怪力少女・近江兼伝・第1部「石田の天狗」
銀海町に転校して来た6年生の弘は級友に誘われて石田っ原に行くことになった。
ところが一緒に行くのは殆どが体の大きい中学生。総勢20人ほどで、手に棒切れなどの得物まで持っている。
彼らは弟たちが天狗の子に岩を投げつけられて怪我をしたので、そのお礼参りに行くのだと言う。
さて、石田っ原についた彼らは天狗の子に会えるのか?
日本海に銀海町という人口3000ほどの漁業の町がある。
そこから10キロほど内陸に入った山間地に石田という小さな村があった。
もっともその村は隠れ里のような存在で銀海町とは学区も行政区も別になって田んぼや畑が森や林の間に点在し、民家と民家の間が離れていて、おまけに道らしい道も満足にない。
つまり小さい村といっても、どこかにこじんまりと村がまとまってあるのではなく、山全体に村が広がっていて、全体像が掴みづらいのである。
銀海町から行くと山の入り口に割りと見渡しのいい原っぱがある。土地の者が「石田っ原」と呼んでいるところである。
そこに銀海の子供たちと石田の子供たちが睨み合っている。銀海の子供たちは体格もよく中学生や小学生高学年の男の子たちが20人くらいいて、中には竹や木の棒きれを持っている者もいる。対して石田の子供たちは体格も小さく、女の子も混ざっていて小学生ばかりでその数も10人に満たない。それでも自分たちの縄張りの森を背にして一歩も引かぬ様子である。
「お前ら・・な・・なんしに来た!」
石田の中の体の大きい男の子が先頭で声を震わせて言った。
けれども銀海の子たちは、みなその子よりも大きい子ばかりだった。漁師の子が多いのか日に焼けてがっちりした体格が目立つ。その後ろの方に弘が立っていた。
弘は6年生でこの春都市部から転校してきたばかりである。どういう訳か詳しい事情も分からぬまま同級生に誘われてここまで来てしまった。一体何が起こるのかひやひやして見守っているのだが、とんでもないことに巻き込まれそうだという恐れもあった。弘はサラリーマンの子供で4年生の妹がいる。色白な弘は本を読んだりして過ごすのが好きな大人しい子である。その分押しが弱く、少しは好奇心もあったが意に反してここに来てしまったのだ。
「先週うちのもんがお前らに追い払われただろうが、だから挨拶に来てやったのよ。尚樹、お前もそのときいたから分かるだろう」
口の立ちそうな出っ歯の男が石田の子に言った。尚樹と言われた子はまた、震える声で言い返す。中学生相手にすごい度胸だと弘は思った。
「それは・・お前らが俺たちの遊び場を・・荒らすからだ。だからやめてくれって言ったのに言うことを聞いてくれなかったじゃないか。だから」
「だから?」出っ歯は薄笑いを浮かべた。
「だから、天狗の子を呼んだのか?そりゃないべや。そりゃ子供の喧嘩に大人を呼ぶようなもんだべや。お陰で怪我人も出たんだぞ」
天狗の子って何だ、と弘は思った。初耳だ。それは人間なのか、石田には天狗が住んでいるのか、弘は怖い半分興味を感じて、少し前の方に出た。
「う・・嘘だ!怪我しないように追っ払っただけじゃないか。そんな乱暴なことしないよ。」
「そうよ!けんちゃんは優しいんだから!」
弘の妹と同じくらいの女の子が合いの手を入れた。
「びっくりして逃げたときに転んですりむいたくらいでしょ!それ自分たちが悪いんじゃないの」
「待て待て、尚樹その女を黙らせろ。俺はお前と話してんだから。俺たちは何も小学生のお前たちをどうこうしようと言う積もりはないんだ。天狗の子に用があるんだ。このままじゃ俺たちだって面子がある。天狗の鼻を折ってしまわないと、怖い思いをした弟たちに合わせる顔がない。」
「うちの親分をやっつけに来たのか?それで中学生を沢山連れて来たんだ。そ・・そんなことしたらかえって危ないぞ。親分本気出したらみんな病院送りになっちゃうぞ。」
尚樹と出っ歯のやり取りを聞いて、弘は天狗の子はけんちゃんという名で石田村の子供たちの餓鬼大将らしいことがわかった。けれども、これだけの人数を前にして虚勢を張り続ける尚樹の度胸につくづく感心した。
「そんな危ないことはしないよ。尚樹、天狗の子がいくら強くてもかなわないものがあるってことを見せにきたのさ。おい、良太見せてやれ」
出っ歯が声をかけたのは、他の子供たちより段違いに大きな男だった。海坊主のような顔をした良太が前に出て来ると、石田の子供たちは幼稚園児のように見えた。丸太のような太い腕をした手に何か握っている。
「よく見れ、握力計だ。良太握ってみれ」
出っ歯が言うと良太はクシャッと握りつぶすように握力計を握った。そして目盛りを見せながら尚樹にそれを手渡した。
「尚樹、いくらになっている?みんなに聞こえるように大きい声で教えてくれないか?」
出っ歯の催促に握力計の目盛りを見た尚樹は声を出した。
「68・・68だ」
「そうだ、68だな。70を出すときもある。で、お前たちの天狗の子ならいくら出せる?来てるんだろうこの近くに?呼んでみろよ」
石田の子供たちはそれには黙って左右に動いて真ん中の空間を空けた。すると、一人の子供が後ろに立っているのが見えた。
弘は、その子が天狗の子と言われている子だと思った。その子はどう見ても小学生の体格でチェックのシャツにジーンズとスニーカーという普通の格好だった。
前髪が長く、うつむいているので顔が良く見えない。
ゆっくり前に進んでくると、尚樹から握力計を受け取った。
そして数秒黙って見ていてから突然顔を上げた。そのとき顔が見えた。
前髪がさっと分かれて形のいい眉毛とまつげの長い丸い目が見えたのだ。
その顔は女の子のように可愛かった。そして声も女の子のようにきれいな高い声だった。
「これ、どういう風に使うんだ?」
「お・・・お前が天狗の子か?」
出っ歯は初めて見たらしく驚いていた。もっと大きい子を想像していたのだろう。
「天狗じゃなくて、僕けんちゃんだ。これどういう風に使うんだ。」
「どら、こうやってゼロに戻して、後は力一杯握るんだ」
出っ歯は年下の相手に何故かやさしく教えるように、使い方を指導していた。
その間、石田の子供たちは草の上に体育座りをして、のんびり見物し始めた。
「これでいい?」
けんちゃんは、握力計の目盛りを出っ歯に見せた。
「なんだこれ、28か?もっかいやってみろ」
「はい、こんなもんでいいか?」
「35?どうしてこんなに違うんだ。お前本気にやってる感じしないぞ」
「だってこれ、銀海中学校って書いてるから、学校から持ち出したもんだろう?」
「それがどうしたんだ、はぐらかすな」
「いいのかい?僕本気出したら、壊れるよ。そしたら困るだろう?学校に返せなくなる」
「な・・なに、寄越せ、こっちへ」
けんちゃんという子は尚樹よりも小さく、ほっそりしているのに、自分より数倍大きい中学生たちを目の前にして、少しも緊張してなかった。むしろにこやかな顔をくずさなかったくらいだ。
弘樹はその顔を見てるとなぜかどきどきした。そのとき、けんちゃんがこっちを見たので目が合ってしまった。弘は眩しいものを見た気がして、慌てて目をそらした。目をそらした後も、こっちをまだ見ているような気配がして、しばらくは見ることができなかった。
一方、出っ歯は、けんちゃんをそこに待たせて、リーダー格を集めて相談し始めた。
「はったりか?」
「あいつが本当に天狗の子かどうか、確かめるのが先だろう。それに、もしそうだったら、婆ちゃんのことでお礼を言わなきゃいかんし。」
「そうでなかったら?」
「軽くおしおきをして、本物を呼べばいい」
「まず俺に確かめさせてくれ」
そう言って出っ歯と交代して前に出てきたのは、にきびだらけの中学生だった。
2年前。田所のウメ婆さんは、町から10kmの道を歩いて石田っ原にやってきた。お目当ての山菜も見つかって、お昼に握り飯を食べた後、急に右の下腹が痛み出した。
「いたたた・・・」
尋常な痛みではないので、76kgもある体を地面に転がせて苦しんだ。体は寒気がするのに、額から汗が噴き出す。痛みも下腹部全体に広がって、声を限りに助けを呼んだ。
けれども、この石田っ原は、近くの石田村のある山からもまだまだ遠い。
もちろん町からは10kmも離れている。
ウメ婆さんは痛みで腹に力が入らないうえに、80歳の年もあって、大きい声は出ない。
とにかく誰かに見つけてもらわないといけないので、声を出し続けた。
するとしばらくすると、話しかける者がいた。子供の声である。
「お婆ちゃん、どうしたの?苦しいの」
見ると10歳くらいの小柄な子がウメ婆さんの顔を覗き込んでいた。
髪が短いので男の子か女の子かわからない。
町の病院に行きたいが動けない、そんなことを言ったと思う。
「お婆ちゃん、これに乗りな」
太い木で組んだ背負子に柴が積んであったのを、中身を空けて寄越したらしい。
乗るのはいいが、誰が運んでくれるのだ、そう思ってると、強い力で抱きかかえられひょいと乗せられた。
落ちないように持って来たリュックと一緒に体を紐で縛られると、背負子がふわりと持ち上がった。
「お婆ちゃん、町まで運んでやるから、辛抱だよ」
どう考えても、自分を担いでいるのは、その子供以外にいないのだ。
大木に蝉という言葉はあるが、蝉が大木を背負っているようなあべこべな状態である。
そして、なんとその子はウメ婆さんを背負ったまま、走り出した。
足場の悪い草原をよろめくこともなく、ぐらぐら揺れることもなく、自転車と同じくらいの速さでどんどん走り出したのだ。
「ひゃーー!」
お腹の激痛も忘れて、ウメ婆さんは恐ろしさのあまり生きた心地がしなかったという。
10kmの道を大柄な婆さんを担いだまま、全速力で走ったというから人間業ではない
、と思っても不思議ではない。
ときどきその子は声をかける。
「お婆ちゃん、大丈夫か?」「もうすぐ着くからね」
それに対して言葉にならない悲鳴みたいな声をあげていたのには理由がある。
これだけ走れば、息切れがしたり呼吸が荒くなるはずなのに、ごく普通の声で話しかけてくるから恐ろしいのだ。
人間じゃない、何か恐ろしい魔物にさらわれているのではないか、自分は手足をばらばらにもぎ取られて殺されるのではないか、という恐怖心に取りつかれて言葉が出ないのだ。
人間なら、途中で休むはずだ。それより、人間の子供だったら、大柄な自分を背負うこと自体無理な話だ。背負えても歩くことはできまい。ところが歩くどころか走っている。生暖かい風を切りながら、むしろだんだん速度が増してくる。
「着いたよ。ここで降ろすからね。」
病院の入り口にリュックと一緒に背負子から婆さんを降ろすと、その子供は大声で叫んだ。ガラス戸を激しく叩きながら甲高い声で。その声を聞いて婆さんは気が遠くなった。
「病人だよっ!!急いで!!」
中から人が出てくる気配がすると、その子は空の背負子を担いで風のように走り去った。
田所ウメさんは虫垂炎の化膿部分が破けて腹膜炎を併発していた。病院に運ばれるのがもう少し遅かったら助からなかったという。
後でその時の話を人々にすると、その子供は山わらしではないかという者がいた。山わらしというのは山姥(やまんば)の子供で牛でも馬でも担いでさらって行く怪力の持ち主だということだ。
だが、物知り顔に、それは違うと言った者がいる。山わらしなら、取って食うためか下働きに使うために人をさらうが、人助けはしないものだ。助けたとしてもその報酬を必ず約束させるはずだ。なにも要求せず、ただ困っているからと助けてくれるのは、天狗の子くらいのものだと。天狗の子は修行のために疲れた旅人を担いで風のように走ることもある。あんたは運がよかったのだと、そういう結論になった。
それ以来、石田っ原には天狗の子が出るということが、現実の話として伝わった。もともと、石田っ原には銀海の人間は近づかないのだが、その話が出てから何か神聖で畏れ多い存在があるとして、恐怖心と畏怖が入り混じった気持ちで、益々そこに近づかないようになったのだ。
だが、好奇心旺盛な子供たちは違う。天狗の子を見てみたいと、小学生の腕白坊主たちが5・6人棒切れやパチンコを持って、石田っ原にやってきたのがつい最近のことだった。
石田っ原の奥に大きな木があって、その上にツリーハウスを見つけた子供たちは、これこそ天狗の巣だと騒いで、中に入りこんだのだ。そこへ石田村の子供たちがやってきて、自分たちの遊び場を荒らしたと怒った。
「出て行け!そこは俺たちの隠れ家だ」
「いやだ。ここは天狗の家だ。俺たちが見つけたんだ」
そういうやりとりが続いて、仕方なく尚樹がけんちゃんに頼んで脅かしてもらうことになった。
「おい、天狗が見たかったら、見せてやるから降りてこい。」
「本当か」
銀海の子供たちが降りてきたとき、尚樹が向こうの藪を指差した。
「あそこに天狗がいる。今、天狗がこっちに大きな岩を投げてよこすから離れてろよ。ほら、もう少し離れないと、岩に押しつぶされるぞ。天狗さま、お願いします。」
「よーし!!」
このとき、けんちゃんが声を出したので、子供たちは天狗の子だと口々に言った。
次の瞬間、ものすごい大きな岩を両手に持ち上げた子供が、奇声をあげながら走ってきて、目の前の地面にどすーんと岩を放り投げた。
銀海の子供たちは悲鳴をあげて逃げ出した。慌てて転ぶもの。
お互いぶつかり合って鼻血を出す者、そのときパニックになっていたため、多少の怪我をした子供もいただろう。
また、冷静さに欠けていたので、けんちゃんの姿をしっかり見た者はいなかった。
本当に天狗のように長い鼻をしていたとか、2mくらいの大男だったとか、町に逃げ帰ってから口々に別別のことを喋ったのだ。岩の大きさも岩山が降って来たというものもいた。
その子供たちの兄にあたる中学生が何人かいて、さらにその仲間たちが徒党を組んで天狗の子を見に行こうということになった。初めは純粋な好奇心だった。
そんな超人的な力を持つ者に憧れもあったろうし、怖いもの見たさというのもある。
だが、物見高い野次馬根性を前面に出すと、どうも大義名分がたたない。
そこで考えたのが、弟が怪我をしたことへの返礼をしようという目的ができた。
だが、少人数で行けば心細い。実際天狗の子がいたとしてどれだけの力があるかわからない。
そこで人数を増やし、健太のような力自慢も仲間に入れて繰り出してきたのだ。
「ちょっと確かめたいんだけど、2年前お前うちの婆ちゃんをこっから町の病院まで運んでくれた子か?」
「2年前?ああ、あのお婆ちゃん、お前んとこの婆ちゃんか?運んだよ」
けんちゃんは、そのことが大したことないことのように軽く答えた。
「そうか、お陰で婆ちゃん助かった。ありがとう」
「お前礼儀正しいな。喧嘩売りにきたんじゃないのか?」
「それとこれは別だから。で、もう一つ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「なんか面接受けてるみたいだ。なんだよ?」
「うちの奴らがここに来たとき、お前が大きな石を持ち上げて投げて寄越したというが、本当か?」
「ああ、あそこにある石だ。」
けんちゃんは、木のそばにある庭石のような岩を指差した。大人が4人がかりでやっと持ち上がるような岩だ。
「嘘だろう・・・いや、すまない。嘘じゃないんだな。でも、こんな大きな石当たってたら死ぬだろう。」
「当たらないように投げるに決まってるじゃないか。追い払うために投げたんだから。」
「わかった。ちょっと待ってくれ。相談するから」
また、銀海のリーダー格が集まって相談し始めた。
「転んだのは、うちの方が勝手に転んだんだから。向こうは悪くないぞ。
それに婆ちゃんの命の恩人なんだから、手荒なことはやめてくれ」
「いや、そんなに悪い奴でもなさそうだから、できればやりあいたくないな。」
「でもよ、面子はどうするんだ?一応形だけでも、勝負して負かして帰らないと格好がつかないぞ」
「良太、お前があいつと相撲を取って、負かすんだよ。それでチャラってのはどうだ。」
「そうするか」
「怪我させるなよ」
出っ歯が今度は口を利いた。
「天狗の子、この間の片をつけにきた。うちの代表と相撲で決着をつけよう!」
「僕が負けたら、それで大人しく帰るってか?でも、僕が勝ったらどうすんだ?」
「そんなことにはならないから、心配すんな。」
だが、結局けんちゃんが受けて立つということになり、みんなが円になって座り、出っ歯が行司役を務めた。
「けんちゃん、その人を怪我させないでよ」
「わかってるって」
銀海の子たちは、あんなこと言ってるぞ、強がりだ、などと囁く。
けんちゃんは、ただ突っ立ってにこにこしてるだけなので、健太はちょっと拍子抜けしているみたいだった。
それに、身長だけでも自分の半分くらいしかないけんちゃんを見て、本気になれない様子だった。
「二人とももう始めろよ。はい、はっけよーい、のこった。」
良太はけんちゃんの胴体を両手で掴んで、ひょいと持ち上げた。
けんちゃんは相変わらずにこにこして足を空中にぶらぶらさせてるだけで何もしない。
「降参するなら、ここでやめるぞ。どうだ?」
良太が困ってそういうと、けんちゃんは首を振る。
「降参しないと、投げ飛ばすぞ。怪我させたくないから降参しろ。」
「いいよ、さっさとやって。」
「いいのか、本当に投げるぞ。お前がいいって言ったんだからな」
良太は、けんちゃんを掴んだままブンブン振り回し始めた。
するとそのとき、バシッとけんちゃんが良太の腕を払って地面に着地した。
すかさずけんちゃんは良太の右足を掴むとひょいと持ち上げた。
良太はたまらず後ろに転んで勝負がついてしまった。
「くそ、もう一回」
良太は立ち上がって、今のは油断してたとばかり悔しがった。
「いいよ、本気できても」
けんちゃんはにこにこして突っ立ている。なにか遊んでいるような様子にも見える。
そういえば、座って見物している石田の子供たちの表情もどことなく余裕が感じられる。
けんちゃんが負けることがないと安心しているらしい。
良太が体勢を低くしてとびかかると、けんちゃんは迎えうつように健太の懐に潜り込んだ。
そして良太の足の間に自分の右足を入れて良太の左膝の裏側をぐいっと引っ掛けた。
がくんと左膝が折りたたまれてバランスを失い、良太はまたしても仰向けに倒れた。内掛けという技だ。
これには良太はプライドが傷ついたのか、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「今度こそ!!」
良太は両手をばっと開くと、丸太のような腕を振りかざして、張り手攻撃を始めた。
はじめの1・2発は本当に命中したらしく、けんちゃんの頬が赤くなっている。
でもその次の5・6発では、けんちゃんが良太の張り手を払いながら避けていた。
張り手を浴びているはずなのに、けんちゃんは涼しい顔をしている。
「ずんっっ!!」
なにか鈍い音がした。けんちゃんが右の手の平で、良太の顎のあたりに張り手を突き上げたのだ。
良太は膝が崩れて、ふにゃっとダウンした。たった一発の張り手で倒れたのだ。
「おい、良太、しっかりしろ」
きっと脳震盪でもおこしたのだろう。それにしてもたった一撃で良太のような大男をノックアウトするなんて、プロボクサー並みのパワーである。
「どいて」
良太のまわりにかけつけた銀海の子供たちを遠ざけて、けんちゃんは水筒の水を口に含んで、ぷーっと顔に吹きかけた。
「大丈夫かい?」
良太は息を吹き返しちょっときょとんとしていたが、けんちゃんの顔を見て慌てて起き上がった。そして土下座して頭を下げた。
「参りました。俺をあんたの子分にしてくれ」
けんちゃんが返事をする前に、他の子供たちもみんな集まって土下座して同じことを言った。
天狗の子の子分にしてもらったということなら、町に戻って自慢できるからだ。
「いいよ。子分ってよくわからないけど、なりたかったらなればいい。」
そしてけんちゃんは、みんなから離れて立っている弘の方を見た。
それにつられてみんなも弘の方を見た。
みんなに見られて、弘は恥ずかしそうに言った。
「友達じゃ駄目かな?友達になってくれる?」
けんちゃんは不思議そうに弘を見つめていたが、やがてにっこり笑って言った。
「いいよ。お前とは友達だ」
弘の妹の魚住香は小学校4年生で、兄と同じくこの春銀海小学校に転入してきたばかりだ。
先日の石田っ原でのできごとは町中に伝わって、兄の弘が天狗の子と友達になったということも知っている。
そして香はきょうは朝からそわそわしている。天狗の子が兄のところに遊びに来るというからだ。
けんちゃんというその子は、年上の中学生を全員子分にしてしまったほど強い子なのに、見た目は可愛い男の子らしい。
玄関のインタフォーンが鳴ったので、待ち構えていた香はすぐ受話器を取った。
「はい、どなたですか」
待っても返事がないので玄関のドアを開けた。するとそこに3人の子供が立っていた。
ちょっと大柄な6年生くらいの男の子と、香と同じくらいの女の子と、その後ろの方で下を向いている子の3人だ。
「弘君いますか。俺ら石田村から遊びに来ました」
そう言ったのは尚樹だった。
「けんちゃんって人が来るって聞いてましたけど」
「けんちゃん、一人で来るの恥ずかしいって、俺ら付き合わされたんだ」
そういうと、後ろにいた子が顔を上げてにこっと照れ笑いをした。
そして余計なことばらすなとばかり尚樹の肩のあたりを小突いた。
そのとき、香はけんちゃんの顔を見た。さらりとした前髪が割れて現れたのは、綺麗な眉にぱっちりした目、長い睫毛に鼻筋が通っていて、しまりのいい紅い唇、男の子でこんなに綺麗な子は都会でも見たことがないと思った。
それよりもこんな子がものすごく強いなんて信じられない感じだった。
「あ・・あの、どうぞ上がってください。今お兄ちゃんを呼びます」
「いや、俺たちは・・・」
「お兄ちゃーーん!!けんちゃんたちが来たよーー!!」
尚樹たちが返事をする間もなく、香は階段をかけあがった。
「大声出すなよ。聞こえているから」
「けんちゃん、3人で来たよ。男の子と女の子連れて」
「わかったから。香は部屋にいろ」
けれども香は自分の部屋ではなく、弘の部屋にいた。
「どうぞ、ここ僕の部屋。入って」
3人を案内してきた弘が香を見て驚く。
「なんで、お前ここにいるの?」
「だって、香は部屋にいろって、お兄ちゃんが」
「それは自分の部屋にいろって意味に決まってるじゃないか」
そこまで言われて、しぶしぶ腰を上げたところを、尚樹が助け舟を出す。
「まあまあ、いいじゃないか、邪魔にしなくても。俺らはかまわないから。」
その後、尚樹がお互いを紹介してくれたので、部屋にいやすくなったと思った。
一緒に来た女の子はさきちゃんといった。
香はすっと立った。
「あ、今下に行って飲み物持ってくるね」
「ああ、どうも」
これは口々に3人が言った。
コップとジュースの入ったペットボトル、それに母親の作ったフルーツケーキをお盆に載せて階段をあがろうとすると、母親が声をかける。
「ちょっと、どうしてコップが5つあるの?」
「だって、香も一緒にいていいって言ってくれたんだもん」
「誰が?お兄ちゃんが?」
「友達の人が」
「・・・邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないもん」
「そう・・・」
「そうだよ」
香は母親が次に何かいう前に階段を足早にあがった。
「どうぞ、今、コップに注いであげるね」
「あ、私するよ。」
さきちゃんが手を伸ばしてきたボトルを香はさっと取った。
「結構です。お客さんは待っててください。」
香は手早く飲み物を注いで配った。もちろん自分の分も前に置いた。
「それじゃあ、いただきます。みなさんの健康とお幸せを祈って、乾杯」
尚樹がませた口調でそういって雰囲気を盛り上げた。
だが、本来友達同士のはずの兄の弘と主役のけんちゃんは、何もしゃべらなかった。
みんななんとなく飲み物やケーキを口にしていた。
「そうだ!」
急に尚樹が声をあげたので香が尚樹を見た。
「かおるちゃんは4年生、もしかして?」
「うん」
「さきちゃんも4年生なんだよ!」
「そ・・そうなの?」
「さきちゃんが、かおるちゃんと遊びたいって言ってたんだけど」
「えっ、わたし・・・」
さきちゃんが、目をまるくした。
「かおるちゃんの部屋見せてもらいなよ。もうお菓子も食べたことだし。
ね、かおるちゃん、なんか遊び道具あるだろう?」
「あ・・ああ、もちろん、あります。」
香はさきちゃんを部屋に連れて行った。
「せまいんだけど、どうぞ。」
香が部屋に招き入れると、さきちゃんは歓声をあげた。
「うわーー!!かわいい部屋。すてきだね」
「そう思う?さきちゃんって正直。座って座って」
「これなに?かわいいね」
「今流行のキャラクターグッズ。あ、これならあげてもいいよ」
「ありがとう。」
「ボードゲームする?二人でもできるよ。」
「けんちゃんたちもいれば楽しいのに」
「そうだね。ところで、けんちゃんってさ、どういう人」
「ちょっと言い方変だけど、おにいちゃんって感じかな」
「ちっとも変じゃないよ。男の人だからお兄ちゃんでいいんじゃない?」
「あ、でもけんちゃんは・・・」
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。トントントン。
ドアを開けると尚樹が立っていた。
「ちょっとさきちゃんに話あるんだけど。」
部屋の外に呼び出して尚樹はさきちゃんに低い声で言った。
「お前いま、けんちゃんは女だと言おうとしただろう?」
「あ・・・そうだ。ごめん。」
「これは村の秘密だから守れよ」
「うん」
部屋の中にいる香にはもちろんこの会話は聞こえなかった。
ただなにやら内緒話をしているようで、気分は良くなかった。
弘はけんちゃんと二人きりになって妙に落ち着かなかった。
すると、けんちゃんの方から話しかけてきた。
「弘、僕とどうして友達になりたかった?」
弘は天井を見上げて考えたが、そのままの格好で答えた。
「今まで見たことない本があったとするだろう?そうしたら何が何でも読んでみたくなる。それと似てるかな。」
「よくわかんないけど、僕に興味があるってことかい?」
「たぶん、そうだと思う。ところでけんちゃんって本名はなんていうの?」
「おうみ、けん。」
「だからけんちゃんか。家族は?」
「今度、石田においで、紹介するから。ところで、弘の家の庭に大きな石があるけど、あれ売ってくれる?」
弘は庭にある大きな岩のことを思い出した。
この家に来たときからあったが、狭い庭に大きすぎる岩が邪魔だが取り除けないでいた。
あれがなければ、家庭菜園ができるのにと母親が言っていた。
弘の家の近くに墓石や庭石を扱う石材店があるが、ただでいいから持って行ってくれと頼んだことがあったが、塀が邪魔で重機が入らず結局駄目だった。
第一岩の幅だけでも門より広いのだ。ところが、何故かけんちゃんはそれを売ってくれという。
「えっ、なにこのお金」
弘が階下に降りて母親に会わせると、けんちゃんはいきなり千円札を何枚もポケットから出して手渡した。
「おばさん、庭の石これで僕に売って。僕、これで生活してるの。お願い!」
「売ってって、このお金どうして子供のあなたが・・それにどうやって運ぶ積もり?」
弘は母親が慌てている気持ちがよくわかった。
自分もけんちゃんのことをすごく驚いていて、何がなんだか訳がわからなかったからだ。
「僕、石田の山の石を石屋さんに売って生活してるんだよ。運ぶのはえーーと」
けんちゃんは弘の方を見ながら言った。
「僕、天狗の子って言われてるだろう。だから大天狗に運んでもらうのさ」
けんちゃんに呼ばれて、近所の石材店のおやじが岩を見に来た。
意外にもけんちゃんとはずっと以前から顔見知りらしい。
「おじさんとこの石置き場に運んであげるから、値段言って」
「それじゃあ、これでどうだ」
「これは?」
「ちぇっ、しかたない。いいよ」
「いつも通り前金ね」
二人は弘たちに背中を向けたまま、手指で値段交渉してるらしい。岩をどうやって運ぶかも確かめないでお金を払ってるので、よほど信用があるのだろう。おやじはけんちゃんに興味深々の様子で聞く。
「町の中を運ぶのは、初めてだけど。運び方は相変わらず企業秘密かい?」
「もちろんだよ、おじさん。明日までには運んでおくよ」
おやじは弘の母親の方を見て、肩をすくめた。
「いつも、この子が連絡係りでね。不思議なんだよ。
いつもきちんと決められたところに注文した石が置かれてある。」
石材店の店主豊橋幸蔵は5年前に石田村の山奥を歩いていた。そのとき7歳くらいの子供が現れたという。
「おじちゃん、何してるの?」
「坊やはこの村の子かい。おじさんはね、石を探してるのさ。」
そして、そばにあった岩を撫でながら、つぶやいた。
「ここまで車が入れたら、この岩を持っていけるものを」
「おじさんの車、石田っ原に止めてあるの?」
「そうだよ」
「じゃあ、おじさんの車のそばまでこれを運んだら、いくらお金をくれる?」
面白いことを言う子だと思い、ほんの冗談で値段を言った。
「本当にそんなにくれるの?お金持ってる?」
幸蔵は商売上いつも持ち歩いてる分厚い財布を見せた。すると子供はにっこり笑って、こう言った。
「おじさん、後でまた会おうね」
幸蔵がその変な子供に見送られ小一時間ほどして車に戻ると、なんとさっきの岩が車のすぐ脇に置いてある。喜んでクレーンで積み込もうとすると、子供が現れて手を出した。
「お金が先!約束は守って!」
それが、けんちゃんだったのだ。
幸蔵は、驚いたのと嬉しかったのとで、そのときは大金を渡してしまったが、後で考えると村人たちが関わっているに違いないと思い、以後は大人と交渉しようと思った。
だが、その後も、山を案内するのも岩を指定するときに立ち会うのもお金の交渉も全てけんちゃんしか出てこないのだ。
どうやって大きな岩を石田っ原まで運ぶのか幾ら聞いても答えない。
ただし約束は必ず守るので以来取引を続けているという訳だ。
思い切って村人に聞いてみたことがあるが、その子のことを詮索せずに信用して良いと、皆同じことを言う。
以後、けんちゃんには前金でお金を渡すようになったのだ。
子供と商売しているということは聞こえが悪いので、誰にも言ってない。
「だから、他の人には黙っててください。奥さん」
おやじは口のところに人差し指を持っていき、頭を下げて行った。
「あなたがどんな魔法を使ってこの大岩を運んでくれるのか知らないけれど、このお金は受け取れないわ。
もし本当に持って行ってくれるなら、こっちの方でお金を払いたいくらいだもの」
弘の母親はお金を返そうとしたが、けんちゃんは受け取らなかった。
「その代わり、僕を一晩泊めて。他の二人は今日中に帰るけど」
「でも、学校はどうするの?明日は月曜日よ」
「明日学校は休みなんだ。」
「あそう、石田の学校は何かの記念日なのかしら。でもお父さんやお母さんに無断で泊まっていいの?」
「あ、僕の親なら知っています。」
弘はそういう会話を聞きながら、けんちゃんのことがますますわからなくなっていた。
そして結局、けんちゃんはその晩弘の部屋に泊まることになった。
それから5人で色々遊んだ。
けんちゃんは、さきちゃんを肩車にした尚樹を肩車にして、右手に弘、左手に香を持って部屋の中をぐるぐる歩いてみせた。
これには弘も香も驚いた。後、ジェットコースターという遊びを外に出てした。
これは乗る人がその場で10回ぐるぐる廻って目をまわし、すぐに目をつぶってけんちゃんに負ぶさって体験するものだ。
けんちゃんはじぐざぐに走り回るんだが、負ぶさっている人は本当にジェットコースターに乗っている気分になる。
みんながとっても喜ぶのでけんちゃんは何度でもしてあげてた。
いくらやっても、けんちゃんは疲れないので弘は感心した。香などはすっかり懐いていた。
やがて夕方近くなって、他の二人は石田村に帰って行った。
夕食はカレーライスで家族4人とけんちゃんの5人で食卓を囲んだ。
はじめけんちゃんは遠慮してたが、食欲旺盛に3杯も食べた。
「おじさん、太陽と北風のお話知ってる?」
食後けんちゃんは父親に話しかけた。
「ああ、旅人の上着をどちらが先に脱がすか賭けをしたって話だね」
「実はあの続きがあるんだけど聞いてくれる?」
弘の家族は身を乗り出した。するとけんちゃんは楽しそうに言った。
「あの後、北風は風邪を引いちゃったんだ。北風っていつも冷え性だから」
みんながくすくす笑った。
「で、太陽が温泉旅館に連れて行くことになったけど、北風が太陽と二人っきりだと誤解されるからって嫌がったの」
そこで、みんながあはははと笑った。
「それじゃあと、太陽は友達の月も誘って3人で温泉旅館に行きました。北風は温泉ですっかりあったまって、その夜はぐっすり眠りました。」
みんなはうんうんと聞き入っている。
「翌朝、北風が目を覚ますと他の二人の布団はたたまれていて、姿が見えないんだ。
それで、旅館の人に聞いたら、『他のお二人は朝早くお発ちになりました』って言ったの。」
みんなは、その先どうなるんだろうと集中した。
「そしたら、北風がね、『そうか、月日のたつのも早いもんだなあ』って言ったんだって。」
一瞬みんなきょとんとした。その後父親はげらげら笑った。
それでも他の3人は訳がわからないので、父親は今の話のオチの解説をした。
そして、他の3人も意味がわかったところで笑った。けんちゃんは村の老人からその話を聞いたという。
それからこういうクイズも出した。
「あるとき、ほうれん草と大根とニンジンが徒競走をしたんだって。そしたら誰が一着になったでしょう?」
みんなは分からない。
「1着はほうれん草です。なぜなら足が速いから」
答えを聞いても誰も意味がわからない。
後で聞くと、野菜が傷みやすいことを足が速いと言うのだそうだ。
なんでも村の農家の手伝いもするので、そういう言葉を知っているらしい。
弘は思った。自分は本から知識を得るが、けんちゃんは耳学問が得意なんだなと。
案の定、けんちゃんは、村のあちこちで聞いた情報を面白可笑しく話していた。
その話をしているとき、けんちゃんはとても楽しそうなのだ。
食後は入浴の時間になった。
「弘、お父さんが上がったから、けんちゃんと一緒にお風呂に入りなさい。」
「うん、わかった。けんちゃん、一緒にお風呂入ろ」
「えっ、お風呂?!い・・いや僕はいいよ」
「何で?一緒に入ろうよ。寝るときだって同じなのに」
「寝るとき!?ちょっちょっと待って」
けんちゃんがなぜかすごく慌てていたので、弘はとても可笑しく思った。
で、結局けんちゃんは恥ずかしがり屋らしく、お風呂は一人で入ることになった。
パジャマは弘のを借りて着た。
寝るときは布団を並べて寝たが、けんちゃんはなぜか緊張しているようだった。
そのうちに弘は眠った。
夜中にふと目を覚ますと、隣のけんちゃんがいなかった。
パジャマが脱いであって枕元にたたんであった服がなくなっていた。
夜中に帰ってしまったのか?
またそのまま寝てしまって、朝目を覚ますと今度は布団もたたんであった。
庭の方でなにやら物音がする。
二階の窓から庭を見下ろすと、けんちゃんが庭でスコップを洗っていた。
あの大きな岩はいつの間にかなくなっていて、なにやら畑のようなものができているのだ。
下の方でけんちゃんに話しかける母親の声がする。
「まあ、雑草もすっかり抜いてくれて、土をおこしてくれたのね。あらあら、小石もこんなに取ってくれて。
でも、誰があの大きな岩を運んだの?体が汚れたでしょう。もう一度お風呂に入ったら?」
なんと夜中のうちに岩は運ばれていて、おまけに朝方には草取りや土おこしまでして母親待望の家庭菜園まで作ってくれていたのだ。
弘は思った。こういうことを普段からやっているからできるんだなと。
けんちゃんが朝ごはんを食べて帰っていくとき、弘の母親が言った。
「けんちゃん、いつでも来てね。必ずまたおいで」
弘は香とともに学校に向かった。だが、弘はけんちゃんのことがどうもひっかっかた。
(きょう学校が休みって変だな?月曜日が休みなら日曜日に学校があったはずだし)
でも、学校に着くとそんなことは忘れてしまった。
弘はここ数ヶ月のけんちゃんを振り返っていた。
けんちゃんは、庭の菜園を母親と一緒に手入れするようになった。
そして、時には弘や香も巻き込んでしまう。
石田村から野菜の苗を持ってきたり、種をみんなと一緒に買いに行ったり、母親だけでなく家族と一緒に草取りをしたり、虫とりをしたり、いつの間にか魚住家の者は土いじりが楽しくなった。
畑の虫はみんなで割り箸や手で取るが、けんちゃんは飛んでいる虫も取ったことがあった。
きれいなアゲハチョウが飛んできて、香が欲しがったとき手づかみで取ったのだ。
そのとき弘も見ていたが、空中に飛んでいるアゲハに向かって、ピュッと鞭のように手を伸ばして取ったのだ。
まるで蛙が舌で虫を取るときのように素早かったので、みんなびっくりしたものだ。
聞くと、けんちゃんは飛んでいる虫を取るのに網を使ったことがないという。
けんちゃんは大人の母よりも農業の実践的知識が豊富で、時には父親までも参加させる。
「おじさん、カボチャとジャガイモはどっちが位が上かわかるかい?答えはカボチャだよ。だって、ジャガイモには男爵があるけどカボチャには伯爵があるから」
どうやら品種の名前のジョークらしい。
その後で村の誰々から聞いた話だと楽しそうに言う。
けんちゃんの口からは、尚樹の父親の坂野さんを始め村の住民の色々な話が出てくる。
お陰で魚住家の全員は、まだ一度も会ったことのない石田村の村人のほぼ全員に関する知識が身についた。ほぼと言うのは例外があるからだ。
けんちゃん自身の家族のことは一度も出て来ないのだ。
そのことを聞こうとすると、今度紹介するからとはぐらかしてしまう。
だからいつの間にか、家族のことはタブーになった。
けんちゃんは、父や母のことを始めは「おじさん、おばさん」と呼んでいた。
それが「弘のお父さん、弘のお母さん」に変って行き、そのうち「お父さん、お母さん」になってしまった。
特に父に対しては一度肩車をしてもらったとき、とても喜んで肩車のお返しをした後、肩もみサービスまでしていた。
それがとても上手らしく、時々父の方からリクエストするようになった。
香についてはけんちゃんのことを王子様と呼ぶようになり、すぐお姫様抱っこをせがむ。
するとけんちゃんは嫌な顔せず、何度でもしてあげる。
そういう場面を見ても弘は妹を取られたとかいう気にはならない。
むしろ、妹にけんちゃんを取られたという感じになる。
それは妹も同じらしく、父母も含めてみんなでけんちゃんを取り合いしている感じなのだ。
だからけんちゃんがお母さんにクッキーの焼き方を習ってるときには、弘も妹も一緒に参加して覚えることになる。
お母さんだけにけんちゃんを取られたくないという心理が一緒に行動する結果になる。
だからけんちゃんがいると、なぜか家族の結びつきが強くなる。父があるとき笑って言った。
「私たちはすっかり、けんちゃん依存症だね。ははは」
時々尚樹やさきちゃんも来ることがある。
特に尚樹はなにか心配そうな顔をしてけんちゃんや弘たちを見ているときがある。
だが、けんちゃんの方で彼らを先に帰すようにして、なるべく魚住家に長くいようとするのだ。
それと、けんちゃんは学校の話を決してしない。
また何故かけんちゃんの学校は休みが多い。
とっても色々な知識を持っているのに、学校で習うような基本的なことがわからないことがある。
それとは別に、弘には困ったことがある。
けんちゃんのことを考えると胸が痛くなるのだ。
これは誰にもいえない。
本で読んだりしたことのある、恋の症状にとてもよく似ているのだ。
けんちゃんはとても可愛い顔をしている。
声も透き通った綺麗な声だ。
それを見たり聞いたりするたびに胸がどきどきしたり、甘く締め付けられるような痛みや苦しさを感じるのだ。
自分はおかしいのではないか。男同士好きになるなんて。
だが、弘は耐えて冷静に考えた。
美少年にも2種類あって、決して女の子には見えないタイプと、女の子のようにも見えるタイプがあるのだと。
けんちゃんは後のほうだから、女の子に感じるようなときめきをおぼえるのだと。
だが、弘は結構ぎりぎりのところで耐えていたのだ。
それが分かったのは、弘が部屋の窓を開けたときだった。
急に風が吹いてきて、目の中に埃が入ったのだ。
「弘、どうしたの?」
部屋に遊びに来ていたけんちゃんが近寄ってきた。
「目にゴミが・・」
「どれ見てあげるよ。僕得意なんだ、まかせなさい」
けんちゃんは綿棒を濡らして手に持つと、弘の下まぶたをめくった。
「ゴミは大抵真ん中に集まるんだよ。動かないで」
けんちゃんはゴミを取ろうと、顔を近づけてきた。
けんちゃんの目がすぐ近くで自分を覗き込んでいる。
形のいい唇が少し開いていて白い歯がのぞいている。
「取れたよ」
嬉しそうに言ったときけんちゃんの唇が動いた。
それを見て弘は頭がぼーっとしてきた。思わず弘は自分の唇をけんちゃんの唇に一瞬ふれさせた。
急に顔を離してけんちゃんは目をまんまるく開けた。
「な!!なに?なに?なに?」
「あ・・・・その」
けんちゃんはくるっと背中を向けた。その背中に向かって弘はあやまった。
「ごめん!けんちゃん、ごめん。なんかはずみで・・」
ちょっとの間けんちゃんは反応がなかった。
弘にはそれがとても長い時間に思えた。本当にいやな顔をしてるだろうな、どうしよう・・と思った。
ああ、もう死んでしまいたいと思った。
でも次にけんちゃんが振り返ったときはいつもの明るい顔だった。
「はずみだってえ?よくもふざけたなあ。
人がせっかく真剣にゴミを取ってやってるのに!!このおっ!!」
とんっと弘のおでこを小突いたとき、正直弘は救われたと思った。
「ごめん、本当にごめん。もう絶対しないから」
「当たり前だよお。だからもういいよ。忘れるから。」
「ありがとう。許してくれて」
「だから、もういいよ。なんとも思ってないから」
「うん。どうかしてた」
けんちゃんはいきなり弘の頭を両手でつかみ、おでこ同士をごつんとぶつけた。
「これでお返しさ。はい、おしまいだよ」
こんなこともあったが、それ以外はけんちゃんは魚住家にとっては家族同様の存在だった。
けんちゃんは村の各家庭の料理をおぼえていて、時々作ってくれた。
まさに石田村の食文化がけんちゃんを通してこの家に伝わった。
けんちゃんが魚住家から出て石田村に向けてしばらく歩いていると、黒い車が近づいてきた。
けんちゃんの前に止まった車から男が二人降りてきた。目のきつい中年の男と体の大きい男だった。
体の大きい男がけんちゃんに話しかけた。
「覚えているかい。7年前わしら二人に会っているはずだ。」
けんちゃんは咄嗟に逃げようとしたが、大きな男が何か言うと大人しく車に乗った。
目のきつい年長の男が新岡長治、大きな男が花山太一と言った。
車はけんちゃんを乗せたまま、石田方面に走り去って行った。
今から7年前のことである。
新岡長治は新岡組の組長だ。
今新岡は若頭の花山太一と並んで目の前のアクロバットを見物している。
近江サーカス団という名前だが団員は3人だけ。
筋肉質の団長とその妻の美女と5歳の女の子だ。
出し物は中庭で行っていて、見物人は全国から集まった招待客たちだ。
新岡たちもその中に入っている。
招待したのは堂島興行だ。
なんでも興行を始めてから1周年になるという曖昧な理由で招待し花札などをして遊んでもらおうという魂胆らしい。
近江サーカスはアトラクションと言える。
ヤクザが興行に手を出して碌なことはない。
新岡長治は堂島興行の黒い噂を何度か耳にしたことがある。
社長の堂島は無類の女好きで、商売相手の芸能人にも平気で手をつける。
事実今もサーカス団の美女を見る目が尋常ではない。
事実、その女は均整のとれた見事な体をしていて、顔は女優も顔負けの美貌である。
堂島は汚い手を使ってでも必ずこの女を狙う、新岡はそう確信した。
また、興行収益についてもかなり不明瞭らしい。
弱い相手に対しては徹底的にピンはねをする。
赤字になったと居直り脅迫する、そんなことばかり耳に入っている。
興行という名を借りた外道の稼業だ。新岡長治は堂島がどうしても好きになれなかった。
綱渡りや玉乗りそして女の軟体芸やさまざまなアクロバットを見せた後、最後は珍しいことをしてみせた。
男の肩の上に女が立ち、さらにその上に女の子が立つのをやった後、女の子だけ下に降りて、小さな体で仁王立ちした。
そして、女を乗せたままの男が女の子の上に向けられた手の上に足を乗せていったのだ。
つまり、5歳の女の子が大人二人を持ち上げてバランスをとっているのだ。
女の子は、男の足を持ったまま軽がると頭上に持ち上げた。
会場から驚嘆の声があがり、拍手の嵐が起こった。
その日は新岡長治も含め、多くの客人たちがサーカス団に、特に力持ちの女の子に沢山の祝儀を弾んだ。
だが、すべての日程が終わって妙なことを耳にした。
花山太一が耳打ちしてきた。
「それがですね。変なんですよ。近江サーカスは堂島に200万ほど借金があったらしいんですが、それが今度の興行でさらに増えたっていうんです。」
「客人たちの出した祝儀があるだろう。それだけでも十分儲けがあるだろうに」
「客人たちの祝儀はすべて堂島に対してのものだと言ってるらしいですよ。
どうも堂島の奴、あのサーカス団の女二人を狙ってるらしいです。」
「あの力持ちのちびちゃんまでもか?どぐされの外道野郎だな、全く」
「あの子供を取り上げて金儲けしたいらしいです。」
「花山お前、確か病気で死んだ子は女の子だったな?」
「へえ、生きていればちょうど同じくらいで」
「じゃあ、その子の供養もかねて、助けてやろうじゃないか」
「へい。」
花山太一は長治の言葉に目を輝かせた。
新岡長治は気の利いた組員を使って情報を集めた。
それによると、堂島は借金の相談のために女を呼び寄せ強引に迫ったが、逃げられたという。
だが、別に手をまわしていた堂島は女の子を掴まえて人質にした。
そして逃げている二人を捕まえるため、廻状をまわしてきたのだ。
その趣旨は、客人たちに見ていただいたサーカス団が祝儀のみならず、花札のあがりまで盗んで逃げたので、ぜひ掴まえるのに協力していただきたい。
さいわい客人たちは顔を見ているので云々とある。
まあ、自分に都合よく事実を大きく曲げている訳だ。新岡は吐き気がした。
だが、廻状を回してきた以上この渡世では表面上だけでも協力しなければならない。
つまり協力する振りをするわけだから逆に動きやすいのだ。
実は、二人をこっそり匿っていたのは新岡組の精鋭だった。
廻状が回る前に手を打っていたのである。
そして、新岡と花山は、女の子が捕まっているという堂島の事務所に顔を出した。
その日は朝から雨が降っていて陰気な空模様だった。
堂島の事務所は川のすぐ横にあり、事務所の窓や入り口は全部ブラインドが下りていた。
覗かれたくないことをしているから隠すのだろう。
事務所に入ると堂島の組の男たちが5・6人詰めていた。新岡の顔を見ると挨拶してきた。
「他の皆さんは、親を追ってらっしゃるのかい」
「へえ、あっしらは子供の番兵で」
「で、子供はどこにいるんだい」
「ここでさ」
男が指差した足元に四角い箱があった。
「土佐犬を入れる檻なんです」
中を見ると、女の子がしゃがんで震えている。
「犬の檻でいいのかい?」
「なんせ怪力なもんで、このくらいしないと」
「じゃあ、この檻なら心配ないんだ」
「へい、太い鎖を引きちぎる土佐犬でも出られないですから」
「じゃあ、ここにいる必要はないだろう。わしらは裏の方を見張ってるから、あんたらは表を見張った方がいい」
「というと?」
「子供が捕まっているのに助けに来ない親がいるかい。
姿を現したところをあんたらが捕まえたらお手柄じゃないか。
わしらが捕まえても手柄を譲ってやるよ」
「そうか!!おいみんなここは大丈夫だから表を見張ろう」
新岡と花山はいったん裏口から外に出たが、新岡だけ事務所にまた戻った。
女の子の名前は近江兼(かね)といった。
新岡長治は犬の檻に入れられている兼を見た。兼は震えて何もしようとしない。
「大丈夫だ。お前ならそんな檻壊せるさ。壊してみろ。そして逃げてみろ。」
だが、兼は何もしようとしない。新岡長治はバリを掴んで鉄棒をはずし始めた。
「出ろ。さあ、出るんだ。」
恐る恐る出て来る兼に、新岡長治は裏口を指差した。
「そっちから逃げれば父さんや母さんに会える。早く行きな。
そして二度と見つかるんじゃない。」
裏口から兼が出ると花山太一が待っていて、手招きした。
「さあ、急ぐんだ。お前の父さん母さんに会わせてやる。」
太一たちが姿を消したのを確認すると、新岡長治は横の戸口をそっと開けて、漬物石を脇の川に投げ込んだ。かなりの水音がしたので、すばやく裏口の外に出て様子を伺った。表が騒がしくなり建物の中に入ってくる。
彼らは壊れた檻と開け放たれた横の戸口を見るだろう。
急いで川の方を見るが、何も見えない。
折からの雨で水量が増して流れも速い。飛び込んだとしてもあっという間に流されたのだろう。
彼らがそう判断するのを期待した。
やがて裏口の新岡長治のところに男たちがやって来た。
「檻が壊された。川に飛び込んだらしい。」
そういう彼らに新岡は肩をすくめて見せた。
「だから犬の檻でいいのかって聞いたんだがな。」
その後長治は男たちと別れて、兼の親たちを追うことにした。
もっとも彼の場合は逃がすために。
太一は用意させたトラックの荷台に3人を隠すと市外へ逃がした。
長治はそれを確認した。
行く先は近江敦の故郷の石田村だという。
しばらく、堂島組の捜索の手伝いをした後、どうやら市外に逃げてしまったらしいという情報が伝わってきて、この日は解散になった。
後からの情報で堂島も近江敦の逃亡先は石田村であると見当をつけたらしいとのこと。
それなら夜通し車を飛ばして、堂島より先に石田村に行かなければならない。
新岡と花山は堂島の鼻を明かすために出発した。
石田村の自治会長の坂野昌(まさる)は近江親子から事情を聞いていた。
「坂野さん、そういう訳で明日私と家内はここを出て新しい隠れ家を探そうと思います。それまでの間、この子を預かってほしいんです。でも、きっと村中探すと思うのでこうします。」
そういうと近江敦は妻に目配せをした。妻の美穂は鋏で兼の長い髪をざくざくと切り出した。
「何をするんだ」
「男の子にするんです。見つかったら売り飛ばされるかもしれないんです。」
「そうか。じゃあ、尚樹の服を着せよう。その可愛らしい服はしまっておこう。」
「では、宜しくお願いします。私は実家のあった廃屋に二人で泊まります。」
「電気も止まっているし、だいいちあそこは崖の下だから危ないぞ」
「もし、今夜中に追っ手が来たら、あそこなら気づかれないので、逃げる時間が稼げます。では娘を・・いや、息子をお願いします。」
新岡長治と花山が石田村に着いたのは朝方だった。
なにやら騒がしいので行ってみると、昨夜の大雨で土砂崩れがあったらしい。
村人たちが土砂を取り除いて中から二人の遺体を掘り出したところだ。
村人たちは新岡を警戒していた。
追っ手だと思っている。そう思ってもらった方が都合がいい。
後から堂島たちも来るのだから。
新岡と花山は二人の遺体に手を合わせた後、村の代表者らしい坂野に近づいた。
話しかけたのは長治だった。
「わしらが何者か知っている様子だね。悪いがちょっと事情を聞かせてくれないかね。」
戸惑う坂野に無理やり家まで案内させた。途中、聞いたところによると、近江の実家の廃屋に3人が泊まりこんでいたが、夜中に鉄砲水が出てがけ崩れになり、3人とも生き埋めになったという。
子供はまだ見つからないが今探しているところだと。
坂野が家に上げたくない様子を見せたので、新岡長治は兼が生きていることが分かった。
上がりこむと、男の子が二人物陰から様子を見ている。そのうちの一人が兼だと気づいた。
近江兼(かね)は、新岡長治の顔を見て怯えた。
男の子の格好をしていても、新岡の鋭い目は誤魔化されないと感じたからだ。
新岡は兼をじっと見てから目をそらし坂野の方を見た。
「村長さんですかい?」
「自治会長です」
「わしらの組織は全国に散らばってましてなあ。
もしこの先何年後でも、怪力の女の子が現れたという噂が流れたら、すぐに兵隊が集まってさらっていくことだろうね。
そうなったら、見世物にされて一生ぼろぼろになるまで働かされることになる。
自治会長さん、二親の死体が出ているけれどこの後子供が出てきたら、すぐに火葬して墓を立ててやることだ。3人の名前でね。
その後は当然近江兼という子はこの世にいなくなるんだ。
仏になった子供の供養は村で責任をもってしてやることだね。これは埋葬の費用の足しにしてくれ。」
そういうと、新岡長治は金の入った香典袋を置いた。
「おう、そろそろひきあげよう。どうせ堂島興行が昼ごろまでにやってくるだろうからな。
奴らはわしらみたいな紳士じゃないから気を引き締めて迎えることだ。」
新岡たちが引き上げると自治会長の坂野は、村人たちに言った。
「急ぐんだ。豊橋石材に連絡して墓石を彫ってもらおう。それから、二人の遺体をすぐ焼き場に持って行くぞ。」
管轄の駐在所には悪天候のため、こっちに来てもらえないので、検死を待たずに火葬にすることを連絡し了解してもらった。もちろん死体は3人だと報告した。
戸籍はこっちの方にあったので、死亡のため抹消という扱いにしてもらった。
その後豊橋石材が3人の名前を彫った墓石を石田っ原まで運んできたのを村人が協力して運んだ。
そうやって、すべて猛スピードで仕事を終えたとき、堂島の手の者がやってきた。
坂野は崩れた廃屋を見せ、3人の名前を彫った墓を見せ、彼らの目の前で花を飾って線香を上げた。
実際に二人も死んでいるのだから、その様子に不自然さはなかった。
だが、若い者は念のため村中を歩き回り、探し回った。幸い兼は見つからなかった。
堂島は何か納得がいかなかったようだが、しぶしぶ引き上げて行ったのだ。
それ以来、兼(かね)は兼(けん)という呼び方にして男の子として育てられた。
村中の人間がこの秘密を共有し、兼ちゃんを共同で育てたのだ。
泊まるところも一応坂野の家が基本だが、村中の家に順番に泊まったりもした。
けんちゃんは人なつっこく話好きでよくお手伝いをするので、みんなからいつも歓迎された。
そして、よく働いた。
力仕事は大人より得意とするところで、なんでもよくやってくれた。
そのたびによくお小遣いを渡されたため、現金の収入はあり、生活費になった。
新岡長治も花山太一もその辺の事情も知っていた。
石田っ原に車を止めた後、3人は石田村に向かって歩いた。
車の中でなにか話があったのだろう。
けんちゃんの・・・いや・・・近江兼(かな)の目には涙がいっぱい溢れていた。
石田村自治会長の坂野の家に新岡長治、花山太一、そしてけんちゃんこと近江兼が座っていた。
その向かいには坂野が難しい顔をしている。
「もう奥歯に物の挟まった言い方はしたくないから率直に言おう。」
花山太一は坂野に言った。
「わしらはこの子の味方だ。それは分かっていたと思う。」
坂野は黙って頷いた。
「この子を男の子として村全体で育てていたこともこっそり見てきた。
だが、もう12歳だ。
これから体つきもだんだん女の子らしくなってくれば誤魔化しがきかなくなるだろう。
そして死亡届を出しているから、戸籍はない。
学校にも行ってない。
それにここ2年ばかり、怪力の天狗の子が現れたという噂が広がっている。
死んだはずのサーカスの怪力の女の子と結びつけて怪しんでくる危険もある。」
「ここにいては危ないってことですか?」
「ほとぼりがさめるまで違う場所に移したいと思う。
今度は女の子のまま別人としてやり直すように手配したいのだ。」
「そんなことができるのですか?」
「わしらは裏社会の人間だから、戸籍くらい手に入れることは簡単だ。
そして学校にも通わせてまともな将来を歩かせたいんだが、どうだね?」
「しかし、両親を亡くしたこの子にしてみれば、村全体が家族のようなもの。
生木を裂くようなことにならなければと。」
そこで、今まで黙っていた新岡長治が口を開いた。
「前にも言ったようにわしらの全国的な組織が目を光らせている。
それは生易しいものじゃないんだよ。
一度この子を死んだことにして墓に埋めたが、天狗の噂が広がっているとなれば、天狗をこの世から消さなければならない。
二度と追跡されないように、この子の怪力も封じなければならんしな。
見つからないように生きて行く知恵や能力も授けなければならん。
何年かかるか分からないが全く別人になって、再びこの村を訪れることもあるかもしれん。
それも約束はできんが、人一人消すということは並大抵の痛みじゃすまないってことなんだよ」
坂野はじっと考えてから顔を上げた。
「あなたたちを信頼するしか方法はないようですね。最後にお聞きしてもいいですかな?」
「なんだろうか?」
「どうしてこの子のことをそこまで心配してくれるんですか?」
「わしは堂本興行のやり方が気に入らないから始めたことさ。
始めたことは途中で投げ出すのは寝覚めが悪いから続けているだけだ。
で、こっちの花山の方はちょうどこの子と同い年の女の子を病気で亡くしてるので、他人事とは思えないらしくてね。
まあ、そんなことだ。
もっとも、わしらは人助けをするのに理由なんかつけたいとも思わないがね。」
「わかりました。3日ほど余裕をください。村の者たちともお別れをさせたいと思いますので。」
新岡と花山は黙って頷くと立ち上がった。
その日は平日なのにけんちゃんは弘の家の前に現れた。
朝早かったので、みんな出勤前だったり登校前だったりして家にいた。
みんなの前でけんちゃんは突然こんなことを言った。
「僕、ちょっと遠い所に行くことになりました。今までお世話になりました。」
それを聞いて家中大騒ぎだった。家族同然の子供が急にいなくなるというのだから。
あっけにとられて言葉が浮かばないうちにけんちゃんが泣き出した。
みんなも泣き出した。
「どうして、どうして?」
「それは僕はこの世にいてはいけない人だから。」
「どうしてそんなことを」
「一度石田村に来て僕のことを聞いてください。その訳がわかります。
お父さん、お母さん、弘、香ちゃん、今までやさしくしてくれてありがとう。つらくなるからもう行くね。さようなら」
父親がけんちゃんを呼び止めた。そして家族に言った。
「急用で休むと研究所に連絡する。弘も香もきょうは学校を休みなさい。
けんちゃんの送別会をみんなでしよう。」
その後もどういう事情なのかみんなで質問した。
でも訳を言おうとしないので、結局けんちゃんと一緒に石田村に行くことになった。
けんちゃんはあるお墓の前にみんなを案内すると、そこに彫られた名前を指差した。
そこには3人の名前が彫られてあった。
近江敦、近江美穂、近江兼とあり、7年前の日付になっていた。
「僕のお父さんとお母さんです。そして最後が僕です。」
今度はけんちゃんは説明しだした。
お父さんたちはこわい人たちに追われてここまで逃げてきた。
僕だけが坂野さんのところに預けられて、お父さんたちは実家に泊まった。
ところがその晩の大雨でがけ崩れがおきて、実家の家が潰れてしまった。
僕だけが生き残ってたけど、それがわかればこわい人たちに売り飛ばされることになる。
だから、僕も一緒に死んだことにして、墓をたてた。
こわい人はあきらめて帰ったけれど、僕は死んだことになってるから、この世にいないはずの人になってしまった。
だから学校にも行けず、村の人に匿ってもらいながら生きてきた。
でも、また僕のことがばれそうになったから、姿を隠さなければならない。
遠い遠い所に行ってしまうから、もう会えないと思う。そんな説明だった。
「家族がいなかったのね。それじゃあ、うちの子になって」
弘の母がけんちゃんを抱きしめた。
「ありがとう、お母さん。でも、それじゃあ、迷惑をかけるんだ。みんなを危ない目に合わせたくないから。
本当にこわい人たちだから」
村の人に聞いてもけんちゃんと同じ説明だったので、みんな納得しない訳にはいかなかった。
もう一度銀海に戻ってけんちゃんの送別会をすると、いつも陽気なけんちゃんがとても沈んでいた。
「僕、そろそろ行かなくちゃ。」
「いつでも戻っておいで。ずっと会えないってことはないよね」
「・・・・」
「これからさみしくなるね」
また、けんちゃんが泣き出した。
みんなもまた泣き出した。
父親まで目をうるませていた。
だが、どうにもならない。
けんちゃんは手を振って走り出した。
「さようなら。ごめんなさい。ごめんなさい。」
「どうして謝るの?けんちゃん、今までありがとうね。元気でね。体に気をつけるんだよ」
「もう行ってしまったよ、母さん」
「どうして謝るんだろうね。本当に。さびしくなるね。」
魚住家が見えなくなったあたりで、黒い車が待っていた。
花山太一と女の人が乗っていた。
花山は女の人を紹介してくれた。
「うちのかみさんだ。それから、お前はきょうから木島茜(きじまあかね)という名前になる。
約束してほしいことは、絶対人前で本当の力を出してはいけないということだ。
それをやってしまうと全てが目茶目茶になる。わかったね。」
けんちゃん、つまり近江兼(おうみかね)は大きく息を吸って答えた。
「はい、わかりました。」
その後、魚住の家の方角を見て、顔を曇らせた。
(一つだけ嘘をつき通した。僕が女の子だということだけ言えなかったから。)
(第一部「石田の天狗」終わり、 第2部「茜の空」へ続く)
怪力少女・近江兼伝・第1部「石田の天狗」
天狗の子は可哀そうな人間の子、しかも女の子だった。今家族同様付き合っていた村の人々や魚住家の人々とも別れて、全く新しい名前で見知らぬ土地に行かなければならない。
そこではどんな生活が待っているのか?