雪
「さようならー」
「さようならー」
下校のチャイムがなってクラスメイトはそれぞれ帰る準備や部活の準備を始める。
わたしは一目散に後ろのロッカーまで走って荷物を掴んで首にぐるぐるとマフラーを巻きつける。
「愛ちゃんうちらマック寄ってくけど一緒にいかない?」
「わたしきょういけない、ごめんね。」
「オッケー!また明日ね!」
「愛バイバイ、また明日!」
「うん、ばいばい。」
また明日、か。
そこまで好きでもないクラスメイトに手を振ってわたしは廊下を走った。
窓の外は薄暗くなっている。冬は夜が長いからすき。風が冷たくて清潔ですき。花の色が濃くてすき。かなしいにおいがすき。
「おい神崎!廊下走るな!」
すれ違った教師に注意されたけれどわたしはそのままのスピードで走った。
下駄箱に着いて上履きと靴を入れ替えると、中にメモが入っているのに気がついた。
「あいへ じてんしゃおきばでまってる かい」
「おせーよ。」
「海がはやいんだよー。」
「まあいーや、荷物乗っけて後ろ乗って。」
海の自転車のかごに荷物を押し込んで荷台に跨るとすぐに出発した。
わたしたちは逃げる。
この世界に逃げ場なんてないことはわかっているし、逃げたところですぐに捕まるのもわかっていたけどこのままでいるほうが怖かった。
わたしたちは生まれた時から一緒だった。
新婚のわたしの親と海の親はアパートの部屋がとなりだったらしく、そのときから仲良くしていた。そこへ両方同じくらいのタイミングでわたしと海ができた。
わたしの誕生日は5月28日で海は6月11日生まれ。
保育園も小学校も中学校もついには高校まで、離れている時間の方が少ないくらいの関係だった。
でも、小学校高学年の頃から、周りから騒がれて噂を立てられたりして、海はわたしとあまり喋らなくなった。
わたしが喋りかけても無視、海の近くに行けば睨まれた。
「あの時の海、冷たかったなぁ。」
「いつの話してんだよお前は。」
「でもー、うれしかったよー、あの時。」
「うるせーその話すんな!」
中学二年生の5月、わたしはクラスの男の子から告白された。
わたしはそんなの想像もしていなかったし、もっとも初めての彼氏は海だとばかり思っていたのでその場では答えられなかった。
でも学校という社会の情報網は素晴らしいもので、たった一日でそのことは知れ渡ってしまった。もちろん海にも。
その日、中学生になって初めて海がわたしの部屋に来た。
「付き合うの?あいつと。」
「海までそのはなしー?わかんないよ、だってよく知らないし・・・」
「よく知らないし?」
わたしは海がすきだし、と言いたかったけどなかなかそれが言えなかった。
小さい頃はあんなにも無邪気に言えたのに。
「お前さあ、」
「・・・うん。」
「・・・なんでもねえ。帰る。」
「海?どうしたの怒ってる?なんで最近ずっと冷たいの?わたしは昔みたいにしたいよ、前みたいに、海となかよくしたいよ。」
わたしは部屋を出ていこうとする海の制服を引っ張った。
昔なら腕を掴めたんだろうけど、いまのわたしにはそこまでしか触れられなかった。
わたしは泣きそうになるのを我慢しながら、「待って、待って」と制服を引っ張った。
すると海は強い力でわたしの両手首を掴んでわたしの方を見た。
こんなにも近くで海を見たのはひさしぶりだ、こんなに力が強くなったんだ、背も高くなったんだ、と思った。
「・・・・・・分かれよ。」
「なに?」
「あーもう!中学になって付き合ってもないのにイチャイチャしてたら変だろ!でも俺は告白する勇気とかなかったしどうせお前は俺のこと幼馴染としてしか見てねーしそんなん勝算ねーだろ!俺がどんだけお前のことすきか知らねーくせに他の奴から告白されやがってふざけんじゃねーよ、なにがよくわかんないだよ断れよ!」
「わたしだって海のことすきだもん!話してくれなくて寂しかったもん!海がほかの女の子からモテるのも嫌だったもん!言わなきゃわかんないよそんなの!ふざけんな!勝手にわたしの気持ち決めんなばか!」
海もわたしも泣いていて、悲しいのか嬉しいのかわからなかったけどふたりでわんわん泣いて、いままで話したかったことを話したらもう暗くなっていた。薄暗くなった部屋で手を繋いでキスした。子供の頃遊びでしたのとは全然違った。
「海、すき。」
「うん。」
「海は?」
「・・・めんどくせえ。」
「ねーねーねー海くーん!すき?すきって言って?」
めんどくさそうに海はもう一度わたしにキスしてくれた。
どんどん時間は流れさってしまった。
わたしたちはずっと幸せで、ずっと一緒だねと笑っていた。
時間が止まればいいのにと思った。幸せなまま終われるように、もう時間なんて流れなければいいのにと思った。
わたしたちは、わたしたちがこれ以上幸せになれないことを知っていた。
今が絶頂だとわかっていた。
ひとは時間とともに変わっていってしまうものだし、それはどんな手を使っても食い止めることのできない流れで、そんなものに流されてつまらなくなってしまいたくはなかった。角なんて取れたくなかった。丸くなんてなりたくなかった。
わたしたちふたりは必死で時の流れに逆らっていて、うまく歳を取れなかったし傷だらけになってしまった。
2年後、海の両親はいなくなった。
学校からわたしと一緒に帰って一度家に戻った海が夜の10時くらいに訪ねてきて、両親が帰ってこなくて連絡しても通じないと言った。
わたしの両親から連絡をしても通じなかった。
普通なら、海の両親は8時には二人とも家にいるはずだという。
書置きはなかったが通帳と印鑑がなくなっていたらしかった。
警察に捜索願を出したけれどいまだに見つかっていない。
それからしばらく海はわたしの家に寝泊りした。一緒に学校に行って一緒にご飯を食べた。わたしはすごく幸せで、ずっとずっとこうしていられたらと思っていた。
けれど幸せというのは一時的なものと決まっている。タイムリミットがある。
ある日海がお風呂に入っているときわたしは両親に呼び出された。
「あのね、愛。言いにくいんだけど・・・」
海のことだとすぐわかった。
「正直厳しいのよ。いきなり学費も食費もありとあらゆるものが一人分増えて・・・、海くんはなにも悪くないし、できることなら預かってあげたいんだけど、」
そこまではわかっていた。両親の話は時々耳に挟んでいた。
わたしは何も言えない。
「それにね、海くんの両親、お金なくて逃げたのよ。それがこの辺じゃもう有名な噂になってるのよ、ご近所の人に、わたしまで白い目で見られて・・・。この前もスーパーで大変ねえなんて言われたのよ?この気持ちわかる?だって内藤さんちに言われたのよ、あそこなんて息子さん引きこもりで前科があるくせに。」
そんなのどうでもいい。海は何も悪くない。悪いのは海の両親と、そういう噂話でしか自分を立てられない愚かな主婦だ。自分のうちよりもひどいものを指差していないと怖いだけだ。わたしの母のもそう、愚かな人間。
「愛、お母さんも迷惑してるんだ、協力してくれないか。」
父が言った。
手に持っているグラスをわたしはぎゅっと握った。
「海くんと、別れてくれないか。愛はいつか苦しむぞ。海くんのことを嫌いになっても、彼がかわいそうだからという理由で縛られてしまうんじゃないか?別れたくっても別れられなくなるぞ。お前たちはまだまだ若いんだ。もっと自由にしたほうがいい。お前には夢だってあるだろう。」
なに言ってんだこのクソ親父は。
今すぐ父に向かってグラスを投げつけてやりたかった。
でもそうしたところで何も変わらないことをわたしは知っている。
一時的な感情で現実から目を背けても、何も変わらない。むしろもう一度向き直った時には物事は更に悪化しているのがこの世の中だ。
海がお風呂の戸を開ける音がしたので、わたしはできるだけ愚かな大人を見下して、微笑んで、「わたしはあなたたちみたいになりたくない」とだけ小さな声で言って部屋に戻った。
海はそのあとわたしの部屋に来て、さっきの話は全部聞いていたと言った。わたしたちは、もうここにはいられないと思った。
その日からわたしたちは一緒に計画を立てた。
どこにどうやって何で逃げるのか、どうしたら見つかりにくいのか必死で考えた。
そして、今。
自転車に二人乗りして駅に向かって走っている。
わたしはあの日から、海の両親の話はしない。海もしない。失ったものをいちいち惜しんでいたらわたしたちはそれに足を取られてしまうことはわかっていたけど、心の中では惜しんでばかりいた。失ったもの、いらなくなったものを愛していた。みんなが見ればただのゴミでも、わたしにとってはたいせつなゴミだった。
不安はあった。不安ばかりだった。でもこのままこんな狭い世界の中で、自分の大切にしているものを他人から指を差して笑われたり厄介がられたりしながら生きて、いつか自分もそうなってしまうのが怖かった。型にはまった生き方が楽なことは知っていた。他人の後ろを黙ってついていけば迷わないことも孤独にならないことも知っていた。でもわたしたちはそれができなかったし、そうしたら死ぬだろうと思った。
「さみーなー。」
「さむいねー。」
わたしは海の背中をぎゅーっと抱きしめた。
冬を選んだのは日が暮れるのが早いから。暗いほうが見つかりにくいし外に出ている人も少ない。
わたしたちは駅のトイレで私服に着替えて制服はロッカーに入れた。
来るときにロッカーに入れておいた旅行かばんを出して、切符を買った。
行き先は岐阜。
東京や大阪に行きたかったけれど旅費のことを考えて岐阜にした。
あとは駅員に顔を覚えられるのを防ぐために販売機で買える一番遠いところを選んだ。
飲み物を買って改札を通る。
駅には既に学生がいて、わたしたちは警戒して歩いた。
電車の中でもわたしたちは強く手を握っていた。
所持金は30万円。
わたしのお小遣いと海のバイト代とわたしの親のへそくりをかき集めて30万。
多いのか少ないのかはわからないけれど、このお金が終わったらわたしたちも終わり。
金の切れ目は縁の切れ目、という言葉があって、それは昔ホステスに恋した男の言葉だったけれど、わたしたちにも当てはまるのかもしれない、と思った。
もし見つかりそうになったらどうするのかは決めていないしその話題は避けてきた。きっとこれからも避け続けるだろう。いまより楽に生きるための逃避なのに、きっとこの逃避に意味なんてないことはふたりともがわかっている。
「着いたよ。」
海に揺り起こされた時にはあたりはもう真っ暗だった。
時刻は八時半。
大垣駅に着いてここからさらにローカル線に乗り換える。
ローカル線に乗って30分位行くと終点の駅に到着した。
「ここはねぇ、春になるとすごい綺麗なんだよ。」
「お母さんの実家なんだっけ。」
「そう、近くにおばあちゃんがいるよ。よく山の方とかに花見に行ったの。この辺は淡墨桜が有名で、」
「俺もみてーな、桜。」
「見れるよ。」
絶対に見られるよ。と言いたかったけど海の横顔があまりにも寂しそうで言えなかった。
わたしたちはそこからタクシーに乗って予約していたコテージへ向かった。
大学生で、森林の研究をするため長く泊まりたいという話をしたら、今の時期寒くて空きが多いのでいくらでも、とオーナーが言ってくれて価格まで安くしてくれた。ここにとりあえず一週間留まる。ホテルよりもコテージの方が、他人と関わる時間が少なくていいと思った。
木のいい匂いがする小さなコテージでわたしたちは眠った。
朝方、想像以上に冷え込んだのでわたしは海の布団に潜り込もうとして、海がいないのに気がついた。
「海ー?」
コテージの中にはいなかったのでコートを着て外に出ると玄関のウッドデッキにいた。
「いたー。」
「おはよ、はえーな。」
「しんぱいしたー。」
「ごめん、なんか綺麗だなーと思って。」
「うん。綺麗だね。」
わたしたちはふたりでコテージの周りを歩いて森の方へ行った。
「おふたりさん!」
声をかけられてハッとして振り向くとオーナーだった。
「おはようございます。」
「はい、おはようございます。若いのに早起きで関心ですなあ。」
「すごく静かで綺麗ですね。」
「こういうものを知らない学生さんが今の世の中多いでしょうね、自然だとか木だとか。作り物の美しさばっかりでねえ。あなた方はどちらから?」
「愛知県です。」
「愛知県ですか、わたしも名古屋には何度か伺いましたけど息の詰まるところで年寄りには向きませんでしたわ。」
「わたしも、息が詰まります。ここにいると、生きてるんだなあって思えるけど、街にいるとなにもわからなくなります。」
しゃべりすぎたかな、と思ったけれど海も笑顔でオーナーと話をしていて安心した。
海の自然な笑顔を、久しぶりに見た気がした。
オーナーは、「よかったら」と畑で取れたというじゃがいもとほうれん草を分けてくれた。
「優しいひとだね。」
「うん、くだらねえこと喋りそうになる。」
「海もそうだったんだ、わたしもちょっと抑えた。」
「素直に信じたいよな、疑う前に信じたい。ああいう優しい人のことくらいは。」
そのあとわたしたちはお風呂に入って買い物に出かけた。
あまり顔を覚えられたくなかったので少し遠くの大きいスーパーに行った。
日持ちのするもの、安くて温かいものを買い込んでコテージに戻った。
コテージに戻って荷物の中から携帯電話を取り出すと、大量の着信履歴が残っていた。父と母はもちろん、担任や友達からのメールまであってうんざりした。わたしたちを叱る内容から茶化す内容までたくさん。わたしは携帯電話の電源を切って鞄にしまった。
その日はまわりの山や森の中を散歩したり部屋でトランプをしたりして過ごした。何にも縛られない一日というのをすごく久しぶりに過ごしたような気がした。
夜になってわたしたちは星を見た。街では見られないような四等星まで見られるんだよとオーナーが教えてくれた。
「星ってこんなにあったんだね。」
「うん、すげーなー。」
「なんか、いいのかなって思う。だいじょうぶかなって。」
「こうしてることが正しいのかわかんねーよな。」
「本来はこうあるべきなのにね。」
「お二人さんは、逃げて来られたんですかな。」
オーナーがココアを机に置きながら言った。
わたしたちはどうするべきかと悩んでお互いの顔を見た。わたしたちが何も答えずにいるとオーナーが口を開いた。
「初めて会ったときにねえ、お二人共すごく不安そうなお顔をされてましたから気になっていましてね。よくうちには研究だと言って大学生が来るんですがどうもそういった人たちとは違うように思えまして。いや、こちらの勘違いなら失礼な話なんですが。」
「その通りです。申し訳ありませんでした。」
先に口を開いたのは海だった。
「行くところがなくて、俺たちには行くところも帰るところもなくて、わかってるんです。逃げてもなんにもならないことも、俺ら二人だけで生きていくのが無理なことだって、重々承知してます。でもやっぱり・・・」
海が言葉に詰まる。
わたしも考えなんてまとまってなかったけれど口を開く。
「わたしは、わたしには、このひとしかいなくて、すごく息苦しい世界の中でちゃんと息ができるのは海のお陰で、みんなはもっとちゃんと学校に行ったり仕事をしたりしてるけど、そういう当たり前のことができなくて。当たり前のことを当たり前のようにして当たり前に大人になって行きたくないんです。わたしたちはいまのままで十分幸せなのに、時間が経ったら幸せじゃなくなっちゃうかも知れないのに、」
「まあまあ、落ち着いて、ココアが冷めるよ。」
わたしたちは黙ってココアを飲んだ。
「あの、最初にお願いした期間だけは、ここにいさせていただけませんか。」
わたしは恐る恐る聞いた。
「誰も家に帰りなさいなんて言ってないよ。お二人さんの事情はよくわかった。生きにくい世の中だということも、醜い大人が純粋な子供を縛り付けていることもわかっている。すきなだけいるといいよ。」
と言った。
わたしはもっと常識的な答えが帰ってくると思っていたし海も同じだったようで、目をまんまるにしていた。
何度も何度もありがとうございますと言って頭を下げて、その夜は三人でいろんなことを語り合った。
何十歳も歳が上なのに、オーナーは古臭いことなんて何一つ言わなかったし、ゆっくりわたしたちの話を聞いてくれた。
「昔ねえ、まだ若い頃に一度、近所の子供が家出をしてここに逃げてきたことがあってね。」
「わたしたちみたい。」
「もっとちいさかったよ、まだ小学生だったね。男の子のくせに色が白くって弱そうで。それでその子をみつけてわたしは早く帰りなさいって言って叱ったんだよ。おうちの人も心配するし、送ってあげるからって。でも何度言ってもその子は絶対に帰らないって言って、だからしょうがなく警察に電話して引き渡したんだよ。今でも忘れられないけどその子、パトカーに乗るときわたしをまっすぐ見て、失望したって目でずっとずっとわたしを見ててね、」
「いじめですかね。」
海が言った。
オーナーは何度か頷いた。
「いじめられてたらしい。でももっと酷かったのは親の方なんだ。虐待って言葉がいまは普通に使われて罪になってるけど、昔は怒った親が子供に手を上げることくらい日常茶飯事だった。でもその子の家はそういうものじゃなかった。見えにくい虐待だったんだよ。」
「見えにくい虐待って言うのは、体に傷がつかないっていうことですか。」
「そう、そういうことになるね。ご近所では仲のいい親子で有名だったんだ。お父さんもお母さんもいい大学を出て、お父さんは役所に勤めてて。まさかあの家でってみんなが思っていたよ。体に痣はなかったし、どこからも血は流れていなかったけど、見えないうちに殺されていたんだよ。」
実際になにが行われていたのかはなんとなくわかったが深く詮索しないことにした。
「それで今その子は?」
「死んだんだよ。自殺した。森で首吊ってね。」
「そうでしたか。」
「みんな泣いてたよ。葬式に集まった親族やら同級生やらがおいおいと上手に泣いてたよ。なんにも悲しくないはずなのにねえ。わたしはそういう人間が一番嫌いだと思った。あの子の痛みを知った気になって泣くなんて失礼だ。どうせ明日にはみんな笑顔で学校に行くんだろうと思ったよ。だからわたしは意地でも泣かなかった。すきなだけ復讐してやれ、と思いながら遺影を見てたよ。あの日あの子を救ってやれなかった自分に対しては、今でも腹が立つけどねえ。」
「同情ってのは、同じ痛みを知らない限りは同情じゃないって俺思います。なんにもわかんねーやつはただ可哀想がるだけだから。」
やっぱり、心が死んだらいつかそれに見合うように体も終わるべきなんだな、と思った。
自殺した人に対して、どうしてそんな、とか生きていればいいことがあったのに、などとよく言うがわたしはそんなもの後付けされた綺麗事でしかないと思う。そのひとは死ぬべくして死んだのだし、それが最後の本人の意思であり希望だったのだから、痛みを知らない人間がとやかく言うのはおかしい。
前を向ける人はどこまでも前を向けるし後ろを向いた状態の景色を世界だと捉えている人間が、いきなり前を向いてその異世界の中で生きていくことは難しい。わたしは今まで何人もの人間を亡くしてきた。家族も友人もいなくなってしまったしそれを惜しんだ。惜しんで、いつか忘れる。
わたしはどこを見ているのだろうと思う。前なのか後ろなのか右なのか左なのか。自分が今どこに誰といて何をするべきなのか、考えるのは難しいし疲れる。
「きみたちが決めればいい。進むも戻るも、生きるも死ぬも。」
「あの、」
わたしはずっと誰かに聞いてみたいことがあった。
「前向きな死と、後ろ向きな生、天秤にかけたらどっちが重たいと思いますか。」
「そうだねえ、いつの時代も変わらないことは正しいのも楽しいのも明るいのも生だってことだからねえ。」
その答えは出ないまま、わたしたちは眠った。
それから、大学生のふりをしなくても良くなったわたしたちは、寝て起きて食べて歩いて、とりとめのない話をして、また寝て、そんな生活を一週間続けた。オーナーは宿泊料金をさらに安くしてくれて食べ物を分けてくれた。その代わりにわたしたちは薪割りや掃除を手伝った。「孫ができたみたいでうれしい」とオーナーは言ったしわたしたちも幸せだった。でも幸せだということは、その終わりもいつかやってくる。
ここへ来て10日目の昼頃、薪割りをしているわたしたちのところにオーナーがやってきた。
この日は朝から冷え込んで、雪の予報だった。
「うまくなってきたねえ、お二人さん。」
「だいぶ慣れました!」
嬉しそうに言う海を見てうんうんと頷くとオーナーは言った。
「さっき警察から連絡が入ったんだ。若い男女二人が宿泊してないかって。ラッキーなことにうちはアナログだからお客さんのリストからきみたちの分だけ外して見せればいいし、もし捜索に来るとしたら裏の納屋にでも隠れておけばまず見つからない。電話ではいまオフシーズンだから誰もいないと適当に言っておいたけど良かったかな?」
「申し訳ありません、ありがとうございます。」
いまから警察が向かうという連絡が入った。
わたしたちの気持ちはもう決まっていた。この旅行自体、最後の悪あがきみたいなものだったのだ。
オーナーに巡り会えたことはとても感謝している。これは前向きな気持ちだと思う。手紙を書こうか迷ったけれど、オーナーがまた過去に囚われてしまってはいけないと思い書かなかった。
わたしたちと出会ったことをせめて後悔しないくらいの去り方をしたかった。
わたしたちは最後にオーナーに挨拶をして宿泊費を払った。
これからどうするの、とは聞いてこなかった。きっとわかっていたのだろう。
わたしたちは警察がくるであろう大きな道から外れた細い道を歩いた。
「雪だ。」
「ほんとだー。」
「愛、みてあれ。雪が枝に乗っかってる。」
「綺麗だねー、桜みたいだねー。」
「お前の言う通りだったかもな。桜見れるよって。」
「うん、桜見れるよ。」
雪