ニコイチ
きっとたぶん、幸せってやつは生きてるあいだには見つからなくて。死ぬ直前の本当に間際に、ふっと思ったりするんだろう。
「あ、わたし、幸せだった。」
そんなふうに。
ニ コ イ チ
「ただいまー」
角を曲がって庭が見えてきたところで、わたしは手を振った。玄関先にニコが座っていたからだ。
「おかえり。早かったね」
ぱんぱんと手でお尻を払いながらニコが笑う。
「ごはん、作っておいてよかった」
ドアを開けるとシチューのいいにおいがした。絵本作家のニコは、絵本を描きながら日中はずっと家に居て、時々こうして夜ごはんを作ってくれる。
「ね、外で何してたの?」
「うん?」
まっしろなお皿によそったシチューのなかに、にんじんと玉ねぎとブロッコリーが同居していた。ほくほくしておいしそう。口に運んで、もごもごとわたしはもう一度聞く。
「庭で何してたのかな、って」
「あー。うん。さっき猫が来てたから。また帰ってきてくれないかなあと」
ニコもシチューを頬張りながらもごもご言った。
「待ってたんだ」
「うん。そしたらイチが帰ってきた」
ごくん、と飲み込んで、ニコのスプーンがぴたりと止まる。とつぜん落ち込んだようすになったニコは、「今朝、ひどいものを見たから、猫が来てくれて救われたんだ」とつぶやいた。「実は一日中落ち込んでた」とも。
わたしが出勤してすぐ、ニコはいつものようにiPhoneでライブ配信を見ていたらしい。いろんな人が朝から楽しげに配信しているなか、ニコは制作のBGMになりそうな番組を探していた。そしてたどり着いてしまったのだ。「これから死にます」という女子高生の配信に。
「僕、驚いたんだ。噂には聞いてたけど、本当にそんなことする人なんて絶対いないと思ってた」
「……でも、いたんだね」
「腕を切って、血まみれになりながら泣いて……でも誰も止めないんだ。やめなよって誰も言ってあげなかった」
怖かったのは、閲覧している人数だけが増えてくこと。ニコはスプーンをくわえたままうつむいた。
「その女の子、最後に『幸せってどこにあるの?』って言った。そこで配信は止まっちゃった」
幸せってどこにあるの。どこで売ってるの。あたしには手に入らないんだけど。ねえ。誰か。
――誰か。
気づいたらぼろぼろ泣いていた。ごまかそうとして、ちょっと冷めたシチューをがしがし食べる。ニコのシチューはあったかくなくてもあったかかった。
「イチ、ごめんね。僕がこんな話したから」
顔を上げるとニコもがしがし食べていた。
「幸せとは、なんてさ」
「うん」
「大げさに考えるからむずかしくなる」
「めずらしくニコが哲学的」
「そうじゃないよ。考えないほうがいいってこと」
たとえば音楽を聴いてる約4分間。落ち葉を踏みしめる音。手芸屋さんの色とりどりの毛糸が並ぶ棚。へたくそなギターを練習する時間。夕焼けに目を細めながら描く絵。
ちょっと幸せって思ってたはずなのに、すぐに忘れてしまうことが寂しくて、だからかな、僕も時々死にたくなるよ。死なないけど。生きていくけどね。
ニコの言葉ひとつひとつを確かめるように、わたしは途中から目を閉じていた。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「ねえ、イチ、」
僕ら、ちょっと今幸せだ。
本当に実感するのは、死ぬ直前まで置いておいて。でっかいものは最後の楽しみにするとして。暮らしのなかの、こんなちいさな幸福を、ひとまずふたりは、たいせつにすることにした。
ニコイチ