へーちゃん~あたたかな みなみの島で~ 

書きたかったのは、読むと元気になれる小説です。
だから、ニコッと笑ってもらえたら幸いです。


南の島の夏の終わりの物語。
密かな恋心と友との別れ。
当たり前だと思っていた親の愛情。

やさしい仲間がいてくれたから。
本当に大切なものはなに?

きれいな海が見たかった。沖縄に行くことを決めた理由は、それだけだったような気がする。


海はすごい


  へーちゃんの
  へーは、
  へへへーの
  へー。

  右手を後ろにまわし、
  頭をかきながら、
  へーちゃんは
  いつも笑っている。


 へーちゃんの一日は台所の洗い物から始まる。へーちゃんが住み込みで働いている島風(しまかじ)では、毎晩のように宴会が開かれ、真夜中まで続く。その後片付けをするのが、へーちゃんの朝の日課なのだ。
 へーちゃんはお皿を洗うときもニコニコしている。スポンジとブラシにいっぱい泡をつけ、シャカシャカ、キュッキュッーとリズミカルな音をたてながら、次々に食器やグラスを洗っていく。
 洗い物が済んだら、今度は朝食の支度をする。メニューはいつもだいたい同じ。ごはんにみそ汁、そして目玉焼き。卵焼きを作ることもある。そのときは、フライパンでスパムも焼いて、ポーク卵にする。
 野菜は前の晩の残り物。古ぼけた冷蔵庫の中には、たいていゴーヤーやナーベーラーの炒め物が入っているので、それをレンジでチンして一緒に食べる。なにもないときは、オクラやモヤシをお鍋で茹でて、マヨネーズとしょう油をかけて食べたりもする。
 朝ごはんができたら、お盆にのせてゆんたく(おしゃべり)場に持っていく。ゆんたく場は外にあるから、目の前の海がよく見える。
 へーちゃんは必ずここで食事をする。海を眺めていると、ついつい食べることを忘れてしまう。海はすごいな~、といつも思う。




朝の時間

「へーちゃん、おはよう」
 振り返るとクミちゃんが立っていた。
「また海を見てたの。飽きもせず。へーちゃん、本当に名護の海が好きなんだね。フフ」
 頭をかきながらやさしく微笑み、一度頷いただけですぐに向き直り、再びじーっと海を見つめ始めたへーちゃんの姿がなんだかおかしくて、クミちゃんは楽しそうに声を出して笑った。そして、へーちゃんの横にちょこんと座った。
 クミちゃんは、へーちゃんと並んで海を見つめながら過ごす、朝のこの時間が好きだった。へーちゃんは、ぼーっと海を眺めているだけで、ほとんどなにも話さない。だけど、不思議なことに、その静かに流れる時間がとても心地よかった。東京でOLをしていたときは、間があくことを恐れ、いつもなにか話さなきゃと焦ってばかりいたのに。
 静寂は心地いい。そのことがわかっただけでも、クミちゃんは沖縄に来た意味があったような気がしていた。




海が見たい

 クミちゃんは今からちょうど一年前、沖縄に秋の訪れを告げるミーニシ(新北風)が吹き始めた頃、ぶらりと島風にやって来た。ネットで検索し、沖縄本島の北部にも千五百円で泊まれる安宿があることを知り、なんの気なしに訪ねて来たのだ。
(もう一年か。なんか、あっという間だったな。まるで夢見てるみたいに)
 海を見ているといろんな記憶がよみがえってくる。頬を撫でる風があまりに心地よく、眠りに落ちそうになりながら、クミちゃんは沖縄にやって来た頃の自分の姿を思い起こしていた。
(きれいな海が見たかった)
 沖縄に行くことを決めた理由は、それだけだったような気がする。
 高校の修学旅行で初めて訪れた沖縄。そのときに目にした本部の海。キラキラに輝く水面。一瞬で魅せられてしまった。あまりに眩しくて、その日は一睡もできないくらい興奮した。
 海はすごい。すべてを受け入れ、やさしく包み込んでくれる。
 その想いは今も少しも変わらない。




もっと知りたい

「ねー、へーちゃん」
 答えが返ってこないことはわかっているけれど、クミちゃんはときどき、へーちゃんに話しかけてみる。
「ずっと沖縄で暮らすつもりなの?」
 へーちゃんの心の中をちょっと覗いてみたくなる。
(もしかして、へーちゃんに恋してる?)
 そう自分に問いかけることもある。その答えは……。 
 自分でもよくわからない。ただ、へーちゃんのことをもっと知りたいと思っていることはたしかだ。




仕事

「よし。やろうか」
 へーちゃんが大きく伸びをしてから、ゆっくり腰を上げた。
「うん」
 クミちゃんもすぐに立ち上がり、へーちゃんのあとを追った。
「今日もなんか、海見てたら元気出たね」
 並んで歩くふたりの笑顔は、沖縄のてぃだ(太陽)に負けないくらいキラキラに輝いていた。
 沖縄に来て、自分は変わったとクミちゃんは思っている。東京にいたときは、仕事は生活費を稼ぐための手段でしかなかった。だから、日曜の夜になると少し憂鬱になった。また明日から仕事か。気が付くとため息をついていた。
 だけど、今は違う。掃除も洗濯もお客さんのお世話もとても楽しい。だから、自然に体が動く。シーズンオフになるまで休みはないし、お給料もほんの少ししかもらえないけれど、つらいと感じたことはない。
 仕事は、嫌いなことを我慢してやるものではない。好きなことを楽しんでやればいいんだ。そのことを教えてくれたのは、島風のオーナー、イラブさんだった。




イラブさん

 イラブさんは夜になると島風に顔を出す。ダイビングの仕事を終えてから、一番お気に入りの泡盛、島人(しまんちゅ)の一升瓶をぶら下げて、ニコニコ笑いながらやって来る。
「ここで働いてみるか?」
 へーちゃんもクミちゃんも、島風の宴会の席でイラブさんに声をかけられた。島風の穏やかで自由な雰囲気が気に入っていたふたりは、すぐに「はい」と返事をした。
 イラブさんの口癖は、「OK、OK。大丈夫、大丈夫」。悩み多き旅人たちに深刻な相談をされても、答えはいつでも、「OK、OK。大丈夫、大丈夫」。
 クミちゃんも前に一度、イラブさんに将来のことについて相談をしたことがあった。そのときの答えもやはり、「OK、OK。大丈夫、大丈夫」だった。
 イラブさんはテーゲーな人なのだとクミちゃんは思っている。テーゲーは沖縄の言葉で、適当、だいたい、大概という意味がある。
 イラブさんは物事をあまり深く考えない。ウダウダとあれこれ考えるより、まずは行動、外に出て体を動かすことが大事だと思っているからだ。そうすれば道は自然と開けてくる。だから、どんなに大変なことが起こっても、「OK、OK。大丈夫、大丈夫」なのだ。
(この人は動物だ)
 常識にとらわれず、本能に従って自由に生きているイラブさんの行動を横で見ていると、クミちゃんはいつもそう思う。
 動物は嘘をつかない。イラブさんも同じ。テーゲーだけどいつも本気。だから、「OK、OK。大丈夫、大丈夫」という言葉も信じられる。酔うとすぐにお尻を触ってくる悪い癖は、早く直してもらいたいけれど。




マリーさん

「へーちゃん、クミちゃん、よく来たね」
 午前中の仕事を終え、島風から車で五分ほどの距離にある食堂に顔を出すと、お店の主人のマリーさんがいつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
「あれ、今日は新顔さんもいるね」
 マリーさんの視線の先には、目がクリッとしたかわいらしい女の子がいた。
「ひかりちゃんです。二週間前から島風に泊まってるんですよ」
 クミちゃんがマリーさんに紹介すると、ひかりちゃんが照れくさそうにはにかみながら、ちょこんと頭を下げた。
 マリーさんのお店の名前はパーラー空という。空はマリーさんの子供の名前で、店内の壁には、沖縄の真っ青な空の写真や絵がいくつも飾られている。
「わー。この絵、いいですね。すごく楽しそうで」
 マリーさんが出してくれたさんぴん茶を一口飲んでから、ひかりちゃんが一枚の絵を指差した。
「これ、息子が描いた絵」
 マリーさんがニンマリと笑いながら言った。
「空くんの朗らかな性格がそのまま出てるような絵ですね。ワンちゃんや猫ちゃんと一緒に雲の車に乗っている男の子は空くんなのかな? 髪型はちょっと違うけど」
 クミちゃんが絵の前まで歩いて行き、首をかしげながらそう言うと、
「へーちゃんに似てる」
 ひかりちゃんが弾んだ声をあげた。
「そう言われてみれば」
「絶対、そうだよ」
「これはへーちゃんだね」
 みんなの視線が一斉に集まり、へーちゃんが恥ずかしそうに何度も頭をかいた。




注文は?

 マリーさんの長男、空くんは高校二年生で美術部と軽音楽部に所属している。将来の夢は画家かイラストレーターになること。高校を卒業したら、東京の美術大学に進学したいと思っているので、その資金を貯めるために学校に通いながらアルバイトもしている。中学のときからずっと、毎朝三時に起きて沖縄タイムスを近所に配達しているのだ。
「東京にいくにはお金がかかるからね。ほら、私んとこ父親がいないだろ。だから、よけいに大変」
 へーちゃんの横にドカッと腰を下ろしたマリーさんが、大げさに顔をしかめてみせ、みんなを笑わせた。
「でも、えらいですよね、空くん。お母さんの負担を少しでも軽くするために、ちゃんとアルバイトをして」
 クミちゃんがそう言うと、マリーさんがすかさず、
「私の育て方がいいからね」
 と口を挟み、またみんなを笑わせた。
 クミちゃんが島風のお客さんを連れてパーラー空に行くと、マリーさんはいつも厨房から出てきて、みんなといろいろな話をする。だから、お昼過ぎにお店に行ったのに、気が付くと夕方になっていた、なんてことも珍しくなかった。
 クミちゃんは、パーラー空のそういうやわらかい雰囲気が好きだった。なんとも言えないあたたかみを感じていた。
「あのー、注文してもいいですか?」
 ひかりちゃんが様子を窺うように上目遣いでマリーさんを見ながら言った。
「そうか。まだ注文してなかったんだっけ」
 クミちゃんが目をパッと見開いて笑いながら言った。
「そうだよ。お腹ペコペコなのに」
 ひかりちゃんは少し不満そう。
「お腹ペコペコか。それは大変だ。それじゃ、すぐに作ろうね」
 そう言ってマリーさんが厨房の中に戻ろうとしたので、
「まだ注文してないんですけど」
 ひかりちゃんがプクッとほっぺたを膨らませた。へーちゃんはニコニコ笑いながら、みんなの話をずっと黙って聞いていた。




親戚の子

 へーちゃんはパーラー空でも基本的に聞き役だ。いつもニコニコ笑っているだけで、自分から口を開くことはほとんどない。
「へーちゃんがね、初めてうちの店に来たとき、親戚の子が久しぶりに遊びに来てくれたのかと思ったんだよね」
 小さな子供たちにも喜ばれそうな甘い味付けがされたタコライスを三つ出し終えると、マリーさんが再びへーちゃんの横にドカッと腰を下ろして、ゆっくり話し始めた。
「へーちゃんみたいな顔した親戚の子がいるんですか。なんか、おもしろ~い」
 へーちゃんの顔をじっと見つめながら、ひかりちゃんが言った。
「やっぱり、そのときもニコニコ笑ってたんですか?」
 クミちゃんもへーちゃんの顔を覗き込んだ。
「そうだね。今と同じだね。だけど、訊けばなんでも答えてくれたよ。ずっと空手をやっていたこととかね」
 マリーさんがそう答えると、
「うそー。へーちゃんがですか。信じられな~い」
 すぐにクミちゃんが目を丸くして言った。
「あのときは話したい気分だったんだよね」
 マリーさんが首を横に傾け、へーちゃんの目を見てやさしく微笑んだ。へーちゃんはやっぱりなにも言わず、照れくさそうに頭をかきながらニコニコ笑っていた。



10
めげない男

 パーラー空からの帰り道、クミちゃんはぼんやり考え事をしていた。
(マリーさんは私の知らないへーちゃんを知っている)
(どうして私が訊いても答えてくれないんだろ)
(知り合ってから、もうずいぶん経つのに……)
 いろんな想いが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
(まだ心を許してくれていないのかな)
 そう思うと少し悲しくなった。

 三人が島風に戻り、ゆんたく場に行くと、自らを自由人と称するマーくんが音楽を聴きながらハンモックに揺られていた。
「おー。やっと帰ってきた。もう寂しかったぜ。出かけるときは俺にも声かけてよ。みんな、ここで出会った仲間なんだからさ。まあ、でも、いろいろ都合ってものがあるからね。うん。それはいいとして、どう? みんなも。ハンモック。気持ちいいよ。ひかりちゃん、今日もかわいいね。ここ、あいてるよ」
 マーくんはいつもこんな調子。テンションが高く饒舌で、思ったことをそのまま口にする。
「なに言ってんの。バカじゃない。あんたの横になんか、絶対に行かないよ~だ」
 残念ながら、ひかりちゃんはマーくんにはまったく興味がないらしい。だから、いつもつれないことを言う。
「またまた。本当は来たいくせに」
 それでもマーくんはまったくめげない。
「バーカ」
「ホントに照れ屋なんだから。そういうとこもかわいいんだけどね。俺の横、いつでもあいてるから」
 何度拒絶されても決して諦めない。さすがはずっとテント暮らしをしている野生児。精神力が並じゃない。
「すごいね。マーくん」
 ふたりのやり取りをずっと黙って見ていたクミちゃんが突然、声をあげた。
「えっ? なにが?」
 マーくんがポカンと口をあけた。
「うん。いいの、いいの。でも、やっぱりすごいよ、マーくん。その打たれ強さ。尊敬しちゃう。うん。そうだよね。落ち込んでドヨーンとしててもいいことなんてなにもないもんね。言いたいことがあったら正面から堂々とぶつかっていけばいいんだよね。うん」
 クミちゃんが自分に言い聞かせるように何度も頷きながら言った。
「よくわからないけど、サンキュー。褒められてるみたいだから、とりあえず礼を言っとくよ。もしかしたらクミちゃん、なにか悩み事があるんじゃない? 話したいことがあったら遠慮なくいつでも言ってよね。俺でよければいくらでも相談にのるから」
 マーくんはすっかりいい調子。
「バーカ。相談するならイラブさんにするっていうの」
 得意になっているマーくんの顔を見て、ひかりちゃんはイラッときてしまったらしい。
「あー、イラブさんね。たしかにあの人もいいよ。でも、俺もなかなかのもんだからね」
 やっぱり、マーくんはまったくめげない。涼しい顔をしてハンモックに揺られ続けている。
「まったくなにを言ってんだか。そこまでノーテンキだとほとんど病気だよ」
 ひかりちゃんが両手を横に広げ、口をへの字に曲げて呆れたような顔をした。
「ひかりちゃん、そんな顔をするとせっかくのかわいい顔が台無しだぜ。へーちゃんみたいにいつも笑ってないとハッピーになれないよ。ほら、スマイル、スマイル」
 マーくんはハッピーという言葉をよく使う。ハッピーになるためには笑顔を絶やしてはいけない。それがマーくんの持論だ。簡単に言えば、笑う角には福来る。ゆったりとしたレゲエの曲ばかりを聴いているのも、おそらくハッピーになるためなのだろう。
「もう、うるさい。このハッピーバカ。世の中、そんなに簡単なもんじゃないんだよ。笑うだけで幸せになれたら苦労しないっつーの。クミちゃん、あっち行こう。事務所で話そう。ここにいるとバカがうつるから」
 ひかりちゃんはマーくんに対してはどこまでも辛辣だ。遠慮というものを一切しない。マーくんになら、なにを言っても大丈夫、許してもらえると思っているのだろう。
(あんなに無防備に感情をむき出しにさせることができるマーくんて、実は器が大きいのかも)
 珊瑚のかけらが敷き詰められた白砂の道を、ひかりちゃんに手を引かれて歩きながら、クミちゃんはそんなことを考えていた。



11
レゲエミュージック

「ひかりちゃんて、かわいいよね。不器用で口は悪いけど、なんか健気でさ。たぶん、あの子、今まで相当苦労してきたんだと思うんだ。今はだいぶ明るくなったけど、最初にここに来たときは死んだような目をしてたからね。
 海を見てさ、泣いてたんだぜ。赤い夕日を顔にいっぱい浴びて。みんなに見つからないように、ここから少し離れたところにひとりで行ってさ。岩の上にちょこんと座って、大粒の涙をボロボロ流してたんだぜ。ときどき携帯の画面をじっーと見つめたりしながら。
 最初に見かけたときは、『どうしたんだい?』って声をかけようと思ったんだけど、その涙を見たら、さすがの俺でも声をかけられなかったよ。あまりに悲しそうだったからさ。なのに、みんなの前ではそんな顔、ぜんぜん見せないじゃん。飲んでるときにもさ。酔っ払っても腰振りながら踊るだけで。その姿がなんか、俺には痛々しく見えてね。
 もっと素直になればいいのにって思うけど、たぶん素直になれない事情を抱えてるんだろうね。複雑なものをさ。だから、言いたくても言えないんだろうね。本音をさ。最初の頃はひとつひとつ言葉を選びながら話してたもんね。普通の世間話をするのにも。今じゃ俺には一切、遠慮なしだけどね」
 やわらかな西日を受けながら、マーくんが前を向いたまま静かに話し始めた。
「ひかりちゃん、ここにいつまでいるつもりなんだろうね。離島にも行きたいって思ってるみたいだけど、俺はそろそろ家に帰ったほうがいいんじゃないかって気がしてるんだ。もうここに来て二週間だろ。その前に那覇とコザにも少しいたみたいだし。なにか目的があって旅をしてるのなら話は別だけど」
 小さなCDラジカセからはやはり、ゆったりとしたレゲエミュージックが流れていた。
「ここはいいよね。目の前が海で環境的には最高だし、誰もなにも押しつけたりしないから。みんな、やさしいし。“自分が探してたのはここだ!”って思える場所だよね。
 だけど、そういう穏やかで自由な場だから、逆に自分でけじめみたいなものをつけないといけない。そうしないと、どんどんダメになっていくからね。自分の中のルールをちゃんと作っておかないと。人ってそんなに強くないから、自然に楽なほう、楽なほうへと流れていってしまうから。
 で、ある日突然、我に返るんだよね。自分は一体なにをやっていたんだろうって。もちろん、そこからだってやり直すことはできる。だけど、楽なほうに流されてる間に大切なものを失ってしまうこともあるから。そうすると、とんでもない喪失感、失望感に襲われることになるからね。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになって。
 だから、できることならきちんと筋を通したほうがいい。逃げださなきゃ死んじゃうっていうとき以外は」
 イラブさんがアジアを旅したときに買ってきた、ベトナム製のハンモックに揺られながら、へーちゃんはマーくんの話をずっと黙って聞いていた。マーくんが語り終えると、少し間をあけてから、「そうだね」とだけ静かに言った。
 目の前は海。ビーチに下りれば本部の岬にゆっくり落ちていく夕日がよく見える。波打ち際ではしゃぐ制服姿の高校生、白い大きな犬を連れて散歩にやって来た白髪頭のご老人、ビーチに腰を下ろし、珊瑚のかけらや小さな貝殻を拾っている薄手のロングスカートをはいた女の子、夕暮れが近づき、いつのまにやら多くの人がビーチに集まってきていた。
「よーし、俺たちも行きますか。きれいな夕日が見れることも、ここのいいところだからね。なんか、かわいい子も来てるし」
 ビーチの様子を窺いながらマーくんが言った。そして、勢いをつけてハンモックから飛び降り、ビーチに向かって駆け出した。へーちゃんもハンモックから降り、マーくんのあとを追った。



12
桜子さん

 日が沈む時間が迫ってきた。オレンジ色の夕日が本部半島に重なり始めると、ビーチにいたすべての人の視線がそこに向けられた。
「きれいだね」
 マーくんが腕組みをしながら囁くように言った。
「うん」
 その横でへーちゃんが静かに頷いた。

 本部半島に夕日が沈むと、島風では夜の宴会の準備が始まる。
 へーちゃんは買い出し担当。車に乗って近所のスーパーかねひげに行き、野菜やお肉を調達する。もちろん、お酒も。泡盛のお供には島豆腐も欠かせない。
 クミちゃんの担当は女子らしく料理。まず最初に人数分のグラスとお皿の用意をして、それが終わったら、今度は台所のテーブルの下のほうから大きなフライパンを引っ張り出して、油と一緒にガス台の上に置く。へーちゃんが帰ってきたら、すぐにチャンプルーやイリチーなど、炒め物ができるように準備を整えておくのだ。
 冷蔵庫の中の残り物のチェックも重要な仕事。余っている野菜があればザクザクとカットして、下準備を済ませておく。調理済みの料理が残っていたら、いくつか材料を加え、味付けや加熱の仕方を変えて、新たなメニューとして生まれ変わらせる。イラブさんの基本方針、“どんなものも大切に”をクミちゃんは忠実に守っている。
「あのー、なにかお手伝いしましょうか?」
 忙しく動き回っている姿を見て気の毒に思ったのか、客室から台所を覗き込むようにして、ひとりの女の子がクミちゃんに声をかけた。
「あー、桜子さん。いいの見つかりました?」
 さっきまでビーチで珊瑚を拾っていた女の子だった。
「はい。ストラップとかペンダントとか、いいのがいっぱい作れそうです」
 桜子さんが笑顔で答えた。そして、
「私にもなにかやらせてください」
 と言いながら台所の中に入り、手伝えることはないかとテーブルの周りを見回した。
「そうですか。じゃあ、このグラスとお皿をゆんたく場に持っていってもらってもいいですか?」
 クミちゃんは遠慮なくお願いした。今から一時間ほど前、島風の事務所で最初に会ったときから、クミちゃんは桜子さんに親しみを感じていた。「今日から三日間、お世話になります。よろしくお願いします」と挨拶をしてくれたときの笑顔があまりに自然でやわらかく、この人は絶対にやさしい人だと確信していたのだ。
「あれっ? さっきビーチにいた人じゃない? もしかして、ここのお客さんだったの?」
 大きなお盆を抱えて桜子さんがゆんたく場に現れると、マーくんがハンモックから急いで飛び降り、弾んだ声をあげた。
「はい。そうです」
 桜子さんがお盆を抱えたまま首を少しだけ右に傾け、目をキラキラと輝かせてニコニコ笑いながら答えた。
(ガーン……。なんという眩しさ。朗らかさも並じゃない。無垢。無邪気。ピュア。一点の曇りもない笑顔とはこのことか)
 マーくんは一瞬で桜子さんに魅せられてしまった。



13
もう大変

「柿原正人。二十八歳。出身は神奈川県の鎌倉。自由人なので職業はいろいろ。みんなからはマーくんと呼ばれています」
 完全に舞い上がってしまったマーくんが突然、頼まれてもいないのに自己紹介をした。
「春川桜子です。周りの人からは普通に名前で呼ばれています。広島から来ました。介護士をしています。年は二十三です」
 桜子さんは物事をありのままに受け入れるタイプなのか、マーくんの突発的な行動にも戸惑うような素振りはまったく見せず、同じように自己紹介をした。
「桜子さんというんですか。美しい、いいお名前ですね。名は体を表すと言いますが、本当ですね。う~ん、実にいい。ちなみに、好きなタイプは? 顔と性格、どっちを重視しますか? あっ、その前にお盆、こっちにもらいましょうね。重くて大変だったでしょ」
 桜子さんからお盆を受け取ると、マーくんはゆんたく場のテーブルの上にそれを置いた。顔はデレデレ。目尻がだらしなく下がり、頬も緩みきり、落っこちそうになっている。
「ありがとうございます。それじゃあ、私、戻りますね」
 そう言って桜子さんが客室の中に入って行くと、マーくんが反射的に右手を前に差し出し、「あーっ」と気が抜けたような声を漏らした。そして、口をポカンとあけたまま自分の定位置であるハンモックに戻り、そこに腰だけを下ろし、腕組みをしながら目を閉じて考え始めた。
(きたな。この胸のときめき、高鳴る鼓動。間違いないぞ。俺は桜子さんに恋をしている。あんなに笑顔がステキな女の子に会ったのは生まれて初めてだ。今年一番の、いや、今まで生きてきた中で最も衝撃的な出会いだ。彼女のためなら死ねる。確実に)
 マーくんは思い込みの激しい男だ。恋をするのに時間など必要としない。一瞬で燃え上がり、好きになったらとことん好きになる。熱い男なのである。



14
オタフクソース

 ゆんたく場から台所に戻ると、桜子さんはクミちゃんと一緒に大きなお好み焼きを作った。冷蔵庫の中に残っていたキャベツを使って、一番大きなお皿にものりきらないくらい巨大なお好み焼きを作ったのだ。
「まだキャベツが残ってるから、あとでまた作ろうね。今度はおそばも入れて」
 特大サイズの真ん丸のお好み焼きに上からかつおぶしをふりかけながら、クミちゃんが言った。
「はい。広島のお好み焼きもすごくおいしいですから」
 桜子さんは生まれも育ちも広島という生粋の広島っ子。広島の名物であるお好み焼きを作ることを提案したのはやはり、桜子さんだった。
「お好み焼き、よく食べるの?」
 今度は青海苔をパラパラとふりかけながら、クミちゃんが言った。
「そうですね。学生時代は本当によくお店に行って食べてました。ファーストフード代わりに。いつも女の子の友達と一緒に行っていたので、あまり食べ過ぎないように、ふたりでひとつのお好み焼きを注文して分けて食べたりして。今はお店にはあまり行かなくなっちゃったんですけどね。家で自分で作ることが多くなって。あっ、やっぱりないみたいですね。ソース」
 桜子さんが冷蔵庫の中を覗きながら残念そうに言った。
「そっか。しょうがないね。今日は普通のソースで我慢しようか。へーちゃんたち、もうお店を出たあとだと思うから。さっき電話したとき、頼めばよかったね。おそばと一緒にオタフクソースも買ってきてって」
 クミちゃんも桜子さんと同じように残念そうな顔をした。
 島風の台所はお客さんも自由に使える共同キッチン。自炊をするお客さんが料理の材料と一緒に調味料も買ってくるので、味付けに必要なものはだいたい揃っている。クミちゃんがお好み焼きにパラパラとふりかけたかつおぶしと青海苔も、お客さんが置いていってくれたものだった。
「とんかつソースは二本もあるのにね。冷蔵庫の中に入っているものは、ほとんどがお客さんが残していってくれたものなんだよ。あとから来る人たちのために。そういうのユイマールって言うんだって。助け合いって意味らしいよ」
 クミちゃんが冷蔵庫の中身をもう一度チェックしながらそう言うと、桜子さんが「へー、なんかかわいい言葉ですね。ゆるキャラの名前みたいで」と声を弾ませて答えた。そして、お好み焼きに携帯電話のカメラを向けて、「記念に撮っておこう。これも真ん丸でかわいいから。ちょっとカープ坊やに似てるし」と言いながら、続けてシャッターを切った。楽しそうにニコニコ笑いながら。
「桜子さんって、おもしろい人だね」
「なんでですか?」
「だって、顔はシュッとしてるのに、言うことはなんだかとぼけてて」
「おかしいですか?」
「おかしくはないけど、あまりいないよね、そういう人」
「そうですか。でも、変わってるとはよく言われます」
「へー」
「やっぱり、そう思います?」
「うん。ちょっとね。でも、みんな、悪い意味で言ってるんじゃないと思うよ」
「そうなんですかね」
「うん。絶対。あまりいない、貴重な人だって意味で言ってるんだと思うよ」
「えー。それじゃあ、まるで私が天然記念物みたいじゃないですか」
「そうだね」
「そうですよ」
 ふたりは大きな声を出して笑った。さっき初めて会ったとは思えないくらい、話が弾んだ。
「私、桜子さんみたいになりたいな」
「えっ?」
「ううん。なんでもない」
「私なんてダメですよ。ドジばっかりで」
「ちゃんと聞こえてたんだ」
「はい」
「私はすごくいいと思う。自分が感情の起伏が大きいほうだから、性格が穏やかな人に憧れるんだと思う」
「穏やか? 私がですか? そうなのかな。自分ではよくわからないけど」
「あまり怒ったりしないでしょ?」
「はい」
「やっぱり。ちなみに、一人暮らしでは?」
「ないです。実家で両親と暮らしてます。おばあちゃんとおじいちゃんも一緒に」
「へー。なんか、らしいね。みんな、仲よさそう。お父さんとも仲いい?」
「はい。けっこう。今でも一緒にカープの試合、観に行ったりもするし」
「ふたりっきりで?」
「はい」
「すごいね。信じられない。私、父親とあんまりしっくりいってないから」
「えーっ。そうなんですか?」
「うん。でも、母親とは仲よしだから」
「私もです」
「そこは一緒だね」
「はい」
 ふたりは夢中になっていつまでも話し続けた。買い出しに出ていたへーちゃんとひかりちゃんが戻ってくるまでずっと。



15
マーくんの気持ち

 宴会が始まった。テーブルの真ん中に特大のお好み焼きがドーンと置かれている。その横にはクミちゃん特製のチキン味のゴーヤーチャンプルー。ニンジンシリシリやパパイヤイリチーなども並んでいる。
「相変わらず炒め物が多いな。野菜ばっかだし」
 マーくんがちょっと不満げに言った。
「それがいいんだよ。栄養たっぷりで。お肉だっていっぱいじゃないけど、ちゃんと入ってるんじゃん。いやなら食べなきゃいいんだよ。あんたが食べなくても誰も困らないから。ねー、クミちゃん」
 ひかりちゃんはやはり、マーくんには手厳しい。
「そうだね。だけど、マーくん、野菜をしっかりとらないと元気に旅を続けられないよ。マーくんはテントで暮らしてるんだから、体には人一倍、気をつけないと」
 クミちゃんがお母さんのようにやさしく諭すと、桜子さんが目を丸くして、
「テントで暮らしてるんですか?」
 驚きの声をあげた。すると、
「そうなんだよ。バカでしょ、こいつ」
 マーくんより早くひかりちゃんが反応した。
「すごいですね」
 桜子さんは異星人に会ったような顔をしている。テントで暮らしてる者がよほど珍しいらしい。
「桜子さん、テント生活をしてる人間なんて、世の中にはいっぱいいるんだよ。もちろん、沖縄にも。自由に生きていくにはテントが一番身軽でいいからね。いいとこが見つかればそのまま腰を落ち着かせることができるし、違うなと思えばすぐに移動もできる。四季の変化や自然をダイレクトに感じて暮らせるというメリットもあるし。なにより生きてるってことを心底実感できるからね」
 マーくんは桜子さんが興味を示してくれたことが嬉しかったようで、身振り手振りを交えて熱弁を振るった。
「自由ですか」
 桜子さんはまだビックリしている。目が真ん丸になったままだ。
「なに言ってんの。そんなのただのホームレスじゃん。お金がないから宿に泊まれないだけでしょ。テントなら一日五百円で済むからね」
 ひかりちゃんはマーくんの言い分をまったく認めない。
「ひかりちゃん、君はぜんぜんわかってないね。まだ若いから仕方ないけど。たしかにお金を節約してるってことはあるよ。汗水たらして働いて手に入れた大切なお金だから、できるだけ有効に使いたいからね。でも、それだけじゃないんだよね。他にもいろんな意味や目的があるんだよ。
 一番デカいのは、さっきもちょっと言ったけど、生きてるってことを実感したいから。それとできるだけ身軽に自由でいたいってこと。わかりにくいとは思うけど、常に謙虚でありたいって想いも込められてるんだよ。傲慢な顔や態度はこの世で一番醜いからね。嫉妬と同じくらい。
 よく感謝の気持ちを忘れずにって言われるでしょ。俺もそれはすごく大切だと思ってるんだ。だけど、それって人間限定で考えられてるような気がするんだよね。人の命は地球より重いって言葉が使われるときと一緒で。
 俺はそうじゃないよなって想いが強いから。人間だけが生きてるわけじゃないんだから。俺たちの暮らしはいろんなものの犠牲の上で成り立っているものなんだし。だから、すべての生き物に、自然に、自分を生かしてくれているあらゆるものに感謝しないといけない。
 俺はバカだから、畳の上でのうのうと暮らしてると、すぐにそういう気持ちを忘れちゃうんだよね。今だってさ、ほら、野菜のことをバカにするようなことを言っちゃったしね。俺にはそういう短絡的で浅はかなところがあるからさ。常に肝に銘じてるわけ。初心忘るべからずって」
 マーくんがひかりちゃんの目を見て、正面から堂々と自信を持って言った。
「なにそれ。よくわかんないよ。クミちゃ~ん」
 マーくんに対してはいつも強気なひかりちゃんだけど、このときばかりはその気迫に押され、クミちゃんに助け舟を求めた。
「フフ。出たね、マーくん節。そこまで自信を持って言われると、言い返せなくなるよね。うん。私もよくわからないけど、そんなにおかしいことは言ってないんじゃない。ですよね? イラブさん」
 クミちゃんは冷静だった。前にも同じような話を聞いたことがあったので、マーくんの言わんとしていることはなんとなくだけど理解できていた。だけど、こういう少し面倒な話はイラブさんに締めてもらうのが一番いい。そう判断し、ずっと笑いながら話を聞いていたイラブさんに話を振ることにしたのだ。
「まあ、いいんじゃないか。正人の個人的な意見なんだから。周りに迷惑かけてるわけじゃないし」
 イラブさんがさらっと答えた。マーくんの主義主張は、イラブさんにはどうでもいいことのようだった。あまりにあっさりしていたため、みんながちょっと拍子抜けした。
「そんだけかい」
 変な間があきそうになったので、マーくんがあぐらをかいたまま前のめりになり、ずっこけるまねをして、みんなの笑いを誘った。その拍子に手に持っていたグラスから、島人のうっちん割りがゆんたく場の板の間の上に少しだけこぼれ落ちた。



16
特別な場所

 その夜の宴はいつもと変わらず淡々と進んだ。各々が好きなように飲み語らい合いながら、まったりと時間が過ぎていった。
「なんだかここにいると落ち着きますね。波の音がいいのかな」
 初めて飲んだ泡盛で頬を真っ赤に染めた桜子さんが、目の前の海を見つめながら囁くように言った。
「そうだね。夜の海もいい感じでしょ。月明かりに照らされて、なんか幻想的で」
 クミちゃんもすっかりいい気分になっていた。
「はい。この宿を選んでよかったです」
 桜子さんが満面に笑みをたたえて言った。
 島風にはいろんな人がやって来る。学生、会社員、フリーター。看護師、警官、音楽家。キャバ嬢、保育士、カメラマン。美容師、旅人、子連れの主婦。肩書きは様々だが、なぜか個性的な人が多い。マーくんのような独特の考えを持つ人もここでは珍しくなかった。
「ここはね、沖縄の中でも特別だと思うよ。他にないよ、こんなとこ。場所も人も、なんかいいんだよね。ここにいると、なんだか肩肘張らずに自然に人と付き合える感じがして。見栄とかぜんぜん張る必要がないから。
 オーナーの器が大きいからかな?」
 クミちゃんがイラブさんの顔を横目でチラッと見た。
「わかるような気がします」
 桜子さんがニコッと微笑んだ。
「そうか」
 イラブさんも嬉しそうに笑った。
「ホント、美人には弱いんだから」
 クミちゃんが呆れたような声を出すと、みんなが大きな声を出して笑った。一番端っこの席でへーちゃんも笑った。



17
見つけちゃいました!

 翌朝、へーちゃんが台所に行くと、すでに洗い物が済まされていた。水切りかごの上にピカピカになったお皿やグラスがきれいに並んでいた。
(クミちゃんがやってくれたのかな)
(あれ……)
 ふと耳を澄ますと、ゆんたく場のほうから笑い声が聞こえてきた。
「あっ。へーちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 楽しそうに話をしていたのはクミちゃんと桜子さんだった。
「ありがとう」
 へーちゃんがゆっくり頭を下げながら、すぐにお礼を言った。
「洗い物のことね。いえいえ、どういたしまして。今日は手伝ってくれる人がいたので、すぐに終わっちゃったし。ねっ」
 クミちゃんが桜子さんに目配せをしながら言った。
「はい。昨日、いっぱいご馳走になったので、お礼にお手伝いさせてもらいました。ご飯、まだですよね? 一緒に食べましょう」
 桜子さんがニコニコ笑いながら言った。テーブルの上には、ポーク卵と真ん丸のお好み焼きがのったお皿が仲よく並んでいた。
「へーちゃん、これ、広島のお好み焼き。中に豚肉とおそばが入ってて、すごくおいしいんだよ。昨日の残りじゃなくて、さっき作ったものだから、あったかいし。でも、朝からだとちょっときついかな?」
 クミちゃんが片目をつぶり、へーちゃんの反応を窺うようにして言った。
「大丈夫だよ。もらおうかな」
 へーちゃんが頭をかきながら笑顔で答えた。
「そう。よかった~。じゃあ、ここに座って」
「私、お皿をとってきます」
 クミちゃんも桜子さんも朝から元気いっぱいだ。動きがきびきびしている。
「へーちゃん、桜子さんてすごいんだよ。なんかね、一緒にいるだけで元気になれるの。無邪気って言えばいいのかな。裏表がまったくないの。とにかくまっすぐで子供みたいに純粋なの。だけど、とても礼儀正しくて、言葉遣いもちゃんとしてて。だから、なんか不思議。性格は子供みたいなんだけど、行動は大人って感じですごくしっかりしてるから。それにちょっと天然だし。自分の魅力にぜんぜん気付いてなくて」
 クミちゃんが目を輝かせて一気に言った。その姿は、学校であったことを母親に一生懸命、報告している子供のようだった。へーちゃんは穏やかな笑みを浮かべて、黙ってクミちゃんの話を聞いていた。「ふんふん」と静かに相槌を打ちながら。
「お待たせしました」
 桜子さんがお皿とおはしを持って戻ってきた。なぜか片方の手を腰の後ろにまわし、見えないようにしている。
「いいもの見つけちゃいました。これです」
 桜子さんが元気よく前に突き出した右手には、まだ封がきられていない新品のオタフクソースが握られていた。
「あれっ? どうしたの? それ」
 クミちゃんが目を輝かせたまま声を弾ませて言った。
「台所で見つけちゃいました」
 桜子さんがちょっと得意げに言った。
「どこにあったの?」
「テーブルの上のかごの中です。スーパーの袋の中に入ってました」
「ユイマールの?」
「はい。あのかごです」
「誰が入れてくれたんだろ。もしかして」
 クミちゃんがそーっとへーちゃんの顔を覗き込んだ。
「うん。昨日、かねひげで」
「やっぱり」
 クミちゃんがニッコリ笑いながら大きく頷いた。
「ひかりちゃんがこれもあったほうがいいんじゃないって」
「そうだったんだ。昨日、電話したとき、お好み焼きを作るよって言ったからね。ひかりちゃん、気をきかせてくれたんだね~」
 クミちゃんが桜子さんの目を見てしみじみ言った。
「よかったですね」
 桜子さんがニッコリ微笑んだ。
「うん。じゃあ、早速使わせてもらおうか」
「はい」
 クミちゃんが勢いよくオタフクソースの袋をあけて、桜子さん特製のお好み焼きの上にたっぷりかけた。
「やっぱり、これがあるとぜんぜん違うね。お好み焼きにピッタリ」
「そうですね。オタフクソースは広島生まれだから、広島のお好み焼きには特に合うんだと思います」
「そうなんだ」
「そうですよ」
「だから、こんなにおいしいんだね」
「はい」
 クミちゃんと桜子さんが顔を見合わせてニッコリ笑った。その横でへーちゃんも笑った。海を見ながらみんなで食べるお好み焼きは、いつもよりおいしく感じられた。



18
ガジュマル

 朝食を食べ終えると、クミちゃんと桜子さんは散歩に出かけた。
「暑いですね」
 海沿いの遊歩道を歩きながら、桜子さんが額の汗を手でぬぐった。
「沖縄だもん」
 クミちゃんが「フフ」と楽しそうに笑いながら言った。
 沖縄の夏は長い。十月になっても、日中は気温が三十度近くまで上がる。日向を歩くと、すぐに汗が吹き出してくる。
「でも、こんなに暑いと海に入りたくなっちゃうね。ドボーンと」
 クミちゃんが頭から海に飛び込むまねをした。
「えっ。まだ海に入れるんですか?」
 桜子さんが目を丸くして言った。
「うん。大丈夫だよ。真夏に比べると水温は下がってるみたいだけど、今日みたいな晴れの日ならぜんぜん問題なし。極端な寒がりじゃなければ」
 クミちゃんが今度はブルブルと震えるまねをした。
「それは大丈夫です。体は丈夫なので」
 桜子さんがきっぱりと言った。
「そう。じゃあ、あとで泳ぎに行く?」
「えっ? どこかに連れて行ってくれるんですか?」
「うん。いいとこがあるんだ。海がすごくきれいで眺めも最高の場所が」
「ホントですか。行ってみたいです。あっ、でも、ダメだ」
「なんで?」
「水着、持ってきてないんですよ。まさか泳げるとは思ってなかったから」
「そうなんだ。じゃあ、ドライブにする? 水遊びくらいなら服のままでもできるし」
「ドライブ、行きたいです」
「よし、じゃあ、決まりだ」
「はい」
 クミちゃんが空に向かって右手を高く突き出すと、桜子さんも同じように拳を突き上げ、ニッコリ微笑んだ。
「それならすぐに帰らないとね。散歩はまた今度にして。ドライブに行くなら、仕事を早く終わらせないといけないから。桜子さん、悪いけど、掃除、手伝ってね」
「はい。喜んで、なんでもお手伝いします」
 ふたりはキジムナーが住んでいそうな大きなガジュマルの木の下で立ち止まり、その場でくるっと回転して反対方向に向き直り、すぐに駆け出した。
「大丈夫? 桜子さん」
「はい。暑いけど、なんか楽しいです」
 真夏と変わらない強い日差しを受けながら、ふたりは島風に着くまで走り続けた。何度も額の汗を手でぬぐいながら。



19
空へ

 クミちゃんと桜子さんを乗せた車は古宇利島に向かってぐんぐん進んで行った。
「もうすぐ着くよ」
 助手席に座ったクミちゃんが後ろを振り返りながら言った。
「ホントですか。楽しみです」
 桜子さんが目を輝かせて言った。
「出たー、コウリ、オオハシ~」
 交差点を左折し、前方に海にかかる長い橋が現れると、クミちゃんが大声をあげた。
「なんですか、この橋。ジェットコースターの上り坂みたいになってる」
 桜子さんもぐいと身を乗り出して大声をあげた。
 屋我地島と古宇利島を結んでいる古宇利大橋は長さが千九百六十メートルもある。平坦な橋ではなくアップダウンがあり、一度下ってから上昇するように作られているので、遠くから眺めると車が空に向かって飛び立つためのジャンプ台のように見える。
「うわー、きれい。海がキラキラ光ってる。眩しい~」
 車が橋を渡り始めると、桜子さんが窓から顔を少しだけ外に出して歓声をあげた。
「でしょ。ここの眺め、最高なんだよね」
 再び後ろを振り返り、クミちゃんが満足げにニコッと微笑んだ。
「古宇利大橋か。こんないいとこがあったんですね」
 桜子さんがしみじみ言った。
「うん。ホントに眺めがいいから、ここを通ると気分爽快になるよね。あっ、へーちゃん、そこでちょっと休憩しよう」
 クミちゃんが、橋を渡り終えたところにある大きな駐車場を指差しながらそう言うと、へーちゃんが車を左折させてすーっと中に入り、水色の軽自動車の横に静かに停車させた。
「うわー、お土産が売ってる。見てきていいですか?」
 クミちゃんが笑顔で頷くと、桜子さんが正面の売店に向かってすぐに駆け出した。
(よかった。桜子さん、喜んでくれたみたいで)
 ニコニコ笑いながらお土産を選ぶ桜子さんの姿を見て、クミちゃん自身もなんとも言えない喜びを感じていた。



20
黒糖とタコライス

 クミちゃんは沖縄で暮らすようになってから夢が見れるようになった。
“沖縄で自分の店を持つ”
 という大きな目標ができたのだ。
 きっかけはパーラー空のマリーさんの何気ない一言だった。
「琉球人はもてなしの民族だからね」
 ある日、いつもよくしてくれるマリーさんに、「なんでそんなに親切なんですか?」と尋ねてみたら、マリーさんはそう言ってニッと笑った。
(もてなしの民族か。なんかいいな)
 それからクミちゃんは、人をもてなすということを強く意識するようになった。そして、
“自分もパーラー空のようなお店をやりたい”
 と思うようになった。

「いっぱい買ったね」
 大きな袋を抱えて戻ってきた桜子さんにクミちゃんが言った。
「はい。おいしそうな黒糖があったので」
 桜子さんが笑顔で答えた。
「えっ? それ、全部、黒糖なの?」
「はい」
「そんなに黒糖が好きなの?」
「はい。私もですけど、実家のおばあちゃんが大好きなんですよ。買って帰るとすごく喜んでくれて」
「そうなんだ。だから、いっぱい買ったんだ。でも、ちょっと量が多すぎない?」
「そうですね。でも大丈夫です。仕事場にも持って行くつもりなので」
「そうか。なるほどね。桜子さん、老人ホームで働いてるんだもんね」
「はい」
「黒糖はお茶請けにピッタリだからね」
「はい。喜んでもらえるといいんですけど」
「それは大丈夫。心配いらないよ。沖縄の黒糖はおいしいから」
「そうですよね。そうだ。あとでみんなで一緒に食べませんか?」
「いいの? お土産なのに」
「はい。ホントにいっぱい買いましたから。ほら、こんなに」
 桜子さんが袋の中身を見せながら言った。
「本当だ。いっぱい入ってる。あっ、純黒糖だ。これなら絶対おいしいよ」
 クミちゃんが笑顔で太鼓判を押した。
「そうだ。桜子さん、タコライス、好き?」
「えっ? はい。大好きです」
 黒糖からタコライスに急に話が変わり、桜子さんが少し驚いたような顔をした。
「よかった。あのね、桜子さんに是非とも紹介したいお店があるんだけど、そこのタコライスが最高だから、お昼ごはんにどうかなと思って」
「ホントですか。行きたいです。タコライス大好きなので、連れてってください」
 桜子さんが弾けるような笑顔を浮かべて言った。
「うん。じゃあ、お昼ごはんはタコライスで決まりね。あそこの海でたっぷり遊んで、お腹をいっぱいすかせてから食べに行こうね」
 クミちゃんが橋の下の海を指差してニッコリ微笑むと、桜子さんが満面に笑みをたたえて大きく頷きながら、「はい」と元気よく返事をした。その横でへーちゃんもニッコリ笑いながら、ゆっくり大きく頷いた。



21
恋したい!

「はい、どうぞ」
 桜子さんが袋の中から黒糖を取り出し、クミちゃんの手の上に置いた。
「ありがとう。へーちゃんも食べるでしょ。は~い」
 車を運転しているへーちゃんの口の中に、クミちゃんが黒糖をそーっと押し込んだ。
「仲がいいんですね~」
 後ろの席から桜子さんがしみじみ言った。
「えっ。そんなことないよ。普通だよ。ねっ、へーちゃん。それより、この黒糖、やっぱりおいしいね。甘くて」
 桜子さんの予想外の言葉に驚き、クミちゃんが慌てて話を変えた。
「はい。おふたりと同じくらい甘いです」
 桜子さんがニッコリ微笑みながら言った。
「もう、なに言ってんの、桜子さん。変なこと言わないで」
 クミちゃんはなんだか嬉しそう。言葉とは裏腹に表情は緩み、頬がほんのり赤くなっている。
(やっぱり、クミちゃんはへーちゃんが好きなんだ)
その顔を見て、桜子さんは確信した。
「おふたりは沖縄で知り合われたんですか?」
 桜子さんが身を乗り出してクミちゃんに訊いた。
「そうだよ。島風でね」
「やっぱり」
「私が泊まりに行ったら、へーちゃんがもう働いてて」
「そうだったんですか。いつ頃のことですか?」
「ちょうど一年くらい前。去年の今頃」
「それで仲よくなったんですね」
「うん。すぐに私も島風で働くようになったからね」
「へー。なんかいいですね。南の島での出会いって。ロマンチックで」
「だから、そんなんじゃないって」
「は~い……」
 クミちゃんの話を聞いて、桜子さんは素直に(いいな)と思った。大好きな沖縄で恋ができるなんて、(羨ましいな)とも。
(クミちゃんの一目惚れだったのかな)
 シートに体を預け、ふと目を閉じると、クミちゃんとへーちゃんが初めて会ったときの情景が頭に浮かんできた。

 そこには少し不安そうな顔をしたクミちゃんがいた。ゆんたく場のハンモックに揺られながら海を眺めていると、へーちゃんが現れた。へーちゃんは今と少しも変わらない。
「こんにちは」
クミちゃんが勇気を出して声をかけると、へーちゃんがニコニコ笑いながらゆっくり頭を下げた。その笑顔を見て、クミちゃんは気持ちがふっと楽になり、安心することができた。そして、心の中で「来てよかった」とつぶやいた。

「どうしたの桜子さん。急に黙っちゃって」
 クミちゃんが後ろを振り返りながら言った。
「すいません、ちょっと考え事をしてました」
 桜子さんがパッと目を開き、笑いながら答えた。
「なに考えてたの?」
「いいことです」
「なになに?」
「私も恋したいなって」
「えーっ。そんなこと考えてたの?」
「そうです」
「桜子さん、付き合ってる人、いないの?」
「はい」
「好きな人は?」
「いないんですよ」
「それじゃ、ちょっと寂しいね」
「はい」
「でも、まだ若いから焦る必要はないもんね」
「そうですね。でも、私、結婚願望が強いから」
「そうなの?」
「はい。だから、いい人がいたらいいなってずっと思ってて」
「そうなんだ。どれくらいいないの?」
「もう二年くらい」
「けっこう長いね。でも、桜子さんならすぐに見つかると思うけど」
「そうですかね」
「うん。うちにもひとり、候補がいるし」
「えっ?」
「ほら、昨日、いたでしょ。野生児みたいな男が」
「あー。テントで暮らしてる人ですか?」
「そう。マーくん。ああいう人はどう? 桜子さんのこと気に入ってるみたいだし」
「そうなんですか?」
「うん。気付かなかった?」
「はい。親切でおもしろい人だな、とは思いましたけど」
「そっか。あまり好きなタイプではない?」
「えーっ。よくわからないです。まだそんなに話もしてないし」
「ピンとはこなかったんだね」
「はい。そういうのは特に」
「まあ、ちょっと変わった生き方をしてる人だからね。風の向くまま気の向くまま。自分の気持ちに正直に生きることが生活信条みたいだから。結婚の相手にはちょっと厳しいのかもしれないね。同じような考え方をしてる人じゃないと。すごく熱くていい人だけどね。意外にまじめだし」
「そうなんですか?」
「うん。仕事もね、ちゃんとしてるんだよ。バイトだけど、島風の近くにあるパイナップル工場で。イラブさんに紹介してもらって、半年以上前から」
「だから、さっきいなかったんですか」
「うん。今は週五で働いてるから。一応、無遅刻無欠勤らしいよ。イラブさんの顔をつぶすわけにはいかないからって」
「へー」
 クミちゃんからマーくんの話を聞き、桜子さんは素直に感心した。おもしろい人だなと改めて感じた。
「桜子さんはどんな人が好きなの?」
「やさしい人ですね。いいお父さんになりそうな」
「ふーん。顔は?」
「やっぱり、やさしそうな顔をしてる人が好きです」
「やさしそうな顔って?」
「いつもニコニコしてて安心感があるというか。だから、かっこいいタイプより、かわいい感じの人のほうが好きかもしれないです」
「かわいいタイプね。目とか大きくて」
「そうかもしれないです。目がキラキラ輝いている人がいいです」
「少年ぽい人だね」
「はい」
「でも中身は大人で」
「そうですね。やっぱり、頼りがいのある人がいいですね」
「そうだよね。中身まで子供みたいだと結婚生活が成り立たないもんね」
「はい」
「でも……。“子供のままの大人”みたいな人なら、いいのかもしれないね」
「どういうことですか?」
「心は純粋な子供のままでも、ちゃんと大人らしい行動をとれる人ならいいんじゃないかなって思ったの」
「はい。それならいいと思います」
「やっぱり。でも、大人らしさって、なんなんだろうね」
「それは……。たぶん、責任感じゃないですか」
「自分の役割をちゃんと理解して行動ができるってことかな。途中で投げ出したりしないで」
「はい。自分のことばかり優先しないで」
「そうだね。子供って純粋でかわいいけど、すごくわがままだもんね。気まぐれだし」
「はい」
「そうすると“子供のままの大人”って、純粋で責任感がある人ってことになるのかな」
「そうじゃないですか」
「たしかにそういう人がいたら付いて行きたくなっちゃうかもね」
「はい」
 ふたりの会話は途切れることがなかった。気が付くと、車はすでにパーラー空のすぐ近くまで進んでいた。



22
向日葵

「おー、クミちゃん。よく来たね」
 厨房の中が覗ける小窓をあけて挨拶をすると、今日もまた、マリーさんがニッコリ笑って迎えてくれた。
「すいません、マリーさん。今日は最初に注文してもいいですか。みんな、お腹がペコペコなので」
 クミちゃんが挨拶もそこそこにタコライスを三つ注文した。そういうことならとマリーさんがゆっくりと大きく頷き、すぐに調理を始めてくれた。
「かわいいお店ですね」
 注文を終え、みんなのところへ戻ってきたクミちゃんに、桜子さんが言った。
「でしょ。飾ってある絵は全部、空くんが描いたものなんだよ」
「空くんて誰ですか?」
「あっ、そうだよね。ごめ~ん。いきなり名前を出されてもわからないよね。空くんていうのはね」
 クミちゃんが慌てて説明し始めると、その後ろから、
「私の息子」
 さんぴん茶をお盆にのせて厨房から出てきたマリーさんがさらっと言った。
「そう。とっても親孝行な画家志望の高校生」
 クミちゃんがパッと振り向き、マリーさんに目配せをしながら言った。
「もうすぐここに来るよ。店を手伝いに。さっき電話があったから。学校終わったから今から行くよって」
 テーブルの上にグラスを置きながら、マリーさんが今度は桜子さんの目を見て言った。
「そうなんですか」
 桜子さんが目を逸らさずにニコニコ笑いながら答えた。初対面のマリーさんの前でも物怖じするような様子はまったくなかった。
「うん。あんた、新顔さんだね」
「はい。春川桜子といいます。よろしくお願いします」
「いい名前だね」
「ありがとうございます」
「でも、花にたとえるなら向日葵だね」
「えっ?」
「色が白くてほっぺたがピンクなところは桜だけど、全体的な雰囲気は向日葵だね」
「向日葵ですか」
「うん」
「嬉しいです。向日葵は大好きな花なので」
「そうだろ」
「はい」
 桜子さんが満面に笑みをたたえて元気よく返事をした。すると、
「うん。ゆっくりしていってね。クミちゃんもへーちゃんもね」
 マリーさんが満足そうに微笑み、厨房の中に戻って行った。
「どう? マリーさん」
 クミちゃんが桜子さんの顔を覗き込むようにして訊いた。
「おもしろい人ですね。すごくやさしそうだし」
 桜子さんが笑顔で答えた。
「でしょ。言葉はちょっと乱暴なんだけど、なんかあったかいんだよね」
「はい」
「だけど、ビックリしなかった? いきなり花にたとえられたりして」
「そうですね。でも、気を遣って言ってくれてるのが、なんとなくだけどわかったから」
「へー」
「喜ばそうとしてくれてるのかなって」
「感じたんだ」
「はい」
「向日葵だもんね」
「はい。ちょっと恥ずかしいですけど」
「ううん。ピッタリだと思うよ。まっすぐなところとか。向日葵は太陽に向かってぐんぐん一直線に伸びていくでしょ。桜子さんもそんな感じがするもん。いつも元気よく笑ってるところは向日葵の花そのものだし」
「そうですかね?」
「うん。桜子さんって夏っぽいし」
「それはたぶん、私が八月生まれだから」
「そうなんだ。やっぱり一緒なんだね。向日葵は夏の花の代表だもんね」
「そうか」
「そうだよ」
 クミちゃんがニッコリ笑ってゆっくり頷くと、桜子さんも顔をほころばせて嬉しそうに頷いた。
「マリーさんはハイビスカスかな?」
「あー」
「真っ赤な」
「はい」
「きれいなだけじゃなくてパワーもあって。周りの人を元気にしてくれるところは桜子さんと同じだね」
「えーっ」
「ちなみにだけど、ハイビスカスの花言葉は『常に新しい美』。『華やか』とか『勇敢』て意味もあるんだよ」
「ピッタリですね」
「だよね」
「クミちゃんはなんですかね?」
「私? 願望的には菜の花」
「あー。春に咲く、黄色いかわいい花ですね。なんでですか?」
「うん。野に咲く花が好きだから。菜の花はかわいさだけじゃなくて、荒れた土地でも元気に育つ強さも持っているから。花言葉が『快活、活発、元気いっぱい』ってところもいいなって思うし。そういう人になりたいなってずっと思ってたから」
「へー。いいですね」
「桜子さんはやっぱり向日葵だね」
「えっ?」
「『あなただけを見つめます、憧れ、熱愛』。それが向日葵の花言葉だから。結婚願望の強い桜子さんにピッタリ」
「ホントだ」
「だけど、向日葵なのに名前は桜子っていうのがおもしろいね。八月生まれなのに桜っていうのも微妙だし」
「そうですよね。桜はお父さんが一番好きな花なんですよ。だから、つけてくれたみたいで。名字が春川だし」
「そっか。でも、ホントにいい名前だよね。憧れちゃう」
「クミちゃんは、名字はなんなんですか?」
「鈴木。すごい普通でしょ」
「はい」
「はいって、そんなにあっさり」
「すいません」
「別にいいんだけど」
 ふたりは大きな声を出して笑った。へーちゃんも珍しく口を大きくあけて笑った。



23
ハッピーフード

「鈴木さ~ん、できたから持ってって」
 厨房の中からマリーさんが言った。
「聞こえてたんですか。もう~、やめてくださいよ~」
 正面の小窓からタコライスを受け取りながら、クミちゃんが言った。
「鈴木さん、私も運ぶの手伝います」
 今度は桜子さんがニコニコ笑いながら言った。
「もう、桜子さんまで」
 クミちゃんが苦笑いをしながら言った。
「すいません。悪のりしちゃいました」
 タコライスをテーブルの上に置きながら、桜子さんがちょこんと頭を下げた。
「大丈夫だよ。そんなことより早く食べよう」
 クミちゃんがやさしく微笑みかけると、桜子さんが「はい」と元気よく返事をした。
 パーラー空のタコライスはボリューム満点だ。大盛りのご飯の上にトマトやレタス、ひき肉やチーズがたっぷりと山のようにトッピングされている。
「すごいデカ盛り。おいしそうだけど、全部、食べられるかな?」
 桜子さんが彩り豊かな目の前のタコライスをしげしげと眺めながら言った。
「それがね、けっこう大丈夫なんだよ。甘くてちょい辛のソースが食欲をそそるし、レタスがいっぱいでヘルシーだから、女の子でもぺろっといけちゃうんだよね」
 クミちゃんが「これこれ」と山盛りのレタスを指差しながら言った。
「ホントだ。このソース、シャキシャキのレタスと相性ピッタリ。ひき肉も甘くておいしい」
「でしょ。ひき肉は玉ねぎと一緒によく炒めてあるから、甘いんだよね。これなら全部、いけるでしょ」
「はい。ホントにおいしいですね」
 桜子さんがニコニコ笑いながら声を弾ませた。
「そう。よかった」
 クミちゃんも満足そうに微笑んだ。
 パーラー空のタコライスはやっぱりすごい。食べるとみんな笑顔になる。マリーさんのタコライスはハッピーフードだ。桜子さんのとびきりの笑顔を見て、クミちゃんは確信した。



24
似た者同士

「はい。これも食べてね」
 厨房から出てきたマリーさんがテーブルの上にガラスの器を三つ置いた。
「わー。氷いちごだ」
 桜子さんが真っ先に反応した。
「すいません、いつも」
 続いてクミちゃんがマリーさんの目を見ながらゆっくり頭を下げた。
「いいんだよ、これくらい。気にしないで」
 マリーさんがニッコリ微笑むと、今度はへーちゃんと桜子さんが静かに頭を下げた。
 コーヒー、紅茶、さんぴん茶。ぜんざい、ムーチー、ヒラヤーチー。ポーポー、島らっきょう、魚の天ぷら。マリーさんはいつも注文していない飲み物や料理もサービスで出してくれる。クミちゃんとへーちゃんはその度に恐縮していた。
「マリーさん、大丈夫なんですか? いつもいろいろ出してもらって、本当に嬉しいんですけど」
 クミちゃんがそっと訊いた。
「大丈夫じゃないね。週に六日やっててもぜんぜん儲からない。でもね、それでいいんだよ。ここはね、生活が続けられるだけのお金が入ればいいねって言って、始めた店だから」
 マリーさんが豪快に笑いながら言った。
 パーラー空の料理の値段は定食も含め、すべて五百円以下だ。オリオンビールと泡盛のジョッキも三百円、百円で食べられる小さな沖縄そばもある。
 商売というのは儲けるためにやるものだとクミちゃんは思っていた。だけど、沖縄に来て、考えが少し変わった。儲ける以外のことも大切にしているお店がたくさんあったからだ。
「儲けたいならさ、内地に行って商売するよ」
 マリーさんがさらっと言った。
「でも、いいんですか。空くんの大学のこともあるのに」
「心配してくれてるのかい。嬉しいね」
「すいません、立ち入ったことを訊いちゃって。でも、なんだか気になってしまって」
「大丈夫。大学のことは空が自分でなんとかするから。あの子には子供の頃から言って聞かせてあるから。高校までは親の義務だから行かせてやるけど、大学は自分でお金を稼いで行くんだよってね。
 あの子さ、けっこうお金、持ってるんだよ。学校が休みになると、ゴルフ場とか工事現場でもアルバイトをしてるからね。だから、私よりよっぽどお金持ちなんじゃない。ついこの間も新しいギターを買ってきてたし。大学には奨学金っていうのがあるっていうしね。東京でも新聞配達をしながら学校に行ってもいいわけだから」
 マリーさんが穏やかな笑みを浮かべて楽しそうに言った。
 奨学金か。空くんらしいなとクミちゃんは思った。当たり前の顔をして、親に学費も生活費も出してもらっていた自分とはぜんぜん違う。クミちゃんはちょっと恥ずかしくなった。
「噂をすればなんとやら、だね」
 マリーさんが店の入り口のほうを指差し、ニッと笑いながら言った。
「あっ、空くんだ」
 クミちゃんが目を輝かせ、弾んだ声をあげた。
「早くこっち来な。ちょうど今、みんなであんたの話をしてたんだよ」
 マリーさんが手招きをして呼び寄せると、ギターを背負って現れた空くんが、ニッコリ笑って頭をかきながら、みんなに会釈をした。
 空くんは髪を長く伸ばしている。短髪のツンツン頭のへーちゃんとはヘアスタイルが正反対。だけど、ふたりの表情や仕草は驚くほど似ていた。
「やっぱり、あんたたち兄弟みたいだね」
 並んで座ったふたりの顔を見比べながら、マリーさんがしみじみ言った。
「うん。たしかに」
 クミちゃんが大きく頷いた。
「ホントに似てますね」
 空くんと初対面の桜子さんも太鼓判を押した。
 へーちゃんと空くんは性格もよく似ている。ふたりともいつもニコニコしていて愛想はいいのだけど、口数が極端に少ない。海や空を眺めながらぼーっと過ごすことが好きだ、という共通点もある。犬とか猫とか、小さな動物が大好きなところも同じだ。
「この子はね、へーちゃんのことを本当に信頼してるんだよ。この前もね、へーちゃんにずっと沖縄にいてくれって頼んだらしいんだよね。少なくとも自分が東京に行ってる間は名護にいてくれって。私が寂しがらないようにって。店も手伝ってやってくれってね」
「そうなんですか。空くん、へーちゃんのことが大好きなんですね」
「うん。この子は小さいときから苦労して育ったせいか独立心が旺盛というか、人にあまり頼ったりしないんだけどね。へーちゃんだけは別みたいでさ」
「へー」
「似た者同士だから気が合うんだろうね。ふたりともマイペースなのんびり屋だから」
「そうか。なるほど」
 クミちゃんが「フフ」と楽しそうに笑いながらゆっくり大きく頷いた。桜子さんもその横で口を大きくあけて楽しそうに笑った。へーちゃんと空くんは照れくさそうに頭をかきながら、みんなの話をずっと黙って静かに聞いていた。



25
八重山へ

 パーラー空に行くと、あっという間に時間が過ぎる。短パンのポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認すると、すでに午後五時を過ぎていた。
「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ戻らなきゃ」
 クミちゃんがへーちゃんと桜子さんに目で合図をしながら言った。
「タコライス、おいしかったです。氷いちごも。ごちそうさまでした」
 桜子さんがペコリと頭を下げた。
「そうかい。それはよかった。また食べに来な」
「はい。明日、またお邪魔します」
「うん。待ってるよ」
 マリーさんが椅子から腰を浮かせ、ニッコリと微笑んだ。
 パーラー空のお客さんはほとんどがリピーターだ。近所に住む地元の人だけでなく、マリーさんに会うことを楽しみにして、本土からはるばるやって来るお客さんもたくさんいる。
「そういえば、さっき、ひかりちゃんが来たよ。タコライスを食べに」
 クミちゃんたちを見送るために、空くんと一緒に店の外まで出てきていたマリーさんがさらっと言った。
「そうなんですか。やっぱり、ひかりちゃんもタコライス、気に入ってたんですね。なにか言ってました?」
 車のドアノブに手をかけながらクミちゃんが言った。
「うん。自分のことをいろいろ話してくれたよ。家族のこととか。長野の山の中で暮らしてるらしいね。こことは正反対の場所だって。あと、チケットを買ったって言ってたよ。石垣行きの。竹富とか波照間とか、八重山の島をいろいろ回りたいんだって」
「えーっ。八重山ですか?」
「うん。すぐに行くらしいよ。明後日の午前中の便だって。ここからだと空港まで移動するのが大変だから、明日の夜までには那覇に行くって言ってたよ」
「ホントですか。ずいぶん急だな。なにかあったのかな」
「別に問題はないんじゃない。すっきりした顔してたから」
「そうですか。それならいいんですけど」
「うん。とりあえず、また明日、みんなで来るといいよ。あの子も夕方くらいまでは時間があるんだろうし」
「そうですね」
「うん。それじゃ、またね」
「はい。ごちそうさまでした」
 助手席のドアをあけ、クミちゃんがシートに腰を下ろすと、へーちゃんが車のエンジンをかけながら、マリーさんと空くんにお辞儀をした。そして、ギアをドライブに入れ、ゆっくりと駐車場から車を出した。
 マリーさんには大丈夫だと言われたけれど、クミちゃんはひかりちゃんのことが少し心配になっていた。



26
ゆりかご

 ひかりちゃんは雨の降る日に傘もささずに島風にやって来た。夜の八時頃、予約もなにもせずに突然、現れた。
「泊めてもらいたいんですけど」
 その声はとても弱弱しかった。
「大丈夫ですよ。これ、使ってください」
 クミちゃんがニッコリ笑って白いタオルを差し出すと、ひかりちゃんが消え入りそうな声で、「ありがとう」と囁くようにお礼を言った。そして、わずかに頬を緩ませた。
 あれから二週間。ひかりちゃんの表情はずいぶん明るくなった。だけど、今でもときどきつらそうな顔をする。昨日の夜も。
「クミちゃん、ここにいること、親には言ってあるの?」
 深夜の一時過ぎ。周りにはもう誰もいなかった。
「えっ? どうしたの? 急に」
「うん。ちょっとね」
「そっか。一応ね、ここで働くことが決まったときに報告したよ。しばらく沖縄の民宿で働くことにしたからって」
「そうなんだ」
「うん。ひかりちゃんは?」
「えっ……。うん。私の場合はただの旅行だから」
「言ってないの?」
「まあ、そのへんは適当に……」
 ひかりちゃんが眉をひそめて視線を外し、ゆっくり立ち上がった。
「ふーん。そっか」
 その表情から気持ちを察して、クミちゃんはそれ以上詳しく訊くことをやめた。ひかりちゃんは前に長野の実家で両親と同居していると言っていた。人にはそれぞれ事情がある。

「クミちゃんはこれからもずっと沖縄にいるの?」
 ハンモックに手をかけながら、ひかりちゃんが言った。
「どうしたの? また急に。まあ、別にいいか。ずっとかはわからないけど、しばらくはいるつもりだよ」
 クミちゃんも立ち上がり、ハンモックに手をかけた。
「どのくらい?」
「えー。どのくらいだろう。う~ん。でも、少なくてもあと二~三年はいると思うよ」
「帰ることも考えてるの?」
「ううん。今のところそれはないよ。目標というか、沖縄でやってみたいことも見つかったし」
「目標?」
「うん」
「なに?」
「それはちょっと。もう少し待って。実現させるためにちゃんと動き出せたら報告するから。本当に大事なことって、あんまり簡単にペラペラしゃべっちゃいけないような気がするから」
「なにそれ? でも、ちょっとわかる気もする。クミちゃん、本気なんだね」
「うん」
「でも、まだ動き出せてはいないんだ」
「そう。密かに勉強はしてるんだけどね」
「誰かに相談したり?」
「うん。それとなくだけど、イラブさんとマリーさんには」
「なにか言われた?」
「マリーさんにはね、とにかく一生懸命やりなさいって。やれることを全部やっておけば、結果がどうなってもあとで必ずプラスになるからって。それが、“なんくるないさー”なんだって」
「どうにかなるっていうやつ?」
「そう。一生懸命努力してやることを全部やったら、あとはドーンと構えて待ってればいいんだって。そのときにうまくいかなくても、そのことがきっかけになって必ず報われるときが来るからって」
「気の長い話だね~」
 気持ちよさそうにハンモックに揺られながら、ひかりちゃんが楽しそうに笑った。
「うん。物事は長いスパンで考えなさいって」
「それもマリーさん?」
「そう。自分もそうしてきたからって。マリーさん、あんな感じだけど、若いときは相当苦労したみたい。
 なんかね、役者になりたかったから、東京に行って劇団に入ったんだって。でも、ちっちゃなところだったから、ぜんぜん食べられなくてアルバイトばかりしてたらしいよ。結婚してからも相手が同じ劇団の人だったから生活は苦しいままで。役者になることを反対されて家出同然で上京したから、親にも頼れなくて本当に大変だったみたい。
 空くんには今、内地で看護師をしているお姉ちゃんがいるんだけど、朝昼晩とバイトを三つ掛け持ちして働いてもお金が足りないから、仕方なくふたりを施設に預けようとしたことがあったんだって。でも、お姉ちゃんに、『どんなに貧乏でもいいから、お母さんと一緒にいたい』って泣きながら言われて、施設の入り口のところで引き返してきたんだって。で、わかったんだって。“絶対にこの子たちを離しちゃいけないんだ”って。
 だけど、そのあとも生活はずっとギリギリで、おまけにお姉ちゃんが中学に入ったらグレちゃってどうしようもなくなって、親子で夜中に首を絞め合って、心中するつもりで殺し合いをしたこともあったんだって。ふたりでワンワン泣きながら。あのマリーさんが東京にいたときは毎日ピリピリしてて、笑うことを忘れてたんだって。今の姿からはまったく想像できないけど。
 でもね、後悔はぜんぜんしてないんだって。何度もくじけそうになったし、失敗もたくさんしたけど、とにかくなんでも懸命にやってきたからって。全部、自分で選んで決めてやってきたことだし、苦しい時にお弁当屋さんとか居酒屋で死に物狂いで働いてきたから、今ここでパーラー空をやれてるんだからって」
 クミちゃんがひかりちゃんの目をまっすぐ見つめながら一気に言った。
「へー。そうだったんだ。あのマリーさんが」
 ひかりちゃんが感慨深げに何度も頷きながら言った。
「そうだよ。実は、相当な苦労人なんだよ」
「ふ~ん。だから、マリーさんて、言うことに説得力があるのかな?」
「あー。そうかもしれないね」
 今度はクミちゃんが大きく頷いた。
「うん。イラブさんには? やっぱり、なにか言われた?」
「どうしたの、ひかりちゃん。今日はぐいぐい来るね。なんか心境の変化でもあった?」
「ううん。別に」
「そっか。ごめん。なんかしつこいね、私。イラブさんにはね、内地の人間が沖縄でずっと暮らしていくのは難しいことなんですかね? って訊いてみたの。移住しても一年くらいで帰っちゃう人が多いから」
「そうなの?」
 ひかりちゃんが少し驚いたような顔をした。
「うん。仕事のこととかでね、帰っちゃう人が多いんだよ。沖縄って失業率が高くて、お給料が安いから。あと、島独特の風習とか慣習になじめなかったり」
 ハンモックに静かに揺られながら、クミちゃんがさらっと言った。
「やっぱり、現実は厳しいんだね」
「うん。だから、イラブさんに訊いてみたの。そうしたらね、イラブさん、涼しい顔して、『難しくないだろ。技術があれば』ってあっさり言ったの」
「イラブさんらしいね」
 ひかりちゃんが楽しそうに笑いながら言った。
「うん。でね、そうか、技術かって思ってね」
「資格ってこと?」
「うん。あと、おいしい料理が作れたり、家の内装ができたり。イラブさんみたいにダイビングを教えることができたりとか」
「手に職ってこと?」
「そう。実際にこっちで開業してる人も多いし。だから私も」
「勉強してるんだ」
「うん」
 クミちゃんがひかりちゃんの目を見て、ゆっくり大きく頷いた。
「でも、それがなにかはまだ言えないんでしょ?」
「ごめ~ん。別に意地悪してるわけじゃないんだけど」
「わかってるよ。本当に大切なことだから軽々しく口にしたくないんでしょ」
「うん。初めてできた人生の目標だから」
「いいね」
「そう?」
「うん。あー、私もなにか見つけたいな。やりたいことを」
 ひかりちゃんがハンモックに寝そべったまま大きく伸びをした。
「沖縄にいる間に見つけちゃえば?」
 クミちゃんがぐいと身を乗り出し、目を輝かせて言った。
「そうだね」
「そうだよ。私も沖縄で見つけたんだから」
 クミちゃんは真剣だった。自分も一年前に沖縄に来たときは目標などなにもなく、胸の中は不安でいっぱいだった。だけど、いろんな人と出会い、いろんな話を聞いていくうちに、不安よりも希望を強く感じられるようになった。だから、ひかりちゃんだってきっと変われるはず。クミちゃんは本気でそう思っていた。
「本当に見つけられたらいいな」
 天井から吊り下げられた裸電球をぼーっと眺めながら、ひかりちゃんが言った。
「大丈夫。心をね、開いていればきっと見つかるよ」
 クミちゃんがきっぱりと言った。
「なにそれ? やっぱり、マリーさん?」
 ひかりちゃんが寝そべったまま顔だけをクミちゃんのほうに向けて言った。
「ううん。これは自分で感じたこと。今思い返してみると、東京にいたときは、なんか、自分の殻の中に閉じこもっていたような気がするんだよね。だから、なにも見つからなかったのかなって」
 クミちゃんがひかりちゃんの目をまっすぐ見つめながら答えた。
「引きこもり?」
「精神的なね」
「そうだよね。OLをしてたんだもんね。会社には毎日ちゃんと行ってたの?」
「うん。一応ね」
 クミちゃんが苦笑いしながら言った。
「よかったね、元気になれて」
 ひかりちゃんがしみじみ言った。
「うん。ひかりちゃんもね」
「私? 私は最初から」
「元気だった?」
「でもないか」
 今度はひかりちゃんが苦笑いをした。
「正直、最初は幽霊みたいだったよ」
「幽霊?」
「雨で全身ずぶ濡れでさ」
「そうだ。あのとき私、傘を持ってなかったんだよね。別に濡れてもいいやって思ってたような気がする。どうしてかはわからないけど」
「きっと……。寂しかったんだね」
 クミちゃんが目を閉じてしんみり言った。
「えーっ。でも、そうかもしれない。あのとき私、けっこうボロボロだったから」
 ひかりちゃんもゆっくり目を閉じた。

「こうしてると、なんかすごく落ち着くね」
 クミちゃんが目をつぶったまま静かに言った。
「うん。このまま朝まで眠れそう」
 ひかりちゃんがそっと囁くように言った。
 やさしく体を包み込み、心地よく揺れるハンモックが、ふたりにはゆりかごのように感じられていた。



27
ビール

 パーラー空から島風に戻ると、クミちゃんはすぐにゆんたく場に向かった。ひかりちゃんはマーくんとふたりで仲よくハンモックに揺られながら、楽しそうに笑っていた。
「珍しいね。ふたりで」
 クミちゃんがさりげなく声をかけた。な~んだ、ぜんぜん元気じゃん、と内心ではちょっと拍子抜けしながら。
「あっ、クミちゃん、お帰り」
 その声はどこまでも陽気だった。
「もう飲んでるんだ。今日は早いね」
 クミちゃんがさらっと言った。ひかりちゃんの右手には三ツ星マークが入ったオリオンの缶ビールがしっかりと握られていた。
「ごめん。夜まで我慢できなくて。でもね、飲もうと言い出したのはマーくんだから」
 ひかりちゃんがいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「なに言ってんの。ひかりちゃんが最初に、『今日が最後の夜になったからビールでもおごって』って言ったんじゃん」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。まあ、いいけどね。そういう細かいことは。というわけで、クミちゃ~ん、ひかりちゃん、今日がラストナイトになったみたいなんで許してやってよ。と言いつつ、俺もすでに飲んでるんだけど」
 マーくんも上機嫌だった。
 ふたりは島風のお客さんだから、周りの人に迷惑をかけなければ、昼間からお酒を飲んでもぜんぜんかまわない。そんなことより、いつの間にふたりは仲よくなったのだろう。昨日の夜まであんなにギクシャクしていたのに。クミちゃんは不思議で仕方がなかった。
「クミちゃん、マリーさんのところに行ってきたんでしょ?」
 ビールをおいしそうにグビッと飲み干してから、ひかりちゃんが言った。
「うん」
「急だけど、そういうわけなので」
 ひかりちゃんがちょこんと頭を下げた。
「うん。となると、今日は盛り上がらないとね」
 クミちゃんがやさしく微笑んだ。
「そうだね。また、いっぱいしゃべろう」
 ひかりちゃんも満面に笑みをたたえて言った。
「うん。だけどその前に、まずは気合を入れて夜の準備をしないとね」
「手伝おうか?」
「いいよ、今日は。夕日でも見て、ゆっくりしてて。最後なんだから」
「それなら俺が」
 マーくんがむくっとハンモックから起き上がった。
「ううん。マーくんもここにいて。ひかりちゃんがひとりになっちゃうから。今日はふたり、仲よしみたいだから」
 クミちゃんが「フフ」と笑いながら言った。
「やっぱり、わかる? なんかさ、今日は俺の言うことを素直に聞いてくれるんだよね」
 マーくんがニンマリと笑いながら言った。
「へ~。そうなんだ~」
「そんなことないよ」
 クミちゃんが意味ありげに微笑みかけると、ひかりちゃんが慌てて否定した。けれど、その表情はとても穏やかだった。



28
今夜のメニューは?

「今日はなにを作ろうかな」
 冷蔵庫の白い扉をあけ、中を覗きながら、クミちゃんが考え始めた。
 まだキャベツが残ってる。あっ、モヤシもある。お肉は? あった。豚肉だ。島豆腐もあるじゃん。これだけあればなんとかなりそう。
 買い出しに行ったへーちゃんと桜子さんが、もう少しお肉と野菜を買ってきてくれるはずだから、お鍋にでもしようかな。時期的にはまだちょっと早いけど、みんなでワイワイ騒ぎながら楽しく食べるにはお鍋が最適だから。このところ夜になると少し冷え込むようになってきたし。ミーニシが吹くようになったからね。
 たしか冷凍庫の中に豚ガラがあったはず。この前、へーちゃんがラーメンを作ってくれたときに使った残りのものが。
 やっぱり、あった。これでだしをとろう。それに沖縄らしく、かつおのだしを合わせればかなりおいしくなる。ユイマールのかごの中に、鶏がらのスープの素も入っているし。これも少し足すと一層旨みが増して、さらにおいしくなるんだよね。
 お肉をいっぱい入れたら、マーくんはきっと満足してくれる。今夜の主役のひかりちゃんもお肉が大好きだし、桜子さんは「好き嫌いがないのでなんでも大好きです」と笑っていたから、「おいしいですね」って喜んでくれる気がする。へーちゃんとイラブさんはたぶん、なにも言わない。だけど、今夜もまた、いつもと同じようにたくさん食べてくれるはず。ニコニコ笑いながら。
 よし。今夜は鍋パーティだ。早速、スープ作りから始めよう。まずは豚ガラの下茹でから。血抜きをして、ちゃんと臭みをとらなくちゃ。その間にかつおのだしをとる準備もしておこう。昆布も出して。
 クミちゃんがテーブルの下のほうから鍋をふたつ取り出し、その中にたっぷり水を入れてガス台の上に置いた。
「おー、やってるな」
 クミちゃんが鍋に火をかけると、イラブさんが台所に入ってきた。そして、
「これ、今日のつまみ」
 大きな透明のビニール袋をクミちゃんの目の前に差し出した。
「うわー、すごい。大きなタコ」
 クミちゃんが後ずさりしながら大声をあげた。
「お前、さばけるか?」
 イラブさんが、袋の中から足だけでなく頭もちゃんとついている立派なタコを取り出しながら言った。
「無理です。やったことがないので」
 クミちゃんが思わず顔をしかめた。
「そうか。じゃあ、俺がやるか。なんだ、変な顔して」
 流しの上のまな板に手を伸ばしながら、イラブさんがさらっと言った。
「だって、漫画とかアニメで見るタコとはぜんぜん違うんだもん。なんかリアルで」
 クミちゃんが泣きそうな顔をした。
「なんだ、頭にハチマキでもしてると思ってたのか」
 イラブさんが楽しそうに笑いながら言った。そして、すぐに慣れた手つきでタコをさばき始めた。
 イラブさんは、タコの頭の中に手を突っ込んで起用に包丁を入れ、あっという間に不要な部分、ワタやスミ袋、目玉やクチバシを切り落とした。そして、全体を裏返して大きなボールの中に入れ、その上からたっぷりと塩をふりかけて丁寧にもみ始めた。
「すごい。イラブさん、上手」
 クミちゃんが今度は目を輝かせて言った。イラブさんの鮮やかな手つきに見とれ、タコの顔などは目に入らなくなったらしい。
「よし。あとはまかせるから」
 イラブさんがきっぱり言った。
「えっ、どうすればいいんですか?」
 クミちゃんが慌てて訊いた。
「茹でるだけ。このままあと十分くらいもんで、よく水で洗ってからな。ヌメリをしっかりとって」
 イラブさんがさらっと答えた。
 イラブさんの説明はいつも簡潔だ。だから、とてもわかりやすい。だけど、言い終えるとすぐにどこかに行ってしまう。習うより慣れろということなのだろうけど、できることなら、最初はそばにいて手取り足取り教えて欲しい。それがクミちゃんの本音だった。
「じゃあ、向こうで飲んでるからな」
 冷蔵庫から缶ビールを一本取り出すと、イラブさんはゆんたく場に向かってさっさと歩き出した。
(いつもこうなんだから)
 仕方がないので、クミちゃんはイラブさんに言われたとおりにタコをもみ始めた。少しだけ口をとがらせながら。



29
仲間

「あれー、なにをやってるんですか?」
 クミちゃんが一生懸命、タコの塩もみを続けていると、今度は桜子さんとへーちゃんが台所の中に入ってきた。
「あー、いいところに帰ってきてくれた。お疲れのところ悪いんだけど、手伝ってもらってもいい?」
 クミちゃんがすがるような目をして言った。
「もちろんいいですけど、なにをすればいいですか?」
 桜子さんが笑顔で即答した。その後ろでへーちゃんも笑顔で頷いた。
「ありがとう」
 ふたりが来てくれて安心したのか、クミちゃんも頬を緩ませた。
 夕食の準備はそれから快調に進んだ。お鍋の用意は、ラーメンのスープとか煮込み料理が得意なへーちゃんにまかせ、クミちゃんは桜子さんとふたりでタコの調理に専念した。
「ふたりがいいタイミングで帰って来てくれたから、ホントに助かっちゃった。ありがとう」
 クミちゃんが鍋の中のタコをさいばしでひっくり返しながら、改めてお礼を言った。
「お役にたててよかったです」
 桜子さんがニコニコ笑いながら言った。へーちゃんもお鍋の灰汁を丁寧にとりながら、笑顔で頷いた。
「本当にふたりがいてくれてよかったよ」
 クミちゃんが穏やかな笑みを浮かべてしみじみ言った。そして、ふたりの顔を交互に眺めながら、
(へーちゃんと桜子さんと一緒にお店がやれたら最高なんだけどな)
 と心の中でつぶやいた。
「あー、そろそろいいんじゃないですか。だいぶ赤くなってきたみたいだから」
 桜子さんがタコの茹で具合を目でたしかめながら言った。
「えっ? あっ、ホントだ。もういいね」
 クミちゃんが夢を見ている間に、タコはすっかり茹で上がっていた。



30
いつかきっと

 出会いがあれば別れも必ず訪れる。ひかりちゃんと桜子さんはもう少ししたら、島風から旅立って行く。明日の夜になったら、もうここにはいないのだ。
「寂しくなっちゃうな」
 みんなで仲よくお鍋を囲み、楽しそうに話をしているふたりの顔を見つめながら、クミちゃんがそっとつぶやいた。
 島風で働き始めてからもうすぐ一年。これまでに、一体どれくらいの人をここから送り出しただろう。永遠の別れというわけではない。みんな「また来るね」と言ってくれるし、実際に見送ってから数ヵ月後に再会できた人もいる。だけど……。やっぱり、別れはつらく切ない。
「どうしたんですか? なんか元気ないみたいですけど」
 クミちゃんの顔を覗き込むようにして桜子さんが言った。
「ううん。そんなことないよ。ただ、ちょっと酔っちゃったのかも」
 泡盛の入ったグラスに目をやりながら、クミちゃんが静かに言った。
 桜子さんがそばにいてくれると、とても落ち着く。おばあちゃんの家でくつろいでいるときみたいに。
「海を見ながら飲むお酒はすごくおいしいから、ついつい飲みすぎちゃうんですよね」
 桜子さんがニコニコ笑いながら言った。
「そうなんだよね」 
 クミちゃんもニッコリ微笑んだ。
「この眺め、ホントに最高ですね」
 桜子さんの視線の先には月明かりに照らされた夜の海があった。
「あー、ずっとここにいられたらいいんだけどな」
「そうしちゃえば」
 クミちゃんがさらっと言った。
「そうですね。ホントにそうできたらいいんだけど」
 桜子さんが目を閉じてしみじみ言った。
「桜子さん、ここが本当に気に入ったんだね。住みたくなるくらい」
「はい」
 桜子さんがパッと目を開いて笑顔で答えた。
「また、すぐ来ればいいよ。海は逃げないし、いつでも大歓迎するから」
「ホントですか?」
 桜子さんが目を輝かせて弾んだ声をあげると、クミちゃんがニッコリ笑って大きく頷いた。
 桜子さんは必ずまた来てくれる。そして、いつか沖縄で暮らすようになる。根拠はないけれど、クミちゃんはそんな気がしていた。



31
もう大丈夫

(もしもあのとき、イラブさんに声をかけてもらっていなかったら?)
 人生に「たら」「れば」はないけれど、クミちゃんはときどき想像してみる。今頃、自分はなにをしていたかな? と。
 会社をやめて、沖縄行きのチケットを買った。だけど、あてはなにもなかった。
(しばらく海を見てのんびり過ごそう)
 それしか考えていなかった。
 東京から逃げ出したかったのかもしれない。
 だから、イラブさんに「ここで働くか?」と言われていなかったら、すぐには東京に戻らず、しばらく沖縄のあちこちを転々としていたような気がする。たぶん、離島にも。
 ひかりちゃんは島風を出たら八重山に行く。流れて行くのがいいのか悪いのか。自分にはよくわからない。もしかしたら、「帰ったほうがいいよ」と言うべきなのかもしれない。だけど……。
 長い人生なのだから、少しくらいフラフラするときがあってもいい気がする。そこからなにかが生まれるかもしれないし。
「私もね、クミちゃんみたいにやりたいことを絶対に見つけるから。八重山に行ってる間に」
 ひかりちゃんがみんなに聞こえるような大きな声で言った。
 イラブさんとへーちゃんはなにも言わずに「ふんふん」と頷き、マーくんは「いいじゃん」と右手の親指をぐいと前に突き出した。
 ひかりちゃんは島風に来てから変わった。表情がずいぶん穏やかになった。自分の気持ちをはっきり伝えられるようにもなった。だから、きっと大丈夫だと思う。もう雨の中を傘もささずにずぶ濡れになって歩くようなことはしないはず。投げやりになって、自分を傷めつけるようなことは。



32
すべてはオールライト!
 
 午後十時過ぎ。泡盛片手にビーチに星を見に行っていたマーくんがギターを抱えて戻ってきた。
「やるの?」
 クミちゃんが訊いた。
「うまい鍋とタコのお礼にね」
 マーくんが片目をつぶってみせた。
「正人、あれ、やってくれ」
 イラブさんが言った。
「なになに? マーくんが歌うの?」
「すごい。ギターが弾けるんですね」 
 ひかりちゃんと桜子さんが目をキラキラと輝かせて言った。
「それじゃ、ちょっと歌わせてもらいます。まずは、エバーグリーンなラブソング。『ティーンエイジャー』」
 男らしく足をガバッと開いてハンモックに腰を下ろしたマーくんが、目を閉じて静かに歌い出した。
 歌詞は日本語。だけど、リズムはマーくんの大好きなレゲエだった。
 マーくんの歌う声はしゃがれていた。それは、いつも話す声とは少し違っていた。
「なんかいいね」
 ひかりちゃんがクミちゃんにそっと耳打ちをした。
 演奏が終わると、みんなが一斉に拍手をした。マーくんが満足そうに笑った。
「オリジナル?」
 クミちゃんが訊いた。
「ううん。カバー」
 泡盛を一口飲んでから、マーくんがさらっと答えた。
「誰の曲?」
 今度はひかりちゃんが訊いた。
「仲井戸麗市」
「すごくいい曲ですね」
 桜子さんがニコニコ笑いながら言った。
「なんか、胸がキュンとしちゃったね」
 クミちゃんが女子ふたりに向かって言った。
「うん。いろいろ想像しちゃった」
 ひかりちゃんが少しはにかみながら答えた。
「恋したくなっちゃいました」
 桜子さんが目を輝かせて言った。
 マーくんの歌は見事に乙女たちのハートをとらえていた。
「それじゃ、もう一曲。『すべてはオールライト』」
 ジャガジャーン。
 マーくんが再びギターをかき鳴らして歌い始めた。
 今度は最初からソウルフルに熱唱した。
(目がいつもと違う)
 まったく照れたりせず、胸を張って堂々と歌う姿に、クミちゃんはなにか熱いものを感じた。ふと横を見ると、イラブさんが目を閉じて下を向き、右手の指先で膝を叩いてリズムをとりながら、一緒に口ずさんでいた。
 最後にCのコードがラフに鳴らされ、即席ライブは二曲だけで終了した。マーくんは汗だくになっていた。
「なんかすごい」
 拍手をしながら、ひかりちゃんがつぶやいた。
「まるで別人だね」
「かっこよかったです」
 クミちゃんと桜子さんも感動していた。
 マーくんはそのままフラフラと立ち上がり、「どうも」と一言残して、おぼつかない足取りでビーチに向かって歩き出した。あらん限りの力を振り絞って腹から声を出して歌い、ギターを激しくかき鳴らし続けたマーくんに、余力はもう残されていなかった。



33
また来ます!

 マーくんのライブが終わると、ゆんたく場は静寂に包まれた。誰もがその歌声に圧倒され、しばらく言葉を失っていた。
「やっぱり、あいつの歌はいいな」
 ずっと黙って島人(しまんちゅ)を飲んでいたイラブさんがぽつりと言った。
「マブイがありますね」
 少し間をあけてクミちゃんが言った。
「そうだな」
 イラブさんが静かに頷いた。
 マーくんは物怖じすることがない。どこに行っても、なにをしても、いつも堂々としている。それは、ギターを弾いて歌うときもまったく変わらない。背筋をピンと伸ばし、目を閉じて感情をたっぷり入れて、ときに身をよじらせ、力いっぱい歌う。マブイ(魂)を込めて。
「そろそろ行くか」
 イラブさんがパンと膝を叩いてゆっくり腰を上げた。
「二週間、ありがとうございました」
 ひかりちゃんも立ち上がり、ちょこんと頭を下げた。
「うん。明日、行く前に連絡くれ。一緒に出るんだろ?」
「はい」
 ひかりちゃんと桜子さんがふたり揃って元気よく返事をした。
「心配すんな。正人が歌ってたとおりだから」
 イラブさんがひかりちゃんの頭をやさしく撫でた。
「そうだよ。すべてはオーライ」
 クミちゃんが目を輝かせて言った。
「そうだね」
 ひかりちゃんがニッコリ笑った。
「ですよね? イラブさん」
「うん。OK、OK。大丈夫、大丈夫」
 イラブさんがニンマリ笑いながら大きく頷くと、クミちゃんとひかりちゃんが顔を見合わせ、「やったー」「出たー」と弾んだ声をあげた。
 イラブさんの「OK、OK。大丈夫、大丈夫」は魔法の言葉だ。言われた瞬間に気持ちが明るくなり、なんだか楽しいことが起こりそうな気がしてくる。
「本当にいろいろありがとうございました。島風に来てよかったです」
 満面に笑みをたたえて、ひかりちゃんがイラブさんに改めてお礼を言った。
「私もです。ありがとうございました」
 桜子さんもニコニコ笑いながら言った。
「うん。いつでもいいから、また来い。待ってるから」
 イラブさんが今度はふたりの頭をやさしく撫でた。
「必ず、また来ます」
「私もです」
 ひかりちゃんと桜子さんがすぐに返事をした。
「私も待ってるから。へーちゃんも、でしょ?」
 クミちゃんが後ろを振り返りながらそう言うと、へーちゃんがニッコリ笑ってゆっくり頷いた。その笑顔は名護の海みたいにとても穏やかだった。



34
告白

 クミちゃんとひかりちゃんは、イラブさんが帰ったあともゆんたく場で飲み続けた。缶ビールを片手にハンモックに寝転がり、ずっと話し続けた。
「クミちゃん、ホントにありがとね」
 ひかりちゃんが寝転んだまま顔だけをクミちゃんのほうに向けて言った。
「どうしたの急に」
 クミちゃんが「フフ」と笑いながら言った。
「なんかね、やっと気持ちが吹っ切れたような気がするんだ。島風に来て、みんなによくしてもらったおかげかなと思って」
「よかったね」
「うん」
 ひかりちゃんがニッコリ微笑んだ。
「八重山に行くことにしたのもそれが理由?」
「うん」
「そうだったんだ」
 クミちゃんが手だけを伸ばし、ビールの缶をコンクリートの床の上にそっと置いた。
「マーくんの歌、すごかったね」
 ひかりちゃんはまだ少し興奮しているようだった。
「ギターを弾き始めたらまるっきり人が変わっちゃったもんね。目がさ、本気になって」
「うん。ビックリしちゃった。マーくんて、ダラダラ過ごすのが好きなただの怠け者だと思ってたから」
「ここにいるときはハンモックに乗って、レゲエばかり聴いてるからね。ハッピー、ハッピーって言いながら」
 クミちゃんが楽しそうに笑いながら言った。
「うん。でもね、実は、昨日くらいから、ちょっと印象が変わってきてたんだ」
「昨日? なんかあったっけ?」
「ほら、夕食のとき」
「うん」
「みんなの前で、常に謙虚でいたいって」
「あー、思い出した。すごい力説してたもんね。自分がテントで暮らしてる理由を」
「うん」
「あれで印象が変わったの?」
「うん。しっかり自分の考えを持ってる人なんだなって思って」
「へー」
「自分の意見をね、あんなに堂々と言えることもすごいなって思ったし」
「あー、それはちょっとわかる気がする。みんなの前だとなかなか言えないよね。あんなにはっきりとは。反応が気になって」
「うん。私もそう。本当はね、自分はこうなんだって言いたいんだけど、(みんなと違ってたらどうしよう)とか考えちゃって」
「マーくんは人の目とか、あんまり気にしてないんじゃないかな。自分の気持ちに正直に生きることがマーくんの生活信条だから。本人がそう言ってたから」
「やっぱり、すごいね。孤立することも恐れてないわけでしょ」
「だろうね。じゃなきゃ、テントでなんか暮らせないでしょ。圧倒的に少数派だから、共感してくれる人は少ないだろうし、なんだかんだといろいろ言われることも多いだろうから。逆に無視されたりとか。落伍者扱いされて」
「大変なことをやってるんだね」
「そうだよ。いやな思いもたくさんしてると思うよ。弱音をはくのがなによりも嫌いな人だから、口には出さないけど」
「親には言ってあるのかな?」
「たぶん。隠し事をするのは嫌いだって言ってたから。親にもなんでも話すって」
「すごいね」
「うん。そういうことを許せる親もすごいよね」
「私には信じられない。そんな親がいるなんて」
 ひかりちゃんが何度も首を横に振りながら言った。
「たしかにあんまりいないよね、そういう親」
「うん。でも、クミちゃんの家の人もけっこう自由にさせてくれてるほうだと思うけど」
「そうかな」
「うん。だって、私の親だったら、こういうとこで働くことなんて絶対に許してくれないもん。旅行だってなかなか行かせてくれないし」
「そうなんだ。厳しいんだね」
「うん。ていうか、子供を自分の持ち物みたいに考えてるんだよね。言うことを聞かすのが当たり前みたいに」
 ひかりちゃんが眉をひそめ、ちょっとつらそうな顔をした。
「自由がないの?」
「うん。全部、父親が決めちゃうから。進路も就職先も結婚の相手だって」
「えっ」
 クミちゃんが思わず目を剥いた。
「ビックリしたでしょ。私の家、ちょっとおかしいんだと思う」
 ひかりちゃんが今度は苦笑いしながら言った。
「おかしい……、のかな」
 クミちゃんも苦笑いしながら言った。
「ごめんね。急にこんな話、しちゃって」
 ひかりちゃんがハンモックから起き上がり、ちょこんと頭を下げた。
「ううん。ぜんぜん平気だよ。誰だって悩みのひとつやふたつはあるものだから。島風にもそういうお客さんがたくさん来るし。私だってそうだし」
 クミちゃんも体を起こし、ひかりちゃんの目を見てやさしく微笑んだ。
「クミちゃんも?」
「うん。あっ、でも、今は大丈夫かな。ここに来たばかりの頃はけっこう悩んでたけど」
「そうだよね。東京にいたとき、引きこもりだったんだもんね」
「うん。でも、ちょっとつらいね。いくら親でもなんでもかんでも決められちゃうのは」
「うん。だから……」
 ひかりちゃんが途中まで言いかけ、一度言葉を飲み込んだ。そして、少し間をあけてから、
「家出してきたんだ、私」
 ゆっくりと囁くように言った。
「そうだったんだ」
 クミちゃんは冷静だった。これまでのひかりちゃんの言動から、(もしかしたら)と想像したことがあったので、家出と聞いても感情を乱すことなく、少し重い事実をそのまま受け入れることができた。
「まずいよね。そういうの、やっぱり」
 ひかりちゃんが視線を外して言った。
「そうだね。連絡は入れておいたほうがいいと思うよ。元気だからって。心配してると思うから」
「そうなのかな」
 ひかりちゃんが遠くを見つめながらぽつりと言った。
「だと思うけど」
 クミちゃんが曖昧な返事をした。
 子供のことを愛していない親などいない。クミちゃんはそう思っている。だけど、もしかしたら、それは自分の勝手な思い込みなのかもしれない。
 島風で働くようになって、世の中にはいろんな人がいることがよくわかった。人生いろいろ。親子の関係だって、それぞれの家庭によってぜんぜん違う。だから、「そうだよ。絶対、心配してるよ」と言い切ることはできなかった。
「たぶんね、すごく怒ってると思うんだ。勝手なことをしてって」
 ひかりちゃんがまた、前を見たまま視線を合わせずに言った。
「怒ってる?」
 クミちゃんがひかりちゃんの横顔を見つめながら言った。
「うん。心配というより、親に迷惑かけやがってって思ってるような気がするんだ」
「迷惑……」
「うん。うちの親はそういう人なんだ。子供の気持ちなんか考えないで、いつでも自分優先。思いやりがぜんぜんないんだ。自分の考えを押しつけるだけで、私の話なんてなんにも聞いてくれない。私がなにか言うといつも全否定だから、まいっちゃうよ。すぐに怒鳴るし。母親はね、やさしいところもあるんだけど、父親には逆らえないみたいで。私と同じで気が弱いんだよね」
 ひかりちゃんが寂しそうに笑った。
 クミちゃんは返す言葉が見つからなかった。ひかりちゃんの悲しそうな横顔をただ黙って見つめることしかできなかった。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。
「でも私、大丈夫だから。マーくんの話を聞いて、ひとりでも生きていけることがよくわかったから。自分の意志をしっかり持っていれば」
 ひかりちゃんが、今度はクミちゃんの目を見て、一言一言かみ締めるように言った。自分に言い聞かせるように。
「そうだよ、ひかりちゃん」
 クミちゃんもひかりちゃんの目をまっすぐ見て言った。
「うん」
 ひかりちゃんはちゃんとわかっていた。一番大事なことを。それならもう心配はいらない。
「『OK、OK。大丈夫、大丈夫』だよ」
 クミちゃんがイラブさんの口まねをしながらそう言うと、ひかりちゃんが口元を緩ませ、白い歯を覗かせた。
「そうだね。すべてはオーライだもんね」
「そうだよ。イラブさんもマーくんも変わり者だけど、めちゃめちゃ正直だから。嘘は言わないよ」
「うん」
「一生懸命やって全力を出しきれば、あとは“なんくるないさー”でOK」
「どうにかなる、だね」
「そう。で、すべてはオーライ」
「なんだか、本当にそんな気がしてきたよ」
「でしょ。大事なのは一生懸命やること。失敗したってぜんぜん怖くないんだよ。ちょっと休憩して元気になれたら、またがんばればいいだけだから」
「うん」
「そのためには沖縄にいる間にやりたいことを見つけないとね」
「がんばるよ」
「うん。で、やりたいことが見つかったら」
「家に帰ります」
「そうだね。お父さんとちゃんと話さないと」
「私はこうしたいんだって」
「そう。マーくんみたいに。自分の気持ちをはっきりと」
「うん。でも、できるかな。正直、ちょっと不安。私、父親の前だと緊張してなにも言えなくなっちゃうから」
「きっとできるよ。簡単ではないかもしれないけど。勇気を出して本気になれば」
「そうだね」
「うん。よし、じゃあ、もう少し飲みますか。ひかりちゃんの輝ける未来のために」
「ありがとう。クミちゃんもこれからがんばるんだもんね」
「そうだよ。ちゃんと動き出せたら、すぐに報告するから」
「うん。じゃあ、乾杯」
「かんぱ~い」
 ふたりは缶ビールをさっと拾い上げ、ささやかな祝杯をあげた。
 床の上にずっと置きっぱなしにしていたから、ビールはすっかりぬるくなり、炭酸も抜けてしまっていたけれど、なぜかとてもおいしく感じられた。



35
ポーク卵とお弁当

 おいしそうな匂いがした。ハンモックに寝転がったまま薄目をあけ、後ろを振り返ると、へーちゃんと桜子さんが朝ごはんを食べていた。
「おはよう」
 半分寝ぼけながら声をかけると、ふたりが揃って笑顔で頷いた。そして、
「ごはん、食べられますか?」
 桜子さんが少し前かがみになり、両手を口の脇に添えて小さな声で言った。クミちゃんの隣のハンモックでは、ひかりちゃんが気持ちよさそうにすやすやと眠っていた。
(そうか。あのまま寝ちゃったんだ、私たち)
 クミちゃんが昨日の夜のことをぼんやりと思い出しながらゆっくり立ち上がった。ひかりちゃんを起こさないようにそっと。
「もうひとつ、作ってきますね」
 クミちゃんがテーブルに近づくと、桜子さんがさっと立ち上がった。テーブルの上には、色鮮やかなポーク卵がのったお皿がふたつ並んでいた。
「いいよ、悪いから」
 クミちゃんが申し訳なさそうに言った。
「ぜんぜん大丈夫です。パパッと作ってきますから」
 桜子さんが元気よく台所に飛んで行った。
 今日も名護は快晴だった。朝から真夏のような強い日差しが降り注ぎ、海がキラキラと輝いていた。へーちゃんはいつもと変わらず、なにも言わずにぼーっと海を眺めていた。
「お待たせしました」
 桜子さんがニコニコ笑いながら台所から戻ってきた。丸いお盆の上には、ポーク卵だけでなく、お味噌汁と白いご飯ものっていた。
「うわー、おいしそう。ありがとう」
 桜子さんからお盆を受け取ると、クミちゃんがすぐにお礼を言った。
「いえいえ、どういたしまして。昨日もたくさんご馳走になったので、このくらい当たり前です」
 クミちゃんに喜んでもらえたことが嬉しかったのか、桜子さんがとても満足そうな顔をした。
「桜子さん、料理、上手だね」
 クミちゃんがオムレツのような形をした卵焼きと厚めにカットされた三枚のスパムをしげしげと眺めながら言った。
「ホントですか」
 桜子さんが大きな目を輝かせて声を弾ませた。
「うん。こんなにきれいにはなかなか作れないよ。卵、ふわふわだし。お店で食べるポーク卵みたいだもん」
「卵料理だけは得意なんです。毎朝、それだけ作っているので」
「卵だけ?」
「そうなんです。あとはお母さんにおまかせで。お弁当も作ってもらっちゃってて」
「朝は忙しいからね」
「そうですね。だから、ついつい甘えちゃって」
「へー」
 職場に毎日、お弁当を持っていっているのか。桜子さんらしいなとクミちゃんは思った。
「桜子さん、お母さんと仲よしなんだもんね」
「はい」
「桜子さんのお母さんて、どんな人なの?」
「そうですね。明るくて、ちょっと天然ぼけで」
「そうなんだ」
「はい。あと、頑張り屋ですね。なにをやるにも全力投球というか、一生懸命なんですよね。“全身で”って言うのが口癖で。だから、ときどきやりすぎちゃったりもして」
「ふ~ん。桜子さんにそっくりなんだね」
 クミちゃんが「フフ」と楽しそうに笑いながら言った。
「えー。そうなのかな」
 桜子さんが小首をかしげながら言った。
「桜子さん、毎日、楽しいでしょ?」
「そうですね」
「仕事も楽しい?」
「はい」
「介護の仕事は大変だって話も聞くけど」
「う~ん、どうなんだろ。ある程度、体力が必要な仕事だとは思いますけど」
「でも楽しいんだ」
「はい」
「どんなところが?」
「お世話をしてる人に、ありがとうって言ってもらえたりすると、すごく嬉しくなるんですよ」
「それはわかる気がする」
「そうですか」
「うん。私も一緒だから。ニコッて笑ってもらえると、やっててよかったって思うから」
「そうなんですよね」
「うん。でも、不思議なんだよね。私の場合、この仕事を始める前は、人と関わるのが苦手というか、あまり好きじゃなかったから」
「そうなんですか?」
「うん。昔から人見知りだったし。サービス業なんか絶対にできないって思ってたから」
「それが今では」
「そうなんだよね。お客さんとおしゃべりするのが大好きになっちゃって」
「不思議ですね」
「うん」
「沖縄に来て、よかったですね」
「そうだね。ここで働くことにしたから、桜子さんにも会えたわけだし」
「そうか」
「うん」
「そう考えるとおもしろいですね」
「縁みたいなものを感じるよね」
「はい」
 ふたりは食べることを忘れて、夢中になって話し続けた。その横でへーちゃんは、穏やかな笑みを浮かべて、ずっと黙って静かに海を見ていた。



36
長い夏

 朝ごはんを食べ終えると、へーちゃんとクミちゃんは急いで掃除にとりかかった。いつもよりのんびりしてしまったため、気が付くと十時過ぎになっていたのだ。
「悪いね、桜子さん。今日も手伝ってもらっちゃって」
 ゆんたく場の床をほうきではきながら、クミちゃんが言った。
「ぜんぜん大丈夫です。みんなで働くのは楽しいですから。ただ、動くとやっぱり暑いですね」
 ふきんでテーブルをふきながら、桜子さんが言った。そして、額の汗を手でぬぐった。
「桜子さん、暑いのは苦手?」
「いえ、そんなことないです」
「好きな季節は?」
「やっぱり、夏ですね」
「そっか。それなら沖縄で暮らせるね」
「はい」
「沖縄は半年くらい夏が続くからね。だから、暑いのが苦手だと」
「大変ですね」
「うん。桜子さんはそれでも大丈夫?」
「はい」
「この人も平気そうだね」
 クミちゃんがひかりちゃんの顔を指差しながら言った。
「ひかりちゃんも夏が好きなんですか?」
 桜子さんがニコニコ笑いながら訊いた。
「うん。たぶん。ていうか、もし暑いのが苦手だったら、こんな時間まで寝てられないでしょ」
 クミちゃんが「フフ」と楽しそうに笑いながら言った。
「そうですね」
 桜子さんが大きく頷いた。
 ひかりちゃんは寝汗をいっぱいかいていた。だけど、一向に起きる気配がなかった。
「昨日、けっこう遅くまでしゃべったからね」
「そうだったんですか」
「うん。やっとね、気持ちの整理がついたって言うから、ふたりでお祝いしたんだ。そうしたら、話が盛り上がっちゃって」
「あれからそんなことがあったんですか」
「うん。やっと胸のつかえが取れたから、安心したんだろうね。だから、こんなにぐっすり」
「ふーん」
「まだ起こさなくていいよね。出発は夕方だもんね」
「そうですね」
 桜子さんがニッコリ笑って頷くと、クミちゃんがポケットから白い小さなタオルを取り出して、ひかりちゃんの額の汗をそっとぬぐった。
「やっぱり、ぜんぜん起きないね」
「ホントですね」
「でも、なんか、かわいい寝顔だね」
「はい。赤ちゃんみたいですね」
 ハンモックにくるまれて眠るひかりちゃんの寝顔はとても安らかだった。



37
カエル

「やっぱり、さんぴん茶はおいしいですね」
 桜子さんが満足そうにニッコリ笑いながら言った。
「うん。仕事をしたあとに飲むと、よけいにおいしく感じるね」
 クミちゃんがタオルで髪をふきながら言った。
 午前中の仕事を終えると、ふたりはすぐにシャワーを浴びた。お昼ごはんを食べに行く前に、汗を流してさっぱりすることにしたのだ。
「今日はなにを食べますか?」
 桜子さんが飲み終えたグラスを流しの中で洗いながら訊いた。
「カ・エ・ル」
 クミちゃんがいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「えっ。カエルですか?」
 桜子さんが思わず目を丸くした。
「うん。カエルのからあげ、おいしいんだよ」
 クミちゃんがちょっと得意げに言った。
「そうなんですか。でも……」
 桜子さんが少し困った顔をした。
「ダメ?」
「ちょっと抵抗が」
「じゃあ、やっぱり、タコライスにする?」
「はい。そっちのがいいです」
「そうだよね。あー、でも、ボリューム満点の定食なんかもいいかもね。今日は特にいっぱい働いたから」
「そうですね」
「マリーさんのゴーヤーチャンプルーはすごくおいしいからね」
「そうなんですか?」
「うん。かつおのだしがよくきいてて最高なんだ。豚肉やお豆腐もたくさん入ってるし」
「いいですね」
「あとね、中身汁もおすすめ」
「なんですか、それ?」
「簡単に言うと、豚のモツのスープ。これもね、かつおのだしがきいてておいしいんだ。細かく刻んだ椎茸やコンニャクなんかも入ってるんだよ」
「へー」
「見た目はちょっと地味だけど、味は抜群なんだ。モツは何度も煮こぼして調理してあるから、脂っこさも臭みもなくて食べやすいし。栄養も満点だしね」
「体にもいいんですか?」
「豚のモツや椎茸には、たんぱく質やビタミン、コラーゲンなんかがたくさん詰まってるからね。コンニャクは食物繊維がいっぱいだし」
「そうなんですか」
「うん。あっ、でも、これはひかりちゃんにすすめたほうがいいかもね」
「なんでですか?」
「ほら、ひかりちゃん、さっき起きたときに、飲みすぎちゃったって言ってたでしょ」
「はい」
「中身汁は胃にもやさしいから、二日酔いでもおいしく食べられるから」
「へー。それはいいですね」
「でしょ」
「はい」
「ひかりちゃん、早くお風呂から上がってこないかな。お腹、すいちゃったよね」
「そうですね」
「早くマリーさんのお店に行きたいね」
「はい。早く食べたいです」
「なんか、あったかな?」
 クミちゃんが冷蔵庫の扉をあけ、中を覗いた。
「なにか食べるんですか?」
「うん。軽いものをね。つなぎに。まずいかな?」
「う~ん、できればやめたほうが」
「やっぱり」
「はい。今食べちゃうともったいないですよ」
「そうだね。中途半端にお腹を膨らませちゃうと、どんなにいいものを食べてもおいしさが半減しちゃうもんね。お腹をすかせて一番おいしくいただかないと食べ物に悪いしね」
 クミちゃんが冷蔵庫の扉をゆっくり閉めた。
「そうですよ」
 桜子さんがきっぱりと言った。
「やっぱり、桜子さんて、おもしろい人だね」
「えっ? なんでですか?」
「だって、いつもニコニコ笑っていておっとりしているように見えるけど、自分の意見ははっきり言うでしょ。ごまかさないで」
「そうですか?」
「うん。適当に合わせたりしないもん」
「そうなのかな」
「そうだよ」
「そうか。でも、それって、いいことなんですかね?」
「うん。私はすごくいいことだと思う。桜子さんは自分の意見をはっきり言うけど、ちゃんと相手の気持ちも考えてくれてるから。一方的な自己主張じゃないからね」
「ホントですか?」
「うん」
「そう言ってもらえると、なんだか嬉しいです」
「そういうところはマリーさんに似てるんだよね」
「マリーさんですか?」
「うん。マリーさんもはっきりものを言うけど、気配りがすごいからね。言葉はちょっと荒っぽいけど」
「そうですね。でも、そこが」
「いいんだよね。本音で言ってくれてる感じがして」
「はい」
「私たちもあと二十年くらい経ったら、あんな風になるのかな?」
「そうじゃないですか」
「マリーさんみたいになれるなら、年を取るのも悪くないね」
「そうですね」
「毎日が楽しそうだもんね」
「はい」
「桜子さん、将来の夢とかある?」
「はい。あります」
「なに?」
「結婚していいお母さんになることです」
「仕事はどうするの? 専業主婦?」
「はい。だけど、子供が大きくなったらまた働きたいと思ってます」
「そうなんだ。やっぱり、介護の仕事?」
「そうですね。他の仕事でもいいんですけどね。スーパーのレジとか」
「お店とかはどう? パーラー空みたいな」
「自分でお店をやるんですか?」
「そう」
「お店か。料理は好きですけど。そういうこと考えたことなかったからな」
「バイトで手伝うくらいなら?」
「それならぜんぜんいいです」
「そっか。場所が沖縄でも?」
「えーっ。でも、いいかもしれないですね。実は私、沖縄に住んでみたいなって、前から思ってたんですよ」
「ホントに。それなら問題なしだね。たとえば、この台所を借りて料理をして出すとかはどう?」
「ここでやるんですか?」
「たとえばの話だけどね。でも、海のすぐ近くでやれたら最高だと思わない?」
「それはいいですね」
「でしょ」
「はい」
 桜子さんがニッコリ笑って頷くと、クミちゃんも目を輝かせてゆっくり大きく頷いた。
 クミちゃんは興奮していた。桜子さんと一緒に沖縄でお店ができるかもしれない。そう思うと心が躍り、両手を高く突き上げて思いきりジャンプしたくなった。
 なぜだろう。桜子さんと一緒にいると、夢を語りたくなる。桜子さんの屈託のない笑い顔を見ていると、包み隠さずなんでも素直に話すことができる。
 やっぱり、桜子さんはマリーさんに似てる。海みたいにおおらかで、太陽みたいに生気を漲らせて元気にしてくれる。
「桜子さん、結婚相手は沖縄で見つけたら?」
「えっ?」
「そうすれば、そのまま沖縄で暮らせるよ」
「あっ、そうですね」
「でも、桜子さんのお父さんとお母さん、沖縄に住むこと、許してくれるかな?」
「それは大丈夫だと思いますよ」
「どうして?」
「もう大人なんだから、自分のことは自分で決めなさいって、いつも言ってるから」
「へー」
「自分のしたいことを一生懸命やりなさいって」
「そうなんだ」
「はい」
「だから桜子さん、自分の意志がはっきりしてるんだね」
「あー。そうかもしれないですね」
「介護の仕事をやることも自分で決めたの?」
「はい。でも、相談はしましたよ。簡単に決められることではないので」
「お父さんとお母さんとじっくり話し合ったんだ」
「はい」
「いいお父さんとお母さんなんだね」
「そうですね。いつも自由にさせてもらって感謝してます。専門学校にも行かせてもらったし」
「毎朝、お弁当も作ってもらっちゃってるしね」
「そうなんですよね。ずっと甘えちゃってて」
「本当に感謝しないとね」
「はい」
「親ってありがたいね」
 クミちゃんがしみじみ言った。
「そうですね」
 桜子さんがゆっくり大きく頷いた。
 ふたりの頭の中には、やさしく微笑む両親の顔がくっきりと浮かんでいた。



38
突然の嵐

 ゆんたく場から陽気な歌が聞こえてきた。
「あー、『ワン・ラブ』だ。帰ってきたのかな?」
 古ぼけた小さなラジカセから流れてきたのはマーくんの大好きなボブ・マーリーだった。
「どうしたの? 今日は早いね」
 クミちゃんが気持ちよさそうにハンモックに揺られていたマーくんに声をかけた。
「私のことが気になって、バイトを早退してきたんだって」
 その横にはひかりちゃんがいた。
「今日は大事な友達が旅立つ日だからね。見送りくらいはちゃんとしないとね」
 マーくんが桜子さんの目をじっと見つめながら言った。
「なんだ。私だけのために帰ってきたんじゃなかったんだ」
 ひかりちゃんが横から不満そうな声をあげた。
「ところでひかりちゃん、二日酔いは?」
 クミちゃんが「フフ」と笑いながら訊いた。
「もうぜんぜん平気。シャワー浴びたら、すっきりしちゃった」
 ひかりちゃんが弾けるような笑顔を浮かべて言った。
「そうなんだ。じゃあ、そろそろ行く?」
「そうだね。もういい時間だもんね」
「そうだよ。もうすぐ一時だもん」
「ホントに? ごめん。ゆっくりしすぎちゃったね」
 ひかりちゃんがぺろっと舌を出した。
「マーくんも行くでしょ?」
「もちろん」
 マーくんが右手の親指をぐいと前に突き出した。そして、勢いよくハンモックから立ち上がった。
「あれ? でも、へーちゃんがいないね」
 クミちゃんが辺りを見回しながら言った。
「そう言えば、姿が見えないね」
 ひかりちゃんがゆっくりと体を起こしながら言った。
「どこに行ったんですかね」
 桜子さんが小首をかしげながら言った。
「どうしたんだろ」
 クミちゃんがそっとつぶやいた。
 みんなでパーラー空に行くことは、シャワーを浴びる前にちゃんと伝えておいた。へーちゃんは誰にもなにも告げずにフラフラとどこかに行ってしまうような人じゃない。
(なんか変だな)
 クミちゃんはちょっと心配になった。
「じゃあ、とりあえず、休憩の続きってことで。音楽でも聴きながら」
 マーくんがCDのボリュームを少しだけ上げた。
「そうだね」
 ひかりちゃんがハンモックに腰を下ろした。
「はい……」
 桜子さんが様子を窺うようにクミちゃんの顔を見ながら言った。
「私、探してくる」
 少し間をあけてからクミちゃんが言った。そして、ビーチに向かって歩き出した。
 そのときだった。
「とぼけてんじゃねーぞ」
 突然、怒声が響き、ガシャーンとガラスが割れる音がした。
「なんだ?」
「誰か暴れてる?」
「へーちゃん?」
 一瞬にしてゆんたく場の空気が張り詰め、四人が顔を見合わせた。そして、
「事務所だな」
 マーくんが慌てて駆け出した。
「待って。私も行く」
 クミちゃんも駆け出した。ひかりちゃんと桜子さんもすぐにあとを追った。
 事務所の中にはへーちゃんの他に見知らぬ男がふたりいた。
「あんたたち、誰?」
 マーくんが手前にいた背の低い男に訊いた。
「うん?」
 男が顎を突き出し、マーくんを睨みつけた。
「あーあ、こんなにしちゃって」
 マーくんが割れたガラスを手で拾いながら言った。事務所の入り口の扉が粉々に砕けていた。
「なんで、こんなことするんですか?」
 今度はクミちゃんが前に出てきて抗議をした。
「うん?」
 男はなにも答えず、無言で歩き出した。
「なんだ?」
 危険を察したマーくんがクミちゃんをガードするために前に出てきた。
 男はマーくんの横を黙って通り過ぎ、ひかりちゃんの目の前で立ち止まった。そして、
「やっぱり、ここにいたんだな。帰るぞ」
 ひかりちゃんの腕をギュッとつかんで前に引っ張った。
「あーっ」
 突然、腕を強く引かれたため、ひかりちゃんがバランスを崩し、倒れそうになった。
「えっ?」
「どういうこと?」
 マーくんとクミちゃんが顔を見合わせた。
「行くぞ」
 男が腕をつかんだままゆっくり歩き出した。
 ひかりちゃんの目は死んでいた。とても悲しそうな顔をしていた。
「ちょっと待ってよ」
 マーくんが男の正面に立ち、両手を前に突き出した。
「どけ」
 男がしっしと犬を追い払うように左手を横に振った。
「わかるように説明してくれよ」
 マーくんが必死に食い下がった。
「家出してた娘を親が連れて帰る。それだけだ」
 男が眉間にしわを寄せ、舌打ちしながら面倒くさそうに言った。ひかりちゃんはずっと俯いていた。
「それだけって……」
 マーくんはそれ以上、なにも言えなかった。
 ひかりちゃんがマーくんのすぐ横を無言で通り過ぎた。眼鏡をかけた痩せた男が事務所の中から飛び出し、ふたりを追って行った。
「ひかりちゃ~ん」
 少しずつ小さくなっていく背中に向かって、クミちゃんが呼びかけた。だけど、ひかりちゃんはなんの反応も示さなかった。
「いいの? これで」
 クミちゃんの声は最後まで届かなかった。へーちゃんも桜子さんも、肩を落として去って行く友の後ろ姿を、ただ黙って見送ることしかできなかった。



39
大丈夫

 ひかりちゃんは最後までなにも言わず、一度も振り返らずに去って行った。こんな別れは初めてだった。それにあまりに突然だった。頭の中が混乱していた。なにをすればいいのかわからず、クミちゃんはしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
「大丈夫ですか?」
 桜子さんが後ろからそっと声をかけた。
「うん……」
 クミちゃんが力なく頷いた。
「桜子さん、クミちゃんをさ、マリーさんとこに連れて行ってあげてよ」
 マーくんが穏やかな笑みを浮かべて言った。
「はい。でも、いいんですか」
 桜子さんが壊れた事務所の扉を見ながら言った。
「うん。片付けは俺とへーちゃんでしておくから」
 マーくんがへーちゃんに目配せをしながら言った。
「ごめんね」
 クミちゃんがちょこんと頭を下げた。
「なに言ってんだよ。気にすんなよ。こういうことはさ、元気なやつがやればいいんだから」
 マーくんがクミちゃんの肩をポンと叩いた。
「ありがとう」
 クミちゃんがわずかに頬を緩ませた。
「ひかりちゃんは大丈夫だから」
「ホントに?」
「うん」
「そうだといいんだけど」
「大丈夫。心配いらないよ。空手三段のへーちゃんがさ、なにもせずに黙って帰したんだから。俺もあのおじさん、そんなに悪い人ではない気がしたし。態度はあんなだったけど、目がさ、けっこう澄んでたんだよね。まあ、かなり偏屈で面倒くさそうな人ではあったけどね」
 マーくんが苦笑いしながら言った。
「うん」
 少し間をあけてからクミちゃんが頷いた。
 クミちゃんはマーくんの言葉を信じてみることにした。マーくんはテーゲーなところもあるけれど、決して嘘をつかない。それはへーちゃんも同じ。
 へーちゃんはすでに片付けを始めていた。両手に軍手をはめて砕け落ちたガラスのかけらを拾い、それをバケツの中に集めていた。いつもと変わらぬ顔をして、まるでなにもなかったかのように。
「イラブさんにはさ、俺が連絡しておくから」
 マーくんが軍手をはめながら言った。
「悪いけど、お願いします」
 クミちゃんが申し訳なさそうに言った。
「俺たちも片付けが終わったらすぐに行くから」
「うん」
「それじゃ、行きましょうか」
 桜子さんがニッコリ微笑んだ。
「そうだね」
 クミちゃんも頬を緩ませた。だけど、その笑顔はまだ少しぎこちなかった。



40
みんな純粋

 海を見ながら歩きたかった。風も感じたかった。だから、車には乗らずに歩いて行くことにした。
(今、どこにいるんだろ。那覇に向かうバスの中かな。悲しくて、窓の外を見ながら、泣いているんじゃないだろうか)
 パーラー空に着くまで、クミちゃんはずっとひかりちゃんのことを考えていた。
「おー、クミちゃん、よく来たね。向日葵ちゃんも一緒だね」
 マリーさんは店の入り口に一番近い席に座っていた。ふたりの顔を見ると、すぐに立ち上がり、ニッコリ笑って迎え入れてくれた。
「ふたりだけ?」
 マリーさんが表情を変えずにさらっと言った。
「あとでへーちゃんとマーくんが来ます」
 クミちゃんがそっと囁くように言った。
「そうかい。空もさ、もう少ししたら来るから、そうしたら、みんなでぜんざいでも食べようか。氷をいっぱいのせて。今日も暑いから」
「はい」
 クミちゃんが頬を緩ませた。その横で桜子さんも微笑を浮かべて静かに頷いた。
「でも、その前に食事か」
「そうですね」
「なに食べる?」
「やっぱり……、タコライスかな?」
 クミちゃんが桜子さんに訊いた。
「はい」
 桜子さんが微笑を浮かべたまま小さく頷いた。
「それじゃあ、すぐに作ろうね。うん」
 マリーさんが柔和な笑顔を浮かべて、ゆっくり大きく頷いた。
「お願いします」
 クミちゃんと桜子さんがふたり揃ってちょこんと頭を下げた。
 マリーさんが厨房に入って行くと、店内は静寂に包まれた。耳を澄ますと、かすかに波の音が聞こえた。
 
「はい、おふたりさん、できたよ」
 正面の小窓があき、タコライスが出てきた。
「あっ、私がとってきます」
 桜子さんがすぐに立ち上がった。
「ありがとう」
 クミちゃんが座ったままちょこんと頭を下げた。
「どうした? 元気ないみたいだけど」
 マリーさんが厨房から出てきて、テーブルの上にさんぴん茶が入ったグラスをふたつ置いた。
「ひかりちゃんの……」
 少し間をあけてから、クミちゃんがゆっくり話し始めた。
「お父さんが……、さっき、急に来て……。ひかりちゃんを……、一緒に……、つれ……、て……、いっ……、て……」
 クミちゃんはそれ以上話すことができなかった。目に涙をいっぱい浮かべていた。
「いいよ、いいよ。無理して話さなくても。そうか。ひかりちゃん、帰ったのか」
 マリーさんがクミちゃんの頭をやさしく撫でた。クミちゃんの目から涙が溢れ出した。
「大丈夫ですよね」
 桜子さんがマリーさんの目をまっすぐ見ながら訊いた。桜子さんの目にも涙がいっぱいたまっていた。
「心配いらないよ。帰るのがさ、少し早くなっただけだから。いつかはね、帰らないといけないわけだから。
 あの子、二週間くらい島風にいたんだろ。それで十分。イラブさんから、大事なことをたくさん教わったはずだよ。あんたたちみたいなやさしい友達もできたわけだし。向こうに着いたらさ、沖縄に行ってよかったって、きっと思うはず。また行きたいなって。昨日もさ、ここに来て、楽しい、楽しいって言ってたんだから。
 ほら、泣いてないで、早く食べな。お腹、すいてるんだろ」
 マリーさんがふたりの涙をそっと手でぬぐった。
「でも……」
 クミちゃんの涙はとまらなかった。
「大丈夫だよ。あの子さ、やっとがんばる気になれたって、笑ってたんだから。くじけそうになったら、みんなの顔を思い浮かべてがんばりますって、言ってたんだから。
 父親とはいろいろあるみたいだけど、気持ちを切らさずに粘り強くやっていけば、なんとかなるものだから。一生懸命やってれば、なんくるないさ~、だよ。どうしてもダメだと思ったら、元気になりにまたここに来ればいいわけだし。
 あの子さ、島風でいろんな人に会って、生き方なんて人それぞれ、自分の好きなことをしてもいいんだってわかったんだよ。そのためには自分から働きかけていかなきゃダメなんだってこともね。だから大丈夫。心配いらないよ」
 マリーさんがもう一度クミちゃんの頭をやさしく撫でた。クミちゃんが今度は黙って頷いた。
「世の中には本当にいろんな人がいるからね。島風に来る人は、変わり者ばかりだけどね。でもね、みんな、やさしい。沖縄にひとりで来るような人は、み~んな、純粋。
 おっ、ちょうど来たよ。その代表みたいなのが。ほら、早くおいで」
 マリーさんが手招きをして呼び寄せると、マーくんとへーちゃんがニコニコ笑いながら中に入ってきた。
「あんたも一緒だったの」
 その後ろに空くんもいた。
「おっ、いいね~、タコライス。マリーさんの最高にうまいんだよね。どうしたの、クミちゃん。食欲ないの? 俺が食べてあげようか?」
 マーくんが顔を前に突き出してニッと笑った。クミちゃんが慌てて首を横に振った。
「大丈夫だよ。とったりはしないから」
 マリーさんが「ガハハ」と豪快に笑いながら言った。
「そうだよ。俺は金はないけど、紳士なんだから。ボロは着てても心はピカピカ」
「たしかにそうだね。顔はシーサーだけどね」
「そりゃないよ、マリーさん。自分ではけっこうイケてると思ってるんだから」
「じょーとー、じょーとー。思うのは自由」
「もう、まいっちゃうな、マリーさんには」
 マーくんが口をへの字に曲げ、大げさに肩をすくめてみせると、みんなが大きな声を出して笑った。クミちゃんも口元を緩ませ、「フフ」と楽しそうに笑った。みんなが来て安心したのか、いつのまにか涙はすっかりとまっていた。



41
母ちゃんのため

 みんながタコライスを食べ終えると、マリーさんがデザートを出してくれた。ガラスの器に山のように盛られた氷はとても涼しげで、夏の匂いがした。
「おー、ぜんざい、久しぶり。このサラサラの氷とあま~い金時豆が合うんだよね。うまそう」
 マーくんが真っ先に飛びついた。
「あんたはこれも欲しいんだろ」
 マリーさんがテーブルの上に練乳の缶をドーンと置いた。
「いいの? マリーさん。ミルクまでかけちゃって」
 マーくんが目を輝かせて言った。
「好きなだけかけな」
 マリーさんがニッコリ笑って頷くと、マーくんが早速、ミルクをたっぷり氷にかけた。そして、勢いよく食べ始めた。
「やっぱり、最高。どう? 桜子さんも」
「甘くておいしそうですね。ちょっとかけてみようかな」
 桜子さんがマーくんのぜんざいをしげしげと眺めながら言った。
「下にもね、甘いのが入ってるから、よく混ぜて食べるといいよ」
 マリーさんがやさしく微笑みながら言った。
「ホントだ。大きなお豆が入ってる。あれ、なんだこれ? あー、白玉だ」
 桜子さんが目を丸くして思わず大きな声をあげた。
「なんだ桜子さん、ぜんざいは初めて?」
「はい。噂には聞いていたんですけど。沖縄のはぜんぜん違うって」
「たしかにね。内地じゃ、ぜんざいはホット専門だもんね。豆もあずきだし。でも、白玉は一緒か」
 マーくんがぷるぷるの白玉をスプーンですくって口の中に放り込んだ。
「氷の下から急に出てきたからビックリしたんだよね」
 クミちゃんがすかさずフォローした。
「なるほどね。かき氷に白玉は、普通は入ってないもんね」
「そうだよ。最初に食べたときは私もビックリしたもん。あっ、ごめん」
 クミちゃんが視線を外して、短パンのポケットの中に手を入れた。
「電話?」
「うん」
 携帯電話の画面には、電話番号と“お母さん”という文字が表示されていた。
「ちょっと向こうで話してくるね」
 クミちゃんがゆっくり椅子から腰を上げた。
「たくさん話してきな」
 マリーさんが後ろから声をかけると、クミちゃんが照れくさそうにはにかみながら黙って頷いた。
「なんか嬉しそうだったね。もしかして男?」
 マーくんがニヤニヤしながら言った。
「あんたはホントにバカだね~。お母さんだよ」
 マリーさんが穏やかな笑みを浮かべて言った。
「マジで。なんでわかったの?」
「顔を見てればわかるよ」
「表情で?」
「うん」
「ふ~ん。そうか。電話はお母さんからだったんだ。だから、あんなに」
「やさしい顔になってただろ」
「うん。親ってすごいね。いいタイミングでかけてくるもんね」
「そりゃそうだよ。親はいつだって子供のことを想ってるんだから。子供になにかあったら、すぐにピピッと伝わるんだよ」
「マジで。あー、でも、たしかにそういうこと、あるのかもね~」
 マーくんがしみじみそう言うと、みんなが「うんうん」と頷いた。
「あんたもたまには家に帰って、親に顔を見せてあげるといいよ」
「そうだね。でも、なんか、照れくさいんだよね。俺のとこはほら、もうオヤジしかいないじゃん。だから、なんかね。男同士って微妙なもんがあるからさ。一応ね、たまにだけど、電話はしてるから。それでまあ、いいかなって。大事なことは全部、そのときに伝えるようにしてるから。弟がさ、家にいてくれてるから、ついつい甘えちゃってね」
「エリートの弟か」
「うん。まあ、エリートって言っても、県庁に勤めてるだけなんだけどね」
「すごいよ。じょーとー、じょーとー」
「まあ、兄貴とは大違いだね」
「でも、仲はいいんだろ?」
「うん。うちはさ、母親が偉大だったから。ホント、なんでも平等にしてくれたから、兄弟でいがみ合うようなことがぜんぜんなかったんだよね。なんでも自由にさせてくれたし。俺さ、親にこうしろって命令されたことが一度もないんだよね。大学には行かずに旅に出るって言ったときも、『大丈夫か?』って言われただけで」
「お母さんはあんたに気を遣ってたんだよ。本当はいろいろ言いたいこともあったんだろうけど、遠慮してたんだよ。あんたの性格を考えて」
「そうかもしれないね。やさしい人だったからね。だけど、躾はすごく厳しかったんだよ。挨拶とか礼儀は特に。好きなことをしてもいいけど、他人に迷惑をかけちゃダメだってしつこいくらいに言われたし。あと、ズルはするなって。なんでも正面からいきなさいって。嘘をついたり、ごまかしたりしてると、顔が醜くなるからって。目が濁ってきて。損得でものを考えるな、とも言われたな」
「お母さんは人として美しく、誇り高く生きようとしてたんだろうね」
「あー。そういえば、失敗はいくらでもしていいけど、そのときに言い訳したり、他人のせいにするのは絶対にダメだ、とも言ってたよ」
「自分に厳しい人だったんだね。女には珍しいよ、そういう人」
「そうなの? でもさ、そんなこと言いつつ、たまに言い訳はしてたけどね。
 朝とかみんなの弁当を作らないといけないから、いつも大忙しでさ。俺と弟だけじゃなくてオヤジも毎日、弁当を持ってってたから。『母さんが弁当を作らないなら、俺は仕事には行かない』とか言っちゃってさ。
 だから、毎朝てんやわんや。よせばいいのに、おかずを必ず七~八品作るから、いつもてんぱっちゃってさ。あんまり要領がいいほうじゃなかったから。おまけに自分も外で働いてたから、その準備もしながらだから、ホントにしっちゃかめっちゃか。朝は時間もないじゃん。だから、よく肉を焦がしたりして。いつもは穏やかなんだけど、そういうときはやっぱりイラッときちゃうみたいで、『みんなが急かすからよ』って文句言ったりして。
 でも、言ったあとにすぐに気付くんだよね。口には出さないけど、(あー、言っちゃった)みたいな顔をするから、それがおかしくてさ。だから、弟とよく笑ってたんだ。『母ちゃんもやっぱり、普通の人なんだな』って」
「完璧な人間なんていないからね」
「うん」
「あんたはお母さんに言われたとおりに生きてるんだね」
「あー。そうかもしれない。昔からさ、これやったら母ちゃんが泣くなって思うことはしないようにしてたからね。正直、何度か誘惑に負けちゃったこともあるけど。でもね、基本は母ちゃん。俺の人生の道しるべ。だからさ」
「うん」
「早く嫁さんをもらわないといけないんだよね」
「なんで?」
「母ちゃんがさ、亡くなるちょっと前に言ったらしいんだ。『正人のお嫁さん』って。意識朦朧としながら」
「それが一番心配だったんだよ」
「そうなんだろうね。俺にはさ、そんなこと一度も言ったことなかったんだけど、オヤジにはよく言ってたらしいんだ。でも、オヤジは母ちゃんに口止めされてて。『あの子には言うな』って。負担をかけないように気遣ってくれてたんだろうね。こんなバカ息子のことをさ。勝手なことばかりしてた」
「やさしすぎるね」
「うん。俺のほうがやさしくしてあげなきゃいけなかったのにね。もう大人になってたんだから。なんかさ、いつまでも元気でいてくれるような気がしてたんだよね。だからなんだって話だけど。事故だったから、急でさ。ぜんぜん恩返しができなかった。最後まで甘えちゃった。本当によくしてもらったのに。愛情いっぱいでさ」
 マーくんが眉間にしわを寄せ、ちょっとつらそうな顔をした。
「これからすればいいよ」
 マリーさんがすぐに言った。
「そうだよね。そうするしかないもんね、うん。俺、これからは母ちゃんに喜んでもらえることをもっともっとしていくようにするよ。なんとか恩返しができるように。自分のことはもういいや。十分、自由にやらせてもらったから」
「それでいいと思うよ。人って、自分のためにはあんまりがんばれないものだしね」
「そうかもね」
「うん。畑、やるのか? 自給自足」
「やるよ。でも、そんなに大げさなもんじゃないけどね。畑やって、海にも潜って、工場でも働いて。やっぱり、少しは金もいるからね。自分が守りたい人が病気になったら、すぐに病院に連れて行きたいからね。俺ひとりならいいけど、嫁さんをもらうならアパートくらい借りたいし。たまには外にうまいもんを食いにも行きたいしね。マリーさんのタコライスとか」
「じょーとー、じょーとー」
「うん。だから、これからもパイン工場で一生懸命、働かせてもらうよ。班長になれるくらい。社長が知り合いの農家の人を紹介してくれるって言ってるから、野菜作りの勉強もしながら」
「いいじゃん」
「でしょ。あっ、ごめん、ごめん。なんか、俺ばかりしゃべっちゃって」
 マーくんがみんなにちょこんと頭を下げた。とても嬉しそうな顔をして。
「なになに? どうしたの?」
 クミちゃんがニコニコ笑いながら戻ってきた。
「マーくんがね、アパートを借りるんだって」
 マリーさんが穏やかな笑みを浮かべて言った。
「えー、そうなの? テント、やめるの?」
「すぐにってわけじゃないけどね」
「なんでまた?」
「未来の嫁さんのため。クミちゃんだって、テントで暮らすのは勘弁だろ?」
「そりゃそうだけど。相手は?」
「それはまだ。これから。だから、未来の嫁さん」
「な~んだ。あれ、でも、もしかして」
 クミちゃんが横目で桜子さんの顔をチラッと見た。
「なんだ、あんた。向日葵ちゃんが好きなのか」
 勘のいいマリーさんがすぐに気付いて言った。
「まあまあ。そういうのはほら、相手のこともあるから。あんまりね、みんなの前でベラベラ話すことじゃないし」
 マーくんが珍しく言葉を濁した。桜子さんは口をあけて楽しそうに笑っていた。
「まあ、相手は誰であれ、恋するのはいいことだからね。好きな人ができると毎日が楽しくなるからね。あんまり気負わず、のんびりやるといいよ。こういうことはがんばればうまくいくってものでもないから。相手の気持ちってものがあるからね」
 マリーさんがさらっと言った。
「そのとおり。それが恋のつらいところでもあり、おもしろいところ。恋愛経験は大してないけど、フラれたことは山ほどあるから、そのへんのことはよくわかってるつもり。だけど、俺は駆け引きはしない。正面からズバッといくことしかできないから。でも、ちゃんと相手の気持ちは考えないとね。どんなに好きでも押しつけはダメ。なにをするにも思いやりが一番大切だからね」
 マーくんがさんぴん茶をグビッと飲み干し、ニッと笑った。
「それがわかっていれば大丈夫。いつかきっといいお嫁さんがきてくれるよ」
 マリーさんもニコッと微笑んだ。
「マーくんて、やさしいんだね」
 クミちゃんが「フフフ」と楽しそうに笑いながらそう言うと、マーくんが「いや~」と照れくさそうに頭をかいた。桜子さんはやっぱり、ずっと口をあけて笑いながら、みんなの話をおとなしく聞いていた。



42
沖縄が好き

「やっぱり、ここは落ち着くね」
 マーくんが大きく伸びをしながら言った。
「うん。島風と同じくらい落ち着くね」
 クミちゃんもつられて伸びをした。
「パーラー空と島風がなかったら、たぶん、名護に居つくことはなかったな」
 マーくんが目を閉じて腕を組み、しみじみ言った。
「うん、わかる。私もそうだから」
 クミちゃんがゆっくり大きく頷いた。
「私もわかる気がします」
 桜子さんがニコニコ笑いながら言った。
「桜子さんも沖縄に住んでみたいと思ってるんだもんね」
 クミちゃんがやさしく微笑みかけると、桜子さんが「はい」と元気よく返事をした。
 沖縄はとてもいいところだ。だけど、親類縁者のいない本土の人間が、横のつながりが非常に強いこの小さな島で、長く暮らしていくことはそんなに簡単ではない。
 沖縄は豊かな自然に恵まれた美しい島だけど、決して楽園なんかじゃない。クミちゃんは約一年、名護で暮らしてみて強く実感した。
 失業率は全国で一番高くワーストワン。平均年収は東京の約半分。基地の問題もある。琉球王国の時代からずっと理不尽な扱いを受けてきたから、内地に対してあまりいい感情を抱いていない人も少なくない。
「あんた、ナイチャーね」と言われる度に、クミちゃんはどうすることもできない壁のようなものをいつも感じた。同じ居酒屋に居合わせた地元の人に、沖縄戦のことで叱責されたこともあった。
(たしかに私は内地の人間だけど……。沖縄は簡単に住んではいけない場所なのかな)
 不安になったクミちゃんの心を落ち着かせてくれたのは、いつもマリーさんだった。
「もし桜子さんが沖縄で暮らすことになって、なにか困ったことがあったら、すぐにここに来るといいよ。もちろん、俺もクミちゃんもへーちゃんもいつでも相談にのるよ。でも、地元の人に話を聞いてもらいたくなることがきっとあると思うから。イラブさんでもいいんだけど、あの人はどんな相談をしても、『OK、OK。大丈夫、大丈夫』としか言わないから」
 マーくんが少し大げさにイラブさんの口まねをして、みんなを笑わせた。マリーさんは一旦厨房に戻り、空くんと一緒に洗い物をしていた。
「でも、不思議なんだよね。イラブさんに『OK、OK。大丈夫、大丈夫』って言われると、本当にそんな気がしてくるから。悩んでてもしょうがないかって気がして。
 マリーさんにはよく、『相手の気持ちを考えてみるといいよ』って言われたな。相手の立場になって考えてみれば、どうすればいいかが見えてくるものだからって。私は人間関係みたいなことで悩むことが多かったから。一番いいのは気にしないことみたいだけど」
「人間関係ですか?」
「うん。やっぱり、住んでみるといろいろあるんだよね。憧れが現実に変わるわけだから。沖縄は今までにいろんな悲しいことがあった島でもあるし」
「俺のバイト先にもナイチャー嫌いの人がいるよ。話どころか挨拶もしてくれない。でも、そのくらいはっきりしてくれてたほうが逆にいいかなって、俺は思うけどね。陰でこそこそ悪口を言われるよりは。沖縄の今までの歴史というか、本土との関係を考えれば、仕方ないかなって気がするし」
 マーくんが真剣な目をして言った。
「だけど……。それでもやっぱり、私は沖縄が好き」
 マーくんの言葉をかみ締めるように、目を閉じて何度もゆっくり頷いてから、クミちゃんがきっぱり言った。満面に笑みをたたえて。
「それは俺も一緒。沖縄の人は、なんと言ってもやさしいからね。相手を追い詰めないのが沖縄流だから。ひとなつっこいし。ユイマールの島だしね」
 マーくんもニッコリ笑った。
「海もきれいだし」
「うん。海がきれいで人がいい。だから、のびのび暮らせる」
「それが一番だね。マリーさんやイラブさんみたいな人がいてくれるしね」
「そうだね。ふたりは特別。俺に負けないくらいの変人。あんなに世話好きな人はめったにいない。でも、ただのお人好しじゃなくて、ちゃんと相手を見てる。だから、ピンとこないとまったく関心を示さない。勘がものすごく鋭いんだよね。俺、最初に会ったとき、スゲー緊張したもん。ふたりとも人の本質を一瞬で見抜いちゃうようなところがあるから。好き嫌いがはっきりしてるしね。だけど、めちゃめちゃあたたかい。それに懐が深い。沖縄の海みたいに」
「誰が変人だって」
 マリーさんがお盆にアイスコーヒーをのせて、空くんと一緒に厨房から出てきた。テーブルの上にグラスを置くと、氷がカランと鳴った。
「変人ていうのは褒め言葉。おもしろい人ってことだから」
 マーくんが得意げに言った。
「そうか。じゃあ、ここにいるのはみんな変人だね」
 マリーさんがニンマリ微笑みながらそう言うと、
「えーっ」
「私もですか?」
 クミちゃんと桜子さんが思わず目を丸くした。
「そう。み~んな、変人仲間。へーちゃんと空くんもね」
「このふたりは特にすごいよ。変人というより宇宙人」
「あー、そうかもしれない」
「わかるような気がします」
 みんなに見つめられ、へーちゃんと空くんが照れくさそうに何度も頭をかいた。ふたりはなにも言わずに穏やかに笑っていた。



43
R&R Tonight

 お別れのときが近づいてきていた。桜子さんは今日の最終の飛行機で広島に帰る。時刻はすでに午後四時をまわっていた。
「そろそろ出たほうがいい?」
 クミちゃんが携帯電話をポケットから取り出し、時間を確認してから言った。
「いえ。まだ、大丈夫です。六時の高速バスに乗れば間に合うので」
 桜子さんがニコニコ笑いながら答えた。
「そう。よかった。本当は、『もう一泊していけば』って言いたいところだけど。桜子さん、明日から仕事なんだもんね」
 クミちゃんがちょっと寂しそうに言った。
「また、すぐ会えるよ」
 マリーさんがさらっと言った。
 桜子さんは島風のお客さん。笑顔で気持ちよく送り出すこともクミちゃんの大切な仕事。めそめそなんてしていられない。
「ダメなんですよね。すぐに気持ちが顔に出ちゃって」
 クミちゃんが苦笑いしながら言った。
「別にいいんじゃない。島風はカチッとしたホテルじゃないんだから。マニュアルとか商売っぽいのがあまり好きじゃない人が集まる場所なんだから。無理して笑ってもらっても誰も喜ばないよ。それにもう桜子さんはみんなの友達なんだし、仲間なんだから。ねー、マリーさん」
「そうだね。島風だからね。イラブさんの」
「私もそう思います」
「ほらね」
 マーくんが得意げに言った。
「そうだよね。イラブさん、宿のオーナーなのに、いつも自分の気持ち、出しまくりだもんね。お客さんにも敬語とかぜんぜん使わないし」
「それがイラブさん流のもてなし方。一緒に楽しく遊ぼうぜっていう」
「島風はイラブさんの遊び場だからね」
「そう。正直、変な宿。でも、みんな同じである必要なんかないんだから、そういう宿があったってまったく問題はない。ていうか、俺みたいな人間にはすごくありがたい」
「私も。最初は、“なに、ここ!?”って、ちょっと驚いたけど」
「私もです」
「やっぱりね。み~んな、変人だ」
 マリーさんがしみじみそう言うと、みんなが大きな声を出して笑った。
「自由なのが好きな人って、変人なのかもね」
 クミちゃんが「フフ」と楽しそうに笑いながら言った。
「それは言えるかも。自由が好きな人は、だいたい団体行動が苦手だから。みんなと同じことができないと、変人て言われるからね」
「マーくんはその代表」
「たしかにね。俺は筋金入りの変人。子供の頃からずっと言われてきたからね」
「いやじゃなかった?」
「なんで?」
「だって、変人て、普通はあんまりいい意味では使われないでしょ」
「あー、そうかもね。でも、俺はぜんぜん。昔から俺が好きになるのは変人ばかりだったから」
「へー。たとえばどんな?」
「アンパンマンとかニャロメとか。アニメや漫画の主人公はみんな変人じゃん。矢吹丈もオバQだって。普通だとヒーローになれないからね。あとミュージシャンとか」
「マーくん、音楽、大好きだもんね。ボブ・マーリーとか」
「うん。うちの母親がすごい音楽好きだったから、俺も自然にね。幼稚園の頃からビートルズとか聴かせてもらってたから。ディランもよく聴いたな~。旅に出たいと思ったのはディランの影響だからね。『ライク・ア・ローリングストーン』って曲を聴いてね。あと、ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・トゥ・ラン』。両方とも旅の歌ではないんだけど、繰り返し聴いてるうちに、なんか“じっとしてられねーぞ”って思うようになって。ブルース・スプリングスティーンには『インディペンデンス・ディ』って曲もあるんだけど、あれもデカかったな」
「へー。昨日、歌ってくれたのは?」
「あれはRCサクセション。日本の偉大なロックバンド。最初に歌った曲はギターのチャボさんのソロ」
「あー。月の渚で恋をする歌ね」
「そう。いい曲だったでしょ。ホント、音楽は素晴らしいよね。聴いてて楽しいだけじゃなくて、いろんなことを感じさせてくれるし、教えてもくれる。俺の生き方がブレなかったのはたぶん、そういう心の師匠がたくさんいてくれたから」
「ふ~ん。いいね。私も聴いてみようかな。RCサクセション」
「うん。いいよ~、マジで。あー、なんか、また歌いたくなってきちゃったな。最後にいい? 桜子さん? みんなも?」
 マーくんがぐいと身を乗り出して言った。
「いいよ」
「もちろん」
「お願いします」
 みんなが笑顔で大きく頷くと、今度はマーくんが空くんの目を見て黙って頷いた。
「でも、ギターは?」
 クミちゃんがちょっと心配そうに言った。
「大丈夫。今くるから」
 マーくんが余裕を持ってニッコリ微笑むと、空くんがギターを抱えて厨房から出てきた。
「そういうことか」
 クミちゃんが桜子さんと顔を見合わせてニッコリ笑った。
「ありがとう」
 マーくんが空くんからギターを受け取り、ゆっくり丁寧に頭を下げた。そして、
「それじゃ一曲だけ。みんなに、そして、ひかりちゃんに捧げます。まだちょっと明るいけど、『ロックンロール・トゥナイト』」
 急に真顔になり、ジャガジャーンとギターをかき鳴らし、最初から感情をたっぷり込めて歌い出した。マーくんは、一瞬で気持ちを切り替え、いきなり本気になっていた。
「いい声だね」
 マリーさんがニンマリと微笑みながら囁いた。マーくんの歌う声はやっぱり、しゃがれていた。
「すごい」
 クミちゃんがそっとつぶやいた。マーくんは時折、苦悶の表情を浮かべ、なにかと闘っているかのように、激しく身をよじらせながら歌っていた。あまりの迫力に、クミちゃんはまたしても圧倒されていた。
「あーっ」
 ずっと静かにマーくんの歌を聴いていた桜子さんが突然、目を丸くして、声をあげた。マーくんの目から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出していた。
「じょーとー、じょーとー」
 ギターが鳴りやむと、マリーさんが真っ先に拍手をした。マーくんの涙は最後までとまらなかった。
 クミちゃんは胸をえぐられたような気がしていた。



44
穏やかに健やかに

 孤立するのが怖くて、いつもみんなの顔色を窺っていた。言いたいことの半分も言ってこなかった。だから、今ここでマーくんの歌を聴くまで、自分が加害者になることなど想像したこともなかった。だけど、もしかしたら、知らないうちに誰かを傷つけていたのかもしれない。そう思うと、クミちゃんは少し怖くなった。
「どうしたんですか?」
 桜子さんが心配そうに声をかけた。
「歌詞がね、なんか、グサッときちゃって」
 クミちゃんが胸のあたりを手で押さえながら言った。
「やめろよって、ところですか?」
「うん」
「やっぱり。私もビックリしました」
「その場のノリでね、からかうようなことを友達に言っちゃったことがあったような気がして」
「あー」
 桜子さんが目を閉じて静かに頷いた。
「誰でもね、思いあたることがあるよね」
 マリーさんがやさしく微笑みながら言った。
「う~ん。すっきりした~」
 マーくんが顔をパンパン叩きながら洗面所から出てきた。
「あんたはホントに。ダメだよ。あんまりビックリさせちゃ」
 マリーさんが笑いながらマーくんの頭をポンと叩いた。
「ビックリしちゃったか。ごめんね。でも、いい歌だったでしょ。胸にジーンとくる。いや、ガツーンかな」
 マーくんが口角をあげてニッと笑った。
「桜子さんに向けてラブソングでも歌うのかと思ってたから、驚いちゃったよ」
 クミちゃんが苦笑いをしながら言った。
「ホントにごめんね。いやー、話の流れでね、“今、歌わなきゃ”って、思っちゃったもんだから。
 本当はさ、変人であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいんだよね。大事なのは、自分以外にもやさしくなれる人間かどうかってことでさ」
「どういうこと?」
「思いやりってことだろ」
 マリーさんがさらっと言った。
「うん。自己愛じゃなくてね」
「自己愛?」
「そう。今はみんな、自分のことばかり考えてるじゃん。どうすれば貧乏くじを引かずに済むかってことを。いろいろ不安があるからなんだろうけど。
 だから、なかなか他人にやさしくなれない。自分を守るために誰かを犠牲にすることがけっこう普通になっちゃってるし。大人も子供も。それって、すごく悲しいことだよね。そんなことしてたら、自分を守れたとしても、絶対に心は満たされないのに。
 みんな、やさしくなったら、世の中、平和になるのにね。楽しく暮らせるし」
 マーくんが穏やかな笑みを浮かべて言った。
「心にね、余裕がないんだよね」
 マリーさんが目を閉じてしみじみ言った。その横でへーちゃんと空くんが静かに頷いた。
(余裕か。たしかにな)とクミちゃんは思った。東京にいたときは自分もそうだったもんな。自分のことだけで手いっぱいで、周りの人のことを気遣う余裕なんてぜんぜんなかった。困ってる人にやさしい言葉ひとつかけることさえできなかった。
「ひかりちゃんのお父さんも、余裕がないんだろうね」
 マーくんが腕を組んで顎を引き、「うんうん」と頷きながらしんみり言った。
「ひかりちゃんのお父さん?」
「うん。心に余裕があれば、あんなに強引なことはしないでしょ。俺たちの話もぜんぜん聞いてくれなかったし」
「そうだね。ひかりちゃん、言ってたもん。なんでも父親がひとりで勝手に決めちゃうって。進路も就職先も」
「世の中には本当にいろんな人がいるからね。考え方や価値観みたいなものも人それぞれだし。でも、ずっと自由にさせてもらってきた俺には、ちょっと理解できないね。そこまできつく子供を縛りつけようとする親の気持ちは。なんか事情があるんだろうけど」
「うん。あれこれ口を出すのは親なら当たり前だけど、一方的に決めちゃうのはね」
「沖縄にもいるよ。家族だけで固まって生きている人が」
 マリーさんがふたりを諭すようにやさしく言った。
「家族だけで?」
「うん」
「沖縄にも?」
「そう。山の中でね、ひっそりと暮らしている人たちが」
「なんで?」
「人と関わるのが苦手なんだろうね。気を遣いすぎる人はどうしてもね。気疲れするから煩わしく感じるのかもね」
「人間不信?」
「それもあるかもしれないね」
「でも、それじゃ子供がかわいそうだよ。自分はそういう性分なんだからそれでいいのかもしれないけど、押しつけられる子供はたまらないよ」
 マーくんが背筋をピンと伸ばし、テーブルに両手をついて前のめりになって言った。
「そうだね」
「そうだよ。親ならさ、子供の幸せを一番に考えてやらないと」
「たしかにそうだね。でも、できない人もいるんだよ。みんなが正しいことをできるわけじゃないからね」
 マリーさんがマーくんの目を正面からまっすぐ見て言った。
「でも、それじゃ……」
 マーくんがぐっと言葉を飲み込んだ。もうそれ以上、言い返すことはなかった。

「なにか私たちにできることはないのかな」
 クミちゃんはまた、ひかりちゃんのことが心配になっていた。
「気にかけてあげることだね。ひかりちゃんのことを思い出したら、連絡してあげるといいよ。メールでも電話でもなんでもいいから。気にかけてくれる人がいるだけでぜんぜん違うから。気持ちが楽になるからね」
「それだけでいいんですか?」
「うん。楽しいことを思い出すとがんばれるものだから。また、みんなに会いたいな。沖縄行きたいなって。それが励みになるから」
「そうか。マリーさん、私、ひかりちゃんに手紙書きます。待ってるから、いつでも来てねって」
 クミちゃんが目を輝かせて言った。
「いいんじゃない」
 マリーさんがニッコリ微笑んだ。へーちゃんと空くんも満面に笑みをたたえて大きく頷いた。
「俺も書くよ」
 しばらく黙って話を聞いていたマーくんがさらっと言った。
「ホントに。じゃあ、みんなで書こうよ。寄せ書きみたいにして。桜子さんも帰る前に書いていってね。一言でいいから。もうあまり時間ないけど」
 クミちゃんが携帯電話の画面を見て、時刻を確認しながらそう言うと、桜子さんがニッコリ笑って、「はい」と元気よく返事をした。
「それじゃ、決まりだね。マリーさんもなにか書いてくださいね。へーちゃんと空くんも。あっ、そうだ。マーくんはテープも一緒に送ってあげたら」
「テープ?」
「うん。音楽のカセット。それにマーくんの歌を録音して手紙と一緒に送るの。ゆんたく場のラジカセでできるでしょ。ひかりちゃん、マーくんの歌を聴いてすごく感動してたから」
「それはいいね」
「はい。すごくいいと思います」
 マリーさんと桜子さんが目を輝かせて大きく頷いた。
「そう。じゃあ、やることにするよ」
 マーくんがちょっと照れくさそうに言った。
「よかった~。ひかりちゃん、きっと喜ぶよ。マーくんのこと、密かに尊敬し始めてたから」
「ひかりちゃんが俺のことを?」
「そう。ほら、一昨日の夜、みんなで飲んでたときに、マーくんがテントで暮らしてる理由を力説したでしょ。あれでね、マーくんに対する見方が変わったんだって」
「へー」
「信念を持って生きてる人なんだって、わかったんだって」
「ふ~ん」
「私もそうだけど、ひかりちゃんもずっと周りに流されて生きてきたから、ビックリしたみたい。マーくんは全部、自分で考えて決めてるでしょ。周りの人の目とかあまり気にしないで、自分の気持ちに正直に。それがすごいって」
「なるほどね。だから、ひかりちゃん、昨日から急に俺の言うことを聞いてくれるようになったんだ。でも、自分で決めるのは当たり前だと思うけど」
「そうだよね。自分のことなんだからね。でも、失敗したときのことを考えるとね。全部、自分の責任になっちゃうでしょ」
「それも当たり前だと思うけど。自分の行動に責任を持つのは」
「そうなんだけど」
「責任を負うのがいやなんだ」
「いやっていうより……、怖い」
「怖い? なんで? 失敗したって別に殺されるわけじゃないんだからさ。また一からやり直せばいいだけでしょ。悪いことをしたと思ったら、素直にごめんなさいって謝って、行動を改めればいいだけだし」
「うん。そうなんだけど、気の小さい人間はなかなかそういう気持ちには……。不安がたくさんあるから、(本当に大丈夫かな?)って、すぐに心配になって、ついつい予防線を張っちゃうんだよね」
「ふ~ん。大変なんだね。なんか、面倒くさそうだし」
「そうなんだよね。そういう自分のモヤモヤというか、ウジウジしてるところがいやになることもあるし。でも、最近は、けっこう平気になってきたんだけどね。ダメだったら、またがんばればいいやって思えるようになってきて」
「そうなんだ。よかったね。でも、なんで?」
「それはやっぱり、ここが沖縄だから。きれいな海が目の前にあるから。海を見てると、(そんなに心配しなくても大丈夫かも)って気がしてくるんだよね」
「海はすごいもんね。イラブさんが言ってたよ。どんなに疲れてても、海に入ると体が楽になるって」
「へー。なんかわかるような気がするな。私は潜ったりはしないけど。沖縄の海はきれいなだけじゃなくて、すごく穏やかだから、見てるだけでも気持ちが落ち着くから」
「たしかに」
「うん。それに周りにいるのがテーゲーな人ばかりだから、気が楽ってこともある」
「細かいことを気にする人はいないもんね。みんな、アバウトというか大雑把」
「ホントにそう」
 クミちゃんが「フフ」と楽しそうに笑いながら言った。
「クミちゃんには、ここの暮らしが合っていたんだね」
 マリーさんが柔和な笑みを浮かべてしみじみ言った。
「俺もそう思う。クミちゃんもテーゲーなんだよ。だから、合うんだよ」
「私が? そうかな。自分では神経質なほうだと思ってたんだけど」
「クミちゃんは神経質じゃなくて繊細。臆病なのも繊細だから」
「そうだね。物事はいいほうにいいほうに考えたほうがいいからね」
「そのとおり。さすがマリーさん。テーゲーにはさ、適当だけじゃなくて、ほどほどって意味もあるんだよ」
「ほどほど?」
「うん。なんでも、ほどほどが一番。欲張りすぎるとろくなことがないからね。健康でいられるだけですごく幸せなことなんだから。お金も食べるものも着るものだって、そんなにたくさんはいらないじゃん。贅沢しても満足するのはほんの一瞬のことだし。必要な分だけで十分。
 仕事もしすぎると、体だけじゃなくて心も壊すことになっちゃうし。島風にもたまに来るもんね。がんばりすぎちゃって、にっちもさっちもいかなくなっちゃってる人が。死にそうな顔をして休憩をしに。だから、まじめすぎるのも考えもの。適度に手を抜くようにしないと。人間なんて、そんなに強くはないんだからさ」
「たしかにそうだね」
「でしょ」
「うん」
「ほら、やっぱり。クミちゃん、テーゲーだ。ほどほどが一番だと思う人はテーゲーなんだよ」
「そうか。なるほどね」
 クミちゃんが「アハハ」と大きな声を出して笑った。
「テーゲーはいいけど、なんくるないさーはダメだよ」
 マリーさんがみんなに言った。母親が子供に言って聞かせるようにやさしくゆっくりと。
「はい、わかってます。なんにもしないで、なんくるないさーはダメなんですよね」
 クミちゃんがすぐに答えた。
「そういうことね」
 マーくんが「うんうん」と頷きながら言った。
「えっ。どういうことですか?」
 桜子さんが小首をかしげながらクミちゃんに訊いた。
「なんくるないさーの意味は知ってる?」
「はい。なんとかなるさ、ですよね?」
「そう。でも、それはできることを全部やったらの話で、なんにもしなかったら、なんくるならない、になっちゃうんだよね」
「あー、そうか」
 桜子さんが口を大きくあけてニコニコ笑いながら頷いた。
「俺、思うんだけど、なんくるないさーって、イラブさんの“OK、OK。大丈夫、大丈夫”と同じなんじゃない。だから、周りに困ってる人がいて、なにか相談をされたら、最後に『なんくるないさー』って言ってあげるといいんじゃない。イラブさんみたいに」
 マー君が真剣な顔をして言った。
「そうかもしれないね。なんくるないさーは、誰かを励ましたいときに使うといい言葉なのかもね。『がんばれ』って言われるより、『なんくるないさー』って言ってもらったほうが気持ちが楽になりそうだもんね」
 クミちゃんが目を輝かせて言った。
「そうだとすると、ひかりちゃんに書く手紙のシメの言葉は決まってくるね。なんくるないさーに」
「うん。実は、昨日の夜中にもひかりちゃんとふたりでその話をしたんだ。一生懸命やって全力を出しきれば、あとはなんくるないさーでOKだよって」
「そうだったんだ」
「それなら心配はいらないね。ひかりちゃん、手紙を読んだら、きっとニコッと笑うよ。クミちゃんと話したときのことをすぐに思い出して」
マリーさんがきっぱり言った。
「そうだといいんですけど」
 クミちゃんがちょっと自信なさそうに言った。
「大丈夫」
 マリーさんがクミちゃんの目を見て、ゆっくり大きく頷いた。
「そうですね」
 クミちゃんがニッコリ微笑んだ。


「ここに来るといつも思うんだけど、あれ、いいね」
 マーくんが壁に飾られた一枚の絵を指差しながら言った。
「うん。私も大好き。いいよね、すごく楽しそうで。空の青がきれいだし。そうだ、マーくん、知ってる? 真ん中で車を運転している男の子はへーちゃんなんだよ」
 クミちゃんが声を弾ませてすぐに答えた。その絵の作者である空くんの顔をチラッと見て、(そうだよね?)と目でたしかめながら。
「へー。言われてみればたしかに」
「でしょ」
「うん」
「雲が車になってるところもいいよね。ちゃんとハンドルがついてて」
「うん。最高。一緒に乗ってるのが猫と犬っていうのもいいね」
「そうだね。みんな仲間って感じで、すごく仲よさそうで。ニコニコ笑ってて」
「あんな風に、いつも笑って過ごしたいもんだよね」
 二杯目のアイスコーヒーをグビッと飲み干してから、マーくんがしみじみ言った。
「そうだね」
 クミちゃんが壁の絵をじっと見つめながらゆっくり頷いた。
「はい」
 桜子さんも静かに頷いた。
「へーちゃんみたいにね」
 マリーさんが顔をぐいと前に突き出して微笑みかけると、へーちゃんが空くんと顔を見合せて、照れくさそうに何度も頭をかいた。



  へーちゃんの
  へーは、
  へへへーの
  へー。

  へーちゃんは
  いつも笑ってる。


  今日も
  明日も
  明後日も。

  雪が降っても
  嵐が来ても。

  穏やかに
  健やかに。


  いつまでも。

へーちゃん~あたたかな みなみの島で~ 

こんな拙い文章(物語)を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。


沖縄を旅しながらいろんなことを考えました。
いろんな人にも出会いました。

ぜんぜん気張らず、
当たり前のような顔をして
やさしくしてくれるウチナーンチュ(沖縄人)のみなさん。

それはほとんど衝撃でした。
本土の人間とは、やさしさの質が違うというか。
無償のやさしさと言ったら、ちょっと大げさでしょうか?

いずれにしろ、沖縄と出会っていなかったら、
“思いやり”をテーマにした小説など
決して書くことはなかった。

今思えば、恋愛に限らず、
自分が好きになった人は、
みんなやさしい、思いやりのある人ばかりだった。

だから、大学進学とともに上京し、東京で暮らすようになって、かなり戸惑った。
ドライな人間関係になかなか馴染めず、どこに行っても小さな諍いが絶えなかった。

自分はとことん、相手に求めてばかりいる甘ちゃんだったのだと思う。
親に、近所のおばさんに、
はたまた面倒見のいい同級生の女子たちに、
やさしくしてもらった快感が忘れられず、
ずっとその喜びを求めて、あてどなく彷徨い続けていたような気がする。

沖縄はその延長線上にあった。
そして、そこで旅は終わった。
自分が求めていたものがなんであったのかがわかったから。


へーちゃん、クミちゃん、桜子さん、マーくん、空くん、ひかりちゃん、イラブさんにマリーさん。
登場人物は、すべて自分が好きな人。
こんな人がいてくれたらいいな、という願望を込めて書きました。
(それぞれにモデルとなった人がいたりもするのですが)

読んでくださったみなさんにも、
愛していただけたら幸いです。

へーちゃん~あたたかな みなみの島で~ 

沖縄本島の北部にある島風(しまかじ)は、とても穏やかで自由な宿。目の前には名護のきれいな海。宿のオーナーのイラブさんは夜の宴会の時にしか姿を見せず、宿の管理はへーちゃんとクミちゃんにまかせっきり。お客さんのおもてなしはクミちゃんの仕事。口数が極端に少ないへーちゃんは縁の下の力持ち。いつもニコニコ笑いながらクミちゃんをサポートしていた。 そういう宿だから、お客さんも思いきりノビノビ。海を眺めながらハンモックに揺られ、オリオンビールをグビグビ。BGMはゆったりとしたリズムのルーツロックレゲエ。だけど、決して享楽的な空気にならないのは、他人への気配りを忘れない“イラブイズム”が浸透しているから。 そんな穏やかでやさしい場所にある日、突然、嵐が吹き荒れる。深刻な事態を黙って見守るへーちゃん。クミちゃんは必死の抵抗を試みるのだが……。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-19

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