神様のドロップス
神様のドロップス
私は梅雨が好きだった。色づいてゆく紫陽花の花。雨の香る街。満開の傘の花。しっとりと濡れるからだ。夏へと近づいていく感覚。そのどれもが愛おしくてたまらなく、ビー玉のような美しさは私を魅了していた。
私が梅雨を嫌いにになった(と言うか、恐ろしくなった)のは、中学1年生の頃だった。
中学生になった私は、憂鬱な気持ちがいつも身体中をぐるぐるとかけ巡っていた。
今までとは勝手がちがうルールを守り、みたこともない人たちと同じ箱の中に入れられて、小学生の時よりもうんと難しい授業を受けなければならない。それがとてもいやでいやで仕方がなかった。
それでも、梅雨の雨は今までと変わらなかった。
梅雨前線の影響で、例年よりも若干早めの梅雨入りだったそうで、母は洗濯物が乾きにくくなると私に愚痴をこぼしていたが、私は「梅雨が早く会いにきてくれた。」のだとさえ思えるくらい、嬉しかった。
私はおかしな子供だった。
傘もささずに梅雨の雨に濡れるのが、とてつもなく好きだった。
雨の匂いを体中に浴び、しっとりと体に服がひっつく感覚が好きだったのだ。
だから私は、雨が降るとどんな格好の時にも外に出て、葉っぱや大地が浴びるのと同じように、雨に打たれていた。
家に帰ると、母に必ずと言っていいほど叱られたが、いつも私はなぜ怒られているのかがわからなかった。おかあさんも雨に濡れればいいのに、とさえ思っていた。
ある日、いつものように雨に打たれていると、傘もささずに、紫陽花を持ちながらこちらを見ているおばあさんがいた。
おばあさんも、雨に随分と打たれているらしく、服は水を吸っているのがわかるくらいに色が変わり、水でひっついた服がそのおばあさんのやせ細った体の線をいやにくっきりとあらわしていた。
よく見てみると、おばあさんはもごもごと口を動かしており、何かを噛み砕いているみたいだった。
その時はあまり気にしていなかったが、次の日も、また次の日も、おばあさんは何かを口にしながらこちらを見ていた。
顔は決まって笑顔で、手にはいつも同じ綺麗な空色の紫陽花を手に持っている。そして、私のことをしっかりと目で捉えていた。
私は若干不気味に思ったが、この気持ちのよい雨にぬれる人なのだからきっといいひとなんだろうと信じて疑わなかった。
しかし、その日のおばあさんはいつもと違っていた。
「このあじさいをたべてごらん」
いきなり、枯れた声が雨に打たれてる私の目の前で響いた。
あまりのことに、私はその声がした方向をみた。
すると、あのおばあさんが立っていた。
「このあじさいをたべてごらん」
おばあさんはまた、まるでひとりごとみたいな軽さで、しかししっかりと、私に向かって言っていることがわかるように言った。
さっきまでむこっかわにいたおばあさんが、今私の目の前にいる。
私は目がビー玉のようにまん丸になってしまうくらいに驚いてしまった。そしてあんまりにもいきなりのことだったので、この状況を、自分の中にきちんと受け止めることができなかった。
「さあ、たべてごらん。きっとあまくておいしいよ」
おばあさんは、さっきと同じ調子で私にいった。
私は知っていた。紫陽花には毒があることを。
だから、彼女の誘いには乗れなかった。
「おばあさん、紫陽花には毒があるわ。だから私は食べられないの。ごめんなさい」
私がおずおずとそう言うと、おばあさんは雨に濡れたあのしわくちゃな笑顔で、
「だいじょうぶ。あじさいにどくなんてないわ。とてもあまくておいしいのよ」
と、言った。
「あじさいはね、かみさまのドロップスなのよ」
「神様のドロップス?」
「そう。かみさまがあいしてやまないドロップスなの。あんまりにおいしいから、てんしにつまみぐいされないように、はなにしてかくしたの」
「そうなのだったらなおさら駄目よ。神様に怒られちゃう」
「それならしんぱいしないで。わたしがかみさまにおねがいしてあるの。すこしだけ、あなたさまのドロップスをいただきます。って」
「神様はそれをゆるしたの?」
そう聞くと、おばあさんは黙ってしまった。
不気味に、雨の音がひびいていた。
しばらくすると、少しだけ不安そうな顔で、けれど動揺を隠しているような声で
「さ、たべましょうよ。かみさまのドロップス。ふたりでたべればだいじょうぶよ」
と言い、私の手のひらに紫陽花の蕾をたくさんもたせようとした。
彼女の手が氷みたいに冷たかったこともあり、私は驚いてしまい蕾をほとんど落としてしまった。
蕾は水たまりの中を漂っていて、私はある種の恐怖を直感的であったが感じていた。
「びっくりさせちゃった?ごめんね」
「ううん、私こそごめんなさい。こんなに沢山落としちゃって」
「いいのよ、まだてのなかにのこってるんだから。
さっ、たべましょうよ」
「私、なんだか怖くなってきた」
「なんでそんなにこわいの?」
「何でか分かんない。なんか怖くて仕方が無いの」
そういうと、おばあさんは
「それじゃあ、いち、にの、さんでいっしょにたべよっか」
という提案をした。
「うん。それならいいよ」
私は、ぼうっとした頭のなかで答えた。
今思うと、私はおかしくなっていたのかもしれない。
「それじゃあいくよ」
「うん」
「いち」
雨の中にぽつりと、おばあさんの細い声が響いた。
「にの」
手のひらのあじさいが湿っているのがかろうじて分かった。
「さん」
その声は途中で切れ、おばあさんはその瞬間夢中になって神様のドロップスを食べていた。
口の中に入らなかったものはぼろぼろとこぼれ、びちょびちょになった地面におちていく。その時のそれは、まるで神様が食べるものには見えない位におぞましいものに見えた。
おばあさんは「ああ、おいし、おいし、ああ」と言うだけで、私のことを忘れているようだった。
ここにわたしがいたらだめだ。
私はとても怖くなり、手に残ってた蕾をおばあさんの方へと投げ捨て、反対を向いて逃げ出した。
私は、寄り道もせずにそのまま走って帰り、自分の部屋に一目散に逃げた。
どこもかしこもづぐづぐに濡れたままだったが、それよりもあのおばあさんのことが忘れられなかったので、寒さなどは全く感じなかった。
ふと手のひらを見てみると、少しだけ、紫陽花のあのそらいろが残っていた。
それから数日、かんかん照りの太陽が見える日が続き、梅雨明け宣言が発表された。
蒸し暑い熱気が身体中を覆う梅雨の足跡がなんだかとてもいやでしかたなかった。
梅雨のはじめになると、いつもこのことを思い出す。そして、外から出たくなくなってしまう。
どこかでまたあのおばあさんが立っているのではないか。そしてまた、私にあの「神様のドロップス」をすすめるのではないかと、思ってしまうのだ。
神様のドロップス