Utopia of Eve
それは、神と人が犯した過ち。
むかしむかし、あるところに。
誰もが羨む、美しく豊かな島国の都市がありました。
その都市を人々は「理想郷」と呼び、神の愛した伝説の地だと崇められていました。
誰もが羨む、美しく、豊かな理想郷。その理想郷を治めていたのは、神の骨から生み出されたという理想郷で誰よりも美しい女でした。
美しい女は理想郷の人々をとても愛し、そして人々にもとても愛されていましたが、その美しさ故に、一人ぼっちでした。
一人ぼっちの美しい女は、友達が欲しいと願いました。けれど、理想郷の住人たちは、まるで美しい女を神を拝むかのように扱い、誰も近寄るものはいません。
女はこれではいつか自分が滅んでしまったとき、理想郷も滅んでしまうのではないかと恐れ、あるとき、こっそり理想郷を抜け出しました。
そして美しい女は、色々な国を知るために旅にでたのです。
理想郷を出ると、そこには自分が知らない色々な国々がありました。
その土地によって違う文化や、伝統、国に住まうたくさんの人々、理想郷から出たことのなかった女にはそれはそれはとても素晴らしく、楽しい日々でした。
けれどあるとき、女の正体が理想郷の君主だと知れ渡ると、たちまち女はその身柄を追われるようになりました。
『理想郷の住人を捕まえると、その地は豊かになる』
理想郷のまわりの国の人々は、誰もがそう思っていたのです。
女はたくさんの国々の追っ手から逃れ、理想郷まで必死に逃げました。
このままでは理想郷にまで追っ手が来てしまうと、人々に知らせるために。
美しい女が理想郷まで戻ると、そこは、荒れ果てた大地となっていました。あんなに美しかった理想郷が、こんなに荒れ果てていることに女は驚き、ひどく悲しみました。
理想郷に女が帰ってきたと知れ渡ると、人々は女に必死にすがりました。女は痩せた人々を見て、必死に神に祈りました。
そして。女が戻ってきてしばらく経つと、理想郷は再び美しい姿を徐々に取り戻していきました。
人々は喜び、そしてまた女を崇めました。けれど、もう二度とこんなことが起きぬようにと、人々は暗い牢獄へ女を閉じ込めてしまいました。
女が治めていた美しい理想郷は、権力の強い者たちが理想郷を治めるためにひどく争い、そして何百年と女を閉じ込め、いつしか女のことを忘れていきました。
そしてあるとき、理想郷の富を奪おうと、様々な国々が理想郷へと船を出し、攻め込んできました。
女が弱った今、理想郷を守っていた力は薄れ、たくさんの人間が今だ今だと理想郷へ入り込んだのです。
そして、瞬く間に、美しかった理想郷は戦場へと変わってしまいました。
女は考えます。女はとても人々を愛していました。けれど、人々は女を閉じ込めました。でも人々を恨むことは、女にはできませんでした。どうすればまた平和な理想郷を取り戻すことができるだろう。
すると、女は神を恨むようになりました。神が自分を生み出したこと、神がこの理想郷を愛したこと、神が作ったこの世界全てを恨みました。
女は強く、酷く神を恨み、泣き喚きました。
そして、女が考えたこととは、自らの命と引き換えに、自分の持つ力全てを使い、理想郷を海の底へと沈めることでした。
神の愛した理想郷をもう神は愛していません。ならば、自分がこの理想郷の源ならばいっそのこと。
理想郷は深く深く、女と共に海の底へ沈みました。
そして、人々は、神々を怒らせたこの過ちを繰り返さぬようにと、この話を語り継いでいるそうな。
-The beginning of the end-
この街は眠らない。
人々が眠りについているだろうこの時間も、この街はとても明るくネオンに包まれている。
それもそうだ。眠らない街をつくるために、人は自らの眠る時間を割いているのだから。
そんな夜中にも外を不自由なく歩くことのできるこの明かりたちは、暖かく優しい。けれど暖かくも、優しくも、そう感じるのは人の勝手である。
もしかしたら明かりたちは、暖かさなんて見せているつもりはないかもしれない。冷たいほどに鋭く貫くような明かりになりたかったかもしれない。
誰が望んでこの街は眠らずに在るのだろうか。
そんなこと、今更誰もわかるわけがない。眠らないのが当たり前なのだから。
※ ※ ※
明かりの入り込まない真っ暗な路地裏。
酔っているのだろうか、ふらふらとした足取りで壁を伝いながら歩く男がいる。
黒いジャケットに付いたフードを深くかぶり、まるで亡霊のような顔つきでただ長く続く路地裏を歩いていた。
今の世の中、珍しいことではない。酒に酔ってこうしてふらふら歩き回り、警察に保護される者は毎晩毎晩いるが、周りからしたらいい迷惑でとても気味が悪い。
転びそうになりながらもふらふらと歩いているその男の姿も、傍からみれば気味が悪いに決まっている。だがこうして路地裏を歩いているのは、もしかしたら人の目を気にしてなのか。酔っていてたまたま入り込んでしまっただけなのか。
「ねえ、ちょっとあんた」
すると突然、男の背後から女の声が聞こえた。
男ははっと振り向くが、そこには暗闇が広がるだけで、声の主と思われる姿は見当たらない。
だが、こちらへ進んでくるハイヒールの高い音が狭い路地裏で反響していた。
男は目を凝らし、暗闇を睨みつける。
「なによ、そんなに睨まないでくれる?」
するとまた暗闇の向こうから女の声が反響する。
男は更に目を鋭く細め、睨みつけながら言った。
「誰だ。出てこい」
掠れた声が、暗闇の向こうの人物へとかけられる。
すると暗闇の向こうから、ゆっくりと女が姿を現した。長い赤毛に、真っ赤な唇。黒い服に身を包んだその女の手には、小さなナイフが握られている。
男はそれを見て、ジャケットの裏に隠した銃へと手を伸ばした。
「おっと、銃には手を出さないでちょうだいね。抵抗されたらあなたを刺さなきゃならなくなっちゃう。」
その瞬間、男の背後からまた別の女の声が反響した。
この女二人が何者かはわからない。けれど今は挟み撃ちに合っていて、もしここで抵抗をしたら厄介なことになるだろう、とだけは、うまく回らない思考で考える。
今ここで挟み撃ちにされている理由なんてわからなかったが、男にはどうでもよかった。ただ挟み撃ちに合うということは、この路地裏に入る前から、もしかしたらもうずっと前から後を付けられているんだろうと、背後の声には振り向かず目の前に現れた女を睨みつけながら考えた。それに銃を持っていることも知られている。
無駄に抵抗してあのナイフで刺され死ぬのはごめんだ。と、ジャケットの裏へと忍ばせた手を戻し、両手を軽く上にあげた。
「なんなんだ、お前らは」
ため息をつくように、まるで呆れたような声で男はそう言った。
その様子を見て目の前の女はすこし驚いたような顔を見せたが、唇を笑の形へゆっくり歪めると、手に持っていたナイフを随分と値段の高そうなバッグへと仕舞う。
「あら、意外な反応でびっくりだわ。もっと取り乱して銃撃ちまくるんじゃないかと思ったけど、話がわかるようなやつでよかった。」
女がそう言うと、くすくすと後ろでもうひとりの女が笑った。
男は眉間にシワを寄せ、目の前の女を睨みつける。
「俺の後をつけてたのか?」
「そうよ。あなたにとっても大事な用があるの」
男の質問に、背後の女が答えた。
そして背後の女はゆっくりと歩みを進め、男の前に姿を現す。
真っ黒な髪をした女が、目の前にたっていた赤髪の女の横へ並ぶ。
「ごめんなさいね。いきなり。あなたさっきの店で随分飲んでたから酔ってるでしょ?」
黒髪の女がそう言う。
二人は、似たような黒い服を着ていたが、雰囲気という雰囲気はまったく違った。
化粧の仕方も、つけているアクセサリーも、まるで二人ともが真逆のようなセンスだ。赤髪の女はどこか華やかな印象を見せるが、その華やかさがとても鋭い。黒髪の女は、シャープな印象とは裏腹に、どこか幼げな顔つきをしている。
「…俺が店にいるときからつけていたのか?」
男はふたりの顔を警戒の目で見つめながら言う。
「まあね。っていうか、ずっとあんたを追ってた。実際あんたを見つけたのはさっきの店だったけど。」
赤髪の女が、やれやれと言うような表情で言った。
男は更に警戒心を強める。
この二人はずっと自分を追っていたと言う。だが自分のことを見つけたのはさっき飲んでいた店。
男は家柄のせいで追われることは珍しくなかったため、追われる理由はいくつも心当たりがあった。
女たちを見る限り、明らかにその値段の高そうなアクセサリーや服装から物語るもの、それは
「金か?」
「あら?もしかしてあなたお金持ちかなにか?でも残念ながらお金は有り余るほどあるのよね。」
「じゃあなんだ」
金ではないとなれば、なんだろうかと男は考えるが、残念ながら酔いの回ったその思考では答えを見いだせることができない。
それどころか、男の意識はだんだんと薄れていくようだった。
視界がぼやけ、鈍く後頭部に痛みが走る。
「そうね、話せば長くなるんだけど…」
黒髪の女がどうしようかと考え込み始めたが、男の意識はだんだんと朦朧としていくばかり。
なにを言おうが言うまいが、男にはどうでもよかった。
そう、『もうどうでもいい』のだ。
自暴自棄になったような思考で、男はぼやけた視界で目の前の二人を写す。
そして、男の意識は、そこで途切れた。
「実は私たちあるものを探しているの…って、あれ?」
「…ちょっと?もう、いやねえ。酔っ払って寝ちゃってるわよこの男。」
※ ※ ※
赤髪の女、リリスは、派手な宝石が好きだ。
ギラギラと眩しいほどに輝くダイヤモンドや、大きな真珠のピアス、たくさんの装飾の施された首飾り。
彼女の身に付けるアクセサリーや、ファッションは、派手で眩しい色をしたものばかりである。だが、その派手さは、ただ派手なだけでなく、どこか華やかで息を呑むをほどに美しい。
黒髪の女、レティは、冷たい色の宝石が好きだ。
冷たい氷のような、形の不揃いな宝石、細かなガラス細工の指輪、鋭い形の装飾品。
彼女が好むものは、冷たく、まるでその黒髪に溶けてしまうようなものばかり。だが、その鋭いアクセサリーや、冷たい目線とは裏腹にとても幼げな顔立ちをしている。それはどこか儚げな印象を持たせていた。
二人は趣味も合わなければ、好みも合わない。
全く正反対と言っていいほどに、なにもかもが合わないのである。
好きなアクセサリー、好きな色、好きな異性のタイプ。まるで、この世界の表と裏のようになにもかもが違った。
互の好みが合わず、ひどい口喧嘩をすることもある。
リリスの作った料理をレティは嫌うし、レティのつくった料理をリリスは嫌う。
リリスの好きな店をレティは嫌うし、レティの好きな店をリリスは嫌う。
こんなに正反対でも、二人はいつも一緒だった。
誰が見ても、彼女たちは正反対。
そんな二人の口喧嘩を見て、どうして二人はいつも一緒なのだろうと誰もが思った。
彼女たちの好みが合うことなんてないのに、と。そんな奇妙な二人を見て、疑問に思わない者はきっといないだろう。
では、彼女たちは本当になにも共通点がないのか?
それは違った。彼女たちをよく知る人物がこの世にいるとしたら、二人に共通点がないとは言わないだろう。
彼女たちは、黒がとても似合う。それはもう、恐ろしいほどに。
リリスは黒は飾り気のない派手さが美しいというし、レティは黒は深海のように魅力的だと言う。
彼女らを見た者は、きっとその美しさに息を呑む。彼女たちにとって黒とは共通点であり、そして唯一お互いを信じ合えるもの。
そして人々はその美しさゆえに、彼女たちの存在を「ブラック・レディ」と名付けたのであった。
おっと、ここでもう一つ。
彼女たちには黒以外にも、共通点がある。
いや、共通点と呼ぶのは間違っているかもしれない。
彼女たちは、共通点もなにも、『相性がとてもいい』のだから。
※ ※ ※
「あら、目が覚めた?」
男がゆっくり目を開ける。柔らかな灯りが開けた目に差し込んでくると同時に、頭上で女の声がした。
体をゆっくり起こし、周りを見渡すと、ソファに自分が寝ていたということに気づく。
どうやらここはどこかの家らしい。部屋の感じを見る限り、リビングだろうか。部屋の中はどこもかしこも黒い家具ばかりで、窓を覆うカーテンまでもが真っ黒だ。ぱちぱちと、部屋の中に暖炉の燃える音が響いている。
「…ここは」
「私たちの『アジト』よ」
ぽつりと呟いた男の言葉に、先ほどと同じ声が答えを返ってくる。
はっと振り向くと、そこには黒髪の女が足を組みながら椅子に座りコーヒーカップを片手にこちらを見ていた。
さきほど男の目の前に現れたふたりの女の一人だっただろうか、と、男は回らない思考で考える。
確か自分が酔っていて倒れたことはなんとなく思い出せたが、それまでがよく思い出せない。だいぶ飲みすぎたのだろうか。
けれど体調は随分と良くなっているように感じた。
「お前たちは、一体?」
「あなた飲みすぎて倒れたのよ。もう、ここまで二人がかりで運んできたんだから」
「え?あ、あぁ。すまない、礼を言う。」
「リリス、どうやら目が覚めたみたいよ」
黒髪の女が、向こうの部屋へ声をかけた。
すこし状況が飲み込めない男は、頭を抱えるようにソファへと体勢を崩して座る。
「…やっと目が覚めたのね」
あくびをしながら赤髪の女が向こうの部屋から出てきた。
眠っていたのだろうか、長い髪は乱れ、化粧が少し落ちている。
部屋から出て、キッチンで水を一杯コップにいれると、赤髪の女は男の座っているソファの近くの椅子に座った。
そして水を少しずつ口に含みながら、眠そうな目を擦り、またあくびを一つ。
「あんたのこと運んできてやったんだから、感謝しなさいよね」
まだ眠そうな声で女がそう言った。
男は小さな声でありがとう、とだけ言うと二人の女の顔を交互に見る。
「ったく、倒れるくらいならあんなに飲まなきゃいいのに…」
女はブツブツと呟く。
たいそう寝起きが悪いのだろうか、部屋から出てきてから眉間にできたシワがまだ解けていない。
「あんた、名前は?」
ぶつぶつとしばらく男の文句を言っていた女が盛大にため息をつくと、男を見て言った。
男からしてみれば、いきなり目の前に現れて変なことを言われ、もともとは何故かこのふたりに追われていたのだから文句を言いたいのはこっちであ。だが、ここまで運んで来てもらったこともあってか、なにも言えずに女の様子を見ていた。
運んでもらって、こうして丁寧にタオルケットまでかけられ、寝かされていたのだからきっと金取りではないのだろうとは思ったが、この状況がどんなものなのか男には全くわかりやしない。
「ちょっと、聞いてんの?あんた名前は?」
ぼうっとそんなことを考えていると、赤髪の女が更に眉間のシワを深くして再度聞いてくる。
「俺か?」
「そうに決まってんでしょ」
女の様子に焦って当たり前のことを聞いてしまう。
女はとうとう呆れたような表情でため息をついた。だが、眉間のしわはどうやら消えたようだ。
「ア、アドニスだ。アドニス・アルバーティ」
「アドニス?あの神話のアドーニスのこと?」
男が名乗ると、椅子に座っている黒髪の女が言った。
「あぁ、両親は神話のアドーニスにちなんで名付けたらしいが…」
神話のアドーニス。女神アフロディーテに愛された美少年である。
男、アドニスはあまりその神話が好きではなかったが、自分の名前のせいで色々と詳しく調べたことがある。
子供の頃はよくからかわれたものだ。
「はあ。こんなヒゲも髪も伸ばしっぱなしのだらしない男の名前が、美少年のアドーニスと同じ名前だなんて!笑っちゃうわ」
赤髪の女が言った。
確かに、アドニスは髪もヒゲも伸ばしっぱなしである。
前までは伸ばしっぱなしにしていたわけではない。割と身の回りのことには気を使って清潔にしているほうだったが、最近になり、生活が怠けてきたこともあってかヒゲも剃っていなかった。
数ヶ月前までは短かった髪も、今では肩にかかるほどの長さだ。
神話に出てくるほどの美少年アドーニスと比べたら、女神アフロディーテの怒りでもかうのではないかというほどにだらしない姿である。
自分の姿をここしばらく鏡で見てがいないが、きっとひどい姿をしているのだろうとアドニスは思った。
「そ、それより。お前たち本当に何者なんだ?」
はっとし、アドニスは思考を戻す。
そうだ、自分が今置かれている状況を知らなければならない。
もとはと言えば、自分はこの女二人に追われていたのだから、警戒をしなくてはならないのだ。
自分が追われている理由なんては知らなかったが、どんな理由だろうが自分が目をつけられていたことに変わりはない。
「私はリリス。何者かって言われても正直答えようがないわ」
赤髪の女、リリスがだるそうな表情で行った。
「私はレティよ、よろしく」
続けて、椅子に座っている黒髪の女、レティが言った。
アドニスはその名前を聞き、顔をしかめる。
リリスとレティ、二人共普通の名前といえば普通の名前だが、アドニスはなにか違和感を感じた。
名前そのものに関しての違和感ではなく、もっと外観的な違和感だったが、寝起きの思考のアドニスにはその違和感の正体を突き止めることができない。若干頭痛の走る頭を押さえながら考えるが、どうも思考が回らない。
それほどに飲みすぎていたのだろうか、とアドニスは思い出せない店でのことを後悔した。
だがそれ以上を考えてもなにか思い出せるわけでもないので、アドニスはそこで考えるのをやめる。
「それで、私たちあなたに用があるんだけど」
「あ、あぁ。その用って、なんなんだ?金…では、ないんだろう?」
確かこの二人は金ではないと言っていたのを思い出す。
倒れる前、確かそんなことを聞いた気がした。
「じゃあ、ここからは私が話すわ」
すると、椅子に座っていたレティが立ち上がりながらそういった。
レティはアドニスの向かい側の黒いソファに座る。
こうして見ると本当に、この部屋は黒い家具しかない。自分の座っているソファも、かけられているタオルケットも黒い色をしている。
そして、彼女たちの服も、真っ黒だ。
「あなたが倒れる前も行ったけど、私たちあなたを追ってたの。実際、あなたを見つけることができたのは、あなたが飲んでいた店だけれどね。」
自分を追っていた、というのは確かに倒れる前に聞いた気がする、とアドニスはぼんやりとした記憶の中をたどった。
「私たち、あるものを探しているの。とっても大事なものなのよ。」
「あるもの?大事、って、ものを探していることと、俺を追っていたことはなにか関係あるのか?」
「関係あるからあんたを追ってたに決まってるじゃない」
ソファの後ろの椅子に座ったリリスが呆れたように言った。
それはまあ、確かに考えればそうなのかもしれないが、いきなりこんな状況に合わされているのは自分なのだから、もう少し対応に気を遣ってもいいんじゃないかとアドニスは思った。
「まあまあリリス、いいんじゃない?機嫌悪そうだけど寝てたら?」
「もう、本当よ。こっちは眠いんだから寝てたいわ。」
大きなあくびをしながらリリスが言う。
そんなことを言われたって、とアドニスはリリスを見ないようにしながら眉間にしわを寄せた。
「でも、こいつ銃持ってるから、寝てなんていられないわよ」
はっ、とアドニスが顔をあげる。
「な、なんで銃を持っていることを知ってるんだ?」
そういえば、とアドニスは思い出す。
二人に路地裏で声をかけられたときもそうだった。
アドニスはジャケットの裏に銃を隠している。二人に目をつけられたときに銃を出した覚えはなかったが、この銃の存在を知っているのだと思うと、アドニスは再び警戒し始めた。
「なんで、って。私たちが探しているあるものが、あんたの持ってる銃だからよ。」
機嫌が悪そうに髪をかきあげながらリリスが言った。
「えっ?この銃を?お前たちが?」
「あーちょっとやめてやめて。そういう風にその銃を扱わないでよ!」
アドニスが咄嗟にジャケットの中から銃を取り出し二人に見せると、リリスがたたでさえ機嫌が悪くひどい表情をしているのに、更にその眉間にシワをよせ言う。
それを見ていたレティも、銃を恐ろしいものを見るような目で見ていた。
「これはね、あんたが思ってるただの銃なんかじゃないのよ!」
リリスが声を荒らげてそう言った。
アドニスはその言葉を聞き、一瞬ぎょっとする。リリスの言った言葉に、アドニスは聞き覚えがあった。
この銃はもともとは自分のものではなく、母親のものであった。
母親がアドニスにこの銃を渡したとき、リリスのように、「この銃はお前が思っているような銃ではない」言われ、渡されたのを思い出したがらだ。
「それは一体、どういうことなんだ?」
アドニスが恐る恐るといったような様子でそう尋ねると、リリスは大きくため息を吐いた。
アドニスは、リリスの言葉が、母親の言った言葉とは全く無関係だとは思えなかった。
あの時母親が言った言葉の意味など知らず、今の今まで忘れていたことであったが、この銃を持ってから母親の言葉を思い出すとなにか恐ろしげな感情が渦を巻く。
「あなた、この銃を使ったことはある?」
「いや、ない。というか、壊れているみたいなんだ。弾丸を入れても、発砲しない。」
「壊れてる?ちょっと見せてみて」
レティがアドニスの手から半ば無理矢理に銃を奪うと、まじまじとそれを見つめる。
何度か引き金を引こうと試みているようだが、かちゃかちゃと軽い金属音が鳴るだけで中に入っている弾は発砲しない。
「…それは母親からもらったものなんだ。もしかしたら、それはおもちゃだったのかもしれないな」
「母親から?…母親がこれを使っているところを見たことある?」
目線を銃に写したままレティがそう言った。
アドニスは古い記憶を呼び起こし、母親を思い出す。
母親は自分がまだ物心ついて間もない頃に病で亡くなっているため、あまり覚えていることは少ない。
正直なところ、母親の顔を写真で確認するまでよく覚えていなかったのだ。
だが、思い出せるものとして、昔アドニスが下町の泥棒に捕まったことがあった。その時に助けに来た母親が、その銃で泥棒たちを撃ったのを見たことがあったのをなんとなく思い出す。いや、もしかしたらそのとき使った銃はこれじゃないかもしれないのだが。
「…一度、泥棒に捕まった時、母親が泥棒を銃で撃って助けに来たことがあったような気がする」
「そう…、何年前?」
「きっと、二十年以上は前だ。母親が死んだのが二十年前のはずだから…だが、その時使った銃がその銃かはわからない。」
後ろでその様子を見ていたリリスも立ち上がり、銃を調べるレティの横に座った。
「なるほど…ね」
しばらくまじまじと銃を調べていたレティが、黒いテーブルの上に銃を置く。
「この銃は私たちが探してるもの。それは間違いないわ。それと、この銃は壊れてないわよ。」
「えっ、ほ、本当か?」
そしてソファに深く座り直すと、レティはゆっくり深呼吸をするように口を開いた。
「…どうしてその銃は発砲しないのか、知りたい?」
まっすぐな目でレティがアドニスを見る。
アドニスは一瞬なにか恐ろしいことを告げられるのかと思い、小さく息を飲む。
発砲しない理由が知りたくないわけではい。今まで何度か気になったことはあったが、それがなにかを突き止めることができなかった。
修理に出そうとおもったことは何度かあったが、母親の言葉を思い出すたびにそれができずにいたのだ。
だから、もちろんその銃が使えない理由を知りたいに決まっている。
だが、レティのその顔を見ていると、どうしてだかそれを聞くのが恐ろしく感じてしまうのだ。
「知りたくないのなら今は言わないわ。でもあなたはいずれ知らなきゃならない。その銃がなんなのかをね」
俯いてあれやこれやと考えていると、レティが冷たい声でそう囁くように言った。
まるで、子どもになにかを言い聞かせる母親のような声で。
その声を聞いてアドニスはバチが当たったかのような顔をはっと上げて、レティの顔を見た。
レティの顔はひどく穏やかな顔をしていたが、どこか冷たい印象を持たせる。そのどこか冷たげな表情が、自分の母親を連想させてしまい、アドニスは息を呑んだ。
「…教えてくれ、その銃が、なんなのかを」
小さく掠れた声でアドニスがそう言うと、レティはとても優しく笑った。
それはとても嬉しそうに。
「…『海の理想郷』と言うおとぎ話を知ってる?」
すると、レティの横に居たリリスが言った。
リリスの表情も心なしか、穏やかそうな印象を見せる。
「…聞いたことはあるかもしれないが、忘れてしまった。」
正直にアドニスは答える。
どこかで聞いたことのあるような名前ではあったが、覚えてはいなかった。
きっとおとぎ話として聞いたことがあったのだろうが、それを本で読んだのか、それとも誰かに聞かせられたのか、よく覚えていない。
「海に沈んだ、美しい理想郷の話よ。」
にやり、リリスの口が笑みの形に歪んだ。
今思えば、リリスの笑った顔を見たのがそれで初めてだったかもしれない。
その笑は、とても深く、美しく、どこか怪しげなものだった。
「もう、この世界は終わりが始まっているのよ。」
The beginning of the end?
Utopia of Eve