Mariage マリアージュ
「お待たせしました。新郎新婦のご入場です」
司会者が興奮した口調で告げると、皆は一斉に扉に向かい、カメラを突き出すようにし、シャッターを切る準備を始めた。
眩しすぎるほどの照明が当てられ、吐き出されたスモークが幻想的な雰囲気を作り上げ、歓談の声を遮るような大音響の音楽がかかると、一気に別空間へと飛ばされていく。
切々と訴えるようなラブソングに促されるように現れたキャンドルを手にした二人は、輝きを放っていた。
……ああ。綺麗だな。
紳一は、娘の晴れ姿を目で追いながら、自分の時の結婚披露宴での同じ場面を思い出していた。
新婦の母の席には、美しい笑顔を浮かべている妻芙美子(ふみこ)の写真が置かれている。
その写真をそっと撫で、なあ、紗絹(さき)の奴、綺麗だな、と言った。だが――。
……君はもっと綺麗だったよ。
そう呟く。
そして、そんなことを言ったら紗絹の奴、拗ねるだろうなとほくそ笑みながら、妻の手に触れるように、手を座面に置いた。
*****
バブル――。
世の中は金の価値がわからなくなるほどに異常な現象に沸いていた。
テレビ番組制作会社に入社し、社会人になって間もない紳一は、アシスタントとして激務に追われ、人々が遊び狂っているのは知っていたが自分は享受できないものだと思っていた。
だが、その代わりのように、仕事先で大きな出会いがあり、自由のきかない時間を駆使し、なんとかプロポーズするというところまで漕ぎ着けていた。
「芙美ちゃん」
紳一が顔を真っ赤にしながら、意を決したようにしっかり前を向いた。
有名なフレンチレストラン。
芸術的な色彩のフルコース料理、煌びやかに並べられたフォークとナイフ、牛フィレステーキの味とのマリアージュなどさっぱり理解しないながらも、ソムリエに言われたままにオーダーしたワイン。
そのワインと肉がどんなものだったのか、紳一の記憶にはまったく残らないことになる。
プロポーズするならその店だという評判で予約したのだった。
高層ビルの最上階に位置し、夜景を眼下に、ロマンティックな雰囲気の中、これ以上ないという演出の中でのプロポーズ、それが流行だった。そういうことに金の糸目をつけない異常な浪費が美徳でさえあるような。
芙美子は、そのレストランでの食事を誘われたからには、その意味はわかっており、どんな風に紳一がその言葉を告げてくれるのか楽しみにしていた。
「はい」
神妙な様子で答えると、紳一は更に顔を真っ赤にした。
「あ、あああ、ああ、あの」
「はい」
デザートのガトーショコラをほじくる。
「だ、だ、だ、だから、えっと、その」
コーヒーを飲みながら、はあ、と溜息を吐いた。
とても目的の言葉までは到底達しないような気がして、芙美子はくすくすと笑う。
「紳ちゃん」
紳一はびくりと飛び上がるようになった。
「ほっ?! ふぁっ?!」
そのまま呼吸困難で倒れるのではないかと心配するほど紅潮した顔に、芙美子はつい、水のグラスに指を置く。
「落ち着いて」
「ふ、ふん、そ、そう、そうだよな」
「あのね、紳ちゃんに言っていなかったことがあるの」
「え? え? そう?」
ズボンのポケットに忍ばせた指輪の箱をまさぐりながらとりあえず落ち着こうと深呼吸する。
「私、両親がいないの」
「え?」
「父も母も亡くなっていて、大叔父と二人暮らしなのよ」
「……そう。そうだったの」
プロポーズして、そして、その後はお嬢さんをくださいと言いに行くという筋書きだった。
そう言えば、両親の話を聞いたことがなかったと今更ながら思い出す。時間のない中でのデートではゆっくりそんなことを話す暇もなかったのだ。何を食べた、今日はどうだった、身体の調子はどう、仕事はどうだった。
互いにそんな話で話題は尽きず、互いの家庭についてなど後回しだったのだ。
そして、芙美子としては紳一のそういう顔を見たくなくてわざと話題を避けていたところがあった。
「あのね……」
「……うん」
「父は、広島で被爆して……」
「え……」
「それが原因で……」
「……………」
「母は私を生んですぐ……」
「そ………………」
紳一は言葉をつなぐことができなかった。あまりに予想外のことを聞かされて衝撃で何を言葉にするべきなのかわからなかったのだ。
そして、その代わり、涙が出てきた。
「ど、どうしたの? 紳ちゃん」
首をぶんぶんと振る。
「ごめ……」
「紳ちゃん……」
紳一は心にずしりと重しを置かれたような気がした。
終戦から約半世紀、戦争のことは語られなくなり、戦後生まれとして育ち、戦争体験者たちとは違うものとして育ってきた。
広島、長崎も遠いものだった。
だから、被爆したことが原因で亡くなったと言われてもよくわからなく、現実的な話として受け止められないのであった。
戦後民主主義という教育を受け、平和を尊ぶ思想を植え付けられ、戦争をした日本人と自分たちは違う日本人であるかのように思わせられていた。
戦争の爪痕が消えたわけではなかったのに、見えないように、見たくないものを避けるようにしていたのだった。
経済は戦後復興を遂げ、高度成長期を迎え、その結果として生まれた異常な土地価格高騰を土台に、風船のように膨れていく豊かさに日本中が酔いしれていた。
「泣かないで。紳ちゃん。そんな風に泣かれるほどわたし可哀想なの? わたしそんな不幸に見える? もしかしたら親のいない娘では紳ちゃんのご両親がいやがるのではないかしら」
「ご……ごめん、そんなつもりじゃなくて。もしうちの親がそんなこと言ったら許さないよ」
「そう? ならば、大叔父に会ってもらえるとうれしいわ」
「もちろん。喜んで」
*****
それは驚くほど瀟洒な洋館だった。
赤坂の閑静な住宅街の中で異彩を放っていた。
ヨーロッパから移築してきたのではないかというくらい石造りの本物の洋館だった。
「ほ……、ほんとにこれが家なの?」
紳一はその門の前に立ち、ごくりと喉を鳴らす。
「とても古いのよ。曾々お祖父さんだったかな、明治時代に建てたもので、重要文化財にしようという動きがあるらしいの」
紳一は心の中で悲鳴をあげた。
明治時代に洋館を建てることができるなど、一般庶民にはあり得ないことだ。
「芙美ちゃんってお姫様だったの?」
「それはわたしがオデット姫にはなれないことへの嫌み?」
バレエ団に所属し、プロのバレエダンサーとして歩んでいたが、主役に抜擢される機会は今までなかった。
「だって、ちょっとこの家は普通じゃないよ」
「まあ、ひどい言い方。異常ってこと?」
「いや、そうじゃなく」
門構えも立派で、門番がいてそこから馬車でも出てくるのではないかと思わせられるほどのものである。
そして、お祖父さんの弟というその人物も驚くべき人だった。
「おじさま。この方がお話しした塚原さんよ」
「ああ。お噂をかねがね。真野善三です。ようこそおいでくださりました。あいにく妻は外国にいる息子のところに行っていて不在にしていますので、私だけで失礼します」
「ど! どう! どうも! あの! 塚原紳一です!」
とても六十過ぎには見えないほど若く、今まで会ったことがないタイプだと紳一は思った。
少し長くした髪型、髭、大きな瞳、整った顔立ち、美しいと形容するのが似合う男性は初めてで、立ち居振る舞いも綺麗で、着ているスーツが特別な仕立てなのか、姿を引き立たせているようだった。
紳一は近所の紳士服店で買ったぶら下がりの安物のスーツを着ていることが恥ずかしくなる。
家の中も調度品がすべてアンティーク家具で、掛けられている絵画も大きく、どこかの美術展で見たことがあると思い、すべてに緊張していた。
「あの……、これほどのお宅とは存じ上げず、大変緊張しております。お嬢様にはいつも」
自分がそこにいるのがあまりに場違いな気がして帰りたくなっていた。
「あの……」
あの、ばかりだった。
「感謝しております」
そう言って紳一が頭を下げると善三も頭を下げた。
「芙美子がお世話になっております。どうぞおかけください」
そう言うと頃合いを見計らっていたかのように給仕の人とおぼしき中年の女性が珈琲と気品あるケーキを目の前に置き、紳一は有り難うございますと言った。
「あの、これはつまらないものですが」
出すタイミングがつかめず、紳一は菓子折りを善三に渡したが、置かれたケーキに比べると貧弱な気がした。
「これは気を使わせてすみません」
善三がにっこり笑った。
紳一はその笑顔に釘付けになった。
「紳ちゃん。そんなに緊張しないで。ほら、珈琲飲んで、おいしいから」
「う、うん」
豆はブルーマウンテンだとわかった。
「おいしい!」
「でしょ? 京子さんが入れてくれる珈琲を飲んだら他では飲めないのよ」
「うん、ほんとうに美味しいよ」
ゆったりと珈琲を飲んでいると緊張がほぐれてくる。かちゃりと音を立ててカップを置いた。マイセンのカップだと気づき、少し慌てる。
「しかし、これほど見事な洋館には初めて入りました」
その言葉に善三が優雅に微笑む。
「ふふふ。祖父が西洋好きの父のために建てたものと聞いています。私はここで生まれ育ちました。そろそろ国に譲ろうと思っています。この離れだけあっても意味がないのでね。マンションに住もうかと思っています」
紳一は驚きで動きを止める。
離れ……。
これが離れ……。
どう見ても大邸宅に見える建物だった。
紳一はそれにどうリアクションしていいのかわからず、もしかしたらこの家について何も知らないということはとても失礼なことだったのでは、と不安になってきた。
「あの……、申し訳ありません。お宅について何も知らなくて、今日は芙美子さんがこんな立派なお家に住んでいたことを初めて知った次第で」
善三が少し驚いた様子で、そうなの? と言った具合に芙美子を見る。
「別に言う必要もなかったので」
「そうですね、語るほどのものでもありませんね」
紳一は善三の丁寧な言葉に癒されていくのを感じていた。
「……いえ。教えていただいた方がありがたいのですが……」
「この家のことなどどうでもいいでしょう。けれども芙美子の両親については聞いていると思います。この子は私の姪の一人娘でして」
善三が愛しそうに芙美子を見る。
「姪はこの子を産んですぐ亡くなってしまって。この子の父親もだいぶ頑張ったのですが、原爆症に苦しみ、まだ六歳だったこの子を残して……」
その状況を思い浮かべ、紳一が苦しそうな表情をした。
「君は」
善三が複雑な顔をする。
「芙美子とのつきあいは結婚を前提にしているのですか」
紳一がはっとする。
「はい。そのお許しをいただきに参りました」
「私はどのような形であれ、交際することには反対しません。すべて大事なご縁です。けれど、結婚については君のご両親の了承を得ることを条件とします」
「え?」
「おそらく反対されるでしょうから。私はそんなことで芙美子を戦わせたくないのです」
紳一は心臓がばくばく言うのを抑えられずにおずおずと聞く。
「反対……するのでしょうか?」
「被爆二世への偏見はかなり強くてね。この子はこんなに健康なのに」
切ない表情で芙美子を見る。
「……被爆二世?」
「そう呼ばれているのですよ。いやな言葉ですね」
「そ、そんな……」
「だからこの子には人付き合いするとき、なるべく親の話をしないように言い聞かせてきました」
「そ、そうでしたか」
「けれども、結婚となったら話は別でしょう。芙美子、それでいいですね。そんなことで傷つくことはない」
芙美子が悲しそうな顔をして、何か言おうとする。しかし、それを言わせないように紳一が声を出す。
「両親には何も言わせません!」
拳を握る。
「俺が! 俺が芙美子さんを守ります!」
善三は目を細める。
「この子の父方は殆どが戦災で亡くなってしまっていて、私に何かあったら他に守ってやれる者がいなくてね。兄……、この子の祖父母も原爆で」
居たたまれなくなる。
「大丈夫です! お任せください!」
紳一の力強い言い方に善三が優しく微笑む。
「そうですか」
「はい! 俺に、私に任せてください!」
そう言い、深く頭を下げると、芙美子がぽろりと涙をこぼした。
善三が右手を差し出す。
「頼りにしていますよ。紳一君」
慌てて右手を出す。
「あ、ありがとうございます。頑張ります」
善三がぎゅっと紳一の手を握った。
その加えられた力とともに、紳一は何かを授かったような気がした。
*********
紳一は、慌てて真野家について調べ、元公爵家だとわかると恐縮し、急に芙美子を遠く感じた。
それを芙美子に話すと、そういう反応もいやだから黙っていたと言われ、とにかく両親にはそれを隠そうと思った。
元華族というと、鹿鳴館をイメージするくらいで教科書の中の知識としてあるだけの別世界でしかなかったのだ。
道理で見たことのないような人種だと思ったわけだと、紳一は善三について持った印象に納得した。
家柄について隠したとしても両親については明かさなければならず、それについて緊張を強いられていた。
両親が広島についてどのように認識しているのかわからず、善三が言っていた被爆二世への偏見というものが今一つ実感できずにいたのだった。
紳一の家は、会社員の父が定年まで抱えたローンで買ったどこにでもある平均的な二階建ての家で、紳一はあの洋館に比べればいかにも安普請だと思い、芙美子を案内しながら赤い顔をする。
「ごめんね、邸宅じゃなくて」
「何言っているの。素敵なお家じゃないの。お庭がとてもきれい」
芙美子の家の庭はまさに庭園だったが、それに比べれば猫の額のような庭である。
「お袋の趣味の場所だよ」
「そう。お見事だわ。色とりどりのお花がバランスよく植えられていて」
芙美子の声が上擦っている。
「緊張する?」
「当たり前でしょ。意地悪。もうドキドキよ」
紳一が芙美子の肩を抱く。
「二人とも芙美ちゃんを好きになるよ」
「そうだとうれしいな」
紳一の父母は、芙美子の来訪を待ちわびていた。
紳一には妹がひとりいるだけの二人兄妹で、紳一が紹介したい女性がいると告げただけでお嫁さんがくると大騒ぎになった。
母親の昌子は芙美子がバレリーナと聞いて、近所に自慢したくてたまらないほどで、とにかく今か今かと朝から騒ぎっぱなしであった。
玄関の呼び鈴が鳴ったら一目散に飛んでいく。
「いらっしゃい!」
昌子が扉を開けながらそう言うと芙美子が固まったようになった。
「お袋。そんな大声出したらびっくりするよ。はい、こちらが真野芙美子さん」
「声が大きくて悪かったわね。芙美子さん。ようこそ、いらっしゃいました。さあ、どうぞ」
「初めまして。お邪魔いたします」
居間に通される。
父の正太郎がそわそわとしながら待っていた。
「親父。真野芙美子さんだよ」
正太郎が相好を崩す。
「どうも、父の正太郎です。よろしく」
五十代になったばかりで趣味のゴルフのため、日に焼けて顔が真っ黒である。
「お初にお目にかかります。いつも紳一さんにはお世話になっております」
丁寧にお辞儀をすると、昌子がほお……、と溜息を吐く。
「ああ、さすがに綺麗。美人さんの上に姿勢が綺麗だからとくに美しいわね」
芙美子が真っ赤になる。
「そんな……」
「なあ、だから言っただろ」
すっかり芙美子に夢中の様子だった。
*******
昌子が朝から張り切って作った料理を次々と運んできて、さあ食べて、さあ食べてと芙美子に食べさせようとする。
紳一が嬉しそうな両親の様子にほっとしながら、ビール瓶を持ち出し、開栓する。
「じゃあ、食べる前にちょっと飲もうよ」
「あら、仕事はいいの?」
昌子がグラスを持ち出しながらそう聞く。
「今日は休みをもらったから大丈夫」
「そっか、じゃあ、紳一、飲むか」
上機嫌の正太郎がますます嬉しそうな顔をした。泡をうまくコントロールしながらコップいっぱいに注ぐととりあえず乾杯する。
「よく来てくれましたね。芙美子さん」
「ありがとうございます。こんなにごちそうを用意してくださり感激しております」
「こんなものしか作れませんけれど、お口に合えばうれしいわ」
芙美子が煮物を口に入れる。
「とても美味しいです。いいお味」
「それはよかったわ。さ、ビールもどうぞ」
「はい。ありがとうございます」
「芙美子さんのお父さんもお酒を召し上がる?」
昌子としては世間話としてのごく普通の質問だった。
だが、芙美子にとってはいきなりの難問だった。
そして、せっかく楽しい雰囲気のところ、それに答えるのは憚れる気がした。しかし嘘をつくわけにいかなかった。
「あの……、父は小さい頃に亡くなりまして」
「え?」
昌子が一気に悲しそうな表情をした。
「まあまあまあ、それじゃあ、お母様、苦労なさったのね」
ごく当然の反応である。
芙美子はどうしようかと紳一を見る。
紳一は芙美子の手を軽く握った。
遅かれ早かれそれについては告げなくてはならない。早い方がいいのだろうと思った。
それに、それを先送りするのはかえって無礼なことだと思ったのだった。
「お袋。実は、芙美ちゃんのお母さんは芙美ちゃんを産んですぐ亡くなったんだ。だから両親ともいないんだよ」
「え」
昌子も正太郎も表情を落とした。
絶句してしまったのだ。
自分たちが親という立場から、その同じ立場になるべき人がまったくいないという状況についてどう話をつなげるべきなのかわからないのだった。芙美子が申し訳なさそうな声を出す。
「……なので、……大叔父、祖父の弟に育ててもらいました」
昌子と正太郎にとって、それは随分遠い親戚のように思えた。自分たちとは同等にならない。
正太郎が気を取り直したように微笑む。
「そうでしたか。お父上は事故か何か?」
「いえ。父は広島の被爆者で、それが原因で」
「!」
「親父。被爆の後遺症というのは大変なものなんだね。俺、いろいろ調べたよ」
「……というと、原爆症で亡くなったということですか」
正太郎が怖々と聞いた。
放射能というものの恐ろしさがわかり始めてきたのだった。
「はい」
「失礼ですが、あなたは、健康なんですか」
正太郎は思わず聞いてしまった。
健康でなければバレエなど踊れるはずがないのに聞かずにはいられなかったのだ。
「親父! それは失礼だろう!」
物凄い紳一の剣幕に正太郎が雷に打たれたようになった。
「あ、……ああ。そう。そうだね。これは失敬。いや、すみません」
芙美子は背筋がひんやりとしていくのがわかった。
「いえ……」
「お母様も広島で被爆なさったの?」
昌子がこの質問は譲れないとばかり切り込んできた。
「お袋!」
「いいえ。母は疎開していたらしく、広島の近くにはいませんでした」
紳一が椅子から立ち上がる。
「芙美ちゃん。帰ろう」
「え」
「ごめん、自分の両親がこれほど失礼な人間だったとは正直がっかりだよ」
「紳一!」
「紳ちゃん。何てこと言うの。全然失礼じゃないわ。みんな驚くのよ。だからわたしは気にしていないから」
芙美子がにっこりと微笑む。
確かにどこからどう見ても健康体に見える。
けれども、広島、長崎の被爆者とその家族は特別なくくりとされているのが現状だった。
「お母様。お庭がとても綺麗ですね。お庭の手入れは毎日なさっているのですか。あの入り口の赤い花はなんというのですか」
「え。あ、ええ。ベゴニアのことかしら」
ガーデニングはブームとなっていた。
「わたし、庭の手入れをしたことがないので、是非やってみたいです」
「そ、そう? じゃあ、寄せ植えを一緒にやってみましょうか」
「本当ですか? 嬉しいです。どうやるのですか」
芙美子がわざと他の話題に夢中になるようにし、うやむやなものにしていく。
「芙美ちゃん」
「紳ちゃん。ねえ、素敵ね」
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「そ……、そう?」
「うん。やっぱり仕事で気になることがあるから」
憮然として紳一は言った。
「はい。わかりました」
芙美子は寂しそうに笑った。
********
紳一はどれほど芙美子を傷つけたのか、そのことに苦しくなっていた。
守るつもりだったのが、逆に守られてしまったのだった。
帰り道で、やっぱり結婚は難しいかもね、芙美子はそう言った。
善三に戦うなと言われているから余計にすぐ諦めるという方向に思考がむく。
紳一は、そんなことはない、そう言い張り、口をつぐんだ。
しばらく北海道でロケがあり、紳一は今後どうすればいいのか考える時間ができたと思った。
「二週間くらい行きっぱなしになるんだ。毎晩電話するからね」
「うん。気をつけて行ってきてね」
そうして数日経った日、芙美子の所属するバレエ団に昌子が訪ねてきた。
紳一からは何も聞いていなかったので内緒で会いに来たのだろうと察し、芙美子は暗い気持ちになった。
あまりいい話ではないのだろうと。
「あと一時間くらいいただければ何とか抜けられます。それからでもよろしいでしょうか。近くの喫茶店でお待ちいただけますと嬉しいです」
「はい。突然にごめんなさいね」
昌子はにこやかに微笑みながら行くと、公演の準備に追われる中、時間を作り、芙美子は待っている場所に向かった。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「本当に突然ごめんなさい」
「いいえ。お会いできてうれしいです」
「お忙しそうね」
「はい。公演が近くて連日その準備と練習におわれていて」
「そう。バレエの舞台を作り上げていくのは大変なのでしょうね」
「総合芸術ですので何一つ欠けることができなく、どこにも妥協できませんので作る側としてはどの役割の者も必死です」
「芙美子さんはすばらしい才能をお持ちね」
「いいえ。残念ながら主役になれるほどの才能には恵まれませんでした。でもバレエは大好きですので一生続けたいです。いずれ子供たちに教えたいと考えています」
「そう。素敵ね」
「いいえ。そんな」
「紳一と結婚した後もそうなさりたいとお考えなの?」
「え」
「あの子とそういう話をなさったの?」
「い、いいえ、まだそのようなことは……」
「あら、大事なことでしょう」
昌子の質問の意味を図りかね、芙美子はどう答えるべきか戸惑う。
「結婚できるかどうかもわからなかったので」
「そういうおつもりで訪問してくださったのだと思っていました」
「あの……」
芙美子がなんと言っていいのか思案をめぐらせている様子に昌子が窓の外に視線を移し、小さく息を吐く。
「紳一、あの子、何か無理に背負っているようで空回りしているけれど、まずは自分たちがどうしたいのか、それを相談するということをしないなんて、そんな余裕がないようではだめだと思ったわ」
視線を芙美子に戻すと、芙美子はどきりとする。
「え? あ、は、はい」
「突然、芙美子さんの身の上を聞かされてしまったもので、驚いてしまって申し訳ないことをしたと主人も申していましたの」
「あ、そんな、こちらこそ聞き苦しいことを申しまして」
「あの子から事前にきちんと相談があったら、私たちももっと融通のきいた対応をできたのですけれど」
昌子がふうと長く息を吐く。
「主人と二人で話し合いました」
「はい」
芙美子が固唾をのむ。
紳一と別れてくれないかと言われることを覚悟する。
「あなたをどうやって迎えるべきか」
「え……」
昌子が瞳に強い光を宿す。
まっすぐ射抜くように芙美子をみた。
「私はあなたの母になりたいと思います」
芙美子はその言葉を聞いた瞬間、ぴしっと何かに打たれたような衝撃を受けた。
昌子の表情は毅然としており、決意のほどを表していた。
「あなたのお母様の分と二人分、頑張るつもりです」
「……………………」
「これから紳一の子供を生んでくださるのでしょう?」
芙美子の瞳から涙が流れる。
「お産も大変だけれど、その後が大変なのよ。実家のお母さんがいないなら私がその分も頑張らなくちゃ」
芙美子は感動してしまっていて、どう言葉をつなげればいいのかわからなかった。
「いろいろ……、教えていただかないと……」
「ええ。任せてちょうだい」
昌子が自らの胸を軽く叩くと、芙美子が慌ててハンカチで顔を押さえる。
「紳一抜きで直接あなたに言いたかったの。さあ、ごめんなさいね、忙しいところお時間作ってもらって」
芙美子が涙を拭いながら、首をぶんぶんと振る。
「紳一はね、人づきあいはなかなか上手にやれるようだけれども、肝心なところで一歩踏み込めないの。それがあの子の優しさなんだけれどね」
昌子がくすくす笑う。
「そういうところをうまく行くようにやってくれないかしら。今回のことが良い例よ。手綱をひいてやって。男はね、女房次第なのよ。そしてね、亭主関白を気取らせてやるの。そうすると気分よく働いてくれるから。とても単純なの」
昌子が力こぶを見せるようにしながら楽しそうに笑うと芙美子もそれにつられる。
「はい。頑張ります」
泣き笑いになった。
「じゃあ、お互い頑張りましょうね」
「はい。有り難うございます」
**********
それから間もなくして善三の訃報が聞かされた。
心不全ということで、突然の死であった。
葬儀は青山の斎場で行われ、皇族、政財界、あらゆる人たちが弔問に訪れ、大規模なものとなった。
善三は特別著名人ではなかったが、供花の多さとその名札の名前が皆知っている有名人ばかりということから、交際範囲の広さを物語っており、紳一も正太郎と昌子も驚いていた。
しかし、弔問客に反するかのようにあまりに少ない親族で、善三の妻と息子と芙美子のみであった。
「紳一。あなた、まだ私たちに隠していたことがあったのね。真野家についてきちんと説明しなさい」
昌子が睨みながら言う。
「俺だってよく知らないよ。直々に聞いた訳じゃないんだから」
「とにかく知っていることを言いなさい!」
苛ついたきつい口調になり、紳一はげんなりした表情をする。
「ええと。亡くなった善三おじさまは、真野家の第十四代当主で、お父上が真野公爵、元は広島藩主の家系。芙美ちゃんは、第十三代当主の孫娘というわけ」
献花の札には、徳川、前田、毛利、伊達、島津、松平、とよく教科書に載っている名前も目に付く。
「ああ、だから……、広島……」
正太郎がそう呟いた後、溜息を吐く。
「つまり世が世ならお姫様ということだな。とても親しく話せる相手じゃないぞ」
「関係ないよ。そんなの。今はそんな身分制度なんてないじゃないか」
読経の声が高らかに響いている。
「いやいや、釣り合う家柄というものがあるんだ。まったく……。参ったな。あそこにいるのは総理大臣じゃないか……。おいおい、こっちは一庶民なんだから頼むよ」
「そんなことは気にする必要ないって芙美ちゃんは言っていたよ」
紳一が憮然とした。
「それにしても、故人は凄いお方だったんだな」
「なんか特別な雰囲気を持つ人だったよ。あれが華族という人種なんだなと思った。皇族の人たちと雰囲気が少し似ているかもしれない」
「そうか。芙美子ちゃんを見る目がちょっと変わってしまうな」
「芙美ちゃんはそれをとても嫌がっていたよ。だからなるべく家のことは知られたくなかったみたいで。同じような家柄の友人が少ないらしく」
「まあ、そうかもしれんなあ。絶対的に少数だろうし。一般庶民と違うということにずっと気を使ってきたんだろう。あの子は何だか色々苦労しているよ」
「親父。だから、そういうことはなるべく気にしないでほしいんだ」
「そうか、そうだな。きっと芙美子ちゃんが望んでいるのは、ごく普通の家庭だ。どこにでもある、どこにでもいる、うちのような世間並みのな」
「うん、そうだと思う」
「お前がきちんと築いてやりなさい」
「うん。そうするつもりだよ」
三人の焼香の順番がやってきて、親族に向かって挨拶の会釈をすると、芙美子がぼろぼろと涙をこぼした。
昌子は思わずもらい泣きをし、震える手で焼香し、手を合わせる。
善三がいなくなり、その息子に代が替われば、そこは芙美子にとって居場所ではなくなる。
ましてや、屋敷は国に譲ると言っていたからには住み慣れた場所はなくなってしまうのである。
しかし、新しい家族がそこにいた。
もうすでに芙美子の居場所がそこにあったのだった。
それは大変に心強いものであった。
*****
喪が明けるのを待ったのち、結納の儀を執り行った。
善三の妻と息子が出席し、ホテルの一室にて行い、互いに緊張しながらも滞りなく済み、結婚式は明治神宮にて行うという話も決まり、これからおつきあいお願いしますと挨拶してお開きになった。
それからは結婚式のための準備に追われる生活となり、塚原家の方は正太郎の兄弟や昌子の兄弟姉妹が多いため、かなりの親族数になり、まったくバランスがとれないが、バレエ団の人を多く招待するということで進んでいった。
新居は塚原家のすぐ近くのマンションに決まり、早速生活できるよう整えていく。
婚礼衣装は芙美子の母親のものを使用するということで早速それが届けられた。
そして、その他にも多くの着物や帯の衣装の他、家具、壷や茶碗、雛人形、琴、掛け軸、絵画などの品物がぞくぞくと届けられ、紳一は目を丸くする。
それを査定したらどのくらいの価値のあるものなのだろうと思わず考えたくなるほどになにやら文化的、歴史的価値のあるものが多く、家具は漆に螺鈿が彫り込まれ、さりげなく葵の御紋が散りばめられていた。
紳一はそれを見た瞬間、時代劇のある場面を思い浮かべたが、失礼なような気がしてそれを言うのをやめておいた。
その他、宝飾品も多く、まばゆいばかりでまさにお宝だった。
自分が贈った婚約指輪がおもちゃのように感じてきた。
「曾おばあさまは徳川公爵家のお姫様で、お嫁入り道具だったらしいの。先の帝からの下賜品もあるとか、とにかく善三おじさまが母にそれを受け継がせたということで、これらは全てわたしの所有の物なんですって。はい、これが目録」
「ふ、ふうん」
その目録は巻物になっていて、紳一はちらりと見ただけで閉じた。そして、あまりにかけ離れたことで反応できなかった。また、先の帝とさらりと言えるあたり、皇室との距離感の違いも感じた。
結納金の額をはるかに上回る嫁入り道具に、紳一はどうにでもなれとなかばやけくそになってきた。
「でもね、わたし、お姫様だった曾おばあさまをまったく想像できないの。だって、うちってとても貧乏だったのよ」
「え?」
「昔はきっと多くの女中さんとかいたんでしょうけど、全然よ。誰もいなかったの。善三おじさまと私だけ」
「そうなの?」
あの洋館に住んでいて貧乏という言葉が全く一致しないと思った。
「ええ。借金が多かったらしくて」
「へえ……」
「雪絵おばさま、まだお若いでしょう? わたしが幼い頃にお嫁にいらして。おじさまはとても晩婚だったのよ。おじさまも事業を頑張って会社を大きくしたので何とか今の生活になったのですけど」
「ふう……ん」
なんだ、結局はやっぱり金持ちじゃないかと紳一は文句をつけたくなる。
「おじさまのお父様からの相続品もかなりの量でこんなものではないのよ。国宝級のものも多くて。当時、それらを手放せば楽だったのでしょうけれど、おじさまにはできなかったようで」
「それはそうだよ、家宝であり、形見だろうし」
「うん。そうよね。だからわたしも売れない。虫干しもしなければいけなくて、維持に手間がかかるし、面倒なの。何よりお荷物で、でも、申し訳ないけれど引き受けてくれる?」
「う……ん」
紳一はそのまま美術館に寄贈したいくらいだと思った。おそらく蔵で大事に保存されていたであろう桐箱に納められているお道具たちは部屋ひとつでは収まらない量である。
「なんか怖いね、歴史を背負うみたいだ」
芙美子がふっと寂しそうに笑う。
「うん。そうね。すこし善三おじさまのお気持ちがわかるわ」
「いいよ。責任重大だ。大事に管理していこう」
「ありがとう。紳ちゃん」
潤んだ瞳でそう言う芙美子を、紳一は思わず抱きしめた。
*****
そうして雲一つない晴れた秋の日、佳き日を迎えた。
葵の御紋が織り込まれた質の良い絹の豪華な刺繍の白無垢は、明治神宮の支度係を驚かせていた。
美しい花嫁だった。
紳一も紋付き袴姿がなかなか似合い、皆に冷やかされていった。
雅楽隊が先導しながら赤い絨毯の上をゆったりと歩く新郎新婦はいかにも初々しく、花嫁の美しさに皆は溜息を吐く。
昌子はずっと泣きっぱなしだった。
それにつられて、紳一の妹の真智子も泣き出す。
「おい。お前たち泣きすぎじゃないか?」
正太郎が囁く。
「だって。芙美子ちゃん、あんなに綺麗で。芙美子ちゃんのお母さんに見せたいわ。さぞかし見たかったでしょうに」
「いらっしゃるよ。どこかに」
正太郎の言葉に昌子はさらに泣くのだった。
「そうよね。きっと御覧になってらっしゃるわね」
涙と鼻水をハンカチで押さえながらそう言った。
「おい、ちょっとはうちの長男坊も見てやろうよ」
昌子がくすくす笑う。
「ふふふ。ええ」
真智子が吹き出す。
「お兄ちゃん、緊張しすぎていて顔が怖い」
「ははははは」
挙式が終わり、披露宴になると、芙美子の衣装は朱色と金銀の刺繍が豪華絢爛な打ち掛け姿となり、その見事さに皆は目を奪われた。
「きれいだわ……」
そう感嘆せずにはいられなかった。
紳一の会社の社長やバレエ団の大先生が祝辞を述べ、紳一の上司が乾杯の音頭を取り、宴が始まる。
友人等がそれぞれ余興をすると盛り上がっていった。
新郎新婦のところに次々と酒を注ぎに来て、ふたりはにこやかに対応していく。
親族の席には善三の席もあり、そこには大きな写真が椅子に置かれており、しっかり膳も作られていた。
塚原家の人々はそれを見る度、涙ぐんだり、ひそひそと話をしたりしていた。
紳一たちがお色直しをするため中座し、その時に昌子たちにあれはどういう意味だと詰め寄ったが、昌子も正太郎もあとで説明すると言葉を濁した。
芙美子のお色直しの衣装は、曾祖母のドレスだった。明治時代に日本が西洋化を目指し、洋装を義務づけ、西洋諸国に負けじと誂えた衣装であった。
紳一はその姿の芙美子の手を取りながら、その衣装が見た時代はどんな時代だったのだろうと思いを馳せ、そして、それを継承するべく生まれた人の伴侶として選ばれたのならば、守っていこうと決意を新たにするのだった。
扉が開けられると、皆がどよめく。
芙美子の首に掛けられているダイヤモンドのネックレスは見事な細工でスポットライトにきらめく。紳一は同等の物を買ったら幾らくらいするのか考えたくないと思った。年代物の青いドレスはシンプルながらも質の良さがわかるもので、気品に満ちていた。
ひとつひとつのテーブルを回り蝋燭に火を灯しながら、親族のテーブルに近づいていく。
すると、写真が飾ってある椅子に善三が座っているのが見えた。
芙美子が立ちすくむ。
「おじさま……」
紳一にも見えた。
「ああ……、おいでだね」
微笑んでいる。
いつも見せてくれていた優雅な笑顔だと芙美子は思った。
「ほら。芙美ちゃん。待っていらっしゃるよ」
紳一が芙美子の腰に回した手に力を入れ、歩くのを促す。
「ええ……、ええ……」
芙美子が珠のような涙をこぼす。
心をこめて蝋燭に火を灯し、丁寧にお辞儀をすると、その姿は消えていた。
紳一は鼻がつんとして思わず上を向く。
……お任せください。かならず幸せにします。
心の中で呟く。すると、
……ありがとう、紳一君。
善三の声が聞こえた。
確かにそう聞こえたのだった。
「ちょっと、おにいさん!」
酒を飲み過ぎて酔いが回っており、室内を暗くされて、うとうととしていたことに気づいた。
真智子の声がしてはっとする。
「ほら、寝ているところじゃないわよ! 紗絹ちゃんたちがテーブルに到着したわよ」
新郎新婦がテーブルのキャンドルに灯りを灯そうとしている。
「ああ……」
紗絹の花嫁姿が芙美子に見える。
芙美ちゃん……。
――急性前骨髄球性白血病――
それが病名だった。
芙美子の身体は治療をしてもそれを拒むように次から次へと色々な病気を併発していった。
薬の副作用で肺出血になり、呼吸困難に陥り、集中治療室に運ばれた時、覚悟してくださいと言われ、なぜ治療しているのに覚悟を求められるようになったのか、これならば治療しないほうが良かったのではないか、治療法が間違っていたのではないかと医師に詰め寄ったことがあった。だが、医師は冷静に答えた。
――残念ながらこれが白血病という病気であると申し上げるほかありません。
我々は最善を尽くしています、と言われ、言葉を呑み込むほかなかった。
全身を駆けめぐる血液自体が病気ということはどこにでも影響をもたらす。
そして、それはどれも致命傷となりうる。
――被爆二世。
それを意識せざるを得なかった。
芙美子がそれを口にしようとするのをやめさせたが、どこに向かって憤りをぶつけていいのかわからなく、とにかくかならず治ると信じて日々を過ごしていた。
そして、調べれば調べるほど芙美子と同じ状況の人々がいるのだった。
それはそうである。
当時広島と長崎に住んでいた人々、助かった人々の子孫がすべてそれに当てはまる。
「これは戦争犯罪である」
すでに組織だったものがあり、一度集まりに参加したときにそう声高々に叫んでいる人がいた。
原爆を投下したアメリカ、そこまで戦争を悪化させて国を追いつめた当時の政治家、軍部、そして原子爆弾を発明した科学者にまで怒りを感じ、しかし怒ったところで芙美子の具合がよくなるわけではないのだった。
国に責任を問うというその組織で尽力することが世の中の為に役立つとわかっていたが、紳一はそれよりも目の前の日常生活に追われ、それをこなすことに必死で、会合の誘いを断っていた。
いつのまにか自分がマスコミ業界にいるということも知れ、それを利用しようとする思惑が見え隠れし、気疲れするばかりで、そういうことに神経を使っている余裕はなかったのだった。
それよりも芙美子の命の灯火を消さないことのほうがよほど大事なことだった。
生きようとする気力を、何とか持たせたいとそればかりを考えていた。
「ねえ。紳ちゃん。紗絹はバレエの天才よ」
プロのバレエダンサーである芙美子は親の欲目を捨ててもそう言い切った。
その証拠に頭角を現し、ローザンヌ国際バレエコンクールに出場することが決まり、衣装ができあがったと聞き、芙美子はどうしても外出したく、それが精神的な支えとなっていた。
「おかえりなさい!」
紗絹が車のエンジン音を聞きつけて、駐車場に入れていたところ飛んできた。
「寒いのにわざわざ出てきて」
車椅子の横で白い息を吐きながら満面の笑顔でぴょんぴょんと跳ねている。
「おやおや。よほどお転婆お姫様は首長くして待っていたようだぞ」
「うふふふ。三歳頃とあまり変わってないわね」
「だろ。俺もよくそう思う。身体しか成長しとらんな」
子供の頃は欲しいものがあったら駄々をこね、わがままで手を焼いたが、年を重ねるごとに分別をわきまえ、それなりに人として育ってきたかと安堵してきたが、この先、世の中の人に迷惑をかけずにやっていけるのかとても不安だった。
――取り越し苦労だよ。
昌子はそう言ったが紳一の心配は年々増すばかりだった。
そんな紗絹はトゥシューズを履いた瞬間、まるで違うものとなる。
芙美子はお茶を飲む間もなく練習場へと向かった。
「では見せて」
車椅子からそう言い放つ芙美子の口調は母親のものではない。プロの踊り手であり、多くの生徒たちを指導してきた芙美子は決して妥協を許さない。
見たいのは衣装などではない。
踊りの仕上がりだった。
「はい」
練習場では母と子ではない。
師匠と弟子である。
数年前からその師弟関係は解消されているが、最初の師である芙美子を紗絹は心から尊敬し、バレエに対する姿勢は芙美子のバレエへの情熱を継承したものとなっている。
膝丈まである薄い布を重ねた白いスカートの裾をふわふわと揺らしながら歩き、練習場の定位置まで来る。
「お父さん。そのボタン押してくれる?」
その村娘姿があまりに可愛らしく見惚れてしまっていた紳一がはっとする。
「あ、ああ」
言われたボタンを押すと、曲が始まる。
――ジゼル。
ジゼルのヴァリエーション。
フランスの作曲家、アドルフ・アダンによるもので、ロマンティック・バレエの代表作と言われている。
穏やかな曲調で始まり、その室内音楽に導かれるように紗絹が音楽の一部であるかのように自然に、実に自然に踊り始める。この曲にはそれがもっとも相応しいだろうという動きである。
村娘ジゼルは、収穫祭の女王に選ばれ、村人たちに踊りを披露することになった。
だが、ジゼルは心臓が弱く、踊ることを母親に禁止されていた。しかし、どうしても踊りたいと強く訴え、母親はしぶしぶ許可をしたのだった。
ジゼルは恋をしており、一目惚れしたロイスへ見せたいという思いがあったが、しかし、病弱な自分をここまで育ててくれた親への感謝の気持ちを表したいという気持ちの方が強かった。
心優しい娘。
その心根の清らかさと愛らしさを見せる大事な場面の踊り、それがジゼルのヴァリエーションである。
踊れることが嬉しくてたまらない。
踊ることが大好き。
――ありがとう、お母さん。
ジゼルのその思いを表現していく。
――許してくれてありがとう。とても嬉しいのよ。わたし、踊ることが大好きなの。ねえ、お母さん、どう? わたしの踊り。上手に踊れている?
綺麗に決めたアラベスクからは、そんな心が伝わってくる。
それはジゼルの心であり、紗絹の心でもあった。
スカートの両裾を引っ張り、片足で軽やかに踊る。難易度の高さなど感じさせずに、浮いているのではないかと思わせられる舞での愛らしさには思わず溜息を漏らす。
親であるとかないとかなどを語るレベルではなく、万人を引き込み、釘付けにする魅力溢れる踊りであり、家族としてではなく、一観客としてその踊りに魅了されていた。
紳一は揺れる芙美子の肩にそっと手を置く。
――素晴らしい踊りだ。
――ええ。これ以上のないジゼルよ。
――親として誇りに思うよ。
――ええ。本当に。
――いいむすめに育ったな。芙美ちゃん。
――ええ。ええ。
その紗絹が花嫁姿になって、お辞儀をしている。
ぽろぽろと涙を零していた。
「泣くんじゃない」
そう言う紳一の目からも滂沱の涙が流れていた。
「うん、うん」
外出から戻った後、発熱し、体力が持たなかった。
「ねえ。おかあさん! あたし! スカラシップ獲ったよ! スカラシップ賞!」
奨学金と有名バレエ団への留学が約束されたその賞は、狭き登竜門を潜り抜けた者に与えられるバレエダンサーとしての将来の保証でもある。
あくまでもスタート地点ではあるが、そこを経ているかどうかでその後の評価は大きく変わってくる。
芙美子は弱弱しい息遣いをしながら、その報告を嬉しそうに聞き、目を閉じた。
そして、消え入るように心電図の音が聴こえなくなったのだった。
泣き崩れそうな紗絹を抱きかかえて新郎が次のテーブルにいざなう。
煌めく光が道筋を示すように照らしていき、嗚咽を漏らしながら歩く沙絹を皆がもらい泣きしながら迎える。
大勢の人が集い、まさに華燭の宴というに相応しいものであった。
紳一は、そんな愛娘の幸福に包まれた姿を視界が霞みながらも眩しそうに見ていた。
そして、ふっと笑う。
芙美ちゃん。
なあ。
芙美ちゃん。
何だか涙が止まらないよ。
これはきっと、流していい涙なんだよな。
幸せな時に流す涙なんだよな。
なのに――。
なんで、こんなに胸が痛いんだ。
紗絹がいなくなる寂しさではない。
むしろ守る人が増えてくれて心強い限りだ。彼はなかなかいい男だ。
なのに、なぜこんなに切ない。
芙美ちゃん。
……君だ。
君にいてほしいんだ。
やっぱり、君がいないと、俺はだめなんだと思う。
何年経っても変わることがないらしい。
どんなに幸せな瞬間が来ても、俺はやっぱりだめなんだと思う。
君がいてくれないと、だめなんだと思う。
「紳ちゃん」
声が聴こえる。
「いるから。私はいつでもそばにいるから」
暗い室内にほんわりと浮いた芙美子は優しく微笑んでいた。
了
Mariage マリアージュ