夫の食生活
「あの、夫とのことで相談があるのですが」
控えめな口調で若い女性が口を開く。いま女性がいるのはとある興信所であり、イスに腰を落としてはいるもののどこか落ち着かなげだ。
「はい、お伺いします。私生活をお話になるのも勇気がいることでしょうから、ご自分のペースで結構です」
対面して話を聞く者も威圧感は与えないが、だが頼りなげではないくらいにどっしりと構えている。多くの者が出逢い、そして別れていくご時世だからかその節目に立ち会う者なりに作法は心得ているのだろう。
「夫は、その食事がひどくて。なんといいましょう……」
女性はどう切り出せばいいのか思案をしているようで口ごもってばかりで遅々として進まない。
「緊張していらっしゃるのなら、まずはご相談とは関係のない話をしてみてもよろしいですよ。見ず知らずの他人と会話するのは気恥ずかしい、と緊張なさる方の多くはなんてことのない会話からのほうが入りやすいそうです」
「あら、そうなんですか。それでは、ええと、何からお伝えしたものか……。私、夫と出会う前は料理がさっぱりできなかったんです。それで、母や友人に教わり、他にも本を読んで勉強したんです。ところが……」
女性が言いにくそうに口ごもる。対した所員は少し間を取った後でその先が容易に想像できた。大方、あまり上達しなかった腕前に嫌気がさした夫はそれに文句をつけそれ以降もこの女性の料理はまずいままだったのだろう。それをきっかけに徐々にぎくしゃくしだしたに違いない。
「自分で言うのもあれなんですけれど、結局は籍を入れた時点でだってそこまでの物が作れたわけではなかったんです。でもあの人、君が作ってくれた物だったらなんだってごちそうだよ、って言ってくれたのでほっとしちゃっていたんです。毎日朝夕と私が作ったご飯を食べて、お昼だって手作りお弁当がいいって駄々をこねたものです。いつだっておいしいおいしいと言ってくれたので最初は優しい人だな、って思っていたんです」
そこで女性は言葉を切る。次につなげる言葉を必死に探しているようだった。
「その、ごめんなさい。何と言ったらいいのでしょうね」
「いいえ、大丈夫ですよ。失礼ですが、ご主人は奥様の料理にご不満をいだいているのでしょうか?」
女性はそっと目を伏せる。やはり、本当のところはそうだったのだろう。結婚当初は勢いでうまくやっていけることも多いが、気がつけば冷めてしまうペアは少なくない。
「なるほど、わかりました」
「いいえ、逆なんです。私の作ったものなら黒く焦げていようと生焼けだろうとおいしいおいしいと綺麗に平らげてしまうのです。感心してしまった私はこの人にとって良き妻であるように努めようと決めてしまいました。少しでも支出を減らすためにも自作の石鹸や、籠を編んでみたりとしました」
「いつもおいしい、と言ってくれるものだから慢心してしまったとかはなかったのですか?」
「そんなまさか。今だって料理本には頻繁に目を通します。そりゃ、いつもおいしいと言ってくれるから上達したのかわからないかと思ったこともありますが、私だって口にしているんです。さすがにまずいかどうかくらいはわかります」
なんでこの女性はここにいるのだろう、と所員の頭によぎる。言っていることにうそはなさそうでここでの態度に何か問題があるようには思えない。料理が多少下手なのかもしれないが努力し、夫を慕い力になろうとしたようだ。それなのに夫になにか別れたくなるようなところがあるらしい。会ってもいない男性に、少々苛立ちを覚えた。
「ある日ご飯物ばかりだったから、趣向を変えてみようとパンを焼いてみました。先ほど言った自作の籠にパンを載せて夫との食卓に並べたんです。いざ食べようとしたところインターホンが鳴ったので私は夫に先に食べていて、と言い席を立ちました。呼んでいたのはお隣さんだったのですが、やたらに話の長い方なんですよ。取り留めもない会話ばかりして、自分が最近趣味の陶芸を一緒にやりましょうよ、などと私の都合もお構いなしに話してくれました。二十分ほど経ったころでしょうか、夫が私を呼んでいたのでそこで話を打ち切らせていただき、ようやく私は食卓に戻ることができました」
「あの、奥様。たしかに関係のない話をするのもいいとは言いましたが、そろそろ本題に入らないとお時間が」
壁にかけた時計が正午を告げた。別に時間に制限がついているわけではなかったが、いたずらに時間を浪費するのは好ましくない。
「すいません、どうか一区切りできるまで話させてもらえませんか。えっと、どこまで話しましたっけ。ああ、食卓に戻ったところでした。そこで私は我が目を疑うことになりました。テーブルに残っていたのは私の分のパンだけでしたので」
「それが何か問題でも?」
彼女の夫がうまいうまいとパンを平らげてしまったのだろう。おいしい物を食べると自制が利かずに掻き込むように食べてしまう人たちだっているのだ、さして問題があるとは思えなかった。
「大問題です。私の席には私のパンだけテーブルに直接置いてあり、夫の分のパンはもちろん載せていたはずの籠まで消えていたのですから。夫はおいしかったからみんな食べてしまいたかったけれど君の分は残しておいたよ、と満足げに言っていました。その日はお風呂に入った後に石鹸がデザートとはさっぱりしていて気が利いているねと微笑みかけてきました」
女性は言いたかったことがようやく全部言えたのか少しすっきりした顔をしていたが、所員の頭は理解が追い付いていなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください。それって、あれですか。ご主人がパンのみにならず籠まで食べてしまったと?」
口から絞り出すようにして言葉を出す。しかし、どう考えても消化できそうにない石鹸についての言及は漏れてしまった。
「ええ、そう言いましたが。普段食べるご飯より乾いた感じがまたいいアクセントになって美味しかったとうれしそうでした。あら、ごめんなさい。電話が入ったみたいです。出てもいいですか?」
鳴りだした携帯電話を手にした彼女に、なんとか一言どうぞと促したところで頭を抱えた。あまりにもまずい食事によって料理も器も夫の手で滅茶苦茶になったという話は何度だって聞いてきた。ひどい場合相手に乱暴を働く場合だってある。しかし、今回の場合は逆にうまいうまいと言いおかしなことになっている。
「失礼しました。夫から電話がかかってきまして。さすがに出ないわけにはいかなくて」
彼女は一礼して続ける。
「お昼ご飯がおいしかったそうです。お味噌汁と味付けご飯、それと私が作ったお茶碗」
一体彼女の夫はなんなんだ。こんな食生活これまで聞いたことがない。そもそもおいしいと言っていることから夫婦仲が悪いとも思えない。
「それで相談なのですが。私、どうすればこの悪食の夫と別れられるんでしょうか?」
夫の食生活