マーメイド・ラプソディ

オープニングアクト

『昔々、あるところに、人魚の姫がおりました。
 15歳の誕生日、姫は昔からの憧れだった人間の世界を見るために海の上へあがりました。
 そこには、大きな船でパーティーをしている、たくさんの人間がいました。
 初めて見るものばかりものに目を輝かせていた姫の目に、ある青年が飛び込んできました。
 様々に着飾った人間たちのなかでもひときわ美しいその青年に、姫は心奪われてしまいました。
 その時、突然強い雨と風が巻き起こりました。
 船は激しく揺れ、船上の人々は海に投げ出されました。
 “彼を助けなければ!”
 そう思った姫は彼の体を抱いて、近くの浜辺まで運びました。
 ぐったりとしている青年の体を寝かせ、姫は去ってゆきました。
 人魚は、人間に姿を見られてはいけないのです。

 ぼんやりとする意識の中で、青年は助けてくれた姫の声を必死で覚えました。
 またいつか会いたいと願いながら。

 一方、海の中へ帰った姫は、何日経ってもあの青年のことを忘れることができませんでした。
 もう一度会いたい。
 そう思った姫は、魔女のところへ行って、呪いと声とを引き換えに足を手に入れ、彼に会いに陸の上へ行きました。
 呪いとは、青年と結ばれなかった暁には、姫は泡となって消えてしまうというものでした。

 ふたりが出会った浜辺で、力尽きて倒れていた姫を助けた青年は、しかし姫のことが分かりませんでした。
 彼は、助けてくれた少女の声しか覚えていなかったのだから。
 青年は、身寄りのない姫を自分の家に住まわせることにしました。
 実は、彼は陸の上の国の王子だったのです。
 歩くたびに裂けるような痛みを感じ、伝えたいことも伝えられない生活を送る姫でしたが、それでも彼のそばにいられるなら、姫は幸せでした。

 しかし、王子はある日突然結婚を決めてしまいます。
 助けてくれた姫とよく似た声を持つ女を、彼は好きになってしまったのです。
 結婚式は、船の上で行われました。
 姫も招待されていましたが、幸せそうな二人を見ることに耐えきれなくなって、ひとり甲板に出ていました。
 そこへ、姫の姉たちがやってきました。
 “この剣で王子の心臓を貫きなさい”
 姉たちはそう言いました。
 そうすれば、あなたは人魚に戻ることができる、と。
 しかし、姫に愛する王子を殺すことなどできません。
 彼女は、海の泡となることを選びました。
 “お幸せに”
 そう呟いて、人魚姫は海の中に姿を消しました。』


 悲しい恋の物語。
 この国の人たちが大好きな物語。
 私が一番、きらいな物語。

第一楽章

『自己犠牲至上主義』
 それが、この国の考え方だ。
 昔、愛する人間のために自ら泡になることを選んだ姫がいたらしい。その誰かを愛する気持ちに多くの女が共感したみたいで、女は自分を犠牲にして相手に尽くすことが最高の愛だと考えられるようになった。姫が死んでから何百年も経った今では、それはもはや当たり前、一般常識だ。
 でも、ミナミはその考え方が嫌いだ。
 好きな人とずっと一緒にいたい、そう考えることも許されない。何かの拍子に命の危険が迫れば自分の命を迷わず捨てるような選択をしなければいけない。二人とも助かる方法を考える時間は一秒も与えられない。
 ミナミはそこに少しも幸せを感じない。男のために命を捨てた女の話を聞くたびに、心の中でバカじゃないの、と思ってしまう。
 幼いころ一度だけそう口走ったら、母親に笑われた。
「ミナミはまだ子供ねぇ」
 その頃は大人になったら考え方も変わるのかと思っていたけれど、17歳になった今でも変わっていないのだからきっと一生変わらない。
 どうしてもうけつけないこの考え方から逃れる方法。今のところ一つしか思い浮んでいない。

 人間になること。

 人間はこんなバカな考え方はしない。自分のことも相手のことも大切にできる、そういう生物だ。だからいつか、きっと人間になってやろうと思っている。

 物語の人魚姫のような、魔女に頼るようなバカなことはせずに。



「そんないいもんじゃねぇよ?人間って」
 海斗はそう言って日に焼けた顔を小さく崩した。
 彼はミナミの人間のボーイフレンドだ。以前浅瀬を散歩――ならぬ散泳していた時に海斗に釣られたのだ。
 魚を釣ろうとしていた時にこんな人魚を釣り上げた彼の驚きと言ったらそれはもう半端なものではなかった。
 せっかくの整った顔をぽかんと崩し、中途半端に開いた口からは「…え?」とまぬけな声が上げたのが初めて見た海斗だったので、本来は寡黙でクールなキャラらしいがミナミにはどうしてもかっこいいとは思えない。
「そんなことないよ、人間は自己中心的でとっても素敵」
「…それは俺以外の人間には言わん方がいいぞ、嫌味にきこえる」
「え、なんで」
「人間にとって“自己中心的”って言葉は悪口なんだよ」
 また一つ人間についいての知識が増えた、とミナミは心の中でガッツポーズをした。これも海斗に教わったものだ。
「心配しなくても海斗のほかにこんな話できる人いないよ」
 そう言うとそうか、と言ってそっぽを向く。海斗のその仕草は照れたときのものだと、何回か会う内にわかってきた。意外と照れ屋でかわいいやつだ。
「んで?人間にはなれそうか」
「なるよ」
「方法がわかったんか?」
「…まだ」
 呆れたような目でこっちを見ている海斗から目をそらすように横を向く。そんなミナミを、海斗が愛おしそうに見つめていることなんて、ミナミは知らない。
「まぁでも、絶対なるから。そのときは結婚してね、海斗くん」
「その時に俺に他の女がいなかったらな」
 語尾にハートマークをつけて言った言葉に上から目線で返される。消波ブロックに腰かけてくだらない冗談を言い合えるこの関係が好きだ。人魚同士では絶対にできないから。
 人魚の女子の門限は厳しい。男以外のことで命を捨てるなんてというこの考え方もまたミナミの人魚嫌いに拍車をかけている。しかしそうとは言っても守らないわけにはいかない。海の底でのミナミは優等生で通っている。
 日が暮れる前には海斗と別れて、ミナミは海の底へ潜っていった。

第二楽章

『Little Mermaid Memorial-Hall』
 伝説の人魚姫を敬い、称えるために建てられた記念館。いろいろな言葉を操る人魚の誰にでもわかるように英語で名づけられたので日本語を話すミナミにはおしゃれに見えるが、早い話が『人魚姫記念館』だ。
 中にあるのは人魚姫にまつわる当時のものだと言われている書物や着物などが展示されている博物館、人魚姫関連のものを重点的に集めた図書館、それだけでなくカフェや土産屋までもある。
 正直ミナミがこの世で一番嫌いな場所だ。それでもここに来たのはほかでもない、人間になるための方法を探るためだ。
 週に一度ほどここの図書館に通っている。今ではもうここにある本の半分ほどは読んだだろうか。カウンターに座る司書ともすっかり顔見知りになってしまった。もっとも、ここに来る本当の目的を言うわけにはいかず、人魚姫伝説の大好きな女の子のふりをしているので少々心苦しかったりもするのだが。
 数冊の本を持って定位置に向かう。何度も通うとお気に入りの場所ができる。貝殻を模ったソファが並ぶ窓際。なぜかは分からないが、その左から三番目のソファが一番好きだ。
 持ってきた本を傍らの小さな机に置き、一番上のものから広げる。並ぶ無数の文字の中から『人間』という言葉を探しては反応し、期待するものと違う文章に落胆する。
 どれほどその作業を続けていただろうか。開館と同時にやってきたがおそらくもう昼だ、数時間は経っている。
 お昼ご飯でも食べながら休憩しよっかな。そう思い本から視線を上げると。
 赤毛の青年が見つめていた。
 視線が交わる。ミナミは見つめてくる青年を見つめ返した。
 歳はミナミと同じくらいだろうか、どこかあどけなさの残るものの大人に近いその顔は、これでもかというほどミナミを見ている。なんなのあの人。
 あまりにも長い見つめあいに居心地が悪くなって、ミナミは彼から目を逸らした。
 本を片づけるふりをして、彼を見ないようにする。今のうちにどっか行ってくれないかと思うが誰かが移動する気配はない。諦めて本格的に片づけに専念しようと持った本に影が差した。それは誰かがミナミのそばに来たということで。さっきの人じゃありませんように。
 そんな願いとは裏腹に、顔を上げたその視線の先には赤毛の青年がいた。
「…なんですか?」
 あまり口を利きたくなかったが諦めて口を開く。と、赤毛の青年から爆弾発言が飛び出した。


「あんた、人間になりたいの?」


「…ちょっと来て!!」
 その言葉が聞こえて何秒固まっていただろうか。我に返ったミナミは、持っていた本を放り出して、赤毛の青年の手を引きながら図書館を出た。

第三楽章

「なんてこと言ってくれるの!」
 記念館の裏庭、おそらくここなら誰も来ないだろうという場所に赤毛の少年を連れ出したミナミは、開口一番に彼を怒鳴りつけた。
「なんでそんなに怒ってんの?」
「当たり前でしょ、あんなこと言われて!怒らないやつがあるかぁ!」
「あれ、違った?」
 ミナミは言葉に詰まった。違うとすぐに否定できない。
「やっぱりそうなんじゃん。なんで怒るんだよ」
「…本気で言ってるの?」
 人間になりたい。
 そう言って受け入れられる世の中だとでも思っているのか。しかもそう願う理由はこの世の人魚を全否定するものなのに。
「本気だよ、人間になりたいんだろ?」
 頷くわけにはいかない、こんな得体の知れない男になんて。肯定したら最後、なんて言われるかわかったもんじゃない。
 この願いを話しても受け入れてくれるのは海斗しかいない。それも海斗は人間だから、人魚じゃないから受け入れてくれたのだ。
 きっと海斗も人魚だったら。
 そこまで考えてやめた。どんな背景があったとしても海斗の存在に救われていることは確かだ。本人には絶対言わないが。そんな海斗を疑うようなことはしたくなかった。
「関係ないでしょ、あなたには」
「あるよ」
 即答されたことにたじろぐ。
「どういうこと?」
「探してたんだ、キミみたいな女の子」
「…どういうこと?」
 同じ言葉を二度も発したのは彼の言いたいことが分からなかったからで。
「あ、自己紹介まだだったよな。オレはシオン、よろしく」
「あ、私はミナミ。…って、そうじゃなくて」
 とんでもないタイミングで自己紹介してきたシオンに思わずつっこんでしまったが。
「どういうこと、私みたいなのを探してたって」
「そのまんまの意味だよ。オレは、人間になりたい…ていうか、人魚姫伝説のことが嫌いな女の子を探してたんだ」
 …そこまでばれていたのか。
 ミナミは改めて目の前の赤毛の少年を見た。
 海斗とはまた違う可愛い感じに整った顔は、今はとても真剣な表情をしている。冗談を言っているようには見えない。
「な…なんのために」
「オレも嫌いだからね、こんな風習」
「…え、」
 世の男はみんな自分のために迷わず命を捨てるような女が好きなのかと思っていたミナミにとって、その言葉は衝撃的だった。
「人魚姫の姉ちゃんが、オレの先祖なんだよ」
「…」
「信じてないな、その顔」
 そんなことを言われてもあぁそうですかと信じられる話ではない。
「だって、王族の人魚がこんなふらふらしてるとは思えないんだもん」
「王族っていってもオレが王になるわけでもないし」
「証拠があるわけでもないし…」
「この赤毛。姫様と同じだろ」
「え、そうなの?」
「絵が飾ってあるだろ、そこの博物館に。見たことないのか?」
 だって人魚姫嫌いなんだもん、とは言えずに口ごもる。ただ、まだ幼いころ母親に連れられて見た絵にはきれいな赤い髪を水になびかせて微笑む姫の絵を見たことがある、気がする。
「ま…まぁとりあえず信じるわ」
「ごまかしただろ、今」
「う、うるさいな、信じるってば。話続けてよ」
 横目で睨まれているような気がしないでもないが、気づかないふりをする。しばらく経つとシオンは諦めたようにため息をひとつ吐いてから話を再開した。
「とにかく、オレは人魚姫伝説嫌いなの」
「な、なんで」
 自分のことを差し置いて真顔で尋ねた。自分以外に人魚姫伝説が嫌いだという人魚がいたことがいまだに信じられない。
「だって嫌じゃん、自分の好きなやつが自分のせいで死ぬとこ見なきゃいけねぇんだぜ?」
 …こいつ。
 ミナミの微かな表情の変化に気づかずにシオンは続ける。
「オレだったら絶対ヤだね。一緒にいたい人と一緒にいたいって思うことが間違い扱いされるとかふざけんなって感じだよ」
 やっぱり、シオンって。考え方が、
 人間みたい。
 初めて“人魚”の共感者に出逢ったせいか、ミナミの胸は今までにないくらい高鳴っていた。

第四楽章

 その日から、ミナミとシオンは頻繁に会うようになった。
 二人は会うたびに人間の話をした。というか、ミナミが知っている人間の話をシオンに教えていた。海斗という情報源のあるミナミとは違ってシオンはあまり陸の上のことを知らないらしく、ミナミの話をいつもキラキラした目で聞いていた。
「陸の上にはたくさんの国があって、私たちが住んでる場所の上には“日本”っていう国があるんだって」
「二ホン?じゃあ人間になったらそこで住むか」
「そうだね、言葉も同じらしいし。…あ、見て、これシオンに見せようと思って持ってきたの」
「なにこれ。本?」
「辞典らしいよ。漢字字典」
「カンジジテン?」
「日本の言葉の説明が書いてあるんだってさ」
「普通の辞典じゃないのか?…なんだこの文字」
「それが“漢字”だよ。日本人は自分の名前も漢字で書くんだって」
「へぇ、なんかかっけー!オレらもカンジで名前つけてみようぜ」
「あ、私それやったことあるよ。えっとね。…あった、これ。“美波”。美しい波って意味らしいよ」
「へぇ、きれいな名前にしたな」
「シオンのも私が決めてあげるよ!」
「そりゃ楽しみだな」
「任せなさい!し…しお…ん?おん…?…よし、できた!」
「どれ、見せろ見せろ」
「“汐音”。海の音って意味だよ」
「…それ“シオオン”じゃん」
「名前ならちょっと変でも許されるんだよ」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなの!」
 ふたりきりで、人間について話して、たまに人間の真似事をする。その時間は、ほかのどんなことをしている時よりも楽しかった。
「シオンはさ、人間になりたいの?」
 ふと気づいて聞いてみた。そういえばシオンから人間になりたいのかどうか聞いたことがなかったのだ。
「人魚の世界でこの考え方を受け入れてくれんのなら、今のままでもいいと思ってる」
 けど、たぶん、無理だろうな。
 言葉にはしなかったものの、考えていることは手に取るようにわかった。
 ミナミが考えていることと同じだから。
「ミナミは?」
「…シオンとおんなじ」
 そしてそれは、きっとシオンにもわかっている。



「…へぇ」
 ミナミからシオンの話を聞いた海斗は、何とも言えない表情で相槌を打った。
 ミナミが自分のことを男として見ていないことは嫌というほどわかっている。意識していないからこそ、軽い冗談で「結婚して」なんて言えるのだ。その言葉にどんなに海斗の気持ちが揺さぶられているかも知らずに。
 それでも、ミナミの気持ちを理解して、支えてやれるのは自分だけだと思っていた。例え海斗が望んでいる形ではないとしても、自分は、ミナミの中で特別な存在だと。
 それが今、崩されようとしている。シオンという、ミナミと同じ世界で生きる理解者によって。
「海斗から聞いた人間の話すると子供みたいな顔して聞くの。私が教えることって今までなかったからなんか新鮮でさ。海斗もこんな感じだったのかなーって」
「確かにおまえもガキみたいな顔してた」
 軽口で動揺を隠す。今のミナミには、この気持ちを知られたくなかった。
「ってことで、これからもいろいろ教えてね」
「へいへい」
 自分のためだけではなく、シオンのために海斗に人間のことを聞きにくると言ったミナミに生返事を返す。
 …こんな女々しかったっけか、俺。
 それでも、ミナミに会う機会を失うなどという選択肢は、海斗にはなかった。

第五楽章

 シオンに出逢って、数か月が経った。
 相変わらず人間になる方法は見つからない。海斗に会って人間の話を聞いて、シオンに会って人間の真似事をする日々を送っていた。
 そんなある日、話があると言って、シオンに呼び出された。話の内容を他人に聞かれないようにと、出会った日以来避け続けてきた人魚姫記念で会おうと言われたときは少し違和感を感じたが、大したことではないだろうといつも通り了承した。
「なんなの?話って」
 落ち合ってから1時間と15分。話があるなどと言っておいて、カフェのランチ、デザートまで完食してもシオンは口を開こうとしなかった。痺れを切らしたミナミが問いかけると、シオンは一度俯いてから意を決したように顔を上げた。
「人間になる方法を、見つけた」
 時間が、止まった気がした。
「…どうやって」
 ミナミが返事をしたのは、シオンが言葉を発してから30秒は経った頃だった。
「家に、書庫があって。そこでいろいろ探してたら、人間になる方法を書いた古いメモみたいなものがあって。…たぶん、だけど。人魚姫が書いたものだと思う」
「…姫が?」
「魔女に頼むってところに印がつけてあったから、たぶん。紙の古さ的にも時代と一致してる」
 そうだ。シオンは人魚姫一族の末裔だった。家にそんなものがあってもおかしくはない。
「それで、なんて書いてあったの」
「国の北端に一番深くなるところがあるだろ。あそこに魔女が使った人間になるための薬の材料になる草が生えてるらしい」
「草?それで人間になれるの?」
「本来は飲んだものの願いを叶える薬草。人魚姫を人間にするときに使った草だから、姫のお墨付きだぜ。確か、キキョウソウって名前だった」
「え…でも、深海じゃ植物は育たないんじゃ」
 深海では太陽光が差し込まないため植物は生きていけない。薬のもとになるようなものがあるはずがないのだが。
「いや、オレも詳しいことまではわかんねぇんだけど…。なんかそいつは日光がなくても育つんだってさ」
「…あのさ、記憶違いならいいんだけど。確かあそこって…」
 魔女の家が。
 人魚姫が頼った魔女はもう死んでしまっただろうが、その子孫が深海で細々と暮らしているはずだ。人魚姫の家系のシオンが行って大丈夫なのだろうか。
「あぁ、そういえばそうだ。キキョウソウがあんなとこで生きていけるのも魔力のせいかもしれないな」
「因縁の対決とかになったりしない?」
「どうだろ」
「どうだろって…」
 他人のことのように言ったシオンに、ミナミは呆れた。
「いわなきゃばれないよ。そもそも魔女に会わなきゃいいんだ」
「…ほんとに大丈夫?」
「どうなったってオレは行くよ。方法があったんだ、確かめなきゃ気が済まない」
 ミナミはどうする?
 そう尋ねたシオンは意地悪だ。
「…行く」
 そんなの、断れるわけないでしょう。
 言葉少なに訴えたミナミを見て、シオンは満足そうに頷いた。

第六楽章

「ねぇ、まだ着かないの?」
「まだ…っぽい」
 初めて来る深海を前に、ミナミとシオンは戸惑いを隠せなかった。
 なんせどれだけ進んでも景色が変わらない。魔女に同じ場所にとどまってしまう魔術にかけられたのではないかと錯覚してしまうほどに。少しずつ弱くなっていく太陽の光が、かろうじて潜り続けているということを示していた。
「なんか…すごいところだね」
 人魚姫もこの不安に耐えたのだろうか。愛する人のために、たった一人で。
 しばらく泳ぎ続けていると、海底が見えてきた。ミナミたちの暮らしている所では見たこともないような生物たちがうようよいる。生きているのか分からないものさえもいて、しかもそんな見た目をしているのに確かに動いていたりして、それは二人を余計に不安にさせた。
「地図だとこっちだな…」
 ゆっくりと進む。と、突然視界が明るくなった。
「これが、魔女の家…?」
 プレハブ小屋のような簡易なつくりの建物。その入り口は、人工の光で照らされていた。あの形はきっと、海斗が前に見せてくれた“カイチュウデントウ”だ。人間にまつわるものがここにある。そのことが、人間になれるという裏付けのような気がして、鼓動が早まるのを感じた。
「キキョウソウは、どのあたりにあるの?」
「確か、魔女の家の裏に」
 関わらなくて済むのなら、なるべく魔女とは会いたくない。物音をたてないように、静かに回りこむ。
「うわ、すっご」
 畑らしきその場所は、たくさんの種類の植物が並んでいた。きっと魔女が育てているのだろう。
「キキョウソウって、もしかしてこの中にあるの?」
「みたいだな」
「もし持って帰ったらさ、それって泥棒なんじゃ…」
「…みたいだな」
 はぁ、とため息をついて顔を見合わせる。窃盗罪で捕まってしまっては元も子もないし、そのせいで人間になりたいと思っていることがばれたら大変だ。
「しょうがねぇ、ほかの方法探すか」
「だね、帰ろ」
 少しの失意の中、振り返ったその視線の先に。

黒い鱗の少女がいた。

「なに、してるんですか?」
 柔らかい印象を受ける見た目の割に妖艶さを含んだその声は、二人を金縛りにあったかのように動けなくさせた。

第七楽章

「なにかご用でしたか?」
 ひとつに編み上げた長い黒髪を水にたなびかせ、淡い微笑みを浮かべながら少女は尋ねた。
 ミナミは無言で頭を働かせた。キキョウソウのことを簡単に伝えられないこの状況で、なんと言い訳するべきか。
「…私たち、大学の教授に頼まれてきたんです。人魚姫伝説について研究している人で」
 何も知らされていない風を装って言葉を探す。
「なにか人魚姫にまつわるものを探して来いって言われて来たんですけど…」
 そう言って困ったような笑みを浮かべた。人のいい優等生のふりは慣れている。
「そうですか…。大変ですね、学生さんも」
「いえ、そんな」
「そうだ、私の家に寄っていきませんか?」
「え?」
 突拍子もない提案に、ミナミとシオンは揃ってまぬけな声を出した。
「私はマホと言います。実は魔女の末裔なんです。だから、姫に関するものは分からないけれど、姫を人間にした魔女に関するものならありますよ?」
 ミナミは別の言い訳を考えればよかったと後悔した。自然な断り方が思いつかない。
「えっと…シオン、どうする?」
 シオンに話を振る。断って!と目配せするとシオンは目で頷いて口を開いた。
「行きたいんですけど…今回はお断りします。これからもう一か所よらなければいけないので」
「あ、そっか忘れてた」
「ミナミは忘れっぽいからな」
「ちょっと、なによそれ!」
 どこにでもいる大学生カップルに見えるように心がけることに集中しすぎて、マホの顔が険しくなっていることに気づけなかった。
「お気遣いありがとうございました。また伺うことがあるかもしれませんから、そのときはよろしくお願いします」
 そう言って頭を下げてからここから立ち去ろうと踵を返す。一刻も早くここを離れた方がいい。
「待って」
 鋭い声に呼び止められ、驚いて振り向く。
 そこには、ぞっとするほど作り物めいた微笑を浮かべるマホがいた。
「あなた、シオンというの?」
「そ、そうですけど…」
 微笑んでいるはずなのに、なぜか今までの柔らかい雰囲気が微塵もなくなったマホに、シオンが戸惑いを隠せずに答えた。
「あなた…姫の家系の人間ね」
 刺々しい声で放たれたその言葉に、息が止まるかと思った。
「聞いたことがあるわ、十数年前に。シオンという男の子が生まれたってね。ほんと、姫の血筋はバカばかりね。わざわざ殺されに来たの?」
「…どういう意味だ」
「決まってるでしょ?私たち魔女はね、」
 そう言ってすっと右手をあげたマホの顔から微笑が消えた。
「昔から王族が大嫌いなのよ」
 マホの右手から、何かが飛んできた。咄嗟に避けたが、シオンの頬にはかすり傷が残っていた。
「どうして…こんなこと!」
 頭の中がこんがらがって、ただ叫んだ。
「どうして?簡単なことよ」
 ふと俯いたマホを、睨み続ける。油断はできない。
「姫のことを人間にした魔女の末路、知ってるでしょう」
 昔、一度だけ聞いたことがある。どうして姫を止めなかったのかと責められ、愛する者を自らの手で殺すという選択肢を与えるなんてなんて非情なと詰られ。親類からも見捨てられ、最後は夫と娘だけに看取られながら死んでいったという。
「ただ姫の願いを叶えてあげたかっただけなのに…姫が死ぬかもしれないっていうから、救うための方法を教えてあげただけなのに…なのに」
 俯いていた顔を上げたマホの目には、憎しみが色濃く浮かんでいた。
「国の物は皆、見る目を変えたわ。あんたのせいで姫が死んだと言わんばかりにね」
 それは、その血を受け継いだあたしにさえ。
 悲痛な声で呟かれたその言葉に、シオンの顔が歪んだ。
「こんなボロ家で、ずっと日の当たらない場所から出られなくて、なのに、なのにあんたたちは…」
 息遣いが荒くなる。居心地の悪い音に耳を塞ぎたくなったが堪えた。
「許さない、あんたたちがいつまでも幸せでいるなんて、許さない…!」
 マホの右手が、またあがった。
 シオンが危ない。
 そう思った瞬間、ミナミの体は動いていた。
 シオンを突き飛ばし、マホを睨みつける。
「ミナミ!」

 私って、シオンのこと好きだったんだ。
 自分の名前を呼ぶシオンの声を遠くで聞きながら、ミナミは目を閉じた。

第八楽章

「…ん」
 目を開けると、そこは誰かの家らしかった。
「ミナミ!」
「し…おん?」
 重い体を起こそうとすると、シオンに止められた。
「ここは…?」
「…マホの家」
 その言葉にミナミは全てを思い出した。
「シオン、無事!?」
 思わず飛び起きる。頭が少し痛んだが、それどころではない。
「オレは大丈夫だよ。…それより、」
 なんであんなことしたの。
 そう問いかけるシオンの顔は真剣で、恋心を自覚した直後にこんな顔に見つめられるのは耐えられない。ミナミはそっと視線を外した。
「…あんなことって?」
「俺をオレをかばっただろ。“自己犠牲至上主義”嫌いなんじゃなかったのかよ」
 そういえば、自分はあれだけバカにしていた女たちと同じことをしたのか。ふと笑みが漏れた。
「わかんないけど、なんか勝手に体が動いてた」
「勝手にって…」
「ごめんね、シオン。でもたぶん、また同じようなことがあったら私、同じことすると思うの」
「…だから嫌いなんだよ」
 ちいさな声で呟かれたせいで聞き取れなかった言葉を確かめようとした瞬間。
 シオンの胸の中にいた。
「シ、オン…?」
「心臓止まるかと思った。どんだけ呼んでも目開けなくて」
「…ごめん」
「嫌いだって。嘘だったのか」
「違うよ、男のために無条件に命を落とすのがきれいな死に方だなんて考え方は大嫌い。でも、好きな人を助けられる方法がそれしかないって思ったら、そうするしかなかった」
「…それって、」
 シオンの驚いた顔を見て、自分の失言に気が付いた。
「…あ、いや、あの、そのね、だから、」
「なに、ミナミってオレのこと好きなの?」
 シオンの顔が意地悪なものになった。
「し…知らない!」
「へぇ、オレは知ってたけどな、ミナミがオレのこと好きだって」
「な、なんで!」
「態度でバレバレ」
「うそ!」
 転がされているのがおもしろくなくて反撃を試みたいのに、それはつまり「私のこと好き?」と聞くことを意味していて、ミナミは頭を抱えた。
 不意に、ミナミを抱きしめるシオンの腕の力が強くなった。驚いて顔を上げるとそこには、とても優しい顔をしたシオンの顔があった。
「オレも好きだよ、ミナミ」
 よく見ると少し赤いシオンが可愛くて、ミナミは頭を抱えていた手を、シオンの首に絡めて抱きしめた。

最終楽章

 突然、部屋のドアが開いてマホが姿を現した。ミナミは体を強ばらせたがシオンがそんなミナミを安心させるように囁く。
「大丈夫。ミナミが眠ってる間に話つけた。もう攻撃してきたりはしねぇよ」
 その言葉に安心してマホを見る。その顔からはもう毒気はすっかり抜けていて、少し青ざめているようだった。
「具合、大丈夫?」
「えぇ、もう平気です」
「ごめんなさい、あんなことして」
 そう言って深く頭を下げたマホは本気で反省したのだろう。肩が小さく震えていた。
「誤解していたみたい、あなたたちのこと。白い目で見られるのが怖くて全く上に行かなくなってしまっていたから、まだ魔女は悪者認識なんだと思っていたの。でも、そうじゃなかったのね」
 少なくともシオンは、そんな認識じゃなかった。そのことがきっと、マホを救ったのだろう。
「反省してくれたならもういいです。私も魔女のこと誤解してたし、お互い様です」
「…ありがとう」
 そう言って笑ったマホは、今までで一番綺麗だった。
「そもそも王族が誤解を解かなかったのは確かだから。ミナミに巻き込んだのは許せなかったけど、全部そっちに非があるわけじゃない」
「…あなたみたいな人が王族にいるなんてまだちょっと信じられないわ」
「あ、それ私も最初思いました」
 そう言ってくすくす笑うミナミとマホにシオンは少し居心地が悪かった。
「…なんでちょっと仲良くなってんだよ」
「何か言った?」
「別に」
 拗ねたような表情のシオンに、二人はまた顔を見合わせて笑った。



「話があるの」
 ミナミに突然そう切り出された海斗は嫌な予感がして、内心の動揺を悟られないように答えた。
「なに」
「…もう、海斗に会えない」
 嫌な予感はあたるんよなぁ、俺。
 どこか他人事のように感じながら、焦っている自分も確かに存在していて、どうするべきかわからない。
「なんで?」
「決めたの、人間にはならないって。だからもう…」
 なにかがあったのだろう。なにかがミナミを変えた。ミナミの瞳は揺るがない。
 人間になりたいと熱く語り掛けてきたときと同じぐらいに。
「人魚として、生きるんか」
「…うん」
 刹那、ミナミがとても幸せそうに笑ったのを見て海斗は悟った。
 きっともう、引き止める方法なんてない。
「…そうか」
「今まで楽しかった。ありがとね」
「おう」
「新しいガールフレンド、早く探しなよ」
「余計なお世話だ」
 こんな軽口をたたくのも最後かと思うと胸が締め付けられた。それでも笑う。いつものように。
「…じゃあね」
「ん、元気でな」
「そっちもね」
 言葉少なに別れの挨拶を交わす。引き止めたいという感情を押し殺しながら。
「さようなら」
 その言葉を残して、ミナミは海に消えた。
 行くな、別れなんて嫌だ、
 すきだ、なんて。
「言えるかよ、ばか」
 目頭が熱いのに気づかないふりをして、海斗は海に背を向けた。



「おわったのか?」
「うん」
 大切な人に別れを告げて、ミナミはシオンの元へ戻った。
 こんな風潮を壊したい。マホのような人を救いたい。
 だから、人間にはならない。
 シオンにそう告げられても、ミナミはシオンと共にいることを選んだ。
 人間になってこの世界から逃げるより、シオンと一緒に頑張りたい。そう伝えたときのシオンの嬉しそうな顔が忘れられない。
「よかったのか、“ぼーいふれんど”ともう会えなくても」
「…なに、ヤキモチ?」
「違う」
 拗ねたような表情に顔がほころぶ。きっとシオンとなら、どこにいたって幸せだ。
「行こ、シオン」
 手を引いて泳ぎだす。
 この世界で、足じゃなくて尾びれで、二人で前に進んでいく。
 そんな決意が伝わったのか、繋がれた手にぎゅっと力がこもった。

マーメイド・ラプソディ

マーメイド・ラプソディ

幼い頃から人間になりたいと願う人魚、ミナミ。 周りに内緒で人間のボーイフレンドを作り、人間になるための方法を探す毎日。 そんなある日、ミナミは赤い髪の少年に出会う。 大きな大きな海の世界の、恋のお話。

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更新日
登録日
2014-10-11

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  1. オープニングアクト
  2. 第一楽章
  3. 第二楽章
  4. 第三楽章
  5. 第四楽章
  6. 第五楽章
  7. 第六楽章
  8. 第七楽章
  9. 第八楽章
  10. 最終楽章