月日の百合 2 日和と水面
水月と新月
私、負野日和は、時々あの頃を思い返す。新月水面(にいづきみなも)との、私が愛した時間を。
「水面ってへんな名前。でも綺麗な名前。でも頭のおかしな名前だな」
私は言う。
インテリジェンスな彼女。緑に囲まれた施設。宗教のような科学のような、黒のような白のようなその施設。足下の二輪の花。彼女は振り返る。そのかんばせを見た瞬間、今の私を嗚呼、似てると思わせる。
「日和のばーか」
頭のおかしな名前という言葉への反抗だろうか、少しだけ脈絡を外した返しだった。2人っきりになるといつもこうだ。そう、インテリジェンスな彼女は、こうやって溶け落ちるのだと知っていた。
「水月、新月の水面。何も映らない空っぽの水面。惑わせる水面。そんな水面がそんな水月が私は好きだ」
水月、そう、水月、思い出の水面が揺れる。今ではもういない。
刹那、新月水面は、いまの水月へと姿を帰る。でもそれも、また刹那、新月水面へと帰っていく。
「ありがと」
そうして、彼女はしゃがむ、ワンピースのスカートが風に揺れる。春だな、と思う。スノードロップを彼女はつむ。
彼女はほほえむ。いつもは分からないのに、こういうときの、心は読みやすい。
「あげる、日和に。花言葉は………」
「あなたの死を望みます」
そう答えると風が吹いた。スカートはひらひらと揺れる。彼女の肢体は、グルーズの絵のようにをヴォラプチュアスだった。嬉しかったからわたしも、もう一つのスノードロップをつんだ。そうして、微笑んで、私たちは手をクロスさせる。すれ違いではなく、交わりの意味のはずだった。
「あなたの死を望みます」
水月は言った。
死後の世界を信じていた私たちにとって、それは永遠に続くだろう、とも言うべき愛の告白だった。
わたしたちは、あの時交わってしまったからいけなかったのだろうか。少なくとも私は、一次関数の直線が一点しか交点を結ばないことさえ気づかないほどのお馬鹿ちゃんだったわけだ。
日和の日常
朝起きると、涙を流していた。水月はいない。今日はいない。空しい気持ちになった。眠たくなった。公園まで、気づいたら歩いていた。最近の日課は、視覚障害者になりきること、だった。白杖をもって一日中公園のベンチに座っている。
目を閉じていても、あまり不信がられなくてすむのだった。先月までは図書館で、竹取り物語から源氏物語から三島由紀夫だとか、太宰治まで、タイムトラベリングしていたのだけど、さすがにあきた。最近は、足音にはまっている。熱中しているといってもいい。子供の足音が聞こえてくる。一人一人の足音はすべて覚えている。あの子か、と思い至る。わたしの好きな足音だ。早くもなく、遅く、かかとではなく足先でふわりと打ちつける。この女の子の足音好きだな、っと昨日はボーとしていたのだけれど、昼頃になって自分がよだれを垂らしていることにようやく気がついて、慌てて、袖で拭った。
音だけでも意外と色々なことが分かる。彼女は1人で遊んでいる。そして、1人で、隠れん坊をしている。彼女の動きを聞くと、なぜ1人で過ごしているのかよく分かる。集団で遊ぶには彼女は遅すぎるのだ。情報処理能力の低さには著しいものがあるな、と認める。
思考の渦に囚われていると、いつの間にか彼女の足音は聞こえなくなっていた。
しばらくすると、その公園を女子高生たちが歩く、そうかもうそんな時間か、と思う。彼女らの会話を聞きながら足音を聞く。会話と足音の協調性には著しいものがある。端的に言うと、会話であいてと共感していると、足音のタイミングが同じになる。共感すると脳波の波形が一致していくみたいに。きっと足音と脳波には、何らかの関わりがあるに違いない、とまで考えて、脳波に依存にして足音が決まるんだろうな、と思った。
一日の終わりに近付いて、近くに人もいなくなって、開放感から杖を放り投げ目を開ける。
あ。
杖が木に引っかかった。
明日とるの大変だな。
無意識のうちに明日やることとして、処理をした。
私は背伸びをしながら歩き出す。
「ああ、だるっ」
今日覚える予定のガウスや、カミュや、プラトンや、脳科学の論文の入った学校指定の鞄を手で持ち、肩におく。よし、これで、どこにでもいる普通の女子高校生だ。唐突に水月を思い出して悲しくなった。
記憶のトリップ
次の日。
私は、ゆったり歩く。そして喫茶店に入って
「今日遅くなったわ、ごめん」
二人は迎えてくれる。
こんなことをしだしたのは、いつからだろう、と思った。
唐突に、スノードロップの死の匂いを思い出す。現実と過去、現実と虚構、いつも交錯する。
いつの間に、入れ替わったのだろう。
よくわからない。
わかりたくもない。
月日は、話を始める。いつもよりは、まともな話だ。
いつも彼女は恋の話を語る。そして、かならず、登場人物の一人は、月日だ。
そして彼女は恋に落ちる。
私か、水月をモデルにしたであろう女と。
たいてい、パターンは、決まりきっている。高いところにいる子を月日が追いかけて、恋を成就させるのだ。
この話だと、ほかの人に恋をしている、ということで月日は、その恋する相手は高いところに存在する思っているのだろう。けれど、実は恋している相手が自分だった、というふうにハッピーエンドで締めくくってある。
彼女は、この高いところにいる少女との恋をいろいろな解決の仕方で成就させていた。
なんだか、月日の好意に責められている気がする。
私は月日を好きなのだろうか。
好きかもしれない。
でも、………でも……………自分で作り出した幻影に自分で恋しているかのような、水をつかもうとしてもつかめないような、星をつかもうとしても掴むことなんて決してできず永遠に独りで空を見上げているような、空々しさに、見舞われる。
誰かは言った。
星をつかもうとして、泥を掴まされることはない、と。
泥を掴まされることはなくても、幻を追い求めて空虚に終わってしまうことだってある。
ふと、私は喫茶店で女の子ふたりと雑談をしているような気分になった。
現実になった。
現実だった。
そもそもこれが現実で今のがモノローグだったんだ。
現実ってなんだろう? 空想ってなんだろう? 虚構ってなんだろう?
分からない。
定義してはいけない。曖昧にしなくてはいけない。
おかしくなってしまう。
もう、既におかしいのだ。だから、月日は狂いに憧れる。月日から見たら、私はすでにおかしいのだ。
だから、月日は、私と同じ土俵にたちたくて、必死に狂ってる。
狂ってしまうことで、私と同じ異形さを身につけたいんだ、と私は思った。
狂ってしまうことで、高いところにいる私と同等の人間になりたいのだ。
「………私は二人共大好きだけど。大好きだからこそ、存在しているのかどうかわからなくなるんだ」
私は誰にも聞こえないように小さな声で言う。
記憶がトリップする。いつの間にか、喫茶店から出て、路地裏にいた。
ああ、そうか……別れたんだっけ?
記憶がない………その間の記憶がない………。あるけど、本当にそれが現実だったか分からない。
厳密に言えない。
思考のトリップだ。
最近ずっとこんな感じだ。
モノローグに入ると、現実を認識する力がおろそかになる。すべてがなくなる……。
モノローグに入ると、現実が道端の石ころみたいに思えてくる。現実は、多分石ころ帽子でも被ってるのだろう。
ちょっと、笑う。
昔の水月
となりに水月がいる………。
完璧で、何一つ汚点のない水月。暗闇に隠れて、何一つ白くない深夜の月。
闇に溶ける水月。いや、違う………闇に隠れる水月。
時間感覚が狂って、今日がいつだか分からないけれど。
私は聞く。
「水月、って名前、っていつから………?」
………水月は微笑む。哀れを称える笑顔で。
「それはね、生まれた時だよ。生まれた時に、名前がつくの、親が決めたって、自分が決めたってそれってね、名前をつけられる前から決まっていたんだよ。そこには、そういう名前で、そういう個体がそこにいるの。それって、初めから決まっていたことで、運命で、そう名付けられるしかなかったんだよ。だからさ、分かるでしょ?」
うん。分かる。
でも聞きたいことってそういうことじゃないんだ………。
意識は混濁する。闇の中だ。
いや、闇じゃない。私のルーツに出会う。
かつて、新月水面は、こう言った。
「名前っていうのは、初めから決められてるの、親がつけたって、近所のおばさんがつけたって初めから決められている。だから覆すことができない。どれだけ一生懸命に考えたところで、全てはね、無駄なの。初めから決まってた事なんだよ」
やっぱり似ている。いや、似ているんじゃない。同じだ。
同じ思想だ。
同一人物………のはずだ。
でも容姿は違う……。今の水月は、容姿が完璧すぎて昔の水月に似て非なるものだ………。
昔の水月は、もっと、月日に似ていた………。
容姿は月日に、性格は今の水月にちょっと、似ていた。
形見分けしたみたいに分かれていた。
ああ、眠い。
「水月?」
水月は、ベランダに出ていた。空の満月を眺めている。
「何を眺めてる?」
「………私の片割れ」
静かに静かに水月は言った。
新月の匂いと満月の匂いが混じりあった。
新月の匂いがより強く、溶けるように、光に解けた。
満月の匂いがことさら強くなった。
「………停滞してたい?」
私に水月は問う。その問いはある程度予測していたから、すんなりと答えが出た。
「今のままがいい。何も変わらないで欲しい。これが終わるなんて嫌だ。明日なんて永遠に来なくていい。永遠の今さえあればいい」
水月は小さく頷く。
「停滞も大事だよね。変化を嫌うのも大切なこと。大切なことを見失わないためには、ね。成長なんてする必要はないんだよね。出来ることなら、人間なんて永遠に子供のままがいいんだよね。何もする必要なんてない。人間は成長するために生まれてない。停滞するために生まれてるんだよね。自分の種を停滞させるためにね。人間の心って、慣性の法則にしたがって、運動してるものは運動し続けるし、静止しているものは静止続けるものなんだよね。この静止した世界でも過去との延長線上なんだものね」
水月は口を開かない。なんだか、声が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。分からない。だけど、すごく救われた気がした。
月日の百合 2 日和と水面
受験の息抜きに書いたので更新は遅くなります。
前回と同様に、この2も、徐々に増やしていきます。