怪力少女・近江兼伝・第2部「茜の空」

第1部『石田の天狗』からの続きです。
木崎茜という少女が青布根中学校に転校して来た。西入江町というところで被災し部分的に記憶喪失になっているという。この子は小学校にもろくに通っていなくてひらがななどは読めるが漢字は読めない。前へならえもわからなくて、体育教師がふざけていると思って怒りに任せて・・・さて、このことがきっかけで校内の番格組織が彼女に目をつけるのだが・・・決して戦いを望まない少女と、その少女に戦いを挑む多くの人々。第2部にして、初めて少女の最強伝説が幕開けする!!

青布根市は外国船も日常的に寄航する、中規模の港町である。
港の近くには飲食街があり、その外れにある「バッド・ダディ」という小さなスナックに花山芳江と木崎茜が入って行った。
まだ、午前中なので店の灯りもついてない。
芳江は34歳だが、ヤクザの姐御格の貫禄たっぷりで、表の車には運転手のジュンという若い者を待たせている。
木崎茜は他人の戸籍から拝借した偽名で本名は近江兼と言う12歳の少女だが、おしゃれけもなく短い髪で、男の子のような服装をしている。
けれども前髪からのぞく形のいい眉や睫毛の長い丸い目などを見ると、女の子かもしれないという印象もある。
カウンターの中でグラスを磨いている、さえない40男は間下部といった。
眼鏡の奥のどんよりとした目は二人を見ようとしていない。さっきから芳江と押し問答をしている。

「そりゃあ、花山さんに頼まれれば断りたくないけど、女の子って聞いていなかったから。
女の子はまずいでしょ。特に私の場合事情があるから。」

「女の子って言ったって、男の子みたいに生きてきたんだから、さしつかえないだろう。
それともなにかい。相手がこの子でも魔がさすっていうのかい。」

「だからあれは濡れ衣だって言ってるじゃあありませんか。でもああいうことがあれば気乗りしないんですよ」

「大人になりな。胸張って引き受けるがいいさ。
なんせうちらが関係してるってことは絶対伏せとけって花山に言われてるんでね。
あんたしかいないんだ、わかるだろう。」

「学校行ってなかったって?」

「そうさ、それがいきなり中学校に行くってんだから、それなりの準備がいるだろう。
学校生活になれるまでの間でいいから、面倒見ておくれよ。あんた、専門家だろう?」

「本当にちょっとの間だけですよ。花山さんの頼みでなけりゃ、断ってたとこだがね。」


「ああ、これで、色々揃えてやってほしい。とりあえず頼むよ。」

芳江は封筒に入った金らしきものを手渡した。

「預かっておきます。」

「気乗りしないのはあたしも同じなんだよ。だから適当でいいからさ。」

芳江は木島茜の前でも平気でそんなことを口にした。茜はなんとなく心細く感じて、二人の顔を見比べた。

「それじゃあ、後はこの人の言うこと聞いてがんばりな。じゃあね」
「あの・・」
「なんだい。村に帰りたいなんて泣くんじゃないだろう。甘えても駄目だから、お前がしっかりするんだ。」
「はい・・」

一人残されて茜は黙って立っていた。間下部は黙ってグラスを磨き続けている。
なんとなく気まずい空気が流れた。自分はこの人に歓迎されてない、そういうことがありありと伝わった。

「字読めるのか?」


茜の方を見ずに間下部は聞いた。

「少しだけ・・さきちゃんに教えてもらったから」
「読んでみろ。どこでもいいから」

なにかの本を渡されて、茜は細かい字を必死に見た。

「は・・に・・ている・・りの・・」
「もういい、わかった!」

間下部は薄くなりかけた頭の髪をかきむしった。

「なんてこった。読めるのはひらがなだけか」
「あの・・カタカナと数字も読めます」
「よし、お前は体が弱くて病気だったことにしよう」
「でも、僕は体は丈夫ですよ。」
「うるさい。それといじめられていて、登校拒否のひきこもりだった。」
「みんな、やさしくしてくれてました。仲良しです。」
「だから、嘘をつくんだよ。学校に行ってなかったってことは秘密だから」
「おじさんの言ってることよくわかりません。」
「おじさんと呼ぶな。とにかく言うことを聞け。お前のためなんだから」
「あの・・」
「なんだ?」
「おじさんが駄目なら、なんて呼べばいいんですか?」
「先生・・・いや・・・その・・・」

間下部は言葉に詰まったが、ふと思いついたらしく言った。

「ダディだ。ダディと呼ぶように」
「はい、ダディ。それで僕はお前ではなく茜って言います」
「じゃあ、さっそくだが茜」
「なんですかダディ」
「僕は駄目だ。急には無理でも少しずつ直すようにしろ。
言い方は学校の女の子が自分のことをなんて呼んでいるか聞いて、その真似をしろ」
「はい」



青布根市の中心部にはデパートがあり、その2階には学生服売り場があった。

「ええ!!こんなの着るんですか。嫌ですよ。スカートなんて。」
「制服と言って、みんなが同じものを着るんだ。茜だけでないから安心しろ。」

間下部は茜を連れて制服を買いに来たのだ。


「じゃあ、仕方ないから、これにします。これなら我慢できます。」
「それは違う中学校のだ。青布根中のはこっちのセーラー服だ。」

近づいてきた店員に頼んで試着させてもらい、スカートの丈を調べる。

「膝頭が隠れる程度かこれなら校則の範囲だな。すみません。同じ物をもう一着包んでください」
「ダディ、どうして2着も買うの?」
「制服はいつも着ているから不潔になりやすいんだ。だから、定期的にクリーニングにして交代で着る。
そういうことだ。特に、おま・・・茜は制服を傷めるような気がする。スカートに慣れてないからな。」

気難しい顔をしている間下部だが、茜のために色々気配りしている感じがした。
靴下とか上靴なども学校指定があったが、外靴は自由だったので茜はなるべく頑丈なものを選んだ。
体育用のジャージやカバンは指定されたものを買った。
書籍コーナーでは小学校の漢字練習帳低学年用を買った。算数の簡単なドリルも買った。

「ノートやペンケース、鉛筆も流行があるかもしれないが無難なものを選んでおく。」

そのほかのものを買い揃えて、二人は休憩コーナーのベンチに来た。

「ちょっと、ここに座ってマンウオッチングだ。」
「え?なに?なに?」
「自分と同じくらいの女の子の服装を見るんだ。
この辺の子がどんな格好をしているか、ファッションをよく観察して、女の子に見えるような服を選んで買って行くんだ。」
「わかった。でも、今まで着たことないから、あの子みたいにジーパンとパーカーでいいかな。」
「そうだな。最初ジーパンは刺繍の入ったものにした方がいい。とにかく女の子であることを印象づけないとな」

下着コーナーでは女店員さんにお願いして相談にのってもらうようにした。
さすがに間下部はそのときは離れて立っていた。

「昼ご飯を食べたら、学校に行く。最初の顔出しだ。」

デパートのレストランで二人はラーメンを食べて打ち合わせをした。

「前にいた小学校の名前は?」
「えーと、西入江町の西入江小学校」
「町も学校も自然災害で全滅したところだ。だから住民台帳もない。」
「学校のこといろいろ聞かれたらどうしよう」
「とにかく答えにくいことは黙って考える振りをしていろ。変なこと喋ってぼろが出てはいけないから。」
「はい、ダディ」




転校生の面接は校長室で行われた。ちょうど放課後になっていたので担任教師と学年主任、校長、教頭の4人が迎えてくれた。

「私はこの子の後見人に依頼されて付き添ってきた者です。
明日から来させたいと思いますので宜しくお願い致します。」


愛想のいい鈴木という銀髪の教頭が質問してきた。

「あの西入り江町から来られたとか」
「そうなんです。そのとき頭を打ったらしく、しばらく入院してたんですが、記憶障害があるみたいで、昔のことを思い出そうとすると頭痛したりするそうです。」
「せっかく助かった命ですから。時間をかけて心の傷を癒していくしかないでしょう。
うちの学校にもカウンセラーがいますから、ときどき利用するとよいでしょう。」
「はあ、よろしくお願いします。」

担任は若い男性教師だった。

「二階堂といいます。木崎さんは前の学校での成績は?」
「それが、体が弱くいじめにもあってたらしく、学校を休んでばかりいたので、想像以上に基礎学力ができていないみたいです。」
「そうですか、見たところ顔色もよく、利口そうな顔つきをしていますが・・」
「見かけによらずそうなんです。」
「いじめの原因はなんだったのですか」

そこで校長が口をはさんだ。

「二階堂先生、過去の傷に触れることは今はいいんじゃないかな?思い出すのも辛いだろうから」

面接はそれで終わった。明日は事務室の方に直接来るようにとのことだった。

「あの担任は神経質そうだな。なにか色々聞かれたら殻に閉じこもった感じで黙秘しろ」

通学路を徒歩で確認しながら、橘荘というアパートに着いた。

「明日行き帰りに歩いてる女の子をよく見て、同じ方向の子と通うようにするといい。
それと201号室がダディの部屋だ。茜は205号室。これが鍵だから。
表札は木島になっている。けれども友達や先生を呼んでは駄目だ。
大人と一緒にすんでないことがばれてしまうから。食べるものは自分で買って調理すること。
とりあえずの食材は買ってある。ガスも水道も電気もあるし、テレビも冷蔵庫も洗濯機もある。
きょうは疲れているだろうから、夕食はなにか作って持っていってやる。明日の朝から自分でする。いいか?」

「はい、ダディ」

ダディがスパゲッティとスープを持って行くと、茜はマカロニサラダを皿に持ってダディに手渡した。

「僕も何かと思って作ったけど、パスタがダブっちゃったね。ダディ」
「皿はお互い洗って返すことにしよう。それじゃあお休み。明日の朝、一人で行けるか?」
「だ・・大丈夫です。」
「いや、やっぱりついて行こう。明日の朝だけだ。それじゃあ、店に行くのできょうはこれで。早く寝ろよ。」


翌朝ダディは205号室をノックした。欠伸をしながら待っていると、バンダナとエプロンをつけた茜が出てきた。炊きたてのご飯の匂いがする。その他にも色々なものを作ったようだ。

「ずいぶん豪勢な朝食だな。夕食の分も一緒に作ったのか」
「お昼の弁当もあるから、そのおかずも作ったんです」
「あのな、学校には給食があるから、いらないんだよ」
「えっ、そうなの。村ではみんな弁当持っていってたから・・」
「しまった、教えとくんだったな。当然のことだと思って」
「あの、これ食べてくれませんか?よかったら一緒に」
「いや、俺は朝はコーヒーだけなんだよ」
「そんなの、体によくないです。今朝帰って来たの2時ごろでしょ?」
「起きてたのか?」
「ちょうどそのとき目がさめたから」
「そうだな、それだけ全部は無理だろうから、手伝うか」
「あがってください。」
「いや、一応女の子の部屋になるから、遠慮しとくよ」
「なに言ってるんです。ダディは僕の保護者じゃないですか。あがってくださいよ。」

茜はダディの手を掴んでぐいぐい中に引きずり込んだ。
まるで母親が幼児を引っ張って行くみたいに、軽々と引き込んだのだ。

「すごい力だな。本当の力を出したら駄目だと言われてるだろう」
「あ、これ全然本気じゃありません。」



茜は1年3組の教室の席に座っていた。女子の列と男子の列があって、両側が男子の列だった。
事務室でダディと別れて担任に教室まで連れて来られたのがついさっき。
簡単な挨拶をして拍手を受け、今ここに座っている。
周りではこちらの方をちらちら見ているようだが、茜はそれよりも初めて着たセーラー服が居心地が悪くて困っている。
スカートがスースーして気持ちが悪いのだ。
男の子はズボンをはいているからいいなと思った。なにか自分が自分でないみたいな妙な気分だった。
でも、昔の記憶では、サーカスのちびっ子スターだったときはかわいいフリフリのドレスを着ていたこともあったのに。



1時間目は国語の授業だった。教科書のページはめくることができたが、読むことはできなかった。
みんな当てられて読んでいる。

「次、木崎さん、読んで」

昨日校長室にいた学年主任の年配の女の先生が茜を指名した。
茜は教科書を持って立った。どこを読んでいいか分からない。
そこで茜は先生に言った。

「ごめんなさい。ひらがなしか読めないんですが、それでもいいですか?」

先生は騒ぎ始めた生徒たちに手を上げて静かにさせると、茜に近づき、漢字にふりがなをふってくれた。
それで茜はゆっくりとなんとか読むことができた。
授業が終わると3人の女の子が寄ってきた。

「病気で学校をずっと休んでたって本当?」
「教科書にふりがなふってあげようか」
「堂々とああいうこと言うって格好よかったよ」

さっそく友達ができたみたいだった。



元木京子、三松花実、押屋怜子の3人はすぐ茜の友達になった。
元木京子は眼鏡をかけたちょっと勉強の得意そうなしっかりタイプ。
三松花実はダイエットしてスマートになった子豚ちゃんといった感じで一番賑やかそう。
押屋怜子は少し小悪魔的要素のある猫っぽい女の子。
けれども3人とも茜が気に入ったらしく、教科書にふりがなをうってくれたり、学校のことを色々教えてくれたりした。休み時間には校舎の中を案内して、丁寧に説明してくれた。




「おい、聞こえないのか」
「はい?」
体育の時間言われた通りに並んでいると、池内という男の体育教師が茜のそばまで来た。
「前へならえってさっきから言ってるだろう。」
「前へ・・・ならえ・・・?」
「おい、ふざけているのか。ちょっと来い」

突然茜は肩をつかまれて列から引きずり出された。
そのとき、他のみんなが両手を前に真っ直ぐ出しているのが見えた。茜の顔はぱっと明るく輝いた。

「あ、これが前へならえ・・ですね。わかりました。」

茜は両手を真っ直ぐ前に出してやってみせると、池内先生の顔が真っ赤になっていた。

「いい加減にしろ!!」

突然平手が頬に向かって飛んできたので、茜は反射的に片手でブロックした。

「ブシッ!」

嫌な音がして池内先生が苦痛の表情を浮かべた。
茜の手が先生の手首のところにカウンター気味に当たったので、関節が外れたらしい。

「ごめんなさい、先生。大丈夫ですか」

手首を押さえてしゃがみ込んだ池内先生のところに茜も座って、謝った。
力は出してなかったのに、手首が外れたらしい。急がないと、茜はそう思った。

「きさまー、なにかやってるな」
「先生、ちょっと静かに引っ張りますから、動かないで」
「なにをする」

いためた手を取ってそっと引っ張ると、コキッとかすかな音がした。

「あ、もう大丈夫はまりました。あと、ここに湿布をはっておかないと、腫れてきます一緒に。保健室に行きましょう。」
「お前は一体何者なんだ?」

怒る元気もうせて、池内先生は茜のうながすまま体育館のすぐ近くにある保健室に行った。
友達の3人もついてきた。
歩きながら茜は、決してふざけてなかったし先生を馬鹿にしてなかったと何度も繰り返した。

「本当にわからなかったんです。だから先生も怒らないでください。」

他の3人も口ぞえしてくれた。

「先生、茜は小学校殆ど行ってなかったから、ひらがなしか書けないんだよ。だから嘘言ってないと思う」

保健室の若い先生が池内先生の手首に湿布を巻きながら、笑っていた。

「先生、この子たちが先生を馬鹿にしてるとは思えないわ。
それに先生の愛の鞭にもふてくされないで必死に誤解を解こうとしてるなんて、大人だと思うな」
「そうだな、俺の方が大人げなかった。誤解だったみたいだ。
木崎ごめんな。それに手当てしてくれてありがとう。
ところで、お前何か武術をやっているのか、手当ての仕方も武術家のやりかたに似ているし」

茜は首を振った。

「違います。なにもしてません。
前のとこの知ってる人がそら腕でよく手首を外したから直し方を知ってただけです。
私ふつうの女の子です。」
「そうか、普通の女の子か、信じよう。だけど、二度とお前に手を出さないからな。
これ以上壊されたら大変だし」
「だから、違いますよ、先生ったら」
「ははは・・・わかった、わかった」

保健室を出て体育館に戻ったときは先生も他の4人も明るい笑顔だった。
それを見て待っていた生徒たちはきょとんとしたのは言うまでもない。その時間は楽しく跳び箱をして終わった。



元木京子が眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせて茜に囁いた。

「気をつけて、あんたを見に来てるよ」

こっそり教室の外を見ると3人くらいの上級生らしい女生徒が茜の方を観察している。

「茜が可愛いから見に来たのかな」

と三松花実。

「そりゃ、茜は可愛いけど、わざわざ見に来るほどでは・・・」
「なにそれ!怜子」
「あはは、ごめんごめん」
「しー、静かに」

元木京子だけははしゃいでいなかった。

「私聞いたことあるの。あのひとたち番格よ、きっと」
「えっ、なに番格って」
他の3人は声を潜めた。
「学校の中で喧嘩の強いことで有名な人たちよ」
「どうして、その番格が3人も」と花実。
「あ、もしかして今日のことじゃない、ほら、体育の・・」
と怜子。

「そうね、きっとそうだ。もう学校中に伝わったんだ。茜、危ないよ」
「なに?なにがおきるの?」
「教師に怪我をさせた子を見に来たのよ。あの人たちだってそこまではやらないもの。
だから、自分たちより目立つことしたからやきを入れるとか・・・」
「だって、あれは偶然の事故じゃない・・先生だってわかってくれたし」
「それが、あの人たちにわかればいいけど、あ、またこっち見たわ。目を合わせたら駄目だよ。
きょう、みんなで一緒に帰ろう。」
「京子、そんなこと言ったってこわいよ。」

花実は震えていた。

「私だって怖いよ。だけど、茜が可哀そうじゃん。捕まったら、一緒にあやまろう。
いくらなんでも無抵抗な人間にヤキ入れないと思う。」

と京子。

「私顔だけ叩かれたくないな。痣になりやすいから」
「怜子、あんたの友情は?」

と京子。

「友情はある。だから付き合う。でも途中で怖くなって逃げても許してね」
「門までで良いよ。そこまでだってすごい勇気のいることだから」

茜は、その先は自分の足で逃げ切れると思った。

帰りになって、玄関を4人そろって出ると、例の女生徒たちが待ち構えていた。
4人とも顔を伏せて急ぎ足で門を目指して歩いた。後ろから3人が距離を置いたまま追ってくるのがわかる。
ようやく門につくと茜は言った。

「ありがとう。また明日!」

茜はそういうなり走り出した。
慌てて追いかけてくる上級生たちをどんどん引き離して、安全圏まで逃げた。

そこで一息入れて歩いていると、すぐ脇を車が止まった。
昨日バッドダディまで運転して乗せてくれたジュンという若者だった。

「心配して様子を見に来たが、案の定 何かやらかしたみたいだな」

きょうは花山芳江は乗っていなかった。
ジュンは茜を公園まで乗せると、人気のない一角に連れ出したのだ。

「そうか、もう目をつけらたのか。」
「もう・・って、予想してたんですか」
「来い」

ジュンはすぐ近くに立つように手招きした。

「もう少し近くに来い」
「なにするんですか?」
「普通の力で俺を押してみろ。」
「普通の力って?」
「お前くらいの体の、普通の人間の力ってどのくらいだと思う。その力でぶつかって来い。」
「このくらいかな」

茜は軽く、できるだけ軽くしてジュンを押した。ジュンの体は2・3m後ろに下がった。
ジュンは首を横に振った。


「なんにもわかってないな。俺は19歳の男でも力のあるほうだ。
お前は12歳の女の子だ。12歳の普通の女の子がそんなに力があるのか?」
「じゃあ、もっと弱く。」

茜はもう一度そっと押した。

「まだ強い」

茜は何度も押した。そのうちにジュンの体がびくともしないくらい弱くなった。

「これじゃあ、動きません。」
「これでいいんだ。12歳の普通の女の子は俺をいくら押しても動かすことなんてできない。」
「そんなに弱いものなんですか?」
「今度は腕相撲だ」

ジュンと茜は腕相撲をした。茜は負けた。

「まだ強いな」
「えっ、でも負けましたよ」
「今のじゃあ俺と同じ年の普通の男の力だ」
「じゃあ、もう一度」

茜は何度も負けた。しまいには殆ど力を入れないでぱたんと倒された。

「いくらなんでも今のじゃあ力入れてないし」
「いや、このくらいだ。」
「ええっ?そうなんですかあ」
「わかったろう。お前は力を隠している積もりでも、普通以上だった」
「知りませんでした・・。」
「今の力の加減を覚えておけ。それ以上の力だと番格に目をつけられても仕方ない。」
「はい。どうもありがとうございました」
「だが、もう目をつけられてしまった。どうする?」
「・・・」
「逃げ足も速かったな。普通の女の子の走りではなかったな。」

そういうと、ジュンは茜を置いて車の方に向かった。

「ちょ・・ちょっと待ってください、ジュンさん」
「なんだ?」
「どうしたらいいんですか?普通の女の子の力でいたまま、喧嘩をしかけられたら絶対ひどい目にあいます。
それは我慢してやっつけられるしかないんですか?」
「いや、方法はある」
「教えてください、ジュンさん」
「師匠と呼べ」
「えっ?」
「俺のことを師匠と呼べば教えてやってもいい」

茜は深くお辞儀をした。

「師匠、お願いです。」


ジュンは片手で茜の胸倉をつかんだ。そして茜の手を自分の手に導き、掴んでいる手の中指を握らせた。

「弱い力で下に下げろ。少しでも強くすると、俺の指が折れてしまう。いててて」

ジュンは膝を折って腰砕けになった。

「一本取りという技だ。力の弱い者が強い者に使える。
できれば向こうが握ってくる瞬間に指を掴まえるのがタイミングだ。
これでやっつけてもお前の怪力はばれることはない。だが、相手の指を折らないようにそっとやることだ」
「これで明日から安心ですね」
「なわけないだろう」

ジュンは野球ボールを取り出した。それをひょいと茜の顔面にむかって放った。
茜は反射的に手でボールを掴んだ。

「よこせ。今度はもう少し速く投げる」

ジュンは少し離れて普通のキャッチボールくらいの速さで投げてきた。
バシッ!
野球の硬球はしっかりと手の中におさまった。

「次の速さは俺の全力投球だ。もちろん普通の人間なら男でも受けられない。お前も全力で受けてみろ」

茜の顔めがけてボールはものすごいスピードでぶつかってきた。
でも茜にはボールがよく見えた。手のひらにぶつかった瞬間、反発して手からこぼれないように心持ち手を引いた。するとボールが手のひらに吸い付いてきた。

「思った通りだ。動体視力がある。体育教師の怒りに任せたビンタはかなりの速度のはずだからな。」
そう言って、いきなりジュンは茜の顔にパンチを出した。
バッチ!!
茜はジュンのパンチを手で受けていた。

「これも使える。 お前ならではの防御だ。俺だってできない。
だが、一瞬なので、誤魔化せる。受けた瞬間手を離せば怪力に気づかれない。これでパンチは防げる。
きょうはこれまでだ。だが、できれば技を使わずに、逃げることだ。逃げ切れないことがわかったら使えばいい。明日もここで会おう」

ジュンは茜を公園に残してさっさと車で行ってしまった。
とんでもないことになった。でも、今のアドバイスのお陰で少しは安心した。
喧嘩なんかしたくない。だから逃げようと思う。逃げ切れないとき技を使って防いでそして逃げる。それしかない。


橘荘にダディがいなかったので、店に行ってみた。ちょうど夜の開店にむけて準備しているところだった。
茜はその日のことを報告した。
だが、主に内容は勉強のことで池内先生のことや番格やジュンのことは言わなかった。
ダディは簡単な漢字のテストをした。それから算数の計算テストをして、できなかったところを覚えておくように言った。
最後にアルファベットの書き方をちょっと教えてくれた。
後は夕食を一緒に作った。まだ客の来ない店のカウンターで簡単な食事をした。

「さあ、もう帰るといい。暗くなってきたから気をつけてな。」

茜は間下部が昨日より優しい顔になっているのに気がつく。

翌朝、朝のホームルームの後、担任の二階堂先生が茜を教卓に呼んだ。

「昨日、池内先生から聞いたが、誤解があったようだな。木崎さんの方は怪我がなかったか?
君のことを詳しく池内先生に伝えてなかったのは先生が悪かった。すまなかった。」
「いえ、とんでもないです。なんとも思ってませんから」
「そうか、それとは別に池内先生が暴力を振るおうとしたことは問題になるかもしれない。」
「どうしてですか?誤解も解けたし、誰も困ってないのに」
「うん、大人の世界ってそんなに単純なものではないんだよ、木崎さん。」

その言葉に茜はなにかひんやりしたものを心に感じた。



「来たよ、昨日の人たちが。茜を呼んでるよ」

5分休みになって教室の入り口に3人の上級生がいて、ちょうど出て行こうとした男子生徒に茜を呼び出すように命令していた。
そんなの自分で呼べばいいだろう、とでも言ったのだろう。

「なんだとう!こらあっ」

バスンと音がして男の子がわき腹を押さえてうずくまった。蹴られたらしい。
茜はこれ以上知らん振りはできないと思って、入り口に行った。

「ごめんね、私のせいで。大丈夫?」

とばっちりを受けた男子に申し訳なく思い、助け起こそうとした。
その手を振り払うようにして立ち上がった男の子は廊下の方に歩いて行きながらつぶやいた。

「こんなのなんでもねえよ。」
「ごめんなさい」

男の子の後ろ姿に向かって頭を下げた茜に3人は呆れていた。

「おいっ、こっちは無視かよ」
「私に・・・何か用ですか?」


茜は目を合わせないようにして小さい声で言う。なるべく刺激しないようにと。

「中休み体育倉庫裏に来い。今度は逃げんなよ」

それだけ言うと3人は周りに集まった生徒たちを威嚇しながら出て行った。
それを見送りながら茜はぽつんと言った。

「せっかく女のままでいられるのに男言葉って・・・」


花実が泣きそうになって言った。

「ど・・どうする。先生に言おうか」
「いや、ただ用事があって呼んだんだと言えば、それで誤魔化されるもの。」

茜は、やっぱり逃げられないと思った。



 
2時間目の国語の時間の終わりに年配の女教師難波先生がプリントを配った。

「金子みすゞの詩がいくつかあります。好きなのを選んで暗誦してきてください」

茜の顔がぱっと輝いた。何故なら全部ひらがなで書いてあったから。
でも中休みが始まって、呼び出されていたことを思い出し顔が曇った。

「行くの?」

京子が言った。

「ここにいようよ」

怜子も言った。

「心配しないで。大丈夫だから、ここで待ってて」


体育倉庫裏に行くと、例の3人が腕を組んで待っていた。
授業時間をさぼって来ていたのかもしれない。茜は大きく深呼吸してから近づいて行った。
背の高いのっぽと、丸顔と、色の黒い3人だ。

「こんにちは。さきほどはどうも」
「ほう、逃げなかったか」と色黒。
「はい」
「聞きたいことがある」と丸顔。
「はい」
「昨日の体育の時間だがなにをやったんだ」
「・・・・」
「先公の池内に怪我をさせたって本当か?」
「事故だったんです。」
「お前が何かしたんでないのか」
「したとも、しなかったとも、どちらともいえません」
「なんだとう、どういうことだ」色黒がいきり立った。

のっぽがいきなり茜の胸倉を掴んだ。


「やっぱりしめよう」

そのとき茜のセーラー服の襟がびりっと破けた。

「離してください」

のっぽの指をつかんでそっと引き離した。

「てめー!」「やろう!」


のっぽがパンチを出したのを手で受けたのと、色黒が肩を掴んで膝蹴りをしてきたのを肘でブロックしたのが殆ど同時だった。
すぐその後で丸顔がまわし蹴りをしてきたのでその下をくぐって、相手の軸足を抱えて後ろ向きに倒した。
焦っていたのでパンチを受けたとき、カウンター気味に手首を捻挫させたかもしれない。
のっぽが手首を押さえている。色黒は膝を痛めたらしい。丸顔は転倒したとき背中を強く打ったみたいだ。
飛びのいて少し離れて茜が言った。

「乱暴はやめてください」
「ど・・どっちがだ」色黒が顔をしかめて睨んだ。
「お前ただものじゃあないな」丸顔が言った。
「うちら青布根中のナンバー8、9、10だよ。それを軽くあしらうとは」
「軽くなんかありません。夢中で逃げただけです。どうか見逃してください」
「見たことない技を使ったな。どこで覚えた」丸顔はさらに聞いた。
「自然にです。自然に体が動いたんです。保健室に行って湿布しないと」
「うちらの心配はいい。もう行け。お前の勝ちだ」

そういいながら、丸顔はなかなか体をおこさない。
強く背中を打ってしまったらしい。


「ほっとけ。構うんじゃねえ」

丸顔は拒否したが、茜は彼女を抱き起こした。
担いで運びたかったが怪力がばれるので、肩を貸して歩くだけにした。
色黒はのっぽにささえられて足をひきずりながら後から来た。


「どうしたの、いったい?」

保健の土田早苗先生は、茜の顔をちらっと見てから聞いた。

「転んで背中を強く打ったみたいです。こっちの先輩は膝の打撲で、こっちの先輩は手首の捻挫です。」

そう言えと丸顔に言われたので、その通りに言ったのだ。

「木崎さん、あなたが関係してるの?」
「いや、この子は通りがかっただけで、無関係なんだよ。」


丸顔が苦しそうにベッドに横たわってから言った。

「肩を貸してくれてありがとうよ。じゃあ、またな」

茜が保健室から出て行くとき、3人でふざけてじゃれているうちに・・・とか説明している色黒の声が聞こえた。


茜は足を止めた。教室の前で友達の3人が待ち構えている。

「茜、たった今別の女の人が来て昼休み体育倉庫裏に来いって・・・」

そう言ったのは京子だった。

          

給食時間、仲良し4人組は机をつけて食べていた。
わかめご飯を食べながら京子は茜に質問攻めしていた。

「ねえ、中休みに何があったの?あの3人が怪我をして保健室に行ったって、見た人が言ってた。
それに茜が一緒に付き添ってたって」
「だから、私が行ったときはああなってたの。喧嘩の練習をして、ちょっとやり過ぎたって感じだった。私に話があったってのは池内先生の事故のことでちゃんと説明したし。」
「じゃあ、別の上級生が昼に呼び出したのは?」
「それが私にもわからないの。行ってみなくちゃわからないよ。」
「茜、あんた怖くないの。上級生だよ。」
「だって、何も悪いことしてないもの。きっと、なにか聞きたいことがあるんだと思う。」

そういう調子で答えながら、心の中では茜はやはり不安だった。
中休みの事については師匠の教え通り普通の力で処理したかった。
逃げるとか一本取りとかそんな余裕はなかった。
殆ど同時に3人が襲ってきたから最初の一人だけ予習通りにできたけど、後の二人はとっさのことで夢中だった。
膝蹴りに肘打ちで対抗して膝の方が傷めたのだから力が入り過ぎたのかも。
それより3人目のはまずかった、自分より大きい相手を抱えて放り投げたのだから。
見かけ以上の力があるってことがばればれだ。ああ、まずかった。
それに、次の師匠のアドバイスを受ける前に、2度目の呼び出しだ。
どう対応したら良いだろう。
あの3人がナンバー8から10までなら、今度はそれ以上の強い相手になるのかもしれない。
強ければ強いほどこっちも必死になるから余裕がなくなって全力を出してしまいそうだ。
そうだ、近づいちゃいけない。離れた所で話をつければいい。一歩近づいてきたら2歩逃げる・・・・。
「茜、茜ったら」
「何?どうしたの?」
「どうしたじゃないよ。あんたさっきから、わかめご飯が口から5cmのとこで止まってるよ。
あんたの時間はいつ流れるのさ。」

昼休みになるとすぐ2人の上級生が迎えに来た。
体は大きかったけれど、服装も髪型も普通の感じだった。
だから1年生の茜と並んで歩いても、怖い上級生が下級生を呼び出して逃げないように連れて行くようには見えない。茜は、かえってこのことに何か不安なものを感じた。

「あ、外に出ないんですか?」
「場所が変更になったの。だから案内してるのよ」

3人は階段を上がって3年生の教室のある3階まであがった。
そして教室から離れた隅の方に行くと目立たないところに階段があった。
そこを上がると立ち入り禁止の表示のある、屋上へのドアがあった。
ドアから屋上へ出ると、カチッと背後で鍵のかかる音がした。しまった、と茜は思った。
これでは逃げられない。
屋上には柵はない。
ほんの数十cm縁が高くなっているだけで、簡単に跨げる程度だから、誤って落下する危険が高い。
待っていたのは案内した者を含めて7人だった。
最初の二人もそうだが、殆どが標準以上の体格をしていて、パワーがありそうだった。

「なんだ小さくて可愛いいなあ」
「持ち帰ってペットにしたいくらいだね」
「本当にこの子が3人もやっつけちゃったの?」

茜の周りにみんな囲むように集まったので、もう完全に逃げられないという気がした。
茜は周りを恐る恐る見回した。

「あの、これから私どうなっちゃうんですか?」
「どうって?」
「お姉さんたちにぼこぼこにされるとか」
「してもらいたい?」
「嫌ですよ、もちろん。勘弁してください」
「聞いた通りだ。礼儀正しいし下手に出てる。そうやって油断させるとか」

茜は首を横に振った。
誰かが腕を触った。茜はびくっと体を震わせる。

「筋肉ないじゃない。本当に本人か?」

茜の正面に相撲取りのような体格の子が立った。

「うち柔道初段だけど、あんた柔道やったことある?」
「いえ、やったことありません。」
「そうか、ここにいるみんなが全員が全員ともあんたと勝負したいって言ってるんだ。」
「そんなの無理です。みなさんは学校で一番喧嘩の強い人たちでしょう」
「だって、あんただって喧嘩がすごく強いって話じゃないか」
「私、西入江町の生き残りなんです。
みんな家族も友達も先生も親戚も死んでしまって、こっちに引き取られてきたんです。
もう友達を失いたくないし、みんなと仲良くしたいんです。だから、喧嘩なんてしたくないんです。」

茜は仕方なく嘘をついて、同情を買おうという作戦にした。

「どっちが強いか腕比べするだけだよ。喧嘩を通してうちら仲良くなったんだから」
「だって、殴り合ったら痛いし、怪我したり痣ができたりするじゃないですか。
私を引き取って面倒みてくれてる人が悲しむので、できません。」
「うちなら柔道だから殴らないよ。」
「でも、服を掴んだりするでしょう。中休みにそれで服を破かれました」
「大丈夫。うちなら一切あんたを傷つけないし、服も綺麗なままだ。だから勝負しよう。」
「でもでも」
「ねえ、みんな。この子可哀そうじゃないか。西入江町で悲しい目にあって、ここでも痛い目にあわせるのかい?うちなら、そうしないよ。だから、うちが代表して相手してやって、それで帰してやろうよ」
「だって、田丸さん、あんたはナンバー2じゃないか。
順序からいえばナンバー7のうちとやって序列決めるのがルールだろう」
「水野、お前ボクシングだろう。この可愛い子の顔をぼこぼこにするのかい。それに、その外のみんなもこの子の体や服をぼろぼろにするような戦い方だろう。別に序列に入れなくていいから、無傷で帰してやろうよ。」
「代表して相手するなら総番の武井さんにしてもらうのが筋だろう。」と別の者。
「それこそナンバー1の武井さんの1トン・キックをまともに食らえば、こんな華奢な子入院しなきゃならなくなる」
「それじゃあ、あんたはどうやって倒すんだ?」と別の者。
「優しく抱きしめてあげて落とすんだよ。少しも痛くないし苦しくない。」
「武井さん、いいんですか?」と水野。
「まあ、一回やらせてみようや.それから考えてもいいだろう。」
堂々とした体格のボス格の者が笑って言って、それで決まったようだ。

みんなが下がって、田丸と茜だけが向かい合って立っていた。
茜の目の前には縦にも横にも広がる壁が聳え立っている。

「あの、落とすってなんですか?」
「怖がらなくていいんだよ。こうやってハグしてあげるだけだから」

田丸は茜を抱きしめた。茜の体は大きな田丸の腕の中にすっぽりと隠れる。
とりあえず茜は抵抗せずに様子をみることにした。

「柔らかくて骨がないみたいだね。木崎ちゃん、うちがあんたを落としたら、妹分にするよ。
いや、いっそ恋人にしちゃおうかな。」
「えっ、こ・・恋人!?」

ここで軽くもがかないと承諾したことになるので抵抗する真似をした。
すると、田丸は茜を赤ん坊を扱うように屋上の床に抱きしめたまま寝かした。
押さえ込みのような形になる。

「大丈夫つぶさないから、これで木崎ちゃんはうちのものになったと同じ。

大丈夫すぐ終わるから、なにも怖くないよ」
「いったい何がおきるんですか?変なことしないですよね」
「大丈夫だから、襟をちょっと掴むけど、絶対服を傷めないようにそっとやるから」
「・・・・・」
田丸は襟を持って両手に力を入れた。頚動脈を圧迫して気絶させる積もりだ。
茜は首筋の筋肉を固くさせて襟が頚動脈に食い込まないようにした。そして、そっと手を動かし田丸の襟を同じように掴んだ。田丸は気づいていない。

「苦しくないんだよ、木崎ちゃん。とってもいい気持ちなんだから。
そう、お花畑にいるような・・ああ、うちも、良い気持ちになってきた・・・」

二人とも動かなくなったので、周りがざわめいた。

「田丸さん、落としたら、いつまでも抱きしめてないで」
「そうだよ、上に乗ってたらその子窒息するだろうが」
「しょうがないな。離れたくないいんだな、この子が好きで。おい、みんなでひきはがせ」

何人かで田丸の体を引き剥がした。下では気絶している茜が目を閉じて横たわっている。

「落ちた顔も可愛いね、この子。田丸さんの気持ちもわかるわ」
「田丸さん、ふざけないで目を開けて!あれ、なんか変だよ」

みんなが田丸の方に集まって自分から目を離したすきに、茜はそうっと目を開けて立ち上がった。
忍び足でそこから離れて屋上の縁まで来て、下を見た。
茜はとっさに3つの脱出方法を考えた。

1つは直接飛び降りる方法。まだこの高さから飛び降りたことがないし、これをして無傷だったら普通の人間でないことがわかってしまう。

2つ目は、2階のテラスに飛び降りてから、そこから下にもう一度飛び降りる。
この場合、2階のテラスの縁にバウンドして落ちるようにみせなければならないし、硬いコンクリートの縁にバウンドしたら無傷でいるのはおかしい。

3つ目は、校舎の裏に生えてる大きな木の上に落ちる。枝のクッションで落ちる勢いが弱まり着地の衝撃が少ないという具合に、無傷でも怪しまれない。

だが、木のあるところはもう少し離れたところにある。
そこに向かって動き出したとき、気づかれた。

「あっ、あんなところに!」「こら、どこに行く!?」
「もう、きょうはこれで帰してくれるんですよね」
「帰せるか!お前田丸さんを落としたろ!」
「違います。落とされたのは私の方です。」

茜は屋上の縁の上を走りながら叫んだ。

「じゃあ、なぜ田丸の方がまだ伸びているんだ」
「知りません。私も今、目をさましたところですから」

だんだん、近づいてきてもう少しで捕まりそうになってきた。

「だから、なぜ田丸は気を失ったんだ?」
「突然貧血になったとか・・・」
「あいつが一番血が余ってるんだよ!!」

その瞬間だ。茜は縁を蹴ってなるべく遠くに飛んだ。
なぜなら木は校舎から数m離れていたから、ただ飛び降りただけなら、木の手前の地面に落ちてしまうからだ。
山にいたときは高い木に登って、降りるときに枝から枝へ飛び降りることもやったことがある。
けれども斜め上から枝に向かって飛び降りたことがない。


足場がしっかりした太い枝に着地すれば次の動作も楽だが、飛んでみてそれは無理なことがわかった。
それで、空中で梢を掴んだ。落ちながらできるだけたくさんの枝を掴みへし折ったと思う。
枝はしのって4・5本折れる。着地したのは芝生の上だったが、すぐにうつぶせに倒れた。

「落ちたぞ!!」「屋上から落ちた!!」

口々に叫ぶ声が聞こえる。


「まったくお前は何をやってたんだ?」

ジュンを怒っているのは花山芳江だ。

「トラブルがおきないように茜のお守りを言いつけたのに、きょう一日で大トラブルじゃあないか」
「すみません。姐さん」
「まだ、杯を交わしてないよ」
「あ、すみません。おかみさん」
「で、医者はなんて言ってたんだい」
「屋上から木の上に落ちたと言ったら、枝がクッションになってダメージがなかったんだろうって、言ってました。ただ・・」
「ただ・・・なんだい?」
「MRIで全身を調べたら、どこも傷ついてなかったのはよかったんですが」
「なんだよ、なにか問題でもあるのかい」
「筋肉の繊維の一本一本が異常なほど細いのだそうです。だから、筋繊維の数が通常の数十倍多い。それと骨の密度がこれも異常なほど高くきめ細かいのだそうで、担当医は珍しい資料になるとか興奮していました」
「それはまずい。ちょっと私が言ってくる」
「おかみさん、おかみさんは表に出ないって言ってましたよね。話が違うじゃないですか」
「いいから、すぐ戻るから。確か担当は立木って言ってたね」



芳江が出て行くと、ジュンはベッドの茜に言った。
「おい、いい加減。狸寝入りはやめろ。始めから気絶もしていないくせに。」
「師匠わかってたんですか。さすが、師匠。」
「ちょっとお前の体を調べる」
「えっ、何をとつぜん言い出すんですか。駄目です。」
「筋肉をさわるだけだ」
「だって、ここに運ばれてきたとき、なにされたと思います?セーラー服を切られたんですよ。ハサミでジョキジョキと。ダディに折角買ってもらったのに、それだけじゃなくて、ああ恥ずかしい。下着も何もかもですよ。男の看護師さんはいなかったけど、もう死にたかったですよ。なぜ切るんですか。やさしく脱がせばいいじゃないですか。それも恥ずかしいけど」
「よく喋るな。着衣を脱がすとき手足を動かすから、骨折している場合悪化するだろう。だから、切るんだ。ちょっと腕を触る。ふむ、ちょっと力を入れてみろ」
「師匠も医者の真似事ですか。嫌ですよ、お医者さんごっこなんて」
「黙ってろ少し。今度は、足を触る」
「だ・・だ・・駄目です。足ってどこですか」
「太ももだ」
「ぜ・・ぜ・・・絶対駄目です。私女の子ですよ。それにこの病衣の下は何もはいてないんです。師匠そんなことしたら、師匠を破門しますよ。」
「弟子が師匠を破門するのか。人体の筋肉の中で最大の筋肉は太ももの筋肉なんだ。決してお前に欲情しているわけじゃあないから安心しろ。膝のあたりをさわるだけだ。」
「ちょっとだけですよ。あまり上の方に行かないでくださいよ」
「おい、目をつぶるな。普通にしてろ。じゃあ、ちょっと力を入れてみろ」
「ち・・・力が入らないです。早く手をどけてください」
「硬さをみたいんだから、力を入れてみろ」
「だめです。これ以上どうしても力がはいりません」
こうして変な検査は終わった。



「間下部さんがさっき着替えを持ってきたのを知ってるな。
カーテンをしめて外で待ってるから、服を着てろ。すぐ病院を出る。」
「師匠、さっき何を調べたんですか?ただ私の体を触りたかっただけなんじゃあ」
「勘違いするな。説明するとだな。筋肉というのは筋繊維という、細いひもの集まりだと考えればいい。ところがお前の場合、一本一本の筋繊維が絹糸のように細いんだ。しかも柔らかい。
俺が触ったとき、お前の筋肉はゼリーのように柔らかかった。
筋繊維が細かい分柔らかいんだ。それに細い分、本数が多い。
ところが力を入れると絹糸がワイヤーのように硬くなる。
この格差がお前の怪力の源らしい。そういうことだ。わかったか?」
「師匠、よくわからないから着替えます」
「それがいい。あまり考えるな」


その後、芳江が病室に戻ってきた。

「おかみさん、どうでした?」
「写真を取り上げてきた。学会に発表でもされたら、たまったもんじゃあないからね。
はじめ渡すのを渋ってたから、啖呵を切ったよ」
「はあ、おかみさんもずいぶん、変りましたね、こいつのためにそこまでするなんて」
「一緒に出たら目立つから、私は先にタクシーで帰るよ。
後は、よく言い聞かせておくれ。」
そういって、茜の方を見た。
「喧嘩しても構わないから目立つやり方はするんじゃないよ。飛び降りるのは、二度目はないよ。」
「はい、すみません。おばさん」
「おばさんじゃなくて、おかあさんでしょ」
「あ、おかあさん、もうしません」
くるっと顔をそむけた芳江はなぜかにやっとして出て行った。



「師匠・・・」
「なんだ。もう出るぞ」
「師匠が私に構ってくれるのは、花山のおかあさんに頼まれたからですか」
「そうだよ。なんだと思ったんだ?まさか・・」
「ま・・まさか、なんですか?」
「お前のこと好きだから、構っているとか思ってたか?」
「そ・・そんなこと思ってませんよ。師匠が弟子を好きになったらまずいでしょ」
「そうだな、俺は、間下部さんみたいに誤解されたくないからな」
「ダディがどうしたんです?」
「ま、おいおいわかるだろうよ」



それから30分後、二人はまた、昨日の公園に立っていた。
「きょうはチュー法を伝授するぞ」
「チ・・チューってキスのことですか?!」
茜は恥ずかしくて顔が真っ赤になった。



「チュー法は肘打ちのことだ。肘のことをチューと言うんだ。」
「それを先に言ってくださいよ。」
「肘うちは相手に接近しないとできない。ま、接近戦用だ。それと女や子供のように力の弱い者でも使えば効果抜群ってことだ。」
「じゃあ、私が使えば効果ありすぎて危なくないですか?」
「まあ、そうだがそれは相手によって加減すればすむことだ。お前の場合肘を押し当てる程度の方が相手が壊れないだろう。」
「それじゃあ、肘打ちじゃあなくて、肘当てですね。」
「まあ、そういうことだ。で、そのとき下半身の安定についてだが」

ジュンは大小のビー玉を地面に置いた。2つを衝突させると小さい玉がより遠くにはじかれる。

「この小さい玉がお前だ。重い玉とぶつかると弾き飛ばされる。
だが、こうすると」

ジュンは小さい玉を持ったまま、大きい玉をぶつけた。今度は大きい玉が弾かれた。

「俺がこれを手に持ってたから、重さが増えたと同じことになった。この小さい玉がお前だとすると、俺の手の代わりになるのはなんだと思う?」
「わかりません。」
「少しは考えろ。お前の体重を重くする方法だよ」
「どうして私を太らせようとするんですか。師匠は太った女の人が好きなのですか?」
「どうしてそっちに行く?よし、そこに足を揃えて立ってみろ」

ジュンは茜を前に立たせて、いきなり両手で肩を押して突き飛ばした。
いや、そうしようとしたが、茜は片足を後ろに下げてふんばった。

「そら、お前足を後ろに下げて、飛ばされないようにしたろう。足を地面につっかえ棒にして。だから、地面を利用して重くなったんだ。」
「重くなってないけど」
「つまり、お前はものすごく強いバネと同じだ。だけどバネそのものは軽い。地面にしっかりくっつけて使えばお前というバネはどんなものでも弾き飛ばせる。」
「よくわかりません」
「じゃあ、やり方を説明するから、その後ろに下げた足を前に出せ。」
「だって、師匠が前にいるから出せないじゃないですか」
「俺の脚の間に潜らせて出せ。まて、そのまま出せばまずいだろう。」
「そうですよ。ちょっと危ないです。」
「腰を落とすんだ。軸足も曲げて。目は俺の目からそらすな。」
「かなり背が低くなった感じです。師匠を見上げてます。」
「そのまま、腰の高さを変えずにすべるように体重を前に移動しろ。手で俺を押さえる感じで」

言われた通りにするとジュンが後ろに飛ばされた。

「あれ?全然力を入れてないのに、師匠自分で飛びましたか?」
「地面の力で飛ばされたんだ。これに足腰のバネが加わると、ものすごいパワーになる。自分の重心で相手の重心を奪ってしまうということだ。」
「で、肘打ちは?」
「お前の場合、肘はそっと当てるだけで、体重移動だけで相手を倒せる。」

ジュンは車の方を顎でさして、行くぞと言った。

「きょうあったことは、間下部さんにも教えておいた。詳しいことはお前から言って、明日どうしたらいいか教えてもらえ」
「師匠、病院でのことですが」
「病院での?何のことだ」
「師匠が私の足に触ったとき、どうして力が入らなかったのでしょう」
「一種のマッサージ効果でリラックスしたからじゃないかな、その感覚を思い出すようにすれば、いつでも力が抜けて普通人並みの筋力でいられるかもな。」
「なるほどですね」
「あと、お前に挑戦してくる奴らのことだが」
「どうします。」
「俺が口をきいてやめさせてもいいんだぞ。」
「あ、自分でなんとかします、師匠の出る幕ではありませんから」



間下部は、茜の報告を一部始終聞いて、のんびり答えた。

「ずいぶん、きょう一日で派手に暴れたことになるな。」
「怒らないんですか、ダディ」
「そうだな。普通の親ならパニックになるところだな。3階の建物の屋上から飛び降りた子供がいて、救急車が出動したんだからな。しかも、上級生に呼び出されて鍵を閉めて閉じ込められた。穏やかではないな、確かに。」
「明日、学校に行ったら質問攻めに会いそうです。なんて言ったらいいのか」
「こう言うんだ。風邪気味だったんで、朝、薬を飲んで登校したと。その薬は西入江町の病院でもらったものだということにしろ。それと、上級生が呼んだので行ってみたら、田丸さんという先輩が私のことを気に入ったみたいで仲よくしたいと言ってきて抱きついてきた。そのとき風邪薬のせいか頭がぼーっとしてきて、後は覚えていない。気がついたとき病院のベッドで寝ていた、というんだ。で、後でわかったことだが、自分の飲んだ薬は風邪薬でなくてインフルエンザの薬でタミフルということがわかった。そういう説明をしろ。」
「なんですか、タミフルって」
「飲むと飛び降りたくなることのある薬だよ。それから明日は制服ではなく私服を着て行け。わざわざもう一着用意してたことを言う必要はないからな。どうだ思い切りおしゃれなドレスでも着て行くか?」
「いえ、ジーンズでいいです。それからダディ」
「なんだ?」
「色々ありがとうございました。これでほっとしました。」
「夕食はすき焼きを用意した。俺の部屋で食べるか?」
「食べます、食べます!!」



次の日仲良しの京子たちにも担任の先生にも打ち合わせ通りの説明をした。
生徒指導の先生が中心になって、関係した3年生から事情を聞き始めたところだったが、茜の説明で、タミフルの副作用による事故ということに落ち着いたらしい。

だが、担任の二階堂先生は茜をこっそり呼んで少し長い話をした。

「指導部の先生は学校側の責任にならないから、君がタミフルを飲んだという話を信じることにしたようだけど。朝飲んだタミフルが昼休みに効いてくるものなのか、僕はよくわからないな。
それと僕も屋上から君が落ちたという場所を見たけれど、どうやって飛び降りればあんな離れた場所に落ちるのかよくわからない。
まだ、あるんだよ。この学校には腕力の序列を決めるグループがいて、昨日たまたま、そのうちの3人に中休みに君が接触してる。
そして、残りの7人には昼休みに会ってるんだ。これは偶然かな?3人には君は親切にし、7人はそのうちの一人が君と友達になりたいということで集まってる。彼らが集まる主な理由は腕試しのことが多いんだけど、今回はたまたまそうでないというのがよくわからない。」

この調子で二階堂先生は断定も否定もしないで、遠まわしに茜の言ってることは信じられないような言い方をしてきた。
茜も、ただ話を聞いておくしかなかった。間下部がこの先生は神経質だから厄介だというようなことを言ってたのが、身に染みてわかった気がする。

きょうは初めて京子たちと一緒に帰宅した。一人ひとり抜けて行って、最後に茜一人になったとき、声をかける者がいた。3年生の武井だった。

「ちょっといいかい。」


二人は近くの空き地に来た。武井は石ころを蹴飛ばしながらうつむいて話した。

「まず、礼を言っとくよ。お前のおかげでうちらの仲間が簡単に許されたし、なんのお咎めもなかったんだからな。ありがとうよ。
でもな、木崎茜。うちはお前が好きだけど、これですませる訳にはいかないんだ。
あそこにいたみんなが知ってるよ。お前がうちのナンバー2を絞めて落としたことを。それと、お前が飛び降りる自信があって飛び降りたことも。ものすごい奴だとみんな言ってるよ。
だから、ナンバーワンを決めなけりゃならないんだ。もし、私が負けたらお前が総番で私が2番手に喜んでなってあげるよ。」
「た・・武井さん、私、番格とか総番とかなりたくないんです。今の友達を失いたくないから。」
「ああ、わかるよ。できれば放っといてあげたいよ。でもそれは約束できないんだ。どうしても木崎とやりあわなければけじめがつかないんだ」
「怪我します」
「ああ、お互いにな。うちが怪我する確率が多いかもしれない。」
「やめましょう。」
「頼む受けてくれ。嫌がる相手とやりたくないんだ。」

茜は仕方なしに腰を落とした。そして体の前で両肘を曲げ掌底を合わせた。

「見たことない構えだな。どうやらお互いどっちが勝つにしても勝負は一瞬だな」

武井が先に動いた。
ぱっと地面を蹴ると2・3歩で軸足の左足を踏み込み右足を回し蹴りで茜の左わき腹を狙ってきた。
茜は右足を右側にスライドさせて真っ直ぐに伸ばし地面に突っ張ると、掌底を合わせたまま左肘を武井の右足首にヒットさせた。
ゴンッと音がして、武井が崩れた。
体の小さい茜は微動だにしなかったのだ。

「うちの1トンキック肘で受けたのはお前が初めてだ。お前肘なんともないのか?」


茜は構えを解いて左肘を撫でてみたり、曲げ伸ばししてみた。

「なんともないみたいです。武井さんは足首大丈夫ですか?」
「鉄柱を思い切り蹴ったらきっとこんなになるんだろうな。痺れていて実際どうなってるかわからんわ」

そして立とうとするが右側によろける。茜が急いで支える。


「もしかして骨にひびがいったのかもしれません。病院にいきましょう」
「母ちゃんに怒られるな、病院代かかるって」

そのとき物陰から声がした。

「いいよ、病院代はこっちで持ってやるよ」

ジュンが姿を現した。茜はびっくりした。

「師匠!!」

だが、武井も驚いていた。

「ジュンさん、どうしてここに?」
「武井さん、ジュンさんを知っているんですか」
「青布根中の4代前の総番で、伝説の人だよ。お前の師匠がジュンさんか。それじゃあ、敵わない訳だ。」
「えっ、師匠そんなこと一度も」
「言う必要があるか。お前、武井を車まで運べ」

茜は武井を担がずに肩を貸して、陰に止めてあったジュンの車まで時間をかけて連れて行った。そして後部席に武井と一緒に乗ろうとするとジュンが睨んだ。

「なんでお前まで乗り込む。後は大丈夫だから帰れ」
「だって、女の子をたった一人で男の人の車に乗せたら心配です。」
「お前が一緒のところを誰かに見られたら、却って話しがややこしくなるから来るな。」
「わかりました。で、怪我の原因をなんていうんです。」
「それは運転しながら、武井と一緒に考える。早くドアを閉めろ。」

空き地に茜を残して車は走り去った。
茜は置いておいたカバンを取って橘荘に向かって歩き出した。

間下部は自分の部屋に茜を呼んで、報告を受けた。

「そうか、国語の時間に金子みすゞの詩を暗誦したのか。」
「はい、間違えずに言えました、ダディ。みんなが拍手してくれたので嬉しかったです。」
「でお前はどの詩を選んだんだ。」

詩を印刷したプリントを見ながら間下部は茜に聞く。

「あの、いつも子供たちにどなって嫌われているおばさんが、飼い犬が死んで悲しんでいるやつです。」
「ああ、これね。どうしてこれを選んだんだ」
「飼い犬の死を悲しんでるのを見て、みすゞも他の子と一緒にいい気味だと思ったのです。でも後でそういう自分を振り返ってさみしくなったって。」
「うんうん、それで?」
「金子みすゞの詩って優しくて綺麗な詩ばっかりじゃあないですか。でも、これは違うでしょ。みすゞも心が汚れてしまうことがある、そして後でそのことを反省してる」
「うんうん」
「なんか私たちに近くてなんていうか」
「共感する?」
「そう、共感するんです。で、始めから綺麗な詩よりも感動するんです」
「偉いな、茜。先生にもそれを言ったか」
「いえ、他にも発表があったからその時間は」
「それは残念だったな。その先生に聞かせてあげたかったな」
「ダディ」
「なんだ」
「今、私のことをお前でなく、茜って言いましたね」
「言ったか」
「これからも茜って言うようにしてください。」
「わかった。悪かったな。なんか照れくさくて。気をつけるよ」

それから、デパートの包みを出して茜に渡した。

「これは制服だ。この間駄目にしたからな。これは花山さんでなく、俺からだ。気にすることはない。
俺の監督不行き届きで起きたことだから、その責任もある。
だが、もう少し私服でいろ。すぐ新しいのを着て行くと経済的に余裕があるみたいで印象が悪い」
「はい、ありがとうございます。」
「ございますはいらない」
「ありがとう、ダディ」
「それと、ジュンから連絡があって、女の子は足首のちょっと下の骨を2箇所ひびが入ったらしい。
なんでも立ち木にキックして傷めたらしい。
入院せず、1週間の怪我だそうだ。学校には明日から来れると言ってた。」
「杖を突くのかな?」
「それと、上級生はもう茜に手を出さないし、嫌がることは一切しないそうだ。
だが、茜から話しかけてくれるなら、いつでも大歓迎だと言ってたらしい。」
「はい!!」
「そんなに嬉しいか?」
「だって、ダディ、茜って2回も言ったから」
「それだけだ。もう店に行くから、部屋に戻って勉強しろ」
「わかったよ。明日朝ごはん用意するから一緒に食べよう」
「そうだな、時間があったらな」
茜が出て行ってドアが閉まると、むっつりしてた間下部の顔が自然にほころんだ。


日曜日の昼間だった。
新聞販売店経営の灰枝辰児は、事務所のブザーを押す音で体を起こした。

「新聞でも買いにきたかな」

そう言いながら出てみると、野球帽を被った少年が立っていた。

「新聞配達のアルバイトをしたいんですけど」

よく見ると、それはボーイッシュな感じの少女だった。
ジーンズに赤い花模様の刺繍があったのでわかった。

「君、女の子だね。うちでは女の子は使わないんだ。」
「どうして女の子じゃ駄目なんですか、社長さん」

目を真ん丸くして覗き込む少女に、なぜか丁寧に説明したくなった。


「3つくらい理由があるんだ。1つ目は体力的なことだよ。
正直いってとても疲れる仕事なんだ。それも、毎日続けなければいけない。雨の日も風の日もだ。
女の子には体調が悪くなる日があるけれど、その日だって休めない。

2つ目は朝でも冬はまだ真っ暗だし、夕刊を配るころは人通りも少ない。
配達区域には痴漢や変質者が出る場所もある。襲われる危険性が大きいからだ。

3つ目は、私にも娘がいて君よりも大きいが、決して新聞配達はさせたくないと思う。
そのため、うちではずっと中高生女子のバイトは採用しないことにしてるんだ。わかってくれたかね?」

黙って聞いていた少女はちょっと天井を見つめていたが、にこっとして灰枝の顔を見た。
聞き分けのいい子だ。
丁寧に説明した甲斐があったというものだ、そう思ったが、少女の口から意外な言葉が出た。

「大丈夫です、社長さん。全部クリアできます。」

少女はそれから話し始めた。自分は西入江町の生存者で両親を失って、遠い親戚夫婦に保護されている。
一応経済的支援を受けているが、自分としては迷惑をかけたくないし、少しでも自立していきたい。
自分は学校の勉強はあまりできないが体力だけは自信がある。
小さい頃から重いものを運んだりして労働してきたので見かけ以上に丈夫である。

また、幼い頃からある特殊な武術を習っていて、大人の男性でも簡単に倒せる。
だから変質者や痴漢が束になってかかってきても全部掴まえて警察に突き出す自信がある。

最後の問題については、自分は小さいときから乱暴でやんちゃだったので、周りの人間は男だと思っていた。
社長さんが急に方針を変えるのも大変だろうから、男ということにして採用してほしい。
自分も男として通す積もりだ。

灰枝は、少女の丸い無邪気な目を見て、よくまあ口から出任せのはったりを言ったものだと呆れて言葉を失った。
ある特殊な武術?笑わせる。私が合気道の師範代だということを知らないで、よくまあ言ったものだ。
テコンドーという韓国空手の優勝者だという女高生がいたが、合気道を習って1週間の男子中学生と対決させたことがあった。
女高生のハイキックの足を無造作に掴んで転ばしてその後プロレス技で押さえ込んでしまった。
もちろん合気道の技は一つも使ってない。全くの素人に負けたのだ。
男女ではそれだけパワーの差があるのだ。

「災害を受けて大変だったのはわかるけど、女の子としては強くても、実際に男の人に襲われたらひどい目に合うのは女なんだよ。
これは経験しなければわからないことだし、またそんな経験をさせたいとは思わないしね。」
「社長さん、大人の男の人としては結構強い方でしょう?」
「まあ、スポーツをやったりして体を鍛えてるからね」

灰枝はわざと合気道のことは言わなかった。

「もし社長さんに襲われても、自分を守れる自信がありますよ。やってみますか?」

灰枝は少女の顔を見つめなおした。
挑発的な言葉とは裏腹に、人懐っこく親しげな表情に混乱した。
そう言われて、はいそれでは試してみましょう、と言う大人は普通いない。
それを計算に入れて言ってるのか?それともこの子は知能が足りないのか?
灰枝は決意した。それではやってみようじゃないか。

「それじゃあ、こうやって掴まれたらどうする?」
そう言って灰枝は少女の両肩を掴んだ。掴んだ積もりだった。
だが、灰枝は床に膝をついていた。両手の指が一本ずつ握られて簡単に肩から外されてしまったのだ。
そして下に下げられたので思わず膝をついたのだ。少女もしゃがんで灰枝に顔を近づけた。
技をかけている間、少女はにこやかな顔をしたままだった。そして指を離してから言った。

「今度は後ろからやってみますか?」

合気道の師範代だということを言わないでよかった。けれどもプライドがすごく傷ついた。
指を一本だけ取るのか。確かに非力な女子が覚えそうな技だ。
もちろん、このやり方は知ってた。だが握力に自信があった灰枝は油断してたのだ。

「社長さん、どうぞ」

少女はすぐ目の前で背中を向けた。灰枝は考えた。少女は痴漢撃退法など習ったに違いない。
きっと後ろから抱きつくパターンを期待してるのだろう。
そうすれば肘打ちか、足を踏むか。顔を近づけたときは頭突きをするか、その辺りの反撃が予想される。
それなら、反撃できない方法を選ぼう。
相手が大人の男でも通用する方法だ。いきなり逆手を取って床に押さえつけてしまうのはどうだ。
だが、関節技は万が一少女のように柔らかい体の場合はかからない場合がある。

「どんな方法でもいいんだね?」
「ええ、一発殴ってもいいですよ」


まさかそれはできない、と思いながらも、この言葉で灰枝は気持ちが楽になって裸締めをすることにした。
スリーパー・ホールドとも言うこの技。気管を絞めるチョークは反則技だが、この技は頚動脈を絞める。
相手は動かないで待っていてくれたので、今度はきれいに入った。
少女の細い首は灰枝の逞しい腕でしっかりとロックされたのだ。


「しめてもいいですよ」

灰枝はどきっとした。もしかしてこの少女は絞めさせて、後から犯罪行為だと脅迫する積もりか。

そう思ってふと力が抜けた。その一瞬の隙に、少女は抜けていた。
二人ともその弾みで床にしゃがんでいたが、少女はすぐ灰枝の方を向いて感想を言った。

「本気ださなきゃ、すぐ解けてしまいますよ」
「ど・・どうやった。今確かに決まっていたはずだが」
「えっ、普通に顎を引いて首をこうくるっと回して、手をそえてつるっと抜いたんです。
絞められてる場合はもう少し工夫しますけど」
「そんなやり方聞いたことない。普通それでははずせないはずだ。」
「特殊な武術ですから」

なんだか、この特殊なという言葉が灰枝の気に障った。
それにまだ自分の得意な合気道の技も使えてない。
向こうから攻撃してくれたら使えるのだと思った。それでちょっと言ってみた。

「でも、防ぐばかりで全然攻撃しないな。」
「攻撃したら社長さんを傷つけてしまいます。そしたら採用してもらえないですから」

灰枝はどうしても、師範代のプライドを守りたかった。それでつい言ってしまった。

「わかった。採用する。採用するから攻撃してみてくれ」
「本当ですか、嬉しいな!」

灰枝は少女が喜びのあまり抱きついてきたと思った。そうではなく押し倒したのだ。
仰向けに倒れた灰枝の上をくるりと通り過ぎたかと思うと、気のついたときには、頭を押さえられていた。
少女は両膝の間に灰枝の頭を挟んで、顔を近づけてきた。顔が逆さまに見える。

「動けますか?」

もちろん頭を押さえられたら動けない。だが、手を使って外せばと両手を少女の膝頭にかけたが、上から手首を押さえられてしまった。

「はっ!!」

少女が気合をかけると腕が不自然な形のままびくとも動かなくなった。後は足をばたばたさせるだけだ。

「参った。採用するから、離してくれ」

ちょうど家族が留守をしていて幸いだった。こんなみっともない姿絶対に見せたくない。
少女に椅子を勧めながら、灰枝は完敗したと思った。

「いいよ、明日から来てくれて。女の子のままで結構。それだけ強けりゃ心配ない。」
「ありがとうございます。」


人間と言う者は、そんなことを言えば自分の恥になると思うことでも何かの弾みで言ってしまうものだ。
灰枝は武術仲間で一杯飲んでいるとき、ふと漏らしてしまった。
「うちのバイトで入った中一の女の子やたらと強いんだよ、ドクター」
「ほう、その話面白そうじゃないか」
ドクターと言われた銀髪の男はフルコンタクト空手風林館の青布根支部長植田哲夫だ。
病院の院長をしているのでドクターと言われている。他にも講道館柔道道場主田丸幸喜、誠心塾の剣道師範草薙徹らが聞いていた。

「その子は確か家の娘を締めて落とした子だよ」

田丸が言うと、ドクターはますます興味を示した。

「そりゃすごい。初段の娘さんを落とすなんて、かなり柔道をやってる子だね。」
「それが全く知らないらしいんだ。ただ娘の締め技を真似して絞めたらしい。それだけでなく、娘とタイマン張って勝ったという、武井と言う子も一発で病院送りにされたんだよ。」
「えっ、あのゲームセンターのキックマシーンを壊したっていうあの子を?じゃあ、男みたいなごつい体してんだろうなあ」
「それが、150cmくらいのスマートな子だよ。おまけに可愛い。」

灰枝は、実際に見たのは自分だけだからと、口をはさんだ。

「見たいな、その子を連れて来れないか」とドクター。
「連れてきてどうするんだ。」と田丸。
「うちの子と対戦させてみたい。」とドクター。
「うちの娘がその子に手を出しちゃ駄目だというんだよ。だから私も遠慮してたんだ。」と田丸。
「灰枝さん、なんとか会わせてくれないか」とドクター。
「大切なバイトの子だからなあ。感心な子で生活資金を自分で稼いでいるんだ。」
「そうだ。1日借りるだけでお小遣いを出そう。」
「援助交際じゃあないんだから」
「武術交流会ということにしたら?」

と言ったのは今まで黙っていた、剣道四段の草薙だった。


「つまり、皆さんたちの道場の精鋭を集めて、演武をそれぞれ披露しあうんですよ。当然うちの後輩の子も連れて模範演武をさせます。そこに、その子が偶然来ていれば、なんとか巻き込めませんかね。」
「ざっくりとした作戦ですね。でも良いですね。」とドクター。
「うちも参加できるなら申し分ないですよ」と田丸。
「問題はどうやって引っ張り出すかだ」と灰枝。
「灰枝さん、あなたは脅してもすかしてもいいから連れて来てください。後は試合に引っ張り出すのは私がやる」とドクター。
「大変なことになったな」




新聞販売店の事務所で灰枝と茜は向かい合って座っていた。

「という訳だ。今度の休刊日に一緒に来てくれ」
「どういう訳ですか?どうして私が行かなければならないんですか?」
「女の子をバイトに使ってるからには護身術の参考になる催しには連れていかないと、社長としての責任が果たされないのだよ。」
「だって、私は社長さんにに襲われても大丈夫だったじゃないですか?」
「おい、人聞きの悪いこと言うなよ。本当に襲ったみたいじゃないか」
「とにかく実力が認められたんだから、その必要はないでしょう」
「いや、同じ販売店の組合でも女の子を使う場合は、そういう研修も受けさせているという実績が評価されるんだよ。」
「なんだか社長さんに言いくるめられているみたいです。」
「気のせいだ。そんなことはない。それに、お前の特殊な武術というのにも関心を持っている人がいてな」
「何か悪い予感がするなあ。まさか」
「まさか…なんだ?」
「いや、なんでもありません。本当について行くだけですよ」
「もちろん、これも勤務のうちだから、日当は払う。1日分のバイト料と同額だ」
「それじゃあ、行きます。仕事ということなら・・・」
灰枝と茜の会話は以上のような按配だった。


フルコンタクト空手風林館青布根支部道場は、植田病院の敷地内にあった。
病院は休みで、院長も稽古着を着て訪れる客人を入り口で立って迎えていた。
客人というのは、講道館青布根道場田丸氏と道場生数名。
剣道の誠心塾師範草薙氏と塾生数名。

そして合気道師範代灰枝氏と新聞販売店アルバイトの茜だった。
既に柔道関係者と剣道関係者は入館していた。
会場を提供している風林館側の道場生は男女合わせて30名ほど正座して待っていた。

演武に参加する者以外に特別見学を許された者もいるのだろう。
最後に時間ぎりぎりにやって来たのは灰枝氏と茜だった。
植田館長が入り口で立って二人を出迎えたので、礼儀正しい人だなと茜は思った。

「ああ、研修を受けに来た木崎さんですね。ようこそ。ここの館長の植田です。」

握手を求められて、茜は慌てた。

「ど・・どうも、見学させてください」
「いえいえ、ぜひ参加もしてください。研修できるように色々考えていますから」
「あ・・あの・・痛いです。手が」
「あっ、これは失礼。」

痛いというのは嘘だった。茜は力を入れてなかったのだが、植田館長が力一杯握ってきたので、咄嗟にそう反応したのだ。
これで普通の女の子に見られたろう、そう思った。
けれども、そういう配慮はなんの意味もなかったのだ。
そもそも、この交流会そのものが茜をターゲットに催されたのだからだ。
茜が灰枝を赤子同様にあしらったことは植田・田丸・草薙の三人が知っているからだ。
会場に入ると、みんな静まり返っているので、びっくりしたが、一緒に入った灰枝は平気な顔してどんどん歩く。
植田の案内でついて行く形になるのだが、どうやら上座と思える場所に椅子が2つだけあり、そこが招待席のようになっているらしいのだ。

「ええっ!ここに座るんですか?」茜は驚いて植田に尋ねた。
長テーブルの前には「来賓」と「研修生」の札が貼ってある。「来賓」席には灰枝が、「研修生」の席には茜が座った。
「研修する配達員は他にいないんですか?」
と茜。
「市内では若い女の子はお前だけだ。後は年配のおばさんがいるが休刊日と重ならなくて来れなかった。」
「そんなの販売店でシフトを変えてやればいいじゃあないですか」
「他の販売店の事情は知らない。要するに都合がつかなかったんだろう」

話はそれで終わった。
植田館長が開会の挨拶をして、柔道・空手・剣道の武術交流の後、最後の方で護身術の研修があるので、外部の人にも参加していただくという説明があった。

「研修って何をするんですか?一緒に来るだけで良いって言ったじゃないですか」

茜は灰枝に小声で抗議した。

「よくあるだろう。痴漢に襲われたとき、どういう風に身を守るか簡単に教えてくれるんだよ。それで、研修の終了証書がもらえるんだ。それを店に貼っておけばお前は配達の資格がある人間だということになる。」
「はあ」

そういうことならと茜は納得した。
演武が始まった。会場の中央にはマットが敷いてあり、中央でそれぞれの代表が説明しながら、選手同士を戦わせる。
最初は柔道の女子同士だった。二人とも成人で黒帯だが何段かはわからない。気合や掛け声が激しく、役割を決めて色々な技を披露していた。

「これは危険な技ですが、危なくないようにゆっくりやってみせます。」


それは背負い投げのような投げ方だが、投げられる方が受身がとれないように、投げる方も一緒に床に倒れて行く技だ。
それだと投げられた者が床に打ちつけられたと同時に、上から技をかけた方が体ごとぶつかってのしかかるのだ。
そのことによって床に打ちつけられた衝撃が何倍にもなって、技によるダメージが大きいということになる。
説明する田丸氏も手をそえて、選手に怪我がないようにして見せた。
それでも、投げられ役の女性は胸を打ったらしく咳こんでいた。

「巻き込みという技です。大怪我をする場合があります。」

次に身長180cmくらいで肩幅が大きい筋肉の塊のような大人の男性が現れた。

「兵頭選手です。アームレスリングの地区大会で優勝したこともある、力持ちです。柔道三段の猛者です」

その相手は高校生で県大会個人優勝したという橋詰選手だ。
170cmくらいの身長で風林館の植田館長と同じくらいの体格だ。

「青布根の三四郎という綽名です。柔道2段です。」

この二人で本気の試合をしてみせるという説明があり、早速試合が始まった。
橋詰はさまざまな技を休みなくかけるが、一度は決まりそうになっても、体重もあり力もある相手に決定打を与えることはできない。
そんな感じでいい加減疲れきったところを、兵頭が押さえ込んで勝負が決まった。

「柔よく剛を制す、という訳にはいかなかったのが残念ですね」

と田丸は言ってから橋爪の健闘を讃えた。

両選手に拍手が送られた後、フルコンタクト空手の風林館の演武だった。
最初は、女性10人くらい集団で型を演武した。
高校生くらいから成人の女性で中学生はいない。
その次にヘッドギアとプロテクターをつけた女性が組み手を演武してみせた。
約束事の通りに動いているが、ときどきバスーンと蹴りが当たる音がする。
後、男性が二人出てきて片方が両手にミットを持って打たせたり蹴らせたりした。
拳のスピードや蹴りのスピードはかなり速かった。しかも腰を入れているので破壊力もあるだろう。
説明は植田館長がしている。
その次が誠心塾の剣道の演武だった。
二人の選手が演武で技をみせた。片方が勝つ役、で片方が負ける役である。実戦よりは少しだけスピードが遅いと思って、茜は見ていた。この説明は草薙塾長がしていた。
剣道はわりと早く終わり、再び植田館長がマイクを握った。

「ここで来賓の紹介をします。新聞販売店の社長さんの灰枝さんです。」

会場の拍手がおさまると、植田館長は続けた。だがその内容を聞いて、茜は固まってしまった。

「その隣にいる可愛いお嬢さんは、配達のアルバイトをしている木崎さんです。
女の子は夜など危険なので配達のアルバイトはさせないのですが、実はこの方は特殊な武術を身につけているため、採用が許可されたそうです。
なんと大人の男性に襲われても撃退できるのだそうです。
でも私たちは武術の修練を受けたものですからできれば子供に襲う役をやってもらって、うまく行くかどうか見てみたいと思います。
風林塾からは小学校6年生の女の子に出てもらいます。」


すると打ち合わせていたのか空手着を着た女の子が出てきた。
小学校6年生と言っても茜よりも5cmくらい背が高い。
丸顔でスタイルもよく、いわゆる舞台栄えのする子である。

髪を両脇に結んで黄色いリボンがとても良く似合うと茜は思った。
その可憐さとは裏腹に腹の底から奇声をはっすると、中央でちょっとしたデモンストレーションを行った。
素早いパンチと蹴りを目にも止まらない速さで行い、その後深くお辞儀をした。
会場は大喝采である。
有名な子らしく「ゆきちゃーん!」とか声がかかる。

「では、木崎さんには安全のためにヘッドギアとプロテクターをつけてもらいます。
でも、その上から攻撃しても結構衝撃が強いですからなるべくなら逃げてください。
うまく1分間逃げ切ったら木崎さんの実力は合格とします。
けれども1分以内にダウンされますと不合格です。」


高校生くらいの女の子がヘッドギアとプロテクターを持ってきた。
ショックですっかり固まっていた茜は装着されるがままになっていた。
そして灰枝の方を見て、訴えた。

「社長さん!知ってたんですか?これって、昔のローマですよ。あの子がライオンで私が奴隷みたいな。」
「その逆もありうる。言っとくがあの子は中学生も含めた14歳以下のジュニアチャンピオンだ。風林館の秘蔵っ子で看板娘だ。手加減するな。」
「社長さん!」
「約束する。勝ったらボーナスを出す。うちの販売店の名誉のためにもがんばってくれ」

真ん中に連れ出された茜は、相手が長内由紀という名前だと紹介された。
お互い礼をしてから、ストップウォッチを持った植田が「はじめ!」というと、長内由紀は奇声をあげて突進してきた。
連続の回し蹴りや後ろ蹴りを次々と繰り返す。
茜は武井のときのように肘で受けたら怪我をさせると思い、後ずさりしながらかわして行った。

相手は4連続も蹴りを続けた後、間合いを縮めようとまた奇声をあげて突進してきた。

茜は仕方なく背中を見せて走って逃げた。その様子を見て会場から笑いがこぼれた。
だが次の瞬間、会場は静まった。逃げていた茜が急に立ち止まり振り返ったのだ。

間合いが近すぎる。長内由紀は「せいやー!!」と気合とともにパンチを出した。
「パパン!!」と音がしたと思ったら、長内由紀の体が4mくらい後ろに飛んだ。
受身もできずお尻と背中を強く打って床に倒れた。試合?が始まって十数秒のことである。

「何があったんですかね?速くて見えませんでしたが」
「なんか由紀ちゃんのパンチを手で止めて掴んでいたような気がしますね」

会場では茜が由紀を助け起こし、しきりに謝っていた。
それに対して由紀はふらふらしながらなんともないと手を振って応えている。

実際、茜はプロテクターに向けて放たれたパンチを両手で掴んだのだ。
空手のパンチは突き出した瞬間引き戻すが、掴まれていたため、逆に由紀の体が茜の方に引き寄せられる形になった。実際は自分で自分の体を近づけたのだが、反射的に離れようとして下がった勢いを利用して、茜が突き飛ばしたのだ。
その際、片足を相手の重心よりも後方に深く滑り込ませていたので、より効果が大きかったのである。
「驚きましたね。
やはり大人の男性でも撃退できるというのは本当のようですね。」

植田館長はアナウンスを続けた。

「ちょうど、木崎さんは防具をつけてますから、誠心館の剣士さんに出てきてもらいましょう。
今度も小学5年生の男の子です。小学生男子の部で県大会を優勝した葛城圭太君です。
葛城君の得意技は面です。1分間以内に葛城君の面を10回以上入れられたら葛城君の勝ち。
9回までだったら木崎さんの合格です。
でも、葛城君の面は2・3回で気絶する子もいますから気をつけてください。
一応木崎さんにも竹刀を持ってもらいます。でも、狙うのは面だけですから篭手はいらないでしょう。」

二人とも礼をすると、今度は草薙塾長がストップウォッチをもって、

「始め!」と合図した。
「めーん!」いきなり葛城圭太が面打ちをしたかと思うと、パシッと音がして圭太の竹刀が宙高く飛んだ。
茜の後方高く上がってから弧を描いて、床にパーンと落ちて行った。始まってすぐのことである。
茜を見ると右手に竹刀を持っているが切っ先をだらりと下に下げたままである。
左手は上がっていたのを下げているのが見えた。殆どの人がよく見ていなかった。
テレビなら録画スローモーションをリクエストするところである。
会場からどよめきが湧いた。

「もしかして、左手で竹刀を払ったのでしょうか?」
「いや、掴んだのかもしれませんよ?痛くないのでしょうかね」

そういう会話があった。
正解は掴んだのだった。
茜の手は鞭のように竹刀に飛んで行き掴んだまま引っ張って葛城の手から離れ、その後茜の手からすっぽ抜けたのだった。

「いやー、驚きましたね。少年剣士の渾身の一撃を手で受け止めるとは。
手は大丈夫ですか、木崎さん?そうですか。大丈夫だそうです。
さきほど私と握手したときはとても柔らかい華奢な手だと思ったのですが、どうしてどうして実は鍛え抜かれた手だったんですね。」

植田氏はそう言ってから、葛城少年を退場させた。
そして、次に出てきたのは青布根の三四郎こと、高校生の橋詰選手が出てきた。

「さきほど兵頭選手と好試合を見せてくれた橋詰選手です。
柔道は背中をつければ負けですが、木崎さんは柔道は全くの素人ということですので、今被っているヘッドギアとプロテクターを1分以内に脱がせたら橋詰選手の勝ち、うまく逃げ切れたら木崎さんの合格とします。」

今度は田丸氏が審判を務めストップウォッチを手に開始宣言をした。
橋詰はすかさず茜を掴んだ。
ところが茜は簡単に崩れた。
橋詰は小学生は負かせても所詮中学1年生の女の子の力はこんなものかと、簡単に馬乗りになった。
相手が背を床につけているから、柔道なら完全にこっちの勝ちだ。
幸い少しもじたばたしないし、ヘッドギアから外せそうだ。そう思ったときはっとした。
いつの間にか橋詰の両手の中指が茜にしっかりと握られていたのだ。
もがこうとすると力を入れられる。橋詰の下になりながら、茜はにっこりと笑って囁いた。

「橋爪さん、時間切れまでこのままでいきませんか?私、指を折りたくないし。
お兄さんも一日に2回も負けたくないでしょう?
だからこのまま時間切れで私が逃げ切ったってことにしたいんですけど。」
「そんな馴れ合いの試合はしない!いたたたた・・・」
「だから、動かないで。私柔道ってよくわからないから、今度教えてくれませんか?
橋爪さんは色々な技を使ってたから、かっこいいなって。ね?」
「教えてもいいが、この勝負とは別だ。一回指を離せ。二人とも立ってとり直そう。」
「嫌です。なるべく楽して合格したいもの。この方法以外で勝つには嫌なことをしなけりゃならないから」
「嫌なこと?どんなことだ?」
「病院に送り込むような大怪我をさせるとか」

自分の下で無抵抗に組み敷かれているように見える可憐な少女の口からそんな恐ろしい言葉が出るとは、橋詰は夢にも思わなかった。

「はい、それまで。」

審判の田丸は時間切れを告げた。

「指を離すから、助け起こしてくれませんか?」

橋詰が頷くと、茜は指を離した。言われた通りに助け起こすと茜は握手を求めてきたので握った。
柔らかな骨のないような手だった。会場からは拍手が起こった。


「なんともさわやかな光景ですね。
よく見えなかった方もいらっしゃると思いますので解説しますと、橋詰選手は木崎さんに馬乗りになって優位に見えたかもしれませんが、両手の指を封じられていたため動けなかったのです。
ですから、木崎さんは今回も合格です。」

植田館長はそういうと拍手した。会場では再び大きな拍手が起きた。

「引き続き閉会式を行いますので。それぞれの団体は指示に従って並んでください。」

閉会式では茜に護身術研修修了証書が渡された。
その後、この修了証書は希望者には今後研修を受けさせ合格した者にのみ授与されると説明があった。
しかし青布根武術連盟としては、木崎さんのようにかなりの実力がなければ合格させることができないとも付け加えられた。そして、交流会も終わり会場の人々が帰り始めた。
茜は灰枝にボーナスのことを交渉していた。


「社長さんに乗せられました。私の武術をこんなに大勢の人の前で公表するなんて酷いです。
それだけじゃなく試合みたいなこともさせられて話が違うじゃないですか。さっきボーナスを出すと言ってましたね、いったい幾らくれるんですか?」

「1試合1日分のバイト代を追加する。」
「それなら良いです。仕方ないです、すんでしまったことは。」
「もっと稼ぐ方法があるんだがね」

二人の背後から声をかけたのは植田館長だった。
一緒にいるのは田丸氏と草薙塾長の他に風林館の最後の演武をしたがっちりした男と柔道の兵頭選手、それに誠心塾の演武をしていた成人の剣士だった。
その後ろで離れて見ているのは柔道の橋詰青年だ。

「実はそれぞれの道場でナンバーワンの選手が君と対戦したがっているんだ。受けてくれるかね?」

茜は首を横に振った。あまり気乗りしなかったのだ。

「柔道は稽古着を着て、空手は防具をつける。剣道は正式の防具と竹刀も持たせる。
彼らは彼らの武術に定められたルールで戦う。だが、君はどんなやり方をしても構わない。
また、勝っても負けても謝礼を1試合につきこれだけ出そう。」

植田は指を2本出してみせた。

「たったの200円ですか?それって、けち臭くないですか!」
「二桁上だよ。2万円だ。」

茜は驚いて灰枝の方を見た。

「社長さん。この人たちの方が社長さんよりずっと気前がいいですよ」

灰枝は肩をすくめてみせ、茜は植田館長の顔を見て、言った。

「良いですよ。受けます。でも悪いからその半額でいいです。」

茜はにっこりと笑った。


茜に対戦を申し込んだのは、次の三人である。
講道館柔道三段で青布根道場生の兵頭利男。県大会優勝経験3回。
上背の高さと剛力を生かし、相手の奥襟を掴み力でねじ伏せる、パワー柔道を得意とする。
試合の実力は道場主で六段の田丸氏を凌ぐと言われている。

剣道誠心塾筆頭、今橋渉。剣道二段。3年連続県大会3位以内入賞。
決め技は多種多様で、別名「秒殺の今橋」と言われるくらい、決めたときの勝負が早い。

フルコンタクト空手風林館二段。
熊谷健司。同流派全国大会五位と八位に入賞経験あり。
ムエタイの選手と対戦し勝った経験があるという。
同流派としては正統派のタイプ。
パンチも蹴りも強力で、瓦の試し割りでは八枚を割る。

以上が、茜に紹介された対戦相手のプロフィルである。

「今日中に三人と対戦してもらうが、順番は木崎さんが決めてください」

植田館長の言葉に、茜はちょっと考えてから言った。

「剣道の人・・・・」

誠心塾の草薙塾長が、予め用意してきた剣道防具を女性剣士に言いつけて着させた。
女性用の更衣室で袴も含めて、すっかり着せてもらった。

「重くない?大丈夫?脱ぐときは自分でやってね。私はこれで帰るから」

なるべく関係者以外を立ち合わせたくないらしく、女性剣士はすぐ帰らされた。

今橋は静かに待っていた。
特殊な武術を身につけているという少女の話を塾長から聞いたときは、非常に興味を持った。
確かに交流会で見たのは、今まで見たことのない技だ。
柔らかい華奢な手のようで実は鍛え抜かれたらしい、その手で殆ど決めている。
たとえ小学生と言っても葛城少年の竹刀を手で奪うというのは尋常な技量ではない。
鞭のように柔らかくしなやかな手。
それが一瞬スナップを利かせて竹刀を掴み、空手少女のパンチを掴む。
でも柔らかいだけだったら、竹刀を飛ばしたり、少女を飛ばしたりはできない。
今橋はなにか木崎という子が剛と柔を同時に兼ね備えているような気がした。
見かけや年齢で惑わされては駄目だ。これは油断できない。
だが、自分はあくまでも剣の道を求めて行く者として、剣で立ち向かうしかない。
剣道こそ最強の武術なのだから、きょうはそれを証明するだけだ。


対戦相手の木崎茜が剣道防具をつけて現れたとき、今橋はほっとした。
これで自分の土俵で対戦できると思った。
だから、相手が竹刀を二本持っているのを見てもそれほど気にならなかった。
剣は両手で持ってこそ力強く振ることができる。
片手に一本ずつ持っても、宮本武蔵のような豪の者でないかぎり、簡単に払い落とせる。
剣道に素人であることは構え方もなってないことで明白である。

「勝負の判定は、相手が戦闘不能になるか、降参したときに勝ちとする。」


草薙塾長が審判になって開始の合図をした。
秒殺の今橋は突進した。
二本の竹刀を漫然と構えているその間隙を縫って、必殺の突きを面に向かって放った。
剣先が木崎茜の面にヒットし、後ろにのけぞり、尻餅をついた。
今橋は休みを与えず面を狙った。
木崎は床を転がるようにして逃げた。
それを追いかけようとすると、突然二本の鞭が襲いかかってきた。
もちろん鞭ではない。竹刀だ。
今橋は見た、床から身を起こしながら竹刀を鞭のように高速で振り回す相手を。

ブブーン、ブブーンと空を切る音に戸惑っていると、パパーンと自分の面に向かって竹刀が二本ともぶつかってきた。
竹刀を投げてよこしたのだ。その竹刀を払いのけた直後、目の前にすくっと立った者がいた。完全に間合いの内側に木崎が立っていたのだ。
そして、右手で今橋の顎を下から押し上げ、左手で今橋の左手首をつかまえていた。
今橋は右手だけで竹刀を持って木崎を打ち据えようとしたが、足をかけられて床に勢いよく倒された。
竹刀はあっという間にもぎ取られ、倒れた今橋は木崎茜に上体を起こされて後ろから首を決められた。スリーパーホールドである。
少女の細い腕は完全に今橋の首に食い込んで外せない感じだった。

「動けば絞めますよ。だから、そのままで。」

今橋は、少女に背後から抱きつかれてそう囁かれたとき、負けたなと思った。

「それまで」

草薙塾長の声で、木崎茜は絞め技を解き、今橋を助け起こした。
茜が胴着を脱ぐときは、今橋は手伝ってあげた。そして袴などを脱ぐために茜は女子更衣室に入って行った。


私服に着替えた茜が更衣室から出てくると、植田館長の前にやって来た。

「次は空手の人となので、防具をつけてください。」
「大丈夫かい?少し休まなくてもいいのかい?」
「あ、大丈夫です。お願いします」

植田は用意したヘッドギアとプロテクターをつけてやることにした。
大人を軽くあしらう木崎茜が、全く無邪気に植田に体を預けて防具をつけさせている。
植田はなにか自分の子供の世話をしているようなくすぐったい気分になった。

「さあ、これで外れないと思うよ。すぐ始めてもいいかい?」

植田は自分の声が優しくなっているのに気づいた。

熊谷は防具をつけずに空手着のままで中央に立っていた。
じっと考えていた。
木崎という子は長内由紀の拳を二発とも手で掴んでしまった。
普通考えられない技だ。
南蛮殺到流という古武術の流派は指先の力を究極まで強めて、生きた馬の尻の肉を手で抉り取ったという。
握力のための筋肉は前腕にあり、それが松の枝のように節くれだっていて、指の一本一本も鉄の爪のように硬く鋭くなっていたらしい。
聞くところによると、木崎茜の手は骨がないように柔らかく、遠目に見ても白魚のような、箸より重たいものを持ったことがないお嬢さんの手のように見える。
なにか常識では考えられないものを、木崎茜は持っている。
今橋との試合でも床に転げまわったり二本の竹刀を投げつけたりの奇襲作戦を行ったりした。
対空手でも、何か変わったことをするかもしれない。
だが、慎重にするよりも、思う存分戦うしかない。


「あの、どうしてヘッドギアやプロテクターをつけないんですか?」

木崎茜は熊谷の空手着だけの格好を見てそう言った。

「それはこの風林館空手がフルコンタクトと言って、実戦と同じようにする空手だから」
「じゃあ、これは?」

茜は自分のプロテクターをさした。

「それは、君がまだ子供だから。そうしなければいけないことになってるんだ」
「じゃあ、おじさんだけが痛い思いをするの?それって嫌だなあ」
「あいにく大人用のプロテクターは用意してないんでね。仕方ないよ」
「わかりました。なるべく早く終わらせましょう」



植田館長が審判になって、開始の合図を出した。
突然茜が熊谷に向かって突進して来た。
熊谷が前蹴りを茜のプロテクターのお腹に強烈に入れた。
茜が1m後ろに飛んだ。
だが、再び突進して来た。
熊谷はヘッドギアにパンチを入れたが、茜の動きが速いため、すべってきちんと当たらない。
そして熊谷のお腹に茜は頭から突っ込んで行った。
ボクッと音がして、熊谷はエビのように体を折り曲げて倒れた。

「そこまで」

植田は茜のお腹がなんともないか聞いた。あれだけの衝撃を受けたのだから心配だったのだ。

「いいんです、これでお互いにおあいこだし。おじさんがちょっと損してますけど」

熊谷はしばらくして起き上がった。見た目より頭突きの衝撃が大きかったらしい。



更衣室に行って、茜が渡された柔道着を着てくると、橋詰が帯をしっかり締めなおしてくれた。
そのとき、橋詰は声を落とした。

「兵頭さんの奥襟に気をつけるんだよ」

そういいながら、その場所を触ってこっそり教えていた。
つまりそこを掴まれると逃げられないということだと茜は思った。
そこは首の後ろの襟になる。背の高い兵頭なら簡単に届くだろう。
そこを掴まえられると首根っこを押さえられた猫のように、振り回されて投げ飛ばされるのだ。

兵頭は、ただの筋肉男ではなかった。交流会の試合から、ずっと茜を観察していた。
そして、茜がなぜか本気を出さずに戦っているような気がしていた。
長内由紀を突き飛ばしたとき、4mは飛んだ。
いくら子供とはいえ40kg前後ある人間を自分でもあれだけ飛ばせるだろうか。
葛城少年の場合でもジュニアで優勝した少年の渾身の一撃を手で簡単に払えるだろうか。
もし自分ならできたかもしれないが、打ち所が悪ければ手の細い骨を折ったかもしれないし、そうでなくてもかなり傷を負ったかもしれない。
それをケロリとした顔でこなしている。
相手が子供だということで大したことがないという印象を持ってしまいがちだが、それは一種の錯覚だと思う。
それに技は一瞬で終わるようにしているが、それも実力を知られたくない気持ちの現われのような気がする。
一瞬で終われば記憶にあまり留まらないかもしれない。
が、逆に言えば一瞬で終わらせるのは実力がなければできないことなのだ。
兵頭が一番腹がたったのは青布根の三四郎こと橋詰との対戦風景だ。
背中を床につけ馬乗りにされて、本来なら屈辱的な体勢をとっているのにそのことを気にもしない態度である。
むしろ、自分を少しでも弱く見せようとしているとしか思えない。
そして、最小限の努力で合格しようとする、手抜きの様子が腹立たしいのだ。
剣道の今橋でも空手の熊谷のときも、わざと突きを受けたり、蹴りを受けたりしているようにしか思えない。
それに防具の上からとはいえ、面の上からの突きはかなりの衝撃があるはずだ。
あんなに早く立ち直れる訳がない。
もしかして受けても全然平気だからわざとやられたのではないか。
そう考えるとますます腹が立つ。武術をしている人間を馬鹿にしている。
相手が子供でしかも少女だと思うからいけないのだ。
自分を一番後回しにしたのは手抜きでは太刀打ちできないと考えてのことだろう。
それなら望むところだ。
木崎の本気というのを引っ張り出してやろう。 
そのためには、実力を使わなければならないように追い込んでやればいいのだ。
木崎の弱点は体重の軽さだ。
パワーは見かけ以上にかなりあると考えていい。
とすれば、空中に持ち上げて叩きつける方法が有効だ。
たたきつけても、きっとそれほどのダメージはないはずだ。
そうすれば、きっと本気が見られる。
体重100kg、全身筋肉の兵頭は、木崎の前に聳え立つように立ちはだかった。


田丸氏が開始の合図をすると、上背のある兵頭は長い右腕を伸ばし、茜の奥襟を掴んだ。
あまりにも自然に掴んだので茜は抵抗できなかった。
兵頭は茜を前のめりにさせて、帯の後ろを左手で掴むと荷物を持ち上げるように茜の体を仰向けに持ち上げた。

「参りました!」

兵頭の頭上高く差し上げられた茜が叫び、審判もその声を聞いたので「それまで」と言おうとしたとき、それはおこった。

「きこえないな」

なんと兵頭は茜を仰向けに持ったまま床に叩きつけようとしたのだ。

「それまで!やめろ」

田丸は叫んだ。
何が起きたかわからなかった。
茜が体をねじって足をシュシュッと動かし、スコーンと音がして宙を飛んだと思うと床に着地した。
その後大きな木が倒れるように兵頭は床に音を立てて倒れた。
仰向けに伸びている兵頭は白目を剥きだしにし鼻血を出していた。
どうやら、頭を蹴ったらしい。
どうして兵頭が茜や田丸の声を無視して危険な投げをしようとしたのかわからなかったが、明らかに茜を叩き潰そうとしていたように思われる。
女の子が大の大人を次々に負かして行くのが不愉快だったのかもしれない。



気絶した兵頭をちらりと見て、田丸は茜に弟子の失態を謝った。
だが、茜は手を横に振った。

「違うんです。悪いのは僕・・・いえ、私なんです。この人は悪くありません。」
「どういうことですか?」
「私が楽しようとしたのを見抜いたんだと思います。降参してもお金はもらえるのでやめようとしたのがわかったのです。」
「なるほど、でももし君が床に叩きつけられていたら大怪我をするところだった」
「そうならないようになんとかしろって言ってたような気がします。
そんなに強く蹴りませんでしたが、心配なので見てあげてください」

田丸氏に抱き起こされて目を覚ました兵頭は、きょとんとしていた。
脳震盪のため、茜の奥襟を掴んだところまでは覚えていたが、その後のことは記憶にないという。
脳震盪による記憶喪失は、衝撃を受けた瞬間はもちろんそこを遡って1・2秒もしくは数十秒記憶が空白になることが多い。
茜との約束で田丸は、審判の指示を無視した件について不問にすることとした。


植田は茜に「謝礼・青布根武術連盟」と表書きした封筒を手渡した。
「きょうは本当にありがとう。
無理やり呼んだみたいで本当に申し訳なかった。
でも、今回は私らもすごく勉強になったので感謝してるんだ。」
「あの、六万円も入ってますよ。」
「いいから取っておきなさい。
ところでみんなを代表して質問があるんだが、いいかね?」
「はい、なんでしょう」
「君が習得した武術はなんという名前なんだい?」
「それが・・・」

茜はあらかじめジュンと相談していた説明をすることにした。

「名前はわからないのです。
西入江町に住んでいたころ、私の家に下宿していた中国人の人が、体の弱かった私に教えてくれた武術なんです。
五歳のときから七年間習いました。
特殊な武術で門外不出ということでしたが、なぜか私には教えてくれました。」
「その方は今どこに?」
「例の災害で行方不明になりました。
折角日本に帰化していたのに残念です」
「差しさわりなければ、どのような内容の武術なのか教えてもらえないだろうか」
「力を強く、体を柔らかく、そして素早く動く、その三つを中心に体作りをするということです。
でも私の先生は私の体に気を入れてくれていたので、そのやり方は私にはわかりません。」
「体作りと言ったね。でも武術であるからには技も教えるはずだが」
「正式な技を教えてもらう前に別れてしまったので、謎のままです。
その先生だけが継承者なので、他に知っている人はいません。」
「ふー、話を聞いてかえって謎が深まってしまった」

植田は腕を組んで風林館の天井を見上げ、大きなため息をついた。

「気を入れてもらうというからには気功と関係するのだろうけど、それ以外でどんな鍛錬をしたのかな?」
「馬歩(まほ)といって、空気椅子みたいな格好でじっとしてるとか、一種のヨガみたいな運動で柔軟性を高めるとか後は飛んでいる虫を手で掴む練習もしました」

この中で茜が本当にやったのは、飛んでいる昆虫を手で掴むことだけだった。
それも村の子どもたちに頼まれて取ってみせるのがきっかけでたまたま覚えたことだった。
茜の体の柔軟性と怪力は遺伝性のもので訓練しないで備わっていたものだが、遊びで覚えた虫取りの技術が唯一スピードの訓練になったのかもしれない。
だが、羽虫を掴むということが訓練さえすれば誰にでもできるという訳ではないから、あるいは筋肉の柔軟性と怪力の素質と関係あるのかもしれない。

「そうか、馬歩などは中国の武術家がよくやる鍛錬法だが、それをやると普通のズボンが穿けなくなるくらい太ももが太くなるものだ。
だが、君の場合細めのジーンズが楽にはけるくらい足がスマートだ。
もしかして、単純な筋力だけでなく、気の力も関係してるのかもしれないね」

植田がこう考えてくれたのは、まさにジュンや茜の狙い通りの結論だった。
筋力だけでなく、漠然とした「気の力」でパワーが生まれているという説明で、怪力を誤魔化したいのだから。


だが、茜は「特殊な武術」という言い訳だけでは不十分だとジュンに言われていた。
やはり、きちんとした技らしいものを身につけなければ、そのうち誤魔化しきれなくなるだろうからだ。
身につけて一番有効な技術は柔道だと前々からジュンに言われていたので、高校生の橋詰に近づけたのは幸いだった。
道場主の田丸とも顔見知りなので、橋詰が茜に頼まれて柔道を教えるという話をしたら、快く許可してくれた。
橋詰はまず準備運動と受身を教えてくれた。
実際にやってみせて真似するだけなので橋詰が教えてくれたが、組み手の技となるとやはり気を使ってか、高校生女子の畑中という1級の子を相手にさせた。
背格好が同じくらいで、技を覚えるのにちょうどいいと思ったのだろう。
茜はこの頃になると相手に合わせた筋力を使えるようになった。
だから畑中は茜が大体自分と同じくらいの筋力だと思い込んでいたくらいだ。
その方が技を覚えやすいので、茜は投げ技など覚えるためにまずどんどん投げ飛ばしてもらうようにした。
そして、自分が投げるときにも、決して力を多めに使わないように心がけた。
その結果、投げることができなくても、それは技術ができていないということになり、僅かの力で上手に投げられるようになるまで、何度も練習した。

「木崎さん、だいぶ上手になったわ。今度は私の得意技の巴投げを教えてあげる。」

畑中は茜のことを気に入って、足払い、背負い投げ、巴投げの3つを徹底的に教えてくれた。
最初のうちは脇に橋詰がいて口でアドバイスしてくれたが、そのうち畑中に任せるようになった。
ときどき兵頭が茜を見に来て、目を合わせると他の者に気づかれないように目礼をしてくれた。
もちろん茜としても嬉しかったので、目礼を返した。

「おい、橋詰。木崎茜が柔道習ってるぞ。
お前が呼んだんだろうが、あれで柔道まで覚えたら強くなり過ぎるから、適当なところで切り上げとけよ」
「大丈夫ですよ。教えたのは背負い投げと巴投げと足払いだけですから。本人もそれ以上は覚え切れないから良いって言ってましたし」
「どれ、どのくらい覚えたか見てこようかな。いいだろう、橋詰?」
「はい、先輩。でも柔道は全くの初心者ですから、いじめないでくださいよ」
「いつからお前はあいつの保護者になったんだ。余計な心配するな。あいつはそんなやわじゃない。それより俺の心配をしてくれ」



兵頭が近づくと、畑中はお辞儀をして下がった。

「木崎さん、技を覚えましたか」
「はい、お陰さまで三つほど教えていただきました」
「じゃあ、俺にかけてみてごらん。実際に技を覚えたかどうかは自分より体の大きい者にかけてみるとよくわかるんだ」
「いいんですか?お願いします」

横で見ていた畑中は慌てて一緒に来た橋詰に言った。

「私でも兵頭先輩は絶対無理なのに無茶ですよ。つぶされちゃいます。
止めなくちゃ」
「大丈夫だよ。先輩が変なことすれば、木崎さんは頭を蹴ることになっているから」

橋詰の言葉に畑中は意味が分からず首を傾げるのだった。
一方、兵頭は茜の俄か柔道のレベルがどの程度のものか計ろうとしていた。


兵頭は奥襟ではなく前襟と袖を掴んで背の低い茜を見下ろすように言った。

「さあ、これでいつでもオーケーだ」

といっても30cmも身長差があるから、茜には目の前に兵頭の胸板しか見えない。
茜にとってみれば、前襟といっても胸ではなくお腹に近い襟と、袖の先を掴むのがやっと。
しかもどちらかというと、両腕は万歳に近くぶら下がっている形になる。
どう考えても技をかけられる状態ではない。

「さあ、どの技からかけてもいいよ。返し技は使わずにかけられるようにするから。」

そう言いながらも兵頭は腰をしっかり落として動こうとしない。


「もう、連続でどんどんやって構わないからね」

兵頭は一つでも無理だと分かっていながらそう言って面白がった。

「兵頭さん、少しは動いて下さいよ。」

茜がそう言ったので、兵頭は右側に動いた。その瞬間茜の左足が兵頭の右足を払った。
ドーンと兵頭は右側面を下にして横倒しになった。

「上手だな、今の足払い・・」

慌てて起き上がりながら中腰になったところを、茜は背負い投げをかけた。
兵頭はふふんと鼻で笑って覆いかぶさるように体重を乗せた。
そのとき茜は背負い投げをやめて急に巴投げをした。
前のめりになった兵頭の体は茜の足で支えられ、倒れて行った。
けれどもそのままなら茜は押しつぶされると、誰でもそう思ったろう。
しかし最後の茜の足による蹴離しが強烈だった。
ふわっと兵頭の体は空中で裏返って、畳の上に叩きつけられた。

「見・・見事」

それでも強がりながら、兵頭は立ち上がった。
そのとき茜が手を貸してくれたと思ったので安心していたところを、今度は本当の背負い投げで兵頭は三度畳に打ちつけられた。

「いやあ、実に見事。おっと、もう勘弁してくれよ」

茜が今度は本当に手を貸そうとしたが、兵頭は手を振って断り自分で立ち上がった。

「これだけできれば大丈夫。俺が保障するよ。もう他の技は覚えない方がいい。
あまり強くなられたら俺が困るから」
「ありがとうございます。お陰でコツが呑み込めました」


ぺこりと頭をさげて兵頭を見送る茜を見て、畑中は橋詰に囁いた。

「兵頭先輩って、木崎さんには甘いんですね。あんなにきれいにかかってあげるなんて」
「そう見えたかい?僕には先輩が投げられないように必死に頑張ってるように見えたけどね」
「まさかですよ。兵頭先輩は常に動かざること山の如しですから、ありえませんって」

茜の道場訪問はこの日の一日だけだった。



「結局お前は技ではなく、力で投げたんだな、そのでかいのを」

ジュンは公園のベンチにもたれながら言った。
茜は向かい合わせに立っている。

「あれだけの体重差だもの、技だけでは無理です、師匠」
「けれども技があったから、誤魔化せた・・・だな?」
「はい」 
「お前は剣道とか空手の技は身につけないのか?」
「下手に身につけると危ない気がして」
「そうだな、剣や棒を使うと力の加減は難しくなるから、相手を殺しかねないし、殴っても蹴っても相手がただじゃすまないからな。お前そういうの嫌いなんだろう」
「本当は平和主義者なんです、師匠」
「だろうよ。どうだ、いっそのこと女の子らしいこと身につけてみたら」
「どういうのですか?」
「クラシックバレーとかダンスとか」
「おどるんですか?」
「それなら力を使う必要がないし、誤魔化すこともない。」
「はあ」
「たとえばの話だ。まあ、お前も忙しいからそんな時間はないと思うがな」
「はい」


ジュンは空を見上げて、思い出したように茜に言った。

「そうだ。花山さんからも言われてたんだが、そろそろ俺とも会わない方が良い。」
「えっ。どうしてですか、師匠?」 
「俺は新岡組に正式に盃をもらってないから、今までお前と接触してきたが、いずれその道に入る人間だ。
今度から連絡したいことは間下部さんを通すことになるから、俺は不要になる。
だから、道で会っても知らない振りをしろ。」
「どうしてそんな冷たいこと言うんですか?」
「馬鹿野郎、てめえの立場をわきまえろ。俺だっていつまでもションベン臭いお前の相手はしてられないんだよ。要するに俺にもすることがあるってことよ」
「絶対知らん振りしなきゃいけませんか?こっそりウィンクするとか」
「お前なあ!」

ジュンは茜の頭をピシャリと叩くと後は何も言わずに横を向いていた。
茜は次の言葉を待っていたが、ジュンが怖い顔をして振り返ったので驚いた。

「早く行け!」
「は・・はい、師匠」
「もう師匠じゃあない。赤の他人だっ!」
「はい、じゃあ、また」
「またはない!」
「さ・・さようなら」
「うるさい!このガキは」

ジュンは茜の尻を思い切り蹴った。茜の体は1mくらい飛んで転がった。
地面に転がって起き上がろうとしない茜を見て舌打ちするとジュンはさっさと歩き出した。


「痛いよ・・」

茜はお尻をさすりながらやっと起き上がった。そして首を傾げた。

「あれ、痛いのはここじゃない。」

茜は今度は胸に手を当てた。

「変だな、ここが痛い。」 

すると、茜の目から涙がぽろぽろ零れてきた。後から後から零れてきた

ジュンは離れた所に停めておいた車に戻ってきた。
中には花山芳江が待っていた。

「縁を切ってきたかい?」
「へい」
「あんな臭い芝居をしないで、普通に言い聞かせられなかったのかい」
「すみません。俺ができなかったんです、そういう器用なこと」
「そうだね、そういう器用な人間はこの道には進まないもの。仕方ないさ」

車は走り出した。

「おかみさん、もう一つ片付けなきゃならないことが・・・」
「そうかい、その後で盃を貰いにきな。心残りがないようにね」
「ありがとうございます。」

そのときジュンの目の奥に暗い影がよぎった。


それから一ヵ月後のことある。
間下部が茜を呼んで改まった調子で話した。

「これは知らせるかどうか迷ったんだが、実はジュンという青年がいたろう。茜も知ってると思うが。」
「はい、ジュンさんがどうかしましたか」
「3日前に死んだよ。病院のトイレで首を吊って」
「えっ?」
「大怪我をして入院してたんだが、動けるようになってすぐのことだったらしい」
「いったい何があったんですか?」
「怪我をした経緯については詳しいことはわからない。だが、全身骨折で足腰満足に立たないのを苦にしての自殺らしい。」
「・・・・」
「それで、彼は身寄りがないので、共同墓所に納骨されることになるんだが、そのときよかったら見送ってやれないかという話だ。」
「いつですか?」
「明日の午前11時に高台墓地で納骨するそうだ。
ほんの僅かな知り合いしか集まらないそうだが、行くなら学校を早退するように連絡しておくが」
「行きます。お願いします」


その日は霧雨の降る肌寒い日だった。 
間下部は車で学校から高台まで送ってくれたが、中には入らずに車で待っているとのこと。
茜が墓地の事務所に入ったとき、既に何人かの顔見知りがいた。
新岡長治と花山太一・芳江夫妻である。意外な事に同じ学校から武井も早退して来ていた。
後から見知らぬ若者が二人、そのうちの一人は黒人のような顔立ちをしていた。

「それじゃあ、時間ですのでそろそろ始めます。

鹿島ジュンさんの納骨に立ち会う方たちは、私の後についてきてください。」

係りの痩せた男が骨壷を持って先に歩き出した。
その後を7人の立会人がぞろぞろとついて行く。
中央に大きな蓋があり、周りの壁に沢山の金属製の札がびっしり貼られた広い部屋で止まると、男は説明を始めた。

「ここは身寄りのない人、事情があって墓守を家族に頼めない人などのお骨を納める場所です。
けれどもいわゆる無縁仏の墓とは違って、いつも誰か彼かがお参りに来てくれるので、仏さんも全く淋しいということはないと考えます。
最近はごく普通の家庭の方からも納骨に来ていただいてます。
ですが、今お集まりの皆さんは、この鹿島ジュンさんのことをご存知の方たちですから、ときどきは会いにきて話しかけてあげていただければ、仏さんも喜ぶのではないかと思います。
それでは、これから簡単なお経を上げさせていただきますので、合掌してください」

仏像がある場所に骨壷を置いて、男はなにか早口で調子外れのお経を読んだ。
その後ろでみんなが手を合わせる。
それがすむと焼香をして、部屋の中央の蓋をあけて、骨壷の中身をあける。
床下一面がお骨の収納場所になっているらしい。

「では鹿島ジュンさんの名札をこの場所にかけますので、位置を覚えておいてください。
といってもこの次に来るときには探すことになると思いますが」

というと係りの男は金属の名札を壁に取り付ける。
電動ドライバーで上下二箇所をネジ釘で止めるのだ。
壁の手前は低い棚になっていて、花山婦人が花とお菓子を供えた。
みんなはここでも焼香した。

「以上です。なお、御供花はそのままですが、お菓子や果物などはお持ち帰りになって頂いても構いません。
残される場合は時間がたったものからこちらの方で処分させていただきます。
皆さんはこれからもいつでも気軽にここに来て仏さんに話しかけてやってください。
それでは私は失礼致します。」

新岡長治と花山夫妻は茜や他の人間に声もかけずすぐ立ち去った。
武井が茜のところに近づいて話しかけてきた。

「悪かったね、入院したこと教えなくて。ジュンさんに口止めされてたものだから」
「どうして怪我したんですか?事故かなにか?」
「いや、大勢の男たちに、やられたらしいよ。
半殺し同様の状態で道路に出てきたところを発見されて救急車で運ばれたんだ。
うちの仲間が運ばれたところを見て教えてくれた。
最初は誰だかわからなかったけど、病室の名札を見てわかった。

頚椎まで損傷してたんで身体障害者になってしまうって言われてたみたいだよ。
よほどそれが嫌だったんだね、プライドの高い人だったから」
「誰?その大勢の男たちって」
「ここのもんじゃないらしい。でもジュンさんは教えてくれなかったよ、最後まで。
何回も見舞いに行ったんだけどね。絶対あんただけには言うなって言ってた。」

それまで離れていた所にいた二人の若者が近づいてきた。

「ちょっといいかい。」

眉毛の濃い目の小さな男が二人のどちらに言うともなく、話しかけてきた。

「あんたらがジュンとどういう縁の人間かはわからないが、こうしてここに来てるってことは、まんざら赤の他人って訳でもないんだろう」

ちょっと崩れた感じの男の様子に警戒した二人を見て、男は苦笑いをした。

「ただ、もし何が起きたか本当に知りたいと思ったら、教えてやろうと・・・いや、いいんだ。俺はどっちでも。」
「教えてください」

茜はその男の正面に立って頭を下げた。


「ジュンさんは私の師匠みたいな人でしたから、知りたいです」
「いいだろう。知ってることを教えよう。」

男は空いている低い棚に腰掛けて話し始めた。
その話し方は、ゆっくり話せば長くなるのでなるべく短く話そうとしてるのか、ややせっかちな話し方だった。

「三年前ジュンはナナという女と知り合ったんだ。二人は恋に落ちた。
ところがナナには藤崎というワルがつきまとっていて無理やり自分の女にしてた。
ジュンと藤崎はナナのことで争い、ナイフを持ち出した藤崎が逆にジュンに刺された。
それでジュンが少年院に二年入った。ここまでいいかい?」
「初めて知りました。それで?」
「少年院から出たジュンは藤崎が警戒しているので、なかなかナナに会えない。そこでこのルーカスの登場だ。」

黒人の血が混ざっていると思われる青年が白い歯を見せて笑った。

「ルーカスはある理由でナナに近づいても誰も文句は言わない。またナナにとっても良い友達だったんだ。」
「ある理由って?」
「だから、ルーカスがナナに近づいても、藤崎は焼きもちを焼く必要がないんだ。それ以上聞くなよ。
とにかくナナはルーカスに頼んでジュンとの連絡役になってもらった。
ジュンはナナがアメリカのパパのところに行きたがってることを知ってたから、
なんとか藤崎から逃がしてアメリカに行かせたかったんだ。」
「アメリカに行かせたら、ジュンさんはナナさんに会えなくなるじゃないですか」

ルーカスはそのとき口をはさんだ。

「いえ、ジュンはナナの幸せだけ考えていたので、会えなくても良い。そう考えていたんです。」
「そういうことだ。それであの日、ナナは近くのスーパーに買い物に行く振りをして向かったんだ。
その途中ジュンが車でナナを拾った。
ナナは車の中でジュンの用意した別の服に着替え、着ていた服はマネキン人形に着せて助手席に座らせた。
アメリカに行く旅行の荷物も航空券もルーカスと相談してジュンが用意していた。
そうやってから途中の駅で彼女を降ろし、ジュンはわざと少し戻って追っ手が来るのを待ったんだ。
藤崎たちがやってきたら、ジュンはナナと一緒のふりをして逃げまくった。
ナナがアメリカ行きの飛行機に乗る時刻まで時間稼ぎをしたって訳さ。」
「それでどうなったんですか?」
「後はご存知の通りだ。
ジュンは広国市から百数十キロもある、この青布根市の神宮山まで逃げて来て、そこで追い詰められた。
ガソリンも切れかかっていたしね。」
「藤崎という人は何人で追っかけて来たんですか?」
「30人はいたろう。なんせ藤崎は与太者のグループの頭だからね。
ジュンは山の中を逃げ回ったけれど捕まって袋叩きにあったんだ。けれどもその後もう一度逃げた。
それも捕まって更に酷い目に合わされた。
俺はジュンの中学時代のダチで見舞いに行ったとき、こういうこと全部教えてくれたよ。」
「グループって・・・」
「性質の悪い青少年の集まりでね。名前もふざけてる。侠道連合っていうんだ。その名前から最も離れている外道どもの集まりだよ。普段から改造した真っ黒なセダン2台にバイク10台くらい持ってるから、30人は運べるんだな。」
「きょうどう連合・・・・・」
「ジュンは馬鹿な奴だよ。ナナとは最後までなんにもなかったんだからな。
それなのに命をかけて逃がすなんて、俺には理解できないよ。じゃあな、おちびさん。」

それだけ言うと二人の若者は離れて行った。
武井は茜に耳打ちした。

「侠道連合ってのは、うちの学校の二年坊主たちが尻尾振ってくっついてるグループの名前だよ」
「いったいどこにいるのそのグループは?」
「本拠地は広国市だけど、最近こっちの方にまで足を伸ばして仲間作りを始めてるらしい。こいつらにだけは関わらない方がいいよ」
「関わらないよ、武井さんもね」

茜はそういうと武井と別れて間下部の待つ車に戻って行った。


「赤の他人が好きな女の人を逃がしたために半殺しにあったって、それが私と何の関係が・・・」


茜は道端の石を蹴った。
車では間下部が待ちくたびれていた。

「遅かったな、茜」
「ごめん、ダディ」

車は墓地を走り去った。



数ヶ月後の夏。

「なんだよ、お前ら」

武井は学校帰りの途中で下級生の女の子たちに囲まれた。

「お前、総番の武井だろう?」
「二年のくせに呼び捨てかい?」
「関係ねえよ。二年とか三年とか言ってんじゃあねえよ。」
「ほう、でなんか用かい」
「用があるから来たんだよ!」

いきなり殴りかかった少女の顔を武井はカウンター気味に平手で突き飛ばす。

「おいおい、仁義もなんもなしかい」

殺気だった少女たちの輪を素早く抜けた武井はカバンを藪に放って構えた。
一斉にかかってきた少女たちの最初の二人は左右のキックで倒したが残りの二人が組み付いてきてもがいた。
顔を引っかいたり、髪の毛を引っ張ったりする二人を頭突きと膝蹴りで引き離してから、武井は怒鳴った。

「お前たち素手喧嘩(すてごろ)の作法もなしかい。」


そのとき後ろから強烈な蹴りが入った。
背中を蹴られてうずくまりながら、振り返ると男子生徒が三人ほどいた。

「お前たち、男も使うのかよ・・」
「うるせい!」

立ち直った少女たちは一斉に飛びかかり足で蹴り始めた。
最初に顔を平手で突き飛ばされたリーダ格の少女は、鼻血を拭ってから倒れて動かない武井に唾を吐きかけた。

「けっ、総番たって大したことないじゃねえか。みんなもやれ」

他の少女たちも唾を吐きかける。

「きょうからうちが総番だ。下手に騒がない方がいいよ。うちらのバックには侠道連合がついているんだ。」

そう言って、もう一度武井の体に思い切り蹴りを入れた。


少女や少年たちが立ち去った後、うめきながら武井が起き上がった。

「あきれて物も言えねえ、仁義もない。タイマンもできねえ。男も使う。
おまけにバックまで必要かい。あいつら誇りってもんがないのかよ」

よろけながら藪に投げたカバンを拾うと、汚れた制服をポンポンと叩いた。
だが、突然はっとして立ちすくんだ。

「茜さんのことが、ばれなきゃいいけど・・本当の総番はあの子だから」


青布根中1年3組の教室では仲良し四人組がおしゃべりをしていた。
ちょうど2時間目が終わり中休みが始まったばかりのときである。

「茜、それでバレー教室に見学に行ったの?」
と花実。
「うん、それで見てばかりいないで、ちょっと一緒にやってみてごらんって言われてね。」
「やったの?」
「ターンというかスピンというのか、くるくる回るのがあるんだけど、頭をできるだけ進行方向に向けるようにして回るんだ。こうだよ」

茜が教室のスペースを使ってくるくる回りながら移動した。頭の回転が体の回転に先行しているやり方だ。
そのとき、武井が廊下から頭を下げて合図したのが目に入った。
茜は三人に手を上げてから教室を出て行った。
京子は、それを見送りつぶやいた。

「なんか今のは上級生の呼び出しというより、王女様をお迎えに来たって感じだね。」




屋上には男女の生徒が20名ほど集まっていた。

「武井さん、その子はなに?」

男生徒の中心にいた眼鏡の男が茜を見て問い質した。

「訳あって秘密にしてましたが、私の上の人です。」
「ええっ、その子が君より上だって?!そんなに可愛いのに僕より強いの?」

女生徒たちはみんな一斉に頷いたが、男生徒たちは目を皿のようにして茜を見つめた。
茜は恥ずかしくなって、武井の後ろに隠れた。
武井は一応眼鏡の男に茜の立場を説明した。

「ジュンさんに言われてて、私たちの仕組みに巻き込まないようにしてたんですが、もし情勢を知らずにいると困るので、一緒に聞いてもらうことにしました。」
「わかったよ。それじゃあ、きょう集まってもらったのは・・・」

眼鏡は男女合わせてのリーダー格らしく、番長組織についての説明を始めた。
これは初めての茜も加わっているので、やさしく言ってるようだった。
それによると、1年生から3年生までの中から、もっとも喧嘩の強い人間を1位から10位まで決めて、番格とする。
男子にも女子にも1位があり、それを総番と定める。
男子と女子は互いに腕を競ってはいけない。それぞれの序列を尊重するためである。
但し、女子の総番だけは希望した場合、男子の番格を名指しして挑戦することができる。
また、11番以後の番外の者が番格を希望するとき10番の番格から倒さなければならない。
序列を決める場合、素手喧嘩(すてごろ)・タイマンが原則である。
以上のようなルールは四代前の総番の鹿島ジュンが決めた。
他にも無駄な争いや混乱を避けるための細かいルールがあった。
なお、今回は茜を除外して総番の上の陰の番格として例外的に扱っている。
また眼鏡は喧嘩の実力は番外だが、男子の総番に求められて名誉総番になっている。
名誉総番の役目は今やってるようなまとめ役である。
現在、男子にも女子にも2年生の番格が存在する。次期総番の有力候補である。
しかし、今回番外の2年生がいきなり女子の総番に挑戦してきた。
しかも数々の違反を犯している。挑戦というより闇討ち同様のやり口だ。
また、侠道連盟をバックに持っていると宣言している。
この違反者をどう扱うべきかが集まってもらった理由である。


以上の説明をすらすらと眼鏡は喋った。
茜は武井を突いた。

「あの名誉総番はどういう人ですか?」
「新岡仙吉さんと言ってね、あの人の親は新岡組の組長だよ。総番の住田さんは新岡組の子分筋で、小さいときから一緒に遊んでいたらしいよ。」
「新岡さん・・・そうですか」

茜は自分の恩人の息子の顔をまじまじと見た。



色々な生徒から色々な意見が出た。

「やはり、問題の二年生をすぐ呼びつけてけじめをつけなけりゃ駄目なんじゃないですか」
「それが狙いかもしれないよ。バックが出て来る口実を与える。」
「仙吉さんにも木崎さんにも手が伸びると考えた方がいいな。用心した方がいい。」
「もしかすると仙吉さんを狙って、新岡組が報復するのを待っているとか」
「そうなったらもう子どもの喧嘩じゃないよ」
「それが狙いかも」
「そこまでいかなくても、自分たちの配下の組織を作ろうとしてるのかも」
「じゃあ、下手に動けないな」
「とにかく襲われないように用心しておくに越したことはない。」

新岡仙吉が、みんなの意見をまとめた。

「まずここにいるみんなは襲撃に遭わないように気をつけること。
できれば集団で動くようにしてほしい。それと僕とか木崎さん、住田君は狙われやすい気がする。
特段の注意が必要ってことだね。
後、例の二年生については名前も顔も割れているからけじめをつけるのは少し様子をみよう。
みんなも侠道連盟の罠に落ちないように軽率な行動は慎もう。
もう少し向こうの狙いを見定める必要があるってことだね。
あと、何かある?住田君。」

住田というがっちりした男子が前に出てきた。男子のナンバーワンである。

「昨日の夕方のことだけど、侠道連盟が30人ほど神宮山に来たって情報が入ってきた。
マイクロバス二台とバイク10台で来ているらしい。
神宮新橋の手前の見晴らし台の駐車場に車やバイクを停めて、自分たちは川原でキャンプしているそうだ。
なにか不気味な感じがする。
奴らなにかしようとしているのは確かだ。もちろんあの場所には近づかない方がいい。」
「そういうことだね。また新しい情勢になったら集まってもらうことになると思う。じゃあ、きょうはこれで。」

仙吉がそういって、解散になったが、武井と茜は呼び止められた。
仙吉と総番の住田が残っていた。


「住田が木崎茜さんが自分より強いはずだ、と言って聞かないんだ。僕はそれはないだろうと言ったんだが・・」


住田という男生徒が茜に丁寧に頭を下げた。


「すみません。ある情報を握ってまして、木崎さんが特殊な中国武術を使うということも知っています。
それを自分の体で確かめたいので相手してやってくれませんか」


武井は困った顔をして茜を見た。茜は肩をすくめた。


「中国武術ということまで知っているなら、どこから漏れたかわかります。
きっと全力で向かってくるんでしょうね?」

「はい、敵わないまでもお相手させてください」


仙吉は勿論のこと、武井までがこのやり取りを驚いて聞いている。


「茜さん、住田さんは青布根中始まって以来の喧嘩の神様って言われてるんだよ。」


だが、茜も住田もその話はもう耳に入ってなかった。
住田が動いた。
パパンパパパパンと住田から出た連続パンチを茜は掌で受けたり払っている。
接近してた住田は茜の首に両手をかけて、左右の膝蹴りをした。
それも茜は両手で防ぐ。次に住田は茜に頭突きをした。
これはヒットした。茜はしゃがみ込んだ。
すると住田も同じようにしゃがみ込んだ。

「ああ、驚いた。こんなに速い攻撃初めてだよ」

茜は住田に言った。住田は痛そうに顔を歪めてた。

「参りました。指を離してください」

茜は首にかけた住田の手を離すとき、両手の中指をしっかり握ったのだ。


「木崎さんは、わざと攻撃しなかった。そうですね?」

住田の言葉に茜は改まって立ち上がると服の襟を直した。

「なぜルールを無視してまで、私の腕を見ようとしたのですか」
「実は」



住田は仙吉の方を見ながら言いづらそうに切り出した。

「ぼっちゃんの仙吉さんが今度狙われるのがはっきりしてるから、木崎さんにも守ってもらいたくて。
今日明日の学校の行き帰りが心配です。
中学生だけなら俺一人でもなんとかなりますが、あいつらが出てくるとなると守りきる自信がありません。
お願いします。木崎さん」

住田は頭を下げた。仙吉はぽかんとして見てる。

「もし大勢で襲ってくるようなことがあったら・・」

木崎茜は住田の肩に手をかけて言った。

「三人で逃げましょう。戦わないで逃げるのです。
それを約束してくれるなら、明日と明後日の行き帰り三人で動いても構いません。
但し私は夕刊を配る仕事があるから、部活動は休んでもらいますよ。」
「三人じゃなくて四人で動こうよ」

そう言ったのは、それまで黙って聞いていた武井だった。



その日の学校の帰り道のことだった。 
もう少しで橘荘に着くというときに、物陰から木刀を持った女性徒たちが5人飛び出した。
囲まれないように位置をずらしながら茜は周りの様子をうかがった。
男子生徒が三人やはりバットを持って隠れている。だがそれだけではない。
さらに離れたところにもっと年上の男たち5人もいた。
バイクが3台止まっているのが見える。


「ちょっちょっちょっと待って下さい。」


茜はコンクリートの塀を背にして立つと、カバンを足元に落とした。


「もしかしてその木刀で私を叩く積もりですか?」


リーダー格の女生徒は狐目の子だった。他の子は天パーの子。エラの張った子。
出目の子。黒豚のような子。
茜は時間を延ばしながら観察する作戦に出た。


「そんなので叩かれたら、私死ぬかもしれません。殺さないでください」
「そうだよな、これが普通の反応だよな」


狐目が周りの子に語りかけるように言った。


「だから、こんな子が武井を一発で倒したとかいうのはガセじゃないのか?」
「だって、見かけに騙されるなってそういう話だよ」


天パーがエラの方を見ながら同意を求めるように言った。
エラは前に進んで来た。


「お前、1年3組の木崎茜だよな。」
「は・・はい」
「体育の池田を怪我させたって奴だろう?」
「ちょっと違います。先生が勘違いして私がふざけてると思って叩いたんです。」
「叩いたのか、池田が?お前じゃなく?」
「そのとき、こんな風に私したもんだから」


茜は背中を丸めて両手で頭を抱えて怯えた様子を演じた。


「そしたら、先生の手首が私の腕の硬いところに当たって、傷めてしまったらしいんです。」
「はあ?そうなのか?」
「どけ。うちが聞く。」


出目が今度は前に出てきた。
狐目はちょっと横の方で控えていて、後ろの男子に待ってろという合図をした。


「木崎茜だろう?屋上から飛び降りて無傷だったって不死身の1年生だろう」
「えーっ、そんな風になってるんですか?
あれは風邪薬と間違えて、タミフルを飲んだために落ちたらしくて、私は覚えていないんです。
でも木の枝にひっかっかって地面の柔らかい土に落ちたために奇跡的に助かったんです。
私は病院のベッドで目が覚めるまで気絶してたから後から聞いた話しですけど。」


五人ともすっかり木刀を下げて茜の話を聞いている。


「まあ、ちょっと座れ。話を整理しよう」


狐目がウンチ座りをした。茜も言われるまま塀を背に行儀良く体育座りした。他の四人もしぶしぶ座った。


「武井は知ってるよな?」
「はい、落ちた日とその後でも一回遭ってます。」
「その後かどうかわかんないがタイマン張らなかったか?」
「タイマンって喧嘩ですか?そんなことしたら殺されます」
「だよな?じゃあ、二人で会って何したんだ、お前は?」
「屋上で自分たちと会ったこと黙っててくれたから、もうお前には誰も構わないようにしてあげるって言ってくれました。」
「それだけか?」
「はい、それだけです。本当にその後約束通りにしてくれました。いい人です」
「案外いいとこあるんだな、あいつは」
「水野さん駄目ですよ、あんな奴いい奴なわけないでしょ」


黒豚が口を尖らせた。


「そりゃ、お前は1トンキックをもらって吐きそうになったからそう思うかもしれないけど、人間には二つの面があるんだ。
自分にとって気に入らない部分だけ見てたら、良い所が見えなくなるじゃねえか。
うちらはあいつに唾かけたけど、ちょっとやり過ぎたかもしれない。」
「武井の件は終わったからどうでもいいですけど、こいつはどうするんですか?」
「やっつけたことにすればいい。」


狐目は木刀を茜の頭上5cmくらいのところに近づけて、チョンと触った。


「お前らもやれ、痛くするなよ。泣かしたら駄目だぞ」


他の四人も同じようにしたが最後の黒豚のときだけコンと音がした。


「こらっ、今音がしたろう。なんで静かにやらねえんだ?」
「すみません、水野さん」
「これで、良い。もし人に聞かれたらうちらに一発ずつやられたって言えよ。
もう行っても良いぞ」
「えっ、今ので許してくれるんですか?ありがとうございます。」


狐目は茜に手を差し伸べると立たせて、抱きしめた。


「華奢な体だな。これで不死身な訳がない。
いいか、あることないこと言う奴がいるかもしれないけど、そんな噂に負けちゃだめだ。がんばれ」
「ありがとうございます、助けてくれて」


その後黒豚がハグしてくれた。


「悪かったな、強く叩いてしまって」
「いえ、そんなことありません。」


出目も同じようにハグした。天パーは肩をとんとんした。


「勘違いして迷惑かけたな」


最後にエラが茜をきつく抱きしめると真顔で言った。


「うちは違う噂を聞いたよ。
お前小学校に体が弱くて殆ど行ってなかったんだって?」


茜は頷く。


「でもって、九九ができなかったのに、友達に頼んで教えてもらって、できるようになったんだって?」
「はい、ずいぶん時間がかかりましたけど」
「うち、お前を尊敬するよ。お前は小さな巨人だ。うち、実は6の段から上まだちゃんと言えないんだ。
でもやってみるよ。お前に勇気をもらったから」
「なに話してる?もう行くぞ」


狐目が離れたところでエラを呼んだ。


「ちょっと待ってください」


茜は5人を呼び止めた。

「皆さん、とってもいい人なのに。なにと戦っているんですか?」

狐目はその問いに遠い目つきをした。そして引き返して来た。

「良い質問だなあ。うちらは、きぞんの物を壊して新しい道を切り開くんだよ。」
「きぞんの物って?」
「うーん、ちょっと難しい言葉だから100パーはわかんないけど、青布根中の番長組織を作ったのがジュンって男でこいつは人の恋人を奪って外国に売り飛ばしたような悪い奴なんだ。
そいつは退治されたらしいけど。
それとか、青布根中には新岡ってヤクザの息子が威張っている。
そういうのをみんなで協力して倒して良い社会を作ろうって話なんだよ。
だから、侠道連盟に入ればやくざだって倒してしまうすごい力を持つことができるんだ。
タイマンとかステゴロとか言うのも古い考え方で、そういうのを無視して戦えってことさ。
難しくってわかりづらいだろうけどな、まあ、そういうことだ」
「なんとなく、わかりました。ありがとうございました」
「おう」




水野たちが立ち去った後、自転車に乗って急いで学校に引き返した茜は、顔を知っている番格の女生徒を見つけて、木刀やバットを持った人間がうろうろしているからと警告した。
そして、新聞販売店に行くと、神宮山近辺の地図を見せてもらった。
神宮新橋のすぐ近くに森林の山があり、その中に幾筋もの山道がある。
新橋側から見てその山の裏側には地蔵堂がある。
地蔵堂も新橋も県道の上にあるから、自転車で行ける。
その地図を頭に叩き込んでから茜は新聞配達、そして夕食をすませた。
暗くなるのを待ってから茜は行動を始めた。
新聞配達のときの格好はジーンズに上は黒いパーカーだったがそのままの格好で懐中電灯を持って、軍手をはき、自転車に飛び乗った。
黒いセダンではなくマイクロバスで来たのはなぜだろう?何かを積んできたのか?
茜は自転車を漕ぎながら考えを整理しようとした。
30人というと、きっとあのときと同じメンバーに違いない。ジュンさんを半殺しにした連中だ。
ジュンさんはどうして入院したことを私に言うなと言ったのか?赤の他人だから?違う。私を巻き込みたくなかったから・・。
きっとそうだ。私がジュンさんの仇をとろうとするのを避けるためだ。
ジュンさんはどうして私を蹴飛ばしてまで赤の他人になろうとしたのか?
侠道連盟や新岡組という裏の社会と関わらせないため?私を守ろうとして?
それはどうして?私のことを大事に思ってくれたから?
弟子の私を大事に思ってくれていたから?
茜はそんなことを考えながら必死に自転車を漕ぎ続けた。
向かうは神宮新橋だ。


茜は時速30キロ近い猛スピードで地蔵堂に着いた。

自転車を地蔵堂の裏に隠して、そこから山の向こう側に行くことにした。
山には山道(林道とか農道)の他に獣道というのがある。
茜は僅かな月明かりを頼りに山の裏側に行く最短距離を探した。
林道はくねくね曲がってできるだけ傾斜を緩やかにしてその分長い距離になっているが、獣道は最短距離を行くことが多い。
だから何度も林道に出るがすぐまたそこから出るような形で山頂についた。
そこから、川原の明るい光が見えた。
焚き火や発電機による灯り、肉を焼いている煙や匂いまでがわかった。
テントが7つほど。大音響の音楽が鳴り響いている。
左手を見ると新橋があり、さらにその左手に展望台と駐車場がある。
確かにマイクロバスが2台、バイクが10台置いてある。
駐車場にはガードレールがあり、その下は谷底になっている。
駐車場のガードレールには左右の端に切れ目があり、その幅は2mくらい。
一方、川原ではバーベキューを食べながら酒を飲んでいるらしく、音楽も大音響で鳴っているので、駐車場へはそれほど注意を払ってないように見える。
ここまで観察すると、茜は黒いパーカーのフードを被って、紐で絞って顔をできるだけ隠した。
体勢を低くして森の木の下を潜りながら、駐車場の方へと最短距離を下って行った。
県道まで下りると、すぐ駐車場に入る。
駐車場には街灯がついていてぼんやり明るくなっている。
茜は駐車場のどの位置から川原が見えるか確かめてみた。
その結果、2台のマイクロバスが右側に並んでいるが、その右側の方のマイクロバスが川原にいる人間のごく一部から見えていることになる。
また、ガードレールの右側の切れ目の場所も同じように川原の人間から見える位置にある。
次に茜はマイクロバスの中を懐中電灯を使って覗きこんだ。
左側のマイクロバスの中には木刀・バット・鉄パイプ。
釘を一杯突き刺した棒など、物騒なものが入っていた。
右の方は何も入ってなかったので、きっとキャンプ道具一式でも積んでいたのだろう。
実は茜は、侠道連盟の車やバイクを全部谷底へ落としてしまおうと思ってここに来たのだ。
そうすれば、彼らは広国市へ帰る。茜はそう信じていた。
まず、茜は10台のバイクをそっと持ち上げてガードレールの外側に置いた。
バイクは崖から1mくらいの場所に並べて置いた。
次に左側のマイクロバスをガードレールの左端の切れ目まで持って行く作業に移った。
茜は車の前を持ち上げて左側にずらした。それから車の後ろを持ち上げて左側に。
そうやって交互に持ち上げながら車を左端のガードレールの切れ目まで運んだ。
後はサイドブレーキを引いてあるので、重いが後ろから押して、崖すれすれまでの位置に持ってきた。
次に右側のマイクロバスを動かす番だ。この車だけが残っている。
すでにガードレールの右側に停めてあるので、右端の切れ目までは2・3mしかない。
けれども川原から見える場所なので、こっちを見ていないときを見計らって、車の後部を右に少しずらした。
そしてまた前に廻って、さらに右側に少しずらした。
また、川原の様子を見る。見ていない。また後ろをずらす。
そのとき、こっちを見た者がいた。
茜は車の陰から見ていたが、その男は一度見て眼をそらしたが、何か変に思ってもう一度こっちを見ている。
車が斜めになっている僅かな変化に気づいたのかもしれない。
急に音楽の大音響がやんだ。気づかれた。
茜は大急ぎで、一番左端の車のところに行き、思い切り車体を押した。
車は派手な音を立てて谷底に落ちて行った。
その音は夜の闇に大きく響く。
茜は死に物狂いで、10台のバイクを次々に持ち上げ、谷底に放り投げた。
これも派手な音がした。
最後の右端のマイクロバスの陰から川原を見ると、もう沢山の男たちが川原から上がって橋の真ん中まで走って来ている。
茜は最後の一台を諦めた。姿を見られてしまっては大変なことになるからだ。
急いで道路を渡って山の森に飛び込んだが、一つ誤算があった。
道路を渡るときの姿は川原からは見えない位置かもしれないが、橋からは見える位置だったということだ。
山の獣道を駆け上がったが、下から声が聞こえる。
「なんだ、これは!誰がやったんだ?」
「誰かが逃げて行ったぞ」
「追いかけろ」「車も使え!」
「一人は見たがきっと10人以上いるぞ」
「山を登って追いかけるのと反対側まで車で行って待ち伏せするのと二手に分かれよう。」
「挟み撃ちだ」

下から登ってくる音や怒号。車が発進して地蔵堂の方に向かう様子。
山頂に来た茜はどの方向に逃げれば良いのか迷った。
色々なことを考えた。自転車が見つかかるのでは?
草を被せておけばよかった。あの自転車には新聞販売店の名前が書いてある。
逆に川原側に逃げれば誰にも見つからない。
けれども30人もいるから、そっちの方に目をつける者もいるだろうし、まごまごしていたら見つかってしまう。
やはり逃走手段は自転車しかない。
地蔵堂側に下り始めると、もう車が道路に停めてあって、十数人の男たちが下から登り始めているのが見えた。
茜は背後からも声が聞こえて来るのを感じ、囲まれたと思った。
そのとき大きな木が見えた。太い幹にこんもりと葉が茂り、高く聳え立つ木だ。
茜はその木の下まで来ると、そろりそろりと登り始めた。
幹が葉に隠れるところまで登ると、背後から追ってきた大勢の声が聞こえた。
茜は更にゆっくり音を立てずに登った。
そして太い枝のくぼみに体を丸めて隠れた。

「おかしいな。誰も見なかったか?」
「大勢でやったはずだけどな」
「どこに消えたんだ?」
「俺のバイク谷底に落ちてしまったみたいだ。」
「まだ使えるかどうか見てこよう」
「馬鹿、目茶目茶に壊れているに決まってるよ。すごい音が聞こえたろう」
「ああ、畜生!」
「このマイクロバス。どうする?レンタカーだろう?」
「一台分弁償か?」
「畜生!ぶっ殺してやる。」
「誰だ!出て来い」
「あっ、もしかして川原の方に逃げたんじゃあないか?
それともその反対の、橋とここの中間辺りに降りたとか?」
「じゃあ、川原のテントとか酒が盗まれてるかもしれない。」
「そうなったら、寝る所がなくなる。」
「まず車で引き返して川原の方を見張ろう。」
「後の半分は中間地点まで歩いて行こう。」
「おい、ここに残らなくていいのか?」
「ここはもう誰もいない」
「じゃあ、行こう」

車が川原の方にに引き返して行く音。
後は歩いて県道を戻って中間地点に向かう男たちの姿。
茜はそろりそろりと木を降り始めた。
なるべく音を立てないようにしたが最後はどうしても地面に飛び降りるときに微かな音がした。
そして自転車を隠している地蔵堂の裏に近づいて行った。
そのとき黒い影が二つにゅーっと現れた。

「引っかかったな。自転車を探してるのか?」

茜は慌てて後戻りした。だが、背後からも2・3人の気配があった。

「なんだ。ずいぶん小さい子どもだな。とすると青布根中学校の奴らか」

正面の大きな男はゆっくりと近づいてくる。

「顔を隠してるな。だがお前はもう囲まれたから逃げられない。
仲間はどこにいるか白状してもらうぞ。」
「藤崎さん、捕まえますか?」

背後から近づく男が正面の男に声をかけた。こいつが藤崎か。
茜はその瞬間正面の大男に突進した。
そして茜はジャンプした。
バレーのグランジュッテの形だ。
上からジャンプしたので大男の顔に前足が当たった。
その瞬間前足は後退し、後ろ足で茜は藤崎の顔面を思い切り蹴ったのだ。
藤崎が真後ろに仰向けに倒れたとき、その横にいた男は膝の裏を蹴られてがくんと膝をついた。
その後頭をパンと平手で叩かれて気絶した。
3人の男が慌てて上から駆け降りてきた。
ところが中央の一人はカウンター気味にお腹に頭突きを浴びてエビのように体を丸めて倒れた。
右側の男は茜をつかまえようと出した手を逆に掴まれ捻られてのけぞったところを顔を叩かれて気絶した。
左側の男は逃げようとして後ろから飛びつかれスリーパーホールドをかけられ、気絶した。
茜は自転車が無事なのを確かめ、すぐ県道に出して全速力で青布根市に向かって走った。
もちろん目立つのでライトはつけていない。


翌日の朝、茜は待ち合わせの場所に行った。武井と住田と新岡が既に来ていた。

「ずいぶん皆さん、早いですね?」

茜は明るく挨拶をしてからそう言った。
だが、三人とも何か真剣な顔をしている。新岡が声を低めた。

「昨夜、神宮橋近くで何かあったらしいんです。どこかのグループが侠道連盟を襲ったと。」
「それは本当?」
「奴らが駐車場に停めてあった、10台のバイクと2台のマイクロバスのうちの一台が全部崖から落されたんだ。1台だけ残したのは、何故かわからない。」
「どうしてわかったんですか?」

新岡の話では、昨日9時ごろ市立病院にリーダーの藤崎が担ぎ込まれた。
表向きには転んで鼻骨と前歯を何本か折ったとのこと。
ちょうど付き添ってきた仲間同士の話をたまたまこっそり聞いていた組関係の者がいて、そのことがわかったという。
それによると、昨夜8時頃、神宮橋の近くの川原でキャンプをしてた連中が駐車場の方で大きな音がしたのを聞いたという。
急いで駆けつけると駐車場に停めてあったバイク10台とマイクロバス2台のうち1台がなくなっていた。
暗くてよく見えないが、駐車場下の谷底に短時間で落されたらしい。
山の方に逃げて行く一人の人影を見たので、後を追ったが、そのうちの5人があっという間に倒された。
その5人のうちの1人が藤崎で、なんと顔を蹴られて一発で倒されたのだという。
5人のうち藤崎を含めて4人がいつ自分が倒されたか覚えてない。
しかし、最後に倒された一人は何があったか覚えていた。

「その男は、あまりにも変なことを言うので、最初は誰も信じなかったらしい。
5人を倒した相手はたった一人。
しかも150cmくらいのほっそりした人間だというんだ。
子供かよほど小柄な人間だということになる。
それも、最初に飛び上がって190cmもある藤崎の顔を蹴って・・5秒か6秒後に全員を倒したっていうんだ。」
「へえー、すごいな」

茜は驚いてみせた。ここは驚かなければいけないと思ったからだ。

「木崎さん、どうやったんですか?」

新岡は茜に顔を近づけて声を低めた。

「えっ?!」
「隠さないでください。そのことをみんなで話していたんですから」
「どうして私がやったと思うんですか」
「まず、体の特徴が木崎さんにピッタリだってことです。
それとそんな体格で5秒か6秒で5人の男どもを全員倒すなんて離れ業はこの青布根市広しといえども木崎さんしか思い浮かばないのです。
正直に言ってください。責めてるんじゃなく感謝してるんですから。」
「・・・・」
「それに、木崎さんの左の靴先についてる染みは血痕じゃないですか?藤崎の顔を蹴ったときの」

茜は観念した。こういう場合は告白は最小限にしなければならない。

「そうですか、やはり隠し通せるものではないんですね」

実は昨夜、茜がバイクや車を谷底に投げて、たまたま逃げて行くとき出くわした5人を倒したのだった。
だが、茜は5人を倒したのは自分だと認めても、バイクや車を崖から落したのが自分だと認める訳にはいかなかった。
自分の怪力はごく少数の人にしか知られてはいけないことだからだ。

「私が様子を見に行ったとき、崖の下から全身真っ黒な格好の人たちが現れたんです。
その人たちが車とかバイクをあっという間に谷底に投げ落しました。
それからその黒い人たちはすぐ崖の下に消えて行きました。
それで私が覗こうと近づいたら、きょうどう連盟が来たので山に逃げたんです。
自転車を隠しておいた地蔵堂のところで、5人の人に見つかりやむなく倒しました。
それで全部です。」
「全身黒づくめってことは忍者スタイル?」と武井。
「よくわからない。顔も黒っぽくよく見えなかったから、忍者の覆面か黒い目だし帽か、墨を塗ってたか?」
「秘密部隊みたいだな。」新岡は腕を組んだ。
「何人くらいいました?」

と住田。

「十数人かな。よく見えなかったから」

武井は手をポンと打った。

「闇の狩人たち・・・ダーク・ハンターズね。」

新岡は腕を組んだままそこらを歩き始めた。

「崖を登り降りするフリークライマーのような能力。
200キロ前後のバイクや、その何倍もの重さのマイクロバスを短時間でも投げ落す重量挙げのような筋力。
全身真っ黒な格好で夜の闇の中で自由に動きまわる行動力。
まさしく秘密部隊だな。
きっと、侠道連盟のことを前々からチェックしていて機会を狙っていたのかもしれない。
この青布根市の者じゃなく、たぶん広国市かそれ以外のところのグループで彼らに借りを返したんだろう。」

新岡は突然表情を明るくした。

「そうだ。全部ダーク・ハンターズのせいにしよう。
5人を倒したのが木崎さんってことがわかれば、ダーク・ハンターズとも関わりがあると見られてしまう。
だから、5人を倒したのもダーク・ハンターズの凄腕の刺客ってことにするんだ。そういう話を内緒話で広めてしまえばいい。」

4人は学校への道を歩き始めた。


途中で茜は足を止めた。他の3人に合図すると道を引き返し細い路地に入った。

「走って。やつらよ」

道の途中にマイクロバスが止まっていて、その近くに数人の男たちがいた。その中に昨夜見かけた顔があったのだ。
茜は先頭を走るようにして、頭の中に叩き込んでいる学校までの近道のコースを走った。
もちろん通学路ではないが、緊急避難という事態だから仕方がない。


学校に着くと、茜は言った。

「何で、ダーク・ハンターズは1台だけ残しといたんだろうね。」

新岡はちょっと考えてから頭を傾げた。

「おかしいな。わざと残したとしたら、それに乗ってさっさとここから出て行けという、地元のメッセージになる。よそから来たのだとしたら、車なんか残してやらなくても良いはずなのに。」

茜はなるべく軽い感じで言った。

「単に時間がなかっただけだったりして」

事実、茜はその理由で一台残してしまったのだから。



学校に着くと、新岡の指示通りに番格たちを中心にしてダーク・ハンターズの噂を流した。
茜も誰かが話してたのを立ち聞きしたという触れ込みで、仲良し3人にも流した。
ダーク・ハンターズはあっという間に学校中に広まった。
広まるうちにダーク・ハンターズは政府の秘密機関だとか、五人を倒したのは80歳の小柄な老人で軍隊の暗殺部隊にいたことがあるとか、面白おかしくなって行った。


そして学校の帰りには何もなかった。
後から聞いた情報では、彼らは朝姿を現したものの、その後ダークハンターズの噂が水野たちを通して藤崎に伝わり、不気味になって引き返したらしい。
その後水野たちは番格たちに呼び出されて、けじめをつけられたとのことだが詳細はわからない。
とにかくこの件はその後それ以上の進展はなかった。



こうして、茜の最初の青布根市での1年は過ぎて行った。


 ( 怪力少女・近江兼伝第二部「茜の空」完・第3部とへ続く )

怪力少女・近江兼伝・第2部「茜の空」

1年生のときにして、青布根中の陰のナンバーワンになった木崎茜。ジュンの仇も追い返すことができた。
これから2年生になって行くときどんなことが待ち構えているのやら。

怪力少女・近江兼伝・第2部「茜の空」

青布根中学の1年生にいきなり転入した主人公は木崎茜という偽の名前で通した。 けれども体育教師に怪我をさせてしまったことがきっかけで校内の番格組織に目をつけられ、 素手喧嘩(すてごろ)の挑戦を受ける。そしてついに本人の意思とは別に青布根中の制覇をしてしまうことに。 一方新聞配達のアルバイトがきっかけで大人の武術家とも腕試しをさせられることになる。しかしこれにも彼女は無敵だった。 木崎茜に色々アドバイスしてくれたジュンと言う青年は侠道連合の藤崎にリンチを受けて身体障害者になった。それを苦にして自殺するが、木崎茜はたまたま藤崎が青布根まで勢力を伸ばそうとしてきたところをジュンの仇とばかりに追い払うのだった。。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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