瞳の中のプラネタリウム
青年は空への憧れを失くした。
彼女は星への希望を膨らませ続けた。
交差する二人の想いが、夢とは何かを悟らせてくれる。
もの悲しくも、どこか勇気づけられる物語。
夢追うあなたへ、贈ります。
見えぬ夢など、有りはしない。
宇宙飛行士になるのが夢だった。
それは兄の姿を見てきたからこそ湧いた、消えぬ大きな目標である。
まだ九歳だった僕は父と母に両側から手を繋がれていた。二人とも力強く手を握っては、指を絡めたり手汗を掻いたりと、とにかく落ち着かない様子だった。そんな中、僕一人だけが興奮に満ちた目で夏の空を見上げていた。
午後、青空にオレンジ色の閃光が打ちあがった。白煙に押し上げられるように、白いシャトルは宇宙に向かっていく。高く高く昇っていく。誰もがそう感じただろうし、期待と興奮で胸を膨らませたに違いなかった。
しかし、スペースシャトルは真っ青な空には向かうことなく、空中分解を起こして爆発した。夢と希望を乗せた機体は爆煙に包まれ破片と化し、空から地上に向かって残骸をまき散らした。
きっとその中に、兄の姿もあったのだろう。
僕はただ空を見上げていた。両側で父と母が力無く表情を失くしたと同時に、僕の夢は消え果てた。
***
大学に入学して、気付けば三年が経とうとしている。
先のことなど何も決まらないままに、就職活動たるものに悩まされる時期に入っていた。周りでは既に何人かの学生が内定を取り、友達も先の目標が決まった者が多数である。置いてきぼり感は否めない。
年始明け一発目の講義が終わったのは、日の落ちた夜七時を回った頃だった。大学入学時から使い続けているコートに顔を埋めて、白い息を吐きながら帰路につく。
就職活動用に髪は黒に染めたものの、まだ断髪はしておらず随分伸びきっている。鼻にかかるとくすぐったく、その度に眉間にしわを寄せた。
我が家のマンションは、入口に黒い鉄柵の門がある。その柱についたセンサーにカードキーを当てればロックが解除され、中に入れば芝生とレンガで整えられた住民共用の庭が広がっている。バリアフリーの設備も整っており、住居者の中には障害をもった者も少なくはない。防犯設備は万全のマンションである。
門の前に着き、カードキーを取りだすべくコートのポケットに手を入れる、が、あるべき場所にカードが無かった。
「ん、あれ……」
ズボン、財布、中シャツ、鞄の中まであさって探すも見付からない。失くした、と思ったが、そういえば昨日まで学校が無かったため、カードキーは玄関の棚に出しっぱなしだったと気付いた。
門の両脇に設置された街灯を頼りに腕時計を眺める。共働きの親が帰るまではしばらく時間があり、つまりそれまで外で待機しなければならない。
「マジかぁ」
白い息と共に溜め息がこぼれた。寒空の下で時間を潰すとなるとかなり辛い。コンビニまでは歩いて十分ほど。
悴んだ足の指を動かして、外よりはマシかと踵を返そうとしたとき、門の向こうに一人の女性をみつけた。
「あ、あの、すみません」
声をかけると、彼女は足を止めてきょろきょろと辺りを見渡す。こちらには気づいていないようだった。もう一度口を開く。
「こっちです。分かります? 門の前」
「あぁ、そちらでしたか。何かご用ですか?」
ずいぶん透き通った声だと思った。細く長い黒髪を下ろし、紺色のパジャマに黒いダッフルコートを羽織っている。その右手には、白い杖が握られていた。
「門を開けてほしいんですが。ちょっと、カードキーを家に忘れてしまって」
「門を、ですか? えっと……」
彼女は口に拳を当てて、何やら悩みだした。どうやら、本当にこのマンションの住民なのか怪しまれているようである。無理もないか。誰でも思い付きそうな手口ではあるし、声をかけたのが女性だったのが失敗だった。見ようによっては不審者だ。
「202号室に住んでる、十部です。信じてもらえますか?」
「あの、すみません……私、ちょっと目が悪くて、確認のしようが」
「あれ? 陽くん、何やってんのそんなとこで」
不意に声をかけられ、後ろを振り向くと背の低い見知った老人が立っていた。隣に住む武井さんである。片手に袋を提げているところを見るとコンビニ帰りのようだ。
姿を確認したと同時に、僕は心の中で安堵した。
事情を説明し、カギを開けてもらうと武井さんは寒さに耐えあぐねてそそくさと屋内に潜りこんでいった。去り際に放り投げてきた缶コーヒーはまだ熱く、悴んだ僕の手をじんわり温める。
さてどうしたものかと缶コーヒーを弄んでいると、女性はその場に立ちながら、深く頭を下げてきた。
「あ、あのっ、すみませんでした。私、疑ってしまって」
「いえ、無理もないですから。気にしないでください」
原因は全てこちらにあるのに、頭を下げられるといたたまれない気持ちになる。僕は胸の前で両手を振って、どうにか頭を上げるように言う。
しかし彼女もなかなか納得してくれない。頭こそは上げたものの、表情は目に見えるほど罪悪感に染まっていた。
このままでは埒が明かない気がする。強引ではあるが、話を逸らすことにした。
「ところで、こんな寒い中どちらに?」
「ちょっと広場の方に。ベンチで休もうかと」
住民共用の庭を向きながら彼女は言う。ベンチというのは、浅い階段を上がった場所にある休憩所のことだろう。
レンガ調の柱に囲まれ、屋根はなく空がよく見える場所だ。
「一人でですか? こんな時間に」
「こんな時間だからこそ、見られるものもあるでしょう?」
彼女の表情が柔らかいものになる。
僕は怪訝に眉をひそめた。彼女の仕草や容姿を見て、とっくに気付いていることがある。右手に握られた杖が、その事情を訴えていた。
「見られるもの?」
「えぇ、ほら」
白い息を吐きながら、女性は上を見上げる。僕もつられて空を見た。
透き通るような闇空に、無数の星が光っていた。
「……星、ですか?」
「そうです。星です」
「え、でも――」
口を噤んだときには既に遅かった。恐る恐る彼女を見る。
「目のことですか?」
しかし彼女は、表情も崩さず淡々とその単語を発した。まるで僕の気遣いも無用だと言わんばかりに、簡素な質問を投げかけてくる。
「え、えぇ、まぁ」
どう返せばいいのか分からず、中途半端に首を縦に振って見せた。が、彼女には声しか届いていないと思いだして慌てて言葉を繋いだ。
「見えないんですよね、その、目が」
「はい、視力は完全に失われています。音と、この杖が私の目になっていますね」
「すみません、変なこと訊いてしまって」
「どうして謝るんですか?」
「え?」
思わず気の抜けた声が出た。彼女の表情は硬く、僕の胸元をじっと見つめていた。いや、目は閉ざされているはずなのに、そう感じてしまったのだ。
「謝る必要があるのですか?」
さっきよりも言葉強く、彼女は質問を重ねる。
「あ、いや、気にしていることだと思って……その、障害があることに対して」
「撤回していただけますか」
氷のように冷たい声だった。針を胸に突き付けられている気分になる。
「その『障害』という言葉を、今すぐ撤回してください」
言葉の意味が理解できなかった。目が見えないというのは、『障害』になるのではないか。自分の中では当たり前の知識を、彼女は否定している。
思わず混乱してしまった。口は動くが言葉を発せなかった。
僕の声を待たぬうちに、彼女は言葉を続けた。
「私、自分の目を『障害』だと思ったことは、一度もありません。なぜなら、生まれつきこうだったからです。これが私の当たり前なんです。さっきも言ったでしょう? 音とこの杖が、私の目になっているって。あなた方と違うのは世界の『見え方』だけで、ちゃんと私にも、見えているんです」
溜めこんだ空気を吐きだすような彼女の言葉は、僕の中にあった常識を覆すのに十分過ぎるくらいだった。今まで考えたこともなかった事柄に、ただ衝撃を受けるばかりだ。
「……すみません、撤回します。僕が、間違ってました」
全てとはいかないのだろうが、彼女が言わんとしていることを理解した上で、僕は頭を下げた。
彼女の表情が柔らかいものに戻ったと思えば、今度は申し訳なさそうに苦笑して見せた。
「いえ、本当は分かっているんです。きっとあなたの解釈は何も間違っていません。そうとしか教わっていないのに、あなた一人を責めるのはずるいですよね。ごめんなさい、私も言い過ぎました」
「そんなこと、ないです。だってあなたの考え方は、僕のよりも何倍も温かいじゃないですか。それが理想だと思います」
うまい言葉は見付からない。伝えられるのは、今自分が思う素直な意見のみである。
僕の言葉が手助けしたのかは分からないが、彼女の顔からは苦笑も消え、柔らかさだけが残った。
「ちょっと、座りませんか? あなたさえ良ければ」
「どうせカードキーも無いですし、付き合わせてください」
僕らは高台に向かって歩みを進めた。杖を使って器用に歩く彼女の姿は、僕と変わらない堂々としたものだ。
一応気にかけて、彼女の背後で左手を宙に泳がせていた。
彼女を先にベンチに座らせ、僕はその右側に腰掛けた。握っていた缶コーヒーはとっくにぬるくなっており、プルタブを開けて口をつけるも寒さが紛れることはなかった。
「今日も、星が綺麗ですね」
咄嗟の声に、缶から口を離して空を見上げた。さっきと変わらない無数の光が目に映る。
僕は釈然としない表情を浮かべる。彼女の言葉が気になった。
「今日も? 他の日もこうして、星を見ることがあるんですか?」
「はい。晴れている日は、ほぼ毎日こうしています」
「一人でですか?」
「マンションの庭なので、危険は少ないかと。それに、今日はあなたのように、優しい方もいますし」
出会ってそれほど経っていないはずなのに、彼女は空を眺めたままはっきりそう言う。
「そんな、僕なんて。さっきもあなたを傷つけてしまいましたし」
「いえ、優しいです。だって、私のことをこんなにも気遣ってくれています。私の目の事情を考えてくれたからこそ、さっきは謝ってくれたんですよね。それに、このベンチに座るまで、ずっと私の背中に手を添えてくれていました」
バレていたことに赤面した、と同時に驚きも隠せない。背中など目が見えていても気付きにくい場所であるのに、それこそ見ていたかのように把握している。
「どうして」
気づいたんですか、と続けるつもりがそこで言葉は止まった。
彼女が僕を見ていた。瞼の閉ざされた目で、僕の目をしっかりと見詰めていた。寄せてきた彼女の顔が、すぐそこにあった。
「なんとなく、分かるんです。目が見えない分、身体のどこかでそれを感じることができるんです。百発百中とはいきませんけど」
吐息のかかりそうな距離で、彼女は静かに口を動かす。風が吹くと長い黒髪が揺れて、シャンプーの甘い香りがした。
顔が熱くなったのを感じて、僕は思わず目を逸らす。誤魔化しに、冷えた缶コーヒーを一気に飲み干した。
「それは、凄いことです。うん、自慢できるくらいだ」
何を言っているのか、自分でも分からなかった。発する言葉一つ一つが苦い。コーヒーのせいだろうか。
彼女はまた笑う。
「私にとっては、当たり前のことですよ。間違えることもありますし。私、ちゃんとあなたを見ていますか?」
純粋な質問であることは分かっていた。変なことを考えてしまっているのも自分だけだと理解していた。
僕は、とっさに空を見上げる。火照った顔を夜風に当てるように。
「星! 今日は、すごく綺麗ですよ。こんな夜空を見るのは久しぶりです。知ってますか? この空には、八十八個の星座があるんです。凄いですね!」
息も上がるほどの声を発した。冷たい空気が鼻から入り、喉を冷やす。しばらくの沈黙が続き、風で揺れる草木の音だけが耳に届いてきた。
「はい、そうですね」
優しい声がする。
不意の彼女の声に、僕の心臓は跳んだ。
僕の言動を問わないでくれる、彼女なりの気遣いなのかもしれない。心臓の高鳴る中で、そうした彼女の温かさを感じた。
「星は、どこにあると思いますか?」
突然の質問に彼女の方を見る。僕ではなく空を見上げた彼女の姿があった。少し残念な気もするが、胸を撫で下ろし落ち着く。
「空、じゃないんでしょうか」
「それだけでしょうか。私は、もっと身近にあると思います」
「身近に?」
僕は首を傾げた。彼女は空を見上げたままで、人差し指を自分の顔に近づける。
「ここです」
静かな声だった。
「目、ですか」
「そうです、目。瞼と言った方が正しいでしょうか。目を閉じた暗闇の中に、小さな光がいくつも見えるんです。それらは星のようで、まるで瞼の裏に宇宙が広がっているみたいに見えます。私にしか見えない、小さなプラネタリウムなんです」
「プラネタリウム……」
僕も無意識に瞼を閉じた。視界が暗闇になる。残念なことに、僕にはその星というものは見えなかった。
ほんの数秒で目を開け、彼女の様子を窺う。まだ星を眺めていた。
盲目の女性が夜空の星を眺めている光景は不思議なものだった。そして僕は、その姿に魅了されていたのかもしれない。
だから彼女の気持ちや考えを否定する気が起きず、こんな質問を投げかけていた。
「星が、好きなんですか?」
「はい、好きです。もしも願いが叶うなら、この目で星を、ううん、宇宙全体を眺めてみたいと思っています。プラネタリウムじゃなく、本物の空を見たいんです」
「そう、なんですか」
あぁ、やっぱりだ。
自分でも分かっていたのだ、こんな質問をするべきではなかったと。自分自身を傷つけるだけなのに、なぜだか抑えることができなかった。
「あなたはどうなんですか?」
「……僕は」
頭が下がった。言葉が喉で引っかかる。
星や宇宙を好きだという彼女に、なんと言えばいいのだろう。両ひざに肘をついて考えても、答えは見つかるはずもない。
「分かりません」
それが精一杯だった。
彼女の顔がこちらを向くのが分かる。何かを言われるのが怖かった。彼女と意見が反発するのが、どうしようもなく辛かった。
顔を上げて発した言葉は、話を逸らすための話題でしかない。
「そういえば、名前、訊いてなかったですね。良かったら、教えていただけませんか」
「あ、はい」
咄嗟の質問に、彼女は慌てた返事をする。すぐに呼吸を整える仕草をして、丁寧に口を開いた。
「水鳥川と申します。水鳥川栞です」
「水鳥川さん、ですね。僕は」
「十部陽さん、ですよね」
そういえば、最初に自分から、それと武井さんが呼んでいたことを思い出した。どうやら覚えてくれていたようである。
「その通りです。覚えていましたか」
「当たっていて良かったです。それと、私のことは栞と呼んでください。苗字だと、長くなってしまいますし」
彼女は照れながらそう言ってくる。拒否する理由などあるわけがなく、僕は一つ頷いた。
「分かりました、栞さん」
「はい、陽さん」
彼女に負けじと僕も照れた。栞さんは、笑って返してくれた。。
話は逸らせただろうか。頭の隅ではそのことばかりを考えてしまう。笑った自分の顔が、どことなく引きつっているような気がした。
それからしばらく、僕らは二人で星空を見詰めていた。その間、栞さんが僕に質問をしてくることも、僕が栞さんに話しかけることもなかった。
話す言葉が見つからなかったわけではない。今はただ、そうしていたかっただけなのだ。
静かな時間が流れるばかりであった。僕らがそれぞれの家に戻ったのは、それから三〇分後のことだった。
***
僕が生まれるよりもずっと前から、兄は異常なほどに宇宙への憧れを抱いていたらしい。
きっかけは、父が兄の誕生日に渡した家庭用プラネタリウムの玩具だったそうだ。台の上に地球に似せた半球体が置かれ、スイッチをいれれば頂点から天井に向けて星達が投影されるというものだ。
所詮は玩具なので、手の平サイズほどの大きさしかなく、星空も変わらず同じものが映されるだけだったのだが、それからの兄は寝る前になると、決まって部屋の天井にプラネタリウムの星空を広げたらしかった。
小学生に上がった頃には、憧れはいつしか夢になり、中学になると夢は目標に、高校、大学になるにつれて目標は現実になっていった。
兄は若くして、宇宙飛行士という夢を実現させることになった。
兄の背中ばかりをみていたからか、その頃の僕も宇宙への憧れは人より何倍も大きかった。兄が宇宙へ行くと知ったときは胸が飛び出すほどに興奮した。
風呂で冷えた体を温めながら、ふとそんな昔のことを思い出した。晩飯をすませて自室に戻り、パソコンディスクの引き出しを開ける。
そこには一枚の手紙と、青い包装紙に包まれた手の平ほどの箱が入っている。手紙には僕宛に名前が書かれ、裏には兄の名もある。
宇宙飛行士が、もしものときに家族に書き残す遺書だ。
ベッドに横たわり、手紙を広げた。もう何度も読み返した文を、ゆっくりと目でなぞっていく。
長々と綴られた兄からの最後の言葉は、そのほとんどが前向きなものばかりだった。
端的に言えば、『もし死んだとしても後悔はない』といった文が書かれているだけである。
もちろん、その言葉で僕の気持ちは幾分か楽になったし、きっと両親もそれで立ち直れた部分もあるだろう。
しかし、手紙の最後の文に関しては、どうしても前向きに捉えることができないでいた。
『陽は、宇宙が好きか? もし宇宙に行きたくなったら、これを開けろ。何もしてやれなかった兄からの贈り物だ』
その贈り物とやらが、一緒に入っていたこの小さな青い箱だった。中身はまだ開けておらず、未開封のままずっと引き出しに入れたままである。
僕はまだ、その贈り物に手を出す気にはなれないでいた。
さっきまで一緒にいた彼女のことを思い出す。
瞼の裏のプラネタリウム。盲目の彼女が唯一見られる小さな宇宙。皮肉にも、僕にはそれを見ることができない。
理由は分かっていた。僕は、宇宙が怖いのだ。
昔に見たあの広い空の光景。宇宙を目指した兄の最後の姿は、僕の眼に深く焼き付いた。
憧れた夢の中に突如現れた『恐怖』という現実が、津波のように襲いかかってくる。それは十年以上経った今でも消えることはなく、昔に抱いていた想いからは遠ざかるばかりである。
だから箱は開けられないでいた。
僕の気持ちは、宇宙へは程遠い。
***
早々に一週間近くが経った。
平日は講義に出て、土曜は就職説明会の会場へと足を運んだ。先の目標が無いにしろ、何かしらやらなければいけないと焦っている部分もあった。
しかし結局、どの企業にも興味を引かれることはなく、数社の説明をただ聞き流して昼過ぎには帰路に着くことになった。
マンションの門をくぐってエントランスに向かう途中、庭の方に目をやると枯葉の乗った無人のベンチが見えた。ふと栞さんのことを考える。
あれっきり姿を見ることはなく、本当に毎晩星を見ているのだろうかと気になるときもあった。寒い夜の中、わざわざ外に出て確かめることはしなかったのだが。
そもそも、僕は昔からこのマンションに住んでいるはずなのに、彼女に会ったのがあの一度きりだということが不思議でならなかった。もっと定期的に、少なくとも月一程度は顔を合わせても良さそうなものである。
昼とはいえ、この弱い陽射しでは身体を温めるには心もとない。冷たい風に晒され、首を縮めて身震いする。
寒さに肩をすくめたとき、皮靴にコツ、と何かが当たった。
「あ、すみません。人がいることに気づきませんでした。大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声がした。振り向くと、見知った女性が白い杖を握ったまま立ち止まっていた。
「あ、栞さん」
「その声、陽さんですか? お久しぶりです」
にこやかに笑って、彼女は軽く会釈をする。僕もつられて頭を下げた。
「こんな所で、奇遇ですね」
「そうですね。今から、どちらに?」
彼女の格好はこの前の寝巻とは違い、紺のロングスカートにベージュのPコートというシンプルな服装である。それが外出用だということは見ただけで判断できた。
「少しそこまでです。この辺りを散歩しようかと」
一人でですか、という言葉を出る寸前で止める。あの日以来、『盲目』というハンデを思わせる言葉に対して、無意識に気にするようになってしまった。
自分にとって目が見えないのは当たり前だと言った彼女に、一人で出歩くことを心配していては余計なお世話とまた怒られるかもしれない。へたなことは言わないに越したことはない。
しかし気にならないわけもなく、言葉を選びながらに口を開ける。
「僕も、ご一緒してもいいですか?」
「え? はい、構いませんが」
戸惑いの残る答えだったが、特別気にはならなかった。
少し待つように言ってから小走りで家に帰る。部屋のベッドに鞄を放り投げ、スーツを雑に脱いでからカーゴパンツとジャケットを羽織り、財布と携帯をポケットに突っ込み、さっきまで首に巻いていたマフラーを片手に部屋を出た。
エントランスに戻ると、栞さんは壁に背をつき、白い息を吐きながら杖を足にコツコツと当てていた。首を竦め、軽く身震いしている。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、早かったのでそんなには」
言いながら、彼女は顔を上げて壁から背を離す。僕は側にかけ寄ると、
「ちょっと失礼します」
と前置きして持っていたマフラーを彼女の首の後ろからかけてやった。
「え、あの」
そのまま、ぎこちなくも二重に巻いていく。
「首、何も付けてないと風邪引きますよ。今日は風が強いので」
巻き終えて一歩後ろに下がる。栞さんはマフラーに口元を埋めるようにして、少しの間俯いていた。
「……ありがとう、ございます」
呟くような声で言う。喜んでくれているのかは分からなかったが、僕は「いえ」と返して微笑んで見せた。
実は心臓は跳び出しそうになっていた。自分でも大胆なことをしたと思うが、彼女の格好を見ると放ってはおけなかった。
「服、着替えてきたんですか?」
「あ、はい。よく分かりましたね」
「においが違いましたから。柔軟剤でしょうか、さっきよりも生活の匂いがします」
「すごい、そんなことまで分かるんですね」
僕は素直に感心した。栞さんはあくまで謙虚な反応しかしなかったが、本当に彼女は盲目というハンデを感じさせない人である。健常な僕よりも、何もかもが優れていると思った。
話もそこそこに、僕らは二人並んでマンションの外に出た。横切る住宅路は狭く、車の通りは少ない方である。その上、今は外を出歩く人の姿もほとんど見えず、栞さんが散歩にこの時間を選んだ理由はすぐに理解できた。
彼女を歩道側に寄せて歩いた。左手は常に彼女の背中に回していた。それくらいの行為が、付き添った者の義務だろうと思ったのだ。
他愛もない話をしながらしばらく歩くと、開けた道に出た。球技用グラウンドの見える見渡しの良い道路である。道幅の割に、相変わらず車の通りは少ない。
「ここら辺の道にも、ようやく慣れてきました。引っ越してきたばかりの頃は、親の手を借りてやっと歩ける程度でしたけど」
「いつ頃、こっちに?」
「二か月ほど前です」
何気ない会話の中、僕は一人納得していた。
なるほど、ならば僕らが出会わなかったことにも説明がつく。不慣れな頃はあまり外出もしていなかったのだろう。ここらの道に慣れたのが最近ならば、マンション内の敷地を自由に出歩けるようになったのも先月くらいの話に違いない。
そういえば、彼女が引っ越してきたという頃に、運送トラックを見た記憶があった。
「けっこう最近なんですね。その頃から、星を眺めていたんですか?」
「星は、ずっと昔から眺めていましたから。ここに来てからすぐに、母に庭のことを教えてもらって、夜には外に出ていましたよ」
「街はずれとは言え、こんな都会よりも前の家の方が星は綺麗に見えたんじゃないですか? なんでまた」
何気ない質問だった。前を向いて歩いていたが、不意に背中に回していた手が重さを感じる。栞さんの足が止まっていた。すぐに立ち止まり、彼女の顔を窺う。
「どうしました?」
何か言いたげな表情だった。軽く俯き、閉じた口は唇を噛んでいるようにも見えた。眉間にシワが寄っている。
彼女の表情だけで、自分が失言をしたことを理解した。
「あ、あのっ、すみません。もしかして、言いたくないことでした?」
ならば大失敗である。二度目のミスだ。
前に引き続き、こんな場所でも栞さんに嫌な思いをさせてしまったのならば、胸が痛い。
彼女はしばらく黙っていた。ちょうど球技用グラウンドが目の前に見える。試合でも行われているのか、ざわめきのある声と甲高い笛の音が聞こえていた。
「……陽さんは」
ようやく栞さんは口を開く。表情は変わらず硬いままだった。
「何か、怖いものとか、ありますか?」
たどたどしい声だった。まるで何かに怯えるような、擦れた声だ。
怖いもの。悩むことなく、一つのものを想像する。
僕は口を開こうとして、しかし寸でのところで喉が塞がれたように声が詰まる。鼻から溜め息が漏れ、出た言葉は、彼女の質問に答えるものではなかった。
「どうしたんですか、急に」
「いいから、答えていただけませんか?」
誤魔化しは通用しなかった。栞さんはまた質問を投げかけてきた。僕から何を訊きだしたいのかが分からなかったが、彼女がここまで食い下がるのが珍しく、半分押されるように頷いた。
「まぁ、ありますけど」
「それは」
栞さんは顔を上げた。見えていないはずなのに、的確に僕の目に視線をやってくる。
「宇宙、でしょうか」
時間が止まったような感覚がした。無意識に口が開く。瞬きをするのも忘れて、僕は彼女の目をジッと見た。
喉が疼く。唾を飲み込んでも、それが治まることはなかった。
「……気づいてたんですか」
脱力するような声だったに違いない。事実、左手は彼女の背中から離れ、ただ重力に従うままに腰に落ちていた。
「前、お話したときに、そう察しました」
自分の言動が露骨だったのかもしれない。宇宙が好きかと訊かれ、「分からない」と言ったあげくに無理矢理話を逸らしたのだから、気付かれて当たり前である。それが勘の鋭い彼女ならなおさらだ。
触れてはほしくない内容だった。しかし僕自身、彼女の領域に何度も足を踏み込んでいる。一回は傷つけている。
そんな奴が、栞さんの言葉を咎めることができるだろうか。
「すみません。触れてはいけないと分かっているのですが、どうしても気になったんです。そのことが、ずっと頭から離れなくて。私自身、そういった気持ちは一番に理解しないといけないのですが」
罪悪感に染められた声だった。初めて会ったときも、こんな顔をされた気がする。
彼女は人を傷つけることに慣れていない。それは一言で言うならば「優しい」と捉えられるかもしれないが、ときとしては言葉を伝える妨げになる。
結果として自己主張が疎かになり、彼女の気持ちを察することが難しかった。
しかし一つだけ、彼女が僕の過去を知りたがっているということだけは、感じることができた。。
「少し、その辺で休みませんか」
辺りを見渡すと、グラウンド横に小さな広場があった。芝生で整えられた、ベンチだけの休憩所的なスペース。側には自販機も設置されている。
栞さんが頷くのを確認してから、彼女の背に再度手を添えて、僕らはその場所に歩みを進めた。
ベンチに腰掛け、ただ風に当たるだけの時間がしばらく続いた。寒さに首を縮める。正面にはグラウンドが見え、少年野球だろうか、小さな体でバットを構えている。打つ。仲間がベースからベースへと全力で走った。
栞さんは相変わらず空を見上げていた。風で揺れる黒髪をうるさく思うふうでもなく、動くままに遊ばせている。
彼女からは何も言わない。きっと僕の言葉を待っているのだろう。しばらく考え、頭の中を整理してから、僕は口を開く。
「昔のことです――」
静かな声で、初めて自分の昔話を他人に話していく。未経験のことに喉を震わせ言葉をつっかえさせながらだったが、どうにか繋げていった。兄のことからその結末、それからの自分の考えまでを数分で言い終える。
正面を向きながら話していたから、いつからそうしていたかは分からないが、気付けば栞さんがこっちを向いていた。眉間にシワがよっている。触れれば、今にも泣きだしそうな表情だった。
「そんなことが、あったんですね」
彼女の顔が俯いていく。陰りができて、より表情が暗く見える。
何を言えばいいのか分からないのだろう。僕も同じだった。今、彼女にかけてあげるべき言葉が見付からなかった。
またしばらく、風ばかりが吹いた。いや、本当のところ数秒ほどしか経っていないのだが、その間の時間が異様に長く感じられたのだ。
悴む手先を撫でまわす。先に言葉を発したのは、栞さんの方だった。
「こんなことを言うと、私が思いあがっているように感じるかもしれませんが」
彼女の顔が上がる。正面を向きながら、ゆっくりと口が動いていく。僕は深くベンチに腰掛け直して、彼女の言葉に耳を傾けた。
「それでも陽さんは、まだ宇宙に憧れを抱いている気がします」
「僕が、憧れを?」
思いもよらない言葉だった。僕自身、そんな気持ちが残っているのだろうかと疑問だった。質問を重ねる。
「どうして、そう思うんですか?」
「前に言いましたよね。現在観測されている星座の数は八十八個だ、って」
たしかに言った。咄嗟に思い付いた誤魔化しの言葉である。僕は一つ頷く。
「それって、あまり知られていない知識だと思うんです。それこそ、興味がなければ調べないような内容です」
「それは、そうですけど」
だからと言って、それが僕が憧れを抱いているという根拠になるのだろうか。僕だって一時期は宇宙を目指して、知識を寄せ集める程度には勉強した。その名残として星座の数を覚えていたに過ぎず、彼女が言わんとしていることには納得できない。
と思っていたのだが、それは彼女が考える根拠ではなかったらしい。本題は、続けて発した次の言葉の方だった。
「その後、なんて言ったか覚えていますか?」
「あと? えっと、なんでしたっけ」
記憶を掘り起こすも思い出せなかった。あのときは軽く混乱もしていたし、細かいことまでは覚えていない。
栞さんは僕を見詰めた。
「凄い、と言ったんです」
はっきりとした声だった。僕に何かを訴えるように、彼女は言う。
「咄嗟に出た言葉なのかもしれません。でもそれは、関心がないと言えない言葉だと思うんです。逆に言えば、咄嗟に出たからこそ、それが本心なのではないでしょうか」
「どうなんでしょう。よく覚えていないので、何とも」
言ったような気はする。はっきりした記憶がない故、きっと無意識に出た言葉には違いないのだろうが、それが彼女が言う「関心」や「本心」に繋がるかと言われれば、やはりいまいち納得ができなかった。
「もしかしたら、ただの思い違いなのかもしれません。根拠と言っても、所詮は私の中で勝手に解釈されたものですので。……けれど、もし陽さんの中で憧れが無くなったままだとすれば、それは、すごく悲しいことだと思います」
言葉尻がだんだんと小さくなっていった。さっきよりも眉が傾いている。他人のことにここまで感情移入してくれる栞さんは、やはり優しい人なのだと思った。
「そうですね」
呟くように返した言葉は、自分でも気に食わないほどつまらないものだった。
下を向く。思い返せば、分からないことばかりだった。なぜ宇宙飛行士という夢を絶えさせてしまったのだろう。
兄が死んだから? 恐怖したから? 空にトラウマを覚えたから? 考えれば考えるほど、それらは夢を絶えさせた理由として、自分自身で納得し難いものばかりである。
「どうして目指さなくなってしまったのか、自分でも分からないんです」
気付けば、考えが口から外に出てしまっていた。
「恐怖やトラウマなんていう言葉を都合よく使っているだけで、本心がどうなのかは、考えても分からなくて」
「ありますよ、そういうことって。他の人の気持ちは分かるのに、自分のことになると何も気付けなかったりするんですよね」
そこで栞さんは言葉を切る。間を開けて、言葉を進める。
「じつは、私も同じなんです」
僕は顔を上げた。
「それは、どういう……」
彼女は正面を向いていた。その表情から、遠くを見詰めているように見える。
「すみません、長話で本題の方を後回しにしてしまって」
彼女は言葉を切って一呼吸置く。どのくらい口を閉ざしていたかは分からないが、グラウンドからはボールを打つ甲高い音が一つ響いていた。
「引っ越してきたのは、手術のためなんです」
淡々とした口調だった。しかし、栞さんの頬が強張っているような気がした。
「手術……?」
オウム返しに訊き返す。
「はい。開眼手術です」
その言葉が何を意味するのか、しばらく理解することができなかった。彼女の言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻く。時間が止まったような感覚がした。
それって、つまりそれって、栞さんの目が――
「目が、見えるようになるんですか?」
つい興奮して、上擦った声になってしまっていた。身を乗り出すように、彼女に体を傾ける。
「手術が成功すれば、ですけど」
しかし彼女の言葉は、語尾が濁っていた。表情が硬い。手放しで喜んでいないことは火を見るより明らかだった。
興奮を抑える。彼女の前で喜ぶのが場違いな気がしたのだ。
「やっぱり、怖いですよね」
「そうですね。それもあります」
「それ、も?」
「……怖いのは、その後なんです」
栞さんは唇を噛んだ。
「成功するか、しないかって話ですか?」
「それも、です。でも、一番怖いのは、成功した後かもしれません」
ふと彼女の手に目をやった。杖から離れていた両手は、膝の上で拳をつくり、強く握られていた。目に見えるほどに震えている。
何か、声をかけてやらなければと思った。口を開きかけるが、それよりも先に彼女が口を開いた。
「陽さんは、何から価値観が生まれると考えますか?」
唐突な質問だった。
「周りの環境からですか? 先人の知恵からですか? いえ、質問を変えましょう。何から価値観を得られると考えますか」
まるで僕の答えなど待っていないように、栞さんの口は休むことなく動き続ける。
「それはやっぱり、自分を生んでくれた親からだと思うんです。生まれた直後から、親はその人に愛情や知識、経験を与えてくれる存在だと思います。命は、私達が生まれて初めて与えられる価値観だと思います。もちろん、赤ん坊の頃にそんなことは考えません。大人になるに連れて、価値観は徐々に定着していくものです。では」
栞さんは興奮状態にあった。止まることのない言葉が羅列をつくる。僕は彼女が何を言いたいのか、徐々に理解していく。それに連れて、言いようのない絶望感に溺れていった。
「赤ん坊の頃から定着されなかった価値観を、大人になって突き付けられたら、それを受け入れることができるでしょうか。もっと細かく言うのなら、周りでは当たり前の価値観を自分だけが受け入れられない、という状況に、耐えることができるでしょうか」
話すうちに小さくなっていく彼女の声。そういうことなのか、と理解していけばしていくほどに、僕は顔を俯かせた。目だけで彼女を見る。
正面を向いた栞さんの目尻が、濡れている気がした。
「分からないんです。自分がどうしたいかが」
震えた声だった。聞いたことのある言葉だ。
「星を、空を見たいはずなのに、見るのを怖がってばかりなんです。そんな自分が嫌で仕方なくて、でも、怖いのには変わりなくて。ずっと前から、そんなことばかりを考えてしまっているんです」
最後はかすれ声になっていた。言いたいことを吐き出し疲れたのか、軽く肩で息をして、マフラーの内で口を閉ざす。
自分の顔が酷く歪んでいることに気付いた。胸が重くなる感じがする。
「いつから、なんですか」
手術、という言葉を言うのに躊躇した。それでも彼女には伝わったらしい。
「明日から、入院です」
急な話だ。彼女に対してではなく、自分に対してそう思う。それじゃあ、今なにか言うしかないじゃないか。
しかし何も考えつかない。言葉が思うように出てこなかった。
だから僕は、強く握られた彼女の手を、そっと握る。
「大丈夫です」
ひとつ言う。次に言葉を続ける。
さっきまで宇宙が怖いだの、夢を諦めただの言っていた自分が言うには相応しくないかもしれないが、彼女の為なら、そんなことなど知ったことかと思った。
「僕だって、宇宙を見たことがないですから。それに、星は綺麗ですよ」
半分嘘で、半分本当の言葉だ。
彼女は何も言わなかった。代わりに僕の左手を、縋るように握り返してくる。
冷たい指先が、絡み合った。
***
ふと思い返していた。栞さんと初めて出会ったあの日、彼女は迷いなく今日も星が綺麗だと言っていた。見えていないはずなのに、だ。
もしかしたらそれは、そうであってほしいという彼女の願いでもあったのだろうか。知らずに、自分自身を勇気づけようと必死だったのかもしれない。
似た者同士。僕らにはその言葉が一番似合っている気がした。
結局、河川敷までは足を運ぶことなく、僕の一言で帰路につくことにした。行き同様、彼女の背に添えた手には、まだ冷たい指先の感触が残っていた。
夕飯も食べ終え、部屋に戻るなりベッドに仰向けで寝転がり、かざすように兄からの手紙を広げる。てきとうに流し読み、最後の文で目を止める。
「宇宙が好きか、か……」
何気なしに呟く。栞さんの言葉を思い返した。
僕が憧れを抱いている。もしそうだとするなら、この手紙の質問には「イエス」と答えるべきなのだろう。『憧れ』と『好き』はイコールだろうから。
じゃあ、なぜ僕は「イエス」と答えないのか。今さらながら、「怖いから」というのは理由にならない気がした。
ふと青い箱を手に取る。開けられないでいた、兄からの贈り物。
何も考えなかった。気付いた時には、僕の手は包装紙を破き、箱を開けていた。中の物を取りだす。
小さな半球体の部分が目に映った。それは間違いなく、兄の持っていたプラネタリウムの玩具だった。こんなところにあったのか。
底にあったスイッチを入れてみる。反応はない。電池切れだと分かってリビングから持ってくる。
入れ替え、部屋の電気を消した。今日は月明りが薄い。カーテンを閉めればほとんど真っ暗だ。
電源を入れる。それを自分の腹に置き、仰向けで天井を眺めた。
――宇宙が広がっていた。
濃い青色の世界に、白い光の点がいくつも散りばめられていた。帯状の光の集合体は、天の川だろうか。その周りには白い線で繋がれた数々の星座があった。
方角も位置も無視した寄せ集めのプラネタリウム。それでも僕は、瞬きをするのも忘れ、胸が膨らむほどに大きい呼吸をしていた。
その呼吸は次第に乱れ、喉を震わす。
目尻からこめかみに渡り、冷たいものが流れ落ちた。滴は一筋の痕をつくる。拭うことはしない。真上に広がる世界から、目を離すことができなかった。
昔のことを思い出した。
『ねぇ、宇宙って空気も地面もないんでしょ? 怖くないの?』
『怖いわけあるもんか。輝く星達は、まるで俺達を歓迎してくれているようなんだぞ』
あぁ、忘れていた。宇宙を目指していた兄の背中を。僕が誰に憧れを抱いていたのかを。
僕は知らぬうちに、見てもいない世界が怖いものだと、勝手に決め付けていた。
栞さんは闘い続けている。こんなことを言うとまた彼女に怒られるかもしれないが、僕とは違う世界で、生まれたときから未知の領域に立ち向かっていた。
そして明日から、また違う世界を見ようとしている。
不安に押しつぶされ泣いていた彼女だったが、元から夢を諦めるという考えは頭になかったのだった。後にも引けない夢を追って、きっと叶うと信じて、怖がる自分自身に対しても闘っているのだ。
栞さんと出会ったときから思っていた。彼女は僕よりも何倍も強く、優れた人間なのだと。だからきっと、彼女の夢は実現するはずだろうし、そうでなければいけないのだ。なぜなら彼女は、闘い続けているから。
何気ない考えが頭に浮かんだ。
もし僕と彼女の夢が叶うのなら、僕の手で、栞さんにこの世界をみせてやりたい。宇宙の星を、見せてやりたいと思った。
ふと、兄との会話がよみがえる。
「どうだ陽、俺たちはこれから、あそこに行くんだぞ」
夏の夜空に堂々と浮かんだ丸い月を指差して、兄は僕の頭を乱暴に撫でまわした。
土手道で足を止め、僕と兄は二人で夜道にたたずみ、ひたすらに空ばかりを眺めていた。
「月で、なにするの?」
兄の手をウザったく撥ね退けながら訊くと、兄は得意気に笑って見せた。何も恐れない、堂々たる表情を浮かべていた。
「夢見る子供達への可能性を広げに行くのさ」
「どういうこと?」
「月ってのは、ロマンでできているんだぜ。夢見る少年少女は、いつか月を目指してつっ走るのさ」
「ケーキ屋さんや野球選手になりたくても?」
「あぁそうだ。ケーキには月のような輝かしさが必要だろうし、野球選手は月を目がけてバットを振るわなきゃならない。そうすれば美しいケーキに客は見惚れ、野球選手は全打ホームランも夢じゃなくなるだろ」
「そしたら兄ちゃんは、月を目指して宇宙に行くんだね!」
兄は一瞬驚いた顔をした。一本取られたと言いたげに苦笑すると、自信ありげに腕組をして見せた。
「そういうことだ」
真っすぐな目で僕を見下ろした。
僕は嬉しくなったが、反面、恐怖におののいてもいた。
「ねぇ、宇宙って空気も地面もないんでしょ? 怖くないの?」
兄は不思議そうに瞬きをした。唐突にはははと笑って見せ、また僕の頭を荒く撫でた。
「怖いわけあるもんか。輝く星達は、まるで俺達を歓迎してくれているようなんだぞ」
兄の言葉は力強く、僕はそれだけで自信に満ち溢れる気分に酔った。
まるで身体が熱くなるようであった。熱帯夜のせいなんかではない。むしろこの日の夜は、汗も感じぬ清々しさすら覚えてならなかった。
その日、僕は夜空に向け誓いを立てたのだ。いつか必ず、兄の背中に追いつこうと。未知なる闇空へ飛び、月へ向かうと心に決めたのだった。
片隅から掘り起こした記憶に耽り、僕はいつしか目を閉じた。思わず口が開く。
それは気のせいだったのかもしれない。天井の光の残像だったのかもしれない。
それでも一瞬、瞼の奥に、満天の星空が見えた気がした。
瞳の中のプラネタリウム
初めに、読んでくださった方々へ、感謝の言葉でいっぱいです。
ありがとうございます。
「瞳の中のプラネタリウム」、いかがだったでしょうか?
切なくなった人、共感してくださった人、勇気づけられた人。
様々な感想が耳に聞こえてくるようです。
裏話ですが、この題名、元々は「盲目のプラネタリウム」だったのですが、差別用語と指摘されたためにこのような形に収まりました。
自分的には盲目の方がしっくりと来るものがあったのですが、はてさてそれの評価も、読者である皆様に委ねるといたします。
※以下、ネタばれ含む。
さてこの作品ですが、恋愛ものと称しながらも、ヒロインである栞との関係は深くは発展いたしません。
作中に「冷たい指先が、絡み合った」という表現が使われておりますが、そこからは読者のご想像にお任せするといった物でございます。
終わらせるもよし、発展させるもよし、勝手にアフターストーリーなんてのも考えると、面白いかもしれませんね。
どちらかといえば、兄に先立たれた陽の立ち直り、夢への執着心を見て頂ければ幸いでございます。
何を乗り越え、どう進み出すのか。
そこに行き着いたきっかけは、きっと栞さんにあったのかもしれませんね。
捉え方は人それぞれ、読者次第でございます。
この作品を通して、少しでも夢への一歩を踏み出せたなら、載せた甲斐があるってものです。
最後にもう一度。
読んでくださり、ありがとうございました。
また、どこかでお会いしましょう。