SS35 私のすべて
男は私のすべてを奪って逃走した。
「誰か、そのジャケットの男を捕まえて下さい!」歩道に女性の甲高い叫び声が響き渡った。
声に気付いた通行人が辺りをぐるりと見回したが、時すでに遅く、人の間を縫うように駆け抜けた男は近くの角を曲がって姿を消した。
「何を盗られたんですか?」
後を追ったものの、姿を見失った男性の一人が女性の元に掛け寄った。
「全部です」
「全部?」
「あいつは私のすべてを盗んで行ったんです」
「それは一体どういうことですか?」
しかし俯いた彼女は、その質問に答えなかった。
まったく要領を得ない話しに首を捻った彼は、「とにかく警察に届けた方がいいですよ」と最も近い交番の場所を教えあげた。
なのに彼女はそれすら渋っている様子。
彼は”追い掛けっこ”の様子を思い出し、ちょっとした思い付きを口にした。
「もしかするとあの男、あなたの知合いなんですか?」
「違いますよ。まったく知らない人です」
「本当に?」しかし顔には知っていると書いてある。
「実は……、婚約者なんです」散々逡巡した末に、彼女の重い口は開かれた。
「ちょっとうとうとしている間に勝手に持ち出されちゃって……」
彼女はシャツの裾を持ち上げると、くびれの辺りをちらりと見せた。
「ああ、そういうことですか。
でもあの人は何を見たんです? 別に逃げなくてもよさそうなもんじゃないですか。心当たりはないんですか?」
「それは……」
三度の離婚。それに至るあまりに荒んだ結婚生活。万引きや窃盗で刑務所に収監されたこともある。
「……言えません」
なるほど。
「それじゃあ、私はこれで」
すべてを悟ったように親切な男性は姿を消した。
***
実はくびれの部分には四角い端子が埋まっている。
普段は蓋がしてあるが、慌てていたので外れたままになっていた。
カレはここから私のすべてを吸い出した。
私の過去のすべてを……。
せっかく婚約まで漕ぎ着けたのに、これでは何もかもおしまいだ。
その場にしゃがみ込んだ私は人目も気にせず泣き伏した。
しかしどんなに悲しくても、アンドロイドの私に涙は流せなかった。
SS35 私のすべて