アベルの青い涙

『何の為に産まれ、なぜ生きているのですか…?』
貴方は、この様な質問に答えられますか?
私は今まで答えられませんでした。 それどころか『この人生に何の意味が有る??』と、よく考えていたものです。
それは、多くの物を失い、散々な毎日を送っていたからです。
そんな、ある日の事です。
私は夢を見ました。それは長い夢で、まるで鮮明なスクリーンに映し出された映画を観ている様でした。 そして驚くことに、夢から覚めた私の心は軽く、晴れ晴れとしていたのです。 その後、何とも言えない衝撃を覚えました。それからと言うもの夢の事が片時も頭から離れず、やがて、ある一つの結論に辿り着いたのです。 それは『夢で見た物語を書く事が、私の使命なのだ』と……。
今は、胸を張ってそう言えます。
もしも、貴方が上記の質問の答えに迷ったのなら、是非、この物語を読んで下さい。 一見は普通の物語に思えるかもしれませんが、必ず、読み終わる頃には何かを感じ取って頂けるはずです。
私は、今まで小説なる物を書いた事が有りません。その為に更新は早く出来ませんが、一人でも多くの方に『何の為に産まれたのだろう… 』この答えを知って頂きたく筆を取る決心をしました。 長編になる予定ですが、最後までお付き合い頂けたら幸いです。
……貴方に幸せが訪れますように(*^^*)

(あらすじ)
近い未来……。神は、戦争や暴動を繰り返す人間達の姿に嘆き、地上界の復興を測るために二人の天使を遣わせた。 しかし計画は失敗。それどころか、未だ嘗て無い窮地に立たされ、天、地上界共に存続の危機に追い込まれることに……。そこで神の出した苦渋の決断は『少年アベル』を勇者に立てること。しかし、アベルは能天気で小心者。とても勇者に相応しくない人物だったのだ。神はなぜアベルを選んだのか? そこに隠された神の真意とは……。
アベルは自分に与えられた天命を知り、旅に出る事に。そして、旅を通じて愛と友情を知り、大きく成長していく……。
この地球ほしの行方は……。
そして、人類の未来はどうなる??

一話 神の遣い

  「ヤハウェ様、大変です! 」

  息を切らせ、血相を変えて現れたのはマトレイユだった。

  ここは、地球から遥か遠い彼方に位置する天の国。偉大なる神々の住む星である。 まさに、その中心に聳え建つ白亜の城……エデンの宮殿。 今ここで、天地を揺るがす様な事態が起きようとしていた。

  「マトレイユ、そんなに慌ててどうした?」

  ヤハウェは、いつも冷静なマトレイユにしてはらしくない態度に驚いた。
  マトレイユとは、天使の取り纏め役を務める神である。 その役柄もあっての事だが、マトレイユは面倒見が良く、聡明で、何事に対しても慎重な人物だ。 しかし……。そんなマトレイユが取り乱す事と言えば、思い当たる原因は、ただ一つ……。

  「ヤハウェ様、どうしたもこうしたもありません! いいですから早く外の広場に 」
 
  「……どうしたと言うのだ? 」

  「とにかく、来て頂ければ分かりますから 」

  「そうか……。わかった」

  ヤハウェは、マトレイユと共に広場へと向かった。
 宮殿内に長く続く螺旋階段を、二人は急いで駆け降りた。
 広場に近づくにつれて、何やら騒がしい声が耳に飛び込んできた。
 この、雑音にも聞こえる声の音から想像すると……。 外にはかなりの数の住民達が居るに違いない。
 やはり、思った通りだ。
 そこは溢れるばかりの人だかり。天界の住民達がひしめく様に集まっていたのだ。

  ヤハウェには、何となく想像が出来た。 あの、マトレイユの慌てよう……。そして、なぜ、何の前触れも無く住民達がここに現れたのか。

  皆は、ヤハウェの姿が見えた途端に慌てて口を閉じた。
 静まり返った広場……。 そして、皆はヤハウェに向かい頭を下げた。

  「これは、何の騒ぎかね? 」

  直ぐ側に居た者に問い尋ねるヤハウェ。
 しかし、言いづらいのか? 住民は、もったいぶった態度を示すと、何処となく遠慮気味に話し初めた。

  「ヤハウェ様……。 とても、言いにくい事ですが…… 」

  「いい。遠慮なく申せ 」

  「は……はい。 では、ここに集まった者の代表として言わせて頂きます。実は、ヤハウェ様の人間達に対する扱いが甘いのではないか? と…… 」

  「そうか。 そなたの言っているのは、マヤの予言の事だな? 」

「はい……。ヤハウェ様は以前おっしゃいました。 人間達が争いを続け、全ての過ちを認めないのなら、約束の期限に人類を滅亡させたのちに新人類に地球を託すと…。 その証拠として、ヤハウェ様は人間達を戒める為に、自らが高度文明を持った都市を滅亡に導き、あえて、そこに天からの警告を残された…… 」

「あぁ、そうだとも。 それが何か? 」

「ヤハウェ様は、既に地上で新人類を育てておいででいらっしゃる。 そして、いつでも事を起こせる様に、二枚目の鏡を地球に置かれた……。 ならば何故、その通りになさらなかったのですか? 信仰を無くした人間をこのまま生かしておくよりも、新人類に未来を託して頂いた方が天界の繁栄に繋がる。と思い、ここに集まった次第です」

「わかった……。 そなたは、わしが事を起こさなかったのが不満なのだな 」

 住民は、ゆっくりと頷いた。
 ヤハウェはその仕草を見届けると、皆に聞こえる様に大声をあげた。

「この者は、こう言った。 わしの人間対する扱いが甘い。と……。 皆も同じ意見なのか? もし、違う意見の者が居たら申してみよ 」

「ヤハウェ様、どうか人間を戒めてください!!」

「そうだ! 人間に思い知らせてやるんだ 」

「どうか、天界の発展を…… 」

 次々にあがる賛成の声。
 ここに集まった者は皆、同じ考えなのだろう。 反対意見は一向に出て来なかった。

「そうか……。 皆の気持ちは分かった……。 確かにその通りだ。 だが……。 わしは考え方を変えたのだ。 それは、生まれた命。その全てに生きる権利があると……。 誰が好んで滅亡寸前の人種に生まれるのだ。 わしは神である前に、万物の父であるのだ 」

 ヤハウェはそこまで言うと、皆の前でしゃがみ込んで頭を下げた。
  皆は驚いた。まさか、全能の神であるヤハウェが頭を下げるなんて……。それだけではない。何と、ヤハウェは涙ながらに訴えたのだ。
 ヤハウェの思い掛け無い行動に、その場の空気がざわついた。

「お願いだ、どうが頼む……。人間達にもうしばらく猶予を与えておくれ……。 それでも人間達が変わらない。 と言うのならば、必ず、その時には地球を創り変える。そう、約束するから…… 」

  それ以上に皆は反論しなかった。 何しろ、全能の神、ヤハウェが涙ながらに願い出たのだ。 この天界に、ヤハウェ以上に権力を持った神など存在する訳もなく、従うしか無かった。

「わかってくれたのか? 」

 静まり返った広場……。
 ヤハウェは、住民達が要件を聞き入れてくれたと解釈すると、安心して胸を撫ぜおろした。

「では、ここで皆に断言するとしよう。 今後、皆が人間界について意見できる様に度々会議を開く事とする。 そして、肝心な期限だが……。遅くても’ アレセイアの鏡 ’ が次の光を放つ時まで。としよう…… 」



 ’ アレセイアの鏡’ とは、天界を司る力の源である。 その原動力は人々の信仰心だ。 しかし、年々人々の信仰心は薄れ、その結果、今回の様な事件が起こったのだと言えよう。
 そして、’アレセイアの鏡’ は、百年に一回の周期で光を放つのだ。 前回は今から48年前にそれは訪れた。 と、言うことは……。人類にはまだ52年の猶予がある計算になる。
 ちなみに、この事件が起こった日にちは暦上で 2015年 9月 4日 の出来事だった。


 それから……。
 目まぐるしく時は流れ、さほど遠くない未来にこの物語は始まる……。 


 
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

  2067年……地球。 期限の日まで、あと数ヶ月残す迄となった。

 人類は第三次世界大戦を引き起こし、人口は半減していた。
 その後、戦争によって利益を得た権力者や富裕層達の手によって世界は創り変えられ、人類は大きな節目を迎えていた。

 広大な敷地に広がる大都市[ホワイトタウン]
 そこは、白塗られた高層建造物が大地を覆うように立ち並び、街の至る所には芸術的なモニュメントが無数に置かれ、華やかに飾られた。

 荒地に突如現れた、巨大な蓮の花にも似たこの楽園を誰もがこう呼んだ。

「人類史上、最も美しい街」と……

 その上空には銀色をした小型移動式車両。と、呼ばれる、いわゆる空飛ぶ車が激しく行き交い、世界中から科学者達が集められ、人類の更なる発展に向た様々な研究が執り行われていた。

 しかし、このタウンに出入り出来るのはほんの一部の人間だけ。

 生き残った人々の大半はホワイトタウンに入る事は許されず、白い都を取り囲む様に広がる工業地帯で強制労働させられ、その者達は、そこに隣接するスラム街に住むしかなかった。
 
 しかし、いくら働いたとしても給料の殆どを雇い主である金持ち達に牛耳られてしまい、労働者達には僅かな賃金しか支払われずに貧しい暮らしを余儀無くされた。

 もはや、金持ち達にとって労働者達の存在は家畜同然。 ただ、私腹を肥やす材料でしか無かったのだ。

 そんな労働者達の住むスラム街では、飢餓や疫病に蝕まれる者が後を絶たず、それどころか、頻繁に強盗や殺人事件が勃発。 醜い争い事が幾度と無く繰り返された。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。


  その頃、天の国。エデンの宮殿では……


「はぁ…… 」
  深い溜息がこぼれ落ちた。

 ヤハウェはベランダの手摺につかまりながら、下界(人間界)の様子を伺っていたのだ。

 やはり、今回も変化は無しか……。

 あの事件以来。 何とかして人類を守ろうと、ヤハウェは思考を張り巡らせてはみたが…… 何も良い手立てが見つからず、約束の期限が目前に迫った今、焦る気持ちが心を掻き立てた。
 そして、間も無く会議が行われる。
 あの日から、人々の行いは改善される所か戦争まで引き起こしたのだ。恐らく、助かる余地は無いだろう……。
 もしも、住民達を納得させるほどの妙案が有れば、話は別だが……。
 何か、良い手は無いだろうか……。
 

  そこに、マトレイユが姿を現した。

 マトレイユは宮殿内からヤハウェの後ろ姿を見つけると、肩に掛かる白いマントを素早く翻し、慌ただしく床にカツカツと足音を響かせながらヤハウェの背中に駆け寄った。

「ヤハウェ様……! 探しましたよ、こちらでしたか!」

 広い宮殿内を探し回っていたのだろう。マトレイユは肩で荒く息をした。

「そろそろ会議の時刻です。早く広間にお越し下さい!! すでに、神の一族と各種族の代表者達が集まっておいでですよ」

  「はぁ…… 」

 マトレイユの言葉にも耳を傾けず、いつまでも打たれた釘の様にベランダから目を落とし続けるヤハウェに、焦り顔でマトレイユが迫った。

「どうしたのですか? まだためらっておいでなのですか?? ……人間界の鏡を使われる時期だと思いますが……」

「 うむ…… 」

「聞いておられますか……?! どうか早く決断なさって下さい。 集まった者達も含め、天界の住民の殆どが新人類の繁栄に期待しています。このままでは、貴方様の立場も危のうございます!!」

「………… 」

「いつまで黙っておられるのですか?!」
 
  「 ん......... 」

「これは天上界存続の危機ですよ。皆の前で誓われた事をお忘れですか? 例え天と地がひっくり返る様な出来事があったとしても、旧人類が心を入れ替えて神に信仰するなど、私には到底思えません」

「うむ……。 いや、待て。 何か必ず方法があるはずだ……」

「ヤハウェ様!! まだそんな事を言っておられるのですか? 」

 マトレイユの表情が、一瞬凍りついた様に固まった。
  ……今更、何を言っているのですか??もう手遅れでしょう……?
  その視線から、そんな心の声が聞こえた様な気がした。
 ヤハウェは痛いほどにマトレイユの気持ちを察していた。

「ヤハウェ様はここからでは無く、アレセイアの鏡を使って人間界の様子をご覧になられておいでですか?」

 マトレイユは眉間にシワを寄せ、ヤハウェ神の顔を覗き込みながら続けて言った。

「確かに……。 人類滅亡と言われた日。大勢の人間が神に祈りを捧げました。 しかし、それも一時だけの事。 何も起こらないと分かるとまたもや貴方様を欺き、今や、欲望に支配された者が神の化身として崇められているではありませんか。 私にはもう我慢がなりません!」

「マトレイユや、 お前の言う事もよく分かるが……。たとえ人が神の存在を忘れたとしても、人間が愛おしく思えてならんのだ」

「なぁっ! 何を言っておられるのですか!? 全能の神で在られる貴方様がその様な事を言っているので人間共がつけ上がるのですよ。 その言葉を天界人の皆が聞いたら何と言うでしょう? 恐ろしくて、とても私の口からは答えられません 」

 それから、二人の間には重い空気が流れ、沈黙が続いた。

「 …………………」

「 ………………… 」

  しばらくして沈黙を破ったのは、マトレイユだった。

「ヤハウェ様がそこまでおっしゃるのでしたら、人間界に遣いを送ってはいかがでしょうか……?」

「イエスを送った様にか?」

「 そうでございます。しかし、今回は一人では無く、二人の使者を送るのです」

「それはどうしてだ……?」

 その時、ヤハウェの脳裏を過った。 あの、決して忘れる事の出来ない悲しい出来事が……。

 イエス……。
  必死に神の存在を訴え続けた挙句、十字架に貼り付けられ、人間の罪を一人で背負った神の申し子、愛しい我が子。イエス。その痛いげな瞳を………。

 マトレイユは、またも同じ事をせよ。と、わしに言うのか……。
 もう、それしか無いのか……?
 わしは一体、どうすれば良いのだ……。


 ヤハウェの深刻な表情を読み取ったのだろう。マトレイユはその不安を拭い去るように言った。

「イエス一人を遣いに出したのは間違いでした。 確かに、神の存在を人間達に知ら示す意味では良かったのだと思いますが……。 ですが、その結果、裁きの権限を人間自らに与える事になりました。 そのために秩序は乱れ、全てが狂ったのだと私は思うのです。」

「うむ……。 それで?」

「ですから今回は天界人を人間界に直接送り込み、一人には救いを。 そしてもう一人には裁きの力を与えるのです。 そうすれば、以前の様に理不尽な結果には成らないかと……。 いかがでしょう?」

「うむ………。わしはもう、これ以上皆が歪み合って血を流す姿を見たくない。 ……お前は、本当にそれで人間達が変わると思うか?」

「はい。 少なくとも今は実行するしか選択肢は無いはずです。 もし何もしないのであれば、また会議で「待ってくれ」とでも言うおつもりですか?」

「ふぅぅ………」

「このままでは天界の住民達の手によって惨事が起こるかもしれません」

「うむ、そうだな……。 わかった。 では、お前の言う通りにしてみよう。 …ところで、適任は居るのか?」

「はい。 私ども天使団の中でも有名なほど仲のいい兄弟が居りまして、そんな二人であれば、協力し合って任務を遂行してくれるのではないかと……」

「では、その者達をここに呼びなさい。わしは会議で皆に報告するとしよう」

「かしこまりました。……ですがヤハウェ様、これだけは肝に命じて下さい」

 まるで、念を押すかの様な口調でマトレイユが言った。

「良くお分かりでしょうが、今回この提案で住民達が納得したとしても、いつまでも黙って居る者達ではございません。 これで変化が無ければ潔く人間界を創り変え、天界の繁栄を第一に考えてくださる。と、約束して下さい」

「うむ……。 わかっておる。 お前には、いつも気苦労させるな」

「もったいないお言葉です! 私のような神の端くれにまでそのような言葉をお掛けになられるので他の神々に侮られてしまうのですよ。 ……ですが、そんな貴方様だからこそ尊敬しております」

「お前の気持ちは分かっておる」

 マトレイユのお節介とまでに思った事を直ぐに口にする所を頼もしく思っているのだろう。ヤハウェは温かい眼差しを浮かべていた。

 マトレイユは深く一礼した後、長い赤毛を靡かせながら宮殿を出ると、足早に天使達の住む森へと向かった。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 そして、神はかつて望んだ人間社会の復興を図る為に、地上に二人の天使を遣わすことにした。

  天使の名は、エンドリューとモロゾフ。

 神は二人に重大な使命を与える代わりに、それぞれに霊力を授けた。
 兄であるエンドリューには、どんな傷や病いも治してしまい、それどころか、手にした者には永遠の命をも与える。という癒しの力が宿る【テラスの霊泉】を。そして弟であるモロゾフには、遥か昔、火を吐き大地を焼き尽くしたという伝説の龍。デルピュネの霊力を封じ込めた指輪【デルピュネの指輪】を渡した。
 この指輪をはめた者は自由自在に火を操る事が出来る。という代物だ。
 だだ、この指輪には欠点があった。
 魔獣の霊力を封印しているため、邪悪な心を持って扱うと、たちまち心を操られて自らが魔人と化してしまうのだ。

 ヤハウェはモロゾフに何度も言い聞かせた。

「この指輪は、人々を苦しめる悪人を成敗する時のみに使いなさい。くれぐれも邪心を抱かず、正義の心を持って扱うように」と……。

 そしてヤハウェは二人に約束した。 今回、見事に役目を果たした暁には【神】の称号を与え、子孫も神の一族として迎え入れる事を。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 早速地上に降り立った二人の天使は、神の申し付けの通りに行動した。

 兄エンドリューは、道端に倒れた人々を助けていった。
 弟モロゾフも、強盗や殺人の現場にいち早く出向き、罪人を尽く焼き殺していった。
 そんな二人の活躍もあり、スラム街にも明るい兆しが差し始めて来たかのように思えた。

 しかし、この計画こそが更に人類と神を絶望の淵に立たせる結果になるとは…。
  誰もその時は思いもしなかった。 そう、神であるヤハウェさえも………。

二話 モロゾフの裏切り

  一見、平和になりつつあるスラム街。

  だが、人類の復興を考えるのであれば、苦しむ人々を一人づつ救うのでは埒が明かない……。
 本当の目的は、ホワイトタウンを崩壊した後に貧富の差を取り除き、金持ち達から労働者を解放する事だった。

 モロゾフも分かっていた。その任務こそ、今回の使命だと……。

 しかし、モロゾフには迷いがあった。

 モロゾフは人々の為に働き、役目を終える度に心の中で神に祈った。


  あぁヤハウェ様………。
 どんなに人を助けたとしても、感謝すらされないのは何故ですか?…。
 
 別に、礼が欲しい訳では無く、ただ……。

 私を目の前にすると、人は悪魔を見るかのように怯えた目をして決まって神に救いの祈りをする。 それは何故でしょう??
 助けたのは私、 兄でも無く、他の誰でもない。 私、だと言うのに……。

 それに、たった一つの拠り所であった、 あの人まで……。

 私は、これから何を支えにして行けばいいのでしょう??

 それに比べて兄は、人間達からまるで神の様に崇められている。
 同じ使命を受けた天使の身である事には変わり無いのに……。

  ヤハウェ様.......。

 貴方様は、私に兄の引き立て役になれとおっしゃるのですか? 私を捨て駒にし、犠牲にする。と、おっしゃるのですか...。

  私には、貴方様の考えがわかりません。

 私は、貴方様が思っている程に強くないのです…。 広い荒野を彷徨う、一頭のか弱い子羊と同じなのです。

  なのに何故? どうして? 兄では無く、私に破壊の力を与えたのですか?

  ならば、この不安に打ち勝つ強さを、鋼の心を私にお与えください……。



  モロゾフの心の叫びは、暗い闇の中へ吸い込まれる様に消えて行った......。


 〜〜〜〜〜〜〜〜
 
(フフフ……)
 不気味な笑い声が響くように聞こえた。
  これは頭の中で聞こえるのか…? 何とも不思議な感覚だ。

  「誰だ、誰かいるのか…??」

  ハッと振り向いて見たものの……。
そこに人影は無く、 小さな祭壇が設けられた礼拝所は薄暗くて静まり返っていた。

  (フフフフフ……。ようやく我の声が聞こえたか……)
  再び、声が木霊した。

  「誰だ、私に何の用だ!!」

  (そう意気むでない。我の声が聞こえるとは……。 天使とはいえ、そなたの心が汚れた証……)

  「そうか、この忌々しい指輪のせいだな! ならば、こうしてくれよう!」

  モロゾフは、指から指輪を引き抜こうとした。しかし、どういう訳なのか? 全く抜けようとしない。

  (ハハハッ……。 無駄だ。我の声が聞こえた時点で、そなたはもう我の一部なのだよ)

  「うっっ……! ならば、この指ごと切り落としてくれよう」

  モロゾフは、祭壇に置かれた花瓶を割ると、ガラスの破片を指に押し付けた。
 
「ぐわぁっ……!!」

  すると、ビリビリと電流の様な衝撃が体中を駆け巡り、モロゾフの手からガラスの破片が滑り落ちた。

  (お愚か者めが……。言ったであろう。そなたは我の一部だと……。)

  しゃがみ込んだまま、苦しそうにモロゾフは胸元を掴んだ。

  (よく聞け、神に祈ったって無駄だ。どんなにそなたが訴えようと、我の魔力で通じぬ。……我は長い間、こんな窮屈な所に閉じ込められ続けたのだ。 今こそ神に復讐する時…。今、来たり……!!)

  「そんな事させるか!!」

  (フフッ……。よくもそんな事が言えたものだ。 知っておるぞ、そなたの願いを。 強くなりたいのだろう……??)

  「ちっっ!!」
 
 モロゾフが小さく舌打ちをした。

  (恥ずかしがる事は無い。ずっとそなたを見ておったし、心の声も聞こえておったわ)

  モロゾフはより一層強く、胸をえぐる様に掴んだ。
 
  (そなたも惨めで哀れな者よのぉ……。神に見捨てられ、たった一人の理解者まで失うとは )

  「見捨てられたのでは無いっっ!」

  (ハハハッ……。強がりも結構。…我ならその願いを叶えてやれるぞ。そなたの大切なものを取り戻す事も無理ではない)

  「なっっ!そんな手には乗らん」

  (良く考えてみよ。強さが手に入れば人間なんぞ意図も簡単に従えられる。そなたは強い。だが悪人になり切れぬゆえ、中途半端に人間を怖がらせているだけだ。 真の強さがあれば兄は勿論、神までも我が手に納める事が出来様ぞ)


  モロゾフは、地上に降り立ってからの事を振り返った。

 私は、今まで認めたく無かっただけなのかもしれない。兄には敵わないと……。
  この魔物の言う通り、確かに真の強さがあれば何もかも手に入れられるだろう。
  もう兄の影に成る事も、孤独と恐怖に怯える事も無い。
  そして、何よりも失いたくないもの、 ソフィア……。
 もう一度だけ君の笑顔が見られる。と言うのなら、悪魔に魂を売っても後悔などしないだろう……。

  「 ……… 」

  (どうだ? その気になったか?)

  「……私が、その提案を断ったらどうする?」

  (うぅ……。構わん。その時はそなたの指を離れ、他の憑り代を探すだけ。神の元からここに運んでくれただけでも良しとしよう)

  「じゃあ私で無くとも、他の者を使ってでも復讐する。と言うのだな」

  (さよう……。人間なんぞに比べ、生命力の強い天使の身の方が破壊力も上がるのだがな。だが拒む。と言うなら仕方が無い)

  「 ………わかった。本当に願いを叶えてくれる。と言うなら…… 」

  (そうか!! )

  「では、私は何をすればいいのだ?」

  (先ず……。そなたの兄に死んでもらおう)
 
  「なっっ! 兄を殺すなんて!! それに天界人には掟があって、同胞に手を下した場合、霊力を失って蛇に姿を変えられてしまうのだぞ」

  (フッ……。 そんな事は分かっておるわ。誰もそなたに殺させる。なんて言っておらん。そんなものは下衆な人間にヤらせればいい…)

  「どうして兄を殺さなくてはいけないのです……?!」

  (どうした……? 大切なものを取り戻すのではなかったのか? それには兄の存在は目障りだろう?)

  「だが……しかし、殺すなんて事までしなくても……」

  (だから駄目なのだ、そなたは。 まず人間界を支配し、神の国を恐怖に陥れる為には人間共の負の力が必要だ。その力さえあれば、天界の力の源と言われるあの鏡さえも砕け散るだろう。それには人間共が崇めるそなたの兄を殺し、人に恐怖心と怒りを植え付ける必要があるのだ)

  「……!!」

  (……よかろう。では、そなたに鋼の心をくれてやろう。……そなたの中から’良心’。という不純物を取り除いてくれよう。
 今からそなたは生まれ変わるのだ。悲しみも恐怖心も感じない。感じるのは怒りと憎しみのみ。
  恨め、憎め……。兄を……。神を……。その醜い心がお前に力を与えるのだ…)

  次の瞬間、モロゾフが崩れる様に床に倒れ込んだ。

  (目が覚めた時、暗黒の魔王が誕生する……。ようやく我の時代が訪れるのだ……。見ておれ……憎き神よ……。我を封印した事を後悔させてやる……。
 フフフッ……ハハハハハハッ……ヒヒヒヒヒヒヒヒヒ……… )

三話 モンデモンロ

 モロゾフは走っていた。

 どうしたんだ…?

 あれから、指輪の主に声を掛けても返事が無い。私は夢でも見ていたのだろうか?
 それとも、悪い冗談か?? それに、なぜ私は走っている??

  昨日は気を失ったように眠ってしまった……。
指輪の主は、この私に鋼の心と強さを与える。と、言っていたな。 もしも夢で無かったとしたら、私は変われたのだろうか……。

  それに、 ん……。 何だ?? この、訳もわからなく湧き上がって来る、高ぶる様な気持ちは??

  あ、足が軽い!!。
まるで、足の裏に羽が生えた様だ……。
 
  これは ……。
体の奥底にある潜在意識に語りかけている。とでも言うのか!

  うん…………。わかる……。わかる……。
 分かって来た。 今から私が何をするのか、それに、この足が向かう先に何が有るのかも……。

  この地上に降りてからという物、兄の存在さえ無ければ。と、思った事は何度もあった。特にソフィアを失ってからは、そう思わない日は一日、いや、一秒として無かった。
  だがしかし……。
殺したい。とまで思った事は一度も無かった筈なのに……。

  ………憎い。……憎い。……憎い。
  なぜだ……??? 今は兄が死ぬ。という事が嬉しくてたまらない……。
  これが、指輪の主であるデルピュネの仕業なのか??

  まぁいいだろう……。
 
 

  モロゾフは、ホワイトタウンを取り巻く防壁の前までやって来た。

  白く艶めく陶器にも似た壁は、視界を一色に染めて遮る程に高く、モロゾフの前に大きく立ちはばかっていた。

  「フッ……。これがかの有名な、どんな衝撃にも耐える。という、最先端の技術? とやらを集結させた巨壁か……?! さすがに圧倒される……」

  そんな壁が、崩れる訳などないか……。
 
  そう思いつつも、モロゾフは軽く指輪を擦り、腕を前へ払ってみせた。
 
  《ガ バッッ!!》

  爆音と共に、巨大な火の塊が飛び出した。

「えっっ?!」

 壁に当たって弾けた火花は散らばって広がると、メラメラと燃え上がって壁が崩れ落ちた。

  「こ……これは凄い!!」

  こんな威力は初めてだ…。
 魔獣デルピュネは、如何なる物体をも焼き尽くす魔力があると聞いていたが、これ程までとは……。
 これが、真の力だというのか……。
 
  やはり、私は手に入れたのだ。真の強さと鋼の心を!!
 

  モロゾフは崩れた壁を跨ぐと、とても侵入者とは思えない程に堂々と、白昼の中真っ直ぐ進んで行った。

  突然の非常事態に慌てふためいた住人達は、悲鳴を上げながら逃げ始めた。

  あぁ……人間達の泣き喚き声。
恐怖に怯える悲鳴を聞こうとも、もう怖くなどないぞ!
  それに……。今まで感じていた一人取り残された様な孤独感すら無い!! それどころか何だ? 心地よく、快感に聞こえる……。

  そうだ、もっと泣き喚け!! そして怒り、恨むのだ……! 自分達の縄張りに土足で踏み込んだ、この、侵入者を……!!

  モロゾフは幾つも火の玉を作ると、手当たり次第に建物を崩壊して行った。
 

  白い都。と言われたホワイトタウン。
 今、その上空には幾つもの黒煙が上がり、戦火から逃れようと、帯ただしい数の移動式車両が飛び交っていた。
  その様子を何かに例えるのであれば、電灯に群がる蛾のような光景だ……。

  モロゾフは、中心にある摩天楼を目指していた。
  目的は、最上階に住む住人に会うためだ。
 
  モロゾフは、摩天楼の下まで来ると空を見上げた。

  建造物は想像以上に高く、まるで空を突き刺す一本の剣の様だ。

  天使であるモロゾフにとって、上まで登りつめる事など容易い事だった。

  地面に踵を二回叩きつけると、モロゾフの体は浮き上がった。その直後、直線を描くように真っ直ぐ飛んだ。
 
  は、早い……!浮上する力まで増しているとは……。
 
  最上階に到達すると、モロゾフは火を放ってガラス窓を破壊した。
  粉々に砕け散ったガラスが、建物内に吸い込まれる様に床に散らばった。

  「……!! お前は誰だ!!」

  部屋の奥から男の声がした。
  その方向へ目をやると、長椅子に腰を掛けた人影が…。
  その老人はスラムに住む者とは違い、血色の良い艶ある顔構えのうえに、充分に栄養の行き届いた腹には贅肉が付き、醜いとまでに腹が盛り上がっていた。そして驚く事に、モロゾフの予期せぬ登場にも関わらず、実に落ち着いた様子だ。
  その人物こそがホワイトタウンの主、 富豪モンデモンロである。
 
  モロゾフはモンデモンロの姿に気が付くと、深く一礼した。

  「モンデモンロ様とお見受けしました。 私は天からの使者で、名はモロゾフと申します」

  モンデモンロはモロゾフをじっと見つめると、葉巻を銜えて口から煙りを吐き出した。

  「最近、スラムの悪人を焼き殺す輩が居る。と聞いておったが、それは、お前の事か?」

  「はい。その通りです」

  「ふ〜ん……。そうか」

  モロゾフの返事を聞いたにも関わらず顔色一つ変えないまま、モンデモンロは葉巻を灰皿に擦り付けた。
 
「客にしてはいかにも強引な客だな。 わしはアポ無しで客人とは会わん主義だ。 しかし、こうして外から侵入するとはな…。
  わしを殺そう。と思えばいつでも殺せたはずだろう。だが殺さない……。という事は、ここに来たのは神の意思では無いな。どうだ……?図星であろう?」

  「うっっ……!」
 
  さすが人間界のドンとも言えよう。その桁外れの洞察力にモロゾフは圧倒され、驚きを隠せなかった。

  まるで苦虫を踏み潰したようなモロゾフの表情を見ると、モンデモンロは満足そうな笑みを浮かべた。

  「その様子じゃ、どうやらわしの勘が当たったな。 ……わしは、長年に渡り商人をしてきた。 お前の顔色一つで何が言いたいのか手のひらに返したように分かるわ。……わしに頼みがあって来たのだろう? 言ってみよ、条件次第では聞いてやらん事は無いぞ」

  「……その通りです。そこまで分かって居られるのでしたら話しは早い」

  「何だ? 何が望みだ? 」

  「それは、エンドリューと言う名の天使を捉えて始末して欲しいのです。ただし直ぐに殺すのでは無く、人間共の前で残酷に処刑して欲しいのです」

  「……!? そんな事は、お前がヤればいいのではないのか?」

  「実は、私ども天界人には掟がありまして…… 」

  「ふーん…そうか……。 大体想像は付くわ。 お前はその天使だけでは無く人間にも怨みが有るのだな。 分かった……。ただし、この取り引きでわしは何を得られると言うのだ? わしは欲しいと思う物は何もかも手に入れて来た。そんなわしにも満足出来る物なのか?」

  「はい。私の望みを叶えて下さるのであれば、モンデモンロ様には特別な品を差し上げましょう」

  「何だ!?」

  モンデモンロは目を光らせ、まるで無邪気な子供のような眼差しでモロゾフの顔を窺った。

  「それは…… 」

  「それは??」

  「どんな傷や病も治し、それどころか持つ者に永遠の命を与える。という不老長寿の霊薬です」

  「……!!」

  次の瞬間、モンデモンロの目は一気に冷め切った。

  「なっっ……! わしが、そんな子供騙しに引っかかるとでも思ったのか!? そんな物が有る訳ないだろう…… 」

  「本当です! それは今、エンドリューの手の中に有ります!! 私が天界から来た天使である事を、もうお忘れですか?」

  モロゾフは複雑な面持ちで辺りを見渡した。
 そして部屋の片隅に置かれた石像を見つけると、その方向へ向けて腕を払った。

  すると火玉が飛び出し、石像に命中した!
 石像は一瞬で燃え上がり、跡形も無く蒸発してしまった。

 モンデモンロは唖然とした顔を浮かべ、石像が置いてあった場所まで進んだ。
 そして床が灰色に変色しているのを確認すると、はち切れんとばかりに手を叩いた。

  「………これは素晴らしい!!」

  「これでも信じない。 と、言われますか?」

 モロゾフは自信げに言った。

  「わかった。お前を信じよう。石の塊を燃やすなど人間業では無いからな。天界には、人間には理解出来ない不思議な力が有るのだろう。それなら、不老長寿の薬があってもおかしくないわ。ハッ、ハッ、ハッ………」

  機嫌良さそうな笑い声が響いた。

  「安心しろ、任せておけ。お前の望みは叶えてやる」

  「ありがとうございます」

  モロゾフは礼を言うと、割れた窓から身を投げ、その場から消え去った。


 。。。。。。。。。。。。。。。。


  「不老長寿の霊薬………」

 モンデモンロの口から言葉がこぼれた。

  欲しい物を全て手にして来た欲深い男。
 きっと、現在から過去に至ったとしても、欲深さに関しては右に出る者は居ないであろう……。

 その心に今、忘れ掛けていた欲望と言う名の炎が灯った。


  早く、早く手に入れたい……。
  まだ手に入れていない物が残っていたとは……。
  不老不死の薬さえ手に入れば……。
  もう、わしに怖い物などないわい。


  「おい! 誰か居らんか!!」

  モンデモンロがインターホンに向かって叫んだ。

  「はい、お呼びでしょうか?」

  声を聞きつけ、男が部屋に入って来た。その身なりはガードマンかボディーガード。と言った感じだ。

  「これは、どうされたのですか??」

  男は、割れた窓に驚いた。

  「こんな物は取り替えれば直ぐに済む事だ。それより、使用人達を集めてくれたまえ。とにかく急いでくれ」

  「はい。かしこまりました」

  男はモンデモンロに向かって頭を下げると、部屋を飛び出して行った。

 。。。。。。。。。。。。。。。


  「モンデモンロ様、準備が整いました」

  インターホンから声がした。

  「ん、入れ」

  部屋のドアが開き、次々に人が入ってきた。
  まるで特殊部隊?とでも言うのか。どの人物も体格が良く、皆は綺麗に整列すると、モンデモンロに向けて敬礼した。

 モンデモンロは集まった使用人達に言った。

  「お前達は今からスラムへ行き、エンドリュー。という名の天使をここに連れて来るのだ。くれぐれも殺さずに生け捕りにする事、捉えた者には欲しい分だけの金を与えよう。 分かったな」

  そう言い終わると、床に分厚い札束を投げつけた。
  紙幣はバラバラになって床に広がった。

  使用人たちは慌てて紙幣を掻き集めると、無造作にポケットに押し込んだ後、我こそ先に。と、言わんがばかりに颯爽と部屋を飛び出して行った。



 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 人を送り込んでから既に半日近くの時が流れた。

  遅い……。
一体アイツらは何をやっているんだ!

  モンデモンロはイラつきながら時計を睨むと、葉巻を銜えながら指先で何度も机を叩いた。

  「モンデモンロ様、只今戻りました」

  「おぉ!!待っておった。直ぐ入れ」

 勢いよく扉が開くと、複数の使用人が続々と入って来た。 その中に、両脇を押さえられた一人の男性の姿があった。
  その者の着衣である白い衣はズタズタに引き裂かれ、顔には乱暴されたと見られる傷が幾つかあり、その顔は疲労感でやつれた様に見えた。

  モンデモンロは使用人を掻き分けて、その男性の前に立った。

  「お前がエンドリューか?」

  「…… 」

  その問いにエンドリューは答えぬままに、モンデモンロの顔を哀れみの眼差しで窺っただけだった。

  「どうやら答えたくないらしいな…。なら、これならどうだ?」

  モンデモンロはエンドリューの着衣を両手で探り、懐にある小さな硝子瓶を見つけると取り出した。

  「そっ、それだけは!!」

  エンドリューは必死にもがき、硝子瓶を奪い返そうとした。

  「……!!」

  エンドリューは大男に腹を強く叩かれ、気を失った様に黙り込んだ。

  「こいつを地下に監禁するんだ! 」

  「はいっ! かしこまりました」

  エンドリューは押さえつけられたまま地下の小部屋に投獄されてしまった。
  そこは暗くて湿っぽく、幾ら声を出して助けを呼ぼうとも誰も気がつきようも無い程に静かで、聞こえてくるのは自らの呼吸の音くらいだった。


 。。。。。。。。。。。。。。。。

  モンデモンロは小瓶を高く掲げると、窓から差し込む太陽の光に翳してみた。
 すり抜けた陽の光が、七色に輝きを放った。

  あぁ……。これが待ちに待った不老長寿の薬か。何と美しいのだ……。
  早く、早く試してみたい……。 これさえあば、わしは不死身になれるのだ!!

  モンデモンロが瓶の蓋を開けようとした時、誰かがその腕を掴んだ。
  モンデモンロはギョッとした顔で振り返った。 そこに居たのは……モロゾフだった。

  「なっ……! わかっておる。お前との約束は忘れておらん」

  気まずそうにして、慌てて小瓶を渡したモンデモンロ。

  「霊薬が有る。と言う事は、兄を捉えたのですね」

  「さよう……。とりあえず地下に幽閉しておるわ。いくら小部屋と言えど特殊金属で覆われた部屋だ。天使だろうが逃げる事は不可能。だから安心しろ」

  「そうですか」

  「ところで……。あの天使をどの様に始末するつもりなのだ?」

 モロゾフの 顔色を伺うようにしてモンデモンロが言った。
 
  「実は、その事でお願いがあります」

  「ん……。何だ?」

  「エンドリューが処刑される。という噂を流して欲しいのです」

  「わかった。あの天使の死に様を、多くの人間に見せつけたいのだな」

  その問いに、モロゾフは静かに頷いた。
 
「後は残酷な殺し方だな。その点なら任せておけ」

  モンデモンロがニヤリと笑った。

 

四話 神との戦い

  エンドリューの処刑当日。

  エンドリューが捉えられてから、既に幾日かが過ぎた。

  処刑の噂は既にスラムの町中に知れ渡っており、住人達は居ても立っても居られなかった。何故ならば、エンドリューの存在は彼らにとって’希望’だったからである。
  助けられた者やその家族は勿論だが、一度も関わった事が無い者さえも、突如現れた救いの主を ’現世に現れたキリスト様’ と呼び、いつかこの世を変えてくれるであろう。唯一、たった一人の存在。と、位置付けしていたからだ。

  その淡い期待と’希望’ という炎が今、消えようとしているのだ…。

  刻々と時計の針が縮まって行くのを、人々は、ただじっと見守る事しかしかなかった。 だが、誰もの心に宿る想いは野次馬心などでは無く《何とかして救いたい》そんな純粋な心だけだった。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  「おぉ、こんなに人が集まるとは…!」

  モンデモンロの声が響いた。

 処刑の時刻にはまだ早いと言うのに、既に見物客は押し寄せる様に集まり、舞台の下はスラムの住人で埋め尽くされているではないか。

  モンデモンロとその一味は、この日のために用意した舞台の上で、処刑の準備に取り掛かっていた。
 派手好きなモンデモンロの趣味だろう。 処刑台はまるでショーでも始まる様に煌びやかな装飾がなされ、 地上から舞台まで数十メーター有るであろうか?もしも誰かがよじ登ろうとしても、並の人間なら上がる事は不可能のようだ。
 
  ここで誰に邪魔されること無く、エンドリューをいたぶり殺すつもだ。


 。。。。。。。。。。。。。。。。

  《ファーン、ファーン…》

  処刑の時刻を告げる音がした。

  周囲はざわつき始め、人々の視線は処刑台に注がれた。
 
  舞台の裾から十字架が運ばれてきた。
  そこに貼り付けるつもりなのか?
 その後を這いずるように現れたのは、両手足を鎖で繋がれたエンドリューだった。 その姿は痩せ細り、かつての面影が無い程に変わり果ててしまっていたのだ。
 人々はエンドリューの姿を哀れに思い、心を痛めながらも、この、息の詰まりそうな緊迫した空気の中で見守る事しか出来なかった。

  エンドリューの鎖は外された。

 その後、大男達の手によって十字架に括り付けられた。
  忘却と失意の中、エンドリューは抵抗する事も無く、まるで死んでいる様に静かだ。

 その時、誰もが思った。

 (エンドリューは、十字架に貼り付けられたイエスキリストそのものだ。と…。)

  『あぁ神様、どうか罪深き我々の罪をお許し下さい…』

  『神様お願いです。私達の救いの主であられるキリスト様をお助けください』

  『私はエンドリュー様に助けられました。もしもあのお方がいらっしゃらなければ、私はここに居ません。どうかお願いです。神様、エンドリュー様をお助けください…』

  魂の叫びにも似た祈り。

  それぞれに発する言霊が、やがて大きな波動を生み出し、一帯の空気を包み込んだ。


  その時、 突風が吹き荒れた。

 風と共に姿を現したのはモロゾフだった。
  モロゾフは、人混みの先にある処刑台に目を向けると、人混みを分ける様に進んで行った。
  殺気が人を寄せ付けない。とでも言うのだろうか? 人々はモロゾフが近づくと即座に道を開け、やがて一本の通り道が出来た。 それだけでは無い。同時に、先ほどまで祈りに溢れていた空気さえもかき消されていたのだ。
 
 モロゾフは舞台に飛び乗ると、エンドリューの傍らへ近寄った。

  「兄上、私です。モロゾフです」

  その声に反応したエンドリューは、正気を取り戻したように瞳を開き見た。

  「なぜ、お前がここに…! 私を助けに来てくれたのか?」

  「まだわかりませんか?? いい加減気が付いたらどうです? 兄上を捉える様にこの者達に命令したのは私。誰でも無くここに居る私なのですよ。ハッハッハッ…」

  「なっ…!」

「 兄上、貴方は負けたのです。命が惜しいのであれば、私の情けでその縄を解いて差し上げましょう」

  「…!!」

  まさかの弟の裏切りに、エンドリューは怒りの表情。と言うよりも、むしろ悲しい眼差しを浮かべていた。

  「私が憎いですか? ですが、私はその何倍も苦しんできたのです。今更、知らない。などとは言わせません! 兄上は何もかも手に入れたではありませんか…。それなのに…私のたった一つの拠り所まで奪うなど!!」

  怒鳴り狂ったモロゾフは、憎しみの表情でエンドリューを睨みつけた。

  「待て! それは誤解だ!」

「そんな言葉で騙されるとでも?! 不公平ではありませんか? 同じ使命を受けた天使であるにも関わらず、一人は人間に崇められ、もう一人は悪魔扱いされるなんて…。ですから私は決めたのです。自ら悪魔になる事を!!」

  モロゾフはそこまで言い切ると、腰元に備えた杭を取った。そして手を大きく掲げ、エンドリューの左手首に振り下ろした。

  《ぐちゃっ》
  「ぐはっっ!うっっっ……!!」

 肉の潰れた鈍い音…。
 エンドリューの手首から鮮血が流れ出した。

  「痛むでしょう? どうです、命乞いする気になりましたか?」

  「ぐっっ…!」

  エンドリューは、必死に痛みをこらえているようだ。

  「ハハハッ…!! 一体いつまで耐えるおつもりですか?? 早く命乞いすれば良いものを…。私は、そんな兄上だからこそ見ていて虫酸が走るのです。はっきりと言ったらどうですか、私の事が憎いと!!」

  「うっ…!」

  モロゾフが、エンドリューのもう片方の腕に杭を打ち付けた。

  《ぐちゃっっ》
  「ぐわっっ……!!」

  再び鮮血が飛び散り、モロゾフの顔に降り掛かった。エンドリューの両手首から溢れる血液はドクドクと脈を打つ様に体を伝い、床を紅く染めていった。
  エンドリューはそのまま意識を失って倒れてしまった。

  「ヒッ!ヒャハハハハハッ……… 」

  モロゾフの狂笑が不気味に響いた。
  人々は恐怖に怯え、じっと、その様子を見つめているだけだった。

 モロゾフが、人間達に険しい視線を向けた。

  「人間共よ、よく聞け! お前達は何の為に生まれたのだ?! ここでアリの様に働いて死ぬ為か?? 不公平とは思わないのか? 生まれながら何不自由無くのうのうと暮らしている者達が居る現実に! お前達は、神が与えた運命を呪わない。とでも言うのか?!」

 人々はざわつき始め、今まで必死に祈っていた者達の行動がピタリと止まった。

  「祈っても無駄だ! これまでに神が自ら救いに来たことがあったのか? 良く考えてみろ。…そうだ……。恨め、そして憎むのだ…。不公平を与えた神を、お前達を支配し続けた者共を!!」

  人々の表情が変わり始めた。
 その目は憎しみに燃え、それぞれに何やら口が動き始めた。

  『私の子供は疫病で死んだわ。必死に祈ったのに…。でも、助けてくれなかった』

  『そうだ、失った者達が生き返るわけも無い…』

  『確かにおかしいわ。どうして私達だけ虐げられなきゃいけないの?』

  『憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…。憎い…!!』

  小さかった声が、やがて大きな叫びに変わって行った。

  ……いいぞ、この調子だ。
 もっと叫べ、喚け。その醜い心こそが我が力となるのだ…。
  あぁ…力が漲って来る。
 こ、これが負の力か……!!

  モロゾフの身体は熱くなり、見えない力を全身で感じ取った。
 この抑えられない程の力を余すこと無く我が手中に納めようと、モロゾフは固く拳を握り締めた。

  モンデモンロは場の雰囲気に恐れを抱いたようだ。顔は青ざめ、オロオロと落ち着かない様子を見せていた。

  「モンデモンロ様、私との約束を果たす時です。最後のトドメを!!」

  「あぁ、そうだった、そうだった…」

  モロゾフの声に我に返ったモンデモンロは、ようやく落ち着きを取り戻した。

  その時、突然空に一筋の光が走り、雷鳴が響いた。
  信じられない急な天候に、人々は不安そうに空を見上げた。

  《ビリッビリ……ドン!!バキッ…!》

  次の瞬間、鼓膜を突き刺す様な爆音と共に稲光が落ちた。
 舞台からは煙が立ち込め、一部が崩れて焼け落ちた。
  人々は唖然として、ただその様子を見ているだけだった。

  『あっ…。あれを見て!』

  悲鳴の様な声で、少年が空を指差した。
  そこに映ったのは…。とても有り得ない光景だった。

  『なっ、何てことでしょう?』

  『こんな事が現実にあって良いのか…?』

  『とうとうおいでになられた。ありがたや…。ありがたや…』

  天から降り注ぐ光。 それらから成る道を舞い降りる白い人影の列。
 それは、白装束に身を包んだ天使団だった。

  「くっっ! 面白い。マトレイユ様のお出ましとは」

  魔人と化したモロゾフが、まるで愛しい恋人を待ちわびる様な眼差しで言った。

  負の力を手に入れた今、その威力を試す場所が無ければ魔人としての意味が無い。
  モロゾフには自信があった。天の国に存在する鏡の力にも負けないと…。
  天に生を置く者…。 決して天界の者を殺めるでならず…。
 その掟を破る時が来た。
 モロゾフは、決死の覚悟で賭けに出る事にした。

  舞台の上に、軽やかに赤と白の帯が渦巻いた。

 マトレイユは、長く艶めく赤い髪を手でたしなめると、モロゾフの前に立った。

  「久しぶりですねモロゾフ。まさか貴方が悪魔に寝返るとは…。どうやら私は、貴方を買い被り過ぎていたようです……。神の名においてモロゾフ、貴方を始末します!」

  マトレイユが腰元から剣を引き抜き、モロゾフに向けて突き刺した。

  「フン、そんな物に殺られるか!」

 マトレイユの華麗な剣さばきが宙を舞った。
 モロゾフはサラリと身を交わし、マトレイユの攻撃をいとも簡単に除けていった。

  「では、これならどうかな??」

  余裕綽々のモロゾフが、処刑台に火を放った。
  エンドリューを救出しようとしていた天使達は慌ててその場から離れた。
  火は一気に処刑台に燃え移り、煌々と揺らめいた。

  天使達や人々は、凍り着いたようにその様子を見ていた。

  《グサッ!》
  「…!!」

  その時、モロゾフの背後に人影が…。
 その人物はナイフを握り締め、刃先はモロゾフの脇腹を刺していた。

  「モンデモンロ…貴様!!何を血迷ったか!」

 モロゾフはモンデモンロの手を払い除け、脇腹からナイフを抜き出した。

  「悪いな。わしは心変わりしたのだ。悪魔の支配する世で永遠の命を得たとしても何の価値がある? それならいっそお前を殺して善い行ないをした方が得る物が多いからな」

 モンデモンロが苦笑いを浮かべた。しかし…。

  「なっっ、そんな馬鹿な!!」

  モンデモンロは唖然とした。
 何と、刺し傷はみるみる回復していき、傷口は元に戻ってしまったではないか

  「フッ、残念だったな。私は既に負の力を手に入れたのだ。傷を治すなど容易い事だわ」

  「なっっ!!」

  モンデモンロは胸ぐらを掴み上げられた。苦しそうに足を動かすモンデモンロ。その腹に、モロゾフが炎を放った。
 火だるま化したモンデモンロは、その威力と圧力で吹き飛ばされた。
 
  「…!!」

  マトレイユは一瞬の隙を見逃さなかった。モロゾフに向けて白い刃が牙を向いた。
  剣はモロゾフの頬をかすめ、赤い血が流れた。

  「おのれ…よくも…!」

 モロゾフは頬を押さえ、燃える様な目でマトレイユを睨み付けた。
 しかし、どうしたものなのか? この傷は回復することは無く、血液がモロゾフの首元を赤く染めていった。

  「何故だ、なぜ回復しない…!」

  怒り狂ったモロゾフを、あざ笑うかの様にマトレイユが言った。

  「不死身にでもなったおつもりですか?
 この剣は、唯一デルピュネを退治出来ると言う宝剣。アレグリアの剣なのです。貴方に住み着く魔物に聞いてごらんなさい。過去にこの剣に敗れた末、指輪に閉じ込められたのですから」

  「…なっ、何だと…?!
  ならば…… そんな物、天の国ごと吹き飛ばしてくれよう!!」

  モロゾフは大きく息を吸い込んだ。 そして全身から溢れ出す、燃えたぐる程の力を一箇所に集中させた。
 やがて大きな発光体が現れた。
 
  緑色に怪しく光る塊を、モロゾフは天に向かって放った。

  「……!!」

  空が一瞬にして緑に染まると、金色をした幕が空一面に広がった。
 その後、天から無数の火の塊が降ってきた。
  次々に墜落した火の玉は、爆発を起こして地上を火の海に変えて行った。

 人の群れに落ちた火の玉は、一瞬で周囲の人間を飲み込んだ。

  何とおぞましい光景......。

  悲鳴を上げながら逃げ出す人々。
  辺りは恐怖の叫び声と炎で赤く染まっていった。

  天使達は、慌てて人々の救済に走った。

  「こっ… これはまずい、道が塞がれてしまう…」

  マトレイユが天を見上げた。
 黄金色の階段が、徐々に薄くなって行くのが確認できた。

  「うわッハハハッ………ヒヤッハッハッハッハッ……」

  全ての魔力を使い切り、腰が抜け切りながらも狂った様に笑い転げるモロゾフ。


 マトレイユは慌ててエンドリューの元に駆けつけた。
 あれ程の仕打ちを受けたのだ。もしも生きていたとしても助からないだろう…。マトレイユはそう思った。

  「エンドリュー。大丈夫か??」

  無残に黒く焦げた十字架。

  …あぁ、エンドリューも十字架と共に焼け果ててしまったのか……。

  マトレイユが諦め掛けた時、少し離れた所にうずくまる人影が…。

  「エンドリュー?」

 マトレイユの声に、その人は振り向いた。それは間違いなくエンドリューだった。 顔中すすまるけで黒かったが、嘘の様に無傷ではないか。

  マトレイユが高揚しながらエンドリューの手を取った。

  「無事でよかった」

  「…...それは、この者のお陰なのです」

  エンドリューの脇にはもう一人の人影が…。それは…モンデモンロだった。

  「死んでいるのか?」

  「はい…そのようです」

  エンドリューが悲しい顔をした。

  実は、脇腹を刺した一瞬の隙にモンデモンロはテラスの霊泉を奪い取り、霊泉の力でエンドリューを救っていたのだ。

  自分が助かる事も出来ただろうに...。

  今までなら間違い無くそうしただろう.....。
 これまで私欲の為でしか動かぬモンデモンロだったが、天使団の放つ御光を全身に浴びて悟った。

  《わしは…何と愚かな事をしてきたのだ。何一つとして善い行ないをして来なかったではないか》と…。

 それどころか今、自らの手で世界を悪魔に売り渡そうとしている。自分はとんでもない罪を犯してしまった…。事実を目の当たりにして初めて後悔したのだ…。
 
 最後の最後に、モンデモンロの中に有る良心の欠片がエンドリューを救い、モンデモンロ自身の魂を救ったのだ。

  モンデモンロの死に顔は、まるで無垢な赤子の様に微笑んでいた。
  邪心から解放されて、心置き無くこの世を去っていったモンデモンロ。
  もしかしたら…。モンデモンロは手に入れたのかもしれない。本当に欲しいと思う物を…。


  マトレイユがエンドリューの腕を引っ張った。

  「アレセイアの鏡が割れたようです」

  「そっ…、そんな事が!」

  とても信じられない。エンドリューがそんな顔をした。

「ごらんなさい。もうすぐ天界の入り口が塞がれます。エンドリュー、貴方も天界へ帰るのです。さもないと、いつ戻れるか分かりません。ひょっとすると…このまま二度と戻れなくなるかもしれないのですよ」

  「……私はまだ戻れません。ここの人達を助けなくては…。それに、弟がこの世を支配してしまうのを防がないと!」

  モロゾフが襲って来る様子はなかった。
 本当ならば、モロゾフを始末するには絶好の機会なのだが......。
  しかし…。皮肉な事にアレセイアの鏡が割れた今、天使やマトレイユの力も封印されてしまい、モロゾフを始末する所か、天界へ帰る事すら危うくなってしまったのだ。これも、モロゾフの計算通りなのだろう…。

  マトレイユは焦った。
 …このままここに残る訳にはいかない。きっと、天界はかなりの惨事に見舞われている筈なのだから…。
 早くヤハウェ様の元に戻らなければ…。
 
  マトレイユが口走った。

  「モロゾフは力を使い切った様だ。しばらくは襲って来ないだろう」

  「では、私は今のうちに皆を避難させます。ですからマトレイユ様は早くお戻りください」

  焦り顔のエンドリューに、呟く様にマトレイユが言った。

  「…エンドリュー、そなたはヤハウェ様に似ている」

  「そ、そんな!滅相もございません」

  エンドリューが慌てふためいた。

  「いや、世辞などでは無い。自分の身を投げ打ってでも人間を守ろうとは…。今まで私は人間という下等な生き物の肩を持つヤハウェ様の気持ちが理解出来なかった。だが、あの者を見ていて少し分かった気がする。人。という生き物が…。私は、そなたと人間に賭けてみようと思う」

  マトレイユはそう話すと、朽ち果てたモンデモンロに優しい眼差しを向けた。

「そなたの気持ちは分かった。好きにすればいい。…だが、必ず何かの手だてを見つけ、そなたも人々も救いに来ると約束する」

  マトレイユは懐から何かを取り出し、エンドリューの前に差し出した。

  「これは光玉だ。護身用に持ち出してきたのだが私は天界に戻るのだ。もう必要ない。これを使って結界を張りなさい」

  「えっ、今は少しでも霊力が必要なのではありませんか?」

  「気にするな。所詮この程度の物、持ち帰ったとしてもさほど変わる事は無い」

  エンドリューの手の中に、七色に輝く玉が転がった。

  「ありがとうございます。それまで私は耐えてみせます」

  「うん…。頼んだぞ」

  マトレイユはエンドリューに背を向けると、天使達と共に消えてしまいそうな階段を登って行った。

  エンドリューは人々を急いでまとめると、災いの及ばない地に避難させた。

 モロゾフは相も変わらず狂った様に笑い続け、その声は恐ろしく、耳に焼き付くほど不気味に響き渡り、まるでこれから始まる闇夜の到来を歓迎している様だった。
 

五話 闇の世と一筋の光

 時が経つのは早いもので、モロゾフが闇の帝王として君臨してから既に三年の月日が流れた。

  地下に巨大な宮殿を作ったモロゾフは、闇の帝国軍。という軍隊を結成して次々に地上を支配していった。
  軍隊に所属した者とは、モロゾフに寝返った者たち。要は生身の人間だ。

 ホワイトタウンやその他の都市は焼き払われ、当時の華々しさは虚しく、灰と共に消えて行った……。

  農村では、子供から老人までもが必死に働いた。そうまでしなければ生きて行けないからだ。 もしも帝国軍に逆って農作物の出し惜しみをすれば、集落ごと襲われて捉えられる事になり、その者達は地下宮殿で強制労働させられるのだ。
 そこでは負のエネルギー収集が行われているらしい。しかし、連れて行かれた者は二度とは戻らず、どんな方法で収集しているのか? 誰も知るよしは無かった。

  それだけでは無い。
 モロゾフは、これまで人類が築き上げてきた科学や文明を根こそぎ取り上げたのだ。
  使用が許されたのは、従順に従う部下達のみ。それ以外の者は電気の使用さえも許されず、人々は原始的な生活を送るしかなかった。


  その頃、エンドリューは避難した者達と共に山間の渓谷に移り住んでいた。
  結界を張り巡らせたその場所に近づく者は無く、いつしかそこは「死の谷」と呼ばれ、人々から恐れられるようになった。

  その後、天界ではどんな事が起こっているのか?エンドリューには想像すら出来なかった。 天界の力を司る「アレセイアの鏡」が割れてしまってからと言うもの、天界との交信は途絶え、音信不通になっていたからだ。

  その時までは……。
 
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 
  と、ある「プロボ」と言う小さな町。
 そこで今、奇跡が始まろうとしていた。

  一見、暗黒の世とは無縁と思われる程に豊かな大地。 なだらかな坂には麦畑が広がり、土壁に覆われた住居が所々に見られ、緑の薫りが漂う、静かで喉かな町。

  プロボとは、そんな何処にでも有りそうな田舎町だ。

  だが、ここも例外ではなかった……。

  収穫物の殆どを徴収されてしまう為に人々は貧しく、希望を見出せないまま、働き続けるしかなかったのだ。

  この日もそうだ。
町人達は朝早くから桑を持ち、汗水垂らしながら労働していた。
そんな、いつもと何ら変わらない光景だったのだが……。
突然、厚い雲が空を覆い始め、生ぬるい風が吹き始めたのだ。

  「嵐が来る。早く切り上げましょう」

  若者が叫んだ。
 周りで作業をする仲間達は手を休め、空を見上げた。
今にも落ちて来そうな黒い雲が、完全に太陽の光を遮った。

  「 あぁ、そうした方が良さそうだ」

  中年男性が同意すると、皆は慌てて農具を片付け始めた。

  すると……。
  何故だか辺りが急に明るくなったではないか?? 町人達は不思議な天候に驚いた。

  「な、何だ?? あれは……?」

  見上げた空の眩しさから手をかざし、指の隙間から薄目を開けてみると……。
  何と、人が立っているではないか…!!
 それも宙に浮かんだ状態で、人々を見下ろす様に……。

  やがて光は弱まり、町人達はその者を見た。

  純白の衣を身にまとい
  そよ風に揺らめく、長い赤毛…。

  その存在は、地上の者では無い。と、誰の目からもはっきりと確認できた。

  次の瞬間、大地を揺るがす様な地響きにも似た声が響いた。

  「皆の者、祈るのだ……。
 皆の祈りが満ちた時、神の流す一雫の涙が、大地に希望の子をもたらすであろう……」

  声の後、空から何かが降ってきた。それは若者の前に落ちて転がった。

  「そこの者……。希望の子が十六になりし時、それを渡すのだ。その役目、頼んだぞ」

 声の主はそう言い残すと、光に吸い込まれる様に空へと消え、厚い雨雲はみるみる散って行った。

  若者の手の中には、辞書くらいの大きさをした’箱’ があった。

 。。。。。。。。。。。。。。。


  その噂は、たちまちプロボの町を抜けて遠い町まで広がった。

  『暗黒の世を終わらせて欲しい』

  人々の切ない願い…。

  神に信仰を無くした者達までもが、藁にもすがる様な想いで祈り始めたのだ。
言うまでも無く、噂はモロゾフの耳にも入った。

  モロゾフは手下を集めると、その者たちに命令した。

  「噂の発端を調べあげ、当事者を処刑する事。そして、噂を口にした者は片っ端から捉えろ」と…。

  それからと言うもの…。祈る者、噂を口にする者、闇の帝国軍に逆らう者たちは次々に捉えられていった。

  拷問は残酷で、女、子供など関係無く、まるで虫けらの様に殺された。
 その時、多くの命が奪われたのだ。

  人々は恐れて口を閉ざし、記憶は薄れ、忘れ去られたかの様に時は過ぎた。

  しかし、確かに’箱’は今も存在し、若者の手の中に残っていた…。

六話 希望の子

 
  幾年かが過ぎ…。

  若者だった青年もすっかり年を取り、今では白髪と髭の似合う老人になっていた。
 あれから、既に五十年近くの歳月が流れていたのだ。

  彼はとても働き者で、町の住人から愛され、信頼も厚く、今では「長老」と呼ばれるようになっていた。

  いつもと同じように暗い部屋に一人で入った長老は、人知れず神に祈りを捧げた。
  それは、あの『箱』を預かった日以降、一日も欠かさず行って来た日課となっていたのだ。


  あぁ神よ……。

 あなた様は私たちを見捨てられたのですか?
 私には、もう時間が有りません。どうか、どうかお願いです。 一日も早く希望の子に会わせて下さい。


  長老は、十字架を握りしめたまま床にひざま付き、硬く閉ざした瞼の隙間からは涙が溢れ、薄っすらと頬を濡らした。


  その祈りも終わろうとしていたその時……。何やら玄関の方が騒がしい事に気が付いた。

 どうしたのだ?

 長老がそう思った時、

  「長老、長老〜!!」

  甲高い声が響いた。
  声の主は養子のトニーである。

  トニーは大柄な男で、見た目によらず女性的な心を持ち、とても優しい青年だ。 幼い頃に両親を無くしてからというもの、長老が、トニーの親代わりを務めてきたのだった。

  「何だね? そんなに大きな声を出して?」

  長老は重たい腰を上げると、玄関の方までゆっくりと進んで行った。

  すると……。
 そこには、見慣れない顔の若い女性が立っていた。
  女性は長老の姿が見えた途端、切迫詰まった様子で身を乗り出した。

  「長老さん、ご相談があって来ました。
 どうか聞いて下さい!」

  「ほう、どうしたのじゃ?」

  不思議そうに首を傾げる長老。

  「私は、坂の向こうにある集落から来ました。名は、ジェシカと申します」

  「ほう……。そんなに遠い所から、はるばるわしに相談とは?」

 女性は慌てた様子で両手に抱えた布をめくり上げた。そこには、まだ生後間も無い赤ん坊の姿が。

  「私がお聞きしたいのは、これです」

  ジェシカは赤子の髪を掻き揚げた。
 すると、額には青い印の跡??
  それはよく見ると、涙の滴にも似た奇妙なアザであった。

  「これは……何か不吉な物なのでしょうか?」
 
  ジェシカは大きな目を見開き、長老の顔色を窺った。

  「こ、これは……」

  長老は固まった様に体が硬直した。
 その耳に、ジェシカの問いなど入る筈も無かった。 何故なら、一目で赤子が’希望の子’に違いない。と、そう確信したからだ。
  その瞬間、止めど無く涙が溢れ、長老はその場に泣き崩れた。

  「長老!?」

  長老の不可解な行動に、トニーは呆然とした。
  ジェシカは益々不安そうな顔に……。

  「やっぱりそうなのですね……。一体、どの様な惨事が起こると言うのでしょう? 私は、この先どうすればいいのですか?」

  「…… 」

 言葉が出てこない程、長老の胸はいっぱいだ。

「長老さん、どうか答えて下さい 」

 ジェシカに言われ、慌てて首を横に振る長老。

  「…………いや、悪かった。心配させてしまって」

  「では、不吉な事は起こらないと??」

  「そ、そうじゃ、その通りじゃ」

  その言葉に緊張が解れたのだろう。ジェシカは肩の力が抜けたようだ。
  長老は服の袖で涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。

  「お前さんに話さないといけない事がある。さぁ、さぁ、上がっておくれ」



  古い木造作りの家屋は、床板が歩く度にきしんでは音を立てた。
  通された部屋には小さな窓が、そこから差し込む日の光が、壊れかけたテーブルを照らしていた。
 
  案内されるままにジェシカはソファーに腰を降ろした。
  布の一部が破れて中綿が見えかけたソファーは、不安定にジェシカの腰を包んだ。

  「トニー、アレを持って来てくれないか」

  長老はそう言うと、部屋の隅に置かれた戸棚を指で差した。

  「アレって…? もしかして、あの古臭い箱の事?」

  「そうじゃ、そうじゃ」

  長老が、大きく首を縦に振った。

  トニーが箱を長老の目の前に置くと、長老はジェシカの前まで箱を滑らせた。
  そして一息付くと、大きく息を吸い込んだ。

  「今から話す事は全て本当の話しじゃ。心して聞きなさい」

  ジェシカは、真剣な眼差しで頷いた。

  長老は、神から箱を授かった時の事、そして、希望の子が背負った運命について話した。
  ジェシカはとても信じられない様子で、呆然としている様に感じられた。
  長老は、そんなジェシカの手を、そっと握りしめた。

  「驚くのも無理は無いだろう。……ただ、どうかこの子の天命を受け入れてやってはくれないか……?」

  温かい眼差しで、長老は話した。

  「人は、誰もが天命と言う名の使命を背負って生まれておる。人により事の大小は様々だが、どんな者であろうとも、意味も無く産まれて来た者など居ない。必要で無い者などこの世に存在せぬのだよ。 ただ悲しい事に、大半の者がそれに気付いておらん……。 わしは、お前さんにこの話しをして、箱を渡す事が使命じゃった……。後はこの子と、その未来に掛かっておるのだ」

  そこまで話し終えると、長老は突然、床に座り込んだ。

  「頼む! この世を変えられるのはこの子しか居らんのだ。どうか分かっておくれ」

  「……長老さん、 分かりましたから起き上がって下さい」

  困った顔で長老に寄り添うジェシカ。

  「 正直、とても信じられません。 私の子がその様な星の元に生まれて来ただなんて……。 ですが、本当にこの子が選ばれた者ならば、きっと、私の使命はこの子を無事に育てあげ、見守る事なのでしょう」

  「そうか……。分かってくれたか」

  安堵の表情で起き上がった長老は、何度もジェシカに向けて頭を下げた。

  「長老さん、そんなに頭を下げないでください…… 」

  ジェシカは慌てて長老の腕を掴んだ。

「いいんじゃ、そうでもしないと気が済まぬ 」

「もう、わかりましたから…… 」

 ようやく長老が頭を下げる行為を止めた。

「でも……もし……。この子の存在を闇の帝国軍が知ったら…………」

  ためらいながらジェシカは言うと、そのまま黙り込んでしまった。

  「その事じゃが、わしに考えがある」

  「えっ!どんな??」

  身を乗り出すトニーとジェシカ。

  「トニー、お前はこれから二人にお供しなさい」
 
  「なっ!何を言うの?? 」

  突然の申し出に、トニーは戸惑った。

  「トニー、わしが身寄りのないお前を引き取り、師匠を付けてまで武術を学ばせたのは何故か分かるか? ……それは、この子を守る為じゃ 」

  トニーは黙っていた。
  長老には、返しても返しきれない程の恩がある。この申し出を断る事など出来る筈も無い。トニーは痛い位に分かっていた。しかし、年老いた長老を一人置いて行くには、心が重くて仕方が無い事も事実だった。

  「なぁに、そんな暗い顔をしよって」

  土の染み込んだ、シワまみれの黒い手がトニーの頭を優しく撫ぜた。

  「わしの事なら心配するな」

  「……わかりました。ですが長老、私が居ないからって、悲しまないで下さいね」

  「そう言うお前さんこそ、わしの事が恋しくなって泣くんじゃないぞ」

  「もう! 弱虫小僧は昔しの話しよ。いつまでも子供扱いしないで!」

  少し、ふてくされた口調でトニーが言った。

  「ところで……。この子が襲われる心配があるのなら、何処かへ身を隠した方が良いのではありませんか?」

  ジェシカが、二人の会話を遮る様に問いかけた。 その声に、先ほどまで朗らかだった長老とトニーの顔が、急に険しく変わった。

  「勿論じゃ。ここに居ては、じきに見付かってしまうだろう…… 」

  「では、どこへ行けば良いと?」

  トニーが、長老の顔を覗き込んだ。

  「それは……………。死の谷じゃ」

  「えっっー!!」

  「あの、入った者は二度と戻らないと言う死の谷ですか?!」

  トニーとジェシカは驚き、口をパクパクさせた。
  そんな二人の気持ちとは裏腹に、長老はコクリと頷いた。
 
  「長老、勘弁して下さいよぉ〜。私がお化けとか苦手な事、知っているでしょ」

  トニーは図体に似合わず、オドオドして落ち着かない様子だ。
  だが、確かに長老の言う通り。 ここが危険なら、どこへ行っても危険であると、二人にも理解が出来た。

  「死の谷は、皆が恐れる未知な場所じゃ。 だが……その一方では、仙人の住む楽園だと話す者も居るのじゃ……。 たとえそうで無かったとしても、この子が捕まってしまったら全てが終わってしまう。 そうならない為にも、どうか死の谷へ行っておくれ」

  「……はい 」

  ジェシカは深く頷いた。

  「今日はもう遅い。今から家へ戻り、明日の朝にでも出発すると良いじゃろう」

  長老がトニーの肩に手を置き、まるで念を押すかの様に瞳をじっと覗き込んだ。

  「トニー、しっかりと二人を支えるのじゃ」

  「わかりましたよ、長老」

  トニーは返事をすると、早速身支度を整えた。
 しかし持ち物は思ったよりも少なく、リュックサック一つ分程度。 トニーがそれを背負うと、リュックの肩紐が窮屈そうに食い込み、とても小さく、貧弱に思えた。
  長老は、トニーとジェシカを玄関先で見送った。

  「長老、どうかお元気で」

  「お前も達者でな……」

  長老は、無理に作り笑いを浮かべてみるが、その顔は何処と無く寂しげで、瞳を潤わせていた。
 
  トニーは、後ろ髪を引かれる思いで何度も振り返った。 それは、小さく手を振る長老の姿が見えなくなるまで続いた。
  そして見えなくなると、トニーは真っ直ぐに前を向き、一歩、一歩、まるで噛みしめる様に力強く進んで行った。

七話 アベル

  トニーとジェシカは、真っ直ぐ伸びる田舎道をひたすら歩いていた。 なだらかな坂道の両側には麦畑がずっと先まで続き、視界は一色に埋め尽くされた。

  紅く染まった夕焼け雲…。

  黄金色の稲穂には夕日が落ち、そよ風に吹かれる度に波打った。それは、まるで琥珀色をした海を思わせる様な景色だ。


  「きれい…… 」

  あまりの美しさに、トニーの口から溜息がこぼれた。

  「そうね、いつ見ても美しいわね……。主人も "この景色が一番好きだ" と、言っていた事を思い出すわ」

  「ねぇ、ジェシカさん……」

  かしこまった口調でトニーが話し掛けた。

  「ジェシカさん。なんて、何だか水臭いわよ。これからはジェシカと呼んでちょうだい。 それで、なあに?」

  「あのね……。何と言えばいいのか分からないけれど、何だか大変な事になりましたね……。きっとご主人さん、話しを聞いたら驚くでしょうし、それに加えて……私の様な者がお供するなんて……」

  「 トニーは、そんな事を心配していたの?」

  「そんな事って、当たり前じゃないの!」

  「大丈夫よ、心配しないで。 主人はもう居ないから…」

  「えっ! それって、もしかして……」

  「そうよ、亡くなったの。……先日あったデモに参加してね……。私は必死に止めたわ。でも、子供が生まれるのにこれでは生きて行けないと言って、主人は家を飛び出して行った。そして……帰らぬ人となってしまった 」

  「ごっ、ごめんなさい! つい知らずにいけない事を聞いてしまって!!」

  「気にしないで。……トニーは優しいのね。この子も、そんな風に育ってほしいな」

  「ジェシカ……あんまり褒めないで。恥ずかしくなるから……」

  トニーは頬を赤くすると、恥ずかしそうに俯いた。


  「 実は、さっきから考えていたの 」

  「なに?」

  ジェシカの言葉に振り向くトニー。

  「この子の名前だけど、主人と同じ名前にしようと思うの。 ……本当に、この子に未来を切り開く力が有ると言うのなら、主人の様に何事にも決して屈せずに、守るべき者を守り抜いて欲しい。だから……これからは、この子の事を ’アベル’ と、呼んであげて」

  「いい名前じゃないの〜! うん、わかったわ。 きっと、アベルは世界で一番優しくて、強い子になると私が保証するわ!」

  トニーは得意げに胸を叩いた。
  二人は顔を見合わせて笑あった。


 。。。。。。。。。。。

  しばらくすると、麦畑の先に集落が見えてきた。 ジェシカは、その中の一軒を指差した。

  「あそこ、あれが私の家よ」

  土壁に覆われた小さな家は、見事なまでに自然の景色に溶け込み、まるで絵画のよう。

  家の側まで来ると、ジェシカは小走りで駆け寄った。そして勢い良く木製のドアノブを押した。

  「どうぞ、入って」
 
  にっこりと微笑むジェシカ。 トニーは大きな顔を、ドアの隙間から覗かせた。

  そこには、質素でありながらも幸せに暮らして居たのだろう。 生活感が溢れた家具が置かれ、食器が並べられていた。
  トニーは中へ入ると、キョロキョロしながら辺りを見渡した。 そして、戸棚の上にある写真立てを見つけた。

  写真には、嬉しそうに微笑み合うジェシカと若い男性の姿があった。

  「この人が、ご主人さん? 」

  「そうよ。主人と私のたった一枚の写真なの 」

  「ステキね…… 」

  「ねー、お腹空いたでしょ?何か食べない? 大した物は用意出来ないけど……」

  ジェシカはそう言うと、台所で食事の準備を始めた。



 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  次の日の朝、深い眠りに付けずにいたジェシカは、いつもよりも早く目を覚ましてしまった。

  ジェシカは、そっと写真立てを手に取った。


  ……ねぇ、貴方。 聞いてる?

 貴方はいつも微笑んでいるだけで、何も答えてくれないのね……。
  私は今日、ここを出ます……。
 この家は、貴方の生きた証でいっぱいだわ。
 ねぇ、 貴方がいつも腰を掛けていた椅子。それに、このテーブルの傷……覚えてる?。
  私に内緒で料理を作ってくれたでしょ? あのスープ、塩っ辛くてちっとも美味しく無かったわ。 おまけにテーブルで食材を切るから、こんな傷まで付けてしまって……。
 あの時は、貴方の優しさに甘えてしまい、’ ありがとう’ が言えなかった……。それどころか、傷の事ばかり責めてしまったわ……。
  貴方、本当にごめんなさい……。

 ねぇ、見て!
 これ、貴方がアベルの為に作ってくれた積木よ。 これもそう……。 まだ産まれもしていない我が子の為に、貴方は山に木を切りに行ったわね。 私は’ 気が早すぎる’ と、貴方の事を馬鹿にしたわ。 それにこの出来映えよ。 こんなにガタガタで、積もうとしてもこれでは積めないわ。

 でも……。
  不器用でも、私はそんな貴方が好きだった……。
 今なら分かる。 あの当たり前の生活こそが幸せだったのだと……。

 スープも積木もいらない!! ずっと側にいて欲しかった。

  どうして私を置いて死んでしまったの??


 その時、柔らかな風が吹いた。
 ジェシカを包んだ風はとても優しく、懐かしい香りがした。
 窓は締め切っている筈なのに、何処から風が入るというのだろうか?

  「あ……あなた? 」

 目にはみえなくても、ジェシカはその存在を確かに感じた。 すると、訳もなく涙が溢れ、雫が頬から流れ落ちた。

  「あなた……。近くに居るんでしょ?? 」

何度も辺りを見回すジェシカ。

「お願い。 近くに居るのなら、これからも私とアベルを見守っていて…… 」

  愛しそうに写真を指でなぞると、ジェシカはそっと目を閉じた。

  すると、数々の思い出が瞼の奥に映し出され、セピア色に輝き始めたのだ。

  それは……。決して長くはなかったけれど、愛しい人と共に過ごした時間。
  命は奪われてしまったけれど、この思い出だけは誰にも奪う事など出来ない。
  ジェシカだけの宝物……。

  輝きは、いつまでも心の中で生き続けるだろう。ジェシカと共に、永遠に……。

  余韻に浸る様に、ジェシカはその心地良さに身を委ねた。
 
 。。。。。。。。。。。。。


  しばらくしてトニーが目を覚ました。
 トニーはジェシカの後ろ姿を見つけると、声を掛けた。

  「ジェシカ、もう起きていたのね」

その声にハッとしたジェシカは、慌てて頬の涙を拭った。 そして明るく微笑んだ。

  「そうなの、なかなか寝付け無くて……。
 でも大丈夫よ。 準備も出来ているし、早く出ましょう」

  「そうね、そうしましょう」

  トニーは慌ただしく顔を洗い、手短に準備を済ませた。

  そして、アベルと共に二人は家を出た。

 ジェシカは新たな決意を胸にして…。

八話 死の谷へ

  トニーもジェシカも、このかたプロボの町を出た事は一度も無かった。

  死の谷に辿り着くには近道がある。
 だが、二人はあえて遠回りをする事にした。 何故なら近道は人目に付きやすく、いつ帝国軍に見つかってもおかしく無いからだ。
  しかし、遠回りのその道は幾つもの山を越えなければならない。 しかも、とても人が通るような道とは言えず、獣道。と、言った方が相応だ。

  どちらにしても、ジェシカとアベルには過酷な旅になる事は間違い無いだろう…。

 
  二人はプロボの町を早く出ようと、足早に進んでいた。

  しかし……。 何だか町の様子がおかしい。
  まだ早朝。 人が出歩くには早い筈なのだが、何処からかざわつき声が聞こえ、家を飛び出し駆けて行く人の姿が……。

 確か……この先には広場があったはず。

  「どうしたのかしら… 」

  ジェシカが不思議そうに呟いた。

  「そうね、何かあったのかしら? ……ねぇ、声のする方へ行ってみない?」

  「 そうしましょう 」

  二人も広場へ向かう事にした。

  やはり、思った通りだ。
  そこには大勢の人のが集まり、何やら話し合いをしているようだ。
  集会でも開いている。とでも言うのだろうか? もしもそうなら、何故同じ住民であるジェシカやトニーの耳に知らせが入らなかったのだろうか?
 
  「あの……。 今日は集会の日でしたか?」

  トニーに尋ねられ、男性が答えた。

  「いや、 集会ではないのだが、問題が起こったようだ 」

  「えっ?! どんな?? 」

  二人は驚いて身を乗り出した。 男性は深刻そうな顔を浮かべた。

「あそこ、あそこに倒れた人が居るだろう… 」

  男性が指を差した。
  その先には、血だらけになって倒れ込む数名の人々の姿が……。

  「 どうやら隣町が襲われたらしい……。あの人達は、命からがら逃げて来たようだ 」

  「もしかして、帝国軍に逆らったのですか?? 」

  「わしも最初はそう思った。 だが、話を聞いてみると違う様だ 」

  「それは、どう言う事ですか?」

  ジェシカも、不安そうな表情で男性に問い掛けた。

  「どうも...…奴らは産まれたばかりの赤子を探しているらしい…。 何でもその子供は神の申し子だとか。 それで、隣町の者が ’そんな者は居ない’ と言ったら、奴らは 'この辺りに居るはずだ' と言い、町中に火を放ったと...。 逆らった者は殺され、町人の多くが連れて行かれたそうだ。 そして.......町は全焼してしまったらしい。……困ったものだ。 ここに来るのも時間の問題だろう… 」

  男性の言葉に、トニーもジェシカも言葉を失ってしまった。
  こんなにも早く、しかもこの様な手口でモロゾフの魔の手が伸びているなんて...…。とても二人には予想し切れて居なかったから。

  「あ、ありがとうございました 」

  トニーは慌てて礼を言うと、その場を立ち去ろうとした。
  その時、大きな声が響いた。

  「居たわ! 問題の子は、あの子に違い無いわ!!」

  叫び声が後方から聞こえた。
 声を聞き付けた住民達はジェシカの周りに集まり、取り囲む様に群がり始めた。
  その視線は鋭く、恨めしそうにジェシカを突き刺した。


  「どうしてくれるんだ! あんたが子供を産んだせいで、ここも襲われる!」

  「そーよ、どうしてくれるのよ 」

  「あんたが責任取りなさいよ!」

  次々に住人が怒鳴りつけた。
 それに同調する様に、周りの住人達もジェシカに怒りをぶつけ、罵り始めたのだ。
  小石がジェシカの頬に当たった。
 ジェシカはアベルをかばう様にしゃがみ込んだ。
 

  「早く、ここから出て行け!」

  「この、疫病神!」

  「とっとと消え伏せろ!」

  住民達の怒りは頂点へ…。
  トニーは、ジェシカとアベルに当たらないように自ら犠牲になり、小石を堰き止めた。
  トニーの体に当たり、次々に跳ね返される小石。
  ジェシカは必死に祈った。 アベルが傷を負わないように。と……。
 


  「止めなさい!!」

  その時、張りのある声が響いた。
  住民達はハッと振り向いた。
 そこには女性の姿が……。

  「あんた達がやっている事は奴らと同じじゃない! そんな姿、子供や孫達にどう見せるつもり! 憎いのはそこに居る人じゃない、薄汚ないアイツらでしょ?! あんた達はこのままでいいの? このままでは、皆いつか死ぬわ」

  女性は怒鳴る様な口調で叫び、人混みを掻き分けながらトニーとジェシカの前まで来た。

  「ごめんなさいね。怪我は無い?」

  ゆっくりと手を差し伸べる女性。
 ジェシカはその手を取ると、立ち上がった。

  「うん、大丈夫よ 」

  「あー良かった。無事で」

  トニーが安堵の表情を浮かべ、アベルの顔を覗き込んだ。
 アベルはニッコリと微笑み、無邪気にはしゃいでいた。 とても上機嫌の様子だ。
  小さな手が伸び、トニーの指を掴んだ。


  「今からここを出るのでしょ? ......これ、持って行って」

  女性が赤い巾着袋を渡した。 ズッシリとした重み。ジェシカは受け取ると、袋の中を確かめた。

  「 イクルの実、こんなに沢山......」

 袋には、貴重な木の実がはち切れんとばかりに詰まっていたのだ。
  ジェシカは申し訳なさそうな顔をすると、慌てて袋を返そうとした。

  「いいの。 私にも産まれたばかりの息子が居てね。でも、私のお乳が出なくて……。栄養を付けようと思い、木の実を採って来たけれど、 昨日、死んでしまったの.......。 だからもう必要ないの。 それに、息子だけじゃないわ。 ここに集まる大勢の者が愛する家族を失っている。 だから、さっきは貴方に辛く当たってしまって.....。本当に、ごめんなさい」

  「そうだったの...… 」

  ジェシカは涙を浮かばせた。
 彼女の話しがとても他人事とは思えなかったから。 もしもアベルが死んでしまったら…...。そう考えるとやり切れない気持ちで一杯になった。

  「この巾着、息子の為にも受け取ってちょうだい」

  「ありがとう。遠慮なく使わせて貰うわ」

 ジェシカが微笑んだ。

  「……ごめんなさい 」
 
  一人の住人が頭を下げた。
  他の者達も反省しているのだろう。 次々に頭を下げて謝り出したのだ。
  そんな住人達に、ジェシカが言った。

  「 もう謝らないで下さい。 もしも私があなた方の立場だったら、同じ事をしていたかもしれません……。 皆さんが、私と息子を追い出そうとしたのは、家族を守る為だと分かっていますから 」
 
 そんなジェシカに返す言葉も無いのだろう。
 町人達はただ、申し訳無さそうな顔を浮かべていた。
 
 女性が、ジェシカの手を握った。

  「お願い。 私達の為にも、必ず世の中を変えてくれると、そう約束して」

  「うん、息子さんの為にも約束するわ 」

 ジェシカは強く手を握り返した。


  「ところでよ……。 アイツらがここに来たらどうする?」

  町人の一人が言った。
 その言葉に、他の者達がざわつき始めた。

  「とにかく、早くここを離れた方がいいのじゃ?」

  「そんな事をしてもこの人数だ。直ぐに捕まるに決まってる」

  「じゃあ、どうしたらいいと言うのさ?このまま、ここで殺されるのを待て。とでも??」

  「嫌よ! ここを離れるなんて」

  「出て行きたい人だけ、出て行けばいいのさ」

  「しかし...。 出て行ったとしても、どうやって暮らして行けばいいんだ..... 」

  「どうしたものか......」

 人々の不安は深まり、ざわめき声は高まるばかり.......。


  「ねーみんな。 私の話しを聞いてくれる?」

  皆の視線が彼女に注がれ、ざわめき声が止まった。

  「この町を捨てて逃げたとしても直ぐに捕まると思うの。 だからここは、ひとまず皆で芝居を打たない?」

  話しの内容が理解出来ずに、首を傾げる住人達。

  「それはね..…その子と、私の息子をすり替えるのよ」

  突然の名案に、明るい顔をする者達。
 《逃げても、ここに残っても殺される。それなら一か八か。やれる事が有るならやるしか無い》
 そんな気持ちが、町人達の表情を変えた。
  女性が続いて説明した。

  「問題の子は死にました。という事にすれば、奴らも手は出さないはず。 息子には申し訳ないけれど、こんな形で皆を助けられるのなら、きっとあの子も喜んでくれるはずだから」

  深く頷く住民。

  「よし、そうなったら作戦会議するわよ」

  力強い声に皆は湧き上がった。

 それは、先ほどまでバラバラだった人々心を、たった一人の女性が繋ぎ合わせた瞬間だった。

 彼女がジェシカの側へ駆け寄った。

  「ここの事は大丈夫。私達に任せて。奴らが来る前に、少しでも早くここを離れた方がいいわ」

  「ありがとう。この恩は一生忘れない」

  「いいのよ。 あなた達が無事に帰って来る日を待っているわ」

  涙ぐむジェシカ。

 女性は大きく手を振ると、住民達の輪に入って行った。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 プロボの町を離れてから、既に二週間ほど経っていた。

  持ち合わせた食料は底を付き、トニーとジェシカは食べれそうな物を見つけては口にして、飢えと渇きを必死に凌いだ。
 
  体力と精神力は、とうに限界を超えていた。

 靴はボロボロに敗れて足の皮は捲れ、体中擦り傷だらけ。 とてもみすぼらしい格好に変わり果てていたのだ。
 幸い、女性から貰った木の実のおかげで乳が出なくなる事は無かったが、その実でさえ、残り僅かとなってしまった。

  そんな二人の前に、ようやく死の谷の入り口が見えてきた。

  そこは誰も近寄らないというだけあって、異様な雰囲気が.....。
 
 木々は高く生い茂り、太陽の光を遮断する様に重なり合い、時折風で揺れる木の葉がガサガサとざわめいた。 まるで《ここから出て行け》と、威嚇する様に......。
  それに昼間だというのに肌寒く、冷たい風が頬をかすめて通り過ぎると、背筋に寒気が走った。

 
  「うわぁ〜。気持ちの悪い所ね 」

  トニーは、オドオドしながら辺りを見渡した。 その首筋に、木の葉から水滴が落ちた。

  「ギャャャー!!」

  叫び声を上げるトニー。
  ジェシカは、クスッと笑った。

  「もう!笑い事じゃないわよ〜。 こんな所に仙人は居るのかしら?」

 身を縮めてジェシカの背に隠れるトニー。

  「トニーって、とても力持ちで強いのに、こーゆーのは苦手なのね」

  「……誰にでも苦手な物は有るでしょ〜。 相手がたとえ怪物でも立ち向かって行く自信は有るけど、どうもお化けや幽霊は苦手で…… どうしても行かなきゃダメ?」

  「 はい、勿論。 行かなきゃダメよ 」

  ジェシカはトニーを軽くあしらった後、 意地悪をする様に足を早めた。

  ジェシカから離れないよう、必死に後を追うトニー。
  その姿は、駄々を捏ねる子供のよう。



  そんな調子で、どのくらい森の奥へ進んだのだろうか…。
  やがて、前方に広がる雑木林の隙間から、明るい日差しが差し込んだ。

  「ねぇ見て、あの先には木が生えていないのかしら?」

  「そうね、人が住んでいるのかも?」

  トニーとジェシカは顔を見合わせると、光に誘われる様に茂みに駆け寄った。
 そして、隙間を覗いた。

  「……!!」

  二人は思わず言葉を失った。

  それは……とても想像出来ない。決して有り得ない景色が広がっていたからだ。


  一面に広がる花畑......。

 花園を横切る一本の小川。 その水面は緩やかにせせらぎ、宝石の様に眩く瞬いた。
 そして大空には、優雅に羽ばたく白い鳥の群が......。
 そこは、暗黒の世とは無縁の別世界だったのだ。

  トニーは、自分の目をまず疑った。
 そして頬を力いっぱいに抓ると、これは夢ではないと確信した。
 その瞬間、雑木林から飛びたした。

 足の痛みも、喉の乾きも、空腹さえも忘れて.....。
  全力で走って、走って、走り抜いた。

  やっとの思いで小川に辿り着くと、トニーは脇目も振らずに飛び込んだ。
  やがてジェシカも追い付き、川縁に座り込をで喉の渇きを潤した。

  トニーが、水しぶきを飛ばした。

  「やったわねー!」

  ジェシカは顔に掛かった水を払うと、負けじとトニーへ向けて水しぶきを放った。

 我を忘れて遊んだ二人は、その後、花畑に寝転んだ。

  「あ〜〜。長老にも見せたかったなぁ、この景色 」

  ぼんやり空を眺め、独り言の様に呟くトニー。 その眼差しは少し切なそう……。

  「きっと、長老さんの言った通り。ここに仙人が住んでいるのだわ 」

  「そうね。 早く探しにいかなきゃ 」

 二人は起き上がると、先へ足を進ませた。

  花畑の先に、青々と広がる農園が見えて来た。 トニーは急に足を止めた。

  「どうしたの?」
 
  「ねージェシカ。まさかとは思ったけど、あそこ! あそこにリンゴが!」
 
  興奮気味に言うと、トニーは一目散に駆け出した。

  そのまましばらく待っていたジェシカの元に、トニーが戻ってきた。
  両手には溢れるばかりのリンゴを抱え、顔には万遍の笑みを浮かばせながら。

  「ジェシカ、もう〜〜最高! あなたも食べてみて 」

  食べカスだらけの口を動かしながら、トニーはジェシカにリンゴを渡した。

  真っ赤に艶めくリンゴ。 食べずとも、甘く芳醇な香りが漂った。

  「リンゴなんて、何年振りかしら? それに、こんなに立派なのは初めてよ 」

  「もう!! 前置きなんていいから、早く食べなさいよ 」

  「誰かが育てた物を、黙って頂くのは偲びないけれど...。ごめんなさい。じゃあ、一口だけ…..」

「なっ、なんて甘いの!」

  驚き声を上げたジェシカ。
 気がつけば、手元にあったリンゴはもうヘタだけに...。

  「あら? 一口にするんじゃなかったの?
 」

  からかう様に笑うトニー。
 その周りには、幾つもの食べカスと、ヘタが散乱していた。
  腹も膨れて疲れも出たのだろう。
 トニーが苦しそうに寝転んだ。

 瞼が重くなったのか? ジェシカもアベルを抱えたまま、首をコクリとさせていた。


  「誰だ!!」

  その時、背後から怒鳴り声が……!!
  ビックリして起き上がるトニー。
 ジェシカも急いで振り向いた。

  そこには...…。
  一人の少年の姿があった。
 歳は十歳位であろうか? 金髪のショートヘアに清潔感溢れる身なり。 その風貌からして、プロボに住む子供とはまるで違っていた。
 そして何よりも印象的なのは、紫色の瞳。 その瞳が、警戒の眼差しで鋭く二人に向けられている...…。


  「ごめんなさい! 黙ってリンゴを食べてしまって」

  ジェシカが慌てて謝った。

  少年は二人に近寄ると、珍しそうにジロジロと見回し始めた。

  「見慣れない顔だな。それに何だ? この格好は?? お前達、よそ者だな? 何処から来た?」

 子供にしては生意気な態度に、トニーは腹を立て、ムッとした表情に。
  そんなトニーをかばう様に、ジェシカは答えた。

  「私達は遠い町からやって来ました。 仙人様をご存知ありませんか?」

  「こ、これは失礼しました!」

  少年の態度が一変した。

  「 仙人と呼ばれて居るのは私の父上です。私はその息子のスチュアードと申します……。父上のお客様とは知らず、あなた方に失礼な事を申してしまいました。」

  少年が深々と頭を下げた。

  仙人が居ると分かり、心を躍らせるトニーとジェシカ。

  「では、ご案内致します。」

  スチュアードに案内されるまま、二人は果樹園の中を進んで行った。

 やがて...。
 農園を通り抜けた先に、幾つもの建物が見えてきた。

  赤茶色のレンガ造りの家々。
 よく手入れされた庭からは、住民達の笑い声が聞こえ、無邪気に走り回る子供の姿が...。

 何故だか、ジェシカには時間が止まっている様に思えた。

  そして、ある建物の前でスチュアードは立ち止まった。

  「ここです。 どうぞ 」

 教会を思わせるような建造物。 その重い扉をスチュアードが開いた。

  扉の先に現れたのは、大きな花瓶に生けられた花々だった。
 色とりどりの薔薇は麗しく香り、ジェシカとトニーをもてなした。
 そのフロアを抜け、次に現れたのは礼拝堂だ。 そこはステンド硝子からこぼれる光が七色に輝き、眩いとばかりに部屋中を彩っていたのだ。

  「まぁ、何て美しいの... 」

  ジェシカは、思わず溜息を漏らした。

  「父上、戻りました 」

  スチュアードの声が建物内に響いた。

  やがて、一人の中年男性が現れた。

  その者は、白い衣に銀色の杖を携えていた。
  穏やかな表情と身のこなしは、気品溢れる紳士のようだ。

  「おぉ、戻ったか 」

  笑顔で駆け寄る男性。
  そして、トニーとジェシカの姿を見ると尋ねた。

  「あなた方は?」

  「私達は、遠いプロボの町からこの子を守る為にやって来ました 」

  ジェシカはそう言うと、アベルを男性に見せた。
  男性はしばらく黙ったまま、アベルの額に刻まれた青い印を見つめ続けた。

  「.......これは、選ばれし者だな。......ようやく会えるとは... 」
 
「では、この子の運命をご存知で?」
 
  「あぁ、知っているとも 」

  「えっ! ここは死の谷ですよね? 外の世界とは無縁なのじゃ?」

  トニーの言葉に、男性は笑って答えた。

  「私は、元々神の使いである天使だった。皆から恐れられている弟、モロゾフもそうだ」

  「えっっ...!!」

  トニーとジェシカは、とても信じれない。と、言わんがばかりに大きく口を開けた。

  「まぁ、驚くのも無理はないだろう...…。私と弟は、以前、神からの使命を受けて地上に降りて来たのだ。 だか途中、弟の心は悪魔に蝕まれてしまい、今でも人々を苦しめておる。 神はこの事態を食い止める為、私に役目を与えられたのだ。 それは弟から選ばれし子を守り、この世を再生する事。 私ども天界人が何とか出来れば話は早いのだが、弟は、天の力の源である 'アレセイアの鏡' を割ってしまった。 その為、我々の力も封印されてしまい、残念な事に、私もここを守るだけの霊力しか持ち合わせていないのだよ」

  エンドリューはそこまで話すと、再びアベルの顔を覗きこんだ。
  その時、ジェシカは思った。

  ...…仙人様の温かくて穏やかな顔。
 きっと、この町が平和なのも仙人様の人柄の表れなのでしょう...…。
  でも...…。 何て、酷く悲しい目をしているの??

  ジェシカは、エンドリューの中に灯る影を見た。


  「この子の名は、何と申す? 」

  「あっ、アベルです 」

  我に返り慌てて答えたジェシカに、エンドリューは温かい眼差しを向けた。

  「良い名だ。...…ここは安全だ。安心して暮らしなさい。 そして、この子が十六になった時、使命を果たして貰わなならん」

  エンドリューはそう言いながら、何度もアベルの頭を優しく撫ぜた。

  「あのっ...…」

  トニーが口を開いた。

  「何だね?」

  「どうしてこの町は、こんなに平和なのですか?」

  「そうだなぁ...…。外から来た者には不思議がられてもしょうがない。 この町には結界が張ってあるのだ。邪悪な心を持った者がこの結界に近づくと、中に入れないのは勿論だか、恐ろしい幻覚を見るだ。 死の谷と呼ばれているのも、そのためだろう 」

  「良かった。 無事に入れて...」

  トニーが胸を撫ぜ降ろした。
 

  「スチュアード、スチュアード 」

  エンドリューが声を高らげた。
 しばらくして、スチュアードが戻ってきた。

  「父上、お呼びですか?」

  「この方々に部屋を用意しなさい」

  「はい。父上」

 。。。。。。。。。。。。。。。


  スチュアードに案内され、二人は館内を歩いた。 長い廊下には小さなドアが並んでいた。
  それぞれの扉を開けて、スチュアードは説明した。

  皆が食事をするキッチンダイニング。 風呂場に書斎など...…。
  トニーとジェシカには何もかもが新鮮で、もの珍しい物ばかりだった。

  そして、 これから生活するであろう。小部屋へと通された。


  「こちらの部屋と、隣の部屋をお使い下さい」

  スチュアードがドアを開けた。
  そこには、白くて厚い布団が掛けられたベッドがあった。

  「夢みたい!! 本当にここで寝ていいの?」

  「はい。 父上が、好きな様に使って良いと言っておりました」

 トニーは大はしゃぎでベッドに飛び乗った。

 
 ジェシカは隣の部屋に入ると、アベルをベッドに寝かせた。
 そして...…ふと、また思い出していた。 エンドリューから感じた悲しみの影を。

 そうよね……。 いくら敵とはいえ、実の兄弟ですもの。 将来、自分の弟を殺すであろう人物が現れれば、誰でも複雑な気持ちになって悲しくもなるわ…...。
  でも.......何故なのかしら?
 まだ他にも何かがあるような気がする。
  きっと、私の考え過ぎね。 疲れているんだわ。


  ジェシカは小窓を開けた。
 
  「うわぁ〜 綺麗...…」

  目の前に飛び込んだのは、紫色のカーペット。 それは、びっしりと敷き詰められ咲き誇る、ラベンダーの花々だったのだ。
 
 話しに聞いた事はあるけれど、これがラベンダーの花ね。 まさか、本物を見る事が出来るなんて…...。

  ジェシカが溜息をこぼした。

  ラベンダー畑の先に目をやると、白いベンチが...…。
 そこには、一人の女性の姿があった。
  その人は、透き通る様な白い腕で、亜麻色の長い髪を掻き揚げた。

  綺麗な人….....。
 あの人は、仙人様の奥様なのかしら?


  その時……。そよ風が揺らぎ、ジェシカの元まで香りを運んだ。
  爽やかな香りに包まれて、ジェシカの心と身体は夢心地に浸った。

  そして、これから始まるであろう楽園での生活に、心を踊らせた。

九話 旅立ち

谷に来て、早くも十五年が過ぎようとしていた。

 それぞれに住居も構え、町人達とも充分過ぎる位に馴染み、ここでの生活も、すっかりと身体に染み付いていた。

 そして、肝心のアベルだが......。


「 アベルの奴……。また逃げやがったな!」

 トニーの唸る様な怒りが木霊した。

 トニーは地面に放り投げられた竹刀を拾い上げると、震える手で捻り潰した。その顔は、真っ赤な鬼の形相に。
 
「まだ近くに居るんでしょ! 出て来なさいよ!!」

 とても、心優しいトニーとは思えない程の怒り振りだ。

 アベルはその様子を、木陰からコッソリと覗いていた。 そして、トニーが振り返ったその時、二人の目が合った。

「やばっ!」

「コラー!!アベル待ちなさい!」

 アベルは慌てて駆け出した。

 トニーも負けまいと後を追った。 その迫力は、周りの木々まで倒してしまいそうな勢いだ。
 

「暴力反対!僕は平和主義者なんだ 」

 アベルは言葉を吐き捨てると、振り向き様にあっかんべーをした。
 
「かぁ〜、ムカつく!」

 トニーは更に頭に血を上らせた。

「もうオジさんなんだから、無理すると体に悪いよ 」

「コラー!!」

  アベルは、トニーを挑発するかの様に尻を叩いてみせた。 そして、そのまま雑木林をスルリと抜けると、まるで放たれた鳥の様に飛び出して行った。

「もうっ! 逃げ足だけは早いんだから!」

  トニーは荒々しく肩で呼吸すると、額から吹き出す汗を拭った。
 その後、腹立たしい気持ちをぶつける様に大木に拳を入れた。
  すると....。たった一撃なのにも関わらず、大木はバッサリと倒れてしまった。


 トニーは、アベルが幼少の頃からずっと、一日も欠かさず武術の稽古を付けて来たのだ。
  その指導は厳しく、トニーの人間性を疑ってしまう程の超スパルタ振りであった。
  特訓の内容とは、崖の上に立たせたまま何千回も素振りをさせ、またある時は、うさぎ跳びで山登りをさせた後、流れの急な川へ連れて行き、逆流で泳がせるなど.....。

 全ては、モロゾフとの決戦に向けての修行であった。

 しかし、当の本人には修行の目的は告げられておらず、多感な時期を迎えたアベルにとって不満が積もるばかり。

  アベルにしてみれば、いい迷惑だった。

 .なぜ、僕だけが稽古をしなきゃいけないんだ…...。 この町はこんなに平和なのに、一体、誰と戦うと言うのさ。 トニーは「もしもの時に、皆を守れるように 」と、言っているけど、それが理由なら、なぜ他の皆は修行しない??
 きっと、別の理由が有るに違いない。 みんなして、僕に隠し事をしてるんだ。

 アベルは自分の中でそう解釈をすると、とても素直な気持ちにはなれなかった。

 今まで何とか稽古を続けて来られたのは、ただトニーが怖くて、面と向かって稽古を放り出す勇気が有るわけでも無く、そんなアベルに出来る事と言えば、トニーの目を盗んでサボる。 それこそが、精一杯の抵抗であった。

 アベルとは、そんな小心者なのだ。

  それに加えてアベルは、お調子者のマイペース。 そして、何よりも競い合いや争い事が大っ嫌いだ。

  例えば、鬼ごっこをしたとしよう。
 普通の者なら必死に逃げるであろう。 だが、アベルは自分から鬼に近づき、わざと鬼になる。
 そんな、他人にはとても理解出来ない所があった。

 まぁ、ともかく。 勇者に相応しいと言える勇敢さも、正義感も感じ取れない人物。 と、言っても過言では無いだろう。

 では神は一体何故、 そんなアベルを勇者に選んだのだろうか? それとも……単に人選の間違いだったのか?
 アベルの使命を知っている者の心中は、不安が積もる一方であった。


「仙人様、もう限界です。 アベルに本当の事を話しませんか? 」

  切迫詰まった表情で、トニーがエンドリューに迫った。

「気持ちは良く分かる。 私もそうしたいのは山々なのだが……。 運命の日になるまで話せない事になっておる。 全く、アベルにも困ったものだ……」

  エンドリューは顔をしかめると、気難しそうに腕を組んだ。

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 そんな日々も束の間。

 いよいよアベルの誕生日。そう、運命の日がやって来た。

 エンドリューに呼ばれたアベルは、一人で教会を訪れた。

 仙人様が僕を呼びだすたんて、もしかして僕の誕生祝いでもしてくれるのかなぁ……。
 
  アベルは胸を躍らせた。

  礼拝堂の椅子に座って待っていると、エンドリューが現れた。

 いつも温かく迎えてくれるエンドリューだったが、何故が今日は表情が険しく、思い悩んでいる様子だ。

  あぁ、なんだぁ。僕の誕生祝いじゃ無いのかぁ〜 残念だなぁ。 そうじゃないとすれば……。ここに呼んだのは、僕を叱る為??

 アベルは今まで起こして来た不祥事を思い出した。
 余りにも思い当たる点が多過ぎる、

 そうかぁ ……。やっぱり僕を叱る為かぁ〜〜

 アベルは、その場から逃げ出したい気持ちに駆られた。


「 よく来たな 」

 エンドリューが微笑んだ。
 その笑顔にホッとすると、アベルは思わず胸をなぜ下ろした。

「お前を呼んだのは、話さないといけない事があるからだ 」

 エンドリューはそう言うと、アベルの目の前に ’ 箱 ’ を差し出した。

「これは……? 」

 不思議そうに箱を覗き込むアベル。

「 この箱は、お前が生まれるよりもずっと前に、神がある青年に渡した物だ 」

「 ふーん。 ボロい箱だと思ったら、そんなにも古い物だったんだ……。 触ってみてもいい? 」

 アベルは無邪気な瞳で問い掛けた。

「 待ちなさい。 触るのは話しが終わってからだ 」

「 なんだ……。 じゃあ、話って何?? 」

「よく聞くんだ、アベル。 ……神はこの箱を青年に渡す時、こう言ったそうだ 『 皆の者、祈るがよい。 皆の祈りが天に届く時、神の流す一雫の涙が大地に希望の子をもたらすであろう 』と……。 どうしてそんな物がここに有るのか分かるか? 」

「 仙人様、冗談はやめて下さい! そんな事、僕が知るわけないでしょ? 」

 アベルはバカにされたような気がして、すねた顔をした。

「 そうだな、知る訳など無いわな。……この箱には封印が掛けられておる。 これは、選ばれた者にしか開ける事が出来ん箱だ。それが今日、お前の手によって開かれるのだ 」

「 ……!!!?? 」

 アベルには状況が把握出来なかった。 頭の中は真っ白。 返す言葉が出てこない。

「そうか、 とても信じられないと言った様子だな。 まぁ、それも仕方が無いであろう 」

 アベルはエンドリューの顔を見た。
とても冗談を言っているとは思えない。 じゃあ、本当に自分は特別な存在なのか……?
 そう考えれば、自分だけが武術の修行をして来た事にも納得が出来る。 なら、当然の様にトニーも母もこの事を知っていたのだろう。でも……。

「 お前は、自分の額にあるアザを不思議に思った事は無いのか? それこそが、選ばれた者の証なのだ 」

「 違います! 僕はただのアベルです。きっと何かの間違いです。 だって……。 もし僕が選ばれた者だとしたら、きっと皆は大笑いするに決まってる。それに……。選ばれた人はモロゾフを倒すという事でしょ? 僕には、そんな勇気はありません」

「そうか、 信じないと言うのか...…。 では証明してみなさい。 お前の言う様に間違いであるのなら、この箱を手に取っても何も起こらないだろう。だが、お前が選ばれた者なら箱は開く。……どうだ、心の準備は出来たか? 」

 アベルは手に汗を握ると、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 そして……。 震える手で恐るおそる箱を取った。
 心臓の鼓動が、耳の奥に鳴り響いた。

 次の瞬間、アベルの額は熱くなり、目の前がブルーに染まった。

「何という事だ…… 」

 思わず、エンドリューが声をあげた。

 何と、アベルの額が光っているではないか。
 それは眩しく、部屋中をブルーに変えてしまうほどの青光であった。
 
 そして……。箱の隙間からも光がこぼれはじめた。

 アベルは隙間に指を当てた。

 すると、箱は開き、それと同時に青光も消えた。
 
 アベルは大きく目を見開いたまま、ただ、自分の手の中にある箱を見つめていた。

「中に何が入っているのか見てごらんなさい」
 
 エンドリューに言われるままに、アベルは箱の中に入っている物を取り出した。

 まず、 銀色の首飾りが一つ。
 そして、手紙の様な紙切れが入っていた。
 アベルは紙を広げた。 どうやら地図のようだ。 図面の横に、模様のような?文字のような? 見たことも無い物が書き記されている。
 
「どれ、見せてみなさい 」

 エンドリューはアベルから紙を受け取ると、机の上に広げた。

「 この地図には、お前がこれから目指す場所が記されておる 」

 そんな声にも反応せず、アベルはただ愕然としていた。

 もしも父さんが居たら、僕にどんな言葉を掛けてくれただろう?? 『危険だから行くな』と、引き止めただろうか、 それとも……。

「お前は、まだ信じられないのか?」

 エンドリューがアベルの顔を覗き込んだ。

「仙人様……。 どうして神様は、こんな僕を選んだのでしょうか? 」

 アベルは夢でも見ている様な気がした。
 
「アベル…… 」

 エンドリューはアベルの両手をそっと握った。 その手は温かく、アベルはその温もりに ’これは夢では無い ’ と、我に返った。

「 手を広げてごらんなさい 」

 エンドリューはそう言うと、机の上に重ねた手を乗せた。

「 よく見なさい。 お前の手の平にはシワが刻まれておる。 ……昔から人は、手のシワの事を手相と呼び、人生の行く末を占ったそうだ 」

「 こんなシワで?? 」

「 そうだ。 片方の手には『 天命』そしてもう片方の手には『未来』が記されていると信じてきたのだ。 お前の片手にも、天からの使命が記されているだろう……」

「 本当に? 僕の手にも?」

「あぁ、そうだとも。 私は専門家ではないので詳しくは分からないが……。 だが、肝心なのはもう片方の手が示す『未来』だ。 天命は変える事は出来ん。 だが、未来は自分の手で切り開く事が出来る。 その手のシワは、お前の努力次第でどの様にも変える事が出来るのだ。 たとえ天命が決まっていようとも、それを成し遂げられるかどうかを決めるのは自分の努力次第。 場合によっては、天命をも超える未来を創り出す事も可能だ。………神は、乗り越えられぬ試練は与えないのだ」

「 僕も……。変われるのかな? 」

「 勿論だとも。 これから、幾度となく見えない壁が、お前の行く手を阻むであろう……。だが、決して諦めるな。 もしも迷った時や辛くなった時、手の平を見よ。 お前に与えられた運命は、成し遂げられるからこそ与えられた物であるという事を、思い出すのだ 」

「 うん。 わかったよ。 僕、やってみる 」

 アベルは両手を固く握り締めた。


「では、 この地図について説明しよう 」

「 うん 」

「この赤い印だが、こには、唯一モロゾフの息の根を止める事の出来る ’ アレグリアの宝剣 ’ が眠っておる。 だが、ここには ’ ピラティス ’ という神獣が絶えず目を光らせ、宝剣を守っておる。 神獣と言っても、ピラティスは鋭い牙と爪を持ち、近づく者を容赦なく襲うそうだ。 宝剣を手に入れるには、ピラティスを元に戻すしか方法は無い 」

「元に戻すって、どういう事? 」

「ピラティスは元々天使であった。 しかし罪を犯してしまい、神はその償いとして神獣の姿に変えると、宝剣を邪悪な者から守る様に命令したそうだ 」

「ふーん。 でも、どうすれば元の姿に戻せるの? 」

「それは……。 これを使うのだ 」

 エンドリューが、懐からテラスの霊泉を取り出した。

「 これは、仙人様が使っている病気を治す薬ですね 」

「 さよう。 だが、この霊薬の使い方はそれだけでは無い。 持つ者に永遠の命を与える。とも言われておる 」

「えっ! こんなに小さな薬が? 」

「 この液体は、使っても直ぐに元の量に戻るのだ 」

「へー。不思議だね 」

「それで…。 本題に戻るが、ピラティスを元に戻すには、この霊薬ともう一つ必要な物が有る。 それは協力者だ。 ごらん、ここに『鳥』の印が有るだろう…… 」

  エンドリューが地図の上に指を滑らせた。

「ここには動物を操る霊力を備えた者がおる。 この者もアベル、お前と同じ様に神に選ばれた者だ。 この者の力が無ければピラティスに近づく事は出来んからな 」

「へー。 僕の他にも居たんだ 」

「 まだおるぞ。 その他にも二箇所有るだろう、 奇妙な印が…… 」

「 うん、ここの『矢』の様な印と、『滴』みたいな印の事だね」

「そうだ。この『矢』の印の場所には、弓の名手が居るようだ。 だが、その者の力がなぜ必要なのかは記されておらん 」

「じゃあ、もう一つの印は? 」

「 これはここ、死の谷を示しておる。 『滴』は霊泉で、人物はスチュアードの事のようだ 」

「えっ! 本当に? ……なら、仲間探しは一人済んだ事になるんだね 」

「 さよう。 では、私はスチュアードを呼んで来るから待っていなさい 」

「 はい 」


 エンドリューはそう言い残すと部屋を出て行った。

 アベルは、銀色の首飾りを手に取った。
 かなりの年代物の様だ。
 ペンダントのトップには、繊細な龍の彫刻が施されており、青い石が埋め込まれていた。

  アベルは首飾りを胸元に掛けた。

「わぁ〜! 」
 
  何と! 首飾りは新品同様に蘇り、青い石はサファイアの様に輝いたのだ。


 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 エンドリューがスチュアードを連れて戻って来た。

「どうしてアベルがここに? 」

「やぁ、スチュアード 」

 アベルがスチュアードの側に駆け寄った。

「 首飾りを見せてやりなさい 」

 エンドリューの声に、アベルはペンダントのトップをスチュアードに見せた。
  不思議そうに覗き込むスチュアード。

 すると……。
 首飾りの石が青く光った。
 そして、 まるで共鳴する様にスチュアードの額からも緑色の光が溢れ出した。
 しばらくして……。やがて消えた。

「なっ、何だったのですか……今のは!? 」

 うろたえた様子でスチュアードが言った。

「やはり、私の思った通りだ 」

「 父上……。 これは一体??」

「スチュアード、お前は神に選ばれたのだよ 」

「……!! それは、どう言う事ですか?? 」

 スチュアードが慌てふためいた。 話が読めず、ただ、唖然とするばかりだ。

「お前はモロゾフを倒す為、アベルと共に旅に出るのだ。 それが、神に選ばれた者の使命なのだ 」

 エンドリューはそう言うと、スチュアードに杖と霊泉を渡した。

「この霊泉は、宝剣を手に入れるのに必要になる。その剣なしでは、モロゾフを倒す事は出来ん。そしてこの杖も持って行きなさい。きっと、お前を助けてくれるだろう 」

「父上……!! 突然そんな事を言われても、私には何が何だか...….。 それに、杖を使いこなす事など出来ませんし、この小瓶だって、必要としている町人達が居るではありませんか 」

「まぁまぁ、落ち着きなさい。 ……スチュアード、良く考えなさい。 お前の言う通り、ここにも霊泉を必要としている者が居るのも確かだ。 だが、これをお前に渡し、役目を果たしてくれた方が、遥かに多くの人間を救う事になる。 それは今生きている者達だけではなく、これから産まれて来る者達まで救う事にもなるのだ。……それに、その杖だって必ずお前の望みを叶えてくれる。 何しろお前は、天界人である私の霊力を受け継いでいるからな。 だから、何も心配などせんで良い。 お前は、ただ使命を果たす事だけに専念しなさい 」

「そうですか……。わかりました、父上 」

「うむ…… 」

 エンドリューは頷くと、祭壇の引き出しから何かを取り出した。そして、アベルの前に差し出した。 それは…。 銀色に光る剣と、真珠色をした服だった。

「これは、お前が旅に出る時に渡す様にと、天界にいらっしゃるマトレイユ様から賜った物だ。 宝剣を手に入れるまで、この剣を使いなさい。 それからこの衣服は、シーラという魚の鱗で作られた鎧だ。 薄くて頑丈な上に、軽い。これを着なさい 」

 アベルは、今まで見たことも無い神秘的な服と、よく手入れされた剣に見惚れた。

 エンドリューは、アベルとスチュアードの肩に手を置いた。
 そして、真剣な眼差しを二人に向けると、深く息を吐き出した。

「 もう既に、運命の輪は回り始めたのだ。 ここからは、立ち止まる事も、引き下がる事も許されん。……よいか……。頼んだぞ 」

 エンドリューは言葉を残すと、そのまま部屋を去って行った。


 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 アベルは、家へ戻った。

 そう言えば、この事を母さんも知っていたんだよな。 じゃあ、心配は要らないか……。

 アベルは、母を置いてこの町を出る事の不安感と、想像すら出来ない、これから起こるであろう出来事に、重い足取りを覚えた。

 
「ただいま…… 」

「おかえり 」

 ジェシカは微笑むと、アベルの腕の中にある剣と、服に目を向けた。

「アベル……。 引き受けてくれたのね 」
 
「 うん。 最初は驚いて断ったけど、僕……行く事にしたよ 」

 すると、部屋の奥からトニーの姿が。

「アベル〜! 良く決心してくれたわ! 」

「えっ! どうしてトニーがここに? 」

「そんなの決まってるじゃないの。 出来の悪い弟子を一人で行かせる訳にはいかないわ 」

「 もう!いっつもトニーは一言余分なんだ、でも..….。一緒に来てくれるなら僕は嬉しいよ。それに、スチュアードも一緒なんだ 」

「 そうなの! もしかして......。 アベル一人では大役を果たせそうに無いから、仙人様がわざわざスチュアードに着いて行く様に言ったのかしら? 」
 
「もう! 違うってば! チョットは僕の事を認めてくれてもいいだろう 」

 アベルがトニーを睨んだ。

「 スチュアードも僕と同じで、神様に選ばれた一人だったんだ。 まだ他にも仲間が二人居る。その人達を探し出して協力してもらわないとモロゾフは倒せないんだ 」

「 そうなの……。 簡単には行きそうに無いわね。 でも、本当に、よく心を決めてくれたわ 」

 ジェシカがアベルの手を取った。

「 うん……。 話を聞いた時、父さんの事を思ったんだ 」

「 それは、どんな事? 」

 ジェシカは不思議そうな顔をした。

「だって、父さんは僕や母さんを守ったから死んでしまったんでしょ? なら、そんな父さんがもしも生きていたとしたら、僕に何を言うのだろう……。と、 そうしたら、言葉は浮かんで来なかったけど、きっと僕に希望を託したんじゃ無いかと思って……。 それに、仙人様が言ったんだ。 「僕の手の平に ’天命’ が刻まれている」って。 成し遂げられるからこそ、神様が僕を選んだのだ。と…。 だから、信じてみる事にしたよ 」

「……そうね。 必ずやり遂げられるはずだわ 」

 ジェシカはそう言うと、振り向き様に、流れる涙を服の袖で拭った。
 そして、テーブルに置かれた青い布を手に取ると、悲しい瞳のままに、精一杯の笑顔を作った。

「外は危険な所よ。このターバンは、邪悪な者から救ってくれるわ 」

 ジェシカは、アベルの額に刻まれた印を隠す様に、ターバンを巻き付けた。

「それから……。これも持って行きなさい 」

  渡されたのは、父と母の写真だった。

「うん、わかった 」

 アベルはカバンの中に写真をしまった。


「ジェシカ、 アベルの事は私に任せて 」

「うん、そうね。 トニーが一緒なら心配ないわ。どうかアベルをお願いね 」

  「勿論よ、任せて 」

 トニーは深く頷くと、二人は握手を交わした。
アベルは母に抱き付き、耳元で囁いた。

「母さん……。 僕は今までいい加減で、心配ばかり掛けてゴメン。 僕、必ず戻って来るから、母さんも元気で…… 」

 震えた声で、涙混じりに別れを告げたアベルは、母に背を向けた。 そして一度も振り返る事無く、トニーと共に家を出た。

 ジェシカはただ...…。そっと、後ろ姿を見送った。
 
 

十話 少女ニコール

 アベル、トニー、スチュアードは旅立った。

  まず、三人が目指したのは、地図が示す『鳥』の印の場所。

  そこに、動物を操る者がいる。と言う事の他には何も情報は無い。
 しかも、この地図上で場所を特定するには、余りにも大雑把で不親切過ぎる。
  大体、アベルには死の谷以外の世界を知らないが故、地図に記された陸地の広さや、未だ見たことの無い海を、どう思い描けば良いのやら……。 それは、トニーとスチュアードにも言える事だった。
 その為、目的地に辿り着くまでには何日?いや、何週間掛かるのか? どの道をどう進めば良いのか??
  不安な気持ちばかりが渦巻く中、三人は方角だけを頼りに突き進むしかなかった。

  砂漠を歩き始めて三日が過ぎた……。

 いくら進んでも、目の前に広がる景色は青い空に白い雲。そして、いつまでも続く砂山だけ。 だが、それよりも憎たらしいのは……。
  噴き出す汗さえも、瞬時に乾かしては身体中の水分を奪っていく……。灼熱の太陽だ。

「 あぁ〜、もうダメだぁ〜 」

 アベルが倒れて砂に埋もれた。

「 アベル、しっかりして!! 」

 トニーは慌ててアベルを引きずり起こすと、リュックサックから水筒を取り出し、アベルの口元を潤した。
 
「何か、こっちに近づいて来ます! 」

 スチュアードが叫んだ。
 その視線の先には、得体の知れない謎の物体が……。
 それは黒い塊の様で、ユラユラと宙に浮かんでいた。

「まぁ! 何でしょう?? 」

 トニーも思わず声をあげた。

 三人はそのまま空を眺め続けた。
 初めは小さく見えていたその物体は、いつしか巨大な大きさに……。
  やがて...…三人の頭上まで来ると、周囲は黒い影で覆われた。

  《キーンー…》

 違和感のある、聞きなれない機械音が耳の奥を叩いた。

 すると、風を巻き上げながら巨体は下降を始めたではないか。
 三人は、呆然としながらも視線は上に向けたまま、恐る恐る後退りをした。

 やがて...…黒い巨体は地上に着陸した。
 その姿は、巨大な亀の様にも見えた。

「でかいなぁ〜 」

 アベルは、初めて見る摩訶不思議な物体を物珍しそうに、まるで舐め回すように物色し始めた。
 好奇心から巨体の側面に手が触れた時、 突然物体の一部が開いた。

「……!! 」

 すると……。 中からゾロゾロと人が出てきた。その数は十名程度。
  身なりからして、兵士のようだ。
 そして、肩にはライフルが……。

「ひっ捕らえろ! 」

「……!! 」

 あっと言う間の出来事だった。
 号令と共にアベル達は捉えられてしまったのだ。 それも抵抗する間も無く、意図も簡単に……。

 力持ちのトニーなら、きっとこの場を凌いでくれるだろう……。

  そう思ってみたものの……。

 旅の疲れから力が出ないのだろう…。
  トニーもスチュアードと同じく、抵抗する気力も無いようだ。

 あぁ、何て事なんだ……。 まだ、何も終わらせていないじゃ無いか!

 悔しくなって、アベルは唇を噛み締めた。

 あの時、母さんがバンダナを巻いてくれた事、そして、外は危険だと忠告してくれた事を、僕は軽々しく捉え過ぎていたんだ……。 もっと真剣に聞いておくべきだった……。
 それにしても、これから何処へ連れて行かれるのだろう……。

 熱気で頭が朦朧とする中、アベルの中で不安の波が押し寄せた。

「 おい! さっさと歩け!! 」

 兵士がアベルの足を蹴り飛ばした。
 その勢いに倒れてしまいそうになるのを堪え、引きずられる様に、三人は黒い物体に収容されかけていた。

 その時……!!
 空の彼方で何かが光った。 別の何かが、こちらに向かって来るみたいだ。

  現れたのは、銀色をした物体だった。
 それは黒い物に比べて遥かに小さく、空を舞う鳥の様に素早く動き回っていた。

  異変に気が付いた兵達は、突然アベル達をそっちのけにして飛行体に向けて発泡を始めたではないか。

 機械音に似た銃声が響き続けた。
 銀の物体は銃弾を跳ね返しながら浮遊すると、至る所で火花が飛び散った。

 その隙を見て、慌てて身を隠す三人。

  銀色の物体は逃げもせず、攻撃をまともに受けながらも黒い巨体とアベル達を挟む様にして着陸した。

 《ガタッッ……!》

 目の前で扉が開いた。

「早く、乗って!! 」

 扉の向こうに居たのは、ポニーテールの長い金髪に、サングラス姿の少女だった。
 大声で叫んだ少女は、操縦席から身を乗り出して腕を伸ばした。
 必死にその手を掴むアベル。
 トニーとスチュアードも次々に乗り込んだ。

「さぁ、掴まって! 」

 機体は三人を収めると、一気に急浮上した。
 その圧力に体が引っ張られる感じを覚えたアベルは、慌てて手摺に掴まった。

「キャー!! 」

 トニーの悲鳴が響いた。

「もう!静かにして! 」

 少女が叫んだ。


 その後、機体は直ぐさま雲を潜り抜け、太陽の降り注ぐ大空へと飛び出した。
 
 アベルは窓の外を覗いた。
 目の前は……。雲海の広がる絶景だ。
 手の届きそうな距離に見えたのは、次から次へと流れる綿帽子のような雲。
 その下には、先ほどまで必死に歩いていた砂漠が……。
 
 
「うわぁ〜、すげ〜! 」

 初めて見る景色に、思わず声を上げるアベル。
 トニーは後方を振り返った。
 どうやら追っ手は無いようだ。

「ふぅ〜 」

 思わず胸を撫ぜ下ろすトニー。

「ねー、もしかしてあなた達、飛行船を見るの初めてなの? 」

 操縦席から少女が訪ねた。
 
「この空を飛ぶ乗り物は ’ひこうせん’ と、呼ぶんだね? いや〜、ビックリしたよ。 だって、大きな塊が空を飛ぶんだから…… 」

 興奮気味に目を輝かせたアベル。

 《フッッ……》

 少女はその様子に吹き出した。

「そうよ。 でも、私の相棒の正式名称はCHー78機。 そして、さっきの大きいのはGTー260機。 どちらも移動式飛行車両よ 」

 聞き慣れない言葉に、三人は不思議そうな顔を浮かべるだけだった。

 

「 先ほどは命を助けていただき、ありがとうございました 」

「あっ、ありがとうございます… 」

 スチュアードにつられ、トニーとアベルも慌てて少女に礼を言った。

「 いいのよ、私はニコール。よろしくね 」

「これは大変失礼致しました。 私はスチュアード、そしてこいつはアベル、この大きいのはトニーです 」

「丁寧なのか?雑なのか?よく分からない自己紹介ね。 いいわ。 気に入ったわ 」

 ニコールが笑った。

「ところで……。さっきの人達は何者なんだい?? 」

 アベルの一言に、ニコールの顔から笑顔が消えた。

「あいつらは闇の帝国軍、モロゾフの手下達よ。 ああやって巡回しては、あなた達みたいな人を連れて行くの 」

「連れて行かれたら、どうなるの? 」

「 宮殿の地下に有るエネルギー施設で労働させられるらしいわ。 ……良かったわね。 本当、感謝してよ 」

「うん……。ありがとう…… 」

「でも……本当に驚いたわ。あなた達みたいに何も知らない人、初めてだもの……。ましてや自分からGTに近づいて行くなんて、自殺行為だわ 」

「どうして分かるの? 私達が黒いのに近づいた時、まだあなたは遠くに居た筈でしょ? 」

「本当にあなた達、何も知らないのね。 コレよ、コレ 」

 ニコールはそう言うと、質問を投げ掛けてきたトニーに、長い筒の様な物を渡した。
 
  「何? コレ?? 」

「いいから覗いてみて 」

 トニーは言われるままに筒を覗き込んだ。

「キャー! 何コレ凄い〜!! 」
 
「何? 何が見えるの? ねー、僕にも見せて」

「嫌よ! アベルは外でも見てなさい 」

「トニーずるいよ! 」

 アベルが何とかして筒を覗こうと、無理やりトニーの顔に自分の顔を近づけた。

「 それは望遠鏡と言って、遠くにある物が見える道具なのよ。 ……ちょっと! アンティークなんだから大切に扱ってよね! 」

 ニコールの大声に驚いた二人。
 
「 ごめんなさい! 何だか分からないけど、とても大切な物なのね 」

 トニーが即座に謝ると、それを良いことにアベルは望遠鏡を横取りして目に押し当てた。
 スチュアードは全く興味が無い様だ。二人のやり取りを、ただ呆れた眼差しで窺っているだけだった。

「そう言えば、あなた達は何処かへ向かう最中だったのでしょ? 」

「そうなんだ 」

 ニコールの言葉に、アベルは思い出したかの様に地図を取り出した。

「僕たちが行きたいのはココさ 」

 そう言うと、アベルは 『鳥 』の印を指で差した。
 ニコールは横目で地図を確認した。

「そこなら……半日くらいで行けるわね 」

「えっ! もしかして連れて行ってくれるの?? 」

 トニーとアベルが目を輝かせた。

「ちょっと!! まさか…今直ぐに連れて行け。なんて言わないでしょうね?? 」

「 お願い!! 」

「私からも、お願いします 」

「どうか頼むよ、この通りだから 」

 三人は必死に頼み込んだ。

 アベルは、神のようにニコールを拝み続け、トニーも負けじと何度も頭を下げた。 そして、いつも冷静なスチュアードまでもが、何とか願いを聞いてもらおうと躍起になっている。 それもその筈。またあの砂漠を歩くなど、三人にとっては’地獄’へ戻るのと同じ事だから。

「もう、分かったわよ! 行けばいいんでしょ! でも一度帰らせてもらうわよ。 出発は明日。いいわね?! 」

「ありがとう〜 」

「感謝します」

「やったぁ! 本当に助かるよ 」

 三人は大喜びをした。
 まだまだ旅はこれから……。だと言うのに、あの砂漠を歩かなくていい。と思うと、アベルはそれだけで救われた様な気になった。
 

 。。。。。。。。。。。。。。。。

  ……しばらくすると、前方に妙な物が見えてきた。
 それは、砂漠に横たわる巨大なハリネズミのように見えた。
 それも一つでは無く、 至る所に存在していたのだ。
  西陽が差し込む針山は、長い影を作り出した。
  オレンジ色と黒色のコントラスト。
 何とも言えぬ、異様な光景だ……。

  やがて、飛行体は針山の上空に差し掛かると 、視界は黒とグレーに染められた。
 眼下に広がったのは、廃墟となったビルの残骸だったのだ。

「ここは ’ ホワイトタウン ’ と言って、人類史上最も栄えた大都市だったの。今では面影無いけれど……。 私の相棒やGTもここで作られたのよ。でも……。モロゾフとの戦いで犠牲になったみたい……。 あと少しで私の家よ 」

 ニコールはそう言うと、ハンドルを左に傾けた。

  無残に焼け落ちたコンクリート。

  あぁ……。 あんなに分厚い壁が崩れるんだ、ここに居た人達は、きっと一溜まりも無く死んでいったのだろう……。 モロゾフとは、なんて恐ろしい奴なんだ。

 アベルは思わず息を飲み込んだ。

 その爪痕は生々しく、時の経った今でも当時の凄まじさを物語っていた。
 

 飛行体は、ビルとビルの隙間を縫う様に飛行すると、やがて大きな建物の前まで着陸した。

「さぁ、着いたわよ」

 ニコールは、サングラスを外して束ねた髪を振り解いた。
  金の髪がサラサラと舞った。
  その顔立ちは、美少女。と、呼ぶにふさわしい風貌だ。

  機体から飛び降りたニコールは、長い髪を靡かせながら建物の中へ入っていった。

  後を追う三人。

 入り口に入ると地下に続く階段が……。
 その薄暗い先に見えたのは、半開きのドアだ。 隙間から、薄っすらと明かりがこぼれている。

 アベルはそっと顔を覗かせた。
  ……!!
  部屋の中には、本棚がギッシリと並べられているではないか…。
  それは壁という壁、柱、そして通路にも…。
 通り道は人が一人通るのが精一杯。と、言った感じだ。

「やたらと窮屈ね 」

 トニーは機嫌悪そうに顰め面をすると、大きな体を縮ませながら進んだ。
 迷路の様な本棚をくぐり抜けると、机が見えた。

 どうやら人が座って作業をしているみたいた。
 あっ、ニコールだ。


「パパ、ただいま〜 」

 ニコールが男性に抱きついた。

「 お帰り 」

  笑顔で微笑んだ男性は、何とも言えない優しい顔でニコールを見つめていた。
  その身なりは、色白で痩せていた。
  そして、 男性はアベル達の姿に気が付くと、分厚い眼鏡を下にずらして不思議そうな顔をした。

「 パパ、 この人達、砂漠で襲われそうになってたから連れて来たの 」

「……そうでしたか……。 それは災難でしたね。 満足なおもてなしは出来ませんが、宜しければゆっくり休んで行ってください 」

 男性の穏やかで優しそうな口調に、安堵の表情を浮かべる三人。

「ありがとうございます! お嬢さんに命を助けて頂いた上に、図々しくお邪魔させていただくなど…… 」

「いいのですよ。 困った時はお互い様。と、昔から言うではありませんか…。 それにしても…。 あなた方は、あの砂漠を超えて何処へ行かれようとしていたのですか? 」

「……それには事情がありまして…… 」

 スチュアードが言葉を詰まらせた。

「もし…宜しければ、聞かせてもらえませんか? 何しろ、娘と二人きりの生活では外の世界と無縁でしてね 」

 スチュアードはアベルとトニーの顔を伺った。 二人とも …世話になるのだから話しては? と、目で訴えていた。

 ニコールの父に案内された三人は、それぞれテーブルに着いた。
 スチュアードはニコールと父親を目の前にすると、やや緊張気味に話し始めた。

 その内容は、自分達が死の谷から来た事、そしてアベルの背負った運命に、旅の目的など……。
 スチュアードの説明は、事細かく丁寧なものだった。
 ニコールと父親は黙ったまま、瞬きする事も忘れてしまうほど話に聞き入っている様子だ。
 話が終わった途端。

 《バタン!!》

 突然テーブルに手を付いたニコール。

「私、決めた! この人達について行く! 」

「おい! 何を言っているんだ? 」

 娘の我がままに、困った表情をする父親。

「ねぇ〜いいでしょ。パパ〜 」

 まるで欲しい物をねだる子供の様に、ニコールは父に甘えてみせた。

「我がまま言って困らせるんじゃ無い。皆さんにも迷惑が掛かるじゃないか 」

 父親に叱られて拗ねた顔を見せたが、ニコールは負けじとアベルに迫った。

  「ねぇ、私が居ると助かるでしょ! 目的地まで直ぐに行けるし…。 ねぇ、ねぇ、そうでしょ!! 」

 まるで「うん」としか言わせない程の強引さに、アベルは渋々頷くしかなかった。

「ねぇパパ。 この人達も賛成してくれているわ。 だからイイでしょ〜。 お願い〜 」

「……うーん。ニコールは、一度言い出したら聞かないからなぁ。 ……じゃあ、皆さんに迷惑を掛けないと約束できるか? 」

「 うん! 約束するわ 」

 父親は、真剣な眼差しをアベル達に向けた。

「娘の事、お願い出来ますか? 」

「勿論ですわ。 こう見えても私、武術の心得が有りますの。まぁ今回は、旅の疲れと空腹で、モロゾフの手下に捕まりそうになりましたが、いつもの私なら、あんな奴ら一捻りですわ。私が責任を持ってお守りしますから、 どうかご安心ください 」

「うん、そうなんだ。 トニーは本当に強いんだ。トニーを怒らせると、大木も一撃で倒れてしまう程さ。 僕もニコールの同行に賛成だけど、 スチュアード、君はどうだい?? 」

「私も賛成です。 私達は土地勘がない故、方角だけを頼りに、途方もなく歩いていました。娘さんの協力が有れば、そんなに心強い事はありません」

 アベル達の言葉を聞き、父親も安心したようだ。

「そうですか、分かりました。 ただ…見ての通り、ニコールは父一人、子一人で育って来ました。 ですので少々我がままで、気の強い所が有りますが…… 」

「それなら大丈夫。 トニーの方が、よっぽどおっかないから 」

 笑い飛ばすアベルに、トニーが鋭い視線を送った。
 そんな様子に緊張の糸が解れたのだろう。父の顔から険しさが消えた。

 
 その後、父は机の引き出しからケースを取り出した。

「これを肌身離さず身につけなさい 」

 中にあったのは、銀色の小型銃。
  ニコールは、銃を取り出して手の中に収めると、服のポケットにしまった。

「うん、ありがとうパパ。 私、一度でいいから冒険してみたかったんだ 」

「そうか……。 ’可愛い子には旅をさせよ’ と言うことわざが有るが、ニコールとっては、今がその時なのかもしれないな。 …皆さんに会えたのも、きっと何かの縁なのだろう… 」

 
  《グゥゥ〜…… 》

 アベルの腹から音がした。
 恥ずかしくなって、腹を押さえるアベル。
 その仕草に、思わず皆の顔がほころんだ。

「ニコール、皆さんに食事の用意を 」

「はい 」

 返事をしたニコールは、戸棚から何かを取り出した。
 それは、金属製の塊のようだ。 腕から離れた塊は、テーブルの上をゴロゴロと音を出して転がった。

「……?! 」
 
 アベルは塊を手に取ると、見慣れない食料に不思議な顔をした。
 トニーは構いもせず、大きな口を開けた。

「固っっ!! 」

 慌てて口から吐き出すトニーに、ニコールと父は大笑い。

「 これは缶詰。と言って、蓋を開けなきゃ食べられないのよ 」

  よっぽどおかしかったのか? ニコールは涙を浮かべて笑い転げている。 その仕草にムッとするトニー。

「ねー、いいから早く食べようよ 」

 アベルが不機嫌な顔をした。

「これはすまない。 こうやって開けるんだ 」

 父親が蓋を開けて見せた。
 同じように真似をするアベル。
 
「うわぁ〜 」

 何とも言えぬ、香ばしい匂い。
 それは口いっぱいに広がった。 中に入っていたのは、魚の煮付けだ。

 アベルの目が輝いた。

 次の瞬間、三人は夢中で缶詰に食らいついた。 その食欲は尽きる事が無く、黙ったまま、三人はがむしゃらにかぶり付いた。
 テーブルには空になった缶の山が。

「ふぅ〜 」

 苦しくなって一息付くアベル。
 流石のトニーも腹いっぱい。 と見られ、苦しそうに椅子の背にもたれた。。

「はい、お水 」

  ニコールが、皆にボトルを渡した。
 
「缶詰、気に入ったようね 」

「うん! こんなに美味しい物を食べたのは初めてだよ」

 満足そうな笑みを浮かべるアベル。

「じゃあ……この缶詰は、いつ作られたと思う? 」

 思いがけない質問に、首を傾げる三人。

「 それはね……。 七十年前に作られた物なのよ 」

「 うっ!嘘だ。 そんなに古い物が食べられるはずがない 」

「うっ….…!! 」

 スチュアードの顔が青ざめた。 そして、吐き出しそうな素振りまで…。

「 大丈夫よ、安心して。 賞味期限は二百年近く有るから 」

「 えっ! そんな馬鹿な…… 」

 そんな事、あり得ない。 三人はそんな顔をした。
 
「これは、私達の先祖が作り出した発明品よ。 ……この水も同じ 」

 ニコールはそう言うと、ボトルのキャップを指で回して水を一気に飲み干した。

「ねぇー、こっちへ来て 」

  手招きに誘われた三人は、別の部屋へと案内された。
 そこには無数のガラスケースが並び、これまで見たことも無い、不思議な道具や資料が展示されていたのだ。
 
「何だ?これは??」

「 うわー 」

「……!! 」

 それぞれに声を上げるアベル達。

「ここは博物館だったの。 人類が、今までに築いて来た発明品や資料が展示されているの。 ……相棒も、ここにあったのよ。初めは動かなかったけれど、パパが資料を元に、瓦礫から部品を探して修理してくれたの… 」

「いや〜。 ニコールに会ってから驚く事ばかりだよ 」

 アベルの言葉に、ニコールはクスリと笑った。

「パパとここに住み着く様になって、初めて人類の歴史を知ったの。 人って素晴らしい。と、思う事ばかりだったわ。……だって。 今から百五十年以上も昔に、人は月にだって行ってるのよ 」

「えー!!! 」

「そんな筈は無い!」

  スチュアードまでもが声を上げた。

 ニコールはそんな三人の前に、得意げに資料を突き出した。

 そこには、確かにこう書かれてあった。

『アポロ計画』 1961年〜1972年に掛けて実施。 全6回の有人月面着陸に成功。と……。
  記事には、当時の白黒写真が。

「凄いわ! そんな事、全然知らなかったわ」

 トニーが興奮した。

「もしかして……。あの黒い乗り物で月まで行ったのかい?? 」

「違うわよ。 もしもGTで 行こうとしても辿り着けないわ。 その前に、粉々になって燃えてしまうの 」

「……!! なぜ?? 」

 アベルの繰り返しの質問に、ニコールも苦笑いを浮かべた。

「 それはね、地球の周りに大気圏という厚い層があって、そこを通過する時に大量の熱と圧力が発生するの。私達の先祖は、そんな状況でも耐える事の出来る宇宙船を既に発明していたのよ。それに、宇宙には酸素が無いの。だから、この人達は宇宙服を着ているでしょ……。人類は、ずっと昔から知っていたのよ、宇宙の仕組みを 」

「そうなんだ〜。 確かに変な服を着てるね。ニコールって物知りだなぁ 」

 アベルが感心した。

「そうよ。 ここに有る資料の殆どを読み尽くしているからよ 」
 
 ニコールはそう話すと、ふと足を止めた。
 そこには一枚のパネルが……。

「パパは、毎日机に向かって研究しているわ。 いつか世の中が平和になった時、沢山の人に人類の歴史や文明を伝えるのだ。と……。 私も、誰からも気兼ねなく相棒と世界を一周してみたい。アメリアの様に…… 」

 ニコールの視線の先には、伝説の女性飛行士 アメリア. イアハート が 大西洋横断飛行の快挙を成し遂げた記事があった。

「 きっと叶うわ。その夢 」

  トニーが微笑んだ。

「そうだよ。ニコールが仲間に加わってくれたし、僕達が力を合わせればモロゾフを倒せるさ 」

「そうです。 ニコール、貴方の知識はきっと役に立つはずです 」

「うん、ありがとう 」

 仲間たちは、それぞれに握手を交わした。



 。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 次の日の朝。

 まだ眠りの中に居る三人を、ニコールが叩き起こした。
 トニーとスチュアードは驚いて直ぐに起きたのだが、アベルは相変わらず夢の中だ。

「ん、もう! 」

 ニコールは不機嫌な態度を取ると、アベルの耳元に向かって大声で叫んだ。

「 おきなさーい !! 」

「……ん? 何?? 」

 寝ボケまなこで目を擦るアベル。

「 いい、今から食料を調達しに行くわよ。着いて来て! 」

 ニコールは荒々しく言い放った後、「こっち、こっち」と、言わんがばかりに進行方向へ向けて腕を払った。
 トニーはまだ半分夢見心地のアベルを引きずると、スチュアードと共にニコールに着いて行った。

「……ねぇ〜トニー。何なんだい?朝から? 」

「 聞いてなかったの? 呆れた〜〜。 食料を調達しに行くのよ 」

「え〜。こんな朝から〜 」

 アベルは迷惑そうな顔をした。

 
「さぁ、乗って 」

 ニコールが飛行船の扉を勢い良く開けた。
  皆が乗り込むと、突如、機体の下から車輪が現れた。

「 掴まって!! 」

 ニコールの掛け声に合わせて車輪がキュルキュルと悲鳴を上げた。
 それと同時に、物凄い勢いでシートに体が張り付いた。

「キャぁぁぁー !! 」

 鼓膜に突く様な叫び。

「 もう! 少しは静かにして! 」

 ニコールが、後部座席に座るトニーを睨んだ。
 
「ニコール! お願い!! スピード落として
 !! 」

 青ざめるトニー。

「もう! 乗せて貰ってるんだから文句言わないの! 」

「これじゃ〜、命が幾つあっても持たないわよ〜 」

「もう! しょうがないわね! 」

 鬱陶しそうな顔をすると、ニコールは車両の速度を緩めた。
 
 アベルは窓の外を眺めた。
 いくら走っても、見えるのは黒とグレーのビルばかり。
 アベルには、ずっと同じ場所を走っている様に思えた。

  大きな倉庫の前まで来ると、やがて車両は停止した。

「着いたわよ 」

  飛び降りたニコールは、倉庫の入口へ向かった。
  次々に降りるアベル達。
 しかし……。 扉は開かないようだ。 どうやら錆び付いているらしい。

「ん! もう!!」

 イラついたニコールが、八つ当たりをして扉を蹴った。

「ここは私に任せて 」

 トニーは得意げに言うと、扉の取っ手を掴んだ。

  《バン!! 》

  勢い良く開いた扉の向こうには、山の様に積まれた何かが見えた。
 
「あれは…… 」

 アベルは目を凝らして見つめた。

  …そうだ、あれは間違い無く缶詰の山だ!!
 まるで夢でも見ている様だった。
 あんなに美味しい食材が、無造作に山積みされているなんて……。

「さぁ、早く手分けして詰めましょう 」

 ニコールはカバンを広げると、手当たり次第に詰め込み始めた。
 トニーとスチュアードは興奮状態なのか? 黙ったまま、ただ黙々とカバンに放り込んでいる。
 アベルは違った意味で興奮しているのだろう。 のんきに鼻歌を歌っているようだ。

「そろそろ行くわよ 」

 ニコールが声を掛けた。
 ずっしりと重くなったカバン。 嬉しさから思わず皆の顔がほころんだ。
 

 。。。。。。。。。。。。。。。。

 帰り道の途中。

「いや〜、驚いたよ。 あんなに缶詰があるなんて…… 」
 
  アベルが興奮しながら言った。

「本当、ビックリしたわ。 どうしてあんなに食料が? 」

 トニーの言葉に、ニコールが口を開いた。

「あそこは食料庫よ。 以前……。まだホワイトタウンが栄えていた頃、先祖達は火星の資源を手に入れる為に研究を行っていたのよ。 でも火星には食料が無いから、長期保存の出来る あの、缶詰を開発したの。 ……ねぇ、あそこを見て 」

  ニコールが指を差す方向に、高い鉄塔が見えた。
  赤錆びた鉄塔は、途中で折れてしまっているが、その存在感には圧倒される物があった。
  周辺に建造物は無く、長く伸びる影が日時計の役割を果たし、時を示していた。

「あれが宇宙基地よ。あそこから宇宙船が打ち上げられたの 」

「へぇ〜〜 」

 溜息にも似た声を出した三人。

「ところで……。 あれだけの食料が有るのに、ここに住んでいるのはニコールとお父さんだけなの? 」

 トニーの問い掛けに、ニコールは一瞬曇った顔をした。

「……そうよ。 私達はずっと南にある町から来たの。 その頃、私はまだ幼くて記憶には無いけれど、パパは ’ 町が襲われて逃げて来た’ と、言っていたわ。 ママも、その時に命を落としたみたい…… 」

「それは、闇の帝国軍にかい? 」

「……うん 」

 ニコールは唇を噛み締めて頷いた。

 
 アベルは驚いた。 とても明るい印象のニコールにも、悲しい出来事が有ったのかと……。
 アベルは自分に重ねると、黙っては居られなかった。

「 僕の父さんも殺されたんだ… 」

「そうだったの… 」

 ニコールは驚いた顔をしたが、その後、飛び切りの笑顔を見せた。

「じゃあ、一緒に仇を取りましょう 」

「うん! 」

 ニコールの声は、まるで曇った空気さえも拭い去ってくれる様に、明るく元気だった。

 アベルは、そんなニコールから勇気をもらった様な気がした。



 博物館まで戻ると、ニコールの父が皆の帰りを待ちわびていた。
  アベル達は荷物をまとめ、出発の準備に取り掛かった。

「パパ、研究ばかりしてないで、私が居なくても、ちゃんとご飯を食べるのよ 」

「うん、わかってる 」

 想いが溢れ出し、父は愛しい娘を抱き締めた。
 
  ……これが最後になるかもしれない…。

 父は、そんな危機感を感じずにはいられなかった。
 親の権限で『行くな』と、引き止める事も出来るだろう…。 しかし、かと言って、ニコールもじき十六だ…。もう子供ではない。このままずっと自分の手元だけに留まらせる訳にはいかない。己の人生は、己自身が決める事なのだから……。
  それは、身を切るような思いだった。

「大丈夫。私、絶対に戻ってくるから…。 パパの分まで世界をこの目で確かめてくる」

「うん、そうだな 」

 涙混じりに父は頷いた。


「本当に、お世話になりました 」

 スチュアードが頭を下げた。

「どうか…。ニコールの事を頼みます 」

「 はい 」

 アベル、トニー、スチュアードは、ニコールの父と別れを交わした。


 皆は車両に乗り込んだ。
 すると、車両は車輪を収めて再び飛行船の姿に変化した。

  ニコールが窓辺で手を振った。

 ちぎれる位に手を振り返す父。

  その後、一気に上昇した飛行船は雲の中へと消えて行った。

  …ただ一人、その場に父だけを残して…。

十一話 動物使いマリア

 小型移動式飛行車両は、順調に進路を進んでいた。 あれから広大な砂漠地帯を超えたのち、大海原を渡った所だ。

 やがて、前方には陸地が見えて来た。

「ようやく見えて来たわ 」

「 あれかい? 」

「そうよ。 地図には詳しく書かれていないから、とりあえず情報収集するしか無さそうね 」

 ニコールはそう言うと、ハンドルを倒して飛行船の高度を落とし始めた。

 機体が陸地へ差し掛かると、そこは緑豊かな大地。
生い茂った草原には、放牧された牛や羊。 といった家畜の群れが……。
 その彩りは、まるで緑の絨毯に模様を描いたような景色だ。

「この辺りのはずなんだけど…… 」

 民家が所々に見えてきた。
すると、近くにいた住民達は血相を変えて逃げ始めたではないか。
 どうやらモロゾフの手下と勘違いしたんだろう。

 「これじゃ、話にならないわね 」

  ニコールは再び機体を車両に変えると、着陸した途端、物凄いスピードで農道を突っ走った。

「キャぁぁぁー!! 」

耳を塞ぎたくなるトニーの悲鳴。

「もう!! 静かにして! 」

ニコールは雑木林を見つけると、鬱憤を晴すかの様に猛突進をした。

目の前に迫る雑木林。
トニーは両手で目を隠し、叫んだ。

「神様! 助けて〜!!」

 
 《ガタン! バキバキ…!》

車両は大きく上下に揺れ、木々の小枝に引っ掛かり停止した。

「 ここに相棒を隠せば怪しまれないでしょ? もう、これくらいで死にはしないわよ。 相棒は銃弾でも跳ね返すんだから 」

 イラついた口調でニコールが言った。

「もう!! こんなの心臓に悪いわよ。 ニコールと居たら寿命が縮まるわ 」

「 じゃあ、一人で行ったら?? …どうせ、私の助け無しじゃ行けないくせに… 」
 
「本当!ニコールって可愛くないわね! 」

「 別に可愛いなんて言われたく無いわよ、オカマの貴方に 」

「なっ…!! 乙女を侮辱したわね! 」

「何よ、本当の事を言っただけじゃない! 」

  「もう、絶対に許さない!! 」

 声を荒げたトニーは鬼の様な顔に。
 その様子に、アベルはオロオロと困惑した。

「こんな時に喧嘩してる場合じゃないだろう〜 」

 二人を止めようとしてみるが……。
 益々言い争いはエスカレートして行くばかり…。

「なぁ、アベル。 この二人は放っておいて、私達だけでも探しに… …」

「そうだね。 好きなだけヤらせておけば、その内収まるかもね… …」

 アベルとスチュアードは呆れた顔をすると、、ニコールとトニーをそのまま残して車両を出た。

 二人は手分けをして人を探す事にした。
 しかし、住民達は逃げ出した。 という事もあり、辺りは静まり返っていた。
 
あぁ、困ったな。 これじゃ、見つけられないじぁないか……。
アベルは焦った。

しばらくすると、スチュアードが戻って来た。

「アベル、そっちはどうだった? 」

「駄目だ。 全く人の気配が無かったよ 」

「こちらも同じく……」
 

視線の先にあった小屋から人影が……。

その人は、手押し車で家畜の飼料を運んでいるようだ。

「あの人に聞いてみよう 」

 アベルとスチュアードの二人は駆け寄った。

「すいませーん 」

 声に立ち止まる女性。

 やがて、トニーとニコールも二人に追い付いた。
慌てて走ってきたのだろう。 荒々しく肩で息をしている。



「 何かご用ですか? 」

女性は振り向くと、不思議そうな顔を浮かべた。

「僕達、人を探しているんです。 この辺りに動物を操る人が居ると聞いたのですが、知りませんか? 」
 
「……あぁ、あの子の事ね 」

「 知ってるんですか?! その人は今、何処に居るんですか?? 」

「知ってるには知っているけれど…… 」

 気の進まなそうな女性。

「お願いします。 どうしても会わなくてはいけないのです 」

 アベルが頭を下げた。

「そう言われてもね……。 教えてもいいけれど、きっと会えないと思うわ 」

「何故ですか? 何か訳でも有るのですか? 」

「う……ん…… 」

 トニーの問い掛けに、女性は一層困った顔をした。

「お願いです。 訳を教えて下さい 」

「 ……わかったわ 」

 アベルは、承諾してくれた事にホッとした。

「実はね、あの子は病弱な母親と二人で暮らしていたの……。 でも、半年ほど前に母の病状が悪化してね。 あの子は助けを求めて町中を彷徨ったの。 でも……。普段からあの子の事を気持ち悪がっていた町人達は、あの子の話をまともに聞かなかったのよ。 それで、諦めて家に帰ると母親は既に亡くなっていたそうよ。 それからあの子は町人達を恨み、 一人で家に閉じこもってしまった……。 私達も何とかして謝ろうとあの子の元へ何度も出向いたわ。でも……。狼や野良犬が家を取り囲んでいて、とても近づく事が出来なかった……。 それからと言うもの、町人達は家畜が襲われる度に『あの子の仕業だ』と、勝手に決め付けて居るみたい。だけど結局どうする事も出来ず、もう誰も近づかないわ 」

  「そうでしたか…… 」

 それ以上に返す言葉が見当たらず、皆は黙り込んでしまった。

  「……それでも会わなきゃいけないんだ! お願いします。どうか教えて下さい 」

 アベルの願いに押されたのだろう。 女性はある方向へ指を差した。

「 あそこに大木が見えるでしょ? そこを右に曲がると林が見えてくるわ。 家は、その中よ 」

「ありがとうございます 」

「どういたしまして 」

 アベル達は女性に礼を言うと、早速、教えられた通りに歩き出した。

 やがて林が見えてきた。
 その中を進み始めると、 木々の隙間から赤い屋根が……。

  あっ、あれだ。

 家の様子を目で確かめた。
ドアの隙間から女の子が顔を出し、こちらの様子を伺っているではないか…。

「君に話しがあって来たんだ! 」

 アベルが大声で叫んだ。

 驚いたのだろう。
 女の子は慌ててドアを締め切ってしまった。

  その時、
 《ガサッ… 》

  背後から物音が。
 皆が振り返った。 すると…。黒い物陰が幾つも浮かび上がり、光る無数の目がアベル達を取り囲んでいた。

  《ヴゥ〜… 》

 何とも言えぬ唸り声……。

「 出たわね! 」

 ニコールはポケットの中に有る銃を握り締めた。
 アベルも剣を構え、スチュアードも杖を前に差し出した。

黒い影が飛び掛ってきた。
 
「キャー! 」

 ニコールが倒れた。
 トニーは服の裾を野良犬に噛まれ、振り払おうと体を動かしている。 アベルは狼に向けて剣を突き刺した。

  《ドン!! 》

 突然、風が吹き荒れた。
それは、押し寄せる様な強風だ。
風の先に……。 杖を地面に突き立てたスチュアードが見える。
やがて風が収まると…。 狼や野良犬達は、恐れをなして逃げて行ったのだ。

こういった光景を、人は ’尻尾巻いて逃げる ’と、言うのだろうか?

  「助かった…… 」

 アベルが胸を撫ぜ下ろした。
 スチュアードは杖を持ったまま、ただ、漠然としていた。

「今のは、杖の力かい? 」

 スチュアードに駆け寄るアベル。

「分からない……。 ただ、何とかしたくて地面を叩いてみたんだ… 」

「凄いじゃない スチュアード!! 貴方の杖から風が出たのを私は見たわよ 」

 トニーが、興奮気味にスチュアードの手を握った。

「これが……杖の力?? 」

 まだ、信じられないだろう……。
 スチュアードはじっと立ったまま、杖を持っていた自分の手を見つめていた。

皆は家の前まで来た。
周囲は人気が無く、静まり返っている。

 アベルはドアを叩いたり、窓を覗いたりして呼び掛けてはみたが、思った通りに反応は見られ無かった。

「さぁ、これからどうする?」

 ニコールが皆の顔を伺った。

「そーね。 とりあえず…会えるまで足を運びましょう 」

 他に思い付く事も無かったので、 皆はトニーの意見に乗る事にした。


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「あ〜〜、もう三日目よ 」

  ニコールがふてくされて言った。

 あれから、狼達はスチュアードの姿が見えると逃げて行くので襲われる心配は無くなったのだが、肝心な女の子には一向に会うことが出来ず、時間だけが過ぎて行ったのだ。

「ねー。思ったんだけど、何度も訪問するのは余計に警戒させるだけだったのかも… 」

「と、言うと…?」

  スチュアードがトニーに訪ねた。

「 こうなったら作戦変更しない? 」

「何かいい案があるのかい? 」

 アベルもトニーに訪ねた。

「 物陰に隠れて監視するのはどうかしら……? 」

「なるほど! それで、女の子が外に出る時を待つんだね 」

「そーゆー事」

 ニコールも頷き、皆がトニーの案に賛成した。


 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 監視を始めてから何時間経過しただろうか…。
 相手に気付かれない様に物陰に隠れる。 という行為は思った以上に疲れる。 という事をアベルは知った。 何をするにも、音を立てない様に注意を払わなければならないのだ。それに、何もしないでいる時間。というのは退屈で、異様に長い。

  あぁ……。 いつまでこうしてるんだぁ。

 アベルは溜息をこぼした。
 
 
 すると……。
  林の中から一匹の狼が現れた。
 その口元には何かが…。
 どうやら鳥を咥えているみたいだ。

  食べる為に捕まえてきたのか??

 狼は家の玄関まで行くと、口から鳥を離して声を上げた。

  《キューン 》

 それは獰猛な狼とは思えない、切なくか細い鳴き声だった……。
 ましてや肉食の獣。普通であれば、とっくに鳥など食べてしまっているはず…。
 しかし鳥は生きている様で、片方の翼だけをバタバタと激しく動かしている。
 
 狼は、じっと座ったままドアを見つめ続けた。

  《ギー…… 》

 ドアが開いた。
 外へ出た女の子は、狼の頭を優しく撫ぜて、にこやかに微笑んだ。
 そして……傷付いた鳥に手を伸ばした時。

  「お願いだ! 僕の話しを聞いて!! 」

  咄嗟に飛び出してしまったアベル。
  女の子はギョッと振り向くと、慌てて家に入りドアを締めてしまった。

  「あぁ……」

  「せっかく、いいところだったのに…… 」

 がっかりする仲間達。

 スチュアードは玄関まで行くと、座り込んで鳥を膝に乗せた。

「怪我をしたんだね 」

 そう言うと、霊泉をポケットから取り出して、傷付いた翼に数滴垂らしてみせた。

 すると、たちまち傷は回復していき、鳥はスチュアードの腕の中から羽ばたいて行った。

「えっ! どういう事? 信じられない… 」

 ニコールが驚いて口をポカンと開けている。
 その様子を笑いながら見ているアベル。

「この霊薬は、どんな病や傷でも治すのです 」

 スチュアードは微笑むと、ニコールに霊泉を渡した。

「 先祖達が作った薬に、そんな即効性のある物はあったかしら?? ……もしかして…それとも、これは天国の物なの? 」

「はい。 父上がそう申しておりました 」
 
「へ〜〜、そうなんだ…… 」

 ニコールは小瓶を高く掲げた。
太陽の光を通した小瓶は、七色に輝いた。

「きれい……。この世に存在しない物を、今、こうして手にしている。そう思うと、何だがドキドキするわ 」


  《ギー…… 》

 物音がした。
 皆が振り向くと、微かにドアが空いている。

  「…!? 」

 アベルは隙間から様子を伺った。
 女の子が玄関先に立ったまま、じっとこちらを見ている。
 その姿とは、とても可愛い女の子。と言えるものではなかった。
 何しろ衣服は汚れて髪はボサボサ……。まるで物乞いのようだ。
 それに、家の中は散らかり放題に物が散乱している。

 皆は、そっと中へ入った。

 女の子は警戒している様だ。
 少し後退りをすると、身構えている感じが見受けられた。

「大丈夫よ。 私達はあなたの味方よ 」

 ニコールが優しそうな声で話し掛けて女の子に近寄った。

「さっきは、ありがとう…… 」

 とても小さくて聞き取りにくい声ではあったが、確かに女の子はそう言った。
 きっと、鳥を助けた場面を見ていたのだろう。


「 僕達は、君に頼みがあって来たんだ 」

 アベルの顔を、ただじっと見つめる女の子。

「………… 」

 返事は無かった。
 アベルはそのまま話しを続ける事にした。

「君の力が必要なんだ。 君の力が有れば、沢山の人を救う事が出来る。 どうか僕達に協力して欲しい 」

 そう言った途端、女の子の表情が豹変した。
 それは、まるで牙を剥いた狼の様だ。

「人間なんて大っ嫌い!早く出てって!! 」

 女の子は荒々しく言葉を吐き出すと、そこら中にある物を投げ放った。
 慌てて身を交わして除けるアベル達。
 
「そんなの勝手よ! 化け物扱いするくせに、都合のいい時だけ利用しないで!! 」
 
「……違う、僕達は違うんだ…… 」

「早く出てって!! 」

「 とにかく話しを聞いて欲しいんだ 」

「イヤッ! あなた達もあの人達と同じよ! マリアなんて居なくなればいい。そう思っているんでしょ!? そうよ、ママを殺したのはマリアよ! マリアなんて生まれて来なければ良かった! 」

 マリアは興奮状態で取り乱し、近くにあったハサミを手に取った。

  「ここを出て行かないのなら、死んでやる! 」

  マリアはハサミを握り締め、先の尖った部分を首元に押し付けた。
 その眼差しは真剣だ。

 アベルには、その姿が胸に突き刺さるくらいに痛かった。

  こんなに幼い子が本気で『死んでやる』なんて……。そこまで追い詰められる程、この小さな体には悲しみや憎しみが詰まっているんだ……。 もう、僕は胸が潰されてしまいそうだ……。とても見ていられない……。 こんなの、絶対に嫌だ!!

  《バチッ…!!》

  アベルの手がマリアの頬をかすめた。


  「ア…アベル…… 」

 トニーはとても信じられなかった。
 何よりも争い事を嫌うアベルが、まさか人を叩くなんて…。
 たまにふざけて言い争いをする事はあったが、ここまで感情的なアベルの姿を見るのは初めてだ…。

「ふざけるな!! 」

  アベルは大声で怒鳴ると、顔を真っ赤にした。 瞳は涙が溢れ今にも泣き出しそうに…。

「父さんだって、僕が殺したような物だ。でも、一度も生まれて来なければ良かった。なんて思った事は無い。 それは、父さんが僕に命を託してくれたから。 だからこそ、僕は生きて、生きて、生き抜いて。 父さんの成し得なかった事をしてみせる。 それが僕に出来る事だと決めたから 」

「うっ…… 」

 マリアが瞳いっぱいに涙を浮かべた。

「君は、お母さんの笑顔を見た事があるかい?」

「………ある」

 肩を震わせたマリアが、小さく答えた。

「君のお母さんは幸せな人だよ 」

「そんな事、どうして分かるの?! 」

 涙混じりの虚ろな瞳が、アベルを捉えた。

「いや、僕には分かるんだ。 笑顔は一人では作れない。 君が居たからお母さんは笑ったんだ。 だから……死んでやる。なんて、君のお母さんか聞いたら悲しむに決まってる。
 お願いだ。 もう二度と、そんな事は言わないと約束してくれ。 君の命は、君だけの物じゃ無いんだ 」

 アベルの言葉を聞いたからだろう。 マリアは幼子の様に泣きじゃくった。
 沢山の涙が流れ落ちた。

 きっと、ずっと泣きたかったに違いない。
 でも、それが出来ず、自分の殻に閉じこもる事で自分を守っていたのだろう。 必死に、精一杯に……。

 
 トニーはしゃがみ込むと、マリアの瞳から溢れる涙を手で拭い、笑顔を作って見せた。

 マリアがトニーの胸の中へ飛び込んだ。
 その優しさに心を開いてくれたのだろう。

「 マリア、あなたは誰よりも優しい人よ。それは直ぐに分かったわ。 だって、傷付いた鳥を運ばせたのはマリアでしょ? それに、あなたの家を守っている狼達だって、あなたの事が大好きなのよね。 守るのに必死だったもの……。 私なんて、服を破られそうになったのよ 」

 トニーがズボンの裾を見せた。
 かろうじて破られてはいなかったが、確かに歯型の様な穴が幾つも空いている。
 微かにマリアが笑った。

「きっと、 本当のあなたの姿を知れば、誰も化け物扱いなんてしないわ。 もしもそんな人が居る。と言うのなら、私が懲らしめてやるわよ! 」

 トニーが微笑んだ。


「マリア……。あなたを見ていると、昔の私を思い出すわ……」

「マリアと似てる? 」

「そうよ。私もね、幼い頃に両親を亡くしているの 」

「 そうなの? 悲しく無かったの? 」

「そりゃー、死んでしまいたい位に悲しかったわよ。それに加えて私は泣き虫で、いつもイジメられていたわ……。 両親が亡くなってからは町の長老に育てられたのだけど、長老は、私の事を実の子供の様に可愛がってくれた。それだけじゃないわ、私の悲しみまで拭い去ってくれたのよ……。今の私が居るのは長老のお陰なの」

 トニーはそこまで話すと、マリアの顔を覗き込んだ。

「あのね、とっておきの話しがあるの。聞いてくれる? 」
 
「……うん 」

  マリアが頷いた。

 トニーは記憶の糸を手繰り寄せる様に、じっと遠くを見つめた。



 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 それは今から数十年前、トニーがまだ幼少の頃の記憶であった。

 小さな少年は路地にうずくまり、殻に篭った亀の様に、背中を丸めて泣いていた。


「トニー。 また泣いているのか? 今日は誰に何を言われた? 」

  声を掛けたのは、若かりし日の長老だ。
  幼い少年は、真っ赤に泣き腫らした瞳で見上げると、長老に抱きついた。

「 おじちゃま〜 」

「よし、よし、いい子だ 」

 土の染み込んだ黒い手が、少年の頭を優しく撫ぜた。

「あのね……。みんなが言うの。 トニーの喋り方は女みたいだって……。 どうしてダメなの? 何も悪い事していないのに…… 」

「そうか……。 お前はどう思うのだ? イジメられるのが嫌で自分を曲げるのか? 」

  トニーがブルブルと首を横に振った。
 
「そうか……。お前は自分の意思を貫くのだな。 ……では、足元を見てごらんなさい。 何が見える?」

「それは足でしょ? 」

「いや、違う。 もっと目を凝らして見てごらん 」

「分かんないよぉ〜。じゃあ草履? 」

「それも違う。 ほら、ここ、ここに沢山付いているだろう 」

  長老が指を差したのは、砂粒だった。

「おじちゃま、砂が何か? 」

「そうだ、砂粒だ。 だが馬鹿にしてはいけないよ。もしもこの世界から砂が無くなったらどうなる? お前も立っては居られないだろう。……たった一粒でも無くてはならない物だ。 お前が流した涙もそうだ。いつか天に昇り、雨になって作物を実らせ、やがて海になる。 この世界に存在する物は地球の一部だ。 そして、その全てに’ 役目’ が有る。 動物や生き物も同じ。人間も、死ねばいずれは大地の土となる。 だがな……人間は、他の何にも無い、特別な物を持っている。 それは何だと思う? 」

「おじちゃま、 今日は質問ばっかりだね 」

「ハッハッハッ…。 お前にはまだ難しかったかな?? ……では教えてやろう。それは心だ 」

「 えっ?違うでしょ? もしもそうなら、動物には心が無いの?? 」

「 トニーや、確かに動物にも心が有るかもしれん。 だが、それはあくまでも生き残る為の本能に等しい。 ほら、空を見上げてごらん 」

「鳥の群が飛んでるね 」

「そーだ。 あの鳥達は同時に飛び立ち旅をする。そして同時に子供を産んで育て、また同時に戻って来る。 そうやって命を繋いでいるんだ。 しかし人間は違う。心があるが故に、善人も居れば悪人も居る。考え方も、見た目も、好みも人それぞれ、十人が集まれば、十通りの生き方がある。 そうだろう?違うか?? 」
 
「そうだね。 おじちゃまは世界に一人しか居ないもんね… 」

「その通り。 トニー、お前もこの世界にたった一人しか居ないのだ。 では、どうして人間だけが違うのか不思議に思わないか? 」

「うん、知りたい。 教えて 」

「 いいだろう。 それは、人は役目の他に ’天命’という名の使命を背負っているからだ 」

「なあに? 天命って? 」

「そうだなぁ〜。 簡単に言えば 、与えられた使命を成し遂げる為に必要な’能力’ 。と言えばいいのかな? 人は、必ず何かの能力を神様から与えられているのだ。 例えば、頭のいい人が居れば、手先が器用な人も居るだろう。 神様は、それぞれに与えた能力を使う事で、皆が幸せになれるように考えたんだ 」

「へ〜〜 」

「中には、’天命’の事を’運命’。と呼ぶ者も居るだろう。 だが、わしは運命という言葉は好かぬ。何故なら、運命はその者の一生。つまり、生き様を意味する言葉だからだ。
 もしも、生き方が生まれた時から決まっているのなら、そんな理不尽な事はないだろう?」

「わかんないよぉ〜〜。おじちゃまの話しは難し過ぎる〜 」

「そうか? 難しいか?? では、お前にも分かる様に話そう。 ’天命’ 。いわゆるその者に与えられた能力を活かす事で、人は何倍。いや、何十倍も人生を幸せに送れるのだと、わしは思うのだよ 」

「うん、分かった! その天命と言うのは道具みたいな物なんだね! 」

「そーだ。お前は賢いなぁ〜〜。 道具は道具でも、使えなければクズと同じ。能力を上手く使えてこそ意味が有るのだ。 ……こんな話しをしたら、もしかすると誰かは『能力など自分には無い』と、答えるかもしれん...…。だかそれは、自分の中で眠る力に気が付いていないだけの事だ。 皆が天命に気が付けば、この世界も随分と変わるだろう 」

  「そうなんだ〜 」

  「そうだとも。 この世界に誰一人として必要で無い者など存在しないのだよ」

  「ふ〜ん。じゃあ、女の子みたいな話し方をするのも能力なの? 」

  「そうだ。きっとお前は人より優しい心を与えられたのだろう。その能力の種を大きく育てるのも枯らすのも自分次第。 何よりも心の在り方が大切なのだ。 だからトニー、悩む事は無い。お前が人と違うのは当たり前の事だ。 自分の心に嘘を付かずに正直に生きなさい。 そして、困難な事からも逃げず、立ち向かいなさい。例え敗れたとしても、必ず得られる物が有る筈だ。だから逃げるな。 そうすれば、お前に与えられた天命が何の為に必要なのか分かる日が来るから 」

  「うん、 これからはバカにされても泣かないよ 」

  「 本当かな? 」

  「うん、嘘つかない 」


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 トニーの優しい眼差しの先には、無垢な瞳の少女、マリアが映っていた。

「その後は、どうなったの?」

 マリアが話しの続きをせがんでみせた。

「……私はね、とにかく目の前の事を必死に頑張る事に決めたの。武術の修行だってそうよ。そして気がつくと、いつの間にか私の事を馬鹿にする人は一人も居なくなったの。 今ではこう思うのよ。両親を失って悲しんだ事も、 武術を学ぶ機会が与えられた事も、イジメられて苦しんだ事も、 その全てに意味が有ったとね。 その答えはちゃんと出ている。こうして皆と旅をしてマリアに出会ったでしょ? 」

 トニーはそこまで話すと、マリアの両手を包み込む様に握った。

「全ては、乗り越えて来たから分かる事なのよ。 ……ねぇマリア。 だからあなたにも前を向いて歩いて欲しいの。きっと、お母さんもそう望んでいるはずよ。 動物の気持ちが分かるなんて素敵な事だわ。 その力を、どうか私達に預けてくれないかしら? 」
 
「うん…… 」

 マリアがゆっくりと頷いた。

「よかった!! 」

 手を叩いて喜ぶ仲間達。
 アベルは、首飾りを外してマリアの前に差し出した。

 やっぱり思った通りだ。
 マリアの額から眩いばかりの黄色い光が溢れ出した。
 突然の出来事に驚くばかりのマリア。

 アベルは、そんなマリアに話した。 探していた仲間の一人である事、そして与えられた使命を…。

 マリアは、ただ驚いてばかりだった。

 
「私はニコール。 よろしくね 」

 ニコールは微笑み手を差し伸べた。
 差し出された手に、小さな手を重ねたマリア。

「私はマリア… 」

 マリアが小さな声で名乗ると、 他の仲間達も進んで自己紹介を始めた。

「さぁ、こうなったら、先ずはこの格好を何とかしないとね 」

 ニコールは、みすぼらしい姿のマリアをまじまじと見つめた。

「ねーマリア。他に服は無いの? 」

「うん、ちょっと待ってて 」

  マリアはタンスに向かった。 そして中から一着の服を取り出した。

  「これならいい? 」

  服を受け取り広げるニコール。
 それは水色のワンピース。 首元には色鮮やかな花の刺繍が施されていた。

  「とても素敵じゃない! 」

  ニコールに褒められ、マリアは恥ずかしそうにモジモジしてみせた。

「その刺繍、ママが縫ってくれたんだ 」

「そうだったの。 早く見てみたいわ。早速着替えましょう 」

 ニコールはそう言うと、鋭い眼差しをアベル達に向けた。

「ちょっと! 今からレディーが着替えるのよ! 向こう向いてなさいよ!! 」

「…は、はいっ!」

 慌てて後ろを向く仲間達。

 
  「もういいわよ〜 」

 その声に、仲間達は振り向いた。

「…マリア! 本当に似合っているわ 」

「うん、見違えたよ 」

  トニーとアベルも声を上げた。

「後は、この髪の毛ね…。 手強そうだわ 」

 難しそうな顔をしたニコールは、ポケットからクシを取り出した。
  絡まってごわつく髪を、丁寧に解して行くニコール。
 その後、二つに分けると三つ編みをした。

「さぁ、出来たわよ 」

 マリアは鏡に自分の姿を映した。

「わぁ〜 」

 マリアはその姿に見惚れ、じっと鏡の中の自分をみつめていた。
 
「準備も出来たみたいだし、先へ進もう 」

「ちょっと待って! 」

 マリアは小走りで庭に出た。 そこに待っていたのは狼や野良犬達。その他に猫や鳥までもが……。
  狼達は襲って来た時とはまるで違い、何処と無く寂しげな眼差しで甘えた声を出していた。

「ごめんね。 マリアはしばらく出掛ける事になったの。 でも、ちゃんと帰ってくるから、それまで元気にしていてね 」

  《キューン…》

  切なくて悲しい鳴き声が響いた。

 主人が居なくなる事が、よっぽど悲しいのだろう…。
 マリアはしゃがみ込みんだ。
 側に寄り添い、代わる代わるに頬を舐める狼達。
 マリアは涙を浮かべた。

「ごめんね… 」

 名残惜しさを残す様に動物達に別れを告げた後、マリアは起きあげると、元気な声で言った。

「もう大丈夫よ 」

「じゃあ、行こうか 」

「うん 」

 アベル達は狼達に見送られながら、マリアの家を出た。

 次に目指す『矢』の印に向かって。
 

アベルの青い涙

アベルの青い涙

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一話 神の遣い
  2. 二話 モロゾフの裏切り
  3. 三話 モンデモンロ
  4. 四話 神との戦い
  5. 五話 闇の世と一筋の光
  6. 六話 希望の子
  7. 七話 アベル
  8. 八話 死の谷へ
  9. 九話 旅立ち
  10. 十話 少女ニコール
  11. 十一話 動物使いマリア