私とあなたの距離
五月も下旬を過ぎ、夕暮れの時間も年度の初めより長くなり始めていた。市内の中心を横断するように商店街が伸び、その中心には多くのチェーン店が入る複合施設になっていた。
その施設の三階に、他の店よりかは小さな書店の雑誌コーナーで立ち読みしている人たちの中に、小柄な制服姿の子も並んでいた。順番に読んでいく中で、手に取ったB5版の風景写真を集めた雑誌を抱え、コーナーとは反対側のレジへ持っていこうと人ごみの中をすり抜けていた。
混み合う雑誌コーナーを抜け出し、レジへ向かおうとした時、自分と同じクラスの生徒の姿が見えた。その子は、雑誌コーナーのすぐ向かい側の文庫本のコーナーで屈んだり、立ち上がって右にずれたりを繰り返していた。
(あれって、もしかして橘花さん?)
さらさらとした長い髪が腰辺りにまで伸び、大きな目に釣り合うように整った顔立ちは見間違えることはなかった。彼女に気づかれないように棚の隅に隠れ、気づかれないように様子を伺っていた。
* * * * *
月の初め、小柄な少女夏河の通う中高一貫校に橘花は転校してきた。
「初めまして、橘花 美優と申します。これからよろしくお願い致します」
父親の仕事の都合で編入してきたのだが、生まれながらのお嬢様であり、滅多に会えない存在にクラス中の注目の的になり、初日から彼女の周りには隣のクラスの子も含めて大勢が集まっていた。
その様子を、夏河だけは遠くから眺めていた。決して興味がないわけではなく、彼女も橘花に色々聞いてみたいことはあった。しかし、勉強はもちろん丁寧な言葉遣いや礼儀正しい態度など、その一つ一つが自分たちとの違いを直に見せつけられているようで、まるで漫画の世界からやってきた完璧人間みたいに映っていた。そんな彼女に話しかける勇気が持てず、夏河は遠くから彼女を観察する日々を送っていた。
* * * * *
夏河が橘花を見つけてから十五分。未だ文庫本と睨めっこを続けていた。
(まだ悩んでる……)
買う冊数が多いのか、探している本の在庫が少ないのかは分からないが、文庫本の棚をウロウロしているので当分は動きそうにもない。そんな橘花を見ていて、絵に描いたようなお嬢様と知っている夏河には、召使に頼らず自分で本を買いに来たりすることが意外だった。
彼女みたいな人には大抵は仕える人がいて、その人たちが自分達の身の回りのことをしているイメージが強い。夏河自身は一般の家庭に生まれた子なのでその実態は知らないが、自分達と同じように自分の足で物を買いに来る橘花に、今まで抱いていたお嬢様は薄れ、同じ高校生としての親近感が沸いていた。
そう思いながら見ているところに、ふと視界の端に橘花の様子を伺うエプロン姿の店員がいた。その態度は、夏河とは反対に彼女の仕草を注意深く凝視している。
ここ最近の商店街では、数日置きに万引きが各店舗で相次いでいて、いろんな店が再発防止のために対策を行っている。そのため、少しでも疑わしい人物には注意を払うようになった。以前に夏河も間違われたことがあり、そのことがあって以降あまり長時間店内に居るのを避けるようにしていた。
その店員は橘花を完全に疑っている。そう分かった時、反射的に救おうと脳が命じる。そしてそれに従うように、少しずつ彼女に近づいていく。
まだ話をするだけの勇気を持ったわけはない上に、下手をしたら嫌われるということも考えなかったわけではない。だけれども、変な誤解を招きそうになっているのを黙って見ているほど薄情でもなかった。
(今なら話しかけても大丈夫、だよね)
すぐそこにいる彼女に緊張した面持ちで近寄り、夏河は橘花に声をかけた。
「橘花さん、どうかしたの?」
夏河の声に、我に返った橘花は目をぱちくりさせていた。間近で見ると、その大きな目に吸い寄せられそうになる。
「あなたは、同じクラスの……」
「夏河だよ」
同じクラスなので姿くらいは見たことがあるのは当然かもしれない。でも、夏河にはそんな些細なことが少し嬉しかった。
「気を使わせてしまって、申し訳ございません。本を買いに来たんですけれど、私こういうお店に来るのが初めてでしてどうしたらよいのか困っていたのです」
(未だにいるんだ、箱入りお嬢様)
見た目通りといえばその通りだが、多くの情報が行き交うこの時代に閉鎖的空間で生きてきたことが彼女を正真正銘のお嬢様ということを示していた。
そう思っている間に、橘花はその場に立ち上がる。腰まで届く栗色の髪が左右に揺れた。枝毛も癖もない髪は照明の明かりの照り返しで艶やかに夏河の瞳には映し出された。そんな彼女の生い立ちに差を感じつつ、話を続けた。
「それなら、一緒に探そうか?」
「本当ですか?! ありがとうございます!」
夏河の言葉に橘花は食いつき、気が付くと夏河の手を取っていた。少し慌てて、夏河は首を縦に降る。彼女は心底安心し、屈託ない笑顔を夏河に向けていた。
普通なら、わざとらしいとかあざといとか思うけれど、橘花にはそんな雰囲気はまるでなかった。ただ純粋に困り、夏河の助け舟に喜んでいた。微笑み返す夏河は、意外な一面を見れて、雲の上の人だと思っていた橘花の印象が変わっていた。
そんな彼女達のやり取りをしている間に、後ろで控えていた二人の店員はその光景に背を向けて、何処かに消えていった。
「ちなみに、どんな本なの?」
「以前図書室で見かけた本なんですけれど、それが……表紙だけしか覚えていなくて」
橘花は小さく頭を下げて答えていた。その答えを聞いて、品揃えが売りの棚と長い時間睨めっこをしていた理由と、これから自分もそうなることに表情が固まった。
* * * * *
「本当にありがとうございました」
手に目当ての本を抱えながら御礼を言う橘花に、夏河は手を振りながら謙遜する。結局、二人で探すこと三十分後にようやく見つけて購入することができた。
周りから頭一つ分くらい低い二人が並んで帰り道を歩いている間、橘花は買うことができた本をずっと手に持ち、唇がほころんでいた。
「そんなに欲しかったの?」
小さな子供が喜ぶような行動に、夏河は何気なしに聞いた。対する橘花は慌てて夏河に向いて答える。
「それもあるんですけれど……こんな事初めてだから」
深くは尋ねず、夏河は次の言葉が出るのをおとなしく待った。
「私、皆さんがよく言うお嬢様学校に通っていて、こうやって友達と一緒に並んでお買い物をしたことがなかったんです。だから、皆さんと同じようにお買い物をするのが夢だったんです」
照れくさそうに彼女は答えるが、そうとなれば彼女の周りにいた子達がすぐに食いつきそうな話題に、夏河には変に思えた。
「クラスの子には言わなかったの?」
「お誘いはしたんですけど、皆さん遠慮して直ぐに帰ってしまうので……」
(多分、遠慮してではないと思うよ……)
夏河は頭の中でそう告げた。
校舎内でならまだ話をしたりはできるけど、いざ外で一緒に並んだ時にどちらが目立つかは明白だった。そう考えたとき、クラスの子たちは自分では彼女と釣り合わないと思い、誘いに乗らなかった。確かな考えではないが、夏河は一人納得していた。
「夏河さん、ありがとうございます」
にこやかな笑顔を夏河に向ける。その顔には、いつもの高貴な印象は見受けられず、幼い子供の無邪気な笑顔に見えていつもより可愛らしかった。
「どういたしまして」
そう答える夏河の頬は、ほんのりと紅くなっていた。それがまだ少し残る緊張からか、商店街全体を覆うように伸びる夕日の明かりのせいか、もしくは別の何かなのかは本人がよく分かっていた。
二人並んで歩き進んで行くうちに商店街と各地域を結ぶ電車の駅にたどり着いた。
「じゃあ、私こっちだから」
橘花に手を振り、駅の中へ入っていく。去ろうとするその背中に向けて、橘花は小さく名前を呼んだ。
「……また、こうして一緒にお買い物をしたりしていただいてもいいですか?」
橘花は様子を伺いながらそう尋ねた。そう言われたのが夏河にとっては喜ばしいことだったが、いずれこの立ち位置に他の子が加わると思うと、人付き合いの上手ではない彼女には耐え難いものがあった。
「いいよ。でも、さん付けはなしで」
少し考えて振り返った夏河は、橘花にそんな条件を出した。呼び方一つで何かが変わるとは思っていないが、お互いの距離を他の子より先に縮められればと思っての条件だった。加えて、夏河自身さん付けで呼ばれることに慣れていないので、今までの呼び方がなんだかむず痒く感じていた。
夏河の予想通り、橘花はその条件に多少躊躇っていた。小さい頃からそう言うように教えられてきたのだろう。しかし、ゆっくりと落ち着いて夏川に向き直り、小さくうなずいた。
「……また明日ね、夏河」
そう言った彼女は笑って手を振っていた。
「また明日ね。橘花」
手を振り返し、それぞれ家路に着くことにした。友達としての第一歩はすこしぎこちなく、欲張ったところもあったけれど二人にとって大きなものになった。
(明日は少しまともに話できるかな)
短い時間だったけど、今まで気になっていた子と距離が近づいて、夏河の胸は弾んでいた。明日はどんなことを話そう? そんなことを考えながら、あと十分はかかるであろう帰りの電車を待っていた。
私とあなたの距離
やっぱりお嬢様と普通の子の掛け合いは良いものですね。ずれてるけど、憎めないのがまたいいですね。