名も無き誘拐事件

名も無き誘拐事件

 誘拐したものと追うものの立場から交互に視点が切り替わる、一応ミステリタッチもの。そして一応子どもの成長していく内面も描いている、かな。長編2作目ですので、もし宜しかったら1作目もどうぞ

第1章 11月23日 19:30ごろ

午後7時を過ぎたくらいだろうか。11月の冷たい風の吹く町外れの川にかかった橋にその男は立っていた。あたりはすっかり薄暗くなっていて、淋しい街灯の明かりがその男の足元を照らしていた。
俺の名は『播戸良介』。年齢は40を超えたくらい。草臥れたおじさんという風貌だ。すっかり薄くなった頭頂の周りに申し訳程度の白髪交じりの頭髪。顔の表面に膜の貼ったギトギトの脂。
ヨレヨレのコートの中にからははみ出した下腹。それでも頬は少し痩けているのが自分でも分かる。

俺は昔ながらの石造りの橋から身を乗り出していた。下に見えるのは緩やかに流れるのは蓬川と言う小さな川。その水面に映る自身の顔。その顔を見つめ、また深い溜息を付いた。
手には紙切れが握り締められている。そこにはインクで「督促状」と書かれていた。その額およそ2000万円。それを見て再び深いため息をつく。

友人の肩代わりの借金だった。
昔からの友人で、事あるごとに連帯保証人を頼まれた。
コロンビアの山奥の鉱山の権利が高騰するんだ、と言っては借金し、
中国の電子機器のベンチャー企業株は絶対に成長する、と言ってはまた借金し、
そしてこうなったら日本で起業する、と言ってはこれまた借金した。
その都度、親戚や銀行、そしてついには怪しい闇金に手を出し、尽く失敗していた。
そしてその都度、自分が連帯保証人にされてしまった。
怪しいことは重々承知だった。失敗することは火を見るより明らかだった。
それでも、友人がその頭を地面まで垂らすのを見て、毎回のようにしょうがないなと判を押した。
今回はそれが仇になった。額が額なだけに友人はとっととトンズラを決め込んだ。
当然連絡しても音沙汰は無し、彼の家族に行方を聞いても、知らぬ存ぜぬの一点張り。とうとう、彼の借金は法的拘束力を持って私のもとにやってきたのだった。

勿論、俺に借金を返す当てはない。ついこの間まで勤めていた運送業の会社は贈収賄事件が取り沙汰され、めでたく倒産。
20年以上働いてきた私の手元に残ったのは、雀の涙にもならない手当のみ。それに愛想を尽かしたのか長年連れ添ってきた女房も三行半を押し付けて安賃貸アパートを出て行った。
職もない、家内もいない、そしてあるのは吐き気のするような借金だけ。
まさに地獄だった。
正直どうでも良くなった。今、ここで俺が川に身投げをしても誰も悲しむものなどいないだろう。
そもそも俺がこの川に飛び込んで、それに気づく人間が果たして何人いることか。
誰の目にも触れず、ゆっくりと下流まで運ばれて魚や海鳥の餌になる、そんな人生であろう。

自分の人生など最初からそうだった。小学校も中学校も高校も、特に述べることもない平々凡々な日常だった。
両親に、どんな悪事にも身を染めない良い子で育ってほしいとつけてもらった『良介』と言う名前も、ただ単に人が良い、貧乏くじを引くしか能がない人間になってしまった。
こんな人生に悔いも未練もない。遺書だって必要ない。死なんか怖くない。あとはこの欄干を乗り越えれば良いだけ・・・

右手を石造りの欄干に手をかけてぐっと力を入れる、しかし

「・・・だめだ、できない」

いざ乗り越えて身を投げ出そうと思えば、身がすくむ。膝が震える。息が荒くなる。
今の今までこの世に未練はない、死なんか怖くないと言っていたくせにこのざまだ。あぁ、俺はなんて臆病者だ。
そもままヘナヘナと座り込んでしまう。
生きる希望も目的もない、かと言って死んでしまうのはとても怖い。

横でコツリと地面を叩く音。
顔を上げる。そこには知った顔。
黒いカシミヤのコートで肩から膝まで覆い隠した、正に黒衣の男。膝から下も光の反射をなるべく抑えた黒地のスーツ。シワ一つシミ一つない。
しかし顔はというと特に黒い布で覆おうという意識はないようだ。瓢箪のようなひょろ長の顔に、中世ヨーロッパを思わせる独特な髭、そしてその双眸はこの世に存在するものの凡てを下卑し、そして同時に憐れむような色をしていた。
彼はこちらがその存在に気づいていることに、とっくに気づいているだろう。しかしわざと言葉を溜める。
明らかに俺に用があるのに、でもそう急かすなと言わんばかりに内ポケットから葉巻を出しまずは一服と美味しそうに吹かし始めた。

「ごきげんよう、播戸さん」

こちらは何も応えない。何を言われるか想像は付いた。

「この橋から身投げですか。お止めなさい。あなたには相応しくない」

「俺の勝手だろ。それに身投げしようにもできないんだよ、怖くて」

「ふん、言ったでしょう。『相応しくない』と。あなたは自殺するのには相応しくない。あなたはここでその生涯に幕を下ろすのは実に相応しくない」

「・・・何の用だ」

「あなたはあなたの意思で死のうとしている。あなたはそれで良いかもしれない。あなたはあなたの意思のみに支配されその意思以外になんの干渉も受けず判断するそして行動する。それはそれで良い。
でもねあなた自身が生きる上で殺してきた何千何万と言う生命はどうなるのです。その正看は実に浮かばれない」

こいつはいつもこんな喋り方しかできないのか。内心毒づく。

「何の話だ。俺は自慢じゃないが根っからの小心者で臆病者でね。蠅一匹殺したことがないんだ。何千何万の生命を俺が殺してきたなんて・・・」

「おやおや可笑しなことを言う。
あなたは肉を食べるでしょう。魚も食べる。お米だって食べる。それらはもともと小さな生命だったはず。あなたが自身の生命活動を維持するために、他の生命を奪って行ってるんですよ、あなたの意思とは無関係に。そう考えたことはありませんか。
牛だって、豚だって、鶏だって、マグロだって、アジだって、サンマだって。彼らは本当はもっと生きていたかったはずです。でも彼らはそれが許されなかった。彼らはやはりその自身の意思とは無関係に、その生命を潰された。
そしてその命を引き継いだとも言えるあなたは、自分の生命を自ら投げうとうとした。本当はもっと生きていけるはずの他の生物を省みることなく・・・、おっと話が逸れましたね。私の悪い癖だ。私の用事は播戸さん、あなたに伝えるべき事があったんです」

「伝えるべき事ね・・・」

大体見当はついた。

「借金返済の催促にやってまいりました。総額2950万円となります」

そう。こいつはまごう事なき、借金取りだった。
しかしその金額を聞いて俺は驚いた。

「借金の返済期限? まだ一週間先だろ。ってかなんだ2950万って。俺が借りたのは2000万だぞ」

「借金には必ず利息というものが付きます」

「はぁ!? そんないくらなんでもそれは暴利ってやつだろ」

「あなたは、無意識のうちに幾多の生命を蹂躙しながら、それでいて生きているあいだのこんな些細な約束すら守れないんですか」

タコ糸程度だった目が鋭角を増し、こちらを睨んでくる。
やはりこう対峙するとこういった人間は凄みが出てくる。

「暴利暴利と仰いますがね、こちらもこれが商売ですから。それとも、2000万なら何とか返せる見通しでもあったんですか?」

言葉につまる。2000万もの借金の返済の目処は一向に立っていない。そもそも今日明日を生き抜く目処すら立っていない。そんな自分に2000万もの大金をポンと用意できないことぐらいこいつは知っているはずだ。

「ねぇよ。だからこうやって寒空の下、わざわざ身投げでもしようとしたんじゃねえか」

「おっと、早まらないでください。私は何もあなたに死ねと言いに来たんではありません」

「ん、じゃあ一体・・・」

「あなたは死にたい、私はお金を返して欲しい、この双方の要求を叶えるグッドアイディアがあります」

「グッドアイディア?」

奴は爬虫類のように体温を持たぬ笑みを浮かべた。

「臓器ですよ臓器。今、臓器が不足しておりましてね、特に肝臓はかなりの高値で売れるんですよ。それこそ一個売るだけであなたの借金がチャラになるくらい。それに腎臓も付ければおつりが帰ってくる」

「な・・・」

「簡単でしょう。あなたは死にたい、私はお金が欲しい。ほら両方ハッピー。大丈夫、腕の良い医者を用意しますから」

そんな彼の顔は悪魔そのものだった。
口は三日月のように裂けて、そのどす黒い顔に浮いていた。

臓器・・・
肝臓・・・
腎臓・・・
死ぬ・・・
死ぬ・・・


シヌ・・・・・・

その言葉が以上に残酷に思えた。
経った今まで自分がしようとしていたことと、引き起こされる事象は同じだ。即ち「播戸良介」の死である。
橋から身投げをしようが、臓器を売ろうが、引き起こされる結果は一緒。なのに、どうしてこうも残酷に響きに聞こえてくるのだろう。
それがただ「自分の意志で死ぬ」か「相手の意図で死ぬ」かの違いだけだ。
たったその違いだけで、なんでここまで恐怖心が湧き上がってくるのだろう。
今の今まで「死のうとしていた」人間がとる行動ではない。もはや一貫性がない。

嫌だ
殺されたくない
嫌だ
嫌だ

俺は立ち上がり、一目散にその場から逃げようとした。しかし足が覚束無い、力が入らなく2,3回もたついて転びそうになった。
無様だ。
自分でもそう思った。
見ている人間からしたら、もっと無様だっただろう。
それでも構わなかった。
死にたくない、ただその一心が俺を動かした。

「期限は一週間後です。良い返事を期待してますよ」

背中からそんなおちゃらけた声が聞こえた。



*  *  *



走った
走った
俺は走った

こんなに走ったのは中学校の時のクラス対抗全員リレーの時以来だ。
当時とても可愛かった李花ちゃんと言う同級生がいた。色白で肩までかかるロングヘアが印象的な娘だった。彼女にいいところを見せたくてあの時は全力で走った。
学校の200mトラックをそれこそ死に物狂いで。おかげで他の組の誰にも抜かれないで次の走者にバトンをパスできた。
走り終わったあと、心臓がパンクしそうだったのを覚えている。でも順位を落とさずに僕は役目を終えた。実に誇らしい気分だった。
でも李花ちゃんは僕がバトンを渡した次の走者に目が釘付けだった。次の走者はサッカー部の部長だった。なんでも地元のスポーツ校から推薦が来ているほどの実力者だったらしい。
俺のことなんか毛にも止めなかったようだ。
僕は正直きつかった。
これほどまで、人間が生まれながらにして格差があるのかと、序列があるのかと、そう思った日は無かった。
これも両親に耳が腐る程言われてきたことだ。
この世界に存在する人間は皆平等なんだよ、みんな同じ才能を持ってみんな同じ重さの命を授かって生まれてくるんだ。
勉強ができる、スポーツができる、お金持ちである、そんなことで不平等を感じるかもしれないがとんでもない。みんな一緒だ。
自分が苦しい時は相手も苦しい。自分が惨めな時は相手も惨めだ、わかるかい。
もし他人様が特別良い境遇に立っていると思ったらそれはお前の心が汚れているんだ。
だからこの世界はみんな平等なんだよ、いいかい良介?
それが両親の口癖だった。

何が平等だ!
この無様な俺の姿を見てもそんなことが言えるのか!?

俺は転んだ。走り慣れていないせいで足がついてこなかった。途中のアスファルトのちょっとした段差で転んでしまった。
雨が降り始めている。全身が雨で汚れた。
口の中にも泥水が入った。ひどく苦い。
俺は直ぐに立ち上がった。言うことのきかない両足に鞭を打ってすぐに走り出した。

世の中が不公平なのは直ぐに悟った。
勉強をしなくてもテストで百点を取るやつ。
特に運動をするわけでもなくスポーツ万能なやつ。
先生の前だけ良い顔して褒められるやつ。
そんなヤツばっかりだ。
毎日、担任の先生に言われるように愚直に2時間の自主勉強をしてもテストは中の下くらいな俺。
毎日6時前に起きて3kmランニングしても持久走は後ろから数えたほうが早い順位な俺。
掃除は一言も喋らずにせっせとごみをとっても、いざ先生が来る時間帯になると汗かき役をかって出てきた奴に手柄を取られる俺。
全部不公平じゃないか。
あのサッカー部のやつだってそうさ。
あのサッカー部の部長が放課後、プール脇でタバコを吹かしているのを見たこともある。街で知らない女の子と一緒に楽しそうに歩いているのも見たことがある。
くそ!
何故だ何故だ何故だ!
何故、俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!?
どんなことをしても他人に評価される奴もいるし、
どんなに頑張っていても何も評価されない奴もいる。
どうして俺がその後者なんだ。なぜあのサッカー部が前者なのだ。なぜこんな不公平がまかり通るんだ。
いつだってそうだ。何で俺だけが貧乏くじを引くんだ。

気がついた時は頬が冷たかった。

今回の借金だってそうだ。
友人なんかいくらでもいるじゃないか。
それなのに、何で俺なんだ。
ちくしょう・・・


どれくらい逃げただろうか。
俺は足を止めた。
正直、これが限界だった。心臓と肺が破裂しそうだった。喉の奥からは血の味がする。もうこれ以上走れない。
ゆっくりと背後を見る。奴は追ってこない。当然だ、あいつも俺を捕まえようとしているわけではなかった。
そのままその場に腰を落とした。
雨は先ほどよりも強くなっていた。気がつけば髪の毛がびしょびしょだ。路面のアスファルトには大小様々な水溜りができている。
尻が濡れる。知ったことではない。
両膝を抱きかかえるように縮こまった。どうしよう。それが真っ先に思い浮かんだ。
仕事も家族も失った。真っ当に働いては返せない借金を背負った。残っているものは何もない。残っているのは残酷な死だけ。
どういたら良い。これから。

死ぬのはやだ。改めて知った。自分は死にたくはない、死ぬのが怖い。
生きたい、生きるしかない。
じゃあ生きるためにはどうしたら良い、何が必要だ。

金が欲しい。
そう、金だ。
生活するにしても。
新しい家族を見つけるにしても、そしてあいつらから離れるためにも、金が必要だ。それもはした金ではダメだ。
まとまった金がいる。ではその金をどうやって手に入れる。
何かギャンブル、いや無理だ。そんな博打の才能はない。さらに大きな借金を背負って終わりだ。そもそも元手の金がない。
では銀行強盗・・・、それも無理だ。自分ひとりしかいないし銀行に乗り込んだところで警備員に取り押さえられて終わりだ。下手したら銃で撃たれる危険性も。痛いのはごめんだ。
かと言って真面目に働いて返せるものじゃない。だいたい仕事がない。
じゃあどうすれば・・・・・・。

そんなあいだもに雨は容赦なく振り続ける。空の曇天が闇夜のせいでさらに黒くなっていく。
あぁ、自分はこれからどうしたら良い。
またあの借金取りから逃げるように小ぢんまりとした毎日を送らなくてはいけないのか。
ふと顔を上げる。寂れた町外れの街道だ。通行人など誰もいない。ただお情け程度に切れかかった街灯が点灯しているだけ。
周りのビルも表面のコンクリの部分が剥げ、内部の鉄筋の部分まで見えている建物が多い。明かりのついている建物などほんの数件だ。
そんな時、視界に動くものが映った。
人間だ。
身長130cmほどの子どもだ。小学生であることは間違いない。3年生か、おそらく4年生程度。ブラックのパーカーに迷彩色のハーフパンツ、背中に緑色のリュックを背負い大型のイヤホンをしている。片手に携帯を握って意識はそれに集中している。
僕は周りをもう一度見回した。
やはり誰もいない。
僕はゆっくりと腰を上げた。そして歩をゆっくりと進める。その通りかかりの子どもに対して。
ギャンブルの一発逆転もダメ、銀行強盗もダメ、真面目に働くのもダメ、ならば手は一つしかない。

「誘拐」だ。

少し歩くのを早める。
目の前の子どもとの距離はどんどん縮まってく。しかし奴は全く気づく気配がない。イヤホンと、鬱陶しい雨音のお陰で1mのところまで近づいても気づかれなかった。
子供が気づいて背後を振り返ったとき、僕は奴の口を抑えていた。


*  *  *


とある雑居ビルに逃げ込んでいた。
俺は部屋の隅で三角座りをしながら今自分がしでかしてしまった事を悔いていた。
いくら追い詰めていたとは言え、いくら気が動転していたとは言え、やって良いことと悪いことの区別くらいついたはずだ。なのに、あの時自分は何をしでかしてしまったのか。
あろう事か、道を歩いていた子供を引っ捕えて、それも誘拐してしまうとは。
しでかしてしまったことはしょうがないとは言え、全くなんてことをしでかしたんだ自分は。
そんな次々と湧き上がる後悔の念で暗澹たる精神だった。
子どもを捕まえた場所から30mほどの場所に、明らかに今は使われていない雑居ビルを見つけた。その三階に子供を無理やり捕まえて引っ張ってきた。
全部で4階建ての鉄筋コンクリートの建物で、至るところにひび割が見える。途中の階段の照明もほとんどが切れていた。
部屋の中も部屋の中だ。ろくに整理されていない70㎡程度の小さな空間だ。中学校の教室並みの広さと思って差し支えない。
そこには事務用デスクと椅子が乱雑に並べてあるだけだった。
確かにこんな場所なら人目にもつかないだろう。
いつまでもこんな子どもと生活を共にするわけには行かない。時間の問題だ。いずれバレる。
これで僕も晴れて犯罪者、前科持ちか。ほんの僅かあった普通の生活に戻る可能性もゼロになったって訳か。これからどうしよう。
そんなことに想いを巡らせていたときだ。

「ねぇおじさん」

目の前から声がした。顔を上げる。こんな場所から自分以外の声が聞こえるとすれば・・・

「ねぇおじさん、僕をどうするつもり?」

目の前の子どもだった。

両足を投げ出し、不服そうにこちらを見ている。
俺も、あぁ、と呟いたが実際これからどうしたら良いかという計画も何もない。何しろ突発的に行ったことなのだから。

「そうだな・・・、どうしよう。どうしたら良い?」

「なんで僕に聞くの?」

うんざりといった表情だった。そしてこれ以上会話しても無駄だろうと判断したのか、彼は持っていた携帯でまた遊び始めた。
でも実際そうなのだ。今彼に言われたとおり、誘拐したは良いものの、では次に何をすればよいか全くわからないのだ。誘拐と言うものを一度も経験したことがないから当然といえば当然なのかもしれない。
えっと、まずやるべきことは・・・。

「ねぇ」

「うん?」

「どうでも良いけどさ。僕はこの場所で大人しくしてるけど良いの?」

そう言うと彼は自分の座っている場所を指差した。
最初その意味がわからなかった。

「僕がドアに近い場所に座ってるんだけど。簡単に逃げちゃうよ」

そう言われてようやく俺は気がついた。
彼がいる場所は部屋のドアのある真正面、一方自分は部屋の奥角、どう見ても子どもが逃げ易い位置だった。それに見てみると彼は片手に携帯電話を所持している。
うっかりしていた。外部との連絡ツールをチェックしないままだった。
俺は急いで立ち上がった。おぼつかない足取りで彼に近づく。シャツの首根っこでも掴んで無理やり移動させようと思った、しかしだ。
彼はそんなことを待つまでもなく、自分で立ち上がり、自分で携帯をカバンにしまい、自分で部屋の奥へと移動していった。俺はそれをただ呆然と眺めていた。
彼は投げ捨てられている椅子を手に取り、埃を払って座った。

「オジさん、誘拐初めてでしょ?」

椅子の背もたれに深く腰掛けた彼からの言葉だった。何処か俺を見下した言い方だった。

「それがどうした」

「いや、別に」

そう言うと足を椅子に全て乗せて、そのまま回転し始めた。なんとも緊張感のない少年である。そう思った。

「怖くないのか?」

「何が? この誘拐がってこと?」

「一応誘拐されてるんだぞ君は。ちょっとは怖がったらどうだ」

「おじさんに? 僕が? 冗談」

その言葉に多少なりともむっとしたことは事実だ。しかしその言葉の通りだ。
もし自分がこんな状況で誘拐されたとしても、おそらく同じ言葉を吐くだろう。
明らかに草臥れた中年、息も絶え絶えのオヤジ、そして誘拐したは良いけど部屋の隅っこで丸まっている男、そんなものを見て恐怖を抱く人間はおそらくいまい。
それより俺は自分のことを考えた。これからどうする。ただその一言だった。
俺は子どもを一人誘拐した。これは抗うことのできない犯罪だ。例え身代金を要求しようがしまいが、これは立派な犯罪だ。
どうする。
いや、どうするでもない。これはこれで良いのかもしれない。仕事も家族も財産も何もかも奪われた。そんな俺に残っているものなど何もない。
ここで俺が捕まっても誰も悲しむ者はいないし、そもそも気にかけてくれる人間すらいない。ならこのまま逮捕されても良いか。それが一番平和だ。
もっとも自分に誘拐なんて柄でもない。
・・・しかし、しかしだ。それは両親にただいなる迷惑をかけることになる。俺は東北の青森出身だ。とんだ片田舎から上京して今に至る。あの時は大きな野心を抱いていた。
自分で会社を持ち、いずれは上場一部を目指す。大丈夫ビジョンはある。きっと成功する。その一生を片田舎で暮らすなんて俺にはもったいない
そう思った日が確かにあった。両親の反対も押し切った。せめて大学は東京の大学に進学したい、名前なんてどうでも良い、とにかく東京だ。
当時俺はそれで頭がいっぱいだった。両親は地元に残って村役場でも勤めてくれれば御の字だったのだろう。でも俺は反発した。
結局俺は無名の私立大学に進学した。
東京といっても本当に郊外の大学だった。親にも仕送り面で多大なる迷惑をかけた。
それでも大学卒業後のことを考えればまだ明るかった。
しかしどうだろう。世界的な大不況とともに俺の計画は無残にも崩れ去った。
会社を興すどころかどこかの会社に就職することすら危うかった。ましてや誰も聞いたことがないような東京の郊外の無名大学、どこも相手をしてくれなかった。
ようやく見つけたトラックの運送会社、しかしそこも決して良い職場環境とは言えなかった。
経営者が労働基準法という存在すら知らなかったような環境だった。一日18時間労働は普通だった。朝の6時前には会社に出勤し、解放されるのはいつも日を跨いだ。
それでもいつか見た夢を忘れたわけではなかった。いつの日か自分の会社を持ち、自分が経営者になり日本を支える起業家として大成するんだ。そう信じていた、いや信じたかった。
でもやはり現実だ。その精魂詰めた会社の贈収賄が発覚した。原因は重役たちだった。しかしついにそれがばれ、刑事罰の対象となった。
また出資者の信用も失い、あれよあれよと言う間に経営は傾き、ついには倒産という運びになった。当然社員に支払われる退職金など無いに等しい。むしろ貰えただけまだ良心的だったのかもしれない。
俺は路頭に放り投げだされた。年齢も40と再就職も難しい。手元に残った退職金だけでは会社を興すこともできない。両親は既に70を超え頼るわけにももちろんいない。
ここで我が息子が誘拐犯で逮捕されたとなると、まず地元の村で生きてはいけない。犯罪者の親ということで村八分にあうことは必至。
それだけは絶対に嫌だ。
少なくとも俺を高校まで貧しいながらも育ててくれた両親。
大学進学の時も、最後の最後で上京に首を縦に振ってくれたのも、俺のことを思ってくれた、そして信じてくれたからこそ。そんな両親の顔に泥を塗らない、塗りたくない。
じゃあどうする。ここにきて八方塞がりだ
俺はどうしたら良いんだい、おっかぁ。大学卒業以来実家に顔は出していない。そんな昔の両親を思い出しながら思考回路を巡らしていた時だ。

「おじさん、本当に誘拐する気あるの?」

目の前の子どもからだった。相変わらず椅子に座りながら回っている。のんきな声だった。しかしその目は確かにこちらを向いていた。

「・・・ど、どう言う意味だ」

「いやね、おじさん、本当に誘拐する気あるのかなって、そう思っただけ」

彼は持っていた携帯電話をこちらに投げてきた。
急なことだったのでびっくりしたが、ちゃんとキャッチできた。

「良いよ。ついでだからさ、僕を誘拐してよ」


*  *  *


耳を疑った。
意味が分からなかった。
『僕を誘拐してよ?』
どう言う意味だ。俺は問いただした。

「お前、何言ってんだ」

「お前じゃないよ。一応、『夏樹』って名前があるんだ」

「夏樹か。歳は?」

「10歳。どう言う意味って、そのまんまだよ。僕を誘拐してよ、抵抗しないしさ」

目をまん丸と見開いて目の前の小学生にピントを合わせた。
こいつは今、何と言った。『誘拐して』と言ったか?
一体何を考えているんだ、どこに自分自ら誘拐されることを励奨する馬鹿がいる。
コイツは何を考えている。「誘拐してくれ」なんて言ってこちらを動揺させるつもりか、それともただからかっているだけなのか、そもそも現代の子どもの考えていることはわからない。
ピンとの先にいる子供は、にやっと笑ってみせた。

「別に冗談じゃないよ、誘拐して欲しいのは本当さ。このまま家に帰るつもりもないし」

彼は背負っていたカバンを無造作に床に投げた。
カバンの中からは教科書やらノートやら携帯ゲーム機やら沢山の搭載物が流れ出した。

「家に帰りたくないんだ。帰ったってつまんないし。ってかむかつくんだよ」

「・・・、むかつくって誰のことだい。まさかご両親か」

「決まってるじゃん。腹が立つんだよ、あいつらのやることなすこと。だから僕はここから帰るつもりはない。親を困らせてやりたいんだよ。だからおじさん、僕を拐ってよ」

『親を困らせてやりたい』
その言葉を聞いたとき、頭に血が上った。

「何言ってんだ君は!」

無意識の罵声だった。彼も突然のことに驚いたようだった。

「君は今、っ自分で何を言ったのか分かっているのか。バカも休み休みにしろ。君を生むのに腹を痛めたのは誰だ、君がここまで育つのに毎日毎日働いて飯を食わせくれているのは誰だ。それを考えたことはあるのか!」

「え、おじさん、ちょっと・・・」

「両親を困らせてやりたい?ふざけるな。確かに君の年代は思春期で親に対する反抗期を迎えるかもしれない。でも、だからと言って何をしても許されるわけじゃないんだぞ。君の帰りを今や遅しと思ってこの世界で一番心配しているのは誰だ。両親以外にありえないだろ」

自分の言葉のあとに静寂が訪れた。ガラスを叩く雨音だけがコンクリートの室内に木霊した。
当の少年も目をパチクリとさせながらこちらへの視線を外さない。

「・・・・・・まさか、誘拐犯に親の大切さを説かれるとは思ってなかったよ」

ここで俺の冷静になった。確かにそうだ。俺は何をしているんだ。俺は今、子どもを一人誘拐して、その親のありがたみを一切理解していない子どもに感情を爆発させた。
大人としてあるまじき、恥ずべき行為だった。

「・・・失礼。とにかく、君は今誘拐されているんだ。もしかしたら一生このまま家に帰れないかもしれないんだぞ。それを分かってるのか」

「正直、まだあんまり実感ないね。そもそも僕が誘拐されているって自覚もあんまりないしね。おじさんこれからどうするの?」

「ん、どうするのって・・・」

そう言われて言葉に困窮する。子どもに言われてはっとしたが、これからどうしよう。まず何からしたら良いんだ?
人質は誘拐したから、あとは身代金の要求だな。身代金の要求か、じゃあ身代金の要求ってどうしたら良いんだ?
手紙か?
郵便局でハガキを買ってポストに投函?
でもこの時間は郵便局は閉まってるぞ?
じゃあ明日の朝までこのまま?
それは困る。
なら変装してコイツの家まで行くか?
いや、お前はバカか。一発でお縄頂戴だ。
やっぱり電話か。電話で声を変えて身代金を要求するのが一番妥当か。でも今の俺は携帯電話は愚か家の固定電話も料金滞納で止められている。
じゃあどうしたら良いんだろう?
頭の中で自分に対して反駁を繰り返す。

遠くで見ていた少年はそんな自分を見ていたのだろう、深い溜息を漏らした。

「ねぇ。まさか次何をすべきか悩んでいるわけじゃないよね」

言葉に詰まった。まさか心の中を見透かしているのか。そうとしか思えないタイミングで少年の言葉が胸を刺殺した。

「おじさんさ、誘拐が初めてかもしれないけど計画性無さすぎ。いくらなんでも次の段取りも考えないで僕を誘拐したわけ?」

「悪いか」

それが精一杯の言葉だった。

「悪いもなにも問題外でしょ。良い? まずは人質を確保したら次は身代金の要求、最後に人質の解放。簡単に言えばその3つのステップしか無いの。分かる?」

「え、あぁ」

「まずは身代金の要求。これは文章で相手に知らせる」

「電話じゃダメなのか」

「電話は逆探知されてすぐ身元がバレる」

「そんな長い時間喋らなければ大丈夫だろ」

「おじさんいつの時代の人? あのね、それは昔の全て手動でやっていた頃のお話。今はほんの数秒で発信源が特定されるよ。論外。ま、文章で送るのが一番無難かな。おじさんいくら欲しいの?」

「ん、お金か、お金はだな・・・」

1分悩んだ
2分悩んだ
そう言えば俺はいくら欲しいんだろう。って言うかいくら借金があるんだろう。
ポケットに入っていた督促状を見た。2000万円だ。あぁ違う。利息で2950万円手になったんだっけ。2950万円必要ってことか。でもそれだけの額を手に入れたとしてもそれは現在の借金が消えるだけで、手元に現金が入るわけではなくなる。それではまた別の借金をしなくてはいけない。
ではいくら身代金を用意すれば良いのだろう

「さ、3000万くらい、かな・・」

「3000万ねぇ」

明らかに奴はがっかりした表情を浮かべた。コイツに何がわかる。3000万稼ぐのがどれだけたいへんか。

「まぁ、そのくらいなら楽勝だよ。うちの親なら十分用意できるよ」

「3000万円だぞ、君の家の人は何をしてる人だ?」

「経営者だよ経営者。ちょっと小さな医療機器の会社をやってんだ。その気になれば1億や2億は用意できるんじゃん?」

胃の内容物が逆流しそうだった。
1億や2億を簡単に用意できる?
そんな人間がこんな近くに実在するとは。
10万20万稼ぐのに毎月の残業が50時間を軽く越えると言うのに、かたや会社の経営者で判子を押すだけで数千万と言う大金を右から左に流すことができる。
不公平だ。不平等だ。
あぁしかし、今はそんなことはどうでも良い。これなら3000万等大金が簡単に懐に。
そう思ったところで己の自制心が声を出した。
何を言ってるんだ、誘拐なんて代物がそう簡単に行くか。
第一、誘拐してこれから何をするかも分からない人間がそう首尾一貫万事失敗なくことを進めることができるだろうか。
自分は自慢ではないが物事を最後まで完璧にこなしてきたことはただの一度もない。
必ず何処かで思いもしなかったポカをしでかす。それも致命的な大ポカだ。
今回は今までの比ではない。必ず何処かで何かをしでかす。身代金だって簡単に受け取れるかどうか。

「じゃあいっそのこと、3000万と言わずにもっと要求しよう。1億とか2億とか、3億とか」

3億

その響きに心臓が大きく跳ねた。
自分のような最下民層の人間が一生かかっても、おそらく来世を使っても手に入れることはもちろん使い切ることもできない、途方もない金。
目の前に浮かぶ札束の壁。
それが誘拐の身代金という、法の外の方法を使って手に入れたものだとしてもその魔力に一瞬言葉を失う。

「良いよ。どうせ僕のお金じゃないし。また親が何とかして稼ぐよ。良い気味だ・・・」

そう言った少年の視線が俺の視線と交差した。一瞬どもり口を閉じた。
おそらくまた俺に怒鳴られると思ったのだろう。
しかし俺にはどうでも良かった。それよりも『3億』と言う単純な響きだけで完全心が泥酔していた。

「・・・おじさん」

不安そうにこちらを見上げる少年。
その彼の目を見て少し我に返った。

「・・・そうだな。どうせ誘拐するなら、3000万なんてちっぽけな端金じゃなくて、もっと大きく3億くらい要求してみるか。よし分かった。じゃあ善は急げだ」

「まぁ僕たちがやろうとしている事が、善かどうかは別物だけどね」

「よし。じゃあまずは」

そういってこの寂れた廃部屋の中を探り始めた。脅迫文を作成するのに紙とペンが必要だ。こんなところでもそのくらいはあるだろう。

「・・・なにしようとしてるの?」

「決まってるだろ、紙とペンを用意して脅迫文を作るんだよ。お前が言ったんだろ」

「え、まさか直筆で脅迫文書くつもりじゃないよね? やめてよ。そんなことしたら、それこそこっちが誰か警察に教えるようなもんじゃん」

「俺は警察に捕まったことも無いぞ。指紋だって取られたことないし、筆跡鑑定もくそも、そもそも俺の字は向こうはわからない・・・」

「まず字のかすれ具合で右利きか左利きかが分かる。また言葉遣いや字の書き方で年齢も分かる。警察にそんな情報を与えれば遅かれ早かれここにたどり着く。誘拐に加担する以上は僕も捕まりたくはないからね」

「お前が文章を考えて、俺が書けば良いじゃ・・・」

「そんなことしたら誘拐犯と被害者がつるんでいるってことも筒抜けでしょ。もうちょっと思考回路働かせてよ」

「だったらどうやって書くっていうんだ。ここにはパソコンも無いぞ」

「頭使いなって。手で書けないなら、元から書いてあるものを使えば良い。週刊誌を買ってきて。それもありったけ」

「週刊誌? 何に使うんだ、そんなもん」

「週刊誌に書かれている文字を1つ1つ切り貼りして脅迫文を作る。そうすればこっちの情報を相手に与えないですむ」

「そうか、なるほど。そう言えばテレビドラマか何かで見たことがある・・・。じゃあそれをお前の家の郵便受けに入れればいいんだな?」

「違う! もしかしたら家では僕が帰ってきていないことを不審に思って親がまだ起きてるかもしれない。そこにのこのこ手紙を持っていったら一発だ」

「なら脅迫文を届けられないじゃないか」

「そうなんだ。問題はそこだ。いったいどうやって脅迫文を家に届けるか。・・・・・・よし。他の誰かに持っていってもらおう」

「宅急便でも頼むのか?」

「アホか。僕たちがわざわざ直接届ける必要は無い。誰か、例えばお金に困っている大学生とかを利用する。その人物に脅迫状の郵送を頼む」

「なるほど。つまりメッセンジャーを立てるってことだな。じゃあ今すべきことは大量の週刊誌を買ってくることか。夏樹って言ったな、お前買ってくるか?」

「って何で人質の僕が買ってくるんだよ。お前が行けよ」

「何で誘拐された人間がコンビニに行かなきゃいけないんだ!!」

第2章 11月24日 07:25ごろ

「いつまで寝てるんだ、おい!」

その罵声とともに、横になっていた椅子もろとも蹴飛ばされた。
椅子は激しく宙を舞い、おかげで自分は床に叩きつけられた。ようやくそこで意識がはっきりした。
連日の仕事がたたって、小会議室のパイプ椅子を並べてそこで仮眠をとっていたことを思い出す。

「す、すいません」

「ったく、いいかげんにしろよな」

床に這いつくばっている状態の僕を見下ろすのは、僕の先輩の清里権三だ。一里塚警察署の捜査二課に所属する、所謂主任だった。
じゃあ自分は誰かって。
自分はその清里さんの下で働く、捜査二課に所属する樹村悟って言う。肩書きは巡査。
S*県の華やかな街中を大きく離れ、小さな町の小さな警察署だった。
古本屋で万引きがあったってだけで街中が上を下への大騒ぎをする街だった
そこで僕は捜査二課の一員として働いていた。
通常、捜査一家はテレビドラマでも出てくるのでご存知の方も多いだろう。主に殺人を扱う部署である。
一方、捜査二課は誘拐を主に扱う部署である。
しかしこんな辺鄙な警察署の管轄で、誘拐事件がそうそう起こることもなかった。だから平日は主に事務処理に携わっていた。
署内中の事務処理を終えてようや横になっ・・・もとい、ほっとひといき着いた時だった。

「すぐに準備しろ。仕事だ」

その言葉に一瞬でスイッチが入った。
主任の「仕事」という言葉は、即ち誘拐が起きた時にしか使わない。つまり今回は正真正銘の誘拐事件が起きたのだった。
胸が弾む。
こういう表現をするのは、非常に不謹慎かもしれない。
でもこの一里塚署に配属になってから、誘拐事件なんて殆どなかった。
中学生の家出事件や、あっても他県の誘拐事件の手伝いしかなかった。確かにそれも捜査二課の仕事かもしれない。
しかし仕事内容は聞き込みや、そこで入ってくる情報の処理くらい。とても血沸き肉踊る事件の解明に一役買うなんて仕事ではなかった。
以前に一度、清里主任に言ったことがあった。

「もっと大きな事件が起こりませんかねぇ・・・」

すると清里主任は、じっとこちらの眼を見て、

「刑事が他人の不幸を望むんじゃねえ」

と一言一喝された。それ以来、僕はそう言った類の言葉を発していない。
そんな矢先の事件だった。否応なしに僕のテンションは上がった。
取り敢えず椅子に掛けてあったヨレヨレのコートを乱暴に拾い上げると、主任の後を追った。

「それで状況は?」

「通報してきたのはF*市在住の『阪本秋春』38歳。誘拐されたのは阪本秋春氏の息子だ。昨日夜、塾に行った息子が帰ってこなかった。心配して捜索願を出していた」

長い廊下の窓からまだ朝日がサンサンと輝くのが眩しい。左腕の時計を確認する。現在時刻午前7時25分。
なるほど、ついさっき連絡があったんだな。首元の緩んだネクタイを締めなおす。

「で、これから何処へ」

「決まってる。直接阪本宅に行ってみる。お前が車を運転しろ」

「え、でも。警察が直接行って大丈夫なんですか?」

「うむ、正確に言うとだなまだ誘拐と決まったわけじゃないんだ。誘拐事件としての被害届も出てない。もちろん、だからと言って大勢を連れて行くわけにもいかん。まずは家に行って詳細を聞く。話はそれからだ」

誘拐事件じゃないのか。少なからず落胆してしまった自分がいる。

「とは言え、嬢児湯から考えると誘拐事件に発展する可能性は充分に考えられる。だからこそ先手でこっちが動くんだ」

主任の眼光が一層鋭くなった。いつも事務仕事をする時には見せない表情だった。

「あぁ、そうだ。ついでに『あいつ』も連れてきてくれ。一応課長のお達しだからな」


*  *  *

旧式のブルーバードに乗り込んだ。社会人になって記念にと叔父がくれたものだった。とは言え、新型の車をわざわざ買ってくれる訳もなく、ふた昔前のオンボロのブルーバードだった。
それでも当時の自分は嬉しかった。もらった次の日から警察学校入校式の朝まで飽きずに乗り回していた。
そのブルーバードの運転席に自分が、助手席に主任を乗せた。
アクセルを踏み込み、一里塚警察署を出発する。

「詳しい内容を教えておくぞ。メモは渡さんから全部頭に入れろ」

「はい」

「被害者は、F*市在住の阪本秋春氏38歳と、妻の千咲冬さん36歳の夫妻。誘拐されたのはその小学5年生になる息子だ。夫婦で会社を経営している。会社の名前は『SAメディカルギア株式会社』、医療機器の部品生産および研究を行っている会社だ。従業員は2人を含めて25人、妻の千咲冬は経理を担当している。
もともと夫の秋春は医療機器の販売・研究を行っている会社に勤めていた。そこで妻の千咲冬さんと出会い12年前に結婚、それを機に退職し10年前に新しい会社を興して今に至ると言う訳だ。
ちなみにその当時勤めていた会社は東京にある『KSメディカルエンジニアリング』と言う。数年前に事実上倒産したがね。何でも設立者であり経営者の木島ってやつが逮捕されてそのまま崩れたって事件だ。
まぁこれに関しては本庁の方が主導権を握って捜査していたから俺もわからん。話が脱線したな、戻すぞ。
資料を見る限り、『SAメディカルギア株式会社』はこの不況の中でも経営状態はさほど悪くない。特に医療機器の研究に力を入れているらしく、その技術が評価され取引先を増やしているそうだ。もしかしたら犯人は恐らくそんな阪本氏に目を付け、小学生の息子を誘拐したのかもしれん」

「でもまだ誘拐事件と正式に決まった訳ではないんですよね?」

「まだだ。ただ状況から考えると誘拐と見てまず間違いない。よし肝心の息子の話に移るぞ」

「その息子の当日の動きはどうだったんですか?」

「それなんだが。まず息子は塾に通っていたそうだ。毎日2つの塾を掛け持ちしていたそうだ。学校が終わったあと、午後6時から午後8時30分までと、午後9時30分から11時まで。確か小学校5年生だ。11歳の子どもにこんなことまでするかね。
とにかく彼はいつもどおり2つの塾を掛け持ちし、いつもどおり家に帰ろうとした。しかしそこで何者かに連れ去られてしまった、と言う訳だ。
そして両親はおかしいと思う。いくら塾で遅くなるといってもこれほど遅くなるなんて。阪本夫妻は連絡の取れない息子の安否を危惧して警察に捜索願の届出を出した。ただ失踪しただけ、たまの気分で友人の家に遊びに行くといったことでも良い、息子が無事なら。両親はそう考えていた。しかし実際は違った。翌朝、息子は帰ってこないばかり。さぁ樹村、お前はここまで聞いてどう思う?」

「え、どうと言われても・・・」

ちょうど信号待ちしていた時だ。主任にどうだと言われても直ぐに言葉が出てこなかった。
助手席に座っている主任も呆れているだろう。見なくてもわかった。

「子どもの身に重大な何かが起こったのはまず間違いない。恐らくそれは誘拐だ、それも計画誘拐だ。犯人は金に困っていた。そこでお金を持っていそうな優良企業の会社経営者の息子を誘拐した。その子どもが何時に何処で何をしているかも調べ上げた。でなくてはこうもいとも簡単に誘拐なんてできん。犯人は計画的犯行の後、身代金をせしめる気だ。どうだ」

「・・・」

「良いか。事件の概要を聞いたらここまで頭を働かせろ。発見と警察の初動を遅らせるために通達を遅らせる犯人もいる。そして今回はそれに当てはまると考えている。身代金目的か、怨恨か、理由は分からんが役目が終わったら息子は用済みだ、すぐに消される。これは時間との勝負だ。良いかお前も口に出す必要はないが、そのくらいの腹積もりで被害者と接してくれよ。」

「分かりました」

自分は口を横一文字に結んだ。
―――すぐに消される。
主任のその言葉がひどく心に刺さった。
今回の事件に巻き込まれた一人の子どもが殺される。その事実に今一度全身が粟立つ。
改めてこれが誘拐事件であり、そして自分はその誘拐を扱う捜査二課の刑事であることを実感した。
なんとしてでも彼を助けなければ。

「お、ちょうどその横が阪本家だ。車を脇に寄せてくれ。おい、着いたぞ、良い加減に起きないか!」

最後の言葉は自分に向けて発せられた言葉ではない。自分のブルーバードの後部座席に座っている『あいつ』に向かって発せられた言葉だ。
『あいつ』はゆっくりとその体躯を起こした。ブルーバードに乗って今の今まで爆睡していた。

「仕事だ、起きろ桐星」

取り敢えず申し訳程度の俺も声をかける。しわくちゃのスーツに寝癖だらけの髪の毛。全身が針金細工のような細身の彼の名は『桐星仁真』と言った。


阪本家の自宅の駐車場には2台の自家用車と1台分の駐車スペースがあった。
トヨタのレクサスにぶつけないように細心の注意を払いながらバックで停めた。
ブルーバードから降り、阪本家の家を眺める。閑静な住宅街の一軒家だった。決して豪奢ではないが白を基調とした落ち着きの感じられる二階建ての家だった。小さいながら庭もあり手入れの行き届いているラベンダ-の苗が顔をのぞかせる。門に郵便受けもありそこには「阪本」としっかり刻印してある。F*市のこの一頭地に38歳でここまでの家を建てられるとは、金に困った誘拐犯の良いターゲットだ。
主任が先頭になり、玄関付随のインターホンのボタンを押す。
チャイムが鳴ったあと、2拍くらいおいて返事があった

「・・・・・・はい、どちら様ですか」

ひどく憔悴しきった女性の声だった。これが阪本千咲冬だとすぐに分かった。

「一里塚署捜査二課のものです」

「あぁ。中へどうぞ」

その言葉で自分たちは家の中に入った。門をくぐるとき、改めて周囲を見渡す。現在時刻7時59分。天気が良くいつもの朝といった感じだ。閑静な高級住宅街と言うだけあって出勤するサラリーマンの姿はあまり見られない。
周りはいつものように朝を迎え、いつものように暮らしているだけだ。この家の雰囲気だけが外界から隔離されているようだった。


リビングに通された。壁や日用品も白で統一されていた。中央にテーブルが置かれていて向こう側に一人がけのソファが2脚並んでいた。片方には男性が座っていた。我々が入ってきたのに気づき顔を上げてみたがひどく窶れている。
この人が阪本秋春氏のようだ。彼は、「どうぞ」とソファの反対側に置かれた椅子に促す。

阪本秋春。主任の話では結婚を機にそれまで勤めていた会社を辞め、新しく会社を起こした。現在はその代表取締役。年齢は38歳と聞いているが、実際はもっと若く見える。頭髪に多少白髪はあるがアゴのラインが鋭く、またシャープな黒縁メガネもあって、かなりインテリジェンスな雰囲気を醸し出す。どこか大学の若手准教授を想像させた。しかしよく見ると目の下が窪んでおりうっすらクマが見える。昨日から寝ていたいのだろう。
そしてその横のお茶を用意している女性に目を配る。
阪本千咲冬。阪本秋春の細君。こちらも主任の話では36歳と言う話だがこれまたさらに若く見える。スーツを着こなせば美人秘書を思わせる身体だった。ロングヘアが肩までかかっており、正に漆を流したかのような黒色の髪が印象的だった。こちらもメガネをかけており銀縁のメタリックフレームの向こうに見える双眸はキタキツネを思わせるようなキレのある目は芯の強さを感じさせた。しかし今はその目は赤く充血していた。
自分がそんな人物観察をしていると、横の主任が早速話をはじめる。

「初めまして、私が一里塚署捜査二課主任の清里と申します」

「同じく捜査二課の樹村です」

主任が挨拶したのに合わせてこちらも簡単な自己紹介を行って頭を下げた。そして続けて隣に座っている桐星も挨拶をするだろうと思っていた・・・、がしかし、一向に自分の隣に座っている桐星は反応しない。
横目で見てみると当のあいつは阪本夫妻のことはお構いなしに、部屋の中にあるものにきょろきょろと視線を移していた。
部屋の調度品から壁にかかっている写真から至るものを確認しているようだった。

(おい・・・)

桐星の脇腹を肘で小突く。するとやつもようやく我に返ったのか、「あ、桐星と言います」とだけ発し、また部屋の中のありとあらゆるものに視線を巡らせた。
俺がすかさずフォローを入れる。

「はは、すいません。あいつは『桐星仁真』と言いまして、捜査一課の人間なんです」

「捜査一課、ですか・・・」

秋春氏が不思議そうに言うが、返答はそれで終わった。今は捜査一課だろうが捜査二課だろうがどうでも良いだろう。まずは誘拐された息子のことが気がかりでならないはずだ。
自分も余計なことは言わずにその場をやり過ごす。

捜査二課、通常は誘拐を主に扱い部署であるが、実際に誘拐が起こった場合、主に殺人事件等を扱う捜査一課の人間も同時に動く。
何故か。理由は簡単である。誘拐に殺人は付き物だからだ。誘拐された人質がそのまま無事に帰ってこない場合がある、いやその可能性は充分に高いのだ。そうなると誘拐事件が殺人事件に切り替わることになる。そういった場面も想定で捜査二課が動くときは捜査一課も同時に動くのだ。そこでこいつである。
桐星仁真
自分と同期、同年代で一里塚署に配属になった男。自分は捜査二課に、桐星は捜査一課に配属となった。彼の捜査一課での評判はというと最悪である。基本的に職務中にもかかわらず寝息を立ててしまう始末である。まだまだ若手に属する我々の世代は、先輩以上に動き働かなくてはいけないのだ。
事件が起こったときの初動捜査、周囲の聞き込み、書類作成や、それに伴った手続きなど一般的な事務作業は若手の仕事なのだ。なのにこいつときたらその殆どを放棄している。
捜査一課と捜査二課の部署が隣同士だから知っているが、桐星が配属された当初、それはそれは罵声が毎回のように飛び交っていた。それらの殆どが言うまでもなく桐星に対する罵声だった。
「聞き込みは終わったのか!」、「書類は出来たのか!」、「また寝てたのか!」
他人事とは言え、自分の胃に穴が開きそうなくらいに、それはそれは散々たるものだった。しかし当の本人はいたって平穏だった。
先輩に言われてもどこ吹く風、常に生返事ばかりで己の行動を更生しようとする素振りは一切見られなかった。
時間にもルーズらしく始業時間の30秒前まで一里塚署に姿を見せなかったこともある。
ただ退勤時間に関してもルーズであるらしく残業自体は何とかこなしていたらしい。
それから暫くして、隣の部署から聞こえる罵声は少なくなっていった。それは彼が真面目に働くようになった訳ではない。周りが諦め始めたのだと気づいた。
彼のマイペースさが打ち勝った瞬間だった。
自分としても隣から聞こえてくる、同期に対する罵声の量が減ってようやく心を落ち着けて仕事ができるなと思った矢先だった。
捜査課の課長からお達しがあった。

「桐星仁真君の面倒は君が見てくれ」

と言うものであった。最初意味がわからなかった。課長の言い分はこうだ。桐星君は捜査一課のお荷物だ。いても邪魔なだけだ。だったら形だけの実際は事務処理しかしない捜査二課で一緒に行動させてくれ。君は桐星くんの同期だったね、だったら同期同士力を合わせて職務に専念してくれ、と言うものだった。
正直、真っ平ゴメンだった。確かに自分と桐星は同期かもしれないが実際は喋ったことはほとんどない。何しろ日中の大概はずっと寝ているんだから。今までだってろくに話したことも無い。そんなやつとどうやってコミュニケーションを取れと?
何としても断りたかった。しかし課長は「じゃあ頼んだよ」と行ってそそくさと席を外してしまった。その瞬間から自分は刑事課、いや一里塚署のお荷物を、ただの同期だからという理由だけでお守りをしなくてはいけない羽目になった。

そのお荷物に視線を送る。しかし当のお荷物は今いるリビングだけでなく、隣の部屋まで移動してあれこれ探索し始めた。何を探し始めたかは分からない。視線を家の中のいたるところに飛ばし注意深く観察する。そしてそれに飽きたらまた別のものに注意が飛ぶ。その繰り返しだ。
こんな時に限って眠ったままになってくれない。
もう知らん。勝手にやってろ。自分は心の中でそう吐き捨てて目の前の阪本夫妻の話を聞くことにした。

「ではもう一度、事件の概要についてお聞かせください」

「帰ってこないのは息子です」

そう言うと、秋春氏は写真を一枚手渡した。そこには男の子が一人写っていた。満面の笑みでこちらにピースしている写真だ。スポーツ刈りで元気があり余っている少年と言った感じだ。確かに見てみると、目の角度は母親似だし、顎のラインは父親から譲り受けているのだなと想像できた。なにより近視なのだろう、既に眼鏡も掛けている。
主任は確認するとその写真を両親のもとに返した。
昨夜の話を始めたのは妻の千咲冬氏であった。

「始まりは昨夜です。いつものように塾があるので午後5時15分に家を出たと思います。そして家に帰ってくるのがだいたい午後11時30分過ぎです。私たちも会社があるので家に帰ってくるのはだいたい日を跨いだあとです。そうですね12時30分ごろか、遅くても1時までには帰ってきますね。ですので、いつもは息子が先に帰ってくるんです。でも昨日は違いました。私たちが家に帰ってきても息子は帰ってきていなかったんです。おかしいと思って塾の方に電話してみたんですが、いつもどおり定刻で終わって塾生は皆帰ったと言うんです。夫は何処かで友人と寄り道しているのだろうと気にも留めませんでした。でも私は怖くなって携帯電話に電話したんです」

「息子さんの携帯電話にですか」

「えぇ。あれは12時45分頃です。もしもの時のために最近キッズケータイと言うものを持たせていたんです。でもいくら電話しても『電波の届かない場所にあるためかかりません』とアナウンスが入って連絡がつかなかったんです」

「息子さんは、今までにもこういったことは?」

「ありません。ただの一度も。なので私たちは警察に捜索願を出しました。でもこの時はまだどこかで転んで怪我をして動けなくなったのかな、くらいにしか思っていませんでした」

そう呟くと夫人は再び顔をハンカチに沈めた。
話を聞いておおよその事件の概要は掴めた。誘拐されたのは息子が塾が終わってそのあとの帰り道だ。
身代金目的の誘拐か、あるいは私怨絡みか。
隣の主任が口を開く

「・・・まだ確定ではありませんがこれは誘拐事件の可能性が高いです」

その言葉が重かった。妻の千咲冬の嗚咽が一層強くなったのがわかった。
やはり。毎回そうだ。
誘拐事件という現実を受け入れた瞬間だ。誰だって我が子を誘拐されたなんて現実は信じたくはない。
何処かで何かの間違いでは、ひょっこり帰ってくるのでは、そんなはかない希望を抱いているものだ。
しかし今の主任の言葉でついに現実を受け入れる。
今まで数は少ないが、多かれ少なかれどの被害者もそんな反応だった。
未だに慣れない。
自分は奥歯を噛み締めながら主任の話の続きを聞いた。

「お子さんに持たせたキッズケータイ、こちらは普通のケータイと異なりまして一回電源が切れても一定時間経過すると勝手に電源が入る仕組みになっているはずです。そのキッズケータイがずっと不通のままということは、誰かに意図的に切られていると考えたほうが自然かもしれません。ケータイのバッテリーを誰かに抜き取られてるとか。まぁ、何にせよご子息が通常の状態ではないと考えるのが妥当です」

静寂だった。それも痛覚を刺激するほどの静寂。主任は自分が話すべき内容が終わったらそれ以上のことは言わない。眼で合図してくる。ここからの続きはお前が空気を読め、と。ここからは自分の出番か。

「あの、お伺いしたいんですが、脅迫文や金銭の要求といったものはまだ無いんでしょうか」

「ありません。昨晩からずっと寝ずに電話番をしていましたが、そう言った類の電話もありません」

隣の主任は低く唸る。自分も腕時計を盗み見る。
現在時刻午前8:35。もうすぐ9時になる。通報から2時間ほど、事件発生から8時間から9時間ほどになる。
それほどの時間が経過しているのに、犯人側からの要求が無い。

「少し変ですね。ねぇ主任?」

清里さんは顎鬚の剃り残しを指でなぞりながら何も答えない。きっと何か考えにふけっているのだろう。
通常、誘拐事件が起こってから金銭等の要求は比較的迅速に行われることが一般的だ。
と言うのも、誘拐事件が起こったと思われるとまず警察の介入がある。警察の介入が始まれば時間が経てば経つほど捜査や準備が進む。
となれば犯人側に不利になる。そのくらい犯人は承知のはず。
それなのに、事件が起こってから8時間以上経過しても何の連絡が無いと言うのは、いささか違和感があった。

その時だった。
騒がしい。どうやら警官の声のようだ。
玄関の方から警官の声がした。

「清里主任。たった今、この家の郵便受けに手紙を投函しようとした不審な男性を発見しました」

その報告に主任の右まゆがぴくりと動いた。

「よし連れて来い」

警官が連れてきた男が我々の鎮座するリビングに顔を出した。

「この男です。こんなものを郵便受けに投函しようとしていました」

若き交番勤務の警官は綺麗に封のされた封筒を主任に渡す。白手と言われる白い手袋を着用し主任は無言のままその封筒を開け中身を見た。

「あの・・・、なんすか、これ?」

蚊の泣くような声の主だった。
男は見るからにやせ型だった。特別年老いているわけでもないが、見る限りそこまで若いわけでもない。
髪の毛を気持ち茶色くした男性だった。
誘拐のような凶悪犯を思わせる獰猛さも狡猾さもない、至って不健康そうな普通の青年である。
主任の目が青年の髪の毛からつま先まで一通り眺める。

「君、名前は?」

「え・・・。宇佐美俊雄、って言うっす」

「社会人かい?」

「いや、大学生っす」

「大学生?」

主任の目が背後の警官に向く。

「はい。それは確認しました。すぐ近くの江南大学の経済学部の四年生です。身元確認しました。学生証も持っていましたし」

「ふん。じゃあ宇佐美くんといったね。君にいくつか聞きたいことがある。答えてくれるかね。よろしい。ではまず最初の質問だが、この警官が、君がこの家の郵便受けに郵便物を届けたと言っているが、それは本当かね」

「・・・本当です」

「君は郵便局員か何かか?」

「・・・いえ、違います」

「じゃあ、郵便局のアルバイトか何かしてるのか?」

「・・・いえ、してません」

「ならなぜ、君が家に手紙を持ってくる」

「・・・あの、頼まれたからです」

「頼まれた? 誰に?」

「分かりません」

「分からない?」

「今日、明け方バイトから帰ってきたらこんなものがアパートの郵便受けに入っていたので、それで・・・」

青年は来ていたダウンジャケットの内ポケットから、紙切れを取り出した。
綺麗に四つ折りにされていた紙切れを主任に渡した。

「『この封書をF*市○○町××番の阪本と言う家に翌朝午前9時に届けて欲しい』か。これが届いたのはいつか分かるかい?」

「気づいたのは先程も言ったように今日の明け方です。コンビニの夜勤のバイトが終わってアパートに帰ってきたら郵便受けに入っていたんです」

「アパートに帰ってきたのは何時頃だい」

「んと、確か5時過ぎです」

「家を出たのは?」

「夜の8時です。でもその時には郵便受けには何もなかったっす」

「となると誰かが、君がアパートを離れた昨夜の8時以降翌朝5時過ぎまでにこの封書を郵便受けに入れた、という訳か」

「えぇ。一緒にこんなものも挟まっていたので、つい・・・」

そう言った宇佐美青年のポケットにはしわくちゃの一万円札があった。
それを見て主任が小さく唸る。

「ふん。大体の事情は分かった」

「・・・あの、自分は帰っても良いんですか。あの、今日大学で大切なゼミがあるんですが・・・」

「構わん。ただね、今日ここであったことは誰にも口外しないようにな。わかったか!」

お得意の眼光だ。これなら大抵の根性無しは泣き顔になってその場を立ち去る。例に漏れなく青年も肝を潰したような顔をしながら。阪本家をあとにしていった。

「さて、阪本さん。こちらをご覧ください」

清里さんは阪本夫妻に封筒を渡した。先程の宇佐美青年が持ってきた封筒だ。
秋春は恐る恐るその封筒を開けた。中に入っているのは小さな便箋。
表情が凍るとはこのことだ。秋春の表情が一変した。

「・・・・・・刑事さん、これは」

「誘拐の脅迫文です」

「息子は 預かった  3億円 用意しろ 受け渡し方法は おって連絡する。」

脅迫文は雑誌の文字を切り貼りしたものだった。自体や大きさから全く異なったものが使われている。
これに書かれていたことは単純だった。
これが誘拐であること、身代金が3億円であること、再度また何かしらの接触があること、がこの文章から読み取れる。

「刑事さん、息子は・・・、息子は無事なんでしょうか」

「えぇ。無事でしょう。犯人がこうやって身代金を要求してきている以上、まだご子息はご存名のはずです」

「そうですか。なら良かった」

嘘だ。誘拐の脅迫文が送られてきたからといって、必ずしも被害者がまだ生きているとは限らない。しかしこちらとしても、もう死んでいるかもしれません、とは口が裂けても言えない。

「しかし犯人も少しは頭が回るようですな。電話で連絡すればすぐに自分の居場所が特定されるということを知っている」

「・・・そ、そんな」

秋春氏の力ない嘆息が漏れた。
妻の千咲冬氏はもはや吐く言葉すらない状態だ。
こんなときにかける言葉はない。下手に言葉をかけても彼らの耳には届かない。

「阪本さん、気を落としている暇はありません。犯人は身代金の要求を行っています。まずはその用意をしなくては。これは時間の問題です」

「・・・はぁ、そうですね」

秋春氏の目に光は灯っていない。ただ外部の音声に反応しているだけの人形だった。

「あの、刑事さん・・・。非常に見苦しくて不躾な質問かもしれませんがよろしいですか?」

「えぇ。なんでしょう」

「身代金の3億円なんですが、何とか、その、警察の方で立て替えてはいただけないでしょうか」

「なん、・・・建て替えですか」

自分も目を丸くした。馬鹿な、会社の経営者ともあろう人間がだ、それも小さな町工場の社長というわけではない、そこそこ成功したはずの会社の経営者がそんな言葉を吐くとは思えなかった。
ましてや自分の子供の命がかかっているんだ。まずは何がなんでもその3億円を集めるのが普通じゃないか。

「はい。必ずお返しします。もしこの事件が終わって一年、いえ半年後でも良いです。少し待ってはいただけないでしょうか。そしたら必ず、必ず3億円はお返しします。ですから」

「阪本さん」

「お願いです。後生の頼みです。なんらな利子を払っても良い、そうだ半年後に2千万つけます。3億2千万、半年後に3億2千万にしてお返ししますから・・・」

「阪本さん落ち着いてください」

「では3億5千万なら・・・」

「お聞きなさい。良いですか、警察ドラマではどのような表現がされているか分かりませんが、基本的に警察は身代金の建て替えは致しておりません。銀行に行くなりしてご自分で工面される他ないんです」

「いや、でも」

「確かに銀行に協力要請はさせていただきますが、しかしこればかりは・・・。ご了承ください」

主任の声を最後まで聞くことなく秋春氏はうなだれた。

「阪本さん。お言葉ですがあなたほどの会社であれば3億円を用意することは可能なのではないでしょうか。もちろん3億円という数字がどれほどの巨額な資金かは容易に想像できます。何しろ我々が一生かかっても手にできるかどうかの代物。そうやすやすと集めることができるものではありません。ですが、あなたなら、銀行から借り入れる、取引先に無理を言う、親族に頭を下げる、手にできないことはないでしょう。息子さんの命がかかっています。悪いことは言いません、すぐに用意しましょう」

「・・・・・・この3億円は、この3億円だけは今手放すわけには・・・」

秋春氏の奥歯が擦り切れる様な音がした。

「どうしたんです、なにか理由が」

秋春の横に座っていた千咲冬さんが口を開いた。

「・・・我々の会社は、もうすぐアメリカの企業と業務提携を結ぶことになっているんです」

「業務提携ですか」

「えぇ。このたび私たちのSAメディカルギア株式会社は、医療器具に用いる新素材の開発に成功しました。この新素材を用いれば今まで今まで不可能だった人工胃腸と言った人口内臓開発の研究が飛躍的に進むとされているものです」

心の中で舌を巻いた。
人工胃腸? そいつはすごい。大学のゼミにいたとき教授にイヤイヤ読まされた科学雑誌がある。確か現在の医療界で実現できない人口臓器は脳と胃腸だ。脳は言わずもがな、実は胃腸を人工的に作り上げるのは相当困難だと読んだ記憶がある。
まずその伸縮性。胃腸は空腹時から満腹時になると体積を何倍にも膨れ上がる。並みのプラスチックでは無理だし金属ならなおさらだ。また同時に自ら出す消化液にも耐えられる構造の耐腐食性。本来の胃腸は酸性の消化液に対して同時にアルカリ性の粘膜を分泌して自らを守ると言う。現在の科学では腹の中という限られた空間の中にそこまでの機能を制御できる器官を作ることができない。そして極めつけが消化したものを十二指腸に送る複雑な運動性だ。胃腸の内部にある溶けたものを効率良く蠕動運動して次の十二指腸に送らねばならない。これも胃腸の中の内容物から体積から量から全て計算して動く胃腸を作らなくてはいけない。研究室で胃腸の動きを観察研究するためのものはあるらしいが、移植用となると未だ非現実的と言わざるを得ない。でもここの会社はそれを可能にする新素材の開発に成功したという。本当だろうか。

「しかしこれを生産・流通するとなるとかなり困難だと言おうことも分かりました。研究段階とは言えその生産コストはかなり高く、またもし生産できたとしても日本ではまだ認可が降りません。そこでこの新技術を欲しがっているアメリカの企業と業務提携を行い、開発のノウハウを教える代わりに向こうでの流通経路を利用し販売することになりました」

「正直、ここまでこぎつけるのにかなりの苦労をしました。似たような技術を持った企業も近くにたくさんいます。そこを出し抜くために、それこそ法に引っかかるスレスレのことだってやりました。提携先に首を横に振られたことは10回や20回じゃありません。それでもやっと、奇跡に近い可能性でここまで業務提携までこぎつけたんです。条件はアメリカに専用の開発工場を作ること。3億円はそのための資金なんです」

主任の眼が一段と細くなる。

「・・・話は伺いました。しかし事態が事態だ。事情を説明すれば向こうも・・・」

秋春氏の頬が紅潮する。

「簡単に言わないでくれ! 資金がなければ工場は建たない、工場が建たなければ業務提携は打ち切りだ。言ったでしょうライバル企業はたくさんいるんだ、そのアメリカの企業は他の会社と業務提携を結ぶだろう。そうなれば終わりだ。その業務提携を結んだ会社は成長し、その他の会社は衰退する。この世界はそういうもんだ。チャンスを失うことは現状維持ではなく破滅を意味するんだ。だからこそ、だからそここのチャンスを、失いたくないんだ・・・」

言葉は終わった。
ただただ駁寂が広がるだけだった。自分だけではなんともできない。それを感じ取ったのか主任は咳払いを一つして言葉を始めた。

「阪本さん、話は聞きました。阪本さんもさまざまな状況に置かれていることと存じます。しかしですね、今一番考えなくてはいけないことはなんですか。息子さんのことです。息子さんの救出をまずは第一に考えましょう。もちろん我々警察も最大誠意協力いたします。身代金も必ずや取り返してみせます。ご安心ください」

「・・・・・・あぁ。そうでしたね。申し訳ありません、このような醜態を晒してしまって。私たちが今最も救わなくてはいけないのは、会社よりも息子でした。お恥ずかしい限りです。分かりました、すぐに会社のものに連絡して3億円を用意します」

彼は顔を上げた。しかしその顔に憔悴の色は隠せない。やはりどこか踏ん切りがつかない部分があるのかもしれない。
でもそれは口に出さないことにした。もし自分がこの阪本秋春氏と全く同じ状況になったら、同じ判断を下せただろうか。それは分からない。
多分子どもができたとしても同じだろう。

「では、我々もこれから起こりうる事態に向けて準備を始めます」

そう言って清里さんは近くの警官に支指示を与えた。聞き込みの範囲や割り振り、そしてもし電話で身代金の連絡があったときのための逆探知の道具の搬入を指示した。
その後、自分とそれと桐星が廊下に呼ばれた。

「二人には別件を頼む」

そう言うとメモ用紙を渡してきた。

「宇佐美俊雄、さっきの大学生の家だ」

第3章 11月23日 21:00ごろ

例の廃ビルの一室だった。近くのコンビニから週刊誌をありったけ買ってきて、必死で切り貼りし、ようやく脅迫文が出来上がった。
慣れない作業だった。もともと手先が不器用なわけではなかったが、それでも終わった時にはため息が漏れた。
肩がこり、眼が霞む。
雑誌をめくり、ちょうど良い文字があれば丁寧にカッターで四角く切り抜く。
裏にのりを付け、台紙に綺麗に貼り付ける。指紋がつかないように細心の注意を払った。
やはり誘拐の脅迫文なんて作るもんじゃない、そう思った。

作り終わった脅迫状をもう一度眺めてみる。

『子供は 預かった  3億円 用意しろ 受け渡しの方法は おって連絡する』

改めて見てみると、思いのほか完成度は低くない。
上出来だろう。

「お、できあがった?」

脇で週刊誌のマンガを読んでいる少年が徐に起き上がった。

「あぁ。こんなもんでどうだろう」

「・・・ふんふん、良いんじゃない。じゃああとは封筒に入れて。くれぐれも指紋がつかないように注意してね」

年が2周り以上離れている子どもに顎で使われながら、手袋をはめなおす。
前科者で捕まったことはないから警察も自分の指紋を知るはずがないだろう、とは思っているが念には念を入れてだ。

「それにしても早かったじゃんおじさん、こんだけの雑誌をよくもまぁ短時間で集められたね」

「ん、あぁ。すぐそこのコンビニで大量に買ったからね。だが運ぶのには苦労したよ」

その瞬間だった。

「・・・・・・え?」

少年の顔を低気圧が覆った

「え、なに?」

「もう1回言ってみて。こんな大量の雑誌を一ヶ所でまとめて買ったの」

「そうだけど、何かまずかった?」

明らかに落胆する夏樹少年。時折、恨めしそうな怨念でも籠もった様な視線をこちらに投げつけてくる。

「・・・そんなことしたら」

「え、なに、よく聞こえないんだが」

「そんなことしたら怪しまれるだろうが!」

周囲の空気や壁がビリビリ振動する。
俺の一瞬、呆気に取られた。

「怪しまれる?」

「普通の客は一度にこんな大量の雑誌なんか買わないんだよ。一度にこんなに買ったら怪しまれて顔覚えられちゃうだろ」

「いや大丈夫だよ。俺が行ったコンビニは客が全然いなかったから」

「店員は? 店員はいただろ。会計するのに店員は必ずいるだろ。そいつは絶対おじさんの顔覚えてるよ。ったく、どこに深夜にコンビニで経済雑誌から、漫画雑誌から、こんなエロ雑誌を大量に10冊も20冊も買う馬鹿がいるんだよ。普通、いくつかのコンビにを回って数冊ずつ買って怪しまれなさいように気をつけるだろ」

「あぁ・・・そうっか。じゃあ今からそのコンビニ行って、俺の顔は忘れてくださいって言ってくる」

「もっとバカだ!」

今回2度目、いやコンビニに行く前を合わせたら3回目になる怒号を受けた。
とりあえず俺はその場に正座し、年が2周りほど下の、しかも誘拐したはずの少年に説教を受けることになった。
職場でもこんな経験はしたことがなかった。

「・・・くっ、しょうがない。終わったことはしょうがない。こうなったら時間との勝負だ」

まだイライラが抜けきれないのかその表情は悪鬼を思わせる。

「あの、時間との勝負って・・・」

「おじさんがコンビニの店員に顔を見られてしまったのはしょうがない。今さら顔を忘れてくださいなんて言うわけにもいかない。一刻も早く次の脅迫文を作成するんだ」

「次の脅迫文って、何を書けば」

「1回目は金額を知らせた。2回目はその受け渡し方法を書く。身代金を用意させ、バッグはいくつ用意するか、そのバッグにいくらずつ詰め込ませるか。ほかに用意するものは何か。ただしかし、問題はどうやってその身代金を受け取るかだ」

「どうやって受け取るって、普通に受け取れば良いんじゃないのか?」

「それじゃあダメだ。身代金の受け渡し一番が危険。どんなに策を講じても身代金の受け渡しは相手と自分たちとが接触せざるを得ない場面。どうしても私たちが表舞台に顔を出さなくちゃいけない時間。その時下手をしたら警察にあっけなく捕まる。
ううん、相手だってバカじゃない。遅かれ早かれ警察を呼ぶに決まっている。警察の介入が入ってきたあと、その警察の目を盗み身代金を奪うのは困難・・・」

夏樹少年は名探偵よろしく、顎元に手を当てて狭い部屋の中を右へ左へ動き出した。顔を上げることなく、小さな声でぶつぶつと呟き出す。
自分でも今話しかけるのはまずいと本能的に察した。
窓を見てみる。雨は依然として降っている。むしろさきほどよりも雨足を強めている印象さえ受けた。

「・・・難しいな、やっぱり」

彼がぽつりと呟いた。

「難しいって身代金の受け渡しがか」

「それ以外ないでしょ。この状態で、協力者が2人しかいない状態で何十人もいる警察官を全員振り切って逃げるのは、やっぱり無理がある。何回も誘拐を経験してきた手練手管ならまだしも、全くの素人2人。しかもそのうちの1人は誘拐された被害者で表立って協力することすらできない。自由に動けるのは実質おじさん1人だけ」

「お、俺だけ、か・・・」

「そう。おじさんだけ。おじさんだけで警察との駆け引きを終わらせ身代金をせしめて逃げるってのは不可能でしょ」

「・・・そうか無理か」

「ただね。それで終わったら面白くない。結局はあいつの思い通りになるんだし。そうはさせない」

少年の語尾が微かに上がった。見てみれば広角がわずかに上がっている。
『あいつ』と言うのは俺ではないだろう。おそらくは少年の父親か。
父親のことを『おやじ』と言う子どもは多いが、『あいつ』と呼ぶ奴はなかなかいない。目の前の少年からは明らかに負のエネルギーを感じる。

「敵の数が多いなら、減らせば良い。」

「減らす? 警察の数をか」

「そう。向こうは捜査となれば人海戦術を使ってくる。要は数にものを言わせて捜査して来るってこと。ならこっちはその捜査にかける人数を無理やり減らす。そうすれば勝目はある」

「でもどうやって。もしかして警察に電話もかけて捜査人数を減らしてください、とでも言うのかい」

すごい形相で睨まれた。流石にこの場面で冗談は通用しないらしい。
大人しく口を紡ぐとことにした。

「身代金を分散させる」

身代金を分散させる? どう言う意味だろう。

「身代金は3億円って書いただろ。その3億円を1つのバックに入れて持ってきてもらえば警察官はそのバック、および受け渡し場所の周辺さえ警備すれば良い。しかしそうじゃない。3億円を5000万円ずつ6つのバッグに分ける。そうして6つを別々の場所に届けさせる。警察官はその6つの全てを警備しなくてはいけない。でも僕たちが受け取るのはそのうちの1つ。あとの5つはそのまま放置する。そうすれば計算上、警察官の数を6分の1に減らすことができる」

「はぁ、なるほど。ナイスアイデァだ・・・、ってちょっと待て。ってことは俺が受け取る身代金は3億円じゃなくってたった5000万円てことか?」

「まぁね。この作戦を取ればそうなるね」

「おい。そんなたった5000万円しか手に入らないのか! ふざけるな」

「何言ってるんだ。5000万円でもてに入れば御の字だろ。あんたの借金はたかだか3000万なんでしょ。だったら借金返してもまだ2000万残るよ。それだけあったらまた新しい人生遅れるよ」

そう言われると、次の言葉をぐっと飲み込んだ。そういえばそうだ。俺の借金はそもそも2950万だったはず。この借金さえなくなればと思っていたはず。
それなのに、一度3億円と言う響きに乗せられると5000万円というのがはした金に聞こえてしまう。実際5000万円なんて自分が今まで稼いできた賃金を軽く上回る。それなのに、何故俺は「たった5000万」と言う愚の言葉を吐いてしまったのか。
落ち着け。良いか落ち着け、播戸良介。この際5000万でも良いじゃないか。少年の言うとおり3000万を返済に回し、残りの2000万でほそぼそ暮らせば良いじゃないか。なんだったら海外に高飛びしても良い。
どこだ、そうだな・・・・。東南アジアあたりが良いだろう。そこ2000万あったら、それこそ楽に暮らせる。
良し、決まった。この少年の案に乗って見よう。

「良いかい、このアイデァも時間がかかっては意味がない。時間が経てば経つほど警察の介入がスムーズにいって、操作人数が膨れ上がる。これは時間の勝負。向こうが人数を割いてくる前に片付ける。良い!?」

「はい」

つい姿勢を正してしまった。こんな少年に襟を正すというのは正直気が引ける。ただ、今この状況ではそれ以外に選択肢はない。それに年下の上司に頭を下げるのはもう慣れている。

「早速仕事に取り掛かる。新しい紙を用意して、脅迫文を作るんだ。『身代金を5000万円ずつ6つのバッグに入れて用意しろ』と」

「じゃあ、またコンビニに行って雑誌を買ってこなくちゃ」

「さっき買ってきた雑誌で足りる、ってかまたあんたを出すと何をするか分かんない、あんたは極力外に出るな!」

夏樹少年の号令の元、2つ目の脅迫文が作成された。1つ目の脅迫文を作るのには少し苦労したが、2つ目ともなれば多少は慣れてきたのかたった10分で終わった。
それを余った封筒に入れた。

「これをどうする?」

「さっきと同じように全く別の人物の部屋の郵便受けに投函する。もちろん、報酬も一緒に」

「その報酬って、まさか、また俺が用意するのか?」

「この事件が終われば5000万円入ってくるだろ。目を瞑れ」

しぶしぶ財布を取り出す。そこには自分の全財産が入っている。全て合わせて3万4512円。そして先ほどの脅迫文を届けるための報酬として既に1万円を使ったので残り2万4512円なり。
そして今回も1万円を使うとなると残りは1万4512円となる。非常に厳しい。

「よし。じゃあそれもお金に困っていて時間に余裕のある大学生にターゲットを絞って依頼しよう。」

第4章 11月24日 09:45ごろ

 ブレーキペダルをゆっくり踏む。ブルーバードがゆるゆると減速していく。

「また赤信号だ」

誰に聴かせるわけでもなくつぶやく。
ふと手元のメモ帳に視線を落とす。『宇佐美俊雄 K*市○○区××番 ニッタハイツ102号室』と書かれていた。
K*市、事件のあった阪本家のあるF*市の隣の市だ。隣の市といっても距離がそこまで近いわけでもない。直線距離にして7~8キロ程度離れている。駅で2駅ほどしか離れていないからと思った。
ちょっと車を走らせれば、10分15分で到着するだろうと高を括っていた。しかしどうだろう。間違えないように幹線道路を当ろうと思ったのが間違いだった。
幹線道路だけあって交通量が多い。さっきから同じ信号で2回も止まっている。フロントガラスから空を見上げる。朝日の角度が上がってきた午前10時ごろ。
上司の清里主任の命令で、大学生宇佐美俊雄のアパートに向かっていた。助手席には同僚の桐星が乗っていた。シートを限界まで倒し、半分寝ている状態ではあったが。
ようやく幹線道路を抜け、横道に入っていく。大した距離でもないのにここまでくるのに30分以上かかってしまった。別にすぐに帰って来いと言われたわけではないが、それでもこの慢性的な交通渋滞には辟易した。

阪本宅を出る前に警部から言われた言葉をもう一度反芻する。



「・・・宇佐美俊雄の家ですか、なんでまた彼の家に」

「奴の家の中をちょっと見てきてほしい」

「宇佐美青年の家ですか。もしかして彼が犯人とか」

「いや。それはない。明らかに計画的犯行の匂いがする。会社経営者の息子を誘拐し、脅迫文をよこすとき身元の割れやすい電話ではなく第三者を使うあたり、かなり考え込まれた誘拐事件だ。こう言っては失礼だが、あの青年には不可能だ」

「では何故」

「もし彼が犯行に全く関わっていなかったとしたら彼は利用されただけとなる。もしかしたら犯人について接触、あるいは知っている可能性もある。それも聞いてきてほしいんだ」

「なるほど、分かりました」

「あぁ、ああとそれとな・・・」

「はい?」

「彼の家の中も一応見てきてくれ。一応な」

「家の中、何のために」

「分からんか。人質を匿っていないかをだよ」

「人質を?」

「一応念のためだ。奴が主犯格ではなくとも、人質を家に軟禁している可能性はある。だからお前たちにはその家をそれっぽく見てきてほしい」

「家宅捜索の捜査令状は?」

「だから、それっぽくと言ってるだろ」



要は主任は、「真犯人とあなたはなんかしらの接点を持っている可能性があるが心当たりは? という話を聞くフリをして家の中を調べろ」と言うものだ。
無茶苦茶じゃないか。一歩間違ったら警察の職権乱用でまたマスコミに何か言われかねない。
かと言って上司の命令を無視するわけには行かない。どうしたら良いものか・・・。
そんなことに脳内の回路を割いているとふと隣の助手席が気になった。やはりまだ桐星は寝ていた。

「おい桐星! そろそろ到着するぞ」

横で何も考えず、ただぐるたら寝ている同僚に嫌気がさした。その後の行動もジャングルのナマケモノの様にゆったりとしたものだった。
この角を曲がれば例のアパートだ、さっさと話を聞いてアパートの室内をちょっと見てすぐに帰ってこよう。
そう思った。しかしだ。十字路を曲がるとそこは大規模な道路工事現場だった。
工事現場主任だろうか、ヘルメットを軽く下げるだけで再び作業に戻った。

「ったく、看板くらい出しておけよな」

思わず毒づく。
しょうがなくUターンを余儀なくされる。
ここが通れないとなると、えらく遠回りをしなくてはいけない。大きなため息を一つ。
そして再び横を見る。
桐星が目を覚まし、目を下半分だけ開けてシートの位置を戻した。
これはこれで気まずい。正直同期の同僚とは言え、こいつと面と向かって話したことは数えることしかない。それも業務内容だけだ。
さっきはああ言ったものの、起きたら起きたで何を話したら良いか分からない。趣味も分からない。話を振ったところで相手が興味関心がなかったら余計気まずくなるだけだ。だったら寝ていてくれたほうがましだったのに。
そう思っても後の祭りだ。しょうがなく話題を振る。

「・・・・・・なぁ、今回の事件どう思う?」

取り敢えずの時間つぶしの予定だ。宇佐美青年のアパートに着いたら途中で終わっても良い内容だった。

「今回の事件かい」

思いもよらない普通の返答だった。

「主任は計画的犯行だって言ってたけど、お前はどう思う」

正直まともな返答は期待してなかった。コイツがやってたことといえば、家の中を物色していただけ。夫妻の会話すらまともに聞いていなかったはず。

「俺はそうは思っていないね」

急ブレーキを踏んでしまった。まさか桐星がそんなことを言うとは思いもしなかったのだ。

「? 信号なんてねぇぞ」 

「・・・あぁ」

俺は意味もなく冷静を装った。

「企画的な犯行じゃない? なんでまたそう思ったんだ」

「・・・・・・」

今度は奴は答えない。

「だってそうだろ、今回の誘拐はそこらへんの一般家庭の子供じゃなく、会社経営者の息子を誘拐している。それも阪本夫妻の経営するSAメディカルギア株式会社は近々アメリカの企業と企業提携を進めるために資金を集めている。その資金と今回の誘拐で要求された身代金が両方とも3億円と同額。そして身代金要求の脅迫文を手紙でよこしたのも電話では逆探知されて身元がバレてしまうのを恐れていることを意味する。これらの状況を考えると、突発的な事件じゃなく計画的な事件と言って良いじゃないか」

「・・・・・・」

「そう思うだろ?」

「携帯電話なら逆探知されない」

「ん?」

「家にある固定電話なら電話をかければ逆探知される。でも携帯電話はそうはいかない。携帯電話自体直接コードで繋がっていない分、電波の送受信をした基地局までした分からない」

「んと、『基地局』ってなんだ」

「携帯電話などの電波の中継地点のことだ。たまに街中に立ってたりビルの上に付いてるだろ、あれだ。通常携帯電話で電話をかければ、その地点の近くに存在する基地局が電波を広い、そこからまた電波を飛ばす仕組みになっている。携帯電話を使えば基地局が特定されても潜伏先が特定される訳ではないから逃げる術はいくらでもある」

心の中で感心していた。こいつにそんな知識があったとは。こっちも理系の大学を出たわけではないが、それなりに知っていると思っていた。
確かに携帯電話はコードにつながっていない分、電話をかけたからと言ってすぐに現場が特定されることはない、か。そう言われればそうだ。それにしてもよく気がついたな。
あれ、そう言えば・・・。

「なぁ。でも携帯電話って基地局利用しなくてもGPS機能だっけ、あれで居場所を特定されるんじゃないんだっけ?」

「利用者が設定、許可すればね。携帯電話を持っている人物がGPSで居場所を特定されたくない場合はそう設定すれば無効になる」

「じゃあ、なら、犯人が携帯電話を持っていなかった、としたら」

「今のご時世にか。もし無かったとしても誘拐した子どものキッズケータイがある。いずれにせよ、犯人がわざわざ第三者に手の込んだ郵便配達係を任命したのは不可解だなと、そう思っただけさ」

「あぁ。そうか。・・・じゃあどういう事だ、お前は、今回の事件は警部の言う計画的犯行じゃなくって、突発的な犯行だとでも」

「それは分かんないね。やっぱり計画的犯行かもしれないし、あるいはそうでないかもしれないし」

歯切れの悪い言葉で桐星は締めくくった。
ただ、コイツの話も鵜呑みにはできない。単に今回の事件の不可解な点に難癖をつけているだけかもしれない。
まだまだ、計画的犯行を切り落とす重大な証言も手がかりも出ていないし。
すると桐星が手を叩く。

「あ、そうそう」

「今度はなんだ」

「阪本夫妻は本当に仲が良いんだろうかね?」

*   *   *

目的のアパートに到着した。周りを見渡す。田んぼと畑と古民家が散在する、よく言えば長閑な立地、悪く言えば辺鄙な場所だった。
電車の最寄駅から自動車で20分以上かかる場所だ、お世辞にも交通に便利な場所とは言えなかった。
俺は目の前のアパートを確認した。確かに『ニッタハイツ』と書かれていた。
建物自体古びた2階建ての鉄筋コンクリートで部屋数は6つほど。築30年以上は経っているだろう、かなり老朽化が進んでおりアンティークの領域まで踏み込んだ建物だ。
柱はサビが回っており、壁の横に設置された階段はところどころ腐食し穴が空いている。
102と書かれた部屋のドアベルを押す。しかし何の音も出ない。試しにドアに耳を押し当ててもう一度押してみるが、やはり何の変化もない。どうやら配線自体がどこかで切れているようだ。
しょうがなく、ドアを叩くことにした。

「宇佐美さん、いますか宇佐美さん」

「・・・はい、なんでしょう」

部屋の中からではなく、背後から声の主が現れた。
振り返ると、そこには不健康そうな大学生の姿が。朝と違うのは髪型が少しマシになっているのと、通学用のカバンを持っていることだけであった。
大学から帰ってきたところであろう。そう言えば今日は朝から大切なゼミがあるとは言っていた。

「あ、宇佐美俊雄さんですね。一里塚署の樹村と申します。先程はお世話になりました」

そう言われても当の本人は何のことを言っているのか分からなそうだった。自分の顔を見て何やら思い出したのか、目を少し見開いた。

「あぁ。さっきの手紙を届けたときの刑事か。あの、なにか・・・」

「えぇ。実は宇佐美さんにいくつかお聞きしたいことがありまして、よろしいですか」

「聞きたいことですか。自分でよければ。どぞ」

家主が室内に招いた。自分とその後ろから桐星もついてくる。
部屋は1DKとでも言うのだろうか、玄関をはいるとすぐに小さなキッチンが広がる。その横に風呂とトイレと小さな収納スペース、そしてもう一つの部屋があるだけだった。
男性の一人暮らしと聞いていたが、キッチンのシンクに洗い物が溜まっていたり、洗濯物が山のように置かれていることもない。全体的にこざっぱりしている雰囲気だ。
宇佐美青年がどうぞと席を勧めてくれる。6~7畳ほどのスペースにコタツ机と脇にテレビがあるだけだった。背後には押し入れがあるようだが、開けっ放しにされてあった。もちろん中はスカスカ。
失礼の無い程度に部屋の中を物色してみる。まず思ったのは、ものが必要最低限以下しかない、と言うことだった。
冷蔵庫こそあれ、電子レンジはない。
洗濯機はあるが、室内物干し竿はない。
テレビは見えても、パソコンのたぐいは一切存在しない。
およそ現在の大学生に必要とされる文明機器の類がほとんど存在しない。

自分と桐星の目の前に水の入ったコップが置かれた。

「すいません。こんなものしか用紙できなくて。うちお金がなくってたいしたもの用意できないんですよ」

「いえ、お構いなく」

そう言いながら横目で相方の桐星を見る。予想通りあいつはあいつで主人の話も聞かず、いつものように家の中をいろいろ覗いているようだった。
それを、今回は期待していた。

「すいません。あいつも人の家に来たら取り敢えず見て回らないと気がすまない質でして」

「いえ、構わないですよ。見ての通り大層なものなんかありませんし」

そうですね、とは言わなかった。

「確かに男性の大学生の一人暮らしにしてはものが少ないですよね」

話を聞き出す時のポイントだ。いきなり最初から本題を切り出さない。こちらが警察である以上相手は少なからず警戒している。
そこから急に事件の真相を聞き出そうとしても無駄だ。まずは世間話をして精神的な距離感を縮めることが先決だ。

「えぇ。大学の連中はみんなそう言いますね。お前の部屋は殺風景すぎるってね。でもしょうがないんですよ、これが精一杯ですから」

「ん? でもバイトもされてるんですよね。今日だって深夜のバイトをされていたみたいだし」

「あぁ。あれは生きるために仕方がなくですよ」

「生きるため?」

「失礼ですけど、刑事さん、刑事さんのご両親はご健在ですか?」

「ん、まだ生きてますけど」

「そうですか。僕にはそれが羨ましいんですよ。自慢じゃないですけどね、僕の家は母子家庭でね、しかも下にまだ2人弟妹がいるんですよ。本当は高校卒業したらすぐにでも地元の工場に就職しようと思ってたんですけどね、どうしても大学の夢を断ち切れなくって、親を説得したんです。母親も最初は猛反対ですよ。お前を大学に生かせる余裕なんてないって言われましてね」

「ふむ、そんなことが・・・」

「母親の無理を押し切ってこうやって私立ながら大学に行けてるんですよ。もう四年生ですけどね、それこそ週に5~6回ほどしか授業がなくても、その授業を受けることが何より楽しいんですよ」

「世の大学生に聞かせてあげたいですな」

「空いた時間だって自由じゃないですよ。母親に無理言って来てる大学ですからね、冗談抜きで生活費だって額だって払ってもらえないですよ。それこそ自分で稼がなくっちゃ。いつか会社経営者としてお金を儲けて母親を楽させてあげたい、そう思って経済学部に入学しました」

「それで深夜もバイトを」

「正直いっぱいいっぱいですよ。短期のバイトや深夜のコンビニのバイトを毎日繰り返して、それでもまだ足りないくらいですよ。それでパソコンや薄型テレビを持つなんて僕にはできない。学部の他の奴は、サークル活動とか言いながら女の子と一緒に飲み歩いているのを聞くと無性に腹が立って・・。自分はこんなに頑張ってるのに・・・」

彼の言葉のあとに暫しの静寂が流れた。

「それで話というのは?」

本題を切り出された。あまり余計な小細工は無効と見えた。こちらもニセの本題を切り出す。

「はい。宇佐美さんにお伺いしたいのは、今回の事件の首謀者に関してです。宇佐美さん、本来はこのような話は無関係の人間には致しません。ですがあなたは少なからず今回の事件に巻き込まれています。となると無関係とも言えなくなります。
あなたは今回の事件の関係者であるということを理解してください。もっと言えば、今回の事件をたやすくほかの人物に話さないでいただきたい。よろしいですか」

「え、はぁ、まぁ」

「では話を続けます。今回起こったのは誘拐事件です。あなたが手紙を届けた家庭では息子さんが誘拐されました。そこで犯人からの連絡を待っていたところ、あなたの手紙があった。そこまでは良いですか。そこにはいくら用意しろと言う文面が書いてありました。この状況から判断すると、犯人は電話ではなく最初からあなたに手紙を託して今回の事件を進めようとしたと見て間違いないと思います」

「・・・あの、それが何か」

「まだ分かりませんか。となると、今回の事件はあなたが重要人物という事になります。あなたがきちんと手紙を渡さなくては事件そのものが成り立たない。あなたがあの手紙届けると言うことが大切になってきます。と言うことはですね、犯人は他の誰でもなく、あなたを選んで手紙を託したということになります」

「でも、僕は一万円という報酬がありましたけど・・・」

「そう、そこなんです。犯人は『一万円と言う報酬があればあなたは言う事を聞く、と言うことが分かっていた』ことになります」

「はぁそうですね」

「良いですか。ちょっとしたそれこそ一万円と言う報酬であなたが動くと言うことを知らない人物には今回の事件を起こすことは不可能です。我々警察はあなたがお金に非常に困窮している、と言うことを熟知している人間であると考えています」

「・・・・・・そうかなるほど」

「分かって頂けましたか。この辺りであなたをよく知ってる人物、あるいはあなたがお金に非常に困っている人物と言う事を知っている人物ば誰でしょうか。今回の事件の首謀者は、その中にいると考えています」

「自分のことをよく知っている人物と言っても、そう多くはいませんよ。なにしろ近所の人と仲良くお話する性格でもないので。そうですね、このアパートの人と、バイト先の店長と、あと大学の仲の良い友人数人くらいですね」

「それだけですか?」

「えぇ。それくらいなもんです。別に胸を張って言いふらす内容でもないので」

腕を組んで考えた。この宇佐美青年の実情をよく知った人間、その中に犯人は絞られるはず。それはいくらニセの本題とは言え間違ってはいない。
では今言った人間の中に犯人はいるだろうか。
バイト先の店長がお金に困って誘拐を企てたとも思えないし、かと言って大学の二十歳そこそこの学生がここまで用意周到に事件を起こしたとも考えにくい。
ましてやこのアパートの住人が人質を隠しているなどまず考えにくい。
となると、犯人はそれらに人物から情報を聞き出し今回の事件を思いついたとしか考えられない。そうするとこんな事情聴取が意味をなすとも思えない。
ふむ、失敗か・・・。

「あの刑事さん、どうかしましたか」

「あぁいえ。なんでもありません。お手数でも申し訳ないんですが、今仰っられたかたの名前と住所、教えていただけませんか」

宇佐美成青年も不承不承といった感じで何人かの人物の名前をメモ帳に書いてくれた。正直これらが事件解決に繋がるとは思えなかったが、ここで記録をとらなくては逆に怪しまれるとも思った。

「刑事さん、この中に犯人がいるんでしょうか」

「ううん、分かりませんね。この中にいなくても繋がりはあるんじゃないでしょうか。ちなみに、今名前を教えていただいた以外に、不審な人物を見たとか、そう言った事は無いですか」

「そう言われても。そもそもあの人怪しい、あの人誘拐犯っぽい、なんて目で見てませんからね」

「・・・ですよね」

特に収穫なしか。まぁこの部屋に人質がいないと分かっただけでも良しとするか
曖昧な、どうとでも取れる言葉でその場を濁した。青年もはぁ、と零しただけだ。

「あ、そうだ。桐星お前何か聞くことあるか」

ここでようやく同期の登場だ。散々今まで泳がせて部屋の中を見て回ったんだ、もし何かあったら切り込んでくれ。

「俺か・・・。じゃあ質問1つ宜しいですか。あなた昨夜コンビニでアルバイトをしたって言ってましたよね。そのコンビにはどこのコンビニですか?」

青年はキョトンとする。

「それが何か事件と関係あるんですか」

「あるかもしれませんし、無いかもしれません」

「えっと、あの、駅の近くのセブンイレブンです。K*駅の」

「ほう、なるほど。あともう1つ質問宜しいですか?」

「さっきあと1つって・・・」

「お願いします。もう1つだけ。昨日コンビニでアルバイトしていたそのとき、不思議な、たとえば珍しい客とかいませんでしたか?」

桐星の質問の意味が分からなかった。珍しい客って何だよ珍しい客って。

「・・・・・・。あぁいました」

いたんだ。

「どんな?」

「ええっと、珍しいって訳じゃないんですけど、自分もその客を見たとき変な人だなって思いました。ブックラックに置いてある雑誌と言う雑誌をほとんど買っていった客が一人いたんです。これってかなり変って言うか、珍しくないですか」

「雑誌を大量に買っていった客ですか」

「そうです。それも経済史から漫画雑誌からエロ雑誌からもうありとあらゆる雑誌、って感じでしたね。まぁそんな客多くいないので、覚えてたんです」

「どんな人物でした?」

「男性です。それも中年の。着ている服装もなんだかみすぼらしい様な。年齢で言うと40代後半から50代前半くらいかな。白髪が混じってました。あの、こんな話って役に立つんでしょうか」

「はい。もちろんです。そういった話を少しずつ集めていった先に解決の糸口があるんです。失礼しました」

そう言うと桐星は先に部屋を出て行った。自分もワンテンポ遅れて、ありがとうございましたと口にして部屋を後にした。

部屋のドアを締めてもう一度ニッタハイツに目をくれた。ほんの数十分だけだったが、また少し古ぼけた気がした。


*  *  *

「どうだった?」

ポンコツブルーバードのハンドルを握りながら、助手席に座っている同僚に話を振った。
同僚も2拍位遅れて反応した。

「ん、なにが」

「あほ。さっきの宇佐美俊雄の家の話だよ。随分見て回ってたじゃないか」

「あぁ。駅から遠いけど、あの広さと間取りなら月4万円くらいが妥当じゃない?」

「バカか。何の話をしてんだ。人質だよ人質。人質を隠している様子はあったかって聞いてるんだよ」

「・・・無いね」

「やっぱりか。やはり宇佐美って青年はシロだな。彼の話を聞いていても怪しいことは無かったし、あの部屋に子供一人を隠し続けることは不可能だな」

「それもあるけど」

「ん、ほかに何か思うことがあるのかい」

「あの人、最初アパートに居なかったろ。で、その後俺たちの存在に気づき声をかけてきた。もし部屋に人質を隠してるなら怖くて外出なんてできないよ」

赤信号で再び止まる。
あぁ確かにと反芻する。今思えばそういうことになる。宇佐美青年のドアベルを鳴らしたとき、彼は背後にいた。我々が警察だと言うことも知っているはずだし、もし本当に犯人なら自分から声をかける必要はない。やはり彼は無実と言って差し支えないだろう。
そう、それより・・・

「なぁ、ちょっと聞きたいんだが、最後のあれ、何の意味があるんだ。深夜のコンビニのバイトで珍しい客を見たかって。あの質問に何の意味があるんだ」

「樹村さ」

桐星に「樹村」と呼ばれることに抵抗があった。そもそもこいつが自分お名前を口にすることに慣れていなかった。

「今回の誘拐事件の脅迫文覚えてるか。人の手による直筆の文でもなく、かと言ってパソコンからプリントアウトした文章でもなく」

「雑誌の切り貼りしたやつだろ・・・、あっ」

「そう言うこと。被害者が誘拐されたのが昨夜の深夜。そしてその周辺のコンビニで雑誌を大量に買い込む人物。どう考えても怪しいだろ」

確かにそうだ。宇佐美青年のアパートにいたときは、部屋の中に人質がいないか、青年本人に怪しまれないかばかり気にしていたが、実際良く考えてみればそうだ。週刊誌の文字の切り貼りで作られた脅迫文が届いたのが今朝。被害者が誘拐されたのが昨晩遅く。そして謎の週刊誌大量購入する人物も昨晩。これがつながらないはずが無い。

「じゃあ、その雑誌を大量購入した奴が犯人・・・?」

「分からんが、怪しいは怪しいな」

そう言うだけで、桐星はまた黙ってしまった。
でも自分の心の中ではかなり興奮していた。
誘拐犯の尻尾をつかんだ。
後は、宇佐美青年の勤めているコンビニの防犯カメラを見せてもらって人物を特定するだけだ。
よし、帰ったら主任に報告だ。
思わず踏みすぎたアクセルを元に戻しながら、ふともう1つ気になることがあった。ついでに桐星に聞いてみた。

「桐星さ。ここに来るとき阪本夫妻の話ししただろ。どうして阪本夫妻の仲が悪いって思ったんだ」

「ん、そんな話したっけ?」

「しただろ。今回の事件が計画的なものなのか突発的なものなのか、って話のあと急にお前が言い出したんじゃないか」

「あぁ。あれね。別に大したことじゃないんだ」

「なんだよ大したことじゃないって」

桐星は欠伸を1つ噛み殺しながら言う。

「あの夫婦さ、俺らが着てから会話してないじゃん?」

「んあ?」

その言葉に引っかかった。会話をしてない?
何を言ってるんだこいつ?

「会話してないって。したじゃないか。警部も俺も。まぁお前は話しなくてずっと部屋の中を見てただけだけど」

「俺じゃないよ。秋春さんと千咲冬さんが、だよ」

「秋春さんと千咲冬さんが・・・」

数時間前の光景を思い返してみる。
坂本家について事件のあらましを聞く場面を脳内再生してみる。事件の内容を聞く場面から、かSAメディカルギア株式会社について聞くまでを10倍速くらいで脳内で繰り返してみる。
するとだった。

「・・・確かに。そういえば確かに、秋春氏と千咲冬氏は我々の質問には受け答えしてるが、二人の会話らしきものは1回もない」

確かにそうなのだ。主任や俺の質問に答えたのは、常にどちらか一方のみ。片方が喋っていれば片方が黙っていた。息子が誘拐された状態だって言うのにこれは少々不自然な気がした。

「だろ」

「じゃあどういうこことだ。さっきお前はコンビニで雑誌を大量購入した人物が怪しいって言ったじゃないか。それなのに今回の事件は、あの阪本夫妻の、秋春さんかそれとも千咲冬さんが嫌がらせのために行った事件だとでも言うのか」

「そうは言ってない。しかし。この事態に、息子が誘拐されたという事態に夫婦で会話一つ無いと言うのもこれまたおかしな話だ。なにかある、もしかしたらそれが原因で息子が誘拐されたと考えることもできると言っただけだ」

桐星はそう言い残すと目を瞑り、また静かになった。

目の前の信号が青に変わった。ゆっくりとアクセルを踏む。
桐星の言葉をにわかには信じ難かった。
確かに桐星の指摘した通り、記憶によれば阪本夫妻の会話はなかった。でもそれが何の原因になるというのだろう。
夫妻が息子を誘拐するなんてことはあるはずがない。自分の子どもを誘拐するなんてことあるはずがない。
だってそもそもそんなことに何の意味があるんだ。
しかし桐星はこう言った。
『それが原因で息子が誘拐されたことも考えられる』と。
それが原因とはどういう事だ。
桐星は何を言ってるんだ。

「おい、桐星、お前の言ってることは・・・」

だめだった。助手席の気まぐれはまぶたを完全に降りして寝息を立てていた。
舌を鳴らす。
くそ!
なんでこういう時に働かないんだ。
助手席の同僚を恨めしそうに眺めながらひとり考えた。
もし、コイツの言うとおり、今回の被害者である阪本家の一人息子が、阪本家の夫婦の不仲が原因で誘拐されたなら・・・。
これは一体どういう結末になるんだ。

第5章 11月24日 01:30ごろ

外の雨は未だやんでいなかった。小降りになってきたとはいえ、窓の外を見ようにも水玉模様の歪みがそうはさせなかった。
私は床に座っていた。冷たいリノリウムの床にきれいに体育座りで小さくまとまっていた。
部屋には椅子もある。チープな古臭いパイプ椅子だったが、座る気にはなれない。
いや、座っても良いのだが、じっとしていられないのだ。
何かしなくてはいけない、けれども何をしたら良いか分からない。
ただじっと座っているのが苦痛で苦痛でたまらないのだ。

私は視界の隅にいる少年を見た。ちょうど私の座っている壁の正反対の壁に背中をよりかけている。その手にはなにやら文庫本があり、窓から入ってくる薄い街頭の明かりを頼りに目を通しているようだ。
こんな時に、なんとまぁ呑気な。
つくづくそう思う。
身の丈が私の肋骨のあたりまでしかなく、手足が非常に細い。指先なんか栄養が行き届いているのかと思えるほど、白く、そしてか細い。
そして身体を縮めているその姿勢は小さな身体がより小さく見える。
目なんかラムネのビンに入っているビー玉をさらに小さく透明にしたようで、その目が周期的に左右に揺れる。
こう見ればどこからどう見ても、どこにでもいる小学生だった。

少なくとも誘拐されて身代金を要求されている子どもには見えなかった。もっと言えば、その誘拐事件に自ら協力し、一緒に3億円の身代金をせしめようと考えているファウストを思わせる瞳子には絶対に見えなかった。
少年はこちらの視線に気づいたのだろう。読んでいた 文庫本から顔を上げる。

「なに?」

「いや、別に」

その言葉は本心だ。その小さな体躯を眺めてどうこうしてやろうと言うつもりは毛頭ない。私はロリコン趣味でもなければ、少年の趣味もないのだ。近づけば壊れてしまうような彫刻品に触れるつもりはなかった。

「このあとどうすれば良いんだ。俺に出来ることは何か無いのか」

「言ったはず。脅迫文はできあがったし封筒にも詰めた。その封筒を何時、何処の、誰に託すのかも決めた。あとはその始動開始時刻まではすることは何もない」

「他にするべきことは」

「無い。むしろ下手に動こうとすると逆に危ない」

それだけ残すと、少年は再び架空の世界に入っていった。
そこからは無音だ。小雨が窓を叩く音しか耳に響かない。
別に無言や無音が苦痛というわけではない。ただ何かをしていないと気が紛れないと思ったのだ。

「何を読んでいるんだ」

「僕のこと?」

「他に誰がいるんだ。さっきから熱心に読んでいるけど、面白いのか」

「・・・」

答えない。もうこちらの質問に回答するだけカロリー消費の無駄だと思ったのだろうか。
だがそれが少し癪に触った。実際の動きがどうあれ、立場上私は誘拐犯で、お前は被害者なのだぞ、そう思えてきた。
奴の単行本をひょいと取り上げた。
ブックカバーをしているからタイトルは分からなかったが、うっすら見えた文面からはなんとなく恋愛小説のようにも見えた。

「なにすんだよ!」

少年はいそいでひったくるように文庫本を盗人から取り上げる。
その動作が年齢相応で少し可愛いらしかった。

「ふ~~ん、想像と違ったな。てっきりミステリ小説読んでるかと思ったんだが」

「何読もうが人の勝手だろ。それに今、クラスメイトの間で流行っているんだ!」

「へぇ、クラスでね」

小学生の中高学年の男子の間で、小説の、しかも恋愛小説が流行るとはね。自分のときとは大違いだ。

「オジサンはどうせ本なんか読まないんでしょ。だから教養も無いし、ろくな職業に付けなかったんじゃないの」

自分の小学校のときのことか。ほとんど覚えていないな。覚えていたとしても良い思い出などこれっぽっちもない。
給食が食べられずに残して昼休みが終わってしまったこと。
割ってもいない窓ガラスで先生に怒られたこと。
何となく当時から貧乏くじを引きやすい子どもだった、そんな印象しか残っていない。
ただ、休み時間でも、家に帰ってでも、することがなくずっと本を読んでいた。
そうそう、自分がこの少年くらいの時分に読んで一番印象に残っている本といえばなんだろう。

「・・・6つのとき、原始林のことを書いた『ほんとうにあった話』という、本の中で、すばらしい絵を見たことがあります。それは、1ぴきのけものを、のみこもうとしている、ウワバミの絵でした。これが、その絵のうつしです」

少年はぽかんとしている。
一呼吸おいたあと、彼は口を開いた。

「・・・なに、それ」

「知らないのか。サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最初の一節さ。砂漠に不時着した主人公と地球にやってきた王子さまの物語だ。名前くらい聞いたことあるだろう。子どものころは、毎日のように読んでいたな。あの頃は書いてある内容がさっぱり分からなかった。だって当然のことしか書いてなかったからね。それが大人になって読み返してみるとようやく本来の意味が分かってくるもんさ」

私は部屋のドアの方を見ている。少年を見ているわけではない。それでも少年がこちらを向いていることくらい分かる。

「子どもの頃は分からないんだよ。大人になったら分かる」

「・・・それって子どもがバカだってこと?」

「逆だね。子どもはなんでも知っている。知らないのは知っていたはずの大人だけ」

「知ってたはずの大人?」

「星の王子さまで有名な一節がある。『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ』ってね」

「意味分かんないけど。当たり前じゃん」

当たり前だ。あの頃の俺と話したら意外と趣味が合ってたかもしれないな。

「そう当たり前なんだ。それは子どもが何でも知っているから。何でも知っている人は、何も分からないんだよ」

「やっぱり意味分かんないけど」

「例えばそうだな、家族がいるとするだろ。俺にも家族がいる。愛しくて愛しくて、それこそ掛け替えの無い特別な存在だ」

「中年のオジサンのお惚気話なんて聞く気はないよ」

「正確に言えば、家族が『いた』だな。実はな最近になって愛想をつかせて出ていったんだ。離婚届に名前とハンコだけ押してある紙っペラだ。後はご自分の名前を書いて適当に市役所に持って行ってくださいってな。あれを叩きつけられたときはそれはそれは驚いた」

「・・・あっそう」

「それでも妻のことは愛しているし、今度中学校に入る息子だって、それこそ目に入れても痛くないくらいだ。ただな、それに気づいたのは、妻と子どもが出ていってからだ。情けないことに、それらの大切さを無くさないと気がつかなかったんだ」

少年は私のことを見ているだろうか。見ていなくても良い。これは自分自身の贖罪だ。

「君にも家族はいるだろう。どんな家族だい」

「・・・クソみたいな父親だよ。少なくとも僕はそう思ってる」

「君を思って夜遅くまで塾に通わせてくれるなんて良い親じゃないか。自慢じゃないが俺の親なんて・・・」

「勝手なことを言うな」

声色が変わった。ひどく低音で腹に響く感じの声だ。
苦汁を口に含んで必死で飲み込もうとしているような、そんな声色。

「僕は嫌いだね。あんな奴」

「ふむ、具体的にはどんなところがだね」

「奴は自分のことしか考えてないのさ、父親は。夜遅くまで塾にやってくれる良い親? ふん、大概にして欲しいね。奴は世間体しか考えてないのさ。自分たちが東京の有名な大学を出て、有名な会社に就職して、そして会社経営者になって、それが最大であり唯一の自慢ごとなのさ。ハナっから僕のことを見ていない。僕を最初からいないもんだと思ってるのさ」

「まてまて、それは言いすぎだろ」

「少なくとも僕はそう思ってないね」

語尾が荒々しく弾ける。ここまで激高した夏樹少年を見たことはない。無能な自分を叱り飛ばした時とはまた違った、悲しみを帯びた怒り。
私も声を張り上げて、そんなことは無いはずだ、子どものことを考えない親がどこにいる、と言ってやりたい。しかし他人の家庭の問題にあれこれ口出すのもはばかられた。

「かなり怒ってるんだな。親は、一体お前に何したんだよ」

「何も」

少年の言葉から熱が消え失せた。

「何も? 何もってなにを」

「だから何もさ。話し相手になってくれることも、おママゴトに付き合ってくれることも。ここ数年一緒に食事したことさえ無いよ。だからね、オジサンの話を聞いて羨ましくなったんだ。言い争いのできる親って良いなって。口喧嘩もなければストレスの捌け口すら無いんだよ。うちの家は」

そこで少年の言葉が途切れた。
もしかしたら泣いているのかもしれない。私は無意識に目を逸らす。

「とにかく。僕はあの父親が嫌いだ。だから困らせたかっただけだ」

困らせる。
それはひっくり返せば他に向いている意識を、自分に向けさせたい本能なのかもしれない。
少年は身体を横にした。どうやら仮眠をとって休むようだ。
その小さな瞳を薄い瞼で覆い隠しながら言う。

「本番は明日だ。それまでに少しでも体力を回復させておいたほうが良いよ」

それっきり少年からは寝息が聞こえるようになった。
とても優しい寝息だった。

私は来ていたヨレヨレのコートを少年にかけてあげた。寒さを凌ぐという意味ではほとんど意味を為さないだろうが、まぁ気休めだ。
少年を見ると我が子を思い出す。最近見ていない妻と一緒に出ていった我が子を。
あぁ、そう言えばあいつも中学生にるんだっけか。月日というのは早いもんだ。
きっとあいつもこの子くらいの時には、似たようなことを考えていたんだろうな。
親が鬱陶しくって、でも構って欲しくて。今もそうなのかな。
でも私は一度だってそれを正そうとはしなかったさ。

子どもは親の言うことなんか聞きやしないさ。特に思春期を迎えれば何を言ったって無駄だ。大人になる過程の子どもは自分の領域を触れられるのを極端に嫌がる。
じゃあ親は子どもの領域に全くの不可侵を貫けば良いか。それはまた違う。
子どもが嫌がることを承知で触れなくてはいけない事がある。
それが「感情」だ。
生まれたばかりの赤子は原始的な感情しか持たない。大人になれば感情を理性でうまくコントロールできる。
でもその中間ならどうだ。
感情のコントロールもままならないのに、理性自体もうまくコントロールできない。ましてや「自分は理性で感情をコントロールできる」と勘違いしているのも大きい。
このくらいの年頃では、思考や理性でなく未だ感情が占める割合が大きい。ましてやうまく働かない理性の相乗効果もあって余計に質が悪い。
喜びや嬉しさと言ったプラスの感情もあれば、怒りや悲しみといったマイナスの感情もある。
そしてその感情は自然と蓄積する。プラスの感情もマイナスの感情も。プラスマイナスは関係ない、その量が重要だ。
例えプラスの感情であろうとも、溢れることは感情の爆発に繋がる。
喜びだろうと悲しみだろうと一緒くたに纏めらいつか爆発する。それを時にガス抜きさせてあげなくてはいけない。ちょうど水でいっぱいのバケツにわざと穴を開けて溢れないようにしてやるのがそれだ。それが大人の役割であり、親の仕事だ。
バケツに穴を開けないと苦痛を味わうが、かと言ってバケツに穴を開けられるのも彼らは拒む。でも誰かが開けてやらなくてはいけない。
大人は経験上分かっている。でも子どもは分からない。
勉強は学校でもできるし、遊びは友達ともできる。でも感情のガス抜きは親がしてあげなくてはいけない。
それを放棄するのなら親としての職責を努めていないことになるし、そもそもそれが分からないなら親としての資格はない。
じゃあと自問する。
自分は果たして親としての職責を全うできたのか?
そもそも自分は親としての資格を有しているのか?

もう一度会いたいな。
今、何してるんだろうか。
勉強はついていけてるのかな。
誰か良い相手を見つけてるのかな。
私と会ったら、どう思うんだろうな。
誘拐なんてしでかした実の父親と向かい合ったら。
きっと聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせるだろうな。
いや違うな。
きっと目も合わせてくれない。
口も聞いてくれない。
会ってさえくれない。
きっと『実の父親』とさえ認識してくれない。
夏樹少年のように。

きっとそうだろうな。

あぁ。
寂しいもんだな。

少しずつ微睡む意識の中でそう思っていった。

第6章 11月24日 11:00ごろ

ブルーバードが阪本家に到着した。自分は興奮していた。まずは宇佐美青年から聞いた、コンビニに現れた不審人物の報告をしたかった。
阪本家のリビングには地元交番の警察官が数人と主任が在中していた。
皆、鳴るかどうかも分からない電話の前で沈黙していた。

「樹村です。ただいま戻りました」

そんな自分の声がやたらと響いた。

「おう、遅かったな。で、結果はどうだった・・・」

抑揚こそ小さかったが、しかしその口調はいつもと違っていた。
何かあった。
自分が阪本家を離れている間に何かあった。そう思えてきた。

「はい、宇佐美青年のアパートには誰かをかくまった形跡はありませんでした。でも新情報が入りました」

「・・・そうか、じゃあこっちで話そう。俺たちもお前たちに報告することがある」

警部は重い腰を上げながら緩やかな口調で話す。
警部は阪本夫妻のいるリビングを離れ、隣の誰もいないキッチンに移動した。
桐星がキッチンのドアを閉めたのを確認すると、警部は換気扇のスイッチを入れた。

「最近は分煙化が進んでいるからな。普通にリビングで吸うと怒られんだ」

内ポケットから愛用のマイルドセブンを取り出し口に咥える。紫煙がゆっくりと辺りに漂い始めてから主任の眼が変わった。

「よし。報告を聞こう。何が分かった?」

「はい。まず先ほどお話したとおり、宇佐美青年はシロです。彼のアパートを見てきましたが子供一人を匿う場所はありませんでした。もともと置いてあるものが少なくて部屋の収納スペースまで見渡せましたが、誰もいませんでした」

「だろうな、予想した通りだ。で、他は? そんなことを息巻いて報告しに来たわけじゃないだろうな」

「勿論です。その宇佐美青年なんですが、深夜にコンビニのアルバイトしています。そのとき、不審な人物を目撃したようです」

「不審な人物?」

「えぇ。なんでも雑誌という雑誌を片っ端から買い込んだ中年の男性がいたらしいんです。みすぼらしい格好をしていて、年齢は40代から50代。今回の誘拐事件で被害者が誘拐された時刻のすぐ直後です。そのコンビニのある場所はK*駅の近くです。届けられた脅迫文が雑誌の文字の切り貼りだったことから、この男性は非常に怪しいと思われます。」

報告は終わった。しかし当の警部は険しい顔をしまたまま動かない。

「犯行のあった当夜にコンビニに現れた不審な中年男性か・・・」

「えぇ。なのですぐにそのコンビニに飛んで防犯カメラをチェックしたいと思います。まだ昨日のことですし、記録に残っている可能性はあります」

主任は肺に溜めた有害物質をたっぷり含んだ排ガスを勿体なさそうに吐いた。

「悪いがそれはダメだ。空振りに終わる。お前たちにはほかの仕事がある」

警部の思いのほかの言葉に胸を撃たれた衝撃が走った。

「なぜです。こんな怪しい人物はほかにないでしょう。なぜ我々にはそれが許されないんですか」

「俺が思うに、そのコンビニに現れた不審人物は不審ではあるが犯人じゃない。犯人でない以上、そんな人物の調査をしても時間の無駄だ。お前たちには引き続き宇佐美青年の友好関係を調べてくるんだ」

「どうしてですか!」

「なぜあの中年男性が犯人じゃないって言い切れるんですか。どう見ても怪しいでしょう!」

「確かに今の話を聞けばそうなるだろう。しかし俺はそうは思わん。今回の事件は計画犯だ。事前に周到に準備をしていたはずだ。誰を誘拐するか、いつ誘拐するか、どうやって脅迫文を渡すか、そしてどうやって身代金を受け取るか・・・。それらを計画的に勧めていった人物に違いない。そんな人物が脅迫文を作るのに、脅迫文に必要な雑誌を犯行のその日に買うのはおかしいだろ。その不審人物はただの変な奴だ。今回の誘拐事件とは関係がない」

警部の言葉は重かった。確かにそのことは思った。誘拐犯が人質を攫ったそのあとに材料を買って脅迫文を書くなんて聞いたこともない。そんな犯人は遅かれ早かれ警察に捕まる。
納得すべき点はある。
しかしどうだろう。実際はそうではない。誘拐犯の人物すらろくに特定できてないじゃないか。現にこうやって現場では意見が割れているし、犯人の有力な証言すらない。
すると背後の桐星が黙っていなかった。今まで黙っていた鬱憤を晴らすかのように警部に食ってかかったのだ。

「犯人はそのコンビニに現れた男性です。犯人と断定できなくとも少なくとも、監視カメラのチェックを行いその後重要参考人ということで話を聞くべきです」

人のスーツの襟を掴みかかる所どころか、声を荒げるところすら見たこともな桐星の姿。その姿に気圧され全く動けなかった。

「なぜです。なぜ警部はそこまであの男性の調査を拒むんですか」

「時間がないからだ。犯人が誰かの特定の前に、こちらも準備しなくてはいけないものがある」

そう言ってスーツの内ポケットから四つ折りにされた紙切れを出して渡した。そこには見慣れた雑誌の切り抜き文字が。


―――3億円の身代金は 5000万円ずつ6つのボストンバッグに入れて用意しろ。なお 3億円は全て新札ではなく 古札にしろ。6つのバッグの受け渡しは また連絡する


それだけだった。
6つのバッグ?
なぜそんなことをするんだ。
そんな当然の疑問が湧き上がった。

「主任、これは」

「お前たちが宇佐美青年のところに行っている間に届いた第2の脅迫文だ。もちろん、最初と同じように全く関係のない人物から持ってこられた。おい、名前はなんて言った?」

近くにいた警官がいそいそとメモ帳を見ながら答える。

「えっと、永作栄子、24歳。すぐ隣のH*市に住む医学生です」

「だそうだ。こっちは女性だった。だからお前たちじゃなくって婦人警官を調べにやった。まぁ結果はお前たちと同じように犯人とは無関係ってことが分かったがな・・・」

「また無関係な第三者がメッセンジャーとして使われたと・・・」

「そういうことだ。案の定その永作も身に覚えがないと言っていた。今回と同じように報酬として一万円が同封されていたのも同じだがな。分かっただろ、犯人はここまで用意していたんだ。脅迫文を2通、あるいはそれ以上送ることは計算していた。そして樹村の言うメッセンジャー役をこうして別々においている。こんなもの即興で誘拐を起こす奴にはできん。ちゃんと下調べもしなくてはいけないしな。分かっただろ、今回の犯人は計画的犯行だ。分かったらとっとと聞き込みにいけ。犯人は宇佐美青年と永作氏との共通の知り合いだ。そうとしか考えられん。2人とも大学生だ。バイト先やサークル仲間、最近ではSNSの交流もありえる。そう言った事も頭に入れて行動しろ」

主任が鼻息を荒くする。そして周りの警官にも指示を与えている。
そうなのかもしれない。
いくら犯人でも脅迫文を、誘拐したその直後に作成する訳があるまい。しかもそれに使用する雑誌をその夜買いに出かけ、あろうことか店員に見つかる。そんなことがある訳がない。
主任の言うことも分かる。

「よし樹村。桐星と一緒に宇佐美の交友関係を当たれ、片っ端だ。そうだなまずだ大学に・・・」

その時だった。

「清里主任!」

またしても桐星が吼えた。

「話を聞いてください。これは計画的犯行じゃない。・・・これは突発的な犯行だ」

必要以上に大きな声だった。周りの警官どころか奥のリビングにいる阪本夫妻にも聞こえただろう。それでも桐星はやめない。

「宇佐美青年や、永作女史の友好関係を聞いて回っても犯人にはたどり着けません。辿りつたとしてもそれでは時間切れになります。お願いします。信じてください」

土下座だった。
あの無気力、無知蒙昧な桐星がまさかの土下座だった。
秋の稲穂のようにその頭を床のフローリングに付けた。

「・・・なぜそう思う。他の理由は?」

「携帯電話です」

「携帯電話? 犯人は使っていないぞ」

「だからです。犯人が携帯電話を使わないからこそ、今回の事件は不自然なんです。今回の事件、誘拐の脅迫文を郵便や電話でもなく、第三者をメッセンジャーとして利用し送ってきました。そこには報酬も一緒だそうです。こんな手間のかかることをしなくても良いはず。自分はそう思います」

「しかしだ桐星、電話を使えば逆探知される、手紙を使えば消印が付くし計画した時間の通りに送ることはできない、メッセンジャーを使うことは逆探知される心配もなければ、時間どおり運ぶことができる。何も荒唐無稽なものではない。むしろ単純ながらよく考えているとは思わんか」

「そうです計算されています。だからです。なら携帯電話を使ったほうがもっと簡単になおかつ確実にできます」

「携帯電話でも逆探知される可能性はあるだろう。犯人はそれを恐れたんじゃないのか」

同じ話をブルーバードの中でしたのを思いだした。思わず桐星の助け舟を出す。

「あぁ、その話なら自分もしました。なんでも家にある固定電話とは違って携帯電話は基地局までしか逆探知はできないそうです。基地局はただ突っ立てるだけで、きた電波を次の場所にお送るだけ。携帯電話は使用者が動き回ってますからね、正確な場所を特定するのは不可能で、電波の送受信を行う基地局までしか特定できないそうです」

「基地局? 道路の脇なんかに立っている馬鹿でかい塔のことか。それでも記録は残るだろ。それが分かれば携帯電話の持ち主が判明する、それだって犯人には困っるはずだ。盗難された携帯電話ではすぐに使用禁止になるしな」

「プリペイド携帯があります」

低く唸るような桐星の声だった。

「プリペイド携帯とはプリペイド、すなわち料金の前払いで使用する携帯電話です。最初に通話料を先払いし、その料金だけ通話できるものです。数年前まではコンビニでも売っているし、インターネットで注文することもできる。また料金が前払いだから書類への押印も身分証明も必要ない。ネット販売で購入すれば店員と顔を合わせる必要すらない。これを使えばメッセンジャーを使わなくても簡単に、かつ確実に脅迫文の内容を伝えることができる」

俺と主任は黙ってしまった。

「ここまで計画的に犯行を進めてきた犯人が、そのことに気づかないはずがない。おそらく犯人は使おうにも使えなかったと考えるのが妥当です。昨日の深夜に犯行に及び、今朝になって脅迫文を送りつけるには時間が限られていたからでしょう。だからプリペイド携帯を使うことを断念してわざわざ面倒くさい方法を取らざるを得なかった。違いますか?」

警部は腕組みをする。右手の親指と人差し指の腹で顎鬚の剃り残しをなぞる。何かに思案している証拠だ。宙を見上げてはまた視線を桐星に移す、その繰り返しだった。

「桐星、確かにお前の言うことも一理ある。犯人が携帯電話を使わずにわざわざ第三者に手紙を寄越させるなんて回りくどい方法を取る必要はなかったはず。その点においてはお前の意見に賛成だ」

「じゃあ」

「ただし一理あると言っただけだ。それで俺は今回の事件は計画的犯行だと考えている」

「・・・主任」

「犯人の頭の中にお前の言ったプリペイド携帯のことはあったかもしれん、しかし犯人はあえて使わなかった可能性もある。例えばネットで注文すればどこのパソコンを使ったと言うのが分かるし、ケータイショップで購入しようにもそれなら店員にも顔を見られる可能性がある。犯人はそれを恐れたのかもしれない。まぁそんなこと考えるとは限らんがな。俺ならそう推理する」

「主任待ってください」

桐星の両腕が警部に伸びようとしていた。それでも主任は一言で彼は黙らせた。

「あるいはこう考えられんか。犯人は我々にこうやって混乱させるためにプリペイド携帯を使わなかった、とな。犯人が会社経営者の息子を狙ったことしかり、誘拐した場面を誰も目撃していないことしかり、そして身代金として要求してきた金額が会社の今後を左右する資金と一致することしかり、どれをとっても計画的な犯行としか思えん。どの道、お前の話だけでは突発型犯行説を裏付けるわけには行かん。悪いが2人は予定通り聞き込みに行ってもらう。犯人はまず手紙を届けにきた2人、宇佐美氏と永作氏両氏と少なくとも面識を持っていた人物だと考えられる。でなくては、彼らが午前中比較的時間が空いているという事を把握することはできない。誘拐犯は非常に金銭に困っている者、と言うよりは・・・、SAメディカルギア株式会社と敵対する会社に関係が深い者だ。今回は金銭目的というよりはSAメディカルギア株式会社から資金を奪いたいと思う連中の仕業と見て間違いないだろう。よしA班は宇佐美氏のサークルの交友関係を、B班は・・・」

主任は何事も無かったかのように部下に指示をはじめる。
自分は何もすることができなかった。桐星の双眸は未だ清里主任を睨みつけていた。主任も主任でそんな彼を睥睨するだけだった。
桐星は立ち上がりくるりと方向転換すると、そのまま家の外に出て行った。自分も主任に言われた聞き込み場所をメモし、後を追った。


*  *  *


ブルーバードはいつものように幹線道を走っていた。
いつもと同じようなスピードだったが、明らかに助手席に座っている人間の様子はいつもどおりではなかった。
桐星はさっきからずっとウィンドウ越しに外の風雨系を眺めている。いや、正確に言えば風景すら見てはいないだろう。見ていれば分かる、心ここにあらずと言うのが。

「・・・おい、少しは元気出せよ。主任にあんなこと言われたからって」

返事はない。まぁ、予想していたとおりだ。
しかし予想できなかったこともあった。何を隠そう、その桐星のことだ。
あの桐星が主任にあそこまで突っかかるなんて。普段何をするでもなくただ時間があれば寝てしまい、事件があったとしても被害者の家の中を自由気ままに拝見し、そうかと思えば事件の関係者の大学生には質問し始める。それも思いのほか鋭い質問だったりする。そして極めつけは警部のへの反抗的とも言える態度。全てが何となくすっきりしない。

「なぁ桐星。さっきお前が言っていた話だけど良いか?」

彼は答えない。それをイエスと受け取って俺は話を続ける。

「確かにお前の話は最もだと思うよ。犯人がなぜ電話はおろか携帯電話も使わないで脅迫文を送ってきたのか、それには自分でも納得できていない。計画的犯行なら無関係の第三者を使って脅迫文を送るなんてことはしない。だってそっちのほうが不確実だからね。宇佐美さんや永作さんが郵便受けをうっかり見ない可能性だってある、見てもいたずらだと思って捨ててしまうこともある、あるいは報酬だけ受け取ってしまってあとは無視するかもしれない、時間通りに届けることができないかもしれない。いろんな可能性がある。そんな可能性を押してまで第三者に手紙を託すなんてするだろうか。自分が犯人だったらしないね。だったらプリペイド携帯を最初から入手して阪本家に電話したほうがよっぽどましさ。そう思うだろ。自分が計画的に犯行を行うんだったらこんな方法はしない」

やはり返事は返ってこない。

「確かにプリペイド携帯を使うことにデメリットはある。まず購入時だ。今では携帯電話の悪用が横行しているからコンビニで誰でもいつでも購入、とまではいかない。ネット販売やケータイショップに趣いて直接購入のどちらかになるだろう。このときどちらも形跡が残る。ケータイショップに出向いたらコンビニ同様、客に見られなくてもどうしても店員と顔を合わせてしまうことになる。またネット販売でも警部の言ったとおり注文の履歴を見れば、いつ、どこで、どのパソコンから注文したかが分かってしまう。まぁ、ネットカフェのパソコンで注文するっていう手もあるが、それだと今度はネットカフェの監視カメラ等に映り込む危険性もある。それに無事電話をかけて要件を伝えたとする、となれば今度は電話会社に通話記録が残る。プリペイド携帯とは言えきちんと電話番号が割り振られている訳だし、何時何分に何処の基地局を介して通話が行われました、と言う記録は絶対残る。警察は必ずこの痕跡を追ってくるだろう。それが携帯電話を使った時のデメリットだ。そうだろ?」

返事は返ってこない。でも自分も勢いづいてきたのでまだ話をやめるつもりはない。

「でもこのデメリットだって致命傷かと言えばそうでもないと思うぜ。だってそうだろ、さっき言ったようにどんなに電話会社のデータベースに記録が残っても個人情報である以上、会社がそう簡単に情報をこっちに差し出してくるわけがない。必ず捜査令状を取らなくてはいけない。捜査令状を取っていざ会社に乗り込んでも会社で特定できるのは電話番号と基地局まで。あとは犯人が基地局内のどこかで電話をかけたということしか分からない。携帯電話の使用者を確かめようにも身分証明もなにもやってないから電話番号から遡って何処の工場で作られどこに発送されたのかをいちいち調査しなくてはいけない。何処のパソコンで注文を受け、そのパソコンの使用者はどこにいるのか、ネットカフェのような不特性多数の場所や自由にインターネットが使える公共施設ならもうアウトだ。もし分かったとしても犯人に特定するのは時間がかかりすぎる。そのあいだに犯人は外国に逃げることだって計算上は可能だ」

桐星はやはり何も言わない。でも何も言わないということは特に修正点も無かったということだろう。ひとまず安心した。

「そう考えるとやはりしっくりこないな。なぜ犯人はプリペイド携帯を使わなかったんだろう。むしろ宇佐美青年と永作さんを使っただけ、2人の知り合いと言うことがバレるはず。一体何の意味があるのか・・・」

「お前はどっちの見方なんだよ」

やっと桐星が口を開いた。
抑揚のない声だったが、それでも自分の話を聞いてくれていたということが分かっただけ少し嬉しかった。

「いや・・・、俺はどっちの味方とかじゃなくて計画的犯行、突発的犯行の両方を吟味してるのさ。桐星の言うことも分かるが、でもしかし清里主任の言うことだって的外れじゃないぜ。誘拐されたのが一般市民じゃなくって会社経営者の息子だ。目撃者もなく、会社が業務提携を結ぶのに必要な資金の3億円を要求してくるという部分もある。これは予め準備・計画しなくちゃできないことだろ」

「夜の11時30分に塾帰りだぜ、誰が見たって家庭に経済的余裕があるって分かるだろ。それに身代金だってただ単に『3億円』って金額が業務提携の資金と一致したってだけだ、脅迫文にそう書いてあったわけじゃない。3億円近く借金がある奴が困って犯行に及んだって可能性も捨てきれない」

ははぁ、と心の中で感心した。こいつは何を考えているか分からない顔をしながら、しっかり考えているんだ。

「それでも、誘拐の瞬間の目撃者がいないって不思議じゃないか。普通子どもが大声出すし抵抗もするはず・・・」

「普通はね。ただ、誘拐された息子自身が積極的に付いて行ったら、どうだ?」

「は? 被害者の息子が? なんで?」

「嫌だったんじゃないか、あの両親が」

そう言うと再び話す気力を無くしたのか、黙ってしまった。視点は窓の外の遠く空。この季節には珍しく入道雲が見えた。もしかしたら一雨来るかもしれない。そんなことを感じさせた。
自分はまた前方を直視する。フロントガラス越しに見える風景は色あせていた。木々は緑を失って早々と冬支度をしている。行きかう人々だってマフラーに顔を深々と埋もれさせている。

―――嫌だったんじゃないか、あの両親が

今の桐星の言葉だ。それが何故か気管支のあたりをグルグル回っている。咳き込んでも吐き出せないような、そんな小さな塊だ。
嫌だった?
何をだ?
両親をか?
誰が?
まさか誘拐された息子が?
まぁ思春期を迎える男の子ならな、そのくらい当然か?
それがどうした?
そう言えば、さっき桐星が言ってたな、秋春氏と千咲冬氏の中は本当に良いのかと。
あれはどういう意味なんだ?
これはつながっているのか?
どうなんだ?
それが何を意味するんだ?

「おい、そこ左に曲がってくれ」

桐星の指示だった。自分もあぁ、と言って素直に曲がってしまった。
なんで曲がってしまったんだろうと後悔しながらもしょうがないので、そのあとも桐星の言われるがままにハンドルを切った。
しばらく行くと桐星がここだ、と小さく言った。しょうがないのでそこで車を止める。
桐星が車を降りるので追わせて降りる。
K*駅の駅前からほんの少し離れた場所だった。K*駅と言う大きな駅の近くなはずなのになぜだろう活気というものがあまり感じられなかった。
周りを見ても古びたビルと寂れた商店街の軒ばかり連なっていた。賑やかな大通りを一本でも横道にそれると閑散さが増すんだな、誰かさんのアパートの周りみたいだ。単純にそう感じた。
一方の桐星はというと、自分には目もくれず、目の前のコンビニに入っていった。
あぁ、このコンビニは・・・。

桐星が入っていったのは、宇佐美青年が昨夜アルバイトをしていたと言うコンビニだった。
彼はそのままテーブル越しに店員に話しかけていた。
店員は目を丸くしながら驚いていた。そして「店長を呼んでまいります」とでも言ったのだろう、早足で裏に消えていった。
そうかと思うとすぐに年長者の店長であろう人物が飛び出してきた。

「はい。私が店長の林です」

メガネをかけた男性だった。年は50代くらいであろうか。毛髪自体は豊富であるが白髪が多いが若干多い。ポマードで髪の毛をびっちり固めている。
こんな場所でコンビニを経営しているんだ、苦労しているんだろう。勝手に心の中で同情した。

「お忙しいところ申し訳ありません。一里塚署の桐星と申します。本日はちょっとお願いがありましてお伺いしたのですがよろしいでしょうか?」

「えぇえぇ。どうぞどうぞ」

店長は腰を低くして店舗の奥に我々を案内した。
ドア一枚隔てるとそこは別世界だった。蛍光灯の光や色鮮やかな商品のラベルが消え、ただのうす暗い控え室だった。

「あの、本日はどのようなご用件で?」

「実は捜査にご協力していただきたいんです。監視カメラの映像の記録はありますか?」

「監視カメラの記録ですか。もちろんございますが。失礼ですが何か事件でも・・・」

相手は慇懃ながらもこちらの様子を伺ってくる。

「正直に申し上げてそうなります。いえこのコンビニがとか、ここの店員がどうのと言う話ではありません。実はですねこの周辺で誘拐事件がありました」

「え! 誘拐事件ですか」

馬鹿野郎。勝手に喋る奴があるか。

「はい。ですからこれからお話することは現在捜査中の事柄でして、他言は無用にしていただきたいのですが」

「そ、それは勿論です。それで監視カメラの映像と言うのは?」

「宇佐美という青年をご存知ですね。宇佐美俊雄です。昨夜ここでアルバイトをしていた大学生です」

「う、宇佐美くんが誘拐ですか!?」

「そうではありません。間違っても彼が犯人ではないかということではありません。彼が怪しい人物を見たと証言しております。なんでも雑誌という雑誌を買い占めていった人物らしいんです。我々も是非ともその人物の映像を収めたいんです犯人が写っているかもしれないんです。彼がバイトをしている時間帯の監視カメラの映像を見せてはいただけないでしょうか」

「それなら。どうぞこちらです」

控え室の更に奥へと案内された。そこには小さなブラウン管のテレビとレコーダーが置いてあった。テレビには現在店内に設置されている監視カメラの映像が映し出されている。

「えっと、少々お待ちください。昨夜の宇佐美くんの時間帯ですよね。このあたりかな・・・」

店長が機会をいじりながら映像を巻き戻す。画面右上に日付と時刻のようなものが高速逆回転している。

「この辺ですね・・・」

店長が機会をいじるのを止めた。時刻は昨日の日付で午後10時50分を示していた。ちょうどレジの正面とブックラックのあたりの映像が流れている。白黒で不鮮明ではあるが、確かにレジに立っているのが宇佐美青年であることは確認できる。
しばらく何の変化もない映像が流れる。店長が早送りをしてくれる。
ほんの数十秒眺めていると、店長が手を止めた。

「誰か入店しましたね」

その声に合わせて視点をブラウン管に向ける。
するとどうだろう、さっきまで客らしい客がいなかった店内に、1人の男性が入ってきた。時刻は午後20時38分。
入店した男性は迷わずする書籍を置いてあるブックラックに向かった。するとどうだろう、確かに宇佐美青年の言ったとおり、ラックにある雑誌を片っ端からかごに入れているではないか。それも漫画雑誌や週刊誌からありとあらゆる雑誌をだ。どう見ても本を読みたいから買っているようには見えない。
この男だ。そう察知した。

「こ、この男だ。この男、ご存知じゃありませんか?」

「さぁ名前はわかりませんね」

「そか、そりゃそうか・・・」

「名前はわかりません。でも見たことはあります」

「見たことがある? この男をですか」

割り込んできたのは桐星だった。

「えぇ。このコンビニの数少ない常連さんですよ。名前までは聞いてませんが、幾度かは話をしたことがあります。えっと何て言ってたっけな・・・、確かトラックの運転手をしていたけど最近になってその会社が贈収賄か何かで潰れて今は無職だ、みたいな会話をしたことが1度だけあります」

「トラックの運転手・・・、贈収賄・・・、それはいつの話です? つい最近ですか」

「えぇ。ここ1、2ヶ月の話だと思います」

「その男、会話をした男に間違ないんですね」

「はい間違いないと思います」

その言葉を聞くが早いか、桐星は控え室をあとにした。
俺はお礼を言い、ついでにその動画のコピーを頂いて、後を追った。
桐星はすでに店内には居なかった。コンビニの外で待機していた。ブルーバードにロックを掛けていたおかげで中には入れなかったのだ。
ブルーバードに乗り込むと奴は口を開いた。

「誘拐事件の直後に、しかも事件現場のすぐそばのコンビニで大量の雑誌を購入した人物がいた。犯人かあるいは重要参考人である可能性は非常に高い」

「あぁそれは同意する。でもここからどうするんだ。今俺たちに分かっていることは奴さんの顔だけだ。名前も素性も知らない。これ以上の事は俺たちだけの力じゃ無理だ」

「なら応援を頼めば良い」

「あほ。誰に頼むんだ。うちは全員この事件の捜査に引っ張られるから手の空いている人間はいない」

「うちの部署は空いてるぞ、多分」

「俺は捜査二課、お前は二課、部署が違う。」

「なら上に掛け合って課長か部長に・・・」

「馬鹿か。ただでさえ主任は今回の事件を計画的誘拐事件だと思ってるんだ、誰が掛け合ってくれる。そもそも俺たちは上司の指示に背いて行動している。始末書ものだぞ!」

「そうか、動いてはくれないか」

奴は仰々しく腕組みを始める。
その姿勢がやたら腹立たしく思えてくる。

「いい加減、あの宇佐美って青年の交友関係の聞き込みに戻るぞ。第一、顔しか分からないんだぞ。前科者リストで調べても何十万人いると思って・・・」

「この1~2ヶ月の間に、贈収賄問題を起こして、結果倒産した運送会社に務めていたこの周辺に住む会社員ならそうはいない」

「・・・運送会社の会社員?」

俺はつい先程のコンビニ店長の会話を思い出した。
『確かトラックの運転手をしていたけど最近になってその会社が贈収賄か何かで潰れて今は無職だ 』
確かにそう言っていた。なるほど、その条件にある人間なら数は限られる。

「樹村、署に電話だ」

言われなくてもするさ。携帯電話を取り出す。直接一里塚署にかけてもだめだ。そもそも俺たちは上司の指示とは違うことをしている。バレれば本当に首が飛びかねない。
だから詳しい内容を話さなくても頼みを聞いてくれる奴に直接電話しないと。
電話帳リストを眺めながら人選していく。

prrrr

3コール目で相手が出た。

『あ、久しぶりですね樹村先輩。どうしたんですか急に?』

呑気な声だった。多少のイライラを感じたがそれどころではない。

「若田部か。実はお前に折行って頼みたいことがあるんだが良いか」

『え、自分ですか。まぁ、大丈夫ですけど今何してるんですか。確か捜査二課は誘拐事件の捜査してるはずじゃ』

「時間がないから手短に話すぞ。まず今、俺がお前に電話したことは誰にも言うな良いか!?」

『え、はい・・・』

「よし次だ。確かお前は証拠品の管理の事務作業を受け持っていたよな。探して欲しいものがある」

『ちょ、ちょっと待ってください。え、何ですかこれ、事件と何か関係があるんですか?』

「今は詳しくは言えない。俺らも主任の命令とは違うことやってんだ。だから頼む」

『清里さんに無断で動いているんですか!? それはまずいですよ。下手したら停職になりますよ』

「だからこうやってお願いしてるんだ」

『ちょっとマジ勘弁ですよ。それ手伝ったら僕も処分受けますよ。困りますよ・・・』

「頼む」

『無理ですって・・・』

「・・・・・・お前、この間合コンしたいって言ってたよな」

『・・・言いましたけど』

「俺がセッティングしてやる」

『・・・・・・』

「あと、お前が好きな若い女教師でセッティングしてやる。これでそうだ?」

『・・・』

「・・・」

『・・・』

「・・・」

『・・・絶対ですよ』

「サンキュ。恩にきる。この事件が片付いたらすぐに用意するから」

「で、何を調べれば良いんですか」

「今から1~2ヶ月以内に、贈収賄問題で摘発された運送会社があるかどうか調べてくれないか」

『分かりました。ちょっとやってみます。・・・・・・・・・あぁ、有りましたね。一件あります。
えぇっと、会社名はエアトランスファー株式会社というところです。
1ヶ月半前の10月10日ですね。K*市の市議の宮本宇太朗氏に、市の備品物品輸送の仕事を優先的にエアトランスファー株式会社に回した疑いがあります。
その見返りに金品を渡していたとのことです。これが明るみになり宮本市議は辞職、会社の方も倒産を余儀なくされています』

その言葉を聞いたとき、思わず助手席にいた桐星と目があった。
声には出さなかったが、お互いに心の中で「ビンゴ」と叫びあっていたことだろう。

「その資料はあるか?」

『資料ですか、んとですね、えっと・・・。あぁ、ありますね。ちょうど保管室に置いてあります』

「どんな資料がある?」

『経営の二重帳簿から、宮本市議との電話の記録やら・・・』

「社員の個人情報が載っているものはあるか。できれば顔写真が載っているもので」

『たぶんありますよ。確か社員の履歴書のファイルも一緒に押収された記憶があります。それで良いですか』

「良しでかした。これからそっちに戻る。そのファイルを見せてくれ。用意できるか?」

『了解です!』

「くれぐれも他の奴に見つからないようにな」

『分かってますって。先輩こそ約束忘れないでくださいよ』

「巨乳が良いか?」

『どちらかというとメガネっ娘で』

「オーケー。じゃあ10分でそっちに戻るから」

携帯電話の通話を終了した。キーが折れるほど捻り上げる。エンジンがそれに呼応する。

「・・・樹村、お前、女性教員と交流があるのか」

「・・・たまにな。お前もくるか?」

「考えておく」

ブルーバードのアクセルを踏みしめる。エンジンがそれに呼応する。
やみ始めた小雨を裂きながら、古車は一里塚署へと向かった。



*  *  *


1階の喫煙所に3人は集まった。
数年前までは愛煙家でごった返していたが、最近では健康志向のせいか、はたまた公務員への強い風当たりのせいか、喫煙所が活躍する機会がどんどん減っていった。
おかげで誰にも見られたくない会話なんかをする場所には持って来いの場所になっていた。

「急に悪かったな」

「いえこのくらいなら。ただ気を付けてくださいよ。本当にバレたら・・・」

「バレたらバレただ」

後輩から日光で色褪せた分厚いファイルを受け取った。
中を見れば、社員一人一人の顔写真と名前や住所や経歴などが事細かに書かれた履歴書が詰まっていた。
ページを捲る。コンビニの防犯カメラに映っていた中年の男性の顔、それを思い出しながら一枚一枚丁寧に捲っていく。
一枚のページで目が止まる。
あの男だ。
間違いなかった。
白髪こそ少ないが、ひ弱そうな顔、間違いない。名前は・・・

「なんて読むんだ?」

「ええっと・・・、バンド、ですね。『播戸良介』ですよ。9月30日、今から2ヶ月くらい前に自主退職ってことになってますね」

「9月30日? そう言えばこの会社が贈収賄事件で摘発されたのが10月10日だったな、直前だ。」

「体の良いクビじゃないですか。この会社、額は少ないんですが結構長い期間宮本市議と癒着があったみたいです。そしていざ問題が明るみに出たら誰か社員の一人に罪を着せ、雀の涙程度の退職金で会社を追い出して責任追及を避ける。解雇ではなく自主退社という形をとったのは、あとあと裁判沙汰にならないように円満に進めたかったからじゃないでしょうか」

「まるでトカゲの尻尾切りだな」

「樹村先輩、こんなこと調べて何になるんですか。もしかして誘拐事件の犯人か何か?」

一瞬答えるのを躊躇った。確かにこの播戸と言う人物が怪しいことには変わりない。でも、確固たる確証があるわけでもない。
それに俺も、桐星も、上司の操作命令に背いて行動している。それに可愛い後輩を巻き込むことにどうしても躊躇いがあった。

詳しいことは言えないな、とだけ残してファイルのコピーを受け取って一里塚署をあとにした。

第7章 11月24日 13:10ごろ

trrrrr

突然の音が鼓膜を震わせた。
一瞬にして全身の毛という毛が逆だった感覚だった。

何の音だ・・・

辺りを見回す。
太陽だけだだけが寂しく黴臭い室内を照らすだけだ。
音源となるものは目に見えない。
そこではっとした。
自分のポケットに手を突っ込む。それはすぐに見つかった。
自分が持っている携帯電話の着信音だった。
音に気づいたのか、夏樹少年が近寄ってきた。

「なに、どうしたの?」

「あぁ、携帯電話が鳴り出したんだ」

「電源切ってなかったのか?」

「・・・すまん」

少年は小さく嘆息しただけだった。もう私のミスに慌てることもなくなった。あぁまたか、と言った感じだ。慣れだろうか
私も少年に頭を下げることに頓着しなくなった。これも慣れの問題であろうか。

「で、誰から?」

そう言えばと液晶画面を覗き見る。
080-………
見たこともない番号だ。

「分からない。まさか、警察の人間じゃ」

少年のつばを飲み込む音がやたら大きく聞こえた。

「そんな筈はない。僕が誘拐されたのが警察に知れても、その誘拐犯が誰かなんて分かるはずがない。そのために人目を偲んで隠れているんだし、脅迫文も電話じゃなくて手紙にしているんだ」

「・・・ひょっとしたら手紙を持っていくところを誰かに見られたんじゃ」

「仮に手紙を持っていくところが近所の人が見たとしても、誰もいちいち覚えていやしない」

「ならコンビニだ。コンビニで大量に雑誌を買ったのを怪しいと思った店員が通報したんだ。防犯カメラの映像でばれたんだ」

「仮に顔がバレたとしても、顔だけじゃさすがの警察も何処の誰かまでは把握できやしないさ。オジサン前科者じゃなんでしょ」

無言で首肯する。

「でも、今さら私に電話を掛けてくる人間なんていない。怪しいよ。これは出ないほうが良いかな」

「・・・・・・いや出たほうが良い。オジサンは今回の事件とは何も関わっていないと思わせたほうが良い。例え相手が誰であれ、ここで不自然に着信に応答しないとそれこそ相手は不思議に思うはず」

「どうしてさ」

「オジサンは今求職中なんでしょ。本来なら新しい職場からの連絡を待つ立場のはず。その人が知らない番号だからって何時間も応答しないと、それこそ不思議に思われる。ここは自分は誘拐事件とは全くの無関係を装うためにも、電話に出るべきだ」

掌に汗がにじむ。液晶画面はまだ名も知らない相手からの着信を受信し続ける。
一方、少年に視線を戻せば有無を言わさない表情だ。
自分に選択の余地はない。
ええいままよ!

「・・・もしもし」

喉が震えた。平静を装わなくてはいけない。そう思えば思うほど喉が締り舌が振動する。明らかに装えていない。自分に俳優は無理だと、頭の上の方から別の自分が嘆く。

『もしもし、播戸さんの携帯ですか?』

男の声だった。それもそこそこ若い。少なくとも元職場の知り合いで無いことは分かった。

「はい、そうですが、あの、どちらさまで、しょうか?」

『お忙しいところ申し訳ありません。少し話をお聞かせ願いたいのですが」

「はぁ・・・。あのそれで、どちらまさで」

『申し遅れました。私、樹村と申しまして・・・』

「はぁ」

『F*市の一里塚署の者です』

反射的に電源ボタンを押した。
肺が押しつぶされ臓物が逆流し、血液が沸騰しそうだ。目も回る。
今、こいつ、なんて言った。
一里塚署?
警察の人間?
なんで?
どうして?
少年は言ったじゃないか?
警察が自分を怪しむはずがないって?
なのにどうして?

「誰からだった?」

「・・・・・警察だ」

「なに?」

「警察だって言ってるんだ警察、奴らが勘づいてるんだ! 目を付けられた!」

「嘘だ。気づくもんか。何かの聞き間違いじゃないの」

「聞き間違いな訳あるか。確かにこの耳で聞いたぞ。F*市の一里塚署だって」

「F*市の一里塚署?」

「あぁ。そこの樹村って奴だ。くそ、どうするこのままでは」

「ちょっと待った、電話の相手は本当にそういったのか?」

「しつこいな。確かにそう言った。こうなったら捕まるのも問題だ。おい、現金強奪を早めた方が良いんじゃないか。警察が本気で動き出す前に」

「・・・え、あ、うん」

「どうした」

「・・・何でもない。それよりもしだとしたら危ないよ。今は場所を変えた方が良い。それもできるだけ早くだ」

「場所か。そうだな。そうだ、うちの会社の元事務所が良い。あそこは潰れてから誰も使ってないはず」

「場所は?」

「K*市の東端だ。都市部を離れた閑散とした場所だから隠れるには充分だ」

「鍵はあるの?」

「勤めている時に合鍵を作ってある。退職時に返したが合鍵はとってある」

「それって犯罪じゃん」

「そう言うな。ここまで来たら同じだ。それより場所は遠いぞ。直線距離で10kmほどだ。歩くとなるとかなり遠いし見つかる可能性もある。」

ポケットから地図を取り出す。昨夜の雨でかなり皺くちゃになっているが、読めないことはない。
現在地を指さす。K*駅から路地2、3本入った寂れた商店街の辺りだ。

「俺たちは今ここだ。そしてその事務所と言うのがちょうど地図の切れ端のあたりの、あぁ、ここだ」

周りを山と森で囲まれた場所だ。加えてすぐ隣に排水処理場が設置されている。ヘドロの臭いが周囲にまき散らせれる場所でもある。土地の安さに目を付けて会社を興したは良いが、近くに主要道路が走っている訳でもなく交通の便は悪い。運送会社にとっては致命的だ。でも今回はそれが功を奏したと言えるだろう。

「車は?」

「無い」

「・・・・・ならタクシーだ。タクシーで移動しよう」

「正気か」

「勿論。じゃあここに留まる? 警察は10分もあればこの場所を特定するよ」

「10分で? そんな携帯電話に出ただけだぞ」

「それが危ないんだ。携帯電話会社は日本全国ユーザーが何処に居てもその場所に電話を送信しなくちゃいけない。今、オジサンが携帯電話で向こうの電波を受け取ったって事は、この近くの電波の基地局が働いてデータベースであるホームメモリに記録が残ったってこと」

少年が何を言っているのかは分からなかった。でも緊急事態であると言う事、そしてこの場所に留まっていては危険だと言う事は察知できた。

「オジサン、今何時?」

「午後1時過ぎだが」

自分で言葉を吐いておきながら、もう誘拐してから12時間以上が経過するのかとシミジミ思った。

「身代金の受け渡しは午後5時30分。あと4時間ちょっとか・・・」

「ほ、本当に大丈夫なんだよな」

「6ヶ所に分けた身代金を持っていく場所はまだ伝わってない。向こうに伝わるのはギリギリになってから。警察は動けない。大丈夫」

そうか・・・
聞こえないくらいの呟きだ。そう、なにしろこれに私の全人生が掛かっているのだ。新しく第2の人生が始められるか、それとも終焉を迎えるのかがだ。
あと4時間、そうあと4時間なのだ。

「じゃあまずはオジサン、携帯電話の電源切って。これ以上こっちの動きを悟られたらまずい。効果があるかどうかは分かんないけど一応切っておこう」

「あ、あぁ」

言われたとおりに電源ボタンを長押しにする。しかしうまくできない。自分の親指をうまく制御できない。さっきから小刻みに震えっぱなしだ。
ようやく電源を切るのに30秒も使ってしまった。

「あとは・・・・・・、そうだ」

少年は持っていたカバンの中を漁り出した。
そこから取り出したのは小型のハサミだった。
それをどうするのかと思っていた。
少年はそのハサミで自らの髪の毛を断ち始めた。乱暴に刃を立てていった。
最初、ぽかんとしてしまった。
一体何をしているのだろうと不思議に思っていた。
そうこうしているうちに幼い髪の毛は幾重も宙を舞い、少年の元々短い頭髪はさらに短くなり、明治時代のざんぎり頭さながらの坊主になっていく。

「ちょ、お前、な、なにしてんだ!」

「変装だよ変装」

「変装って、お前・・・」

「犯人がオジサンに電話をかけてきたのは偶然じゃない。きっと何らかの情報を警察が得たんだ。じゃないとこのタイミングは良すぎる。さっきも言ったけどこのままじゃ危ない。場所を変えなくちゃ。見つかる。見つかったら僕の計画も、勿論オジサンの計画も終わっちゃう。それは嫌だ。だから少しでも僕だって分からないようにしたほうが良い」

そう言う少年の手は止まらない。ほぼ丸坊主に近い髪型だ。もし彼が女の子だったら自分でやって自分で卒倒するんじゃないか。

「大した効果は無いかもしれないけど、やらないよりはましさ。・・・よし終わり」

足元は床屋のような光景だ。髪の毛が散乱している。
そこに立っているのは夏樹少年ではなく、もはや別の人間だ。俺は息の飲む。
よし、と喉で呟く。
手を少年に伸ばす。少年は不思議そうにその手を見つめる。

「貸してくれ。俺もやる」

「オジサンも? 僕はあくまで変装の為にやったんだよ」

「知ってる。俺も変装する」

「何のために。意味ないよ。警察の目を欺くために僕はやっただけさ。警察は僕の顔を知っているだろうから。けど、オジサンの顔写真は配られてるかどうか分かんないよ。する必要は・・・」

「お前さっき言ったじゃないか。何らかの情報を警察が得たと、じゃないとタイミングが良すぎるって。最悪の場合、俺の顔写真も向こうにバレてる可能性がある。そうだろ。だから俺もやるんだ」

「・・・でも」

「良いんだ。貸してくれ」

俺は半分、ひったくる感じで少年の手からハサミを奪い取った。
そして元々短い髪の毛に当てた。自分で自身の髪の毛を切るってのは案外難しいもんだな。何度自分の手切りそうになったことか。

「何と言うか、覚悟さ」

少年は不思議そうな表情だ。
それでも良い。
腹を括ろう。
俺は誘拐犯だ。
あと4時間で俺は大金を手にしてやる。

第8章 11月24日 14:00ごろ

 陰鬱な気持ちで阪本家の玄関を潜った。
清里主任の計画的誘拐事件としての判断が絶対に間違っているとも思わなかった。しかしそれでは説明がつかないことが数点あったし、なによりもこの桐星の発言が一つ一つ脳髄をかすめる。
結果、主任の指示に背くことになってしまった。叱責や訓告程度の懲戒は覚悟している。でも、若田部の言葉が胸を突く

―――下手したら停職になりますよ

無言のまま、清里主任が待つキッチンに移動した。
主任は相変わらずヤニの匂いをさせながら座っていた。

「何を調べた」

鋭い。
「どうだった」ではなく「何を調べた」と聞いてきた。我々が宇佐美青年の交友関係ではなく他の事を調べたのだろうと察しが付いているのだ。
ここで下手な小細工は必要ない。

「播戸良介、と言う人物についてです」

「よし話せ」

唇をかんだ。少し鉄の味がした。

「阪本夫妻に届いた例の脅迫状を作ったと思われる重要参考人です。事件があった直後、近くのコンビニで大量の雑誌を買い占めた中年男性が目撃されています。これは宇佐美青年の証言です」

「それは聞いた」

「その人物を特定しました。それが播戸良介44歳。住所はK*市A*町***番地アーバンハイツ202号室。職業は元運送会社勤務、会社名は『エアートランスファー株式会社』。しかし約2ヶ月前に贈収賄事件で倒産、その直前に自主退職していて現在は無職と思われます。配偶者と子どももいますが現在は別居中です」

「顔の確認は?」

「・・・しました。過去の入社当時の顔写真とコンビニで映った人相を比べましたが、間違いないかと」

しんと静まり返る。
外を古新聞回収業者が通過する。あの走行アナウンスが滑稽だ。

「お前らは、その播戸と言う人物が怪しいと、今回の誘拐事件の犯人だと確信しているのか」

「十中八九そうかと。何しろ播戸は2ヶ月前に実質クビになっています。経済的に余裕があるとは思えません。またこの周辺に長いあいだ暮らしているので土地勘が存在します。少年を隠す場所にはそれほど困らなかったのではないでしょうか」

「それで播戸が突発的に事件に及んだと」

「はい。それに・・・」

「なんだ」

「先ほど、その播戸の所持すると思われる携帯電話に電話をかけました。奴は電話に出て、こちらが警察の人間だと名乗るとすぐに通話を切ってしまいました」

「勝手に、容疑者でも、参考人でも無い市民に電話をかけたのか。誰の指示でだ」

「独断です」

「お前の奥にいる捜査一課の穀潰しがかけたんじゃないのか」

そう言われて自分の斜め後ろで静かに立っている同期の顔を思い浮かべる。
こいつは関係ない。

「・・・桐星ではありません。こいつはずっと自分の車の助手席に乗ってい・・・」

「私です」

俺の言葉を遮ってその同期が会話を割った。

「私が電話をかけました」

「お前が?」

主任の三白眼が俺を飛び越えて背後の桐星を射抜く。
殺人的な破壊力だ。自分が射抜かれた訳でもないのに意識を失いそうになる。

「そうです。この私です。私が樹村の携帯電話を奪い無理やり電話をかけました」

主任の口からまた紫煙が烟る。

「まぁどっちが電話をかけたかなんてこの際どうでも良い。問題なのは、お前たちが勝手な判断で勝手な行動をとったことだ。俺は言ったな、今回の犯人は突発的な犯行ではなく、極めて緻密に計画された誘拐事件だと。扱うものは人の命だ。一分一秒経過するごとに被害者の生存率は下がっていく。こうしている間に少年は尊い命を失っているのかもしれないんだぞ。それも、身内ではなく赤の他人のな。自分の子どもが誘拐されて殺されるなら良いさ、それは全部自分たちの無能さが原因だ。しかしな失うのは我々ではない、他人だ。我々は痛くも痒くもない」

『他人』と言う言葉が、土手っ腹を抉る。
これほど鈍く、しかし短時間で懐を打ち付ける言葉があっただろうか。

「今回は身代金の要求もある。身代金と交換で無事少年が帰ってくればまだ良い。しかし全てが全てそうはいかん。身代金も失い、子供も両方失う可能性も十分ありうる。おい樹村、今回の身代金の要求額はいくらだ?」

俺は頷く。

「3億円です」

「それが一家庭にそのまま降り注ぐんだ。相手が会社経営者だろうが、一介のサラリーマンだろうが3億円と言うものがどれだけの痛手になるか分かるだろ。ましてやそれが会社の今後を左右する大きな意味を持つ金なら尚更だ。それを無にするかどうかの瀬戸際だということはお前たちは理解しての行動か」

理解している、とは口が裂けても言えない。それを口にすることがどれだけ烏滸がましいことか、多少なりとも理解していたからだ。

「重要なのは初動捜査、事件が発覚した直後の我々警察の動きだ。証拠の有用性、目撃者の記憶、犯人の行動地域、どれをとっても事件経過事件と共にどんどん薄れていく。だからこそ我々は戦力を分散せず一ヶ所に集中させる義務がある。地方公務員法第32条を言ってみろ」

「職員は、その職務を遂行するのに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規定に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなくてはいけない、です」

「お前は既に命令違反、法律違反を犯している。そのことを忘れるな」

その時だった。
リビングからだった。設置以後うんともすんとも言わなかった阪本家の電話が突如として鳴り出したのだ。
主任はいち早く反応し駆けつける。そこで憔悴しきっていた夫妻がこちらに視線を向けてきた。
所轄の刑事が逆探知の機械に手をかける。準備は良いらしい。

「ご安心ください。現在は通話に時間を掛けなくても一瞬で場所を特定することが可能です。しかし情報を少しでも入手したい、ご協力ください」

阪本秋春氏は無言で頷く。
受話器を取る。

「もしもし、阪本です」

―――阪本さんかい。俺が誰だか分かるな?

「誰ですかあなた。息子を、息子を返してください」

―――返すとも、約束しよう。そちらが約束を守ってさえくれればこちらも守る

「身代金ですね。合計3億円、この3億円を集めるのにどれだけ苦労したか」

―――無駄口は要らない。ちゃんと5000万円ずつ6つに分けたのか?

「えぇ、そちら要求通りにしました。これをどうしたら良いのですか」

―――ではこれから身代金の指示をする。聞き返すことは許さない。また質問は禁止だ。全て私の言うとおりにしてもらう。紙とペンの用意は良いか。まずは1つ目のバッグだ

「ちょっと待て。『1つ目のバッグ』と言うことは2つ目、3つ目と指示が異なるというんですか」

―――質問は禁止だ。お前は私の言うとおりにすればよい。まず1つ目のバッグだ。これはスポーツメーカの『ナイキ』のバスケットボール入れのバッグを使ってもらう。ボールが横に3つ入るあれだ。その中に5000万円を全て入れてもらう。
 2つ目のバッグについて。今度はスポーツメーカー『ミズノ』の野球のエナメルバッグに入れてもらう。スパイクやグローブを入れるあれだ。あの中に5000万円を入れてもらう。
 3つ目と4つ目はジュラルミンのアタッシュケースだ。金属製のあれだ。大きさは、横60cm以上、縦50cm以上、幅30cm以上の物を用いること。なおメーカーは『アクテック社』製のものを使うこと。
 そして5つ目はブランドの『グッチ』のボストンバッグだ。色はカーキー色で大きさはこだわらない。
 最後に6つ目のバッグはブランドの『ルイ・ヴィトン』のアタッシュケースだ。これは色も大きさにもこだわらない。
以上の6つのバッグをすぐに用意しろ。時間はないぞ。準備ができた頃にまだ電話する

そう言うと、受話器の向こうの声は途切れ、無機質な通話切れの電子音が流れた。
秋春氏は受話器を元に戻す。

「おい、奴さんの場所は?」

「K*市の6丁目の角の、これは公衆電話からです」

公衆電話?
俺ははて、と感じだ。

「よし。A班とB班はK*町の6丁目付近、念のため周囲一帯の調査だ。この時間、公衆電話を使用した不審人物を洗い出せ。そしてC班、D班、E班、お前たちは道具の調達だ。どれくらい時間がかかる?」

「ナイキとミズノのバッグなら駅前のスポーツショップに行けば手に入ると思います。ジュラルミンケースは一里塚署の物を使えば新たに要する必要はありません。ただグッチとルイ・ヴィトンのバッグはどうでしょう5000万円が入るバッグが果たして売ってるかどうか。一応、近くの百貨店に聞いてみます」

「おう分かった。頼んだぞ」

主任は言い終わるが早いか、携帯電話を取り出し一里塚署に電話をかける。

「もしもし、あぁ私だ。非常線の要請だ。誘拐犯から電信あり。逆探知の結果、K*市6丁目の角の公衆電話から掛けられた。すぐに周囲の主要道路および枝道の封鎖を要求。不審者は即刻職質をかけろ。車のチェックも忘れるな。なに? 当たり前だ。一台一台助手席からトランクから、何から何まで調べろ。誘拐事件だぞ」

非常線。
重大な事件や災害発生時に、一定の区域に警察官を派遣し、検問や通行禁止措置を行う厳戒態勢のこと。
幹線道路のみならず小さな脇道、歩道や道のない道まで警察の監視下に置かれると言うこと。これが張られるということは、犯人の逃げ場を奪うことと同義である。

思わず舌を巻いてしまった。その状況の把握の正確さと、迅速な判断の速さにだ。
今我々に必要なのは、被害者に慰めの言葉をかけることではない。
犯人の要求に必要なものの手配と、電話発信の場所の特定、そしてその場所が判明し次第、速やかな犯人逃走経路の封鎖。
犯人が網の外に逃げる前に人海戦術を敷いて事件の早期解決を目指す。一里塚署捜査二課主任の名は伊達ではない。

「刑事さん、お願いします、息子を、息子をどうか無事に」

追いすがるように主任のスーツを掴む秋春氏。その顔は穴という穴から水分が今にも流れでそうな感じだ。

「もちろんです。我々警察が威信にかけて、無事に保護してみせます。よしじゃあ全員行動開始だ」

その言葉で所轄の人間を含め警察官が散り散りと消えていった。

「お前たち2人はダメだ。一緒に来い。阪本さん、奥のキッチン借りますね。また犯人から連絡があるかもしれませんのでその時はまた知らせてください」

時計は午後2時を指していた。


*  *  *

キッチンの椅子に主任がその重い腰を下ろす。顎で別の椅子を指す。座れ、と言うことだろう。

「お前たちはこれ以上聞き込み捜査や物品用意に行かせる訳にいかん。分かるな。これ以上単独行動されててもこっちが混乱するだけなんだ」

冷たいながら、しかし当然だ。我々はそう言われて仕方がないことをしてきた。

「清里主任」

桐星だ。

「お前に主任と言われる立場じゃない」

「では清里警部補、提案があります」

「聞かん」

「我々に播戸良介の捜査をさせてください」

一瞬、自分の聴覚を疑った。この状態でこいつはなにを言い出すんだと思った。
主任も口には出さないが、口角が一瞬ぴくりと動く。

「この後に及んでまだ訳の分からんことを言うのか貴様。これ以上勝手なことをされたら、それこそ助かる命も助からんぞ」

「しかし今現在では何も動くことができないのも事実です」

「・・・ほう」

「恐らく犯人のことです。K*市の公衆電話に行っても、誰も居ないでしょう。身代金の準備の買出しに行った彼らもまだ一時間以上は時間が掛かります。そして次の犯人から連絡がある時間もまだ先です。今現在では動こうにも情報が少なすぎて、動くことさえままなりません」

「だから犯人かどうかも分からん人物の調査に時間を裂けというのか」

「少なくとも播戸良介と言う人物が事件に関係無いと言うことが分かるかもしれません」

「・・・で、もし肝心の身代金受け渡し、少年の保護が疎かになったらどうするんだ」

「そうならないように全力を尽くすしかありません」

「なったらどうするんだ」

「その時は、責任を取るしかありません」

「誰が取るんだ」

「責任を取るのは上司の役目です」

「・・・・・・お前、頭がいかれてるのか?」

「見てのとおりです」

桐星も主任もこれで言葉を止めた。
俺を含め、その場にいた全員が割って入ることができなかった。と言うか、こいつは何を考えているんだ、としか考えられなかった。
別部署でもある人間が、立場の上の人間に無理を通そうとし、その上で失敗したら上司であるあなたが責任取りなさい、と言い放った。
自分からしたら馬鹿をとうに超えている。ある意味尊敬に値する。
主任はちらりと腕時計で時間を確認する。

「じゃあ聞こう。播戸良介という人物が怪しいとお前は言うんなら、これからどうする。公衆電話の近くには既にいないだろうし、自宅は探しても、まぁ無駄だろう。どうやて足取りを掴む?」

「播戸は先ほど電話したとき、一度電話に出ています。と言うことは電話会社に調査を依頼すれば、その時携帯電話がどの場所にいたか特定できます」

「相手が自由に動ける携帯電話でもか」

「はい。勿論ピンポイントの居場所把握はできませんが、大まかな場所なら把握出来ます。どこでも自由に動けてどこからでも通話ができる携帯電話だからこそ、電話会社も、常に携帯電話の位置を一台一台把握しその周辺の基地局に電波を発信させているはずです。と言うことは播戸良介の所持している携帯電話が反応した以上、どこかの基地局も反応し電波を発信したはずです。その記録を辿ればあの時刻、播戸良介がどこにいたかが把握できるはずです。それと今の公衆電話の場所がわkレバある程度の行動範囲が絞れます」

「携帯電話の件が今から1時間ほど前だったか。しかしそんなに時間が経ったら奴も場所を移動するだろ」

「人質を連れている以上、そんなに大きくは移動できないはずです。もし移動しようと思ったら、人質も一緒に移動させるはずです。ならば少年の顔写真を非常線を張っている警官に配布すれば、もしかしたら人質も救助できるかもしれません」

「なるほど、まずは人命救助か。それで身代金は」

「犯人はあと1時間もすればもう一度電話をかけてくるはずです。と言うのもまだ身代金の運ぶ場所の連絡をしていないからです。これも同様に電話会社の協力を得て場所を特定できます。先程も公衆電話だったので次回も公衆電話を用いるでしょう。これならピンポイントで場所が分かります。あとはその場所がどこかが判明すれば、情報が少なすぎて動けない状態でいるよりは、動きようがあります」

まだ半分程しか吸っていないタバコの火が携帯灰皿に押しつぶされる。
主任の顔は皺くちゃに歪んでいる。
確かに難しい判断の場所でもある。下手に動くべきではないが、かと言って何も動かないと闇雲に時間を食うだけ。
ならいっそのことイチかバチかで桐星の案に乗るのも手である。
自分に判断はできない。これは上司の判断に任せるしかない。

「・・・電話会社に協力を要請して場所が分かるのに、時間はどれだけ必要だ?」

「電話会社にもよりますが、現代は全てシステム管理されておりますので場所の特定には5分とかからないと思われます。ただ個人情報を扱う事案ですので裁判所等への事務手続きを含めれば2時間以上はかかると思います」

2時間、長いな。
その間に犯人から再び電話が掛かってくるかもしれない。
そんなことになれば、それこそ目も当てられない

「事は誘拐事件だ、融通も利く。よし1時間だ。一里塚署に連絡。すぐに裁判所あての書類の作成、同時に電話会社に協力要請。なに、順番が少し入れ替わっても構わん。あと全域の警察に少年の顔写真の提供も忘れるな。F班いるな、お前たちはここで待機。もし途中で犯人からの電話があったら逆探知、および最優先事項で私に連絡、分かったな。よし2人、お前たちは一緒に来い」

第9章 11月24日 14:30ごろ

 2人で駅に向かった。夏樹少年がタクシーを拾うなら駅前の方が良い、と提案したからだ。
誘拐犯と人質が並んで歩く、しかも人質が若干先頭を切っている。冷静に考えればおかしな光景だ。

「流石に駅前はやばいだろ。顔見られたらどうすんだ。ってか警察がいたら・・・」

「見つからないために変装したんでしょ、それじゃあ意味無いじゃん。それに隠したいものは人目から遠ざけると逆に見つかるよ。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人ごみの中さ。さっきオジサンが言ったじゃん、本当に大切なものは目に見えないって」

よく人が言ったことを覚えているな。
そうこうしているうちに、駅に着いた。平日のそれも帰宅ラッシュよりもまだ早いのに、K*駅はごった返していた。行く人行く人は皆、好きな場所に目を向けている。
進行方向を見るもの、
足元を見るもの、
隣の恋人を見るもの、
携帯電話を見るもの、
たくさんいる。しかし我々に目を向けるものは誰一人としていない。

少年が手を挙げる。すると緩やかにカーブを描いて目の前でタクシーが停まる。勝手に後部座席のドアが開き、勝手に少年が中に入る。なかなか入ろうとしない俺に向かって少年が手招きする。
本当に俺は誘拐犯なのかな。そんな疑問さえ湧いてくる。

「K*市のエアトランス・・・」

そこまで言ったとき隣の少年から肘で小突かれた。運転手にバカ丁寧に目的地を晒さなくて良い。隣の排水処理場で下ろしてもらい、そこから歩けば足もつかないから、と教わったんだ。

「・・・じゃなかった、排水処理場までお願いします。えぇ、東の方のあそこです」

あいよ!と愛想と抑揚に富んだ声で運転手は頷くと自動車を走らせた。


何分走っただろうか。もうかれこれ30分以上乗っている感覚だ。しかしタクシーに備え付けの時計を見ればまだ5分と経っていない。
こうしている間に警察は動いているのだろうか。どこまで自分のことを突き止めているのだろうか。
あぁじれったい!
もっと速く移動できないものか。
赤信号で停まるたびに、心拍数と血圧が上昇する。
焦りと不安で、思考回路がどんどん追い詰められていくのが実感できる。
落ち着け。
落ち着け、播戸良介。
何とか落ち着かなくては。成功するものも成功しないぞ。
そうだ、この幹線道路さえ抜ければ後は交通量の少ない枝道だ。もう少しで到着するぞ。
そう思った矢先であった。

「ありゃ。お客さんついてないね。検問だよ」

運転手の声で、俺は心臓が爆発すると思った。
検問?
その響きに恐怖を覚えた。

「け、検問ですか?」

「そうみたいだね。ほら向こうの方でパトカーが何台も停まってるでしょ。赤いパトランプ回してるし。何か事故か事件でもあったんじゃないのかね」

そうですか、と蚊の鳴くような声で返した。
警察が検問している。
このタイミングで。
この場所で。
勘づかれている。
警察は絶対に俺らのことに勘づいている。
脇の下と掌から尋常じゃないほどの汗が滴り落ちる。
呼吸も何処か不自然に荒くなる。
止まれ。
止まらない。
なんてこった。
警察は知っているんだ。
『播戸良介』が誘拐犯であることを。
そしてその『播戸良介』が今ここにいることを。

一台一台と警察の監視の門に近づいていく。
今ここで警察に顔を見られたらどうなる。バレるか?
さっき髪の毛を切った。変装は出来ているはず。
でも、たったそれだけで警察の目を誤魔化せるのか。
相手は百戦錬磨の強者だ。そんな簡単な変装なんか容易に見破るだろう。
その瞬間逮捕だ。
俺の人生は終わりだ。破滅だ。
なら、いっそのことここでタクシーを降りるか。
いや、検問をやっていると知った直後のタクシーを降りるなんて自分から「私は怪しいですよ」と言っているようなもんじゃないか。
そもそもこの調子で検問なんかされたら逃げられない。
事務所にたどり着く以前の問題だ。
くそ、さっき腹を括ったばかりだってのに・・・。

また一台と検問に近づく。
夏樹少年はどうだ。
彼も流石に緊張しているのか自分の膝ばかり見ている。
口だって真一文字に締まっている。目もどこか虚ろだ。
どうしてお前までそんな顔をしている。
お前は苦しむ必要ないじゃないか。
だってお前は人質なんだぞ。
逃げ出す立場なんだぞ。
そして
お前は子どもなんだぞ。
もっと怖がって、取り乱せよ。
じゃないと大人の俺の立場がないだろ。
そんな、そんな顔するなよ・・・。

そしてついに我々の乗ったタクシーの番になった。

「すいません。検問やってます。ご協力お願いします」

若い男性の警察官が溌剌とした声が響く。
運転手が窓ガラスを開けて応える。

「はいはい、どうぞ。何かあったんですか?」

「この辺でちょっと事件がありまして。お客さんは2人だけですか?」

警察官の視線がこちらに飛んでくる。

「そうですよ」

「行き先はどちらで?」

「東の排水処理場です」

警察官と運転手との会話に妙な間が入り込む。
何の間だ。
どうした。
バレたか。

「・・・念のためトランクも拝見して構いませんか?」

なに?

「・・・構いませんが、トランクもですか?」

我々を見逃した?

「申し訳ございません」

警察官がトランクの中も念入りにチェックし始めた。
既に彼らの目は我々ではなく他のところに向いているみたいだった。

「あれ、まさかうちを怪しんでるんですか?」

「いえそう言う訳ではありません。他の皆さんにも聞いていることですから」

「冗談ですよ。もうよろしいですか?」

「ご協力感謝します」

警察官は笑みを崩さす、次に入ってくる車の対応に追われていた。
タクシーも何事も無く再発進する。
次の信号で止まると運転手がエビスさんのような笑顔を見せる。

「私もね、長年タクシーの運転手してますがね、トランクまで見られたのは初めてですよ。逆にラッキーですよお客さん」

「へぇ・・・、そうなんですか」

「よっぽど大きな事件でもあったんでしょうね。例えば誘拐とか」

「ゆ誘拐!?」

思わず声が上擦る。

「例えばですよ例えば。もしかしたらお客さんが誘拐犯なんじゃないですか。隣の子を誘拐して逃げる途中とか」

全身の汗という汗が潮のように引く。

「冗談ですよ冗談。もうちょっとで目的地に到着しますよ」

この男、心臓に悪い。
しかしほっと胸をなで下ろしたのも事実だ。
理由は分からんが、俺たちは警察の追及を振りきったようだ。
検問を突破したのがその証拠だ。
髪を切り落としたのが良かったのか、はたまた警察官の職務怠慢なのか、もしかしたら他の要因なのか。
詳しいことは分からなかったが、警察の捜査の網の外に逃げられたことは確かなようだ。
久しぶりにちゃんとした呼吸ができた。

ところで、隣の夏樹少年の顔色が未だに優れないのは気のせいだろうか。

第10章 11月24日 15:25ごろ

 主任を先頭に我々は大きなビルのある一室に通された。
ここは大手電話会社のS*県の支社、その一室。
正面の受付で主任が警察手帳を見せると、無言のままここに通されたのだ。

入口には「情報分析室」と大層な名前が抱えれていたが、なんてことはない、只の個室だ。
あの宇佐美青年の部屋と似ていて必要最小限のものしかない。作業用のパソコンとインスタントコーヒーと電気ポッド。
ただ刑事事件が起こったときには役に立つ。他の職員に聞かれたくない内容をここでやり取りしているのだ。

「ありました。これですね、この番号です」

パソコンに向かっていた職員の一人が声を上げる。
主任がディスプレイに顔を寄せる。

「090-・・・、これだ。播戸の番号で間違いない。今日の午後1時頃、うちの部下と会話しているはずだ。そのとき携帯電話は何処にいたんだ」

「刑事さん、正確に言えば携帯電話ではなく、『移動局』ですが」

「あぁ、悪い。それでその移動局はその時間帯に何処にいたんだ」

「ええっと、K*市ですね。K*市のE-1219と言うエリアです。ちょうどK*駅を中心とした半径1kmくらいの円形のエリアです」

従業員がディスプレイの一部を指で指し示す。そこは確かにK*市だ。しかもK*駅に近い中心街に当たる。
あのコンビニの目と鼻の先じゃないか。そう気づいた。

「主任、この場所、例のコンビニのすぐ近くです。100mと離れていません。深夜のコンビニに現れた人物は播戸良介と断定してもおかしくはないのでは」

主任は何も答えない。ただ腕を組みながらじっとしている。
答えたのは従業員の方だった。

「念の為に申し上げますが、これ以上は絞り込めません。ご存知だとは思いますが移動局の場所も、基地局単位までしか分かりません。またこの通話があったのは今から2時間以上前です。この移動局が今でもこの場所にあるとは限りません」

そう、確かにそうだ。自分が犯人で警察から電話があったらすぐにでもその場を離れてしまいたいだろう。

「その携帯電話、じゃない移動局が今現在、どこのエリアにいるかは特定できんのですか?」

「調べてみまししょう。・・・んと、位置情報の更新履歴がありません。つまり対象の移動局が移動したという記録は残っていないことになります」

「なら奴はまだ同じエリア内にいるってことか?」

「そうとも限りません。本来、移動局が基地局のエリアを跨いだとき自動的にその位置情報が更新されデータベースに残ります。しかし移動局の電源自体が切られていると位置情報の更新自体ができませんのでデータベースにも記録が残らないんです。つまり可能性としては『電源を入れたままエリアを出ていない』か、『電源を切ってエリアを移動した』か、あるいは『電源を切っているがエリアを移動していない』のうちのどれかになります」

「じゃあ、奴が現在どこにいるかはやっぱり分からんということか・・・」

恐らく犯人は電源を切っているはずだ。あの時は警察に自分の番号は知られていないと思っていて電話に出たのだろう。でも今は、警察が自分の電話番号を把握していることに気づいている。携帯電話の電源も切るに決まっている。
となると、折角掴んだ情報のしっぽをみすみす逃がしてしまったことになる。
自分のミスだ。
そう思った時だ。

prrrr・・・

携帯電話の着信音が鳴った。反射的に自分の携帯電話を取り出す。
しかし自分では無い。
清里主任の携帯電話だった。

「私だ。どうした」

主任のスピーカーから音が漏れてくる。会話の内容が聞こえる。どうやら阪本家で待機していた警察官からのようだ。

「主任、ったった今、阪本家に電話が掛かってきました」

その場にいた全員の背筋が凍った。アドレナリンが一斉噴射されるのが分かる。

「阪本秋春氏に電話を取ってもらいます。もちろん、こちらでも逆探知を行いますがよろしいですか」

「分かった。始めさせてくれ。くれぐれも犯人の要求を聞き落すことのないようにちゃんと録音も準備しろよ。あと、この電話の電源は切るな。そのままにしておけ。ついでに電話の会話が俺たちにも聞こえるように回線つなげ。急ぐんだ」

「はい!」

しばらく電話口の向こうの、ごそごそとした音が続いたあと、鮮明な阪本家の会話が聞こえてきた。

「すいません。このスピーカー借りますよ。同時にこの阪本家に掛かってくた電話の発信先の特定もお願いします」

従業員もこくりと頷く。
部屋に備え付けのスピーカーから、阪本家の会話が聞こえてくる。


「もしもし、阪本です」

―――阪本さんか。時間がない。要件を手短に話すぞ

時間がない?

―――6つの身代金は用意できたよな?

「えぇ。なんとか工面しました。あ、あの、息子は無事なんですか。声を聞かせてください」

―――残念ながらそれはできない。時間がないんだ。これからその6つの身代金の受け渡し場所を説明する。聞き逃すな。もし不安ならメモするなり録音するなりしろ。良いな

「・・・はい」

―――まず確認することがある。時刻だ。時刻を合わせる。これから時刻の設定を行う。その時刻は俺が持っている時刻を基準をする。現在時刻は・・・、14:33だ。これにお前たちの時刻を合わせろ。良いか。


言うぞ。まず1つ目のナイキ製のバッグだ。こいつはO*駅だ。O*駅の南口に持ってこい。O*駅の南口の出口付近にモニュメントがあるだろ、『ジャック・ツリー』と言う名前のモニュメントの東側に置け。時間は17:30だ。それよりも早すぎても遅すぎてもダメだ。あと、バッグを置いたら持ってきた人間は50m以上離れてもらう。これは命令だ。
 2つ目のミズノ製のバッグだ。これは車で持って移動しろ。場所は、G*県の『榛名山緑地』と言う公園だ。その北側にある第三駐車場だ。その近くに管理小屋がある。そこのゴミ集積場に投げ込め。投げ込んだら持ってきた人間はそのまま帰るんだ。時間は同じく17:30。
 3つ目のジュラルミンケースだ。これは『JJショッピングモール』に持ってこい。そうだ、K*市にある既に使われなくなったあそこだ。ショッピングモールの東側に『森のエリア』と言う場所がある。そこに従業員用通路がある。中に入れ。そこに商品搬入用の倉庫があるから、そこにジュラルミンケースを置け。これも時間は17:30だ。
 4つ目のジュラルミンケースだが、これは列車で運んでもらう。列車といっても電車や新幹線ではない。特急『雷鳴』だ。最寄りのK*駅から直ではない。一旦O*駅に移動してもらい、16:38発長野行きの特急『雷鳴』に乗ってもらう。そして17:30になった瞬間、進行方向左側の窓を開け外に投げ捨ててもらう。
 5つ目のグッチのバッグだが、K*市の西側に位置するT*市に向かってもらう。そのT*市には『扇山』と言う標高640mほどの小さな山がある。その山頂から西南西の方角に断崖絶壁の崖がある。17:30になったら、その崖から思いっきり投げ捨ててもらう。手加減してすぐ近くに落とすなよ。それでは身代金をこちらに渡す意思がないと見なして取引は失敗だ。思いっきり遠くまで投げるんだ。
 そして最後の6つ目のルイ・ヴィトンのバッグだ。これは5つ目のバッグと似た場所に移動することになるが、別々に移動すること。同じく西側に位置するT*市に『蓬川』と言う小さい川がある。県道17号線は分かるな、K*市とT*市を結ぶ道をまっすぐ進め。そして17号線と蓬川がぶつかる場所でバッグを川に投下しろ。時間は当たり前だが17:30ぴったりだ。

分かったか。今言ったことはお願いではなく『命令』だ。一切の質問及び譲歩は受け付けない。繰り返すが全て『一人』で作業を行うように。バッグが重いとか、道が分からないとか言い訳は一切聞かない。途中で我々は君たちのことを監視し続けていることをお忘れなく。くれぐれも勝手な行動は慎むこと。では、健闘を祈る


それっきりだった。
通話は一方的に切られ、静寂が訪れた。

「主任。どう動きましょうか」

「A班からF班まで全員そこにいるな。よし、次の行動を指示する。A班が1つ目のバッグ、B班が2つ目のバッグ、同様にC、D、E、F班が3、4、5、6つ目のバッグ輸送を担当する。犯人の要望だ、班長一人で行動すること。そして残った班員はそれぞれ指定された周辺の警備に当たれ」

「ですが主任、人数が少なすぎます。それに今から指定された場所と言われましても、時間にも限界が・・・」

「俺の方から部長を通じて他署へ応援要請を出す。泣き言言うな、そんな時間はない。急げ!」

有無を言わさない凄みで主任は勢い良く携帯電話の通話を遮断した。

「今の発信場所はどこですか?」

「はい、これもK*市内です。公衆電話ですね。2丁目です」

K*市2丁目。さっきあった電話が6丁目、ほんの目と鼻の先だ。300mと離れていない。

「ご協力ありがとうございます。我々は急行します、もしまた阪本家に電話があった場合、再び逆探知をお願いしたいんですが。これ私の携帯電話の番号です」

「分かりました。もし電信があれば協力いたします」

「あとそうだ。これは協力してくださった皆さんに言っているので気を悪くせんで欲しいですが」

「はい?」

「これらの情報は警察の捜査だけでなく、個人のプライバシーにも影響がありますので口外は絶対禁止でお願いします」

「承知しております」



*  *  *



我々は支社を出ると、急いで俺のブルーバードに乗り込んだ。再び阪本家に戻らなくては。
当然ハンドルは俺が握り、助手席に主任、そして後部座席に桐星。
アクセルを踏む。レンスポンスが悪く、加速がいまいちだ。そんな俺を尻目に助手席の主任は再び携帯電話を取り出す。

「私だ。先程の非常線を強化しろ。あぁ、犯人からまた電話があった。公衆電話からだったが、場所がK*市の2丁目だ。先程の電話のすぐ近くだ。非常線のエリア内のはず。そうだ、犯人は必ずエリア内にいる。良いか! 絶対に犯人を逃すな! 繰り返す、犯人は現在K*市2丁目にいる。全捜査員命をかけて探し出せ!」

怒号は車内に響きわたった。
主任は陽の光で変色したシートに深く背を投げる。目を瞑る。

「もう少しで犯人逮捕ですね」

「うむ・・・」

主任の声が少し弱々しく疲れていた。

「でも大丈夫でしょうか、ここまできて公衆電話も犯人の計画の一部だなんて事はないですよね」

「分からん。しかしもし直接の犯人でなくても、『この時間6丁目の公衆電話を使った』ことは事実だ。そこには誰かいるはずだ。そいつをしょっぴけば遅かれ早かれ事件は解決する」

「犯人はまた6丁目の公衆電話で要求を変更するかもしれません」

「2丁目も含めて6丁目も非常線が貼られている。男子小学生一人を連れて非常線に引っかからずに外に出るなんてのは、サッカー日本代表がワールドカップで優勝することよりも難しい。ほぼ不可能だ。安心しろ、犯人は袋の鼠だ」

「でも・・・」

「それでも不安なら、もう神様に祈るしかないな」

冗談だろうか。
いや、冗談なはずがない。主任はこの捜査に自信があるはずだ。でなければここまで迅速に動けるはずがない。
そして、その可能性を生み出したのは、何を隠そう後部座席の桐星だ。
自信を持て。自信が欠ければいざというときに一歩めが出遅れる。
それではダメだ。
人の命、それも自分とは無関係の他人の命が掛かっているんだ。

「じゃあ、ただ黙って座っているだけでは時間がもったいない。お前たちに聞こう。さっき犯人から電話があったな、これをどう思う」

「どう、と言われましても質問が曖昧すぎてなんと答えたら良いか・・・」

「なぜ犯人は身代金を6つに分けたのか。どうしてだと思う?」

しばし逡巡した。確かにそうだ、2番目の脅迫文で5000万円ずつ6つに分けろ、とあったとき確かに『何故だ』と思った。
それが時間が経つにつれ、他の情報と推理に振り回されるにつれ失念していた。
なぜ犯人は身代金を6つに分けたのか。
主任はいつの間にか吸っていたタバコの煙を吐きながら言った。

「身代金を1つにまとめたとき受け取りに失敗したら金が全く手に入らない。しかし6つに分けることで1つ受け取りに失敗しても、残りが成功すれば金は手に入る」

なるほど、リスク回避か。でも・・・

「それは考えにくいんじゃないでしょうか。犯人が最も捕まる可能性があるのが身代金の受け渡しのはずです。犯人がわざわざそんなリスクを高めるようなことするとは思いません」

「私も同感だな。ではリスク回避じゃないとしたらなぜ6つに分けたのか。私は、我々警察の注意を散漫にさせるためだと考えている。本来なら受け渡し場所の一ヶ所を見張っていれば良いが、6つに分けられると警察官の数も6つに分けなくてはいけない。つまり戦力の分散だ。犯人はそこまで考えている」

「と言うことは、犯人が狙っている身代金は6つ全部ではなく・・・」

「あぁ。たった1つだろうな」

ここで再び煙を吐き出す。あまり美味しそうではない。なぜ不味いと分かっているものを好き好んで摂取しているのか、それも自分には良く分からない。

「犯人は身代金を6つに分けさせました。と言うことは受け渡し場所も6つと言うことですよね。阪本家は旦那と奥さんと2人しかいない。となると犯人はあと4つの身代金の受け渡しを誰にやらせるつもりだったんですかね?」

「恐らく警察だ。相手は脅迫文にも、警察に知らせるなとは一言も書いてない。電話でも聞かなかったんだろう、相手はこっちが事件に介入してくるのは計画のうちなんだ」

「警察を出し抜くつもりでしょうか」

「そうだろうよ。こっちもそれに対応しなくてはならん。身代金の受け渡しが6ヶ所だからといってこっちの捜査班も6つに分けるわけにはいかない。勿論、身代金の受け渡しに行く為に最低限の人数を割かなくてはいけないが、バカ丁寧に6等分してやる必要はないさ」

主任の目に光が灯る。
そうだ、ふと思ったことがある。

「主任。犯人はなぜ今回、電話を使ってきたのでしょうか?」

今回の誘拐事件の一番の疑問である。最初と2番目の脅迫文は第三者のメッセンジャーを用いて事件を進めていたのに、今回に限って何故か身元が分かり易い電話を選んできた。それも2回。そのうち最後の電話はどこか時間を気にしている素振りすら見受けられた。

「そうなんだ、私もそれを考えていた。最初の脅迫文にしても次の脅迫文にしてもずっと手紙、文章で送り付けてきたのに今度に関しては何故か電話を使ってきた。その理由が全く分からん。電話が使えるなら最初から使えば良い」

「電話を使ってこちらに連絡を取ろうと思えば自分の居場所がバレると思ったのではないですか? 実際今回使用された電話がK*市の6丁目と2丁目の公衆電話ということがバレています」

「ううん、最初はそう思ったんだが、しかし違うだろう。犯人は携帯電話や固定電話ではなく公衆電話を使ってきた。相手は警察が逆探知して居場所を掴もうとしていることを承知の上で電話を使っている。居場所がバレることを恐れているとは思えない。たぶん、K*市の6丁目や2丁目付近に犯人のアジトはないだろう。電話の内容も手紙では伝えきれないという内容でもない。不思議だ。そもそも身代金を入れるバッグを事細かに指名してきたんだ。電話で聞き逃されても困るし、むしろこう言った内容を手紙や文章で伝えるのが普通のはず」

「しかし犯人はそうしなかった。なぜか・・・。犯人が捜査を攪乱させようとしているのでは?」

「警察側が何か混乱するような情報があったか? 分かったことは身代金を入れるバッグと、相手は電話口の声を変える装置を持っているということくらいだ。攪乱するまで情報を得てない」

「本当は手紙を寄越そうとしたが、次のメッセンジャーが予定通り動かなかった、あるいは動けなかった。だから急遽電話を使った、とか」

「それもちと弱いな。ここまで計画的に動いている犯人ならメッセンジャーが予定通り動かなかった時のことも想定してそうな気もする。例えば予備の手紙を用意するとか、予備の人間を用意するとか」

犯人が計画的にこの事件を起こそうとしているなら、ですけどね。
実際にはそうは言わなかった。ここで口にできるほど良心の呵責がないわけでもない。

「俺は考えた。誰かさんの受け売りではないが、犯人は手紙を『使わなかった』んじゃない、『使えなかった』んじゃないかとね。何か理由があって手紙や文章をこちらに届けることができなかった。だから非常手段として電話と言う手段を用いた。そう考えると説明できる」

「手紙や文章が使えなかった? 主任言っている意味が良く分かりませんが」

「自分でもよく伝わっていないことは承知しているよ。でもそう考えないと今回だけ犯人が電話を使った理由が分からんのだ」

主任は携帯用の灰皿に燃えカスを入れる。かなり根元まで吸っていた。

「しかしそうすると、別の問題が生まれる。なんだと思う」

別の問題?
はて、なんだ。首を傾げていると背後から桐星が応える。

「今回だけ電話を使わざるを得なかった、その理由ですね」

「伊達に捜査一家で時間つぶしをしてないな。そのとおり。犯人が手紙ではなく電話を使わなくてはいけない理由とは何か。樹村なんだと思う?」

「え・・・、紙が無くなった、とか」

「買いに行けば良い」

「手を怪我した」

「人質に作業させれば良い」

「身代金の受け渡しの時間が近づいた」

「なら、受け渡しの時間自体をずらせば良い」

「・・・」

「終わりか」

「そんなこと急に言われても分かりません。主任は何かお考えがあるんですか」

「無いから困っているんだ」

新しいタバコを取り出し火をつける。一連の動作は面倒くさそうだが、でも様になっている。

「とにかく分からんのがそこだ。犯人側には何か思いがけないアクシデントが起こった。じゃあそのアクシデントとは何か。計画し尽くした犯人のスケジュールを崩したのは何なのか。見当がつかんな・・・」

正直、俺は思った。犯人側に何か不都合が起こった。それは自分も反対はしない。そうかもしれない。
でも今すべきことは何か。犯人にどんなアクシデントが起こったかを考えるよりも、ここから何をするかを考えるようが先ではないか。
犯人から身代金の具体的な要求が出てきて、しかも時間は限られている。まずはそちらをどう対処するかを考えるのが先決だ。

「主任、犯人は6ヶ所に身代金を分散させましたね。それでけでなくバッグも指定してきました。これはどんな意味があると思いますか」

「ん? ん・・・、そうだな。確か犯人の要求はこうだったな。

1つ目はO*駅の『駅前』
2つ目はG*県の『榛名山緑地公園のゴミ集積所』
3つ目はK*市内の今は使われていない『JJショッピングモールの従業員通路』
4つ目は長野行き特急『雷鳴』の窓から捨てろ
5つ目はT*市の『扇山』から捨てろ
6つ目はT*市の『蓬川』に捨てろ

時間は全て17:30ちょうど、か・・・」

「17:30と言えばちょうど帰宅ラッシュの時間帯です。O*駅と言えばK*駅以上に大型駅です。この時間帯になれば何千人何万人と言う人間がごった返すに違いありません。その人ごみに紛れてバッグを持っていくのかもしれないですよ」

「一理ある。しかし、そう考えてみると他の5つも可能性が無いとも言い切れない。
まず2つ目の榛名山緑地だ。これはちょうど我S*県に隣接する場所とは言え管轄はうちじゃない、G*県警だ。そうなると県境をうろうろされると危険だ。県内ならまだしも他県警が絡むと連携に不備が生じやすい。ましてS*県警とG*県警は最近仲が悪くてな。3つ目のショッピングモールは、今は使われていない、つまり電気も何も通ってない。あそこは無駄に広く犯人にとって隠れる場所には打って付けだ。テナントもあるし上下水道とも繋がっている。そこを今から全て封鎖するのは困難だ。
4つ目の特急の窓から投げ捨てるは、どうだ。警察からすると一見すると難しそうだが・・・」

「難しそう? 実際に難しくないですか」

「どうだろうか。17:30に窓から投げ捨てろと指示があったのなら、その特急が17:30に何処を通過するか犯人は調べているはずだ。その付近で待機して特急から投げ捨てられたバッグを持ち出す、可能かもしれんが逆に言えば我々も可能だ。犯人が待機している場所を特定しやすい。そう言えば5つ目、6つ目はそれと似ている。5つ目の山の山頂から投げ捨てると言っても、人間の力じゃ限界がある。5000万円入のバッグだ、そうとう重い。それを一人で投げるとなると10mも飛ばせん。あとは斜面を下っていくだけだ。犯人にとっては待ちやすいかもしれんが、警察にとっても警備しやすい。6つ目はもっと奇妙だ。川に捨てろだと。あんな重いものがそう遠くまで流れるとは思えん。それに中に水が入ってしまったら札束がおじゃんだ。犯人はバッグを投げ捨てる場所のすぐ下流で待機しているのかもしれん」

「そう考えると、1~3つ目までは見張りにくい、逆に4~6つ目は見張りやすいもの、と言えますね。犯人は1~3つ目の中のどれかを狙っている、と言うことでしょうか?」

「確かに。しかし相手は頭の切れるやつだ。そう思わせて裏をかいてくるかもしれん。それにそれぞれの場所も気になる。1、5、6は県内なのに対し、2、3は県外だ。4に至っては県内なのか県外なのかすら分からん。そして県内でもO*駅はK*駅から50kmほど、電車で40~50分の距離だ。それに対しT*市はK*市の隣の市だ。身代金を身近な場所で手に入れたければ、遠くのO*駅ではなく、身近なT*市の身代金を手に入れそう、とも考えられる」

「でもそうなると我々のすぐ近くでやり取りするから捕まる可能性も大、となってしまいます」

「・・・いずれにしても犯人はK*市内に釘付けだ。そこから一歩も外部には出れん。身代金を奪うことはできん」

ブルーバードは着実に阪本家に近づいていった。

第11章 11月24日 17:30ごろ

 11月だからだろう。既に陽は落ち辺りは暗く、30m先を見通すこともままならない。しかも周囲はさらに視界を悪くする木々で生い茂っている。風で葉が揺れる音が幽幻的な印象すら漂わせる。
寒いな。そう思った。
雪こそ降らないが身体の芯から体温を奪う底冷えの寒さが正直厳しかった。
空を見上げれば、漆を流したような藍色に、無数の光る砂粒。星空をこんなに眺めたのは、それこそ小学生以来かもしれない。
さぁ。仕上げだ。約束の時間だ。
約束の時間が刻一刻と近づいていくと外気温とは反比例して額や掌の汗が増えていった。
腕時計を見た。時間は17:30を丁度指した。
約束の時間だ。今回の誘拐事件の身代金を移動し終えるその時間だ。
俺は夏樹少年と2人で、会社の近くの雑木林に身を隠していた。
姿を隠すためではなく、身代金を受け取るため。そうこの場所が身代金を手にれる場所だった。
長かった。
人生で初めて犯罪を犯してから丸一日経つのか。そんなに経ったのか、とも思えるし、それしか経ってないのかないのか、とも思える。
目の前にゆっくりと流れる蓬川。緩やかではあるが水量は多く、川幅も広い。
もう一度時計を見る。
17:33。そろそろだ。
目を細め、川の水面を注意深く眺める。
何も変化はない。清々しい水音。

「失敗か・・・」

心で思ったことがつい口に出た。
はっとしてすぐに口を閉じる。

「・・・くるよ。たぶん」

少年の言葉の通りだった。彼の鬼気迫る視線に引っ張られてきたのか、予定より少し遅れたが、確かに蓬川の上流から1つのバッグが流れてきた。
途中途中岩にぶつかりながらも、ゆっくりとルイ・ヴィトンのバッグが近づいてくるのが分かった。
靴を脱いで急いで回収に向かう。
川の冷たさは皮膚感覚の限界をとおに越えていて、むしろ無痛覚に近い。川の流れに足を取られないようにして確実にバッグを手に取る。

陸に戻り、少年の前で開けてみる。
札束だ。
大量の札束が入っている。

「本物だ・・・」

「成功だね、オジサン」

5000万だ。
5000万が手に入った。
良かった。
助かった。
これで俺はやり直せる。
喜びが大爆発する・・・、はずだった。
何故だろう。何処か実感がない。
嬉しい。
確かに嬉しい。
しかし何というか、夢の中にいるような、いや違う。
そんなものじゃない。もっと、そう、
夢から醒めたような、そんな感覚に近い。

「昔、ミステリマンガで読んだことあるんだ。ルイ・ヴィトンのバッグって人一人が捕まっても沈まないように設計されてるって。だから5000万円程度積んで川に流しても沈まずに下流に流れてくるんじゃないかってね」

「ありがとう。君のおかげで誘拐は成功したよ。礼を言う」

「人質にお礼を言う犯人っていうのもおかしいけどね」

「そうだな」

少年の小さな笑顔が見れた。
可愛らしい笑顔だな。こうすれば歳相応に見える。思えば今回始まって以来の笑顔だな、と気づいた。

「これで誘拐事件も閉幕だな。お別れだ」

「これからどうするつもり?」

「んん、そうだな。取り敢えず借金を返すよ。そのままとんずらも良いかもしれないけど、何となく居心地が悪い」

「根っからの非犯罪者タイプだね」

「今回の一件で分かったよ。俺は平穏無事に暮らす方が性に合ってる。金輪際犯罪なんてこりごりさ」

「僕も疲れた。やっぱり誘拐事件に付き合うんじゃなかったよ」

「俺も田舎に帰って地元で働くよ。そろそろ親の老けた顔も見たくなってきたしね。あぁ、勿論、逮捕されなかったらの話だけどな」

「言わないよ別に。疲れたのは確かだけど、それでも楽しかったから。なかなか日常生活ではできない体験が出来たもの」

「でも、警察なんかには事細かに聞かれるんだぞ。犯人はどんなやつだったとか、誘拐されていた間どんなことされた、とか。お前がのちのち苦しい立場になるくらいなら、俺の名前正直に話しても良いんだぞ」

「適当にごまかすよ。間違ってもオジサンのことは喋らないよ」

少年はははっと笑った。無邪気な、本当に屈託のない破顔だった。俺はそう思った。

「一人で帰れるか。何だったら一枚くらい持っていくか」

今しがたせしめたルイ・ヴィトンのバッグから福沢諭吉を一枚取り出す。それを差し出そうとするが少年はそれを拒んだ。

「要らないよ」

「それもそうか。誘拐された子どもが万札持ってたら怪しいもんな」

「それもあるけど」

月が嘲笑する。夜風がせせら笑う。

「多分そのお金、僕の父親が出したお金じゃないから・・・」

途端に少年の顔が曇った。今までの小学生らしい邪な考えすら浮かばないようなあどけない表情はどこにもなかった。
一瞬、少年の言葉の意味が分からなかった。
脅迫文通りに川の上流から、指定されたルイ・ヴィトンのバッグが流れてきたのだ。夏樹少年の親でなくて誰がこんなことをするのか。
俺は間抜けな声で、は?と聞き返した。
少年も言おう言わまいか迷っていたようだが、次第にその口を開いた。

「そのお金は僕の父親が用意したものじゃない。きっと別のどこかの親が用意したお金さ」

「・・・別のどこかの親? なんで知らない親がお前のために身代金を用意するって言うんだ」

「おそらく『僕のため』じゃない。他の誰かのためさ。僕の父親は僕のためにお金なんか用意しない。きっと・・・」

少年は項垂れて、悲しそうな顔をする。そのあとの言葉が聞き取れない。
ますます俺の頭は混乱する。

「オジサンは理解できないと思うけどね。僕の父親はそんな、およそまともな親としての感情を持った生き物じゃない。我が子が誘拐されたからって、その身代金を黙って用意するような心の暖かい奴じゃないんだ」

「・・・そんな馬鹿な」

「オジサンはおかしいと思わなかったの? ここに来る間に警察の検問があったでしょ。タクシーの運転手も言ってたじゃん、いつもは見ないトランクまで見たって。どう考えても誘拐事件の検問としか考えられないよ。なら顔写真が配られていてもおかしくない! なのに警察は見逃した」

少年の声に嗚咽が入る。

「ちょっと待て。警察は俺の顔写真が手に入らなかったのかもしれない。最近写真に撮られたこともないし用意された似顔絵が似てなかっただけかも。俺を見つけられなかったとしても、だからって・・・」

「オジサンの顔写真は、でしょ。でも絶対に僕の顔写真は用意されているはず。じゃないと警察も何のために検問を張ってるか分からないじゃん。にも関わらずだよ、警察は特に詳しく顔を見るわけじゃなく、簡単に僕たちを通した。ちょっと髪を切った程度の変装がバレれないはずがない」

少年は泣き出しそうだ。それを必死で抑えている。

「・・・なら警察は誰を探していたんだ?」

「別の子どもさ。僕の代わりに、僕の父親に誘拐された別の家の子どもさ・・・」

感情のバケツがいっぱいになってる。誰かが触れて穴を開けてやらないと・・・

「お前の父親? 別の子ども?」

少年の突拍子もないことに思考回路がついていかない。別の子どもを誘拐、少年の父親がか?
我が子が誘拐されたって時に、なんだってそんな馬鹿げたことを。
でもそんな馬鹿げたことを勢いに乗ってやってしまった男がここにいる。そしてそのことを踏まえると、少年の言わんとしていることがようやく理解出来始めた。

「そうさ。おおかた、自分の子どもが誘拐されたって分かったから、その自分も誘拐し返したんだ。自分で自分の子どものために5000万円払うのがおしくなって、だから、他人に払わせようって・・・、自分でまた別の誰かを誘拐してその家族に身代金を払わせれば自分の懐は痛まない。自分の子どもの無事が確認できれば、改めて人質を解放する。そうすれば世間的にも警察的にも丸く収まるってね。そう考えるやつなんだよ。」

目には堪えきれない涙の玉、月の妖艶な光を浴びて一層妖艶な煌きを演出する。

「そんな訳・・・」

ないだろ、と言えなかった。
自分が誘拐している最中、こいつは親のことを汚らしく罵倒していた。俺はそんな事はないと言って聞かせたが、もし少年の言っていることが本当なのだとしたら・・・。

「どうしてそう言い切れる。」

「分かるよ。だって・・・」

少年は腹に力を込めて、今にも大声で泣き出しそうで、そして

「僕はそんなくそな父親の娘だもの!」

破裂した。
ここまで耐えてきたこと、24時間どころではない、ここまで10年間以上バケツに溜まり続けた感情がバケツから溢れ出した。感情の奔流は少年を包み込み、弾け拡散していく。
それを止めることは本人もできない。できるのは、親だけ。

それを見ていた森の木々たちが風に揺られ拍手喝采を送り出した。
月と雲は高みの見物をしながら薄ら笑い声を上げている。

最終章 11月27日 18:30ごろ

 「結局、犯人は逮捕され少年は無事保護されたんだな」

助手席のシートから呟くような声がした。
桐星だ。奴はほぼ水平に近いところまでシートを倒し、半分寝ている状態で、目も虚ろだった。
その手には今回の誘拐事件の報告書が握られていた。本来報告書は上司に提出するもので、署外へは持ち出し厳禁であった。
それをこいつは平然と持ち出し、俺の愛車の中で読んでいる。ばれたら俺も同罪なんだが。

「逮捕されたのは、K*市在住の『立花寛樹』40歳。市内の『北光科学株式会社』の経営者。容疑は未成年者略取及び誘拐罪。被疑者はF*市在住の阪本秋春氏の息子である『阪本章太』、11歳の小学校5年生。被疑者の話によると11月23日、つまり阪本氏から誘拐の通報があった前日の午後10時ごろ、自宅の郵便受けに奇妙な手紙が届いたのが発見される。そこには『子供は 預かった  3億円 用意しろ 受け渡しの方法は おって連絡する』と書かれていた。そこで立花寛樹は娘である『立花夏樹』、10歳の小学校4年生、はぁ10歳の女の子か、が誘拐されたことに気づく。なんだ、この立花寛樹ってやつは自分の子供が誘拐されたって時に、また別の子供を誘拐し返したってことか?」

「そうなるな。阪本氏と同様、立花寛樹も北光科学株式会社って会社を経営していた。その会社がちょうど阪本秋春氏の経営しているSAメディカルギア株式会社のライバル会社だったらしい。似たような技術を開発していて、タッチの差で向こうが早く海外企業と業務提携をした。そこで企業提携に必要な3億円を奪って御破算にしてやろうと考えたのが今回の二重誘拐事件だ。立花は娘が誘拐されて要求されている身代金3億円を自分で払うのではなく、阪本氏に払わせようとした。娘を取り返し、同時にライバル会社を潰し、あわよくば自分の会社が業務提携を結ぶことができたらと、一石二鳥ならぬ一石三鳥の策を編み出したわけだ。と言っても奴もすぐにその場で全てを考えついたわけではないらしい」

「書いてあるな。もともと立花は遅かれ早かれ阪本氏の息子を誘拐する計画を立てていた、と。そのためにメッセンジャーを数名用意し、そのための切り貼り文章も用意していたのか。そして今回、娘が誘拐されたのをこれ幸いに、計画していた誘拐事件を実行した。これがその立花寛樹氏が阪本秋春氏に出した脅迫文か。『息子は 預かった  3億円 用意しろ 受け渡し方法は おって連絡する。』か。自分のとこに届いた脅迫文と瓜二つじゃないか。強いて言えば最初の言葉が『子供』か『息子』かの違いと、最後に句読点の『。』があるかないかの違いだけだな。確かに章太君は男子、それに対し夏樹ちゃんは女子だから息子って使えないからな」

「立花寛樹も脅迫文の2通目までは良かった、自分の思った通りにことが運んだ。しかし身代金の運ぶ場所と時間までは予測できない。自分の元に届いた脅迫文の指示に従って阪本氏に指示をしなくてはいけない。でもそれだと手紙を作ってメッセンジャーの所に置いてくるということは流石に出来なかった。警察が彷徨いている可能性もあるし万が一、阪本家に届かないと今度は本当の自分の娘の命が危ない」

「そうか。それで3通目以降、つまり身代金の説明の時は手紙ではなく電話で連絡せざるを得なかったんですね」

今度は助手席ではなく背後の後部座席の若田部だ。自分の背後から急に声がするのはびっくりするが助手席の後ろは桐星がシートを倒しきっていれないのでしょうがない。

「そういう事だな。あの時電話の向こうの犯人、まぁ立花だが、あいつも内心ヒヤヒヤしていたはずだ。少しでも早く伝えなければ身代金の用意が出来なくなるからな。あのとき立花が時間を気にしていた理由も良く分かるよ」

「で、立花としては後は阪本家がちゃんと身代金を用意し、指定の時間までに指定の場所に持って行きさえすれば良かった。自分は身代金に手をつけるつもりはなかった、ってことですね?」

「あぁ。その後は阪本家と、自分の娘を誘拐した犯人とが身代金のやり取りさえしてくれれば良いんだ。自分が顔を出す必要性はない。誘拐で最もリスクの高い身代金の受け渡しにタッチしなければ自分が捕まる可能性は低くなると読んでいたのだろう。そこが奴の頭の良いところだな」

「で、その誘拐された子どもは無事なんですか?」

「外傷も無いし、健康そのものだそうだ。章太って子も、夏樹って子も。しかしあれだな、阪本章太って子は良いが、立花夏樹って子は可哀想な気もするな。章太って子は、両親があそこまで心配してくれたんだぜ。大の大人のがあそこまで泣きじゃくって『子どもを助けてくれ』ってな。でも立花夏樹の方はどうだ。自分が誘拐されたってのに、その父親は自分を心配するどころか会社の経営戦略に利用されたって知ったら。俺だったら父親殴ってるね」

若田部はうぅん、と唸っている。すると桐星がぼそりと言う

「意外と、その夏樹って女の子も誘拐を面白がっていたりしてな。父親に似て」

「ん。どう言う意味だ? 確かに水面下で行われた誘拐だったかもしれないが、立花夏樹ちゃんだって立派な誘拐の被害者だ。いくら実の父親があんなんだからって事件を面白がったり、ましてや手伝うなんてこともないだろうしな」

そうだな、とあいつは呟く。

「先輩。阪本章大くん誘拐の犯人が立花寛樹ってのは分かったんですけど、その娘の立花夏樹ちゃんを誘拐した犯人は見つかったんですか? 「誘拐事件からもう4日以上経ってますしね。被害者の夏樹ちゃんも怖くて何も覚えていないって言ってるんですよね」

痛いところを突いてくる。
そこなのだ。今回は表立ってこそいないが誘拐事件は2件起きていた。そのうち犯人が捕まったのは1件だけ。即ち阪本章太くんを誘拐した立花寛樹のみ。では立花夏樹を誘拐した犯人はどうしたのだろうか。実は我々警察はその情報を掴めていない。
肝心の被害者も、犯人に連れ去られている時の恐怖と混乱で何も覚えていないと証言している。相手が男か女かすら記憶に無いと言う。
しょうがない気もする。調書によれば夏樹ちゃんは小学校4年生。まだ自分の年の半分も行っていない女の子だ。しかも髪の毛はばっさり切り取られるという始末。そりゃ怖くて記憶からすぐに消し去りたいと思っても仕方のないこと。無理に思い出せというのは酷と言うものだ。
それにしても酷いことをする奴がいるもんだ。

「なら先輩が睨んでいた播戸良介って人は無関係だったんですか」

「そうなるね。それに身代金の1つは行方不明だしな。川の底に沈んでいるか、さもなくば大海原で魚の餌になっているか、だな」

「でも清里さんは良くそのことに気づきましたよね。だって途中からは先輩たちの意見を取り入れたんでしょ?」

「いや、あの人は最初っから犯人は計画的にことを進めていると考えていたそうだ。実際そうだったけどな。被疑者の立花は元々誘拐計画を立てていたんだから。そこへ俺たち2人さ。大した経験もなく変にいきがって挙げ句の果てに命令無視さ。主任もどうしたら良いか頭を捻ったみたいだよ」

「ははぁ。それで後半は先輩たちの意見を取り入れている振りをして勝手なことをさせないようにしたんですね。それを先輩たちは自分たちの意見が採用されたって勘違いして、鼻息荒くして空回りして終わったってことですね」

「他人に言われると腹が立つな」

「でも実際そうなんですよね。清里さんは先輩たちとは別に、被疑者の立花を追う班も導入し居場所を突き止めたんですもんね。それでその後はお咎めなしですか?」

俺は嘆息する。

「そんな訳あるか。あのあとこっぴどく怒られたよ。3時間、椅子に座ることもトイレに行くこともできず、ただ立ち尽くし3秒に1回頷く、と言う地獄のような時間だったさ。まぁただお咎めはそれっきりで、特に課長や署長に呼ばれるということも無かったから、一先ず首の皮は繋がったというべきか」

課長に関しても、捜査一課の桐星を己の独断で勝手に捜査二課に押し付けて沖田事案だと言う負い目もあってか黙認していると言う噂もある。

「じゃあ次、ヘマしたら本当に停職ですか?」

「あり得るな。あんまり不吉なことは言わんでくれ」

「そう言わないでください。今日はそんなことは忘れてパーっとやりましょう。折角、先輩がセッティングしてくれた合コンなんですから。ちゃんと女性教員で揃えてくれたんですよね?」

「当たり前よ。しかも今夜は巨乳とメガネっ娘だ」

「わお! すげぇ。先輩すごいですね。気が効きますね」

「まぁ、巨乳は誰かのリクエストだがな」

隣の桐星は我関せずな表情を貫く。しかし俺は奴の口元が少しつり上がったのを見逃さなかった。

ハンドルを大きく切る。駅前の大通りをゆっくり曲がる。
時間は夜の7時を過ぎ、ネオン街も活気を増す。近くのコインパーキングを探すも何処も満車のようだ。
ようやく見つけた場所は駅から200m以上も離れた場所だったが、この際気にしないでおこう。
ブルーバードを止め、颯爽と降りる。若田部は生き生きとして口元が緩んでいる。助手席から降りた桐星も降りる直前まで眠そうにしていたが、まんざらでもないようだ。

「でも先輩。どうしてまた女性教員と交流があるんですか?」

「ん、あぁ。それは、秘密だ」

俺たち3人は肩を並べて駅前の居酒屋に歩を進める。


―――了

名も無き誘拐事件

自分はミステリと言ったら、いわゆる新本格物を真っ先に思い浮かべます。綾辻行人さんや有栖川有栖さんですね。特に綾辻さんの作風にはかなり影響を受けていましたので、小説を書くときにはその方面のミステリ中心でした。叙述ものや幻想的な雰囲気のものを書いていましたね。ただ最近は森博嗣さん、東川さん、米澤穂信さんらのミステリに多少は影響を受けた作品に寄ってきた印象があります。天動驚地なトリックよりも、テンポよくスピーディ、洒落た台詞などが印象的で人間の内面の変化を鋭く描写するもの、そんな感じです。この作品もそうかなと思います。まぁ、自分で勝手に言ってるだけなので。なのでもし1作目を見た人は全然違うなと思うかもしれません。そうですね、全然違います。これはこれでありかなと思いますので、楽しめた方はまたいずれ楽しみにしてください。

名も無き誘拐事件

播戸良介は借金を抱えていた。返すあてのない2950万円を手に入れるために勢い余って子供を誘拐してしまい、何故か子どもと一緒に誘拐事件を計画する。そして誘拐事件を追う一里塚署の樹村と桐星事件はどう収束するのか。 キーワード: 誘拐 ミステリ 子ども

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-15

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. 第1章 11月23日 19:30ごろ
  2. 第2章 11月24日 07:25ごろ
  3. 第3章 11月23日 21:00ごろ
  4. 第4章 11月24日 09:45ごろ
  5. 第5章 11月24日 01:30ごろ
  6. 第6章 11月24日 11:00ごろ
  7. 第7章 11月24日 13:10ごろ
  8. 第8章 11月24日 14:00ごろ
  9. 第9章 11月24日 14:30ごろ
  10. 第10章 11月24日 15:25ごろ
  11. 第11章 11月24日 17:30ごろ
  12. 最終章 11月27日 18:30ごろ