君の手を 第7章

 何か聞こえた気がして目が覚めた。いや、目が覚めたから何か聞こえたのか。とにかく目を開け、辺りを眺めてみると猫がいた。昨日の猫だ。どけ、と催促している。本音を言えばもう少し寝転がっていかった。でも昨日の後ろめたさがまだ残っていたので、僕は素直に場所を明け渡した。ぴょん、と飛び上がり、猫はすぐにそこで丸くなった。礼も何も無い。もう僕のほうを見もしない。ムッとしたが、猫相手にムカついたところで仕方ない、とため息ひとつで済ませた。

 時計を見た。午前9時43分。思ったよりもずっと眠り込んでいた。しまった、と思った。でも学校、部活は9時からだけど、それに僕が合わせる必要はない。焦る必要もない。むしろこの時間まで寝れたことはいいことかもしれない。周囲が明るくても眠れる。朝に追い立てられることはもうない。昼まで寝たっていい。寝ていられるのなら、そのほうがいい。

 今日やることは決まっていた。昨日の続きだ。僕は学校へ向かった。今日も彼女について調べるつもりだった。といっても、とりあえず図書室に行って眺めるくらいしかできることは無いだろうけど。

 ……まあ、確かに、それだとストーカーっぽいかもしれない。

 他にも気になることがあった。今日は、サッカー部の練習があるんじゃないかって気がしていた。昨日、見たときは、いなかったけど、いなかったから、今日はもういると思う。

 駐輪場まで来てから、僕は地面に下りて歩き出した。何度も歩いた坂道。今はきつくも辛くもない。でも、足取りは重かった。どんどん、重くなった。

 校門が見えるころにはもう声が聞こえた。野球部の声。相変わらず無意味にうるさい。それ以外の声はまだ聞こえてこない。でも、もう少し行けば、グラウンドの様子が見える。

 まだ覚悟はできてなかった。でも、足は止めなかった。止めたら多分、動けなくなってしまう。

 校門を過ぎる頃、それが見えた。金網があって、野球部がいて、その、向こう側。

 ――ああ、やっぱり。

 サッカー部は、いた。いたけど、僕はあまりグラウンドのほうを見ないようにして校舎の中へ入り、すぐに図書室に向かった。


 やはり、彼女はいた。昨日と同じ。カウンターに座って本を読んでいる。僕は彼女の正面のテーブルに腰掛けた。時計の針は10時を回っていた。

 ………。

 チッ、チッ、チッ、チッ。時計の音がやけに響いてくる。耳につくっていうか。

 チッ、チッ、チッ、チッ。

 シュ。ショア。シュア。

 静かな室内にそんな音が規則的に聞こえてくる。クーラーがついているので窓は全部閉まっていた。外の雑音はフィルターを通したみたいにぼやけて、ヘッドホンしたまま聞いているみたいだった。だからか、そちらはあまり気にならない。時計の音、本をめくる音。そんな取るに足らない些細な音の方が気になった。

 彼女は本ばかり見てる。一息つくこともなく、一心不乱に。だから、顔もよく見えない。

 僕は早くも後悔し始めていた。甘かった。ここにくれば彼女には会える。でも、だからといって得られる情報なんてほとんど無いのだ。長谷川さんが来れば会話から何か分かることもあるだろうけど、それはつまり帰る時間が来たってことで、それまでは何もわからない。二人の会話にしたって、帰り道のわずかな時間だ。その間に得られる情報量はきっと多くはない。

 昨日、早瀬さんの家に行って、二人の会話を聞いたら、泣いていた理由もきっとわかったんだろうな。

 今更後悔したところでどうしようもないことはわかっているけど、でもこう、こんなにも何もないと、やっぱり考えてしまう。

 僕は机に右腕を投げ出し、それを枕に頭を乗せて、目の前の真っ白な机を眺めた。風邪をひいて、家で一人寝ている時の気分。それも、熱も下がり、ほとんど良くなって眠気もないのにただ横になっている、あの感じ。頭がカラッポになって、ただ天井を見ていた。

 ボーン、と時計が鳴った。顎を腕に乗せ、そちらを見る。10時半。
後1時間半か……。


 実は、ずっと気になっていた。でも、気にしないように、見ないふりをしていた。でも、ずっとそうやっているのは、モヤモヤと落ち着かなくて気持ち悪い。

 ……行こうか。

 早瀬さんを見た。やっぱり本を読んでいる。それはたぶん、長谷川さんが来るまで変わらない。

 僕は立ち上がり、早瀬さんに背を向けガラス窓から外へ出た。サッカー部の練習を見るために、グラウンドへ。

 来るときに見たグラウンドの光景は、あまりにいつもと変わりなく、直視すると目に刺さる太陽の光みたいに目を細めたくなった。長く見れなかった。そんなものかもしれないとも思う。でも、やっぱり嫌だった。違っていて欲しかった。心の底ではそう望んでいた。

 他校に負けてくれとは思わない。でも、僕がいた時よりも弱くなっていて欲しい。

 僕はたぶん、それを望んでいる。


 これほど緊張しているのはいつ以来だろうか。1年の秋のレギュラー決めの時以来か。あの時、結局僕はレギュラーになれなかった。当然だ。その時のキャプテンだった中村先輩とポジションが被っていたから。でも、僕は密かに自分のほうがうまいと思っていた。少なくとも負けてない。中野だって、僕のパスの方がいいって言ってた。

 ……そんなふうに自惚れて、自分に酔ってる奴を試合に使うわけがない。今ならそう思える。でも、その時は、表面上は普通にしてても、腹の中はかなりグチャグチャだった。

 校舎からグラウンドまでは中庭と部室を挟んですぐだ。時間なんて1分もかからない。フェンスを越え、地上五メートル位の位置でその様子を眺めた。ちょうど基礎練が終わったとろこのようだ。僕の左側の、わりと近い位置に竹本がいた。この時間にいるのは珍しいが、当然とも思えた。

 香川はすぐに見つけることができた。いつもと変わらない感じで指示を出している。これは予想通り。あいつはそういう奴だ。

 その近くに中野もいた。中野もここから見る感じでは普通に見えた。他の奴らもやっぱり普段と変わらないように見える。

「集合」

 さして大きくもないのに、よく通る声で香川が召集をかけた。皆が整列したところに、ゆっくりと竹本がやってくる。僕も声が聞こえるくらいまで近寄った。

 竹本が整列した人達の顔をゆっくりと眺める。視線を往復させ、口元に意地の悪い笑みを浮かべた。

「レギュラーポジションが、ひとつ空いたな」

 ざわっ、と戸惑う空気が流れた。香川ですら少し驚いた顔をしていた。たぶん、皆僕が死んだことについて何か言うんだろうと思っていたはずだ。僕もそうだ。それなのに、第一声が、それかよ。……まあ、らしいっちゃらしいけど。でも――。

「トップ下、背番号10。サッカーの花。エース」

 そしてもう一度見回す。皆何を言いだしたのかと困惑顔だ。ただ、香川はもういつもの何考えてるのかよくわからない顔に戻っている。

「……欲しいか?」

 なっ!!

 ……なんちゅう事を言い出すんだこの人は。

「ん? 誰も欲しくないのか? いいんだぞ? 早い者勝ちだ」

 お互い顔を見合わせ、困惑仕切りの表情。香川と、中野だけが竹本を見ている。

「……有沢のことが気になるか」

 そりゃ、……そうだろう。僕だって、逆の立場だったら、言い出せない。たぶん。

「じゃあ、これからずっと気にし続けるのか?」

 ……いや、何もそこまで言ってないけど。でも、まだ2、3日しか経ってないじゃん。もっとこう、気持ちの整理を付ける時間とかさー。

「残念ながら、そんな悠長な時間はありません。夏休みが終わればすぐに新人戦が始まる。それまでにチームを形にする必要がある。三年が抜けたあと創ってきたチームをまた創りなおす必要があるんだ。それがどういう意味か、わかるな?」

 ………。

「そのための時間は、多ければ多いほどいい。一分一秒だって惜しい。だからすぐに、前を向いて、未来のことを考えなければダメなんだ」
 
 でも、と中野が声を上げた。

「そんな、すぐには切り替えられない、し……」

「じゃあ、いつ切り替えられる?」

 いつって……、と中野はつぶやきうなだれた。そうだ。そんなの、わかるわけない。

「明日? 明後日? 一週間後? それとも一ヶ月、一年後か? もし、一週間で絶対に切り替えられる、と言うんなら、それまで待つ。どうだ?」

 竹本の視線を避けるように誰もがうつむいている。中野も黙ったままだ。香川だけが顔を上げている。不自然なくらい無表情だ。

「答えられないだろう。断言できないだろう? そうだ。これはそういう問題じゃないからな。もしかしたら、一生抱えてしまうかもしれないくらいの問題だ。でも、俺はサッカー部の顧問で、お前らはサッカー部員だ。そうである以上は、サッカーするしかない。サッカーは十一人でするものだ。その中の誰かひとりが欠けたら、他の誰かをそこに据えなきゃならん。そうしなきゃ始まらん。キツイかもしれんが、そうするしかないんだ。その一人は、すぐには決まらないかもしれない。いろいろ試す必要があるかもしれない。そのためには、少しも無駄にできる時間はない。いつ来るかもわからない時を待っている暇はない。切り替えられないヤツは今切り替えろ。無理やりにでも、切り替えろ。それができないって言うんなら、……もう来なくていい」

 再び、困惑の波が訪れた。口に出して何か言う奴はいないけど、周囲を気にし、出方を伺っている気配がある。皆がどうするのかを探っている。あるいは、中野や、香川がどうするのかを。中野は、唇を噛み締め、まだうつむいている。香川は――、香川が、ようやくその口を開いた。

「……もし、有沢が怪我で試合に出られなくなったとき、代わりに入るのは誰か。考えたことある人、いる?」

 隣の奴に、小声で話しかける。ある? いや、ない。お前は? そんなようなやり取りが幾つか見て取れた。声が聞こえたわけじゃないけど、仕草で、なんとなく。

「俺は、あるよ。当然、ある。有沢だけじゃなくて、レギュラー全員、ある。もちろん俺自信も含めて。それは全然、普通の事だ。当然のことだよ。こうゆう状況だから、特別な意味を感じるけど、でも、全然あり得ることなんだよ。考えておかなくちゃいけない事だ。……先生、いきなり自分から立候補するっていうのは、流石にできないと思うんで、俺の意見、言ってもいいですか?」

 竹本が重々しくうなづく。

「俺は、とりあえず西が良いと思います」

 西! 西か……。

 香川が言ったように、僕だって、自分が出られなかったら、誰が代わりに出るんだろうって、考えたことはある。そして、その候補の中には確かに西もいた。西は、一年だけど、上手い。ただ、積極性がない。気が弱いというか優しすぎるというか。いつも誰かに遠慮しているような、そんな感じだ。だから、候補の一人ではあっても、本命では無かった。

「俺も、それがいいと思う」

 竹本もそう言った。この二人が言ったってことは、もう決まったって事だ。皆の視線を集め、当人が一番困惑していた。今にも泣き出すんじゃないかってくらいに。

「西! どうだ」


 ぴっ、と西の背筋が伸びた。ガチガチに固まって、とても何か言えるような状態じゃない。
「嫌か」

 竹本の声にも、反応できない。

「レギュラー取りたくないか」

 まだ、反応はない。

「試合に出たくないか」

 ゴクリ、と音が聞こえてきそうなくらい大きく喉が動くのが見えた。口を半開きにして、なんだか酸欠で必死に空気を吸っているようにも見える。

「ごちゃごちゃ考えなくていい。単純に考えろ。お前は試合に出たいのか、出たくないのか、どっちだ」
 もう一度、喉が大きく動いた。それから深呼吸するように息を吸って、吐いた。

「……たいです」

「よし。他に意見のあるヤツ、いるか」

 ……いるはずない。

「じゃあ、決まりだな。よし、じゃあこれからレギュラーとサブに分かれてミニゲームだ」

 パンッ、と乾いた音がして、それを合図に散り散りに離れていった。サブ組がビブスを着ている間に、香川がレギュラー組を集めて何か話しをした。そして西の背中をパン、と叩いた。


 ミニゲームの内容は散々たるものだった。普段どおり動けているのは香川くらいで、西に至ってはそりゃあもうひどいもんだった。ガチガチに緊張して、パスにしろトラップにしろドリブルにしろ何ひとつまともにできない有様だった。それでも香川は何度も西にボールを預けた。竹本も何も言わなかった。中野は――、中野は、たぶんキレてた。西の動きの悪さの原因は、それもあったと思う。明らかに中野に対してビビってたから。

 結果、レギュラー組はサブ組に2対3で負けた。それを見ていた僕は、僕の心境は、後で思い出して胸くそが悪くなるような、酷いものだった。


 練習が終わり、一年は片付けをし、二年は部室に入っていった。その最後尾にいた中野を香川が呼び止めた。

「お前、これから用事ある?」

「いや、別にないけど?」

「じゃあメシ付き合ってよ。今日親いるからさ」

 中野は驚いた、というよりも何事かという顔で見ていたが、

「もしかして、おごってくれんの?」

「あ? あー、場合によっては」

「……マジ?」

「まあ、マジ」

 これは、有り得ない事態だった。地球の自転が逆回転するぐらい有り得ない。香川はおごられはしても、一円たりとも貸したりおごったりはしない。少なくとも、僕は見たことがない。それなのに――。だから、中野がものすごい訝しげな目で香川を見たのもうなづける。

「なんか気持ち悪いなー」

「失礼な。俺だって誰かにおごることもー……、無いわ。お前、俺の初めてになる?」

「気色の悪い言い方するなよ。わかったよ。いいよ、おごらなくて。ちゃんと行くし」

「そう? じゃあ、そういうことで」

「ああ」

 中野の「ああ」には濁点が付いていた。二人が部室の中に消えたあとも、僕はそのドアを睨んでいた。

 このタイミングで、香川が中野をメシに誘うってことは、なんだ? どういうことだ? ご機嫌とりか? だとしても、香川はこんなわかりやすいやり方はしないと思うけど。

 ……じゃあ、なに?


 はっ、と気づいて、僕は図書室の方を見た。もう長谷川さんは来ているかもしれない。どうする? 

 ……。

君の手を 第7章

≪第7章 完≫

君の手を 第7章

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-13

Copyrighted
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