全部、無かったことになる
1.消去
空の夕焼けは、濃い紅色と、黒色が混ざり合ったような、歪んだ色をしていた。
限りなく、夜に近づいている。
僕の向こう側から、一人の男性が歩いてきた。僕も男性に向かって歩いていく。
そして、僕と男性が交差するかしないかの時。
僕は、その男性の肩を、トントン、と二回、静かに叩いた。
瞬間、男性は、人間を司る様々な構成要素を地球へと還元し、その場から永久に姿を消していた。
僕は、何事も無かったかのように、まるで散歩でもしていたかのように、また元の普通の生活の中へと溶け込んで行った。
>>>>>>
僕は、古びたアパートに戻って来た。
部屋に置かれているのは、テレビと年季が入ったベッドくらい。壁は、グレーのアスファルトが剥き出しになっており、所々に亀裂が入っている。
おにぎり、パン、煙草をベッドの上に放り込み、座る。
僕は、この界隈ではケイと呼ばれている。
さっきの能力は、僕に生まれつき備わっていたもの。相手の身体のどこかを、人差し指でトントン、と二回叩く事で、対象の相手を地球上・歴史上から「無かった」ことにするというもの。
僕はこの能力のせいで、子供の頃からまともな生活をする事が出来なかった。
どこかのコミュニティに入っては出ていくことになり、つい最近ようやく「落窪街」という街に流れ込んで、時々「無かった」ことにする依頼を受ける事で、生活を送る事が出来ている。この街の住人は、流れ込んでくる者の事をとやかく言わないという少し変わった所がある。
僕に依頼をする人は、僕の能力を気に入ってくれている。そして、僕の性格も(無口であるということが、情報を漏らさない、とプラスに捉えられている)。
僕は、「無かった」ことにする事について、辛さも、楽しさも、何も感じない。
ただ、能力があり、それを求める人が居るから、それに応じているだけだ。
と、突如、ドーン! という轟音が響き、地面が振動した。壁のアスファルトの欠片がパラパラと零れ落ちる。
この国において戦争は終わったはずなのだが、時折、銃声や、ミサイルの着弾する音が聞こえる。治安はよくない。
僕はきっと、流れ弾にでも当たって、あっさり死ぬのかもしれない。
そんな事を思いながら、煙草をくゆらせた。
煙草の煙は、行き場の無い天井をぐるぐると渦巻いていて、僕の行く末を暗示しているかのようだった。
2.老婆
僕は、アパートから少し歩いた所に在る、小さな建物の前に来た。
「……ばあちゃん、居る?」
僕が建物に向かって声を掛けると、少しして「はいよ」という返事が返って来た。
「ああ、坊やか。元気かい?」
「まあまあだよ」
「それは良かった。ところで、何が欲しいんだい?」
「おにぎりと魚の缶詰……かな」
「魚の缶詰ならすぐ渡せるよ。握り飯は……ちょいと時間がかかる」
老婆はそう言うと、背後に向かって「握り飯、何個か取ってきな!」と声をかけた。すると、一人の少年が建物から走って出ていった。
老婆は、この近辺に散らばっている小さな工場のいくつかと取引を持っていて、注文が入った場合、建物内の誰かを使いに行かせる。
「まあこのやり方もちょいと面倒なんだがねぇ……治安も今一つじゃし、強盗やらミサイルやらで在庫がパーになるよか、幾分マシじゃろ」
老婆は、ヒッヒッヒ、と笑った。
「ばあちゃん、いくら?」
「坊やには世話になっているからねぇ。暫くはタダでいいよ」
「……こないだの事件は、嫌なものだったね」
「もう忘れたさ。にしても、あたしの2号店・3号店が、散歩から帰ってきたら崩れたコンクリになってたんだからねぇ。死傷者も出た。葬式代も馬鹿にならない。そしてあたしに落とし前もつけなかった。……坊やはよくやってくれたさ」
「……一応、ばあちゃんから貰ったお金で、墓は作ってきたよ」
「……そうかい」
冷たい風が、ヒュゥッ、と吹き抜けた。
「ところでばあちゃん、最近またデートしてるの?」
僕が言うと、老婆の頬が少し緩んだ。
「ああ。最近はいい感じの老紳士を捕まえたからねぇ」
「よかったね」
「というわけで、今日は坊やの注文が終わったら店じまいさ」
すると、さっき建物を出ていった少年が、おにぎりをいくつか抱えて戻って来た。
>>>>>>
僕がアパートに戻ってからおにぎりを食べていると、激しい銃弾の音が聞こえた。
それから数分ののち、しん、と静まり返った。
暫くして、玄関ドアからドンドンドン、とドアを叩く音。
「はい」
「ばあちゃんだよ、開けとくれ」
「えっ、あ、うん」
老婆が僕のアパートを訪れる事は滅多に無く、少し呆気にとられた。
僕は、玄関ドアを開けた。
すると目の前には、血を流しながら呼吸を荒くした老紳士を、腕に抱えた老婆。
「坊や。このじいさんに、お前の不思議な術をかけてやってくれるかい。トントンってやると、消えちまう、あれさ」
「どうしたの一体!」
「あたしとしたことがちょいとドジっちまって、さっきの銃撃戦に巻き込まれたのさ。じいさんがあたしを咄嗟にかばったから、あたしは軽い傷ですんだ。だが、じいさんはまともにタマを何発も浴びちまって、多分病院までもたない。……傷の痛みに苦しみながら逝かせたくはないのさ!」
「……いいのかい?」
「ああ、いいさ! 後の事はあたしが面倒見る!」
僕は、老紳士を見た。老紳士は苦しそうな表情をしながらも、僕を見て、僅かに、頷いた。
僕は、老紳士に近づいた。
そして、老紳士の肩を、トン、トン、と二回叩いた。
すると、老紳士の身体は、一瞬の時を置いて、空気中に霧散した。
「……骨も、残らないんだねぇ。……まるで、最初っから世の中に存在しなかったみたいに……まったく、不思議なもんだ……」
老婆は、静かに、つぶやいた。
>>>>>>
それからも、老婆は変わらず店をやっていて、合間に、老紳士の墓参りにも行っていた。
少し複雑な表情をしていた時期もあったが、やがて以前と変わらぬ様子に戻った。
「ばあちゃん、パンある?」
「ああ」
老婆の「パン持ってきな!」という掛け声で、少年は今日も、建物を飛び出していった。
全部、無かったことになる