practice(146)






 印字された表を見せて,二人掛けのテーブルに置かれた航空券を抑える重しになっていた。明るい色のサプリメントとともに,その小さくて丸いケースは,このテーブル上における予約であるに違いない。そしてその効果は,入り口から混雑している店内よりも,広い通路のような構内に対して,最も及んでいた。
 私のカップを置きながら,またはカップを傾けながら覗くと,「空いてるんじゃない?」,という仕草ですぐに去ろうとする恋人の裾を引っ張る女性が,異常とも思える長方形の空白を目に止める。しかし机上の紙とケースに気付き,それから「なんだぁ」という感じで,ひとりでに諦める,そういうパターンが繰り返される。あるいは後ろを歩く男性が,呼びかけで前を行く女性の足を止め,そのまま二人で見ること数秒,かつかつとハイヒールの音で再び歩き出されるときには,呆れられた男性が出遅れている,そんなケースも目撃できる。例外のように老夫婦に関しては,たとえどんな二人であっても,そこをゆっくりと去るときに特に何の反応も示さないのだが,大体はそのような反応だった。カップは持ったまま,振り返るように,未だに長いレジの列に目を向ければ,これを施した彼らは上部のメニューを指差して,仲睦まじく,何を食べて何を飲もうかの相談を,寄せる耳元で交互に繰り返し,そして何かのせいで,それを最終的に決めかねているようであった。顔を元に戻し,対面する彼女に合図して,彼女の肩越しに,飛行機を持つ子供を見かける。ガラスに車輪を擦らせて,目が合うと,車輪を離してぱたぱたと,雑踏めがけて逃げていった。アナウンスが告げていた。
『…◯◯便の到着予定時刻は,出発時における機体への積荷搬入の遅れのため,当初の十八時半から五分遅れの,三十五分に変更いたします。繰り返します,△発,◯◯便の到着予定時刻は,出発時における積荷搬入への遅れのため,当初の十八時半から五分遅れの,三十五分に…,』
「何時だったかしら?」
 彼女が聞く。
「十九時あたりじゃないか。」
 私は言った。
「あと,何分ぐらい?」
「だいたい,三十分後ぐらい。」
「それは正確?」
「だいたい,だよ。」
「何か,お土産は必要だったかしら。」
「前にまとめて送ったし,特に要らないと思うよ。君が買っていきたい,というなら別だけど。」
「柔らかいものって,好きだったわよね?前に持っていった甘いものは,珍しく一日で箱から半分も無くなっていたし。」
 ほらあれ,と言わんばかりに彼女はその『もの』の形を手で示す。それを見て私は言う。
「硬いものよりは。それにその日は確か,従姉妹の子供たちも全員で来ていたから,それで減っていったのかもしれない。好きかどうかは分からないよ。それにそれその『もの』を,こっちは思い出せない。クッキー?それとも?」
 私は空いている指で,宙に描いた。建て付けの悪いテーブルの脚をがたっといわせて,彼女は自由になった,手を振って言う。
「クッキーじゃないわ。でも,もういいわ。」
 店内からの侵入者で,唯一,緑基調の派手なリュックサックをぶら下げた女の子が,テーブルの角に大きなお尻をねじ込ませてそこのイスを床に擦らせガガッと引き,座椅子にカバンを置いて,航空券の予約に一瞥をくれながら,その予約を破ろうと,大きな手振りの手招きで仲間を呼び寄せた。しかし思惑とは反対に,彼女の方へとやって来た仲間の一人に諭されて,机上のケース付き航空券に,大きなため息をどっかりと落とし,さらに奥へ奥へと,席を求めて仲間とともに去っていった。テーブルの端でナプキンを収めた銀の入れ物が次々と動き,それぞれの座席で位置がしぶしぶ正される。ひそひそと前後で埋まるお喋りに拍車がかかって,その危害が及ばなかった席の私たちと,横を向く静かな沈黙が,かえって目立って仕方がなかった。
 ただ思えば,それは,私たちが近くに座っていた間に予約された席に及んだ最大の危機だった。


 家政婦マーサの証言。
「旦那様の書斎には鍵は付いていますが,旦那様がそれを掛けたりしたことはございません。少なくとも,私がお掃除をする午前中には,一度もありませんでした。その点はその日も同じです。私はいつも通りの時間に『旦那様,失礼します。』とお声をかけながら,ドアノブを捻って中に入りましたところ,空気の入れ替えのために,私が開けたりすることはあっても,旦那様自身がお開けになることはほとんど無かった,机の前の窓が外開きに,両方とも,大きく開かれていました。風が強かった日です。庭の倒木を片付けるのに,私の夫である庭師のビリーも,色々と忙しくしていました。旦那様はよく,書き物をしていましたから,その日も原稿用紙が机の上に重ねられて,置かれてありました。だからそれは部屋中に散らばって,書斎に入らせて頂いた私は,まずは窓を内側に引っ張り込むことから始め,机の上の,原稿用紙以外にもご愛用の万年筆やお羽のペンが倒れておられたりしていたので,そういうところも整えて,それから床や本棚の棚などから原稿用紙を,皺をつけたりすることなく,一枚一枚を拾い上げて,旦那様が隅に記されていた番号の順に,それらを並べるようにして,机の上に戻したのです。私自身が取ったり,また失くしたりはしておりません。
 ええ勿論,私もその可能性に思い当たりました。だから私は一度旦那様の書斎を出て,階下に降りながら中庭に向かい,道具を持って,屋敷内に戻って来たビリーにきちんとこう聞きました。
 ねえ,ビリー。中庭に旦那様の字が書かれた原稿用紙が,落ちていなかった?
 ビリーは首を振りながら,いいや,マーサ,見なかったよ。何かあったのかい?と私に聞いてきました。けれど私は急いでいたために,彼に後で事情を話すことを約束して,再び階上に上がって,旦那様の書斎に入らせて頂き,床と本棚と隙間とか,失礼ながら,机の後ろや,旦那様がお座りになっている革張りの椅子を引かないと覗けない机の下なども確認して,私は結局,抜け落ちている頁を一枚も見つけることが出来なかったのです。残りはきちんと保管しております。旦那様の書斎をお掃除させて頂くときには,今も丹念にそれらを探しております。
 旦那様ですか?はい,残念ながら。中庭の樹々も色づいて,ビリーはそれを旦那様に見て頂きたいと,毎晩必ず,私に言っております。私も待っております。
 はい?ええ,書かれていたことですか?旦那様の許しもなく,旦那様が書かれたことに目を通すことは私には出来ませんから,あれから見たりはしておりません。なのでそれを私の独断で,他人様に言うことも。ええ,はい。それは勿論。はい,ええ。分かりました。それが旦那様のためになるというのであれば。記憶によればということになりますが,私は記憶力という点でも旦那様に認められています。恐らく間違いは,ないと思われます。ええ,はい。
 旦那様が書かれた原稿の最後は会話の途中で,笑い声も消えてしまった女性の短い描写と,滴みたいなインク染みが残っていました。」



 手を叩かれて,頁を綴じた。特に機嫌が,悪くなっているようには見えない彼女は,私の前で空になっているカップの縁に指を乗せて,そこも続けて軽く叩く。彼女の飲んでいたホットコーヒーは,今すっかり無くなって,彼女はもう一杯飲もうとしていた。
 予約席の二人だって,まだ席についていない。
「飲みたい気分ではあるけど,ほら。待ってる間に時間は過ぎる。あっとう間に出立だ。」
「大丈夫よ。おかわりだし。」
 と彼女はカップを二つ持って立ち上がる。
「それにやり方ってもんがあるわ。」
 大柄な花が施された財布は,彼女の腋に挟まれていた。
 私は心配になり,振り返るように,レジの列の様子を窺ったが,長さはそれほど変わらず,ただしあの二人はあと一組というところまで近付いていて,笑い声を交え,結果として何を話しているのか分からない女の子とその仲間が,最後尾で大きな声をあげていた。丁度,男の子一人とその父親らしい男性が一人,という組合わせが並び,少しして,そこに赤ん坊を抱いた女性が母親として加わったことで,あっという間に彼女らは最後尾でなくなった。私の知っている彼女は,別のテーブルをうまく避け,受け取り台の方に向けて,迷いなく歩いていた。財布のジッパー部分に施された飾りが揺れていた。
 途中の本は彼女のバッグに仕舞った。
 上着の内ポケットから,二枚分のチケットを取り出し,出発時刻を確認してからアナウンスに注意を向ける。今は特に何も知らされない。到着時刻の再変更もない。通路のような施設内に広げられた雑踏は,「こっち,こっち!」といった簡単なこと以外,特に意味を明らかにしないで,蛍光灯下の移動を活発に繰り広げている。ときどき立ち止まっている人が遠くの電光掲示板を見つけて,カートをゆっくりと引きながら,方向転換の機会を逃している。チケットを内側に収めながら,袖口のボタンをいじり,上から重なるように並んでいる三つのボタンがかちゃかちゃとして,テーブルの縁にもぶつかる。
 ズボンから取り出したときに,私の手の中で携帯電話のバックライトが光り,受信したメールをチェックして,返信を軽く終え,スペースの端に寄せて置く。うち二件はこれからの道中における『アシ』に関するもので,取り敢えずタクシーを使うことになりそうだった。あとで傘も買わなければいけなくなった。
 風が強くなければいいのだろうけれど。彼女は雨も嫌いなのだから。
 振り返れば,彼女は受け取り台の前で財布を手に持ち,砂糖とクリームを一個ずつ,丁寧に断っている。 
 手首の太さと合っていないために,セットのケーキを口に運ぶ際にアナログの腕時計がかちゃかちゃと顔を覗かせる男の向こう,入り口から前列のテーブルに座っていた背広の男性三組は,長いコップから出てきているストローを口に含みつつ,深刻そうな話を,ひそひそとしていた。だから距離がある私たちのテーブルに,その話題は勿論聞こえない。ただ,レジに続く列から出てきて,構内と出入口を行き来して遊び始めた男の子に三人とも一瞥をくれて,再び列の中に紛れ込ませたことからすれば,相当に大事な話であるらしいことは分かった。さっそうと走るシャープペンの書き込みだけでは足りないらしく,冷たいものを飲み干して,縦に並んだ氷を鳴らして話し込んでいる。時々声のヴォリュームが上がったように,「条件は…,」といったフレーズや,「悪くない…,」という頷きが三人の中から聞こえた気がした。けれどすぐに消えるために,聞き間違いといっても良い気がした。何より,ずずっとストローを強く啜る音が邪魔をして,三人への興味を失わせる。アナログ時計がかちゃかちゃと鳴ってからは,私は三人を背景に消した。彼女が直ちに帰って来た。
「同じものだけど。」
 そう言って,カップを置いて,席に着く前に脇に挟んでいた財布をテーブルに置いた,彼女は新しいものを頼んでいた。揺らめくティーの香り。
「向こうは雨らしい。それに着く時間も遅い。だからタクシーになった。空港でつかまえようと思う。」
 私は淡々と言った。
「そう,しょうがないわね。」
 彼女は熱そうに啜って,それ以上続けなかった。
 それから長々とした予約席にようやっと着けた彼らはほっとしたように,丸いケースを取り上げ,航空券を横に滑らせてから,縁でそれを受け止め,飛び抜けて高い,持ち帰り用の紙コップが乗ったトレイを同じ作りのテーブルに置いてから,彼女はプラスチックの蓋に口を付けて,美味しいという顔を彼にした。
 盗み見すれば印された日付が欄に収まり,どこかの地方の名前が記され,コードは機械でしか読み止めれない形をそこでもしている。乗って行く方向も同じかもしれない。
 私たちが席を立つ頃に,アナウンスは告げていた。彼女のバッグを私が肩から掛けて,彼女はカップを返しに行く。入り口を出たあたりから,私はバッグの口に手を入れて,メイク道具に本を避けて,ミント味のものを探し当て,数粒,手の平から口に含む。鼻に抜ける感覚とともに,電光掲示板の薄さを見て,入り口から彼女が出て来て,構内を並んで歩き出す。途中,一人の初老の男性に手荷物検査場に近いロッカーの位置を教えてから,お土産売り場に向かう。
「よく知ってたわね。」
 と聞く彼女に,
「以前,使ったことがあるんだよ。」
 と言って,しばらく黙る。
「空港でロッカーに荷物を預ける,ってどこか変ね。」
 と漏らす彼女に,
「色々あるのさ。事情はそれぞれだろう?」
 と私は言って,それから途切れ途切れに,落ち着いたお喋りをしてみた。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-15

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