ダークエンペスト
『ダークエンペスト』という題名のエンペストは造語です。テンペストの間違いではございません。
女王、女帝という意味でとらえて貰えると助かります。
序章
彼女には一人の愛した男性がいました。
彼は彼女の秘密をすべて知りながら、彼女を愛していました。
幸せでした。
いつまでもこんな日々が続けば良いと。
彼さえいればそれでいいと、彼女は思っていました。
彼は首都に住んでいて、彼女は魔族の島に住んでいました。
仕事が休みの日に、彼は必ず船を使って彼女に会いに来てくれました。
彼女は魔族と戯れて、彼が来る日をいつもいつも心待ちにしていました。
ある日のことです。
彼女は彼がもう何年も会いに来てくれていないことに気づきました。
どうしたのでしょう。
何かあったのかしら。
彼女は心配になりました。
とてもとても心配になりました。
しばらく経ってもやはり彼が会いに来てくれることはありませんでした。
とうとう彼女は一頭の赤い竜を連れて、首都に向かいました。
首都に着くと、竜を静かに海岸に着陸させました。
真っ先に彼の元へ向かいます。
家がどこあたりにあるのか、それを前に聞いたことがあると思い出したのです。
黒い髪を乱しながら、彼女はやっと彼の家に辿り着きました。
扉をノックすると、そこには哀しい瞳をした女性が現れました。
一瞬ビクリとした彼女は彼がいるかと尋ねました。
女性は首を振ります。
「彼は死にました。仕事の途中で戦争に巻き込まれたんです」
この女性は彼の妹でした。
女性の言葉に彼女は目の前が真っ暗になりました。
死んだ? 彼が?
いつから? いつから死んでしまっていたの。
彼女は嘆き、やがて恨みました。
自分から彼を奪ったこの世界を。
こうして、彼女は世界を滅ぼしたのです。
***
「よりによってここの当番になるなんてついてないですね、俺もあんたも」
背の低い男が、人一人通れる幅の白く長い階段を先頭を切って上りながらそうぼやいた。空は晴れ渡っていて、少し古ぼけたこの白い階段も輝いて見える。
「だいたいどうしてこんな城の一角に」
やれやれと首を振り、男は後ろへと振り向く。
「これを上るこっちの身にもなって欲しいですよね」
「仕方ないさ。あの人が生きているうちは」
背の低い男の数歩後ろをついて上っていたもう一人の背の高い男が空を見上げながら答える。ゆるやかな涼しい風が吹き、男の髪が揺れる。
「俺、あの人の時代はもう終わりだと思うんですけどね。あんな「どんな犠牲も出したくない」なんて甘い考えじゃ、この国は時期に荒れますよ」
「――……だが今はまだ、さ」
階段を上り終えると、四人程度が居座るのが限界であろうと思われるそう広くはないスペースに出る。
そのスペースの右隣に、大きくそびえ立つ塔があった。その塔もまた白く、首を痛めそうになるくらいに高い。それを背の低い男は眺めながら、呆れたように呟く。
「この塔の唯一の入り口の小窓はさ、城のあそこの部屋……つまりは先輩の言うところのあの人の部屋から割と近いと思うんですよね。だからと言って声が届く距離ではないし、せいぜいお互いの顔を見せ合うぐらいが限界だとは思いますけど」
相槌を打たずに、背の高い男もまた高い塔を見上げた。
「あの人はどうしてそこまで赤の他人に肩入れするんでしょうね。国民からの苦情も凄いだろうに」
「さぁな。……案外、赤の他人じゃないのかもな」
「ははは! またまたぁ。あの人の、女王の孫は二人だけじゃないですか。先輩が知らないわけないでしょう」
背の低い男は腹を抱えて笑い、背の高い男は表情一つ崩さずに「有名な話だからな」とだけ。
「だいたいあの呪われた娘が女王の孫、つまり次期女王かもしれないだなんて身震いしますよ」
笑いながら言う彼に、背の高い男は何かを言おうとして、軽く肩を下す。
「話はここまでだ。仕事を済ますぞ」
「へーい」
背の低い男は面倒くさそうに返事をして、塔の上から垂れている鎖を掴むと、それのフックに小さな籠を取り付けた。そして鎖を再び掴むと軽く下に二、三回引っ張る。すると鎖がジャラジャラと音を立てて上へと消えていく。
「はぁ……こんなこと続けなきゃいけないのか」
「我慢しろ。この距離ではあの娘を俺たちが見ることはできない。もちろん、あちらからもこちらは見えない」
「それはそうですけど、目を合わせなきゃいいお化けとか怪物とは違うんですから。近くにいるだけで何かあったらどうするんです」
両肩を押さえて大げさに怖がる背の低い男は、ぶるぶると体を震わせて見せた。
「そんな事例は今までにはないな。さて、そろそろ下りるぞ。長居が無用なのは事実だ」
「相変わらずクールだなぁ先輩は」
騒がしい声が言い、背の低い男はそそくさと先に行ってしまった背の高い男を追う。次期に二人の姿は見えなくなっていった。
***
「シスフィーナお祖母様!」
綺麗に整えられた、しかしどこか殺風景とした自室にいたシスフィーナは、自分をお祖母様と呼ぶ可愛らしい声の少女に振り返った。
「まぁスーナ。お帰りなさい」
小柄で十代前半ほどと思われるスーナは、身軽にシスフィーナに飛びつくように抱きついた。
「ただいま戻りましたわ」
にこりと笑い、スーナはすくっと立ち上がる。シスフィーナは少しばかり顔を上げ、立ち上がったスーナを見つめた。
「とうとう今日はお城のパーティですわね! わたくし、それが楽しみで早くに帰って来てしまいましたわ」
笑顔のスーナに、シスフィーナは目を細め、視線を床に落とした。
「あの子も参加させてあげられたら……」
シスフィーナのその一言に、氷ついたような瞳になるとスーナはぴたりと動きを止めた。
「あんな子、どうでもいいじゃありませんの。存在していないようなものですわ」
「スーナ」
叱るような声色になるシスフィーナに、スーナは素早く背を向ける。
「いつもそうですわ……お祖母様はいつもあの子のことばかり」
「そんなことは」
「あります! いつもいつもいつもあの子のことばかり! わたくしのことなんて気にかけてもくれない」
スーナの声が震えていることに気づき、シスフィーナはすっと立ち上がると、スーナの肩に手を下す。
「……パーティが夕方には始まるわ。準備をしてらっしゃい」
「……はい」
少し不満そうに、だがシスフィーナがそう言ってくれた事を嬉しそうに思いながらスーナは扉が閉まる音と共に部屋を去った。
スーナの姿が消え、一人だけの空間に戻るとシスフィーナは哀しそうな瞳をし、一人の少女の顔を思い浮かべる。
「不甲斐ない女王でごめんなさいね……アルス」
Ⅰ:女王の死
女王シスフィーナが収める国、フレール国。代々女王が治めて来たこの国はここ百年近く戦争はなく、それをする意思を見せない国であった。国民は歓び、歓声を上げた。国がこのように変わってきたのも今の女王、シスフィーナの前々代からだ。その意思を引き継ぎ、彼女は今もこの国の王の座に君臨している。
しかし、それを良しとしない者たちがいないわけでも、少ないわけでもなかった。女王万歳! と謳うのは決まって地位のある物たちに限り、彼らの餌にされている下級の者たちの不安、不満は絶えなかった。
数十年前まではまさに平和であった。だが、ある異変が起きてからはそうもいかなくなっていた。その異変というのは、時代による政治的な国への打撃だ。経済がうまくいかなくなり、贅沢ができなくなると恐れた階級上者の人々は自分たちが良い思いをする為に物価をあげるなどの好き勝手を始めたのだ。地位を持っている人間全員を敵に回すことのできない女王は地位の低い者たちへの施しをしなかった。――と俺は思っている訳だが。
そして現在。女王が住むご立派な城では実に華やかなパーティが行われていた。男女共に綺麗な服装で身を包み、テーブルにのっている豪華な食事を食べながら、談笑をしている。
そんな様子を、影でひっそりと見ている少年がいた。肩に少しかかるくらいのクリーム色のくせっ毛をしていて、このパーティにとても似つかわしいとは言えない、少しぼろけた赤い服を着ていた。
――何も知らねえくせにな。
笑顔を絶やさずパーティを満喫している人々に軽蔑の目を向けながら、少年は彼らに見つからないように暗闇を進んだ。これ以上このパーティ会場にいては自分がおかしくなってしまいそうな気がした。自分が知っている世界とはまるで別物で、違う国に来てしまったかのような錯覚さえ覚えるほど、美しく飾られた会場と人々。これを楽園と呼んでもいいかもしれないと、そんなふうにさえ思った。
故に、少年にはこの光景が憎くて憎くて仕方がなかった。胸糞が悪くなり、歯ぎしりをする。
――でも、それも今日で――……。
思い、少年は突き進む。この国の女王である、シスフィーナの元へ。
「お祖母様、見て頂戴! 素敵でしょう?」
「ええ。とっても似合ってるわよ、スーナ」
赤いドレス身を包んだスーナは、自身の燃えるように赤い髪の毛を上の方で二つに縛っていた。鮮やかな赤に包まれたスーナだったが、その中で一際目立つのが彼女の首からかけられているネックレスだ。
「お祖母様からいただいたこれもつけて見ましたの」
「気に入って貰えたかしら」
「もちろんですわ!」
スーナは満面の笑みを見せ、その場でくるくると回ってみせる。軽やかにスカートがふわりと浮かび上がる。そこから一瞬見える足首から下。彼女の履いている靴もまた宝石があちこちに散りばめられた立派なものだった。
「このペンダント、本当に貰ってもいいのですか?」
「ええ。私からの、プレゼントよ」
スーナはそれを聞くと「大好きお祖母様!」と叫んで彼女に置き切り飛びつくように抱きついた。
「お祖母様はパーティには出席なさらないの?」
ふと夕日が沈む空を窓から眺めながらスーナが尋ねると、シスフィーナは静かに目を閉じた。
「私は、もう年老いているからね。貴女が楽しんでくれれば私も楽しいわ」
穏やかに微笑むシスフィーナ。優しい瞳と、その言葉にスーナはすっと瞳を落とした。
「わたくしは、御祖母様と行きたかったわ」
「貴方も年頃。こんな老いぼれとではなく、お相手の方と楽しんできなさいな」
ふふ、と笑うとシスフィーナはスーナを優しく抱きしめた。シスフィーナの体温を感じ、スーナは小さく微笑む。
「だから、もうお行き」
「……判りましたわ、お祖母様」
スーナがゆっくりと腕を引くと、シスフィーナは少し申し訳なさそうな顔をしたあと、もう一度笑顔を作った。スーナはそれを見て同じように微笑むと立ち上がり、彼女に背を向けて部屋の扉へと進む。そこで一度振り向くと、
「帰ってきたらたくさん話をしますわ。必ず聞いて頂戴ね、お祖母様!」と言い残して部屋を去って行った。
スーナが立ち去ると部屋は静寂に包まれる。移動するにも一苦労になりつつシスフィーナにとって、一人でしんとした部屋にいるときスーナが来て笑顔を見せてくれることがこの城にいて唯一の幸せでもあった。
「……いるのは分かっているのですよ。でてきたらどうですか」
返事はなかった。代わりに、シスフィーナが座るイスの後のカーテンに隠れた場所からコツコツと靴音が聞こえた。シスフィーナは動揺することも焦る事もなく、堂々とイスに座っている。目を閉じてどこまでも落ち着いていた。
「貴方のような人は多くないわ。町中で暴れる者もいるけれど、そうじゃない者もいる」
悟ったように話すシスフィーナの様子は、まるで独り言のようだ。
「けれど、私を殺せば全てが終わるようなものでもないのですよ。……貴方だって、分かるのでしょう」
すっと目を開くと、女王は厳しい声で言う。
「ねぇ? ――スチュワード」
名前を呼ばれ出てきたのは二十代後半と思われる青年だった。スーナのような赤い髪を持ち、その長い髪を後ろで一つに縛っていた。彼は鋭い紫の瞳を女王に向ける。
「どうして、分かったのです」
「貴方が私を嫌っていたことは知っていました。でも貴方にとってスーナは大事な妹ですからね」
シスフィーナの言葉に、スチュワードは呆れたように声を出して笑う。
「ええ、私は貴女を殺しに来ました。貴女のやり方はもう古いのですよ。塔のあいつにしてもそうだ。国民は怖がっている。何故早く殺さないのかと」
「あの子を殺させなどしません」
スーナにはあれほど優しげな瞳を向けていたシスフィーナが、スチュワードを同じ瞳で睨む。するとスチュワードは腹を抱えるように下卑た声で笑い出す。
「ふはははは! 貴女が死ねば、彼女の味方などいない!」
「そうでしょうか。……私は信じているのですよ。あの子をあんな檻から救いだしてくれる人物が現れると」
スチュワードはその言葉すらも笑い飛ばす。
「貴女を殺したあかつきには彼女を見せしめに処刑にでもして差し上げましょう」
「スチュワード……」
シスフィーナはスチュワードを憐れむように、惜しむように見つめる。
「文句の手紙は行きかっているのですよ? だいたい、貴女はあの小娘を守るほうにばかり力を注ぎ、民への関心が抜け落ちている。なら、そんな災いのもとは消し去ってしまえばいい話でしかない。餓えた者たちに関してもだ。何故国から追い出さない? この国を楽園と呼ぶにはまだ遠い」
「飢えた者を追い出して、そうでない者だけが残れる世界が、楽園だとでも言うのですか? 確かに私が不甲斐無いばかりに飢えた人々は消えない。それが私の罪なのは認めましょう。でも、追い出せばいいというものではないわ」
変わりそうにないシスフィーナの意思に、スチュワードはため息をつく。
「貴女と話していてもなんの解決にもならない。飢えた人々は盗みを行う。そうしてこの国の秩序は乱されるのです。悪しき人間によって!」
「……貴方は何も分かってなどいないわ。悪とは、そんなものの事を言うのですか?」
スチュワードがシスフィーナの問いに答えることはなく、彼女との間合いを気にするかのように周囲をゆっくりと歩いた。彼女に長いこと話していた感覚はなかったが、外はすっかり暗くなっていて、気が付けばパーティの騒がしい談笑や音楽が窓から聞こえてきていた。
「楽しそうな音でしょう。どうですか? 最後に聴く世界の音は」
シスフィーナは返さず、スチュワードを見つめたまま顔をそらなかった。
「最後に言いたいことはありますか? せめて苦しまないように殺して差し上げましょう。それが貴女の結末だ」
不敵に笑い、スチュワードは自分が来ている上着の内ポケットに手を伸ばす。シスフィーナは叫び誰かを呼ぼうとするでもなく、落ち着いた様子で彼の様子を見守るように見つめていた。
やがてシスフィーナに向けられたそれは、先端を怪しく光らせた。
「さらなら、女王」
スチュワードは足先に力を入れ、シスフィーナの体めがけてそれを突き上げた。もはやスチュワードのような若い男の速度に追いつけるはずもないシスフィーナは静かに目を閉じ、一人の少女の顔を思い浮かべていた。
部屋のなかが静まり返った。そこにはシスフィーナの死体があり、不気味に笑うスチュワードの姿がある――はずだった。
「おい、てめぇ」
さっきまで存在しなかったはずの声があった。
「自分の家族殺そうとするってのはどういう了見だ、ああ?」
スチュワードの目の前には、彼を睨みつけた少年がいた。その少年はシスフィーナを優しく抱えている。
「お前は、誰だ。どうやってここに入った」
スチュワードはシスフィーナの体をかすりもしていない刃をちらりと見ると、少年へと視線を向けた。少年の身なりはお世辞にも綺麗とは言えず、髪も乱れている。パーティに正式に呼ばれて来た人物でないことは一目瞭然だった。
「お前と同じ方法、とでも言えばいいか?」
不敵に笑顔を作る少年。下から彼の顔を見上げていたシスフィーナは驚きを隠せなかった。
「貴方は……」
そんなシスフィーナをしずかに下ろし、少年は立ち上がりスチュワードに向かい合う。
「で? 俺はあんたを見たことあるぜ? 王族の、長男のスチュワード王子。だろ?」
スチュワードは答えず、歯軋りをした。あと一歩で女王を亡き者にすることができたというのに。とんだ邪魔がはいったものだ。
「……ふん、そうだとして、どうするんだ? 少年。俺が誰だか分かっているのなら分かるだろう。この状況のお前にとっての不備を。俺が侵入者だと叫べば、女王を殺そうとしたのはお前になる」
「脳内が腐ってるんじゃないのか、お前」
よくそんな考えが浮かぶなと軽蔑した目つきをスチュワードに向けると少年は言う。
「仮にお前の声で城の奴らが来たとして。この婆さんが嘘をつくとは思えないぜ?」
「ああ。だろうな……だから」
そうしてスチュワードがナイフを握り直す仕草に少年はいち早く気づいた。ナイフの先とスチュワードの瞳が怪しく光る。
そして少年がためらいもなくシスフィーナを庇おうとしたときだ。
「いいのですよ」
そう小さく、彼女が囁いたのは。
その言葉に少年は一瞬動きを止めてしまった。意識が一瞬現実を離れたような感覚に陥ったのだ。
やがて、気づいた時には。
「ふは、はははははは!!」
スチュワードの甲高い声に、現実に引き戻されたようだった。目を見開いて、言葉も出てこない。
シスフィーナは赤い血を流し、床に崩れ落ち、転がった。
「婆さん!!」
女王を婆さん呼ばわりする者を咎める者も、注意をする者もそこにはいなかった。少年は急いで彼女に駆け寄る。呼吸はない状態に等しかった。
「あ……な、たの」
「あ!? 喋るな!」
彼女を心配する少年と。彼女を躊躇なく刺した血のつながった青年。家族という言葉が、儚く消えていく。
「貴方の……名前は……」
「名前!? んなもん今はどうだって――」
少年が言いかけ、彼はシスフィーナの願うような瞳を目にした。
「……クロースだ」
それを聞くとシスフィーナは虚ろな目でクロースに微笑むと、ドレスのポケットからとある首飾りを取り出した。
スチュワードに見えないように、そっと彼の服のポケットに入れる。
「クロース、これを持って……塔にいる……あの子に」
咳しながら、シスフィーナはやっとの事で言葉を紡ぐ。
「喋るんじゃねぇって!」
「アルスに、届けて……。守って、あげて」
アルス。
そう囁かれた名前。
クロースは自分の腕のなかで女王が動かなくなったのを感じた。アルス。優しく呼んだその名前を、シスフィーナは二度と呼ぶことはなくなった。
「くくくく。さぁ、どうする少年? これで、お前が犯人だ」
クロースはスチュワードに顔を向けたが、直ぐにそらして立ち上がると同時に、窓へと飛び込んだ。
「! ここは城の最上階だぞ、愚かな!」
スチュワードはそんなクロースの行動を捕まることを恐れて自殺をしようとしたものだと、そんなところだろうとしか思えていなかった。
部屋から完全にクロースの姿が消えると、スチュワードは怪しく微笑んだ。
「一人の少年が女王を殺し逃亡。私が駆けつけたときには遅かった」
部屋に、不気味な笑い声が木霊する。
――塔。
この城はシスフィーナの自室があった建物を中心に、囲むように六つの塔が並んでいる。
だが、それとは別に城壁の外に高い高い塔が立っていた。おそらくシスフィーナが言った「塔」とはそこだろうとクロースは予想した。
だが他の塔とは違い、その塔は見る限り入り口などなかった。唯一入口と呼べるものがあるのは、塔の頭部にある小さな窓だけだ。
クロースは窓から飛び降りたと同時に、フックの付いた長いロープを駆使し、壁にぶら下がっていた。とりあえずはこの状態をどうにかしなければ。
クロースは腰のベルトにかけていたフック付きの長いロープを起用に外し、六つの塔の一つへと引っ掛けた。
ギギと音を立ててロープは見事に定着する。幸い夜だ。クロースのことを見かける人間などいないだろう。
クロースは反動をつけて飛ぶと、その塔の窓に見事に着地し、その塔から何十メートルと離れたシスフィーナが指した塔へと視線を移す。
――あそこに行くにはどうすればいい。
さすがに今のようにロープを引っ掛けていくには距離が長すぎた。仕方なくクロースは窓から中に侵入した。
そろそろスチュワードが家臣などに女王の死を目撃させていることだろう。そしてそれを一人の少年の所為にしていることだろう。追われる身になるのも時間の問題だ。
このまま塔を下りて城壁から塔に登る方法を探すべきだろうか。城壁からあの塔に向かえる道があるかもしれない。
クロースは現在いる塔を一心に駆け下り、外に出ると誰もいないことを確認して暗い路地を通り、<あの塔>が近くにある城壁へと向かった。
案の定。目的地に無事到着すると、城壁の一角に石でできた重そうな扉があった。しかし、見た目とは違いその扉はあっさりと開いた。待っていたのは前と進む階段だった。
段差が数センチほどしかない。まるで坂だ。先へ進むと、そこには上から垂れ下がる縄があった。
――これを登れば。
迷うことなくクロースは縄を掴み、塔の壁に足をつけて登りだす。縄がギシギシとなるのが分かる。
先はまだ遠い。やがて地面から何十メートルも離れた。
そのときだ。警備の格好をした男たちが数人目に映った。探しているのは自分なのだと考えるまでもなかった。
クロースは進む手足を急がせる。早くこの首飾りをこの塔にいる人物に届け逃げなければ。
――アルスに、届けて・・・・・・。守って、あげて。
アルス。そうその名を呼んだ時の彼女は優しい瞳をしていた。これから自分が死ぬというのに。
守って、あげて。そういった彼女の声がまだ耳に残っていた。
「…………」
こんな塔に閉じ込められているのだ。囚人か何かなのだろうか? そんな人間を女王が大切にするのか?
この塔の存在は昔から知っていた。どの塔よりも高く、唯一城壁の外にある塔。だが何のためにあるものなのかは分からなかった。地位のある人間たちが、よく忌々しそうにこの塔のことを見ていたことだけは知っている。
――全く。俺はここに何をしに来たんだって感じじゃねぇか。
呆れるように笑って縄をさらによじ登る。やがてクロースは無事に警備の男たちに見つかることもなく塔の窓まで辿りついた。窓は開いていた。そのまま勢いに任せ彼は窓へと突っ込んだ。
そして――。
そこに待っていたのは、一人の少女だった。クロースに気づくと、少女は倒れるように床に密着していた体を起こした。
半分から下がウェーブした桃色の長い髪は、窓から差し込む月の光で輝いているようだった。
「誰……? どうやってここに」
「そんなことは後だ」
クロースは少女の当然といえる質問を無視してごそごそとポケットをあさり始めた。
「!」
少女は目の前の少年から差し出された首飾りを見て目を見開いた。
「どうして貴方がこれを? どういうこと。御祖母様は!?」
クロースは自分が見たすべてのことを少女に話始めた。自分がこの城に侵入した理由を除いて。
少女はクロースの話す事実に目を丸くしながらも、彼のいうことを疑おうとはしなかった。
「……そう。御祖母様は、死んだのね」
落ち込んではいるようだが、涙は流さなかった。クロースはこいつもそうなのかと彼女から視線をそらし、再び彼女に顔を向けたときだ。
ぎょっとした。
月明かりでよく輝いて見えた。少女の頬に大量の透明な涙が流れ出ていた。不覚にも美しい。まるで絵画の中の女神が涙を流しているかのようだった。
普通ならばこうなのだ。孫が祖母を殺すなんていう場面に遭遇してしまったからだろうか。本来は、こうあるべきなのだ。
こんなところに閉じ込められるということはそうとうに異常な人物なのかと思った。
けれど違った。
寧ろ異常なのはスチュワードのほうだ。心の中でクロースは思った。怒りも悲しみも入り混じった。そんな感情が湧きあがってくる。
シスフィーナの瞳を思い出す。まるで自分も本当の孫かのように優しい眼差しを向けてくれた。
――守って、あげて。
「貴方には損な役回りをさせてしまったわね……。ごめんなさい」
涙を拭いて謝る彼女をクロースは見つめた。
「もう、きっと警備が厳重になっているかもしれないわ」
その通りだ。運よくここまでたどり着けたが、これからはどこにいても狙われることになる。
「安心して」
そう言うと少女は立ち上がり、右手の親指と人差し指で輪を作ると、笛を吹くかのように鳴らした。草笛のような音が夜の空に広がっては消えていく。
いったいなんの儀式かとクロースが表情は変えず心の中で首を傾げていると、少女は微笑んだ。
「逃げて」
すると、バサッと強い風が吹いた。自分と彼女の髪が大きく揺れる。窓に振り返ると、硬い鱗と牙を持ち、大きな翼を広げた竜と呼ばれる存在があった。
「な」
どういうことかと叫びたい気持ちでいっぱいだったが、驚きでそれしか声が出ない。
「彼に頼んでおくから、逃げて」
この少女は何者なのだ。こんな塔に閉じ込められていることに関係しているのだろうか。
「お前はいったい……」
「わたしは……」
クロースは考える。竜はこの世界では最も珍しい。そして人を嫌うとされている。命令に従うなどもってのほかだ。
それに竜は魔物、もしくは魔族と呼ばれている。古くから悪しきものとされ、人々に下げずまれてきた。
そして、そんなものを覆す少女がここにいる。こんな風に竜を手なずけ、呼べるのならばとうの昔に逃げていたのではないだろうか?
ならば、それをしなかった理由はおそらく。
「もう、シスフィーナはいないんだぜ」
「――……」
クロースは少女に手を伸ばす。そうしなければいけないと、そう感じたのだ。
そして。伸ばされた手を、彼女は掴んだ。
二人を乗せた竜は空を切るように羽ばたく。
「見つかるのも時間の問題」
少女は冷静に呟く。言ったとおりだった。
近くで「何か空にいるぞ!!」という声が聞こえた。だがそれを見つけたところで警備の男たちにできることなどないのも事実。
少女は先ほどクロースから受け取った首飾りを失くさないようにと首へつけた。
「これはね、王族の印。そして、御祖母様の形見」
「――それって次の女王ってことじゃ」
少女は首を振った。
「わたしよりも、女王に適任な子はいるから。これはきっとただの形見として」
竜は彼らの会話を区切るように翼をバサリと鳴らした。やがて思い出したように少女は言った。
「あ。貴方の名前は?」
「ん? ああ、クロースだ」
少女は微笑んだ。
「わたしはアルスよ」
Ⅱ:呪われた少女
夜の冷たい風が頬を思ったよりも優しく叩いた。空に浮かぶ星々が瞬いているのがよく見える。
クロースは竜の背中の上から落ちないようにバランスを取りながらもそれらを見つめていた。すると竜を従えることができる謎の少女アルスは突然思い出したように叫んだ。
「あ。貴方って魔族が嫌いだったりした!?」
「あ? いや。俺は魔族とか人間とか気にしてねぇけど」
クロースの言葉を聞くとアルスは安堵し、胸を撫で下ろす。
「そうよね。魔族嫌いの人間を彼が乗せるわけないものね」
アルスが優しく鱗を撫でると目下の竜は嬉しそうに鳴いた。
「お前、よく竜を手懐けたな」
「この子はペットではないわよ。ただの友達」
友達。あの行き場のない塔の中で、友達と呼べるのはこの竜ぐらいだったのだろか。
風を切って飛ぶ竜の上から下を見ると、既に大陸を通過し、そこから見える景色は海へと変わっていた。
国は跡形もなく消え去り、警備部隊が追ってくることもできないだろう。
「少し寒ぃけど気持ちいな、風」
「そうね」
アルスは目の前に広がる水平線を眺めながら呟いた。
「けど、これからどうしましょう。貴方も勝手に連れてきてしまって」
「気にしなくてもいい。どうせ、俺も行く場所なんてなかったしな」
その言葉にアルスはクロースに向き直る。
「行く場所がない? 貴方の家は」
「ねぇよ。俺は親もとうの昔に亡くしてる」
アルスはそれを聞くとおろおろし、数秒黙るとか細くごめんなさいと謝罪した。クロースは困ったように後頭部をぽりぽりと掻く。
「あのな。いちいち謝んなっつの」
「で、でも」
気にしてねーよ、とクロースは海を見ながら微笑んだ。
「で? そういうお前も家はないだろ」
「ええ。……今彼は魔族の島に向かっているわ」
魔族の島とは名の通り魔族が巣くう島のことである。アルスとクロースがいたフレール国から丁度海を挟んだ数千キロメートルも先にある。
それにしても竜のスピードは速かった。この距離をたったの二時間ほどでここまで来た。
竜の鱗は鉄のように硬く、しっかりと掴んでいれば落ちることもない。
「魔族の島、ね。そんなところがあったのか」
「知らなかった?」
人間は魔族を嫌う。そのため魔族に関する知識は行き渡らないようにしていたのかもしれない。
ただ「悪しきもの」とだけが国中、もしくは世界中の人間に行き渡った。それがいつから始まった認識なのかは検討もつかない。
「皮肉なもんだな。俺は人間なんかよりも、魔族のほうがよっぽど理解できる気がする」
「ふふ」
アルスは笑った。
その瞳はどこかシスフィーナに似ていた。
「わたしもずっと塔の中に閉じ込められて、わたしを分かってくれるのは人間よりも魔族だわ、なんて思っていた。一人を、覗いては――」
その一人とは、聞くまでもない。
「悪いな」
「え?」
彼女を、救えなくて。といおうとして、クロースは言葉をのんだ。アルスはなんとなく分かったのか薄く微笑んだ。
それは月明かりのごとく。
「謝らなくていいのよ。貴方の所為ではないもの」
アルスが微笑むと、自然にクロースも微笑んでいた。
雲が出てきた。肌を透き通るように雲が流れていく。
「着いたわ」
彼女の一言が合図だったかのように雲が晴れ、地上に巨大な島が見えた。その存在感に思わず息をのむ。
火山が真っ先に目に入る。それはまるでフレール国の城のようにどうどうと中心にあった。
「魔族――か」
島を恐ろしいと思うことはなかった。自分の元いた場所と変わるとすれば、それが国ではないことと、人間が住んでいないということだけだ。
竜が静かに地面に着地するとアルスはありがとうとお礼を言っておりる。クロースもそれに続く。
降り立った地に広がっているのは壮大な自然だった。森が三分の二を占めていて、上空から見上げたときに分かったことだが、大きな泉や火山も存在した。
「人がここに来ることはないから、おそらくわたしも貴方もここにいれば安全」
「みたいだな」
いくらあのスチュワードでも魔族の島まで攻めてくることはないだろう。取りあえずは安心することができた。
「そういえば、お前はシスフィーナ女王の……なんだったんだ? 家族であるなら、どうしてお前だけがあんなところに幽閉されてたんだ」
「……そうね。貴方にはすべてを話さないといけないわね」
そしてアルスは話し出した。どうして自分があんな塔に閉じ込められていたのか。シスフィーナとは具体的にどういった関係なのか。
「わたしは、シスフィーナの孫。しっかり血も繋がってるわ。スチュワードと同じように。でも、違うのは母親。だからスチュワードと彼の妹スーナにはわたしはただでさえ好かれていなかった。わたしが五歳ぐらいの時だったか、ソニアに迷い込んだ魔族を城に連れ込んだことがあったの。それが見つかってそれ以来わたしは「呪われた子」と呼ばれ始め、国民が怖がり始めた。そうしてされた処置が、あの塔へと閉じ込めること」
アルスは竜から離れて一歩二歩と歩き出して近くになった横長の巨大な石に座った。クロースも彼女に続き、隣に座った。
「御祖母様がいたから、わたしは生きていられた。あの人がいなかったらわたしは国民達に殺されていたわね」
「…………」
アルスの話には穴がある。それは母親だ。あの塔に閉じ込められたにしても、母親ならばなんとか助けだろうとするのではないのだろうか?
あの縄を登れとはいわない。が、それでも何かをしたのではないだろうか? アルスも母親がいるから残る、という仕草を見せることもなかった。
それはおそらく助けられる状態でも、迎えにいける状態でもないということ。
「御祖母様が死んだって聞いて、もう何一つ変わらないんだって思ったの。わたしはあそこで殺されて、それでお仕舞いなんだわ、って」
アルスは夜の空に桃色の髪を靡かせた。それがまるで夜に舞う花弁のように美しかった。
「貴方が来てくれて、わたしは生きられた」
「んな大げさだな。だいたいお前は俺が城に忍び込んだ理由に触れないな。なんとなく分かってるんじゃねぇのか?」
クロースが城に忍び込んだ理由。それは今となってはなんの意味ももたないものだった。シスフィーナの死を目撃してしまった少年からすれば。
アルスは小さく微笑み、優しい声で呟くようにクロースに言った。
「でも、貴方は御祖母様を助けてくれたわ」
「……助けては、ない」
助けられなかった。時々見せるアルスの哀しそうな表情。それを見るたびに罪悪感が蘇る。
「さっきも言ったわ。貴方の所為ではないのだから気にしないで。でも――」
アルスはニッコリと笑った。
「わたしのことは気にしてくれると嬉しいわ」
アルスの笑顔にクロースは薄く口元を緩ませた。それらを見守るように一頭の竜はうたた寝をたてていた。大きな羽を折りたたみ、長い尻尾は丸めている。
「ふぁ」
口を右手で押さえながらあくびをするアルスを見て、クロースはそろそろ寝るか? と声をかける。
アルスは頷いてとことこ竜の傍まで歩み寄るとそこにすとんと座り込んだ。まさかとクロースは少々驚いた。
そのまさかだ。
アルスは竜の鱗に寄り添うとあっという間に寝息をたて始めた。自分はどうするべきなのかと考えた末に、クロースはその場の石に寄りかかるようにして眠った。
翌朝。朝の日差しが目に沁みてクロースは目を覚ました。見慣れない風景、自然そのものに、昨日何があったのかをすべて思い出す。
改めて考えてみると、自分はとんでもない別世界に来てしまったのではないかとクロースは思った。だが特に抵抗はなかった。どうせ自分の行く場所などなかったのだから。
偶然にも、独りだったのは自分だけではないと知る。自分と一緒にここへやって来たもう一人。行き場を失った少女。
「ん? そういやあいつは?」
ハッとしてぐるりと当りを見渡したがアルスの姿はない。当然のように竜の姿もすでになかった。
どこに行ったのかと頭をかいたが判るわけもない。魔族と自分たちしかいない島で彼女が危険にさらされる可能性は実に低いが、何かがあってからでは遅い。念のため探そうとクロースは歩き出す。
――それにしても、広い島だな。
火山を見上げると今にも噴火するのではないかと思えた。そんな火山を囲むように生える森は深い。
少し進むと洞窟が見え、魔族たちの住処なのだろうと検討がついた。ここにアルスがいないとも言い切れないが、自分だけでは危ないと考えクロースは洞窟を無視してさらに奥に進んで行った。
そしてその先に現れたのは透明な泉だった。
「へぇ」
生まれて初めてこんな綺麗な泉を見たと、クロースは顔にあまりださないものの感動していた。フレール国は海に面しているものの、泉というものはなかったため、クロースにとっては泉そのものを初めてみることになった。
ピチャン。水面がゆるやかに揺れ、水音が音楽のように聞こえる。クロースはどこか腰かけられそうな場所を探して、泉の傍に大きな岩を見つけるとそこに座った。
「まさか俺がこんなものを拝めるとはな」
国にいたときには碌な生活などできていなかった。飢える子供を見ながら、それでも自分も飢えている一人なのだと認めざる終えない。もともと自然と言えば海ぐらいしかない国ではあったが、それすらも楽しむ心だと持ち合わせはいなかった。
自然と地位のないものは首都から追い出され始め、こんな生活はこりごりだと、そう思った。それでも、今思えば、慈悲はあった。無償で食べ物をくれる人物たちがいたのだ。あれはきっとシスフィーナの行為だったのだろう。
それでも救える子供は少なかった。体力がないものからバタバタと死んでいった。自分よりも年下の子供たちが死にゆく姿を幾度となく見てきた。
こんな世界を呪ったこともあった。自分勝手な親たちの所為で奪われた命だ。分かっている。その親さえも、生活が苦しかったのだ。
「だから俺はシスフィーナを……」
呟き、ふと瞬きをして泉を見たときだ。誰かと目があった。ここに今いる人間は二人。その正体は、考えるまでもない。
「え……え」
相手は何がなんだか判らないとばかりに目をパチクリさせた。やがて状況を把握すると、
「きゃああああああ!!」
随分と高い声が響いた。
クロースはぽかんとするばかりだった。アルスはここにいた。クロースと同じようにこの泉を見つけたのだ。そして水浴びをしていたようだ。
よく見ると岩場に彼女の服がたたまれて置かれている。ずぼんっと泉に潜ったと思うとアルスは顔だけを覗かせた。
「く、クロース。どどどどどうしてここに」
動揺が手に取るように分かる。クロースは何をそんなに慌てているのかと首を傾げながら答えた。
「お前がいなかったから探しにきたんだよ。そしたら泉を見つけて、眺めてたらお前がいた」
「いい、いつからわたしがいることに気づいてたの」
「いや。お前が出てくるまで分からなかった」
哀しいような嬉しいような複雑な心境でアルスは顔を赤らめる。
「クロース。今から出るからあっち向いてて」
「あ? どうして」
カチン。どこからか嫌な音がして、クロースはぎょっとする。
「いいからあっち向いてなさい!!」
叱るような口調になったアルスに叫ばれてクロースは訳も分からずに回れ右をした。その間にアルスは服があるところまで泳ぐ。
いつになれば振り向いていいのだろうとクロースが考え始めた頃、後から足音がした。
「もういいわ」
振り向くと髪がすっかり濡れたアルスが立っていた。
「クロース。覗きは罪よ」
「覗いた覚えはないんだが」
自分の言っていることがまるで通じていないクロースを見て、アルスは苦笑した。
「覗いたかどうかは別として、水浴びた女性がいたというのにあの反応は何よ!」
「なにと言われてもな・・・・・・。つかなんで怒るんだよ」
これはらちがあかないと瞬時に察した。アルスの心中はもはやぐちゃぐちゃだった。質問を自重しろと思う自分と、とことんクロースに詰め寄りたい自分がいた。
「もう! 取り合えず行きましょう」
アルスはクロースの手を取り歩き出す。それは彼女にとって無意識な行動だった。アルスの勢いに逆らえず(逆らう気もないが)クロースは彼女の意のままについていく。
「行くってどこに?」
そう言ってクロースが自分の手を握り返すまでは、あくまでも彼女の行動は無意識だったのだ。
引っ張れるように歩いているクロースからはアルスの顔は見えなかった。彼は彼女の顔が赤くなっているとも知らず尋ねる。
「アルス? どうした」
「しょ、食料を取りに……」
今にも沸騰したように頭から煙を出しそうな彼女の声は、最後の言葉が少し小さくなっていた。かろうじて最後まで聴き取ることができたクロースはそのまま話を続ける。
「魔族の食べる喰いもんを人間が食べても大丈夫なのか?」
当然のことながら魔族の食べ物を人間が食したという事例はない。クロースの真剣な質問に、アルスは我を取り戻す。
「もちろん、危ないものもあるわ。だから彼らに聞くのよ」
アルスが「彼ら」と呼んだ魔族は直ぐ目の前に見え始めた。巨大な狼のような、銀の鬣に白い鋭い爪。ピンと立つ二つの耳は二人の足音に気づいてぴくぴくと動いた。
「聞くって……話せるのかよ」
「話すというよりは、意思疎通というものかしら」
小さく笑みをこぼすと、アルスは徐々に魔族へと近づいていき、その直ぐ傍で足を止めた。
「こんにちは」
アルスの一言に、魔族たちが一斉に彼女へと視線を向ける。それでもアルスはいたって落ち着いていて、一切笑顔を崩さすことはなかった。
「人間が食べても大丈夫な食べ物ってないかしら?」
彼女の質問に、狼のような魔族はついて来いと言わんばかりに尻尾を振って歩き出した。彼女の言葉をしっかりと理解しているようだ。人間の言葉を魔族は理解することが可能なのか。それとも、彼女だからこそ通じるのだろうか。さまざまな疑問がクロースの頭の中を駆け巡ったが、今はこらえる。
彼らについていくと案内されたのは森の中だった。森をさらに奥へと進むと巨大な木が姿を現した。火山を島の中心と呼ぶのならばこの巨大な木は森の中心だった。
その木にぶら下がっている木の実が見えた。
「あれを食べてもいいって」
アルスが言うのならば間違いはないのだろう。
「ありがとう」
魔族たちにお礼を言うと彼らは去っていく。クロースはアルスの手を離すと腰のロープを外し木の枝に引っ掛けた。
アルスは離れてしまった手に寂しさを感じたが、クロースがそれを知るはずもない。
彼を見るといつかの塔のように登り始める。アルスはこうやって登ってきたかと納得した。元々痩せているし、見た目通り身軽なようだ。
あっという間に木の頂上まで到着したクロースは木の実をもぎ取るとロープをすべるように下りてきた。
「ほらよ」
クロースは木に両足をしっかり定着させてバランスを保つとその場から木の実を放り投げた。アルスは慌てて両手を前に出すと受け取る。青い色をしたそれは甘い匂いが漂っていた。
「あ、ありがとう」
アルスが木の実を無事手にするとクロースは木の上から降りてきた。
「ここにいるのが安全とはいえずっとここに住み着くわけにもいかないみたいだな」
今や消えた魔族たちの後姿を思い出しながらクロースは呟いた。アルスも瞳を細め、静かに頷く。
魔族たちの食べ物を本来いるべきではない自分たちが食べ続ければ彼らに飢えるものがうまれる可能性がある。
「知られていないかもしれないけど、魔族は本来温厚なの。人間が毛嫌って彼らを悪と決め付けるから魔族も人間を好いとしないだけ」
つまり共食いなどもないのだそうだ。草食系が多いという。さきほど狼のような魔族たちは木の実なども食べるようだが。
「ここには綺麗な泉もあるし、ここは彼らの楽園に違いないのね」
いとおしそうに島を眺めるアルスをクロースは横目で眺めている。視線に気づいたのかアルスはにこりと笑う。
「これを食べたらまた彼に頼んでこの島を去りましょう」
彼とはもちろんあの竜のことである。クロースは頷き、二人は服が汚れることなどお構いなしに地べたに座ると木の実を頬張った。
食べたことのない味が口の中を占拠したが、嫌いな味ではなかった。むしろ慣れればおいしいのかもしれない。
食べ終わると、先に口を開いたのはアルスの方だった。
「これからどこに行けばいいのかしら……。またあそこに戻れば……」
「元いた場所に戻る必要はねぇよ。どっか遠くに逃げりゃあいい」
子供のように歯を見せて笑顔になるクロースに、アルスは笑いそうになった。おかしかったのではない。嬉しかったのだ。
「そうね」
頷くと、アルスは笛を吹いた。
「それって竜以外にも効くのか?」
「音の些細な違いで呼ぶ魔族が変わるの」
悪戯な笑顔を浮かべるとすぐさまに昨日と同じ竜が飛んできた。手馴れた手つきで竜の背中に登るアルスに引っ張れクロースも登った。
二人が落ち着いたのを見計らってばさばさと竜は翼を羽ばたかせる。砂が巻き上がり煙がたつ。そしておもい切り空へと舞い上がった。
「ねぇ、クロース。貴方はいつまでわたしと行動を共にしてくれるの?」
アルスは怖くなった。もし普通の町に戻ったらクロースはどこかに行ってしまい、今度こそ自分は一人になってしまうのではないかと。
一方クロースは目を見開いた。その質問に驚いたということもあったが、無意識にシスフィーナの言葉を思い出していたからだ。
「そうだな。お前がいいなら、俺はずっといる」
「――本当?」
シスフィーナとの約束だ。自分はアルスを守らなければならない。それが、彼女を救えなかった自分に唯一できること。
「ああ」
青い空はこの事実を祝福するかのように晴れ渡る。太陽の光でアルスの首元の宝石が光った。アルスは嬉しさに立ち上がる。
「お、おい?」
心配そうにするクロースだがアルスは至って平気そうだ。それどころか翼を広げでもするかのように両腕を左右に開いた。桃色の髪は彼女の服と一緒に靡く。
「わたし、貴方となら何処へでもいけそうな気がするの!」
清清しいほどの大声で宣言したアルスは優しく微笑んだ。
「遺体はなかったのか?」
「ええ。先日空に大きな何かが見えたという者がいるのですが、もしや竜ではと……。そしてその少年が」
「バカな!」
スチュワードは国中をくまなく探せと警備の男に指示するとキビキビとした動きで歩き出す。落ちて死んだだろうと思い込んでいた少年の遺体は城のどこにも存在しなかった。
あの状態からどうやってどこに逃げたというのか。が、腹立たしくなっている理由はそれだけではなかった。
スチュワードはシスフィーナの顔を思い浮かべると歯ぎしりをする。
――遺言状だと! ふざけるな!!
今朝の事だ。スチュワードが予期していなかった事態が起こったのは。
「スーナ様」
「何よ!!」
シスフィーナが死んだと聞かされ泣きじゃくるスーナの元に一人の警備の男がやって来た。警備の男はスーナに詰め寄り、一枚の手紙を差し出した。
「……何?」
「シスフィーナ様から貴女様へ」
その一言にスーナは男から奪い取るように手紙を取ると、震える手で封を切っていく。丁度そのとき、スチュワードがスーナの様子を気にして彼女の部屋に現れた。
「スーナ、調子は……」
「次女スーナを次の女王に任命する」
スーナが自分に言い聞かせるように呟いた言葉に、スチュワードの瞳の色が、失われた。
順調に事が進めば、次期に自分が王になるはずだった。なんだそれは? 本当にシスフィーナが残したものだというのか。
警備の男に問い詰めると、数日前にこれを預かっていたと告白した。城の大臣でもなく、たくさんいる警備のなかの一人にその手紙を託したということは、スチュワードに見つかる可能性を避けたということ。
それは女王が自分の暗殺に気づいていたということ。スチュワードの思惑は最初から知られていたということだ。
スーナはあまりに急に自分が女王に任命されたことに驚きを隠せなかったのか、自室に閉じこもってしまった。
スーナが女王になることを決意する前にどうにかしなければ。あの少年もだ。唯一自分以外に真実を知っているあの少年が生きているのだとすれば、生かしてはおけない。
だがあの高さから落ちれば生きているわけがない。何らかの方法を使って地面への墜落を免れたことは事実だ。問題はそこからだ。そのあとどうやって少年は城を抜け出した。城中を警備に探させたが一向に見つからない。となれば町に出てしまった可能性も高い。
一つ引っかかるとすれば空に現れた<何か>だ。それと少年とどんな関係が。
――まさかアルスか?
ありえない。一度心の中で自分の考えを否定したが、もしアルスが竜を呼んだのだとすれば、目撃者の証言と少年が城にいないことの合点がいく。そう思うや否やスチュワードはアルスがいるあの塔へと警備を向かわせた。
スーナのことや見つからない少年のことですっかり彼女の存在を忘れていた。竜を操れる娘など、彼女の他にはいない。
「少年を連れて逃げたとでも?」
あの時直ぐに殺しておくべきだった。スーナは何も知らない。スチュワードの話を疑いもせずに信じ、シスフィーナを殺した人物を心の底から恨んでいる。
スーナと少年が直接出会う可能性は限りなく低いが、噂伝えで万が一、ということも否めない。そんなことは絶対にあってはならないのだ。
「スチュワード様!」
後から声をかけられスチュワードは足を止めた。
「なんだ」
「あの娘の件ですが――。蛻の殻でした」
スチュワードはこれ以上ないほど怒りに満ちた顔立ちになった。この顔にぎょっとし、警備の男は声が出ない。
「もういい。下がれ」
男の返事を受け取ることもなく先ほどよりも早い足取りで彼は歩き出した。
アルスが消えた。自分の計算がどんどん崩れていく。ああ。少年が現れたところからだ。あの時はまだなんとかなる。むしろ好都合だとさえ思った。
だが逆だった。あそこから計算が狂った。死体が見つからない少年。消えた娘。突然現れた竜。
少年が竜を呼べるわけがない。あの竜を呼んだのは紛れもなくアルスだろう。つまり、少年はアルスと一緒に消えたということだ。
「小賢しい……!」
そのときの彼の瞳に、どんな色が映っていたのか。それを知る者は誰もいない。
ダークエンペスト