すべては暗渠に

空虚な日々を過ごす男と女の出会い。それ以外は何もない。

ジーマの瓶を運河にでも投げ捨ててやろうかと堤防に座っていると、水面で何かがきらめいた。波紋の同心円が広がる。直線で切り取られた運河は黒曜石のように滑らかで、街灯の光と向こう岸の食糧倉庫が映り込んでいる。
多分、ボラだとかハゼだとか、そういう類の魚だろう。真っ黒な水中を泳ぐ彼らの日常。たった3メートル下に広がる水の中の世界。闇に支配されたそこには、魚たちだけではなく、訳のわからない何かがいる。こんなにも近いのにこんなにも暗い。表面張力という結界を破り、いたずらに水面に触れれば、そいつは俺を捕らえ、深い水底へ引きずり込む。声も上げられないままに俺は消え去る。事後に残るのは水面の消えそうな波紋と静寂。なにごともなかったように朝が来るのだろう。
堤防の端の出っ張りをぐっと掴む。世界が揺れたような不安に駆られた自分にあきれた。不意に水音が鳴る。跳ねる魚に街灯が乱反射した。種類は知らないが、子供のころに釣った事がある魚だ。エラに寄生虫が湧いていて気持ちが悪かった。
堤防を握り締める左手とジーマの瓶を逆手で握る右手。もうとっくにボークだ。
気の抜けた残りを飲み干して、家とは逆の方向に歩き出す。空き瓶は堤防に音を立てぬよう静かに置いた。

「おにいさん。え、どうですか? ああ……ちょっと、寄っていきませんか」
子供のような背格好の金髪の客引きは仕事を始めたばかりなのか、口調がたどたどしい。立ち止まって振り返った俺とけっして目を合わせようとしない。踏みつけられた吸殻に向かって話すように目を伏せ話し続ける。
「1時間セットで初回2000円で、え、あの生ビールもつけます」
それは先に言うべき文句ではない。ビールはごねられた時の駆け引きに使え。
大通り沿いに飲み屋が点在するだけのつまらないエリア。学校が近いので風俗もない。女が付く店は限られた数件だけ。まばらに歩いている連中は家路へと駅に向かう。金髪の若者は寒空の下、引く人間もいない道端で絶望的な気持ちのまま立ち尽くしていたのだろう。
「わかった、2時間くらい寄ってもいいよ。ただ料金だけ先に出してくれないか?」
そう告げると、壊れたおもちゃが動き出したかのように早口で店の説明をまくし立てた。紺色のフィールドコートのポケットをまさぐり、無線で店に連絡を取りだす。片側二車線の車道では、個人タクシーとクリーニング屋のバンが車を路肩に寄せてなにやら口論している。声は聞こえない。パチンコ屋の雑音と車のエンジン音で全てはかき消されてしまうから。
思いのほか安い値段を提示した彼は、初めて俺に視線を合わせた。俺は導かれるまま雑居ビルの階段を踏む。見つめ返した瞳は運河と同じように暗かった。

臙脂の布が壁を覆う店内は仕切りはとくになく、円形のホールのような造りになっていて、その周囲をソファーが囲むようになっていた。数人の先客と女たちが嬌声を上げながら卑猥な話で盛り上がっている。隣に座った女は、歳は18だというが、確実に嘘だろう。初めましてから始まる営業話をBGMに薄く味がついただけ水割りを呷る。アイラインの入れ方がうまいね、そう言っただけ堰を切ったようにアイメイクの話を垂れ流す。グラスが空になったが、それにも気付きやしない。メイベリンの話はもう分かった。20分もするとまた別の女が隣で酒を作る。濃い目にの水割りを作業的に流し込む。女は最近人気の俳優に俺が似ているなどという。俺は謙遜したり照れたふりをする。お返しにドラマに出てるモデルの子に似ているなどと発声してみると、よく言われるのと得意満面に口角を上げる。国籍と性別がそっくりだなぁ、などと思いながら適当に相槌を打っているうちにテーブルのウヰスキーの角瓶が減ってゆく。流れ作業は続く。
ほとんどロックになった水割りらしき液体を何杯空けただろうか。意識は緩くほどけ、楽しくも悲しくもないけれど、それが望んだ感情らしかったので嘆息しながら安息する。固いソファーに深く腰掛け、ぼんやり眺めた5人目の女はマドラーを回す方向をなぜか気にしながら酒を作っていた。背の高い女だった。水色のドレスに薄灰色のショール。派手なバレッタでまとめられた髪が妙に浮いている。
女は公開中のSF映画の話をした。俺も観た映画だ。とくに面白くもなかったが他愛もない会話のネタには高さがちょうどいい。宇宙人の正体の安直さに悪態をついたあと、女は同じ監督が撮った作品を何本か挙げた。代表的な三部作を挙げそこなっているので指摘すると、身動ぎしながら必死に思い出そうとした。思い出せないことが口惜しいとペロっと舌を出して頬を掻いた。
歳は21歳。専門学生だという。午後に学校に行き、夜は終電前まで店で過ごす。2つ隣の沿線のワンルームで去年の春から一人で暮らしている。不動産屋は壁が厚いといったのに、隣の住人のテレビへの悪口がうるさくて不愉快。好きな色は青。理由は空も海も青いとキレイだから。けれど夏の海は苦手。肌が弱いし、泳げないから。
海の青さと可視光の波長について話していると、ボーイが擦り寄ってくるのが目の端に映った。残りの時間でこの女を指名すると伝える。慇懃に会釈して踵を返し消えた。
女は子供のように俺の手を握り締め上下に振ってはしゃいだ。初めて指名されたらしい。その姿はなんだか微笑ましく、愛らしかった。けれど、金で買った数十分の温もりだとどこかで冷笑もしている。灰色の脳を満たすウヰスキーは昆虫採取されたアゲハ蝶に注入される薬液のように俺のくだらない自意識を侵食する。俺は虫ピンでコルクボードに貼り付けられるまでの猶予期間が終わらぬように祈っていればいい。錯覚と思い込みと少しの嘘、多分それが永遠を求めるための正義だ。一気に飲み干したグラスの中身は、枯れた匂いがした。
女は平凡な顔立ちだが、白い肌と黒目がちな瞳が可愛らしかった。気が付けば角瓶は空になっている。アイスペールの氷が小さな音を立てた。

酔い覚ましに立ち寄ったコンビニエンスストアで、毒々しい色の炭酸飲料と焼酎のボトル、それにジーマを買い込み外にでると携帯が震えた。
「もしもし、お店で、あの、ありがとう。えっと、あれさ、もうおうち帰っちゃったかなぁ?」
さっきの店の女。指名した女のようだが名前など忘れてしまった。くしゃくしゃの名刺をポケットから出そうとすると、風に飛ばされどこかに消えた。
「いや、店出たばかリだし。家まで近いからフラフラしてたよ」
「ほんとー! あの、あのね仕事もう仕事おしまいなんだ、もうヒマじゃないかな」
まだ22時を回ったばかりだというのに上がりだという。これから稼ぎ時じゃないのか?
「べつにヒマだよ。わかった、じゃあ店の方まで戻るとするよ」
3キロはありそうな重いコンビニの袋を下げて、来た道を引き返す。
営業中の店前にまた戻るというのも都合が悪いので、待ち合わせは少し離れた居酒屋の前にした。
襟元と袖口にファーのついたコートを着た彼女は俺に気付くと頭の上で手を振った。俺もコンビニの袋をゆっくり掲げた。
「あれ、買い物してたの? ごめんね、いきなりで。さっき会ったばかりなのにね」
「うん。どした? 終電まで店って話してたけど」
「なんか、お話したくて早引けしちゃった。平日だしお客さんなんかこないもん。ビックリした?」
アップに纏めた黒髪をほどこうと四苦八苦しながら、そう笑う。
「ビックリというか、なんだかなぁ。えっと、……えー、ああ、君は自由だなぁ」
不自然に口ごもった俺の顔を覗き込む。
「名前忘れたでしょ?」
図星を指されすぎて、いいわけも出来ない俺は苦笑いでつぶやく。
「忘れたわけじゃないよ、そもそも覚えてないんだ。で、名前なんだっけ?」

客もまばらな店内。奥の座敷から王様ゲームらしき声が聞こえるが、気のせいだと願う。カウンターに並んで座って、とりあえず、お通しのめかぶと数の子を和えたものをつまむ。乾杯のビールに口を付けると、彼女は通っている服飾学校の話を始めた。
「自分が特別だって口に出す子が多くて、もう、なんか面倒なんだぁ」
金髪や赤髪のパンクスぶった級友を少しだけ否定しながら、それを許容できない自分にも納得できないと頬を膨らませる。服飾の学校には通っているけど、デザイナーやアパレル関係に憧れているわけではなく、演劇の舞台衣装を作ってみたいのだという。店でのバイトは始めて一月程度で、仕事にも馴れないし、なんだか知らない男の人は苦手だし、怖い。一時間前まで客だった人間に不満を並べる。お客がガツガツ誘ってくるのと聞いていない自慢話、それとお為ごかしに並べる褒め言葉に辟易していると嘯く。さりげなく水商売を全否定しているが、まあ、それはいい。
知らない男という点では俺も同じなのだし、怖いのは一緒なんじゃないのか? いじわるに問い掛ける。
少しだけ眉間にしわを寄せ小首をかしげる。分かりやすい困惑の仕草の後、なぜか枝豆をひと食みした。
「うーん。ちがうかなぁ。隣に座ったのに、なんか離れていくし、たくさん話はしてくれるのに、アタシには興味なんかないみたいだし。水割りを濃くしろくらいしか自分のこと言わないし。よくわからないけど、そんな人お店に来なかった。なんか変」
言い得て妙というか、確かにそうだ。女が付く店にいっておいて女が寄ると腰を引き、酒をただただ流し込む。シニシズムを手土産に口先だけで会話を組み立てるだけ。何が楽しいんだか、自分自身でも分かっちゃいない。自分でも長い間分からなかった無意味な矛盾を彼女は短時間で的確に見事に指摘した。上出来だ。俺は笑った。張り付いたような引き攣った笑顔で。笑うしかないじゃないか。
「笑うとすごく優しそうだね」
ニコニコ微笑んでいるかなり年下の女に投げかけられた言葉は、ひどく照れくさかった。けれど悪い気はぜんぜんしない。つまんだ枝豆はスカスカのさやだけだった。

彼女の故郷は雪が降るとどこにもいけなくなるような北陸の小さな田舎町だという。
「先週雪が積もったでしょ? アタシ雪掻きしなきゃって、シャベルを大家さんに借りにいったの。でも、シャベルなんかないって大家さん困ってた」
薄紫色のカクテルに口をつけ、大げさに肩をすくめる。
「小学校、何年生だったっけ。たしか4年生だったと思う。学芸会があったんだ」
学芸会でお姫様の侍女をやることになった彼女は、脇役とはいえ、セリフもある役でウキウキしていた。服装は何でも構わなかったので母親にミシンの使い方を習って衣装を自分で作った。大好きなポインセチアとフリルをたくさんあしらったワンピースは子供にしては上出来だった。けれど体育館の舞台ではいささか目立ちすぎた。地味なジャンパースカートのお姫様は、王子様の助けを待たずに「ワタシの邪魔しないでよ」としゃがみ込み、大声を出して泣きじゃくった。お芝居はお終い。父兄席はざわめき、友人たちに慰められたが訳がわからなかった。
お姫様はもう一週間、口をきいてくれない。友人たちには慰められたり、責められたり。悪いことをした覚えなどないけれど、小さな心はからっぽな罪悪感に満たされた。オーガンジーのフリルのついたかわいいワンピース。真っ赤な花びらがかわいいのに。おかあさんは褒めてくれた。アタシも大好きなのに。なんでだろう?
少し早起きして教卓の花瓶の水を替えていた水曜日、背中を不意につつかれた。「今度、ワタシにもドレス作って」お姫様はそう小さな声でつぶやいた。なんだか涙が出た。
「うれしかったのかなぁ? なんかビックリしたのかなぁ。でも、今でも友達。何かあるたびに電話をかけてくるし。東京に遊びに行きたいよーっていうんだぁ」
そういって彼女は視線を壁に這わせる。お手製のワンピースを着てクルクルと回る小さな自分を見ているのかもしれないが、小腹が減って壁に貼られたおすすめメニューを見ているのかもしれない。俺は小学生の学芸会では村人Bをやった。どんなお話だったかはまったく覚えていない。

「お酒強いんだねぇ。アタシはあまり強くないからなぁ」
派手な色の酒をチビチビ飲んだ後、倒れこむようにもたれかかってきた彼女は柑橘系の香りがした。重さというか生々しい質量に共倒れしそうになったが、カウンターの下で足を突っ張りなんとか耐え切った。つむじが右回りなのを確認して形のいい頭をかるく撫でる。指先に絡んだ黒髪は細く、するりと逃げ去った。チェーン店の居酒屋のカウンター。グラスに残った気の抜けた液体を飲み干して、コツンとつむじを軽く小突いた。

「タクシーなんか乗らないもんねーだ」
そんな彼女に客待ちのタクシーの運転手は苦笑しながら、バイバイと手を振った。
終電はほんの30分前に終わってしまったらしい。握った俺の手を歩くリズムに合わせて子供のように前後させる。左手に彼女、右手にコンビニの袋。転んだらどっちを離そう。
頬を赤く上気させ笑いかける彼女。俺は笑えているだろうか。最近あった少しの不満、少しの喜び、少しの淋しさ。そんなことを交換しながらおぼつかない足取りの彼女が転ばないよう引きずり歩く。居酒屋からシャッターの閉まった駅を越え、しばらくすると小さな児童公園に着いた。
大通りから一本入っただけだというのに、耳が痛くなるような静寂に驚く。大きな木が狭い公園の真ん中に所在無さげに生えている。腰をおろしたベンチは凍りつくほど冷え切っていた。
隣の駅に出来た豚骨醤油のラーメン屋の話をしばらくした。俺はそこそこ、彼女はすごく美味しい。ちっちゃな諍い。そんなことで冷えそうな互いを温めた。
吐き出したふたつの白い息が絡みつくように空に昇る。手を繋いだままの沈黙が始まった。遠くのクラクションが聞こえる。
俺はなんだかすまない気持ちになっていた。
金髪の客引きに情けをかけて、安いウイスキーを飲んでいただけだった。彼女はたまたま働いていた従業員。それだけだ。
俺は彼女にちっぽけな興味を持った。彼女も俺にちっぽけな興味を持った。だから今一緒にこんなところにいる。
彼女の仕草や振る舞いが俺には心地よかった。いや、都合がよかった。弾むように言葉を連ねるが、うるさすぎない。鈴のような音のする声は柔らかく、遠い目をしながら語る雪深い故郷の話に、暗く厚い雲に覆われた家もまばらな雪国の町を見た気がした。
彼女の手の平の温もりは過剰で、足元の小石を靴先で弄んでいる横顔は初めてみる少女のようだった。いたたまれない気持ちになり、公園の真ん中に目をやると、葉の散った大きな木が倒れそうに相変わらず立っていた。暖かな季節は青々とした葉を繁らし、さぞかし立派なのだろう。けれど今は素っ裸だ。マダガスカル島に生えている葉のない悪魔の樹と変わらない。いや、あのバオバブと呼ばれる樹は幹は空洞で、光合成で生きてるわけでもないから葉なんかなくていいのだ。多くの固有種が生息するマダガスカルには、丸くなると軟球くらいの大きさになるだんご虫がいる。俺はそいつをコンクリートの壁にサイドスローで思い切り叩きつける。節々を被う固い殻がその身からはじけ跳び、極彩色のさまざまな器官が液体を吐き出しながら潰れる。爪楊枝を細くしたような無数の歩肢は爆散する手榴弾の破片のごとく散らばり、壁にはボール大の湿った染みだけが残る。じっとりと滴る体液がだんご虫が存在したことを世界中に伝達する。大声を上げて。
繋がれた手の平の温度は本当に温かった。柔らかく健全で清廉だった。彼女の横顔を盗み見る。待ち侘びていたかのように俺の目を見つめ返す。まっすぐな視線に目を逸らしそうになるが、それすら許されない澄んだ瞳に従うしかなかった。傍らに置いた酒の入ったコンビニ袋がゆっくり倒れた。

随分と長いこと抱きしめた肩は、いまだ小刻みに揺れていた。繋いだ手の甲に零れ落ちた彼女の涙。それが哀しみの量なのだとしたら、少ないのか多いのか。俺には分からない。
「ありがとう」
俺の胸に顔を埋めた彼女は、話し疲れてしまったのか小さくそうつぶやいた。
あごで彼女の頭をグリグリといじってみる。公園の街灯は全部で5本立っていた。遊具は、滑り台とジャングルジムにブランコ、あとは砂場。数年前から砂場の周りには、衛生面の問題から猫よけの囲いが立っている。そんなに窮屈にするのならコンクリでも流し込んでしまえばいいのに。
手の平また強く握られる。彼女が嗚咽交じりに語ったそれは、つまりこういうことだ。

20歳の春、地元のボイラー会社の事務を辞めた彼女は専門学校に通うために上京した。テレビでCFも打っている服飾の学校は都心にあって、地下鉄の乗り換えも街中の人ごみもなにもかも初めてで慣れるのが大変だった。少し年下のクラスメイトと話すのは嫌いじゃなかったが、時おり自分が無理をしている瞬間があって息苦しかった。
一人の時間は、テレビとDVDプレイヤー、あとは無印のパイプベッドしかない部屋で毎日映画のDVDを観続けた。水曜日はサービスデーで一本190円だったから、まとめて何本も借りた。ハリウッドよりもバカバカしいイギリス映画が好きだった。人に薦められてゴダールやタルコフスキーも観たけれど正直眠いだけだった。
「ガイ・リッチー好きなんですね」うっかり延滞したDVDを返しに行くと、店員の男がそう話し掛けてきた。店でたまに見掛けた彼は以前から彼女のことが気になっていたという。
その夜、初めてお酒を飲んだ。酸っぱいカクテルでの初めての酩酊に恍惚としながら、彼にバンドの話を聞いた。ニルバーナ? ボーカルは死んじゃったけど天才だったと彼は誇らしげに語った。カートなんとかという人は知らないけど、その人の話をする彼はいきいきしていて、なんだか宝物を自慢するガキ大将みたいだった。
6畳の部屋は二人で居るには少しだけ狭い。アルバイトとバンドの練習といって出かける以外の時間を彼は彼女のマンションで過ごすようになっていた。パターン用紙の上に転がるチャコペン。描きかけのデザイン画の上で彼とただただセックスをした。学校に行かない日も増えた。映画もしばらく観ていない気がする。読みかけの漫画雑誌を投げ出したまま、彼は携帯用のゲーム機に夢中になっている。カーテン越しの空はひどく晴れていた。
ミーンミーンミーンミーン。ああ、そういえば夏だったんだ。
落ち葉の頃。ゲームの隠れボスに会うためのアイテムが出ないと大声で怒鳴る彼は、ビデオ屋のアルバイトをやめていた。バンドが忙しくなるからさ、そういって携帯ゲーム機にアダプターをつないだ。
17時から23時までアルバイトを始めた。仕送りで家賃光熱費は間に合うが、やっぱり生活はきついし、学校に行くのも部屋に居るのもなんだか息苦しかった。陳列棚に並ぶパッケージの8桁の番号を探す。見つけたら、パッケージに半透明のケースに入ったDVDを差し込む。アルバイト雑誌はたくさん読んだけど、気が付いたらビデオ屋にいた。さんざん通った店、彼が働いていた店。ここしか知らなかったから仕方がない。
「アイツはバンドなんかやってないし、彼女いるよ」
店員がやたら元気なチェーン店の居酒屋でバイト先の先輩がジョッキを飲み干したあと、そういった。
言い返そうと一瞬思ったが、彼と先輩は高校からの同級生だった。おかわりのジョッキを呷りながら、「かわいそうだからさ」と何度も前置きをして先輩はたくさんの聞きたくない話をしてくれた。高校生の頃、彼は軽音部に入っていたが、2ヶ月で辞めた。Fのコードすら押さえられない。たぶん、今いっているバンドというのは、インターネットで知り合った奴とやるとかいう、もう2年位前から予定され続けているバンドだろう。嘘つきなんだよ。高校から付き合っている女がいる。今も付き合っている。バンドの練習といっている時はその女と会っているんだ。電話番号わかるからかけてみようか? 泣くなよ。いじめてるわけじゃないんだから。真実を伝えてあげただけだよ。君がかわいそうじゃ……。
気が付いたらフルスイングしていた。ジンロの瓶は先輩のあごを見事に打ち抜いていた。騒々しくなる店内。店員が駆け寄る。かわいそうじゃねーよ、ばかやろう。
病院からの帰り道。先輩は単なる脳震盪で何も異常も障害もなかった。面会に行くと先輩は「飲みすぎたんだ! ほんとうにごめん!」と頭を下げた。すまないのはこっちなのに。勢いで呼ばれたらしいお巡りさんは苦笑しながら怒るでもなく、やんわりと慰めてくれた。理由のない優しさはうれしくもあるけど、腫れ物に触るような気遣いがつらい。
すべてが終わり、真夜中2時過ぎ家に帰る。カギが開いていた。たたきに脱ぎ捨てられた見覚えのない靴に違和感を覚えたまま、キッチンと部屋を仕切る扉を開ける。
後背位というのか。よつんばいの女の尻に腰を押し付けた彼がいた。「ごめん、あれ、うん。説明するから、うん。ちがうんだよ」くだらない言葉をアワアワと重ねる。髪の長い釣り目の女は慌てる気配もなく、傍らの煙草に火をつけた。アタシはすごく疲れていた。ただ疲れきっていた。「彼女は元々ずっと付き合っていて、でもオマエも好きでさ、だから」とりあえず腰のポーチを探った。携帯と紙切れを取り出す。なにがどこで役にたつのか分からない。「だから、オマエさ。なに? 怒ってるの? え?」
後ろ手に部屋のドアを閉める。裸の男が扉を叩く振動が鬱陶しい。電話が繋がると簡潔に経緯と用件だけを告げた。「民事不介入なんだけど、この場合は特例ってことで、まあしょうがないな」そう苦笑した相手はつい1時間前に会ったばかりの警官だった。
何本目かのDVDを観る。12匹の猿は何にも関係なかったのか。この監督はこんなのばっかり。呆れながら満足して、チャコペンで12の猿の印を手の甲に描く。午後からは学校に行かなければいけない。6畳の部屋は一人にはちょうどよかった。アルバイト雑誌をめくる。お酒の仕事でもしよう。なんとなく思った。

一番遠くの街灯に合わせた目の焦点を絞ったり緩めたりしながら、トントンと彼女の肩を調子を取って叩いていた。すっかり落ち着いた様子の彼女は目が腫れちゃったと下を向いている。胸元で抱え込んだ小さな頭のつむじは、やっぱり右回りだった。肩に回した腕をほどこうとすると「だめ」と手首を掴まれた。左手は何時間繋いだままなのか。右手の自由すら奪われてしまった。一番遠くの街灯の電球は他の4つよりも少し暗いから、一番先に切れるだろう。ジャングルジムの塗装はかなり剥げてサビ止め剤が剥き出しになっている。砂場に囲いを作る前にそういうところからきちんとしないといけない。止まった時間は静かに過ぎてゆく。
「寒くなっちゃった」
彼女はむくりと頭を上げ、口を尖らせてそういった。

大通りに出たが、ほとんど車は走っていない。ポツリ、ポツリとコンビニエンスストアや牛丼屋の看板が夜光虫のように光っている。
彼女の手を引き家路を歩く。真新しいビルがたくさん建っている真っ直ぐな道を歩く。運河を越えれば汚い棲家だ。左手には彼女の温かい手。右手には昨日買った酒類のつまったコンビニ袋。誰もいない歩道。等間隔に配された街灯だけがやけにまぶしい。運河に架かった橋のたもとに停車して休憩している車が何台かみえる。
肩越しに振り返り彼女をみた。肩よりも少し長い黒髪。黒目の多い草食動物のような瞳。主張しない鼻。口角の上がった少し厚めの唇。急に振り返った俺に驚き、握った手をぐいぐいっと引いた。愛おしさは何かの感情と反比例する。それが何かは、俺は知らない。

後部座席でごねる女をなだめすかす。なんで、どうして、さみしい、やだ。そんな言葉がむず痒い。俺は、彼女に左手を握られたまま、身体を半分車内に突っ込んだ状態で運転手に2つ隣の駅だと行き先を告げ、細かい場所は彼女に聞いて欲しいと5000円札を渡す。
ヒゲの濃い運転手は、痴話ゲンカも大変だねと訳知り顔で、とりあえず事情を把握したようだ。
「なんでー、帰らなくてもいいのにー」
そうバシバシと俺の左手を叩きながら口を尖らせる。
「また電話するから。またね」
そうなんとか笑って頭を撫で、左手を解く。
運転手がドアを閉める。窓越しに見つめる女の瞳を見つめ返す。口を動かしてなにか言っているが、それがなんだかは読み取れない。車は繁華街の方向へと走り去った。

橋を渡る。緩やかな坂をトボトボ歩く。右手の筋が痛い。ずっと意識していなかったが、ペットボトルやなんやで3キロはあるコンビニ袋を下げていたのだから当然だ。
携帯が何度も震える。でも出なかった。理由は特にない。ただ出なかった。
橋の欄干から見下ろす水面は本当に暗い。映り込んだ街頭の明かりと食糧倉庫の常夜灯に照らされた、微かな水面のさざめきが時間が動いている事実を伝える。
重い袋を片手にぶら下げ、一気に飲み干したジーマはもうあまり冷えていない。けれど炭酸の刺激は強烈でむせ返りそうになるのをなんとか我慢した。不必要な爽快感とすこしの酔いをそのままに、空瓶を助走をつけて思い切り運河に放り投げた。
きれいな放物線を描いた細長い瓶はポチャンと水面できらめく。波紋の同心円が広がった

すべては暗渠に

すべては暗渠に

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-16

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