかった。
「殺せるもんなら殺してるだろう、殺せなかったから、ここにいんだろ?」
周りを取り巻く男たちは、顔色一つ変えない。
「私は、何回も部屋に入ったぞ。いつだって刺せたんだ」
「うるせぇな、お前がやったのはただの空き巣だろうが。早坂さんの下着盗んで満足してただけだろう?」
写真と一緒に、早坂さんの失くなった下着が机の上に放り投げてある。
「早坂さんは、私を、愛してるんだ、お前なんか早坂さんにとってはただの厄介者だ」
「お前ごときの変態ストーカーに早坂さんの何がわかるって言うんだよ」
俺と早坂さんが積み重ねてきたものは、お前の何倍も密で、繊細で、お前ごときに壊せるものではないんだ。
「普通に、友達として会えば、早坂さんにも受け入れられたんだろうに」
野島は、立川に向き直り、ダメだこれは、と言った。女はわけのわからない言葉をわめき散らしている。
「後はお前に任せるわ」
「オーケー、ノジマくん」
それが何を意味するのか、野島には分かっているし、また、想像の及ぶ範疇を超えたことになるんだろうこともよく分かっていた。自分の手でそれをしないのは野島の、非道になり切れない部分であった。
一人古倉庫を出ると、世界はあまりにもいつも通りであった。
古倉庫の奥からは、耳を引き裂くような女の悲鳴が、うっすらと聞こえてくる。
その後ろ暗い思いに背を向けて、家路を急いだ。
「おかえり、遅かったね」
「うん」
玄関のドアを開けると、風呂掃除をしていたらしい早坂さんが、ヒョイ、とドアの向こうから顔を覗かせた。
「まだ掃除してたの?」
「実はさっきまでダラダラしてて掃除始めるの遅くなっちゃった」
屈託のない笑顔でそう言われてしまうと、許すしかない自分がいた。
「本当に早坂さんは家事が出来ないよね」
「ダメな彼女でごめんねー」
「大丈夫、俺がやるから、早坂さんは何もしないで」
俺が守るから。君に、汚い世界は似合わない。
「じゃあせめて床磨くだけでも……」
「いいよ、早坂さんぶつかって物を落としたりするでしょ」
それもそうだね、と、真顔で言うのもいつものこと。
「じゃあ洗濯物取り込んで、畳むのやっといて」
「了解しやしたっ」
目を細めて敬礼する早坂さん。
さてと、自分はその間に風呂場を掃除して、料理をして、ゴミも出すか。
夜は早坂さんが眠いって言っても無理やり酒盛りだ。
野島は、腕まくりをし、作業に取り掛かった。
三、もゆ
薄暗い部屋に、タバコの煙が混じり合う。そして、男の泣き声と、女の笑い声。テレビの光の明滅が、ゆらゆらと揺らめく。
男がテレビから流れるアニメに感動し泣いているのを、女が茶化しているのである。
二人の間には、二つのタバコと、一つの灰皿、缶チューハイの空き缶が数本と、空いたビール瓶が二本、男は今は芋焼酎を飲み、女は缶カクテルをチビチビやっている。
女はマッチを擦って、タバコに火を付ける。
男はライターの火打石から火花を飛ばす。
なんてことはない、普通の男と女である。
男は女を愛し、女は男を愛している。それ以外になにがいる?
男は訊いた。
「百億円と、愛、どっちか一つだけもらえるとしたら、どちらを選ぶ?」
女は即答する。
「あなた以外、何もいらない」
「答えになってないよ」
男は糾弾する。
「どっちか一つを、選ばなきゃ」
「だって、私にとって愛っていうのは、あなたのことだもの。百億円も、百億円持っていることで見つかるであろう愛も、ただの愛も、あなたのことじゃなかったら、私はいらないの」
女の目は、真っ直ぐだ。
「私にとって、愛とは、あなたのことだから」
「それは質問の意図と違うよ」
「ううん、それが私にとっての、質問の答えだよ」
女が、タバコの灰を、落とす。
「私にとって、友情も、愛情も、日常も、非日常も、憂いも酸いも嬉しいも楽しいも、あなたのことなの。だから、あなた以外のものは、なにも、選ばない」
ちなみに、あなたは? と、女が問う。
「俺は、断然、愛だな。職場の奴らが百億円って即答するのを聞いて耳を疑ったよ」
「あなたらしいね」
男の鼻息は荒い。
「だって、百億円なんてあったって、愛する人が隣にいなかったら、それは死に金だよ。どうやって、何に使っていいかわからない」
「結構愛に関しては情熱的な人だから」
あなたはそういう人ね、と、女が笑う。
「私はあなたに出会えて幸せ者だ」
「それはこっちのセリフだ」
二人、目は合わせない。
「映画でも見ようか」
「うん」
DVDプレイヤーの電源を入れ、レンタルビデオ屋の袋に手を伸ばす。
「あっ、しまった、延滞してる」
「じゃあ明日返してくるよ」
「よろしく」
「うん」
部屋には、DVDプレイヤーの起動する音が響いている。
くゆる