椿

一、

 穏やかに凪いだ群青の海の色に透明色を掛け合わせたかのような青き空の中、海鳥が飛び、白き雲が流れていく。
 日の光は波面を照らし、そこに行き交う船の道標を描いているようである。
 多くの船が海上に浮いているが、そこに他の船を威嚇するかのような特別な存在感を示して港入りする船は、遠く西の国からやってきた。

 ――長崎。

 唯一欧州との交易が行われているその場所は、どこの藩にも属さず異国の文化を吸収した稀有な街である。
 国が鎖国という政策を取っている中でも布教を禁じられているキリスト教の活動は黙認された形となっており、他の地域では幕府によって弾圧されていて、信者は隠れキリシタンとして生きるしかない中、長崎内であればその規制が緩んでいた。
 表向きは集会場で、人々には天主堂と呼ばれている教会が存在するなど、公式文書には残らない、残すことができない歴史の中に埋没すべき姿がそこにあった。

 交易国は宗教と商売を混同させないと約束したオランダである。
 そのオランダを通して様々な国の出身の者が出入りをし、それぞれ異なる言葉を話し、外国人居留地に居住する「異人」と呼ばれる者たち相手に商売を行うのであれば町民としても言葉に精通する必要があり、その習得を求められた。
 町には厳重な警備体制が敷かれ、出入りするには特別な許可が必要であり、そんな閉鎖された環境がゆえに独自の文化を形成していくこととなった。

「織江様!」

 外国人居留地で華やかに装った娘が息を弾ませながら小走りをしている。
 本来、居住地には長崎町民が入ることは禁じられていたが、表向きの規則とは別に許可証を入手すれば自由に出入りすることができ、交流も盛んに行われていた。

「織江様! 私、とても驚きましたのよ!」

 声をかけている相手は、本陣蒔田屋のひとり娘で外国人居留地に勉強のために共に通っている親友である。
 週に二度通うその場所は、数軒ほどしかない日本の家屋とはまったく様相が異なる館が並ぶ中の建てた主人の名前をそのままにガーリア邸と呼ばれていた。
 居留地とはいえ、衣食住が十分にまかなえるほどの町が形成される広さはない。
 西洋人が住むだけの為に埋め立てて作られたそこは、建物が何度も建て直され、門構えもなくただ住宅が並んでいた時もあれば、門や庭のある豪奢な邸宅として居を構えたこともある。
 現在のガーリア邸はオランダ商館と迎賓用に建てられた館に次ぐ立派さを誇る館である。
 日本人が好みそうなものを的確に仕入れるガーリアの商才にはオランダ商館の商館長「カピタン」も頼るところが多く、次席「ヘトル」の立場に甘んじているガーリアの専横を見て見ぬ振りをしていた。
 そのガーリアの妻のユリアが講師を務めており、主に婦女子に語学や行儀見習いを教授している。

 織江は、ガーリア邸の門をくぐったところで声を張り上げている学友を眩しそうに見た。

 いつも驚く話を提供してくれる話題の宝庫とも言うべきその友人は、裕福な商家の娘である。
 派手な牡丹模様の着物に歩く度に揺れる金と銀の光るかんざしを挿し、いかにも金に糸目をつけぬような身なりは洒落者の見本のようで、それらを纏う整った面差しは飾っておきたいほどに麗しい。
 町を歩けば、身分を問わず殿方の視線は釘付けになり、本人もそれを自覚するところがあり、わざと目立つ恰好をしていた。

 そんな着飾った友達を見てくすりと笑う。
「ご機嫌うるわしゅう、華子様。今日もお綺麗ですこと。道中さぞかし皆様の注目を集めていらっしゃったのでしょうね」
 武家の娘の言葉遣いをするよう躾けられてきた口調でそう言うと華子が吹き出すように笑う。
「織江様がその地味な振袖をおやめになったら私など足元にも及びませんわ」
 確かに華子に較べれば地味に見える梅木模様の振袖である。
「私はこれで十分派手だと思っておりますの。それで? 本日の驚きのお話とは?」
 華子が顔をぱっと輝かせる。
「ええ。それがね、先生にお客様がお見えなの!」
 そう…と織江はあまり驚くことはしなかった。
 交流関係が幅広いガーリア夫人のところには年中客が訪れていたからだ。
「驚くのはその容姿よ! 若くてとてもお美しい殿方なのよ!」
 織江は心の中で、なんだ、とがっかりする。
 白人の男性を美しいと感じたことがなかったからだ。
 透き通るような瞳に高い鼻、太陽に反射するかのような髪の色などそれに魅力を感じず、それならば切れ長の凛々しい瞳をお持ちのお武家様の方が……と顔を赤くする。
「華子様がそれほどおっしゃるのならばさぞ秀麗な御方でしょう」
「あのような方は初めてよ。織江様も見たら驚くわ。見惚れておしまいになってよ」
 興奮したその口調に呆れた顔をする。
「私は異人さんより…」
 とにかくお会いになればわかるわ、といいながら、華子は両手を両頬に当てる。
「華子様。そのようなことを大声でおっしゃっていたら許婚の方のお耳に入ります」
 そう言われて華子が艶っぽい笑みを浮かべる。
「うふふ。それはそれ、これはこれですわ」
「まあ」
 溜息をつきながら、家屋の扉にある呼び鈴を押すと、執事が扉を開ける。
 その瞬間、中から風が吹きぬけ、強すぎる風に目を細める。
 吹き抜けになっている玄関ホールは二階の部屋の窓を開ければ風通しがよく夏も涼しく過ごせる場所である。

 ユリアが優雅な足取りで臙脂色の裾を引き摺るドレスを揺らしながら二人を迎える。
 織江が英語で決まり文句の挨拶を交わしていると、華子は挨拶しながらも目は違う方向を見ていた。
 あからさまなその客人を探している態度に、織江が肘で小突くが、華子が気にも止めずに流暢な英語で話し出す。華子も織江も優れた語学習得力を持っていた。
「あの、先生。先日父の使いでお邪魔した時にいらした方は、まだいらっしゃいますの?」
 ユリアが一瞬なんの事かという顔をし、笑い出す。
「ああ。なんとまあ、日本に着いて日が浅いというのにもう追われているなど、さすがというか何というか…ほほほほほ」
「そのような意味ではありませんわ」
 むくれる華子にユリアがにっこりし、貴方がたは殿方に関しての勉強はまだ早いですね、と言いながら教室にしている広間に向かう。
「あの御方ならいません。すでに京に向かいましたから」
 ユリアがほほほほと笑うと、華子は真っ赤な顔をした。
「残念でしたわね。華子様」
 片目を瞑りながら自分の席につくと、華子がつんとして鷹揚に座った。

 *****

 十五歳から二十歳までの十名程の女子が集まる学舎は、希望すれば誰でもが通える場所ではなかった。
 身分の枠を取り外して混在させるという試みをし、それよりもその教育をうけるだけの素養を備えているかどうかというユリアの面談に合格した者というものだった。
 ガーリア邸に通っているというのはそれだけで箔がつき、武家や大店との縁談等、家の格が一気に上がる様な話が寄せられるほどで、それに選ばれた織江たちは格別に思われ、町の女子の羨望の的であり、男子の噂話としてよく話題に上がっていた。
 その為、とても独りで出歩くことはできず、織江も華子も皆それぞれに下男がつき、送り迎えに護衛がついていた。

 ユリアは西洋式のテーブルマナーを身につけさせるため、昼食はガーリア家の料理人が作る西洋料理を一緒に食べ、午後はお茶会とし、会話の仕方などについても細かに指導する。
 決して自慢話に終始しない事。
 人の話には首を傾げながら頷き、話をしている人に微笑みかけること。
 話を中断させるようなことはしないこと。
 同じ話はしないこと。
 それらをくどくど言われると皆は何の話をしているのか、何を話すべきなのかがわからなくなり無口になる。
 するとユリアが手を叩き、場が盛り上がるような話題を提供するのも貴婦人たる役目ですと叱りつける。
 そういう時に率先して行動できるのが華子だった。
「私の父は、常々、女は男に従うべきだと申しておりますの。それはいかがなものでしょう、皆様」
 ユリアが優雅に微笑む。
「私の国でもそのような話は絶えません。日本の子女がどのように思うのか興味があります。さすがハナコですね。では、皆さん、ご自分のご意見をどうぞ」
 すると、まだ最年少の十五歳の庄屋の娘、語学が苦手な頼子が拙い英語で話しだす。
「それはその通りだと思いますわ。母はそれが家を支える事になると申しておりますもの」
 最年長の二十歳の来月祝言をあげることが決まっている全ての教科で最も成績優秀な武家の貴子が、怪訝な顔をする。
「私は……、殿方に従うのではなく、男子も女子も家に従うのだと思っております。ですから、私は嫡男の弟にも従いますし、もしこの先、姑に厳しく言われたとしても耐えられると思うのです。それは武家や商家に関係なく人の営みを支えるものではないでしょうか」
 その意見を訊いて、頼子が、尊敬したような顔をする。
 織江は、自分はあまり意識したことがなかったと思った。
 宿を営む家では、母は女将で、父は店主であり、互いが同等のように見えた。男に従うように躾けられた事も無く、父と母は対等なのが当然のように思っていた。
「……あの。従うのではなく、男女互いに支え合えばいいのではないでしょうか」
 織江が恐々とそう言うとユリアがそれは夫婦として理想的ですね、と言う。
 華子がうふふふと笑い出す。
「織江様らしいわ。私はいやです。従うのも支えるのもいや」
「え? 華子様はどうなされたいの?」
 持っていたティカップをテーブルの上に置き、華子がふうと息を吐く。
「私が従えさせるの」
 え…、とその答えに良妻賢母を目指している九人の女子は顔を強張らせて黙り込む。
 重くなった空気を吹き飛ばすかのようにユリアがパンパンと手を叩く。
「はい。そこまで。なかなか良いお茶会となりました。では、少し休憩した後、ダンスの練習です」

 *****

 講座の内容としては、語学、文学、音楽、ダンス、手芸、料理、そして看護と多岐に渡り、これらを完璧に覚えられたら王侯貴族の婦人に負けないとユリアは豪語する。
 ユリアは没落した貴族出身だった。
 本来、渡来する西洋人は男子単身が義務づけられており、ユリアも日本行きを望まなかったが、夫のガーリアの強欲に縛り付けられ、帰国する日はなかなか訪れず、せめてもの鬱憤を晴らすかのように幼き頃から培われた教養を吐き出していたのだった。
 そして教育というものが自分の天職のような気がしていた。
 自身の身の上ゆえに、武家だけの教育とはしたくなかったのだった。

 休憩時間には、生徒達は中庭で花を愛でることが多かった。
 薔薇という魅惑的なその花を見ながら、織江は華子に声をかける。
「驚きました。華子様があのように思っているなど」
 華子がふふふふと笑う。
「私、皆様がどのようなお顔をするか見たくて言ってみただけなの」
「まあ」
「織江様は、なにゆえ疑うということをなさらないの?」
「疑う?」
「ええ。私が皆様の本音を聞き出すためにわざと言っていると」
「なんですって?」
「貴子様は嫁ぎ先で厳しいことが待っていると察していらっしゃるのね。実はね、私、あれを言った時のユリア先生の意見を訊いてみたかったのです。ユリア先生が殿方に対してどのように思っていらっしゃるか、殿方とどのようなお付き合いをなさったことがおありなのか」
 華子が美しい微笑みを織江に向ける。
「そ、それはとても悪趣味ですわ。先生にそのようなことを突きつけようとなさるなど恩師を冒涜する行為です」
「織江様。私、ガーリア様はご立派な方だと思いますが、ユリア先生とお似合いとは思えませんの」
 商才のあるガーリアはその見事な手腕を発揮し、財を着々と蓄えているという。
 だが、その容姿は確かに美しいとは言い難かった。
「この間お会いした御方の方がずっとお似合いでしたわ。ああいう御方がユリア先生に相応しいと思いますの」
「それは余計なお世話というものです。先生はとてもお幸せそうですし」
 織江は華子のその話につい引きこまれてしまう。
 要は皆が興味を持つ話題なのである。
「けれどもお逃げになりましたわね。よろしくて、織江様。こういう駆け引きが必要なのよ。特に殿方に関しては」
 織江が真っ赤な顔をする。
「私は……、婿を取るのですから、駆け引きなど必要はありませんわ。家に入って、共に仕事をしていただければ」
 華子が大袈裟に長く息を吐く。
「それではまるで仕事仲間ですのね。男と女はそのようなものではないと存じますわ」
 さも経験豊富であるかの如き艶っぽい笑顔を浮かべると、織江は腹立たしくなる。
 男女のことなど考えたこともなかったのだった。
「私の父と母は少なくともそうです! 華子様は何もご存知なくていらっしゃるでしょう!」
 むきになって声を荒げると、華子が驚いた顔をする。
 織江もなぜここまで自分に余裕がないのかわからなかった。
 華子がふっと笑う。
「そうよ、織江様。それでいいのよ」
 織江が悔しそうに唇を噛む。華子一流の意地悪なのだった。
「そうしてもっとご自分のお気持ちを言葉に出された方がいいわ」
 織江が涙ぐむ。
「……華子様はひどい御方です」
「親切とおっしゃっていただきたいわ。織江様は何もかもご自分の中に背負いこもうとされるところがおありになるのですもの。そうして人にご意見されるのも大事なことです」
 してやられた…と織江は思った。いつもこうして華子に乗せられてしまうのだった。
 強い視線を華子に向ける。
「私は、私が思うように過ごしているだけです。自分に与えられた役目の為に。私は家の仕事を継ぐ必要がありますので、早く一人前になりたいと望んでいます。夫となる人がその為にあるのならそれを受け入れるつもりです」
 華子が溜息をつく。
「そうね、それが織江様ね。ああ。私がいかに我が儘な人間かと情けなくなるわ」
 織江が泣き笑いをするような顔をする。
「それが、華子様ですもの」
 まあ、織江様ったらひどいわ、と言いながら華子が頬を膨らました時、ダンスの音楽が広間から流れてきて、時間ですよ、とユリアの声が聞こえてきた。

二、

「日頃の勉強の成果を見る為に、来月行われる晩餐会に皆さんにも出席していただきます」
 ユリアはダンスのレッスンの前にそう告げた。
 ダンス練習用のブラウスとスカートに着替え、洋靴に履き替え終えた皆が一斉に甲高い声を上げる。
 晩餐会に出るのは嫁いだのちのこととばかり思っていたからだ。
 西洋人が催すその宴は日本人の宴とは大きな違いがあった。
 酒の席に出るというと、日本人の宴会では女ならば芸者として呼ばれるという意味になるが、女も男とともに出席するというその形式は興味深いものだった。
「その後は舞踏会になりますので、皆さんにはドレスを用意していただきます。仕立ての職人は紹介します。親御さんによろしくお頼み下さい」
 皆が黄色い声を上げる。
 少女たちはずっと宴用の洋装に憧れていたのだった。長崎でもそれを着ることができる日本人はまれである。
 しかし、皆がきゃあきゃあと騒ぐ中、貴子は顔色を失っていた。
 その頃は隣国の普請奉行の家に嫁ぐ直前で、婚礼支度で大変な出費のところに、長崎を離れれば洋装は不要であるため、それを用意することは難しく思えた。
 だが、ユリアはその事情をよく承知していた。
「タカコ。貴方の衣装は私のものをお譲りします。結婚祝も兼ねていますので。タカコの身体に合うように仕立て直しをさせましょう」
 華子がはしゃいだ声を出す。
「何と羨ましいことでしょう! ねえ、皆様。盛大にお祝いして差し上げましょうね」
 皆がそうね、と顔を見合わせる。
 役人の娘の滋子が、顔を赤くしながらもじもじとする。
「……先生。舞踏会にはパートナーが必要ではありませんの?」
 ユリアがにっこり微笑む。
「心配なさらなくても当日エスコートする殿方を用意いたします」
 皆が真っ赤な顔をする。
 夫となる人以外の男性と交流することなど有り得ないことだった。
「けれども、親しくする必要はありません。あくまでもエスコート役なのですから、お付き合いなど申し込まないよう厳しく言っておきます。貴方がたもそのつもりで」
 少女たちがひそひそと話す。
「よろしいですか。遊びではありません。社交の場を経験して学ぶという目的です。オランダ語と英語でどのように会話をしているのか、人の動きなどをよく見るのです。経験ほど生きた学習法はないのです」
 叱りつけるようなユリアの口調に皆は緊張した面持ちとなる。
「それから、一曲くらいはしっかり踊れるように。毎日練習しているのですから」
 しかし、このダンスの練習がなかなか皆は上手くならないのだった。
 日本舞踊は踊れても、殿方の手を取るということに拒絶反応が起きてしまう。
「それから晩餐会でワインを振る舞われますが、貴方がたは酒を飲んではなりません。給仕にそう指示しています。舞踏会でも同じことです。自ら酒に手を出すようなことは禁止します」
 くどくどと言うユリアに華子が退屈そうな顔をする。
「つまらないのですね、それでは何のロマンスも生まれませんわ」
 皆が一斉に「華子様!」と叱りつけるように声を発する。
 華子がつんとすました顔をしてユリアに挑戦的な表情を向ける。
「先生。あの御方もお見えになりますの?」
 華子がユリアをじっと見る。
 ユリアがそれの意味を察するように含み笑いをする。
「しばらく日本にいるようですから、声をかけてみましょう」
 華子はそのユリアの表情を見て満足したような顔をした。
 さあ、では始めます、と言いながら、ユリアがピアノで舞踏曲を弾きだす。

 *****


 織江は、帰宅した後、夜会服を仕立てる相談を両親にしていた。
 洋服を扱う店は少なく、生地や材料は全てオランダ製である為、その衣装には法外な値がつき、振袖の数倍するものだった。
「お父様、お母様、大変恐れ入ります」
 織江の父の左衛門は、その服の仕立て図を見ながら、ほお、と感心していた。
「まさか、我が娘が異人の服を着て、寄り合いに参加するなど、想像もしていなかったな」
 母の奈津が不安な表情をする。
「そのダンスとやらは男女が手を繋いで踊ると聞きましたが、お前もそれをするというのですか。ガーリア塾ではそのような手ほどきをしているというのですか」
 異人と長崎町民の間の隔たりは大きいものだった。
「はい。それが嗜みのようで勉強のひとつなのです。恐らくここも異人さんがたくさん宿泊するようになるとそのような場になるかと」
 奈津が気色悪そうにぶるりと震えるような顔をする。
 左衛門がふうと息を吐く。 
「とにかくガーリア塾でのことならば致し方ない。きちんとしたものを作り、しっかり学びなさい」
 娘をガーリア塾に行かせていることで宿の評判が上がっているのも確かなことだった。
 ありがとうございます、と織江が頭を下げると、左衛門がこほんと咳払いをする。
「ああ、それからな……」
「はい。お父様」
 左衛門が勿体ぶるような、照れたような顔つきをする。
「実はお前の縁組のことだが…」
 織江が上気した顔をむける。
 ――とうとう夫となる人が決まるのだわ。
「上村藩のご家老のご三男が婿入りしてもよいと」
 織江が信じられないと言った表情をする。 
「え? そんなお方が?」
「家老とは言え、小藩でその三男は冷飯食いだとおっしゃっていた。商家に婿入りさせて藩の財政の在り方などを指南できるよう修行させたいとのことだ」
 武士が格式ある本陣とはいえ宿屋の家に婿入りするなど捨て身と同じである。
「そんな……、それはとても過ぎたるご縁なのでは」
 事情は多々あるが詳細を左衛門は語ろうとしなかった。
「ゆえに断われぬ。よいな、お前ひとりだけのことではないのだ。当方に属する者全てに関わってくることである。よって今後は気を引き締めて過ごすように。くれぐれも悪い噂など立たぬよう、習い事もより精進し、日々務めるがよろしい」
 織江は既に緊張してきた。
 はい、わかりました…と言い額に汗を浮かべる。
 奈津が、優しく微笑む。
「良縁であることを祈ります」
 織江の脳裏に華子の言葉が浮かんだが、やはり男女の駆け引きなど何も必要なく、そのお武家様と仲良く家業を営んでいければそれでよいし、それが自分の人生だと思った。
 ――どんな御方かしら…。

 *****

 ユリアの催した晩餐会は大広間が狭いと感じるほどぎっしりとテーブルを並べられ、織江たちはユリア近くに集められた。皆に、社会勉強の為に出席していると紹介すると、十名の少女らはユリアに教わった通りの作法でお辞儀をする。
 異人と日本人合わせて五十人ほどの出席者らに拍手を持って迎えられると織江は大変に緊張し、その後の食事の味はわからなかった。
 華子以外の少女たちも同じ状態で、喉など通らないようだったが黙々と運ばれてくる料理に集中しており、織江も音を立てないようにとはらはらとしながらナイフを動かし、口の中に入れているのは食べ物ではないような気がしていた。
 晩餐が終わった後は舞踏会となり、会場は雰囲気が一変し、人数も舞踏会から会場入りした人もいて急激に増えたようだった。
 堅苦しさはなくなったにしても、目が回るような人の洪水の中、学友たちとは離れ離れになり、織江は不安に陥るが、エスコート役のジョンは感じの良い青年で、船の航海士という職業柄、話題も豊富で緊張で固まる織江を解していく。
 世界中を旅する話を熱く語るジョンに織江は専ら聞き役に徹しながらも、楽しさを感じていた。
 ジョンに決まった相手はいるのかと会話の中で自然に聞かれる。
 だが、織江はザワザワとした人の話声と音楽でそれがよく聞こえなかった。
 ジョンが耳元で囁くように言う。
「ですから、恋人はいるのかと聞いています」
 織江がドキリとする。
 思わず手が震える。
「…恋人はおりませんが、夫になる人が決まりました」
 そう答えるとジョンが心底がっかりしたような顔をする。
 その表情があまりにも大袈裟だったので織江はつい笑ってしまう。
 そして少し浮き浮きした気分になる。
 ――これがロマンスなのかしら。
 そう思うと心が弾んでくる。
「あなたはとても可愛いし、もう少し静かなところでゆっくりとお話ししたいのですが、口説いたことがわかったらガーリア夫人から船長に告げ口されるのでやめておきます」
 楽しいと思った。
「ええ。それがよろしいわ。私たちの先生はとても怖いのですから」
「知っていますよ。夫人と船長に睨まれたら私は生きていけない」
 織江は心躍る思いだった。しかし、
 ――気を引き締めて過ごすように。
 父の言葉が浮かんでくる。
 ……これくらい楽しんでもよろしいでしょう?
 すると父の苦虫を潰したような顔が浮かんできて、ふっと笑う。
 ……だめですわね。
 室内楽団が明るい調べの円舞曲の演奏を始めるとそれぞれ男女が踊り出す。華やかに着飾った婦人たちが優雅に回り、織江は何とかそれについていこうと必死だった。だが、練習通りにやっているが、うまくステップを踏めず、ジョンの足を何度も踏んでしまい、泣きたくなる。ジョンはその都度優しく気にするなという顔をした。

 人の波の中、ユリアは接客に多忙を極めながらも、生徒たちがどんな様子かはらはらと見ていた。
 本人たちは気がついていないかもしれなかったが、十人の少女はかなり注目を集めていたのだった。早く帰宅させなければと焦っていた。そんな風に気を取られていた為、にわかに近づいてきていた者から逃れる事ができなかった。
「私に紹介もしてくれず、早く京に行けと促したのは、私が手を付けてしまうと警戒されたからですか?」
 後方からそっと近づき、焦げ茶の瞳を輝かせ、ふふふと笑いながらユリアの肩に手を置く。大きな手だった。ユリアは心で舌打ちをする。その相手は夫に対応してもらう予定で自分は挨拶だけするはずだったのだ。こういう場で話をしたくなかった。
「その通りですわ」
 つんとして扇で顔を隠しながら不快感を露わにして肩の手をさり気なく外させる。すると摺り寄り、耳打ちするように顔を近づける。
「それとも、私が貴女を口説かずに彼女達に夢中になるのを恐れたからですか?」
 ユリアがぎりりと歯軋りするように唇を結ぶ。

 ……これだから……。

 ユリアが目を閉じて溜息を吐いた後、たたんだ扇でその手をぴしゃりと叩く。
「お遊びはご自分のお国だけになさって」
「この国でフランス語のそのような言葉を訊けるとは思いませんでしたよ」
 遊びであることを否定しないあたり、靴を踏んでやろうかとユリアは思った。
 ユリアの夫は英国からオランダに渡った商人だった。だから英語とオランダ語を教えていたのだ。そして英語は商人たちの間で盛んに話される言語となっていた。
「私もフランス語を話す機会があるとは思いませんでしたわ」
 貴族社会の言語だったからだ。
「男爵もまさかこれほど遠くに行かれてしまうとまでは思わなかったのでしょうが」
「……父の話などなさらないで…」
 貴族の体面を保つ為に娘を商人に売った父親だった。
「ここではまるで女王陛下のようですね。皆が貴女を讃えている」
 そう言いながら流し目を送ると、ユリアは思わずその視線から逃れるように顔を逸らす。
 そのユリアの手を取り、流れるように踊りだす。
「申し出は受けておりませんのよ」
 にっこりと微笑まれてしまい、ユリアは顔が赤くなるのを必死に抑える。
 夫のガーリアが睨むように見ていて後が怖いと思った。

 そのダンスは息をのむような優雅さだった。
 長身が上にがっしりとした肩幅はユリアの手を支えているだけで色気が漂い、ユリアの美しさが増したように見えた。金色が光るレースの装飾の美しいドレスが華麗に揺れる。
 その踊りもきびきびとしており、音楽にぴったりと身体が重なるようで、そのリードは女性の可憐さを引き出すかのようで、あたかも光を放っているかの如くだった。
 夫人たちがそれに釘付けになってき、足を止める。
 ひとりひとりが踊るのをやめていく。
 そして、いつのまにか、ユリア一組だけが踊っている状態になった。
 音楽が終わると皆はブラボーと言って拍手をする。
 ユリアが陶酔したような表情をするとガーリアは不機嫌な様子でその場から離れる。
 織江がジョンのことなど忘れたかのようにそれに目を奪われる。
「先生…なんて素敵なのでしょう…お綺麗だわ…」

 華子がその二人に駆け寄っていく。
「先生。素敵でしたわ! 私も是非こちらの殿方と踊りたいわ」
 いかにも遊び人然としたその者は、誰もがうっとりとはせずにいられぬ微笑みを見せる。
「このような可愛いお嬢様からのお誘いを断れるはずがありませんよ。マドモアゼル。マークと呼んでください」
 額にかかる瞳と同じ焦げ茶色の髪を揺らしながら手を取ろうとする。その手をぴしゃりとユリアが叩き、なりません、と華子を睨む。
 華子はそのユリアの表情にたじろぐ。
「貴女がたはもうご自宅に帰る時間です。お支度なさい」

 滋子、貴子、頼子、華子…とユリアは十名の生徒を玄関ホールに集めながら、美しく着飾った少女たちを見る。エスコート役をした男たちはその後ろに位置していた。
 晩餐会が始まる前に早めに集まり、貴子の結婚祝い会をしていて、皆は一通りそれぞれの衣装を褒め讃えていた。華子の深紅のドレスは振袖姿よりも圧倒するほど華やかだった。
 貴子用に新たに仕立て直されたユリアのドレスは素材が別格のようで、銀色の刺繍が美しい純白の生地に落ち着いたデザインでありながら高貴な雰囲気があり、貴子らしさを引き立てるものだった。
 皆は絶賛していた。
「皆さん、とても美しいわ。ドレスもとてもお似合いで、ダンスは楽しめましたか? 皆さんは紳士でしたか」
 ユリアが上から鋭い視線を投げると男たちは照れたような顔をする。言いつけは守っていたようだった。
 少女たちは頬を紅潮させていたが、華子だけは膨れっ面していた。
「ハナコ。あの方はだめよ。女性は皆ご自分のものにできると思っていらっしゃる御方なの。お嫁入り前の貴女に何かあったら私は親御さんに何の申し開きもできないわ」
 華子が憮然とする。
「ダンスぐらいよろしいのではありませんの?」
「いいえ。ああいう御方には近づかないのが貴婦人たる心得です。貞操を守るためにも」
 すると、皆が貞操ですって…と顔を赤らめる。
 ユリアは言いながら自分に言い聞かせているようだと思った。
 そこに執事がやってくる。
「奥様。織江様がどこにもお見えになりません」
 ユリアが蒼然とした顔をする。
「なんですって!」
 思いがけぬダンスで気を取られていた。動揺が隠せない。
「探して! いないはずがないわ! 門から出ているはずがないのですから。どの部屋に入ってもいいわ。ジョンは何をしていたの!」
 そのジョンが申し訳なさそうに執事の後ろに立っている。
「ちょっと手を離したら見失ってしまって………」
 ユリアが血相を変えて広間に戻る。
 少女たちがいったい何が起きたのかと心配そうな顔をしていた。

三、

 皆に心配させているとも知らずに、織江は酒や香水と煙草の匂いで気分が悪くなり、中庭に出ていっていた。
 ユリアたちのダンスの後、人々は興奮して、更に熱狂的に踊り始め、その熱気に当てられてしまい、口元を押さえながら、ジョンから離れ、外に向かったのだった。

 ……気持ち悪い……。苦しい……。

 月の出ていない夜で、その分、星がよく見えた。
 織江は星空を見上げながら、薔薇の場所に行く。
 花壇近くの池には噴水があり、今夜は噴水を照らすように蝋燭が置いてある。
 幻想的で風情のあるものだった。
 その噴水の水音を聴いているとほっとしてくる。
 息苦しさから解放される。
 香水が鼻をつき、いつものように薔薇の薫りを感じることができなかったが、やがて漂ってくると、柔らかなその匂いに包まれ、楽になっていく気がした。
 風が心地よく頬を撫でる。
 大きな柳の枝が揺れ、ざわめいた音を出す。

 長く息を吐いた。

 ……足が痛い。 

 普段、靴はダンスの練習の時にしか履かず、これほど長い間履いたのは初めてで、踵とつま先、足の裏まで感覚がなくなるほどの痛みで泣きたいと思った。
 そして腰を細く見せるためにきつく締め付けられた下着のせいで息苦しく、もはや立っていられなかった。

 ……少しだけ。

 誰も近くにいないことを確認してベンチに腰掛けて靴を脱ぐ。

「はあ………」

 解放感に声が出てしまう。
 もう履きたくなかった。
 このまま草履に履き替えたい、ドレスも脱ぎたいと思った。
 
 はやく帰りたい……。

 腹立たしい気分にもなってくる。
 再び、溜息を吐く。
「もう、いや」
 はっきりと言葉に出したら意外とすっきりする。
 すると、風音がざわざわと囁き、そうだ、そうだと言われたようで心強くなる。
「そうよ」
 止まらなくなった。
「足が痛いわ。もう歩きたくないの。それにドレスってどうしてこんなに窮屈なの」
 もっと言ってしまえとばかり声を大きくする。
「やはり男の方と踊るのは緊張するわ!」
 ジョンの苦笑いした顔を思い浮かべる。
「足を何度も踏んでしまって恥ずかしいったら……」
 もう晩餐会も舞踏会もこりごりだと思った。
 異人たちに囲まれるのは緊張を強いられ、町の重役たちとその夫人たちの前での少しでも粗相があったらすぐ家に傷をつけることになり、一挙一動監視されているような気がして、息苦しいものだった。
 生きた学習法と言われても、あまりこのような経験はしたくないと正直思っていた。
 宿屋を営んでいく上で、確かに大事な勉強に違いなく、しかし、自分は、自ら率先して社交の場に立つよりも、殿方の後ろにいる方が向いているように思えた。
「途中から自分で話しているのも英語なのかオランダ語なのかもわからなくなってしまったし」
 恥ずかしさのあまり足をバタバタとさせる。
 
「日本語で話せばいいのですよ」

 突然、男性の声が響いた。
「!」
 誰もいないはずだった。
 周りを見回して誰もいないと思って、愚痴話を大声で零していたのだった。

 ……全部聞かれていた? 

「ここは日本なのですから」 

 ……いつのまに? 隠れていたのかしら。

 自分が口走っていたことを確認する。

 ……先生のお名前も何も言っていなかったわ。

 そっとその場を去ろうと靴を履こうとした。
 しかし、そこにあると思っていたはずの靴はなかった。

 ……え?

 ドレスの布ばかり蹴飛ばしていて、肝心な靴がどこだかわからなくなっていたのだ。

 どこ……どこ…………。

 必死に探し当てる。

 ……どこ。靴はどこ……。早く…………。

「まるでここだけヨーロッパを切り取って貼り付けたみたいだ」

 ……見つからない!

 もう靴なんてどうでもいいと思った。混乱して恐怖に駆られそのまま走り出す。
「日本ならば日本の……あ、待って…!」
 敷き詰められた玉砂利が足の裏に当たり、痛めている足が悲鳴をあげたが、急いで行くしかなかった。
 
 ……靴は後で取りにくれば……。


 ******


「織江様!」
 織江が中庭から走って広間に向かっていると執事が呼び止める。
「あ、木村さん」
「ああ、よかった。皆で織江様をお探ししていたのですよ」
「それは申し訳ありません。気分が悪くて外の空気を吸いたくて」
「奥様がお待ちですよ」
 織江がホールに行くと、皆が心底心配した様子で待っていた。
 華子が一番顔色を失っていて、織江の顔をみた瞬間に泣き出す。
「心配しましたのよ! 誰かに連れ去られたのではないかと」
「…そんな…小さな子供でもないのに…」
 織江が苦笑いをしながら、汚れた足の裏を気にして、それを誤摩化すように心配されていた意味を深く考えずにそう言うと、ユリアがほっとした顔をした。
「本当に驚きました。ずっと見ていたつもりでしたので」
 ユリアは夢中になって踊ってしまったことを反省していた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
 ユリアが長く息を吐く。
「では、皆さん。今日はこれまでです。では次の時に今回の事でスピーチをしていただきますので、それぞれ用意してくるように。よろしいですね」
 はい、と返事し、それぞれが家路に急いだ。皆、草臥れきっていたのだった。


 *****


 三日後のガーリア塾に向かう中、織江の頭の中は、こっそりと中庭に行き、靴を取り戻すことしかなかった。

 ……池の近くのベンチ、そこにあるはず。

 しかし、執事の木村が扉を開けた後には、ユリアが玄関ホールまで迎えに来るため、休憩時間になるまで中庭に行くことはできない。
 休憩時間となれば、学友が皆揃っていて、その時に靴を探すなど恥ずかしい真似はできない。
 それより庭師がとうに見つけているはずだった。
 恥を忍んで木村に訊いてみようと思い、呼び鈴を押す。
 扉が開く。
「ごきげんよう。……あの、木村さん」
「はい。ごきげんよう、織江様。夜会は楽しまれたようで良い経験をなさいましたね」
 その挨拶で、木村の手には渡っていないのだと思った。
 持っていたら開口一番に言われるはずだった。
 ユリアから靴を脱いだ者がいると告げられるのかと思うと、穴があったら入りたいと思った。
 皆の前でどれほど恥をかくのかと気が重くなる。
 それでも靴一足の値段を思い浮かべると何が何でも手に入れなくてはと思った。
「……ええ。大変お世話になりました」
 そう言った時、二階で何か光ったように見えた。
 思わずその方向を見る。
 鏡を太陽に反射させていたようだった。子供の遊びだと思った。
「今日はどなたかのお子様がいるのですか?」
「お子様? いいえ。お子様はいませんよ」
 そうですか、と言うと、またキラリと光る。
 その瞬間、吹き抜けになっている二階の手摺に靴が置かれていることに気づいた。
「あ!」
 するとサッと靴が消える。糸か何かで引っ張られたようだった。
「どうされました?」
 狐に化かされたような気がした。
「…さあ…どう…どうしたのでしょう。いったい…」

 ――私の靴――!


 *****


 織江はその日の授業はほとんどうわの空で、晩餐会や舞踏会の皆の発表は、ほとんど聞いていなかった。
 それより靴がどうなっているかのほうが大事で、二階にいる客人であろう人から奪う方法を必死に考えていた。
 あの時のあの男の人だと思った。
 突然声をかけられてあの時に何か言われたような気がするがまったく覚えていなかった。
「では、オリエ。どうぞ」
 ユリアに名指しされて織江ははっとする。
「え。あ…、はい。えっと…その……」
 用意していた紙を文箱から出そうとしたが、入れ忘れていたことに気がついて、あたふたする。席をたち、スッと息を吸う。
「…Well…」
 皆が注目する。
 書いた英文は頭に入っていた。
「得難い経験をしました。長崎にはたくさんの外国人がお住まいですが、その社交の場には日本人が入ることは難しく、勉強中の身でそんな世界を垣間見ることにより、これからの勉学の幅が広がり、より多くのものを吸収できることと存じます。エスコート役をしてくださったジョン様は航海士というご職業で、様々な国のこと、特に清国や印度のお話をお聞かせ下さいまして、大変興味深く、ダンスもよくリードして下さり、とても紳士でした。こうして人々と交流を深めていくものだと感じ入りました。それから晩餐会では、マナーがきちんとできているのか緊張しすぎて、あまり味がわからなかったというのが本音です。また次の機会があることを切に願っております。以上です」
 当たり障りのないいかにも織江らしいものだった。
 それぞれがそれぞれに感じたことを発表し、ユリアはその内容に満足していた。
 華子もひとまず通り一遍のようなことを発表していた。
 英語の授業後は休憩時間になり、織江がたまらずユリアに聞く。
「先生。お二階は客間なのですか?」
「ええ? そうですけれど」
 織江は拳を握る。
「あの、是非拝見したく…見学を申し出てもよろしいでしょうか」
 ユリアが、え? といった顔をする。
「私の家は宿を営んでいますので参考にさせていただきたいのです」
 咄嗟に口から出た理由だったが、大人を納得させるには上出来だったようだ。
 ユリアがにっこり微笑み、ならば皆さんにもと言って、「キムラ」と呼び、執事に客間を案内するように言う。
 華子も頼子も皆、実は興味を持っていて、館の中を見たいと思っていた。
 織江は足を震えさせながら階段を登る。靴のことしか頭になかった。
 イタリア製の華美な装飾の家具と掛けられている果物の絵画を指しながら、木村がルネサンス様式とゴシック様式の違いを説明すると、皆は興奮しながら熱心に聞いている。
 だが、織江は部屋がどんな意匠で、どんなに素晴らしい家具が置いてあろうともまるで目に入っていなかった。
 十部屋あった客間は全てもぬけの殻で、織江が探したかった悪戯をしていた人はどこにもいなかった。
 織江はユリアに言うべきか悩んだが、靴を脱ぐなどという行為をした上に失くしたことを告げる恥ずかしさのほうが先に立っており、言い出せなかったのだった。

四、

 織江は重い足取りで岐路についていた。
 出島という扇形をした外国居留区域を出る橋を渡り、長崎奉行所を通り過ぎ、そこから並ぶ武家屋敷の外れに本陣蒔田屋がある。
 下男の吾郎が心配そうな顔をする。
「お嬢様、具合でも悪いので?」
 吾郎の言葉に下を向きながら首を横に振る。
「いいえ。暑いだけよ」
 確かに初夏であるのにも関わらず、気温は夕方でも下がらず、背中はじんわりと汗をかいていた。
 海から陸にあがっていく道を進むと海風に後押しされ、その風が首筋を擦っていくが、涼しさは感じなかった。
 苛々とした様子を隠さず、憮然とした表情で歩みを進めていた。

 家につき、両親に挨拶をし、部屋に入ると、早速琴の稽古の準備を始める。
 明日は琴の師匠のところに行く日である。
 琴を出しながら、ユリアに正直に言えば良かったと後悔して、沈んだ気持ちになる。

 ――靴を取り戻せなかった。

 沈んだ気持ちが怒りに変わっていく。

 ……腹立たしい。

 ……苛立つ。

 奥歯を噛み締める。

 ……なんてひどい方なのかしら。なにゆえ返して下さらないのかしら。

 小袖に着替え、琴を覆う袋を外して、深呼吸をして、一礼する。
 爪をひとつひとつつけながら、無心を心がける。
 心の動揺はすぐ音色に現れるからだ。
 だが、一弦鳴らすと、鏡が光った時のことが甦る。
「………っ!」 
 爪を思い切り弾き、あまりよくない音色をたてると、障子が開いた。
「珍しく荒い弾き方ね。織江」
「お母様」
「あなたにお客様よ」
「え?」
「ガーリア塾での忘れ物を届けにいらしたとおっしゃっているの」
「え!」

 ……返しに来てくださった!

「そ……」
「心当たりがあるのですか」
「はい! 確かに探していたものがあるのです」
「なんとそそっかしいこと。気をお付けなさい。ではあまりお待たせせずに早くいらっしゃい」
「は、はい」
 ひどい人だなんて思って悪かったと思った。
 ユリアに分からぬよう見つけてくれたのだと。
 逸る気持ちを抑えるように深呼吸をする。
「誠に恥ずかしいことを。お母様、客室を使わせていただいてもよろしいでしょうか。お礼を申し上げながら少しおもてなししたく」
「すでに芙蓉の間にお通ししてあるわ」
 奈津がそう言いながら部屋から出て行った。

 客人用の振袖を着るべく、帯を解く。
 女将の修行として客への挨拶をするようになっていた。その為に誂えた振袖を箪笥から取り出す。
 それを衣紋掛けに掛けながら、ふっと思った。

 ……なぜ家がわかったのだろう。

 ……木村さんに聞いたのかしら。

 ……きっと大きな声を出したから靴を置いて行ったのは私だとわかり、恥をかかせぬよう返しに来てくれたのよ。

 良い方へ良い方へと考えていた。


 *****


 芙蓉の間の前で、失礼いたしますと声をかける。
 返事が聞こえたので、更に開けて頭をさげていると、こちらにどうぞと言われる。
 その時、鼻腔をくすぐる香りが漂い、酒があることに気付いた。
 膳を運ぶように頼もうと思っていたのに、まさか酒が出ているとは予想していなかった。

 ……忘れ物を届けに来てくれただけでは……。

 しかも数本があけられていた。
「女将に、貴女の忘れ物を届けるついで次の会合の場所をこちらで考えているので下見も兼ねてと言ったら、ガーリアの使いだと思い込んで振る舞ってくれましたよ」
 見透かされたように言われる。
 あんぐりと口を開けてしまった。
 その人が異人だったからだ。
 ユリアは殆ど日本語が話せず、通詞以外で日本語を話す異人を見たのは初めてだった。
 それにしても見事な話し方だった。
 そして目の前の人は、ユリアと華麗にダンスを踊っていた背の高い華子の憧れの君、噂のマークという人だった。
 華子がダンスを踊りたかったとずっと言い続けていたから否が応でもその名前は頭に入っている。
「では…あなたが…」
 それだけ言葉に出す。茫然としてしまっていた。
「素晴らしいですね。ここなら何日でも滞在したくなる」
 そう言いながら部屋から見える庭をみながら溜息を吐く。
 だが、言葉がすべて素通りしていく。
 お酌をすべきかどうか迷いながら、とにかく失礼のないようにしなくてはと身体を硬くした。
 混乱してくる。
「それほど緊張しないでください。私も緊張してきました。なぜなら…」
 鞄から取り出したのは一足の靴だった。両手に乗せている。
「最近国で流行っている物語のようにこの靴を履ける姫を探しているからです」
 思わず口を押さえると、微笑みながら座布団の上に片方の靴を乗せた。
「履いてみてください」
「え?」
 マークが爽やかな笑顔を向ける。
 早くそれを懐に入れてしまいたいと思った。
「なぜですか。それを届けに来てくださったのでしょう?」
「違いますよ。貴女の忘れ物とはこれのことです」
 一枚の紙を広げる。
 発表するはずの英文だった。
 文箱ではなく襟元に入れたことを今更ながら思い出した。
 そして靴に気を取られて落としたことに全く気づいていなかった。
 靴を脱いでからの失態の連続に身の置き場もないような羞恥心が襲う。
「Orie Makita-ya, It was valuable experience…」
「や、……やめて!」
 それを奪うように取ろうと手を伸ばした瞬間、その手首を取られてしまう。
「わざわざ届けに来たのですよ。お礼が先ではありませんか」
 顔が目の前にあった。
 焦げ茶の瞳は穏やかに輝き、思わず見入ってしまうほどに綺麗で、こんな状況なのに何を思っているのかと慌てて自分を戒める。

 ――見惚れておしまいになってよ。

 華子の言葉が浮かんでくる。

 ……いいえ。私は断じてそのようなことにはならないわ…!

 唇を噛む。
「あ…あり…有難うございました。落としたことに気づかず…お恥ずかしい限りで」
「鏡が気になったのでしょう」
 きっと睨む。
「ならば! 私の靴だとお分かりでしょう。早く返してください!」
 すると、にやりとした笑みを浮かべられる。
「キムラに、届けに行きながらこの文章の中の間違いを教えると約束しました。少し私とお勉強しませんか。英語を勉強しているのはいいですね。英国も交易に勢いづいているからなかなかユリアも先見性があります。フランス語は勉強していますか」
 真っ直ぐ見つめられる。その視線から逃れられなかった。
「そんな風に見つめられたら、口づけしたくなりますよ」
 はっとして、手を振り払う。
「ふふふふ」
 楽しそうに笑う様子を見て、完全に弄ばれているとわかった。
 美しいのは顔だけだった。
 心はまるでデイモンだと思った。
 弱い者を苛めて喜ぶひどい人なのだと。

 ……まさか目的は…。

「オリエ」
 親でも恩師でもない人に名前を呼び捨てで呼ばれて自尊心が崩れていくようだった。
 靴は諦めるほかない。
 この人に媚を売ってまで取り戻そうという気はなかった。
「靴を履いてください」
 悔しさが込み上げてくる。
「いやです。それは私の靴ではありません。私には関係ありません」
 きっと睨みつける。
「もうお帰りください。他を当たってください。私はその靴について何も存じ上げません。さあ、お帰りになって!」
 焦げ茶の瞳がきらりと光る。
 酒杯を口に持って行き、ふうと息を吐く。
「では、ユリアに渡して、誰かが私の前で靴を脱いで忘れていったことを告げましょう」
 充分誤解を生む言い方である。
「そして、ユリアに靴の持ち主を捜してもらいましょう。私はその夜のことが忘れられないと言って」
「なにを…」
 脅迫に違いなかった。
 射るような眼差しだった。標的になった気がした。
「物語の王子の気持ちがわかりますよ。どれほど躍起になって探したことか。これしか探る手立てがないのですから。ガーリアに煙草入れを忘れたから探すと嘘までついて」
 何を言われているのかわからなかった。
「さあ、ここに足を」
 あまりの理不尽さに怒りが通り過ぎて悲しくなってくる。
「さあ」
 苛立つ顔をされる。
「……履けばいいのでしょう……」
 それで返してくれるのならやるしかなかった。
「それを脱がなければ入らないでしょう」
 マークが足袋を指差す。客の前に出る時には必ず履いていた。
「……なんと……殿方の前で脱ぐなどと………」
 裸になれと言われているのと等しいのだった。更に混乱してくる。
「……これ以上は待てませんよ。私に脱がせてほしいのですか」
 マークがにじり寄る。
「おやめください! 酔った上の戯れが過ぎます。人を呼びますよ」
 まったく酔っている様子はなかった。むしろその瞳は冷静沈着そのものだった。
「戯れ? 私は至って真面目ですよ。この靴を履いてほしいだけです」
 真剣な表情である。
「あの夜からずっと探しているのです。月のない夜だったのは月の女神が地上に降りてきていたせいだと思いました。私はその姿に一目惚れしてしまったのです。闇の中、女神は光り輝いていました。ですから、私は…」
 その言葉は耳には届いていなかった。聞こえていたが単なる音として通り過ぎていた。
 逃げるしかないと思い、次の間に行って誰かを呼ぼうとするが手を取られてしまう。
「困るのは貴女の方ではありませんか。忘れた物が何かを知られて」
 この人は尋常ではないと思った。

 ――怖い。

 まともに話をすることなどできない。
 ならばさっさと言うことをきいて一刻も早くこの場から去りたいと思った。
 解放されたく、生理的嫌悪感が全身を駆け巡る。寒気がする。

 ――助けて。

 あの時靴を脱いだことを心から後悔した。

 ――誰か……。

 慌てて足袋を脱ぎ、震えながらつま先を靴にしのびこませる。
 するとマークが嬉しそうな顔をして、ありがとう、と呟く。

 ――逃げなくては……!

 そして足首に指を這わせる。

「やはり貴女の靴でしたね…」

 そう言いながら頭を下げ、靴に口づけをした。

「!」

 ――私は何をしてしまったの……!

 身体が固まってしまったかと思った。

 そして、極度の緊張と衝撃で織江は失神してしまったのだった。

五、

 闇を切り裂いていく音を聴く。
 鵺の声とはこのような声ではないかと恐ろしく思った時、目が覚めた。
 いやな夢を見たものだと思い、織江は起き上がろうとした。
 だが、身体がぐっしょりと濡れていて重く、熱が出ているのだとわかり、そのまま布団の中で寝返りを打つ。
「大丈夫? 織江」
 奈津に顔を覗き込まれた。
「お母様……」
「具合が悪かったならそう言えばよかったのよ。琴の弾き方もおかしいと思ったけれど、無理をすることは無いのよ。それにお客様の前で倒れるなんていけないことなのよ」
 額に手を当てる。
「あの……、あのお客様は」
「とても心配なさっていたわよ。とても日本語の上手な方ね」
「………」
 足袋は両足とも脱がされていて、片方脱いでいたことを知られなかったか気になった。

 ……あの時なぜ脱いでしまったのか……。
 
 怒りに身体が震えてくる。
「まったく……、ご迷惑をおかけして、お詫びしておいたわ」
「…………………」
 詫びてほしいのはこちらだと言いたかったが、何も言えなかった。
 申し訳なさそうに言う様を見て、随分身の処し方が上手いのだと思い、下手なことを言えば自分の首を絞めることになると思った。

 ……なにゆえこんな思いをする羽目になったのか。

 口を塞ぎ、近くの盥に吐瀉物を出す。
「……お母様。月のもののせいだと思いますわ。今回は特に重く…」
 背中を摩る奈津が納得したような顔をした。
「次のガーリア先生のところは欠席してもよろしいですか。やはりこの間の宴で無理をしたのが良くなかったのかもしれません。とても疲れてしまったようで」
「ええ。では、使いを出しておきましょう」

 *****

 だが、ガーリア塾を休んでも、その原因というべきものはやってきた。
 真っ赤な薔薇の花を大量に抱え、仰々しく砂糖菓子とともに奈津に渡した。
 すると、奈津は気分良く部屋に通した。 
「こちらは、ガーリア邸に咲いている薔薇です。お見舞いにと言付かってきました」
「まあ、きれいですこと、ねえ、織江」
 織江は、それは大嘘だと思った。
 その薔薇の花が咲いているのを見たことはなかったからだ。

 ……なんという悪い遊び。

 心臓をきりきりと絞り上げられていくような息苦しさが襲う。
「Are you feeling better? Orie」
 英語ならば奈津には理解できない。
「………………」
 ――お加減いかがですか。
 どの口がそれを言うのだろうと思った。
 誰のせいでこのようになったと思っているのか。

 ……悔しい。

 英語なら何でも言える気がした。
「おかげさまで最悪ですわ。脅迫を受けたことの恐怖で病気になりましたから。とても怖いものでした」
「え?」
 マークは忍び笑いをする。
 その使った英語は、織江としては嫌味を言ったつもりだったがそうはならず、逆に可愛らしい印象を与えるものとなったからだ。
「それは大変お気の毒です。さぞかし怖い思いをされたのでしょう。どんな脅迫を受けたのですか。でもお元気になったようです」
 嬉しくてたまらないといった表情をした。
 織江は思わず近くにあったものを投げつけたくなり、拳を握る。
 奈津に不審に思われるような行動は慎まなければならない。
 見舞いに来てくれた人に無礼な振る舞いをしたら、すぐさま異変に気付くはずだった。

 ……この人との間に何かあるように思われてはいけない。

 額に手を置く。深く息を吸う。
「先生によろしくお伝え下さい。お見舞いを有難うございましたと」
 丁寧にお辞儀をする。
頭を下げ続けて言葉を切ると、マークは諦めたようにふっと笑い、腰を上げた。
 動悸がすると思った。
 息が上がってくる。

 ……気持ち悪い…。

 う…っと呻き声を出し、口を押さえる。
「織江……」
 奈津が盥を手にして背中を擦る。
 しかし吐く物はすでに無く苦しいだけだった。
 ぜいぜいと乱れる呼吸をさせながら胸に手を置き、静まるのを待つ。
「……大事になさってください。また参ります」
「……………」
 二度と来ないで欲しいと心から思った。


 *****


 数日後には織江は本調子ではなかったが、ガーリア塾に向かった。
 そうでなければマークが毎日家にやってくるからだ。
 毎日手土産を持ってやってきて、奈津はすっかり心を許していた。

 ――近づかれる口実を与えてはいけない。

 この数日で学んだことだった。
 自分には異人の道楽につきあっている暇はなく、いつまでもかかった獲物になっているわけにはいかないのだった。

 ――デイモンから身を守らなければ。

 ぎゅっと唇を噛み締める。

 出島への橋を渡ろうとすると橋の先で立っていた華子に声をかけられる。
「織江様。大丈夫ですの? 熱病だと訊きました。何かの流行病かと噂されていましたわ」
「流行病?」
 これだから噂というものは…と思った。
「そんな……。月のもののせいで血の流れがよくなかったようで。流行病だなんて……」
 華子はほっとした顔をした。
「まあ、それだけでしたの。とても心配しましたのよ」
「それに少々熱が出て、でも、そのような大袈裟なことではなく」
「うふふ。人は皆、話を大袈裟にするのがお好きなのです」
 それを聞き、心の中に恐怖が宿る。

 ……あの人が。
 ……靴を脱いだことを誰かに言ったら……。
 ……人は何て噂するのかしら……。

 泣きたいと思った。
「どうなさったの? やはりまだ無理なのでは…?」
 華子に顔を覗き込まれて唇を噛む。
「いいえ。問題ありません。ご心配ありがとうございます」
「当然のことよ。私たちはフレンドですもの」
 足を止めて、指をさす。
「ねえ、帰りはこのキャフェに寄っていきませんこと?」
 長崎奉行所の目の前にあるその店は異人と邦人の非公式の交流の場所である。
 華子は、友、という言葉を言うのが恥ずかしく、濁すように言ったのだった。
 その証拠に、顔を真っ赤にしていた。
 織江はくすりと笑う。
「ええ。華子様」
 親友というべきその友は、たまに意地悪で奇抜なことを言ったりするが、実のところ心根の優しい性格である。
 そして、その言葉に気分がほぐされていくような気がして有難いと思った。

 ――早く忘れてしまいたい。

 だが、肝心の靴はまだ返却されていなかったのだった。 

六、

「薔薇なる花は恋の花、薔薇なる花は愛の花、薔薇なる花は花の女王」

 何事もなく数週間が経ち、織江はまたガーリア塾での日々を過ごすようになっていた。
 休憩時間に、華子と薔薇を鑑賞していると、背後からそのように声をかけられた。
 梅雨入りしたばかりで、どんよりとした曇り空の下、織江はその声を聞いて憂鬱な気分となる。

「ギリシャの詩人アナクレオンです。お嬢様がた」
 華子がぱっと振り返る。
「マーク様!」
 高い声を出す。
「ああ、お目にかかれて光栄です。とても素敵な詩ですのね! これほど日本語に精通されているとは驚きですわ」
 うっとりとした顔をしていて言うとマークはにっこりと微笑んだ。
 織江はどこで会おうが徹底的に無視することに決めていた。
 華子がさらに華やいだ声を出す。
「先生がマーク様はお仕事がとても忙しくてこちらに来ることは難しいとお話しでしたのよ」
 華子の媚びるような態度にマークは更にこれ以上はないという極上の笑みを浮かべる。
「貴女が呼んで下されば、どんなに忙しくとも駆けつけますよ」
 華子が真っ赤な顔をして、まあ、マーク様ったら、と言う。

 ――人を喰うデイモン。

 織江は拳を握りしめる。
 身体がわなわなと震えてくるのを抑えようと必死になった。
「華子様、そのような言葉に応じるのはいかがなものかと思いますわ」
 眉間に皺を寄せるほど厳しい表情をしていると自覚していたが、腹立たしさのあまり、愛想笑いも浮かべられなかった。
「私たちはまもなく人の妻になるというのにはしたないことです。人が見たら忽ち悪い噂になりますわ」
 華子は小言の部分は聞き流し、織江の顔を覗き込む。
「え? 織江様」
 両手を握り合わせる。
「もしかしたらご縁組がお決まりになりましたの?」
 その言葉を待っていたと思った。
 得意気な面持ちをして少し声を大きくする。
「ええ。とてもよいお話で」
「どんなお方ですの?」
 わくわくとした様子の華子の言葉につられて口角を上げる。
「……上村藩の御方です」
 華子が飛び上がるようになる。
「お武家様?」
 きゃあと悲鳴に近い声を上げて、ぴょんぴょんと跳ねる。
「何ということでしょう! 織江様。前からお武家様に憧れていらっしゃったものね! よかったわね!」
 道場の前を通る時によく華子に冷やかされていた。
「と、とにかく身に余るお話で、今から緊張を強いられております」

 ――だから私には関わらないでください。

 そう訴えていた。
 マークがその話を神妙な顔をして聞いているのを感じ取っていた。
「織江様ならば当然のご縁よ。おめでとうございます」
「まだ……、詳しいことは何も決まっておりませんが」
「皆様にお知らせしなくては!」
「ですから、まだ……」
「よろしいではありませんの!」
「華子様!」
「皆様!」
 華子がその話題を皆に広めようと、広間に急ぐ。
「では、マーク様。ごきげんよう」
 華子は振り向きざまにそう言った。
 織江は一切マークの顔を見なかった。


 *****


 休憩後の授業は、バイオリンのレッスンだった。
 ユリアがピアノの前に腰掛けて楽譜を用意し、学友たちは自分の弦を調整しながら音を確かめていた。
 織江も自分の席に座り、弓を手にする。
 ユリアが全員揃ったのを確認すると、立ち上がり、どうぞお入りくださいと言った。
 現れたのはマークだった。手にはバイオリンを持っている。
「今日は特別に講師をお招きしました」
 少女たちは溜息をつく。織江を除いては。
「晩餐会でもお会いしているでしょうが、改めてご紹介します。マキシミリアン・ド・ベルナドット様です。バイオリンの名手ですからその演奏は皆さんの勉強になるでしょう。日本には留学にいらっしゃり、しばらく日本にお暮らしになるそうです」
「ご留学?」
 華子がぼそりと呟く。そして、
「お仕事をされているのでは?」
 思わずそう言ってしまった。
 ユリアが動揺したような顔をすると、マークが軽く会釈をする。
「国で使いも頼まれているのです。マークと呼んでください」
 皆がほお…と再び溜息を漏らす。
「皆さまがバイオリンも学ばれていると訊き、是非一度演奏したいと申し出ました。自分の腕が果して通用するのか少々恐れているところもあります。それに挑みたいと思うのです」
「皆さん。ではよくお聴きくださいね」
 ユリアは紹介は済んだとばかりに言葉を挟んだ。
 本当ならば、なるべくマークと接触したくなかった。
 自分も冷静にいられなくなるとわかっていたからだ。
 だが、ヨーロッパの文化を学ぶ生徒の為にバイオリンを弾いてみたいと言った時の真摯な態度と、宴で見せた軽々しい女好きの様子が一切見られずに、ひたすらバイオリンを聴いてほしいのだと訴えられ、了承した。
 そして、天才と名高いマークのバイオリンを聴いてみたいと思っていたこともある。

 織江は皆が賑わう中、外の景色を見ていた。
 名前も耳に残したくなく一刻も早く終わることを願った。

 ……デイモンの奏でる音楽などきっと呪いの調べに違いないわ。

 靴を失くした良い理由も浮かばずにいて、次にドレスを着る機会にはどうしようかと困っていた。
 晩餐会の帰りは足が痛いから吾郎に草履を持ってくるよう誤摩化したが、いつ露見するか冷や冷やとしている。

 長崎は特別な地域で、天領と呼ばれる幕府直轄の地には長崎奉行が置かれ、交易における莫大な利益を管理している。
 特に砂糖などはオランダで仕入れたものを各藩が奪うように買い求めるため値は釣り上がり、そのまま幕府の財源を潤す金蔵そのものだった。
 だが、そんな中でも幕府の管理に抜け穴が多々あり、長崎町民がその利益を享受できた。
 織江の家も例外ではなく、本来、全国の本陣の経営は参勤交代がないかぎり稼働率は低く厳しいものだが、長崎奉行の客人は絶えることなく、しかも宿代も相場より高く、潤沢な資産を蓄えられ、暮らし向きに困るようなことはなかった。
 だからと言って決して贅沢三昧というわけではなく、家計は厳しく奈津が取り仕切っていた。

 織江は憂鬱そうに溜息をつく。

 ……まったく。
 どうしてこんなことになってしまったのかしら。
 いったい私が何をしたというのかしら。
 人に迷惑をかけるようなことをしていないというのに。
 なにゆえこのような理不尽な目に遭わなければならないのかしら。

 窓から見える海を見ながら、梅雨入りしたというのに良い天気だと思った。
 帰りはまたあのキャフェに華子と寄っていきたい、他の皆も行くとおっしゃるかしら、最近ようやく最後まで飲めるようになった珈琲をまた注文してみよう、などと帰りのことばかり考えていた。
 すると、いきなり頬を叩かれたかのような衝撃が走る。
 そう錯覚を覚えるほどのバイオリンの音が響いた。
 思わずその音源を見る。
「…………………………」
 バッハの無伴奏バイオリンソナタだった。
 楽譜を見ただけで震え上がる一生弾けそうもないと思える超絶技巧を求められる高難度のものだった。
 一番のプレストを物凄い速さで弾いていて、しかし一音も外さず、まるで楽譜が見え、それが音になっているかのように正確で、精密というべきの、緻密で細かな旋律は何かに追いかけられているかのようで、焦燥感を表しているようである。

 呆然とする。

 ……これがバイオリンの音?

 圧巻の演奏だった。
 音楽団のバイオリン奏者が奏でる音とは全く異質のもので、美しいというにはあまりに陳腐な表現で崇高ともいうべき典雅な音色だと思った。
 勢いを保ちつつ曲が終わる。
 残響が広間に残っている。
 弓をシャンと上げたが、礼をせず、まだ演奏を続けるのだと理解し、皆が固唾を呑む。
 息が詰まるような緊張感が漂う。
 集中力が空気として伝わっていく。

 次に演奏されたのは、同じく無伴奏のパルティータ第二番シャコンヌだった。
 主題が中低音で始まると、重厚な音色に身体がぶるりと震えた。

 ……凄い。

 その重苦しいほどの主題は、生きる上での苦しみと悩み、焦り、絶望、課せられた使命や背負うべき宿命、それらから逃れられぬ中でもがき苦しむ様子を表現しているようで、何がそれほどつらいのかと同情したくなるほどの、悲しみの心がこれでもかこれでもかと襲ってくる。

 ……なんて辛いの。

 マークは汗を弾き飛ばすかのように頭を振りながら演奏する。
 真剣な表情にどれほど情熱をかけて弾いているのかがわかる。
 その演奏の姿勢を見て、今まで自分が弾いていたと思っていたバイオリンがいかに真似事だったか思い知った。
 天賦の才というのはこういうものかとその演奏に心が変わっていくのがわかった。
 純粋に感動していたのだった。
 これほどの演奏を聴かされて心が変わらぬはずがなかった。
 人を獲物のように扱い、狩りをすることを楽しんでいるだけの不埒な人にこれほどの演奏ができるはずがなく、余程様々なことに真剣に取り組まなければこの音色を出すこともできなければ音を刻むことも不可能である。
 自分の奏でる琴に重ねてそう確信していたのだった。

 ――芸の道は果てなきもので、決して甘いものではない。

 単調なアルペジオが何度も執拗に繰り返されると胸が高鳴るのを抑えられなくなる。
 そっと胸を押さえる。
 心が揺さぶられていく。
 難所であるがゆえに苦しさが迫ってくる。
 弓の動きが細かくそれ自体が動いているかのように息苦しいほどの細かで確かな音を作り出している。
 マークの額の血管が浮き出ていた。
 呼吸を止めているように思えた。
 
 ……苦しい……。

 追い詰められていく。
 なぜか足首に触れられた時の感触が蘇ってくる。
 母に後から訊いたところ、足袋は両足とも履いていたとのことだった。
 脱いだ足袋をこの人が履かせたのだとわかった。

 ……なぜ……。

 顔が熱いと感じてきたところ、主題に戻り、ほっとする。

 ……なに……これは………。

 その次は、優しい旋律のパートである。

 重なる音がまるで楽しくおしゃべりしているかのようである。
 追いかけて、捉まえて、笑いあって、そしてじゃれあっているかのような。
 二羽の蝶が舞いながら、求愛をしているかのような…。

 ……求愛?

 更に顔を赤くする。
 そして身体が熱くなり、優しくて美しい旋律に幸福感を覚える。
 極楽浄土、天国というのはこういうところなのだろうと想像できるようなうっとりするような調べであった。

 ……ああ、なんて幸せな気分。
 このまま終わらなければいいのに…。

 頬に涙が伝っていく。

 ……え。

 再び主題の変奏が流れ、幸せの時に別れを告げたようだった。
 アルペジオが繰り返される。

 ……幸せだったのに……。

 物悲しい旋律から、まるで引き裂かれていくような、死でも訪れるかのような…。
 身体が焔に燃やされていくかのように感じた。
 急き立てられているような、身体を強く抱き締められているような。

 瞳からぽろぽろと涙が絶え間なく流れる。
 胸が痛くてたまらなかった。

 ……なぜ、こんなに切ないの……!

 最初の主題に戻り、演奏は終焉を迎える。

 一同は皆、大きな拍手をし、素晴らしい演奏でしたわと興奮している。
 ユリアも大絶賛しているが、声が出せずにいた。
「ね、織江様。素晴らしい演奏でしたわね。感動いたしました。何と表現してよいのかわかりません」
 華子にそう言われ、咄嗟に顔を押さえる。
 泣き顔を見られたくなかったからだ。
 あまりの衝撃に身体の感覚が麻痺していた。
「織江様? 泣いていらっしゃるの? それほど感極まっておしまいに?」
 すると、皆が一斉に見る。
「……いえ……違い……ま………」
 口を押さえながら、慌てて席を立つ。
 気分が優れなくてとだけ言い、その場を離れた。
 ユリアがすぐ後を追った。
 洗面所に行くと、吐き気がして蹲る。
 嘔吐すると身体から力が抜けていく。
 ユリアが心配そうに背中をさすり、木村に家人を呼ぶように言う。
「オリエ…ああ……熱が………」
 身体がぶるぶると震えだす。
 吾郎が顔色を変えて飛び込んでくる。
「キムラ! ドクターをお呼びして!」
 自分が自分でなくなってしまったかのような気がした。
 訳がわからなかった。

 ……やはりデイモンだった……。

 呪いをかけられてしまった――。

 織江はそう思った。

七、

 織江は、すっかり床につく日々となっていた。
 起きようとすると吐き気がして、重湯しか食べられず、日に日に痩せていき、奈津は悪い病気ではないのかと心配する。
 蘭方医はどこも悪いところは見当たらないと言って血の道に効く薬だけを処方した。
 必死に看病する奈津を見て、織江は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 呪詛をかけられたのだと言えたらいいのに、と思いながら。
 寝ても覚めてもバイオリンの音が追いかけてくるようだった。
 激しく追い立てられているようで、胸が締め付けられ、息苦しく、身体は熱を帯びたようになる。
 日ごとに身体から力が抜けていくようだった。
 精気が失われていく。
 そして、思い浮かべたくなくとも、情熱的にバイオリンを弾くその姿が浮かんで来てしまう。
 涙が意識しなくとも流れ出てくる。
 すると、心がばらばらに砕けていくようで、苦しくてどうにもならない。
 呪詛ならば早くそれを完遂してほしい、生殺しは辛すぎると思った。

「織江。華子さんがお見舞いに来て下さったわよ」
 奈津がそう声をかけられ上体を起こす。
 壁に寄りかかるようにして、はいと返事をした。
 部屋に華子が通されると、力なく笑う。
「まあ、まあ、なんと。織江様。そんなにお痩せになって…」
 驚いた様子で駆け寄ると深々と頭を下げる。
「お心遣いありがとうございます」
 華子が涙ぐむ。
「だから…当然のことと前にも言いましてよ。お願いですから前のような織江様に戻って」
 その言葉に小さく笑う。
 華子の顔を見ただけで救われていく気がした。
「ええ。そうですわね。塾の皆様はお変わりなくて?」
「皆元気よ。マーク先生のバイオリンを聴いてから皆バイオリンに精を出すようになって授業が終わっても練習しているから帰りが遅くなるようになって。それの成果として、なんと私たちが演奏会を開くことになりましたのよ」
 頬を紅潮させながら言う様子に気分が明るくなる。
 マーク様はマーク先生になったのだと思い、ふっと笑う。
 デイモンに狙われたのは自分だけだったのだとわかり、それは良かったと思った。
「メヌエットがせいぜいですけれどね。ですから織江様も一日も早くご快癒なさって。一緒にいたしましょう」
 明るい華子の声が嬉しかった。
 華子の横に視線を動かしてふっと笑う。
「ええ。きっとすぐ良くなります」
 華子がこほんと咳払いをする。
「うふふふ。ええ。これならばきっと食欲がでるはずですわ」
 カステラだった。
「山口屋で織江様用に特別に作らせたのです。絶品ですわよ」
 華子が得意そうな顔をしてふたを開けると甘い香りが漂う。

 *****

 二人はカステラを食べながら、お茶を飲み、しばらく休んでいるガーリア塾でのことを話す。
 貴子の祝言の様子についてユリアが語り、皆がいちいち溜息をついていたこと、とても似合いの夫婦だったとのことなど、お喋りはつきなかった。
「実は…私も…日取りが決まりましたの」
 華子が沈んだ声を出す。
「え? そうでしたの?」
「織江様。私…怖いわ……」
 弱音を吐く華子など見た事がないと織江は思った。
「ふふふ。華子様は殿方を従えさせるのではなかったのですか?」
 船を多く所有する交易商の長崎一番の大きな店の跡取り息子で、華子が牛耳れる相手ではなかった。
「あれは……」
 好奇心が言わせた言葉だった。
「華子様とは思えない程しおらしいのね」
 その大店の旦那は正妻の他、外に妻が複数いて、妾腹の子供も多くいた。
 それが財を成す者が社会に施す役割でもあり、男の甲斐性というものだった。
 つまり、その息子も同じく正妻の他に女を持つはずだった。
 同じく華子の父にも母以外に妾がおり、父が帰らぬ時に母は部屋でよく泣いていた。
「…………怖いのよ………」
「きっとお幸せになるわ」
「母のように耐え抜く自信がありませんの。ねえ、織江様。男と女はとても怖いのよ。母は妾に嫉妬の炎を燃やしているの。子供の数が増える度にお顔が変わっていってしまって、優しいお母様がどんどん怖いお方になっていくのよ」
 織江が華子の手をぎゅっと握り、まっすぐ見つめる。
「私もそうなってしまうのかしら」
 華子が手を握り返す。
 織江が不安そうに揺れる華子の瞳を捉える。
「華子様を不幸にするようなお方ならば私が乗り込んでいって差し上げるわ」
 華子がぽろりと涙を零す。
「幸せな夫婦におなりになるわ。華子様をお嫁さんにできるなど殿方としては誉れ高きことですもの」
 ぽろぽろと珠のような涙を零す。
「ありがとう、織江様。秋なのでまだ日にちはありますけれど」
「おめでとうございます。華子様ならば長崎、いえ、日本一、いいえ、三国一の美しい花嫁ですわ」
「織江様……」
「私が保証いたします」
「それは…気張らなくては…なりません…わね…」
 カステラが甘いのかしょっぱいのかわからないと華子は言うと、織江が吹き出す。
 織江の心も元気を与えられたようになった。

*****

 織江は外出できるまで回復し、岬に行き、海に浮かぶ船を見ながら、石に腰掛ける。
 吾郎が今日も船が大勢行き交いますねと言い、織江がそうね、と言う。
 海と同じ色の空に真綿のような雲が浮かんでいる。
 強すぎる日光を遮るオランダ製の日傘を回しながら、織江は深呼吸をする。
 碧い海を見ていると心が凪いでいくようだった。
 呪いも消えていくような気がした。
「今年は雨が少ないですね」
「ええ。そうね」
「お嬢様は随分元気になりましたね。また塾に行かれますか」
 吾郎がにっこりと笑いながら言う。
 生まれた時から一緒に過ごしてきたその少年は、もう青年の顔をするようになった。
 爽やかな笑顔である。
「いいえ」
 ゆっくりと首を横に振る。
「しばらく休みます。覚える事が多すぎて忙しすぎたようなので」
「そうですか。毎日塾の人が様子を訊きにくるので皆さん待っているようで」
「ええ。皆お見舞いに来てくださって…おかげで元気が出ました」
 そう言うと吾郎が神妙な顔をした。
「……お友達のことではありません」
「え?」
「いつも私が外の掃除をしている時に訊くもので…気にしてほしくないから家の人にも内緒にと言われて。様子を訊くだけだと」
 鼓動がどくりと波打つのを感じた。
「……それがどなたなのか…わかりますか」
 声が震えていた。
「マークさまというお方です」
 大きく息を吐く。
 どこまでも追われている気がした。
 呪詛は十分効いているというのに、まだ足りないのかと怒りが湧いてくる。
 吾郎がじっと織江を見る。
「…そ、そう……」
 家の者にまで迷惑をかけているとは思わなかった。
「吾郎。もう来ないように話しをするわ。今日もおいでになったら家の裏の神社に来るように伝えてくれるかしら。お参りに行きたいとも思っていましたし」
「お嬢様?」

 *****

 いつものように吾郎が屋敷周りの掃除をしていていると、マークに呼び止められた。
「今日はどんな様子ですか。もう熱は出ませんか」
 吾郎は困ったような顔をした。
 マークの顔を見れば塾の使いなどではないと一目瞭然だったからだ。
 毎日毎日判で押したように同じ質問をされてうんざりしていた。
「もう元気になりましたよ。今日は岬まで散歩に行きましたし」
 吾郎が憮然として答えると、マークがはあ…と大きく息を吐く。
「それはよかった」
 それだけ聞けば充分だという顔をして、では、これにて、とその場を去ろうとする。
 吾郎は織江に告げてしまった事を後悔しながらも、すでに時間を見計らって神社に行った織江が待っているから言うしかなかった。
「織江お嬢様があなたと話をしたいそうです。案内します」
 そして、それを言った時のマークの顔を見るべきではなかったと思った。

 *****

 長崎は坂の町である。
 まっすぐに伸びる神社の階段を登った先の境内に織江はいた。
 マークが吾郎に連れられてやってくると、織江は奥歯を噛む。
 鳥居をくぐると吾郎が立ち止まった。
 夕暮れに染まる神社に風が吹き抜けていき、鬱蒼とした杜から霊気が漂う。
 織江がすっと息を吸ったのち、開口一番に言う。
「いったいどういうおつもりですか。なにゆえ毎日家の者に話しかけるのですか」
 厳しい表情できっと睨みながらそう言った。
 それにマークがたじろぐ。
「……貴女が心配…」
「呪うのは私ひとりで十分でしょう!」
 マークの言葉を遮るように言うと、マークはその意味が分からぬような顔をする。
「呪う?」
「あなたは人の姿をしているけれど、誠はデイモンなのでしょう?」
 マークが呆気に取られたような何とも言い難い表情をする。
「デ……」
 復唱しようとしたが出たのは、ぶはっという吹き出した音だった。
「はははは」
 笑い出したら止まらなくなる。
 あはは…と腹を抱えだして笑った。
 涙が込みあげてくるようだった。目頭を押さえてさらに笑う。
 腹が痛いようで押さえながら背中を丸める。
 あまりに爆笑されて織江は恥ずかしくなってきた。
「……それほどお笑いにならずともよろしいのではありませんか」
 憮然とする。
 マークがようやく収まった笑いに腹部を押さえ、大きく息を吐く。
「これは失礼。デイモンと言われたのは初めてだったので。サタンと言われなかっただけでも。キリスト教がどのように伝わっているかわかりませんがギリシャ神話では……いえ、とりあえず紛れも無く私は人間です。東洋人とは少々顔かたちが違いますが、同じ人です」
 笑いを抑えて真剣な表情で真面目な口調で言うと織江は口を歪める。
「……そういう意味ではありませんわ。異国の方なら何人もの方を存じておりますし…講義にいらしたバテレン様のお話を鵜呑みにしているわけでもありませんけれど…」
 子供扱いされ、話が変わっていってしまうことに腹立たしくなる。
「とにかく、家の周りをうろつかないでいただきたいですし、家の者に話しかけないでください。用があるのでしたら父を通してきちんと話をしてください。こそこそと嗅ぎまわるようなことをされるのは迷惑なのです。私の申し上げたいことは以上です。では」
 用は済んだとばかり鳥居に向かおうとするとマークが焦って手を伸ばす。

「お待ちください!」

 マークが織江の腕を取る。
 織江はびくりとして恐怖の表情を浮かべる。
「お離しになって! 私に触らないで!」 
 すかさずその手を取り払おうとしたが、がっしりと掴まれていた。
「無礼は承知しています。お願いです。逃げないでください」
「ならばその手をお離しください。大声で叫びますよ」
 睨みつけるとマークが絶句する。
「お離しください! ご狼藉が過ぎます!」
 嫌悪感を露にするとマークが顔を強張らせた。
「わかりました……」
 手を離すと、織江は後退りをして距離を取る。
 恐怖に震える表情を見て、マークは悄然とした。
「これほど嫌われているとは思っていませんでした。何か勝手に思い込んでいたようで」
 織江が震える指先を押さえるように握り締める。
「嫌われて当然のことをしていらっしゃるのですから」
 そう言った瞬間マークがはっとして蒼然とした顔色をした。
「私は……。嫌われるようなことをしていたのですね?」
 辛そうな表情だった。
 織江が動揺する。
 傷つくとは思わなかったのだ。
「あなたにとって遊びでも私には苛めに等しきことです」
「………………………………」
「とにかくもう私に関わらないでください。靴は結構です。ガーリア塾もやめるつもりなのでドレスを着る機会もなくなりますし、不要なのです」
「いえ、もちろんお返しするつもりで」
「ですから、あなたが私の家に来る理由もありません。そして私は二度とあなたに会いたくないのです」
 マークは動きを固める。
 そして、衝撃に耐えられないといった表情をしてがっくりと肩を落とした。

 ……え。

 その様子は想定していなかった。
 混乱してくる。さすがに言い過ぎたのだろうかと不安に思う。
 
 ――これではまるで逆に私が苛めているみたいじゃないの。

「……さ……」
 マークはうまく口を動かせないかのように口元に手を置く。
「…先ほど……」
 目には涙が浮かんでいた。
 織江ははっととする。
 殿方が泣く姿を見るのは初めてだった。
「……先ほど私をデイモンだと言ったのは何故ですか」
 デイモンだと思ったその人はそう言いながら涙を零した。
「……それはあなたが私に呪いをかけたからです」
「ああ…それも先ほど言っていましたね。私が呪いをかけたなど…」
「呪いのせいで私は具合が悪いのですわ。呪詛されたのでしょう?」
「私が貴女を呪詛? 何を証拠に……」
「……バイオリンの音が耳から離れませんの」
「え」
「苦しくて苦しくて、心の臓が痛くて、息苦しくて、涙も止まらず、毎日眠れませんの」
 苦々しい思いを吐き出すような言い方となった。
「食事もまともに取れなくて、食べてもすぐ吐いてしまい、」
 苛ついてくる。
「考えがまとまらず、何も手につきませんの!」
 首を左右に振る。
「一日中バイオリンの音に追い詰められているようですの! 私に呪いをかけていらっしゃるのでしょう? これが呪詛でなくて何なのですか! おやめいただきたいのです!」
 マークが上を向きながら両手で顔を覆う。
 しばらくそうして動かなかった。
 夕暮れが迫り、辺りが次第に暗くなる。
 烏の鳴き声が闇の訪れを告げている。
 そして、大きく息を吐いた。
「それは呪いなどではなく病気なのですよ」
「まあ」
 意外なことを言われたと思った。
「そんなことはありませんわ。お医者様にも診ていただきましたもの。身体に異常はないとのことでした。ですから物の怪の仕業か、でもバイオリンの音に苦しんでいるのですから、あなたが呪詛しているのだと……」
「病気です」
 言葉を遮るように言う。
「なにゆえそう言いきれるのですか」
「私もその病気にかかっているからです。まったく同じ症状です」
「……え?」
「あの夜会の時からずっと同じ状態です。寝ても覚めても貴女の声が聴こえる」
「!」
 織江は耳を塞ぐ。
 咄嗟にその言葉を訊いてはいけないと思った。
 呪いの言葉だと思ったのだ。
「貴女の姿が浮かんできてしまう」
「やめて……」
 苦しくなる胸を押さえる。
「…やめて…ください」
「その思いを掻き消そうとバイオリンを弾けば、まるでバイオリンを通して貴女とつながっているようで」
 息が上がってくる。
 バイオリンの演奏を聴いていた時のように。
 低く響くアルペジオが迫ってきたように。
 ずっと頭から離れない旋律が。
 心を縛り上げていく音色が。
 苦しくて、助けてほしくて、自分をがんじがらめにしていく魔性の音楽――。
「やめて!」
「貴女が夢にも出てくる。夢かうつつか分からなくなる。そして貴女の事を知りたくて、貴女が何をしているのか、何を見ているのか、貴女の姿を見たくて……彷徨ってしまう」
 吐き気がしてくる。
 後退りをすると更にマークが近寄ってくる。
「お願いですからやめてください! お願いします!」
「……そして、ある時気づいたのです」
 マークの視線が織江の瞳を捉え、見つめ合うようになる。

「これが恋わずらいというものなのだと」

 織江はその言葉を訊いた瞬間、憑き物が落ちたように感じた。
「オリエ。私は最初、……気狂いになったのだと思いましたよ」
 苦笑する。
 今まで、女性というものは、ほんの少し優しい言葉をかけて微笑めばそれで自分に好意を抱いてくれるというものだった。
 それに乗じていつしか自分に夢中にさせることが楽しみのひとつにもなっていき、だが肉体関係を持つと急につまらなくなり、それを繰り返していた。
 罪作りと言われるのも勲章のようで他の男も同じことをしていて、男というものはそれでいいのだと思っていた。

 ……それが今はどうだ。

 織江を目の前にして楽しいどころか苦しいだけで、織江の一挙一動に一喜一憂し、浮草のように漂っているだけのような気がしていた。
 微笑むこともできなければ優しい言葉をかけることもできず、ただひたすらに追い求めて自分の思いを吐露する他になす術がなく、乞うことしか残された道はなかった。
「情けない、みっともない姿を晒してすみません。でも自分でもどうにもならなくて」
 片手で顔を覆いながら溜息をつく。 
「そんな私を救っていただけませんか」
 あまりに切ない言い方だった。
 するとその時、吾郎の咳払いが響く。
 夕餉の時間が迫っていたのだった。
 織江が鳥居に向かおうと身体を向ける。
「毎日ここで待っています。この時間ならば家を出ることができるのでしょう?」
「……私は……」
「待っています。貴女が来るのを待っています。オリエ…」
 熱を帯びた言い方である。
「貴女もきっとそれで救われるはずです」
「救われる……?」
「少し楽になったのではありませんか? 私は少々心が軽くなりました」
「楽に…なった…?」
「でもまだ足りないのです。お願いです。どうしても貴女にあいたくて、つらくて」
 織江はその顔を見てはいけないと思ったが、遅かった。
「………では…また…明日」
 思うより言葉が先に出てしまったのだった。
 マークが顔を真っ赤にする。
「ありがとう。ではまた明日」
 その礼の言葉を聞き、ふっと羽が生えたかと思うほど身体が軽くなったと感じた。


 織江は急いで家に駆けていくと吾郎が慌てて追いかけていく。
 早く自室に行きたかった。
 誰にも自分の顔を見られたくなかった。わかっている。自分がどんな顔をしているのか。
「お母様、夕餉はいらないわ。食欲がないの」
 そう言い放つと部屋に閉じこもる。
 すでに褥の用意がしてあった。
 なだれ込むように身体を預けてうつ伏せになり顔を埋める。

 ――貴女の姿を見たくて彷徨ってしまう…。

 ――寝ても覚めても貴女の声が聴こえる。

 ――貴女の姿が浮かんできてしまう。

 言われた言葉がすべて自分を溶かしていくような気がした。
 熱い息を吐く。

 ――これが恋わずらいというものだと――。

 布団をぎゅっと握り締める。
 心が燃え上がっていくようだと思った。
 燃盛る紅蓮の炎の中にいるようだと。

八、

 織江は神社に自分の健康を祈願するということで日参することになった。
 家のすぐ近くとは言え、夕暮れ近くともなれば野犬もうろつき、勾引しの危険も多いため吾郎がついていく。
 何も吾郎に告げず、織江はいそいそとガーリア塾の帰り、神社に向かっていった。
 昨日のことを吾郎は何も追求しなかった。
 だが、事情はだいたいわかったはずだった。
 鳥居で吾郎が足を止めると、織江は頬を紅潮させながら神殿に向かう。
 吾郎は苦笑しながらそれを見送った。
 マークも織江も同じ表情をしていて、今止めるのは危険だと思った。
 いずれは現実問題にぶつかり、その熱も冷めるだろうと思い、事が起きない限りには静観すべきで、旦那様に言うべき状況にまでなってからでも遅くない、また、そういう事態にはならないだろうと踏んでいた。
 立場をよくわかっているはずで、ほんの淡い恋心なのだろうと吾郎は軽く考えていたのだった。

 何時間前から待っていたのか想像できるほどに、マークの足元には煙草の吸殻がたくさん落ちていた。
 織江が真っ赤な顔をしながらゆっくりと近づく。
「……あの。……お待たせしてしまって………」
 マークも首まで真っ赤にして、肌の色が白いだけに余計に赤くなっているように見える。
「……いえ、何時に来るのかわからなかったので……少し早目にきて…神社の周りを散策していました」
 しどろもどろにそう言うマークは、最初に客間で酒を呑んでいた時とは別人のようである。
「オリエが来なかったらどうしようと。自分がこれほど臆病者だとは知りませんでした」
 恥ずかしそうに横を向く。
「……私も……マーク様が…おいでにならなかったら…どうしようかと……」
 同じくしどろもどろに言いながら俯く。
 二人とも身体が固まってしまったようになり、その後はしばらく何も会話にならない。
 野鳥の高い声が空に響いていく。
 その空気に耐えられなくなり織江がおずおずとマークの顔を見ると、マークも織江を見る。
 見つめ合う。
 その二人の間の距離は歩数で言えば三歩ほどあった。
 優しい瞳だと織江は思った。
 焦げ茶色の大きな瞳とそれを覆うような長い睫毛、西洋人形と同じように美しいとしみじみ思っていた。
 いつまでも見ていたいとそんな風に思える瞳であると。
 マークも二重瞼で大き目でありながら切れ長の黒曜石のような瞳を持つ織江の目は魅力的であると思った。
 見ていると吸い込まれそうだと。いつまでも見ていたいと。
 二人は互いを微動だにせず見つめ合う。
 その中にあるもの、魂を見つめ合っているように。
「黙ってしまいすみません。何と言葉にしてよいか分からず…やはり言葉にするならば『奇跡』だと思います」
 マークが感極まったような様子でそう呟く。
「奇跡」
 織江がそう復唱すると、マークは静かに微笑む。
「ええ。世界の全てが変わってしまったように感じています。色も音も香りも何もかも」
 織江がその言葉を訊いて胸を押さえる。
「全てが輝いて見える。なるほどデイモンの仕業かもしれませんね。これなら天界を追われてもいい。地の底に堕ちることも厭わぬほどの抗えぬ魅力です」
「マーク様……」
 その先を言おうとした時、吾郎が咳払いをする。
 誰かが鳥居をくぐってきて、織江は背中を向ける。
 いかにも参詣しているかのように鐘を鳴らし、両手を合わせた。
「……では…また明日……」
 小声でそう言い、鳥居に向かうと、近所の人であろう中年の女性が、あら、蒔田屋の織江様、こんにちは、と言う。
 ごきんげんよう、大柴屋のおばさまと言い、随分身体も癒えたようですね、天神様の御慈悲ですねと言われ、ええ、有難い事ですわと返して会釈をして去っていく。
 マークは織江がやったように鐘を鳴らして手を合わせる。

 ――また明日。

 この一言が今の自分の全てを支えていると言っても過言ではない、マークはそう思った。


 *****


 毎夕、二人はそこで落ちあったが人目を気にして手も握らずにいた。
 だが、言葉を交わし、互いの顔を見つめ合い、微笑み合い、心を寄り添わせれば安心感を得られる。
 ただそれだけで幸せを感じていたのだった。
 その日もひとしきり織江がガーリア塾での話をマークに訊かせ、どんな勉強をしたのか、誰がどうだったのか、楽しそうに報告していた。
 マークは微笑みながら訊いていた。
「ハナコ、ヨリコ、サダコ、タカコ…」
「はい?」
「お友達の名前の最後には皆『コ』が付くのですね。オリエには付かないのに」
 織江がうふふふと笑う。
「ええ。今、長崎で流行になっていることでございますから」
「でもオリエのご両親は流行に乗らなかったのですね」
「それはうちが宿屋ですから。『子』というのは、実は高貴な家柄の姫君の名前につくのです。あやかろうとして流行になっているのです。おそらく父たちもそうしたかったでしょうが、高貴な方が宿泊された時に嫌な思いをさせぬよう気を使ったのでしょう」
「そうですか」
 軽快な口調でお喋りをする織江の様子を見ながらマークがにこにこしている。
 どんな話でも楽しいのである。
 織江はますます楽しくなって、私がそう言いましたら華子様ったらね…と話を続ける。
 マークが相槌を打ちながらその話を楽しそうに訊いていた。

 そんな日々が数週間過ぎ、織江が神社から帰宅し、夕餉を食べていると、父の左衛門が織江をじっと見た。
 何か言いたいのだと思って次第に落ち着かなくなる。

 ……まさか…知れてしまったのでは………。

 食事中に話をすることは禁じられている。だから後で呼ばれるとわかった。

 ……いいえ。吾郎が言ったとしても何もないと言い逃れできるはず。

 織江は食事に集中する。
 今まで食べられなかった分を埋め合わせするかのような食欲には奈津も驚いていた。
「天神様のお導きにこれほどの御利益があるとは思いませんでした」
 母の言葉ににっこりと微笑む。
 神社に行く理由の為ならば何でもできると思った。
「ええ。ですから欠かさずお参りに行くことにしましたわ。ご馳走様でした」
「織江。後で話がある。私の部屋に来なさい」
 左衛門が厳しい口調で言った。
「はい。お父様」


 *****


 食事の後の、その夜の客あしらいが終わったようで左衛門が自室に入ったことを父付きの下男が告げに来ると織江は待っていたかのように腰を上げる。
 左衛門の部屋の前に座り、緊張しながら声をかける。
「お父様、織江でございます」
「ああ。入りなさい」
 奈津もそこにいた。
 思わず固唾を呑む。

 ――お前は神社でいったい何をしているのだ。

 そう言われるのを覚悟して目を瞑った。
 しらを切り通すと心に誓う。

「長坂様のご息女について何か知っておったか」
 だが、あまりに予想と違う言葉を訊き、一瞬それを聞き逃したかと思った。
「お前の塾仲間であろう」
 奉行所に勤める長坂幸之助の娘、学友、滋子のことだった。
「え。な、長坂様? ……あの……滋子様が何か?」
 恐る恐る訊く。
 左衛門が大きく息を吐く。
「………出奔した」
「え?」
 滋子と出奔…という言葉はあまりに結びつかないものだと思った。
 まだ幼さが残る滋子の顔が浮かぶ。
「許婚とともに家を出たのは昨夜未明のことだという」
 話の内容を理解できなかった。
「……あの……意味が飲みこめず…もっと分かるようにおっしゃっていただけませんか」
「そうか…お前は何も知らなかったか」
 滋子はいつも夢見るような顔をした無邪気な少女だった。
「関所はもう手が回った。残念だが掴まるのも時間の問題だ」
 血の気が引いていく。
「許婚は幼馴染だそうだ。同じ役人様のご子息の…、幼少のみぎりより一緒に遊んで過ごしてきたらしい。二人にとって夫婦になることは前世から約束されたもののようであったろう」
 身分の違いから、子供とはいえ、織江は滋子と遊ぶことはなかった。
 織江はその先を訊きたくないと思い、唇を噛む。
「お前たちがガーリア塾で勉学に励んでおることは、遠く江戸まで噂が届いている」
「……………………」
「江戸城大奥からの使いが来てな」
 左衛門がその先を言いづらそうに横を向いた。
「長坂様の息女を大奥に迎えたいとおっしゃったらしい」
 口を押える。
「西洋の言葉を話せる女子に上様が興味を示しているということだ」
 それを訊かされた時の滋子の衝撃が伝わってくるようだった。
「……大奥に上がり、上様にお仕えするということがどういうことか、わかるな」
 震えながらゆっくりと首を縦に振る。
「織江。今、密かに行方を探しているところだ。仲間を頼ることが考えられ、ここに内密にその報せがきた。お前がそれに関与しておったら一大事だった」
 唇を噛み締め、首を横に振る。
「そうだな。ならばいい…もうこの先お前には関係ないことだ…」
「……どうなってしまうのですか…」
「……………」
 左衛門が悲愴な表情を浮かべる。
「もう部屋に行っていい。何かわかったら知らせる」
 心中する危険がある、とはさすがに言えなかった。
「……わかりました……」
 織江は滋子を探しに飛び出していきたいと思った。
 だが、自分が行って探せるようだったらとっくに役人に掴まっているはずだった。
 どれほどの思いで家を出たのだろうと思うと、その心情が突き刺さってくるようだった。
「滋子様……」
 その夜はろくに眠ることができず、それは他のガーリア塾の学友たちも同じだった。


 *****


 翌朝、左衛門が慌ただしく支度して出かけるのを見て、織江は、ああ、やはり捕まったのだと思った。その日はガーリア塾に行く日だった。
 左衛門から話を訊こうと思っていたが、なかなか左衛門は帰宅しなかった。
 仕方なくガーリア邸に向かうと、華子が途中で合流する。
「織江様。……滋子様のこと、お聞きになりまして?」
 声をひそめて言う。
「……はい。けれど出奔したとの事のみでその後のことは……」
 後ろからついてくる下男たちにも聞こえぬように声を落とす。
「……滋子様だけ生き残られたそうよ」
 衝撃のあまり織江が立ち止まる。
「織江様。だめよ。歩いて。私たちはとても注目されているのですから」
 織江が唇を噛み、足を動かす。
「滋子様の江戸行きが決まったらしいわ。先ほどまでうちでその話し合いをしていたのよ。役所や他の役人の家では話が広まってしまいますものね。私、こっそり聞いてしまいましたわ。何事もなかったかのように滋子様が大奥に上がれば、どちらの家にも傷がつきませんものね」
「……そんな………」
 滋子の現在の心境がいかばかりかと思うと足が竦んだ。
「お見送りして差し上げなければ……、きっと盛大な行列になることでしょう」
 息がつけないと織江は思った。


 *****


 邸に入ると騒然としていた。その噂でもちきりだったからだ。
 皆授業は上の空のようだった。
 ユリアは冷静を装って通常通りに三科目の授業をそつなくこなし、皆の帰宅を見送る。
 皆はとても家にまっすぐ帰る気がせず、帰り道のキャフェに寄っていくと、八人の少女は目立つらしくじろじろと見られた。
 それぞれの下男が追い払うが嫌な視線を浴び続けていた。
 滋子が駆け落ちしたことは秘密裡にされているためそれは噂話にはなっていないはずだったが、織江たちは常に異人からも日本人からも注目されていたのだった。
 キャフェには個室があり、そこでカステラと珈琲を注文すると給仕は扉を閉める。

 華子が憤慨した顔をして開口一番に言った。
「何も死ぬことなんてなかったのよ。それは勿論お別れする時はつらいかもしれませんけれど、けれどそれも後になれば良い思い出になるかもしれないでしょう?」
 それを受けて頼子がおっしゃる通りだわ、と言う。
 織江は火の粉が飛んでこないようになるべく発言を控えようと思った。
「殿方なんてその人お独りではないのですから」
 華子が危うい言葉を言うと、医者の娘の定子が怪訝な顔をする。
「まあ、お嫁に行く前の華子様のお言葉としては些か穏やかではありませんわ」
 定子の言葉に華子はぷいっと横を向く。
「あら。殿方だってそうなのですから、女も同じことですわ。それに江戸でもし上様のお子を授かれば、ご側室になれるのよ。その方がずっとご出世でございましょう?」
 頼子が驚いた顔をする。
「けれど大奥は沢山の人が上様にお仕えしているのでしょう? そこに行ってもご寵愛を授かれるかどうか」
 思わずそう言うと、華子がきっと前を向いた。
「上様は私たちが身につけた教養に興味があるというのですもの。他の誰にもない魅力があるということですわ。私だったら他のお方に負けませんのに」
 つんとした顔をして言った。
 織江は、見舞いに来てくれた時に、夫になる人が妾を持つのではないかと泣いていたことを思い出し、あまりに言っていることの違いに呆れてくる。
 定子が大袈裟に溜息をつく。
「……私は同じような方がいいわ。やはり父と同じ医師の方がほっとするもの。大奥でときめくなんてとても考えられないわ」
 頼子が、私もそう思うわと相槌を打つ。
 華子がふっと笑う。
「定子様の想い人はお医者様ですの? お父上のご書生?」
 定子が図星を指されて真っ赤な顔をする。
「……私ひとりが思いを寄せているだけですの………」
「まあ、何をしてらっしゃるの? さっさと告白なさったらよろしいのに」
 華子が小馬鹿にしたような言い方をすると、定子がべそをかくような顔をする。
「そ、そのようなことは申せませんわ」
 そんな恋愛相談の話に織江は訊きながらもぼんやりしてきた。

 ……滋子様。
 ……今…どんなお気持ちでお過ごしなのかしら……。

「……ご自害なされたのよね………」
 織江が思ったことを口に出してしまって、はっとする。
 せっかく、きゃいきゃいと浮かれた恋話をしていたところ、一同が沈み込む。
 華子が唇をきっと結んだのち、立ち上がる。
「お相手に死を選ばせるまで好いていただいたのよ。これ以上に女として誉れに思えることはないのではないかしら」
 その言葉を訊いて、織江は、ああ…と思った。
 前から感じていた事だった。華子には婚約者以外に誰か好いた人がいるのではないかと。
 けれども、きっとそのお方は華子の縁談の為に身を引いているのだろうと。
 その華子がぽろりと涙を零す。
 すると、頼子がぽろぽろと涙を零す。
 定子が泣くと他の皆もつられて泣きだす。
 織江も堪えきれず嗚咽をもらす。
 それぞれがそれぞれに思いを巡らせて、自分の立場と比較し、滋子を思いやった。
 その泣き声に店の人がやってきて、慌てた様子でおのおのの下男を呼ぶ。
 皆は下男に連れられてそれぞれ家路につくのだった。


 *****


 神社に着いた頃の織江は泣いた様子などないかのように顔をぱんぱんと叩きながら境内への階段を登る。
「塾で何かあったのですか。皆様泣いていて驚きましたよ」
「ええ……。少々悲しい話を訊いたもので」
 そうですか…と吾郎が言う。
 鳥居でマークが階段を覗き込むように見ていた。
 織江が登ってくるのを見て大喜びしている様子である。
 そんな姿を見れば心が弾んでくる。
 けれども、滋子はもう愛しい人と会えないのかと思うとまた泣きたくなる。
 境内には誰もいなかった。
 後から神社にやってくる人もいない。つまり二人きりになれるということである。
 誰かが階段を登ってくれば吾郎が咳払いをする。
 それまでは、二人の時間が過ごせる。
 そうなるとマークは遠慮しない。手を握り締める。
「私の可愛い人。今日はどんな一日でしたか」
 織江が顔を真っ赤にする。
 マークはわくわくとした顔を向けていたが、次第に顔色を落としていく。
「……何がありました?」
 厳しい表情だった。
「何が、とおっしゃいますと」
「わかりますよ、オリエに悲しい事があったことくらい。いったい何があったのですか」
「……なにゆえ分かるのですか」
 マークは織江の手に力を込める。
「なにゆえ? オリエのことを常に考えているからですよ。当然のことです」
 織江は足に力が入らなくなったような気がした。
「さあ、話してください。私の目は誤魔化せませんよ」
 そう言われてマークをじっと見る。
「…………………」
「はい? 何がありました?」
「ええと……」
 観念したように溜息を吐く。
 そして、滋子に関する一通りのことを話した。

「え?」
 マークはその内容に大層驚いた様子だった。
「その、エド行きを止めれば済むことだったのでは? 既に決まった相手がいるのなら断ればいいのに、何故わざわざ命を落とすようなことを……」
「断れることではないのです」
「トクガワはハーレムを持っているはずなのに、まだ姫が欲しいというのか……なんたる……」
「?」
 その意味が一瞬わからなかった。
 将軍家を「徳川」と言える日本人はいない。
 ゆえに織江はマークが異人なのだと意識せずにはいられなかった。
 武士の体面や守るべき家というものも理解できぬであろうと。
 日本の社会の頂点に君臨する徳川将軍は最も偉い人だと教えられており、それに逆らえるものではなく、忠誠を尽くすのが当然と思っており、マークの言い方は根本からの違い、文化の違いを痛感するものだった。
「ハーレムというのは少々違うと思います」
「複数の妻がいるのでしょう? それをハーレムというのです。まったく好色だ……」
 それは沢山の女性を侍らせて破廉恥な行為をしている権力者という意味だと思った。
 憤りを感じた。
 握られた手を振り払う。
「違うわ!」
 声を荒げた。
「……オリエ?」
 しかし、どう違うのか説明することができなかった。納得させるだけの知識がなかった。
 そして、そんな場所に滋子が送られるのではないと思いたかった。
「この国の事情は異国の方にはわからぬことです!」
「オリエ……」
 悲しそうな表情に、織江は言い過ぎたことに気付く。
 唇に手を当てる。
「申し訳ありません。無礼なことを申しました。滋子様がハーレムに行かされるなどと思いたくなく」
 俯いてしまう。
 マークは織江の手を再び取る。
「私こそ勉強不足なところに軽はずみなことを言いました。オリエの気持ちも考えずに」
 気まずい雰囲気になりつつあった。
 その会話を盗み聞きしていた吾郎が自分の思っていた通りの展開ににやりと笑う。
 ごほん、と咳払いをした。
 織江が縋るような目をする。
 マークがわかっていますよ、と応えるような笑みを浮かべて、手の甲に唇を寄せる。
「また明日です。オリエ」
 織江はほっとして微笑む。
「ええ。また明日」

 ――自分たちには明日がある。

 それ以上に何を望もうというのか。
 けれども、日々苦しくなってきていたのも事実だった。
 以前に感じていた心を通わせる前の苦しみとは別の苦しみだった。
 それが『欲』というものだと織江はまだわかっていなかった。
 そしてそれとの熾烈の戦いを強いられているのはマークの方だと気付いていなかった。

九、

 盛大な花嫁道中となった。
 大打掛を羽織った滋子はすでに将軍の妻になったかのようである。
 第十一代将軍、正室側室合わせてすでに二十人ほど妻がいる人のところに嫁ぐのである。
 奥女中ではなく最初から側室として迎えられることが決まっており、それは今回のことを不憫に思って長崎奉行が骨を折ったことだった。それゆえに特別に豪華な支度となった。

 花嫁の輿が厳かに市中を回っていくと、皆が膝を折り頭を下げている。
 本陣の門の前で織江が腰を屈めていると、輿の窓があけられた。
 滋子が織江をじっと見る。
 織江は思わず深々と頭を下げた。
 
 ――織江様。

 そんな滋子の声が聴こえたような気がして、ふと顔を上げる。
 真っ直ぐ見つめられていた。
「…滋子様…」
 そして、儚く笑うその顔はこの上なく綺麗だと思った。だが、

 ――織江様。助けてください。

 そう訴えているように思えた。

「滋子様!」
 織江が立ち上がると、左衛門に押さえられ、輿についている武士がざっと足音を立てる。
「織江! 上様の御方様である! 軽々しく声をかけてはいけない!」
 左衛門の厳しい声にびくりとして動きを止めた。

 ガーリア塾では身分を問わず勉学を励むという名目だったが、やはり武家と商家の垣根はあり、気安く話ができるものではなく、だから華子と共にいることが多かった。
 それでも、そんな身分の差を感じさせないほど滋子は慕ってくれていたと思い返す。

 ――織江様に憧れているのです、わたくし。

 そんなことを言われたこともあり、恐縮したことがあった。

 拳に力を込める。
 もっと沢山話したいことがあった。
 もっと語り合いたいことがあった。
 取り戻せぬ時がいかに掛け替えのないものかと思い知った。
 
 ……どうか、どうか……。

 お幸せになどと言えるはずがなかった。

 ……どうか、お心安らかにお過ごしください……。

 それくらいしか捧げる言葉がないと思った。


 *****


 マークは、港で花嫁の行列をオランダ商館長と共に見ていた。
「あれが例の心中事件の花嫁か。ガーリア夫人も複雑な心境だろう」
 そう呟く商館長の言葉にマークはすかさず反応する。
「ユリアが何か関係があるのか?」
「ええ。どうやらユリア殿が教育したことが噂になってトクガワに興味を持たれたらしいですよ。何と言っても好色で有名なショーグンですからね。まったくこの国の結婚制度は異常ですよ。男にとっては天国ですが」
「それはトクガワがこの国のトップだからだろう? 愛人を多く持つのはどこの王も同じだ」
 吐き捨てるように言うと、商館長は皮肉っぽく笑う。
「それが愛人とは違うので奇怪で理解に苦しむのですよ。ゲイシャシステムなども」
 織江がむきになったことが甦る。
 蔑んだ言い方が鼻についた。
「……それは、日本の社会において育まれた文化ということなのだろう…」
 そう言いながら溜息を吐いた。
 気分を害していたのだ。
「ふふふ。殿下もお望みならばトクガワのように日本の女性でハーレムが作れますよ」
 商館長が下卑た笑いをする。
「……何を……」
 不快感が増していく。
「鎖国という制度を取っているため、日本人は結婚してもそれが認められず外国には行けないのです。だから、日本だけの妻ということです。商館の職員は皆日本人妻を持っています」
 腹立たしい。
「それは宗教上にも倫理的にも道を外れているのではないか? 重婚だろう? 妻が必要ならば呼べばいいではないか」
 商館長が呆れたような顔をする。
「ああ、ご存知ないのですか。妻は上陸を許されていないのです」
「……なに?」
「なので現地で調達するほかないわけです。ふふふふ」
「ならばユリアは…」
 商館長はそれに答えず笑い続ける。
 特例があるとは言えなかった。
 マークはその意味を察した。
「……ガーリアはどこまでふてぶてしいのだ」
 嫌悪感を露にしてマークがそう言うとこほんと商館長が咳払いをする。
「ユリア殿の教育は色々な意味で成果をあげていますからね。殿下にこれを申し上げたのは多くの者がその結婚をしていることについて黙認してほしいからです。正論を振り翳されては困るのです」
 マークが商館長を見据える。
 含みを持った言い方に聞こえたからだ。
「……まさか…君はそれで懐を暖めているということはあるまいな」
 商館長はにやりと笑う。
「ふふ。さすがお察しがよいことで。この国は殿下にとってまったく良い勉学の場ですな」
 恭しく礼をして、商館長がその場を離れ、船から降ろされる荷を見に行った。
「なんたること……」

 そこに船に近づく女性がいた。
 ヨーロッパの田舎の町娘が着るような古びたドレスを着た女性だった。
 腕には赤子を抱いており、その赤子は金髪碧眼のいかにもアングロサクソン系の顔立ちで、訊いたばかりの現地妻だと思った。
「……あの。…私の夫を見ませんでしたか…。アレックスという名前なのです」
 流暢とは言えないオランダ語で降りてくる乗組員に必死に声をかける。
 マークはその女性に声を掛けようと歩みを進める。
 すると商館長が戻ってきて腕を取った。
「無用な慈悲です」
「しかし……」
「殿下。もしご在住中に撤廃されたとしても殿下がご帰国されたら元に戻ります。無駄な事です。この牢獄のようなちっぽけな島で我慢できるのもそれがあるからです」
「しかし、子供が……」
「国によっては子供を引き取ることができます。しかし、本国の妻にそれを知られたくないから引き取らないのですよ。独身の者でも引き取っていった者はまれです」
「ならば子供を抱えて捨てられた妻はどうやって生きていくのだ!」
「施しを受けられる施設に寄付はしています」
 その視線の先には、出島近くの娼館となっている建物があった。
 捨てられた妻はそのまま娼婦となって船乗りの相手をするのだという。
 マークは訊かされた事実に衝撃を受け、目眩を覚えた。

 *****

 その日の夕方の織江は滋子の事を思いやるのか、麗しい表情をしていた。
 鳥居をくぐってくる姿を心待ちにしていて、その瞬間は毎日のことながら心が震える。
 小雨が降った後で湿気が上がってきていた。
 そんな空気を夕方の風が流していく。
 夕陽を浴びる織江は直視できないほど美しいと思った。
「私の可愛いオリエ。今日はいかがでしたか。楽しく過ごせましたか」
 織江は黒目勝ちな瞳を潤しながら溜息をつく。
 日毎に美しさが増していると思っていた。
「今日……。花のお稽古と琴のお稽古で先生に褒められました。作品にも演奏にも艶が出たと」
 滋子の事を話して前に喧嘩になりそうになったのでその話題は避けた。
 頬を染めながら答える織江を見てこのまま攫って行ってしまいたいという衝動に駆られる。
 そして、誰の目にも触れぬよう隠してしまいたいと。
 くすりと笑う。
「その変化に私が関係していると自惚れてもよろしいのですか」
 織江が更に顔を赤くする。
 そんな可愛らしい表情を見て、胸が苦しくてたまらないと思った。
 一刻も早く自分のものにしてしまいたいという欲望と闘う過酷な日々だった。
 辛そうな表情を隠せないでいると、織江が不安そうな顔をする。
「いかがなさいましたか。何かお辛いことでもありましたか」
 瞳を覗き込むようにして見ながら言った。
 
 ……抱きしめたい。

「貴女があまりに美しいので……。それにおののいているだけです」
 織江は頬に両手を置き、身体が火照るのを恥らうように下を向く。
 照れる織江を見て、思わず顔を綻ばせる。
 欲求に屈してしまいそうになる自分を押さえ込むのはつくづく炎に炙られているような苦しみだと思った。
「本当にオリエは美しい。特にその笑顔が…」
「……まあ、マーク様……」

 ……口づけをしたい。 

 商館長の話によれば、異人から破格な手数料を受け取れる旨味を知れば、それを商売に考える者も蔓延り、貧しい家の娘が現地妻として売られていることは後を絶たないのが現状ということだった。
 その紹介料が商館長の懐にも入るということをいけしゃあしゃあと隠さずに経済行為だと言って憚らず、すなわち人種差別も含み、この国を舐めきっているということの表れだった。

 ――そんなことが許されていいはずがない――!

 怒りを収められなかった。
 そして自分は断じて違うと叫びたかった。
 性欲を処理するために現地妻を娶る男とは同列ではないと。
 しかしその一方で、その男達が羨ましいとも思った。

 織江は裕福な家の娘で、その上、婚約者もおり、現地妻になどなる必要性も可能性もまったくない。
 それに打ちのめされていたのだった。
 二人の思いには未来がなく、自分は国に戻らなければならず、連れていけぬのであれば求婚もできない。

 ――それよりもオリエが他の男のものになるのを見届けなければならない。

 その耐え難い日は近づいており、どれほどの眷恋を尽くしても諦めるほかないという結論以外は見出すことができないのだった。
 滋子たちが心中という道を選んだ気持ちがよくわかった。
 だが、織江を殺すことなど考えたくもなかった。

 奥歯を噛み締める。

「その貴女の美しい笑顔を見るためには私はどんな努力も惜しまないでしょう。バイオリンを持って来ました。聴いてくださいますか」

 織江がこくりと頷く。
 神社には誰もいなかった。
 最近は夕方に神社を訪れる人が減っている。
 夏場の暑さを避けて夕方の日が暮れる前に作業をしているからだった。
 昼間がどれほど暑くとも、夕方の神社は涼しい風が吹く。

 ケースからバイオリンを取り出し、音を調整すると、織江が近くの岩に腰掛ける。
 神社の木々が共鳴し、まるでウィーンのホールのように響いていく。
 互いに顔を見合わせて、視線を絡み合わせる。
 そして息を吸い、弓を弦に置いた。

 G、D、Hes、Gの力強い重厚な和音が響く。
 織江はその瞬間、どこかに連れて行かれていくような、そしてまるで衣服を脱がされて裸にされ、抱きしめられているような気がした。

 バッハの無伴奏バイオリンソナタ第一番アダージョである。

 一音一音が、織江の全身を撫でていくように包んでいく。
 織江が目を瞑る。
 マークは、バッハの無伴奏を弾けば、織江と出会ってからの苦しみの連続が緩和されていくような気がしていた。
 織江への思いが吐き出されていくようで。
 弓を滑らしていくと、織江を感じる。
 織江の柔肌に触れていくように。

 深く…もっと深く……。

 白く透き通るような肌にそっと触れるように弓を乗せると、その心地良さに震えが来る。
 導かれるかのように音を響かせるとその柔肌はそれに反応し、熱を帯びたようになる。
 追いかけるようにもっと先を知りたいとの欲求に急き立てられるかのように弦が手招きする。
 それに応えるかのように鳴らすと、悦びの音を鳴らす。
 
 ――官能的な狂おしくも激しい愛の音を。

 すると、抗えぬその誘惑に翻弄され、波が寄せては返すかのように揺さぶられ、そしてその波が高くなるかの如く血潮が激しく駆け巡り高揚し、やがてエクスタシーへといざなわれ、

 ……弾ける!

 ――ああ。

 打ち砕けた波は静かな波となり、大きな幸福感に包まれ、感動に打ち震える。

 ……愛しい……。

 織江が夢から覚めるように溜息をつき、目を潤ませながら開ける。
 マークは涙を流し、恍惚な表情を浮かべていた。
 呆然とする。
「……マーク様?」
 織江に声をかけられ、はっとする。
「……あ。……ああ、何と幸せな気分でしょうか…」
 織江も同じだった。はらはらと涙を流す。
「オリエも感じてくれましたか。これが私の愛です」
 織江が首を縦にふり、涙を拭う。
「はい。とても満たされて……」
「よかった……」
 マークが切ない表情をすると、織江も切なくなる。
 吾郎が咳払いをすれば、誰かが来たか、帰宅を促す合図であり、誰かに見られる前に帰らなくてはならない。 演奏が終わったところで吾郎が咳払いをした。
「さあ、行って下さい。私はもう少しここにいます」
 織江が去り難い気持ちを表情に出しながら鳥居に向かう。
「また、明日、ここで待っています」
 背中を向ける織江が何度も頷き、肩を震わしながら歩いていく。

 それが今の二人にできる精一杯のことだった。

十、

 織江は、よく鏡を見るようになった。
 鏡の中の自分の顔を穴が空くほど見ていく。
 華子ほど美人ではないが、母譲りの切れ長の目は気に入っているし、鼻も低くなく、唇も丁度よい大きさで、形も悪くないと思っていた。
 しかし、何とも気に入らないのが顎の形だった。
 華子のようにすっと尖った形ではないため、丸顔で色っぽさに欠けるのである。

 ――貴女は誰よりも美しいですよ。

 マークはそう言うが、鵜呑みにできないと思っていた。
 マークのほうがよほど美しいのだった。
 溜息がでるほどにきめ細やかな乳白色の肌、瞬く度に見入ってしまう長い睫毛、真っ直ぐに自分を見つめる透き通る琥珀色の瞳、形のよい高い鼻梁、そして蕩けるような甘い言葉を囁く唇…。 
「神様は意地悪だわ。天神様にもっと美しくなるようお願いしなくては」
 溜息をつきながら、鏡に布をかけると、出発の時間を吾郎が告げに来た。
 塾に行く日である。
 吾郎がはっとした顔をした。
「おかしいかしら。今まで紅をさすのは好きではなかったのですけれど…」
 吾郎が神妙な顔をして、おかしくなんかないですよ、と言う。

 ……もっと美しくならなければ。美しくなりたい。

 そう強く望むのだった。
 
 *****

 織江がマークとの逢瀬を始めてから二ヶ月ほどの日々が過ぎていた。
 神社に日参することは当然の日課となり、信心深い良き行いとさえされていた。
 吾郎は何も言わずに協力し、引き離すようなことはしなかった。
 だが、縁談話は進んでおり、年を越してからの日取りにするかと話し合われていた。
 格が上の家から婿に迎えるには準備が色々とあり、先方も宿屋に婿入りさせることで身分に影響せぬよう蒔田屋の立場を向上させようと努力していた。
 台所事情が苦しくとも守るべき武士の矜恃は厄介なもので、それほどまでして蒔田屋に婿入りさせる理由がありそうだったが、織江はそれについては踏みこまないようにしていた。
 大人の事情に子供が口出ししてはいけないのだった。
「どうやら時間がかかるようだな」
 そんな言葉に織江は安堵したような顔をした。
 このまま破談になれば良いのにと口に出しそうになるのを押さえながら。

 マークに会うために日々を生き、過ごしていると思っていた。
 それが両親に知れたらどれほどの騒ぎになるか充分承知している。
 二度とマークに会えないようにされてしまうことも想像がついた。
 だから、断じて気づかれぬようにしないといけない。

 ……先のない事もわかっていた。

 どれほど慕っても結ばれることはないと。夫婦にはなれぬと。
 毎日会えるだけで、顔を見るだけで、声を聴くだけで、自分は幸せ、そう思い込ませようとしている自分との闘いに疲れてきていたのも正直なところだった。
 この先、婚儀を終えたのち、平然とした顔でマークに会えるのかというと、それはやはり不可能のことのように思える。
 けれども、神社へのお参りと言えば、今のように家を出ることはおそらく可能であるはずだった。
 しかし、そのうちマークが帰国し、二度と会えなくなる。
 足取りが重くなっていた。
 心の中で思ってしまった言葉に傷ついていた。

 ――二度と会えなくなる。

 ならばいっそ……、

 ――自ら破談を申し出てマーク様の妻になる。

 首を横に振る。
 父が必死に推し進めている縁組である。
 自分の意思などは考慮されないはずだった。
 断れぬところまできていると分かっていた。それに、

 ――異人の妻になる。

 それが何を意味するのかよくわかっていた。
 長崎には夫に取り残され、世間に蔑まれながら混血の子供を育てている女性が大勢いる。
 ユリアはそれを不幸なことと言っていた。

 ――妻になったとしても、いずれ別れは来る。

 その時は、

 ……捨てられてしまう……。

「織江様。ご機嫌麗しゅう」
「華子様。ご機嫌よろしゅうに。よいお天気ですね」
 心情がどうであれ、にっこりと笑う。
 そこに、洋装の女性が鼻歌を歌いながらすれ違っていった。
 その時に、洋傘がこつりと華子の肩に当たった。
 しかし、その女性は気づかぬ様子で、歩いていく。
「ちょっとお待ちください」
 大きな声を出した。
「華子様」
「今、あなたの傘が私に当たりましたのよ」
 その女性が溜息を吐きながら振り返る。
「それは失礼」
 ほほほと笑いながらもう用は済んだとばかり歩みを速めた。
 華子は悔しそうに唇を噛む。 
 そして、その女性を蔑視するように睨んでいた。

 出島では否が応でもそのような女性と出くわす。
 そして、母子も多かった。
 手を引かれる小さな子供の姿は微笑ましく、つい立ち止まる。
 可愛らしいと思った。どう見ても日本人の子供とは違う顔立ちだった。

 ――妻になったら私もマーク様の子を授かるのかしら。マーク様に似たお子を…。

 最近押さえられなくなってきた欲求を思い、その姿に自分を重ねてしまう。
 華子が苛立ちを隠せない様子になる。
「妾になるくらいなら私は死にますわ」
 子供の手を引く母親を見ながら華子は世の中の全ての妾を目の仇にしているようにそう言い捨てた。
 そんな言葉に心が抉られる。
 華子が溜息を吐く。
「その点、マーク様はお偉いわ。誰も囲わずに執事と二人だけでお暮らしなのですって。うちの者がよく届け物にいくのよ」
 そこはガーリア邸よりも更に大きな邸宅だった。
「そう…」
 興味のないそぶりを見せる。
「きっとお国によほど愛する奥方がいらっしゃるのでしょうね」
「………………」
 意識せずに言っているその言葉に顔色を変えてはいけないと唇を噛む。
 そういえばマークが結婚しているかどうか聞いた事がないと思った。
 マークは自分の身の上について語らず、どんな国のどんな家柄でどう生きてきたのかなど何も知らなかった。
「奥様…いらっしゃるのかしら…」
 それだけ呟くと、華子がマークのことなら任せろと言わんばっかりの顔をする。
 華子にとってマークは歌舞伎役者と等しいもので、どこまでも美化する。
「マーク様はとても素敵な御方でしょう? もちろんいらっしゃるわよ。マーク様だったら誰でも夢中になるでしょうし」
 一言一言に傷つく。
「それよりもね、どうやらマーク様は身分の高い御方らしいの。だから特別にあのお屋敷に住んでいるのよ。ユリア先生が隠していてもわかるわ」
「そうでしたの」
 声が震えていないか心配だった。
「もしかしたらいずれはお殿様になるのかもしれませんわ。そうしたら鍋島のお殿様のようにたくさんの側室をお持ちになるのかしら」
 華子の言葉が全て針のようだった。

 *****


 ガーリア塾の授業が終わって皆で帰宅の準備をしていると、子供が大勢ガーリア邸の中に入ってくる。
 走り回る子供達を執事の木村が追いかけていると、ユリアが微笑みながらその子らを見ていて、子供用の服を手にしていた。
 混血の子供たちだった。
 華子が汚らわしいものでも見たように嫌悪感を露わにして憮然とする。
「先生。その子たちは…」
「ハナコ。国で寄付された子供服が届いたのでお配りするのよ。皆さんを呼んで来て下さい。手伝ってほしいの」
 華子がいかにも迷惑そうにつんとした顔をしながら、はいと言って広間に戻っていく。
 子供の後から、その母親と思われる人々がやってきた。
 皆、儚気で慎ましやかな女性たちだった。
 織江は聞いてみたくなる。

 ――お別れした時、どれほどの苦しみでしたか。

「先生。いつも有難うございます」
 丁寧に頭を下げて、英語で話す女性に好ましさを感じた。
 華子のように蔑むことなどできなかった。
「坊やはまた大きくなりましたね。どうぞお好きなのを取って」
 ユリアが優雅に微笑みながら服を広げていった。
 そう言われて嬉しそうに選んでいく。
 子供は子供同士で走り回っていた。
「だめよ、静かにしなさい!」
 叱られてしゅんとする子供の頭を撫でながら、おりこうね、と優しい微笑みを浮かべる。
 織江はそんな様子に羨ましさを感じる。
 
 ……愛しい人の子。

 どれほどの宝物であろうと思った。

 *****

 織江は神社に足が向かないと思った。
 寄らずに家に帰ろうかと迷う。
 家に向かう道にすべきか神社に行く道か、しばらく悩む。
 日が沈みかけていた。
 夕方の神社に人は来ないが野犬がうろつく。
 犬同士で喧嘩しているような鳴き声が響いている。
 行くならば早く行かなければと焦ってくる。

 ――マーク様が待っている。

 そう思えば逢いたくてたまらなくなり、それに抗う事などできず、神社への道を進む。
 初秋の神社にはひんやりとした空気が漂う。

 ……泣いてはだめ。

 笑顔が好きだと、笑顔を見せて欲しいと言われるのだから。
 泣いた顔など見せてはいけない。
 階段をひとつひとつ登っていくと、ひとつひとつマークに近づく。
 姿を見せると満面の笑みを見せてマークが飛んでくる。
 鳥居にしがみついていたようである。
 マークの手汗がついている。
 夕日を浴びて茶色の髪が金色に光っている。
「ああ…よかった。今日は来られなくなったのかと心配しました」

 ……笑わなくては…。

「愛しい人。今日はいかがでしたか。ユリアのところで変わった事はありませんでしたか」

 ……笑って…とても楽しい日だったと言うのよ。

「ええ。今日はバイオリンで褒められましたのよ。とても上手になったと。マーク様の手ほどきのおかげですが」
 神社でバイオリンを練習していた。二重奏を弾けるようになると、まるで睦み合っているかのように共鳴していた。
 そう言うと嬉しそうな顔をされた。

 ……そう。それでいいのよ。

「優秀な弟子ができて嬉しい限りです。今までこれほど教えていてやりがいのある弟子はいませんでした。さあ、では今日も早速…」
 そんな言葉にも反応してしまう。
「……たくさんのお弟子さんがおいでになるのでしょうね」
 マークが不審な表情をする。
「オリエ?」
 口から言葉が勝手に出て行くような気がした。
「たくさんの御方がマーク様のお帰りをお待ちなのでしょうね」
 止まらなかった。
「オリエ……」
「………奥様にも教えられたのでしょう?」
 だめだった。
 もうだめだと思った。
 心が墨で黒く塗られていくようだった。
 笑うことなどできなかった。
「今日は失礼いたします」
 せめて泣き顔をみせぬようにと、走り去る。


 *****


 それから織江はしばらく神社に行かなかった。
 行けば、心の中に溜まってしまったものを吐き出さずにはいられなくなる。
 マークを責めるようなことを言ってしまうに違いないと思い、ならば行かない方がいいと思ったのだった。
 自分もマークではない人の妻になろうというのにマークの妻に嫉妬し、おそらく醜い言葉を言い放つであろうと恐れた。

 ――マーク様はどのようにその御方に声をかけられるのかしら。

 ――抱き締めて、口づけを交わすのかしら。

 ――私に言って下さるように、愛の言葉を優しく囁くのかしら。

 ――愛しい人、と。

「…いや……」
 嫌だった。
 過去にマークが愛した女性全てに嫉妬をしてしまいそうだった。
 自分だけを、自分だけを思って欲しい…。
「……なんて浅ましいの……」
 全身が焼かれていくような痛みと苦しさが襲う。
 息がうまくできないような気がしてくる。
 心の臓が締めつけられていく。
 会えばこの苦しみから逃れることができる。
 しかし、別れた瞬間にまた苦しみの連続になるのだった。
 果てがない欲望に自分が自分でなくなっていく気がした。

 ……それでもお会いしたい。

 明日は、神社に行こうと思った。
 屈服していく自分を慰めるように、傷口を塞ぐようにそう決心する。

 ……お会いできる日までお会いしよう。
 
 幸せであり苦しみであるこの修羅の道から解き放たれる事はないのだろうと思った。

 ――男と女はそのようなものではないと存じますわ。

 華子の言葉が甦ってきた。

 ――男と女はとても怖いのよ。

「………華子様は正しいわ……」
 自室の鏡の前に座っていると、宿の建物から父と母が笑い合っている声がする。

 ……何と幸せそうなのだろう。

 琴瑟相和す様子に心から羨ましいと思った。
 自分もそうなるはずだった。
 数ヶ月前まではそれが自分の人生だと信じて疑うことはなかった。
 だが、今はこの家を牢獄のように感じていた。
 はっとする。

 ……自分は何という罰当たりなのだろう。

 夜の宴席の声が響く中、奈津が急ぎ足で駆けてくる。
「織江、手伝いをお願いするわ。異人さんがたくさんいらして、日本語の通訳の人が足りないらしいの」
 はい、お母様と言い、客人用の着物に着替えてその座敷に行くと、がやがやと会合を開いているようだった。
 失礼いたしますと声を掛けて静かに襖を開けると皆が一斉に見る。
 丁寧にお辞儀をする。
「ああ、入るがいい」
 そう言われて顔を上げる。
 するとどよめきがあがった。
「おお。何と美しい。まるで人形のようだ!」
 武士が十名ほどいて、オランダ商館長、ガーリア、他異人が三名ほどで、そのうちのひとりは……マークだった。
 織江は衝撃に指先が震えてくる。
 マークは会合場所を訊いた時点である程度はこうなることを予想していた。
「某、上村藩の勘定方を務める者である。貴殿とご家老羽村様の子息との縁組が決まっていることは存じておる。羽村様とは幼少より昵懇の間柄だ」
 指先が震えているのを見られぬよう手を重ねる。
 マークの視線が痛かった。
「……恐れ入ります…お初にお目にかかります。織江と申します」
「これほど見目麗しいご新造殿とは貞晴殿は果報者だな。なあ、皆」
 すると一同は頷く。
「これは早速羽村様に伝えてやらんといかんな。我らの話を聞いて祝言を急がせるやもしれんぞ」
 マークはひたすら顔色を失っていた。
 要は織江の姿と教養をどの程度身につけているのかを会合の機会に見ておこうというものだった。
 織江は自分がまるで鑑賞用の鳥になったような気がした。
「ニッポンの女性素晴らしいデス。私のツマも美しいデス」
 お世辞にも上手とは言えない日本語でひとりの異人がいうと、他の異人も妻の自慢をする。
 でれでれと言われて武士たちは憤慨したようだった。
「女郎のくせに…」
 ひとりの武士がぼそりと言った。
 織江は背筋が凍りつくようだと思った。
 華子の『妾』という言葉にも傷ついたが、『女郎』という言葉は、まるで刀で刺されたかのようで、深く心を痛めつけるものだった。
 上村藩の特産品をオランダの品評会に出すことになり、マークの国にもその呼びかけが決まり、品物の見本を見るという会合で、座敷には見事な焼き物が並んでいる。
 マークはそんな下世話な話に耳を貸さず、焼き物を手に取る。
 形を堪能しているとその様子にガーリアが鼻を鳴らす。
「殿下は黄色い女性には興味がないらしい。まあ、もっとも国に帰れば選り取り見取りの極上の白い美女がいるのでしょうから」
 早口な上、ジャンクな言い方だった。
「君!」
 マークが大声をあげると肩を竦める。
 織江は英語だとわかったが、早口で何か比喩的な表現だったようで意味がわからなかった。
 マークの様子からすると自分が聞いては都合の悪いことなのだろうと察した。
 マークが織江を見る。
 眩しそうな表情をしたのち、視線を外した。
 焼き物を丁寧に畳の上に戻す。
 そして、武士達を見る。
「良い土ですね。味わい深い色です。国での買い取りをオランダ国に依頼しておきましょう。各々の手配をお願いします。私はこれで失礼いたします」
 しっかりと日本語で話すと武士たちは背筋を伸ばす。
「かたじけのうござる。では某もこれにて」
 それでお開きとなった。
 マークが見送りを断わり、武士達は恐縮しながらそれぞれに充てがわれた部屋に入って行き、マークは玄関に向かう。
 不機嫌な様子だった。
 左衛門と奈津も一緒に見送る。
 マークの執事が待機していて、駕籠が用意されている。
 護衛が沢山いるようだった。

 ――身分の高いお方らしいの。

 華子の情報はいつも正確だった。
 傅かれている様子があまりに様になっていて、急に知らない人のように思えた。
 ちらりと織江を見たが、織江は思わず顔を伏せてしまった。
 そしてその後を追いかけることなどできなかった。
「あの異人さんはいったいどんな御方なのだろうね……。いつもふんぞり返っている商館長さんまで頭を下げているなんて。ガーリアさんの家の人とばかり思っていましたよ…」
 奈津が溜息交じりに言った。
「……私もよく存じ上げていないの」
 それは本当のことだった。

十一、

『親愛なる我が息子マキシミリアン。
 いかがですか、念願の日本滞在は。
 私の護身の仏像が大好きで、日本に憧れつづけ、日本語を習得した熱意は並々ならぬものがありましたね。おそらくあなたは日本人として生まれるべきだったのでしょう。
 私たちは元気に過ごしています。葡萄も充実していて、今年はきっと良いワインができることでしょう。
 先日統帥がやって来て、あなたを養子に指名すると言いましたが、私は断わりました。だから、統帥からの便りが届いても気にせずあなたは大好きな日本で思い切り人生を楽しみなさい。日本の人形を送ってくれますか。届くのを楽しみにしています。
 あなたの母より』

 本日到着した船で運ばれてきた書簡のひとつだった。
 祖国の父と母の顔が浮かんでくる。
 フランスの一部のような場所にスヴァルト大公国という国がある。
 そこの大公と公妃が両親だった。
 二人は大変仲が良く、子供から見てもその睦まじさは気恥ずかしくなるほどで、父は常に母の美しさを謳い、母は父の立派さを褒めちぎり、城のそこら中で抱き合い、まるで二人は密着して過ごしているようだった。
 自分はその二人の長男で、いずれその葡萄畑が広がる小さな国の後を継いでいくものと思っていたが、それほど単純な人生を歩めぬ運命だった。

『マキシミリアン。
 いつまで日本で遊び呆けているつもりだ。何故他の者を先に帰国させた。長崎から京への道筋をつけてこいとは言ったが、それ以外の用事はないはずだ。長逗留など不要である。用が済んだのならさっさと帰って来い。
 お前を次の統帥に指名することを決めた。一日も早い帰りを待つ』

 名前の代わりに十六と書いてあった。
 一族の長からの書簡である。大伯父であった。
 不自然に切られたスヴァルトは母の為に独立させたと訊いたことがあった。父と母が暮らす為にひとつの国を造らせることができるほどの権力者、それが統帥と呼ばれる大伯父だった。

 ヨーロッパには『ローマ』という人々を縛り付けるものが存在する。二千年以上前からそれに縛られていると言っても過言ではない。
 だが、それがため、ひとつにまとまろうともする。
 たくさんの国、様々な民族がひしめく大陸の中にありながら、ローマを継承しつづけることに意義を見い出し、秩序をもたらすことの大義名分となる。

 そのローマを継承してきた一族が我が一族であり、その裾野はヨーロッパ全土に拡がる。その一族の者らが各国の王となり、その統帥として王の上位に君臨するものである。
 各国の王は統帥の許可なく即位できず、現在の神聖ローマ帝国の皇帝も大伯父の指名した者が帝位についている。

 ――その統帥に私が………?

 無謀だと思った。
 オーストリアやフランスの王の子供であったならば、少しは帝王教育を受け、その資格があろうというものだが、自分にはない。
 両親は共に葡萄畑に行き、民と共にワインづくりをして日々を過ごしていた。
 子供をたくさん作り、その子育ても自ら行い、父は音楽好きで暇さえあればヴァイオリンを弾いていた。

 国を富ます努力や外敵から国を守るための防衛のことなど一切考えていなく、すべて統帥が手を廻していて、スヴァルトは赤子のように守られ、平和を約束されていたのだった。
 その外では、国同士で熾烈な戦いを強いられ、宗教の対立は日に日に過激になり、植民地を巡る争いも始まっていた。
 だが、それらはすべて大伯父が采配しているものだった。

 オランダ東インド会社という組織を作ったのも一族であり、十五代統帥が指示したと言われている。
 スペインが貿易を独占し、ヨーロッパの経済を牛耳ろうとしたためである。
 しかし、現在隆盛を極めるオランダもその座を英国に渡さなければいけないという状況になってきている。
 大伯父にとってはどの国でもいい。
 狙いはわかっている。

 印度の次は清国だ。

 ヨーロッパ全土をチェスの駒の様に動かす統帥は恐ろしい存在である。
 各国の王が平伏す統帥の地位など恐ろしいだけだった。

 ……このまま日本で暮らしたい……。

 だが、日本での自分の役割など何一つなかった。
「……戻らなければならないのか…」

 ――あの地獄の中に。

 統帥からの書状を握り締め、外を見る。
 窓から見える景色は一面の海である。
 初めて見た時、一日中眺めていても飽きないと思った。
 異国に…、島国の日本にいるのだと実感して、感動の涙を零した。
 ずっと逃れたかった。
 自分を絡め捕るものから。

 宿命という抗えぬものから。


 大伯父は母をよく訪ねてきた。
 自分の姪である母をこよなく愛していたのだ。
 十六世統帥の大伯父は高齢のはずだったが、少しも老化が見られず、逆に年々若々しさが増しているようだと思った。
 よく侍女たちは噂をしていた。

 ――きっと若い娘の生き血を吸っているのよ。

 来れば可愛がってくれる大伯父の悪口に耐えられず、侍女たちを叱ったことがあった。
 侍女たちは訊かれていたことに震え上がり、どうか言わないでくださいと涙ながらに訴えていた。
 その怖がり方があまりに異常だったので、大伯父の与える影響力というものを垣間見た気がしていた。
 優しくてたくさんの国の言語、歴史や事柄を知っており、訊かせられる物語は面白く、知り合いの中で一番遠くに住んでいる日本という国の話を訊くのが大好きだった。
 日本語も大伯父に習ったのだった。
 大伯父としてはまとわりつく少年がただ好ましかっただろうが、しかし成長すると観る目は変わっていった。

「そなた…美しく成長したな」

 十三歳ではその意味がわからなかった。
 小さな頃から乗っていた膝の上に抱きかかえられるとぞくりと寒気がした。
 もう膝に乗らなくなって久しかったからだ。
 思わずそこから離れようと腰を浮かす。
「良い体つきだ。弓矢が得意らしいな。文武両道は良いことだ」
「……何を…」
 服の上から股間を押さえられ、立ち上がることができなかった。
「ここを触ってやろう」
「……やめ……」
 ズボンの中に指を入れられる。
「…ほお…。なかなか立派だ」
「!」
 朝晩と熱くなるその部分を握られると、身体中の血が噴き出していくようになった。
 大伯父がふふふと笑い、耳元に唇を寄せられる。
 息を吹きかけられると身体が勝手に反応した。
「ふ。耳が弱いか。そう、そのまま力を抜け…独りでするより気持ちいいはずだ」
 そう囁かれ、巧みな動きに勃起したものは簡単に屈していった。
「おやめください………」
「可愛い……我慢せずともよい。出してよい。出したいだろう?」
 羞恥心と裏切られた気分と抗えぬ誘惑と嫌悪感に訳が分からなくなっていった。
「いやだ……」
 身体は言葉とは違う反応をした。
 射精して身体から力が抜けると、臀部を曝け出されて、指を這わせられる。

 ――逃げなければ……!

 そう思っても身体は全く動かなかった。
 うつ伏せにされ、大きな身体の大叔父が押さえつける強さに抵抗できる力を持っていなかった。膝を曲げ、尻を突き出させられる。
「最初だけだ。そのうちお前から求めるようになる」
 激痛が走り抜け、何をされているのかその痛みに耐えるだけで何も考えられなかった。
 音に鳴らない悲鳴をあげる。

 ――誰か助けて。

 ――母上。
 父上――――!


 城を引き揚げていく大伯父の見送りをしなければならなかったが、起き上がることはできなかった。
 痛みはなかなか引かず、熱も出てきたようだった。
 そして、身体の痛みよりも心が破壊されていく痛みの方が大きかった。

 しばらくして水を求めてふらつきながら廊下を歩いていると、母の部屋の方から眩しい光が放たれているのが見えた。
 なんだろうとそこに向かうと、机に何か置いてあった。

 金色の観世音菩薩像だった。

 優しい慈愛に満ちたその表情を見ているだけで、救われていく気がした。
 母が生まれたばかりの妹に乳をやっている。
「あら。マーク、具合は良くなりましたか。先ほど様子を見に行った時はよく寝ているようだったけれど」

 ……大伯父様が……、私にひどい事をしたのです……。

 それを告げた瞬間に母が狂ってしまう気がした。
 大伯父は自分が誰にも言わないとわかっているのだ。
「歩き方が変ですね。どこか痛むの? 熱があったようなので冷やしておきましたよ」
 涙が零れてしまった。
「どうしました? 大丈夫? まだ寝ていた方がいいのでは?」
 妹をベッドに寝かせて、額に手を当てられる。
 ああ……少しまだ熱があるようです…と言う。
「母上。…それはどうされたのですか……」
 仏像を指さす。
 高さとしては自分の腕の長さと等しいくらいのものだった。
「美しいでしょう。先ほど日本から届いたのです。苦しみから救って下さる仏様ですよ」
「触れてもよろしいですか」
「ええ。どうぞ。金箔が貼ってあるのですって。見事な細工でしょう。きっとマークの具合もよくなるわ」
 仏像に触れると温もりを感じた気がした。
「日本から……」
 身体が軽くなっていく気がした。
「…きっとこれがある国の民は仏に救われていくのでしょうね…」


 それからというもの大伯父は母にかこつけてよく訪問するようになり、褥に添わせられた。
 母の目を誤魔化す為にはどんな嘘も平気でついていた。
「マキシミリアンがどうしてもオルガノンで私の意見を訊きたいというものでね、ある程度調べてきたのだよ」
 アリストテレスの分厚い書物を手にそう言えば、父と母は容易に信用した。

 客間に呼び寄せられると、施錠される。
 本を放り投げた。
 そこに書いてあることなど無意味だといわんばかりに。
「良いか。マキシミリアン。哲学という言葉は、智を愛するという意味だ。自分で何かが欲しいと思ったら知恵を出せ。さすればそれが全てに繋がっていく」
 腰を打ち付けられている状況で何の知恵を出せというのか…、と叫びたかった。

 大伯父から逃れる為にあらゆる手段を講じた。
 来ると分かれば少量の毒を飲み、病気のふりをし、近寄らせないようにした。
 だが、それらを全て見通していて、修業の為にしばらく引き取る事を母たちに告げ、屋敷の中に監禁されるようになった。
 そこで毎晩のように身体を奪い尽くされ、悦楽を叩きこまれた。
「………どうした………」
 焦らしに焦らされて耐えきれない状態にまで持って行かれる。
「何が欲しいのか言ってみろ」
 首を横に振る。
「強情だな……。尤もこれくらいで屈していては王の中の王にはなれぬがな」
 開発されつくされた身体は心より従順だった。
 押し寄せる快感に悲鳴をあげつづける。
 
 大伯父の屋敷は宮殿というよりも神殿と言った方が相応しいものだった。
 それほどの人数がいるわけでもなく、組織だったものは何もない。
 大伯父ひとりが孤高の存在のようだった。

 資料は莫大な量で、集められる最新の情報も多く、そこで知識とは自分を守る武器となるということを知った。智を愛する…という大伯父の言葉は生かされていくことになる。

「今宵は女も入れてみよう。おなごも知っておいた方がいい」
 ある晩、伽用の女中を寝所に入れて三人で交わる。
 その女性を玩具のように扱い、気の毒なほどだったが、女体に溺れていくきっかけにもなり、大伯父の目を盗み、あらゆる女性を誘うようになった。そんなある日、頬を思いっきり叩かれる。
「馬鹿やろう! 女中ではなく、ヴォンデ公爵夫人と寝ただと! 公爵が怒鳴り込んできたぞ! われに恥をかかせる気か!」
 誘われたからその誘いに乗っただけだ、と言うと、手足を拘束された。
「それほど欲求不満だったとは気付かなかったぞ。お前は女なんかで満足しないはずだ」
 そう言われて弄られると、確かにその愛撫を身体が求めていたと認めざるを得なかった。
「だからわざと女を知るようにしたのだ。どうだ。女ではこれはできぬだろう」
 催促するように喘ぎ声をあげる。
「最初に申しただろう。そのうちお前から求めるようになると」

 ――自分は肉欲の奴隷になったのだと思った。

 そんな自分が統帥になるなど――。
 そのような資格など元からないというのに。


 光明が差すようなことが起きた。
 日本の天皇が統帥に会いたいと国書を出してきたのだった。
 だが、政情不安定でフランスの王制が破られるということが起き、国王一家が幽閉されるという事態を収拾させるべく忙しく動き、日本に関わっている場合ではなかった。
 その名代として立てられた。
 理由が何であれ、憧れの日本に行けると思ったら、あまりの嬉しさに大声で叫びたくなった。
 大伯父から離れることができる……。
 日本に行ける……。
「み仏のお導き…」

 醜悪な回想から逃れるように、最近買い求めた黄金色の仏像を手にする。
 織江の微笑み方に似ていて、値段の交渉もせずに言い値で買ってしまったものだった。

 弥勒菩薩像。

 京で見た半跏像には及ばないが美しい仏像である。
「オリエ……」
 織江は生きた菩薩…。
 自分を救ってくれる仏の化身…。
「…なのに…諦めなければならないのか……」

十二、

「最近、地震が多いわね」
 朝餉の時に奈津が溜息をつきながら言った。
 不気味な群発地震が続いていたのだった。
 寛政三年(1791年)のことである。

 左衛門がそうだな…と言いながら普賢岳のある方向を見る。
 地震の度に囁かれるのは噴火で、湾の対岸の島原の国にあるその活火山はいつでもその危険があると言われていた。
 もしそうなれば長崎にも影響はあるはずだった。

「悪い事がおきなければいいが……」
「そうね…」
 二人が不安そうな顔をすれば、奉公人も皆不安がる。
 奈津がはっとする。
「さて、今日も忙しいですよ。皆頼みますよ」
 奈津の一声に皆が緊張してきびきびと働きだす。

 外出も躊躇われるところ、織江はガーリア邸に向かう。
 揺れを感じたら低い方に逃げては駄目ですよ、奈津がそう言って見送った。
 不安を覚えながら、家を出発して外国人居留地に向かっていくと、マークが立っていた。
 織江が足早に通り過ぎようとする。
 神社に行かなくなって二週間が過ぎていた。
 マークは織江が来なくても毎日夜が更けるまで待っていた。
 織江が離れていこうとしているのはわかっていた。
 そして、追いかけてもその先に責任が持てない自分に追う資格はないと思っていた。
 それでも、

 ――逢いたい――

 それしかなかった。

 織江はマークが何を伝えたいのか痛い程わかった。
 待っているから――。
 毎日待っていると言いたいのだと。
 それは自分も同じだったからだ。
 夕方になると、駆け出したくなる自分を押さえるのが必死だった。
 しかし、自分には縁組が待っており、身分の高い人ならば国に戻れば日本でのことなど忘れてしまうに違いなく、いずれにしても諦めなければならない。
 会える日まで会おうと決心したにもかかわらずすぐそれは揺らぎ、心と行動がばらばらになっていくのだった。

 でも、待っている……。

 恋しい人が私を待っている。

 ――お会いしたい……!

 毎夕それとの闘いだった。
 織江が会釈しながらマークの横を通り過ぎようとする。
「国に戻ることになりました。…それを伝えたくて」
 マークが表情を落としてそう言った。
 織江が思わず立ち止まる。

 ――とうとうその日が……。

「さ……左様で……ございましたか」
「ですから、神社で少しお話ししたいのです」
「…わ…わかりました……」
 織江は歩いているのか止まっているのか右なのか左なのかわからなくなっていた。
 どうやって息をするのかもわからないと思った。
 身体が引き裂かれていくような気がした。
 気づいたら地面が目の前にあり、その寸前で止まっているのはマークが抱えているからだった。
 それで自分が目眩を起こしたのだとわかった。
「オリエ!」
「お嬢様!」
「あ、申し訳ございません。大丈夫です」
 しっかりしなくては……と思った時、不気味な音がした。

 ずん……。

 その音は、空気が嘶いたのか思えるほどのものだった。
 そう思った瞬間、身も毛もよだつような振動が襲う。
 激しい縦揺れでとても立っていられるようなものではなかった。
 天と地を引き裂いていくかの如く、全身を凍らせていくような恐ろしさを感じる揺れに、誰も声が出せなかった。
 ひたすら、一刻も早く静まることを祈った。

 織江を抱え込んだマークは良かったが、吾郎は揺れのため転んでしまい、その拍子に身体を強く打ち、その場から動けなかった。
「ああ。吾郎……」
 吾郎が大丈夫だというように手を挙げる。
 
 大火事などがあった時は、外国人居留地はひとつひとつの建物が大きいため、一時的に避難所となり、怪我人を収容して看護をする。
 ガーリア邸も同じく、特に日常からボランティアを心がけているユリアのところに人が大勢集まってくる。
 前に町で大火事があった時には織江たちも出島で看護要員として夜を徹してその作業に当たっていた。
 揺れが収まると、吾郎が腰を押さえながら立ち上がり、焦った表情をする。
「お嬢様。出島の方が安全かもしれません。旦那様たちが心配ですので、私は屋敷に戻ってもよろしいでしょうか」
 織江が頷く。
 使用人と奉公人が大勢いる家ならばかえって自分がいれば手間を増えさせる。
「ええ。おそらく被害がたくさん出たはずですから、私はガーリア邸でお手伝いをしています。落ち着いたら帰ります」
「では、マーク様。お嬢様を送っていただけますか。どうかよろしくお願いします」
 マークが頷き、吾郎が駆けていく。
 商店が連なる方面から火の手があがっていた。
「……ああ。……皆、大丈夫かしら……」
 広い庭を持つ家に飛び火することはないが、それでも相当な被害が出ているはずだった。
 吾郎は余震にふらつきながら走っていった。
 マークは織江を離さない。
「マーク様。もうこれくらいの揺れになれば大丈夫です。さあ、早くユリア先生のところに行かなくては。きっとこれからたくさん怪我人が運ばれてきます」
 離そうとしなかった。
「マーク様」
 人目がある。
 抱き合っているように見られるのは困ることだった。
 噂がどれほど容赦ないものなのかを知っているだけに、自分だけではなく、両親ひいては宿の看板まで傷つける事になる。
 それは避けなければならない。
 織江が腕を振りほどきさっと立ち上がる。
「……待って下さい」
 マークが振り絞るような声を出した。
「…………………………」
「私の家に来て下さいませんか。…すぐ近くです」
 織江がしばらく空を見上げる。

 ――最後の逢瀬……。

 火事が広がっているようで、それを知らせる鐘がけたたましく響きだした。
 躊躇している余裕はない。
 人手はすぐ足りなくなる。
 猫の手も借りたいほどになるのだ。

 しかし――。

 頭では分かっていた。
 頭では冷静に自分のすべきことがわかっていた。
 
 だが。

 織江は静かに頷いた。


 *****


 閑散としたマークの住まいの館に入っていくと、中は更に閑散としていると織江は思った。
 ガーリア邸より華やかで豪勢な造りであるのに、必要最低限の家具があるだけで、漂う雰囲気は侘しいものだった。
「一時の仮住まいだったとしても私はオリエの家のような日本の住宅に住みたかったのです。これではまるで国の別荘と同じで、実はあまり愛着を感じなく、寝に帰るだけなのです。誰も呼んだことがなく、廃屋のようでしょう」
 織江は心の中を読まれたのかと思った。
 マークがくすりと笑う。
「オリエは考えていることがすぐ顔に出るから何を言いたいのかわかりますよ」
 織江が赤面する。
 大きな両扉を開いて居間に入ると、その先は温室のようになっており、花が咲き乱れていた。
「まあ…何と…」
 織江が言葉を切るとマークが微笑む。
「気に入りましたか。前の住人の置き土産らしいです。執事のオガワが手入れを続けて」
 マークが手招きする。
 町では火事が広がり、喧騒の中にあるはずだったが、そこは楽園のようだった。
「これは琉球の花のようです。良い香りがしますね」
 マークが花を愛でるが、織江はそれよりも外の様子が気になる。
「マーク様、やはりユリア先生のところに行かなくては…そろそろ」
 そう言うそばから余震が襲い、不安気な顔をするとマークが織江を抱きしめる。
 身体が震えていた。
「もう少し…そばにいてくれませんか。これでは神社の時より短い」
「……けれども、手伝いにいかなければ…」
「わかっています。しかし、このような天変地異でも起きない限りオリエとこうして過ごすことなどできない。この機会を逃したくない」
 火事場泥棒のようで織江は心苦しくなるが、切ない口調に何も言えなくなる。
 窓から見える海の様子を見るといつも通りに船が行き交っているのが見え、津波の心配はないようだと思った。
「卑怯者と罵られるのならそれでもいい」
 離れたくない、帰りたくない、戻りたくない、この家のような孤独と悲しみの思いがひしひしと伝わってきた。
 マークが背負うものがどれほどのものなのかわからなくとも織江は少しでもマークが抱える苦しみから救えたらと思った。
 執事の小川は、玄関を開けた時驚いた顔をしたが、それきり姿を見せなかった。

 織江がそっとマークの背中に手を伸ばす。
 マークがその感触にはっとして思い切り抱きしめる。オリエ…と何度も呟く。
 華奢な織江の身体はマークの大きな身体にすっぽりと包まれる。
 織江は何という安心感なのだろうと思った。
 懐かしいような不思議な感じがした。
 やっと戻ってきた…そんな風に思えたのだった。

「前からこうしていた気がする」
 マークがぽつりと言うと、織江が溜息をつく。
「私も…そう感じていたところです」
 マークが幸せそうに微笑む。
「やはり母の言う通り、私は日本人に生まれるべきだった」
「お母上が?」
「母は常に私の幸せを考えてくれている。けれど、事情は母が思うより複雑でね。なかなかそのようにはいかないもので」
 織江が背中に回した手に力を込める。
「…奥様……ですね」
 マークが苦笑する。
「私に妻はいませんよ」
「え…」
「妻を持つことは諦めていました」
「なにゆえですか」
「そういう宿命だからです。私はそれから逃れられない」

 織江はその事情に踏み込むべきなのか躊躇する。
 しかし、聞かれたくないことなのかもしれず、黙り込んでしまった。
「女性は可愛いと思いましたが、それだけでした」
 マークが織江の頬を包み込む。
「貴女に逢うまでは」
 織江が思わず横を向く。
「わ…私は…何の取り柄も無い宿屋の娘です。マーク様にそれほどの想いを寄せていただけるほどに特別に美しいわけでも才があるわけでもなく」
 つい感じていた引け目を口に出す。
「オリエは知らないだけです」
 頬に軽く口づけをする。
「自分にどれほどの魅力があるのかを」
 額にも口づけをする。
「私が貴女のその魅力に魂ごとひれ伏していることを」
 唇を重ねる。
 マークの熱い息づかいが時間の流れを変えていくようだった。
「……オリエ。私にオリエの身体を見せてくれませんか。私はそれを心の中に仕舞っておきます。大丈夫です。貴女を傷つける事はしません。見せていただくだけでいいのです」
 織江が慈愛に満ちた微笑みを浮かべながらゆっくりと首を縦に振り、帯留に手をかける。
「……ありがとう…」
 複雑に組んである帯の形を崩していき、着物を結ぶ紐を一つずつ外していくと、余震が収まってきたようで小さな揺れを感じた。

十三、

 取り巻く焔は建物を呑み込んでいくかの如く延焼を重ね、それ以上の類焼を防ぐためには先に建物を破壊し、火の道を絶つほかなかった。
 燃え付く猛烈な勢いの炎が迫る中、火消しの者らは力の限りその作業を行う。
 火の見櫓の半鐘は鳴り止むことはなく、余震が続く中、それを鳴らせることさえ命がけであった。
 地震と火事により、身内の安否を尋ねる人々が役所に群がり、同時に負傷者が続々と搬入され、役人はその対処に追われ、混乱をきたす。
 大惨事となっていたのである。

 だが、マークと織江はそれとは全く別世界にいるようだった。

 解かれた帯が床に落ちる。
 絹糸の刺繍で描かれているものは深紅の椿の花で、マークはその図柄が織江によく似合っていると思った。
 着物も帯と対になっているように大輪の花が描かれており、それがするりと床に流れるように下りると、まるで椿の花がぽとりと落ちたようになった。
 襦袢姿になった織江は頬を紅潮させて俯く。
 人前でそのような姿になったことはなく、身の置き場のないほどの羞恥心に戸惑う。

 マークは床に座り込み、織江を見上げ、視線を滑らす。
 その姿を目に焼き付け、一瞬たりとも見逃すまいと。
 切ない表情とともに。

 織江は腰紐に手を伸ばしながらもその先を躊躇するように動きを止める。そして、縋るような表情でマークを見た。
 その表情は艶めかしく、織江の潤んだ瞳にマークは身体が沸き立っていくような衝動に支配され、苦渋の表情を浮かべた。

「……ここは、少々明るすぎます」
「え?」
 織江が小さく溜息を吐く。
「ご、ご寝所にお連れいただけませんか」
 震える声でそう言った後、唇を噛んだ。

 織江は泣き出してしまいたいほどの恥ずかしさをどう処理したらいいのかわからず、それでも、苦しそうなマークを見ることには耐えられなかった。
 身体を見るだけなど、真の望みはそれではないはずだった。
 軽く目を閉じる。
 
 ……契りを……。

 マーク様は契りをお望みでいらっしゃる……。

 それに、それは今に始まったことではなかった。
 神社での逢瀬では、いつも身体を舐め尽くしていくかのように視線を這わせられ、語らずともその心を十分に伝えていたのだった。
 自分も、その向けられる熱い眼差しに身体は溶かされていくようになり、頭の中ではとうに抱き合っていたのである。

 ……叶えてさしあげたい。

「お願いいたします」
「オリエ」
「はい」
「貴女はご自分が何を言っているのかわかっているのですか」
 その問いに毅然とした様子で頷く織江に、マークは長く息を吐く。
 今まで堪え忍んできたことの苦しみが数倍の形になって襲ってきているような気がし、もうこれ以上耐えることは困難であると、自らに言い訳をしていた。

 ――だが、果たして許されることなのか。

 片方の膝を立てながら、手を差し出す。

 ――織江は他の男のものになる。
 自分は身を引かなくてはならない。

 毎日そう念じてきた。
 毎夜、毎朝、来る日も来る日も。
 それがどれほどつらいものであったか。
 
 オリエが欲しい――。
 オリエを抱きたい――。

「はい。わかっております」 

 オリエを愛したい――!

「では……、お手をどうぞ……」

 ――誰にも渡したくない。

 それでも罪深さに震えが来る。
 だが、この先の事態を考える冷静さが飛んでいた。
 この手を取られたら、もはや自分を止められるものは存在しなくなる。
 織江はその小刻みに震える手におずおずと手を重ねる。
 その手も震えていた。
「…………」
 震えを止めるようにしかと握りしめる。
 立ち上がり、寝室へ歩みを進めた。
 大きな吹き抜けの階段の一段一段を踏みしめるように、二人の罪の意識を消していくように。
 
 半鐘の音は鳴り続いていた。
 

 *****

 
 寝室の扉を閉めると、マークは堰を切ったように織江の唇を吸う。
 襦袢を縛る紐を慌ただしく解き、忙しく唇を首や胸元へと這わせていった。
 織江は、そんな性急な様子に引きずられながらもそれに流されていない自分を感じていた。
 極めて冷静に自分の行いを見ている自分がいたのだった。
 そして、ガーリア邸で会った婦人の姿を思い浮かべる。

 ……貴女様はとてもご聡明な方とお見受けいたしました。
 夫君はどのような御方でしたか。
 お優しい御方だったのではありませんか。
 
 はらりと肌襦袢が下に落ち、全裸になる。

 ……宝物のように扱ってくださったのではありませんでしたか。
 
 乳房を掌に包まれ、愛撫される。
 その温もりが緊張をほぐしていく。

 ……こうして心を安らかにしてくださったのではありませんか。

 ふわりと抱き上げられ、ベッドに横たわらせられ、忙しく自らの衣類を脱ぎ捨てた後、体重をかけぬよう気遣いながらも身体を重ねられ、抱きしめられる。
 温かい……、そう思った。

 ……このように心地良かったのではありませんか。

 何度も名前を囁かれる。

 ……貴女様も幾たびも名前を呼ばれたのではありませんでしたか。

「愛しい……。愛しいですよ、オリエ」

 ……同じように愛の言葉を受けられたのではありませんでしたか。

 涙が溢れてくる。

 ……愛しい方と、

「マーク様」

 ……契ることができて、

「ふつつか者ですが、宜しくお導きのほど、お願い申しあげます」
 新妻としての言葉だった。

 ……お幸せでしたね。

十四、

 低いバイオリンの弦を執拗に鳴らされた時は身体が震えたものだった。
 神社で響くその音色は、美しさなどを通り越し、空気を震わせる力があり、その振動に木々も共鳴し、風が立ち、花は芳しく、森羅万象の神髄にも触れていくほどではないかというものであった。

 ――音に溶かされてしまう。

 いつもそう思った。

 熱い吐息とともに全身を這っていく舌の感触は、開放弦を長く弾いている時のように身体を熱くしていく。
 神社の時はそれを感じ取っていただけであったが、今は直接その感触を得て、甘い声が漏れ出てしまいそうになり、織江は唇を噛んだ。
 そして、足の付け根を舌で何度もつつかれていて、触れて欲しいところが熱くそれを訴え始めたのだった。
 身体が痺れてくる。

「ここに触れて欲しいですか」
 マークがその部分にそっと唇を触れる。
 それだけで身体が波打つように反応する。
 いきなり風に上昇させられていくような感覚に不安を感じた。
 マークは織江の手の自由を奪う。 
 そして、織江の両手首を押さえつつ、舌を下腹部より下に這わせていった。
 織江は声を出さぬよう必死に歯を食いしばる。
 しかし稲妻が走ったような感覚に大声をあげてしまった。

「いや……でございます……」
 首を左右に振る。
 怖いと思ったのだ。
「……後生でございます……、おやめください……」
 ふっとマークが顔を離す。
「オリエ」
 すると、猛烈な飢餓が襲ってきた。
 全身が否と訴えているような叫びのごとく血潮が駆けめぐり、身体がわなわなと震える。
 息が絶え絶えのものとなる。

 苦しい……。

「ほら。このままでは苦しいばかりでしょう」
 そう言いながら舌を伸ばす。
 先端で最も敏感な場所に振動を加える。
 織江は、一度離されてからの感触は倍の刺激として襲ってくるものだと思った。
 水の音が響く。
 マークは絡み合っていく音を楽しんでいるかのごとく長くそれを続ける。
 それにより卑猥さは増していった。
 織江はその身体を蹂躙していく感覚に、

 ……何も考えられない。

 そう思った。
 何もかも消えていくような気がした。
 叫び声となる。
 自分が発している声とは思えぬ自分が知らない声だった。

「達する時です」

 優しい口調で告げられた。
 その言葉がきっかけになったように目の前に閃光が走り、身体が硬直した。
  

 *****

 
 マークは、ぐったりとした織江の頬を撫でながら精神的な解放を得て、押さえていた気持ちが溢れ出していくのを感じていた。
 心が満たされて、全身が真に温かくなり、今までいかに凍てつく荒野の中に佇んでいた様なものだったかとつくづく思い知る。
 真の喜びとはいかに自分を自由にするものかと。
 
 ――これの何が罪なのだろう。

 どれほどの罰があろうとも、それを受ける。

 織江の両脚を持ち上げながら、神聖な儀式を行うような気さえしていた。
 
 ――そうだ。

 ――これは、今までの汚らわしい肉欲の行為の一切を清める禊である。

 織江が苦痛に顔を歪める。

「申し訳ありません。もう少々我慢していただけますか」

 ――自分はここから生まれ変わる。

 織江は涙を瞳に蓄えながら、頷く。

 ――オリエを愛するために。

 腰をゆっくりと動かす。
 すると想像していた以上の快感が走り抜ける。
 女体を知らないわけではなかったが、生まれて初めて得る感覚だった。

 ――自分として生きていくために。

「……オリエ」

 引きずられそうになる。
 深呼吸をして少々冷静さを取り戻すが、止めどもなく突き上げるものに服従を迫られた。
 長く息を吐き出す。
 小さな律動から始める。
 織江を傷つけぬよう、恐怖に落とさないよう、願わくば苦痛から解き放たれて快感を得るよう。
 最初は機嫌を伺うように。
 小さく。
 そして少しずつ早く。 

 ――そうだ。

 このリズムだ。
 この早さから始めるリズムはエクスタシーを呼ぶ。老若男女、このリズムが好きなのである。
 本能が溶け合うリズム。
 すると、
 
「……あ……」

 織江が甘えるような可愛らしい声を出した。 
 その声にいざなわれるように動きに変化をつけていく。

 織江が甘い官能の声をあげていく。

 あまりに可愛らしいその声に何かを言いたかったが、荒い息のため、言葉にならない。
 獣のような声が出てしまう。
 優しく愛を囁くはずだった。
 しかし、口が利けなくなってしまったようだった。
 獰猛な声以外出てこないのである。

 織江が必死にしがみついている。
 激しさを増した動きに苦痛と快感が交わっているかのようで苦悶の表情となっていた。
 早く開放してあげたいと思う一方、少しでも長く引き延ばしたいと思った。

 織江の身体から得られる感覚、締め付けて緩められ、引き延ばされ、それが絶え間なく繰り返される。
 次第に頭の中が白くなっていく。
 感動していた。
 今までの苦しみの全てからの開放だった。
 何もかも消えて去っていく。
 自分を縛り付ける柵。
 重圧。
 コンプレックス。
 立場。
 状況。
 ……大伯父。
 
 絶叫する――。

十五、

 どこまでも続く葡萄畑に秋風が渡っていく。
 収穫の忙しさを抜ければその先には祭りが待っている。国中がそれに向けて心をひとつにしていた。
「今年の葡萄は最高だ」
 そう言って摘まれた房を手に取りながら、満足そうに眺めた後、口に入れる。
「よかったですね、父上」
「マーク。これでまた数年我が国は安泰だ」
 良質なワインさえ生産できればよしとされていた。ままごとのような国家運営である。
「ええ」
 くすりと笑った。
 穏和な父の怒った顔を見たことがなく、そばにいるだけで癒されるものを持っているそんな人柄であった。
「新酒は君の結婚式に花を添えるものとなろう」
「え?」
「花嫁がいるのに花を添えるというのはおかしなことかな。はははは」
「父上……?」
 何のことかと尋ねようとすると、母が走ってきた。
「ロベール様。オリエが、あら、マークもいたのね。ちょうどよかったわ」
「どうしました、アーリ様」
 ロベール大公は、艶やかな長い黒髪をさらりと払うアーリ大公妃の手を取り、そのまま抱きしめる。
 何度となく見せつけられてきたその様子に、マークは大袈裟に咳払いする。
「オリエが懐妊しているらしいのです」
「え?」
「ふふふ。マーク、おめでとう」
「それは目出度い。マーク、よかったね」
「マーク。オリエは少々具合が良くないらしいの。あまり無理をさせないように。今日はもう仕事はいいから、早く行って差し上げなさい」
「は、はい……。母上……」
 
 そこで目が覚めた。
 横には深い眠りについている織江がいた。
 柔らかい黎明の光が部屋に差し込み、朝の到来を告げている。
 火事の喧噪は収まったようで静かな朝だった。
 夢を見ていた。

 ――そう。夢を、夢を見ていた。

 あまりの幸福感に涙が出てくる。
 父と母が扉の向こうにいると思えるほどに生々しいものだった。
 
 ――なんと幸せな夢。

 織江の頬に唇を寄せる。
 願わくば正夢であってほしいと思うだけで、胸が縛り上げられるほどの痛みを感じる。
「オリエ……」
 ふっと瞳を開けた織江の唇を吸う。
 何かを言わせる前に舌をねじ込んでいき、呼吸をすることを奪うほどに激しく絡ませていく。
 すると織江の身体が一気に覚醒したかのようにびくりと震えた。
 指で蜜をたたえた場所を愛撫していくと、織江は唇を半開きにして、艶めかしい声を出した。
 数本の指で探っていくと神秘に触れるようなところがあり、織江はすぐに達する。
 そんな喜ばしい反応に耐えきれなくなり、身体を繋げると、大きな悦びに包まれていく。
 至福の時であった。

 ――どうしたらいい。

 どうしたら、この幸せの朝をこの先も続けることができるのか。
 織江をここに住まわせ、破談に持って行く。
 元々身分差のある不自然な縁組である。
 隠しきれない裏工作の匂いに、そこをつつけば容易く弱みを握れ、破談にすることなど難なくできる。
 だが、肝心なのはその後のことである。
「………………」
 しっかりと日本での立場を得ぬかぎり、早々に行き止まりとなる。
 
 日本での役割――。

 商館長、ガーリア、他のオランダ人、宣教師、滞在中の外国人を頭に思い浮かべるが、協力するような者はひとりもいないと首を振る。
 ましてや、大伯父から手を回されれば容易に裏切ると予想できる輩ばかりであった。

 ――日本ではだめだ。

 頭をかきむしる。

 父と母に頼ってみたらどうか――。

 一番それが安全な気がした。
 夢が後押しする。 
 首を横に振る。

 いや、だめだ。 
 オリエが殺されてしまう。
 
 大伯父の指先一本で露と消えてしまうとわかる。八方塞がりに追い込まれ、守りきれないという状況が目に浮かぶ。ヨーロッパはどこも油断できない。
 
 ――アメリカ……。

 アメリカはどうか。
 ワシントンという良い政治家がいると訊いた。
 様々な移民を受け入れているという。
 そこに二人でいく。
 それならば大伯父とはいえ、関与できない。
 英国東インド会社の責任者に日本交易の橋渡しをすると言えば喜ぶはず。
 揺さぶりをかけて時間稼ぎをし、アメリカに渡る。
 
 オリエを密航させて……。

「マーク様?」
 はっとする。
「お苦しそうな顔をされているので、……あの……朝になってしまいました。寝過ごしてしまい……」
 織江が起きあがろうとする。
「……帰らなくては……」
「帰る?」
「え、ええ……」
「帰しませんよ」
「え」
「今、家に帰ったら、二度と会うことができなくなるでしょう」
「………………………」
「そして、何事もなかったように貴女は結婚させられる」
「何事もなかったなど!」
「貴女がそれを訴えたところでもみ消されるだけでしょう。貴女のお友達と同様に」
「けれど………」
「私は貴女を連れて行く」

 ――よいな。お前ひとりだけのことではないのだ。当方に属する者全てに関わってくることである。

「………………」
 織江に父の言葉が大きくのしかかる。
 すぐ言葉が出せなかった。
 後戻りできないことだとわかっていつつも、いざ現実となったら様々な人の顔が浮かんできてしまう。
 自分のしたことの大きさが途轍もないものなのだと恐怖心が宿っていた。
 覚悟を決めて臨んだことだったが、やはり恐ろしさがやってきた。
 思わずマークにしがみつく。
「オリエ……」
「マーク様……」
「二人で生きていける方法を見つけましょう」
 織江ががちがちと歯を鳴らすほどに震える。
 マークが力を込めて抱きしめ、背中を撫でる。
「かならずあります」
 織江は自らの身体に力を込めた。
 父上、母上、吾郎……。
 今頃どれほど心配していることだろうとその様子を思い浮かべ、悲しくなってくる。
 ぶるぶると震えが収まらなかった。
 マークがそんな織江の背中を軽く叩く。
 鼓動と連動したような間隔でゆっくりリズムを刻むように叩いていくと、震えが収まってくる。
「離しません」
 抱きしめる手に力を加えると、織江の震えが止まる。
「……はい。どこまでもお供いたします」 
 その道がいかに険しくとも。

 踏み出してしまった一歩だった。


 *****


 執事の小川は、涙ぐみながら朝食の準備をしていた。
 ようやく本懐を遂げた主人の喜びが手に取るようにわかるだけに、できるだけのことをしようと心に決めていた。
 朝食はコーンスープとサラダと卵焼き、牛肉の煮込み料理を用意する。   
 パンが香ばしく焼きあがると、すぐにでも配膳したくなり、そろそろお声をかけてもいい頃合いかと寝室の扉の近くまでいく。
 すると以心伝心のように呼び鈴を鳴らされた。
「はい。旦那様」
 扉を開けていいと言われるまでは扉の外で待つ。
「オガワ。食事の支度を頼む」
「承知いたしました。お湯殿の用意もできておりますのでどうぞ」
「わかった」
 流暢な日本語を話す大好きな主人の力強い声に心が弾んでいった。


 浴室に二人が入ってきた気配がして、薪を足す。
 すると、扉を開けた瞬間、感嘆の声を聴くことができて、ほくそ笑む。
 庭の薔薇の花弁を湯船に浮かばせていたのである。
 湯を流す音とともに楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
 その演出を喜んでもらえたと思い、胸をなで下ろした。
「Qui aime bien, chatie bien」
 荒い息づかいの主人の声に早く離れなければと慌てる。
「フランスの諺で、『愛しき者には厳しく』というものなのですが、実は、裏の意味もあって」
 しかし、ついその内容を聞きたくなってしまい、聞き耳を立てる。
「それは……、愛しき者ならば苛めてもいいと……、くっ……!」
 どのような状況でそれを言っているのかと想像したら、顔から火が出そうになり、慌ててその場を離れた。
 走り出して、厨房に急ぐ。
 そして、視界が揺れて立ち止まる。

 ……ようございましたな、旦那様。

 小川はこぼれる涙を拭った。
 
   

十六、

 二人がのぼせたような様子で食堂に現れると小川は神妙な顔をして給仕を務める。
 よく煮込んである牛肉は良い香りを部屋中に漂わせていた。
 二人は空腹の音を鳴らす。
 それをくすくすと笑いながら着席し、すぐ運ばれてきたポタージュを口に運んだ。
「旨い」
 マークが短く言うと、小川は頭を下げ、サラダを運んでくる。
 オムレットをきれいに焼き上げ、それを織江が口に含むと笑みがこぼれ、その様子をマークがにこにこと見ている。
 マークはずっと織江の顔を見ている。
 織江が恥ずかしそうにマークの顔を見る。
 二人が笑顔で見つめ合う中、小川は冷静を装いながら、煮込み料理を置いていった。

 オランダ商館の丁稚奉公から始まり、腕を上げてきた西洋料理だった。
 小川という名前を与えられてからは、ひたすら異人務めであるが、マークは初めて心からお仕えしたいと思える主人である。
 心を込めて作った献立だった。

「とてもおいしゅうございます」
 織江がにっこりと微笑みながらそう言った。
「ありがとうございます」
「オガワの作る料理は本当においしい」
「恐れ入ります」

 とても似合いの二人だと思った。
 今まで、異人のそばに侍る女たちは、どこか自分を切り離しているところがあるように見受けられ、楽しそうにしていながらも心は別のところにあるようだった。
 しかし、この二人は、二人でいることが実に自然に見え、ぴったりと符合した番のように思えた。

 ――おそらく、前世において二世の契りを交わされた仲に違いない。 
 
 そう思ったのである。

 和やかな朝食の風景だった。
 だが、
「小川殿」
 門番が玄関扉を叩きながら玄関先でそう声を張り上げた。
 三人はびくりとする。
「旦那様、失礼いたします」
 緊張しながら玄関に行くと、門番が焦った様子で早く告げようとしていた。
「ガーリア夫人が旦那様にお目通り願いたいと」
「え。約束などないはずだが」
「火急の用事にて、どうしてもと」
 小川は仕方なくそれを伝えにいく。

 二人は弾むような笑顔で食事をしていて、それを伝えづらかった。
「旦那様。ガーリア夫人がお急ぎのご用事で、どうしても取り次いでほしいとのことです」
「断ってくれ」
 にべもなくマークは答える。
「はい。かしこまりました」
 織江が固まったようになる。
「オリエ」
「はい……」

 小川が断りに行ったが、ユリアは門扉を握りしめ、どうして開けて欲しいといわんばかりだった。
「ここにオリエがいるの?」
「え」
「オリエを皆が探しているのです。とても大騒ぎになっていて。殿下が連れ去るところを見たと」
「そのような方はおいでではありません」
「ならば殿下にお伝えください。まもなく役人たちがここに来ると」
「役人が?」
「だから、もしオリエがいるのなら、私が引き受けますと」
 簡単なオランダ語を話してくれているが、正確に伝えられる自信がもてないと小川は思った。
「それならばなんとでも言い繕うことができます」
「あの」
「役人たちは屋敷に踏み込んでくるようです。お急ぎください!」
 小川は顔色を変える。
「申し訳ございません。主人に直接お話しください」
 門扉を開けた。
 ユリアが走って玄関にたどり着くなり叫ぶ。
「オリエ!」
 その声に織江が目を見開く。
「オリエ! いるのでしょう!」

 マークが小さく息を吐きながら、席を立つ。
「貴女はそこにいてください」
 織江が顔色を失いながら頷いた。
 扉の向こうに消えていくマークの背中は広く見えた。
「何事か」
 玄関に不機嫌そうに現れたマークにユリアは腰を低くする。
「無礼を承知で参りました。殿下。オリエがここにいると大騒ぎになっているのです」
「…………………」
「いるのでしょう?」
「誰もいない。無礼極まりないことだ」
「私ならばそれで引き下がります。けれども役人たちはそれでは納得しないでしょう。ここは日本なのです」
「勝手に屋敷中探せばいい」
「殿下。私のところならばどうとでも言い訳ができます。ひとまず預からせていただけませんか」
「誰もいないと言っています。お帰りください」
 ユリアが苛立ちを隠せない。
「殿下がオリエを連れて行くところを、複数の者が見ているのです! しらを切り通せるとお思いですか!」
「……………………」
「オリエは遊んでいい娘ではなかったのです! 大事にお預かりしていた娘なのです! 殿下!」

「遊んでなどいない!」

 マークがはっとして口に手をやる。
「殿下。どうか」
 マークがユリアを睨みつける。
 ユリアはその不愉快そうな表情を見て、すかさず膝を折り、頭を下げる。
 マークが拳を握る。

「下がれ」

 ユリアが絶望的な顔をし、その場で動けなくなるが、よろつきながら玄関扉に下がっていった。


 マークが踵を返して、食堂に向かう。
「オリエ」
 マークとオリエの会話はフランス語で何を言っているのか織江にはわからなかったが、自分の名前が度々出てきたことから、状況は想像できた。
「……はい」
「奉行所に行きます。一緒に行きましょう」
 織江の手を取る。
 そして、堂々と屋敷を出ていく。
 すると、逆に長崎奉行所の役人たちが待ちかまえている状態となった。
 その様子から、ユリアは単なる使いだったことが一目瞭然である。
 マークは苦笑した。

 ……案の定。誰も信用することなどできない。

 織江は恐怖で足が動かなくなる。
「待たれい」
「オリエ、気にすることはありません」
「蒔田屋の織江であるな」
「……………………」
「その方に、抜け荷関与の疑いあり。詮議いたすゆえ連れて参る」
「なんだと!」
「ベルナドット殿。拙者、長崎奉行支配組頭新田光造と申す」
 織江はただただ恐怖の中にいた。     
「市中が騒乱時をこれ幸いに狙い、何を企んでいたのか、この織江に聞かせてもらうとする」
「何の疑いがあるというのか!」
「蒔田屋はこの度晴れて苗字帯刀が許された武家格の家。そして鍋島藩分家筋の上村藩家老職の家との縁組あり。その婚儀を控えている身で、こなた様と通じる、その目的の裏にあるもの、誠に由々しきものなり」
「何の裏などない! 私がこの説明を奉行所でする。通してもらおうか!」
 マークが織江を後ろにかばうように立つ。
 新田はマークを凝視する。
 そして、わずかに口角を上げた。
 異人嫌いなのが隠せなかった。
 外国人を罪に問えないという悔しさを滲ませる。
「ふ。逆にこなた様から説明願うことなど何もない。相手にした娘を間違えたということだけだ」
 懐から書状を出す。
「すなわち、この詮議、上意である!」
 織江が真っ青な顔をする。
「取り調べ次第により蒔田屋の咎めが決まろう。織江、神妙に縄につけ」
「勘違いも甚だしい!」
「織江。参れ」
「オリエ、その必要はありません。馬鹿馬鹿しい。私がナガイ殿に話をつけます」
「奉行からのお達しである。上意であると重ねて申しておく」
「だから、私が話す!」
「その儀、不要にて。織江ひとりで十分である。織江。この上の強情は父と母にも同様の疑いがかかるぞ」
「………………」
 織江は濡れ衣と思いつつも、何か大変な事態になってしまった、してしまったのだと思った。
 縁組を破談させるだけには留まらないことだったのだと事の重大さを改めて知るのだった。
「わかりました」
 織江はマークの手を離す。
「オリエ!」
「マーク様。私は身の潔白を訴えます」
 何が起きているのかわからないながらも、自分が想像している以上の大きな罪を犯した、織江はそれだけはわかったと思った。 
「オリエ……」
「引っ立てい!」
「嘘だ……」
  
 ――アメリカに渡って、

「マーク様」

 ――小さな家に住み、

「オリエ」

 ――子供をたくさん作り、

「ありがとうございました」
 織江が丁寧に頭を下げる。

 ――父と母のように、

「オリエ……」

 ――抱き合うようにして暮らす。

 織江は手を後ろに回され、縄で縛り付けられる。
 ぽろりと涙をこぼす。
 駕籠が用意されていて、その中に押し込められた。
 人払いされていて、周囲に人は誰もいなかったが、出島を出れば晒されることになる。
 駕籠は粗末なものではなかった。
「これにて御免」 

 秋時雨の止まぬ日だった。 

十七、

 長崎奉行の永井直廉は声を出しながら大きく息を吐く。
 いきり立って報告を終えた者が部屋を出て歩いていく音とともに。

「……新田の奴め。事を大きくしてくれやがって」

 旗本の永井はつい江戸言葉を吐いた。
 新田は大の異人嫌いで今回の件に当たらせた人選に誤りがあったと気づいたが後の祭りだった。

 長崎奉行の任期は二年で、問題なく過ごして役目を終えれば江戸に帰ることができ、長崎奉行は出世の道としては恵まれたもので在任中にけちが付かぬよう願いたいものだった。
 今回の地震で出火した場所の復旧に尽力しなければいけないところに、事を荒立てられて報告された内容は面倒なことだった。

「それにしても厄介よのう……」

 上村藩に借りを作るということは肥前藩に借りを作ることに等しく、幕府としては外様大名に頭を下げるような事態は避けなければならない。
 しかも無理な要求を通した本陣の娘というのが何とも頭の痛いところだった。

「まったく……」

 永井は苛つきながら織江のいる座敷に向かう。
 織江は垂らし髪にして縄で拘束され頭を下げていた。
 その様子を不憫に思った。

「縄を解いてやりなさい」

「しかし、お奉行」
「随分と新田にしごかれたらしい。奇妙な詮議を受けたのだろう。気の毒に。そして皆は下がってよい。二人だけで話をするゆえ。記録も取らんでよろしい」
 織江は魂が抜けたような表情をしていた。
 配下の者が織江の縄を解くと、織江は両手を前につき、頭をこすりつけんがばかりに土下座をする。
「どうか! 罰するなら私だけにしてくださいませ! どうかお救いください! お頼み申します! 私は国に関わる大事について何も見ておりませんし、聞いておりません。何か受け取ったこともなければ渡したこともありません。誠でございます!」
 織江が声を張り上げる。
 お頼み申します、お頼み申しますと、声を嗄らして言う。
 永井が長く息を吐く。
 
 ――この娘にどんな咎があろう。

「面を上げよ」
 織江が涙で腫れ上がった瞼を擦ったのち前をしっかり見る。
「商人や船乗り風情であったならばこれほど大ごとにはされなかったのだ。そなたが勾引しに遭ったとすれば済むことでな」
 織江は意味がわからぬような顔をする。
「阿芙蓉(アヘン)というのを知っているか。芥子の実からできるものでな。実にそれが危険なものなのだ」
 永井が小さく溜息をつく。
「中毒になり、廃人にされるという麻薬だ」
 織江が自分とは関係ない話になっていき、茫然とする。
「最初はその抜け荷ではないかなどと疑ったわ。ははは。まったく疑り深くなったもんだ」
 永井が楽しそうに笑うので、織江は少しほっとする。
 すると表情を変え、織江をじっと見る。
「ベルナドット公は言わば国賓と同じなのだ。さる御方のご名代でな」
 織江が混乱したような顔をする。
「ご上洛の為に来日されたのだ。清国に内密ということで派手にはしなかったが。そして長崎で暫くご遊学されるとの事で、我らも気を使っていた。此の度は新田が随分と無礼を働いたようだが」
 いきなりの話に織江は唖然とする。
「そなたらが神社で密会していたことはわしの配下の者が見ておった。最初は抜け荷を疑ったが、そういうことでない、どうやら恋仲らしいと、しかも清い関係であるということで見逃していたのだ。それくらいのことは目を瞑るつもりでな」
 織江が信じられないと言った顔をした。
「西洋の国が今後この日本において何をするつもりなのかそれを探るためにもベルナドット公のご滞在は意味深いものだった。江戸に赴くことも勧めたが、その役目は仰せつかっていないとのことで断られてな……。上様は大層ご立腹でその取り成しに苦労したわ」
「そ…んな…」
 天皇への謁見に来ていたなど、将軍自らのお声掛かりを断ることができるなどそれほど高い身分とは想像もしていなかった。
 雲の上の存在である。
「………………」
 神社の事を報告されていたなどと恥ずかしくなる。
 そして気付く。
 いつのまにか夕方の神社には人が来なくなっていた。

 ———人払いされていた……。

「このままでは羽村殿の面目が立たんでな…。周りがよくても本人としては心中穏やかではあるまい。婿に行こうとしていた相手だ。異人の家で見つかったと知り、無事に済んでいるはずがない、だが、その相手は太刀打ちできぬやんごとなき御方だ」
「私が悪いのでございます! どうかお手討ちにしてください!」
 額を擦りつける。
「そなたは知らんだろうが、ガーリア夫人がベルナドット公の屋敷にいるはずがない、どこかで動けなくなっているに違いないと厳しい口調で申されるから後回しにしたのだ。だが、地震の時にそなたらを見た者が大勢おって、やはり屋敷におるのだろうと言ったところガーリア夫人が見てくると言い出して…それで押しかけたのだ」
 織江はその頃自分がしていたことを思い浮かべ、気が遠くなる。
「蒔田の父と母もそなたが心配だったのだ。事を大きくしてしまって今頃恐縮しておるだろう。それはわかってやれ」
 マークと過ごした時が遥か彼方に押しやられていく気がした。
「そなたを手討ちにしたりしたら、そのような皆の思いが救われぬとは思わんか」
 何もかも誤りだったのだと言われている気がした。
「そこでわしとしても沙汰をせねばならん。双方うまく収めんとな」
 織江が唇を噛む。
「ベルナドット公とそなたは何もなかった。そうすることとしよう。だが、納得せぬであろう羽村殿には公儀を通じて家の格があがるような縁談を世話し、今回のことは全て綺麗に水に流してもらう。その上、上村藩を黙らせるだけのなにがしをする。その差配くらいは今のわしにでもできるであろう。それで収まらんところが一か所あるが、それはそなたには関係ないことだ」
「…………………」
「そなたは二晩ほど穴に落ちてそれを助けられた。これを親戚一同、近所に押し通す」
 織江が永井を驚いたようにじっと見る。
「だからそなたは一切あのお方の話をするでない。無関係であることを貫け。異人のところで過ごしていたなどと噂が広まれば、そなただけでなく蒔田屋の両親はそれだけで生きていけまい。宿も続けられなくなる。理由はわかるな」
「…………誠にそれで済むのですか…」
「わしがそうすると言っているのだ。案ずることはない」
 長崎奉行は遠国奉行の中では首座の地位にあり、幕府の中の要職である。
 織江は腕をがくがくと震えさせながら手をついていた。
 永井が織江を見据える。

 ――これからこの娘にどれほどの苦悩が待っているのか。

 扇子を広げる。
「…不思議な御方での」
 小さく笑うと、織江がはっとして見る。
「あれほど日本語が達者な異人は初めて見た」
 織江が目を見開く。
「囲碁がめっぽう強く、わしなど足元にも及ばん。茶もなかなかよく味わう。西洋の人ながら風流を身につけておる。なにゆえそれほど巧みに日本語が話せるのか、文化を理解しておるのか訊いてみたところ、幼き頃より勉強していたそうだ。異国で日本語を話せる者がおることにもわしは驚いたが」
 扇子をひらひらと扇ぐ。
 織江が見開いた瞳に涙を浮かべる。
「なかなかの御仁だ。見識高く、弓矢も奉行所の者は誰も敵わずに、皆は悔しがっておった」
 頬に涙が伝っていく。
「子供の頃に見た菩薩像に惹かれて、日本に来たいとずっと思っておったそうだ」
 永井が小さく溜息をつく。
「あの御方が背負っているものなど、想像することもできぬが」
 織江は嗚咽がこぼれそうになり必死に口を押さえる。

「そなたが観音様だったに違いない」

 堰を切ったように泣き出す。

「これでこの件は仕舞いとする」

 永井も目頭が熱くなり、足早に去っていった。

十八、

「と、まあ、こういう次第でございまして、この話はなかった事に」
 永井が深々と頭を下げる。
 その相手は、肥前藩家老石井清高である。
 口をあんぐりと開けている。
「…なかったことに…って、何ですと! お待ちくだされ!」
 永井がいかにも面倒くさそうな表情をすると、石井はいきり立つ。
「あの本陣の格をあげるのを了承されたではないか。これはご公儀が認められたこと。なにゆえそれを覆されるのだ? 蒔田屋の娘とベルナドット公とは何もなかったのであろう? ならば羽村とそのまま婚儀をさせればよかろう!」
 永井が呆れたように息を吐く。
「……奉行所でこの次第を知らぬ者はおらん。何もないわけがなかろう。あの二人は恋仲ぞ」
 くすりと笑う。
「惚れあった者同士がひとつ屋根の下でおったら、何があったか涸れたおぬしでもわかるであろう。とうに羽村殿の耳に入っておるわ」
 石井は顔を赤くする。
「涸れたなどと失敬な。まだまだ現役でござる。おぬしこそとうに…。こほん。だが、大公殿はもう帰国されるのであろう? 良いではないか。一晩過ごした位」
「それを羽村殿に言ってやるがいい。藩の為に異人の女を娶れと」
 石井が苦虫を潰したような顔をする。
「異人の女と言えば世間的には女郎も同じだ。これから長崎で生きていく上で、奉行所の者たちと繋がりを密にしていく羽村殿が果してそれに耐えられるかな。おぬしにできるか」
 自分の糟糠の妻の顔を思い浮かべた。
 それが異人に手籠めにされている姿を妄想し、首をぶんぶんと横に振る。
「……無理からぬことだ。よってこの件は諦めてもらいたい」
 石井が泣きそうな顔をする。
 相手が相手だけにどうにもできない。

 鍋島家が藩主であるため鍋島藩とも呼ばれる肥前藩は、長崎の警護を引き受け、その費用を負担しており、藩の財政はそれだけで逼迫していた。
 交易の利益は幕府のものであり、藩は費用を負担するだけで旨味はなく、ゆえに、あの手この手を使い、何とか策を講じてきた。
 蒔田本陣に藩士を送るのもその段取りを踏ませるためであった。
 店では堂々と抜け荷をさせることは難しく、本陣であれば密かに会合をしてその場での受け渡しも容易にできる。
 奉行所も見て見ぬふりをするには都合のよいことであった。
 外様大名を気分良くさせておくのも長崎奉行の大事な役目のひとつである。
 大事な天領を外様に取られては幕府の蔵の入りに大きく左右する。

「……羽村のことは相分かった。その代わり、他の策はお持ちなのでしょうな……?」
 石井が困った顔をしたが、
「ありません」
 永井がすかさずそう言うと石井がひいと悲鳴をあげたそうな顔をする。
「……殿に、何と説明……」
「丹後守様には働いていただくことをお願いしたいのです」
「働く?」
 ぽかんとした石井の様子に永井がにやりと笑った。


 *****
 

 永井が佐賀城より帰宅するとマークが長崎奉行所の立山役所前で立っていた。
 そこは、長崎奉行の公邸および政務を行う場所である。
 出島の近くにある西役所は交易を管理する部署で、永井はおおむね立山役所で過ごしていた。

 馬から降りると蒼白な顔で近づいてくる。
 外を警護している役人が困った顔をしていた。
 永井は苦笑して供の者に馬を渡しながらマークの肩を叩く。
「ああ、もう、この世の終わりのような顔をしてくださるな。話はきちんとつけてきたゆえ」
 マークが力なく頭を下げる。
「まったく…貴公がそこでうろうろしていたら皆が困ります。茶室に行きましょうか」
 永井がにっこりと笑う。
「はい」
 その絞り出すような声に、はははは、と豪快に笑った。

 ***

「貴公の国ではどうかわかりませんが、この国では本音と建前というのが往々にしてありましてな」
 点てた茶を置きながら永井が言うと、マークは作法通りにそれを受け取り、口に運ぶ。
「本音と建前…」
「左様。心では喉から手が出るほど欲しいと思っても欲しいと言わない」
「なにゆえですか」
「やせ我慢している事を知られたくない、見られたくないからです」
 マークがいまひとつ飲みこめない様子をする。
「実のところ、それでこの国は成り立っているのです。日本全国やせ我慢大会ですわ」
「やせ我慢……ですか」
「左様。そして、それが日本の民だと言っても過言ではありません。我慢していてつらいがそれを見せない。自分は我慢などしていないのだと見せたいのです」
 その話の裏を見ようとマークが訝し気な顔をする。
「私に何をしろと」
「ふ……。まったく貴公は聡明ですな」
 永井が口で笑ったが目は笑っていなかった。
 マークはそれをサムライの笑いだと思っていた。
 永井とは毎日のように何がしかをして接していて、優しげな瞳の中に燃えるものを見ていた。
 年齢は三十歳の自分よりかなり年長だと思えたが、聞けば四十歳と知り、存外離れていないことに驚いていた。
「肥前藩主鍋島様と共に江戸に行っていただきたいのです」
「…………………」
「将軍謁見を果していただきたい」
 マークが首を横に振る。
「いいえ。トクガワ公との接触は禁じられている。無理です」
「何も取り決めなどしていただく必要はありません」
 マークが永井をじっと見る。
「ナベシマ公が私を連れていくことに意義があるのですか。本音と建前の解決に?」
 永井が含み笑いをする。
 そして、茶碗に視線を落とした。
「今日の味はいかがでしたかな」
 マークは、いつもながらの永井の話の誘導方法に苦笑し、頭を下げる。
 のらりくらりと質問され、核心に迫るところで話題を変える。
 巧みな交渉術で、それはそれで勉強になると思っていた。
「大変結構でございました」
 永井が満足したような顔をする。
「貴公があの仏像をろくに交渉もせずに買った理由がわかりました」
 ふふふと笑うと、マークは赤面しながら横を向く。
「似てらっしゃいますな」
 首まで真っ赤になる。
「西洋にはおなごがおらんのですかな?」
 そう言いつつころころと笑うとマークもそれにつられて小さく笑う。
「……ええ。いません」
「はははは。左様ですか。それではさぞかし美しいものに見えたでしょうなあ」
「え」
「ははははは」
 マークは永井の優しさが心に沁みていた。のろ気させようとしているのだった。
「はい。この世のものとは思えませんでした」
 夜会でユリアに紹介されてガチガチに緊張して顔を強張らせている様子と、中庭をふらふらと歩いてくる織江の姿を思い浮かべてつい顔を綻ばせる。
「月のない夜で……月の女神の化身が目の前に現れたと……神秘とはこういうことかと」
 遠いところを見るような目をする。
 織江と出会った日がもう何年も昔のことのような気がした。

 ――オガワ。気の進まない催しだと思ったが、行ってよかったよ。

 ――それはようございました。あれほど行きたくないとおっしゃっていたので。

 ――ブーシェの絵を所持しているから是非見に来てくれという誘いに応じたら次はガーリアの誕生会などとふざけた招待に腹立たしくて、いっそ彼の妻を誘惑してやろうと思っていたよ。全く無礼極まりない。ガーリアは成金のいやらしい見本のような男だ。

 ――なんと…それはガーリア様もお誘いしてさぞかし後悔されたことでしょう。

 ――いや。それはやめたよ。それよりオガワ…私は…アルテミスに遭ったんだ…。

 ――アルテミス様…ですか?

 永井が照れたような顔をする。
「……それはまさしく菩薩様でしたな」
 マークが微笑む。
 その出会いで全てが変わってしまったのだった。

 ――オガワ。帰国を遅らせる為の見え透いた言い訳と接待尽くめの毎日にうんざりしていたけれど、いい。私はしばらく日本にいることを決めた。これからも世話を頼むよ。

 ――はい。心よりお尽くし申し上げます。どうぞ何なりとお申し付けください。旦那様におかれましては最近随分と楽しそうなご様子、何か良い事がありましたか。

「不思議なものですな」
 マークが表情を落とす。
 苦しいばかりの恋心だったと思い返すと、永井にそれが伝わっていく。

 ――旦那様。私は心配でございます。毎晩どこに行かれているのですか。前は夕食の前に帰っていらしたのでお聞きしませんでしたが。このところこんな遅くまで…。護衛の方も途中で止められると。

 ――かぐや姫に会いにいっているのさ…。まもなく月に帰ってしまう…。そして、なかなか姿を現してくれないから私が待つしかないのだよ。でも…今晩も会えなくて…。

 ――もしや……その方は人の妻なのですか。不義密通は重罪でございます。

 ――いや。これから嫁ぐ人で。もはや断ることができないらしい。

 ――これから? まさかガーリア様のところにお通いのお嬢様の。

 ――オガワ…。私は苦しくて……つらくて…………いっそ死んでしまいたいよ。

「お互いそれほどに惚れあって、そのような相手に巡り合えたことだけでも幸せというものでしょう」
 永井が溜息を吐く。
「私は仕事ばかりでろくに女とは遊ばずに来ました。女房はずっと江戸住まいで私は江戸で一年ほどいればまた遠国の職に任ぜられて、日本全国を行ったり来たり」
「そうでしたか……。奥方と離ればなれとはおつらいですね」

 ――旦那様。その日を迎える前にお国にお帰りになったほうが…。

「いや…それほどに恋女房というわけではなくてね…。家同士の繋がりの縁にて」
「左様でしたか」
「だから皆、狡くも他に女を求めていくわけです。しかし、私は惚れたおなごもなくここまで来てしまいました。真面目と言われるが、それで満足かと問われれば、命懸けで惚れ合う女がいたほうがよほど実りある人生だったんじゃないかと正直思う時があります」
「…………………………」
「別れはつらくともその出会いというのは自分を支えてくれるってもんじゃないですかね」
 感情が入ってくると江戸言葉になってくる。
「………お心遣い、かたじけなく思います」
 マークは永井が何を言いたいのかわかり唇を噛む。

 ――オガワ……。その方がいいのだろうか。なあ、オガワ。私達が結ばれる道は全くないのだろうか。やはり別れるしかないのだろうか。

「貴公は弓の扱いが達者でいらっしゃる」
 マークは涙があがってきそうだったところ他の話題になり、ほっとする。
「あ、ええ。好きですので」
「バイオリン。私にもお聴かせ願えますかな」
「……ああ。そちらのほうの弓…」
「実はこっそり神社に聴きに行こうと思っていたのです」
 マークが口を押える。
「申し訳ありませんが、逐一報告を受けていました」
 驚きを隠せなかった。
「……左様でしたか……まったく気づきませんでした……何の気配もなく……」
「忍びはなかなか技術を持っておりましてな。神社の木と同化することもできます。だからどこにいるかわかりません。この屋敷の中でも」
 ぞっとする。
 そんな諜報員は訊いたことがないと思った。
「その者が言ったのです。あれほど美しい音は聴いたことがないと」
 恐縮する。
「是非、長崎の皆に聴いてもらいたいと思っております。演奏会を開きませんか」
 日本に来てからは織江の為だけに弾いていたバイオリンだった。
 苦しい燃え滾る思いを封じ込めるかのように弾いていた。

 ――オガワ。……諦めるよ。明日きちんとお別れしてくる。幸せを祈らなければ……。

 ――左様でございましたか。よくご決心遊ばしました。

 ――ヴァイオリン……。今晩は君が聴いてくれるか。

 ――はい。私でよろしければ喜んで。

「長崎の町民すべてを集める場所などありませんが……、はて、どこでできますかな」
 小川との会話が浮かんできてぼうっとしたマークがはっとする。
「演奏会ですか……。ならば…天主堂がいいでしょう」
 永井が納得したような顔をする。
「では、奉行所主催でそれを取り仕切りましょう。町にはその触れを出しておきます。誰でも来られるように」
 誰でも、というところで永井は音を強めた。
 マークはその意味に触れ、拳を握る。
「…………………………………」
「そしてその後、江戸に行き、そのままお国にお帰り下さい」
 マークが目を見開いたままになる。
「それから、残念ながら、どれほど金銀を積まれても織江殿出国の申し出を御請けすることはできません」
 何も言わせぬよう重ねて話す。
「しばらく蒔田屋の周辺は見張らせていただきますので、努々、密航など図られませんよう。その時は織江殿の命の保証はできぬと申しておきます。そして、江戸行きご了承ということで、今回の件、解決とさせていただきます」
 永井は心を鬼にしてきっぱりそう言うとマークが肩を震わす。
 返事はできなかった。
 畢竟、別れを免れえないと結論を突きつけられれば、やはりやすやすとは受け止められない。
「………………………」

 ――せめて別れの言葉くらい……。

 その言葉を飲み込み、唇を噛む。
「…………わかりました……」
 俯いたら、ぽたぽたと涙が畳に落ちた。

十九、

 織江は衰弱した身体を癒すという名目で数日奉行所に留め置かれた。
 奉行所の役人に送り届けられるという異例の「お目付け役」が付きながらの帰宅に、マークを近づけさせないということを暗に伝えていて、そんなことにすら傷つく。
 織江の姿が見えると、使用人、奉公人が飛び出してきた。
「お嬢様!」
 吾郎がげっそりとやせ細った姿で迎えた。
 吾郎は織江がガーリア邸にいなかったことから、マークのところに行ったと想像がついたが、それを言わずにいて、しらを切ったことで、左衛門を激怒させた。
 あやうく追い出されるところ、かろうじて奈津が押さえていた。
 折檻されたが、自分の身がどうなろうとも織江の気持ちを第一に考えていた。
「吾郎……」
「あのとき、出島に置いてきてしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
 地面に額をつける。
「こちらこそ、もたもたとしていて心配かけましたね」
 吾郎が置いていってくれなかったら、あの逢瀬はなかったと思うと感謝したいくらいだった。
「吾郎。顔を上げて」
 吾郎が涙を浮かべた瞳を向ける。
「ご無事で! とにかくご無事で何よりです!」
 目の窪んだ吾郎を見て、織江は地面に膝をつける。
「ありがとう」

 ……とても幸せだったのよ。吾郎のおかげよ。

「…………………」
 そう言う織江の顔は神社から帰る時の顔だと思った。
 もうあと少し。
 いましばらく。
 その思いが痛いほどに伝わってくる表情。

 あの時――。

 吾郎は、抱き合う二人を見て、その時を少しでも長く留めて差し上げたいと思ってしまったのだった。
 しかし、これほど大事になるとは想像もしていなく、どう言い訳をしても自分の判断の誤りであり、織江を危険な目に遭わせてしまったことになり、後悔することしきりであった。
「とても感謝しているわ」
 織江が小声で言う。
 儚げな微笑みを浮かべてそう言うと吾郎は切なさのあまり再び顔を伏せて肩を震わせる。
「お嬢様がご無事でよかった……」
「ええ。吾郎。ありがとう」
 皆が泣いて喜んでいた。
 よかった、よかった、と言いながら。

「織江様!」
 華子の声がして振り返るとガーリア塾の学友たちが駆けつけてきた。
「ああ、華子様、頼子様、定子様・・・」
「良かったわ。ああ、行方しれずになったと伺ったときは気が遠くなりましたのよ」
 華子が心底心配した様子で言う。
 織江はその華子の顔をじっと見る。
 そういう視線を向けると華子は嘘がつけなくなり、次の瞬間には本当に言いたいことを喋り出す。しかし、華子は様子を変えなかった。
「私たちは先生のところで揺れを感じましたのよ。それでしばらくしてから家に帰りましたの」
 華子の演技ができないところに、安心してつきあっていける気楽さがあり、好きなところでもある。
「そうでしたか」
 息苦しさに襲われる。
「まさかその道中で織江様が動けなくなっていたなんて思いませんでした。気づかずにいてごめんなさい」
 定子も頼子も申し訳なさそうな顔をした。
 居たたまれなくなる。
「とんでもないことにございます。ご心配おかけして申し訳ありません。皆様にはお変わりなくてよろしかったわ」
 嘘をつくということは息苦しいものだと思った。
「華子様はお変わりでしたのよ。もう泣いて大変でしたの」
 頼子が言う。
「頼子様! それは余計なことですわ!」
 華子が赤くなって声をあらげた。
 定子がくすくすと笑う。
「誠でございましたわね。織江様に何かあったら卒倒しそうな勢いでしたわね」
 それにつられて、頼子が笑う。
「左様ですわ」
 すると、吾郎もくすりとして、奉公人たちも微笑みを浮かべる。
「ま、お二人ともひどいわ」
 そう言いつつ華子も笑い出す。
 織江もつい失笑してしまった。
 華子がますます顔を赤くする。
「とにかく無事でよろしかったということですわ!」
 ぷいっと横を向いた。 
「ありがとうございます」
 織江は深々と頭を下げる。
 なんと有り難いことかと思った。
 自分はどれほど多くの人に守られていたのかと見せつけられているような気がした。
 自分ひとりが覚悟をすれば良いような不遜な気持ちが、いかに独善的なものであるか、教えられているようであった。

 人と人の繋がり――。

 時として、欲するものとは違う方向に進まなければならないという状況において、人はそれを断ち切る時に深く傷つく。
 しかし、必ずその時には、差し伸べられる手がある。
 それを得て、人生の中での生きる道を見つけていくことができる。
 どう折り合いをつけていくべきかを模索し、人生の厳しさに立ち向かっていく強さを身につける。

 織江は、折れそうだった心が、包まれたような気がした。
 ほろりと涙をこぼす。

「誠にありがとうございます」

 髪が下りたままの頭を下げ続けていると、華子がくしゃりとした表情をした。
「……いいのよ。では、織江様。ゆっくり養生なさって。またお見舞いに参りますわ」
「はい」
「では、参りましょう。織江様、ごきげんよう」 頼子と定子がごきげんようと言って、お辞儀をする。
「ええ。ごきげんよう」  
 和やかな雰囲気に包まれ、三人を見送ったのち、織江は家屋の中に向かう。
 すると、そんな様子を冷ややかに見ていた左衛門が仁王立ちになって待っていた。

 *****

「そこに座りなさい」
 織江は左衛門の書斎に呼ばれた。
 今まで見たことのない険しい父の表情に固唾をのむ。
 畳につと指を伸ばし、額を載せる。
 微動だにせずひたすら平伏していた。
 しばらくそうして時が経つ。
 左衛門はなかなか口を開かなかった。
 そして身体中の力を抜くような溜息を吐いた。
「お前とすれ違いで羽村家からの使いが帰ったところだ」
「……………………」
「奈津はその心労の為、寝込んでおる」
 織江はそれを聞いて思わず顔をあげる。
「少しは心が痛むか?」
「……………………」
 鋭い眼光を放つ。
「俺の顔に泥を塗るような真似をして」
 腰を浮かす。
 織江は叩かれることを覚悟して目を瞑る。
「それでも!」
 片膝をつく。
「それでも! お前は俺の娘か!」
 怒号が振動していく。
 織江は再び額を畳につける。
「表向きは、」
 声が震えていた。
「我が方の格をあげるよう努力したが、それが叶わなかったと」
 拳を握る。
「よって、誠に勝手乍、この縁組はなかったことにしてほしいと」
 悔しそうな表情である。
「ご家老羽村様よりの文である」
 その書状を織江に向かって広げる。
「……………………」
 書状の端が織江の指に重なり、織江は、事の重大さがひしひしとそこから伝わってくるような気がした。その旨を永井から聞いていたとはいえ、改めて父に聞かされることは重みが違っていた。
「……左様……でございましたか……」
 そう言った瞬間、文机を叩き割るような音がする。
 織江は頬を叩かれたような錯覚を得て、ぎゅっと目を瞑った。
「左様だと? 何様のつもりだ!」
 憤怒の形相となる。
 ぷるぷると拳を震わせた。
 そして、悔しげな表情を浮かべた。
 しかしそれは、恥をかかされた怒りということではなく、悲哀の表情であった。
「貞晴殿は信じなかったそうだ」
「……………………」
「破談にしないでくれと訴えられたそうだ」
「……それは……」
「それでもいいと、どんな噂も関係ないと」
「……………………」
 噂という言葉に傷ついた。
 本人たちがどれほど真剣でも、一歩外に出れば、悪意が取り巻く。
 左衛門がふうと長く息を吐く。
「貞晴殿はな」
 遠くを見る。
「お前を見初めていたのだ」
「え……」
「以前、うちの警護をした折りにな。お前を見たらしい」
 織江としては、そのようなことを告げられても返答に困る。自分としては記憶のないことであった。
「お前は知らぬだろうが、この縁談は貞晴殿がお前と夫婦になる為に策したことだった」
「そ……」
「どこにでも旨味のある話にはなったが、ずいぶんと手を尽くしたらしい。そうでなければこのような縁組には至らぬことはお前とてわかるであろう」
 その話に、急激に羽村貞晴という人物の人柄が浮かび、近しい人のように思えてくる。
「……左様でございましたか」
 だが、初めて聞かされたことにどのように受け答えをすることが正解なのか全く思いつかない。
 うなだれるほかない。
「お前は自ら不幸への道を進んだのだ」
 ぐさりと胸を突かれたようだった。
「お前を娘と思わぬ」
「……………………」
 哀しいと思った。
 ひたすら悲しいと思った。
 慈しんでくれた父にこのような言葉を言わせてしまっていることがただ悲しいと。
 それほどまでに自分がしたことが皆を不幸にすることだとは考えつかなかった。
 自分の思いを守ることに必死だった。
「……ご迷惑をおかけいたしました」
 それしか言葉が思い浮かばなかった。
 左衛門が苦々しい顔をする。
「こそこそと逢い引きなどしよって!」
「!」
「結局、お前は捨てられるだけではないか!」
 何も反論できない。
「なにゆえ何もかも壊すようなことをしたのだ!」
 怒りを吐き出すように言う。
「この大馬鹿者!」
 声を荒げる。
「皆がお前の幸せを考えていたのに!」
「……………………」
「貞晴殿ならきっとお前を幸せにした!」
「……お心有り難く……」
「異人などに騙されよって!」
「違います!」
 織江は咄嗟にそう口に出してはっと押さえる。
「騙されてなどおりません……」
 しかし、何と言えばいいのか思いつかない。
 とにかく、自分が悪く言われる分にはいいが、マークを悪く言われるのは耐え難かった。
「違うのです」
 涙がぽろぽろとこぼれていく。
「何が違う!」
「誠に違うのです」
 マークの顔が浮かび、会いたくなる。
「私は、私は……」
 左衛門がふいと右を向く。
「いずれにしても一緒になれるわけでなかろう」
「……申し訳ございません」
 織江はひっくひっくと子供のように泣き出す。「お父様。ごめんなさい」
 そう謝る織江の姿に、幼き頃の織江が重なった。
 客商売としての作法を厳しく仕込んできた。
 蝶よ花よと育ててしまったら、商売に入っていけないからだ。
 子供ながらも粗相をすれば叱りつけ、その都度そうやって泣いて謝っていた。
 今泣いている織江は、そんな子供の時の顔だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 左衛門は言葉に詰まる。
 決して甘やかしてはいけないと常々心を鬼にしてきた。
 唇を噛む。
「……愚か者……が……」
 もうよい、自分の部屋に行きなさいと言った。
      

二十、

 鹿威しの音が闇を切り裂いていくように聞こえる。
 夜の帳が降り、漆黒に包まれるとその音は鋭さを増す。
 風が吹き抜けていく音。
 野犬の遠吠え。
 それらを調和させ、水音を従えて、冷気の中を彷徨うように木霊していく。
 刻まれる音は安心感を得られるほどに心地よく、まもなく止むその後には、人々の息遣いが聞こえるほどの静寂が待っている。
 闇が深くなる。
 音が消えていく。
 すべてを眠りにいざなうかのように。

 そんな静かな夜、織江は来ぬ眠りに溜息を吐いていた。
 毎日、東雲にようやくうつらうつらとする程度で、到底寝ているとは言えぬものである。
 布団の上で正座し、長い夜が過ぎるのを待つ。すると、
 
 音が伝わってくる。

 しじまの中、マークが奏でるバイオリンの音色が聞こえてくるのだ。

 ――眠ってください。
 
 そんな思いとともに。
 G線で奏でられる優しい調べ。
 戯(あじゃら)、幻聴などではなく、空気が伝わってくるかのように、思いが届いてくるのだった。
 座した身を包んでいく。
 マークの気配が取り巻いていく。

 ……わかります。私を呼んでいらっしゃるのでしょう。

 共にいれば感じる互いの気。
 他の誰にも感じることのない気。
 目には見えぬものながら確かにある不可思議な気。
 連帯感。
 安心感。
 幸福感――。

 ……貴方様も眠れませんか……。

 過ごした夜のひとつひとつを思い出し、触れ合うことの喜びを身体と心に刻んでいく。
 頬に優しく触れる指。
 細くて長い指。
 
 ……お慕い申しております。

 一番鶏の声を聴く。

 ……また、一日が始まります。

 拳で心の臓を押さえる。
 締め付けられすぎて苦しいのだった。
 思わず両腕を伸ばす。
 すると包まれる気配が濃くなる。
 抱きしめられているような。
 息を止めるほどにきつく。

 ……マーク様。

 そして、背中を撫でられているような錯覚を得て、意識が遠くなっていった。

 
 *****


「ご機嫌良う、織江様」
 まもなく祝言という華子はほぼ毎日のように織江の家に寄っていた。
 共に食べたい甘味を持参して。
「今日は町中大騒ぎですのよ」
 華子は頬を紅潮させて興奮した様子で言った。
 一歩も家から出ることのできない織江にとって、ガーリア塾の話や町中であったことを聞くのが楽しみになっていた。
 華子を落ち着かせなくなる出来事に興味を持つ。
「何がありましたの?」
「実は」
 勿体ぶったような言い方をしながら、木箱から出したカステラを取り分ける。
「マーク様が演奏会をされることになりましたの」
「!」
 織江はカステラを取ろうとしたが、上手く指が動かなかった。
「そ、そう……」
「ユリア先生は一言もそんなことをおっしゃっていなかったので、帰りに張り出された触れを見て、みんなで驚きましたの」
「そうでしたか」
「そうしたら大勢の人集りになりまして、私たちはキャフェに逃げましたのよ」
 織江はその時の皆の様子を思い浮かべくすりと笑う。
「頼子様が一番はしゃいでいましたの」
 貴子が嫁ぎ、滋子が江戸に行き、華子が嫁ぐとなると、ガーリア塾も生徒が少なくなり、皆は寂しさの中にいた。
 次は男子用のクラスを作るとのことで、女子はそのまま生徒を増やさないとしていた。
「織江様もいらっしゃるかしらって、皆、そのことばかり言っていましたわ」
 皆に会いたいと思った。
「行けるかしら……」
 毎夜眠れないことから起きあがるのも難しい状況である。
「マーク様のバイオリンを聴けば元気が出ますわ」
「…………………」
 華子の瞳をじっと見る。
 真相を知っているのかどうなのか訊くに訊けず、おそらく同じように華子としても真実を訊くことができないのだろうと思った。
 もしかしたら、この苦しい恋について、華子に打ち明けていればもっと楽だったのかもしれないと思いつつも、何事もあの時にこうしていればと思ったところで何も先には進めないもので、後悔先に立たずということを痛感していた。
 華子がにっこりと微笑む。
「それでね」
「ええ」
「私たち、皆、ドレスを着ていくことにいたしましたの」
「え?」
「南山手町の天主堂で行うのですって。だから、洋装がよろしいのではないかしらって。ねえ、素敵でしょう?」
「天主堂で……」
「ですから、織江様もそうなさって」
「……………………」
「まだ十日以上ありますわ。それまでに元気におなりになって」
「ええ……」
 しかし、行かせてもらえるとは到底思えなかった。
 父も母もまったく口を利いてくれなくなり、家の中では一人浮いているような状態だった。
 吾郎でさえ、腫れ物に触るように接し、針のむしろにいるような毎日である。
 俯いてしまう。
 華子はそんな憔悴した織江を見て小さく溜息を吐く。
 いかにも病は気からという様子の織江が心配でたまらなかった。
 嫁いでしまえば自由などなくなり、外出もままならなくなる。
 残り僅かな娘時代を織江のために使いたいと思っていた。
 マークと何かがあったかどうかなどどうでもよく、とにかく元気になってほしかった。そして、

「是非、おいでになって」

 この誘いは正しいことだと確信していた。



 *****



 その触れが出てからは、市中は急に騒がしくなった。そのことが外に漏れぬよう、長崎への入りを止めていた。
 天主堂で催しを行うことなどが江戸に知れたら大事で、演奏会は、長崎の市民、出島のオランダ人、それらに向けたものとなった。
 
 蒔田屋でもその触れについて毎日話題となっており、異人の音楽がどういうものか興味津々で、番頭はそんな使用人たちの話に、左衛門に鑑賞を申し出ていた。
 左衛門がしぶしぶそれを承諾し、いずれにしてもその催しが終わるまでは客も少ないことから、交代でいくことを条件とした。
 いかに長崎で異人がいることに慣れているとはいえ、その文化に触れるという機会はなかった。
 西洋文化というものには、服装や言葉が違うことくらいの認識しかなく、歌舞伎や能のように鑑賞できるものに飛びつくように興味を示していたのだった。

「お神楽とは違うんでしょうね」
「そうかね、似たようなものではないかな」
「全然違う楽器らしいね。どんな音かねえ」
「ああ。早く聴いてみたいよ」

 吾郎は、そんな皆のはしゃぎようを冷めた目で見ていた。
 織江が行けないことは重々承知しており、何度も聴いたマークのバイオリンを自分も再び聴きたいと思っていた。
 自分がそう思うくらいならば、お嬢様はいかほどの思いか、と想像しただけで身体が動かなくなる。
 
 ――何とか聴かせて差し上げたい。

 そのためなら何でもしようと思った。


 *****


「織江様。明日よ。いかが?」
 華子が金平糖を頬張りながら言う。
「……そうね……」
 女中たちが演奏会のことをお喋りしているのが聞こえ、皆が聴きにいくということを知ったが、左衛門も奈津も相変わらず口を利いてくれず、とても訊ける状況ではなかった。
「行けるといいのですが……」
「未の刻(午後二時頃)よ。天主堂で待っているわ」
 織江の掌に金平糖を載せながら華子が優雅に微笑む。
「ね」

 ――何が何でも行くのよ。よろしいわね。
 
 華子の微笑みはそんな思いが伝わってくるようだった。気圧される。
「ええ」
「きっとよ」
 織江の掌を包み込むように華子は両手を添えた。
「ええ……、きっと」

 華子を見送った後、後押しされるように、衣装部屋に行き、ドレスが入っている大きな桐箱の蓋を開ける。
 レース編が映える美しい群青色の光沢のある絹の生地である。仕立屋が一番似合うと言ってくれた色だった。
 取り出すと、ふわりと裾が広がり、華やかさに心が弾んでくる。
 靴箱も取り出し、ドレスの裾近くに置く。
 すると、舞踏会の時にドレスをの裾を踏んで靴が分からなくなった時の焦りを思い出す。
 思わずくすりと笑う。

 ……あの時は何とそそっかしいことを。
       
 それが全ての始まりだった。
 靴を掌に載せる。

 ……この靴をあの方ったら……。

 ――履いてみてください。

 ……シャルル・ペローのサンドリオンの話に結びつけて、靴を履ける姫を捜しているなどとからかって……。

 ――やはり貴女の靴でしたね。

 ……そうよ。最初からわかっていたくせに、ひどいお方。
   
 靴を胸に抱く。

 ……本物のプリンスだった。

 息がつけない。なかなか涸れぬ涙が浮かんでくる。

 ……お逢いしたい……。
 
 そう思うと走り出す心を止めることはできない。
 身体中が引き千切られるような痛みが襲う。
 心が痛いと身体も痛くなるのだった。
 満身創痍のような状態だった。

 一目だけでいい、そのお姿を見たい。
 あのバイオリンを聴きたい。
 
 ……お願いです。

 ……どうか叶えてください。

 嗚咽が押さえられなくなる。
 
 ……どうか、明日、私を行かせてください。 

二十一、

 誰もが落ち着かない一日を過ごしていた。
 うきうきとした昂揚した気持ちが町中を包んでいるように、ざわついた空気が漂う。
 織江は、一睡も眠れぬ夜が明けたのち、朝の光の中、その一日の始まりを迎えていた。
 朝餉は家族揃って食べることはできず、女将の奈津は客の応対の合間に何か口にする程度で、左衛門は簡単に済ませた後、番頭とともに過ごす。
 一日が始まれば、宿屋は客都合で慌ただしく時が過ぎていく。

 どうしたら家を抜け出せる――。

 一、未の刻より一刻(二時間)を要するもの也。
 一、天主堂有志による演奏。
 一、長崎音楽団とベルナドット公の演奏。
 一、ベルナドット公の独奏。

 触れにそう書いてあったと華子が告げてくれていた。 
 女中が食事を運んできたが、織江は何も食べる気が起きず、溜息を吐く。
 ふと開けられた障子の先の中庭に寄ってきた羽根を羽ばたかせながら高い声で鳴いている小鳥を見る。
 自分もその羽根が欲しい、
 今すぐ飛んでいける羽根が欲しい、 
 神社に通うようになってから、自分の思うとおりには生きられないものだということに打ちのめされてきたが、今ほど身の不自由さに耐え難いことはないと思った。
 
「ごめんなさい。いらないわ。下げてほしいの」
「お嬢様。少しは召し上がらないと」
「まだ少し横になりたいので」
「わかりました。今日の御髪はどうなさいますか」
「自分でします」
「かしこまりました。では、失礼いたします」

 丁寧にお辞儀をして障子を閉められると、落ち着かなくなる。
 御髪――。
 洋装用の髪型。
 髪結屋のようにはいかないながらも自分でやるしかないと思った。
 鏡台の前に座し、おずおずと鏡の中を見ると、すっかり面変わりした自分の顔に憂鬱になりながらも、痩けた頬を掌で覆う。
 
 ……行くわ……。

 丁寧に香油を髪に塗っていき、髪結いの手順を思い出す。
 後ろの髪だけを縛って、膨らませて、止める。
 脇の髪をねじり、後ろに持って行く。

 ……きっと行くのよ……。

 髪留めで止めるとそれらしくなった。
 続けて紅をさす。
 すると顔色が良くなったように見える。 

 ……かならず、行く。

 立ち上がって、衣装部屋に行き、コルセットを身体に取り付けるように着て、ペチコートとともに組み立てたように広げたドレスの中に足を入れる。
 腕を通すと、どっしりとした重みが肩にかかった。
 背中の留め具をひとつずつ填めていくが、ひとつだけうまく止められない。
 指で留め具を誘導するがなかなか思うとおりに行かず、苛立ってきた。

「お嬢様」
 
 吾郎の声だった。
「お嬢様」
「何かしら」
 背中に手を伸ばし続けていて窮屈な体勢を取りながら返事をした。
「昼九つ半です」
 どきりとする。
「お支度はできていますか。マーク様の出番の時刻が近づいてきました」
「え……」
「開けてもよろしいですか」
「え、ええ」
 留め具がはまった瞬間、障子が開けられ、風が部屋の中を埋め尽くすように入ってくる。
「出かけても大丈夫なのですか」
「はい。今ならば。そして、今しかありません」
「今ならば……」
「はい」
 織江の洋装の姿を見て、吾郎が唇を噛む。
 やはり抜け出すことを考えていたのだと。
 左衛門が奉行所に呼ばれ、番頭が皆を演奏会に送り出して、宿の表口にいる今以外に手引きする機会はないのだった。
 そして、自分が織江の監視役として張り付かされていた。
「でも、それが知れたら……」
 吾郎の立場を気遣うような表情となる。
「いいから急いでください。参りますよ」
 それを振り払うように吾郎は揃えてあった靴を手にした。
「……ええ」
 置かれた靴を履く。
 すると力が漲ってくるような感覚を得た。
 
 ……逢える。

「駕籠屋がいないので歩くほかありません。靴で歩けますか」

 ……お会いできる。

「大丈夫よ。これで何時間も踊るのですもの」
 天主堂まで半里の道のりである。
 ドレスの裾をあげて、軽やかに庭に降り立ち、小走りで進んでいく。
 
 ……逢えるわ……。


 *****


 丘の上にそびえ立つキリスト教信者の聖なる場所、遠くからでもその姿を見ることができる。
 吾郎が先導するように急ぎ足で歩き、織江はそれについていく。
 神社仏閣とは全く異なる趣の建物には誰もが興味を引かれていたが、遠くから眺めるだけの場所であり、そこに入れることも町民を浮き足立たせていた。

 織江が坂を息を切らせて上っていく。
 裾が絡んで足がもつれそうになる。
 丘から吹き下ろすような風にせっかく整えた髪を容赦なく崩していく。

「お嬢様。もうすぐですよ」
「……え、ええ……」
 胸を押さえながらあがる息を整える。
 入り口が近づくと、警護の武士が身分を検めていた。
 問題なく中に通され、緊張しながら入ると、あまりの広さに驚くのだった。
 石造りの壁に高い天井、色とりどりのステンドグラスが輝く。
「これほどのものとは……」
 それ以上言葉がでなく、織江が茫然としてしまっていた。
 床も石が敷き詰められており、織江が歩くと靴音が天井に響いて、思わず歩みを止める。
 華子たちが前の方の席を陣取っているらしく、華やかな洋装の集団となっていて、手招きしていたが、それを断って、すぐ近くの席についた。
「少々遠かったですね」
 吾郎ががっかりしたような顔で言った。
「いいのよ」

 座ったと同時に楽団の人たちが舞台に現れ、拍手が起きる。
 音を調整し、それが止むと指揮者とマークが舞台に上がった。

 ……ああ。

 黒の礼服の姿が凛々しい。
 会場はどんな演奏が始まるのか、その期待が空気に変わっていき、緊張感が漲っていく。
 それを全身に浴びるかのように指揮者が深呼吸した後、タクトを振り下ろした。

 ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲作品番号八番「四季」である。
 
 明るい曲調で始まり、覚えやすい調べに生命の息吹を感じさせるような高揚感に胸が弾んでくる。 
 音が天井を目指した後、降りてくる。まるで音が回っているようになった。
 その中でも主題を奏でるヴァイオリンの音は突き抜けており、天上の調べの如くであった。

 ……やはり、天才でいらっしゃる……。

 その音色を神に捧げていると思った。
 皆がその美しさに陶酔していく。
 そして、心に希望の光を宿したような気持ちにさせられた。
「春」が終わった後は、すぐに「冬」となる。
 暖かかった空気が瞬時に変わり、粉雪が降りしきる中にいるような、その雪が積もり、あたりを白銀の世界に変えていかれた。 

 ……なんと……。

 その美しさに皆は唖然とする。
 浮かび上がってくる冬の情景に引き込まれていくのだった。
 寒さ厳しき折の中でも照らされる日の光の暖かさ、それを縁側に座り、顔を綻ばせている様子など、聴いている者それぞれの胸中に浮かぶ。
 マークの奏でる調べは、饒舌に訴える語り部そのものであった。
 皆は溜息を吐く。
 そして、音楽とは、言葉が違ったとしても人々を繋ぐ架け橋となる。
 人種が違ったとしても人は同じ人である。
 そんなことを思うのだった。

 その二曲が終わると指揮者とマークが握手をし、舞台を去る。その後、楽団員たちが立ち上がって一礼して退場していった。
 続いて、楽団の椅子が片づけられ、フォルテピアノが運ばれてくる。
 そして、その後、マークとユリアが現れ、大きな拍手が起きた。

 ……まあ。先生と……。

 優雅にお辞儀をした後、椅子に座り、マークと音を合わせ、滑り出すように奏で始めた。

 ヨハン・セバスチャン・バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻、一番、プレリュードハ長調である。

 ……え。この曲はピアノだけの曲のはず。

 そう疑問に思っていると、マークがその規則正しい平均律を伴奏に旋律をつけていく。
 それはヴァイオリニストたちがこぞってやりたがったことだった。演奏者の想像力を掻き立てられるバッハの音楽性の豊かさを示すものである。
 マークは平均律の節を生かしながら、そこから独自の溢れるような調べを生み出していった。 
 まるで自分の心の叫びを音に表しているようである。
 すると、
「オリエ」
 うっとりと聴き入っていたところ、織江ははっとしてマークを見る。
 その音が、マークが自分を呼ぶ時の声に似ていたからである。
「オリエ。オリエ」
 そっと胸を押さえる。
「オリエ……」
 切ない音色である。

 ……はい。

「オリエ」

 ……私はここにいます。ここで聴いています。

 その心の声を受け取ったように静かに曲が終わった。
 今回の騒動を知っている者には今の音がやはり「織江」に聞こえた。
「……お嬢様の名前をお呼びでしたね」
 吾郎がぽつりと言った。

 ユリアが下がり、舞台はマークひとりとなった。
 独奏が最後の曲となる。
 
 ……もしかしたら、あの曲をお弾きになるのですか。

 無伴奏ヴァイオリンのための三つのソナタと三つのパルティータの中の、BWV1004 パルティータ第二番二短調、第五曲、シャコンヌ。

 マークが、丁寧に調弦していく。
 集中力を高めていくように、曲への道筋を見定めているかのようにゆっくりと時間をかけている。
 周囲の空気が揺らいで見えてくる。
 それほどに力を蓄えているようであった。
 皆はそれを固唾を呑んで見守る。
 その場にいなければ味わえぬ緊張感に誰もが背筋を伸ばす思いだった。 
 そして、ふっと息を抜くように吐いた後、顎をくいと引き締め、弦に弓をぶつけるように載せた。

「助けてくれ!」

 それが始まりの音であった。
 D、F、Aのフォルテのもの悲しい短調の和音は、そんな叫び声のように鳴ったのだった。

 織江は、その音に、全身を打たれたようになり、眩暈を覚える。
 その後も、助けてほしいのだ……、そんな救いを求めるような旋律が続いていく。
 身体が震えるのを押さえられない。
 
 ――生きるとは、何故これほど過酷なことなのか。

 そんな思いが真っ直ぐ伝わってくる。

 ――人は。
 生まれ出た時から、苦しみの連続に身を置かれる。
 人は泣きながら生まれてくる。
 そして、泣きながら生きていく。
 少しの幸せを望みながら。
 悲しみを受け入れ、寂しさを振り切り、試練に追い詰められ、それを乗り越え、涙を隠すことを覚えて生きていく。
 なぜ苦しみと闘う。
 なぜ悲しい。
 いったい、
 
 ――生きるとは何だ……!

 そんな訴えを音に変えていく主題であった。

 生きるとはいったい何だ。
 何故自分は縛り付けられる。
 何故、自分は何も選択できない。
 何故、自分の欲するものを手にすることができない。

 なにゆえだ……!

 織江は音色が慟哭のように思えた。
 アルペジオが低音で鳴り響いていく。
 
 苦しい。
 苦しい……。
 頼む、ここから出してくれ。
 私を救い出して欲しい……。

 唸るような音は、身震いがするほどの寒々さであり、少しずつ音量を上げて、鼓動を表現しつつ心の葛藤を描くようなアルペジオは、心の闇そのもののようであった。
 織江は、あまりの息苦しさに胸を掻きむしる。

 マーク様!

 織江は心の中で叫ぶ。
 マーク様――。
 咽び泣いているような音が響いていく。
 祈るような姿勢を取った。
 
 ……マーク様。
 私には貴方様の背負うものの大きさも苦しみも計り知ることなどできません。おそらく押しつぶされてしまうほどのものなのだとお察し申し上げます。
 もし、少しでも私がそれをお支えすることができるのならば、本望でございます。

 ――オリエ。

 ……はい。

 ――貴女に逢うことができて良かった。

 ……はい。

 ――心からそう思いますよ。

 音色はマークの心の言葉そのものであった。音を通して会話をしているようである。

 ――オリエ。出会った頃の貴女への恋情も、今では懐かしいものとなり、自分を取り巻いていきます。

 ――寝ても覚めても貴女の声が聴こえる。
 ――貴女の姿が浮かんできてしまう。
 ――貴女が夢にも出てくる。
 ――貴女の姿を見たくて彷徨ってしまう。

 クレッシェンドに引きずられていく。

 ……苦しくて苦しくて心の臓が痛くて、息苦しくて。
 ……涙も止まらず、毎日眠れませんの。
 ……食事もまともに取れなくて、食べてもすぐ吐いてしまい、
 ……考えがまとまらず、何も手につきませんの。

 アルペジオが最高潮に達していく。

 ――これが恋わずらいというものだと。

 狂おしく溢れる思いが弾けんばかりの音となる。
 止めようがない。
 止めるすべを知らなかった。
 自分で自分をどうすることもできない。
 さらに増え、さらに深くなっていく。
 身も心も奪われていく。

 そう。

 私たちは恋をした――。


 三部構成の曲調の中の一部分が終わり、長調に転調する。
 和音が軽やかに調べを奏でていく。
 神社での楽しかった逢瀬が浮かんでくる。
 ただそばにいるだけで幸せな思いが溢れてくる。
 話題は何でもよく、食べたものがどうだったのか、それだけでも楽しい。
 もっと話していたい。
 もう少し顔を見ていたい。
 もうしばらく語り合っていたい。
 毎日逢わずにはいられなく、逢瀬が自分を構成する全てのようになっていった。

 単音で奏でていく。

「愛しい人」

「私のオリエ」

「私の可愛い人」

「美しい私の宝物」

 珠玉の音は、愛の言葉を刻み込んでいるかのようである。

 喜びというもの――。

 幸福感に心が喝采をあげていく。
 それは、重く苦しめる呪縛を解き放ち、呼吸さえ楽になっていくほどの力の源である。
 この世に生を受けた意味さえ見出すほどの。 

 ――生きるとは、これほどまでの喜びに包まれていくことなのか。

 なんと素晴らしいことか。

 ――人を愛するとは、これほどまでに幸せなことなのか。

 和音で高らかに歌い上げていく調べに、そんな思いを乗せる。

 抱き合う。
 自然と魂を溶け合わせるかのように抱き合う。

 ひとつになる――。

 その悦びは、至高の世界へと羽ばたかせ、自由になる。
 そして、確信する。
 人を愛する。

 ――これこそが生きるということである。

 マークの頬に涙が流れる。
 織江は必死に嗚咽を堪えていた。

 離れたくない……。
 離されたくない……。
 離さないでほしい――!
 
 終わりを迎えるように回帰してきた主題を丁寧に弾いていく。
 その音色は、清らかなものであった。
 浄化された中から何かが生まれ出てくるかのような美しい音である。

 時を止めてほしい……。

 オリエ……。

 終わらないでほしい……。

 オリエ……。

 どうか、どうか。

 ……どうか、私を忘れないで……。

 一音一音の切なさに、誰もが涙を浮かべていた。
 すすり泣く音があがっていった。

 最後の一音が終わるとその余韻は残照の輝きの如く名残惜しく、愛しさが漂うのだった。
 
 

   



  

二十二、


 繰り返されるカーテンコールに応えて、マークが何度も舞台に戻り、挨拶する。
 興奮冷めやらずの観客はなかなか帰ろうとはしなかった。
 奉行所の役人が帰りを促すと、皆、しぶしぶと天主堂から離れていく。

 宣教師の部屋で、恍惚とした表情でマークが椅子に座っている。
 そこに永井が入っていった。

「やあやあ、誠にお見事な演奏でした」

 バイオリンを抱きかかえ、ぼんやりとした顔を向ける。
 永井がくすりと笑う。
 まるで女を抱いているようだなと思った。

「いやあ…、正直あれほどのものとは思いませんでした。バッハというのはすごいですな」

「……ふ。おそらくもうあのようには弾けないでしょう……」

 マークは幻想の中に埋没しているかのようで、視点が定まっていなかった。
 永井は、ふうと息を吐く。
「皆大興奮でなかなか家に帰ろうとせんで、取締りが大変です。今は出て行かぬ方がよろしいでしょう。しばらくこちらでお休みください」
「はい…」
「それと客人が来ています。勝手に通しました」
「客人?」
 マークが項垂れていた顔を上げる。
「貴公に感謝せねばなりません」
 永井が片目をつぶる。
「演奏を聴いていたら久しぶりに女を抱きたくなりました。今夜はどこもお盛んでしょう」
「え」
「いやあ、参った、参った」
 永井が茶目っ気のある顔をしていると、その客人は入ってきた。

 左衛門と織江だった。

「!」

 苦虫をつぶしたような左衛門とその後ろに影のように控える織江に、マークが口を開けたまま慌てて立ち上がる。
 すると椅子が大きな音を立てて、ひっくり返った。
 永井が苦笑しながら、それを立たせる。

「さすがに驚かせましたか」

 そんな言葉など耳に入っていなかった。 

「…あの。……私。……マキシミリアン・ド・ベルナドットと申します」
 胸に手を当て、頭を少し低くする。
 その様子を見ても左衛門は憮然としていて、表情を変えない。
 マークとしては平伏であったが、左衛門にはそう見えなかった。
 舌打ちを隠すように、奥歯をかみしめる。

「存じております。私は蒔田屋の左衛門、織江の父でございます」

 左衛門がじっとマークを見る。
「……正直言って、恨み言を言いに来たつもりでした。娘を不幸にしたことをなじりに来ました。朝から意気込んでいて、一発殴らせてもらおうかと」
 左衛門が拳を握るとマークがそれを受けるかのように瞳を閉じる。
 永井が慌ててそれに割って入ろうとする。
「左衛門殿。それでは話が違うではないか!」
 永井が左衛門と話をつけてきたような言い方だった
 マークが永井を見る。
 永井はいたずらが見つかったような表情をした。
「だが。…どうやらお奉行様のおっしゃる通りのようですわ」
 織江が左衛門の後ろで俯いている。
「あんたらがどれだけ思い合っているか、ようわかりました」
「え」
「…いい演奏でしたよ」
「あの!」
 そう言いつつ頭を深々と下げた。
 その下げ方が不自然に見えて、永井が眉をあげ、扇子を取り出し、口元を隠す。

「必ず! 必ず方法を見つけます。必ず迎えに来ます!」

 織江が嗚咽を洩らす。

「何年かかろうとも必ず戻ってきます。だから、待っていてください! お願いします!」
 マークが頭を下げ続ける。左衛門がふっと笑う。
「……そう言って戻ってきた異人は今までおらなかったようですが、あんたさんの言葉ならばそう信じてやってもいいですな。誠に戻った暁には婿として迎えましょう」
「…あ……あり……ありがとうございます!」
 左衛門が泣きじゃくる織江の頭に手を置く。
 永井がこほんと咳払いをする。打ち合わせ通りになったと言わんばかりに。
 将来マークがオランダ商館長として赴任し、昔に渡来した宣教師のように帰化する可能性もあると左衛門を説得していた。
 大体の異人は日本に骨を埋める気はないが、きっとあの人は戻ってくると断言し、左衛門はにわかには信じられなかったが、演奏を聴いて納得したのだった。
 それほどに多くの人を感動させる熱演だったということである。
「明日の朝、江戸に向けて出発します。朝五つ(午前七時から八時の間)に迎えにきます。それまでは好きにお過ごしください。ではこれにて」
 そう言って部屋を退出していくと、左衛門がさて…と言う。
「巳の刻(午前九時頃)に迎えに来る。きちんとお見送りして差し上げなさい」
 織江は言葉を出せない。
 左衛門が、では、と言って扉を閉めた。
 その扉が閉まった瞬間に、マークは織江を抱きしめた。


 *****


 翌朝の港は、大勢の人が見送りに来ていた。
 異国の太守と鍋島のお殿様が江戸に出府するということで、肥前藩と長崎奉行の人々が港に押し寄せていたのだった。
 織江が涙を溜めて、マークが船の中に入っていくのを見送る。

「また明日。オリエ」

 一睡もしていない真っ赤な目をしたマークが言った。
 明け方まで熱く抱き合い濃密な夜を過ごした二人だった。
 織江がくしゃっとした顔をして深く息を吸う。何度も何度も首を縦に振る。

「ええ。また明日」

 いつか来る明日に会える。

 けれど離れ難い…。

 船がゆっくり進んでいく。見えなくなっていく。

 きっと明日は来る。

 身体と心が離れたくないと悲鳴をあげる。

 滂沱の涙を流す。

 ———また明日……。

二十三、

 江戸まではマークの船で行くこととなった。
 参勤交代で鍋島公出府の際には、大坂まで船で行き、そこから陸路というのが一般的な道筋だった。
 だが、今回は特別の役目ということと随行ということ、そして蒸気を動力にするという試験的に導入された最新型の外国船の仕組みを学ぶ機会ということで、マークの船を使うことになった。
 オランダ船でもイギリス船でもないということが幸いし、独自に交易を結ぶことなどできない国の船ということで幕府を安心させた。
 ただし、直接江戸入りは不可であり、浦賀港からは駕籠となる。
 周りの景色を覚えさせないためにも馬に乗せることはしないとされた。
 マークはそれらになにひとつ文句も言えずに、ひたすら要塞におびき寄せられているような気がしていた。

「貴公は日本語が堪能でいらっしゃると伺った」
 第六代肥前藩主、鍋島宗教(なべしまむねのり)は、乗船当初は面白がっていたが、一通り説明を聞くと、退屈な様子で船中を歩き回り、気さくにマークに声をかける。
 他の者は自分を奉るように見る為、対等に話ができる相手が欲しく執拗に絡んでくるのだった。
 マークは必要以上に口を訊いてはいけないと用心深く様子を見る。
 言質を取られそれを何かの取引の材料にされてはたまらないからだ。
 長崎近くの藩であれば猶更の事である。
「恥ずかしながら、少々勉強したに過ぎません」
「ほお。これは見事な。西洋の方は様々な言葉を話し、新たな技術を生み出される優れた方々だとか。実に学ぶべきことが多い」
 宗教が持ち上げるような言い方をするのを訊いてふっと笑う。
「私は日本の文化の方がずっと素晴らしいと思っていますよ」
 その答えに宗教がやれやれと言った様子で溜息をつく。
「さすがに謙虚な方だ。このような船はこれから増えていくのでは? 戦のために」
「貴公とそのような談義をするつもりはありません」
「ははは。これは手厳しい。関東までの旅の慰みに何かお相手をさせていただけましたら」
 マークは面倒だと思った。
 これは長崎奉行の永井が仕組んだことだった。
 織江の件を逆手に取り、鍋島公の機嫌を取らなければならず、また、国書を持っていない自分は将軍に謁見する理由がなかったが、幕府としては朝廷への威信を示す為、将軍との対面を是非とも果たさせたく、それにより永井の株はあがり、それを成功させることができた肥前藩にその手柄として褒美を遣わされる。
 なかなか強かな人と苦笑する。
「ふ。なるほど。貴公と私が親しい仲であるとし、それを紹介させるという手筈ですか」
 まるで親しくする気がないと言わんばかりに言うと宗教はどきりとした。
「何の事やら」
 そう言いながら扇子を口に当てる。
「訊けば貴公は囲碁をおやりになると。一局いかがか」
 親しげな目線を向ける様子に少し肩の力が抜ける。
 永井の根回しには脱帽していた。
永井のような者が江戸より離れたところにいるということは、その中心である江戸ではどれだけの人材がひしめいているのか、権謀術数に長けた者が大勢いると思うと、憂鬱この上なかった。
 徳川将軍との接触が知れたら、どれほど大伯父の怒りに触れるか想像できた。
日本を侮ってはいけない、特に徳川幕府を、と戒められていたのだった。
「ええ。ではよろしくお願いします」
 だが、正直のところ内心どうでもいいと思っていた。
 この先の人生は織江に会うことだけに費やすと決めていたからだ。

 碁盤を用意されて向き合う。
 精悍な顔立ちの宗教が丁寧にお辞儀をする。
 素直に嬉しそうだった。
 それに少々好意を持った。
 順番を決めると、宗教は黒を取り、瞳を光らせる。
 定石通りに置いて行くと、宗教の内面が浮き出てくるようで面白いと思った。
 攻撃型か守りに徹する方か、長期戦を好むか短期戦が好きか。その出方により置き方を変えていく。
 大伯父ほど囲碁の強い者はいなかった。裏をかいたと思いきやひっくり返され、それも手の内だったと思い知らされ、チェス、将棋、何に於いても敵わなかった。

 ――もっと先を読め。詰めが甘すぎる。

 アマシか……。

 地を稼ぎ、敵の攻撃を交わし、一気に勝ちを取りに行くやり方のことである。
「……いかにも貴公の御立場らしいお手です」
「こう育てられましたから。貴公の所領にはいかほど民がおいでか」
 白石を置く。
「いえ。私は所領を持っていません」
「なに?」
 宗教が訝しげな表情をする。
「貴公は某と同格の立場だと訊かされ申した」
「左様ですね。格ということでは確かに同格でしょう。しかし所領はないのです」
「……奇怪なことにて」
「ああ。それならば朝廷の方々に似ているかもしれません。しかし、朝廷の方々の位は高いが実質な力を持っていない。そうですね?」
「…は…はあ。左様でござるな」
「それが…、我が一族は力を持っている。それが大きな違いでしょう」
「所領を持たずに力を持つ……?」
 宗教の唖然とした表情に思わず微笑む。
 島国でしか生きたことのない日本人に欧州が辿ってきた苦労は分からぬことも仕方ないことだと思った。
 完璧すぎた古代ローマの社会を蘇らせようと夢を見る。
 パクス・ロマーナという夢を。
 そのなかなか追いつけぬ夢を追い求め続ける。

「しかし、民も所領もなく富をいかにして生むのか。金銀はどのように蓄える。何が力となる。そしてそれをどう顕示し主張するのか」
 その問いに小さく笑う。そして静かに石を置く。
「あ!」
 宗教が顔を青ざめる。
「……そこは不味い」
「その答えが出れば、この形勢も逆転できましょう」
 宗教は一気に流れ込んでくる白石をよけきれず頭を抱えた。
 無念にも投了せざるを得なかった。
「……参った」
「畏れ入ります」


 浦賀港に着き、駕籠に乗せられてからは小さな空間におしこめられ、マークはひたすら暇で、すると否が応でも織江のことを考えてしまっていた。
 織江の美しい裸体を思い浮かべる。
 織江の官能に翻弄される媚態を思い出す。つい息が荒くなる。
 もうじき宿に着くと言われ、それを待つ。早く何とかしないと…と焦ってくる。
 織江を思い浮かべればすぐ欲情する身体を持て余してしまう。
 ふと思った。
 もしかしたら、
 
 ――私の子を宿したのではないだろうか。

 そう思うと、そうなるような気がしてくる。

 どうにか書状のやり取りを途絶えぬ様にしたいと思った。
 今後互いを繋いで行けるのは紙による言葉しかない。
 織江の身に不幸なことが起きぬよう、おそらくお父上はご理解いただけただろうと思い、もし…もし…子ができたら喜んでくださる、と願うばかりであった。

「……オリエ……」

 ――我が妻。


 *****


 駕籠が止まる。
 宿に着いたかとほっとしていると、何の声もかからずに辺りがしんとしている。不審に思いながら開けると、そこは草叢のようだった。
「な……?」
 油断していた。
 丸腰である。
 まさか……。
 急いで思考を巡らせる。
 想像つく敵の姿を探る。
 どんな罠であるか――。
 だが、そんなはずはなかった。
 ここで命を取られたら戦になる。
 間違いなく大伯父は徳川を潰しに来る。
 鍋島も損でしかないはずだった。責任を取らせるはずだ。良い事など何もない。
 駕籠から飛び降りる。
「やめろ! 利用されているだけだ! わからんのか!」
 周囲を見回す。
 すると、そこには、独りの男が立っていた。
 剣を抜いている。
 風が吹き抜けていき、殺伐な状況を更に冷ややかなものにしていく。
「……何をしている。ナベシマ公に言うがいい。領民を路頭に迷わすつもりかと」
 男が放つ鋭い眼光は射抜くようだった。
 そのような殺気は今まで感じたことのないものだった。
 ぞっとする。

 これがサムライか――。

 だが簡単にやられるわけにいかなかった。
 気が動く。
 そう思った瞬間に振りぬかれた太刀は凄まじい速さで身体を襲ってきた。
 瞬時によける。
 だが、そう思っただけで、刃先はとどていた。左手から血が噴き出る。
 相手は腕を切り落とすつもりであったとわかった。
 その容赦のない攻撃に恐怖を感じる間もなく、痛みも感じなかった。
 とにかく、

 ――武器が欲しい……。

 再び振り下ろされそうなところ、左に避け、脚を取る。
 その動きは予想していなかったらしく、隙が生まれた。
 その瞬間に手首を打ち、落ちた太刀をさっと拾い上げる。
 だが、それは思ったより重く、左手に力が入らない。
 男は脇差を抜き、更に襲ってくる。
 右手に渾身の力をこめ、瞬時に刃先を止めると硬質な音が響く。
「……くっ!」
 日本の男は皆自分より背が低いと思っていたが、その男は自分と同じほどの上背があり、その身体は鍛え抜かれていると思った。

 ――やられる……。

 敗北感が襲ってくる。
「……無礼者が。不意打ちが許されるのか。名を名乗れ」
 情けなくも負け惜しみの言葉を言うと、不敵な笑いを返された。
「その言葉そっくり返そう。無礼にも不意打ちをしたのはおぬしだ」
「なに?」
 その隙に、唸り声をあげられ、突き飛ばされる。
 背中と後頭部を打ち、息が止まる。
 それでも振り下ろされてくる刃先を止めようと体勢を変え、一文字にする。だが、

 ――もはやこれまでか。

「ふふふ。……なかなか剣術も得意と見える」
 侮蔑を含んだ冷笑だった。
 底知れぬ敵意を露わにしていた。
「弓矢は奉行所の誰も敵わぬと訊いた。囲碁は鍋島公も簡単に負かす。その上、音楽では人を感動させる西洋の王だと?」
 脇差を鞘に収めると、すっと右手を出して、立ち上がらせる。
「……………」
 出されたその手を凝視していると、男はふっと笑い、引っ込める。
 茫然としながらその動作を見ていた。
「無礼を致した。拙者、上村藩家老が三男、羽村貞晴と申す」
「!」
 その名前は常に頭にあった。
「…………………」
「殿の護衛を申し出た。おぬしを殺せるならばどんな機会でも良かった」
 衝撃が走った。
「………………………」
「おぬしには解せぬであろう。拙者の心など」
 口惜しそうな表情をしながら低い声音で呟くように言った。
 涼やかな目元の凛とした気高さが引き立つ。
「織江殿が十五の時だった」
 拳を握りながら背中を見せる。
「長崎での警護で蒔田本陣詰を任ぜられた折、初めて会った。その時の織江殿はまだ幼さがありながらも成熟したような落ち着いた振る舞いをされていた」
 唇を噛む。
「ひと目惚れして嫁にほしいと思い、夫婦になる為に様々な策を練った。一人娘の織江殿を嫁にすることが可能か、武家でない娘を嫁に迎えることに支障があろうと思った」
 首を横に向ける。
「……五年かかったのだ。もうじき夫婦になれるところだった」
 その心情がひしひしと伝わってくる。
「それをよくも………」
 貞晴が振り向き殴りつけてくる。
「おぬしが全て壊した!」
 その拳を受ける。抵抗する気が起きなかった。これは受けるべき痛みだと思った。口の中が切れ、血を吐き出す。
「なにゆえ!」
 抵抗せぬことに苛立ちを募らせる。
「なにゆえ、おぬしのような!」
 叫び声になる。
「なにゆえだ!」
 ぎりぎりと唇を噛み締め、血が滲んでいる。
「……………………」
「答えろ! なにゆえ奪った!」
 悲痛な表情だった。

「大公殿! いずこか!」

 貞晴が舌打ちをする。
 石井清高はじめとする肥前藩士らがやってきた。
「ここにおいででしたか。どうされました!」
 走り寄ってくる。
「殿が一献差し上げたいからと太守殿のお宿にお迎えに参りましたところ、お出かけになっていると知り、探しておりました」
 石井はマークの駕籠が宿まで入ったのを見届けた後、宗教の世話に徹していたが、駕籠が宿で降りずにすぐどこかに出かけたとは思わなかった。
 マークがすぐ近所でよい景色の場所があったので少し見てきたいとの要望を出し、貞晴の他複数が護衛につき、しばしの間、独りで考え事をしたいとマークが指示をしたので、駕籠を置いた後、独りにさせた…と貞晴が設定したものであった。
 宿にマークがいないことを知って、石井は顔面蒼白になり、全員に捜索するよう命じた。
 マークが顔面血だらけで左腕からは紅血が滴っている姿を見て震え上がる。
「…これは!」
 貞晴が黙り込むと石井が厳しい顔を向ける。
「……よもや…おぬしが?」
 マークが大きく息を吐く。
「野盗に襲われました。ハムラ殿が助けてくれたのです。すみません。勝手に出かけて、我が儘をきいてくれたのに、このようなことになってしまって」
 おそらくそういう筋書きだったのだろうと思った。
「しかし!」
 貞晴が今回同行したのは、元々藩命で身分違いのところに婿に行く迷惑な話がなくなって良かったとみられていて、私怨などあるわけがないと思われていたから本人の申し出を受けたのだった。
しかし、これはどう見ても修羅場だった。
「そういうことなのです!」
 声を荒げ、貞晴の腕を掴む。
「ナベシマ公へはすぐ行くとお伝えください」
 このまま自害してしまいそうだったからだ。

 *****

 宗教は囲碁で負かされたことが随分と悔しかったらしく、酒で勝負だと言った。
「その傷はいったい……」
 宗教が驚き、仔細を訊いたが、派手に転んでしまった、大袈裟に手当てをされたと言い、笑い飛ばした。
 貞晴は顔色を失いながら警護役を務めていた。
「日本の酒は実に旨い。こちらの軍配はいかがでしょう」
「酒では負けぬぞ。関東の酒もなかなか旨い。さあ、勝負だ」
 宗教が嬉しそうに杯をあげる。
 確かに酒では宗教の圧倒的な勝利だった。
 マークはへべれけになって、自分の宿に帰るが、まともに歩けそうになかった。
 宿場町のその宿は、本陣でも蒔田屋のような大きなものでなく、収容人数が少なかった。
 石井が不信感を拭えず、他の者を張り付けながら、わざわざ貞晴をマーク付きにさせた。
 貞晴は冷静沈着の面持ちで泥酔のマークを背負った。

「しっかりしてくだされ」
「ん…ああ…」
 褥に横たわらせると左腕からは血が流れていた。
 貞晴がはっとしながら、止血用の薬を用意し、慌てて傷の手当てをする。
 熱も出始めていた。酒など飲んでいる場合ではなかったのだと思った。
「なんて御方だ…」
 マークが苦しそうに呻き声をあげる。
 舌打ちしながらも、女将に熱さましの支度を頼み、額に手拭いを当てる。
 苦しそうに魘されていく。

「…オリエ……」

 貞晴が拳を床に叩きつける。
「………………………」
 訊きたくないと思った。
 その名前を呼ぶのは自分のはずだった。
 ひたすら夢に見てきた。

 こんな奴に奪われたなど……。
 自分だって夢に見てきたのだ。
 ずっと……何年も……。

 外に飛び出していく。
「……ちくしょう………」
 中庭の池には月がちょうど映し出されている。
 中秋の晩だった。
 さやけき夜に浮かぶ上の月と下の月、その二つの月がまるで織江をめぐる自分たちのようだと思った。
 どれほど想ってもどちらも地上の花を取ることができない。
 破談は覆らず、既にほかの縁談が進み始めていた。
 公儀お声掛かりでは断ることなどできなかった。
 改めて織江を奪うなどできぬ状況になっていたのだった。
 悔しさに耐えようと唇を噛むと血の味がする。
 刀を振り下ろし、その池の月を斬った。

 *****


 夕方に江戸入りすると宗教は鍋島家上屋敷に入り、マークは紀伊家上屋敷に通された。
 登城は三日後と決まり、それまで賓客として最も大事な扱いを受ける。
 その指定された日に江戸城に連れられていくと、宗教と共に部屋で待つように言われ、将軍の謁見の間に呼ばれる。
 マークはどうするべきか悩んだ。
 対面として用意されていないということは、おそらく玉座のような場所に座っているに違いなく、その将軍に挨拶をすれば、立場は当然自分が低いということになる。
 国書持参でなければ統帥の血筋とはいえタイトルとしては父と同じ大公で、日本においての藩主と同格である。

 屈辱を与えることが目的――。

 それを公式文書として流す。
 そう読んだ。

 実質トップである将軍を無視して天皇謁見を果たした事に将軍が憤慨し、それを朝廷に見せつけたいのだという意図は明らかで、元々迫り来る外国の牽制を図ろうと統帥の来日を望み、統帥に勅使を出させたのは幕府で、マークとしてはそれを受けた統帥の名代を果たしただけだったが、幕府としては黙って帰す訳に行かず、長崎に家を用意してまで、滞在を引き伸ばしていた。
「……まったく………」
 マークは統帥にさっさと帰ってこいと言われた意味を痛感していた。
 長く滞在すれば利用されるのだと。
 織江との出会いまでが幕府の罠とは思わないが、永井は善人ながらも、いつかそれをうまく利用しようと考えていたという強かさはあったのだろうと思う。
 織江の父の理解を得るという大恩に逆らえるはずがなく、してやられたと苦笑する。

 ――知恵を出せ。

 腰を浮かし始めた宗教を制し、マークが長く息を吐いた後、毅然とした表情で言った。
「茶を、トクガワ公の茶を飲みたいと申し出てもよろしいですか」
 呼びにきた者がはっとして、ではお待ちくださいと言うと、その日は取りやめとなって後日ということになった。


 *****  

 
 それから更に三日後、再び江戸城から迎えが来て、また同じ部屋に宗教と共に通され、待たされた。マークが何ひとつ表情を変えずにその状況を見守っていた。宗教がたまらず言葉を発する。
「……老中たちは何を企んでいるのか……」
 マークが畳に手を置く。
「不用意な発言は禁物です」
 そこに失礼仕りますと声がかかり、襖を開けられる。

 姿を現したのは、永井直兼だった。

「茶事の支度が整いましたので、お迎えに上がりました」
 それが数日かけて幕閣の出した答えであるということだった。
「貴殿が迎えに来るとは思いませんでした。それともこれも計算のうちでしたか」
 マークとしては不機嫌そうな顔をして精一杯の嫌味を放つ。
 永井がそれを流すように神妙な顔つきで、これが私の役目にて、と短く言う。長崎で見せていた表情とは異なり、永井ではないような気がするほど緊張しているようだった。
「それはご苦労なことです。ではムネノリ殿。トクガワ公のお点前を拝見いたしましょう」
 マークが憮然として立ち上がると、宗教がふうと息を吐いて、永井の肩に手を置いた。

 広大な庭園の中を永井が先導して進んでいくと、鳥の声が響きわたり、水の流れる音が心地よく、何と優雅で品のある庭だと思った。
 茶室の入り口で亭主が待っている。
 言葉を交わさずにお辞儀をして、木戸をあける。
 茶室の中庭に通され、亭主は茶室に向かう。
 中庭には丁寧に手入れされた植栽が絶妙な造形を作り出している。
 決して自然のあるべき姿を変えずにしかしながら、色の組み合わせや木の枝など美を追求するにはこれ以外にないだろうという向きをしている。
 そのように枝を剪定するには特殊な技能が必要だろうと思え、これほど見事な演出があるだろうかとマークは感動すら覚える。

 日本人というのは実に奥深い民族である――。

 手水を使った後に茶室に通されると初座となるが、時の将軍は亭主としての挨拶だけを言う。
 余計な言葉を交わさない。
 風雅に飾られた炭手前を見て、その後に香合し、亭主が懐石の膳を持ってきて給仕に徹する。
 給仕をされることに驚き、同時にその所作の美しさにマークは目を奪われていた。
 ゆっくりとゆったりとした時間が流れていき、時間の感覚は失われていく。
 茶室に漂う薫りに酔っていくような気がし、料理の匂いがそれに混ざると妙なる調べを奏で、特別な空気を醸し出しているかのようだった。
 上質な空間となる。
 茶事七式の中の「正午の茶事」は初めてのことだった。
 いつもは「不時の茶事」で、永井が点てる茶を飲むだけの形式張ったものではなかった。
 身震いしてくる。

 ――茶道とは……。これほどに恐ろしいものだったのか――。

 *****


 宗教は、正客として言わなければならない言葉があるが、次客の自分がマークを差し置いて言うべきかどうか悩む。
 顔色を青くしているマークに小さく溜息をつく。
「御亭主もご一緒に」
 宗教がそう言うと「勝手で御相伴します」と言って亭主は辞退をする。
 焼き物や飯器、銚子を取り回し、宗教が、ではまずは一献、と言って酒を注ぐ。
 マークは震える指先でその杯を受け取ると、ぐいっと飲みこんだ。
 その酒も心憎いほど美味であり、それに屈していく自分を認めざるを得なかった。

「………戦国武将たちの気持ちがわかります……」

 宗教がふっと笑う。
「マキシミリアン殿はよく勉強されていますな」
 全てが完璧であった。
 美の集大成というべき世界がそこにあった。
 饗された料理のひとつひとつから、部屋に漂う薫り、かけられている絵画、活けられている花、何より頃合い、客をもてなすタイミングと動作に何一つ無駄がない。
「……見事というほかない……」
 なぜ大名たちが茶碗ひとつを手に入れる為に大枚を払ったのか、資料を見た時には理解できなかった。
 その茶碗を通してあるものがいかに重い意味があるのか分からなかった。
 マークはこの茶事を通して見えてくるものがあると思った。
「茶の湯を解する西洋人とは実に奇特な御方よ…」
 宗教が溜息交じりに言うと、末客の永井が小さく笑った。
 濃茶でもまともに会話をせず、ひたすら茶のみに没頭する。
 ため息がでるほどの流れるような所作のひとつひとつと、点てられた茶の旨さには感服するしかないというものだった。
 マークは完膚なきまで叩きのめされた気分だった。
 そして薄茶となったのち、

「Did you have a nice time,Your Excellency?」
 ――いかがでしたかな。大公殿。

 綺麗な発音の英語でそう言われた。
 痛恨の一撃だった。
 心臓を射抜かれたと思った。
 マークが顔色を変えたことに薄笑いを浮かべられてしまう。
 英国の事情を掴んでいることも示唆していた。
「Yes,I did. T…Thank you for ....」とマークはつい英語が口をつくが、首を左右に振る。
「結構なお点前でございました」
 丁寧にお辞儀をする。
「茶を所望すると言われ、食えぬ御仁だと」
 表情ひとつ動かさずにそう言われた。
 茶室なら上下の座がないと思っただけだった。
「……恐れ入ります。私にも抱える事情がありますのでご理解いただきたく」
 マークは本当に恐れ入っていた。
 権力者が客に自ら食事の給仕をするという文化を持つ国が他にどこにあるだろうか、だいたいの王は、会食しても自らは皿ひとつ触らない。どれだけ使用人を使いこなせるかを見せつけることで力を誇示し、それには辟易するものがある。
 それに比べてこのもてなしの作法には服従させるほどの威圧感と圧倒させる深い心がある。
 それに震え上がるほどの恐怖を覚える。
 
「ならば一期一会です。茶が分かるとは思わなかったが、よく作法をわきまえておられる」
 マークは急に正座していた足が痺れてくると思った。
 緊張しながら茶碗を置くと、それを取りながら瞳をきらりと光らせ見られる。
「ふっ。噂通り日本語も達者だ。まったく…。十一代家斉です。今後ともお見知りおきを」
 会釈されると、マークは完全に家斉のペースに巻き込まれていて囲碁で言えば投了するしかないというところだった。

 ――サムライの王はやはりサムライだった――

「丹後守」
 家斉が短く言うと、宗教が、はは、と頭を下げる。
「此度のこと大儀であった。筑前守にはよく頼んでおいた。それでよしとせよ」
 永井が満足そうな顔をし、マークはそのまったく具体的な指示もないやりとりでも本音と建前の収まりがついたのだと理解した。
「直兼」
「ははっ!」
「ベルナドット公にこの茶碗を進呈する。その手配をせよ」
 その時、永井と宗教が驚愕の表情を浮かべたので、それがどれほど価値のあるものかマークは訊かされなくともわかると思った。
 それは本阿弥光悦という徳川初代将軍のお抱えの職人の手によるもので、色、形とも格調高い楽焼の茶碗は徳川家の宝のひとつであった。
 宗教は口を開けたまま、家斉を見てしまい、はっとして慌てて顔を伏せる。
 永井が驚きを隠せず、声を震わす。
「……し、承知仕りましてございます…」
 マークはその様子に些か気が重いとは思いつつもその意義を受け止め、大伯父にその茶碗を渡さなければならなくなった事態に追い込まれたと思った。
 そして、何もかも見せつけられたと思った。
「有難うございます。私からも貴方様にお似合いになるものをお贈りしたく存じます」
 そう言いつつも僭越な言葉に統帥の怒鳴り声が聞こえてくるようだった。

 ――これがトクガワか――

 大伯父が徳川幕府を侮るなと言った意味に触れ、身体から力が抜けていく。
 足が……とマークが救いを求める顔をすると、緊張を解した三人の笑い声が茶室から響いていった。


 *****


 肥前藩と筑前藩で長崎を交代で警備している係について、それまでは肥前藩がそのほとんどを賄ってきたが、筑前藩にも押し付けられる形となり、それにより肥前藩の財政逼迫を食い止めることはできた。
 筑前藩にとっては迷惑な話だったが、長崎に更に立ち入ることができるのは、それはそれで外国の最新情報を得る事ができるため、悪くない話だった。

 特に西洋の武器について――。

 とにかく、肥前藩のその願い出の手土産として連れてきたマークとの対面を果たすことで幕府としては朝廷への力の主張もできた。
 本音としては何が何でも連れてこいと言いたかったところで、家斉はマークの鼻をへし折ってやりたいと恥をかかせるつもりだったが、その勘気は収まったのだった。
 双方全てがうまくいき、永井としては大満足という達成感の中にいた。
 そして、自身の江戸への帰還の沙汰があり、出世街道を突き進むという脚本は見事に完成され、万事万端、一件落着、と晴れやかな気分だった。
 ただひとつ、貞晴の心情を読み違え、大事に至る危険があった事については気づいていなかった。

 マークは江戸の神社仏閣を見学した後、浦賀から、自分の船でそのまま外洋に出ることになっていた。鍋島一行は陸路で帰るとのことだった。
 今回のことは記録には残らないこととして、処理されることになった。
 迎賓の館となっていた紀伊家の首席家老が挨拶に来る。藩主は参勤交代で国元にいるとのことだった。
「ご所望の人形ですが、この中でお気に召すものがありましたら」
 そう言われて運び込まれたものは、衣装人形、市松人形、雛人形の十体ほどである。
 藩主の正室が自ら選んで手配したものだった。
「ああ。有難うございます。母への土産にしたいのです」
 一体一体をじっくり見ていき、織江に似ている顔を探す。
 その中で衣装人形の中の豪華な振袖を着ている人形が一番似ていると思い、同じものを二体購入した。


 *****
 
 
 浦賀には大勢の見送りが来て、鍋島宗教と肥前藩士、永井とその家来衆がいた。
「また来ます。必ず」
 マークが爽やかな笑顔でそう言うと、永井がはははと笑う。
「結局囲碁は一度も勝てませんでした。ではそれまでせいぜい励んでおきましょう」
「奉行もか。ははは。ああ、まったく強かった」
 宗教が笑い飛ばす。
「また対局できる機会を待っていますぞ」
「ええ。是非!」
 マークは貞晴を見たが、貞晴は下を向いたまま顔を上げなかった。

 この男には負けない――。

 必ず戻ってくる、マークはそう心に誓ったのだった。

二十四、

 オランダ商館長がわざわざ蒔田屋を訪れて渡すものは、マークから織江に向けた書簡と贈り物である。
その書簡を渡すことで関税を甘くし、織江の署名の入った受取りの書類が届かなくてはそれを履行しないということから、商館長としては忌々しくもそれを届けに行かなくては商売にならなかった。
オランダ東インド会社の創業者一族にそう言われれば従うしかない。
うまく手を回され、毎度丁重な扱いを求められた。

 本陣の門をくぐると、訪れを心待ちにしている織江の姿を見て、いつもは部下にその役目をさせていたが、今日は皆出払っていて自分が行く事にし、その表情をみれば、悪くはない役割かもしれないと思った。

 ――殿下をあれほど首ったけにした女だ。
 ――傾国の美女とまでは言えなくとも、さぞかしいい女なのだろう。

それまでも幾度となく会っていたが、特別なものを感じていなく、だが、見る目が変わっていた。
「お待ちかねのものを持ってきましたよ」
 座敷に通され、受取書に署名をもらいながら、織江が頬を紅潮させてそれを受取ろうとするその動作をみると、その動きひとつひとつがきびきびとしていながら艶めかしさがあり、何とも言えぬ色気が漂い、それは以前にはなかった動き方だと思った。

 ――なんだ、この色っぽさは……。

「はい。商館長様。こちらでよろしいでしょうか。今日は直々にありがとうございました」
 ドキリとする。
面と向かって話をしたのは初めてだった。
 
――何という声だ……。こんな声だったのか。

 急に体が熱くなったような気がした。
 そうして見て見れば、織江が優しく微笑み、その顔はこの上なく美しいものに見える。思わずじっと見つめてしまう。

 ――やられた。

「商館長様?」
「……は……は、お見事なオランダ語で驚いていました」
 織江がにこにことする。
「ええ。ガーリア塾で鍛えられていますので」
 もっと何か話すことがないかと話題を探すが、思いつかなかった。
「では、確かに。これで失礼いたします」
 すると織江は丁寧にお礼をする。早く手紙が見たくてたまらない様子が伝わってきた。去り難かったが致し方なく、腰を浮かした。


 織江が逸る思いに突き動かされながら客室から家に渡っていくと、廊下を木枯らしが吹き抜ける。

 ……この風はマーク様がいるところから吹いてきたのかしら。

 そっと腹部を撫でる。
母に決して身体を冷やしていけないと毎日耳が痛くなるほど言われている。
 自分の部屋に入り、大きな赤い粘土のようなものがついている封を取り、紙を広げていく。
『愛しい我が妻オリエへ』
 二人で考えた暗号の文章だった。誰に見られても内容を知られることはない。
『身体を大事にしていますか。ベイビーはどんな様子ですか。オリエの身体の中にいるのは私の分身と思えば私は常にオリエのそばにいるのだと思い、どんなにつらいことがあっても耐えられます。オリエと離れていること以上につらいことはないのですが』
 封筒の中には指輪が入っていた。
『母から受け継いだ指輪です。西洋では結婚の時に指輪を交換するのです』
 重い宝石のついた金の指輪は相当価値のあるものだとわかった。
『私がオリエにこれをつけたかったけれどその思いだけを伝えます』
 薬指が一番ぴったりすると思った。
『どうかオリエが寂しい思いをしませんように。そして悲しいことがおきませんように』
 その指輪はマークの一部のように感じた。
「マーク様に包まれている私に身の上に悲しい事など起こるはずもありませんわ。私は寂しいとも思っておりません。ただひたすらに再びお会いできる日を楽しみにお待ちしている毎日です」
 満ち足りた思いだった。
 毎度毎度手紙と同封されてくる小さなものは織江を包むものになっていった。
指輪に唇を寄せる。


 *****


 マークがそんな織江からの返事を読み、また更にその返事を書こうと筆を取っていると、扉がいきなり勢いよく開けられた。
 慌てて手紙を仕舞う。
「毎日毎日部屋に籠って何をしておる? われのところに住まぬのはなにゆえだ」
 入ってきたのは統帥、大伯父だった。
 このような無礼な行いがまかり通るのは他にはないことである。
「いろいろ調べ物がありますので。それとも毎日何を調べたか、一日の行動を陛下にいちいちお知らせしなければなりませんか? それに自分の家に住んで何が悪いのですか。ベルナドット家の管理は陛下からのご下命だったはずです」
 そう一気に言うとつかつかと近づいてこられる。
 そして腕を取られて、接吻された。
ねっとりと舌を絡ませられると、織江に欲情した身体はその刺激に反応してしまう。
「そのような反抗的な態度を取っていいのか。ん?」
 性感帯を知られ尽くされたその身体は容易にそれに屈していく。
 織江を裏切っているような気がしてくる。
「ふふふふ。こちらは素直だな。われが欲しかったか」
 男色の快楽の世界は特別である。
それを知った者はなかなかそれから抜け出せない。織江との天国を歩いているような愛の営みが地に落とされていくような気がした。
「それほどに欲しいか。ならばどうすればいいかわかっておるな」
「………………」
 
 そんな肉欲の行為が済み、ぐったりとした身体を起こすと、仕舞い込んだ手紙を机から引き出されていた。はっとして起き上がる。
「それはあまりにも失礼が過ぎるでしょう!」
「……何を企んでおる?」
 凄まじい形相だった。
「誰に宛てた暗号だ! 申せ!」
「…………………………」
「裏切ったのか?」
「裏切りなど、そんなことはありません。それは日本で知り合った友に宛てた文です」
「友人に書く手紙をわざわざ暗号にする必要がどこにある」
「暗号の研究です。それにつきあってくれているのです」
 毅然として言うと、バチンと大きな音を立てて頬を叩かれる。
「フランスの反乱に加担していたら、お前でも容赦はせぬ!」
 叩かれた衝撃に片目をつぶりながら溜息をつく。
「そんなことがあるわけないでしょう」
「まあ、いい。そんなことができぬようにする。次の神聖ローマ皇帝はお前だ」
「……え?」
「皇帝を経たあと、統帥に据える」
「それはハプスブルクに決まっているでしょう!」
「いいや。フランスのブルボンが倒されてこのままではスペインのブルボンも共倒れだ。それを阻止する。ブルボンの娘を妃に据えればそれでスペインも安心するだろう」
「……妃?」
「なに、心配ない。妃がいようといまいとわれとの関係が変わることはない。盛大な結婚式にしよう。そしてブルボンの血筋の妃に子を産ませるのだ」
 愕然とする。
「……いやだ」
 首を左右に振る。
「……結婚などしたくない……」
「ほお。それほど一途だとは嬉しく思うぞ」
 ふふふと薄笑いを浮かべながらマークの唇に指を這わせる。
 それから逃れるように顔を背ける。
「……フランスなどそのまま共和国として認めてやればいいではないですか」
 するとまた頬をぶたれる。
「お前は! 日本に行って頭をからっぽにしてきたのか? それともやはりお前が片棒を担いでおるのか!」
「違います! なにゆえそのようなことを疑われるのか!」
 大声をあげると統帥はにやりと笑う。
「われは何か隠し事を持っている奴の心はすぐわかる。瞳が恐怖で揺れるからだ」
 暗号の手紙を握り締める。
「心外です。私が陛下を裏切るはずがないでしょう」
「これは預かる。こんな暗号などすぐ解いてやる」
 もし解読されたとしても友が会いたいと言っているだけだと言い逃れできるはずだった。
「お前が裏切っていないのであれば証を立てろ」
「結婚はいやです」
 睨みつめると統帥は高笑いをした。
「ははははは…そうか。これは新しい恋人か。ふん。女か?」
「単なる友だと言っているでしょう。陛下でも嫉妬されるのですか」
「ふん。ならば結婚できるな」
 いずれにしても敵わぬ相手だった。
「……結婚はいやです………」
「一族会議にかける。その決定は覆せぬ。お前の母であってもな」
 顔を強張らせる。
 それは最後の砦だった。
大伯父を黙らせるにはその泣きどころである母に頼めばいいと思っていた。指輪を欲しいと言った時に母は全てがわかっている様子だった。
 …この関係についても。


――マーク。
……はい。母上。
――統帥に何か言われて困ったことがあったらすぐ私に頼りなさい。いいですか。マークは自分の幸せだけを考えるのよ。あなたが一族のことに縛られる必要はないのです。

 そう言われた時、もっと早く母を頼ってもよかったのかもしれないと思った。
 ただ母を傷つけたくないと思い、踏みとどまってきたのだった。

……母上。私は心から愛する女性と巡り合えたのです。その人と共に過ごしたいのです。

 織江に似ている人形を手にしている母は優しく微笑んだ。

――左様ですか。マーク。それはとても素晴らしいことです。是非その道にお行きなさい。

……けれど多くの困難が。

 手を握られる。

――諦めたらそこで道は消えてしまいます。諦めない心、それを持つことが大事なのです。

……諦めない心…。

――さすれば日本と欧州など一日で行けるようになることでしょう。
日本人形を撫でながらそう言う。

――会ってみたいと思います。マークの愛する人に。
 母と織江はとても気が合うような気がした。

……会わせて差し上げたいです。きっと母上も好きになると思います。
 母がにっこりと笑う。

――それはとても楽しみです。

 そんな母の言葉を胸に跪く。

「……どうか、何でもします。お願いです。元より忠誠を誓った身、何でもいたします。しかし結婚だけはいやです。お願いします」
 統帥がにやりと笑う。
「何でもすると申しながらそれはいやだとは…自分が何を言っているのかわかっていないらしい。お前は日本で遊び呆けすぎて誠のうつけになったのか」
「……どうおっしゃられようとも………」
 統帥が上から射るように見る。
「舐めろ」
 そう言いながら靴のままの足をマークの目の前に出す。
「………………………………………」
「何でもすると言ったな」
「………………はい」
 磨き上げられた皮をなめした靴は光沢を帯びており、その皮の匂いが鼻をつく。舌を長く伸ばした。
「服従する相手を間違うな」
 元より大伯父に抱かれた時から壊れた心だった。
だが、今は織江を守る為ならば何でもできると思っていた。
しかし、オリエがこんな自分を見たらどう思うだろうか。男妾のこの姿を…。
 自分にはオリエを愛する資格があるのだろうか、そう思うと心が折れていくような気がした。
 統帥は言いなりになる様子に更に苛立つ。
唇を這わせている足をがっと動かし、頬を一撃する。
「……ならば皇帝はいい」
 頬を押さえてその痛みに耐えていると仰向けにされ、服を乱暴に脱がされて体を繋げられる。
「………っ!」
苦痛に顔を歪める。
身体が裂けていく痛みだった。
声も出ない。
「統帥になれ」
 マークは皇帝にされて結婚するよりそのほうがいいと思った。


 *****


 数週間後に一族会議が開かれた。
 フランス、イングランド、ベルギー、オランダ、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、その他各国普段は勢力争いに忙しい国同士の王や王族達ではあるが、滅多にない一族会議の招集であれば断れなかった。どんな用事よりも優先される。
 同じテーブルにつけば、互いの顔色を見合う。
 そこに統帥が現れると一同は顔色を変えて立ち上がる。
 その円卓の上座とされるところに当然のごとく座ると、一同も座る。
ぎろりという言い方がもっとも相応しいその瞳の動かし方には普段は傅かれている王らが縮みこむ。特にフランスのブルボン家は気の毒なほど怯えていた。
「忙しい中、よく集まってくれた」
 一同固唾を呑む。
 ねぎらいの言葉が掛けられるときほど恐ろしいことはなく、冷や汗が出てくる。
「ルイが処刑されるらしい。裁判は決した」
 今知らされたばかりの情報だった。
 そうなるとは危惧していたが、楽観したいところがあった。
 皆は息を止めた。
 そのルイ国王の弟は身の置き場もないような様子である。
「馬鹿者どもよ」
 吐き捨てるような言い方に皆は背筋が凍るようだと思った。
 まだ怒鳴りつけられるほうがましであるというものである。
 一同、顔から血の気が引いていく。
「民を餓えさせればこのような事態になると再三言っておいたであろう」
 項垂れる以外できることはなかった。
「ふん。もはや取り返しがつかぬ。よいか。これは有ってはならぬことなのだ。民に国を支配できるはずがない」
 空気がこれ以上重くなりようがないというほど沈んでいく。
「混乱が混乱を呼び、秩序は破壊され、殺戮を繰り返す始まりとなる。王が民に処刑されるような野蛮なことを罷り通させてはこの大陸に未来はない!」
 オランダはすでに連邦共和国だったが、それは一族の合議の上で成り立たせたものだった。市民による反乱とはわけが違った。
 その議場の緊張感に皆が苦痛になってくる。
「徹底してそれを阻止する。共和国宣言の撤回を求め、国家として認めずの声明を出せ。その上で強硬手段に出たらそれを潰せ」
 これ以上明確な指示はないというものだった。
 統帥とは王の守護者であった。
 王たちは民の守護者のつもりでいたが、その民が怨嗟の声を上げ自分たちを殺そうと押し寄せるなど誰もが少なからず傷ついていた。
そして起きるであろう戦いは、フランスの民との戦いではなく、自国の民との戦いでもあると思った。
皆の心は決まった。

 ―――負けるわけにはいかぬ―――

「そこでわれも忙しくなるゆえ今のうちにこの者の披露目をしたい」
 統帥は高らかに言った。
「次代統帥マキシミリアンだ」
 そう言うと扉が開けられ、マークがそこに立っていた。頭は下げない。何もかも言われた通りにしていた。
「おお…やはりベルナドット殿が…」
 オランダの首長がそう言いながら目を細める。
「若輩者ゆえわれが教育しながらこの難局に当たっていく。一同よろしいな」
 一同が静かに頭を下げる。そこに誰かが走ってくる音がする。
 マークの母、アーリだった。
その円卓の上座にいる統帥の頬に鋭い音を立てながら平手打ちをする。
「そなたたち! 私は認めておりませんよ!」
 一同が、その姿を見た瞬間に座を離れ、平伏する。
統帥でさえ膝を折っていた。
 マークは何が起きたのかと愕然としてその光景に立ち尽くす。
 その中のオーストリア皇帝が顔を上げ、静かに言う。
「主よ。統帥の決定を我らが承認しました。何ら差し障りはありません」
「お黙りなさい!」
「は!」
「なにゆえ私に内緒でそのようなことをするのです!」
 統帥がふふふと笑う。
「主にスヴァルトからわざわざお出ましいただくほどのことでもありません。神は天上にて楽しくお暮しになっていればよろしいのです。地上のこの醜き争いは我らに任せて」
「ボブヴィライアン!」
 統帥の名前を呼べるのはこの世にたったひとりしかいなかった。
 名前を呼ばれて鷹揚にこうべを下げる。
アーリは焦燥感を露わにする。
「マキシミリアンを返しなさい」
「返す? これは…異な事をおっしゃる。まるで我らが攫ったかのような言い方だ」
「返すのです」
「よろしいですか。統帥になりたいと言ったのはマキシミリアン本人です。神の子であればその資格は十分にあり、こうして皆の合意を得たところです」
「無理やりそう言わせたのでしょう!」
 アーリが大声を張り上げる中、マークは事態を把握しようと必死に考える。
「神……?」
 周囲を見回すと、誰一人顔をあげずに俯いている。
「ああ。マキシミリアン。お前の母は現人神だ。この世界を守る神なのだ」
「意味が……」
「わからんか。まあ、それも道理。ふふふ」
 統帥が眼光を放つ。
「疑り深いことです。マキシミリアン。母上に自らが望んだことを言ってやりなさい」
 そう言われて表情を落とす。
「マーク! いいのです。この者たちの言いなりになることはないのです!」
 アーリが声を張り上げると統帥がにやりとする。
 その様子を見て、母がどれほど窮屈な立場にいるのかを理解した。
「……はい」
「マーク?」
「母上。私が進んで統帥にしてほしいとお願いしたのです」
「マーク。およしなさい!」
「それほど気を煩わせなくともよろしいのです。ご心配ありがとうございます。私なら大丈夫です」

 統帥――。

それは終身独身を貫く立場である。そして私事は認められず、手紙等、言動全てが公的なものとなる。
「……何ということを………それでは………」
 統帥が満足したような様子で立ち上がる。
「神は我々とは違う次元にお暮しで、世俗の事はよくわかっておいでではないようだ。では、方々よろしいな。これにて散会とする」
 統帥がマークを一瞥したあと部屋を出て行く。
 王らはマーク母子が動かぬ限りは退出できず、マークは思わず項垂れている母の背中を押すようにして部屋を後にした。

「……マーク…」
「さあ。母上。お送りしますよ。父上もいらしているのですか」
「マーク……私は…」
「何もおっしゃらずに。生まれたときからの私の役目を心得ておりますから」
 廊下の先には父が立っていた。
 居たたまれないような様子の、何もできぬことに苦渋の表情を浮かべているような顔をしていた。
 苦笑する。
「父上、母上。今後は外出もままならなく、あまりお目にかかれなくなるかと存じます」
 アーリが嗚咽を漏らす。
「マーク……」
「母上。どうぞもう泣かないでください。私なら本当に大丈夫ですから」
 アーリは言葉をつなげることができない様子だった。
 逃れようのないことだった。
 そして、今回のことでよくわかったと思った。
 母の血を受け継ぐ者を狙っていたのだと。
 神の子など、今まで言われたことないことを言われて、腑に落ちた気がした。
 つまり、

 ――自分は最初から生贄だったのだ。

二十五話

 普賢岳が噴火するらしいという噂は広がっていった。
 昨年から起きていた群発地震は正月を迎えると回数を増していったのだった。
蒔田屋では大事なものを蔵に収めるようにし、掛けている客室の掛け軸などはなるべく貴重品でないものを飾っていた。
 織江が憂鬱そうな溜息を吐く。
 憂鬱の原因はいくらでもある。
地震で転んではいけないとガーリア塾に行くのもやめ、友人との交流もなくなり、毎日家に閉じこもってばかりの日々であることと、日に日に身体がつらくなってきたことと、何よりもマークからの手紙が途絶えてしまったことだった。
 毎日書いていると思われたその手紙は船便でどっさりとまとめて届いていた。
しかし、この間のオランダ船にはマークの手紙はなかったとのことだった。
それに意気消沈し、それでも心を込めた手紙を出そうと筆をとる。
『お元気にお過ごしでいらっしゃいますか。
 こちらは毎日地震が起きて、人々を不安にさせています。そのせいか、キリスト教信者と仏教徒の間で揉め事が起きていて、余計に嫌な雰囲気となっています』
 そこまで書いて筆を止める。

 ……きっとお忙しいのよ。

 まだそれほど膨らんでいない腹を押さえながら、ねえ、きっとそうよね…と胎児に声を掛ける。
「お父上は…お偉い方なのですもの。忙しくて文を書く時間を持てないのよ」
 心が縛り上げられていくような悲しみが襲ってくる。
「……きっと……、お手紙が書けないほどお忙しいのよ……」
 妊婦となってからは少しのことで精神的に不安定になり、すぐ悲観的に考えてしまっていた。

さめざめと泣いていると奈津が部屋に入ってくる。
奈津は織江の身の上には同情はするがそれでも鼓舞しつづけなくてはと歯を食いしばる。
「織江。そんなことではお腹の子が不安で栄養不足になりますよ」
 しくしくと泣いていた顔を奈津に向ける。
「……赤ちゃんが栄養不足に?」
「そうですよ。母親の良い事も悪い事も赤子はみんな吸収してしまうものなのですから」
「……悲しいことも?」
「母親が泣けば、子供も泣いているものです」
 ぐすりと鼻をすすると、奈津が布を持って織江の顔に当てる。
「だから良い事を考えなさい。元より離れることはわかっていた上だったでしょう。だったら、それほど悲観するのは我儘というものですよ」
 織江が布に涙を染みらせる。
「お前はそうやって泣いていますけれど、マークさんは泣けないのではないですか」
「……え…」
「つらいのはマークさんも同じということです。お前をあれだけ思っているんです。どれほどお前に会いたいと思っているか、そのお腹の子の成長をどんなに見守りたいと思っているか、私にはわかりますよ」
「……そう…ですわよね…」
 奈津がふっと笑う。
「この世で一番不幸なのは自分だとでも思っているのではないでしょうね」
 厳しい口調だった。
 織江は心にずきりとした痛みを感じた。
「そ…そのようなことは思いませんけれど、他の方と比較できるわけでもありませんし」
 そして、マークに捨てられたのではないかという不安に揺れていて、奈津はその気持ちを察していた。
「文が届かなくなったならば、私ならご病気やお怪我を心配します」
 はっとする。
「……まさか、……動けないほどひどいことになっているのでは…」
 余計に会いたくなる。
 すると、奈津が呆れたような顔をした。
「織江。確かに愛しい人と会えないのはつらいだろうけれど同情しませんよ」
「お母様……」
「いい? 織江。世の中に夫婦となっている男女がごまんといるけれど、」
 ふうと息を吐く。
「心を通わせている夫婦の数は案外少ないのではないかと思っています」
 え、と織江が動きを止める。
「皆、親同士が勝手に決めた縁組が殆どだろうし、本人たちだって祝言に初めて顔を合わせて、これからは夫婦として暮らしなさいと言われれば、そういうものかと思うだろうし」
 奈津が、左衛門がいる宿の方角を見る。
「それが一緒にいるうちに情が湧いてきて、これが夫婦かと思い、日々が過ぎていく」
 ふっと何かを振り切ったかのような顔をする。
「けれど、どこに出会いがあるのかはわからないもので、どのような立場でどんな状況であろうと、出会ってしまった者同士はその瞬間から周りが見えなくなる」
 その言葉に晩餐会の夜が甦ってくる。
「そういう者たちを大勢見てきましたよ。そして夫婦になれないからこそより深く結ばれる、そういう事もあるのだとわかったのです」
 奈津がお腹に優しく触れる。
「お前のここにはマークさんとの思い出を背負ってくる大事な御子がいるのでしょう?」
 奈津の瞳が一瞬揺れる。
「……惚れぬいたお人の子を産む…。これ以上の女の幸せがあるでしょうか」
「お母様……」
「大事にしなさい。自分の心を、」
 真っ直ぐ視線を向けてくる。
「マークさんの心を、」
 腹部に当てた掌が熱くなる。
「二人の思い出を、そしてこの子を」
 織江は、もしかしてお父様以外のお方と……? と、口に出しそうになるのを押さえる。
「あ…ありがとうございます。良いお話をお聞かせくださいまして」
 奈津が立ち上がる。
子が生まれた後の世間体を考えると奈津は気が重かったが、そんな様子は見せなかった。
混血の子を育てることの難しさはよく知っており、そうは言っても自分たちにとっては孫であり、可愛いはずだった。

 ――天主堂に預ける。

 織江を傷つけようとするものから守るにはそれしかないと左衛門と二人で出した結論だった。異人の子が集まっている場所だった。
 自分たちが天主堂に会いに行けばいい。歩いて半里ならば遠いところではなく、嫁に出したと思えばいいと。
「身体がつらいからと言って横になっていてはだめよ。お腹が大きくなってきたら余計に動かなければお産がつらくなるのですから。難産は命さえ落とすのです」
 はい、お母様と言って織江が微笑む。戌の日を迎えてすっかり母親の顔をするようになった娘を眩しいと奈津は思った。


 *****


 しかし、奈津の思うように事は運べなかった。
 きちんと結婚していなければ、織江の入信は受け付けず、その子供も預かれない、未婚の母は許されぬと言われてしまったのだった。異人に捨てられた女たちはその立場が現地妻であれ、結婚をした者として認知されていたが、あくまでも未婚を通す織江はその資格がないと撥ね付けられてしまっていた。

「………異国の神様っていうのは随分と料簡が狭いものですね……」
 奈津が大きく息を吐きながらぽつりと呟く。
「仏様や天神様とは違うのはわかっていたが……」
 左衛門も異教の神の壁の高さを感じていた。
「……尼寺に預けますか…」
 左衛門が首を左右に振る。
「それでは我らとて会えなくなってしまうではないか」
「………どうしましょう……」
「捨て子を拾ったことにしよう…」
「え? 捨て子として育てるのですか?」
「そうだ。そうしよう。それまで織江を隠し通す。流行病ということにする。奉公人たちにそれを告げる」
「お前は捨てられた子だと言って育てるのですか!」
「……織江をひとりにさせないことが大事だ。腹の子も可愛いが、俺はまずは織江が可愛い。尼寺なんぞでどれほど苦労させられるかなど想像もしたくない」

 *****

 左衛門がそれを織江に告げると織江はただ涙をぽろぽろと流した。
「私が母であると言ってはいけないのですか」
「お前が育てるのだから、母であると言っていいだろう。そう呼ばせればいい」
「……けれど、捨てられていたと……」
「そうしてくれ。生みの親は他にいるということにしてほしい。異人に捨てられたおなごが育てる自信がなくなり捨てたのだろうと近所親戚には言う。お前が拾ったと」
「……そんな………」
 織江が咄嗟に腹部をさする。ぽこりと腹を蹴られた気がした。

 ――それでいいよ――

 そう言われた気がしたのだった。
「この子が幸せになれますように」
「……ああ。そうだな。そのためにできるかぎりのことをしよう」


 *****


 そうしてさらに隔離させるように織江が生活する中、普賢岳は噴火した。
 寛政四年二月のことである。
 その溶岩流は二か月かけて降りてきた。
しかし地震は依然として止まず、まだまだ噴火は収まらないと人々を不安に駆り立てていった。
そして桜が散り、春爛漫の季節になると地震がおさまっていき、火山活動も終盤だと皆は安心し、行き来を止めていた人たちも再開するようになったが、しかし、そのような季節を吹き飛ばすかのように、突然の大地震が起こり、今度は眉山が崩壊し、大量の土石流が島原の町を襲った。
 長崎の町も断続的な地震に建物が崩壊していく。
頻繁に起きる地震のために火災予防をしていたが、建物の補強までなかなか手が回らず、造りの弱い建物は崩れていった。
 島原の国だけでなく、対岸である肥後の国にも大きな津波被害を齎し、後に『島原大変肥後迷惑』と呼ばれる死者・行方不明者双方の国を合わせて一万五千人という甚大な被害は、噴火災害としては歴史上類を見ないものとなった。
 
 ちょうど左衛門が魚の仕入交渉で港に行っている時の事で、大きな地震が二度も襲ってきて、最近地震が止んできたところに油断もあったのだろうと思われるが、高く積み上げられた木箱が左衛門の頭上に落ち、命を落とすという大きな悲しみの日となった。
 蘭方医たちが頭の中の血腫を出す緊急手術をしたが、その甲斐なく還らぬ人となったのだった。

「……お父様……」
 織江が遺体となって帰宅した父と対面を果たすと泣き崩れる。
 奈津は衝撃のあまり放心状態だった。
 地震で修復しなければならない箇所が多数あり、そのやりくりもあり、地震により長崎で確保している舶来品の値が上がらぬうちにと買い求めに来る全国の人々で宿は毎日満室の状態が続き、手伝ってほしい織江は人前に出せず、奈津は忙しさの中で折れそうになる心を必死に支えていた。そういう時に親戚は余計なお節介を焼いてくるものだ。蒔田屋は左衛門の弟が引き継ぐべきだと言い出した。
「織江は婿も取らないつもりかい? ならば跡継ぎがいないじゃないかい。流行病でそのまま寝付いているそうじゃないか。そんな病持ちじゃ誰も女房にしてくれないさ。それだったらうちの忠助に任せた方が家も安泰だというものさ」
 奈津がそう言って言い寄る親戚に苛立つ。
「今に立派なご縁があるのです! 跡継ぎもしっかり作ります! ここのことは私がしっかりやっていきますので、どうぞご心配くださいませんよう」
 ぎりっと睨みながらそう言い放つ奈津には凄みがあった。
「お引き取り下さい!」
 親戚連中が舌打ちしながら帰ると奈津は仏間に閉じこもる。
 奈津の読経が家中に響いていった。

二十六話

 夏が盛りを迎えた頃、織江は出産を迎える。
 産婆は奈津が手配してきた長崎ではない出身の口の堅い者である。
 織江が歯を食いしばり、その痛みに耐えていると、奈津が背中をさする。
 蝉がじりじりと鳴き続けていて、暑さを増していくような音が響き渡り、団扇で扇いだところで、涼を得ることはできない。
 産褥に立ち会う者は全員汗だくであった。
 織江は玉のような汗を流しつつ、痛みに耐えている。

「織江。まだまだこんなんじゃ生まれませんよ。その障子の桟が霞んで見えなくなるほどでないと」

 奈津にそう言われ、それがどれほどの苦しみなのか想像ついた。
 迫りくる陣痛は腰を砕いていくようだった。
 獅子威しの音が蝉の声に威嚇するように響くと、一瞬蝉の音が小さく聴こえた。
 しかし、それは、陣痛の間隔が狭まっていることでそのように聴こえるだけだった。

「う……うう…………」

 産婆が腹部に手を這わせる。
「まだまだ息まない。はい、息を吐いて、吸って、ああ、上手だ」
「あああああ!」
 悲鳴をあげると産婆が笑う。
「ほらほら。声を出したら赤ん坊もびっくりして止まっちゃうよ。声を出さずに踏ん張ってごらん」
 無理…と気弱な声を出してしまう。
「織江さん。しっかりしなさい。赤ん坊は出ようとしているんだよ。母親が頑張らなくてどうする。はい。力を入れて、押し出すように。ほれ!」
 産婆のその掛け声に息む。
「そうそう、上手だよ。織江さん」
 額に血管が浮き上がる。
「織江、しっかり!」
 奈津が力を与えるように織江の手を握り締める。
 産婆が、気合いを入れ直すように自らの腕をさする。
「じゃあ、いくよ。ほれ!」
 音頭を取るように声をかける。
「よし、いまだ、それ!」
 その掛け声と同時にいきむ。
「そうそう。はい!」
 その合図に呼吸を合わせる。
「いいね、ほら、もうそこまできている。いくよ。ほれ!」
 身体がめきめきと音を立てて、赤子を押し出そうとする力に支配される。
 壮絶な痛みと苦しみである。
 出ようとするものに引き摺られるように渾身の力を込める。
「もうすこしだよ!」
 目を見開く。

「それ!」

 痛みの極みであった。
 逃れようがなく、ひたすらそれに耐えるほかなかった。
 見開いた目から涙が零れる。
 苦しさのあまり、何かに縋りたいと思った。 

 ……助けて…、マーク様……。

 すると、聴こえたような気がした。

 ———オリエ————————

 ほぎゃああと赤子が泣き声を上げる。

「……ああ…」
「ああ。これは元気な男の子だ!」
 産婆が嬉しそうな声で言った。
「……男の子。織江。男の子ですって、よかったわね」

 ……男の子……。

 大きく息を吐く。

 ……男の子が生まれましたよ。マーク様。

 身体から力が抜けていった。


 *****


 奈津がその姿を見た瞬間に身震いをした。
 可愛さもあるが、左衛門の生まれ変わりのような気がしたからだ。
 守らなければならないと思った。
 何が何でも命を懸けても織江とこの子を守らなければと。

「何て福々しい顔をしているのでしょう。いい子に育ちますよ」

 その声に織江はその姿が見たくて薄目を開ける。
 産婆が産湯につけて綺麗に赤子の身体を洗い、布にくるみ織江の横に寝かせる。

「よく頑張りましたね。眠っていいですよ。後はおばあちゃんに任せて、なあ、奈津さん」
「ええ。織江は眠りなさい」
 その声を訊くまでもなく織江は眠りについた。


「では頼みましたよ」

 奈津が睨むような目つきで吾郎を見た。
 吾郎が、はい、と小さく言ったあと、立ち上がる。

 奈津の指示は、勝手口近くに赤子が入っている篭を置くというものだった。
 初めて出た乳を飲んで満腹になり、すやすやと眠っている。
 吾郎は、震える手を押さえた。
 自分がすることがこの先々どれほど自分を苦しめるのか想像もつかない。
 だがしかし、今はまだ日本人の赤子とどう違うのかわからずとも、少しすればその違いは一目瞭然なのだろうと思った。

 ――そうするしかここで生きていける道はない――

 それが左衛門の言葉だった。
 拳を胸に当てる。
 
 ……坊ちゃま。すみません。お許しください。

 籠を置き、逃げるように屋敷の中に入っていった。


 *****
  

 織江が寝ついている間に、奈津は客あしらいをし、呼んでおいた自分の客人を待つ。
 一緒に芝居を見に行こうと誘っておいたのだった。
 廻船問屋であり、交易商である裕福さでは長崎の町で一、二を争う家、緋山屋の内儀、香子、華子の母親である。

「奈津さま! お奈津さま!」

 勝手口からそう声が飛んでくる。
 奈津は計算通りだと思った。香子の口なら長崎中に噂が広まる。

「はあい。いま行きますよ」

 ああ、忙しいと袂を直しながら奈津が出て行くと、香子が赤子を抱いていた。

「捨て子ですよ!」
「ええ?!」

 奈津はこの嘘を通すためならどんな演技でもすると思っていた。

「まだ生まれたばかりのようですよ!」

 香子は随分と興奮した様子である。
 赤子を見ながら、顔を綻ばせる。
 赤子が抱けることに喜びを感じていた。
 同業者に嫁いだ娘の華子の姑は大変厳しく、殆ど里帰りをさせてもらえず、孫が生まれたが、滅多に会わせてもらえなかった。
 ついその孫の姿を重ねてしまっていたのだった。

「………誠に……」

 何て可愛らしい…と揺らしながら奈津に見せる。
 奈津がぎゅっと目を閉じる。

 ――堪忍しておくれ――

「…………ああ」
 
 堪忍しておくれ……。

「…あの人が……赤子になって戻ってくれた…………」

「え? 奈津さま?」

「香子さま…。あの人が戻ってきてくれた……んです」

「何言っているのですか。しっかりなさってくださいまし」

「この子はあの人に違いない……」

 半分本気だった。
 奈津が香子の腕から赤子を貰い受け、その胸にしかと抱く。

「………うちの人です!」

 香子は奈津の気持ちが少しは理解できた。
 自分の夫はたくさんの女に囲まれているが、奈津の夫は他に妾がおらず、奈津ひとすじだったと知っていた。
 その旦那に死なれてそう思うのも無理からぬことと思った。

 奈津は赤子を抱きながら涙を零す。
 その時、夫が死んでから一粒も流していなかったと気付いた。

「……このように可愛らしい姿になってしまって………」

 赤子が虫笑いをする。
 蕩かされてしまうような笑顔だった。

「なんと……」

 奈津は号泣する。
 止めどもなく溢れてくる涙は堪えようもないものだった。
 その赤子の笑顔は、左衛門の笑い顔に似ていた。

「あああ……」

 似ていたのだった。

 胸に抱きしめながら泣く。

 ――お前様……。


「…あれ…奈津さま。ほら、このようなところでは使用人の者たちも働けなくなってしまいますよ」
 香子ももらい泣きをする。
 吾郎も他の奉公人も皆、奈津が泣く姿を初めて見て、堪えきれない様子だった。

 宿は女将がいればそれで回っていく。
 板長も仲居も皆奈津に厳しく躾けられてきた。
 しかし、それは左衛門という旦那がいてこその女将の奈津だった。

「奈津さま。芝居はまた次回にしましょう。またその子の顔を見に来ます」

 こうして赤子は市民権を得たのだった。
 蒔田本陣の勝手口に誰かが子供を捨てていった。
 蒔田屋の女将はそれを左衛門の生まれ変わりだと言ってきかず引き取って育てることにした。
 もっぱら子育ては娘の方の織江がしているとのことで人々は容易にその話を信じていった。
 その嘘の正体を知っている者たちが、それを容認するようなことを吹聴したからだった。
 それは、長崎奉行の永井であったり、ユリアであったり、受け入れを断った教会であったり、産婆であったり、人々の好意に固められた嘘であった。

 そうして、織江はその子育てに追われていった。

二十七、

「………生まれた…」

 マークは夢を見ていた。
 毎夜眠りにつけば見ることができる。
 そして、今夜見た夢は実に生々しいものだった。
 その場に立ち会っていたような錯覚さえするほどの、まるで、織江の熱を感じるほどのものだった。
 部屋は暗く、まだ夜明けには遠い。
 ゆっくりと起き上がり、天井を見る。
 ふっと笑う。

 ――もう私は正気ではないのかもしれない――

 隣で寝ている大叔父が小さくいびきをかいていて、その褥から離れる。
 窓から外を見れば、星の瞬きが光り、その輝きは、まるで喜んでくれているように感じた。

 ――男の子だった――

 夢のような幻想のようなそれはまるで自分が浮遊して日本に飛んで行っているかのようだった。
 織江がそこにいた。
 苦しそうな出産では織江の名前を呼び続けた。

 ――無事生まれた…。

 首を左右に振る。

 ――しかし、これは…全て私の願望であり妄想なのかもしれない。

 それだったとしても、いい夢であり、幸福感に浸っていた。
 すると、 扉が勢いよく叩かれる。
 統帥が目を覚ます。
「……何ごとだ」
 不機嫌そうな声を扉に向けて放つ。
「ご就寝中申し訳ございません。火急の知らせにて。スヴァルト大公国より使者が見えております。大公妃様ご危篤とのことです」

「なに!」「なんですと!」

 統帥と同時に言った。

 茫然とする。

 フランスとの戦争が始まり、その対応に追われていてスヴァルトに余裕がなかった。

「そんな馬鹿な……。神が死ぬはずがない……」

 統帥が意味不明な言葉を吐く。
「どんな状況だ!」
 秘書官が怒鳴りつけると使者が頭を下げながら、一歩前に出る。
 使者は顔色を失いながら、もはやもうご意識がなく…と言葉を切った。
 統帥がぶるぶると身体を震わせる。
「……いますぐ馬を出せ。早くしろ!」
 冷静さを欠いた統帥を見るのは初めてだとマークは思った。
「嘘だ……」
 動揺するという姿を初めて見たのだった。


 *****


 どれほど馬車を飛ばしたとしても距離はあり、着いたのは一日経った後のことだった。
 統帥が飛び降りるように馬車から出て、走っていく。
 だが、もう虫の息だった。

「母上……」

 マークは母がそれほどひどい病気を患っていることが信じられなかった。
 あまりに突然のことでその事態に理解が追い付いていかなかった。

 アーリの横に寄り添うようにいる大公ロベールを統帥が突き飛ばすように体当たりし、その死出の旅に向かう人を揺り起こすように肩をゆする。

「貴方様は! なぜ! なぜこのようなことをなさったのですか!」

 もう目覚めぬであろうと思ったが、統帥の言葉に薄く目を開ける。

「……終わりにしたいからです………」
「許しませんよ!」

 アーリが目を瞑ろうとするのを阻止するかのように、両頬を包んで揺らす。

「なぜ! いつも貴方様はそうやって自分だけ逃げようとする! 貴方様がいなければこの世は混迷に陥るだけだとわかっておいでのはずだ!」

 統帥の激しい口調にアーリは弱弱しく首を左右にふる。
「……神などいなくても……人は生きていける……」
「わかっていながらいつも逃げる!」
 叫び声になったが、アーリが小さく息を吐いた。
「……むしろ、いないほうがいい……」
「なぜ! なぜそう思われる! 逃げれば逃げ続けなければならないということもわかっているはずだ! 何の解決にもならないと! この世界には貴方様が必要なのです! 戻ってきてください!!」

「…………マーク」

 それが最後の言葉だった。
 マークは唖然とするばかりだった。

 統帥が茫然自失として動きを止めている。

 そしてそれが憤怒の形相に変わり、鋭い視線は大公に向けられる。
 ロベール大公はがっくりと首を下げていた。そんな大公の胸座を掴んで殴りつける。
「貴様!」
 ロベールはその拳を受けた。
「何の為にそばにいたのだ! 何の為に貴様に預けたと思っている!」
 ロベールが宙を見るような目つきで統帥を見る。
「何故自分で命の時を止めるようなことを見逃したのだ!」

 ロベールが顔色を失いながらそのまま瞳は宙を漂わせていた。
 自害をはかるなど思ってもみなかったのだった。

「…いつも通りの日だった。畑に行って…娘のアンヌのところに遊びに行って…孫の顔を見て過ごして…普段と何も変わらなかった…」
「まったく……。所詮貴様はその程度よ」
 統帥が吐き捨てるように言うとロベールがふっと笑う。
「何とでも言うがいい」
「ああ。これで、貴様は主に到底及ばんことがわかったであろう!」
「私は、あなたとは違う! 私なりの支え方がある!」
「貴様に何ができる。この結末を悲しむくらいのことだろうが!」
「それでも!」
 毅然と顔を向けるロベールに統帥が拳を上げる。

「おやめください! 陛下! 父上!」

 マークは母の今見たその最期も、自分の知らない統帥と父母の関係など全てが信じられなかった。
 悲しみが襲ってこない。
 とにかく母は自ら命を絶ったのだとそれだけは明らかだった。
 統帥が舌打ちする。

「…この訃報に……皆が戦意を失いかねん。しばらく隠すことにする。葬儀は行わん。よいか。墓も作るな。ご遺体は燃やすよう」

 ロベールは小さく頷いた。
 統帥はそれだけ言って岐路に着いた。
 マークは父に何か言葉をかけてやりたいと思ったが、統帥が引き揚げると言ったら引き揚げるのであり、留まる事はできなかった。

 ――愛しい人の死の瞬間に立ち会う――

 マークはそれがどれほどつらいものなのか想像することができなかった。
 織江は永遠に生き続けてくれる気がしていたのだった。


 *****


 その日の夢は、織江ではなく母の夢だった。
 白いドレスを着た母がすぐそばに立っていた。

「マーク。どうしてもっと早く私に知らせてくれなかったの?」

 怒った顔をしていた。
 その怒りのせいか美しい面立ちだと思っていたが更に美しいと思った。
 黒い瞳と黒髪は父親似の自分たちにはないもので、とても憧れていた。

「……何についてですか?」

「ボブヴィライアンのことです。小姓のように扱われているのはわかっていましたが、伽まで務めさせられているなど想像もしていませんでした。まさか私の息子に…」

 あからさまに言われて羞恥心に耐えられなくなる。

「申し訳ありませんでした、母上。知られたら傷つくのではと思い、」
「ええ。傷つきます。けれどもあなたに言われなかったことの方がもっと傷つきます。私をもっと頼ってよかったのです。私はあなたを守りたかった…! もっともっと私を必要としてほしかったのです」

 けれどもそれはやはり言えなかったことだった。

「そんなに気を使わせていたなんて母親として失格ですね」
「いいえ! そんな失格などと!」
「もっとマークとたくさん話をすればよかった。あなたがあまりにいい子だったものでそれに甘えてしまっていたのです」
 それで良かった。母の悲しむ顔など見たくなかった。
「私ももっと母上と色々話をしたかったと思います。大人になってからはあまり話す機会がなく…。父上とのロマンスなどお聞かせ願いたかったと」
「私のことは良いのです!」
 赤面した母はとても可愛らしいと思った。

「マーク。よくお聞きなさい。あまり時間がないのです」
 一転して真面目な顔をする。
「はい。母上」
「たった一度きりの機会です。ボブヴィライアンはきっと私を日本に運ぶでしょう」
「運ぶ?」
「ええ。きっとそうするはずです」
「…意味がよくわかりませんが……。母上のことを皆が神と呼ぶ理由も意味も……」
「その機会を逃してはなりませんよ」
 もう消えてしまう気がした。
「お待ちください。母上。もしかして……その為に……」

 命を落とされたのでは……と言いたかったが、母は霧の中に消えていった。


 *****


 マークは見た夢に思わず起き上がる。
 褥には自分ひとりだった。
 帰館した時から統帥は自室にこもり、帰る馬車の中でも一言も口を訊かなかった。
 母への執着は異常であると思っていたが、大伯父と母の間にしかわからないことがあるのだろうと思った。

 ――私は身代わりだったのかもしれない。

 年齢からすれば、祖父と孫くらいの年の差があるはずなのに、母は年齢よりも老成したところがあり、大伯父は年齢よりもずっと若く感じる。
 もしかしたら、思い合っている間柄だったのだろうか…。
 そこに自分とよく似た容姿の父が浮かんでくる。

 ――いや。父と母は愛し合っていた。

 いつも葡萄畑で笑い合っていた姿が浮かんでくる。
 誰がその場にいようと二人は見えていないかのように接吻をし、抱き合い、まるで二人の為に世界はあるかのように見せつけられ、とにかくそれほどに愛し合っていた。
 その父たちの気持ちが今はよくわかると思っていた。

 ――オリエと共に暮らしたらおそらく自分もそうなる。

 だとしたら、大伯父と母との間に関係があるはずがない。

 ――しかし…。

 それならば母は何に苦しめられていたのだろう。
 子供も多い。自分を含めて六人いる。
 皆、他の王国に嫁いだり養子に行ったりと独立していたが、よく実家に戻って家族団らんの時を過ごしていると訊いていた。
 十三歳で最初の相手をさせられた時から、自分は他の兄妹とは違うと認識させられ、素直に父母に甘えられなくなり、楽しそうに暮らす家族の中、孤立しているような気がしていた。
 大伯父の異常なまでの自分への執着は母に向けられるものを回避する為のものだったのだとしたら納得できる気がした。

 ――大伯父の片恋――

 母はそれから逃げたかったのか。
 そう思えば母が父と結婚したいと言った時の大伯父の衝撃が伝わってくるようだった。
「ふふふふふふ」
 自然と笑いがこみあがってくる。

 ヨーロッパ大陸を自在に操れることができ、各国の王が平伏すその人が母に翻弄させられているそのことが面白いと思った。

 ――母とはいったいどういう人なのだろう。

 大伯父に憐憫の情すら感じてくる。
 静まり返った館の他の部屋から、ガラスが割れたような音が響く。
 大伯父がグラスを割っているのだと思った。
 どれほど肌を重ねようとも情愛を交わすことはなかったが、それでも今は少しばかりの情けがあった。

 ――大伯父も人であったか。

 部屋の扉を開けると、そこには酒瓶が何本も転がり、どれほど飲んだのかわからぬほどだった。それでも酩酊状態ではなく、酔えないようだった。

「……飲みすぎではありませんか。身体に触りますよ」

 統帥がぎろりという目つきを向ける。

「身体に触るだと? もう十分長く生き過ぎているというのに。まだ生きろというか」

 ――酔っていらっしゃったか。

「ああ。スヴァルトのワインでしたか。ではこれが弔いともなりましょう。私もおつきあいいたします」
 かろうじて残ったワインをグラスにいれる。
「やはり美味です」
 グラスをテーブルに置くと、封を開けずに置いてあるワインボトルが気になった。
「これは…?」
『1740、1792』と書いてあるだけだった。
 母の誕生年と今年である。

「神の雫だ」
「え?」
「これがあれば神はまた甦る」
 そう言いながら愛しそうに抱きかかえる。

 ただのワインだろう…と思いながらもそれを口にしなかった。

「……神の降臨だ……」

 ただのひとりの女性だろうと反論したくなってきた。

「この方に私は生かされている。ならば茨の道もつらくないと」
「な……」
「その為であればわれは何にでもなれる」 
 ボトルを抱きしめる。
「何も恐れぬ」
「………………」 
「……なのに…………」
 グラスを握り締めるとパリンと硬質な音が響き、ワインが床にこぼれていく。ワインに染まった手は血のようにも見えた。
 ぎろりと見られた。殺気を感じた。
「……貴様といることが幸せだと…そう言われたから……」
 父を見る時の大伯父の目だった。

 ――そうか。

 大伯父の心を理解した。
 父への憎悪と母への愛情が自分への仕打ちの根本だったと。

「ああ。こんなにしてしまって。勿体ないですね」
 その手を取り、舐める。
 ワインを味わうかのように舐めていく。
 指一本一本を啜り上げる。
「……は…」
 統帥がそれに快感を得たように喘ぎ声を出した。

 ――あなたも哀しい人だ――

 唇を重ねる。
 ゆっくりと舌を舐めまわして、官能を引き出していく。
 すると下半身に手を伸ばされ、同じように統帥の股間に手を伸ばし、泥酔状態であるはずなのに漲るそこに指を這わせる。
 跪き、それを口に含んでいく。

 ――母上……。

 つまり、これは私に架せられたものだったということです。
 急に母が恋しくなる。それとともに死が悲しみとして襲ってくる。
 涙がこぼれていく。

 母上――。

 教え込まれた舌技を尽くしていく。
「……ああ………いい…………」
 いつもなら服従させるかのように身体を貫かれるが、その晩はそのまま果てたいようだった。
「アーリ……」
 母の名である。

 ――母に抱かれている妄想を得ているのだろうか……。

 唾液を滴らせて激しく上下させていくと、絶頂が近く身体を硬直させていく。
 その動きを増せば、口の中に液体が迸っていき、それを飲み干す。
 再び刺激を加えると、また血が集まってくる。
 絶倫だった。
 統帥をベッドに連れて行き、なだれ込ませ仰向けにさせる。
 そこに四つん這いになり、自ら導きそのまま腰を振る。
 そのまま襲ってくる快感を受け入れていると同時に果て、統帥はやっと眠りがやってきたようで、深い眠りについた。

 ベッドから離れ、精液が残る口の中にワインを注ぎ込む。
 苦いと思った。
「ふふふふ」
 訳もなく笑いが込み上がってくる。
「ははははははは………」
 笑っているのに、悲しみの涙がこぼれていた。
 自ら大伯父を抱いたのは初めてだった。

「……違う。こんなものは…断じて…愛ではない……」

 両手の指を絡ませ、胸の前で組む。
 織江の顔を思い浮かべる。
 織江を遠く感じていた。弱くなる心を奮い立たせる。

 ――遥かなる愛する私のオリエ――。

 次期統帥として公人となった私は手紙すら書けなくなってしまった。

 ――夢で見たように子供は無事に生まれたのだね。

 何という名をつけたのだろう…。

 いいかい、オリエ。
 私は常に君の心に寄り添っている。
 私達は繋がっている。
 だから、どうか寂しがらないでおくれ。
 きっと私達の子供はオリエを笑わせてくれるはずだから。
 きっと強い子のはずだから。
 きっとオリエを幸せにしてくれるはず。

二十八、

 理音(りおん)と名付けられた蒔田屋の養子は、元気に育ち、五歳になった。
 透明感のある白い肌、柔らかな巻き毛の茶色の髪、焦げ茶色の瞳は、マークに良く似ており、誰の子供であるのか一目瞭然であった。
 くりくりとした大きな瞳には長い睫がかかっており、西洋人形のようなかわいらしさである。
 蒔田屋の誰もが、そんな理音の姿を見ると、腰砕けになり、しばしば作業の手を止めてしまうほどであった。
 その成長を皆が見守り、健やかに成長していったのであった。 
 だが、取り巻く環境はそれほど甘いものではなかった。

 吾郎がいつものように理音を神社に遊びに連れて行くと、そこには商人や農民の子供達が竹馬をして楽しそうにきゃっきゃと声を上げて遊んでいる。
 理音は吾郎の手を振り切って、嬉しそうに両手をあげて、近寄っていった。

「あ。坊ちゃん…」
 
 すると、子供たちが竹馬をやめて、石を持つ。

「異人の子だ!」
「え?」
 そしていっせいに理音に投げつけたのだった。
「異人の子は天神様で遊んじゃだめだ! あっち行け!」
 その石があたる。
 吾郎が抱え込んだが間に合わなかった。
 実際に投げるとは思っていなかったのである。
「こら! お前たち! 何をしている!」
 吾郎が怒鳴りつけると、子供たちは逃げていく。
 理音は仲間に入れてほしかっただけに、石をぶつけられたことに衝撃を受け、わんわんと泣き続けた。
 そんな理音を見て、まったく反省の表情もせずに子供らは舌を出したのち走っていく。
 吾郎にとっては知っている近所の子供たちであり、そんな残酷なことができると思っていなかっただけに悄然とした。
 
 ――異人の子……。

「坊ちゃん……」
「吾郎」
 ぼろぼろと大粒の涙をこぼして、泣き続ける。
「ほらほら、もう泣かないで」
「えっ、えっ、えっ……。ねえ、吾郎。どうしてみんなは私と遊んでくれないの?」
「………」
「いじんの子ってなに?」
 遅かれ早かれ自分はみんなとは違うのだとわかることである。
 吾郎は理音の涙と鼻を拭いたのち、肩をしっかりと支える。
「だめな子って意味?」
「いいえ。だめなどではありません。お偉い人の子って意味ですよ」
 吾郎はそれが正解なのかどうなのかわからずとも、とにかく安心させてやりたいと思った。
「おえらい?」
「ええ。とっても偉い人の子なんですよ、坊ちゃんは。だから、泣き止んでください」
「……えらいの?」
 褒められた気がして、にっこりとする。
「はい。偉いんです」
「そう!」
 満面の笑みを浮かべると、吾郎は唇をかむ。
 

 だが、悲しくて痛くてなかなか理音は泣きやむことができなかった。

「はい。坊ちゃん」

 吾郎がしゃがみこみ、背中を見せると、理音はぐすぐすと鼻水を啜りながら、背中に頬を寄せる。
 背負われると、すぐ眠りが来て、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をして眠った。


 *****


「そうですか……」

 吾郎から事情を訊き、織江が溜息をつき、抱き上げて、布団に寝かせる。
「神社に行くなと言えばますます癇癪を起こすでしょうね……」
 鳥居までの階段も天神様の鈴も理音の大好きなものだった。
 大方の異人の子供はキリスト教の施しを受けながら暮し、堂々と日本人の家族として、ましてや格式ある本陣の坊ちゃまとして育てられている異人の子など他にはおらず、非常に稀な立場となった。
 当然、日々の生活の糧に追われるような家庭の異人の子の社会には入れず、織江としてもその親たちと交流することは憚られ、日本人の中に入ろうとすれば苛められる。
 蒔田屋の仕入業者である親たちは恐縮するが、子供同士となれば親の事情など関係なく、苛めたいものがいれば苛めるものだ。その点で子供は残酷で容赦がない。
「ならばそこから自分を認めさせていくしかないでしょう」
「お嬢様。これはあんまりなんじゃないですか」
 吾郎は理音が可愛くてたまらなかった。
「坊ちゃんが可哀想で可哀想で」
「吾郎。しっかりお育てする。私はそう決めたのです。明日はガーリア塾にきちんと連れて行ってくださいね」
 それは道中じろじろと外国人からも日本人からも奇異な目で見られ、理音は恐縮してしまうものだった。
 異人の子は、理音が綺麗な着物を着て、下男に守られながら歩くその姿に妬ましさから、大きな声で「捨て子! 捨て子が来たぞ!」と言って笑って走っていく。
 こらあ! と吾郎が追いかけようとすると、周りの大人がそれを見てくすくすと笑っていた。吾郎が他に方法はなかったとしても理音が苛められ続けるのがつらくなる。
 ……これはいくらなんでも酷というものじゃないですかね………。

 ガーリア塾の門をくぐると、ユリアが待ちかねた様子で玄関先まで出てくる。
「王子!」
 吾郎はそのプリンスとか言う響きが好きだと思った。理音を名前で呼ばず、大人に接するような態度を取り、フランス語を徹底的に学ばせていた。それは、蒔田屋にわざわざユリア自身が足を運んで、奈津と織江に申し出たことだった。
 日本においてはまったく必要のないフランス語が理音にとってはとても大事なのだと説き伏せていたのだ。

 それは理音が四歳になったばかりの時のことだった。
「私がいつ陛下からお迎えが来ても恥ずかしくないようにお育てします」
 突然訪問してそう告げたユリアに織江が表情を固まらせる。
「……いいえ。そのようなことにはなりません」
 ユリアは織江の心情より大儀があると思っていた。
「全世界に向けてマキシミリアン殿下の次代統帥立儲の通達がありました。この子を認知すれば次々代統帥の資格が十分にあるのです」
「この子は、蒔田屋の理音です。うちの子なのです。この宿屋の跡継ぎです」
「オリエ。いずれにしても長崎で生きていく上では外国語の習得は必要でしょう。フランス語と英語、オランダ語を学ばせます。そして広く世界を知る知識を身につけさせていきます。それはこちらのお仕事でも役に立つのではありませんか」
 織江が押し黙る。
 確かに教育は必要な事だった。しかし理音が教会には入ることはできなかった。それにユリアほど優秀な教師は他にいないことは織江自身が一番よく知っていた。
「……………………それはそうですが………」
「悪いお話しではありませんね。では、お顔を見せてくださいますか」
 ユリアが嬉しそうな顔をした。
 織江が不安になる。
 いつか連れ去られてしまうのではないかと。
 吾郎が理音を連れてくると、ユリアが感動した様子で立ち上がり、恭しく頭を下げる。
「リオン王子。ユリアと申します。この度王子の教育係となりました。これからどうぞよろしくお願い申し上げます」
 それは臣下そのものだった。
 理音は訳が分からない様子の顔をして、織江が震えあがる。
 急いで外に行かせるよう吾郎に言う。
 姿が見えなくなったのを確認した後、織江がユリアに向き合う。
「先生おやめください。プリンスなどではありません。理音にそのようなことを教え込まないでください」
「殿下の御子を軽々しく考えてはなりません!」
 ユリアの厳しい声に織江は狼狽える。
 西洋の貴族社会で生きていたユリアにとって王族とは憧れの人々だった。その更の上の王の上に立つ王族はもはや神域にいる人々のようだと思っていた。その血筋が目の前にいる。ユリアをそれ以上に熱中させるものはなかった。
「捨て子として育てようとしたことはとても良い事でした。遠い国にお偉い自分の父と母がいて、いつか迎えに来ると思っていれば、多少の理不尽なことにも耐えられるでしょう」
「………私の子です」
「ご身分が高いゆえに様々な事情があって日本に預けられたのだと。オリエはとても良く育ててくれていると」
 ユリアにはもう野望があった。
 教育係として理音を連れていき、再び貴族社会に返り咲く千載一遇の機会なのだと。
 織江はそんなユリアの思惑を本能的に感じ、牽制する。
「……勝手に話を作り上げないでください。この子は私だけの子です。迎えなどが来ても決して渡しません。やはり先生にお願いするのは止めにします。教育は私が行います」
「……そうですか…」
 簡単に引き下がるわけには行かなかった。ユリアはその野心の為なら、どんな行動でもとろうとした。
 どんなに浅ましいと言われても、人は皆、自分が心から望むものの前に忠実なのだと苦笑していた。独断でマークの子供が生まれたことを、オランダを通じて伝えてしまっていた。

二十九、


 理音のことは、すぐ統帥の元に伝わることとなった。

 統帥の執務室の机上には雑多な書類が置かれている。
 敗戦の報告とフランス軍の勝利の内容を伝えるものが積まれていたのだった。
 腹立たしげに統帥がそれらを手で払いのけると床にばら撒かれたようになった。

「……ナポレオン・ボナパルト………」

 マークが小さく溜息をつき、ばら撒かれた書類を一つ一つ拾う。

 戦いに負けるという想定はなかったのである。

 自分もかなり戦争の進め方には頭を捻ったつもりだった。最初は勝ち進んでいたのだった。
 しかし、天才的軍師の前に敗戦となり、フランス国民が一致団結した力は猛烈な勢いで、繰り出される戦術は連合軍の隙をつくものだった。
 反乱は革命とされ、君主制を完全に否定した民による国家の誕生だった。
 そして、その天才軍師ボナパルトはその第一執政、国家元首となった。

 統帥が机に拳を叩き付ける。

 打倒ボナパルトに闘志を燃やしていた。

「……せいぜい勝ったつもりでいろ。今に滅ぼしてやる…」

 マークは心の中で溜息を吐く。
 しばらくこれで統帥の関心はフランスに向いており、隠居するなどは言わないだろうとほっとしたのだった。

「なんだ、これは……」
 オランダの首長よりの書簡に目を通す統帥の表情が変わる。
 最初単なる報告書だろうと目を通していたが、その内容に顔が引き攣るようになっていったのだった。
「どうなさいました? 何か悪い知らせですか?」
 統帥の形相は今までに見たことのないものだった。
 敗戦の報せに怒り狂う形相よりも恐ろしいと思わせられるものである。
「日本にお前の子供がいると書いてある」
「え」
 不意打ちを食らい、顔色を変えてしまった。
「日本で何をしていた?」
 その形相は嫉妬で醜く歪んでいる。
「子供を産ませるようなことをしていたのか?」

 追い詰められる。
 ここで否定してしまえば、その子供は自分の子でないと公的に否定したことになり、織江はその報せを受け取り、どれほどそれに傷つくか想像に難くない。
 しかし、認めたならば、統帥は引き取ろうとするだろう。
 それは織江から子供を引き離すことになる。

 ――逃げる。

「……定かではございません……」
 咄嗟にそう答える。
 狡猾さは身に着けていたのだった。
 統帥がぎりりと歯ぎしりする。
「ならば見に行くとしよう」
「え?」
「どうせ日本に行く用事があったのだ。そのついでに見ることとしよう。ボナパルトが席巻していくのを見ているのも忌々しい。良い気晴らしになる」
 マークは背筋に汗をかく。
「私も! 是非私もお連れください!」
 統帥が呆れた表情になる。
「それは無理というものだ。航海中に何事があるかわからん。次代までも船と共に沈んだら統帥がおらぬ事態に陥る」
 織江を生かしておかないだろうと思った。
「われが行くまでしっかりと教育しておくように頼んでおこう。秘書官!」
 そう声を張り上げると、扉が開かれて官吏が飛んでくる。

 マークは天を仰ぐ。
 心が遥か遠く日本に飛んでいく。
 目を閉じれば織江と子供の姿が浮かんでくる。
 織江に手を引かれ、自分たちが逢瀬を重ねたあの神社にお参りに行く小さな我が子が。
 ふっと笑う。

「私も書簡発信を頼みます。ボナパルト執政殿へ」

 統帥が顔色を変える。
「なんだと!」

 マークが凪いだ表情になる。
「もし私に何かあったら統帥の立場を貴殿に譲ると」

 統帥が平手を飛ばす。
「ふざけるな! われがそんなことを許すと思うのか! あんな成り上がりの軍人に統帥が務まるわけがない!」

 マークがぶたれた頬を押さえて苦笑する。
「案外、一族でない者の方がうまくいくのかもしれませんよ。こんな戦争ばかりではとても統治しているとは言い難い。どれだけ民を犠牲にすれば気が済むのです。訊けば英雄と名高いボナパルト氏は人心を集めるのが随分と上手らしい」

 統帥がマークを凝視する。
 火花を散らすように互いを見る。
 統帥が力を抜く。

「ふ。些かには学んだようだな」
「ええ……おかげさまにて」
「だが生憎だな。それは間違っている。それを歴史が証明している」
 マークは唇を噛む。
「ならば私が誤った判断をしないよう監視を怠らぬ事です」
 秘書官が誰に何の書簡を送ればいいのか困った顔をする。
 統帥がマークを睨みながら秘書官の様子に小さく溜息をつく。
「オランダに送れ。我ら一族の血を引く者というのならば人前に出しても恥ずかしくない教育を受けさせろと。それだけでいい」
 秘書官が畏まりましたと言って、その文章を作る。
 統帥がそれに目を通し、署名する。
「こいつが口走ったことは誰にも言うな。わかったか!」
 一族を混乱に陥らせるほどの危険な言葉だった。
 秘書官が、は…はい! と言って畏まり、署名入りの書状を恭しく掲げながら下がる。

 その書簡は、ユリアにとって錦の御旗同然のものとなった。
 オランダの首長は次代統帥の落し胤の可能性を否定されなかったことを重く見て、日本に書簡を送った。
 ユリアはその書簡を狂喜乱舞して受取り、オランダ首長からの直々の依頼状を織江に見せ、教育係という栄誉ある立場を得たのであった。
 実子として認知されればユリアにも貴族の称号がつくことは約束されたようなものである。
 ユリアは既にリオン王子と共にヨーロッパに帰り、貴族社会での日々を送る自分を思い描いていた。

 マークはそれがそれほど織江を追いつめるものになるとはその時点では考えていなかった。
 それよりも統帥が日本行きを匂わしたことから、母が出てきた夢は正夢だったのだと思った。あれがお告げだったのだと思うと、統帥が母を神だと敬う気持ちもわかる。

 ――たった一度きりの機会。

 ならばその時に全てを懸ける。

三十、


 一日一日大きくなっていく岬の草原になっている場所で遊ぶ我が子に織江は眩しそうに顔を向ける。
 六歳の誕生日には何を贈ろうかとあれこれ考えていると、理音が走ってきた。
「ね! おかあさま。あのお船はおとうさまの国のお船でしょうか」
 無邪気にそう言う理音に微笑みながらも、つい溜息を吐いてしまい、日傘をくるくると回しながら、さあ、どうでしょうね、と言う。

 自分より遥かに賢いと思った。
 言語の習得だけでも大変なところ、しっかりと習い、自ら学習し、様々な興味が尽きないようだった。

 ――マーク様から受け継いだもの。

「あ、おかあさま、あれは違います。あの旗の印は見たことがありますから」
「そう……」
「おとうさまの船が来るといいですね」
「…………ええ、そうね」

 ガーリア塾では、以前の織江の学友たちの子たちが通ってきていたが、理音は全て個人授業で、学友を作ることはできなかった。
 そのせいで織江はかつての学友たちとも距離を置かせられていた。

『さる王家の血筋の養い親』

 そんな不可思議な札をつけられていたのだ。
 とはいえ、どの旧友も嫁の立場では外出などままならず、子供を通してのつきあいは難しかった。
 華子が姑に苛め抜かれているという噂を訊いていても何もできることはなかった。
 かつて、華子を不幸にする旦那様だったら乗り込むなどと言っていた自分を思い出しながら無力な自分を恥じ、華子ほか旧友たちの幸せを祈るばかりだった。
「ねえ、おかあさま」
「なあに」
「おとうさまが迎えに来たら、おかあさまと一緒におとうさまの国に行くのですね」
 更に表情を落とす。わかっていた。それは自分ではないと。
 ユリアに全てを奪われていく気がしていた。
 あれほど尊敬していた恩師に。
 信じたくない思いが湧いて出てくるが、周囲には再三気をつけろといわれていた。

 ――人を疑う。

 苦手なことだった。
 
「ええ。そうですね。理音はおとうさまに会いたいのですか」
 理音が真っ赤な顔をする。
「……はい。会いたいです……。今日…カピタン様の家でおとうさまの絵を見ました」
 表情を固める。
「絵?」
 思わず聞き直す。
「はい。絵がありました。カピタン様が僕はおとうさまにとてもよく似ていると」
 ユリアが商館長のところに連れて行ったのだとわかった。
 すでに外国人の中ではプリンスとして皆に紹介されていた。
 織江には入っていけない世界だった。
「おとうさまはとてもすてきでした」
 織江は是非ともそれを見たいと思った。
「大きな絵でした」

 七年………。

「では、次はおかあさまと一緒に見に行きましょう」
「はい!」


 *****


 絵画の話に衝撃を受け、囚われていってしまう。
 家に帰って、若女将として客の前に出ていても、絵のことで頭はいっぱいだった。
 するとそこに見計らったようにオランダ商館長が訪ねてくる。
「プリンスからお聞きになりましたか。肖像画が届いたのです」
 涙がこみあがってきそうになり口を押える。
「あの……。私も是非拝見したく存じます」
「ええ。勿論。それを招待しに来たのですから」
 商館長の物腰の柔らかな態度にほっとする。
「有難うございます。あの…では早速よろしければ明日の正午に…」
 それならば客が入る前で時間が作れる。
「はい。わかりました。お待ちしています」
 そう言ってにっこり笑った後、帰っていった。

 ……マーク様のお姿を見ることができる。

 胸が苦しくなる。

 夕餉の後に理音の額を撫でてやり、良い夢をとおまじないをしてやると、うれしそうに吾郎に連れられて寝室に向かっていく。
 夜の宴会の芸者たちが座敷から下がってくるのを見送れば、後は番頭に任せて母屋に行ける。
 寝室で理音がすやすやと寝ている姿を見れば、それだけで一日の疲れが癒える。
 奈津は板長との翌日の料理の打ち合わせが長引いているようだった。
 いつも仕事を終えて理音の寝顔を見るのが奈津と織江の至福の時であった。
「あしたもおとうさまと会えますよ」
 額をなでる。
 頬をなでる。
 愛しさが溢れ出てくる。
 かけがえのない愛しき我が子。
 宝物である。
 誰にも奪われたくない。
 茶色の髪をゆっくりと撫でる。
 さらさらの髪の感触は心地いい。
 確かによく似ていると思う。
 髪の色も瞳の色も肌の色も。
 自分に似たところを探すのが大変だと思うくらいに。

 ……でも、顎の部分は私に似たみたいね。

 くすりと笑う。

 ……一番似てほしくなかったところなのに………。

 理音が寝返りを打ち、おとうさま、と寝言を言う。

 ……明日……会えるわ……。


 *****


 織江が所持している着物の中で一番高価な正絹の着物を着る。
 金の刺繍が豪華な帯を締め、珊瑚のかんざしを挿し、指輪を嵌める。
「わあ! おかあさま、きれいです」
 顔が熱くなる。
「ふふふ。ありがとう」
 では行って参りますと奈津に挨拶すると、奈津は複雑な顔をした。
 その絵を見たらつらくなるのではないかと心配したからだ。
 せっかく封印できているものを解き放つ事になるのではないかと。
「……はい。早く帰ってきなさい」
 その後をどうしようかとすでに考えていた。
 織江はそんな奈津の心配をよそに、とにかく浮足立っていた。
 まるで神社で待ち合わせしていた時と同じようだと思っていた。

 ――マーク様が私を待っている――

 胸を押さえる。
 鼓動が外に聴こえてしまうのではないかと思うくらい大きな音を立てているようである。
 出島に入り、商館に進むと自然と足が速くなり、理音を引っ張るようにして歩く。
 呼び鈴を押すと商館長がすぐ出てきて、早速通される。
 商館長室にそれが飾られていた。
 歴代商館長、オランダ国首長、統帥の絵がずらりと並ぶ中、マークの絵が一番新しいという場所に飾られていた。
 思わず立ち尽くす。
「……ああ………」
 いかにも大礼服という服装にたくさんの宝石がついた飾りを付け、頭には大きな豪華で重そうな王冠を被っていた。
 あまりに写実的なその絵は、あたかもそこにマークが立っているかのようだった。
 頬が薄く紅色になっている。
 唇はきりりと結ばれている。
 髪は固められているようでさらりとはしていない。
 瞳はまっすぐ見ていてとても澄んでいる。
 マークそのものだった。
「……とてもご立派なお姿で………」
「おとうさまはすてきな人ですね、ねえ、おかあさま」
 理音が頬を染めながらそう言う。
 だが、遠い人だと思わずにいられなかった。
「プリンスはあちらでカステラを食べませんか」
 商館長が織江を部屋にひとりきりにする。
 織江はそれを好意だと思った。
 絵に近づいていく。
 本当によくできた絵で、まるで見つめ合っているかのように思えた。
「……マーク様………」
 いつまでも見ていたいほどに。
 いつの間にか涙が零れていたと思い、拭っていると扉が開かれる音がして振り返る。
 商館長が神妙な顔をしていた。
「ありがとうございました。とても懐かしくてつい……」
「王子はカステラを食べた後、絵本を読んでいます」
 それほど時間が経っているとは思わなかった。見入ってしまっていたのだった。
「それは大変お世話になりました。ではそろそろ…」
 商館長は扉の鍵を閉め、鍵を胸ポケットにいれる。
 中からも外からもかけられる鍵である。
「…え?」
 何をしていらっしゃるの…と織江が言っている間に背後に回られ、大きな手で口を塞がれる。
「……声を出さないでください」
 羽交い絞めにされる。
 覆いかぶさるようでその掛けられた体重が重く、よろけてしまう。
 その瞬間に襟に手を入れられてしまった。振り切ろうと必死に顔を左右に振る。
 しかし片手で十分に顔を覆うことができるほどの手の平に息もつけなくなる。
「あなたがずっと欲しかった…………」
 掠れ声で言われると気色悪さが全身を覆う。
 壁に追い込まれるとまったく身動きできなくなった。
 脂ぎった手が乳房をとらえると織江は歯をたて、その手を噛み切る。
「いっ……!」
 商館長が思わず手を離し、すかさず逃げるが、施錠されている扉は開かなかった。
 動かぬドアノブをガチャガチャと回す。
「……王子は遊んでいます。心配しなくてもいいです。あなたはあなたで楽しめばいい」
「開けてください!」
「鍵ならここにありますよ」
 商館長は自分の胸をぽんぽんと叩く。
 自衛できる武器になるようなものは何も置いていなかった。
 最初からそのつもりだったのかと今更ながら気がつき、その罠に落とされていたなどまったく思っていなかった甘さに情けなくなってくる。
 武器にはほど遠かったが簪を取り、それを向ける。
「ふ。まさかそれが刃物のつもりですか。残念ながらここまできて諦めるつもりはないのです」
「私の夫はマキシミリアンです! 私を凌辱するつもりですか!」
 左の薬指の指輪を見せると、翠玉と金剛石の輝きに商館長が舌打ちする。
「……そんなもの。ヨーロッパ大陸を見守る高貴な神族が日本人と結婚するはずがないでしょう。どの国の王族でもその栄誉に預かれないというのに。天皇の娘ならばいざ知らず、こんな町人の娘が。まったく身の程知らずだ。日本の女性は呆れる程に馬鹿者ばかりだ」
 じわりじわりと寄ってくる。
 織江はまた壁に追い詰められることになる。
 すると手をぎりりと締め上げられ、その痛さに身体をよじると身体の重心が傾き、膝がかくりとなる。するとそのまま倒され、仰向けにされた状態で馬乗りになられ、身体の自由は失われる。
 胸元を広く開けられ、裾をたくし上げられた。

 ……逃げられない……。

 商館長が織江の耳に荒い息を吹きかける。
 そのまま耳を執拗に舐めまわす。
 だが、無反応を貫き通した。
 商館長が舌打ちする。
「ふ。だが、無駄な抵抗ですよ。女は子供を産んだ後の方がいいと知っていますから。私はあなたを感じさせる夢を何度も見ています」
 ぞっとする。
「……あなたが私の夢に出てきたことは一度としてありません」
「これからは見ていただきましょう。私が欲しくてたまらない夢を」
「そのようなことにはなりません!」
 理音に見られるのが怖かったが、叫び声をあげるしかないと思ったところ、その開けた口に男根を押し込まれ、その衝撃で放心状態になる。
 マークにもそんなことをしたことがなかったのに吐き気が襲い、ごぼごぼと唾液と胃からあがってくるもので苦しかった。
 しかし頭を押さえつけられそれから逃れられなかった。
「……娼婦だと自覚がないから悪いのです」
「!」
「あの絵を見るということもただではすまないのです。そしてあの絵を見せられるのは私だけだ。いくら金を積まれても見せない。けれどあなたの身体で払うなら毎日でも見せて差し上げますよ」
 結構ですと言いたかったが口の中のものが邪魔でうまく言えない。
「けれど、今日の分は支払っていただきましょう」
 そう言いながら腰を押し付けられると、商館長が喘ぎ声を出す。
「……ああ……ようやく現実になった……」
 口の中に放たれてしまう。
「―――――!」
「どうです。お味は。これもいつも夢見ていたのです」
 気持ち悪さにどうにもならなくなるが、口を押さえつけられて息を吸うにはそれを呑むしかなかった。
 苦しさのあまり涙をぽろぽろと流す。
「いいですね、あなたのそういう涙が見たかったのです」

 ———狂っている———

 嘔吐したくて堪らず、身体に込める力はもう残っていなかった。
 女陰を舐められると身体は生理的に反応した。
「ああ……いいようですね…」

 ……違う。やめて……。

「……すごい…身体だ…………さぞかし……」
 我慢できないといった様子で身体をつなげようとする。
 その瞬間に薬指の指輪が光を放ち、マークの絵の額縁ががくっと落ち、大きな音を立ててガターンと落ちた。
 それが他の部屋に響いたらしく、人々が集まってくる靴音がする。
「……あ……」

 ……マーク様が……助けてくれ…た。

 商館長が舌打ちして立ち上がると、すかさず起き上がり、衣服の乱れを急いで直す。
 髪もほどけているようで、櫛で整える。
 商館長が慌てて鍵を開け、扉を開けると、誰よりも早く理音が走ってきた。
「おかあさま! ねえ、見て見て」
 与えられていた珍しい玩具は大変気に入ったようだった。
「あ、あら、いいわね。ではそろそろおうちに帰りましょう」
 商館長が鼻を鳴らしながら、見送る。
「また見に来たくなったらいつでも来てください。あなたはかならずまた来るでしょう」
 それに返事をせずに館を後にした。
 執事がマークの絵が落ちているのを見て、ああ、これは大変だと絵に関心が行き、織江の衣服の乱れには注意が行かず、誰にも悟られていないとわかっただけ救いであった。


 *****


 織江が理音の手をひきながらふらふらと歩いて行く。晴れの日に着ようと大事に取っておいた有名な京の職人の手による美しい霞取りに松の柄の友禅の裾が汚れているのを見て、身も心も汚されてしまったような気がした。

 ……この着物は捨ててしまおう。

 家に帰ると、奈津が何もかも見通したような顔をして待っていた。
 その瞬間に吐き気が襲ってきて厠に駆け込む。
 何もかも吐き出してしまいたかった。
 奈津が背中を擦り支える。
「……今日は、仕事はいいから寝なさい」
 有難かった。
 奈津の用意してくれた水を飲み、織江は自室に向かった。
「おかあさま…大丈夫?」
 吾郎が理音の手を取り、神社にでも行きましょうかと言うと、わあいと喜んでいる。
 簪も帯も今日身に着けていたものはすべて捨ててしまおうと思った。
 寝間着に着替え、褥に入ると、眠りが襲うようにやってきた。
 夢の中で自分はさめざめと泣いていた。
 お姿の絵を見るまではあれほど幸せな気分だったのに、すべてひっくり返されたような一転して汚辱の日となり、人前では泣けず、夢の中で泣いているのだと思った。
 涙が後から後から出てくる。
 大声を上げて泣く。

 マーク様…。

 ……マーク様。

 ………マーク様。

 マーク様―――。

三十一、

 マークがはっと目覚め、周囲を見る。
 柔らかな朝の日差しが部屋を包んでいる。
 統帥は、母が亡くなってからは一人寝を希望するようになり、伽を強要されることはなくなった。
 有難いことだったが、代わりにほかのことを要求をさせれるのではないかと内心落ち着かないながらも、ひとまずは平穏な日々を過ごしていた。
 見る夢も穏やかなものが多く、織江は相変わらず美しく、夢の中で暮らせたらいいと思っていた。
 しかし、今朝見ていた夢は、
「商館長……奴が……」
 悪夢だった。
 そして、単なる夢ではないと思った。
 織江と揃いの右手薬指の指輪を見る。
「……オリエ……」
 織江の救いを求める心が夢となったのだと確信する。
 夢の中では商館長を殴り倒し、怯えて泣きじゃくる織江を抱きしめていた。 
 そして、そんな危険な目に遭わせたことを必死に詫びていたのだった。
 右手拳を握る。
 残念ながらその拳に殴りつけた感触はない。
「私は果たして助けることができたのか」
 唇を噛む。

 ――悔しい……。
 
「奴は危険な男だった。はやく帰国させておくべきだった。また狙ってくるに違いない」
 拳が震える。 
「その前に日本に行きたい……」

 *****

 
 その日の晩餐で、統帥が実に晴れやかな表情をして、愉快であることを隠せないようにワインを飲みながら微笑みを浮かべた。
 そんな表情豊かにするのは珍しいことだった。
 緊張する。
「何か良い事がありましたか」
 ついそう言った。
 何か無理難題を押し付けられる予感がした。
「ふふふふ。あの軍人が接見を申し出てきた」
 自分に向いていない内容にほっとする。
「そうですか。随分と早かったですね」
「コンコルダート(政教条約)を行いたいそうだ。ようやくここまできたらしい。ローマ教皇との交渉に必要なことが何か誰も教えてやらなかったからローマで恥をかいたらしい。あの教皇も食えぬ奴よ」
 千年以上前から長年勢力争いをしてきた相手はヨーロッパ社会の覇権を常に狙っていた。
 一族とカトリック教会が和解をしてから六百年が経過していた。
「ブルボンも嫌味が過ぎるぞ。はははは」
 上機嫌だった。
「あやつが平伏すと思うか?」
 くくくと笑いながらそう言う。
 その機嫌のよさを損ねたくないと思い、言葉を選ぶ。
「そこまで登り詰めるというのはやはりかなりの実力者ということなのでしょう。歴史も相当学んでいるはずです。ならば陛下との接見の持つ意味もよくわかっているのでしょう」
「ほお。随分好意的だな」
 統帥のこめかみがピクリとした。
 それは機嫌を損ねたわけでなく、面白いと思った時の表情だった。
「革命の申し子と言われる所以を私なりに調べておりますので」
「調べる必要などない。あれは時代に選ばれた者だ」
「時代に?」
「だがな。時代に選ばれし者は皆同じ過ちをする。だからその影響を少なくする為に奴がその過ちをせずに済むかどうか見極めてやる。それが統帥の仕事だ。覚えておけ」

 はっとする。

「統帥の仕事……」

 思わずそう零した言葉に、統帥が高笑いをする。
「ふん。よく見ておけ」 


 *****
 

 その数日後、ボナパルトはやってきた。
 型どおりの挨拶をすると、虚勢を張る様子もなく、いかにも軍人あがりらしくきびきびとした態度で、マークは日本の長崎奉行の永井を彷彿させると思った。
 置かれた情況の中で最善の策を取ることができる実行力を持つ者。
「随分と活躍しているようだな」
 統帥は友愛の微笑みを浮かべる。
 ボナパルトが背筋を伸ばす。
「騒がしくしてしまい、十六世陛下の気を煩わすことになり恐縮しております」
「国王を殺さなければこれほど大事にならなかったのではないか」
 第一次対フランス大同盟で同盟軍は大敗し、第二次大同盟ではフランス軍はイギリス相手に敗戦の連続で、革命もここで破られたかというところ、市民はナポレオンの活躍を望み、クーデターの果て、政権を奪取し、その後、オーストリアに勝利し、同盟軍は崩壊し、イギリス以外に敵はいなくなったというところ、ボナパルトとしても内政に目が向き始めたのだった。
「……それは起きてしまったことだったので私にはどうすることもできず」
「ならば、今からでも王族を君主に戴いたらどうだ。執政としてそれが可能だろう」
 ボナパルトが顔色を変える。
 なぜ命令をされるようなことを言われるのか腑に落ちなかった。
 憮然とした表情を浮かべてしまう。
 自分は勝利した側であり、旧勢力は屈服して当然と思っていた。
「……それは…革命を否定することになります…」
「革命とやらを起こした原因を究明し、今度は責任もって内政に当たれば良い。王を国の顔として添え、そなたはしっかりと政治を行なえばいい。それならば周辺諸国も納得する」
「…………………」
 マークは次期統帥として上座にいた。
 ボナパルトがそれを受けることを祈った。
 だが、ボナパルトは接見の意味をわかっていなかった。
「万人は法の前では平等であるという憲法を破ることはできません。その為にフランスの国民は戦い、それを勝ち取ったのです。王を戴くことを全国民が拒絶することでしょう。私もそれに逆行するようなことは容認できません」
 頬を紅潮させながらそう言ったのだった。
 マークは統帥の口元が上がるのを横目で見た。勝利を確信した時の癖だ。
「国を代表する見事な意見だ。民が信頼を寄せる理由がよくわかる」
 統帥が感じ入ったと言わんばかりの表情をする。
「まさに民に選ばれた指導者だ」
 マークは居たたまれなかった。早く終わりにしてほしいと思った。
「教皇にはそのように伝えておこう。書簡を用意する」
 ボナパルトは表情を動かした。
「ご厚情深く感謝申し上げます」
 統帥がにやりと笑う。
「…して。オーストリア、イギリス、ロシア、プロイセン、まだまだ敵は多いな。あくまでも戦争をしかけていくか?」
 容易に話がなったことに、ボナパルトは警戒心を薄める。
「勿論、和解の道を模索していきます。戦争で多くの国民を失いました」
 悲しそうな表情をするボナパルトを見て統帥は苦笑する。
「おそらく敗戦した国も負けたままではいられぬ。逆に戦いを強いられるかもしれん」
「それでも平和の為に努力していきます。そして民が勝ち取ったものは民のものだという流れを食い止めることはできません。他の王たちがどれほどそれを恐れても」
 統帥がぎろりと睨む。
「ほお」
 ボナパルトが額に汗を浮かべる。
 明らかに失言だった。
「恐れているだと? ふん。どうやら王らは保身の為に民を犠牲にしているとでも言いたいようだ」
 マークは、ああ…もうだめだと思った。
 だが、ボナパルトはそこまで言ってしまった以上止めることができなかった。
「他の国の王にも認める時が来たのだと思っております」
「ほお」
「フランスの民は覚醒を果たしたのです。それが周辺諸国にも伝わっていき、各国に民主主義の風が吹きます。私はその守護者でありたいと思っています。それがヨーロッパ全体の平和にもつながると確信するからです。その上で国の在り方をそれぞれ考えていくことが必要になるのだと」

 ———パクス・ロマーナ———

 統帥はその言葉を引き出したかったのだとマークは思った。
 そして正面切ってそれを統帥に言った者は知らなかった。
 統帥がボナパルトの語りを終わらせるように長く息を吐く。
「我が一族の始まりは、千八百年前の時のローマ皇帝と妃の間に生まれた王子だった」
 ボナパルトは模範解答を言ったつもりだったが、ようやくヨーロッパの神族のその長である人の逆鱗に触れることを言ってしまったと気がついた。
「政争に明け暮れる元老院連中の暗殺の手から逃れるため、田舎の貴族に預けられた」
 ふっと笑う。
「山ばかりの何もない都から遠い田舎で、毎日山を駆け巡り、獣と遊び呆けてばかりいた」
 愉しそうな言い方はまるで統帥自身の幼少期のようである。
「しかし都から何人もの役人がやってきて、遊びの時は終わったと告げられ、知識を詰め込まれた。すると田舎からでも国の問題とするものが浮かび上がり、最初はその役人たちのつてで下級役人になり、その後は、自分の力で元老院議員に上り詰め、クーデターを起こし、皇帝となった」
 にやりとする。
「誰かの話とよく似ているようだ」
 ボナパルトがびくりとする。
「軍人か役人かが違うというだけのことで。血筋など何の役にも立たず、逆にその為に命を落としかねなく隠し通した。下級貴族として始めたからな」
 ボナパルトの顔から表情が失われていく。
「そこから国は五百年持った。だが民衆というものは、住居と食事と娯楽を与えても、それだけでは満足しないものだ。主義主張が異なれば争いが起きる。宗教はそれに利用され、ローマ帝国は民同士の争いが発端で内部から崩れていった」
 統帥が遠い目をする。
「しかし、ローマを乗っ取った連中も帝国以上の社会が作れるかと言われればそれは困難の道を辿り、我が一族がコンスタンティノーブルに新たな都を作るとローマの市民は皆移ってきた。外敵からの攻撃をしのぎ、領土の形は変えてきたが、国内は平和を維持し、文化は華々しく発展していった。オスマン帝国に敗れるまで千年…」
 複雑な表情をする。
「オスマンに国を破壊されたローマの民は他のヨーロッパの国々に散って行ったが、ローマの民であるという誇りは失われず、文化の継承を叫び、それがルネサンスの風となり、アラビア文化を蹴散らした。そして、その誇りの象徴が現在の神聖ローマ帝国である」
 真っ直ぐボナパルトを見据える。
「ゲルマンが納得するのならそれでよしとした」
 ボナパルトは身体がぶるぶると震えているのを隠せなかった。
 統帥の顔が輝いているように見えたからだ。
 それは、千八百年の間生き続け、それらを統帥がすべて采配してきたように聞こえ、暗黒時代に差したルネサンス、文芸復興という光の時代の到来の刹那を想像した。
 それゆえの輝かしい表情だと思ったのだった。
「民主主義とやらの風を何年吹き続けられると思っている? 百年か? 二百年か? 民が選んだ代表とは何年持つ。アメリカのような新しい国ならばそれに挑戦していく意味もあろう。しかし、この大陸は長い歴史の果てに今日がある。民主主義を擁護したとしても、そなたはいつまで第一執政でいられる? 誰にその座を引き継ぐ? 次の執政を選挙で民が選んだとしても、その者が真の実力者であるかどうかどう見極める? 私腹を肥やす為だけに民の人気を得た偽善者かもしれん。そんな実力のない者が権力を握れば独裁の道を突き進み、社会はすぐ混乱に陥る。民に真の指導者を選ぶ目をどうやって養わせる?」
 息がつけないほどの息苦しさである。
「どういう社会が築けると申すのか!」
 それでもその統帥の激しい突き上げに、ボナパルトは毅然とした表情を返した。
「……………民主主義の魂を時代が引き継ぎ…法律が諸問題を解決し、民を守るはずです。それこそが平和の礎となることでしょう」
 その為に命を懸けてきたのだとボナパルトは死んだ友人らの姿を思い浮かべる。
「よかろう」
 統帥が鋭い眼光を放つ。
「だが、千八百年かけて築き上げた秩序と社会を壊そうとしているのだ。その後の責任を持つ覚悟はできているのであろうな」
 ボナパルトが顔色を失う。
 答えはすぐ出なかったようだ。
「やってみなければわからぬか? その手本を示すことができたなら、他の国の王もそなたを認めるだろう。それまでせいぜい戦い続けることだ。それに勝たなければ忽ち滅びの道を行く。われはそれを静観するとする。そなたが今後何をするのか…をな」
 ボナパルトは統帥のぎろりとした視線から目が離せなかった。
 これ以上の宣戦布告はないと感じた。
 民主主義を旗印に既存社会構造との戦い……。
 今まではフランスを独立させることに必死になってやってきたが、そのように単純明快なものではない戦いなのだと思い知った。
 ここに来て初めて敵が誰だったのかわかったと思った。
 カトリックを国家の下に置くという手続きの為の古くさい伝統などではないと分かったのだった。
 マークが、はあ…と息をつく。そこまで脅さなくても…と。
「私の養子のベルナドットを執政殿に差し上げます。どうぞ使ってください。なかなか役に立つと思います。士官学校を卒業したばかりです。家督は他のものに譲るので爵位は与えません。士官学校の生徒はみな貴殿に憧れているようです」
 ボナパルトが初めてマークの顔を見る。
 目が合い、優しくマークが微笑むとボナパルトはこわばった表情をした。
「……次代殿下………」
「心配しなくとも監視役でも刺客でもありません。我が一族とつながりを持つきっかけくらいに考えておけばいいでしょう。どうぞ平和への思いを貫いてください」
 それで接見の儀は終了した。


 *****


 その日の晩餐では、統帥は愉快そうだったのが一変していた。
 不機嫌というのではなく、哀しそうだった。
「ボナパルト氏はなかなかのお方とお見受けしました。他の王ならば陛下を敵に回すなど恐れ伏しているところ実に堂々となさっていました。民主主義を根付かせようなどなかなか大望をお持ちで」
「……子供じみた真似を……」
 そうぽつりとつぶやいた。
 弱音を吐いたのかと一瞬マークはその表情を見直すと、統帥はふふふと不敵に笑う。
「だが、なかなかこの役目に終わりはこぬようだ。お前はやはり奴を買い被っておったな」
「左様ですか」
「奴は自滅する」
「え。果たしてそうでしょうか…。私は共和制の可能性を信じたいと思います。民主体でも王がそのまま君臨できる道を模索していけばいいのではないかと思いました。周辺の王たちもその意識を持てば、フランスの二の舞を踏まずに済むと。ボナパルト氏はそれを見せてくれるのでは」
「甘いぞ。歴史が証明していると言ったであろう。そうやすやすと英雄など現れんのだ」
 くくくくと笑う。
「皆、権力という魔物に食われてしまう。理想を掲げる奴は特にな。奴はまだ自覚しておらんだろうが。とにかくそれを確認できたからにはもう奴に用はない。後始末をどうするかだ」
「……それが静観するという意味でしたか」
「そうだ、それが統帥の仕事だ」
 統帥がくすりと笑う。
「平和という大義名分の下に。死体は少ないに越した事はない」
 高笑いをする。
「…………………」 
「来月、日本に行く。王らは皆反対したが決めたぞ」
 なかなか直前にならなければそれを言葉にしない統帥だが、それも突然のことだった。
 いつの間にか日本に親書を送っていたのだろうと思った。
「そうですか。お供させていただいてもよろしいですね」
 統帥が上目使いで見る。
「行かせていただきます」
「二人ともなど行かせまいと皆が血相変えて押し寄せてこよう。その前に行くほかない。遺言書を見せろ」
「承知いたしました」

三十二、

 日本の朝廷はその使者を迎えて未曾有の一大事と頭を抱えた。

 帝が長崎まで行くと言い出した為である。

 天皇行幸となれば、将軍も出座せねばならず、狭い長崎で対処しきれるものではない。
 皆が竦然とし、御前会議で喧々諤々と話し合いをした結果、結局のところ、京で統帥を迎えるという段取りとなった。
 それでも、三代将軍家光公以来の将軍上洛となる事態で、九州も江戸も京も大騒動となった。
 そして、その賓客の長崎での一泊目は、蒔田本陣ということに決まった。

 奈津と織江は、長崎奉行の長谷部からその旨を知らされた。
 マークの立場をいまひとつよくわかっていなかったということもあったが、天皇と将軍が長崎まで迎えに来ようとする人物など信じ難いものがあり、話を理解するまで時間を要した。

「……それほどお偉い方だったとは………」

 織江が、震える指先を押さえる。
 長谷部は意気揚々としていた。

「斯様な次第ゆえ、支度は抜かりなく頼むぞ。国の威信をかけた持て成しをせんとならん。なに、案ずることはない。我らが段取りをつける」

 奈津が顔色を失いながら額を頭につけると、織江が慌ててそれに続く。

「商館長殿より、お二方をお迎えするに当たり、用意する道具、部屋の作り方などを伝授したいとの申し出があり、謹んで承っておいた」

 織江がびくりとする。

「まずはその説明を若女将に行いたいとの仰せだ。そなたはオランダ語が達者なようだな。すぐ明日にでも出向くがよい」

「………」

 織江は声を出そうとしたが、掠れて音にならなかった。
 凍てつくような感触の指先に乗せている額が汗ばむ。
 例え、奉行所の役人が同行したとしても、行けばどういう状況が待ち受けているのか容易に想像つく。それでも承諾しなければならないと指先に力を入れ、唾液を飲み込んだ。

「……承知いたしました」

「ふ。誉れなことよの。蒔田屋の名が後の世にも伝わる」

 織江は言葉を繋ぐことができなかった。
 奈津が顔を上げる。

「誠に。亡き主もさぞかし喜んでおりましょう」
「ああ、そうであろうな。きっとそなたらのことを見守っているであろう」
「恐れ入ります」
 奈津が深々と再び頭を下げると、長谷部は晴れ晴れとした顔をして満足そうな様子になる。

「良い子を拾ったな」
「え」
「当家預かりの仕儀と相成った」
「あの……?」

 奈津の声が沈んだものになる。
 長谷部はそれを打ち消すかのように眼光を鋭くする。

「すでに上様との養子縁組の手筈が進んでおる。それまで我が方にてお預かりいたす」

 奈津が織江を見るが、織江は顔を上げられなかった。

「お待ちください。あの、それはもしや理音のことですか」
「左様」

 ほかに誰がいるかと言わんばかりに厳しい口調である。

「養子とは……」
「捨て子のままで置いておくわけにはいかないとお決めになったのだ。やんごとなき御方のお子を育てるなど、誠、運の強きことよ。さぞかし養い親として手厚く隅されるであろう」
 奈津の肩が揺れる。
「理音を……あの、どうしてもお預けしなければなりませんか」
「もはやここに置いておくわけにはいかぬということだ」
「…………………」

 織江が微動だにせず二人のやり取りを聞いている。
 しかし、織江の心情を表すように空気が重いものとなる。
 それを振り切るように長谷部が立ち上がる。

「使いは明日寄越すゆえ、風邪などひかせぬように。では、これにて失礼する」

「違います」

 織江が顔をあげる。

「ん?」

 長谷部が訝しげな表情をして立ち止まった。

「捨て子ではございません」
「なに?」
「私が生みました」
「織江」

 奈津が織江の袖を引っ張り、制止する。

「私の子です」
   
 長谷部が大きく息を吐く。

「養い親としてさぞかし情が湧いたことであろう。それほどまでに慈しんで育てたことには感謝されるはずだ」
「違います! 私の子なのです!」
「残念ながらその証拠はない。奉行所に残っているのは、捨て子としての記録のみだ。証人も大勢おる」

 その時は、そうすることで織江を救ったものである。
 永井がマークと織江についての記録を一切消し去ったものであった。

「マキシミリアン様は私の夫です! 理音は私たちの子なのです!」
「………」
「この指輪はその証拠です!」
 
 悲愴な表情で指を見せるが、長谷部は溜息を吐くだけだった。

「将軍家のひとりとしてお迎えする段取りが進んでいる中、それを訴えればどうなるか、少しは冷静になって考えてみるがいい」
「お願いでございます。理音を連れて行かないでください」
 
 織江は長谷部の言葉に耳を貸さない。
 長谷部は不快な思いを隠さず、舌打ちする。

「女将。若女将をよくよく説き伏せるように」
「……はい」

 奈津が顔色を失いながらも畏まってそれを受ける。

「捨て子ではございません!」
「くどい」
「私が生んだのです! お願いでございます!」
「くどいと申しておる! お子を引き取りにわざわざ西洋から来られるのだ! それほど大事なお血筋ということだ! そなたの子であるかどうかなどどうでもいいことなのだ!」

 長谷部が扇子を織江に向けて差し出し、それ以上の物言いは控えるようにさせると、織江が涙を浮かべた瞳で長谷部を睨み付ける。

「商人の子として育てているとはできぬ」
「…………」
「立場を弁えられよ」
「…………」
「そなたの役割は終わったということよ」

 織江が打ちのめされたように表情を固める。

「では、失礼する」




 *****


 宿泊客も寝静まり、家人たちも眠りについていた。

「理音。理音。起きて」
 ぐっすり眠っている理音を無理やり起こして織江が抱きかかえる。
「おかあさまと一緒にお出かけすることになったの。だから起きて」
「…ん…?」
 ぼんやりと薄目をあけて、目を擦る。
「はい。わかりました」
 お出かけと訊いて楽しいことを考えたような顔をした。
「さあ、早くお着替えをしますよ」
「はい」
 理音が自ら紐を外すと、織江は行燈に灯りを灯したのち、手際良く袴を履かせる。
 すると、急ぎ足で廊下を渡ってくる足音が響いた。

「織江!」

 怒鳴り声に近い声を出しながら奈津が障子を開けるが、織江は手を止めない。

「何をしているのです!」

「……………」

 着替えをする理音の手を止めさせる。
「理音、今日はお出かけしませんから、寝ていなさい」
「え、でも」
「お母様が勘違いをしたのです。さあ、褥に戻りなさい」
「……はい。お祖母様」
「織江、私の部屋にいらっしゃい」
 厳しい口調で言う奈津の顔を見ずに、織江は小さく頷いた。

 家人たちがざわざわとしながら集まってきていたが、何も告げずに奈津は自室に向かう。
 障子を閉めると奈津はすぐさま織江の頬を叩いた。

「頭を冷やしなさい!」

 織江の表情は虚ろのままであった。

「……理音が取られてしまう」

 ほろりと涙を流す。

「……私の子です」

「織江」

「理音は私の子です。奪われたくありません」

 ほろほろと涙を零す織江を見ながら奈津は溜息をつく。

「織江。そんな一時の感情で行動を起こしたらどうなるか、火を見るより明らかでしょう」

 奈津は織江の心情が手に取るようにわかったがあえて言わなければならないと思った。
 理音を想う気持ちは織江に負けないほどのものがある。
 それでも事は想像を絶する重さであった。

「天子様と将軍様が長崎にお出迎えにいらっしゃると言われるほどのお方ということがどれほどのことかわかっているでしょう。将軍家ご養子のお沙汰があったこともよくよく皆様でお考えのことです。その理音を隠すようなこと、ましてや奔走しようなどしたら、どうなるか」

「……………」

「お前は、謀反人になるということです」

「それでも!」

「逃げられるはずがないでしょう! お前の友人の頼子様がどうなったか、忘れたわけではないでしょう!」

「……何とかお助けいただけないでしょうか……」

「すぐ役人に捕まります」

「何とか、理音と離れないでいられるようにしていただけないでしょうか」

「私の力の及ばぬことです」

「何とか! お母様。何とかお願いできないでしょうか!」

「………………織江……」

「お母様、お願いいたします。私は理音がいなければ生きていけません。ならば、一縷の望みにかけてみとう存じます」

「…………」

 無理な願いだった。
 到底無理な願いだった。
 叶うはずもないことだった。

「……織江。世の中はこうしてどうにもならないこともあるのです。今は、理音にとって何が大事かと考えるのがお前の役割です」
「お母様。私は今までもどうにもならないことばかりでした。この上、理音まで取り上げられたらどうしていけばいいのでしょう」
「理音の幸せを祈るという役目があります」
「それは無理というものです」
 
 奈津が押し黙る。
 長い沈黙となった。
 犬の遠吠えが闇夜に響いていく。
 奈津は膝に手を置き、目を閉じていた。
 そして、長い息を吐く。

「ならば……」

 静かに口を開いた。

「ならば、乳母としておそばに居られるよう取り計らってもらいましょう」
 織江の顔がぱあっと輝いたものになる。
「誠ですか!」
 奈津がくすりと笑う。
「ああ、まだ小さい理音のことです。いきなり離されたら心細いことでしょう。お前が身の回りのことをできるよう何とか私からも頼み込んでみます。長谷部様なら何とか聞いてくださるでしょう」
 奈津が帳簿に指を這わせると、織江は額を畳に擦り付けた。
「ありがとうございます、お母様」
「だから、泣いてばかりいないで、お休みなさい」
「はい。わかりました」




   

  
 

三十三、

 奈津は長谷部からの迎えが来る前に、奉行所を訪ね、織江を乳母にするべく長谷部に詰め寄っていた。
 長谷部は、それにすぐ否とは言えず、顔色を失っていた。
 目の前に詰まれた金子は、奈津の覚悟を示すものだったからだ。
 蔵が空になったのではないかと予想できるほどのものであった。

「申すまでもなく、そのような賂を受け取るわけには参らぬ」
「はい。誠に非常識なことと存じながらも、それでも私の気持ちが収まらぬ次第でございますれば」
「左様か。だがな、考えてもみよ」

 長谷部が長い溜息を吐く。

「引き取りに来られるのだ。仮に、ついて行かせたところでその先も乳母のままでいられるかどうか。第一、女子が異国に渡ることをお上がどう判断を下されるか、儂には皆目見当がつかんのだ」
「………」
「つまり、遅かれ早かれいずれ別れの時が来るということよ。ならば、今、潔く見送るが最も傷浅きことではあるまいか」
「はい。お奉行様の仰せ、ご尤もと存じます。なれど、それでも。それでも、一縷の望みに賭けてみたいという娘の思いに、私は母親としてできることをするまでにございます」

 長谷部が表情を消す。
 しばらく奈津の顔を見据える。

「……実はな」

 表情を消しながらも遠くを見る。

「当時の奉行だった永井殿から書状が届いたのじゃ」
「え」
「関わったことが事細かく書き記されておってな……、大公殿のお人柄なども。誠、長い書状であった」
「左様でございましたか」
「随分と手を尽くされたようであったな」
「はい。永井様には大変お世話になりました」
「それを読み、単に惚れた腫れたの話だけではなかったのだと感じ入った次第じゃ」
 奈津が平伏する。
「はい。親として、その思いを遂げさせることができるのであれば何とかしたいと、亡き夫とともに随分と思い悩みました」
「であろうな。その永井殿がな……」
「はい」

「二人を会わせてやりたいと」

「……………」

 長谷部が温和な表情を見せる。

「たとえ一度きりでも良いゆえ、是非とも二人を会わせてやりたいと」

 奈津は肩を揺らし、ほろりと涙をこぼす。

「繰り返し何度も書かれておってな。その心情がひしひしと伝わってきた」
「はい。私も同じ思いでございます」
「だが」

 長谷部が長く息を吐き、扇子を広げたのち、静かに閉じる。

「だがな、織江殿の命を救うには会わせぬよう段取りすることだとも書いてあった」
「…………」
「わかるか。理音殿はもはや政治の駆け引きの道具に使われようとしているのだ」
「…………」
「そんな場所に二人の思いを遂げさせようなどという思いを持っていては弱味を持つことになる。あくまでも理音殿をどう引き渡すか、それを第一に考えねばな」
「織江の命が危ういと?」
「ああ、おそらく異国側では織江殿の随行は認めぬはずだ。なるべく我が国の者を排除しようとするであろう。それにどうやらガーリア夫人をつけるようだ」
「え」
「オランダ商館長が最も相応しい人物として推薦したらしい。そこにごり押しをして織江殿を付いて行かせたらどういうことが起こるか、想像に難くあるまい」
 恐ろしさに奈津が震え上がる。
「織江殿という弱味を持っては交渉にはならぬということじゃ。幕府側としても将軍家養子を出す以上、他の条件をつけたい。つまり、どちらにとっても居てもらっては困る者になるのじゃ。良いか、永井殿の危懼は正しい」
「……左様でしたか……」
「永井殿の書状には、その上で、それでもなんとか二人を会わせてやりたいと綴られていた。それほどまでの想いとは儂には想像つかぬが」
「…………………」

「さぞかし、美しきものであったということであろう」

「…………………」

 奈津が返答に窮していると長谷部は居住まいを正し、積み上げたものを見据える。
「この金子は見なかったことにする」
「……」
「なんとか、諦めるよう説得してくれ。それがすなわち若女将を守ることよ。良いな」


 *****


 織江は奈津の帰りを首を長くして待っていた。
 大女将がいなければその分も兼ねて女将として客の対応をしなければならぬところ、気もそぞろであった。
 そして、奈津が戻ったという報せを聞いて飛んで出迎える。

「お母様。お帰りなさいませ」
「……ただいま戻りましたよ」

 疲れた表情を隠そうともせず、また織江の顔も見なかった。

「お母様。あの……」

「織江」

「はい」

「奉行所よりそろそろ理音のお迎えの方がおいでになる。お支度なさい」

「え? では……」

「織江。残念なことでした。すでにお付きの人が決まっていて、お前を推挙することはできないとはっきりお奉行様が申されました」

「そんな……」

「織江。ここは堪えどころです。お前は、商館長様のところに行く用事があるでしょう。先に行きなさい」
「い、いいえ、いやです」
「織江。別れがつらくなる一方です。お前は先に家を出なさい」
「いやです! 私は商館長様のところには行きたくないのです!」
「いい加減になさい! 織江!」
「お母様。私がもう一度お願いしても叶わぬことなのでしょうか。私がお奉行様のところに参ります」

 奈津は苛立つ気持ちが抑えられなかった。

「これ以上は、お前の我が儘です!」

 追い込まれていたのであった。

「お前は、自分の心のままだけに生きられると思っているのですか。この家の跡取りに生まれたからには、蒔田屋のことも少しは考えなさい。うちには何人の勤め人、奉公人がいると思っているのです。皆、ここで生活している者たちです。お上に逆らえば、この宿屋など容易に潰されてしまうでしょう。皆を路頭に迷わせても良いのですか!」

 奈津の声に驚き、番頭たちが寄ってくる。
 吾郎は、二人が言い合いを始めたときから、理音を長屋に連れて行っていた。
 皆はざわざわと落ち着かない状態になり、仕事の手が止まっていた。

 織江はそのような????責を受けるとは思いもよらなかっただけに唖然としてしまう。

「商館長様のところに行って、改装の相談をしてきなさい! いいですか! これは大女将としての命令です!」

「お母様……」

「理音は既にお上のご養子になったのです! 覚悟なさい! もはやうちの子ではないのです!」

 織江がふらりと眩暈を覚えたように体を揺らしたのち、障子に手をかける。
 半分は期待して待っていたのだった。
 理音についていけるという結果を。
 しかし、それはやはり甘いものであったと思い知った。

「……かしこまりました。理音の支度はできていますので……」

「ならば、お前はすぐ行きなさい」

「………」

「別れ難くなるばかりです」

 織江が瞳いっぱいに涙を浮かべる。

「………………はい」

 そう返事をした瞬間に零れ落ちた。 



 *****


 
 
 



 



  


 

三十四、

 織江は失意のどん底にありながら、最も行きたくない場所に行かざるを得なかった。
 自分の無力さに打ちひしがれ、冷静に物事を判断をつけることなど不可能のように思え、再び商館長に侮辱されたら憤りをおさえることができぬであろうとぐっと腹に力を込める。
 そして、今まで町内を歩くにはまったく不要であった懐剣を手に取り、懐にもぐらせた。

 ……いざとなったら、これで果てるまで。
 二度とあのような辱めは受けない。

 その決意を新たにし、オランダ商館に向かったのだった。

 商館には接待役となった紀伊徳川家と鍋島家の家老が臨席しており、大会議のような様相で織江は気後れしながらも、通された席に座る。

「やあ、お待ちしていましたよ」

 商館長は織江の心情など意にも介さないような屈託のない笑顔で出迎え、織江は咄嗟に身構えたが、一斉に注目を浴びたため、思わず微笑を返す。

「商館長様におかれましてはご機嫌麗しく祝着に存じます」

 オランダ語でしっかりそう言うと、商館長は明らかに嘲笑を浮かべた。

「皆様、この度、宿にお選びいただきました蒔田屋若女将の織江でございます。どうぞお引き回しのほど、宜しくお願いいたします」

 皆は、納得したような溜息を吐き、そのあと神妙な顔をした。
 商館長が鼻を鳴らす。

「さて、皆様がた。今日はご宿泊先の蒔田屋さんに来てもらいました。実は大事なお願いがありまして、是非ともお力添えをいただきたいと思っているのです」

 通訳されると、鍋島藩家老の石井は身を固くする。
 国を挙げての歓待にどんな無理難題を押し付けられるか、どの藩も戦々恐々としているのだった。

「ご存知のとおり、次代殿下は、長崎に逗留されていたことがあり、その時の思い出で、良き宿として蒔田屋さんを宿泊先に推奨したようでございます」

 織江が深々と頭を下げる。

「しかしながら、私の立場としては、ヨーロッパを統べる方々を迎賓館以外にお迎えするわけにはいかず、蒔田屋さんを迎賓館同等に整えたいのです」

 紀伊藩家老がふうと息を吐く。

「先刻承知の上、何卒ご指導賜りたく、わが主が接待役を仰せつかっておりますゆえ、いかようにも」

「ありがとうございます。実は、そこで、蒔田屋さんを商館の別館としたいと考えております」

「え」

 織江は一瞬何のことを言われたのか理解しかねたように唖然とした。
 両家老は気の毒そうな表情をする。
 再三に亘る打ち合わせで、そう思っているのではないかと察していたのだった。
 まるで蒔田屋の間取り図を自分の家のように扱っており、全面的な改装計画を進めていたのだった。

「それで、蒔田屋さんの移転先をどうかお二方にご尽力賜りたく。そのことを女将同席の上でお願いしておこうと思いまして」

 勝手に話が進められていく。

「何を申される。お待ちくだされ。その儀、江戸でのご裁可をいただかないと。単に一泊だけのお話、調度品を揃えるのは良いとしても、それをオランダ商館の別邸にするなど、話がいささか飛びすぎてござらぬか」

 商館長がふっと笑う。

「そのご一泊で、どのように政情が変わるかわかりませんよ。十六世陛下のご機嫌次第では国ひとつ潰しかねないと、その恐ろしさはお伝えしてきたはず」

「それでも、その件とこの件は話が違いましょう! それより話を進めなければならないのは、どのような段取りにするかということでござる」

「実は、内々に、将軍様には打診してあるのです」

「なんですと?」

「長崎内のことであればということで色よい返事をいただいたところです」

「そんな莫迦な……」

「それで、蒔田屋さんには他所に移っていただきたい、そういうことです」

 織江は長谷部がそのようなことを一言も言っていなかったことに何が真実なのか判断がつかなかった。

「その件、にわかに当方独自では如何ともし難く、ご公儀よりの沙汰を待つことといたします」
「我が方も同じにて、主にその旨伝え、沙汰次第とさせていただきたく存じます」

 両家老は腑に落ちない様子ながらも、そう言った。

「では、その折にはよしなに」

 商館長は薄い笑みを浮かべて、少しだけ頭を動かした。
 織江は衝撃の上の衝撃で思考力が麻痺しているような状態になり、ひたすら顔を強張らしていた。
 鍋島藩家老の石井は、織江とマークについて聞かされていただけに、当の本人を目の当たりにし、度重なる織江の不幸に意気消沈するほかなかった。
 何か声をかけようにも、立場的に何も告げられず、せめて江戸まで同行したことの思い出話でもしたいと思ったが、今はそのようなことができる状態ではなく、せめて、事の経緯を主に伝え、あまり事態が悪いことにならないよう進言しようと思った。

「では、本日のお打ち合わせはこれまでとしましょう」

 その言葉に促されるように同席者が立ち上がると、織江も引き摺られるように立ち上がる。
 だが、足にあまり力が入らなかった。
 浮かした腰が椅子に戻る。
 両家老は長居は無用とばかり足早に退室していき、織江は取り残されるようになる。
 慌てて椅子から立ち上がるが、腰が砕けたような状態で、再び椅子に座る。

「どうしました。歩けませんか?」

 商館長はかかった獲物を眺めるように見る。

「……いえ。そのような」

「少々意地悪なことを言い過ぎたようでしたか」

 織江がその弄ぶような言い方にかっとなる。

「どうしても蒔田屋を別館にしなければ不都合が生じるのですか?」

「そうですね。私もいろいろありますので」

「お客様がお帰りになるまでということにしていただくわけには参りませんか?」

「何のために?」

「何の……。蒔田屋は私どもの先祖から受け継いできたもので、私どもがそれを継承していく務めを担っていると存じております」

「その代替をほかに手当てするといっているのですから、何の問題もないでしょう」

「いいえ。それを守ることこそが私どもに課せられたものと自負しております。私のみならず、蒔田屋に属する者すべて同じ思いでございます」

「その心意気は大したものですが、もっと大局で物事を見て言っていただかないと」

「…………………」

「シオン王子のお側付き、この人選も私に委ねられているのです。もう決まってはいますが、いくらでも変えることができます」

「…………………」

「女将としての毅然とした態度も結構ですが、貴女の本心としては、蒔田屋などどうでもいい、王子に付き添いたいと思っているのではないですか?」

「…………そのような………」

「実の母親なのに、育ての親とされているなんて気の毒すぎると以前から思っていたのです。どうです? 実母であることを名乗って、堂々と王子と一緒にいたらいかがです? 私ならその手伝いができますよ」

 織江は動揺を隠せなかった。

「それが最も貴女が望んでいることではありませんか? 貴女が望むのなら、ずっと王子のそばにいられるよう取り計らいますよ」

「……いずれにしても女子は外国にはいけません」

「ふ。それを何とかして差し上げるとしたら? 貴女はなかなか語学習得力がある、西洋でも十分生きていけるでしょう。それに次代殿下、マキシミリアン様のおそば近くにもいけるかもしれませんよ。遠くから眺めるだけでも光栄なのではありませんか。もはや夫であるなどと大それたことは思っていないでしょう」

「………………」

「それができるのは、私だけということです」

 罠にかかった獲物であった。

「そして、望みを叶えるにはどうしたらいいのか、以前お教えしましたね?」

 そう言いつつ、にやりと笑った。

 織江は、それが罠だとわかっていたが、この先も思音のそばにいられるという誘惑には抗えなかった。
 マークの近くに寄れるかもしれないということも大きな魅力であった。
 手に届く存在ではないのだとはわかっていた。
 それでも同じ西洋にいれば、会う機会があるかもしれない。
 三人でともに過ごせる時が来るかもしれない。
 つい夢を見てしまった。

「お約束してくださるのでしょうね」

「はい。私の名誉にかけて。証文も書きましょう」

 ならば、屈辱を乗り越えるしかない、そう思った。

「蒔田屋を別館にするお話も消してくださいませ」

「望みが多いですね。はい。これでどうです?」

 美しい白い鳥の羽の筆を置きながら、署名したものを織江に見せる。
 あくまでも個人的な取り決めということである。
 しかし、確かに約束をしたという証拠になる。
 その代償が何であれ。

「これから誇り高き貴女のその口からどんな言葉が出るか」

 織江が唇を噛む。

「ふふふふ、楽しみですよ、さて、寝室に案内しましょう」

三十五、

 織江は、通された広い寝室の大きな天蓋つきベッドを見て、否が応でもマークと過ごした夜を思い出し、途端に後悔する。
 扉から中に入ろうとせずに立ち竦んでいると、商館長がくすりと笑った。

「やはり気が変わった、というのは無しですよ」

「お許しください。私には無理なことでございました」

 廊下に身体の向きを変えると、がしりと腕を取られた。

「残念ながらそれを許すほど私は甘くないのです」

 腕を引っ張られ、施錠される。
 壁に織江の身体を追い込みながら、身体の中心の熱を感じさせるかのように強く身体を押し付ける。

「同意した時点ですでに引き返せないのですよ。ほら、貴女も欲しがっているではありませんか」

 織江が首を左右に振ろうとしたところ、熱い息を吐きながら織江の耳の中に舌を入れてくる。
 その感触に勝手に反応する身体を知ることとなった。

「ほら…」

 耳の中に舌を入れながら囁かれ、身体がびくりと震える。
 唇を噛み締める。

 ……違う。欲しがってなどいない。

 舌を這わせる音が理性を溶かしていく音のように思えたが、拳に力を入れ、その感触を逃す。

 ……はやく終わって欲しい……。

「なるほど、強情を通すわけですか。ははは」

 ……早く終わって欲しい……。

 動きを止めて、織江をじっと見つめる。

「着ているものをすべて脱ぎなさい」

「それは……」

「ああ、前のようなもので終わると思っていたのですか。今回はそれでは足りませんよ」

「いいえ。脱ぎたくありません。そうしなくともできるのではありませんか」

「足りないと言っているのです。さあ、早く!」

「………………」

 裸体を晒すということは、操を捧げてしまうような気がした。
 望みを叶えるために身体の一部を使ったということで自らを納得させることができなくなるような気がしたのだった。
 大事な、大事なものを失うことになると思ったのだった。

「いやでございます」

「前もそうでしたが、貴女はどうも立場をわかっていないようです」

 そう言いつつ、織江のみぞおちに拳を打ち込む。
 織江はいきなりの衝撃に息がつけなくなり、視界が閉ざされてしまった。


 *****

 意識を取り戻したときには、獣のような息遣いをしつつ帯をはずし、着物から襦袢からかなぐり捨てられていたときだった。
 帯紐を手に取り、目を覆うように縛り付けられ、さらに両手首を合わせるように縛られる。

「……なに…を……なさいます……」

 上腹部の痛みをこらえながらも声を出すと、興奮が頂点に達しているような息遣いで不気味な笑い声が響く。

「なんて淫靡な……」

 ぴたりと揃えられていた両足首を押さえ、ゆっくりと膝を折らせて、右足と左足の足首を徐々に離す。

「やめてください!」

 やめさせようとして足に力を入れようとするが、そうすると膝は余計開くのだった。

「いいね。誘っている」
 
「違います!」

「目隠しされていると余計に感じやすくなるらしい。皆、喜ぶのですよ。きっと貴女も好きになる」

 こんなはずではなかった。
 織江はそう思った。
 短時間の嵐のような時を我慢すればそれで済むことだと思っていたのだった。
 多少の痛みを堪えれば、それで終わると。
 思音のためならそれに耐えられると。

「貴女の身体はまるで処女のようだ。子供を生んだとは思えないほどに初々しい」

 ぬめりとした感触を開かれた足の付け根に感じると、本能的に反応した。

「可愛らしい」

 唾液を絡ませながら、敏感なところを捉えていく。
 舌で転がすようにその部分を執拗に攻められると熱が集中していく。

「これが好きなようだ」

 首を左右に振るが、開いた足は違う動きをした。
 やってくる快感にびくびくと震えだしたのだった。
 研ぎ澄まされたようになった部分を指全体で円を描かれるようになると、腰が浮いていく。
 知らない感覚だった。

「いや……」

 止められない。

「いやならやめますよ」

 動きを早くしていく。

「いや………」

「どっちですか」

 ぐっと押されながらさらに動きを増されると、その瞬間に身体の中で何かが弾けたような感覚を得た。身体が硬直していく。

「いや……あ」

 叫び声になる。
 しかし、その瞬間に指を離し、びくびくと震える腿を舐めた。

「あ……」

「なんです?」

「…………………」

「今から正直に言っておいたほうがいいと思いますよ、ふふふ」 
  
 指が入り込んでいく感覚に痛みを感じると思っていたが、違う感覚に戸惑う。
 太い指が空間を押し広げていくような様子に気色悪さを覚えながらも、生理的に液体が流れでてくるのを感じた。
 その蜜を絡めとりながら先刻敏感になった部分に触れられると、身体に衝撃が走る。
 思わず大きな声を出した。

「いい声だ」

 だが、それも長く続けない。

 織江は何をされているのか意味がわからなかった。
 ただ必死に翻弄される身体を押さえていたのだった。

 指とは格段に違う大きさのものが身体の中に入っていく感触に、驚愕する。
 後悔が全身を貫いていくようだった。
 後戻りできない罪の中に入っていくのだと押し込まれていく痛みを罰のように思った。

 しかし、罰はそんなものではなかった。

「いい……。いい。これはいい……」

 腰を激しく振りながら獰猛な息遣いをし、うめき声を出す。
 織江はその動きに成すすべがなかった。
 高く上げられている足には力を入れることができなかった。
 とにかく出てしまう声を抑えようと歯を食いしばる。
 快感が広がっていることを認めたくなかった。
 
 すると、腰の動きがぴたりと止める。

 織江はこれで終わったのかと胸をなでおろそうとしたところ、再び腰を振り出す。
 その律動は、弛緩した肉を揺さぶるようなものとなった。
 蜜が湧き出ていく。

「……あ」

 明らかにその動きを悦んでいるものとなった。

「ふふふふ」

 激しさを増す腰の動きに、突き上げられていく。
 腹部に集まる熱に唇を噛み締める。
 すると、また、ふっと、腰の動きが止まる。

「い……や……」

 続けてほしいのだった。

 身体がそう訴える。

 首を左右に振る。

「なんですか?」

 自然と腰を突き出すようになった。

「こうですか?」

 腰を振り出されると、身体中の血潮が勢いを増して駆け巡っているように思えた。
 身体の奥から痺れてくる。
 叫びだしたい衝動を抑える。
 すると、また動きを止められてしまう。

「やめないでください!」

 思わずそう叫んでしまったのだった。

「ほお」

 舌なめずりしながら、縛っていたものを取り、身体の向きを変えさせる。
 すると織江の目の前には鏡があり、あられもない姿の自分を見るのだった。
 思わず目を逸らす。
 しかし、商館長にあごを押さえられ、顔を背けることができない。

「今、なんと言いました? ほら、この鏡の前で言いいなさい」

「いいえ。何でもありません」

「まだ強情を張るのですか」

 後ろから突かれると違う快感が襲ってくる。
 規則正しい動きが速さをあげていくと、脳天を何かが突き抜けていくような感覚を得る。
 全身が震えだしていた。

 荒くなる息を抑えることができない。

 それとともに喘ぎ声があがってしまう。

「殿下と比べてどうです? ふふふ」

「!」

 急に自分が汚らわしいものになった気がした。
 貞操観念が突如として湧いてくる。

「殿下もこんな風にしましたか?」

 硬くなった部分をつねられると、蹂躙されるような快楽の渦に引きずり込まれる。
 喘ぎ声を抑えることを忘れたかのように声が大きくなっていく。

「や…やめて……」

「殿下もこれほど激しくしたのですか?」

 腹部が破裂するかのような感覚にどうにもならない。
 悲鳴に近い声になる。
 だが、また再び腰の動きを止めた。

 涙がこぼれる。

 何の感情もない涙だった。

 ただ、ひたすらに本能のままに身体が突き進むことを求める涙だった。

「お願いです」

「はい」

「もっとお願いします」

「もっとどうしてほしいのですか」

 ……マーク様。

「あなたが欲しいのです。もっと突いてください」

 ……これは私ではない。

「お願いします。もっと欲しいのです」
     
 ……私ではない。

「いいですよ、気を失うくらいしてさしあげましょう」

 ……断じて私ではない。

 閃光が走る。
 身体がわなわなと震えだす。
 閉じることができなくなった口からは、自分のものと思えぬ初めて聞く声があがっていく。
 
 ……助けて。

 絶頂の瞬間であった。



 


 

三十六、


 どうしたらいい……。

 織江は、理音のいない夜がどれほどつらいものなのかわかっていなかったと思った。
 それは想像を絶する苦しいものとなったのだった。

 どうしたらいい……。

 すやすやと寝息を立てながらも、時折夢を見ているようで、瞼を動かし、口元には笑みを浮かべ、身体を左右に寝返りを打たせ、手足をばたばたと動かし、眠っているにも関わらず、昼間のように走り回っているかのような、転げ回る身体を褥に戻し、背中を軽く叩けば、深い眠りの中に入っていくように静かになる、そのやんちゃな小さき身体。

 赤子の頃から変わらぬ寝顔。

 無垢な寝顔。

 その愛しさよ……。

 どうしたらいい……。

 布団をすぐ蹴飛ばし、手足を出して寝ているのを何度もかけ直し、それでも身体は温かいままであった。

 その温もりよ……。

 胸が引きちぎられていく苦しみが時を経れば経るほど大きくなっていく。

 どうしたらいい……。

 息ができぬほどの苦しみが絶え間なく襲ってくる。

 会いたい。
 会いたい……。
 会いたい……。

 どうしたらいい……!

 商館長が望みを叶えてくれるとは到底思えなかった。
 しかし、取った証文は自らの行為を正当化できるはずで、いざとなったらそれを出せばいいと思った。
 何でもいい。
 どんな些細なきっかけでもいい。
 どんなことでも理音に通じる道があるのならば、それに賭ける。
 理音のためなら何でもできる。
 自分の身がどこまでも堕ちようともこの手で再び抱きしめることができるのであれば、何でもできる。
 
 だから、理音に会わせてほしい!

 布団を握りしめる。
 のたうち回るほどの苦しみである。
 

 *****


 理音のいない蒔田屋は火が消えたようになった。
 奈津と織江がその寂しさを必死に耐えているのが蒔田屋の者たちに伝わり、また皆も理音に癒されていたのだった。
 ただ、客足が絶えることはなく、常に満室に近い状態で、多忙さが変わることはなかった。
 理音の養育の仕事がなくなった吾郎は寂しさを紛らわすかのように接客に精を出し、皆はそれを真似るかのように話題に上らせまいと目の前の仕事に明け暮れていくのだった。
 そうしてようやく心の均衡を得ていた。
 理音を失ったことの痛手は埋められずとも、日々を過ごしていく中で自分を保つことの術を掴もうとしていた。
 だが、それすらも許そうとしない状況は迫っていたのだった。

 長崎奉行の長谷部が神妙な面持ちで蒔田屋を訪れる。
 奉行自ら足を運ぶにはそれ相応の客がいる時のことで、今宵はそのような客も宴席もなく、完全にお忍びということであり、奈津は緊張を強いられた。

「酒でよいものが入りましたゆえ、お持ちいたします」
 遊びで来るはずがないと分かり切っていたが、そう対応をした。

「酒を飲みに来たわけではない。内々に沙汰を伝えに参った」
 怒り口調である。
「お沙汰……」
「女将……、些かまずいことになったぞ」
「なにか……」
「商館長殿が、蒔田屋接収の必要性を訴えてきた」
「え?」
「たかだかお客人は一泊だけのことだ。接収される覚えはないと突っぱねていた。だがな、どうやら理音殿を自ら養育していたという証拠がほしいらしい」
「そんな、無理なことでしょう」
「ガーリア夫人が教育に携わっていたことは紛れもない事実だ。だが、ここで育ったことは隠蔽できまい。ゆえにそう考えたのであろう」
「だからといって」
「そして、そんなことは口実に過ぎぬ。本音としては出島から出たいというだけのことよ。その足がかりにしたいのであろう。そんな思惑に公儀が屈するわけにはいかぬのじゃ」
「左様でございますとも」
「しかしな……」
 奈津が固唾を呑む。
「若女将がそれを承諾したと申してきた」
「えっ!」
「そんなはずはないと言ったところ、証文に出してきたのだ」
「どういうことですか?」
「織江殿が、自ら交渉しにきたと申すのじゃ。自分を理音の乳母にしてくれれば、蒔田屋を譲ってもいいと」
「な、なんですって?」
「それを通詞に見せたところ、蒔田屋を商館の別館にはしないと約束してあると」
「え? ならば、逆のことではありませんか?」
「そうよ。そこよ。織江殿はそう約束したに違いないが、別館にするのではなく、蒔田屋そのものを商館長殿に譲ると言われたと言い張ってな。個人のやりとりであるからと」
「ふ。そんな馬鹿な」
 奈津は吐き捨てるように言う。
「だがな、そう言っていないと証拠になるものがない。言った言わないの水掛け論なのだ。それに証文があるから余計にややこしい。約束事をしたという証拠はあるゆえにな」
「…………………」
「そしてな……」
「商館長殿は、こうも申した」
 長谷部が長い息を吐く。
「オリエは私の妻になったと」
 奈津は絶句する。
 唇を噛みしめた。
 しばらく時を開けた後、長谷部が長く息を吐く。
「言いにくいことを申すぞ」
「……………………」
「蒔田屋をオランダにはやらぬ。その代わり、商館長殿限りに自由にしてよい。それは次の赴任した者には継承されぬ」
「そ、それでは………」
「乳母の件がそれで話が成るのなら、それはそうするがいい。すまぬな。そなたらは、身支度をして、他の場所での商いに備えよ」
「……そ……そん…な……」
 奈津がふらりと頭を揺らして、手の平を畳につけ、かろうじて崩れる身体を支えた。


 *****


 先祖代々、宿屋として営んできた蒔田屋である。
 自分たちが代替わりとなった後も、順風満帆な時ばかりではなく、長崎で生まれる莫大な利益から利権争いに巻き込まれることはしばしばあった。
 その都度、左衛門を支え、守ってきたものである。
 実質は本陣で、皆そのように扱っていたが、長崎の宿屋としての登録であり、諸藩にある本陣とは違い、苗字帯刀は長い間保留となっていた。
 それだけの利潤があったからだ。
 先祖はその待遇に業を煮やし、苦々しい思いをしてきた。
 織江の縁談に結びついた左衛門の働きでようやくそれが叶い、武家と同格になることができ、「蒔田家」と名乗れるようになったのだった。
 ゆえに、おいそれとその看板を下ろし、後にできるわけがなかったのであった。

「織江!」

 憤怒の形相である。

 宴席に挨拶に向かおうとしている織江を呼び止めた。

「お母様……」

 織江はただならぬ雰囲気の母の姿に、不穏なものを感じずにはいられなかった。

「お前はよくも……」

 織江の頬にばしりと音がするほどに平手を飛ばす。

「お前はよくも……」

 織江に息をつかせる間もなく右に左に容赦なく叩きつける。

「お前という者は!」

 息を切らして織江の首に指をかける。

「お…お母…様…」

 悔し涙を浮かべて織江の首から手を離し、赤くなった頬をさらに叩きつける。
 番頭が走り寄ってきて止めようとするが、それを振り払って織江を打ち続けた。

「大女将おやめください!」

 吾郎が織江の盾になるように織江の前に立つ。
 
「吾郎! どきなさい!」

 織江が茫然とした表情をしながら、吾郎を脇にやる。
 若女将……、と吾郎がつぶやくが織江は静かに首を振った。

「お前がしたことは!」

 奈津の瞳から涙がこぼれる。

「この蒔田屋を売ったということです!」

「……お母様」

「蒔田屋は終わりです」

 守ってきた大事な暖簾である。
 蒔田家、大事に守っていく家名であるはずだった。

「大女将……」

 皆が集まってくる。

「これで仕舞いなのです!」

 奈津は泣き崩れた。

 
  
  


 

三十七、


 織江は、号泣する奈津のそばに座る。
 奈津の慟哭は、左衛門亡き後、一人で背負ってきたものの大きさを物語っていた。
 その手伝いをしてきたつもりでいた自分は、実のところその母に甘えてきただけだと思い知らされる。
「お母様」
 母をここまで追い込んだのは、自分の行いが間違っていたのだと自覚するに十分のものだった。
「私が悪うございました」
 両手をしっかりとつき、頭を下げる。
「織江」
「私なりに蒔田屋のことを守ろうといたしましたが、それが事態を更に悪い方向に向かせて、また、そのようなことを考えたこと自体が思い上がりだったと反省する次第です」
 結果として蒔田屋を乗っ取られる筋書きを止めることができなかったことは、自分のしたことなど何も意味を為さなかったと口惜しく思った。
 だからと言って奈津の気持ちが収まるわけがないのだった。
「お前は……、異人の口車に乗せられてばかりで」
 吐き捨てるように言う。
「こんなことになるために学ばせてはいなかった!」
 織江がひたすら頭を下げる。
「他の家の娘御たちはきちんと嫁いでいるでしょう! なにゆえお前ばかりがそのようになる!」
「申し訳ございません」
 マークを商館長と同列に扱われるのは遺憾ではあった。しかし、奈津からすれば同じことであるだろうと織江は得心する。
「お母様」
 指先に力を入れる。
「私は」
 唇を噛む。
「何ですか」
「商館長様のお世話になりたいと考えております」
「な……」
「そうしたいと思います」
「お前は……」
「お母様。申し訳ございません」
 奈津が震え出す。
「お前は!」
 織江は顔を上げずに奈津の言葉を待つ。
「家をこんなことにされた相手のところに行くと言うのですか! よくもそんなところに世話になるなど……」
 奈津が嫌悪感を露わにする。
「お前が妾になれば蒔田屋を続けられるとでも考えているのなら、それは大きな間違いですよ」
「…………」
 織江が顔をあげて微笑む。
 奈津は絶句した。
「……心をこめてお世話したく存じます」
 それが最も事態を収めやすいことである。
「ですから、お母様」
 震える指先を隠すように手をついた。
「どうかお心安らかに。後は私にお任せくださいませ」


 
 *****



 織江がオランダ商館を訪ねると、商館長は飛んできた。
 蒔田屋を潰せば織江を掌中にできるとその為に様々と画策してきたのだった。
 織江はマキシミリアン次代殿下の弱味に違いなく、良き手駒になる。
 だから、何が何でも欲しいものであった。
 そして、織江はとうとうやってきた。

「お待ちしてましたよ。我が花嫁」

「…………」

「これからは全て私にお任せください」

 織江が床に膝をつき、頭を下げ、恭順の姿勢と取るものと商館長を油断させる。
 その瞬間に胸元から短剣を取り出し、自らの乳房に突き刺した。

「なにを! 何をしている!」

 あまりに予想していなかった突然のことで、商館長は驚愕の表情のまま動けなくなる。
 織江が苦しさに身悶えしつつも、商館長ににじり寄り抱きつく。
 噴き出す血潮で塗りつけるかのごとく。

「やめろ……」

 抱きついた織江を突き飛ばす。

「……貴方様だけは……許しませぬ……」

 織江はもはや動けない状態であったが、力をふり絞り、扉の外に出て行く。

「……どなたか、……お助けください……」

 床が血で埋まっていく。

「どなたか……」

 掠れた声で訴える。
 これでいいと思った。
 薄く笑う。

「商館長様が、私を亡き者にしようと……」

 大勢の客が来ていた。

 大勢の者が見ていた。

「お助けください……」

 人々が騒然とする。

「お慈悲を……」

三十八、

 マーク達一行は、オランダから出航し、すでに半年以上が経っていた。
本来であれば、一年かけて出島入りするところ、途中の港での滞在日数を短くし、日本への到着を急いでいたのだった。
 統帥とマークのそれぞれの船に護衛艦を従えての大船団は、各地で大歓迎を受けながら日本へ向かっていた。
 中立国のバタビア共和国(現ジャカルタ)を出れば、日本到着まで約一ヶ月、というところだった。
 各国首脳が各港で待機しており、港では常に船が会議場となり、決定事項は素早く伝達され、船旅に出ているにも関わらず、統帥の仕事は滞りなく進められていった。

 イギリスの台頭にオランダは戦いを迫られ、しかし、海軍では敵わなく敗れ、それにより国力を失ない、退廃の一途を辿るという憂き目に遭っていたが、統帥はそれを救わず、すんなりとイギリスにその資産を譲るよう指示していた。
 そして、この度の日本行きは、清国との戦争を視野に入れてのことであり、日本から届く資料にはほとんど目をくれず、ひたすら清国の地図を眺めていた。

 ……あのお方にとっては、すべてが盤上の駒だ。

 マークは、それでも社会が回っていく情勢に、均衡を保つことの困難さとそれを導く重圧に、統帥の偉大さを認めざるを得なかった。

 連日眠れなくなっていた。

 日本に行くのだ……。

 織江がいる日本に……。

 もうじき……。

「つくづく日本とは稀有な国だ。なあ、マキシミリアン」

 会議場を出て、自分の船に戻ろうとしたところ、統帥にそう声をかけられた。
 そのまま閨まで付いて来いといわれるのを覚悟しながら、そうですね、と答える。

「ふ。息子に会えると思うと心弾むか?」

 統帥には子供がいない。

「……いえ。それほどでも……」

 返答次第で機嫌が怪しくなるため、本音を隠した。

「母親はどんな者だ?」

「……さあ。実はよくわかりません」

「ふん。それほど手当たり次第だったか」

「………………」

「下賎な遊びをしたものだ。どこの者ともわからん者に子供を生ませるなど」

 織江を晒されて貶められる事態だけは避けなければならなかった。
 母親の名前が不明ということにそのまま隠すほうがいいのだと思った。
 
 たった一度きりの機会――。

 以前夢で母に告げられたこと、それが今日の自分を支え続けてきた。
 決して手放さなかった純真な思い。
 それが自分の魂の根源であると信じてきた。

「まあ、いい。はるばる来たのだ。それくらいの楽しみがないとな」

 にやりと笑う。
 欲情した表情に変わった。
 港に停泊するたび、夜を共にしなければならなかった。
 
「来い」
 
 その言葉に自然と反応するような身体であった。
 子供の頃からそうなるよう躾けられた身体は、その誘惑から抜けられない。
 悦楽という麻薬。
 快楽という地獄。

「しゃぶれ」


   

 *****



 出島に到着すると、狭い湾の中に大船団が犇めくようになり、出迎えの人々を驚かせた。
 軍服姿の者が整列し、音楽隊がファンファーレを響かせる中、統帥がゆっくりとした足取りで歩いていく。
 その足取りに合わせて軍人たちは一糸乱れぬ動きをし、ザッザッという音が音楽に相俟って芸術的である。
 美しいものというものは人々を圧倒させる。
 平伏すほどの魅力というものを見たときほど、人が受ける衝撃はない。
 統帥は、それをよく知っていた。
 そこにただひとり歩いていけばどれほどの演出効果があるか、自分をより大きく見せる手法を知っていたのである。
 それを見せられた人々は、容易に酔っていく。

 到着セレモニーの応対を任されたのは、長崎警護役の肥前藩と筑前藩だった。
 そのほか、大老はじめ老中ら並びにその家臣、長崎奉行全員により出迎え行列は、それも一糸乱れぬ様子で圧巻であり、恰も長崎の町が大きな舞台のようであった。
 
 一行の警護を引き受けるにあたり、駕籠へ乗ることを促し、統帥にはそばに大老たちが付き、マークのそばには、鍋島宗教が付いた。

「ムネノリ殿……?」

 マークはあまりの懐かしさに思わず言葉をかけてしまった。
 鍋島が顔を強張らせながら、頭を下げる。

「お懐かしゅう存じます。次代様におかれましてはご息災の由、お慶び申し上げます」

 共に囲碁や酒を飲み交わした仲でないと距離を置くような言い方にマークは鍋島の置かれた状況を察する。

「………貴公も」

 そう言った瞬間、海から潮風があがってくるように、風が立った。
 それは、日本に来たと認識するに十分のもので、風が告げているようだった。

 ………お待ち申し上げておりました―――。

 言葉が木霊していくように。

「ああ……」

 日本に来た。
 日本に来たのだ。
 日本の人々、日本語、日本の空気、日本独特の雰囲気。

 震えが来た。 

 マーク様――。

 織江の声が駆け抜けていくように聴こえた。
 目を瞑る。
 握った拳に力が入る。
 身体に力が集まってくるような気がした。
 
 オリエ……。

 貴女のそばに来ましたよ。

「次代様。そろそろ駕籠の中にお入りくださいますよう」

 デジマ……。
 変わらぬ懐かしい風景。
 
「ムネノリ殿。今後の予定を教えていただけませんか。実は何も知らないのです」
「えっ?!」

 統帥が事前情報を教えるはずがなかった。
 息子と言われて、男の子だったと知ったほどで、自分から情報を得ることなど何一つできない。
 自由など、もとより諦めていることだった。
 統帥の気まぐれがどこまでのものなのかも読めず、子供のことをどうするつもりなのか、皆目見当が付かない。
 連れて帰るのだろうか。
 どんな風に育っているのだろう。
 オリエの情報が伝わらないのはなぜだろう。
 何がどうなっているのだろう。 

「なぜ駕籠に乗るのですか。迎賓の館なら不要でしょう」
「…………」

 鍋島は苦虫を潰したような顔をした。
 それを知らされていないのであれば、告げることは僭越行為である。

「ムネノリ殿」

 鍋島が唇を噛む。
 事の顛末を一番よく知っているのは幕閣の誰よりも自分であろうとわかっていた。

「………これから……」

「はい」

「これからお連れ参らせるところは……」

 息を吐き出す。

「蒔田屋でございます」

三十九、

 蘭方医の病院に担ぎ込まれた織江の容態は、危篤状態が続いていた。
 奈津はぴたりと寄り添い、仮住居を与えられた蒔田屋の奉公人たちも常に病院近くに待機していた。

「ああ……、そんなに遠くに行ってはだめですよ、……理音」

 織江はそんなうわ言を繰り返していた。
 傷口の処置は問題なく済んでいたが、引かぬ高熱に体力は日に日に弱り、回復の兆しが一向に見られない。

 商館長の思惑に関することはすべて不問とし、とにかく、賓客が長崎を通り過ぎるまで蒔田屋の縁者は蒔田屋近辺を離れるよう奉行所が取り計らい、事件のもみ消しに必死となった。
 いずれにしても外国人を罰することができるわけがなく、たとえ殺人未遂であろうとも、事の真相を明らかにすることは得策ではなく、なかったことにする、もともと何もなかったということにするという結論に至った。

 織江が理音を追いかけるかのように手を伸ばす。

「……ほら。お母様、ごらんください」
「織江」

 掌を奈津に見せる。

「先ほど……、理音が私を顔を描いてくれたのです……」

 紙を見せるかのように。

「ああ」

 奈津はその掌からものを受け取るようにして、にっこりと微笑む。

「……とても上手だね」

 それを聞いて安心したかのように眠りに入るが、それほど深い眠りにはならず、またすぐ目覚める。

「お母様」

「はい。何です」

 織江が手を伸ばす。
 奈津はその手をしっかりと握る。

「理音は私が生んで、私が育てた……、私の子ですよね……」

 掠れ声の消え入りそうな声だった。

「私の子で、よろしいのですよね……」

「ああ、お前の子ですよ」
「私の子です」
「あ、いいえ。違うでしょう」
「え……」
「お前とマークさんの御子でしょう」
「そ…、そう……でした、そうですよね……」

 そう言いながら焦点の合わぬ瞳で微笑む。

「よかった…。全て夢だったのかと…」
「夢などではありませんよ」
「……みな…幻だったのかと…思ってしまいました」
「織江。マークさんと出会って、好きあって、だから理音が生まれたのでしょう。幻などであるものですか」
「……そうですよね……」

 織江が追憶の中に入っていくように目を閉じる。
 あの狂おしく切ない日々が浮かんでくる。
 ヴァイオリンの音色が甦る。

 ……私たちは、恋をして、

「しっかりしなさい、織江」

 ……愛し合って、

「織江」

 ……子を授かった。

 あの人は私の夫で…理音は私たちの子供……愛の証…。
 優しい焦げ茶色の瞳、日の光に輝く髪……。
 逞しい腕。
 温もり。
 煙草の香り。
 
 愛しき……。

「………マ………………」

「…織江?」

 織江の瞳から涙がひとすじ流れ、昏睡状態になった。

「織江…! 織江!」


 

 *****


 緊張感張りつめる蒔田屋の様子は、何度も訪ねたそことは違っていた。
 座敷はわざわざ作り変えたようになっており、同行してきた者が入り込むと、畳に敷かれた絨毯の上を靴で歩き、西洋家具が並べられたそこは蒔田屋とは思えないものだった。
 控えているのは全て武士であり、蒔田屋の使用人など一人もいなかった。
 広い座敷に作られた上座をもとに近習がいつもの順番通りに並べば、離宮と何も変わらなかった。
 紀伊徳川家の藩主が将軍名代として挨拶に来て、京までの護衛を務めると言っていたが、マークはその藩主の名前が頭に入っていかなかった。

「おお。噂通りなかなか良い宿だ。庭が何ともいい。なあ、マキシミリアン」

 マークは、最も大伯父を連れてきたくない場所だったと心の中で叫び、拳を握る。

「……左様ですね」

「ここに入り浸っていたのか?」

「いいえ」

「ふふふふ。そうか? 何度も来たのであろう? ここは娼館でもあるのか?」

 分が悪かった。

「そのようなところではないと存じます」

「そうか。ふん、まあ、いい」

 マークが憮然とした表情を出してしまったのを見て、満足したように笑い、紀伊藩主を見据える。

「そなた」

 紀伊が弾けたように身体をびくりとさせる。 

「よろしく頼む」

 完璧な発音の日本語だった。
 紀伊は顔を強張らせる。
 異常なほどの緊張感が漂っており、逃げ出したくなるほどに圧倒させられていた。
 
「恐悦至極に存じ奉ります」

「では、早速見せてもらうとする」

 統帥が言葉を発すると、びりびりと何か伝わっていくものがあり、紀伊は身体に痛みを感じた。
 尋常ならざる人物ではないということがほんの少しのやり取りで察せられるなど、今まで体験したことのないことで、怯むまいと保っていた。
 将軍よりの下命は、とにかく京まで無事に届けろ、そういうことであった。
 背中に一筋の汗が流れた。

「承知仕りました」

 紀伊が目配せすると、すべて段取りが済んでいたかのように、円滑な進み方でその瞬間が訪れた。

「お連れいたします」

「ふむ」

 マークは固唾を呑む。
 心の準備ができていなく目を覆いたくなった。
 そして、長崎奉行の長谷部とユリアに連れられてきた可愛らしい姿は、あまりにも場違いなものであった。

「ほお」

 統帥が顎に手をかけながら満足そうに見る。
 マークはあまりの衝撃で固まったようになった。

「十六世陛下。次代殿下。お初にお目にかかります。私は理音と申します。この機会を与えていただき感謝申し上げます」
 日本式ではなく、西洋式の平伏の仕方をし、フランス語で挨拶した。ユリアが胸を撫で下ろす。
 統帥が相好を崩したようになり手招きするように手を差し伸べる。

「そうか、そなたか」

 理音は一歩だけ前に出る。

「お前の幼い頃にそっくりではないか、なあ」

 マークは表情を動かせなかった。

「まったくお前そのもののようだ。早速、親子の名乗りをしてやれ」

 理音は、心臓の音が聴こえてくるほどに真っ赤な顔をして、その瞬間を待っている。 

「……リ……」

 マークが震える唇を動かす。

「リオン、ですか」

 優しい声かけに理音は輝くような笑顔を見せる。
 
「はい!」

「良い名をつけてもらいましたね」

「はい! おかあさまがおとうさまの名前からいただいたと言っていました」  

「…………」

 マークは溢れる思いと込み上げてくる涙を堪えることに必死になる。
 そんな風に余裕がなかったから、冷静沈着の鉄面皮のような表情を維持できなかった。

「……そうでしたか」

 愛しさに打ちのめされていた。
 いますぐ抱きしめて、お母様はどこですか、これからは一緒に過ごしましょう、もう離れませんよ、二度と離れませんよ、決して離しませんよ、そう叫びだしたいと思ったのだった。

 ……オリエ……。

「母親はそなたか?」

 ユリアは統帥に鋭い口調で言われて、緊張する。
 欧州では統帥は雲の上の存在で直々に声をかけてもらえるのは親族か王族だけであった。噂以上に眼光鋭く口調厳しくその場の空気を全て変えていくほどの恐ろしいオーラに震えるのを堪えていた。
「いいえ、陛下。私はオランダ出身のもので、ユリア・ヒュードル・ガーリアと申します。しばらく日本に滞在しており、縁あって王子をお預かりする機会に恵まれ、殿下の御子であることは母親を通じて知っておりましたので、いずれお迎えにいらした時に役に立つよう出来得る限りの教育をしてまいりました」

 統帥はユリアを一瞥する。その表情には俄に侮蔑の色が浮かんでいた。

「母親はどこだ」

「それが、あいにく生んだ後は行方知れずで、この宿の勝手口に王子は捨てられていたとのことです」
「ふむ。ならば、おかあさまと言ったのは?」
「この宿屋の娘御です」

 マークは訊かされた事実に捨て子として育てた経緯が理解できた。だから母親を特定できなかったのだと。だが統帥にはそのからくりが全て読めたようだった。

「ふうん」

 統帥が不敵に冷笑を浮かべ、顔色を失くすマークを横目で見る。

「その娘御に礼を申したい。連れてまいれ」

 紀伊藩主が長崎奉行に目配せすると、鍋島宗教は目の前で起きている悲劇に目を瞑る。
 せめて永井がいれば、もっとうまく対処できただろうと思った。
 蒔田屋のことは気にかけていた。
 最初は抜け荷工作を壊されて腹が立っていたが、演奏会でのバイオリンの音色に惹かれ、囲碁の強さに男惚れし、マークの中にもののふの魂を見ていた。後から永井に蒔田屋の娘とどれほど惚れ合っているかを訊かされ、その証として生まれたその子の行く末を見守るつもりでいた。
 だが、今は諸国大号令の前に何もできなかった。

 ———次代統帥マキシミリアン様にお血筋を引き取る望みこれ有り。各々万事抜かりなく事に当たり、邪魔立てをする者には反逆の意思ありとし、厳罰に処す。

「いいえ! 結構です!」

 マークが声を張り上げる。

 ……逃がさなければ……。

「何故だ。大事に育ててくれた養い親だ。礼を申すのが筋であろう?」

 何もわからぬ理音がにこにことしている。
 笑い顔が織江に似ていると思った。

 ——何と可愛らしい………。

 ……わが息子…。

「………なぜなら、この子は私の子ではないからです……」

 ユリアが驚き、理音が身体をびくりと震わせた。統帥が高笑いをする。

「ははははは。なんだ、マキシミリアン。偽者だとでも申すか。これほど似ておるのに」
「ええ。違うでしょう。だからこの宿の人々とも何のゆかりもありません」

 マークが椅子から立ち上がり、理音のところまで行く。

「ほら。よく見ると、あまり似たところはありません」

 膝をついて頭を撫でる。

「リオン。だから君はここで暮らしていきなさい。日本で、おかあさまと一緒に」

 ——おかあさまを守るのですよ……。

 囁くように日本語でそう言うと理音が驚いた顔をする。
 すっと立ち上がり、統帥の方を見る。

「ですから、陛下。私たちには関係ありません」
「ふん。お前を父と教えられて育った子を見捨てていくのか?」
「育ったここで生きていくのがこの子の幸せというものです」

 統帥がにやりとする。

「ならばお前が関係ないというのなら、われの養子とする」
「!」
「お前の子供の頃を思い出す。可愛いなあ。リオンと申すか。では、われと参ろう」

 自分がされたことを自分の息子にもされるかと思ったら全身総毛立った。
 マークが思わず理音を抱きしめ、統帥を睨む。

「自分の子供でもない者にえらく情があるようだ」

「……陛下には渡しません」

「ふふふふ。まったく素直ではないのは子供のころから変わらんな。お前が否定してもわれにはわか
る。我が一族の血はな。はははは。ユリア…だったかな」

 視線をマークに残しながらそう言うと、ユリアははっとして頭を下げる。

「教育係として伯爵夫人の称号を与える。今後も養育に務めるよう」

 ユリアは心の中で喝采の声をあげた。

「そして、すぐに養い親を連れて参れ! それが済むまで京へは行かぬ。よいか!」

 統帥がくせのある銀色の髪をかきあげながら怒声を響かせると空気が冷え込み、一同凝り固まった
ようになる。

「今すぐにだ!」

 長崎奉行が恐ろしさに震えながら平伏して、それが叶わず…と言った。
  

 
 
 

 
 
  

四十、

 翌朝、一行は、京に行く為、大坂まで船に行く事になった。
 その後直接ヨーロッパを目指すとのことで、理音とユリアはそのまま同行することになった。
 理音は情緒的に不安定になり、連日夜尿に悩まされ、一日中泣いてばかりで周りの者を困らせていた。
 船は三隻で、マークと同じ船に乗ることはなく、マークはそんな状況であることも知らされず、進んでいった。
 そして、廃人のような状態であった。
 織江の危篤を報せられて放心したまま、虚ろな表情をしていて、何の問いかけにも応じられぬような様子となっていた。

「未熟者めが……」

 統帥は、打ちひしがれたマークの顔を浮かべ、酒を飲み干したのち、唾棄するように言った。グラスを勢いよくテーブルに置く。
 グラスが空になると、すぐさま給仕係が新しいものを用意した。
 スコットランドの酒である。
 イギリス国王が内密に寄越すハイランド地方で作られる密造のウイスキーは、口の中でいつまでも舌が痺れる感覚が他の酒では味わえぬと喜び、献上したいとの申し出の際には、気分よく迎えていた。

「自分が何者かまだわかっておらぬ」
 
 苛立つ心を抑えられなかった。

 心残りとなるものがあってはいずれ道を見失う。
 ならば、消すのみ――。

「ふ」

 ロシアが日本に通商を求めて蝦夷地に頻繁に現れている現状に、それを速やかに止めるようロシア皇帝に命ずる事もやぶさかではない……、そう囁くだけでいい。

 ――トクガワ……。

 実に面白い連中である。

 抜け目のない幕藩体制を基盤とした社会構造、受け継がれる武士の魂、独自に発展する文化、飢饉に喘ぎながらも協力し合い共に生きようとする民族の気質。
 ロシアには日本を植民地にしようと企むのは愚の骨頂だと言い続けてきた。
 それよりも清国を潰した方が実入りはいいと。 

 執拗に迫り来る外敵を牽制したいと焦っているそこに手を差し伸べれば、何を選択すべきか、国を預かる者なら判断を誤ることはない。
 おなごの首ひとつ取ることなど造作もないことである。
 自らの掌を見る。
 多くの血にまみれ、数知れぬ屍を掴んできたその手を。

 ボナパルトがしたことは大陸を混迷させていくパンドラの箱を開ける行為だった。
 だからこそ、革命などとまるで栄誉なことであるように位置づけられる前に消し去りたかった。
 民主主義の思想は、今後、ヨーロッパの民にとって諸刃の剣となる。

 ――薬であり、毒でもある。

 ロシアに清国を取らせ、その上で、日本をアジアにおける中心的存在にする。
 ロシアにヨーロッパの国々を牽制させるだけの力をつけさせれば、しばらくアラブは押さえられる。
 そして、膨れ上がる民主主義…、アメリカはアメリカだけのものとして封じ込める。

 それで均衡が取れる。
 秩序。
 秩序が不可欠である。
 それに縛られなくなった時、人は愚かさを増す。
 その果てに、文明を破壊するという暴挙に出る。
 幾度となく惨劇を繰り返しても学べぬ愚かさに引き摺られる。
 先導しなければ、その愚かさは止め処もない。
 いつの世も。
 いつの時代も。

 新たに注がれたグラスを握る。

 秩序を植え付けるには人智を超えたものが必要となる。
  
 日本。
 日本をおいて他にはない。

 それを押し通すからには、厳しい采配、差配となる。
 取捨選択に躊躇すれば、時の運は逃げる。
 今やっておかねば、いずれ混迷を極める事態となる。

 だが、もはや余命がない……。

 パンドラの箱に残ったエルピスが希望であるとの楽観した考え方は受け入れられない。

「断じてな」

 グラスが硬質な音を立てて割れる。
 流れ出る琥珀色の液体と血が交じり合った。
 苦悩と悔恨と憐憫、そして宿命が交じり合うように。

「守るべきもの、成し遂げることの為に人は生まれてきている。お前の守るべきものは決してそのお
なごではない。いい加減に目を覚ませ…!」


 *****

 御所に近づき、整然とした都の中、輿はゆっくりと運ばれていった。
 都中の人々が往来で膝をつき、通り過ぎるのを待っていた。
 輿は清涼殿まで運ばれ、その先は連れてきた護衛のひとりも踏み入ることが許されない。
 頭を垂れた束帯姿の徳川家斉がそれを告げる。
 言葉を交わさず、長い下襲の裾の衣擦れの音を立てながら歩くその後ろを進むと、まともに口が利けぬ状態のマキシミリアンのマントの裾を引く音にそれが重なった。
 ゆっくりとゆったりとした歩みで進んでいく。
 まるで時を遡っていくように、時が静かに止まっていくかのように。
 
 天皇が座する場所まで行ったその時、突然空は暗くなり、雷雲が覆い、稲光がして、御所に劈く。

「気をおつけくださいますよう」

「気遣い無用にて」

 日本語で言うと、家斉はびくりとする。  

 雷が落ちたようなところには鬼火のように炎が揺れている。
 天皇を取り巻く重臣たちは顔色を変えていた。

 ……なにやら不吉な……。

 顔にそう書いてある。
 
 繰り返されて落とされる稲妻に遠くから人々の悲鳴が聞こえてくる。
 御所を狙い撃ちしているかのようなその雷に、誰もが不気味なものを感じずにはいられないと訴えているようだった。
 落ちる度に御所の建物が揺れ、歩みを度々止める。
 苦笑する。

「猛々しいことだ。どうやら八百万の神には歓迎されていないらしい」

 皆が凍りついたようになった。
 慣れている反応である。
 謁見の間では天皇は座しておらず、立っていた。

「……ああ。十六世……」

 今まで書簡のやり取りのみだったが、どのような人物かはよくわかっていた。

「ミカド…。息災で何よりだ。ようやく対面が叶った」

 ここからである。
 日本で始める。
 その役割を担っている。
 日本から始めていく。
 今なら間に合う。

 一本のワインボトルを出す。

「それが……?」

 頷いて、それを渡す。

 ――神の雫。

 その瞬間、御所に直撃したかのような衝撃が走り、鼓膜が破れたかと思える程の音が劈き、思わず耳を押さえる。
 一様に、耳が痛くてしばらく何の音も聞こえない状態になった。
 誰もが項垂れている。
 すると、再び衝撃が走り、御所全体を揺らしていく。
 家斉は立っていられず膝をつく。マークも両手をついていた。

「……これは……尋常ではない。陰陽師を呼んだ方が……」

 誰かがそう呟いた。

 ミカドがワインボトルを手にした瞬間、再び閃光が走り、御所が揺れ、そのボトルに罅が入り、硬質な音を立てて割れていった。

「……ああ…………」

 思わず震えあがる。

 次の稲光が光った時、御所の屋根が崩れ、バラバラと落ちてくる。

 そして、身体を捉えるかのように、光が轟く。

 雷が全身を貫く。

「――――――――!!!!」

 御所は燃え上がり始めていた。

「十六世様!」

 家斉が駆け寄ってくるが、固った身体の何も動かせなかった。
 マントが炎に包まれているらしく、家斉が慌ててそれを取り去り、庭に投げ捨てる。

 ―――ボブヴィライアン―――

 天からその声が聴こえてくる。

 ―――許し難き行い。悔い改めよ―――

 ……なるほど。
 お許しにならぬか。

 毅然として空を見上げる。

「やるべきことをやるまで」

 稲妻を連打するように打ち付けてくる。

 神とは何であろう。
 得た答えはいつもすり抜けて行く。
 絶対的な慈愛を秘め、孤独を救うものなどと人々は縋るが、もっと人間くさいものだと知っている自分は、その都度それに翻弄され、打ちのめされる。

 ――自身の無力さに。

 普通であればこれで即死するはずだ……と思いながらも、残り少ない寿命はその時間を早めることはないのだと苦笑する。

「まだ、やれと言われるか」
 
 衝撃に耐えるように立つ。

「ミカドのそばで我らをお見守り下さい」

 継承されてきた代々の天皇は世界で最古の神の血筋である。
 鎮座にもっとも適した場所なのである。
 だから、日本をおいて他にない。
 歯を食いしばりながら絶え間なく続く流される雷撃に耐える。

 清涼殿の屋根も出火してきた。
「十六世様!」
 家斉が駆け寄ろうとしていた。

 全身を痛めつける苦しみに両手を床につき、項垂れる。

「……ふふふふふ……」

 全身が炎に包まれる。

「……相変わらず……狡いお方だ……私の苦労などまるで見ようともせず…」

 愚痴がこぼれた。

 

四十一、

 雨が何日も降り続くこととなった。
 遣らずの雨。
 とは言い難く、災厄と人々は騒ぎ始めた。
 焼け落ちる寸前となった御所は無残な有様で、家斉がこの事態を穏便に済ませようと二条城を仮御所にしたが、市中の騒ぎは大きくなるばかりだった。
 神社仏閣関係全てが悲鳴をあげたようになり、暴動化するのは時間の問題で、それをかろうじて押さえていた。
 各藩から警備を増加させても間に合わない状態となったのだった。

「異人などを御所に入れたから神罰が下ったのだ!」

 異人排斥の風潮は、火事のように広がっていった。
 家斉は、来日の本来の目的を聞かされてはいなかったが、朝廷で何かを企んでのことだと踏んでいた。
 それを苦々しく思いながらも、何も打つ手がなく、苛立っていたのだった。
 後ほど詔が発せられはずだが、今はとにかく、一日も早く帰路についてもらうほかない、そう思った。 
 ぶるぶると震える公卿たちの中を心の中で笑いながらも、そんな心の内を見透かされたような視線を投げてくる相手はこの上ない恐ろしいものだと思った。
 そして、雷に当たって重傷のはずが何事もなかったような顔をして溜息をついているのを見ると背筋が寒くなる。
 それでも身体中に痛みが走っているようで、軽く頭を下げると苦痛の表情を浮かべた。

 次代マキシミリアンの時も驚いたが、十六世が日本語を流暢に話すことから、日本人が欧州にいるのだと確信していた。おそらく拉致したに違いないと。そしてそれはロシアだと思った。
 何とかその言質を取ることを試みたいと思っていた。
 わが国がいつかロシアに呑み込まれるのではないかという恐怖が日に日に襲ってきていたのだった。

「修復の費用は当方で負担する。弁償もできるかぎりのことをする」
 
 統帥が謝罪の言葉など言うはずもないとわかっていたが、非を認めるような言い方をした。

「どうやら神の怒りに触れたようだ」

「それではまるで貴方様がお出でになったことに関わりがあると仰せに聞こえますが」

 家斉が思わず言葉を発すると、公卿たちは顔面を蒼白にする。
 統帥が苦笑いをした。

「ふ。そういうことにしておけばよかろう。大和の神は異人を受け入れなかったと。だから賠償するということだ。悪い話ではないはず。よいな。ミカド」

 苛立ちを露にしながらこれ以上突っ込まれたくないと言わんばかりに統帥が視線を動かすと、天皇が小さく溜息をつく。

「内大臣、源家斉」

 人形のような面差しから流れてくるような涼やかな声に、はっとして居住まいを正した後、こうべを下げる。

「次代が住めるような小さな島の手配を頼む。今回の御霊をそこに鎮める。鎮守の島とせよ」

 詔勅であった。
 何か取り交わしたことがあったようだったが、それに触れるわけにはいかない。
 解せぬながらも家斉は神妙な面持ちで頭を下げる。

「謹んで承りましてございます」

 *****

 大坂から三艘の外国船が出航すると皆はほっと息をついた。
 今回のことで異人を京に入れると神の怒りに触れるというのは皆の共通意識となっていく。家斉としては鎖国政策にはもってこいだと思い、その風評をそのままにした。
 今回の訪問で多くの財を残していってくれたことで、幕府としては潤ったが、その外貨について隠蔽する為、今回の訪問に関して公式記録から省略されることとなった。
 その出来事はやがて人々から忘れ去られることになっていくが、ただひとつ異人恐怖症だけは残っていくこととなる。

 それまで神の島と呼ばれていて湧水もあり、温泉も出て、緑豊かな九州の天領の無人島にマーク親子は送られることになった。
 それに伴い、農民を入植させて田畑を作らせ、自給自足の生活ができるようにした。
 その段取りがある程度済んだ後、家斉はマークを二条城の茶室に呼びつける。

 すっと茶碗を差し出すと、マークは作法通りにそれを受け取った。

「流人のように扱うようで心苦しいが、鎮守人としての居住を頼むとの詔である」

 マークが微笑む。
 
「承知いたしました」

「左様か。しかし、こなたに茶を入れることなど二度とないと思っていたが、実に不思議な縁よ」

「仰せの通りでございますね」

「しかし、あの雷を避ける術は凄かった。隠密の者からそういう術があるとは聞いていたが、まさか十六世が身に着けておられるとは」

 探るかのような家斉の誘導的な言い方にマークが苦笑する。
 確かに特殊な力を大伯父は持っているのだろうと思った。

「大陸の覇者であり続けるには何でもできるようになるのでしょう」

 まったく化け物だと呟く。さすがだと。

「その後を継がなくて誠によいのか。いかに勅命でもこなたを縛るものではなかろう。帰国できるよう働きかけてはどうなのだ」

「いいえ、それには及びません。おそらく既に私は死亡したことになっているでしょう。これからは上様に献上できる農作物を作れるよう励みますよ」

 そう言いながら両親が葡萄畑で民たちと共に楽しそうにしていた姿が浮かんできた。
 すると、自分はつくづくあの二人の血を受け継ぐ者だと思った。
 それが己の分であると。

「なるほど、ならば人質の価値もないということか」
「……………」

「奉行よりこれを預かった」

 そっと畳にその書状を置く。

 『織江の様子は相変わらずです。このままお構いなく願います。マキシミリアン様。蒔田奈津』

 時候の挨拶もなく素っ気ない短い文章である。
 恨み言が書いてあるよりはるかに迫力を感じるものだった。
 がっくりと肩を落とすと、家斉が怪訝な顔をする。

「蒔田織江とやら。そのおなごが理音殿の母親か」

「はい」

「貴方様からしたらみっともないことでしょうが」
 家斉がまじまじと見ると、マークが小さく微笑む。
「…西洋の文化を学ばせたらどのような影響があるか試した者らである。それにより多少はこなたのことを理解したであろうが。…ふ。よもや我が国の者ではなく、西洋の国の者への影響があるとは予想しておらず」
 家斉が嘲笑を浮かべる。
 大奥で手をつけた女子は数えきれぬほどで、多くの子供が生まれ、それを諸藩に行かせ、将軍家を支える基盤となるように配慮してきた。女子は子供を産む道具で、外国で手をつけた女子の為に将軍職を捨てられるかと問われれば、それは断じて否だった。 
「…予はこの国を守るために生まれてきた。こなたもそのはず。おなごに血迷うておる場合ではなかろう。政の前には何を為すべきか自ずと答えはでている」
 侮蔑の表情を浮かべた家斉が睨むとマークは硬い表情をつくる。
 恥を知れ…と言われているようだと思った。
 ———お前などおらんでも一向に構わぬ。日本で朽ち果てろ!
 大叔父はそう言い放った。
 日本に留まることを承諾するかどうか賭けに出ていたのだとわかった。
 捨てられるものなら捨ててみろと。
 その時はさすがに失望の表情をした各国の王らの顔を浮かんだ。
 確かに自分は血迷っているだけのように見えるのだろうと思った。
「いいえ」
 大叔父はまるで勝負に負けたかのように、詰めが甘かったかと言った。そして、鎖が外されたような音を聴いた気がした。鍵のかかった門が開かれたような。
「投げ出したことの無責任さは重々承知しております。それを背負っていくつもりです」
 マークが頭を下げると家斉が苛立たしさを隠すように大きく息を吐く。
「人には生まれた時からそれぞれ役目が備わっておる」
 鋭い眼光だった。
「その役目からは逃れられぬ。それが生きる道というものよ。だが、その道から外れたとするならばすなわちそれは正道ではなかったということである」
 マークはまさにその通りだと思った。そういうことである。
「おっしゃる通り、私の道ではなかったということです。十六世の魂を受け継ぐ者が他にいるのでしょう」
 マークが書状を握りしめる。

「だから私はこの道を行きます」
 
 重い決断だったからこそ、間違うことは許されない。清らかで輝かしい表情で言った。
 家斉は、次期将軍の世継ぎ争いをしている渦中の身の上が疎ましくなる。権力の座はすんなり捨てられるものではないはずだった。
「…左様か。人質として使えぬのであれば、この先はせいぜい大人しくしていただこう。長崎の異人どもと接するのは禁じるが、よろしいか」
 家斉は、そんな醜い欲が渦巻く中で生きていくには虚勢を張るしかなかった己を否定されたようで悔しさがわき上がり腹立たしくなる。これ以上マークと話をしたくなかった。
 その純粋さに認めたくなくも嫉妬を覚えたのだった。
 そして、西洋文化の教養を得た長崎より大奥に召した長坂の娘、お滋の方のことを思い出していた。自分には夫と決めた者がいると言い、寝所で泣き、憤慨して犯した時のことがよぎる。たかだか実験台のひとりに過ぎぬ者から屈辱を受けるとは思いもしていなく、手討ち寸前まで傷つけた。
「はい。護り人として静かに過ごしていきたく存じます。あの…でも…オランダ人たちと接触しないと約束をするならば、ナガサキに行くことをお許しいただけますか」
「…………………………………」
「迎えに行きたいのです。どうかお許し願いたく」
 間違いなく処女だったお滋の方は翌日、自害した。
「予は江戸に戻る」
 家斉はそれに返事をせずにすっと立ち上がり、近寄り難き威厳を漂わせて去っていった。

 二条城の控えの間で理音ががたがたと震えていて、マークの姿を見るやいなや飛び込んでくる。理音は雷の恐怖ですっかり口がきけなくなっていた。マークがぎゅっと抱き締めると理音の身体の震えが収まる。
「さあ、リオン。おとうさまと一緒に行こう」
 マークが抱き上げると理音が嬉しそうに両手を上げながら笑う。
「おかあさまを迎えに」
 すると涙をぽろぽろと零した。
「会いたいな。おかあさまに」
 うっくうっくと泣く。
「もう大丈夫だから泣かなくてもいい」

椿

椿

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-19

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