雨がやんだら(2)

「森さんに、〈ヴェルマ〉がバレちゃいましたか……」花田博之が言った。
「まァ、いずれはバレたと思うけど?」
「確かに……だけど、勝矢も馬鹿だなァ。そこまでしなくてもよかったのに――」
「そんなことを言うもんじゃないさ。彼も、悪気があったわけじゃない」
「元々は、僕が原因なんですもんね」
「そうだ。それに……また、別の溜まり場を探せばいいのさ」私は井原、勝矢、そして池畑たちに言ってやれなかったアドバイスを口にした。
「そうかもしれませんね」博之がベッドに横たわる女を見つめたまま続けた。「それで、〈ヴェルマ〉には行ったんですか?」
「当然さ。そうじゃなきゃ、ここに来ることはできないだろう?」
「そうでした……ところで、〈ヴェルマ〉に行ったのなら、〝カツスパ〟は食べましたか?」
「名物らしいね。私は随分と手こずったけど」
「〝私は〟って、どういう意味なんです?」
「森さんも……彼女も〝カツスパ〟を食べたんだよ」
「本当ですか?」
「そんなことで、嘘ついたって、なにも始まらんだろう?」
 小さく笑った博之に、私は〈ヴェルマ〉を訪れたときのことを話し始めた。

   五

 森真砂子は、私を取り残してセンチュリーを駐車させに行ってしまった。彼女を置き去りにして、このまま私ひとりで〈ヴェルマ〉に向かうこともできるのだが、彼女は依頼人である林信篤が学院長兼理事長を務める〈聖林学院〉の職員だ。この稼業では依頼人の言うことは絶対で、真砂子が林の代理である以上、彼女を無下に扱うこともできず、私は三鷹駅前で彼女を待たねばならなくなった。
 実は三鷹駅前は昨今増えつつある〝路上喫煙禁止地域〟というヤツで、煙草を喫うこともできず――先刻バスを待つ間には気がつかなかった――私は彼女が姿を見せるまでの時間を、行き交う人々を眺めてつぶすことにした。土曜日の夕刻ということもあって、背広姿の勤め人よりも、家族連れや若者たちの姿が目についた。駅から出てくるのは、休日を楽しんだ家族連れで、駅に向かうのは、これから夜の街に繰り出す着飾った若者たちで占められていた。
 真砂子が戻ってきたのは、私の腕時計がちょうど十九時三十分を指したときのことだった。
「すいません。お待たせしてしまって」
「車は?」
「コインパーキングに停めてきました。駅前が空いてなかったもので……少し遠くまで行ってしまいました」彼女の言ったことが嘘ではないことは、額にうっすらと浮かんだ汗が証明していた。
 真砂子がハンカチで額の汗を拭うのを待って、私は勝矢に聞いた〈ヴェルマ〉に向かって歩き出した。バスロータリーを抜けて、勝矢から教えられた目印である銀行の角を左に曲がり、十メートルほど進んだところにある雑居ビルの一階が、私たちが目指す〈ヴェルマ〉だった。
 レンガ調の外壁にツタを絡ませた店構えで、道路に置かれた立て看板には、緑地に白い文字で〝Velma〟と記されていた。
「ここ……ですか?」少し緊張しているような面持ちで、横に並んだ真砂子が言った。
「そのようですね」私は彼女に答えて、色褪せた木製のドアを開けた。
 〈ヴェルマ〉はテーブル席が四つと、カウンター席が五つのこぢんまりとした店だった。カウンター席には、私たちに背を向ける恰好で、髪の短い女が座っていた。カウンターの中には、私と同年配のふくよかな女がいて、ふたりはカウンターを挟んで、なにやら話し込んでいた。
 カウンターの中にいる女が、店に入ってきた私たちに「いらっしゃいませ」と明るく声をかけてきた。カウンター席の女は立ち上がって、こちらを振り返った。ジーンズに淡いピンクのポロシャツを着て、表の看板と同じ緑色のエプロンをした背の小さい、陽に焼けた少女だった。
「さっきは、ありがとう」私は見覚えのある少女にお礼を言った。
「あァ、バス停の……」少女は、先刻のことを思い出してくれたようで、ニッコリと笑って「どういたしまして」と返してきた。
「お知り合い……なんですか?」真砂子が、私たちの様子に気づいて訊いてきた。
「先ほど、男子寮にお伺いするときなんですが、駅前で迷っていた私に、バス乗り場を教えてもらったんです」真砂子に彼女との出会いについて、ざっと説明をしている間、少女は照れくさそうに、はにかんでいた。
 私は少女に訊いた。「きみは、ここでアルバイトを?」
「アルバイトじゃないです。ここ、ウチの店なんです」
「じゃァ、正確には、手伝いってところだ?」
「はい、そうです」と少女が頷いた。
「チエのお知り合いなんだ……私、チエの母です」カウンターの向こうで女は自己紹介をしてから少女――チエというらしい――を促した。「立ち話もなんだから、席にご案内して」
 チエは元気良く「はい」と答えて、私たちに言った。「おふたり……ですよね。テーブルとカウンター、どちらにされます?」
「カウンターでいいかな? ちょっと、訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと? なんなんです?」カウンターの向こうから、チエの母親が言った。
「〈聖林学院〉の生徒さんに、こちらのお店によく通ってると聞いたんですが……その生徒さんについてね、話を聞かせていただきたいんです」
「あの……なにが、あったんですか?」チエの母親は顔を曇らせた。
 彼女の表情を見て、真砂子はハンドバッグから名刺を取り出した。「わたくし、〈聖林学院〉の森と申します」
「あら、〝ハリ校〟……あ、ごめんなさい。〈聖林学院〉の方なんですか」
「ええ、そうです。それで……こちらは我が学院で調査を依頼した方です」
 私も名刺をチエの母親に渡した。名刺を覗き見たチエが、私の爪先から頭までをじろじろと観察する。
「こちらの方のことは、わたくしが保証しますので、お話しを聞かせていただけますか?」
「わかりました」チエの母親は、受け取った二枚の名刺を交互に見つめた。「まずは、おかけになってください」
「ありがとうございます」と言って、カウンター席に腰を降ろしてから、真砂子がつけ加えた。「それと……我が学院のことですが、〝ハリ校〟で構いませんよ」
 私も真砂子の隣に腰を降ろしたのをきっかけに、チエの母親が言った。「そうでしたか……〝ハリ校〟の方だったんですね。わたし、てっきり警察の人かと思って……最近は、美人の刑事さんもいるんだなァって」声のトーンが、心なしか上がったように聞こえる。
 〝美人〟と言われた真砂子の頬が、赤らんでいた。私の顔も赤く染まっているかもしれない。もっとも私の場合は、世の中で一番間違えられたくない稼業に、間違われたせいだからなのだが。
「それで、訊きたいことってなんですか?」私たちの前に〝お冷や〟を並べながら、チエが言った。
「その前に……ひとつ、お願いがあるんです」
「なんでしょう?」とチエの母親。
「これからお話しすることについては、どうか内密にしておいてください」
 私の言葉に合わせて、隣で真砂子が頭を下げる。
「はい。他のお客さんには話しません」
 カウンターの向こうでチエの母親が答えた後、私はトレイを胸の前で抱えて立つチエに視線を向けた。
 チエはカウンターにトレイを置いて、選手宣誓をするかのように右手をピッと伸ばした。「はァーい。みんなには、内緒にしまァーす」
「チエっ! 真面目に答えなさい」母親がたしなめると、チエは舌をペロっと出してから「みんなには、言いません」と神妙な顔をして答えた。
 このチエが一番心配なのだが――この母親がいれば、〈ヴェルマ〉から花田博之の件が漏れることはない、と楽観的に考えるしかない。
 先日、事務所で依頼人である理事長の林から受け取った花田博之の写真を、チエの母親に見せた。「この生徒さんについて、お話をお聞きしたいんです。名前は――」
「あら、花田君じゃない」写真を一瞥しただけで、チエの母親が名前を言い当てた。
「ほんとだ、博之だ」伸び上がって写真を覗き込んでいたチエが続く。
「彼を、知ってるのか?」〝博之〟と親しげに呼んだチエに訊いた。
 チエは、私からひとつ離れた椅子に腰を降ろした。「知ってるもなにも、博之はウチの常連です」
「常連?」チエの回答に敏感に反応したのは、真砂子だった。口調と目に力がこもっている。
 どうやら、真砂子は見た目とは裏腹に、感情が表に出てしまうタイプのようだ。本題に入る前からこの調子では――私はチエに声をかけた。「注文が、まだだったね。コーヒーをもらえるかな」
 真砂子に圧倒されてしまったのか、チエはカウンターに置いたトレイに視線を落としたままでいた。
「チエ、ご注文よ」
 母親の声に、チエは視線を上げた。チエが真砂子に訊いた。「あの……ご注文は?」
 真砂子は「同じものを」と答えた。自分のしたことに気づいたのか、声は小さかった。
 それを聞いたチエが「ブレンド、ツー」とカウンターの向こうにいる母親に告げた。
「ブレンド、ツーね」チエの母親が、サイフォンをふたつ用意して火にかける。それから彼女は、私にだけわかるように、小さな笑みを投げかけてきた。注文を受けてからコーヒーを淹れてくれる店は久しぶりだったので、その期待も込めて微笑みを返した。
「さて、その常連さんの花田君は、どれくらいのペースで通ってるんだい?」私はチエに訊いた。
「週に二、三回ぐらいです」
「いつも、ひとりでくるのかな?」
「いつもじゃないです。週に一回は、必ず〝ハリ校〟の子たち……」チエが目を伏せた。
 私の隣にいる真砂子が気になるのだろう。身体をチエの方に捻って、真砂子が見えないように死角を作ってやった。「それは……池畑君や、井原君たちと、一緒に来てるってことだね」
「はい、そうです」
「あとは、ひとりで?」
「はい。学校の帰りだったり、遊びに行った帰りだったり」
「じゃァ、この店で花田君と仲のいい他の常連さんは、いるのかな?」
「うーん、特別誰かと仲がいいってことは、ありません……てゆうか、話しかけられれば、誰とでもおしゃべりしてますけど」
「そうですね。娘の言うとおり、特に仲がいいって、お客さんはいませんね」カウンターの向こうから、チエの母親がチエの言葉を裏づけた。「それに……花田君、ひとりで来たときは、基本的にコーヒー飲みながら、本を読んでるんですよ。ここで本を読んでるときが一番落ち着くなんて、うれしいことを言ってくれましたけど……言うことが大人っぽいっていうか、子供っぽくないっていうか」
 先刻、〈聖林学院〉の管理人たちは、花田博之の印象を
 ――かわいげがない
 ――大人を馬鹿にしている
 と語っていた。
 表現が違うだけで、チエの母親も彼らと同じ印象を花田博之に抱いているのだろうか。私は〝大人〟という厄介なフィルターを持っていないチエに訊いた。「池畑君や井原君……学校の仲間たちと、この店に来ているときは、どんな様子なんだろう?」
「うーん、普通……かな。池畑君たちみたいに、馬鹿騒ぎはしないし……」
「池畑君……ね」池畑が先刻の食堂のように、この店で先頭を切ってはしゃいでいる彼の姿は、容易に想像できた。
「ただ、馬鹿騒ぎをしないだけで、楽しそうに池畑君たちと一緒におしゃべりもするし、誰がお勘定するかでギャンブルもします……そうそう、博之はギャンブルが強いんです」
「ギャンブル? ギャンブルって、どういこと?」〝ギャンブル〟という言葉に敏感に反応した真砂子の表情は、こちらを向いたチエの表情から簡単にうかがうことができた。
 私は振り返って真砂子に言った。「勘定を誰がするかなんて、ギャンブルっていうほどのことでもないでしょう」
「しかしですねェ――」
「ただの遊びですよ」食い下がる元教師の教務課主任を制して、私はチエに訊いた。「ギャンブルっていうのは、どういうことをするんだい?」
「あの……お店にトランプがあるんですけど、それでポーカーをやったり、大貧民をやったり……」
「それで、勝つのはいつも花田君なんだ?」
「はい。博之が負けたのを、見たことがありません」そう言ってから、チエは母親に同意を求めた。「そうだよね、母さん」
「連戦連勝よ」チエの母親は、沸騰するサイフォンの火加減を見ながら答えた。
 授業中の教師を観察して、テストで出題される問題を的中させることができる少年にとって、同級生相手のトランプゲームなど朝飯前のことに違いない。
 チエの母親は、サイフォンを火から外して少し落ち着けた後、アイボリーのカップにコーヒーを注いだ。「ブレンド、ツー上がったわよ」
 母親に声をかけられたチエは、カウンターの向こう側に入りコーヒーカップをトレイに乗せると、コーヒーを私たちの前に並べた。淹れたての芳しい香りが鼻をくすぐる。
「だけど……花田君、最近は顔を見せないわね」チエの母親が言った。
「そうだね。なにがあったんだろう……池畑君たちに訊いても、なにも教えてくれないし」チエが元の椅子に腰をかけた。「博之、どうしたんですか? なにか、あったんですか?」
 池畑たち生徒が健気に守っていた箝口令を、私が勝手に破るわけにはいかない。真砂子に視線を向けた。彼女は、ありのままに話をしても構わない、と小さく頷いた。
「実はですね……花田君の行方がわからなくなってましてね」
 チエの母親はカウンターの向こうで動きを止め、チエは口元に両手を運んだ。
 驚きの声は、両手の隙間から漏れてしまっていたのだが。

   六

「先々週の木曜日になりますか、花田君がこちらの学院の寮から、姿を消してしまった……まァ、それで、私が雇われたというわけなんです」
「そうだったんですね……」チエの母親が言った。「てっきり、花田君の素行調査だと思ってました」
「素行調査……花田君は、そんな問題児なんですか?」
「いいえ。そういうことじゃありません」チエの母親が顔の前で手を振った。「あなたのような仕事をしている方が、前も来たんです。ウチに来る子たちの素行調査だって」
「なるほどね。まァ、私は花田君がこの店によく通っているということで、花田君を捜す手がかりがあるんじゃないか、と思ったんですが……」
「手がかりですか?」チエの母親が右手を額に当てて考え込んだ。
 チエは私からひとつ離れたカウンター席で、店の壁に掲げられたカレンダーを見ていた。出入りの酒屋にでももらったのか、カレンダーにはビールジョッキを手にした水着のモデルが写っている。あの手のカレンダーに目を引かれるのは、男と相場が決まっているはずなのだが。
「ねェ、母さん」チエがカレンダーを目にしたまま、声をかけた。
「どうしたの? チエ」
「先々週の木曜ってさ、博之が朝ひとりで来たって日のことじゃない? 母さん、言ってたじゃない。博之が朝一番にお店に来たって」
「あら、そうだったかしら?」とチエの母親。
「そうよ。だって、その日、博之に本を返す約束してたのよ。それに……それからよ、博之がお店に来なくなったのは」
「そう……あれは、先々週の木曜のことなのね」
 私は母娘の会話に割って入った。「花田君は、モスグリーンのカバンを持ってませんでした?」
「持ってました。そう、それで制服を着てなかったわ」チエの母親の中で、記憶が蘇ってきた。「だから、どうしたんだろうって思ったのよ」
「そのときのこと、思い出せる限り、詳しく話していただけますか」私はコーヒーを一口すすった。好みのブレンドではないが、丁寧に淹れられた美味いコーヒーだった。
「ウチはモーニングをやっているので、七時には店を開けてるんです。あの日、花田君が来たのは……店を開けてすぐでしたね」
 ――七時に起床した時には博之の姿はなかった
 池畑の証言と合致する。
「彼は……花田君は、なにをしにここへ?」
「朝ご飯を食べさせて欲しいって」チエの母親が答えた。
 男子寮を抜け出した花田博之は、まず腹ごしらえのために〝行きつけ〟の〈ヴェルマ〉を訪れたようだ。早々に姿を消してしまうことより、朝食を摂ることを優先させたのは、彼がいわゆる〝食べ盛り〟の年頃だからなのだろうか。
 私は訊いた。「そのときに、どこかに行く……とか、なにか言ってませんでしたか?」
「いや……木曜なのにね、制服を着てなかったんで、どうしたのって訊いたんです。そうしたら、花田君は、急なんだけど、お父さんに会いに行かなきゃならくなったって答えたんですよ」
「お父さんに会いに行く……ということは、千葉ですかね」私は真砂子に訊いた。先日、〈聖林学院〉の学院長兼理事長である林信篤から受け取った資料に、花田博之の保護者は千葉県にいると記載されていたのだ。
「さあ、そこまでは……聞いてないですね」真砂子が答えた。
 花田博之は実家のある千葉県に向かったのか、それとも別の場所へと向かったのか――ともかく、彼の居場所を捜すためには、博之は姿を消す直前に面会の約束をしていた彼の父親に接触せざるを得ない。ただ、私がこうして雇われている理由は、〈聖林学院〉に多額の寄付をしている花田博之の保護者に、博之の失踪を知られたくないからなのだ。依頼人である林は、この事実にどういう顔をするだろうか。
 ――せっかくの上客を逃したか……
 私はカウンターに灰皿が置かれていることを見つけて、私にとっての精神安定剤――ニコチンを補充するため、煙草をくわえてブックマッチで火をつけた。なんの断りもなく煙草を喫い始めたことに、真砂子が咎めるような視線を投げつけてくる。マナー違反は重々承知だが、私は気づいていない振りをして最初の一服を深く喫い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「博之が店に来なくなったのは、お父さんに会いに行ってからなんだ……」チエが小さく呟いた。
「きみは、どうしてだと思ってたんだい?」
「さっき、博之が〝ハリ校〟の子たちとギャンブルやって、いつも勝ってるって話したじゃないですか……」
「その話は聞いたよ」
 チエがうつむいて言った。「だから、そのせいで池畑君たちに〝ハブ〟にされてるのかと思ってて……」
 真砂子が私の耳元で「〝仲間はずれにされてる〟ということです」とささやいた。
 ――それぐらいのことは知っている
 真砂子に言い返そうとも思ったが、面倒くさいので口にはしなかった。その代わりに、目の前の少女に声をかけてやることにする。「そんなことはないさ。花田君がこの店の常連だというのは、池畑君や井原君……そういった花田君といつも来ている仲間が教えてくれたんだ。そして……彼らも、花田君のことを心配している」
「そうなんですか?……だとしたら、よかったです」チエの顔に明るさが戻ってきた。
「しかし、なんだね。きみは……この店に来る〝ハリ校〟の生徒さんたちの中で、花田君と一番仲がいいみたいだね」
「そんな……わたしは特別、博之と仲がいいわけじゃありません」すかさずチエが否定をした。
 コーヒーをすする私の肘を、真砂子が小突いた。私の発言に教育上の問題があったということではない。彼女にしてみれば〝野暮なことは言うな〟と伝えたかったのだろう。
「だいたい……あいつ、生意気なんです。歳下のくせに」
「歳……下?」と真砂子。
「この子、こう見えて高三なんですよ」カウンターの向こうから、チエの母親が言った。
「こう見えてって、どういうこと?」チエが母親に噛みついた。
 この手のやり取りはもう慣れっこなのか、母親は「はいはい」とだけ答えた。
 軽く受け流す母親をひと睨みして、チエが言った。「あのォ……ひとつ訊いてもいいですか?」
 私は「どうぞ」と、チエに答えた。
「博之のお父さんのことなんですけど……」
「彼の父親が、どうかしたのかな?」
「博之のお父さんって、シモヤマブンメイなんですか?」チエが上目遣いで、私を見つめてきた。
「え?」コーヒーカップを手にした真砂子が声を上げた。「シモヤマブンメイって、あのシモヤマブンメイのことなの?」
「はい。いつだったけかな……ごめんなさい、詳しい日付は覚えてないんだけど、ニュースかなにかに、シモヤマブンメイが出ててたとき、博之が〝オヤジのヤツ、またなにか始めたな〟ってボソっと言ったんです」
 シモヤマブンメイ――記憶のどこかに引っかかっているのだが、はっきりとは思い出せない。記憶をたどる私を無視して、真砂子とチエの会話は続いた。
「そんなはずは、ないわ。だって、彼……独身よ」真砂子が言った。
「ですよね。だから、わたしも訊いたんです。博之に〝シモヤマブンメイが、お父さんって嘘でしょ?〟って。そうしたら、〝嘘じゃないよ。僕のオヤジだよ〟って笑ったんです」
「そんな……昔、結婚してたのかしら?」と真砂子。
「でも、〝ハリ校〟に入ってからは会ってないし、話をしたこともないって言ってたんですよ。もしかしたら、冗談かもしれませんね」
 思い出した――私は上着から手帳を取り出し、ある男の名前を書きつけて、ふたりの会話に割って入った。「……きみの言っているシモヤマブンメイっていう人は、こんな字を書くんじゃないか?」
「そうですけど……」手帳に書いた〝下山文明〟という名前を見たチエが答えた。
 池畑が花田博之から、プロデューサーになりたいのなら読んでおいた方がいい、と言われて借りた本――『流行り廃りが、商売さ』、いや『流行り廃りが、人生さ』だったか――の著者が、下山文明だった。ただ、それでは理事長の林信篤からもらった資料に記載された保護者の名前とは違っている。私は、広がってしまわないよう天井に向かってぷうっと煙を細長く吐き出してから、コーヒーを一口すすった。
「すいません……ちょっといいですか?」ニコチンとカフェインを補充する私にチエが言った。板書された漢字に誤りを見つけた生徒のように、強い口調だった。「ひょっとして、なんですけど……下山文明のこと、知らないんですか?」
「知らないよ」
「ええェ!」真砂子とチエが、揃って声を上げた。
「ご存じ……ないんですか?」
「……どうも、有名人のようだね。本も出してるみたいだし」
 チエは「嘘……」と言葉を漏らした。
「本当に知らないんですか?」と念を押す真砂子に、私は頷いて応えて煙草を喫った。
 腫れ物にでも触るような顔をしたチエが言った。「有名なプロデューサーです。この間も、お台場で――」
 その後、チエの口から並べられたいくつかのイベントや、何人かの歌手やタレント、モデルの名前は、私の知らないものばかりだった。
 結局、チエは下山文明という男について、知っているだけの情報を出し惜しみせず披露してくれたのだが、すべてが出揃ってみても、私にはわからないことだらけだった。
 彼女たちからすれば、今の私は呆けた顔をしているのだろう。痺れを切らした真砂子がチエに言った。「まァ、下山文明がプロデュースするのは、〝若い人たち向け〟のイベントだったり、歌手だったりでしょ? 知らないのも無理ないわ」〝若い人たち向け〟という言葉を強調して、私には憐れむような視線を投げつけてくる。
「そうですね……でも、ウチのお母さんも知ってるんですよ」チエが追い打ちをかける。
 私は彼女たちの残酷な仕打ちに耐えながら、煙草を喫い続けた。
 そんな私を慰めてくれたのは、私と同年輩であるチエの母親だった。まずは「まァまァ」とふたりをなだめて、カウンターの向こうから私に言った。「下山文明さんのことは、この子がいなかったら、わたしも知らなかったはずです」
「そうかなァ……」と、チエが呟くのが聞こえた。
 このひとつ分しかない座席の間あるジェネレーションギャップは、どうにも埋めがたい。私は席を隣にする真砂子に訊いた。「私がいただいた資料では、花田君の父親は、下山文明とは書かれてなかったんですが……事情は、わかりますか?」
「さァ、わかりません」真砂子が首を横に振った。「……それより、あなたは下山文明が、花田君のお父さんだと考えてらっしゃるんですか?」
「私は、そう考えています」
「えェ? 下山文明のこと、ご存じないんですよね……なんで、そんな風に考えるんです?」真砂子が見下すように言った。
 さらなる残酷な仕打ちに耐えて、理由を答えた。「先ほど、池畑君が言ってましたね。花田君が〝三年ぶりにオヤジと話をした〟と。そして、花田君は彼女にテレビに映る下山文明がオヤジだと言った際、〝入学して以来、オヤジとは話をしていない〟とも言っている……そして、花田君は〈聖林学院〉に入学して三年だ」
「つまり、同じことをしゃべっている…ということですか?」と真砂子。
「ええ。そうです。偶然にしては、出来過ぎじゃないですか」
「……確かに、仰るとおりかと」
「まァ……正確なところは、理事長の林さんに話をうかがってみないと、わからないでしょうが……その辺りのことは、林さんで確認が取れますか?」
「大丈夫だと、思います」真砂子が真顔に戻って答えた。
 私と彼女の間にあったジェネレーションギャップは、私の推理と花田博之の捜索という共通の目的で、埋めることができたと思うことにする。
「理事長は、今日は会合とのことでしたが……何時になれば、連絡が取れるんです?」
 真砂子が左手に巻いた腕時計を確かめた。「もうそろそろ、終わる時間ですね。ちょっと、電話してみます」
 真砂子に「お願いします」と伝えると、彼女は一礼して、ハンドバッグを手に店を出ていった。
 席を立って真砂子を見送ったチエが、独りごちた。「博之、どこに行っちゃったんだろう――」
「チエ、それを調べるために、こちらの方が〝ハリ校〟さんに頼まれたのよ」チエの母親は娘に、そっと声をかけた。「それに、花田君なら大丈夫。変なことに巻き込まれてるようなことは、ないわよ」
「そうなら、いいけど」チエは元の席に戻った。
 私はチエの母親に訊いた。「今、〝花田君なら大丈夫〟だと仰いましたけど、なにか理由はあるんですか?」
「花田君、ほんとにしっかりしてるんです。なんか悪さをしたり、犯罪に巻き込まれたりなんて、考えられません」
「なるほど」煙草を灰皿で揉み消した。
「だけど、しっかりした子だから、気になるんですよ。いつも、背伸びをしてるっていうのか、必死になってるっていうのか……大人に甘えてもいいのに、なにか必死に我慢をしているように、感じるときがあるんです」
「それが、かわいげがないように見えるときもあるっていうことですね」
「そうです。まァ、こればっかりは、わたしが信用されてないからかもしれないんですけどね」チエの母親が小さく笑った。やけに寂しく見えた。
 真砂子が出ていった〈ヴェルマ〉は、空気が重く感じられた。この嫌な空気を変える意味も込めて、私はチエに質問をした。「ところで、きみはさっき、花田君に本を返す予定だったって言ってたね?」
 突然の質問にチエは肩をビクっとさせた。「はい……」
「どんな本を借りたのかな? 実はね、池畑君も花田君から本を借りてるそうなんだ」
「池畑君が?」
 目を丸くするチエを見て、池畑が普段は活字に縁がない生活を過ごしていることがうかがえた。
「なんでも、花田君から将来のために読んでおいた方がいいって、勧められたそうだ」
「へー、そうなんですね。博之もやるなァ」目を輝かせて言った。
 読書をする池畑に感心したのか、それとも池畑に本を貸したことに惚れ直したのか――野暮なことは訊かずに別のことを言った。「それで……きみは、花田君になにを借りたんだろう?」
「詩集です」
「詩集?」
「はい。わたし、授業で読んだんですけど、気に入った詩があったんで……それで、博之に聞いてみたんです。そしたら、その詩人の詩集を持ってるっていうから、貸して欲しいって頼んだんです」
「……中原中也の詩集かな?」
「そうです。中原中也です。よくわかりましたね」
 チエには詳しい説明を省いて、花田博之の本棚を先刻調べた際に、小林秀雄と坂口安吾の本が、数冊並べられていたからだと告げた。中原中也でなければ、フランスの詩人――ランボーか、ボードレールの名前を口にするつもりだったとも。
 難しい顔をして、私が推理した理由を聞くチエの顔を見て、私には教師の才能はないことに、気づかされたとき――端から教師になろうとは考えていないが――真砂子が〈ヴェルマ〉に戻ってきた。
「すいません。学院長に繋がらなくて……まだ、会合が続いているのかもしれません」真砂子が恐縮して言った。「留守番電話に録音もしましたし、メールも送りましたので、遅くとも九時には、連絡が取れるようになると思います」
「わかりました」と答えて、腕時計を見てからチエの母親に訊ねた。「この店は、何時までですか?」
「八時まで、ですけど……」チエの母親は、店の時計で時間を確かめた。「このまま、ウチでお待ちになられても問題ないですよ」
「それは、ちょっと心苦しいですね」閉店時間まで十分を切っている。
「いいえ、気になさらないで。後片づけもありますから。それに明日は定休日ですし……」チエの母親は、娘に目をやった。
 チエが真剣な顔をして、こちらの話に耳をそばだてていた。
 そんな娘の様子を見て、母親は柔らかな表情を作った。「それに……なにより、〝わたしたちも〟花田君のことが、気になりますから」
 私もチエの方を見やると、母親の〝わたしたち〟という言葉に反応した彼女の顔は、日焼けとは違って赤く染まっているように思えた。
 去年までは教師だっただけあって、真砂子も少女の微かな変化に気づいたようで、チエを優しい眼差しで見つめている。
 私は言った。「それでは、お言葉に甘えさせていただきますか」
 私の隣で真砂子が「お手数をおかけします」と頭を下げた。

   七

 二十時になろうとしている。さすがに空腹を覚えていた。
「なにか、食べるものはできますか?」この際ばかりと〈ヴェルマ〉の女主人――チエの母親の厚意に甘えることにした。
「できますよ」とチエの母親が答えると、すかさずチエがメニューを開いて私の前に置いた。メニューをみっれば、記載されているのは、カレーライスにスパゲティ、サンドイッチ――一昔前でいう〝軽食〟というヤツがメインだった。
「ウチのお奨めは、〝カツスパ〟です」とチエ。
「〝カツスパ〟?」
「はい。博之や〝ハリ校〟の子たちにも、人気のメニューなんですよ」
 チエが指差したメニューの左側、真ん中あたりに印刷されている〝カツスパ〟の上には〝当店人気No.1!〟と、手書きで記されていた。
 私とチエのやり取りを聞いていた真砂子が、目を閉じて眉間にしわを寄せていた。
「どうしました?」私は真砂子に訊いた。
 真砂子は、私の問いかけには答えず、チエの母親に声をかけた。「あの……店の外で、電話をしていて思い出したんですけど、ここのお店、以前は〈タケモト〉という名前のお店じゃありませんでした?」
「……はい。そうです。よくご存じですね」突然の質問に戸惑いを見せながら、チエの母親が答えた。
 真砂子が顔を明るくした。「やっぱり……〈タケモト〉には、よく通ってました」
「あら、いつ頃?」
「……高校の頃です」うつむき加減に真砂子が答えた。
 彼女もかつては、校則違反の〝常習犯〟だったのだ。〈聖林学院〉の生徒たち――特に池畑や井原、勝矢が聞いたら、いったいどんな顔をするだろうか。まあ、この程度のことは誰しもがやってきたことで、目くじらを立てるほどのことではない。私はやけに恐縮する真砂子を見ながら、コーヒーをすすった。
「あなたの年頃からすると、わたしはまだお店にいなかったわよね?」
「はい」真砂子が頷いて答えた。「当時のマスターは、お年を召した方でした」
「そうよねェ……主人の父が定年してから始めた店ですもの」
「では……あの当時のマスターは?」
「主人の父も母も、健在よ。今はふたりとも隠居して、甲府の方で悠々自適の生活をしてるわ」
「そうですか……〈聖林学院〉で働くようになって、懐かしくて近所までは来てたんですけど、見つからなくて。お店を閉めたんだと思ってました」
「あらあら、それはごめんなさい。店の名前を変えたのは……主人とわたしでお店をやるようになって一年ぐらいしてからだから、十年ぐらい前かしら。主人がね、店の名前を〈ヴェルマ〉にするって言い出して」
「店の名前が変わってたんですね……だけど、どうして〈ヴェルマ〉なんですか?」
「――御主人が、ヘラ鹿のような大男……とか?」私はふたりの会話に割って入る恰好で訊いた。
 チエの母親は口元に手をやり、ひとしきり笑ってから答えた。「……いいえ。そこまで大男じゃないわ。それに、どうでしょう……彼のようにロマンチストではないわね。今日だって、糸の切れた凧みたいに、どこかに遊びに行っちゃってね――」
 彼女の愚痴にはつき合わず、私は新しい煙草をくわえて訊いた。「彼は……ロマンチストなんですかね?」
「わたしは、そう思うわ。だって一途だもの。ただね……わたしは、性悪女じゃないわよ」
「でも、〝ハリ校〟の生徒さんたたちが、この店に入り浸るということは、彼らにとってあなたは……性悪女になるんじゃないですかね?」
「性悪女は、きつい表現じゃないですか?」真砂子が私たちの会話に加わった。彼女も私たちの会話の〝元ネタ〟を知っているようだ。「ファムファタールと言った方がいいと思いますけど。その方が、魅惑的です」
 チエの母親は真砂子の言葉を聞いて、再びおかしそうにひとしきり笑った。「そうね……確かに、性悪女はきついかもしれないわね。だけど、ファムファタールは……恰好良すぎよ」
「そうですか? 性悪女よりはいいと思いますけど……」真砂子がコーヒーを飲んで、私に訊いてきた。「どう思われます?」
 私はふたりに言葉ではなく笑みを返して、ブックマッチで煙草に火をつけた。
「――ちょっと、ご注文は?」チエが口を挟んできた。私たちの会話に取り残されたことが、少し不満げな様子で、語気は少し荒かった。
 真砂子はチエに「ごめんね」と謝ってから、注文をした。「じゃァ、久しぶりの〝カツスパ〟をお願いします」
 私が「同じものを」と答えると、チエはカウンターの中にいる母親に向かって「〝カツスパ〟、ツー」と元気良く告げた。
 チエの母親は〝カツスパ〟の調理に取りかかり、チエに乞われた真砂子は〈ヴェルマ〉の由来となったやけに気障なタイトルの探偵小説――最近では〝万年ノーベル文学賞候補の作家〟が再び翻訳をして、随分と野暮ったいタイトルになってしまったのだが――について説明を始めた。元教師だけあって、真砂子は上手に〝元ネタ〟を解説していた。ふたりの間に挟まれた私に口を挟む余地はなく、私は彼女の説明に聞き入りながら、煙草を喫い続けた。
 店内には、カレーとバターの焦げる匂いが立ちこめ、カウンターの向こうでは、チエの母親がふたつのフライパンと格闘していた。
 真砂子がチエに解説を終える頃、チエの母親が「〝カツスパ〟、上がったわよ」と娘に告げた。
 チエがトレイを片手にカウンターの中へと入っていく。一仕事終えたチエの母親は、美味そうにペットボトルの水を飲んでいた。
 トレイに〝カツスパ〟を乗せて、カウンターの中から出てきたチエがと言って、私たちの前に皿を並べた。
 配膳を終えるとチエは、口が悪い上に平気で野暮なことを言う男の近くを避けて、真砂子の隣に腰を降ろした。「〝カツスパ〟になります。どうぞ」
 〈ヴェルマ〉の一番人気だという〝カツスパ〟――ミックスベジタブルとともにバターで炒められたスパゲティの上にカツを乗せ、さらにその上からカレーがソースとしてかけられている――を前にして、私が煙草を灰皿で揉み消すのを合図に、真砂子がフォークを手にした。
「いただきます」真砂子は添えられたスプーンを使わずに――彼女の年頃の女性にしては珍しい――フォークだけでスパゲティを巻き取って口に運んだ。充分に咀嚼してから〝カツスパ〟を飲み込むと、満面に笑みを作った。「そうそう……この味」
「あら、ありがとう。ちょっと不安だったのよ。昔の味を知ってるお客さんだから……」チエの母親は、カウンター越しに答えた。
「ほんとに美味しいです。思い出の味です」真砂子の表情を見れば、彼女がお世辞や嘘を言っていないことは明白だった。
 私もスパゲティにカレーソースをたっぷりと絡ませて、〝カツスパ〟を口にした。
 ――美味い
 初めて食べる〝カツスパ〟は、芯を残さず茹で上げられたスパゲティのもちもちとした食感に、サクサクとしたほど良い厚みのカツがアクセントになっていて、〝当店人気No.1!〟と銘打つのも頷けた。ただ、ボリュームは、人生と同様に胃腸も疲れを見せている私の世代には、いささかきつい感があった。半分ほど食べ進めてから、私はこの〝カツスパ〟を持て余し始めていた。食べ盛りの世代に私より近いせいか、隣に座る真砂子は一定のペースで〝カツスパ〟を胃に収めている。
 〝カツスパ〟に挑む私たちに、チエの母親が切り出した。「そうそう、料理をしてる最中に、思い出したんですけどね」
「なにを、思い出されたんです?」口の中に残っていたスパゲティを飲み込んで、私は訊いた。
「下山文明の奥さんって、芸能人じゃなかったかしら? 昔……十五年ぐらい前かしら、結婚するって記事を見たような記憶があるのよね……」
「そうなんですか?」この手の話に疎い私は、真砂子に話を回した。
「さァ……わたくしには、わかりません」
「そう、じゃァ、わたしの記憶違いかしら」
「雑誌のインタビューで、彼は独身主義者だと答えてましたから、すでに離婚をしているか……ですよね」真砂子が私の顔をうかがった。
 彼女は確認を取る相手を間違えているような気もするが、私は頷いて応えた。
「え、じゃァ……もしかしたら、博之のお母さんは芸能人ってこと?」とチエ。
「もしかしたら……だけど、そうなるわね」カウンターの向こうからチエの母親が言った。
「一体、誰なんです?」私は三人に訊いた。
「気になりますか?」〝カツスパ〟を三分の一ほどまでに減らした真砂子が、紙ナプキンで口元を拭った。
「ええ」と私が答えたことが引き金となって、女たちは下山文明の女房について、話を弾ませることになってしまった。〝女三人寄れば、かしましい〟とは言うが――私は会話についていけず、仕方なく残った〝カツスパ〟を、この隙にばかりと、片づけることにした。
 残りの〝カツスパ〟の量が、真砂子に追いついた頃、彼女たちはインターネットで検索した方が速いとの結論に達して、スマートホンを取り出したチエが担当することになった。
 しばらくして、チエが声を上げた「わかった! 下山文明の結婚してた人は、サクラギヨウコって人だ。アイドルだったみたい」
「ご存じですか?」真砂子は、チエの母親に訊いた。
「そんな名前だったかしら?」と、チエの母親は首を傾げて答える。
 どうやら、この手の話に関してはアテにされていないらしく、真砂子は私に話を振ることなく、チエに訊いた。「どんな人なのかしら? 画像とかないかな?」
「ちょっと待ってください」チエは再びスマートホンを操作した後で、画面を真砂子に示した。「顔がわかる画像は、こんなのしかないんですけど……」
「見覚えあります?」真砂子が、改めてチエの母親に訊いた。
 目を細めて画面を見たチエの母親は「さァ……」と首を傾げた後で、続けた。「こういうことは、男性の方が、覚えてらっしゃるんじゃない?」
「そう……かもしれませんね」真砂子がこちらを見て言った。
 チエがスマートホンを差し出したスマートホンの画面には、髪の長い女がオレンジ色のビキニ姿で映っていた。雑誌かなにかのグラビアからスキャニングしたのだろう。画像が粗いせいで、顔は判別できない。ただ年の頃は、十代後半から二十代前半であることはわかった。画像の下に〝桜樹よう子〟と記されているのだが、その名前を見ても、私の記憶が呼び覚まされることはなかった。
 なんにせよ、この桜樹よう子という女性が、花田博之の母親であるとすれば、私が見ている画像は十五年以上前に撮影されたもので、現在の彼女は、おそらく私やチエの母親と同じぐらいの年齢ということになる。
「その女性……気になるんですか?」隣から真砂子が言った。どこか、からかうような響きがあった。
「ええ。気になりますね」スマートホンをチエに返した。
「なにか、あったんですか?」
「花田君の部屋から、無くなっているものがひとつあるんです。彼が母親と一緒に写っている写真です。池畑君の話では、彼が大事にしていた写真なんだそうです」
「お母様との写真を、花田君は持っていったんですか?」
「正確なところは、わかりません。彼の机には鍵がかかっていたんでね。ただ……」
「ただ?」真砂子の言葉から、からかうような響きは消えていた。
「下山文明さんにしてもそうですが、いただいた資料には、この……桜樹よう子という女性のことは、書かれていません」
「では、この件も、学院長に確認を取らなければならない……と」
「はい。彼を捜す手がかりになるかもしれません」ようやく終わりが見えてきた〝カツスパ〟を、フォークで巻き取りながら言った。「なにより、情報は正確にしてもらわないと、見つけられるものも、見つけられなくなる」
「申し訳ありません」きつく責め立てたつもりはまったくなかったのだが、真砂子はカウンターに額がつくほど頭を垂れた。それから、スッと立ち上がり「理事長に、もう一度電話をしてきます」と告げて、店の外へと出ていった。
 手持ちぶさたであったのか、チエは真砂子が出ていくと店内を片づけ始め、チエの母親は流し場で先刻まで使っていたフライパンを洗いだした。取り立ててやることがなくなってしまった私は、嫌いな献立だったせいで、休み時間に入っても教室にひとり残されて給食を食べる子供のように、持て余している〝カツスパ〟を食べ進めるしかなかった。
 〝カツスパ〟を残り二口ぐらいまでに減らした頃、チエの母親がフライパンを洗う手を止めて、チエに声をかけた。「やだ、看板しまうの忘れてたわ。チエ、お願い」
「了解」おどけるように敬礼をして、チエが店の外へと出ていった。
 やがて木製のドアが開いて、真砂子とチエが看板を運びながら戻ってきた。私は最後の一口になった〝カツスパ〟を、カツごと無理やり口に押し込んで立ち上がった。彼女たちから看板を引き継ぎ、チエの母親からの指示に導かれるままに、店内の片隅へと看板を置く。
「ありがとうございます」
 お礼を言ってくれた真砂子とチエに、身振りで返答した。口の中が〝カツスパ〟でいっぱいだったからだ。最低限のお行儀は、私だって身につけている。
 彼女たちと入れ替わりに〈ヴェルマ〉の外へ出て、口の中に残っていた〝カツスパ〟をなんとか飲み込んだ。夜風に当たりながら、私は煙草をくわえてブックマッチで火をつける。油まみれになってしまった口の中をさっぱりとさせるために、本当ならコーヒーの一杯でも欲しいところだが――
 二回ほど煙草を吹かした後で、一件電話をかけた。博之の父親と思しき下山文明と、つい先刻判明した母親と予想される桜樹よう子について、もう少し詳しい情報が必要だった。彼らが属する世界に伝手を持つ男は、三コール目で電話に出た。互いに久闊を叙した後、私が面会したい旨を告げると、彼は快く承諾してくれた。
 お礼を言って電話を切った後は、煙草を喫ってみても一向に口の中がすっきりとしないので、半分まで喫った煙草を携帯用灰皿に押し込んで、私は〈ヴェルマ〉の店内に戻ることにした。
 私のように無理やり口に押し込むのではなく、行儀良く〝カツスパ〟を食べ進めている真砂子の隣に座ると、カウンターの中から出てきたチエの母親が、新しいコーヒーを私の前に置いてくれた。すかさず一口すする。コーヒーは先刻よりも量は少ない分、濃いめに淹れられていた。
「ありがたいですね。口の中がさっぱりとします」私は素直にお礼を言った。
「チエがね、〝カツスパ〟を食べた後のあなたには、その方がいいだろうって」テーブル席に腰を降ろしたチエの母親が、使い捨てライターで煙草に火をつけた。美味そうに最初の一服を吐き出す。
 私はコーヒーカップを持って立ち上がり、チエの母親と向かい合う恰好でテーブル席に移った。ブックマッチで自分の煙草に火をつける。「彼女の提案ですか……しかしね、残念なことなんですが、私は太閤になれる器じゃァないんです」
 チエの母親はおかしそうに笑い、それにつられて私も笑みを漏らした。そんな私たちを並んで座ったチエと真砂子が、不思議そうに眺めていた。今度ばかりは、真砂子も〝元ネタ〟がわからないようだった。
「――あの、学院長なんですが」〝カツスパ〟を食べる手を止めて、真砂子が言った。「会合の後、一緒に出席された方々と約束をしてしまったということでして……」
「まァ、林さんもお忙しいでしょうからねェ……」彼女の口調から、良い回答でないことは予想できていた。「明日にでも、私の方から連絡します」私は灰皿に煙草の灰を落とした。
「申し訳ございません……」
「あなたは、その……〝カツスパ〟を召し上がってください」か細い声で答える真砂子に言った。
 私に勧められるままに真砂子は食事に戻り、私は濃いめのコーヒーを一口飲んだ。真砂子の隣には、チエが腰をかけて、ふたりで会話を始めた。私の前には、チエの母親が座り、私たちは言葉を交わすこともなく、静かに煙草を喫い続けた。決して嫌な沈黙ではなかった。
 私たちがゆっくりと煙草を喫い終える頃、真砂子が最後の一口を上品に飲み込んだ。私のときのようにコーヒーを淹れようと立ち上がったチエの母親に真砂子は「お構いなく。お水で結構です」といって、コップに残った〝お冷や〟を飲み干した。
 若さなのか、彼女の体質なのか、真砂子は私のように時間をかけて、カフェインとニコチンを注入することなく、口の中をさっぱりとさせたようで〝お冷や〟を飲み干してすぐに立ち上がった。「遅くまで、わがままを言ってしまって、申し訳ありません」
 時間は二十一時になろうとしていた。
「いいえ、結構ですよ。〝わたしたち〟にとっても花田君のことは、気がかりですから」チエの母親は、のんびりとした口調で返した。
 隣で空いた皿を片づけるチエが、母親の〝わたしたち〟というキーワードに反応して、こちらをキッと睨みつけた。からかわれたと思ったのだろう。
 チエの様子に気づくことなく、ハンドバッグを探る真砂子に私は言った。「ここは、私が払いましょう」
「いえ、それでは――」
「〝カツスパ〟とコーヒーで、千九百円になります」真砂子の返答を遮って、チエの母親は私に金額を伝えた。
「いや、ですから……わたくしの分は、ちゃんと払います」
「馬鹿ね。割り勘にすることの方が、もっとカッコ悪いの。ここは黙って奢られときなさい」ハンドバッグを探る真砂子の肩を、チエの母親がポンっと叩いた。
「そう……なんですか。じゃァ、ご馳走になります」
「どういたしまして」と真砂子に言って、私はチエの母親に千円札を二枚渡した。「気にしないでください。後日、ちゃんと経費として計上しますから」
 二千円を受け取ったチエの母親には、目を丸くして驚かれ、お釣りの百円を届けに来たチエには「カッコ悪っ」と〝聞こえるよう〟に呟かれた。なにはともあれ、これで無駄な誤解をされずに済めばいい。
 私は煙草を消して、立ち上がった。「花田君の件で、なにかわかったことがあったら、その名刺のところに、いつでも連絡をください。それと――」
「他言は無用……ですよね」チエの母親が大きく頷いた。その表情を私は信じた。
 店先まで見送りに来てくれたチエは「ありがとうございました」と言った後、唇をキッと固く結んで、私たちを見つめた。
「いろいろと、教えてくれて、ありがとう」
「もう、ここまでで、いいわよ」真砂子が優しく声をかけた。
 一度、深呼吸をしてチエが言った。「博之のこと、見つけてください」
「私は、こういうことをやって、メシを食ってるんだ」不安を隠せない少女に私は答えた。「信用してもらいたいな」
「そう。わたしたちも、こちらの方を信用してお願いしてるのよ」真砂子が援護射撃をしてくれた。「だから、チエちゃんも、信用して」
「わかりました。先輩が信用しているのなら、わたしも信用します」チエは、真砂子を正面から見て言った。
 条件つきなことが、いささかの寂しさを感じさせたものの、ようやく固い表情をほどいたチエに見送られて、私たちは〝ハリ校〟の生徒たちにとっての性悪女、いや〝ファムファタール〟である〈ヴェルマ〉を後にした。
 背中越しに「先輩、またいらしてください」と声をかけるチエの声が聞こえた。
 振り返ってチエに手を振って応える真砂子に訊いた。「彼女……あなたのことを、先輩と呼んでましたよね?」
「はい。チエちゃんの通っている高校、わたしの母校なんですよ」思い出の〝カツスパ〟を食べたせいなのか、真砂子の言葉遣いは幾分、砕けた感があった。「さっき、チエちゃんと話してたじゃないですか。それで、わかったんです」
「そうなんですか……私はてっきり、あなたは〈聖林学院〉の卒業生かと思ってましたよ」
「わたし、そんな頭が良かったわけじゃないです」真砂子が目を大きく見開いて、手を振った。
 夕方、バスロータリーでチエがした仕種と同じだった。科白まで一緒だ。私は思わず声に出して、笑ってしまった。
「わたし、そんなにおかしいこと言いました?」真砂子が顔を赤くして言った。
「いいえ……すいません」私は素直に謝罪をした
 真砂子は大きく息をつくと、先を急ぎ始めた。事情がわからないのだから、彼女が機嫌を悪くするのも当然のことだった。私は大股で歩く彼女の後に続いた。
 私が肩を並べると、真砂子が訊いてきた。「これから、どうされるんです?」
「一軒、寄りたいところがあります」私は正直に答えた。「ですから、この辺りで今日のところは、お別れとしましょう」
 博之の両親について、すぐにでも林に確認を取りたいところだが、彼に会えるのが明日になってしまう以上、林の意向がどうであれ、博之の父親と思しき下山文明に接触する準備と情報収集を、早いうちにしておきたかった。そのために先刻、下山文明が属する世界に伝手を持っている男に、電話で面会の予約を取り付けたのだ。
「――わかりました。今日は、ご足労をおかけしました」真砂子が立ち止まって言った。
「いいえ。それよりも、例の件については、理事長に確認できるよう取り計らってください」
「了解しました。学院長には明朝、あらためてわたくしから伝えておきます」チエの先輩ではなく、〈聖林学院〉教務課主任として、真砂子が答えた。
 それから私たちは、〈ヴェルマ〉に向かう際に目印にした銀行の角で別れた。
 真砂子は三鷹駅を背にして歩き、私は三鷹駅へと向かった。

   八

 真砂子と別れた私は三鷹駅から電車を乗り継ぎ、白金高輪駅で降りた。地上に出てから、〈白金タワー〉の脇を抜けて、明治通りに向かって歩く。随分と瀟洒な住宅街の一角に〈コルレオーネ〉はあった。三鷹駅前の〈ヴェルマ〉のように看板を出していなければ、街中でよく見かける〝本日のおすすめ〟なるメニューが書かれた黒板も置かれていない。木製のドアに、小さく〝Corleone〟とだけ刻まれていた。
 最近では、こういった〝隠れ家的なお店〟というのが、流行っているらしい。自分が食事をしている様をわざわざ他人に見せつけるような真似をする必要はないとはいえ、こそこそと他人の目を忍んで食事をすることもないだろうに。
 木製のドアを開けて〈コルレオーネ〉の中へ入ると、照明を抑えた店内の右手にあるクロークから「いらっしゃいませ」と声をかけられた。お仕着せのタキシードを着た店員は目を細めると、品定めをするように私のつま先から頭のてっぺんまで視線を走らせて「ご予約のお客様でしょうか?」と訊いてきた。
 私は、彼に「いいや、予約はしていない」と答えた。
「申し訳ございません。本日はご予約のお客様で満席でして……」髪をオールバックに整えて、口髭を蓄えた店員が恐縮した。
 私は名刺を差し出した。「尾藤に会いたい。私がここに来ることについては、彼に伝えてある」
 薄暗い照明のおかげで大人びて見えたが、店員はまだ二十代前半の若者だった。この店のオーナーの名前を告げられた彼は、緊張した面持ちで「少々……お待ちください」と震える声で言った。
 慌てて店の奥へ急ごうとする彼を引き留めて、背を向けているウエイティングバーを、振り向かずに右手の親指で指し示した。「忙しいようだったら、あそこで待たせてもらうよ」
「かしこまりました。すぐに呼んで参ります」私の名刺を恭しく両手に持ったまま、店員は私に一礼をしてから、店の奥へと消えていった。
 〝店内は走るな〟ときつく教えられているのだろう。そのせいで、ぎこちない足取りで歩く彼の背中を見送ってから、ウエイティングバーに向かった。
 ウエイティングバーでは、カウンターの端に座った男女の客が、振り返って私を見ていた。店の奥に消えた彼と私とのやり取りが耳に届いていたようだった。照明のせいで、女の顔はよくわからなかったが、隣に座る葉巻をくわえた初老の男には、見覚えがあった。ウシガエルのようにでっぷりとして目の大きな男は、私でも何度か見たことのある俳優だった。もっとも、最近は俳優としての仕事よりも、バラエティ番組で姿を見かけることの方が多いのだが、私はすぐに名前を思い出せなかった。
 彼らとは一番離れた席に腰を降ろした。バーカウンターの向こうには、バーテンダーがふたりいて、そのうちの眼鏡をかけたバーテンダーが近寄ってきた。「なにに、なさいますか?」
 煙草をくわえて、彼の後ろに鎮座まします酒瓶を隅から隅まで見渡してから、私はIRAの伝説的なガンマンがこよなく愛したアイリッシュウイスキーを注文した。
「飲み方は、どうされます?」デンマークだか、オランダだかの陶製の灰皿を私の前に置いて、バーテンダーが言った。
「ストレートで」私は煙草にブックマッチで火をつけた。
「かしこまりました」バーテンダーは深々と最敬礼をして、棚から私が注文したアイリッシュウイスキーのボトルを取り出し、私の前にショットグラスを置いた。
 舌なめずりしないようくわえ煙草のまま煙を吐きながら、彼がショットグラスにウイスキーを注ぎ終えるのを待った。やがて、バーテンダーはショットグラスになみなみとアイリッシュウイスキーを注ぐと、「すぐにチェイサーをお持ちします」と言って、私の前から離れた。
 チェイサーを運んできたバーテンダーの視線が私の肩越しに向いているのに気づいて振り向くと、タキシードを着た男が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。私よりも少し大きい一八〇ほどのがっしりとした体型の男だった。私と歳はそう変わらないはずなのに、真っ白になった髪を短く刈り込んでいる。〈コルレオーネ〉の給仕長――正確にはカーポ・カメリエーレというらしい――の平原だった。足音を立てずにゆったりと歩く姿は、ネコ科の大型動物のようだった。
 平原は先客である男と女の間にそっと立ち、二言三言交わした。男の様子を見る限り、彼は〈コルレオーネ〉の常連のようで、葉巻を片手に隣の女を平原に紹介し、女の方は今日が初めての来店らしく、恐縮して平原に頭を下げていた。
 やがて先客と会話を終えた平原は、私の隣に来ると太いバリトンを響かせて言った。「ご無沙汰しています」
「そんなに経つかな?」私は彼の方に向き直って言った。
「ええ。二年と七カ月ぶりです」平原が唇の端をキュッと上げた。おそらくトラが笑えば、こんな表情になるのだろう。「お待たせして申し訳ございません。尾藤はもう間もなくやってきます。ところで、お食事の方はいかがされますか。生憎と本日はご予約のお客様で、席が埋まっておりますので……」
「いや、申し訳ないけど、食事は済ませてきたんだ」胃の中は、〈ヴェルマ〉の〝カツスパ〟で満たされていて、固形物が入る余裕はなかった。この分だと明日の昼食まで保つだろう。
「そうですか……それではこちらで、お待ちいただけますでしょうか」
「勝手を言って悪いけど、そうさせてもらうよ。それに突然、押しかけたみたいなもんなんだ」
「そう言っていただけると、助かります」平原が軽く頭を下げた。「では……その一杯は、私の奢りとさせてください」
「それは、申し訳ないよ」
「いいえ。久しぶりにお会いしましたので。私の気持ちです」
「そう……じゃァ、奢ってもらおうかな。ありがとう」平原の厚意を無下に断るわけにもいかず、目の高さにグラスを上げてから、ショットグラスの中身を少しだけ流し込んだ。
 しばしの間、喉の奥を灼いていくアイリッシュウイスキーの余韻を味わう。
「――いやァ、お久しぶりです」少し芝居がかった高い声をかけながら、長身の優男――〈コルレオーネ〉のオーナー、尾藤が姿を見せた。細身の身体に合った仕立てのいいグレーのスーツに――おそらくオーダーメイドだ――身を包んだ尾藤は平原と同様に、まずは先客である二人組の席に向かった。平原とは対照的に声が高いせいで、私の耳にも彼の声は届いてきた。「お待たせして申し訳ございません」
「相変わらず、繁盛してるみたいじゃないか」と男。
「おかげさまで。お気にかけていただいて、ありがとうございます」
「あァ、そうだ。こちらなんだけど……」仰々しく頭を下げる尾藤に、男が隣の女を紹介した。男が声をひそめたせいで、最後の方は聞き取れなかった。「……彼女がね、是非この店で食事をしたいっていうからさ」
「そうですか……それは、ありがとうございます」尾藤は女に向かって、飛び切りの笑顔を見せた。「さァ、お席の準備ができましたので、どうぞ」
 尾藤の言葉――〝お席の準備〟を合図に、平原が一歩下がった。「それでは、失礼します」
 私が目礼を返すと、平原は一礼してから微笑みを残して二人組の席へと向かい、彼らとともに店の奥へ消えた。立ち振る舞いにしろ、エスコートする仕種にしろ、すべてがクロークに立つ先刻の若い店員とは、年季が違うことを物語っていた。
 尾藤は平原の後に続く二人組を最敬礼で見送り、私の隣のスツールに腰を降ろした。緊張を解くかのように、大きく息をつくと、上着からクロームのシガレットケースを取り出した。
 私は尾藤に言った。はからずも先刻の男が尾藤に言った科白と同じだった。「繁盛してるみたいじゃないか」
「当たり前だ。僕はね、きみと違って営業努力を怠らないんだよ」そう言って尾藤は指を鳴らし、眼鏡のバーテンダーを呼びつけた――悔しい話だが、その仕種が堂に入っている。
 さり気なく私たちの前に立った眼鏡のバーテンダーに尾藤は「スクリュードライバー」と告げ、シガレットケースから抜き出した両切りのゴロワーズをくわえた。
 眼鏡のバーテンダーは小さく頷いて灰皿を尾藤の前に置くと、私たちから離れていった。
 尾藤が両切りのゴロワーズにロンソンで火をつけるのを待って、話を切り出した。「下山文明ってヤツに会いたいんだ」
「下山文明? なんできみがそんなビッグネームと会わなきゃいけないのさ?」
「仕事絡みでね。アポは取れるか?」
「どんな仕事なんだよ」尾藤がゴロワーズの煙を吐き出した。葉巻に似た独特の香りが漂う。
 私はショットグラスのアイリッシュウイスキーをひと舐めして、下山文明に会わなければならなくなった経緯を、かいつまんで尾藤に話した。尾藤はスクリュードライバーを飲みながら、私の話を黙って聞いていた。
 私が話を終えると、尾藤はスクリュードライバーのお代わりをバーテンダーに注文して「なるほどね……」と呟いてから、前髪を撫でつけた。きついクセっ毛を無理やりオールバックにしているせいで、ドレッドヘアーのように見える。
「なんとかしてくれないか。俺には、ああいつた世界に伝手がない」私は新しい煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。
 しばらく考え込んでから、前髪を撫でつけるのをやめて尾藤が答えた。「わかった。なんとかしましょう……ただ、一週間ぐらい時間がかかるぞ」
「一週間?」煙混じりに私は言った。
「ああ。下山文明な……今、日本にいないんだよ。フランスにいるんだ」〝スクリュードライバー〟を一口飲んで、尾藤が続けた。「なんでも……パリで日本文化を紹介するイベントをやってるらしくてな。そのイベントのプロデューサーとして、自分がプロデュースしたガキばっかりのアイドル連れて、パリに飛んでっちゃったんだよ」
「ガキばっかりのアイドルってのが、日本の文化……なのか?」
「あっちじゃ、そう思われてるらしいぜ。日本のアイドルこそ、現代日本の〝エスプリ・クルチュラル〟ってことらしいんだ」
「なんだ、その〝エスプリ・クルチュラル〟ってのは?」
「文化の神髄ってことだよ。そのせいか、文科省からあんな〝ちんちくりん〟のガキどもに金が出てるっていうし……もう、世も末だね」尾藤がため息とともに、ゴロワーズの煙を吐き出した。
 私はショットグラスのアイリッシュウイスキーを飲んでから言った。「文化の神髄の話は置いといてだな、とにかく一週間後には、下山文明に会えるのか?」
「なんとかしますよ。そこは、任せてくれ……ただし、ひとつ条件がある」
 そう答えた尾藤の鼻の穴がふくらんでいた。いやな予感がするが、私は身振りで話を先に進めるよう促した。
「今回の依頼については、僕にも報告しなさい」ゴロワーズを灰皿で揉み消して、尾藤が言った。
 いやな予感は見事に的中した。「あのなァ、お前、俺の稼業を知ってて言ってるのか?」
「知ってますよ。当然でしょ」
「だったら、そういうことができないってことは、お前の頭でもわかるだろ?」
「なに、きみは僕にそういう口の利き方をするわけ?」尾藤が私に顔を近づけて言った。「あのね、きみみたいなヤツがね、そうやって〝フリーランスの猟犬〟気取って、東京で事務所なんか構えてられるのは、誰のおかげだと思ってるの?」
 痛いところを突かれた私はなにも返せず、黙って煙草を喫い続けた。
「いいかい? きみが前にやってた職業なんてのはね、ただでさえつぶしが効かないんだよ。そのうえさ、きみはなんの取り柄もないだろ。そんなかわいそうなきみを、僕が拾ってあげたからでしょ? 違いますか?」
「――わかった、お前の言うとおりだ」私は素直に敗北を認めた。昔からこの男には、口ではかなわない。だからこそ、私と違って現在は実業家として成功しているのだろうが――とにかく、いつまでもこの話を続けているわけにもいかなかった。私は話を先に進めることにした。「ただし、報告する内容は俺が決める」
「そうじゃないの。僕が知りたいことをきみに訊くから、きみはそれに答えればいいんだよ」
「あのなァ……」
「答えられる範囲で構わないんだよ。それぐらいできるでしょ?」
「まァ……それなら、できないこともない」
「僕だって鬼じゃないんだから。きみに今の仕事を紹介したのは、僕だぜ。きみの仕事のことぐらい、理解してるさ……だけど、今回の依頼については、僕に報告をしなさい」
「答えられる範囲で、いいならな」私は渋々と頷いた。
「それとな……」尾藤がスクリュードライバーを飲み干して続けた。「下山文明は、確か富士山の辺りに住んでんだよ。だから、車を手配しといてやる」
 尾藤は〈コルレオーネ〉を含めた二軒の飲食店と中古車販売業を営んでいる。車を一台手配することは、それほどの手間のかかることではない。とはいえ、これでは待遇が良すぎだ。
 私は訊いた。「今回の件、なんでお前がそんなに知りたがるんだ? 下山文明に、なんか裏でもあるのか?」
「あのな、裏があるとか、ないとかじゃないんだよ。いいか、下山文明ってのは、文科省から金を引き出せる男だぞ。そんな男に関する情報をスルーするわけにはいかないだろ? なんか面白いことが、見つかるかもしれないじゃないか……」尾藤の口調は、中学生になっても〝九九〟を覚えられない生徒へ方程式を教えるかのようにゆっくりと諭すようなものだった。「ありとあらゆる情報を入手し、それを精査する。そして、その情報をどうやって使うかを判断する……これは経営者の基本だぜ」
「ご高説、感謝します」私もショットグラスの中身を飲み干した。
「どういたしまして」ドレッドヘアーのような前髪を撫でつけて、尾藤は空になった私のショットグラスを指差した。「もう一杯どうだ?」
「いいや、やめておく」私は煙草を灰皿で消した。
 金がないわけではない。ましてや、酔っているわけでもなかった。〈コルレオーネ〉に来る前に食べた〈ヴェルマ〉の〝カツスパ〟が効いていた。〈ヴェルマ〉の〝カツスパ〟――あれは、強烈なボディーブローだ。固形物どころか、アルコールまで私から遠ざけようとしている。
「もう一杯ぐらい飲んでけよ」尾藤が私の目を正面から見つめて言った。
 少しの沈黙の後、私は大きく息をついた。「じゃァ、一杯だけな」ここで頑なに断って、また言い込められるのも厄介だった。
 尾藤は慣れた仕種で指を鳴らし、眼鏡のバーテンダーを呼びつけて「同じものを、もう一杯ずつだ」と注文した。眼鏡のバーテンダーは「かしこまりました」と上品に答えて、スクリュードライバー、アイリッシュウイスキーの順にお代わりを運んできた。
「平原が言ってたよ……〝二年と七カ月ぶり〟なんだってな」尾藤はゴロワーズにロンソンで火をつけて、スクリュードライバーを一口舐めた。
「そんなになるのか……まァ、彼が言うならそうなんだろうな」私はショットグラスの中身を一口で空けた。 胃の中にかすかに残った隙間に染みてゆくアイリッシュウイスキーを感じる。
「お前な、もうちょっと味わって飲めよ」あからさまにあきれた口調で、尾藤が言った。
「大きなお世話だ。お前のオレンジジュースとは飲み方が違うんだ」
 尾藤はまったく酒が飲めない。だから、この男が先刻から飲んでいるスクリュードライバーには、ウオッカが入っていなかった。要するに、ただのオレンジジュースなのだ。
「かわいげがないっていうか……面白みがないっていうのか――」尾藤は愚痴とゴロワーズの煙を、一緒に吐きした。
 私は尾藤の恨み言にはつき合わずに、ウイスキーを放り込んだときに思い出したことを訊いた。「なァ……お前、桜樹よう子って女を知ってるか?」
「桜樹よう子? なんか聞いたことあるな……」
 さすがは私が疎いあの世界に伝手を持つ男だ。私は期待を持って続けた。「アイドルか、なにかで……下山文明の女房だったらしいんだ」
「ああァ……」声を上げた尾藤が両手でこめかみの辺りを掻きむしった。「なんとなく、思い出してきたぞ」
 それから尾藤はしばらくの間、そのまま考え込んでいたが、導き出した回答は「はっきりと思い出せない」だった。
「あのな……これも調べといてやる」こめかみから手を離して、尾藤が言った。
「いいのか?」
「ああ。なんかな、気持ち悪いんだよ。記憶力の便秘ってヤツだな、こりゃ」グラスの〝スクリュードライバー〟を半分ほど一気に飲んだ。
 表現は別にしても、尾藤の言わんとしていることは伝わってきた。私はスツールから立ち上がった。「そうしてくれると、助かる」
「なんだ、もう帰るのか?」
 私は「そうだ」と答えた。
「そうか……」小さく呟いた尾藤は、スツールから立ち上がらなかった。私を見送る気はないらしい。
 私が「じゃァな、頼んだぜ」と言うと、尾藤は前を見つめたまま、背中越しに手を振った。
 私はカウンターに背を向けてフロアを横切った。クロークの前を過ぎるとき、あの口髭の店員が私のことを目を細めて見つめていることに気がついた。
 立ち止まると、彼は声をひそめて訊いてきた。右手で口元を隠している。「あの……コマンダトーレとは、どういったご関係なんですか?」
 尾藤はこの店ではオーナーではなく、コマンダトーレと呼ばせていたことを思い出した。店の創業者であることに加えて、尾藤がフェラーリを所有しているから、だとか。理由はなんにせよ、私はそんな呼び方をしたことはなかった。そして、口が曲がっても、そう呼びたくはない。
「尾藤は……あいつは、昔の同僚だ」
 目を丸くした口髭の店員を残して、私は〈コルレオーネ〉のドアを開けた。

雨がやんだら(2)

雨がやんだら(2)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-11

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