女の敵強姦魔

 性行為は両性が合意のもとに為すべきものであって男が力づくで女を犯すなどは男の恥である。口説き口説かれて行うものであろう。男女の一体となる共同作業(生殖器の共有)によって性の悦びを知るものでないか。強姦レイプは妊娠の可能性すらある。意に反する性交による女の苦痛は測り知れない。
 その意味では殺人よりも残酷である。しかし、その量刑は三年以上の有期懲役であり、刑期を終えた男が再び女を犯すことも少なくない。刑法の強姦罪だけで再発は防げない。

 矢野健と駒込直美は独自の手法で強姦の撲滅、再発防止に取り組んでゆく。果たしてその手法とは、強姦撲滅再発防止は功を奏するか、法治国に於いて私刑リンチは許されないが被疑者被告人の人権が過大視され、殺しても飽き足りないという被害者の心情が軽視されている現状では致し方あるまい。国民感情から乖離している刑法の改正が望まれる。

 なお本作品はフィクションであり同名の人物会社等はすべて実在のものとは無関係であることを断っておく。

刑法 第百七十七条  暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

強姦罪(ごうかんざい)とは、暴行又は脅迫を用いるなど、一定の要件のもとで女性の性器に男性が性器を挿入する行為(強姦)

姦淫とは性交をいい、男性器の女性器に対する一部挿入で既遂に達し
妊娠および射精の有無は問わない(大審院大正2年11月19日判決以後の確定した判例・実務)

女の敵、強姦魔 第一部 鬼頭 大介

                      


女の敵、強姦魔


1鬼頭 大介

中野良子強姦事件
   強姦撲滅会社設立
   斉藤慶子強姦事件
   強姦魔は金脈
   マネーロンダリング
   鬼頭大介捕獲
   土地買収見せ金
   冬薔薇ママ長谷川冴子
   すけこまし
   刑事鮫島久蔵
   続ロンダリング
   コピーのコピー
   鬼頭善之助
   後日談

2根本 修也
  乙女の祈り
  松井須磨子
  強姦魔捕獲作戦
  手形割引
  プロの殺し屋

3豪間 寛治
  佐藤オリエ
  宵の明星
  暴走族捕獲作戦
  ゴルゴ13こと東郷平四郎
  スカイダイビング
  秋の女よ
  マリンドケ島サーキット
  秋の女よ放映

4関元 征助
  前橋響子
  処刑「死の恐怖」撮影
  矢野ヴィヴァルディ合奏団
  映画「死の恐怖」放映
  大使館パーティー

5吉永小百合
  強姦か恋ゆえか
  遺産相続
  女子供は奴隷に
  額田姫王
  月月火水木金金
  関本滝本優勝す
  成人男女の結合
  黄昏の国日出る国
  乙女の祈りは永遠に


 
                  第一部 鬼頭 大介


 中野良子強姦事件

 駒込直美の事務所を若い女が訪れた。行政書士を若い女が訪れることは少ない。その焦燥した表情から駒込直美はただならぬ気配を感じた。すぐ個室の面談室に彼女を招き入れた。直美はすでに二児の母となり、行政書士事務所を切り回していたから落ち着きがあった。事務所には5人の職員が忙しそうに働いていた。こうした雰囲気は依頼人に安心感を与える。
 職員がお茶を置くと黙って立ち去る。直美が目でどうぞと勧めて茶をすする。若い女が美味しいと言った。飲まず食わずであったようだ。直美がノートを拡げて「お話伺いましょうか」と静かに言った。その眼はすべてを受け止める母親の眼だ。「私、レイプされました」若い女が喉のつかえを吐き出すように語った。駒込直美は自分の娘をみつめるように女に全神経を集中させる。
 被害状況
1 被害者 中野良子19歳昭和36年5月8日生
 住 所  杉並区下高井戸一丁目3番87号
 勤務先 四菱商事株式会社秘書課受付係
2加害者 不詳、25歳前後、身長170位外1名
3被 害  昭和55年9月8日午後8時半頃自宅近くで二人組の男に連れ去ら
       れ某所にて輪姦された。その写真を撮影され、警察に届けると写真
       をばらまくと脅された。翌日午前11時井之頭公園で釈放された。
4依 頼  加害者に死以上の苦しみを与えたい。
5報 酬 

 中野良子の話を聴き終わると駒込直美は「ちょっと待ってて」と席を外す。職員に珈琲とサンドウィッチを用意させる。香川健に電話する。行政書士事務所に扱えるような依頼ではない。所長である香川の返事は「着手金30万、成功報酬70万。事務所は依頼を取り付くだけ」というものであった。さらに病院で診察を受けること、母親に相談するよう依頼人に説得することを指示してきた。
 中野良子は壁に架けられた駒形直美の写真を見ていた。恋する乙女は幸せに満ちた表情を浮かべている。昨日の悪夢のような出来事がなければ自分もこんな写真を撮りたいと思った。直美が戻って来た。「あれは先生ですか」「10年前に所長が撮ってくれたの。一口でも食べたら貴女何も食べてないでしょう」

 直美が報酬を告げると中野良子の表情が硬くなった。100万と言えば年間サラリーである。「こういった依頼は本来行政書士事務所としては受けられないけどこういう男は許せない。私は貴女の話を信用して二人に死ぬ以上の苦しみを味あわせてやるわ。もしできなかったら報酬の70万は返しましょう。私を信じてくれる」
中野良子はきっぱりと言った。「お願いします。お金引き出してきます」「そう、でも貴女見張られているわ。私も一緒に行きましょう。その前に食べて無理にでも。二人に土下座させるまで泣いてられないでしょ」直美は向かいの浪漫建設の松崎敬子を呼び出す。高校からの親友だ。
 二人で中野良子をガードして金を引き出した。良子は50万引き出したようだ。新入社員が1年で100万貯めることは容易ではない。堅実な生活ぶりが窺われる。「これ預かり証、お金は金庫にしまっておくから。中野さんこれから病院に行きましょ」直美は自分が出産した病院に電話する。「敬子、ボディーガードが要るの、谷村さんお願いできるかしら」「いいわ」松崎敬子も社長秘書として浪漫建設のすべてを委ねられている。

 病院で中野良子が受診している間に直美は事件概要を松崎敬子に説明した。敬子も許せないと憤慨した。「しばらく彼女預かったら」「そうね」直美のそして敬子の事実上の夫、香川健の客室を指している。香川健こと矢野健は香川京子、谷和子、モニカ矢野、駒込直美の通い夫をしている。通いと言っても4人の妻の共同住宅の隣の3階建に住まいしているから妻たちの居候といえるだろう。最近この1階に松崎敬子も住まいするようになったから実質5人の妻に監視されていることになる。
 矢野は3階建15戸前の1室に住んでいる。その外観はさほどでないが内部は高級マンション並である。14室は妻たちの両親等が訪れた時の客室としていて自分の一生は自分で切り開くよう育てている。可愛がるが甘やかさない。今や矢野の子は香川京子が5人、谷和子が3人、モニカ矢野が3人、駒込直美が2人、松崎敬子が2人であるがこれからも増えるだろう。さらに犬が3匹猫二匹鶏5羽。
 直美はしばらく考えて言った。「今中野さんを一人にできない、うちであずかる。しばらくしたら敬子預かって」「そうね、落ち着いたら矢野の身の回りを世話させる」「猫に鰹節」「かもね」

 二人は医師に呼ばれた。「これはひどい、相当出血していますね。膣の損傷も激しい」「どれ位かかかりますか」「体の方は数日で治るでしょう。お産に比べるとかすり傷ですがこんな可愛い娘さんを」「先生、犯人を許すわけにはいきません。先生のご協力を」「男の恥ですな。精液は冷凍して保存しておきます。膣内は洗浄して消毒しましたから心配はありません。あなた心の傷はなかなか癒えませんが、これしきのことで挫けてはいけませんよ、結婚して妊娠したらまた来なさい」

 3人は病院から駒形直美の家に向かった。谷村は交差点で何度も右折左折を繰り返し尾行されないように運転する。途中で食料と中野良子の着替えを買う。「中野さんしばらく私の家にいなさい。家と会社に連絡する、さあ」直美は後輩に言うように命じた。
 直美の家には香川京子、谷和子、矢野モニカがやってきた。夕食のレシピと分担を廻って論争が始まるがすぐ結論が出る。10年間の実績であろう。直美は簡単に3人を紹介すると「中野さん、お風呂入って着替えなさい」と言った。「私も手伝います」「あなたは今日だけお客さん、明日から働いてもらいますからね」子供たちが騒ぎ出した。「かな、外で遊んでらっしゃい」と京子。「あや下の子の面倒みるんよ」と和子。「健一お父様呼んでらっしゃい」と直美。

 谷村が「先生とちょっと話したい」と言った。「健一あとでいいわ」ということになった。矢野はベランダに谷村を招いた。「先生バブルはいつまで続くでしょうか」「あと10年と見ている。感だけどね」「地価は」「半分になる」「半分ですか」「10年後には棚卸資産は処分しておいたほうがいい」「不動産業界は」「斜陽。しかし海外は朝日。20年から30年遅れで日本と同じような経路を辿るだろう」

 子供たちが矢野を呼ぶ。庭の芝を駆け回る子供たちに矢野は目を細める。矢野は立上がると「明日島崎社長を訪ねます。今の件は明日ゆっくり」「そうですか、浪漫建設の将来についても伺いたかったのですが明日改めて」矢野は階段を駆け下りる。矢野の子煩悩は有名だ。一人一人を抱き上げる。「かな、あやお前たちは卒業」「どうして」「重くていけないや。腰が痛くなる」「お父さん肩車」「ようし、健一お前のケツは固いな」「だって男だもん」
 こうしたやり取りは料理をしている女たちにもわかる。「今日は外で食べましょうか」「そうね天気もいいし」「あや、シャワー浴びて着替えなさい。今日の夕食はお外で」和子の一声で子供たちはそれぞれの家に帰る。中野良子は身体を隅々まで穢れを洗い落とすかのようにこすった。「これしきのことで挫けてはいけない」との産婦人科の医師のことばが甦ってくる。

 中野良子が着かえて庭に出ると大きなテーブルが作られていて料理が運ばれてくる。「今日は直美さんのお客様が見えられたのでみんな一人ずつ席をずらしなさい。中野良子さん」「いらっしゃい」「今日は、中野良子です。よろしく」「さあお父さん」「それじゃみんないいか。いただきます」「いただきます」「美味い」「でも直美の料理が一番だよな、お父さん」「あら和子の料理が一番よ」「違う、2番よ。京子が一番」「僕はモニカが一番と思うな」子供たちが母親をそれぞれに持ち上げる。「しかしこうして食事しているときが一番幸せだな。みんなも料理を作ってくれたお母さんに感謝しなさい」矢野はうれしそうに語る。「料理の野菜、魚、肉を育ててくれた人にも。お日様にも」

 その夜直美は自分の寝室に中野良子を寝かした。自殺を心配してのことであった。中野良子は緊張が緩んだのかよく眠っていた。この2日間は良子にとって長くつらい時間であったはずだ。それが寝息を立てて寝ている。矢野健には人を幸せにするものを持っているのだと直美は思い出し笑いをした。
 食後のデザートを食べながらの話は楽しい。「お父さん京子さんをどうやって口説いたの」「あの美貌に魅せられて」「和子さんは」「初恋のひと」「モニカは」「何故かはわからないが気が付くとモニカに囚われていた」モニカが言語でローレライを歌う。健は溺れる舟人を演じる。子供たちも完ぺきなドイツ語で歌う。「直美さんは」「後継者はこの女しかないと思った」「敬子さんは」「一目見たらやりたくなる」「なにを」「Hじゃん」
 
 強姦撲滅会社設立

 次の日は矢野も出勤するというので直美、敬子、中野良子と4人で出かけることになる。矢野はすぐ浪漫建設の島崎社長を訪ねた。直美は「今日からは居候分働いてもらうわよ」と中野良子をこきつかった。おかげで良子は落ち込む暇がなかった。「これから女子大生をナンパしてくる」「谷村さんとご一緒ですか。お帰りは」「首尾次第だ」行政書士事務所の会話とは思えない。
 香川こと矢野健は昨日から強姦撲滅の戦略を練っていた。
 1実態把握
  1.1聞き取り調査
  1.2公的機関
 2犯人特定
  2.1興信所
  2.2強制連行
 3損害賠償、慰謝料(多少の報復リンチ)
あとはやっているうちに思いつくであろうし、大きな漏れはないと思った。作戦は臨機応変でやってゆく。最重点施策は損害賠償額である。

 二人は基督教大学の正門前に立つ。あれから10年経った。その販売数料は3%だが1000万位であったはずだ。息子の昇氏はまだ現役教授と聞いている。「谷村さん」「ああ君か」「またナンパですか」香川健は思い出せなかったがあの時の女子大生の一人であった。「まあな、今度は容姿もよりも根性で選ぶ。10人ほど手配してくれないか」
 近くの喫茶店に入る。「君はどうしてる」「学校の教師になったけどたいくつでね、ドイツ系の会社に転職しようと思って」「やはりドイツへゆきたいか」「まあね」「先生はドイツに行かれて金髪の乙女を連れ帰った」「まあ素敵」「今回はレイプの実態を知りたい、根性のありそうな学生を選んでくれ」
 「バイト料は」「1件3000円、内容が良ければボーナスを出す」「私のギャラは」「嫁さんのドイツ里帰りに連れて行ってやる」「わかった。卒業証明を取ったらゼミ生に頼んでみる。面接は日曜日11時ね」「君の連絡先も教えてくれ」

 村山幸子は電話番号を書いて谷村に渡す。出足好調だ。谷村は浪漫建設の将来つまり次期社長に色気があるようだが島崎は松崎敬子を後継者にしたいようだから香川健はこの話に首を突っ込みたくない。「次は柴田瞳だが連絡先は」「大丈夫です。電話とFAX番号聞いています」「では引き上げるか」
 
 健は強姦撲滅戦略を島崎社長に説明した。考えを言葉にすることで整理できるし新たな考えも浮かんでくる。「当面の課題は犯人の特定ですか、興信所の方は私が話しましょう」「事業としてはどうでしょう」「面白いと思いますよ」「では今夜築地で」と浪漫建設を辞した。と言っても香川健行政書士事務所とは廊下を挟んだ向かい同志だ。
 矢野が香川姓を名乗るのは香川京子と結婚して離婚したからだ。事務所名は知られるようになっていたから変更せずに来ているが駒込直美に引き継がせるときは個人名でないものにするつもりだ。
 行政書士の資格だけで食っていけない、若い行政書士を育成して独立させるのが彼の夢である。しかし行政書士の職域は広くとても一人でこなせるものではない。香川健は初仕事が産廃であったが依頼人は建設業者が多いことから建設業の許可、経営審査、指名願い等の仕事も依頼されるようになった。また用地取得にともなう開発(土地の区画形質の変更)農地転用、相続なども手掛けてきた。一つの依頼事項をこなすにもいくつもの関連法令を当たらなければならない。数人の行政書士をおく総合的事務所にするのも夢である。

 夕方健は出かける前に中野良子の身辺警護に抜かりないよう直美に指示した。「わかっております。敬子と3人で帰ります」「敬子がいれば大丈夫だとは思うが空手部のあいつにガードさせよう」考えてみれば家には男は健だけである。浪漫建設の新入社員大山力也に一晩泊まってもらうことにした。

 健は築地の料理屋の離れ座敷に天龍組と白虎組の親分と若頭を招いたのであった。「本日はご多忙のところおよび立てしまして」「先生にそう言われちゃ尻がかゆくならあ」「両親分のお力を貸していただきたくこの席設けましてござんす」「先生無理しないでくだせえ、様になってない」「そうか、付け焼刃ではだめか」矢野健は(この場合行政書士香川健ではないと本人は思っている)概略を説明した。「面白そうじゃないすか、この若頭預けましょう。ただし5年で返してくだせえ」と天野龍太郎が言うと「うちも同じでやんす」と白川虎治郎も同意した。
 島崎社長に目くばせすると矢野は来賓にビールを注ぐ。「では新会社の発展と皆々様のご健勝を祈念して乾杯」「乾杯」「しかし先生と出会ってから人生がたのしくなった。なあ白川さん」「そのとおりでやんす天野さん、その節は」と言いかけるのを抑え込むように「さあさあやってくれ、ここは俺のなじみの店だ。酒がいいかな」と矢野が言った。
 白川が「先生おひとつ」と盃を取り上げる。「親分の盃を戴くなんて光栄だな」と天野も負けじと酒を勧める。「新会社のしのぎはヤバイ橋を渡ることになる。両若頭は組と縁を切ってもらいたい。なに5年後に復縁すればいい」矢野は笑いながら言うが背中に青白い炎がたっていた。

 天龍組若頭吉良信介が膝を乗り出す。「よろしゅうござますか」と組長を見遣る。「当面の務めは取っ捕まえることで」「そうなんだが手掛りがない」「差し出がましいようですがこのお嬢さんを元の会社に戻してはと」一瞬矢野はどきっとした。「そうか」「へえ」「見張りは」「それはもう命に代えてもお守りします」「今回の水揚げは3000万と見ている。月5件で1.5億」
 額を聞いて沈黙が流れた。「俺の手数料は1割、興信所、カメラマン等の経費が2割とみても手取りは7割。しかもだ、領収書を切らなくてよい金だ。わかるか自由になる金は親分も多くはないだろう。親孝行できるぞ」「そんなに水揚げが」「この手のムショ暮らしは5年ぐらいだ。ほとんどが捕まってもいない」今度は白虎組若頭国本忠二が「よろしいですか」と口を開いた。「先生水揚げは落ちませんかい」「需要は無限にある。警察に眼をつけられないようにやってゆくには月10件が限度だろう」「ほどほどに」「そういうこと」
 今回が試金石になるから慎重にことを運ぶこと、この事業は5年で軌道に乗せること、を矢野は念を押した。「そうしたら、俺は足を洗う。他にもやることがあるのだ」とお開きにした。「先生、もう一軒行きやしょ、スケやらせてる店ですがうちのがうるさくてご無沙汰しますので」「俺をだしに」

 斉藤慶子強姦事件
 島崎、天野、白川と矢野、吉良、国本に別れて車に乗る。公園の近くで車を止めてトイレ休憩。トイレ内で怪しい気配を感じた。放尿の瞬間耳は鋭敏になる。矢野が目配せすると吉良がうなずく。ドアをノックして「開けなさい」と矢野が言った。吉良は隣のトイレの壁を乗り越えてドアを開ける。
 まさに若い男が娘を強姦したところであった。吉良が男の腕を捩じ上げる。「出したのか、答えろ」矢野が質す。「少しだけ」男がしどろもどろに答えた。「病院だ、貴女これは事故だからね」と矢野は娘の肩を抱いた。

 吉良が男を後部座席の前に突き倒す。「運転手さん病院、近くに救急病院はあるか」「聖路加病院が近いですが」「行ってくれ」矢野が男の頭を、吉良が男の足を踏む。震える娘を膝に寝かせた。吉良は上着を脱いで娘に掛ける。「兄貴男は私が引き受けます」と国本が名刺を渡す。
 病院に着くと産婦人科に向かう。「運転免許証見せてくれるかな」と矢野が娘に言う。「捜査に協力してもらうので連絡先も書いてもらいたい。大丈夫だ、きちんと治療すれば」娘は住所氏名と電話番号書いて渡した。診療室に入ると「先生、精液採取と写真お願いします。それと家族への連絡。我々、現場保存もありますのでよろしくお願いします」と矢野は早口で依頼した。直美にも電話で事情を話して今夜は松崎敬子のところに泊めるよう手配した。自殺でもされたらことである。「仁吉、俺たちを国本のところで降ろして、斉藤慶子さんを松崎敬子のところまで送り届けてくれ。金塊が出るかも知れないぞ」「承知しやした」「冬薔薇で会おう」

 すぐさま国本の名刺の場所に向かう。高輪の古いビルの七階だ。男は縛り上げられていた。「君のしたことは犯罪だよ、しかも重罪だ。君のお父さんの職業は」国本が男の運転免許証とk大の学生証を矢野に見せる。「君は一人息子だな」「いえ、姉が二人います」「三人姉弟か」「はい」「では家に電話しなさい」男の紐が解かれる。
 男は監禁されていることを親に訴えた。「父が代わって欲しいそうです」「息子をどうするつもりだ」「どうしましょうかね。強姦は重罪ですから」とだけ言って受話器を男に返す。「いくら欲しいかと言っています」矢野は「君らがどうするかの問題でしょう」と言って電話を切る。

 矢野は急いで聖路加病院に電話する。「先ほど斉藤慶子さんをお連れしたものですが治療は終わりましたか。勤務先を伺うのを忘れました」「本人と代わります」「斉藤です、先程は有難うございました」「勤務先は」「四菱商事です」「所属は」「秘書課です」「電話番号は」メモする矢野に笑みがこぼれる。「こんなことで挫けちゃだまだよ。困ったことが起きたら駒込直美に電話しなさい」と一方的に電話を切った。矢野は明日の昼まで男を大切に保護すること及び水以外与えないように指示した。「さあ行くか、親分を待たせては悪い。兄さんたちお守賃だ、何か食ってくれ」と1万差し出す。「先生いいことが」「大ありだ。免許証と学生証2部コピーしてくれ」「おいコンビニでコピーしろ」「へえ」                 

 銀座の店冬薔薇では天野が出来上がっていた。「先生どこで浮気してた」「それが19歳のOL。可愛かったなあ」「ものになりそうですかい」「まあ年内には」「気の長いことで」「実の熟するのを待つ、慌てる乞食は貰いが少ない」「ドイツ娘は」「日本と違って早生だからな」「先生ビールでよろしいですか」「こんな綺麗なママに注いでもらったら手が震えるな」「まあお上手なこと」
 店内の装飾は華美ではないが落ち着いた雰囲気があり、ママの勝気な性格が出ている。「高いだろうな」「そうでもありませんよ、良心的にやらせていただいてますから」「俺なんぞには高値の園だ」「御冗談を」「売上は」「月500万くらいかな」「やらせてくれたら倍にしてやる。俺の取り分1割」「考えさせていただきます」「先生お安くないな」「一度ぐらいは熟した実を」「どうぞそれだけはご勘弁を」「残念だなあ」
 矢野が帰宅したのは午前様になるところであった。「はい、お冷。いいことありました」「まあな」「化粧の匂い、お風呂にいってらして。臭いわ」「はーい、ひとり見る夢は直美」「婿殿上機嫌だね、あたしゃ邪魔しないよ」「いやだお母さん」「中野さんの添い寝するわ、おやすみ」「まあ銀座のマッチ」

 明くる日、朝早く矢野と駒込直美は中野良子と話していた。「下田常務は家中野でなかったかな」「そう聞いてますけど」「秘書は何人いる秘書課で」「32人です」「そう、今日から出社してもらいたい。つらいだろうが前を向いて生きるのだ。君は若い、人生は長い」直美が驚いた顔をする。「君の身辺警護は頼んである。君と同じ目にあった秘書を探って欲しいのだ。一日も早く犯人を捕まえるために君の力が必要なのだ」「わかりました。私やります」「そうか、時々様子を駒込先生に知らせてくれるかな。それと斉藤慶子さんは同期」「そうですけど、何か」「いや、君はこんな下らないことを乗り越えてゆかねばならない。犯人の目星はついてきた」「本当ですか」「三月以内に君の恨みを晴らせて見せる」中野良子も駒込直美も半信半疑である。三日前のことだから無理もないが健は確信を持っていた。
 今は斉藤慶子と中野良子が顔を合わさないようにしてやるべきだと直美と敬子に話した。「中野さんは私が事務所に連れてゆくけど斉藤さんは」「私がなんとかするわ」と敬子が答える。矢野も「頼んだぞ」と言うしかなかったが心配だ。「斉藤さんに子守をしてもらうわ。母の話し相手してもらったら母も喜ぶでしょ」「さすが敬子」矢野もほっとした。
 
 人相の良くない男が二人やってきた。「先生、吉良の命により只今参上しやした」「吉良の指示で参りましただろう。やり直し」「へえ」「はいだ」「はい、吉良の指示で参りました」「それでいい。君たち朝まだだろう、食ってくれ」「失礼していただきやす、いや、いただきます」「直美、空手部を呼べ」「君たち手を洗いなさい。上品にしていただかないと」
 元空手部大山力也がやってきた。「お早うございます」「眠れたか」「ダメです。彼女の顔が浮かんできて」「俺は家全体のガードを頼んだのだが」「わかっております」「日当半分だ」「いいっす。彼女の近くにいられるなら」「彼女今日家に帰る」「そんなあ」「若い男はしっかり朝飯食うもんだよ」直美の母親が給仕をしてくれる。「お母さんの味噌汁はほんとに美味い、感謝しています」「婿殿娘は3人目を孕んだそうじゃないか。あのこは一人娘で仕事を持っているんだよ。程々にしてもらわないと」「心します」「この歳で孫3人とはねえ」
 女は話を自分に持ってゆく生き物である。男はこれに堪えなければならない。「僕、駒込先生のお姉さまと思っていました」と大山力也。「うれしいこと言うじゃない、兄ちゃん。さあ納豆も身体にいいのだよ、あの娘がタイプかい。くちきいてあげようか」「はい、おねえさま」

 世の中正しいことが良いとは限らない。嘘も方便である。「あなた先に出かけます」と直美と中野良子が家を出る。見送る大山力也は少年の目をしていた。臨時警備員海野と海東と大山力也と業務引き継ぎをさせる。力也は中野良子を思ってか落ち着かない。「しょうがねえな、駅まで送ってくれるか」と矢野が言った。海野の運転で駅に向かう。すぐ直美と中野良子に追い付いた。「駒込先生、お送りします」と力也が声を掛ける。二人が乗ると「香川先生狭いでしょう、代わりましょうか」ときく。「大丈夫だ」「そうですかあ」

 丸の内の改札口で中野良子と判れる。「しっかりね」と直美。中野良子はしっかりした足取りで丸ビルに向かった。事務所に着くのを見計らった様に電話が鳴る。「まあ吉良さん、昨日はお世話になりまして。はい代わります」「同伴出勤とは妬けますな」「こういうイイ女をものにしろ。これから島崎社長とサミットだ。国本さんと同伴で来い」「先生お茶入れましょうか」「駒込先生のすることではない。中野良子の動きに注意しろ。彼女にかかっている」「どうすればいいのですか」「今まで通りでいい。秘書課を観察させるのだ」

 強姦魔は金脈

 吉良と国本がやって来た。「お早うございます。あっちですか」「おお、サミットが終わったら学生さんを見舞に行く」といいながら浪漫建設を訪ねる。「お早うございます。」「昨日はお世話になりました」「いいことがあったようですね」「打ち出の小槌ですよ」「昨日学生ですか」「しかも金脈つきだ」「先生わかるように話してくださいよ」「小槌は1億、金脈は5億は安く見積もって固いとみている」「どうやって引き出すので」「まあ見てろ。仁吉、国定俺の手口をものにせにゃならんぞ。任期は5年を切った」
 松崎敬子がお茶を運んできた。島崎社長が会議室と言った。「社長紳士録ありますか」「少し古いが」矢野は下田剛三を繰る。「四菱商事取締役これだ。社長特急で調べてください」島崎社長は興信所に電話する。「そう、特急。では会議室に移りましょう」吉良と国本は紳士録を見つめる。
 会議室に茶が置かれる。「ボードを出せ。松崎お前の教育なってないな」松崎敬子が消し残しを拭こうとする。「股をはれ」香川健が肩車をする。がバランスを崩す。慌てて3人の男が松崎敬子を支える。叫び声を聞いて直美が駆けつけてきた。「社長が胸を触った。二人が尻を」「本当ですか」「それはあんまりだ。あっしら姉さんのお体を庇おうとしただけです」「僕もだよ」「わかるように話してください」「駒込先生、こうこうしかじか」「嘘はないようね」「でも手つきが厭らしかった」「敬子、男はいいことがあるとスケベになるのよ」

 直美たちがでてゆくと「駒込先生おっかねーな」と仁吉が言った。「男はいいことがあるとスケベになるとは名言だな。僕は仕事を第一に色欲は抑えている」「そういえば社長の浮いた話は聞きませんな」「実は隠し子がばれて地獄を見たのだよ」「あの奥様がね」「夜叉かと思ったよ。香川先生が羨ましい」

 香川が立ち上がる。「昨日のことは出がけの駄賃と思ったのが、打ち出の小槌。招き猫かも」ボードに中野良子=X、斉藤慶子=下田康介:下田剛三と書く。「共通項は」3人は食い入るように見つめる。「赤と青のサインペンがないぞ」と怒鳴る。敬子が走って持ってくる。「何か落ちてるぞ」敬子が床を見つめる。健の手が尻を撫でる。睨む敬子。「油断するからだ。俺だけ触ってなかったからな」もうっ、と敬子が出てゆく。
 緊張が解けたのか吉良が「四菱商事」と答えた。やっとわかったかと言う顔で健がつづける。次に犯行場所時刻を記入する。「住所は良子が下高井戸、慶子が阿佐ヶ谷、康介が中野だ」「地下鉄丸ノ内線」「そのとおり」「ということはXも下田康介」「の可能性が高い」「なるほどねえ」
 当面の課題  1 下田剛三の調査:島崎、香川 
          2 下田康介の交友他:吉良、国本
          3 市場調査:香川、全員 年2万件/12×10%=166/月

 一息入れて茶をすする。「下田親子は相当埃が出ますね」「金も出ますよ。金のない奴は用はない。警察に引き渡せ。ただし恩は売っておく。話のわかるデカを見つけておいてくれ」「承知しました」「そろそろ学生さんの顔を見るか」「先生よく考えが浮かんできますねえ、わしら無学だから」「仁吉も国定も世間を知っている。とくに裏街道のな、おれといいコンビだ。世の中金だ。悪い奴からふんだくって、世の為人の為になる商売だ。月100件以上の需要額にして30億が見込めるが現体制では処理できない」

 学生は腹が減ったと喚いていた。「兄貴こいつはガキですぜ」「坊やママに電話するかい」と吉良が電話を持たす。「ママ昨日から食ってない」と言ったところで電話を切る。「図体の大きなガキだな」と吉良が感心して再ダイアルする。「3000万出そう、息子を」で切る。当時は発信元電話番号を逆探知するには数分の通話時間が必要であった。
 吉良が指を3本立てた。「飯にしよう」と香川健二は吐き捨てるように言った。「君たちも昨日からろくなもの食ってないだろう」と見張り役を連れて出る。「誰もいなくて大丈夫ですか」「心配性だな、猿ぐつわ咬ませて横にねかせてやれ。人気がない方が過保護の坊やにはかえって恐怖心が増す」

 とんかつ屋に入る。開店したばかりのようで客はいなかった。「5人様奥へどうぞ」「店のおすすすめ5人前。それとビール」「生で、生大5本!すぐお持ちして」「ああ」座敷に座る。「本来ならじっくり攻めたいが次があるからな。まあ乾杯、お疲れさん。方がついたら綺麗どころに招待するよ」「思ったより面白そうですね」「それは何より。でも忙しくなるぞ。これが軌道に乗ったら警備保障だ。いけねえ島崎社長忘れてた」「電話します」
 吉良は腰が軽い、フットワークがいい。国本は腰が重いがおっとりしている。吉良専務、国本社長の人事は良かったと思う。天龍組の方が格も力も上だから国本を社長に据えた方が両者のバランスが取れる。2時間ほどして島崎社長がやって来た。「出がけに客が来て食事は済ませた」「ではいくか」と香川が勘定を払う。「かつ丼おすすめ5丁2,000円、生大5丁3000円5000円丁度になります」「美味かった、ごつぉさん」当時の庶民生活であった。

 公衆電話があった。「専務、強姦は懲役3年以上ですよ」と言わす。「専務で間を置く。もう一度」国本が復唱する。「ばっちりだ。本番」国本が5本3本と合図する。「8本か、仕上げは島崎社長だな」学生を起こして電話させる。「ママ腹減って死にそう」と言わせて受話器を取り上げる。「時間切れですな社長。告訴するそうです」と島崎社長が言って電話を切る。「1億2000万と言ってます」と島崎がボソッと言った。
 全部の眼が香川に集まる。「取り敢えず手を打つか。あとはまたおいおい」 ほっとした空気が流れる。「難しいのが金の受け取りだ。帝国ホテルのレストランにするか」香川は電話を掛ける。「では4時に帝国ホテルのレストランで。示談書を取り交わしますので実印を、そうですか、認印でも結構です」
 つづいて柴田瞳に「本番スタート4時。我々は3時半に行っている」と連絡する。「さあ決戦だ。仁吉、国定3時半に会おう」香川健は事務所に立ち寄って示談書をカバンに入れる。ホテルのロビーで柴田瞳と落ち合う。ビデオカメラ2台と録音係の4名だ。エレベーターの中で吉良と国本を今日の男優と紹介する。

 下田剛三が重そうにバッグを持ってやって来た。「金は用意した」とバッグをテーブルの下に置く。「これが示談書です。署名と捺印してください」「斉藤慶子」とつぶやいて下田剛三は震えた。示談書は

 下田剛三(以下、甲という)と斉藤慶子(以下、乙という)とは次のとおり示談する。
1甲は乙に対する慰謝料として12ピーシーズを支払う。
2乙は上記を受け取った後は刑事民事の一切の請求権を放棄する;
昭和55年9月11日
甲 住所
   氏名
乙 住所 杉並区阿佐ヶ谷南一丁目3番87号
   氏名 斉藤 慶子 

 吉良と国本が現金を移し替えた。「これはそちらの示談書です」と香川健が手渡す。その時刑事らしき男が3人現れた。「恐喝容疑で逮捕する」と警察手帳を提示した。「どういうことですか下田さん」立ち上がろうとする下田を吉良が抑える。「下田専務この取引中止しますか。では示談書返していただきましょう」と香川健が静かに言った。

 下田専務という1階級上の響きは社長まで上り詰める位置にいることを思い起こさせる。「取引は継続する」「間違いありませんか、守られぬ契約は無意味ですからな」「君たち下がってくれ」と刑事に言った。「待て、人を恐喝呼ばわりしておいて謝罪もしないのか」香川健の怒りの声がレストランに響き渡る。「すみませんでした」「ここは不特定多数の人が利用する公共の場所だ。来場者にも謝れ」しぶしぶ三方に頭を下げる。「所属と氏名を言ってもらおう。警察が民事取引に介入してもよいのか。言えないのは警察官を詐称したのか」追及は激しさを増すと感じたのか土下座した。「警察手帳、追って署長より沙汰があるだろう。下がってよい」
 刑事が逃げ出すと拍手が起こった。軽く礼をして「困りますなあ、四菱商事の専務さん」とやんわり語り掛ける。「誠に申し訳ないことをした」「では取引成立といたしましょう。この落とし前は別途つけていただきます。また連絡します。決着のつけかた考えておいてください」下田剛三はしょげかえっていた。「録画テープは何本ダビングします」「お世話様、うちは1本あれば」「先生すごい迫力でしたね、映画に撮りかったわ」と柴田瞳監督は笑った。

 マネーロンダリング

 下田剛三と別れて正面玄関で車に乗る。ここまでの動きはすべてビデオに収録してある。「Xは下田康介の従兄と見た、単なる感だが。仁吉坊やを吐かせてくれ。写真できていたら中野良子に面透視させる。金はロンダリングだ」「え」「札束の紐を見ろ。四菱銀行のマークがついているだろう。札の通し番号は繋がっている」「どうしてそれを」「まとまった金はヴァージンと決まっている」「処女は厄介ですな」
 浪漫建設では島崎社長が待っていた。「上手くいったようですね、興信所から第1報が届いています」香川健は下田剛三が『鬼頭美緒』と結婚との記載に注目した。「松崎、ここコピー。駒込を呼べ」昔の調子だ。「駒込、中野良子をよべ。それからこの鬼頭美緒の息子を書き出せ。急げ役所が閉まるぞ。もう5時前か、明日一番でいい」相変わらず苛立ちだ。
 吉良から電話が入る。「鬼頭大介、それだ。住所、勤務先は。そうか、僕ちゃんは用済み。写真できたか、すぐ来てくれ」香川健は席を立って社員席に近づき「大山マスタツ、中野良子が来るぞ」と声を掛けた。
 席に戻ると「どうですか社長」ときく。「これだけだと1月は掛かるでしょうな」国本忠二がロンダリングを説明したようだ。香川健は駄々っ子の自己中心である。が他人への気配りも欠かさないからやっていけるのだろう。「社長俺の取り分だけでも何とかなりませんか、カメラマン女子大生の支払いがありまうので」「なんとかしましょう。300万位なら用立てしますが」「そうですか安心しました」島崎も国本も苦笑した。

 吉良信介が写真を持ってきた。中野良子が呼ばれる。「この学生さん見憶えあるかな」良子の表情が強ばる。しばらくして「この男です」ときっぱり言った。「この男身長は」「160位でしたか」「もう一人は」「大きくて高かった170位だったかしら」「ありがとう、近いうちにこっちも捕まえるからね。仕事はどうだった」「平気です」「えらいね、頼んだこともよろしくね、今度ご馳走するから」「しっかりやります」直美が笑って良子を連れ帰る。大山力也が口を開けて見ている。吉良がうなづく。
 島崎が「これは金庫にいれておきますから」とロックした。「社長、出過ぎた真似かもしれませんが今晩若衆つけらせていだだきやす」「いいですけど日当は出しませんよ」「承知してます」と吉良が苦笑いした。1億2000万と言えばサラーマンが一生かかってもつくれるものではない。吉良は口とはったりで手にした香川をまぶしく感じていた。

 香川の方はこれだけの金を2日でつくった下田剛三にというよりその背後の存在に不気味さを感じた。「使えない金はメモ用紙にもならねえ」「先生俺に八つ当たりはやめてくだせえ」「おい、仁吉忠二。両親分から盃貰ったのは俺だけだぞ」「そのとおりで」「だったら俺が兄貴分だろが」「承知しておりやす」「口先だけでは、焼きを入れるぞ焼きを」
 八つ当たりとわかっているから二人とも大人しい。「ざるそばでも行きませか」と先に立つ。「松崎さん、松崎敬子さん今朝おっぱい触ったからそばをご馳走してくれるって」「あら、私も連れってください」と女子社員たち。「僕も行きたいです」「君たちは仕事があるだろう」「大丈夫です、すぐかたづけます」「谷村さん面倒見てやってください。つけはきかないので松崎さん」「5万で足りますか」敬子もちゃっかりしている。

 神田の藪そばは年末には行列ができるがまだ客は少なかった。奥の席に通される。「後8人来るのだがいけるか」「大丈夫です、一つくっつけたらいけるでしょう。ご注文は」「えび天でいいですか、5人前。生ビールの中5杯」「奥様とご一緒できるの久振りですね」「先生もお忙しそうで」「今日は帝国ホテルで肩が凝りやした」「兄弟、おめえ達も場数を踏んでもらわないといけねえな。気後れしたら負けよ。ここはよく使ってますって顔しないと」「また連れってください」「イイ女紹介してくれたたらな」
 谷村以下の浪漫建設御一行8名が到着した。「早いじゃないか。いつも今日ぐらい気合を入れて仕事しろ」と香川が冷やかす。「香川先生って世の中自分を中心に動いていると考えるタイプですね」「お前みたいなブスでも強姦されないとは限らないぞ」「毎日電車で痴漢に遭ってます」「痴漢と強姦とは禿と刷毛以上の違いだ」「本当ね、昔は嫁に行けなくなったと自殺した娘さんもいたわね」「美人は物分りがよくブスは悪い」
 香川健は抵抗する者には容赦しない。「香川事務所の人声かけてくれないって言ってた」「そんなことはありません。駒込先生が決められたことです。私が声を掛けたのよ。大事な仕事があるからって。それよりボードの消し方何よ。日によって掃除が雑、誰の当番とは言わないけど」と松崎敬子が釘をさした。少し座が白けた。「しかし香川先生の命令は機関銃でやんすね」と国本が取り持った。「まったく息をつく間もなかったな」「今日は国本さんと吉良さんの慰労会だからね」と珍しく島崎社長が説教した。

 蕎麦が運ばれてきた。「こうして美味しい蕎麦がいただけるのも島崎社長のおかげです」「そう、ネタは古いが胡麻すりが大事」「え、香川先生も胡麻をすられるのですか」「俺の仕事は役所に胡麻すり、客に胡麻すりだ」「香川先生のお働きは今日だけで普通の会社の1年以上と感じ入りやした」「国本食え、社長の奢りだ」「先生と一緒ならどんな戦場も怖くないと思いやした」「そうか仁吉どんどんやってくれ。スポンサーがいると味も格別だな」
 しばらく蕎麦に食い入る。「おいしいわね」「だってここは全国的に有名じゃない」「そうよ年越しそばはテレビで中継されるのよ」「私知らなかった」「でも吉良さんを何で仁吉と言うの」「説明します。吉良の仁吉は尾崎士郎の人生劇場の主人公であります。時よ時節は変わろうとままよ 義理が廃ればこの世は闇よ 俺も生きたや仁吉のように と歌われておるのです」(拍手)「人生劇場って」「村田英雄が歌ってるでしょ」「やくざ映画よ、でも恰好いい」

 大山力也がカラオケに行こうと言い出した。「お前もたまには歌ってこい」「そうね、若返ってこようか」島崎社長の奥さんも店を出たので男4人が残った。「あっしのこれ(小指)がやってるちいさな店に参りやしょう」と仁吉がいうと国定も「あっしの店から」と張り合う。「梯子して美人を拝ましてもらおうじゃないか」と香川が仲を取り持つ。
 吉良が瓢の引き戸を引く。「まだ支度中」「うるせえ、冷でいいから」「あいよ」「大事な客人だ。島崎社長、香川先生、国本社長だ」「あんたは」「専務だ」「凄いじゃない。出世したわね。これ食べてみて、お出しできるかしら」「お出ししてみろ」「いける、この肉じゃが酒と合ってる」「さすが親分が惚れこむ先生ね」「先生と呼ばれる馬鹿じゃねえぞ」「兄貴何で怒るんで」「夏目漱石がそう言ったのだ」と島崎。「どうも学のある人はいけねえや」「姉さん今度一人ったは子づくりの名人だ」「お子さんは何人」「それがよ、15人だ」「ひえー」
 国本のすけの店翡翠は静かな雰囲気だった。一人で飲むにはうってつけだ。黙って出された芋の煮っ転がしがいい。いい酒を飲ます。中高年にはこういう店が受ける。香川健はこの店も銀座の冬薔薇とともに下田剛三などとの取引の場所に使えると思った。

 鬼頭大介捕獲

 中野良子は職場でみつめられている自分を感じた。周りはいつものように働いている。ある目が全身を隈なく看てゆく気がして鳥肌が立つ。その日の勤務は倍以上長く感じられた。退社時になると1年先輩社員木村寛子が耳元でささやいた。「あなた変わったことなかった」それはあなた強姦されなかったと聞こえた。良子は身震いした。「話があるの。食事しない」と木村寛子に誘われた。嫌とは言わせない迫力がある。
 家に電話しますと電話ボックスから駒込直美に電話する。「とにかく話をよく聴き観察しなさい。質問にはできるだけ答えないように」と直美は指示した。香川健は考えながら言った。「今夜危ないな。戦闘態勢をとれ。吉良を呼べ」香川は柴田瞳に連絡を取る。吉良と国本が駆けつけてきた。

 会議室にいると「腹ごしらえだ」と握り寿司の出前を取る。「いよいよですか」「ようだな」「中野良美が女とレストランに入りましたが」「その女よ、手引きしたのは」「Xの手引きを木村寛子が、ですか」「戸籍謄本からXは鬼頭大介に間違いあるまい」「するてえと、中野良子を犯したのが鬼頭大介と下田康介、斉藤慶子をやったのが下田康介ということですか」「そういうことになるな」「今夜も同じ場所で。下田康介康介もやってきますかい」「国本どっちにかける。俺は来るに1万。吉良お前は」「あっしは来ないに5千」「あっしも」「僕も来ないに1万」と島崎。「来るに5千」「私も」「丁半出そろいました。入ります。駒込集金しろ」直美は吉良、国本、島崎から掛け金を集めながら健に惚れ直した。松崎敬子もくすりと笑う。「先生ひでえや。丁半開いてねえのに」「ゾロ目の丁に決まっている、債権は回収が難しい」「取れるうちに取っておけですね」と敬子。惚れるとは信じることである。
 握り寿司が届くと直美と敬子がビールを注ぐ。「さあ社長」「さあ国本さん、吉良さん」女をここまで信じ込ませる男か。「木村寛子も強姦されたのでしょうか」「そうだ」「今は手引きを。ということは秘書課のほとんどの人が」「それを探らすために中野さんを出社させたのですね」「女の方が感がいいな。それもあるが吉良が言った、犯人は犯行現場に再び現れる、だ」

 島崎、国本、吉良は香川健が宇宙人に見えた。「犯行時刻もやはり8時頃ですかい」「そうだな。おい、スタッフも腹ごしらえさせておけ。それからカメラマンたちにも」携帯電話が普及していない時代であった。小型のトランシーバーで中継される。「木村寛子はどんな話を」「自分の体験、秘書課の被害あたりを」「時間調整ですか」「おう、仁吉すけこまし。すけこましの腕のいいのを見繕っておけ」「情報収集ですか」「あたぼうよ。鬼頭大介が四菱自動車の営業マンとはな、鬼頭善之助は四菱重工の専務それに下田剛三が四菱商事とくらあな」「亀頭一家ですか」(爆笑)「善之助の調査がいそがれますな」「そうです、社長。第2金鉱です」
 電話が鳴る。「そうか、二人が店を出たらおめえらも飯食っておけ」と国本が静かに言った。「二人は話し込んでいるそうです」「あと半時間位かな」トランシーバーは電池節約、傍聴のおそれから極力使用を抑えているのだ。「今日の撮影は中野良子には辛かろうが挿入もしくは接触までは我慢してもらわなければならない」撮影が終わったら取り押さえる手はずだ。犯人連行場所は解体前のビルだ。手配に抜かりはないか。「駒込、松崎。中野良子を頼むぞ」二人は涙ぐむ。「同情している場合か、これは戦だぞ、気合を入れろ」「はい」

 二人がレストランを出たとの連絡が言った。「よし行くか。島崎社長あとを頼みます」と5人が立ち上がった。ここがベース基地だ。電車には別れて乗る。通勤ラッシュは過ぎていて座ることができた。香川健は既に慰謝料の回収方法を思案していた。東京の人間は無表情だ。疲れた顔をしている。東京砂漠とはよく言ったものだ。直美が近づいてきて「次降ります」と言った。考え出すと前後を見失う健の性格を思ってであろう。
 電車を降りると直美と敬子に挟まれて歩く。現場には柴田瞳以下カラマンが待機していた。中野良子が近づいてくる。男が立塞がる。後ろから下田康介が羽交い絞めにする。二人は手慣れた手つきで良子を木陰に引き擦り込む。「初めてじゃないのだから大人しくしな」男は良子のパンティーを引き下げると指を舐めて性器を撫でる。自分の巨根にも唾をつけて差し込んだ。3台のカメラが追っている。フラッシュライトが焚かれる。証拠写真が撮影された。

 吉良が男の髪を引っ張る。なおもシャッターが切られた。柴田瞳の「カット」で男は突き倒される。直美と敬子が良子を抱きかかえる。衣服の乱れを直して良子は自宅に走る。「お母さん」「お前」良子は母の胸に泣き崩れる。直美と敬子が玄関を締めて「すぐ洗浄を」と言った。良子はヒデで洗浄する。「この前と同じだ」母親が言った。「犯人は抑えました。ご覧になりますか」良子が出てきた。「お母さん知っていたの」「一人娘のお前のことだよ」と抱きしめる。「お母さん、私許さない」「さあお母さんも参りましょう」 

 解体前のビルは墓場のようであった。外部に灯が漏れないようにブラインドが下ろされる。男は鬼頭大介であった。運転免許証と社員証を確認した。ふたりの男は縛り上げられていた。「中野さん、よく看るのよ。奴らは人間じゃない。女の敵、強姦魔」ふたりのパンツが下ろされた。「スタート」柴田瞳の号令でビデオカメラが動き出す。ソープ嬢が二人の男根を撫で上げ口に含む。とくに大介の巨根は目を見張らせる。
 射精させたら1万円との話に乗ったソープ嬢だが苦戦しているようだ。さすがはプロ、睾丸を舐めると勢いよく射精した。勿論採取に手抜かりはない。健は1万円ずつ手渡しながら「君たち合格。これからもお願いするからね」と言った。「これで強姦の立証は完璧ね。これからが見物よ」「あんなに大きいのは見たことがない」「お母さん」「ごめんよ、痛かったろうね。でもよく洗えばどうってことないよ」「何人やった」「思い出せないくらい」「あとで書き出してもらうとして、強姦罪は何年かな」「3年以上の懲役です」「ご存知でしたか、女が苦にして自殺したら殺人罪か」「いえ殺人罪は適用されません」「そうだな、強姦の目的は何かな」「女の顔が歪むとと何ともいえぬ快感がわいてきますね」「君はベテランだね」「みんなやっています」「ソープ嬢は8000円らしいが」「素人の処女に限ります」

 国本の子分が堪らず蹴りを入れる。香川は手を振って制す。「一番最初の女は」「丸ビルのOL」「いいのを狙うんだ」「プライドが高いから言わねえや」「違いない。君はいくつだった」「浪人してたから19だったかなあ」「相手は」「何とかいったなあ」「歳は」「22歳だったと思う」「どうやって確認した」「社員証」「成程、いい女だった」「それは飛び切り上玉」「彼女は今」「勤めているさ」「身長は」「165位だ」「今でも」「雨の日なんかにたまに」「彼女を手なずけたのは」「手引きさせるためさ。今じゃ係長になってる」「ほう、どんなコネだい」「叔父の」と言いかけて流石に口を閉ざす。
 香川健は自分の読みに自信をもった。「俺たちもあやかりたいから教えてくれよ」「あんたらには無理だ」「どうして」「どうしてと言われても、まあ家柄かな」「バレテも親がもみ消してくれる」「そんなとこ」吉良に代われと目で合図する。健も我慢できなくなったからだ。
 吉良は凄みを見せる。「僕ちゃん俺たちにはもみ消しはできねえぜ」と言うなり顔面を強打する。「おい、洗いざらい喋るまで可愛がってやりな」「言います、言いますから」「そうかい、じっくり聞こうじゃないか」香川健は、後は任したと部屋をでる。
そして中野良子に言った。「死は一瞬ですが、死ぬかもしれないという恐怖感は何度でも味あわせることができます。ご希望は」「3度」「では観ていてください」鬼頭大介と下田康介はパンツを脱がされた観っともない恰好で立たされる。歳の順で鬼頭大介から始められる。

 1度目 拳銃に1っ発だけ弾を容れ回転させる。それを頭に突き付ける。
  撃鉄が引き起こされる。「坊や10数えな」「やめてください」
 2度目「外れたな、もう一回やってみようか」「やめて、お願いです」
 3度目「また外れか。座ってばかりでは身体に悪い、たっちしようか」
     氷柱の上に立たせる。首にロープを架ける。「滑らないようにね」
 おまけ 下田康介にも「次は気の番だからね、灸しようか」と煙草の火を
     押し当てる。「熱い?氷で冷やすといい」と男根を氷漬けにする。

 中野良子が必死につま先立ちする犯人を見て「やっと気が晴れました、有難うございました」と頭を下げる。母親も「なんとお礼申し上げていいやら」と涙ぐむ。「これもご縁でしょう。奴らの処分は任していただけませんか。警察に突き出してももみ消されるか、判決が下りてもまたやりかねませんよ」「それはもうお任せします」「そうですか。しばらく私の家に身を隠していた方がいい」
 中野良子は駒込直美の家に泊まった経過を母親に話したようだ。「見知らずの私たちにこんなにして頂いて」「さあ、家に帰って支度してください。私も娘を持つ母親としてこんなことは許せません」と直美が親子を促す。「ではお言葉に甘えまして」と親子は帰宅する。

 親子を直美と敬子に任せて香川健は浪漫建設に向かう。吉良と国本も同乗する。「いけねえ、カメラマンの謝礼忘れた」「駒込先生がなさったようですが」「挨拶もせずにとはゆくまい。引き返してくれ」健は柴田瞳に「監督お世話になりました。謝礼は改めて」というのを瞳は制して「いいのよ、やることがあるのでしょう。私たちも適当に引き上げるから」と答える。
 健が車に戻ると「チン毛を焼いておくよう言いつけました」と吉良信介が言った。「それは面白い。俺の家族の警備強化してくれよな」「わかりやした。先生お疲れで」「ちょっとな」言うなり健は眠る。「このところ気の張り詰めだもんな」と国本忠二がつぶやく。「まったく社長の言われるとおりで」「よせやい兄弟」「しかしですね、そうしないとこの先生が」「ちげえねえ。いや、そうですね専務」「なんか外国語しゃべってる感じだ」「んだ。確かにそんな気がしますね。我々は先生の指示通り動いてますが今後は企画立案して行かねばなりませんね、専務」「そ、それが問題ですね社長」「そうすないとですね、先生が御怒りに」「ちげえねえ」二人して笑った。
 国本は「専務、奴らが犯した最初の女は島田博子でないでしょうか」と少し悲しげに話した。「考えられますね、社長」「そして下田剛三にも」「払下げられたか売りつけたか」「多分。先生はどうでもよいと言われるだろうが」

 土地買収見せ金

 浪漫建設では島崎社長が待っていた。「首尾上々ですか」「まあ予定通りに運びましたが社長、金庫の金がやばい」「全部古札に替えましたが」「たいへんでしたでしょう」「それがですね、灯台下暗しでした」「というと」「マンション業者が無条件で替えてくれました」「なるほど」「先生あっしらにもわかるように」「土地を買収するときは現ナマを積み上げるのだ。現金の魔力に魅せられて売る気になる。銀行の新札の方が効果がある」「やはり処女が」「これは見せ金だから永遠に処女だ」「使えない金はメモ用紙にもならないとさるお方が言われましたが」「嫌味を言うな、仁吉。まあ5年は処女だろう」
 島崎社長が笑いながら「では祝杯といきますか」と立ち上がる。「社長税務署に踏み込まれたら」「それは気が付きませんでした」「先生そんなに気を使ったら頭はげますよ」「酷税は虎よりも怖い。明日どこかに移せ」「その業者50億までぐらいならと言ってくれましたよ」「それは何より安心しました。社長に感謝しろ。私も 両替商 スクラップ業者 パチンコなど考えましたが」
 二人は島崎社長に頭を下げたがわかっていないようだ。「税務署はそんなに怖いんですかい」「おめえら勉強が足りないな。警察はムショですむが税務署は骨までしゃぶってくるぞ」「そうなんで」「信ちゃん、忠ちゃんマルサの女を御勉強しなさい」「先生質問です、何を怖がっておられるんでしょうか」「何を、相手は四菱財閥だぞ。行政書士風情に舐められて黙っているか」「へえ」「相手は政府も動かす力を持っている。馬鹿に付ける薬はないか」「まあまあ先生、私から言って利かせますから今日のところは」

 冬薔薇には天龍組白虎組の両親分が待っていた。「これは親孝行のつもりで」「小遣いくれるのか、信介」と天野龍太郎は涙ぐむ。「ありがとよ忠二」白川虎治郎も顔をほころばす。「親父5000万預かって貰いたいのですが」「おう、いいとも」「親っさんも」「ええとも忠二」「では乾杯といきますか」と島崎社長が音頭を取る。「こんな美味い酒は久振りだ」「まっこと」
 ママが「いいことありました」と天野龍太郎の横に座ろうとしたが「今日の主賓は先生だ」と指名する。この辺の間合いが健は気に入っている。「そうかい、デカに土下座させた」「やくざより怖い先生で」「人聞き悪い、初で内気で純情で思ったことのとうに一つも口にできず女の手さえ握れない」「まあ私の手を握って」「これはやりたくなる手だな」「ママ先生は子づくりの名人、孕ました女が片手、お子様が両手半」「すごい、よし今日は店の奢り」

 健は客紹介料1割の念を押す。ママが握り返して来た。「オールドパー持って来い」「どうしてですか」「いいから持って来い」「はいどうぞ」「股を開けるセリフだ。どぶす」「しどいわ」「このお爺ちゃん誰だ」「さあ」「知らない」「冬薔薇は顔だけで採用してるのかい。少しはお勉強しなさい」「いじわるね」「この人がかの有名なオールドパー。どう有名かと訊くだけ無駄だから言っちゃおう。今を去ること600年スコットランド王国で100歳とっくに過ぎた爺ちゃんが強姦罪で逮捕された。王様は直々お調べになられた。強姦の事実明白なれば懲役20年に処すところなれど、その快挙により、もとい、むち打ち120回を申し渡す。ただし、その年齢115分を免除する。これでよいか。家来はしぶしぶ同意する。あの快挙に褒美をとらせたいが。一国の王たるものが国民に示しがつかんでしょうが、やるならポケットマネーでと大臣は席を立ったという話」
 ややあって拍手。「このお方は今日でも世界中で愛されておられる」「勉強になるわ」「でも学校の先生じゃないでしょ」「えらい先生だ」健はボトルの栓を開ける。「ヴァージンの匂いだ。おいグラス」「どうぞ」「グラスと言われたらお冷だ」「はあい」「のろまトンカチ。いい味だ。親分にもお裾分け」「いだだきやす」「社長」「どうも」「親分」「頂戴します」「国定」「恐れ入りやす」「仁吉」「ありがとうございます」「ママ」「いただきます」

 ホステスたちがもじもじする。「あのう、私たちもいただいてもよろしいでしょうか」「駄目、頭の悪い子には遣らない」「いじわる」「もう一度だけチャンスを与える。強姦罪はチンチンを入れた時か射精した時か」「出した時でないとレイプの意味ないじゃん」「入れた時よ、痛いのは変わらないわ」「他には、いないか。二人についでやれ」「先生正解は」「日本では入れた時既遂、一部全部を問わない。欧米では出した時とするところが多い」「てえと射精、妊娠は関係ないということですかい」「そうだ。万一(まずないだろうが)お前らブスもレイプされたら吉良か国本に相談しろ」

冬薔薇ママ長谷川冴子

 下田剛三は8時きっかりに現れた。「これですべてを」と小切手を差し出す。銀行振出金額5000万円。「承知いたしました」と矢野が胸のポケットにしまう。手を挙げるとママがやって来た。「いらっしゃいませ」と名刺を出す。無言でご名刺をと迫る。「四菱商事の専務さんだ」と矢野が紹介すると下田剛三も名刺を差し出す。「頂戴いたします。オールドパーでよろしいですか」「ああ、新しく下ろしてくれ。専務勘定は私の方で、私は急ぎの用がございますので失礼させて頂きます」矢野は一礼して立ち去る。勝負は短時間で決すべしというのが矢野の信条だ。

 下田剛三は矢野を見送るとほっと安心したようにオールドパーを口に含む。敵ながらできるなと思った。「冬薔薇とは長谷川さんのことだね」「いえ、まあ父が名付けてくれました」冴子は真っ白のスーツを決めていた。「銀座に店は多いが落ち着いて格調のある店は少ないね」「恐れ入ります」「大事な客があるときは寄せてもらおうかな」「私バラの中でも冬のバラが好きです」「うむ、黒バラは恋の花だが白いバラには心が洗われるね」「専務さん詩人ですね」「学生時代フランス語をかじったのでね」「巷に雨の降るごとく我が心にも涙降る」「長谷川さんもフランス語やったの」「いえ恥かしいですわ」
「Il pleure dans mon coeur Comme il pleut sur la ville; Quelle est cette langueur Qui penetre mon coeur? 」「素敵、もっとつづけて」
「Les sanglots longs  Des violons  De l'automne  Blessent mon coeur  D'une langueur Monotone.秋の日の ヴィオロンの ため息の ひたぶるに 身にしみて うら悲し。」冴子はうっすらと涙をうかべ聴き入る。

 矢野が男の話をよく聴けと言ったのはこれかと冴子は思った。下田剛三はすっかり気を良くしたようだ。「パリでセーヌ川にそって歩いているとしとしと雨が、思わずこの詩が口をついてね」「まあ」「お前は何故この詩を知っているのかと女子大生に声かけられてね」「吟遊詩人の感じがおありですもの」「それほどじゃないがしばらく歩きながら話した」「映画のシーンみたいですわ」「かの女日本文学を研究しているそうだ」
 その時ママが呼ばれる。「ちょっと失礼します。お話のつづききかせてくださいね」と席を立つ。これを潮にホステスたちが少しずつ下田剛三囲んでゆく。「ママがあんなに真剣に話すの初めてじゃない」「ママ涙を浮かべてたわ」「おかしいじゃない、初めてのお客様でしょ」「そう、このママお手製のチーズのハム巻きめったに出さないものね」

 これは矢野の演出であった。誉めそやされて育った男はお上手に弱い。半時間ほどで下田剛三は会計する。小ママが10万の請求を出す。「すみませんね、大勢の娘が席について」「いいんだ」ちらっと20万の領収書を見せながらカードになさいますかときく。カード決済が終わったところにママが飛んでくる。「もうお帰りですか。お話聴きたかったのに」「領収書です」「だめよ、矢野さんに叱られるわ」「いいんだ、いいんだ」ママだけが外まで見送る。「セーヌのつづき楽しみにしてます」
 長谷川冴子は矢野健という男を考えた。天野龍太郎も惚れる男。演出通りにことが運ぶ。「お前たち馬鹿がしゃべると客は不快になる。黙っていろ」「客は自分の自慢がしたい、喋りたいのだ」聞き上手になれと猛特訓したのだ。新規客が話題にしやすいのは店の名前である。谷村新司では平凡だ。白いバラのイメージを作る。下田剛三の趣味経歴からヴェルレーヌ暗誦させた。一時間漬けの受験勉強は見事山が当たった。
 次に男が知りたいのはママが独身か、つまりものになる可能性があるかどうかだ。この辺を小出しするのが水商売だろうが。最後に客は自分が他の客より大事にされていると思わせることだ。これは口先で何とでもなろう。お前らぶすが男からちょっと甘い言葉をかけられるとのぼせるのと同じ理屈だ。口は悪いが商売の的を得ている。また一時間でホステスをそれらしき恰好に持って行った。何よりも自分をインテリ風に仕立て上げたではないか。

 すけこまし

 翌日吉良信介は5000万円をバッグに入れ天龍組を訪ねた。「姐さんご無沙汰してやす」「信介、うちの人お前にお小遣い貰った神棚に祭ったのだよ。うれしいじゃないか」「親父さん照れくさいじゃないですか」「初仕事で親孝行は中々できるもんじゃねえ。すると白虎組も5000万」「へえ」「てと先生はいくら」「それが1割」「欲のない人だね」「昔うちの組が危うくなったときも1割だった」「親父さんの顔を潰すのじゃねえかと思いやしたが先生はあの性分でしょ」「まあ白川さんとも相談してみるが先生にお前をあづけたのだ。先生のお考えどおり動け。信介、俺にもわからねえ」「桁外れお方ですから」「ちげえねえ」

 島崎社長への謝礼額、税務署に踏み込まれた場合を相談した。「島崎社長も茫洋として掴みどころがねえ、謝礼は多すぎても少なすぎてもいけねえ。お前が苦労するのも無理はねえ」「塩加減みたいなもんさ」「いえてる」「それとうちが税務署に踏み込まれることはねえが心配してくれるのがうれしいじゃねえか」「親父さん、相手は四菱財閥、税務署を使って敵討ちをやりかねないと先生が」「なるほどねえ、あっしらと読みの深さ広さが違うねえ」「次の山もこの倍といわれますの月10億も満更でなさそうで」「よし金庫はわしも考えよう」

 「宜しくお願いしやす。ではあっしはこれで」「おや信介お昼食べていきなよ」「それが姐さん。人使いの荒い先生で息のつく間もありませんので」「そうかい、たいへんだねえ」「また近いうちに上がりますので。そうそうこれ先生から勉強するように言われて買ったのですが、税務署の怖さがわかりやした。親父さんもご覧なってくだせえ」「マルサの女かい」「ありがとよ」

 白虎組も似たような話であった。香川健は斉藤慶子に5000万円の小切手を渡した。「要りません」「くれるものは貰っておけ。邪魔にはなるまい。君の口座に入金しておけ。君の苦痛はこんなもので癒されないだろうが人生の先輩として言っておく。どんな金でも金に変わりはない。金をどう使うかで人間の価値がわかる。これからの人生をどう切り開いてゆくかで君の価値がわかる」
 なおもためらう斎藤慶子に「うちの経費100万円お願いしますね」と直美が請求すると「すぐお支払いします」と小切手をバッグに仕舞った。「いろいろとお世話になりました」と頭を下げる。「明日うちにいらっしゃい。みんなで食事をつくりましょう。中野良子さんもくるわ」「お言葉に甘えまして」女心は女か。次は中野良子と健は思った。

 斉藤慶子、中野良子の話を整理すると

1秘書の多くが下田康介の毒牙にかかっている。木村寛子が手引をしている。
2以前から下田剛三の毒牙かかった秘書多数。島田博子が手引き。

浪漫建設の会議室。『この話から何を企画、実行するか』本日の議題である。吉良信介、国本忠二は緊張する。「思いつくことを何でもいいから言って見ろ」香川健がにらむ。
1親子二代の強姦
2職場の被害
3被害届は出されない
4他部署の被害者は
5警察は手を出さない
香川健がボードに列記してゆく。「他には」「手引きも被害者」「そうだな」「四菱財閥」「いいぞ」「ほかの会社でも同じことが」「流しの強姦」「暴走族」
 駒込直美と松崎敬子も会議に加わりたいと言ってきた。「いいだろう。本当は斉藤慶子、中野良子を加えたいのだが、隣のボードにこれを書き直す」
【強姦の原因】
1職場内被害
 11被害者の行動がつかみやすい
 12被害者は抵抗しづらい
 13被害届をだしづらい
2四菱財閥
 21警察を抑えることができる
 22税務署を動かせる

 「手引きの島田博子、木村寛子を締め上げますかい」「吉良さん、いい点を突いていますが上品にお願いします」「すいやせん」「すみませんでしょ。この二人から詳しいことを訊きだしてください」「どうやって」「得意のすけこましで籠絡なさっては」「先生それはひどいっす」「御謙遜なさらず」(笑い声)「国本さんも笑っている場合でありませんよ、吉良さんと手分けして早急に情報を収集してください」「そんな、ご無体を。実家に帰らせて頂きます」「なにを。両親分から預かった兄貴分の俺の言うことが聞けねえのか。蹴りを入れるぞ」
 島崎社長が口を開く。「吉良さんがベテランでも丸の内のOLとなると勝手が違うでしょう。例えばFBIの捜査官とか信用させるものが必要でないでしょうか」「おっしゃるとおりです。仁吉FBIのお勉強。英会話もな」「そ、そんな」「社長国本さんは」「税務署査察官が役どころでしょう」「忠二、税務署のお勉強、二人とも今月中に女をものにしろ」「親分より恐いわ」「だな」
 
 直美が「お茶入れましょうか」と立ち上がる。「ああ。松崎、FBI捜査官のビデオ借りてこい。どれでもいい面白そうなの。それから税務署関係のも」嶋崎が笑う。「心配するな、島崎社長が解説して下さる」「え、僕もですか」「社長にも売上に貢献していただきます。もうすぐ女子大生の被害調査がまとまるので忙しくなりますよ」「女子大生ですか」「興味ありませんか」
 お茶が出される。「松崎はどこいった」「レンタルビデオを探しに出ました」「大事な会議を抜けやがって。若いのにいかせりゃいいだろうが」「香川先生は難しい方だから自分で行ったのでしょう」「何をやってもどやされるんだ」「みてえだな」ドアがノックされる。「吉良さんにお客様です。天野さんと言われました。信介は無事かと心配されています」島崎社長が噴き出す。

 応接室は天野の奥さんがいた。「あねさん」「仕事中にごめんよ、信介。酷い目に合ってると聞いて内緒で出て来たのだよ」「御心配には及びません」「お前少しやつれたね。我慢できなくなったら何時でも帰っておいで。仕事の邪魔になるから帰るね。これ皆さんで召し上がっていただくんだよ。それじゃね」浪漫建設の社員は懸命に笑いを堪えていた。
 松崎敬子も話を聞いて笑いこける。息を整えて会議室に戻る。「遅くなりました。ビデオを借りてまいりました」「仁吉、忠二今日中に観て置け」「はい、勉強します」「松崎、税務署に行ってパンフレットもらってこい」「はい行ってきます」「ばか、会議が終わってからだ」「天野様の奥様から虎屋の羊羹頂きました。お出ししましょうか」「せっかくだからいただこう」

 直美と敬子がくすりと笑う。「お二方もよく我慢なすって」「私は10年堪えてきました」「そういうお前に堪えて来た」「なんですか、もう一度言ってください」「いやそういう川柳があった」「神田小町はびしっと決めるねえ」「仁吉色目は島田博子に使え」「あっしは木村寛子の方が」「吉良さんそれはねえじぇ、賽の目で決めようじゃないないか」「いいとも」「僕が振りましょう。入ります」「丁」「半」「四六の丁、国本さん」

 刑事鮫島久蔵

 明くる日柴田瞳が別のヴィデオテープを届けに来た。「監督お礼です。香川は急用ができましてくれぐれもよろしくと申しておりました」と50万円を包む。「学生たちにはいいバイト」「何かありました」「学生の一人が警察に補導されましてね、厳重注意ですみましたが一応お耳に入れておこうと」「わかりました。対策します」「あら懐かしい写真ね」「恥かしいのですが香川が」
 柴田瞳は写真集美しき裸像の思い出、近況などを語って帰って行った。直美は19の時のヌード写真集を思い出していた。今にして思えばよく撮ったものだ。既に3ヶ月を過ぎた腹をさすってみた。

 話を聞くなり香川健は吉良と国本を呼びつける。「刑事と話をつけろ」「取引ですかい」「そうだ。これも持ってゆけ」親にも慰謝料支払い能力のない強姦者のリストだ。「年間売上目標30億だぞ」「わかっております」「てめえらあと4年で会社を軌道に乗せ後継者を育てにゃならんのだぞ。いつまでもあると思うな親と金」「行って参りやす」と逃げ出す。「神田小町が良くなかったなあ」

 二人はホテルで土下座した刑事に渡りをつける。「いいしのぎしているようじゃないか」「鮫島さん邪魔しないでもらいたいんだがなあ」「何のことだ」「学生パクったでしょうが」「あれか」「上からの」「ああ。すまじきものは宮仕えだ。飲みてえ気分だ」「これから人形町の瓢という小料理屋で待っています」「そいつは有難い、つかず離れずついてゆく」
 瓢では「これをあてにやってて。すぐ何かつくるから」「すみませんね奥さん」「いいんですよ、旦那にはお世話になっているそうで。お前さん酒はひやでいいかい」「いいとも」「奥さん俺のタイプだがな」「嫌ですよ、ほんきにしますよ」入口の鍵をかける。「実はな鬼頭大介は前から追っていたのだ。今日こそは現場を押さえてと勇んで出かけると逃げられることが何度もあった。こちらの動きが漏らされているとしか思えない」「それも上の方から」「そうなんだ。でもどうして」「そんな気がしたもんで」「奴にやられた娘は50人以上だ」「ひでえ話で」「あるときなんざ駆けつけたら犯された後だ。19歳の娘さんだったが病院に行くのを拒んだ。犯人を知っている感じだった」「前にもやられて顔を憶えていた」「それもあるが素性もだ」

 鮫島久蔵は見かけによらず純情な感じがした。「俺の娘なら奴をいびり殺してやるつもりだ」「鮫島さん、そういうのをこちらに回してくれませんかね。そのかわりというか、こいつらは病院に精液を保存してあります」「そうかい、被害届は出してくれねえだろうが説得してみるよ」「犯行写真もありますぜ、もっとも写真の出所をつつかれると困りますが」「本当かい。自白させるには役にたつ。立証は被害届と精液で十分だ」「写真撮影とそちらの情報との取引と言うことで」「いいともさ。精液もつけてくれねえか」「承知しやした」

 「おい、酒だ」「あいよ」「ここをつなぎの場所にしてくだせえ。他の客がいるときは支払いと領収書を」「気を使ってくれるのか」「そのうちご迷惑にならない方法で礼はさせてもらいます」「有難いが飲ませてくれるだけで十分」

 鬼頭善之助四菱重工専務

 鬼頭善之助は70歳とは思えぬ足取りで冬薔薇を訪れた。矢野の前で「鬼頭です」と軽く一礼したが矢野はその眼に気後れを感じた。「お借りしましたテープ拝見させていただきました」言うまでもなく鬼頭大介の中野良子強姦現場のテープだ。その上には額面5000万円の小切手が10枚置かれていた。「良しなにお取り計らいくだされたく」と頭を下げると立ち上がった。
 慌てて駆け寄るママに「今度ゆっくり寄せてもらうよ」と言い残して去って行った。呆然と見送る矢野は格の違いに立ちすくんでいた。やがて崩れ落ちるようにソファーに腰を下ろして考え込む。近寄りがたい。島崎社長、吉良信介、国本忠二は離れて見ているほかはなかった。これ程打ちのめされた矢野を見るのは初めてであった。

 長谷川冴子は意を決して「何かお持ちしましょうか」と冷を置いた。それを一気に飲み干すとブランディーとつぶやく。測り知れない相手程怖いものはない。四菱財閥はビクともせんよとも取れるがあの眼はもっと深いものであった。立て続けにブランディーを2杯飲んだが頭は冴えるばかりだ。「先生」と恐る恐る仁吉が声を掛ける。「見てのとおりだ。眠らせてくれ」と長谷川冴子の膝に頭を乗せた。ほんの1分足らずの交渉にこれ程疲れ切った表情を見せるものか。冴子はやさしくその頭を撫でていた。

 島崎社長、天野龍太郎、白川虎治郎、吉良信介、国本忠二は10枚の小切手を見つめてためいきをついた。「5億円は万札5万枚、段ボール3箱以上かな」「目方は50kg位ですかい」「100万を持った感じで1匁か」「100貫以上にはなるでしょうな」「高さは天井まで届きますかい」「ともかくこれは島崎社長に預かっていただいて明日先生のお考えをきくことにしましょうか」「そうですね」「なんだい、信介忠二」「これからはですね、上品な言葉遣いをしないとですね」「このお方が。おめえらも苦労してるな」
 天野が目配せして無言で乾杯する。「そのお方がねえ」「純粋で誇り高い男ほど傷付きやすいですからね」「なるほど」「要求額の3倍以上を1っ発回答されては交渉になりません」「振り上げた手の降ろしようがない」「しかし一流役者は違うねえ、静かに現れて颯爽と引き上げる」「今日は観劇料はらわにゃなんねえな」「まったくだ」「鬼頭良之助という侠客いましたね」「お名前だけは、土佐の」「ええ、あの専務土佐の訛りがあります」「てえと血を引く」「可能性もあります。調べてみましょう」「観劇料じゃ足りねえな」

 島崎は話を上手に持ってゆく。話しやすい雰囲気をつくる。「この人は構想力が素晴らしい。絵が描ける。目的がはっきりしているから動きやすい」「動き易いですがもたもたしてたら蹴りを入れられる」「数手先が読める」「おやっさんの拳骨はあったけえけど火箸でやんす」「あっしも蹴りを入れられ骨身に堪えやした。白虎組に帰りたいと思うこともござんす」「何をいう忠二、おめえは社長でねえか。信介に負けてどうする」「白川さん、お言葉ですが信介は警備会社の社長でやんす」「おっしゃとおりで」「席を変えるか」「忠二の店に行きやしょ。忠二の奢りで」「いいねえ、忠二ごちになるぜ」「そんなあ」
 天野が10万テーブルに置く。「姉ちゃん看板にしな」と白川も10万置く。二人きりにしてやれとの親心だ。引き上げる天野達に長谷川冴子は黙って頭を下げる。その時冴子はこの男の子を生みたいと思った。

 続ロンダリング

 浪漫建設の会議室で10枚の小切手の現金化が話し合われた。香川こと矢野は寝込んだか欠席なので島崎社長、吉良信介。国本忠二。駒込直美、松崎敬子の5名だ。「私の考えを書きますね。たたき台にしてください」と直美がボードの前に立つ。中野良子1、香川健1、手数料1=500万×10人、報酬1、残り6。「提案趣旨を説明します。被害者10人に各人の口座に小切手を預金させます。3日後に4500万円出金させます。500万が彼女ら取分」「ちとひどいのじゃない」「これだけで500万稼げる商売ある。泣き寝入りしたんだから御の字よ」「中野さんはまるまる」「当然、彼女がこの仕事もってきたのよ。」「それはそうね。肝心な報酬は」「原資5000万を5で割るとはいかないでしょ。でも私と敬子に100万ずつはくれるんじゃない。まあ国本社長の腹次第だけど」
 国本と吉良は感心した。まず原価計算と利益処分だ。「水揚げ5億で考えるといけないということでしょうか」「そうですね社長。3億は会社のものですから2億が水揚げですね」「ということは、ええい、くそー、俺たちが自由になる金は3000万がいいとこかい」「ちげえねえ。香川先生が1割と言われたがいい線かい」「んだな。勉強になるな」

 島崎社長が「配分は現金化してからの話でしょう。捕らぬ狸の皮算用になりませんか」と質したが「心配ありません。国本査察官、吉良捜査官の報告から被害者は必ずこの話に乗ってきます。島田博子と木村寛子で試してみましょう」駒込直美は自信たっぷりに答えた。「税務署対策はだいじょうぶですか」と島崎社長。「秘策があります。これは私が考え出したものです」「で、どんな秘策なの」「秘密」「でも彼は香川先生は上手くいったら黙っているけど失敗したらなんで勝手にやったと言うでしょう」「ちげえねえ」(笑い声)「10年も側に居たら手口性格頭に入っている。全額回収に10万賭けてもいい」

 島田博子と木村寛子の結果をみて残り8名分の回収にかかることとなった。国本は島田博子の胸に顔を埋めてつぶやく。「こんな仕事辞めたい」「どうして」「貧しい人から税金を取立、金持ちの脱税は目をつぶる」「世の中そんなものよ」「僕は許せない。税金が国の為有効に使われるならわかる。徴税は必要だが金持ちの懐に半分は返ってゆく」「半分は公共に使われない」「そうなんだ」「嫌なら辞めなさい。私が食わしてあげる」「そんなことできるか、紐になれるか」「ごめんなさい」「この小切手君の口座に入れてくれないか」「いいけど銀行振出なら現金と同じじゃない」「2,3日あづかってほしいんだ。少しずつ引き出して貧しい人たちに還元する。勿論税務署の対策はしてある」

 数日後国本は4500万を受け取る。「残りは」「君が使ってくれ。この金は手形が落とせなくて困っている人に用立てるつもりだ。金曜日会える、ちょっとしゃれたステーキの店見つけた」「連れてってくれるの」「ああ」
 吉良信介は短兵急だ。「この小切手君の口座に入金してくれないか。捜査上確かめたいのだ」「銀行振出なら問題ないでしょう」「常識的にはな、奴らは巧妙だ。逆手に取って反応を見たい。君は来週4500万を引き出して来てくれ」「500万は」「君のお小遣い。心配するな、警察や税務署に訊かれたら言えませんと答えればいい。私より小切手を振り出した人に訊いたらどうですかと言ってやれ、その状況が知りたいのだ」
 翌週吉良は4500万を受け取ると「気を付けろ、奴らが動き出す。君の警護はFBIに頼んであるが心配だ。同僚がニューヨークに転勤したので軽井沢の別荘の鍵預かった。3日ほど過ごさないか。僕も木曜日から休暇をとる」

国本、吉良の報告を聴いて残り8名分の回収が検討される。「島田博子と木村寛子に分担させるのがいいでしょう」駒込直美は断言するように言った。

 コピーのコピー

 直美は種明かしをする。「これは斉藤慶子の示談書のコピーです。下田剛三の署名を切り取って示談書に貼り付けます。小切手の預りのコピーからも著名を切り取って示談書にはりつけます。これをコピーすればできあがりです」
 そこへ香川健がやってきた。「水揚げは」「3億ちょい」「10億に程遠いな。受注予算は、水揚見込は」「それは今計画中で」「まああと2週間あるからな」
  1斉藤慶子       1
  2中野良子       3
  3女子大生情報
  4刑事情報
  5その他
     計       10
「ええと10-4はいくつでしょう」「始まった」「棚ぼたにしがみ付いていては予算達成は難しくはありませんか。満額回答を引き出しましょう」「へえ」
 
「あのう、示談書と預かり証のコピーですが」「駒込さん脱税だな、印紙税は国税だから国税局のマルサがやってくるぞ。原稿に印紙を貼ってコピーとる。それに消印か赤線でも引いて孫コピーなされたほうがよろしいのでは。もっとも下田剛三のお名前があればマルサも税務署も手を出してこないとの読みでしたら小細工することもありませんが」駒込直美は顔を真っ赤にする。

 国本が取り持つように「先生の取り分です」と5000万円を差し出す。100万の占め紐には銀行の名前が。香川はちょっと考えて「まあいいか」と言った。「こっちは富士銀行です。半分混ぜましょうか」と国本が言ったが「残りはまだか、俺の分をもらったから」とだけ言った。「松崎.チャック付のビニール袋と黒のゴミ袋持って来い。あとでいいから銀紙と挟み」「はい」「どうするんで」「大事な取分を包んで屋上の受水タンクに沈めるのよ。そうそう島崎社長屋上庭園を見積もってくれますか。4階は熱いんだ」「芝と花と灌木でいいですか」「見栄えがいいようにお願いしますね」
 松崎敬子が戻って来た。「これでいいですか」「おうおう、札束をゴミ袋に入れる。銀紙を細かく切ってくれ。ゴミ袋を粘着テープで止める。それでいい。お次はビニール袋に入れる。銀紙を蒔く。全部だ。空気を抜いてチャックを締める」「大丈夫ですかい」「あ、スーパーの買い物籠に容れるか。万一のときでも流失しないし取り出しも簡単だ。屋上は24時間警備員がいるから盗まれる心配はない。警備員の休憩所がいるなあ、雨風をしのげる程度は」「銀紙は何の為に」「銀紙が蛇口から出てきたらビニール袋が破損した警報になる」「全所帯に言っておかないと」「それはそうですね」「その時は奥様に取り上げられる」「嫌なことを言うな。これは愛しい子供たちの教育費だ。あと10倍は蓄えておかないと人数が多いからなあ。受水タンク増設するか、社長見積に追加してください」

 結局コピーのコピーは手間がかかるのでタイプ打ちして三文判を押すことになった。ただし、これからの新規客には有効であるからさらに研究することとなった。香川健の受水槽の点検口近くにはフック掛けが設置された。スーパーの買い物籠に虎ロープを結び先にフックを付けて掛けておく。まさかのときには引き上げて移動させる寸法だ。
 さらに訓練を実施。「仁吉まさかのときは真っ先に駆けつけて来い」「先生まさかのときは何時かわかりませんじぇ」「それもそうだな、じゃあ松崎お前の担当だ」「なんで」「元美人ランナー」「今も美人ですよ松崎さんは」「そうお、引き上げるでしょ、次は」「ビニール袋を芝に落とす」「そうか、それでいいのだ」「先生を下で待機させておけば拾い集めるでしょう」「そうですね、イの一に駆けつけて喚くでしょうから」

 現金が回収されると駒込直美と松崎敬子に100万円の報酬が渡される。「誠に些少にてお恥ずかしい限りで」「十分よ、ねえ敬子」「国本さんも吉良さんも身をこなして働いたのに比べたら」「役得ですね」「嫌味を、仕事と思って身を任せたのですから、な社長」「専務のいうとおりです。全身全霊を傾けて相勤めましてござんす」「冗談よ、私買いたいものがあったんだ」「私も。これから買い物に行ってうさを晴らそうか」「敬子あしこのケーキ食べようか」

 吉良信介は天龍組を訪れる。「よくまあ次々と誰彼なしに扱使えるかとおもいやすね」「でもさ私にまでおこづかいを」「島崎社長は」「奥さんと100万ずつ」「信介粋なこと」「へえありがとさんで」「で金は」「それが受水タンクに沈める。チャック付ビニール袋に入れさらにスーパーの買い物籠に容れる。まだつづきがありやす。虎ロープで結わえて引き上げる」「有事の際にか」「左様で。あっしも綱引きやらされましたが有事のときは真っ先に駆けつけろと来ました」「先生らしいな」「あっしにも有事の際にやることがござんすてえと言いましたらね」天野が「それはそうだと松崎さんが綱引きをやらされるはめに」と話を引き取る。「そうなんで」 天野夫婦は腹を抱えて笑いこける。「受水槽とは考えたな」「雨にも風にも負けず、火事にも耐えると」二人は笑いにむせる。「信介、あんまり、笑わさないで、おくれ」 

 後日談

 長谷川冴子と矢野健は『通い夫会』に召喚された。裁判官は矢野モニカ、香川京子、谷和子。検察官は松崎敬子、弁護人は駒込直美であった。

「検察官冒頭陳述を始めてください」「被告人らは共同して通い夫会の会員を増やさないとの会則に違反した罪により鞭打ち20回を求刑します」
「弁護人陳述をどうぞ」「被告人長谷川冴子は会則の存在を知り得なかった、また被告人矢野健は心神耗弱状態にあったので情状酌量されるべきと思慮します」「事案に鑑み被告人本人の訊問を求めます」「どうぞ」
「貴女は被告人矢野健が通い夫であることを知っていましたか」「知っていました」「では『通い夫会』の存在もしっていたのですね」「異議あり。誘導尋問です」「異議を却下します。証人は質問に答えてください」「知りませんでした」「知ったのは」「召喚を受けた時です」「その時までは知らなかったのですか」「はい」裁判長モニカが訊問を停止させる。「確認します。はいとは知っていたという意味ですか」「いいえ、知りませんでした」「被告人のはいといいえの使い方はおかしい」(ここでしばし休廷)

「モニカ、質問自体を肯定するときがはい、否定するときがいいえ」と香川京子が説明する。「Can’t you understand ?」「Yes , I can.」「モニカ貴女わからないときかれて、ええわかりますと答えたのよ」「いいえ、わかりますでないとおかしいがYesは日本ではいいえのつもりなの」と谷和子に指摘される。「そうか先ず質問を否定か肯定するのか。この場合の」と大声をたてる。「それから意見を言う」「そういうこと。わかりましたか」「はい、わかりました」

 訊問再開と思いきや。傍聴人が次々とやって来る。モニカの父母、天龍組天野夫妻までも。「かな、みんなでお客様に椅子をお出ししなさい」「はあい」子供たちも入廷してくる。矢野は立ち上がる。「慌てないでゆっくり運べ。ゆっくりゆっくり、そうそう」母親たちも退席をして傍聴席をつくる。

 落ち着いたところで尋問が再開される。「証人は貴女の子の父が誰であるか証明できますか」「父が認知しています」「法律上の親子と生物的親子は別問題です。つまり当時あなたは処女でしたか」「異議あり。被告人に対する侮辱です。父子関係と処女と無関係です」「異議を却下します。母が処女であれば父の特定が容易です。交渉相手の男が父であることの可能性は高いと言えます」「貴女は初夜に出血はありましたか」「昼過ぎでしたが少し出血しました」
 「貴女はそれ以前に養父と関係持ったとのうわさがありますね」「異議あり。検察官の憶測にすぎず被告人の名誉を傷つけています」「異議を認めます」「只今の疑いを晴らすべく天野龍太郎氏を証人に申請します」「申請を認めます。尋問時間は15分とします」

 天野龍太郎は宣誓する。「証人は被告人長谷川冴子と関係を持ちましたか」「自分の娘と関係、犬畜生じゃあるまいて」「おっしゃるとおりです。ほかにございましたら」関係の有無をと言い出すモニカを谷和子が制した。
 「冴子は五つから俺たち夫婦の娘として育てて来た。頭も気立てもいい自慢の娘だい。器量も観てのとおり並み以上なのには男に縁がないのは父親がこんな家業をしているからと不憫でならねえ」「ほんとうちの人の言うとおりだよ」「検察官反対尋問は」「ありません」「証人のお話は当裁判所も心にいれておきましょう。ありがとうございました」

 矢野健への検察官尋問。「証人は長谷川冴子の生んだ子を貴男の子と思いますか」「思います」「何故ですか」「俺の子だから」「何故そう言えるのですか」
「父親だから」「何時そう思いましたか」「冴子が身ごもった時」「訊問終わります」
つづいて弁護人の反対尋問。「世間では男は自分の子か確かめる方法がないと申しますが」「確かめる必要があるのか」「どうして必要がないのですか」
「愛する女が身ごもったら自分の子に決まっているだろう」「尋問終わります」
「裁判所も御聞きします。相手の浮気は考えませんでしたか」「浮気するような女を愛することはない」「信じているのですね」「どこが悪い」「愛することは信じることなのですか」「そう言えないこともない」「判決まで休廷」

 冴子が天野に抱き着く。「お父さんありがとう」「人様が見てるじゃねえか」
「お前さん惚れ直したよ」「け、照れるじゃねえか」子供たちが矢野を取り囲む。「お父さん応援してるから」「ありがとう」「どうしてお母さんたちは父を攻撃するのだ」「ハンス大人になればわかる」
 判決言渡しだ。「当裁判所は被告人らを有罪と認め鞭打ち10回の刑を申し渡す。ただし、3年間刑の執行を猶予する。なお、被告人らは当敷地内で謹慎することを命じる」判決は直ちに執行され被告人らは矢野の個室に収監された。

 余韻が残る法廷ではモニカの父が「素晴らしい裁判だった」と絶賛した。「天野証言は心に響いた」「こちらは天龍組組長天野さん」「こちら私の父でハンブルグ市長してます」モニカの通訳で二人は握手する。「さあ親分、奥様、証人の日当として席を設けましたのでどうぞ」
 即席のテーブルにハムとソーセージが用意される。「親分、カンパイしょう」京子、和子、モニカ、直美、敬子がビールを注ぐ。「これはこれは判事さんに注いでいただくなど身に余る」「親分証言に胸打たれまして」「あれで執行猶予がついたわね」「本当にありがとうございやした」「親分さんお手を挙げてくだしぇえ」「でも物足りないわね、かな健と冴子さん呼んできなさい」「ここで食事する、立食でええが」「そうしましょう」
 矢野健と冴子が召喚されてきた。「被告人らは掛けなさい」「親分の証言がなかったら実刑やった」「親分恩に着ます」「さあ乾杯だ。あげよ いざ盃を 我が友に 幸あれ」ハンブルグ市長の歌声が響いた。「乾杯」「カンパーイ」

 矢野があらたまって「親分この子の名付け親なってくだせえ」と頭を下げる。「あっしが」と天野は声を詰まらせる。「冴子も喜びます」「お父さん」天野は堪え切れずに涙す。「どうして彼は泣くのか」「日本人は感動すると感極まって泣くのです」と香川京子が説明する。「男でも」「老若男女を問いません」「わかった。では何故感動したのか」「子の名前を付けることは名誉なことで信頼されるということは最上のよろこびなのです」「素晴らしい文化だ」 
 おかみさんが苛立つ。「お前さん。さっさとお引き受けするんだよ。名誉なことじゃないか」「大役じゃねえか」「それでも男かい。信介きとくれ」「親父さんお受けなさい。我々も考えます。じきに島崎社長も来られれます」「近頃涙もろくなってねえ。信介早く帰って来ておくれ。冴子みたいな嫁を探してあげるからさ」「本当ですかい。早く帰りてえ」「もっとも冴子みたいな娘は簡単にみつからないから今すぐにとはいかないよ」

 白川虎治郎、島崎社長もやってきた。浪漫建設の社員、香川事務所の職員もつづいて来た。「駒込先生鉄板焼き始めますね」「お願い」「松崎先輩。私たち中を手伝います」「助かるわ」こちらのテーブルでは「白川さん俺名付け親へへへへ」「それはようござんした。先生次はあっしに、おう元気な子だ。奥さん次のお子早めにお願いしますよ。来年ぐらいのご予定ですかい」「まあ白お川さんしばらくお元気でした」「ご無沙汰しております、奥様もお変わりなく」「それが、孫ができたんでございますよ。お婆さんになったのですよ」

 ハンスがやってきた。「お爺ちゃんハム食べたい」「咲も」「太郎も」「いいよ、さあ順番にとってあげよう」「ビールも」「よしそら」「ハンスは未成年者でしょ」「モニカ少しくらい」「お母さんここは日本です。未成年者の飲酒は法律で禁じられています」「ホイホイ」「お爺ちゃん、あげよいざ 盃を」「小さな声で」「我が友に幸あれ」「乾杯」「お婆ちゃんも歌って、咲、ブラームスが好き」「歌いましょう、みんなで一緒に」
 Guten Abend, gut' Nacht  Mit Rosen bedacht  Mit Naglein besteckt
Schlupf unter die Deck' Morgen fruh, wenn Gott will Wirst du wieder geweckt Morgen fruh, wenn Gott will Wirst du wieder geweckt

 冴子が「美しいお声、安らぎを感じます」英語で言うとお婆ちゃんは冴子の手をとった。冴子も一緒に歌う。矢野もモニカも加わる。日本語の歌詞も流れる。子守唄は人々を和ませる。これは世界共通、人類共通であろう。

 父親が「日本人はブラームスを知っているのか」と驚く。「バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベート-ベン、シューマンなどはたいていの日本人が知っています」と驚いたことに島崎社長がドイツ語で答えた。「市長のお孫さんは合いの子ですかい」と天野がきくと島崎が翻訳した。「日独合作だそうです」
 モニカの声が響き渡る。「ごはんですよ-。こらあ、手を洗わんか、犬猫じゃねえだろうが」「モニカ男言葉はよくないわ」「いけねえ」父母が振り返る。
 母が「私の娘は何故に叱られたのか」と島崎にきく。「日本では男と女とは言葉づかいが厳格に区別されます。お嬢さんは男言葉を使ったのです」「それがどうして良くないのですか」「理由は私にはわかりませんが、言葉づかいは非常に重要です。年齢、性別、身分等によっても区別されます」
 香川京子も話に加わる。「難しい質問ですね。島崎さんの言われた区別を英語ドイツ語で表現することは不可能でしょう。日本語の一人称は100近くあると言われています。例えば、私は男女年齢地位に関係なく使われますが、俺、僕は女が使うことは許されません」ハンブルグ市長は考え込む。「そうですね。言葉づかいから話し手の性別、年齢、地位などが容易に判断できます。言葉づかいを誤ると処罰されることもあります」

 天野夫人は「言われてみれば日本人に当たり前のことが異人さんには不思議に感じるんだ」と言われた。「でも奥様あのお嬢さん子供にちときつ過ぎないかえ」と白川夫人。「これがドイツ方式です。私の教育方針です」「モニカ年上に向かってそういう言い方はないでしょ。人生の経験を教えてくださっているのだから耳を傾けて参考にすべきや。方針にあわなければ採用しなくてもええ」「そうですね。ごめんなさい」「ついでに言っとくけど子供はいいことも悪いことも憶えて育ってゆくの。それを自分で善悪の判断できるようにするのが教育でしょう」谷和子は幼稚園の園長だけに説得が上手い。モニカの父母は日本文化の高さに感心した。これは貴族社会ではない、日本庶民の生活である。

 一斗樽が運ばれてきた。「両親分、社長」「おう」三人の男の鏡割り。枡酒が振る舞われる。「国本社長、警備の者たちにも振る舞っては」「そうですね吉良専務。おめえらも交代で頂け、仕事中だか度超すんじゃねえぞ」「これは美味い、日本の酒は最高だ」「お父様たんと召し上がれ、ママ取ってあげようか。アネサンはどれがいい。親分はどれを好むか。兄さんたちもやってくれ」モニカが差配する。
 矢野と冴子は大人しくみている。和子と京子が取り皿に持って二人に与える。「和子さん、京子さんありがとう」「お父さんどうして胡麻擦っているの」「かな、あやお前たちやさしいな。川の流れのようにこれもまた人生」「なにそれ」冴子が微笑む。「しかし矢野はいい女しか手ださんの」「そうやあ、谷さんとか私ほどではないけど」三人の女はにんまり笑う。

 松島のサーヨーオ 瑞巌寺ほどの コラサッサト 寺もないトエー
白川虎治郎が歌いだした。その美声に周囲は静まる。後ろには黒服の兄さんたちが『うーりゃやーどっと』と掛け声を入れる。どすが効いてすごい迫力だ。
 アレワエート ソーリャ コラサッサト 大漁だエー
アレワエート ソーリャ コラサッサト 大漁だエー
 前は海 サーヨー 後は山で(ハ コリャコリャ)小松原とエー

「こいつは参った」「いい声ねえ」「白川の親分、宮城のご出身とか」「めったに歌わないんですがね、よっぽど気分がええんでしょう」


                     第一部 完

  第二部 根本 修也

                   第二部 根本 修也

 乙女の祈り

 強姦撲滅会社は「乙女の祈り」と称することになった。「乙女の祈りですかい」「会社に名前がないと不自由だろう、なあ国本社長吉良専務」「まあ、香川先生の御発案ですから」「気に入らねえのか仁吉」「いえ」「意外といいかも、乙女の夢を無惨に打ち砕いた強姦魔に為す術もなく、ただ神に祈る乙女」と松崎敬子。「敬子、あなた学校の先生みたい」「私もいいと思います」と中野良子、斉藤慶子も賛成した。
 新会社には島田博子と木村寛子も加わった。これらの4美女は強姦魔撲滅に立ち上がったのだ。「国本さん、あなた私を騙していたでしょう」「それはですね」「言わないでなぐさめは、心が乱れるわ。私を雇って社長さん」「四菱やめて被害者に当たるのかい」「ただ一度の人生、だから側に置いてね、今はあなたしか見えないの」「歌の文句じゃねえか」「いいでしょう」「それはいいけど」「あなた好みの女になりたい」木村寛子も似たような感じだ。二人は浪漫建設で採用し新会社へ出向となった。中野良子と斉藤慶子は香川行政書士事務所で採用し同じく新会社に出向となったのだ。

 浪漫建設の会議室ではいつものメムバーに4美女が加わったのでにぎやかなことになった。「本日の議題は、強姦魔は何故強姦するのか、その要因分析であります。お手元の資料1のように被害者は中学生から60代女性に及んでおります」と駒込直美が説明を始めた。
 【被害者】   《加害者内訳》
  1、学生 187名  同級生150 教師2 親族1 強姦魔25 その他9
  2、OL 145名  上司85  同僚24 強姦魔28 その他8
  3、その他 50名  強姦魔18 暴走族17 その他15
    注:被害者382名の聞取り調査。
 次に吉良信介が「当社が加害者34名に対し独自に行った加害動機は資料2のとおりであります」と説明する。
  1性欲処理12
  2快感8
  3ゲーム7
  4征服欲5
  5その他2
女たちからため息が漏れる。「ソープに行けばいいのに」「私たち女をおもちゃにするのね」「処女とかセーラー服に憧れるのかも」「被害者の年齢内訳も参考になる」「ものにしたいという征服欲はわかるな」「でも卑劣よ。上司の立場を利用して」「教職ありながら許せない」「その他はセールスマン、修理工?」「医者、警察官もいます」「ともかく強姦は女の敵ね」

 女の観察は鋭いが事実をどう読み解くかが問題である。換言すれば加害者を如何に捕獲するかということだと香川健が議事を促す。「強姦魔暴走族は常習犯が多いから実際はもっと少ないにちげえねえ。これを挙げましょう」「私も吉良専務と同意見です。連中は犯行現場に戻ります。つ、つまり、餌場ですな奴らの」「社長、私がまき餌になりましょうか」と島田博子が申し出る。「それは危険です」「でも社長以下のみなさんが助けてくれるでしょう」
 何をするかは男が得手だかどうするかは女が得意だ。戦闘準備だ。柴田瞳に撮影依頼、鮫島刑事への連絡等フォーメーションは代わっても準備は同じ手順だ。「だいぶ手際が良くなりましたね」と島崎社長。香川が笑ってうなづく。

 松井須磨子

 そこへ職員が駆け込んでくる。「駒込先生来てください」何事かと直美が廊下に出ると老婆が強姦されたと喚いている。「ここに通して」と会議室に招き入れる。「駒込先生はおいでるかえ」「私が駒込ですが」「鮫島警部が先生を訪ねるように言ってくれたのだよ。昨日の夜、と言っても薄暗くなった程度だけど日比谷公園で強姦されたのだよ。有名な料亭の近く」「松本楼」「その近くの植え込みで犯されたのだよ。もう若くはないか止めとくれと言ったんだけど無理矢理チンチンを押し込まれたのだよ。女の神聖な場所に」
 駒込直美は椅子を勧めながら尋ねた。「奥様は病院に行かれたのですね」「行ったよ、鮫島さんが警察病院に連れってくださってね、見かけによらずいい男だったよ。そうそう吉良の仁吉はいるかえ」「吉良は私ですが」「鮫島さんから犯行現場写真は撮ってあるからと吉良に伝えてくれって言われてね」「奥様はその男をどうしたいの」「そいつの臭いチンチン切り落としてやりたい」「わかりました。奥様200万円ご用意ください、奥様の気の済むようにいたしましょう」「鮫島さんが謝礼が要ると言われたので100万持ってきたのだけど」「残りは奥様が納得した時にお支払いください。預かり証を切りましょう」
 中野良子が未亡人にお茶を出す。「いけない、手ぶら来ちまったよ。これで何か買って来ておくれ」と1000円札を出す。「奥様お名前を教えて下さい。ご住所、御生まれ」と駒込直美が訊いてゆく。「松井須磨子、葛飾区柴又。大正14年8月3日」「犯人の特徴は」「根本修也という不細工な男だよ。チンチンの臭いこと鼻がひん曲がるよ」「松井さんどうして犯人の名前を」「鮫島さんが教えてくれたよ」「なるほどよくわかりました。松井さんのご無念を晴らすべく我々も全力を尽くします」「そうしておくれ。亡き主人はいい男でね、再婚の話もあったけどさ。いい男って中々いないものだね」

 松井須磨子の闖入で中断された会議が再開される。「社長、私は鮫島刑事に渡りをつけますので、木村さんに後を任せたいのですが」「そうしてください、吉良専務。強姦魔捕獲は私たちで遂行しますから」「では」「いってらしゃい」吉良は瓢に向かう。木村寛子は熱い目で見送りながら「強姦魔のデータベースを作成すれば検索が容易になるかと思いますが」と言う。「どういうこと」と敬子が尋ねた。「一人一人の氏名、生年月日、所属、犯行場所などを詳しく入力します」敬子は直美を見る。直美も首を振る。10歳の差はパソコン操作においては大きい。それに秘書の木村と経営の中にいる者との違いがある。
 香川健が「キイワード検索だろう。これからのどの業務にも有効だ。必要不可欠になるだろう」と言った。「先生ご存知でしたか。でもデータの打ち込みが大変です」「木村先輩、私中野さんと手分けして手伝います」と斉藤慶子が申し出た。「助かるわ。将来はここと乙女の祈りとオンラインで結びたい」「すぐやれ。取敢えず事務所内浪漫建設内でランを組んでみろ。共通するキイワードを探ってゆけば見えなかったものが見えてくる」

 『乙女の祈り』の当面の課題は強姦魔捕獲とされた。松井須磨子強姦犯人の捕獲はその一環であるが最優先課題である。吉良信介が瓢の暖簾をくぐると鮫島刑事が浮かぬ顔をして飲んでいた。「こいつだ、根本修也」と写真を吉良に
見せる。「昨日パクったが」「保釈ですかい」「ああ、刑事辞めたくなる」「親は相当な」「岩倉財閥の根本崑厖が女中産ませた悪ガキだ」
 鮫島は見かけによらず純粋なところがある。「今夜奴を縛り上げますよ」「楽しみだ、お手並み拝見させてもらおう」「これだけ情報をもらったのだから近いうちにお返しさせていだだきやす。では今夜」「もう行くのか」「いろいろ手筈を」「そうだな」「おーい酒だ」「あいよ」「お前お相手していろ」

 吉良信介の写真と情報は香川健たちをよろこばせた。「大山、大山力也君に囲みを破らすのは」「面白いけどどうやって」「中野さんが助けてと叫べば、たとえ火の中水の中。力也君は飛び込んでゆくさ」「香川先生、純情な青年の恋心を利用するのですか」「立っている者は親でも使え、けけけ」「厭らしい」
 健の頭は既に根本崑厖の慰謝料請求を考えていた。「国本吉良、戦闘態勢だな。俺は島崎社長と善後策を考える。社長両手の手形割引幾ら位いになるでしょうか」「振出人が岩倉なら9掛けはいけるでしょう」「そうですか12本吹っかけてみるか」「松井さんの慰謝料ですか」と松崎敬子が驚く。「昔は、今も、美人だよな。あのなあ、被害者の歳など二の次だ、根本崑厖から幾ら巻上げるかが問題なのだ。取れるところからしっかり頂く。俺の手数料1割な」
 島崎社長は「うちでは12億は割れませんよ」と予防線を敷く。「そうですかあ、どこがいいかな、商社にでも頼むか」「まあ気の早いこと」「おい松崎なんか文句あるのか、それとも生理か」「知りません」駒込直美に助けを求める。「昨日敬子お休みしたでしょ」と耳元でささやく。「いけねえ、松崎さん、敬子さん来週お買物に行こうか」香川京子、谷和子、矢野モニカ、駒込直美、松崎敬子、長谷川冴子と毎日通っても休日は週一日である。

 強姦魔捕獲作戦

 いよいよその時がきた。柴田瞳監督がリハーサル撮りしている。「距離300」とレシーバーから連絡。「スタンバイ」と監督。茂みの近くでは何も知らない大山力也君が連れ出されていた。「今晩中野良子さんと食事するかい」「本当ですか」「斉藤慶子も一緒だがいいかい」《距離30》「いい店あるかな」「それはもう任せて下さい」
 島田博子は日比谷公園を手持ち無さげに歩いている。国本、吉良達が遠巻きに見守る。根本修也たちすれ違い様に島田博子を茂みに連れ込む。5人の男が根本修也を囲むように人垣をつくる。通りすがりには気づかれない。暴走族らしき男たちを避ける様に人は過ぎてゆく。大都会とはそんなものであろう。
 中野良子は茂みに近づく。横には吉良信介が付き添う。根本修也は片手で島田博子の腕を捩じ上げ背後からパンティーを下げる。慣れた手つきでを突き立てる。「騒ぐと殺すぞ」とつぶやく。根本修也がに生唾を付けて再突入図ったその時である。「助けてえ」と中野良子が叫んだ。恋する若者はまっしぐらに駆け寄ると5人の男を蹲らせた。数秒のことである。空手部だけはある。
 吉良が中野良子の肩を押す。「大山さん」「中野さん」抱き合う若き恋人たち。一カメが二人を捕える。島田博子が衣服を直して二人に一瞥を与える。背後から国本が抱きしめる。嘘から出た実。戯れの恋が。「引っ立てい」と矢野が命じたが大山力也が急所に蹴りを入れる。「大山君。落ち着いて。大事な商品なんだからもう」と矢野が制す。
 どこからか松井須磨子が現れて「私は強姦魔です」と書いた厚紙を根本修也の首に架ける。「さあこのとおり言って見な」「聞こえないねえ。100回言ったら外してやるよ」公会堂の近くには人だかりがしていた。哀れな根本修也は物笑いにされていた。「もういいでしょう」と吉良信介が拉致の合図を出す。

 『乙女の祈り』の取調室は依頼人が様子を鑑賞できるようにガラス張りになっている。強姦魔たちは下半身裸にされ立たされている。エロ写真を見せると臭根はむくむくと起き上がる。更に刷毛で撫でながらコンドームを着用させてゆく。「こうしないとクセーからな」とスタッフが鼻をふさぐ。(笑い声)
 次はAV鑑賞。強姦魔たちの息遣いが荒くなる。その顔は鬼気迫るものがある。「狂気だな。じっくり可愛がってやれ」と吉良が指示する。島田博子が前に立ってスカートを少し下ろした。3人が射精した。「喉乾いたろう」と水を与える。さらにブラウスのボタンを外すと残りも射精した。
 松井須磨子が「股広げてやろうかねえ」と言ったので大爆笑となった。今度は木村寛子がベッドの上であられもないポーズをとる。6本の臭根が一斉に起立する。「いいのかい、よろこばせて」「奥さんこれからが見物ですよ」
 尿意を催してきたらしく射精できないようだ。「尿管が込み合っているのかい」「いえ奥さん、出合頭の衝突ですよ」「ふーん、大変だねえ。どちらかにすればいいのに」「おっしゃるとおりです」木村寛子がスカート上げる。「あんたも好きねえ」一人が出した。「ありゃ、また出した。元気だねえ」「こいつは渋滞を起こしてねえな」

 やがて一人一人と顔が蒼くなる。「どうしたい」「小便が」「出せばいいじゃねえか。出すのは得意だろ」「コンドームが」尿管を締め付けている。「だから心配せずに出しな」観客席では「あんなに苦しいものかい」「出るものが出ないと」「わたしゃ3日ぐらい平気だけどね」「なんと申しましょうか、ご婦人にはお解りいただけないでしょうね」と漫才がつづく。女たちも興味をもってみまもる。スタッフが「代わってくれ、俺トイレ」と席を外すと強姦魔たちは羨ましそうに見送る。
 別のスタッフが「何人やった。吐けばトイレにいかせてやる」とからかう。泣き顔で堪える強姦魔たち。矢野はにやりと言った。「山場だな。もうじき腐り始めるぞ」「こちら様は」「大先生」「よく考えたねえ。バッサリやるより面白い。明日残金もってくるよ。楽しみだねえ」舞台では木村寛子がパンティーに手を入れ自慰を始めた。たまらず強姦魔たちは「言いますから、全部喋りますから」と音を上げた。コンドームはまだ使えると男根に結わえられる。
 聴取が終わると念を押す。「それで全部か、隠し立てしているとまたお仕置きだぞ」「ありません。本当です」「ならいい。裏をとるからここでお泊りしてもらおう。なに、3食昼寝付きだ」

 柴田瞳が矢野を見る。指を丸めると「カット」が発せられる。「監督、特急で編集していただけますか。明日の午前中にいただけると幸いですが」「承知しました。みなさん引き上げるよ」犯行から自白までの一部始終が録画されているはずだ。

 手形割引

 香川健こと矢野は岩倉商事に電話を入れる。「私、根本修也さんの代理人ですが根本社長に面会できますでしょうか」「アポはございますでしょうか」「いいえ」「只今会議中でございます」「何時ごろまで」「予定は3時となっておりますが」「ではその頃お伺いしますのでよろしくお伝えください」
 静かに受話器を置くと「今度から国本さんにやっていただきますから」と笑った。だが眼は笑っていない。「商事会社は儲かるのですか先生」「取次だけだから元手は要らない、経費もかからない。命短し恋せよ乙女だ」「松井須磨子
様ですかい」「こんな金鉱がつづくことはない。地道な反復継続こそ商売の基本だ。今日が最後の授業と思え」「へえー」
 岩倉商事の受付で来訪を告げる。「社長がお待ちしておりましたと申しております。ご案内致します」受付嬢はエレベーターの前で「最上階で秘書がお待ちしております」と頭を下げる。国本と吉良は矢野の背中から青白い炎が燃え上がっているのを見た。
 社長室では根本崑厖自ら迎える。「私はご子息が強姦した松井須磨子の代理人ですがこのビデオをご覧いただきたく参りました」「いくら欲しいのかね」「言葉づかいに注意していただきたいですな。テレビ局に持ち込む前にこうしてお話したいと思ったのですが」「失礼しました」根本崑厖は頭を下げた。
 国本も様になってきた。「某局からは10億のオファーがありましたが」と吉良が合の手を入れる。「我々は円満な解決をと思っているのですが」「それはどうも」「このテープご覧になって今夜8時銀座の冬薔薇にお越しください」
 交渉は気迫である。「では。そう鬼頭善之助さんに相談されたら」「四菱重工の」3人は立ち上がる。根本崑厖はエレベーターまで見送って深々と頭を下げた。秘書には玄関まで送るよう命じた。矢野健は満足げに笑みを湛えていた。「君、入社何年」「3年目でございます」「そう、決済はお産手形でも結構ですとお伝えください」「お産手形ですか、かしこまりました」

 電車に乗ると「念の為だ、忠二の店で落ち合おう」と別れる。エレベーターを乗り換え、尾行を巻く。どうも気になるのだ。虫の知らせというのだろう。店の周りには私服警備員が配置されていた。「あっしも気になって5人ほど貼らせました」「まだ死ぬわけにはいかない。今夜手形を受け取って明日現金にするまでが勝負だ。まあ前祝といこう」「現ナマはどうやって」「明日わかる。何事も手の内は見せているだろう」「すいやせん。警備が重要と近頃わかってきやした」「売上が伸びるとコストもかさむ」

 根本崑厖も冬薔薇が開店と同時に現れた。ママが奥の席に案内する。「これで譲っていただきたい」額面1億の手形12枚、期日は10月10日後だ。「結構でしょう。商品は明日中にお引渡し致します」根本が低頭する。3人が立ち上がる。長谷川冴子に目くばせする。冴子が名刺を差し出しながら「ご名刺頂戴できますでしょうか」と言ったが嫌とは言わせぬものがあった。
 黙ってオールドパーを作る。ストレ-トと冷を置く。根本崑厖は一口含んで「鬼頭さんから聞いたがいい店だ」「恐れ入ります」「冬薔薇とはママのことかね」やはり最初は店の名前からだ。「鬼頭社長からご紹介いただきお待ちしておりました。これからは会員制にしてゆこうと思いますの」「それはいいねえ。僕も紹介させてもらうよ」「よろしくお願いします」「ママはフランス語できるのだって」「聞きかじりですわ。耳年増、耳だけならいいのですが」「いやあ、まだ若くて綺麗だ。冬薔薇は白バラだったね」

 3人は忠二の店に入った。島崎社長と天野龍太郎と白川虎治郎が待っていた。「上手くゆきましたか」と島崎社長。手形を見せながら「社長明日の午後まで預かってください。明日割引してきます。1割と観てますが現金輸送と保管が必要です」「9掛けとして10億8千万」「てえしたもんだな」「今回は忠二と仁吉がやりましたので私は引退です」「先生ご冗談を」「乾杯する前に警備とプロの殺し屋を両親分にお願いしておけ」

 明くる日香川健は丸忠の磯松に電話する。「いいよ、3時過ぎなら買い取るよ」とあっさりしたものである。果たして11億もの現金が用意できるのか。
 国本と吉良を伴って丸忠を訪れる。「矢野、部長だ」「ハンブルグではお世話になりまして」「いやこちらこそ、磯松には世話になりっぱなしで頭が上がらないので」と名刺を交換する。「お前どうして香川、まさか香川さんと」「まあまあ、それよりこれ頼む」と手形を渡す。「はい、確かに12枚。1枚はうちの手数料な」部長がうなずく。「おい矢野手伝え」と段ボール箱を拡げてゆく。
 女子社員がお札を数える機械と現金を運んでくる。「11箱頼む」「11箱ですかあ」「今度鰻奢ってやるよ」「本当ですか、みんな呼んできて」5人の女子社員が札束を作ってゆく。「あしこの鰻おいしかったわね」「これやらされると手がカサカサになるのね」「特上奢ってくれるのじゃない」「こらお客様の前だぞ」「はーい」一人が無造作に札束を投げ入れると機械が数える。
 100枚ごとに帯締めしてテーブルの上を滑らせる。一人がそれを段ボール箱の前に投げ渡す。ボール投げの感じだ。「1箱で100束だ」「重いだろう」「50キロぐらいかな。日銀券はいい紙使っているからな。米ドルなんてひでえものだ」「俺見たことがない」「見せてやる、この1$が250円」「これ本物か、安っぽいな。この前280円だったのに」「これからも円高が進むぞ。矢野為替相場やらないか」「やったことがない」「1ドル250円で売って200円で買い戻す。粗利50だ」「1万ドルで50万」「矢野1億俺に預けないか。飲み代位は稼いでやる」「稼ぎは73だぞ」「3もくれるのか。おい10箱でいいぞ。レスリング部しっかり梱包しろ」「ソフトボール部です課長」

 手形決済時に岩倉商事はどう動くか。「磯松、あの手形割るのか」「どうして
、誰でも回すさ」「裏書譲渡」「当たり前じゃないか。1年分の利息が稼げる」「手形交換所に回るのは」「大抵期日の3日前」「1年近く流通するのか」「振出人が岩倉商事だからな、まあ現金扱いされる」「途中で割り引かれることは」「先ずないだろう。銀行から1億借りてみろ、支払利息は500万以上だ」「なるほどな。商社の取引は1日どれくらいだ」「数百から数千億、年間650兆だ」「すげえな」「商社の利幅は1%がいいとこだ。数でいくしかない」「ラーメンから航空機まで」「ああ女以外は扱う」「半金半手か」「まあそんなものだろう。それに外貨」10箱は台車で地下の駐車場に運ばれる。「磯松課長、世話になったな。近いうちにいっぱいやろう」「俺も聴きたいことがある」

 段ボール箱は浪漫建設に置かれた。「うちの金庫には全部入りませんな」「本当はあと1箱あったのですがね」「仁吉口が軽いのはよくねえぞ、俺の取り分
20束」「はいはい」「20㎝か高い高い、島田博子さん主演賞、木村寛子さん演技賞」と1束ずつ与える。「大山さんはないのですか」と中野良子。「特別賞」
と1束。「私たちは」と斉藤慶子。「先輩からもらえ」「香川先生、1箱何処へ行ったのでしょうね。ほら先生の取分ですよ」「それはですね、ある処に預かってもらいました」「そうですか。私に一つくださいな」「一つはやらぬ、半分やろう。敬子と半分しなさい」「ではこれは差し押さえます」「直美さんそれは無体な。これから打ち上げに」「1束で足りるでしょう。敬子手伝って」「敬子お前もか」「追徴金は後ほど」と二人は1600万円を事務所の金庫へ。
 矢野健は吉良の頭を引っ叩く。「税務署より怖いは女、このばか」「すいやせん」「もはや直美の管理下だ。紙切れ以下。自由になる金が真の金」


 プロの殺し屋

 吉良信介は健の機嫌直しに国本の店翡翠に誘う。子分の不始末と天野、白川両親分も馳せ参じる。「今日は借切りだ」と国本が怒鳴る。島崎社長が事情を説明すると「信介、男の口が軽いのは良くねえな。先生このとおり、あっしに免じて勘弁してくだせえ」と天野が低頭した。「忠二、おめえも兄弟が口を滑らしそうになったら止めなくちゃ」
健は少し溜飲を下げたようで「商売は地道に小物をたくさん釣り上げてゆくものだ。大物は滅多に掛かってくるものではない」と話し始めた。「おっしゃるとおりで」と両親分が酒を注いで気を使う。「商売が繁盛するほど敵も増える。相手は政府を動かすほどの財閥だ。プロの殺し屋を差し向けてくるだろう」「毒を以て毒を制すですかい」「そうだ、信介警備会社の顧問に雇え。警備体制、警備実技指導に年1000万。その他は出来高だ」「なるほどね」
島崎社長は「香川先生は常に先を考えておられる。ゴルゴ13のような人がいるといいですね」と盛り上げる。「そうだ、ゴルゴ13を全員に読ませろ。両親分もお心当たりがありましたらご推挙くだせえ」「確かにあっしらは攻めには強いが守りに弱い」「天野親分のおっしゃるとおりで」「白川さんもそう思われますかい」

 その日は深酒になった。「しかし、信介も忠二も大きくなったな。先生にどやされている内が花だぞ。見放されてみろ、さびしいぞ」「白川さんの言われるとおりだ。信介音を上げるな」「へえ」「辛い時は俺が愚痴を聞こうじゃねえか」「親父さん」
島崎社長は捉えどころがないが時々はっとすることを言う。「税務署は鬼より恐いですけど駒込先生ほどではないでしょう。少し資金運用も考えてはどうでしょうか」「いやあ社長、同業が大きな解体工事を取ったのですがね、前渡金が少なくて足場台やら機械のリース料に苦労してますわ」「朱夏組さんなら家屋敷を売ってでも借りた金は返すでしょう」「利息は」「月5分」「それは高いのでは」「なあに毎月出来高分が入ってきますから」「うんだ、最初がつれえ」「1億で月500万円」「御の字でさあ」「どうだい、国本社長」
 健は知らん顔。問題があれば黙っているはずはないと「親分さんの保証があれば」「いいとも天龍組が保証しようじゃねえか」「忠二青龍組さんにも用立ててくれ。俺が保証人になる」「親父さんが」「ものは試し。2億融資しましょう。金庫の中では子を産みませんが外に出すと孕んで帰ってきます」「ちげえねえ」「朱夏組さんも青龍組さんもよろこぶぜ」「親孝行になるなら、ねえ国本社長」「吉良専務と同意見であります」「じゃあ決まりだ」「香川先生ようござんすかい」「あっしには係わりのないことでござんす」

                         第二部完

第三部 豪間 寛治

                    第三部 豪間 寛治


 佐藤オリエ

 佐藤オリエが事務所を訪れたのは仲秋の名月の日であった。駒込直美は依頼人の深刻な打撃を受け止めかねていた。実質的に香川健事務所を切りまわしているとはいえ、佐藤オリエの話を聴くうちに香川にすがりたい気持ちになっていた。それは次のような内容であった。
1日 時 9月11日午後7過ぎ
2被害者 佐藤オリエ20、山城慎吾25
3加害者 暴走族3名、年齢20前後。身長165から180
4内 容  江戸川堤防で将来の夢を語り合っていた二人を暴走族3名が襲い
      山城慎吾の首にロープをかけ双方から引っ張った。その目前で
      佐藤オリエを代わり代わり犯した。その後山城新伍を絞殺した。

 佐藤オリエは気立てのいい娘であった。山本慎吾とは幼馴染でともに母子家庭と言うこともあって兄妹のように育った。5年前に婚約したが両母親とも同居すべく持ち家をしてから式を挙げることになっていた。二人は高校卒業すると懸命に働き小さな家を手に入れた。結婚式を目前に幸福の絶頂に居たのだ。暴走族は二人がロープを引っ張り一人が山城慎吾の両足を持ち上げて回転させた。「お前も一緒に縄跳びしようぜ」と佐藤オリエに言ったというのだ。
 話を聴取し書き取っていた中野良子と斉藤慶子は思わず泣き出してしまった。「私も同じ気持ちよ。でも今は3人の暴走族を捕えることが先決でしょ。で佐藤さん警察は」「殺人事件として追っていますが未だに」「そう、百万円用意してもらえたら必ず貴女の気の済むようにしますが」佐藤オリエはバッグから札束を取り出した。信金の封がしてあった。「佐藤さんしか目撃者がいないようですから貴女にも協力していただかねばなりません」

 『乙女の祈り』の検討会が開かれる。「ひでえ話だ。私、鮫島刑事に捜査状況を訊いて来ましょう」「そうですね、私は元暴走族に当たってみましょう」と吉良専務と国本社長が口を切った。「私たちは近所の聞き込みに参ります」と中野良子と斉藤慶子が言った。「そいつはどうかな。警察が捜査しているし、第一あぶねえのじゃないか」「吉良さん、お気持ちはうれしいけど奴らは女の敵、これは女の戦。子供を中心に聞き込みしたらどうかしら」と島田博子が被せた。「それもそうですね。大山さんにガードしてもらってと思いますが吉良専務」「社長がそう言われるなら」「では次回は来週のこの時間に」
 吉良信介は瓢で鮫島刑事に捜査の訊きだしを依頼した。「親御さんの気持ちを思うと居たたれなくなるな。早急に所轄署に訊いてみるよ」「うちも元暴走族のコネを辿ってみます」「近いうちに連絡できると思う」「よろしくお願いします」「ああ。そうだ強姦罪のほうは被害届が出ていないようだな」
 一方中野良子と斉藤慶子は大山力也をガードに現場近くの子供たちに訊いてみた。「君たち3人組の暴走族見たことある」「ある」ポテトチップスを差し出す。「何回ぐらい。いつ」「うーん2.3回かな」「最近では」「1月前かな」「どっちから来た」「上流の方から」「人相は」「よく憶えてない」「でもホンダの250だよ」「バイク詳しいんだ」「高校生になったら免許取るんだ」「すごいね」「暗くなってきたから帰るね。あ、一番星」「宵の明星ね」「そうか、バイクに宵の明星と書いてあったよ」「ほんと、ありがと。これ持って帰って」


 宵の明星

 思わぬ収穫であった。宵の明星は元暴走族がアジトを突き止めた。警察より先に捕獲したい。早速アジトを張る。次々と3人の暴走族がやって来た。佐藤オリエに確認させる。しっかりと首を縦に振った。ダニアースとゴキブリホイホイが一斉に投げ込まれる。出て来たところを簡単に捕縛した。乙女の祈りの取調室に連行する。丸裸にして所持品を調べる。先ずは運転免許証である。豪間寛治23、郷原信郎20、郷氏侃爾19のコピーを取る。

 暴走族各位

 我々、宵の明星は不当に逮捕されました。よって名誉ある死を選び青木ヶ原上空からスカイダイビングすることに致しました。各位には日頃のご厚情ご厚誼に感謝します。
                                   昭和55年10月吉日
                                  宵の明星 豪間寛治
                                         郷原信郎
                                         郷氏侃爾


 香川健の指示で各人に署名させ拇印を押さす。さらに運転免許証のコピーと手形を貼り付ける。「これを2部コピーだ。手分けしてテレビ局分をコンビニでコピーして来い」駒込直美と松崎敬子とが1枚ずつ受け取り職員をコンビニに走らせる。「いいか決死のダイビングが控えているから適当に可愛がるのだぞ」こういう時の健は生き生きとしている。
 コピーを各テレビ局に送りつける。「明日は営業に出かけるか」と満悦である。吉良が「放映権」とささやく。「当たり。まだ誰にも言うな」と国本吉良を誘い出す。「どちらへ」「神田の古本屋」3人は「孫子の漫画か読みやすいのないかな」と古本屋を見て回る。講談本を買い求めた。漫画本は八重洲のブックセンターで見つけた。「はいお二人しっかり勉強してください」

 翌日はテレビ局を3人で訪問する。決意表明を見せる。「何時でしょうか」「それを言ったらこれは紙屑同然でしょう」「では5000万」「あまりご興味はないようですな。他の局と話してみます」「お待ちください1億では」「野球中継とどちらが面白いでしょうかね」「5億では」「もう少し頑張るなら暴走族捕獲作戦もありますが」「私の一存では」「報道は新しいからニュースじゃないですか。関東一円から数百人の暴走族が集まりますから見物ですよ」「信憑性は」「そこらの暴走族に調査をかけてみては。午後1時に参ります、結論と取材費をご用意ください」
 香川健は元暴走族を使って決起集会を計画させたのだ。「宵の明星は駆け出しとはいえ、同志ではないか。見殺していいのか。3000戸の住宅団地を占拠しよう」「よど号事件では赤軍派の釈放と600万ドルの身代金を勝ち取ったではないか」「逮捕した警察はどこだ」宵の明星の決意表明は関東一円の暴走族に配られていた。数人のアジテーターは数百人の暴走族の声となって行った。
 暴走族は甘やかされて育った者、家庭不和の中で育った者が多い。有り余る青春の捌け口を求めていた。死のスカイダイビングと決起集会の日時を合わせると彼らは二分されるであろう。団地占拠は300人で十分だ。  

 近くのホテルでカレーライスを取る。3000円というだけあって味も量も満足させる。「子供の頃腹いっぱい食うことが夢だった」と香川健がぽつりと言った。戦後の焼け跡が残る日本で「ギヴミーチョコレート」と進駐軍にたかる子供たち、健は敵の施しなど受けるものかと冷ややかに見ていた。「どうだ孫子は」「それが読み出したら止まらない。昨夜漫画を全部読みました」と吉良信介。「私も講談本を全部読みました。もっと本格的に読みたいですね」と国本忠二。「何事も敵を知り己を知れば、だ」
 YBCテレビ局の鍋嶋常務は「これで」と10億の札束を提示した。「計画概要を説明しましょう。その前に謝礼を改めさせていただきます」と香川が言うと島田博子、木村寛子、松崎敬子が段ボール箱に移してゆく。「これが団地の見取り図です。侵入口は国道6号線、つくば街道、矢田部街道からの3か所です。この公園集結する暴走族の数は300と見ています。頃合いをみて催涙ガス、催眠ガスを撃ち込みます」「どうやって」「質問は後で一括してお願いします。さらに蛍光塗料を散布します。3か所の入り口にはグリスを蒔きます。これで9割以上は捕獲できるでしょう。残りは1っ匹ずつ捕獲する予定です。一匹たりとも逃さぬつもりです。これから現地説明をしますので取材調査準備をしてください。では質問どうぞ」
 話の途中に口を挟まさないことが重要だ。報道関係は畳みかけてくるからだ。「今催涙ガス催眠ガス蛍光塗料の散布説明がありましたが」「説明しました。同じことを繰り返すのは時間の無駄です」「失礼しました。その散布方法は」「空から蒔きます」「具体的には」「観てのお楽しみ。現地説明のあとこの計画を検証しましょう」
報道部長が手を挙げる。「スカイダイビングと捕獲作戦との日時を同じくしたのはどういう理由でしょうか」「ごもっともな質問です。理由は公園面積団地の規模から300が定員と踏んでいますので奴らを二分させるためです。スカイダイビングは昼間でないと中継がむずかいいでしょう。こちらに集結する人数は500から800と踏んでおります。こちらの方の捕獲は県警にご照会ください。ダイビングが終わるまでは警察も取材の邪魔をしないでしょう」「安心しました。日時は」「今日中に連絡します。これはお願いですが暴走族に気づかれぬようにかつ一人でも多くの方にテレビを観て頂けるように御配慮下さい」

 取材費10億の現金輸送車は元暴走族に囲まれてテレビ局を出た。途中地下駐車場で別の車2台に積み替えられた。さらに1箱は別の車に移された。それは丸忠の磯松に届けられた。
 香川健のペースで事は進められる。「これから現地説明を行いますがご準備はよろしいですか」とテレビ局の車で常磐自動車道を北上する。谷田部インターから団地に入る。団地内を一周してから自治会長宅を訪れる。暴走族捕獲作戦の概要を説明する。「当日テレビ中継しますがいいですか」「ええんでねえの。この前なんぞ家の中で震えていたべ。テレビで外の様子がわかるのはありがてぃーでぃや」「テレビの中継車を隠したいのですが」「うちの作業場なら電気もあるしええんでねえの」「それからグリス蛍光塗料等の清掃は自治会でお願いします、30万でいいですか」「ええです。テレビは全国中継け」「全国です。開始時刻は明日連絡します、ではまた明日」

 暴走族捕獲作戦

 翌日、住宅団地にはテレビ局がカメラその他の機材を運び込んだ。公園人は集音マイクが取り付けられ、物見台にカメラが設置された。このほかテレビカメラは全部で7台が配備され入念なテストが行われていた。公園わきの集会所は臨時の取材本部、取締本部となった。電話回線も選挙事務所並だ。
 夕方までに準備は完了した。あとは開演を待つだけである。午後11時電話が鳴る。「こちら利根川中継所。只今暴走族の第1陣約20台通過」「了解」「こちら水戸駅前。暴走族30台整然と隊列を組んで筑波方面に向かっております」「了解」つづいて栃木群馬埼玉千葉からも連絡が入ってくる。

 どうやら午前零時を集合時刻としているようだ。暴走族とはいえ道交法違反等の事実がないと取り締まることはできない。日頃歯がゆい思いをしていた警察も今日こそは一網打尽にしてくれるわと張り切っていた。集合してきたオートバイ300台余り。「宵の明星の釈放を」とシュプレヒコールを上げて団地内を暴走し始める。団地は爆音に包まれる。8mのメイン道路を疾走する。やがて団地内の道路を巡回し始めた。住民は固唾を飲んでテレビに見入る。YBCは臨時ニュースとして団地の暴走族を放映し始めたのだ。
 突然ラジコン機がメイン道路の暴走族を襲う。催涙ガスを散布してゆく。2機目は催眠ガスを、そして3機目が蛍光塗料を浴びせてゆく。これが数度繰り返された。多くの暴走族はバイクを降りて咳をしている。残りは逃走を図る。東の出入り口は国道6号線に通じているが団地に繋がる進入路はL字のクランクがある。ここでバイクは次々と転倒してゆく。テレビカメラがアップで捉える。そこにはグリスが蒔かれていたのだ。
 他の入口近くでもタイヤがスリップして空転すると投げ出されて川に跳び込む者までいた。急ブレーキを掛けた者はアイスホッケーの如くバイクごと滑ってゆく。テレビの前は拍手喝采である。この瞬間視聴率は40%を超えた。


 ゴルゴ13こと東郷平四郎

 暴走族捕獲作戦の実況中継は国民に衝撃を与えた。作り上げられた番組ばかりを見せ付けられているから生の報道に飢えていたのかも知れない。また全国の暴走族にとっても300台のバイクつまり300人以上が一斉に挙げられた例はなかったからショックであった。
 宵の明星釈放の決起集会は面目丸潰れである。日本人とくに武士を中心に任侠、やくざ、暴走族といった集団は事の次第よりも面目を重んじる。この性格を利用して青木ヶ原から撤退した暴走族を再び終結させようというのが香川健の戦略であった。

 東郷と名乗る男は不気味さがあった。応対に出た駒込直美は香川健の言っていたプロの殺し屋ではないかと思った。会議室に案内する。「香川です」「東郷
です。丸忠の磯松さんに照会されまして」「それは、それは。まあ茶でも」国本。吉良、島崎社長が呼ばれる。「こちら東郷さん。警備会社の顧問としてご指導していただく。謝礼は年1000万。よろしいか」東郷がうなずく。「吉良社長」「へえ、ようございやす」
香川健が議題をボードに書く。
1暴走族を青木ヶ原に集結させるには
2暴走族の報復対策
一同議題をみつめる。「我々にとっては青木ヶ原が第一だが、連中にとっては報復が第一であろう。元暴走族が標的にされるだろうからこの保護を第一とすべきであろうよ」「ちげえねえ、昔のダチを売ったのだからな。でもおかげで事は上手く運んだ」「少しは孫子を勉強したな」「今回の功績は奴らですかい」「そういうこと。十分な行賞と警護をしてやってくれ」
 吉良も国本も昨日の成果を自慢したげであった。「青木ヶ原に集結させるにはテレビ局を使おうと思っている」「奴ら面目丸潰れだな」「それよ」「怖気づいたかと言わせて、奴らも意地なる」「集結せざるを得なくさせる。先生も悪だなあ」「攻撃は最大の防御。暴走族特集を放映させる」「青木ヶ原で捕獲すれば次はどこが狙われるかと疑心暗鬼になる。一石二鳥ですか」「そう上手くゆけばいいのですが」

 香川健は吉良と東郷を伴ってYBCを訪れる。寺嶋常務は上機嫌であった。
視聴率が47%を超えたこと、海外メディアからも放映のオファーが来ていることなどを得意げに話した。(作り上げられた番組ばかりを観せ付けられているから生の報道に飢えていたのでしょうとはいわなかったが)
 香川健は話の区切りを待って「まだスカイダイビングの方が終わっていませんので暴走族特集のお願いに上がりました」「青木ヶ原に集結させるべく連中の自尊心をくすぐるということですか」「そうです。できるだけ早いうちに」「特集には時間がかかりますので再放送の中で自尊心を煽るというのは」「それはですね、お任せします」
 番組制作部長が「私どもも二つお願いがございます。ひとつは昨夜の中継の再放送です。今一つは海外メディア等へのヴィデオの譲渡です」「御社に放映権を認めたのですから再放送はご自由にどうぞ。ただし、複写権は別途料金が必要です」YBCはやはりなという顔をした。「いかほどで」
 香川は買売と指で宙に書いて見せた。「ほとんどの商いが買って転売するのでないでしょうか」鍋嶋常務は片手を示した。「5億で如何でしょうか」「坊主丸儲けという言葉がございますが」今度は両手。「10億では」「ラヂコン機使用は独創性があると思っておりますが」「15億でお願いします」「いいでしょう、手形でも小切手でも結構です。ただし海外向けの代理店は丸忠を使ってください」「丸忠商事」「著作権の差止請求、損害賠償請求などは得意ですから」

 香川は15億円の小切手を受け取ると「暴走族にも遊び場を与えたらどうでしょうか」と切り出した。「と言いますと」「南の島で暴走族の世界サーキットをやるのですよ。ご興味がありましたら絵を書きますが。青木ヶ原に集結の件よろしくお願いします」とYBCを辞した。
 その足で丸忠の磯松を訪ねる。「今日は4つ話がある」「待て部長を呼ぶから」「いらっっしゃいませ」「部長、この度はゴルゴ13いやデューク東郷をご紹介いただきましてありがとうございました」「東郷さんは自信を持って紹介できますので」東郷は軽く頭を下げた。「YBCが暴走族の放映権を海外メディア売るそうだ。丸忠で捌いてやってくれ」「見た見た、昨夜は釘づけだった。お前どうして」「磯松課長、今丸忠さんからYBCに話があったそうだ」「それで常務のところで」「ああ、1社5億うちのマージン3%とのことだよ」
 磯松が英米仏ロと指を折る。「気前のいい話で。20社としてうちのマージン3億ですか」「さるお方が丸忠を指名されたそうだ。近く再放送されるらしいから僕も観るよ」「面白かったですよ。生中継の迫力ですね」
 香川健はもじもじと手形を見せる。「95%で買いましょう」「部長、現金がそろいますか。矢野決済は明日でいいか」「ああ」「明日の夕方4時なら間違いできる」「頼むよ。1箱は磯松トレーダーに預けてくれ」「心得た。コピー取るから。預かり証代わりだ。俺の名でいいか」「丸忠の磯松課長のお名前なら何の不足がござろうか。今晩デューク東郷の歓迎会をやるから来てくれ、部長にも是非ご出席賜りたく」

 日暮里の翡翠は国本忠二の女がひっそりとやっている小料理屋だが落ち着くので香川健は気に入っている。翡翠は仏法僧と鳴くらしいが観たことはない。
デューク東郷の歓迎会は丸忠の大松部長、磯松課長も加わって開かれた。島崎社長、国本忠二、吉良信介が接待側だ。
 香川健が乾杯の音頭を取る。「世界的スナイパーデューク東郷の歓迎会を始めます。東郷平四郎さんはかの東郷平八郎元帥のお孫さんに当たる方で世界屈指の殺し屋として名を馳せておられます。この度国際警備企画の顧問として種々
ご指導いただけるものと期待しております。またこのような世界的スナイパーをご紹介下せれた大松部長、磯松課長に感謝の意を込めて乾杯したいと存じます。乾杯」「乾杯」(拍手)
 島崎社長は場を持たすのが上手い。「さすが世界を股に架ける丸忠さん、世界的スナイパーまでご紹介いただけるとは」「なあに商社なんて日々これ戦争ですよ。取引の為にはあらゆる手段をとりますよ。東郷さんには危ないところを何度も助けられました」「不毛地帯の感じですか」「山崎豊子さんはよく取材されておられると思いますよ」「では東郷さんから一言いただきましょうか」(拍手)「東郷です。この度ご縁があって皆様に会えたこと、うれしく存じます。精一杯勤めさせていただきます」とあっさりしたものである。
 吉良信介がじれったそうに「先生スナイパーってのは何ですかい」と訊く。「狙った獲物は逃さない狙撃主だ」「ではデュークは」「伯爵、世が世であれば
お目見えもかなわぬ偉いお方だ」「いえいえ、仕事がえらいだけです。40日間ビスケットと水で過ごしたことがあります」
一瞬場が静まる。「デゥーク殺しの秘訣は」「辛抱です。辛抱してチャンスを待つ」意外な言葉であった。「しかし目標をそういう状況に追い込む策も講じるのでは」「勿論それが一番です。その為には目標をよく知ることです」

 なるほどと感じ入る。体験にもとづく言葉は重みがある。「矢野も昨日の捕獲作戦相当準備したのではないか」「今はデゥークの話をしている」「矢野。東郷さんを紹介したのは誰かな」「それは勿論。磯松まあ一杯いけ」「ラジコン機
も面白かったがグリスに感心した。ねえ東郷さん」「そうですね作戦も見事でしたが私はあれだけの暴走族を集結させたことがすごいと思いました」「先生プロも同じことを言われますね。やはり孫子を勉強されておられるのでしょうかね」「どうやって集結させたのでしょうか」大松部長が興味を示す。「元暴走族に仲間を見殺しにするのかと扇動させたんでやんす」「なるほど。今度はどうやって青木ヶ原に」
 吉良信介は香川こと矢野に助けを求める。「企業秘密」「矢野、香川さんを拉致した容疑がかかっているのだぞ。家宅捜索しようか」「磯松、そ、それは脅迫だ」「部長明日の決済延期ですね」「そうだなあ、すべて信頼もとづくからなあ」「部長もああ言われる。素直に話したらどうだ」「異議あり。脅迫です」「異議を認めます」と島崎社長が却下した。「質問を変えます。経済原論は必修単位だったよな、出題予想をしたのは誰だったかな」「それは対価を支払った」「サッポロジャイアント1本。答案を作成したのは」「それも支払済みだ」「握り寿司だった。ケインズの経済循環論の解説料はもらってなかったな」「時効だ、時効を援用します」「援用は権利の濫用です。証人は質問にこたえてください」島崎社長も興味を示す。
 国本と吉良が下を向いて笑っている。「何がおかしい」「先生が追い詰められるのは初めてだ」「ですね」「てめえら兄貴に向かって。縁を切ってやろうか」「滅相もない」「原告は解説料の対価として青木ヶ原に集結戦略の説明を求めるとの趣旨ですか」「そのとおりであります」

 東郷が手を挙げる。「参考人として一般論を申し上げる。暴走族は面目を潰し。その施す機会を窺う。テレビ局にスカイダイビングを予告させれば警察の包囲を突破してでも青木ヶ原に集結する」「成程臆病風に吹かれたとは思われたくない。再放送に暴走族は果たして現れるでしょうかなどと挑発する」
 と大松部長が感に入る。「ワイドショーなどで視聴者の意見、感想を紹介して日本全国に青木ヶ原決戦は日時を待つだけという空気をつくる」「そういうことだな、今朝のY紙はトップであり取り上げていた。番組欄にも予告をいれるんじゃないかな」「あの手形は独占放映料だったのか。さらに海外メディアにも転売する。Y社ぼろ儲けですね。矢野の考えそうなことだ」

 国本が殊勝な顔で「戦とは頭でやるもんですね。先生の戦略、それを見抜いた東郷さんに感服いたしやした」と言うと「まったくだ。あっしらにも理解できやした。孫子は必須科目ですねえ」と吉良が続く。(爆笑)「私はこんな美味い酒を飲んだことがない。常に、壁に耳あり障子に目あり、酒に毒ありの人生でした」「しかし東郷さん女を股にした国際交流もあったのじゃないですか」「磯松、今日はデゥーク東郷の歓迎会だぞ」「悪かった。ささ矢野一杯」「男の喋り過ぎはよくねえぞ」「お前にだけは言われたくない。ミス学園の香川京子さんをかどわかしてものしたというではないか」
 学友とは一生学友なのかと東郷は思った。同席者も同じであろう。「磯松、昔の話を持ち出すな。今日の主賓はデゥーク東郷だぞ」「逃げおおせると思うか矢野。調べは済んでおる。つつみ隠さずに申せ」「彼女及びその家族に累が及ぶので発言を拒否する」島崎社長は盃を空けると「証言を拒否することはできません。法廷侮辱罪に問われますよ。証人は有体に証言してください」と諭した。拍手喝采。「島崎さんまで」「裁判所も聴きたいと思います」

 明日の手形決済を約して翡翠を出たの八時頃であった。大松と磯松を見送った五人は酔い覚ましに芸大から国立美術館の傍を歩いていた。争う男女が目に留まった。女が刃物を振り回している。男はヴァイオリンを持っているから学生と思われる。「馬鹿な真似はよせ」と吉良が女の手を捩じ上げた。すると「その手を折らないでください」と叫んだ。痴話喧嘩ではなさそうだ。「事情を話してくれないか」と香川健が話しかける。
 女も芸大の学生で、全日本学生音楽コンクールで男が優勝。女が2位になったことで女が嫉妬したということらしい。優勝と2位とでは評価に格段の差が
あるが実力は紙一重であろう。それはどのコンクール、コンペティションも同じでないか。上野の精養軒で珈琲とサンドイッチを注文する。
 人間空腹だと狂暴になる。「彼が憎い。あの指を切り落としてやりたい」「どうしてかな。彼は君を庇ったのに」「彼が遠くなってゆく。彼がいる限り優勝できない」「君は優勝するために音楽をするのかい」「高校まで私はいつも一番だった。大学に入学した時も」香川は呆れて者が言えない。
 東郷が「男に惚れている」と呟いた。愛憎は表現違いと言われる。「智恵子の心境でしょうか」愛する男からの褒め言葉は純粋な女の心を傷つけることにきづかない。「しばらく距離をおいたらどうですか」と島崎社長が言った。その通りだと香川は思った。
 女はよほど甘やかされて育ったのであろう。香川の怒りが爆発する。「甲子園で優勝した位でプロになれるか。親の顔が見たい。パガニーニかチャイコフスキーコンクールで優勝してから一人前の口を利け」女の顔が歪む。「警察に突き出してもいいのだぞ。俺はこういう者だ」と名刺を叩きつけた。


スカイダイビング

 その夜の暴走族捕獲作戦の再放送は視聴率が70%を超えた。30分足らずの番組であったが全国民のほとんどが視聴したと言えよう。家族ぐるみ、職場ぐるみの視聴が多かったようだ。宵の明星の強姦に始まるこの事件は被害者への同情と加害者への憎しみをたぎらした。テレビ局への電話、FAX一時不通となった。反響の大きさにYBCの役員職員の顔もほころぶ。
 朝昼晩とトークショーが組まれる。「いよいよ関ヶ原ならぬ青木ヶ原決戦の火蓋が切られるのしょうか。決死のスカイダイビングは決行されるのでしょうか。本日は暴走族に詳しい申方さん、ダイビングインストラクター飛魚さん、元警視庁捜査第一課長虎尾さんをお迎えしてお話をうかがってまいります。申方さんスカイダイビングは決行されますか」
 申方は元暴走族を想像させる。「やるでしょう。やらなきゃ恥の上塗り」「面目丸潰れでは暴走族の名が廃る」「ですな」「この場合生きて着地できる条件とは飛魚さん」「パラシュートとかの装備はないと仮定しますと50m以下でダイビングしないとむつかしいでしょうね」「それでもかなり加速するのでは」「3人が手を繋ぎ身体を延ばすと空気抵抗で減速することは考えられますね」「樹海の木の枝がクッションなることもありますか」「ありえますね、相当運が良ければの話ですが」

 高度が高いほど見応えがあるが死んでしまっては奪還の意味がなくなる。生かして捕えさせるには。「次に問題なのが彼らを誰がどのように運ぶのでしょうか。虎尾さん法的にはどうなりますか」「まあ自殺幇助罪ですかね。この際気にしないでおきましょう」「そうですね。あ、たった今ダイビングの時刻が告げられたそうです。何者かが午前11時に決行すると連絡してきたようです」「何者かはこの番組を観ているのでしょうね」
 中継車からの模様が流される。「こちら青木ヶ原です。暴走族が集結しております。また警視庁、山梨長野群馬埼玉県警も合同で機動隊を待機させています。その数は双方ともものすごいようですがここからは解りません」「はいこちら上空からの中継です。上空からも樹木が多くて解りません」「YBCでは30台のカメラを配置しておりますが、これからの展開をどう捉えることができるのでありましょうか。時刻は10時55分となりました。その時が近づいています」樹海の遊歩道には臨時の櫓が数か所建てられカメラが待機している。

【青木ヶ原周辺地図】
https://www.google.com.ph/maps/place/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E3%81%8C%E5%8E%9F%E6%A8%B9%E6%B5%B7/@35.4754083,138.6139569,12z/data=!4m2!3m1!1s0x601be721e9801e1f:0x7a006cea527d165f?hl=en

 河口湖西湖精進湖本栖湖の駐車場は暴走族に占拠されていた。一般車は近づかない、近づけない。警察側も国道21号300号358号線を中心に機動隊を待機させている。「こちらスタジオです、上空からの様子はどうですか」「それらしきものは見当たりませんね」「ヘリを櫓に寄ってみてください。地上との位置関係がお分かりいただけるでしょうか。時刻は10時59分を指しております」キャスターが興奮気味に伝える。YBCの中継機が櫓上空に近づく。

 地上カメラがヘリを映す。ドアが開かれる。宵の明星3人組が顔を見せる。慌ててヘリのカメラに切り替える。それは小刻みに震えていた。「しっかりカメラを回せ」「さあおめえら飛んでみろ。3人仲良く手をつなげ」「秒読み開始」「5.4.3.2.1.」「それえー」「飛んだ、飛んだ、飛んだ、」「回って、回って、回って」「格好つけやがって」「やればできるんだ」
 地上カメラが引きつったスカイダイビングの表情を捕える。思ったよりゆっくり落下しているように見えるが3人の髪の毛の揺れからその速度が画面に伝わってくる。上空カメラは樹海に沈む3人を捕えていた。

 スタジオも息を飲んでいた。生の映像は下手なナレーションを拒絶する。暴走族は落下地点を目指す。警察機動隊は道路を封鎖する。じわじわと追い詰めてゆく。暴走族の一人が櫓に登る。サバイバルナイフを突き付けてマイクを奪う。「我々は同志宵の明星を救出すべく人質作戦にかかる。所定位置につけ」暴走族もテレビ中継を予測していたのであろう。数か所でテレビ画面を看ていたようだ。
 近くの別荘が襲われる。テラスで珈琲を飲んでいた中年夫婦がナイフで脅される。これもテレビ中継される。隣の別荘も占拠される。「国民の生命を守るのが警察の仕事なら、道をあけろ。救急車を用意しろ」と櫓の暴走族がモニター画面を観ながら怒鳴る。
 救出された宵の明星3人は救急車で病院に搬送される。その前後を数台のバイクが挟んでいる。「さすが日本の警察だ。人命を第一に考えている。我々も宵の明星の生命が異常ないと確認された時点で人質を解放する」と櫓の暴走族が誇らしげに宣言した。

 しばらく停戦である。「大変なことになりましたね。今は病院の診断待ちですか」わかり切ったことを訊くなと言わんばかりに「彼らの要求がそうですから」と元警視庁の虎尾が答えた。馬鹿な奴ほど沈黙が怖いのだ。「あの高さからのダイビングで助かるでしょうか」「それも診断待ちですね」と飛魚が突き撥ねるように言った。  今は待つしかないのだがキャスターは何かしゃべらないと言う顔をしている。
美味すぎる話には毒がある。何かあるなと考える程なら暴走族などになっていないだろう。ニュース速報の字幕が流れる。「病院発表、スカイダイビングの3人は骨折などの重傷だが命に別状はない模様」次の展開が見当つくはずだが。警察の動きが上品すぎないか。

 暴走族が勝利宣言をして爆音を立てて凱旋しようとした時であった。またしてもラジコン機が襲ったのだ。それを合図にしていたかように別荘の人質は突き付けられたナイフを潜り暴走族をねじ伏せる。合気道有段者の囮捜査官であったのだ。ラジコン機から催涙ガスが浴びせられる。それは各閉鎖箇所で繰り広げられた。 
満を持した機動隊は一気に暴走族を捕獲してゆく。これが日本の警察かと思うほどあざやかである。精鋭の機動隊が派遣されていたのかも知れない。テレビ画面は視聴者の拍手喝采を警察の偉いさんの笑みを誘発していた。

 暴走族は壊滅的打撃を受ける。バイクを捨てて樹海に逃げ込んだ者も手を挙げて出るか死ぬまで樹海を彷徨するかの選択を迫られる。テレビ興業は大成功である。この再放送も莫大な収益をもたらした。

 
 秋の女よ
  
 香川健はデゥーク東郷を伴ってYBCを訪れた。鍋嶋常務は社長室に招き入れる。「社長の渡辺です」と紹介される。「渡辺でございます。この度はお世話になりました。営業利益も大きいのですが暴走族撲滅に一役買えましたことに感謝申し上げます。とかく商業主義、利益第一主義の今日、久しぶりに報道機関の社会的責任を果たせました」「株主総会の顔色を伺っている我々にも雇われママにも意地がありますからなあ」と寺嶋が相槌を打った。
 香川はゆっくりと社長室を見渡す。一つの課以上のスペース。絨毯の敷き詰められた社長室は平社員には雲の上の存在であろう。しかしこれとてY社グループの譜代大名に過ぎない。「これで寺嶋常務との取引を完了できたと考えております。御社のお力添えに感謝申し上げます。本日は2点ほどお願いがあって参りました」「是非伺いたいですな。先生のお話は福をもたらしてくれますから」「一つは南の島に暴走族サーキットを開催させること、一つは強姦殺人事件の被害者を主人公とした映画を公開すること、でございます」

 渡辺と寺嶋はほうっと言う顔をした。「詳しくお聞かせ願えますか」「暴走族を潰してゆくのは当面の課題ですが絶滅不可能でしょう」「ダニやゴキブリのように湧いてくる」「ええ、駆除できないものは大人しくさせるか、それなりの使い道を」「なるほど。南の島のお心当たりは」「素人考えですが、日本から近いこと騒音を気にしない国と条件に当てはまる島がございます。一度ご検討いただけませんか」「寺嶋さん面白いじゃないですか」「はあ、私もそう思います。早速スタッフを差し向けましょう」「若者に余る青春のエネルギーを発散させてやらないと可哀想だ。モーターカーメーカーも喜ぶのじゃないかないかな」寺嶋はそれを聴いて「先生、その島とは」と切り込む。香川は「フィリピンです」ときっぱり答える。
 寺嶋は「小野田少尉のおられたルバング島あたりですか」言いながら渡辺の顔色を観る。「悪くありませんが私はマリンドッケをお勧めします」「前向きで検討しますが先生の謝礼は」「お心次第です」渡辺もなかなかの男だという顔をした。「先生、映画のほうは当社が制作を」「いえ、放映していただきたいのです。15分程度の短編でしかも台詞なしですからスポンサーもつかないでしょう。放映料をお支払いします。あわせてカンヌ映画祭への出品の道をつけていただきたいのです」「無声映画ですか。懐かしいですな」「しかし映画の原点は映像、頂門の一針」「そのとおりですな。先生できるだけ早く返事させていただきます」

 香川が席を立とうとすると寺嶋が「昨日のスカイダイビングをさせた男たちは何者でしょうか。まあ、どうでもいいことですが」と鎌をかける。「さあ、私は寺嶋常務の差し金と思っておりましたが」「わからぬうちが花ですかな」「月光仮面のおじさんかも」「知れませんな」
 YBCを出て堀端を歩く。「東郷さん、連中は生きていようか」「病院の発表どおりでしょう」「ならいいのだが、佐藤オリエの気持ちを考えるとくたばっていてくれたらとも思う」「数日ではっきりするでしょう。内臓破裂、出血多量とか。警察には用済み、手間が省けるでしょう」「やはりね」東郷は(どうにもならぬことを悩む)矢野健のやさしさを感じた。

 その日は手形決済も終り、打ち上げとなった。香川健事務所、浪漫建設、国際警備企画、乙女の祈りの職員に東郷の紹介もする目的もあった。何時しか30人を超えた居た。組織が膨張するときは活気がある。「こうして美味い酒が飲めるのも島崎社長のおかげです」「島崎社長ありがとう」「こうして中野さんに会えたのも駒込先生のおかげです」(しらー)「駒込先生ありがとう」中野良子だけが唱和する。
 松崎敬子が立ち上がる。「今日は東郷さんの歓迎会でしょ。いちゃつくのは二人になってからにしなさい。では乾杯の音頭を香川先生にお願いします」「僭越ながら御指名により乾杯の音頭を、その前に東郷さんはかの大日本帝国海軍東郷司令長官のお孫さんに当たられるお方で」「先生若い衆も容れていいですかい」「いいとも、この座敷借切りだ。おい兄ちゃんずずうっと奥まで綺麗どころがそろっているだろう。茶髪、ここに座れ。であられるから売れ残りも流し目をするな。三歩下がって師の影を踏まずだ。それでは乾杯」「乾杯」
 しばらく飲んで食って盛り上がったところで「司会、主賓のお言葉はどうした」「はい、只今。それでは東郷元帥のお言葉をいただきます」(拍手)
「東郷です。皆様とご一緒に仕事ができますことは幸せです。よろしくお願いします」「きゃー素敵。抱かれてみたい」「私も」「何の仕事」「国際警備企画の顧問ですって」「私出向させてもらおう」「私も」

 二人は売り込みをかける。「吉良社長おひとつ。ああ、お流れくんなまし」
「姐さん売れっ子かい」「歌奴と申します。社長秘書など必要でございません」「私、経理得意です」「貴男も私も買われた命」「将を射んとすればですな」「島崎社長、あっしは馬ですかい」「そんなことはありません。時よ時節は変わろうとままよ 吉良の仁吉は男じゃないか」「そうですかい」

 吉良信介は改まった顔をして「当社は外人部隊を海外に派遣する計画です。希望者を募ります、ここは地の果てアルジェリア カスバの女のうす情け」これは受けた。大山力也はカラオケをセットする。
 国本が「大山君と中野さんのために心をこめて歌います」とマイクを握る。「谷の清水 汲みおうて ふと手を握る 恥ずかしさ 思い出の ああ 夢のひと時」大山は水を汲む仕草をして中野良子の手を握る。これまたやんやの喝采。「力也やったのか」「まだです」「一人娘とやるときは親の許しを得にゃならぬ」「良子さんのお母様の許しは得ました。今度の休み僕の両親の許しを得てきます」「どう言って」「僕の選んだ女性を観てください」
 香川健は立上がって「大山君ここに座りなさい」と指差す。「香川先生は終生を通じての恩人にあられます。香川先生ありがとうございます」「ほんとうね、愛のューピット」「でもおじん」「いいの、感謝の気持ちが大切よ」
 斉藤慶子が「私大山さん盗っちゃおうかしら」とからかう。「慶子に盗られるくらいなら 貴女殺していいですか」「いえいえ、それはなりませぬ」「松崎、司会は何している。今日は二人のお惚気会か」「申し訳ござりませぬ。私がいたらぬ故に。ここで主賓の東郷元帥のお声を聴かせていただきます」
 東郷はマイクを持って一礼する。「 I left my heart in San Francisco 」と歌いだした。歌奴は飛び出して行って顔を東郷の胸に沈める。いい声だ、女を酔わせるものを持っている。「デゥーク東郷、私を奪って」と熱いまなざしで見上げる。これまた拍手喝采。「国本社長、芸能プロダクションを作るか」「いいですね」「おい茶バツ1曲やれ」「俺だめっす」「そうか、では今日でお別れだな。吉良社長が目をかけていたのに残念だな」「期待してやしたがねえ」「歌います、歌いますよ。白樺青空南風 季節が都会ではわからないだろと 届いたおふくろの小さな包み」(合唱)「あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな」「いい声じゃねえか。一杯いけ。俺は吉良社長の兄貴分だぞ」「存じておりやす」「そうか、お前いい男だな。だがな、俺は茶髪が嫌いだ。真っ赤か緑にしろ」「いいじゃない、可愛いじゃない」「ああいう年増には気を付けろ。気立てが良くて器量のいい娘を探してやっから、茶バツはやめろ」

 松崎敬子が「先生飲み過ぎですよ」とたしなめる。「今日は吉良社長の奢りだ。どんどんやってくれ」「それはないでしょ。先生主催の歓迎会でしょうが」「仁吉、嫌とは言わせねえぞ。お前のお陰でピンからだ」「わかりやしたよ、全部持ちますよ」駒込直美は「ご馳走になります」と間髪入れずにすましている。「駒込先生まで」「香川を保護してあげるのよ。さあ先生かえりますよ、お客様に挨拶して」松崎敬子も支える。「俺は酔ってねえ」「はいはい、老兵は消え去るのみ。皆様お先に失礼します」「私も帰るけど歌奴みたいなふしだらするんじゃないよ」と松崎敬子が釘を刺した。


 マリンドケ島サーキット

 マリンドケに行くにはマニラから南に下り船で渡る。車で3時間位だからこの国では首都に近いと言えよう。周囲100キロほどの島は海岸線に人家が少し広がる程度で自然のままである。最近外国人が海岸線の土地を買占め値その上がりを待っている。
 ここでモータ-サーキットをやっても興行的収益は期待できるのかとの疑問がYBCでも上がったが渡辺の一言でともかくやってみようということになった。4日間の総合優勝1万ドル、各日優勝5000ドル、完走者100ドルの賞金が人気を呼んだ。参加者内訳は比680日本300台湾280以下中韓ベトナム、シンガポール等1300人近くとなった。
 YテレビY企画では「参加資格の暴走族の証明はどうするのでしょうね」といった冗談まで飛び出す。日本でチャーターしたフェリーでプサン上海台湾と参加者を拾ってゆく。地元メディアも派手に宣伝する。何しろフィリピン人はスピード狂爆音狂だ。

 初日は地元フィリピン勢が上位を独占した。でこぼこ道をものともせず突き進むのだ。外国勢は慎重にコースを頭に容れてゆく。初日のレースでフィリピン中が湧きかえった。完走者100ドル目当てにママチャリに安全運転もいるのだ。暴走族とは言えないとのブーイングが起こったが、そこは何でもありのフィリピン。さればチェックポイント通過時間を過ぎた者はオミット。「どうして駄目なのよ」との女性暴走族の抗議にも「規則が変わった」で片付ける。
 規則の後付もありなのだ。ちと可哀想と参加賞に日本製チョコレート。笑顔が浮かぶ。外国にもテレビ中継されたが参加国では相当反響があったようだ。2日目から外国勢が徐々に順位を上げてゆく。やはり日本勢が強い。4日間の総合優勝は日本だった。エンジン125cc以下とはいえ。バイクの性能が格段に違う。スピードの経験が違う。お義理で協賛した現地のホンダ、ヤマハ、カワサキ、イスズなども反響の大きさに驚く。
 フィリピン人にとって完走者の100ドルは参加費の数倍のボーナスとなった。初日優勝者は5000ドルを誇らしげに掲げた。総合優勝者のバイクを地元の金持ちが200万ペソ約400万円で譲ってくれと申し出た。新車の乗用車が購入できる値段だ。日本人優勝者はにべもなく断った。
 これがまた地元で評判となった。バイクが400万円以上するものか、と喚く者もいたがバイクは暴走族の命なのかは知ることができなかったようだ。が、興業は初めてにしては成功であったと言えよう。


 秋の女よ放映

 佐藤オリエの強姦被害を扱った『秋の女よ』の映画とテレビが公開された。わずか15分ほどの映画だが台詞は一切ない。主人公は佐藤オリエ本人が演じた。事件現場に野菊を手向ける女の回想として幼馴染の婚約者との思い出が画面に流れる。女が現場から立ち去るときに一瞬だけ顔がアップされる。その後姿が小さくなってゆくラストシーンは観る者の心を揺さぶる。

   泣き濡れて 秋の女(おみな)よ 汝(なれ)があゆみは一歩一歩
   愛する者から遠ざかる 泣き濡れて泣き濡れて

佐藤春夫の詩が引用された字幕が流れて映画は終わる。

 映画海外にも配給されたが字幕の部分だけに各訳語が付けられた。この映画はカンヌ映画祭の監督賞にノミネートされ、柴田瞳の名は全国に知れ渡る。

 香川こと矢野健は柴田瞳を伴ってYテレビの渡辺社長を訪ねる。「いやあ、参りましたね。この映画は映像が原点であることを思い出させてくれましたよ」とソファーを勧める。寺嶋常務と番組部長が呼ばれていた。国内テレビ放映はYグループとHグループとが競り合いYが5億円で落札した。スポンサーの広告は最後に企業名だけと言う条件を、日本を代表するグループが競い合ったのだ。「これは著作権料と次の作品の前渡金です」と番組部長が二億円の小切手を差し出した。
 驚く柴田瞳。「カンヌのグランプリが決まれば、監督は世界の柴田ですな」と寺嶋常務が胡麻をする。「海外配給分はその都度お支払いということで10か国分で20億の1割になりますが」と2億円の小切手を置いた。「一応受け取りにサインいただけますでしょうか」
 
 柴田瞳は別れ際に「先生へのお礼は」と尋ねた。「作品の成功が謝礼だ」と香川健は笑った。「一歩一歩、愛する者から遠ざかる」「まあ」


                      第三部 完

 第四部 関元 征助

                   第四部 関元 征助


前橋響子

前橋響子は恩師江藤淳に挨拶すべく東京芸術大学音楽部に向かっていた。小雨交じりの木枯らしが上野の森を吹いてゆく。国際音楽コンクール、チャイコフスキーコンクールで、ヴァイオリン部門1位なしの2位の快挙である。出場者の中では1位であっても優勝には値しない、今一ということらしい。その今一つ足りないものは何か、それを恩師に訊くべく急ぎ足で歩を進めていた。

秋の日は釣瓶落としというが森蔭には夕闇が迫っていた。その男はすれ違い様に後ろから響子の首を締めた。カチッとジャックナイフの音がして響子の腰にそれが突き付けられた。わずかな痛みが響子の恐怖感となり抵抗できない。
男は響子を車の後部座席に押し倒すとその両脚に腰を下ろした。男の重みで両脚はシートに沈む。車が10分ほど走ってマンションの地下駐車場に止まった。響子は黒いスカーフを頭に被せられる。エレベーターは3階で止まる。響子と二人の男はそこから2つ目の部屋に入った。

コートを脱ぐと響子は妖艶な美しさを放った。「これはいいや。音楽家か、ちょっと弾いてみろ」と一人が命じた。ストラディバリの中でも10本の指に数えられる名器だ。なぜこんな男の為に奏でるのかと響子は唇を噛みしめる。
いろんなポーズをさせられた。その都度写真が撮られる。とくにベッドに寝そべり長いか髪を拡げたポーズは何度もシャッターが切られた。フィルムが交換される。「すぐ現像だ」と一人が言った。「今度は裸でやってもらおうか」とカメラを構えている。響子が裸になると同じポーズを要求された。その順番も正確で衣服をつけた写真と寸分違わなかった。

響子がヴァイオリンをケースにしまうと男が睨んだ。「暖房は楽器に悪いのです」と響子が叫んだ。と言っても声がかすれていた。「さすが音楽家。おい焼き増しはまだか」「引き延ばしていますから」「時間かかるな、今度はお前を弾いてやる」響子は身をすくめる。「シャワー浴びて来い」と男は楽器を見やる。響子は観念した。
男はバスタブから響子を観ている。「前もよく洗え、舐めてやるから」と命じる。響子は従うほかなかった。それから男はベッドで響子を執拗に攻める。しかし響子は声を上げそうになる、屈辱である。「そろそろ濡れてきたかな」男の舌が響子の性器を舐めてゆく。「感応もいいな。これを差し込んでやるから観ておけ」と男は男根を響子の顔に近づけた。

響子が顔をそむける。男は響子を膝の上に乗せ、ゆっくりと侵入を開始した。「これが棒イングだ。アップ、ダウン」とヴァイオリン弾く仕草をする。男はベッドに背中をつけると「何か弾いてみろ、楽器がいるか」と笑った。響子は命じられるがままヴァイオリンを手にした恰好で弾く。肉体は意思を無視して勝手に動き出す。「これは名器だ」

前橋貞三宅を男が訪れた。応対に出た妻は「いくら欲しいのです」とヒステリックに言った。「出版社からは3億の申し出がありました」「で娘は」「元気にしておられますよ。まあ置いておきますからご検討してください」と男は返って行った。それは前橋響子の着衣と裸の写真集であった。
夜になって男から電話があった。前橋貞三は「5、5億だそう」とどもりながら答えた。「では明日いただきに上がります」「娘は、響子は」「ほら、ヴァイオリンを弾いておられますよ。明日10時に参ります」と男は電話を切った。
前橋夫婦は警察に届けるべきかで喧嘩となった。脅しに一度屈すると何度でも要求してくると貞三は言った。四菱銀行の頭取の地位、娘の名声からして今は言われるままに払うしかないと妻の松子は眉を吊り上げる。娘の身は二の次である。こうした両親の姿勢は子供にも伝わる。親の背中を観て育つ。

翌日男は10時かっきりにやってきた。5億の銀行振出の小切手を胸にしまいながら「こちらのほうもご検討ください」と前橋響子が犯されている写真を置いた。「ではまた」と男は前橋邸を出る。そこに刑事が二人待っていた。「署まで来てもらおうか」と男の肩を叩いた。「なんの御用でしょうか、警察を呼びますよ」「それには及ばない。警察の者だ。恐喝容疑で逮捕する」男はにんまり笑った。「最近警察も民事取引に介入するようになりましたか。逮捕令状はお持ちでしょうね」刑事がひるむ。「警察手帳を見せて頂きましょう」と手帳を取り上げ写真と顔を見比べる。さらにそれを刑事の胸に押し当てる。写真のシャッターが切られる。
男は手を振って立ち去る。歯軋りする刑事。半時間後に男から前橋宅に電話があった。「週刊スキャンダルから6億の申し出がありましたので」「7億で買おう」「他の週刊誌も関心があるようです」「10億でどうだ」男は「では明日10時に参ります」と電話を切る。
翌日も男は10時にやって来た。小切手を受け取ると「これは差し上げますから後でご覧になってください」と席を立った。警察手帳を胸に押し当てられた刑事の写真とビデオテープが置かれていた。『私の心はヴァイオリン』と題されたテープは前橋響子が犯される様子を生々しく映していた。

香川健は鬼頭善之助から冬薔薇で会いたいとの連絡を受けた。店の小ママが長谷川冴子に連絡してきたのだ。香川健こと矢野は四菱重工専務鬼頭善之助に打ちのめされたことがある。下田康介強姦事件の時だ。男として、人間大きさが違うのだ。会わないわけにはゆくまいと腹を括った。
その日は長谷川冴子も早めに冬薔薇に出ていた。隅のボックスを予約席としていた。矢野がデユーク東郷を伴って冬薔薇に入るとママの長谷川冴子が予約席に案内する。鬼頭善之助は深々と頭を下げる。前橋響子の写真を見せて「この二人を始末していただきたい」と小さな声で言った。矢野はしばらく鬼頭をみつめる。「始末は捕獲してからご相談したいと存じます。必ず捕まえて見せましょう」鬼頭はほっとした顔で「前渡金です」と5億の小切手を差し出す。
矢野は一瞬ためらったが「お預かりします」ときっぱり言った。「一度ハンブルグ市長を紹介したいのですが」と矢野が話を変える。「それは是非」と鬼頭が答える。「ドイツ大使館からパーティーの招待状が届くと思いますので」と矢野は席を立った。

早速浪漫建設の会議室に国本吉良も集められた。写真、ビデオを検討したが犯人捕獲の手掛りにはならない。「これはプロ写真ですからあの映画監督に観て貰ったらどうでしょう」島崎社長が言った。矢野は島崎が言い終わらぬうちに柴田瞳に電話する。すぐにゆくと柴田瞳は答えた。
矢野は事件をボードに書き出す。
1被害者 前橋響子25?女流ヴァイオリニスト、行方不明
2日 時 11月19日推定、撮影年月日の同日
3場 所 上野公園付近で拉致?芸大の江藤淳教授を訪ねる
     途中某所で強姦される。
4加害者 2名?ビデオ撮影
5要求額 着衣裸体5億、レイプシーン10億、ビデオ不明
     鬼頭善之助メモによる
「現時点の手掛りはこれ位だ」「あとは小切手の現金かですか。写真家だと小切手に詳しくないでしょう」しかしこれだけでは加害者の探しようがない。

 虚しくボードを見つめているところに柴田瞳が駆けつけて来た。写真を見るなり「誰だったけ」と言った。「この撮影の仕方どこかで観たのだけど」餅は餅屋、プロになると撮影にも個性が出るらしい。つづいてレイプシーン。「この男見たことがある。顔は映ってない」一同柴田瞳をみつめる。
それではとビデオを見せる。「止めて、巻き戻して」柴田瞳は目をつぶる。テープが再生される。「この声、そう、関元 征助」と叫んだ。初めて聞く名だ。関元征助は柴田瞳と同期で今は映画の助監督をしているそうだ。これで突破口が開けた。「私が誘き出してあげる。でもガードしてよ」「神様仏様柴田様だ」と矢野は柴田瞳の手を握りしめる。「カンヌのお礼よ」「監督サインして」加害者に関元征助と記入される。「もう一人も顔を見れば思い出すわ。きっと」「サンキューベリーマッチ晩飯おごるよ」「でも女一人では」「畏れ多くも世界的映画監督に手を出す者がありましょうや」

その夜も翡翠となった。「仁吉、次は瓢にするからよ機嫌直せ」「別に気にしてませんよ」「ならいいけど。監督授賞式はいつですか」「まだ決まったわけではないのよ」「今日は前祝といこう」「こちらは」「デューク東郷」「ゴルゴ13」「そう、国際警備企画の顧問をお願いしている」「ジェームスボンドみたい。
今度映画を撮るとき貸してくれる」「それは、吉良社長に」「あら、嫌ならいいのよ」「まあ、グランプリの前祝にぐっといきましょ。ね、監督」「香川先生でも頭が上がらないのだ」「社長、最近は駒込先生、松崎さんにも抑えられていますが」「仁吉、お前はどうして口が軽い。お前のせいだろが。今日はお前が持て。さあさあ、監督吉良社長の奢りだ。がんがんやって」
話が鬼頭善之助に及ぶと「そんな男に会ってみたい。女は、あああ~強い男に抱かれるの」Wind is blowing from ager ! と東郷も歌う。「おや、お安くないないな」「先生、初めて会ったその日から恋に落ちることもあるですよ」「縁は異なもの味なものとくらあ、さあやってくだせえ」「逢わなきゃよかった今夜の貴男にならないかしら」「チークダンスの悩ましさ」と国本までが歌いだす。「東郷、なんとか言えよ」「監督の前では声もでません」

 柴田瞳は関元征助を食事に誘った。今度も瓢でなく翡翠が使われた。「久しぶり、元気」「ああ。カンヌに行くんだって」「バイトと思って暴走族を撮っていたら瓢箪から駒よ」「一躍有名監督だな」「今度ね殺し屋の映画をつくろうと思っているの。手伝ってくれない」「せっかくだが仕事が込んでいるから」「そう、男の世界は女にはわからないことが多くて」
関元征助の見栄であろう。助監督の声もめったにかからない。柴田瞳を見る眼は憎しみが光っていた。これは矢野の感であった。関元征助は嫉妬心の強い男でないかと言ったがその洞察力に柴田瞳は感心した。関元を酔い潰そうと酒を勧める。心が荒むと酒も早い。柴田瞳の手を握った。「何するのよ」と柴田は笑ってその手を払う。「世界的監督を犯すのも乙なものだぜ」と押し倒した。「やめて」「静かにしろ」とスカートに手を掛ける。

東郷が「カット」と言いながら関元の手を捩じ上げた。カメラマンは山本浩。関元征助は直ちに『乙女の祈り』移送される。「前橋響子から聞かしてもらおうか」と国本が尋問を始める。「通りすがりに高慢ちきな女と思った」「それで」「人を見下した目が許せなかった」「それは言えるかもな」「高慢ちきな鼻をへし折ってやろうと思った」「いるんだよな、そういうの」
国本もなかなかである。「写真とビデオは」「口封じだ」「なるほど。警察にたれ込んだらビデオをAD販売するぞ、か、考えたな。で揺すったのは」「国際的ヴァイオリニスト、父親は四菱銀行頭取とくれば」「誰にも思いつくか」「ああ」「今彼女何処にいる。案内してくれるかな」「俺のマンションだ」「住所を教えて」国本は書き取って吉良に渡す。「額は」「5億」「すげえ」「レイプは10億だ」「たまげた、俺も入れてくれるか」

矢野と東郷は島田博子を拾ってマンションに急行する。「関本さんの使いの者です」と島田博子がドアフォンで話しかける。中から男が「関本さんの。何の用だい」とドアを開いたところに東郷の空手が首筋に打ち下ろされる。中には前橋響子が裸で転がされていた。「さあ」と島田博子が水を飲ます。「病院へ行きましょ」と助け起こす。
前橋響子は衣服をつけると男に唾を吐いた。つづいて駆けつけて来た吉良と子分たちに前橋響子を任せてマンション内を見て回る。奥の部屋は現像室に使われていた。書架には写真とビデオが整然と並んでいた。強姦の歴史を誇示するものとも思われた。

『乙女の祈り』に男を連行した。マンションのキーと運転免許証は取り上げてある。程なく前橋響子が帰って来た。膣内を洗浄したが避妊剤の効果は72時間以内でないと期待できないそうだ。妊娠反応はでなかったが正確な診断はでないとのことだ。二人の男の面通しをした。前橋響子ははっきりとうなづいたが、はっと気づいて「私のヴァイオリン、ストラディバリ」と叫んだ。
 矢野は鬼頭善之助に電話を入れる。「犯人を確保しました。響子さんと代わります」「おじさん」「響子か。よかった。その人は信頼できるからすべてを委ねなさい。いいね」「わかりました」と受話器を置く。「腹減ったな。何か食おう」矢野が言った。「いい店があります」と島田博子。矢野が吉良を指差す。
 しかし吉良が電話を入れると生憎瓢は混んでいた。それで島田博子のお勧めの神田の旅館風のすき焼きに決まった。前橋響子はこの数日間ろくなものを食っていなかったであろう。柔らかい牛肉と野菜が食欲をそそる。「こういう落ち着いた店が東京にあったのか」「先生、本当は秘密にしておきたかったのだけど松崎さん誘った方がいいですよ」「ここへ。いいな。酒が美味い」九州の酒で特別な店でないと手に入らないそうだ。「先生は女心に疎いから教えて差し上げました」「お心遣いかたじけなく存じます」「先生、女には食事と買い物ですねえ。おっとその道の大家に失礼なことを」「国本社長お前はどうなんだ」「それなりに」
事件の話をしないのは前橋響子への思いやりであろう。響子は人心地がついたのか「ほんと美味しい」と箸をやすめた。一安心である。「食事ってこんなに楽しいものですか」「人生の最大の喜びは美味いものを食うことだ。その次は惚れた女とHすることだ」「体験者の言には重みがありますねえ」


処刑「死の恐怖」撮影

翌日、鬼頭善之助が香川の事務所を訪ねて来た。日本のフラッグカンパニーの専務が行政書士を訪ねることは有り得ないことである。考えてみれば四菱重工は道を挟んで向かいででもある。しかし香川こと矢野は鬼頭善之助の人間大きさに圧倒されるのであった。これは男の勝負だと深呼吸して立ち上がる。
個室の応接室に通すと「呼ぶまで誰も入れるな」と駒込直美に命じた。鬼頭善之助は「まっこと有難うございました」と一礼した。「(貴男との)勝負はこれからで御座います。処刑の変更をお願いしたいのです」「と言いますと」「死は 一瞬です。死の恐怖は死よりも恐ろしいと考えます」鬼頭善之助は目を瞑って考えてから「貴男に委ねましょう」と言った。雇用と委任の違いは信頼にある。雇用は言われたことをやればいいが委任は本人の期待以上の成果を出さなくてはならない。人を殺めることは矢野の主義に反するのであるが依頼目的を変えることは債務の本旨に従っていない。鬼頭は矢野の苦衷を察したかのように「綺麗なお嬢さんですな」と駒込直美の写真を見上げた。

矢野は柴田瞳にドキュメンタリー映画の作成を依頼する。「これは強姦の悲惨さ訴えることができるが被害者の名誉、一生を傷つけることにもなりかねない」柴田瞳は関元征助の撮影した写真とビデオをみつめてから「やるわ」と答えた。「注文をつけていいか」「どうぞ」「音楽は前橋響子のクロイチェルソナタ。関元征助に全被害者名を告白させるシーンを入れる。場所は岩の上だ。潮が満ちてくる。迫りくる死の恐怖は死そのものより恐ろしい」
柴田瞳はにっこり笑った。「面白いアイディアね。使わせてもらうわ。問題は編集場所ね、被害者の名誉を考えると」「うってつけの場所がある。一緒に来ないか」矢野は前橋響子を連れて関元のマンションに向かう。「こちら柴田瞳監督だ」響子が会釈した。「こちらは前橋響子、チャイコフスキーコンクール準優勝者だ」柴田瞳は「貴女の演奏、技術的には完璧だけど何か足りないのだな。ごめんなさい素人が」「いえ、自分でもそう思います。その何かがわかればいいのですが」「そこが芸のむずかしいところね」


矢野ヴィヴァルディ合奏団

マンションに入ると響子はヴァイオリンを見つけてケースを開く。「ちょっと弾いていてくれ」と柴田に書架と現像室を見せる。「スタッフがいるのだけど」「なに、関元が海外旅行に出ているので使っていると言えばいい。家賃を払えば大家も文句は言うまい」「そうね。ここなら泊まり込みもできる」
帰りに管理人に挨拶する。「前橋さんバイトしないか。うちの子に音楽を教えてくれたら3食昼寝付き月1万で」「いいですよ」と契約成立。柴田瞳はスタッフと打ち合わせがあると途中下車した。前橋響子は驚いた。30人ものこどもがわっと集まって来たのだ。矢野を取り囲んでわいわいがやがや。
モニカが驚いて出てくる。「前橋響子さんだ。こどもに音楽を教えて頂く」「そうですか。よろしくお願いします。みんな先生に挨拶しろ」「モニカさん、挨拶しましょう」「そうか、みんな挨拶しましょう。せーの」「おねがいしまあす」「グートゥ、御行儀よくするのだぞ」「あのう、全部矢野さんのお子さんですか」「ええ、あと4人おります」「まあ」響子は声がつづかない。
日本語は単数と複数の区別が明確でないからこどもに音楽をと言ってもまちがいではない。「あなた、パパとママが今日来ることになった。成田一緒にいってくれる」「参ります、愛しの妻奥様モニカ様」「タケシ、いい男だねえ」どうやら直美の母親に感化されたようだ。

 前橋響子はこどもたちにストラディバリを見せた。「きれい」こどもたちは目を輝かす。ストラディバリは力強くきらめく音で有名だが見た目にも美しい。ガルネリとなると芸術品だ。「弾かせてもらえますか」と矢野が頼んだ。
矢野は恐る恐る名器を見つめて意を決したように肩に載せた。顎で挟む。他の楽器には見られない持ち方だ。音階を弾いてこどもの頃の記憶を呼び戻す。ヴィヴァルディのヴァイオリンコンチェルト、イ短調の出足を弾いてみた。拙い演奏ではあるが地中海にきらめく太陽の音がする。
第1楽章を弾き終えると「おとうさん上手」とこどもたちが喜ぶ。矢野もうれしそうな顔をしている。「健、ブラームスを弾いてくれ」モニカの男言葉が出る。子守唄を弾くとこどもたちは北訛りのドイツ語で歌う。ドイツも北と南では父をファーテル、ファーターとそれぞれ発音する連邦国家なのだ。

素人は音楽を楽しむことができると前橋響子は思った。もの心ついた頃からコンクール優勝を目指して練習の日々であった。父母のぬくもりを感じたことはなかった。「さあ今度は前橋先生に弾いていただくからね」と矢野がストラディバリを手渡す。
前橋響子がヴァイオリンを構えて弓を弦につけようとした瞬間、拍手が起こった。こどもたちは何を感じたのであろう。矢野は、武原はんの地唄舞を一度だけ見たことがあったの。国立劇場の舞台に立っただけで観衆を惹きつけた。ゆっくりした舞はどの部分も絵になる。
前橋響子はにっこり笑ってモンティーのチャルダッシュを弾き始めた。こどもたちの目が輝く。速いパッセージでは身体を動かし踊りだす。世界各地を放浪するラマの音楽らしいがどこか東洋的であり垢抜けしている。「お父さんより上手どうして」「プロだから。みんなヴァイオリンを習うか」「は~い」

思い立ったら実行するのが矢野流だ。「前橋先生、矢野ヴィヴァルディ合奏団の音楽監督もお願いします」「ええ?」「団員はこのこらです。モニカ、ここに野外ステージを造るぞ。屋根はドーム型、風船をふくらます」「ここだと観客は首が痛くなるぞタケシ」「じゃああっちにするか」
矢野は2万坪の敷地に4所帯共同住宅に住んでいる。さらに来客用に16戸前のマンションにも個室を持っている。その後、所帯主香川京子、谷和子、矢野モニカ、駒込直美、松崎敬子、長谷川冴子と相談したが、結局、芸大の美術部建築学科に設計を依頼した。
矢野ヴィヴァルディ合奏団は乳飲み子から10歳までの26名の楽団員であるから音楽教室の非常勤講師3名をバイトで雇った。ヴァイオリンは楽器を構えることも難しいが特に調弦が難しい。中にはバイトではなく専属の講師を希望する者まで出てくるのであった。


映画「死の恐怖」放映

映画は関元征助に全被害者名を告白させるシーンで終わる。そのロケは太平洋の荒波が洗う岩場で行われた。潮が満ちるにつれ実際に関元は何度も波に去らわれた。迫りくる死の恐怖をカメラは鮮明にとらえていた。ついに関元征助は気を失ってしまった。腰に透明のビニールロープを巻き付け、波にさらわれる度クレーンで引き上げた。
釣り人も映画のロケと気に掛けなかったようだ。問題は関元の撮影したレイプ映像をそのまま使うこと、被害者名を実名で告白させることである。被害者全員の同意を得られるか。試写会に全員を招待した。柴田瞳の名は「秋の女よ」カンヌ映画祭の監督賞によって知れ渡っていた。「私は強姦に対する怒りに突き動かされてこの映画を製作しました。失われた時は戻りませんが女の敵、強姦魔撲滅にお役にたてばと願っております」と挨拶した。
つづいて前橋響子が現れた。映画の中で使われたベートーベンのクロイチェルソナタを弾き始める。その迫力は胸に迫る。被害者は忌まわしい出来事を洗い流してくれる気がした。

映画は三つのレイプシーンと回想シーンと『秋の女よ』の手法がとられていた。被害者はどのような気持ちで映画を見ているのであろうか。ラストシーンは自分の名前も出てくるが関元征助の死の恐怖におびえる姿に恨みが晴れる思いがした。映画が終わると沈黙が会場を支配した。再び柴田瞳と前橋響子が現れると拍手が沸き起こった。「是非公開してください」と叫ぶ被害者もいた。 
二人はビデオ版にサインして一人一人に手渡した。被害者も二人の手を握りしめた。二人の心は被害者たちに通じたのだ。魂の叫びは人の魂を揺り動かす。芸術とは魂の叫びなのだ。

映画の公開の前にテレビ版が放映された。映画の観客動員数が減ることが危惧されたが、映画の大画面を観ようと観客が集まる。すでに映画は斜陽産業になっていたがこの映画は空前のヒットとなり全国の映画館に配信された。YBCには再放送の依頼が殺到した。

矢野と柴田瞳はYBCに呼ばれた。渡辺社長、寺嶋常務、制作部長のほかにも柴田瞳を見ようと多くの社員が集まった。「監督、カンヌ映画祭ならびに今回の作品おめでとうございます。ラストシーンの撮影は大変だったでしょう」
「一番苦労したのは録音ですね。波音が高いでしょう。マイクの位置が大変でした」「監督にお聞きしたい者は手を挙げろ」若い社員が手を挙げた。「私は音楽を担当しておりますがあのクロイチェルソナタはすごかったですね」「そうなの。私前橋さんに真剣を突き付けられた感じだったわ。魂の叫び、彼女は音で表現してきた。私は映像で立ち向かったの」
 社長室に場所を変えた。「魂の叫びですか」渡辺がさも感じ入ったように言った。「我々もスポンサーの顔色を見ないで制作できればと思いますな」「寺嶋君それは全員同じだよ。しかし香川先生の企画力素晴らしいですなあ」「素人
の思い付きですよ」「今回も海外メディアからオファーがありますが前回と同じで」「そうしてください」「ありがとうございます。監督、これは『秋の女よ』の海外分です、こちらは今回の著作権料です」と2億と3億の小切手がテーブルに置かれた。「そんなあ、前回過分にいただいておりますのに」

 その夜、矢野は柴田瞳と東郷を伴って冬薔薇に出かけた。鬼頭善之助の招きである。「この度は御意に反して勝手なことを致しました」「何の、まっこと見事で、期待以上の満足をさせてもろうたきに」「こちらは柴田監督」「それはそれは。カンヌ映画祭おめでとうございます。今回の映画も誠に見事でございました」「恐れ入ります」「こちら東郷元帥のお孫さんで」「おう東郷元帥、尊敬しちょります」「東郷です」
鬼頭善之助は機嫌がいいらしくお国ことばが混じる。「ところで二人は」「さあ」と矢野は下を向く。二人はフィリピンの小さな島で土人の施しを受ける生活をしていた。「まあ日本にはおれんじゃろ」「失礼します」と長谷川冴子が和服で近づいた。「おう。ママ今日は一段と綺麗がや」「まあ、専務がお上手を。この人専務の前では緊張するようです」「この人ねえ?そうそう、これは些少ながらお礼の気持ちです」と5億の小切手。「身に余るお言葉とご褒美、謹んで頂戴仕りますきに」
冴子が笑った。矢野が上がっているのは他の同席者にもわかった。「今夜の酒は美味い。わしも若い愛人持とうかの。常務時代はイエスマンが可愛かったが今は頼りになる男が欲しい」「阪急の上田監督が同じことを言われてました」と柴田瞳が口を開いた。「そうですか。名監督にしても。海南のご出身でしたな」「3番の加藤は2軍を首になるところを上田監督が1軍に引き取ったようです」「それは面白い」「とにかくみんなと一緒に練習しないそうでした」
鬼頭善之助の眼が光った。「日本社会は共同が得意じゃきに」「単純労働は共同でいいのですが創作となると個性、才能が必要です」「まっこと。それを引き出すのが監督のお仕事」「私はまだ駆出しですが上田監督のお気持ちわかる
気がします。ここ一番何とかしてくれと思ったとき加藤は期待を裏切らなかったそうです」「う~ん。私にもわかるな。結果が出せる男だ。社長は孤独だからな。取締役会は議決機関だが責任は社長に押し付ける」「雇われ社長でもですか」「香川先生らしい。オーナー社長などいますかな、株式会社の宿命でしょう」「上場企業では皆無に近いでしょうね」


 大使館パーティー

その日は、前橋響子、柴田瞳、モニカと両親、鬼頭善之助、香川健、東郷平四郎も大使館パーティーに招待された。大使夫妻は入口で来賓を迎える。パーティーと言っても開会の辞などはない。「みんな乾杯しようぜ」とモニカが壇上に立つ。「それがしラインの歌姫ことモニカにて候。これなるは我が夫にて矢野、父ハンス、母マリオン、ヴァイオリニスト前橋、映画監督柴田瞳。次なるはイオツビシ重工鬼頭ゼンノスケ、して東郷元帥の孫だ。わかったか」

モニカは会場を見渡す。「さあ歌うぞ俺について来い」大使が通訳する。「あげよいざ盃を。元気出して歌え、もう一度」「よし、次。我が友に」「いいぞ。さあちあれ」「みんな盃を持ったか。今度は全部通して歌ったら乾杯だ。いくぞお」全員で合唱、これが結構うけた。
調子に乗ったモニカは「各々方、大使の奢りだ。遠慮せずやってくれ」と盃を上げる。「モニカいい加減にしろ」と香川こと矢野がたしなめる。「いいじゃん」「亭主にその言種は、手打ちに致す。そこに直れ」「やってもらおうじゃない。さあ好きにして」大使館にはふさわしくない会話である(爆笑)。
モニカは黄金の髪を漉きはじめる。「なじかはしらねど」といい声を出す。日独後の斉唱が起こった。矢野も刀を櫓に見立てて漕ぐ手を休める。「入日に山々赤く映ゆる」で矢野は川面に沈みゆく船頭を演じる。「どうだ、参ったか」「お見苦しい場面を見せておりますが嫁の両親の面前では教育もままならず、心中お察しくだされ」(大拍手)「これは私がものにした夫だ」「もう許せん、離縁申し渡す」開場がシンとなる。
  モニカ「私が貴男に惚れたのは ちょうど19の春でした 
       今更離縁と言うならば 元の19にしておくれ」
  矢 野「元の19にするならば 庭の枯れ木を観てごらん 
       枯れ木に花が咲いたなら 焼いた子豚も踊りだす」

これを機に会場は大いに盛り上がった。次々とモニカの下を訪れる。柴田瞳、前橋響子は超有名。四菱重工は日本を代表する企業だ。人の流れはここに向かって来ては去ってゆく。大使はフンボルトとモニカの父の手を握る。フンボルトはシュバイツァーと握り返す。ふたりは幼馴染の悪友だったようだ。大使はひとりひとりと話をしていったが鬼頭善之助にはとくに敬意を持って接した。同盟国日本の、そしてゼロ戦の栄光はドイツ人にはしっかと記憶されているのだ。もはや戦後は終ったと自国の歴史を忘れ去るのとは大違いだ。
前橋響子が演台に立つと声が止む。チャイコフスキーコンクール準優勝者であることは知られていた。クロイチェルソナタの伴奏はハンブルグ市長夫人すなわちモニカの母マリオンが務める。柴田瞳の映画の為に何度も弾いた曲だ。芸術は魂の叫びと念じてベートーベンと対話する。見果てぬ夢に悩み苦しみながらも力強くさらに大きな夢を追い求めた作曲者との対話は響子を勇気づけた。順位など忘れた演奏は聴く者の心に入ってゆく。
歓声と拍手は鳴り止まなかった。今度は筝の前奏が始まり春の海が演奏される。のどかな瀬戸内海が広がる。自然とたわむれる日本人の心がいかんなく表現される。中野恵子は日本を代表する奏者である。若きヴァイオリニストを包み込む。海にきらめく春の日がやがて海に沈んでゆく光景が聴く者の目に浮かんでくる。大使館会場は演奏が終わっても春の海の中にいた。


                         第四部 完

第五部 吉永小百合

                   第五部 吉永小百合



強姦か恋ゆえか

関本精児は少し変わっていた。よく言えば一途、である。取り調べに対し素直に応じる。その態度にけれんみは無かった。乙女の祈りの面々も持て余し気味であった。事件の概要は次のようなものであった。
1日時:昭和55年12月8日午前1時頃
2場所:東京都南青山一丁目10番908号(南青山マンション、被害者宅)
3被害者:吉永小百合22歳、桐朋学園大学音楽部ピアノ科4年
4加害者:関本精児23歳、同上
5状況:被害前日卒業演奏会の打ち合わせと忘年会を兼ねた同科の集まりの後、被害者の部屋が見たいという関本の求めでこれを受け容れ、吉永の部屋で音楽論を闘わすうちに深夜におよび突然関本が吉永をベッドに押し倒した。
 駒込直美は香川健に相談したが「被害者はどうしたいのかはっきりしない以上事件とは言えないのじゃないか」とそっけない。乙女の祈りも慈善事業でないので契約金成功報酬を取決めないことには動けない。金にもなりそうにないからホッテおくべきとの結論は当然であると駒込直美も思うのだがどうも気になる。吉永小百合のどうしたらいいのといった少女のような顔が脳裏から離れないのだ。他方、関本精児の惚れた女をものにすることが罪ならどんな罰でも受けようと言い放ったことも直美の胸に突き刺さっていたのだ。

 直美は香川京子と谷和子に相談した。「その男純粋なのよ、いいんじゃない男らしくて」「でも吉永さん本当にどうしていいのかわからないのよ」と京子と和子の評価は分かれた。「箱入り娘はまず母親に相談すべきね」「それができないから直美さんの所に来たんやわ」「そうなんです。本当にどうしていいかわからない様子でした。音大生なんて高慢ちきで自己主張が強いと思っていましたがあどけなさが残る娘さんなんです。お母さんに相談するよう話してみます」直美はほっとした表情を見せた。「直美さんも彼女のこと親身になって考えて上げるのね、あなたはやさしいのね」
それからは京子和子直美モニカ敬子冴子の女たちは土曜日の午後の紅茶を楽しみながら吉永小百合の話をした。「22歳もなって自分の考えが言えないのは馬鹿だよ」「モニカそんなふうに人を決めつけても問題は解決せんよ。彼女の身になって考えてあげんと」「それはそうね、批判は簡単だけど彼女ができる方法を考えてあげないといけないわね」「すみませぬ、京子」「謝るなら和子さんにでしょ」「申し訳ない」「モニカの男言葉治さないとね」「でもうらやましいわ」冴子の言葉に沈黙する。冴子は親の愛情をあまり受けずに育ったのだ。
その日の結論は吉永小百合の家庭環境、音大での様子などを調べて次回に検討するということになった。「でも関本精児のほうも調べた方がいいんじゃない」「そうなんだけど敬子予算が」「乙女の祈りでもってもらったら」「あしこは金にならないと乗って来ないわ」「なら私たちの道楽でやってみない。そうだ若きピアニストたちの愛と性と題してドキュメンタリー映画はどう」「面白そう、でも小柴さんに頼むとなると」「和子、小柴監督も引きずり込むのよ」「なるほど安く上がるか、できあがったらどこかに売りつける」主婦はしっかりしている。


遺産相続

香川健は声を荒げた。「交通費が増えているのは何故かと訊いている。お前何か隠しているな」直美は震えた。どうして気づいたのだろうと思った。「隠し事は良くないな、裸にひんむいてやろうか」行政書士事務所らしからぬ会話である。直美は松崎敬子に救いを求めた。「さすが香川先生ね、直美私がバラシタことにしてあげる。でも秘密って楽しいから反撃に出るのよ」
二人は事務所の交際費を調べた。冬薔薇の領収証を見つけた。20万円といえば行政書士事務所には分不相応な出費である。コピーをとって冴子に迫る。「わかったわ、仕事の秘密は厳守だけど今回は特別よ。女の団結を示すための」その夜は鬼頭善之助の予約でブラジル在住日本人山之内和豊と訪れた。客はドイツ大使と香川健であった。山之内は子供の頃ブラジルに渡り前人未到の地を開拓して一財産を築いたが半分は祖国日本に残したいというのが依頼内容であった。しかも関本精児に相続させたいという。
運命のいたずらか。関本は山之内の妹の子であった。叔父と甥の関係だが未だあったことはないそうだ。この面会のお膳立てと財産管理が香川健の仕事となった。そこで香川が冬薔薇を持ったのである。鬼頭は律儀な男だから幼馴染の接待を交際費で落とすような真似はしない。「まっこと、おおきに」「今度土佐の鰹をご馳走してください」「なつかしいのう」と山之内がしみじみと言った。「今度の日曜日音大生を家に招待しますのでお二方も是非」鬼頭は健の意図を理解した。

日曜日は前橋響子の公開レッスンがあると聞いて近所の人が集まって来た。矢野オーケストラは腕を上げていた。今回の目玉はヴィヴァルディの四季である。ヴィオラとチェロは音楽教師が担当した。ソロは勿論前橋響子だ。演奏もさることながら子供たちの生き生きとした表情が素晴らしい。近所の子もオケに加わりたいと言うので数人を受け容れている。
問題は楽器代、講師謝礼等の親の負担だ。和子京子モニカが相談して月千円とした。親は気を使って子供らのステージ衣装を寄付した。一軒当たり数万円の出費だが女は衣装には糸目を付けないようだ。
音大生は自分の一番好きな曲を演奏した。普段着の演奏は聴衆を心から楽しませた。関本精児のリスト愛の夢、吉永小百合のエリーゼの為に、滝本幸次の亜麻色の髪の乙女、いずれも自分が好きなだけにいい演奏である。どこで聞きつけたのかYBCが取材を申し込んできた。ギャラを払うというと前橋響子は快く応じた。「そうですね、関本さんは自分を打ち出していますからいい音楽家になるでしょう。吉永さんは自分が何が言いたいのかをつかめばあれだけの演奏技術がいっそう輝くでしょうね。滝本さんは既に自分の芸域を確立していますが魂の叫びが欲しいですね。でも三人ともいいものを持っているからこれからが楽しみです」

前橋響子は何も事情を知らないが三人を的確にとらえていると香川健は思った。今回の目的は山之内和豊を関本精児に引き合わすことだ。和豊は70年ぶりの帰国だ。当時の妹は生後間もない精児を抱えていたので日本に残されたのだ。和豊は幼い妹を憶えていない。戸籍簿によって二人の関係は確認されているが本人たちがどう感じるかは別の問題であろう。精児の方は叔父の存在自体を知っているかどうか、考えれば血縁とは不思議である。同一の祖は和豊の父母すなわち精児の祖父母である。
遺伝子の量は全体としては同一の祖の半分と1/4を受け継いでいるから1/8は共通と言えよう。しかしどの部分をどのようにとなると評価は難しい。遺伝子が肉体的性格的にどう発現するかは全くの偶然である。我々は経験的に3親等は血が濃いと評価している。結婚が禁止されるのも経験的なものであろう。香川健はそんなことを考えながら二人を観察した。
山之内和豊はすぐに関本精児を甥と認識した。妹の話は親から聞かされていたし成長してからの写真を観ているから情報量が多い。他方精児の方はどうか。母が叔父和豊のことをどれだけ伝えているか。演奏会の慰労を兼ねて食事が始まった。「若きピアニストの将来を祈念して乾杯しようか」「殿、山之内和豊殿は遠路のお越し、まず歓迎の意を評すべきかと心得まするが」「おお、そうであったな、そちの申す通りじゃ、さらば山之内殿ようこそ我が家にお越し下されました。若きピアニストの将来を祈念して乾杯」

食事は人を和ませる。「おう、讃岐うどんか。こちらは」鬼頭善之助が場を盛り上げる。「半田素麺にござります」「四国の味がするが素麺と言うには太いのう」「剣山の寒風に晒して作ると聞いております」「四国はええのう、わしらは土佐の生まれじゃきに」「あら四国勢が過半数ですね、私らは讃岐です」香川京子の相槌で生国の話になった。「手前の生国と発しますは、ドイツはハンブルクなればお見知りおき下され」「これはご丁寧なご挨拶、姉さんの髪は純毛でござるか」「ジュンモウ?」山之内和豊は金髪をみやった。
京子が髪を染めていないのか、カツラではないのかという意味だと説明する。「あたりきよ、生まれしかたよりこの色だい。ラインの歌姫とはあっしのことでござんす」「何ですモニカ、年上の客人に向かって。生まれた時からこの色でございますでしょ」「すみません、生まれた時からこの色でございます」「しかし見事ですなあ」「恐れ入ります、なじかはしらねど染める気にはなりませぬ」音大生は3人とも東京出身であった。
酒がまわるとさらに饒舌になる。「この酒はいけますな」「芳水です。モニカビンを持って来い」「心得た」「ほう、吉野川の水ですかな」「お気に召しましたら一本お持ち帰りください」「それはかたじけない。口当たりは柔らかいがしみますな」「いうたらいかんちや おらんくの池にゃ潮吹く魚が泳ぎよる」ヨサコーイヨサコーイと四国勢が歌いだす。「その歌聞いたことがあります。母が歌っておりました、そうだ母の旧姓も山之内でした」

舞台は整ってきた。「お名前は」「豊子です」「私の妹も豊子と言いました」関本精児は山之内の顔を凝視する。「もしかして」山之内和豊の眼に涙が浮かぶ。「叔父さん。母の父母はブラジルに渡ったと聞いています」といって絶句した。やはり血は血を呼ぶのであろうか。血筋とは血統を言うのだろう。山之内和豊は肉親の情だけで甥関本精児が山之内一家が築き上げた財産の半分を託すだけの人間であるかを見極めかったのである。
南米ブラジルへの日本移民は現地人がしり込みするジャングルを切り開いていったのである。その覚悟は日本人の結束を強めていった。遠くの身内より近くの他人という意識が自然と生まれて行ったのだ。艱難辛苦の末に手にした財産を戦後の甘やかされた日本の若者に託してよいものかという思いは当然であろう。ましてや甥が同級生を手籠めにしたと聞き、不安を募らせていたのだ。思いあぐねて幼馴染の鬼頭善之助に相談したところ香川健を紹介されたという経緯だ。

音大生たちが帰った後、人物評価が始まる。「関本さんは一本気なところがある。こうと決めたら突き進むタイプね」「ああいうタイプに女は弱いわ。ずんずん押されると許してしまいそうになるわあ」「あら、それだけはやめてじゃなかった」「今は三人の話をしておる」「すみません」「滝本さんはむっつりスケベだけどじわじわ迫られると逃げられなくなるなあ」「私もそう思います」「直美、私は押し倒される方がいい。じわじわくるのは嫌い」「こういうことは冴子さんが詳しいのと違う」「私も皆さんと同じですが吉永さんどちらにも引かれて迷っているのね」「どっちかにしろ、日本人ははっきりしない」「はっきりできないから迷うんじゃない、モニカ人間は簡単に割り切れないよ」
人間を科学的に分析してゆくと見えなかった部分が見えてくるが全体が見えるとは限ぎらない。また、はっきりさせないほうがいい場合もある。吉永小百合の煮え切らない態度は石川達三の蒼氓が浮かぶ。吉永小百合も拒むことが相手に悪いと思ったのかも知れない。香川健はそんことを考えながらずらかる機会を窺っていた。矛先がこちらに向けられる恐れがある。「客人に風呂を用意致せ。余は子たちと遊んでこようぞ」

子たちは健を押し倒すとそのうえで飛び跳ねる。小さい子ほど登りたがる。なにしろ20数人の子が群がるのだから為す術もない。「大きい子は遠慮しなさい」「そうだ、父も若くない」「何をハンス」「父よ、無理するな」「さあ小さい順に並んで」かなとあやが整列させる。

人物評価は中断された。「冴子さんお客様をお部屋に案内して。モニカ岩風呂沸かして。私たち晩の用意をするから。山之内さん五目寿司なんかどうかしら」「ええが久しぶりの田舎料理喜ぶじゃろう」「狐寿司も夜食にいいんじゃない」「稲荷寿司だろうが」「モニカ関西ではきつねというのよ」「刺身はイカに鮪でいいか」「私たち買出しに行ってきます」「そうお願い、直美さん子供たちに何か美味そうなものと明日はすき焼きにしようか」「おい、すき焼きなら日本酒が要るぞ」「モニカお客をダシにするんじゃないの」「ばれたか」「土佐鶴か何か美味そうなの3本はいるわね」
冴子は矢野健の部屋の隣の客室に客人を案内する。「風呂は屋上です。浴衣に着かえておくつろぎください」「これはいい眺めだ」「風通しもようございます」「東京にもまだ田園風景があったのか」屋上から声がする。「ハンスしっかり洗え、腰を入れろ。咲、太郎も頑張れ」どうやら風呂を磨いているようだ。モニカは水着で湯船を擦っている。

警備員が手伝おうかと申し出た。がモニカに「お前の任務は警備だろう。持ち場を離れるな」と一喝された。「さあ湯を入れるぞ、みんな下れ」「ママ熱そう」「日本人は熱いのが好きなのだ、咲客人を案内しろ」
大きな声なので鬼頭たちにも筒抜けだ。「お風呂がわきました」と可愛い声が呼びかける。「おーい、タケシ風呂がわいたぞ」「お前の声は一丁先から聞こえる」「早く来い」「なんだその恰好は」「三助するのだ」そこへ鬼頭達が入って来た。「ささ、これへ背中を流そうぞ」モニカは二人の背中に湯をぶっかける。「咲、鬼頭殿の背中を擦れ。ヘチマに石鹸をつけるのだ」ハンスが手を貸す。「さあ咲頑張れ」「はい、どうですか痛くないですか」「いや気持ちいい。咲ちゃんは幾つかな」「三歳です」「おりこうだねえ」
モニカは豪快に背中を流す。「山之内殿いかがか」「快適でござる」「さらば長旅の垢を流しそうらえ」「かたじけない」「なんの。貴殿はブラジルで名を上げた、すごいぞ」「奥さんはハンブルグのご出身か」「左様。いいところだぞ、遊びに来い」
そこへ矢野健が入って来た。「ハンス、父の背中を流してやれ」男三人が湯船に浸かる。「ああいい湯だ、日本に戻った気になる」「入日を見るとほっとする」「モニカ、そこへ座れ、水着をとって髪を梳け」「恥かしい」「娘じゃあるまい」それはローレライを彷彿とさせた。「男が迷うのも無理はありませんな」「まっこと」なじかはらねど こころわびて...

その日はモニカの独断場であった。にぎやかな夕餉となった。さあ、客人生ビールをぐっといけ、樽を開けたばかりの生娘だ。五臓六腑に染み渡る。モニカ殿の妖艶な裸身はいい目の保養になった。左様か。まさにイムゾンネンシャインじゃ。にぎやかな夕餉となった。
逆光で裸身のシルエットが眩くみえたと鬼頭殿は言われたのじゃ、そうだ、直美も写真集を持って来い。嫌だ、恥かしい。発行しても100万刷とはいかないぞ。おお神田小町だな。日本の女は口説く気になる。これだけの女はそういまい。想いが遂げられたら思い残すことはない。
そう言えば小柴監督の美しき裸像の思い出、私もアルバムつくろうかなと香川京子が言った。歳も若くはないけれど撮るなら今でしょ。冴子さんなんか美人だからお客様に配ったら喜ばれるわよ。みんなでアルバムつくろうか。賛成とモニカが手を挙げると全員がつづいた。山本さんの写真なんかの賞の候補に挙がっているそうよ。黒沢さんの報道写真も新聞で使われていた。本当、見たいな。あの頃はみんな若かった。


 女子供は奴隷に

女の会話はあっちこっちに飛ぶ。いくつかの話題が同時進行する。しかしそれはそれで慣れると苦にならなくなる。「一般論として女が拒まなければ強姦は成立しないと言えるんじゃない」と駒込直美が切り出した。「女からは言い出せないからね。拒否しなければ受け入れたと考えていいのじゃない」「でも初めての時は緊張するじゃない」「それも個人差があるし、身を任せてもいいと思うようになっていたかも」「だからいきなりの強姦とは違うわね」「違う、違う。強姦は許せないけど男女の仲は当人の問題よ」
この会話は一般論と言いながらも関本精児の吉永小百合強姦を念頭に置いていることは明らかだ。「男の人の意見も訊いたら」「タケシ言え」「まず先輩から」「私は色の道に疎くて、和豊」「そうだな、ブラジル女は身体はいいのだが抱く気はしない」「どうしてですか」「色気がない、いけません、許してと言われると男は燃える。はいどうぞでは興ざめがする」「据え膳食わぬは男の恥じゃねえか」「義理でも食えぬ奴は食えん、ここにおられるご婦人なら飛付いてゆきたくなる」「それは言えるな」
話が弾むと食も進む。酔うほどに饒舌になる。「いい気分じゃきに、一般論として騎馬民族、狩猟民族は相手の男は皆殺し、女子供は奴隷と相場が決まっていた。そなきん強姦は常識とされた」「しかし日本でも濫捕りが」「それよ、命を張っての戦では強姦略奪は出掛けの駄賃となるのも無理はないが」「戦に勝てない」「と最初に気づいたのが織田信長でないかの」「といいますと」矢野は信長軍の行くところ治安がよくなると言われていたことを思い出す。
「桶狭間で圧倒的な兵力の今川軍が濫捕に精を出している間に3000の精鋭が切り込んだ」「プロアマの差ですか」「それ以上じゃろう。人を切るのが侍ならば」「半農半兵とでは比較にならない」彼の潔癖な性格もあるが民を敵に回せば戦に勝てないことを認識し実践した武将であろう。もっとも楠正成がその手本を示していたから信長はよく勉強していたとも言えよう。
「以後乱捕はご法度、今度の大戦でも守られたきに」「軍人は礼節を重んずべしといった戦陣訓に依るよりも軍事的実益を認識していたのですね」「でしょうな、朝鮮、台湾、満州の治安は日本統治によって格段に良くなりましたきに」「強制連行、慰安婦は有り得なかったのでしょうね」「国家総動員法に基づく勤労奉仕、女子挺身隊は朝鮮だけでなく日本国中で行われましたけん、これと誤解していることもありますろ」「オランダ人女性強姦は軍法会議で処刑されたとか」「インドネシアですな、詳しくは知りませんがそのように聴いちょります」「白馬事件でしょうか」と冴子が口を挟んだ。

白馬事件(しろうまじけん)とは、日本軍占領中のインドネくちをシアで日本軍人によりオランダ人女性に対して行われた監禁・強姦事件のこと。「白馬」の由来は、白人を白いウマになぞらえていたことから。慰安所の所在地から、別名スマラン事件[1]、オヘルネ事件。1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人・軍属(請負業者)たちに有罪が宣告されている[2]。国際裁判で裁かれた日本軍人によるアジア諸国での監禁・強姦事件である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 [

冴子は客から白馬事件を聴かされたという。「ABCD女は白牛白鯨白豚白馬となるのかしら」京子が冗談を飛ばす。「会津は妻や娘を目の前で犯されたきに、官軍は百姓町人の次男坊以下が多かったけんのう」「ロシア兵も同様ベルリンの通りでドイツ娘を犯した」「満州樺太でも日本人がソ連兵に犯されたそうな。勝てば何してもいいと思うのやろか」「戦争という極限状態で犯したくなるのは理解できる」「死ぬ前に種を残しておきたい」「それもあるが死の恐怖から逃れるにはセックスが一番じゃきに」
騎馬民族にとって略奪婚が通常であるから妻子は所有物と考えるのも当然かも知れない。戦の目的は略奪であったろうと矢野がつぶやく。「逆も真なりでしょ」と松崎敬子が声を荒げる。「雌を奪い合う野獣の死闘と同じよ」「それは言えるね、強い方の子を生みたいと思うから」「好きな男に抱かれながらも強い男の夢を見るアーア」「風はエーゲ海から吹いてくる。アーア、好いて好かれて一緒になって子育てするのは日本ぐらいかしら」「多くの先進国では当たり前だ、日本だけではない」とモニカが反論する。
ともかく戦になれば勝った方はやりたい放題、男は抹殺し女子供は奴隷にするのは世界の常識と言う点では全員の一致をみた。「戦時に於いては強姦もめをつぶれるが平時に女を慰み物にする強姦魔は許せない。そっ首斬りおとすべし」拍手。「モニカを乙女の祈りに採用したら」「賛成、このド迫力で気合が入るんじゃない」


 額田姫王

香川健こと矢野は『山之内の財産を関本精児に遺贈する方法と財団を設立する方法』を提示した。いずれも香川行政書士事務所を管財人にしてそれなりの報酬を戴く寸法だ。「茫洋としているが、しっかりしてるが」「そなけん推薦したんじゃ、今まで期待を裏切ったことはない。いや期待以上の成果を出しとるきに」「そうかあ、日本にいるうちに結論出すわ。財団の方がええかのう」「実はわしも退職金をどう使おうかを考えとる。子孫に美田を残さすじゃ、財団基金にして優秀な経営者育成に役立てようかとな」「それはええ、わしも財産の金利を海外で活躍する若者に使ってもらおうかの」
駒込直美と松崎敬子は四国出張を命じられた。二人が土佐に里帰りする間の身の回りを世話せよとの命令である。「先日の旅費の使途を説明します」「そんなことは後でいい。すぐ旅支度しろ。いやなら京子と和子に頼む」「直ちに支度いたします。日程はどれぐらいでしょうか」「それを訊きだすのが役目だろうが。新人みたいなことを言うな」東京生まれの二人への役得をあたえたのであることは理解した。
関本精児の強姦罪は成立しないとの結論に達したが、矢野の関心は遺言執行もしくは財団運営である。女たちは小柴監督に依頼した映画「若きピアニストたちの愛と性」の制作である。ついでに自分たちの写真集にも本気になってきていた。「ピアノとなるとヨーロッパよね、三人の留学費が問題だけどね」「そんなん、テレビ局に出させたらええが」「乗って来るかな」「小柴監督の口利きで本人たちに交渉させたらええ」「なるほどね、国際コンクールで優勝したら賞金も出るし、小柴さんに話してみようか」「しばらくはハンブルグの実家に下宿させて慣れたらそれぞれブダペスト、ウイーン、パリにでもゆくがよかろうぞ」「なんか現実味を帯びて来たわね」

吉永小百合の家族を調べると一人娘で、父は数学者で大学教授、母は外交官の娘である。温厚な父はやさしく娘を見つめて微笑む。そんな中で小百合は育った。田園調布の家は武蔵野の風景をとどめていた。500坪ほどの敷地には原生林も残っていた。家庭菜園、花壇は代々の庭師が手入れをする。固定資産税だけでも大変であるが妻は実家からの援助もあって穏やかな生活であった。小百合は無口で5歳までほとんど喋らなかった。
今日でいう自閉症だった。3歳の時50曲の童謡はすべて憶えてしまった。母親の引くモーツアルトのソナチネがお気に入りでどんなにむずかっていても機嫌を直した。母親は娘がオシでないかと心配した。「童謡は歌うじゃないか、しゃべるのが苦手なのだろう」「そうですね、音楽の天分があるからピアノを習わせましょうか」「まだ早いだろう。本人が弾きたくなってからでいいのじゃないかな」そんな会話が父母を幸せにした。
4歳になるとピアノを弾き始めた。母親の観よう見真似であるが驚くほど正確である。「ドーミソシードレド」とソナチネを口ずさむときは機嫌がいい時である。しかし人見知りをしてほとんど人と話さない。家で飼っているシェパードの雄とつがいのうさぎと何やら話している。

小学校入学に入学すると試験は常に満点だが体育と国語が苦手であることがわかった。こういう生徒はいじめられっことなる。担任の女教師が人を馬鹿にしていると誤解したのだ。というのも音読が上手くできないだけなのだがそれがわからない担任は教師失格であろう。彼女が失語症であることが判るのは1年後のことであった。人類が言語を話し出した歴史に比べると文字に書きまた文字を読む歴史は最近のことである。いわゆる天才の中に文字を読むのは苦手というのが少なくない。
担任が家庭訪問で音読できないことを母親に指摘したが「うちの子読むのが苦手なんですよ」と笑い飛ばされた。それから担任は事あるごとに音読を小百合に命じた。担任の意を体して同級生は笑った。試験の満点に対するやっかみもあったのだろう。日本のいじめは支配者に胡麻をするつもりで行われることが多い。それは少女にとって苦痛であった。
ガキ大将が小百合を救ってくれた。「算数教えてくれたら、体育と国語教えてやる、どうだ」学校で初めて声を掛けられたのだ。どぎまぎしている小百合にガキ大将は試験用紙を広げた。宿題は明日までに不正解を直してくることだ。その得点は30点だったので小百合は笑ってしまった。
28×8=(20+8)×8=160+64=224
28×8=(30-2)×8=240-16=224
99×99=(100-1)×99=9900-99=9801
99×99=(100-1)×(100-1)=10000-100-100+1=9801
25×16=100/4×16=100×4=400
25×16=(20+5)×16=320+80=400
25×25=(20+5)×(20+5)=400+100+100+25=625
25×25=200×3+25=625
17×13=100×2+21=221
翌日ガキ大将の宿題を吉永小百合の入智恵とみた担任は怒って教頭に訴えた。ところが「先生、インド人は九九じゃなくて九九九九まで諳んじてますよ。この答案はそれ以上のレベルですね。生徒の素晴らしい発想を大切に育ててください」と逆に諭されたのであった。

担任は変わった。一つの考えを生徒に押し付けていたのだ。考えは問題を解く手段だ。問題解決の手段を選び使うこと、料理の過程の方が大切だ。ならば答の数字を分解させるのが本当の教育ではないのかと思うようになった。次の授業で思い切って「55は」と生徒にきいてみた。「背番号」とガキ大将。
しばらく考えさせて「はい、できたひと」と手を挙げらせる。50+5、11×5の答が出て来た。いつもと調子が違うので生徒は興味を見せる。「他にないかな」と担任が見回す。餓鬼大将が「1+2+3+4+5+6+7+8+9+10」と叫んだ。一瞬教室が静まったが「本当だ、すげえ」と声があがる。「どうやったあ」と不思議がる。「種を明かせば面白くないが今日は特別サービスだ」
黒板に書いて見せる。1+9+2+8+3+7+4+6+5+10「おお。感動した」「私も」感動に声なしである。「じゃあ1から100まで足したらいくつ」「少々お待ちください。発表します、5050」「嘘う、どうして」「俺にきくな、わかるはずがない」「だろうな、悪ガキの天才なんてきかないものな」「け、n(n+1)/2 何だ、これ」「黒板に書いて」
教室は異生物をみるように黒板をみつめる。「わかった、ナンバーよ」「番号?そうか、番号10、100を容れたらいいのよ」「本当か」「ともかくやってみて」「ええと10×11÷2だな、てええと55」「本当だ、100を容れたら100×101÷2ね、スゴーイ」
これで吉永小百合の株は急上昇した。「本当に5050」「疑い深いな、嫁に行けないぞ。10が55なら100は55の間に0を入れて5050だ」「何よ。吉永さんにでれでれして」「お前妬いてんのか」「誰があんたなんか」「先生次は電話番号で行く」「あら生年月日よ」

担任は生徒の生き生きとした表情に打たれた。「素晴らしい発表だったわ。でも先生の仕事は教科書の内容を教えることなの。だから電話番号と生年月日は夏休みに考えてきて」「みんな聞け、先生の話をよく聴いて学年末試験でナンバーワンクラスになるのだ」「あんたには言われたくないわ」「ナンバーワンは第1位ということだぞ。卒業するときは全国1位を目指そう。少年よ大志を抱け」ガキ大将はその気にさせる。
クラスの計算能力は格段に進歩した。正確さ速さで他のクラスを圧倒した。計算の速さは応用問題に多くの時間がさける。題意を正確につかんでいるからほとんどがうっかりミスである。他の教科も読解力がつき題意を素早くとらえるようになった。できない子は題意がつかめないのだ。ガキ大将はできの悪い子に上位の生徒が指導するように命じた。教える側もしっかり理解しなくてはならない。クラスが家族のように助け合って行く空気が生まれた。これこそ学校だと担任は思った。

ある日参観授業が講堂で行われた。全校教師生徒が見守る中の授業である。担任は緊張した面持ちで授業を始めた。「今日は参観授業ですからお行儀良くしてくださいね、それだけが心配です」爆笑。「では始めます。制限時間は10分です。できた人は手を挙げてください」

1問 5リッターの容器と9リッターの容器とで正確に13リッターの水を量るにはどうしますか。
2問 123456789×63+70はいくらになりますか。

 ガキ大将藤沢周平が手を挙げた。「もうできたの、3分57秒」と答案用紙に書き込む。「先生吉永の奴とっくに出来てる」担任が確認する。「吉永さん手を挙げなさい。4分15秒」会場が騒めく。参観の教師にも手強い問題だ。藤沢が手持ちぶさなのか「おい足してだめなら引いてみな。63と70の接点は何だ」と隣の生徒に話しかける。「藤沢君静かにしなさい」「はーい」
 すごいヒントだ。次々と手が上がってゆく。会場からは手が上がらない。時間が来た。「では1番に手を挙げた藤沢君に発表してもらいましょう」「6年1組藤沢周平です。御指名により説明します。先ず9リッターに水を一杯に満たします、これを溢さない様に5リッター容器に移します。ここが味噌です。私の家は八百屋ですので神田にお越しの際はお立ち寄りください。5リッター容器の水は元に戻します。9リッター容器に残った水を空になった5リッター容器に移す。9リッター容器を一杯にすれば締めて13リッターという寸法。」
 身振り手振りを加えての説明なので大うけである。「次は63=9×7に気づけば半分出来たようなもの。70との接点は7、10個の7がずらっと並んでラッキーセブンで大フィーバー。ちぇ、うけないか」パチンコ好きの教師はニヤニヤする。「123456789×9は1が10個とはいかないがとりあえず7倍しておく。9番目だけが0とはいただけない、と思うのが人情。そう、これに70を押し込むとオールセヴンとなる。犯人は7番目だ。逮捕状をとれ」大拍手。
 6年生はその年の全国学力テストで全国1になったが全校生徒の平均点での評価だけに校長は鼻高々である。担任の大石美穂に成果をまとめるように命じた。その報告書は次のように述べていた。

 勉強の秘訣は各生徒に研究テーマを持たすことである。しかしテーマが決まれば半ば成就したと言える。低学年ほど何がしたいかをみつけることは難しい。学校はその手助けをするところである。教科書に沿った授業もその一環である。ある程度の知識素養が無ければテーマをみつけることも研究することもできない。それには強制も必要である。自らを強いて勉めることが理想であるがそれは多くの児童には無理な話である。せめて興味深い教材を示すことが一教師として私にできることだと気づいたのである。中略

 円周率とは直径と円周の比である。これをどう教えるか、私は入念に準備したのであるがある生徒は即座に3倍強と答えた。私は出鼻をくじかれ戸惑った。彼は糸を円周に置きその長さを直径の上で三つ折りした。余った部分を示しながら3.1倍以上と得意気に言った。別の生徒は半径で円周を6等分した。各点と中心点とを結ぶと正三角形が6つできるから半径の6倍強であると言った。私は黒板に書いて見せた。「正六角形の各辺は円周の内側にあるから逆に円周は半径の6倍よりも長いということですね。皆さん円周率は約3.14と憶えましょう」と言ったが生徒にお株を奪われた気がした。
 この時、生徒は自分の少学校時代のレベルをはるかに上回っていることに気づいたが教師の威厳を保つべくおろかにも高圧的態度に出たのだ。転機が訪れたのは上述の背番号、電話番号、生年月日である。自由な発想は回り道、寄り道に見えるが発見もある。道に迷った者は公式定理といった道標の有難さを知る。答が1つの出題は整備された道を進むようなもので採点も容易であるが生徒の発想を削ぐ恐れがある。
 解答の過程を重視すれば採点の負担は増える。しかし生徒との真剣勝負でもある。己の無知無能を知らされる。教えることは教えられることと実感した。将来生徒たちが進学し社会に出てどのような人生を送るのか見届けたい。整備道路を行くか険しい道を行くかは本人の決めることであるが幾つもの問題を解決してゆかねばなるまい。彼らが過程重視の教育に対する評価を与たえてくれるであろう。

 この報告書は高く評価された。幼稚園から大学までの一貫教育ならではあるが教員の交流が行われるようになった。大学は高校に高校は中学に中学は小学校に注文をつけた。単に注文を出すだけでなく協議して改善を図った。その基本は研究テーマ方式である。生徒の感想はテーマを研究するほど周辺の基礎知識の必要性を感じ、学問の喜びとシンドさを知ったという。

 矢野健は吉永小百合についての調査を興味深く読んだ。理由は彼の教育理念と合致するところが多かったこと、その発信源である吉永小百合は教育に何の関心も示さなかったことである。一言でいえば人と接したくないということであろう。大学も音楽部を選んだのもあまり話さなくてよいとの理由だ。第2楽器はフルートを選んだ。多くのフルート曲は譜面のとおり演奏すれば音楽になるとの理由だ。矢野は笑った。彼も自己主張の強い演奏は好まない。
 卒業試験の演奏での学長の感想は高校生でももっと色気があるであった。好きな作曲家はとの質問に彼女はやっとの思いでモーツアルト答えた。「あとはドビッシー、ブラームスぐらいか、それで指導教官が敢えてベートーベンを選んだというところだな。無調性の曲が向いているかも知れないな」試験官室で「どうしようどうしようだな」「転調ところですか」「少女じゃないか、恋愛もしたことないのだな」「彼女人と接するのが苦手なんですね。しかし演奏技術は評価できます」「自己主張がまるでない」「そこが彼女らしいところ、でも存在感はあるでしょ」「将来の計画は」「全く無いそうです」

 矢野健には無菌室育ちの女と欲望剥き出しの男との結びつきが理解できない。「彼女は何が起こるかわからなかったのよ」「まさか、それだけはやめてと言わなかった」「たぶんね。友達もいない、家にテレビもないとすればありうるわ」「でも性の知識はあるでしょ」「知識はね、それが今起ころうとしている現実と結びつかないのよ」「要するに人間に関心が無いのだな」「そう、友達は犬と兎、となれば性にも無関心だったのよ」「これは再現映像が要るな」
 矢野は香川健として関本精児を呼び出した。「山之内さんは財産の半分を日本に持ち帰りたいそうだ。その方法について依頼を受けている。私は財団をつくって奨学金を貸与するのがいいと考えている。別に日本に限らず金利の安定している銀行に預金して利息を奨学資金とするのがいいのじゃないかな」香川はこう切り出した。「山之内財団ですか」「そう、設立すれば貸与と回収が主な業務になる」「それで」「君は身内として資金運営を年に一度チェックするだけでいい。年数十万の報酬が払われるだろう」「悪い話じゃないですね」「と思うがね、まあ財産を金に換えて幾らになるかわからないが年10人に百万ずつは貸与しないと格好がつかない」「どんな対象に」「それは山之内さんの思いを具現するものにしたいが第一の問題だ。次に選考基準だ。当分は推薦に基づいて実績を観てゆくしかないと考えている」
 関本は話に乗って来た。「選考の公平さが大切ですね」「そうなんだ、ノーベル賞のようにはゆかないだろうが基金が世の為になること貸与生が誇りに思えるものにしたい」「素晴らしいですね」「人間何かをやろうとする時が一番楽しい。やりだすと苦労が待ち受けている」「本当にそうですね」

 健は話を変える。「まあ財団設立までに時間がかかるだろうけどその時は君の力を借りたい。設立者の思いを受け継ぐのは君だからね。そこで君のことを知っておきたいのだ。訊きづらいが吉永さんと結ばれた経過から聞かせてもらえるかな」「あれは忘年会の後彼女のマンションに立ち寄ったときでした」
なるほど、けれんみのない男だ。「彼女一人娘だったよな」「箱入り娘だから独り立ちするためマンション暮らしをさせられたようです」「誰に」「母親に決まっているでしょう」「そういうものかね」「そうみたいです」「で君をマンションに入れるときはどんな様子だった」「いつもと変わりませんでした」「女が一人暮らしのマンションに男を入れるのに」「まあそこが彼女らしいところですね」「君の方はその気はあった」「勿論その気で」「で押し倒した」
 一気に事件の核心に迫る。「しませんよ、無防備な女に」「ではどうやって」「最初は唇です」「で反応は」「眼をみはって見つめました」「本当に初めてだった」「でしょうね、目を瞑れというと目を閉じました。今度は反応しました」「唇を返して来た」「というより真似ている感じですね」「感じていた」「感度は抜群ですね。しかし処女そのものでした」「処女でも感じるのだ」「でしょうね」関本精児の話を要約するとその後吉永小百合は風呂に浸かった。関本も続いたが気に留める風もなくいつものように身体を洗っていたという。

 関本の方も面食らったようで湯上りにビールで乾杯しながらセックスしたいと言った。「セックス」「これをお前の中に入れる」「どうやって」「教えてやるからベッドに寝ろ」それから関本は入念に愛撫したが吉永小百合の反応は肉体そのもので相手が関本だからと感じはまるでなかった。花芯を舐めると声を上げる。舌を入れると身を捩る。濡れたのを確かめて押し入れると少し痛がったが関本を咥えたという。「そんなに名器か」「でしょうね、僕も初めてでしたから」「でよかった」「それはもう、天国かと」「で一気に」「彼女の反応がすごいので我慢しました」「コンチェルト」「まさにそうですね」「で終楽章まで」「無理ですよ、我慢しきれずに途中で放出しました」「若いのによく我慢したな、で出血は」「少しでしたがバスタオルを敷いていてよかったです」「おめでとう、その後は」「2回」「終楽章まで」「まあどうにか」「君すごいなあ」
 これはどう見ても強姦ではない。「その日は泊まった」「明け方には精も根も尽き果てて」「激闘だった」「前後不覚におちいり起きたのは昼過ぎでした」「彼女の方は」「少し口を開いて眠っていました」「よくわかった。確認したいがその後の彼女は」「普段通りでした」「別に起こった風はなかった」「その後もう一度彼女を訪れましたが拒みはしませんでした」「そう安心した。君たちの関係に気づいている者は」「いないと思います」
 そうすると吉永小百合が乙女の祈りを訪れたのは何だ、関本には理由が見つからない。ここは同じ一人娘の谷和子に訊きださせるか。香川健は関本に好感を持った。荒っぽいが土佐の男だ。「今日は忙しいのに時間をさいてもらってありがとう。卒業後予定が無かったらドイツに行かないか、モニカが気にしていた」「ありがとうございます」「また遊びに来てくれ」

 谷和子は吉永を呼び出した。「私も一人娘、学生時代に矢野と結ばれたのよ。貴女乙女の祈りを訪ねた理由を聞かせて」「滝本さんとも結ばれたのでどうしたらいいかわからなくて」「まあ、でも強姦でないでしょ」「強姦、ああ、力ずくで犯すこと、強姦ではありません」「乙女の祈りは強姦被害者を救済するところでしょ」「そうでした」「で二人と付き合って行くの」「そうなるでしょう」「あなたの気持ちは」「それでいいと思っています」
 谷和子の矛先が鈍る。吉永小百合は悪びれた様子はない。「子どもができたら」「産みたい」「父親は」「どちらでもいい」「結婚は」「わからない」「お母さんに話した」「まだ」「話した方がいいと思うよ」「そうですか」「だって一番信頼できる先輩でしょ」「それはそうですね」「こども育てられる」「多分」「どうやって」「母に助けてもらいます」「いーくもんか。無責任ね。Hしたら子ができること考えないの」「ごめんなさい」
谷和子は二の句が継げない。和子の報告で全員大笑いした。「滝本幸次と関本精児の子を宿したらどうしようということか」「それもあるけど子育てどうしようと本当に心配していたわ」「でも深刻ではない」「そうなんや、他人事のように自分を観ているの」「彼女らしいわね」「交代に生むけど育てられるやろか」「双子だと異父兄弟かも、和子さんの養子にされるかも」「冗談やないわ」 
 これで事件の概要が見えて来た。箱入り娘は性に目覚めたのではないかと矢野は思ったが口には出さなかった。吉永小百合は関本精児あるいは滝本幸次でなくとも性の悦びを与えてくれる男なら誰でもいいのであるまいかと思ったからだ。その推察は彼自身が証明することになるとは、、、。


月月火水木金金

 矢野は吉永小百合に呼び出された。ある予感があったがそれは行政書士として受けてはならないとの警告であったのかも知れない。依頼人の中に入ってゆくと客観的判断ができなくなるからだ。職業倫理として駒込直美にも説いてきたところである。これは事件解明に必要かつ有益なことであると理論構成を立てる。据え膳を食わぬは男の恥が本音であろう。
 マンションに入るといきなり浴室に連れ込まれた。あどけなさが残る顔は女の表情を見せていた。その白い裸身が男の欲情をそそることを知ったのであろう。さかりがついたか。なるほど関本精児が言ったとおりだ。矢野の息子をやさしくつかむ。「これを入れてください」と愛おしげにいう。
 それを花芯に当てるとゆっくりと腰を動かす。すでに喘ぎ声をたてる。その顔は女のよろこびを如実に表す。男がいい顔の女を求めるのは無理からぬと矢野は思った。醜女なら興ざめする。吉永小百合は性のよろこびが妖艶な女に変えるようだ。清純な乙女の肌は男を知ってなまめかしくなったのであろう。吸いつくような肌である。矢野はじっくりと観察する。「お願い来て」と懇願するがじらしにじらす。「ああ死にそう」ビデオカメラで克明に撮影する。もう一台のカメラは天井からベッドを狙っている。
 これは先人の功績か、天性の素質か。「もっと深く入れてください」と喘ぎながらねだる。亀頭は花芯とどのように接しているのであろうか、これを撮影できないか。矢野は小百合を抱き起して結合部分を見つめさせる。香川京子との初体験が思い出される。カメラをアップする。あまり綺麗ではないがこれ以上エロチックなものはあるまい。
 矢野が身体を離すと「いやあ、ぬかないで」と絶叫する。小百合を四つ這いにさせ後部から突き立てた。ヒエーとものすごい声を立てる。腰を蠕動させ尻を振る。これがピアニストであろうか。男は惚れた女をものにした征服感が最大の喜びであるがこの女は性そのものに喜びを見出したのであろう。女が乱れる程矢野は冷静になる。調査対象と高をくくっていたのだが突然花芯が矢野を締め上げて来た。驚くほどの締め付けだ。
 矢野はうめいて射精してしまった。不覚をとったか。小百合はしばらくうつぶせで喘いでいたが「貴男の精液子宮を直撃したわ。天空から堕ちてゆく感じ感じだった」と笑う。矢野は不気味さを覚えた。

 それから矢野には休みがなくなった。お勤めは月月火水木金金となったのである。京子、和子、モニカ、直美、敬子、冴子の6人に小百合が加わったからである。キリスト教の神ですら週に1度安息日を取るではないか、これでは過労死するかも知れないと思うほど小百合は執拗であった。
 小百合の妊娠は卒業演奏の時に明らかになった。生理が無かったのだ。矢野が買い与えたステージ衣装は色白の小百合を妖艶な女に変えた。レミレミレミレミレミレミ シレドラ エリーゼの為にのハ長調から再びイ短調に戻る部分は聴衆をぞくぞくとさせた。演奏後の評定の席上「あれは男を知ったな」と学長が言った。「子を宿したのです」「え」「指導教官ですからね。ふふふ」

 捨つる神あれば救う神あり。冴子、敬子、直美と妊娠して行ったのである。勤務時間は出産までの間矢野の大幅に短縮された。弥生3月のある日、香川健行政事務所を吉永夫妻が訪れて来た。かなり苛立った様子だ。挨拶もそこそこに「貴男ですか、娘の処女を奪ったのは」と母親が詰問してきた。「それは違います」「では誰ですか」「知りません。ご用件は何でしょうか」「まあずうずうしい」「用が無いのならお引き取り下さい」「失礼ね」「無礼なのはあなたでしょう、処女を奪うとは強姦をも意味します。確証がおありでしょうな」
 一気に形勢は逆転した。「確かに無礼だよ、お前」「あなたそれでも父親ですか」「娘が妊娠しましてこどもの父親が知りたいのです」「それは当事務所では扱いかねます。弁護士さんに相談された方がよいでしょう」「あくまで白を切るつもりですか」「奥さん、人を決めつけるには挙証責任は主張する者が負います。あなた方を不退去罪、業務妨害罪で告訴します。名誉毀損罪も構成しますから念の為」「君は黙っていなさい、妻の無礼をお詫びします。父親を特定するにはどういう方法がありますか」「報酬額表のとおり1時間以内1万円の相談料をいただきますが」二人の顔がこわばる。「一般論として女が三人の男とひと月以内に関係を持った場合三人とも父親になる可能性はありますが全員が父親であることは三つ子以上である場合です」「馬鹿にしないで」
こういうとき駒込直美なら上手く捌くだろうにと思っていると「先生ご予約の依頼人が応接室でお待ちですが」と職員が言った。では、と香川は席を立つ。なかなか気が利く。二人はすごすごと帰って行った。

 民法は婚姻中妻が懐胎した子は夫の子と推定すると規定している。反証を挙げればこの推定を覆すことができる。嫡出子否認の訴え、父子関係不存在の訴えを起こすことになるが昔から父子関係は信じるしかない。もっとも子からは強制認知を請求できるが挙証が難しい。血液DNA鑑定でかなりの精度が期待できるが判決が確定するまでには時間と労力を要する。自分が父親ですと名乗り出る馬鹿がどこにいる。
 戦後の日本も米兵とのアイの子を生んだ女は数知れず、フィリピンでは日本の買春ツアーで生まれたジャピーノは5万といる。吉永小百合の相手をさせられただけで子が欲しいと思ったわけではない。などと理論武装してみるが迫力はない。今回はどういうわけか自分の子と思いたくないのだ。強いて言えば小百合が処女でなかったということか。

 オナニー膣外射精

 駒込直美は強制認知請求事件の判決文を読んでいた。棄却理由は「被告は永年膣外射精をしてきたから父親たりえない」という主旨であった。元夫の被告は生物の教師で膣外射精を日記に記していたことも証拠とされたのだ。「ねえ敬子この判決ひどいわ」直美にとってこの美しい友人は頼りになるライバルでもある。「膣内に精液が残っていなかったかどうかの問題じゃない」「そうでしょ、膣外射精と言っても最後の段階でしょう。既に少量ながら射精していた可能性はあるよね」「あるある、若い男は入れた瞬間に出してしまうのもあるとか」「やはり香川先生を参考人として来てもらうかな」「適任じゃない」

 その日の晩餐後勉強会が開かれた。健も興味を示した。「被告は膣外射精を主張するがその前に射精している可能性はあるということか」「そうです。男は射精をどうのように認識するのですか」「行くと感じるとチンチンが痙攣してシュートする」「それはわかるのですか」「わかる、チンチンの膨張は最大となる。発射後は急速に縮む」「行くと感じる前に射精することは」「あるだろう、お漏らしだから自覚しているかは別だが」「すると夫の子と推定に対する反証たり得ますか」「弁護士の腕次第だろう」
 七人の女は、身を乗り出す。「血液型以外にもっと父をはっきるさせる方法はないんやろか」「膣内に小型カメラを設置するか」「観たい」「私も」「生娘は恥かしがるだろう」「でもあの瞬間死ぬのじゃないか思うものね」「そうそう、死ぬほど気持ちいい」「死ぬのは気持ちいいのか」「モニカ勉強不足ね、首を締められると気持ちよくなる」「本当」「直美、柔道部が言ってたな、落ちる前気持ちいいって」「うん、言ってた」「性交中に男の首をストッキングで絞めて死なせた女がいたな」「あれは男に頼まれて絞めたのよ」「でも気持ちいいからでしょ」「それはそうですけど」「確か辺見庸の小説にそんなのがあったな、これは女が絞められる話だった思うが」

 矢野を囲んでの話は楽しい。「私やってみたい」「だめよ冴子さん、乳飲み子を抱えた母なんだから」「でもやってみたい気はするな、こう巻きつけて自分で絞めれば大丈夫じゃない」モニカがストッキングを持ち出す「京子、この方がコントロールしやすいぞ」「よせモニカ、お前はドイツの良家に生まれし歌姫なれば」「心配してくれるのか」「ああ、窒息死でなく骨折死するぞ」
 大爆笑。「どういうこと」「危ないことしなくてセックスは気持ちいいだろうが。お前が死ねば俺はライン河に身投げする」「それはやめて」「お前がいない人生など何の意味がある」「いやあ、カッコいい。私にもゆうて」「和子、お前がいて俺がいる」「私も」「直美お前が死んだらどれだけの人が嘆き悲しむ」
 直美の顔がゆるむ。しかしすぐ真剣な顔になる。思い込んだら一途である。矢野のお気に入りである。「膣外射精は推定を覆す反証には弱いのでないでしょうか」「そうだな、多分裁判官の思い込みかもな。女の裁判官なら違った認定をしたかもな」「原告代理人に当たってみます。訴状裁判記録も当たろうかと」「ほかには」「産婦人科医にも、膣外射精の中だし、お漏らしの可能性を尋ねてみます」
 敬子も「あのソープ嬢もいいかも」とつづく。「そうね、中だしさせるのかしら」「だからさ、プロゆえに中外の判断ができるのじゃない」「そうだ、松崎いい線を行っている。あとは色の大家だな」「あら先生はその道の造詣が深いのでは」「色の大家とは最低でも100人切りをしないとな、奥が深いそうだ」矢野は吉永小百合との関係を探られているような不安を感じた。
 矢野は不安を振り払うかのように多弁になる。「敬子は器量も頭も良いからな、その点研究してみろ。相性とは性が合うつまり結合具合がいいことを言うのであろう。気が合う肌が合うよりも根源的である。そもそも日本民族は由緒正しいイザナギの命と及びイザナミの命を祖とする家柄である。エデン(穢田、穢れた田)の東とは日本を指す。どこの馬の骨やらわからぬ男女を祖とする輩とは格が違う。それも不倫の子である。ノアの箱舟などつくるべきではなかった」矢野節が調子をあげる。
 モニカが手を挙げる。「異議あり。今の発言は被告人の想像に過ぎない。ゲルマン民族を含めて欧州への侮辱とも受け取れる、取り消しと謝罪を求める」京子は「異議を認めます。被告人は発言を取消し謝罪してください」と恐い顔をした。「何で被告人になるのだ。不倫の子の部分は取り消す」「民族の名誉の為に日独犯罪数の比較を証拠として次回公判までに提出する」
 
 突然、京子が「オナニーの語源は聖書のオナンから来ているはずよ」と言った。「それよ京子、オナンは父から兄嫁と子を為すように求められる。オナンはセックスはするが膣外射精するのだ」とモニカ。「酷い話」「敬子さん日本でも戦死した兄の嫁を弟と再婚させる話があるわあ。家族の嫁に対する愛情かもね」「そうかあ未亡人のままでは居づらい」「実家に帰すのは不憫」「それも理屈だが弟の意思はどうなのだ」「勿論家族は弟が兄嫁を憎からず思っていることを察しての事よ、モニカ」「そうなんだ、日本人の意思表示は不明確だから理解しづらい」「何で もはっきりすればいいというもんでないのよ。モニカが兄嫁なら弟に結婚してくれと言える」「いいづらいな」「ということ」
 話が一段落した。「今宵の話も有意義だ。ワイン開けようぞ」矢野は警戒した。経験から矛先が向けられることを感じたのだ。「それにしても嫌な性格の夫ね」「膣外射精は神の意思に反する」「何の神様、モニカ」「Hの神さまに決まっているだろう」拍手。「座布団1枚」「健はどうだ」「ほいきた」「全部中だしよね」「それはもう全精力を傾注して相勤めておりますれば」「それで京子は8人の子持ち」「年割すればモニカも頑張っているじゃない」「そうか、しかし後5人は遠いな」
 一同京子に畏敬の念を表す。熟し切った女の魅力を保っている。「子宝を授かることはうれしいけど子育ては楽じゃないわね」「でもかなさんがしっかりしているから」「そうね直美、私たちも京子さんに追い付こう」「おう、思い込んだら試練の道を行くが女のど根性」「京子の記録を抜くまでは」「でも京子さんが記録を更新したら」「冴子さん脅かさないで」「排卵日の前後三日お休みすればいいのよ」「荻野式避妊」「しかし精子も卵子も生きがいいから完璧とは言えないぞ」「モニカ、その時はその時よ」
 和子はにんまり聴いていた。「今日は和子さんのとこよ」「しかし宿枯れしないのは偉いわ」「ヤドガレ」「平安時代は男が女の下に通っていたの」「源氏物語か」「三月欠席すると女は他の男に乗り換えてもいいことになっていた」「するってええと健は光源氏ということ」「色男じゃないけど等しく女を愛し子を愛するこれだけでも偉いわ、ねえ和子さん」「さらば婿殿ここにいるオナゴ以外に放出するを能わず。よいの」「ははあ心得ておりまする」
 一瞬緊張が走った。「ささ婿殿ワインを召されよ」「有難き幸せ」「明年にはみたりややの生まれ出ずらむ」「御意」「さすが和子さん、決めるところはビシッと決める」「美しい横顔姉のように慕い」「若かりしあの頃学生時代」
 直美と敬子が歌い出すと全員が歌う。「飲めや飲めや 歌えや歌え 飲めや飲めや 世の更けるまで」「婿殿近う。なれと子を為したることうれしく思うぞ」「身に余るお言葉、京子姫には月光菩薩の思いを寄せておりまする」「してわらわには」「和子姫には向日葵の陽をば恋う如く永久に思わん」

 小百合同居開始

 事は矢野の思案とは異なった展開を見せる。ステージからモーツアルトのソナチネが聞こえてくる。「やるじゃん」「モニカ彼女よ」「小百合か、この前よりいい」「どういうつもり」「さあ」「私は認めないからね」「矢野が認知しないことには始まらんで」「そうなんだけどあの昼行燈好きになれない」「京子さん、私は彼女の気持ち解る気がする」「一人娘で箱入り」
子供たちが集まってくる。「お姉さん弾かせて」とかなが見真似で弾く。ドーミソシードレド ラーソドソーファソファミー つづいてあや、ハンス。するとモニカが楽譜を探す。部屋を飛び出すと「ハンスこのとおりに弾け」とどなる。「弾けないよ」「いいから弾け」小百合は右手だけでとハンスに言った。左の部分は小百合が弾く。その眼は慈愛に満ちたものであった。今度は入れ替わってハンスが左手を弾く。ハンスの顔はピアニストになった気分だ。
小百合が席を譲る。子供たちが入れ代わり立ち代わり右手で弾く。ハンスは全部憶えたようだ。年長組が次々と左手をハンスに代わって弾く。右手は年少さんが弾く。モニカは子供の頃この曲を弾くのに毎日3時間練習して1週間はかかった。ところが子供たちは指の形で憶えてゆくようだ。たちどころにモーツアルトの音にしてゆく。「うーん、やっぱり音楽は耳からだな」とモニカは感心する。「お姉ちゃんはママより上手いよ」「当たり前、向こうはプロ、こちらは専業主婦だ」

そこへ小百合のピアノが運ばれてきた。C3と呼ばれるコンサート用だ。3本脚が組み込まれてゆく。業者は「調律しなくても大丈夫のようですね」と受け取りを取って帰ってゆく。小百合が隣で弾いてくれるので子供たちはすぐ曲を憶えてしまった。これぐらいなら楽譜は要らないようだ。しかし楽譜を映像として記憶するので逆に楽譜から曲を再現することも難しくないようになる。それはしばらく後のことではあったが。
近所のこども奥さん連中もやって来てこども音楽教室の様相だ。「この前エリーゼの為にを弾いた人じゃない」「音大卒は違うわね」「ヴァイオリンもいいけどピアノもいいな」「教えてくれるかしら」などと話している。

その日、夕食はモニカの家でとった。ハンスのピアノレッスンのお礼にモニカが小百合を招待したからだ。いつものように6人の女たちは手分けして料理を作った。小百合はこのような風景を不思議そうに見つめる。料理は母がやるものと思っていたし、共同の料理など初めてであったからだ。料理が食卓に並べられると矢野が呼ばれる。矢野はピアノのレッスンで小百合の来訪を知り観念して席に着くがばつが悪そうだ。「お邪魔しています」と小百合が何もないように挨拶する。「ああ、いらっしゃい」と平静を装うがぎこちない。
食事が始まると「吉永さん、成績も良かったんですって」と和子が話を向ける。「いえ」「オール5」「体育は2国語は4でした」「あとはオール5、すごいね」「お父様は数学者でしたよね」「それでガウスも知っていたのだな」とモニカが援護する。「近所の奥さんがピアノ教えてもらいたいって」「彼女にはお産と言う大事があるわ」「でも臨月までは気分転換になるんじゃない」
モニカは空気が読めないところがある。「関本、滝本元気にしているそうだ」今最も触れてはならない話題だ。「吉永さんの話をしているの、話を変えないで」と和子がぴしゃりと遮る。「すみませぬ」「聴音は3,4歳が一番だって」「それに感性も」「そうやあ、親の愛情に包まれた子は他人にやさしいいけど、愛情の薄い子は狂暴になりやすい」「いえるな、子供の時に生き物を育てた子はいじめなどしないそうよ」「牛も飼おうか、毎日新鮮な乳が飲めるで、子供にも仕事ができる」「ね、鶏もふやしたら、鶏糞はいい肥料になる」
東京育ちの直美。敬子。冴子は感心して聴いている。「あのう、私シェパードと兎飼っていました」「東京で、すごい」「動物と話すのは楽しいけど人間と話すの苦手」「動物と話をねえ」「釣りの名人は魚と話ができるそうだ、米の名人は毎朝毎晩お話するそうだ」「どうやって」「魚語、米語をマスターしているからだ」「うそ」「言語は愛情だ、赤ん坊のふぎゃふぎゃは母親にしかわからない」「ほんとうにそうね、愛情は関心よ、関心があるから観察する」「京子さんに座布団一枚」「俺は三枚だな」「そうですねえ」

小百合はこんな楽しい夕食は初めてと思った。「お父さん、いい。僕ソナチネ憶えたよ」こどもが大人の会話に入ることは禁止だがハンスは頃合いを測っていたようだ「知ってる、でもなタララーンのところおかしいぞ」「弾いてみる」「そこだ」「お父さんピアノ弾けるの」「弾けない」「どうして」「ハンスは正しい。この楽譜はピータース版だ」「ピーターかドベタか知らないがおかしい」「あのう、私はこう習ったのだけど、ちょっといい」小百合が弾いてみせる。「それならましだ」「ドイツ人を侮辱するのか」「けザルツブルグはドイツか、モーツアルトを呼べ」「まあまあ、興奮しないでこどもたちの前ですよ」 
小百合はこんなことでムキになれる会話が羨ましかった。「私調べてみますから」「では先生にお任せするか」「当たり前だ、俺がおかしいと言ったらおかしいのだ」「横暴だ」「千円かけるか、小百合に千円だ」「おうけっこうだ、ハンスに千円」直美以外は小百合に賭けた。「どうして」「大穴狙い」直美は一覧表にして貼り付ける。「直美3.5倍の配当だな」「元手が掛かっているから2.5倍よ」「2500円でもいい」「捕らぬ狸の皮算用とはこのことだ」
その夜小百合は和子の部屋に泊まった。「で赤ちゃん誰の子」「それは、矢野さん」「どうして」「それまで生理があった」「そう、それからは矢野だけ」「ええ」「女は妊娠というハンデがあるけん誰とでもとはいかんちや」「そうですね」「父無し子では困るじゃろ」「母もそう言ってました」「当たり前や、あんた家に居づらくなったんやろ」「ええ」「当分ここにいたらええが。赤ちゃん生まれたら冴子さんの隣にでも引っ越したら」「ありがとうございます」男を身体が求めるのも責められることではない。また子をつくることは易しいが生み育てることは容易ではない。和子は時間をかけて彼女にわからせるつもりだ。

問題は矢野が認知するかだ。「小百合さん約束して、矢野以外とはやらないと」「約束します」「約束よ。ここは私の家だけど土地は矢野のもの、向こうの建物もね」「はあ」「冴子さんと敬子さんは向こうに住んでいる」矢野は自分の子かと疑っているとは言えなかった。和子はかつての自分を小百合に看たからである。この女をまもってみせると自分に言聞かせたのだった。

谷和子は既成事実を積み重ねてゆく。小百合はまずコンサートホールを実効支配した。矢野オーケストラの練習日以外はほぼ制圧していた。午前中はピアノ、午後は子供たちにピアノと勉強を教えた。夕方は谷和子モニカのレシピに従って料理をする。たちまちマスターする。「ほんとに小百合さんは何でもできるのね」「料理って楽しいですね」「小百合の料理はやらないのか」「私そういうの苦手です。レシピがないと」
東大受験の浪人が数学を教えてと小百合のところにやってきた。彼女は医学部か理学部か迷っている。模擬試験の不正解、未解答を解いて見せた。「よくわかりました。先生は音楽部をどうして選んだのですか」「私解くのはできるけど新しい理論をつくることはできないと思ったの」「はあ」「ニュートンは年に100以上の理論を発表したそうだけど並の学者1つか2つ」「え、理論をつくるのですか」「でフェルマー最終定理に挑戦したけどダメだった」「べき乗数は二つのべき乗数の和に分けられない、2乗は9+16=25が有名ですが、3乗以上だとどうして。300年経っても未だに証明されていないでしょう」
「私考えるの苦手だから音楽部にしたの。音楽理論は左程じゃないけど古典派はこうロマン派こう、って結構うるさいの」「で先生はバロック、モーツアルトが好きなんですね」「そうなの、考えなくていいもの」「それでか、先生の演奏無色透明なんだ」「自己主張がないとよく言われたわ。でも何を主張するのかわからない」「もし先生の演奏モーツアルトが聴いたら何というでしょうね」「自動演奏器」「違いますよ、限りなく透明に近い演奏」「ありがとう」
結局その受験生は頭脳ロボットを開発すると工学部にいるのだが月に一度位やって来ては数学の問題を教わるのだった。「先生のお話聴くと勉強する気になるんです」というのが本音だろう。

小百合は人間の思惑策謀から一番遠い存在であったのかもしれない。矢野を求めたことが唯一の自己主張であったと言えるだろう。それも男が欲しかっただけである。しかし矢野ならば問題にならないと心のどこかで考えたのも事実だ。ただ彼女がその事実に気づいていたかは微妙である。

小百合は男の子を生んだ。冴子の通っている病院だ。直美も敬子も定期診断に通っている。矢野は和子に付き添われて赤ん坊を見に来たのだ。「ご主人、母子ともに健康です。安産でしたよ」「先生は彼女の股を開いて手を入れたのですか」「はあ、仕事ですから。処女なら有難いのでがね」半分は照れ隠しであることも女たちは見抜いていた。「おチンチンが大きいのはお父さんに似たのでしょうね」と看護婦がからかう。
小百合は和子の顔を見て喜んだ。矢野の顔を見て目を輝かした。「男前やない」「そうですかあ」「お父さんにそっくり。名前考えんとね、出生届出せん」和子はなかなかの策士である。矢野がまだ疑っているのを観念させる魂胆だろう。「退院したら冴子さんの隣に引っ越したらええが」ここも実効支配するつもりだ。
小百合が退院してきた。冴子の隣に住まわすべく和子は京子とモニカと身の回りを整える。「彼女はここに住み付くのか」「今行き場がないのよ」「かのじょの実家は」「居心地が悪いようよ」「変な親たちだ」「産着はうちのを差し上げるわ」「京子さん打ち止め」「わからないぞ」「やめてよ、8人でも大変なのだから」「モニカはあと5人くらい」「そうなると帰国の旅費が大変だ」

そうしているところに吉永夫妻が訪ねて来た。「よくよく考えましたが娘と孫を引き取ろうと思いまして」「どうして私に、小百合さんの決めることでしょ」と和子が気色ばむ。「そちら様にはいろいろご迷惑をおかけして申し訳ありません。これはお詫びの気持ちです」と包みを差し出す。「ほっこげな」「1年近く娘を見舞もせずよく言えますね」「娘の出産は婆がめんどうみるものだろうが」三熟女の攻勢にたじろぐ、「やはり親もとで育てた方がよいかと存じますので」「それはどうでしょう。小百合さんが妊娠した時に言うべき言葉でないですか」「帰れ帰れ母の胸にだ。力も尽き果て呼ぶ名は父母だったのだぞ」「それは」「それは何だ。俺は最初の子は実家で生んだぞ。父母は祝福してくれた」「どうせ娼婦だったのでしょう」
モニカ激怒す。「当時我フンボルト大学の学生なりき、無礼者。父はハンブルグ市長の職にありて近々国会議員に立候補予定なり」「お前謝りなさい」「だって」「ハンブルグ市長は日本の市長とは格が違う」「これは失礼しました」
和子が言った。「あなた方は小百合さんと心から向かい合ったことがありますか」「失礼な」「あなたから失礼とは言われとうない。動物ですら心から接すると心で返してくるわ」「私が動物に劣ると」「そうは言いませんが、あなたは小百合さんが三人の男と関係を持ったことをご存知ですか」「うちの子がそんなふしだらなことをするはずありません」

いつの間にか直美と敬子、冴子もきていた。「それはあなたの意見では。知っていたか否かの事実を答えるべきでしょう」直美が恐い顔で言った。「あなたは」「小百合さんが最初に男と関係を持った直後相談を受けた者です。答えてください」「知りませんでした」「これは本人しか知り得ないこと、私は本人からききました」「何が言いたいの」「女が複数の男と関係を持った場合この父親を特定することが難しいのです」
二人は沈黙した。父親が重い口を開いた。「娘が苦しんでいることに気づきませんでした。お恥ずかしい限りです。谷さん娘によくしていただきありがとうございました。みなさんにも。最初にお礼申し上げるべきでした。妻の非礼お許しください」と低頭した。「お父様お手をお上げください」「今私は香川さんの言ったことが理解できました。世間知らずでした」「行政書士風情が大層な口利くじゃありませんか」「お前はいつも自分の非を認めようとしない。非を認めて彼に謝らない限りこの問題は解決しない」「あの男無礼ですわ」
父親がすごい形相になった。「無礼なのはお前だ。離縁するから実家に帰れ」「そんな、あなた」「堪忍袋の緒が切れた」その時電話が鳴った。「あや何してるの」「お父さんがね、赤ちゃんの名前書いてる」「そう、あやその紙103号室に持ってきて」しばらくするとかなが命名を持ってきた。「幸多郎か、いいじゃん」「お父さんが幸多かれと言ってた」「そう、ありがとうあや。小百合さんは」「ハンスとピアノ弾いてる」「赤ちゃんは」「かなが見ている」「あら、心配だわ観て来る」「京子さんこれ小百合さんに見せて」

和子たちは部屋の準備が終わると帰って行った。直美が母親に言った。「自分の子でないかもしれないと思いながらも認知することは並の男ではできません。幸多郎ちゃんがあなたの遺伝子を持っていると思うと不安ですわ」「どういうことですか」「発現しなければいいのですが私たち子に悪い影響を与えないかということです」「まあ」「母子ともに引き取っていただきたいですわ。私は不倫の娘を半年以上面倒を看て来た和子さんが理解できません」母親は怒りに震えていたが父親は直美の真意を理解したようだ。
彼は直美に黙礼して部屋を出た。ステージには前橋響子がいた。その伴奏は小百合だった。今や世界的奏者となった前橋響子。吉永夫妻は親離れした我が子を見た。自分たちは子離れしなければならない。そして母親は妻離れしてゆく夫をみた。自分がひどく惨めに思えるのであった。今日初めて自分が相手を咎めることで自分の非を隠し正当化してきたことをさとった。

その夜は小百合の引っ越し祝いということで、103号室でワインを開ける。矢野を呼んだがなかなか降りてこない。強制連行するかと京子が警備員に電話する。「藪用だけど先生を103号室にお連れして下さる。嫌ならいいのよ、差し入れは中止。よくて、社長も貴男のことほめてたけどな」「京子さんに座布団1枚」拍手。「小百合さん男の子のおしめは前を厚くするの、行く先が前方でしょ」「なるほど勉強になります」「濡れたおしめはトイレで水洗いして洗濯籠にいれておく」「それなら簡単ですね」「頑張って新米ママ」
そこへ矢野が拉致されてきた。「殿、お待ちしておりました。ね、幸多郎。ではワインを開封致そうぞ」モニカがコルク栓を引き抜くとポンと音がした。「殿、乾杯の音頭を」「上げよいざ盃を我が友に幸あれ」「かんぱーい、次は幸多郎ちゃんや」「和子さんやるわね」「年季が違う」「そうね」「敬子何をこそこそ話している」「こうしてワインが飲めるの先生のおかげかと」
矢野は外堀内堀と埋めて来る和子に舌を巻いた。学生時代から駆け引きの無い女であったのが、小百合親子に関しては策士ぶりを発揮する。それがうれしかった。「ここは誰か来るのか」「幸多郎ちゃんとお母さん」「そうか」「ここは静かだしお隣が冴子さん、安心でしょ」女たちがくすくす笑う。「ところでお前たち何か隠しているな」「何でしょう」「小柴監督と何をやっている」「はて何で御座りましょう」「隠し事はいかん」
モニカがとぼける。「小柴監督欧州各地を旅しているとか、我が家に来れば接待してやるのに」「何の旅だ」「風の噂」「ふん、噂にしては実感がこもっているな」「本当にドイツワインってさっぱりしていていいわね」「だろう、京子我が家では伝統的にステーキが食えるぞ。オーブンで1時間から2時間かけて焼く」「ドイツに行きたい、ねえ和子さん」「行きたいわあ、けどこども連れてゆくならバスをしたてないと」「そうね、来年は3人増えるし3年後にしようか」「でもまだ増えるかも」「誰」「さあ」
当面は小百合が「通い夫会」に入会できるかだ。それには母親が矢野に謝ることが問題である。「自分の非を認めない人は謝り方を知らないのね」「冴子さんに座布団1枚」「誰かに説得してもらうか、冴子さん言いだしべ」「そんな、無理よ、鬼頭さんぐらいでないと」「やわな敵じゃないしね」

事態は急転する。元外交官は娘に「敷居を跨がすわけにはゆかぬ」と言い放った。父親の権威の前には言葉は出なかった。「ならぬものはならぬ」のである。「戦後と強くなったのは女と靴下」と言われたが、強い父親もまだいたのだ。というのは誉めすぎかもしれない。外交とは己を正当化するために相手を悪しく言うのが基本であり世界の常識である。仕事は家に持ち込まないようにしてきたが「子は親の背を観て育つ、子は親の鏡」とよくいったものである。彼は娘の育て方を恥じていたのである。
娘は母親に付き添われて夫に詫びを入れた。その足で矢野にも「無礼の段平にご容赦ください」と涙を浮かべた。「私も言い過ぎました」と矢野は頭を下げた。この一言が何故言えなかったのかと中年初老女になった娘は悔やんだ。

そこへ小百合が帰って来た。「あらおばあちゃん」「小百合嫌だよ、この歳でひ孫なんて」「おばあちゃんは美人だから仕方ないよ」「そうかい、なかなか男前だね、名前は」「幸多郎」「松本幸四郎みたいになるよ」「それ誰」「知らないのかい、有名な歌舞伎役者だよ。で、子育ての方は」「皆さんが良くしてくださるので」「お礼しなくちゃ」「こどもの勉強と音楽教えているからいいんだって」母親が涙ぐむ。人情は金で買えない。

元外交官の佐川、鬼頭、山之内、吉永洋一、そして香川こと矢野が神田のすき焼きを囲んだ。小百合の一件で佐川が一献差し上げたいと席を設けたのだ。二階の座敷から駿河台のニコライ堂が見える。「いい所ですな」と鬼頭が口を開いた。古い暖簾をひっそりと守って来たのであろう。仲居が一人一人の鍋に盛り付けてゆく。「肉はすぐ食べられますが蒟蒻豆腐は汁が染込んでからのほうが美味しゅうございます」と若女将が酒を注いで回る。
山之内が天井を観る。「んん」「感動した」「まこと。この酒は」「老松でございます」「すき焼きにようおうちょる」「恐れ入ります」「国の家族にも食わしてやりたい」「お国は」「ブラジルです、70年ぶりの帰国ですろ」「それはご苦労なさったことでしょう」佐川が目を熱くする。大正10年に渡ったことになる。移民の苦労は並大抵でなかったはずだ。「お住まいは」「サンカタリーナです」「リオより南ですな、冬は寒いでしょう」
ブラジルといっても南に下れば日本並みに寒い。冬の風は南から吹き付けるのだ。そんな夜は家族ですき焼きをするのだが日本のようにはいかない。異国に住むと日本の味が恋しい。「佐川さんも世界各地を」「30年で15か国を、長くて3年で転勤ですから表面的にしか見ておりません」「印象に残る国は」「フィリピンでしょうか」「ほう」「国家として体を為していない気がしました。日本の小藩以下でしょう」全員が興味を示す。「原因は」「80以上の民族、言語でしょうか。フィリピネスと英語を国語としましたがこれが全国に普及するには数十年はかかるでしょう」「民族間の意思疎通が取れない」「ええ、中央政権が確立するのもまだまだ先でしょうな。インフラ整備ができていませんから」
山之内和豊が在留邦人についてたづねる。「海外勤務組、買春組、がほとんどで永住する人は少ないですね」「日本人会も入れ替わりが激しい」「骨を埋める気はないから日本人との交流は必要ないのです」「移民とは民を移すことかの」「日本の政策は植民、その地に民を植え付けることで日本の領土拡大を図ったと思います」「搾取地、コロニーではない」「逆ですね、持出ですね」

健はもっと聞きたかったが話題は変わった。「好印象の国は」「対照的だったのがスリランカ、セイロンですな。農業技術がすばらしく英国に支配されなければと思いました」「戦後賠償を最初に放棄したと」「ええ、おかげで賠償請求を放棄する国がつつづき講和条約は有利に進められましたから。国民も親日的です、仏教国というのもありました」
仏教国は一般に人々が柔和で温厚だ。「ところで香川先生は大手にお勤めだったお聞きしましたが」来たなと思った。「もともと教育学を勉強したいと思っておりましたが、企業に就職と道を踏み外しました」「どこか学究肌のところがあるとお見受けしました」「夢は叶わぬと諦め、就職したのですが数年で退職しました」「もったいない」「退社してその環境が大切であったかと思い知らされました」「河井継之助みたいですな」「あれだけのことをやれば男の本懐を遂げたと言えましょうが何をさせても中途半端に終わっております」

佐川が鬼頭の眼を観る。「しかし顧客ができるまでは大変でしたろう」山之内も呼応する。「まこと原始林を切り開いてゆくようなもんじゃきに」「アマゾンの原始林の中に城を構えておられる」香川健は三人がからめてくる気配を感じた。何が聴きたい、はっきり言えと思った。鬼頭は首を振った。佐川は生一本な男には腹を割って話すしかないと息を止めた。「ところで香川さん、小百合をどうされるおつもりでしょうか」「どうもしません」
場に緊張が走る。香川健はこれ以上何をしろというのだ、という顔で佐川を見返した。佐川は恥じた。彼は今まで一度も自分の子を疑わなかった。小百合は疑われることをした。だが彼は自分の子と認知下ではないか。「小百合は可愛い孫ですのでよろしくお願いいたします」と言うのがやっとであった。鬼頭が「子宝の秘訣をお聞かせ下さらぬか。男の夢じゃきに」と取り持った。「女に惚れてやらせてくれと頼むのです。さらば子宝を授かりましょう」

初めて吉永が口を開いた。「惚れる、ですか」と感心した。「四国にお花権現がおわします。ご神体は男根とマラでして、このご神体に触れ通り抜けると子宝に恵まれると多くの男女が訪れます」「惚れるとは感動ですな、私など数学理論を考えだすのが年に一つがやっとです。かのニュートンは年に100以上の理論を世に送り出しました。その秘訣を訊かれたニュートンは美しい風景を観て感動することと答えたそうです」「ほう」「私もお花権現にお参りすればもう少しましな理論を考え出せるでしょう」
これを契機に場は盛り上がった。「キューバ大学は正門が開くと巨大な男根が下りてきて花芯の池に沈むからくりでしたな」「わしも観たきに、ラスベガスで何気なく1ドル賭けたら1万ドルになった。それでキューバに脚を延ばした」「カストロ議長にあったのか」「ああ」「ほんまに」「少年野球に入れて貰ったら年寄り扱いじゃ。わいをアウトにしたら10ドルやるといったらむきになりよった。真ん中の速球を弾き返したのだがなんとフェンスの上に外野が立っていた」「危ないことを」「と思うだろ、監督に将来の大リーガーに怪我させたらどうすると叱責した。これがカストロの耳に入って食事に招かれた」
「それはそれは」「彼は野球好きで、この国の宝を守ってくれたと私に礼を述べたのだが、野球は日本とキューバとどちらが強いかと訊いてきたきに日本といってやった」「カストロ議長に」「キューバには大リーガーがたくさんいるがと中々ひつこい。野球は個人競技じゃない、チームの為に己を殺すことができるかと言うたらわいの手を握って抱き着いて来よった」

女将はいいお話と感じ入る。「子宝は生んでくれと男が女に頼むものですな」「あら、女もいい男の子を生みたいと思いますよ」「そのときは色目を使うのかい」「いやだあ」「動物の多くは雌がフェロモンで雄を発情させますから人間は例外的かもしれません」吉永は娘が矢野を誘惑したことを忘れているのかと矢野は思った。まあ武士の情け、黙して語らず。「先生その理由をご存知ですか」「いや寡聞にして存じません」
矢野は動物が年間性交回数を神と取り決めた話をした。犬5回、兎3回と順調に交渉は進んだのだが、神は馬7回と言うところを4回と言ってしまった。すぐに訂正すればいいものを沽券にかかわると言を変えなかった。「ヒンでもない、犬より少ない馬鹿にするな」と後足を蹴って出て行った。神はミスを恥じたが沽券を重んじた。そこへ人間がやってきた。「年間150回の要求は」「うるさい、勝手にしろ」と怒鳴ってしまった。以後人間は時を選ばずセックスをするようになったというお話。

これは矢野の十八番であるが大いに受けた。謝って改めれば済むものをとの佐川一族への皮肉も込められていた。元外交官はこの若者なかなかやるなと舌を巻いた。こちらがパンチを繰り出すと的確なジャブが返って来る。「男が先か女が先かはさて置き、香川先生の奮闘は日本男児の誉れですな」「同感です、その辺のところを是非とも」「そもそも大和の国は天照大御神、卑弥呼。壱与と女が治める国なれば、初めの頃はやらしてくれと拝み倒したのですが途中で組み伏せられました」「果報な」「とお思いでしょうが力づくで犯されるとき強姦罪は女にのみ成立するのは違憲であると考えました」「して首尾の方は」「それなりに、攻略数がどうにか上回って」ここでどっと盛り上がる。
女将が「先生の子なら産みたい」と茶化す。「冗談ではない、今でさえ月月火水木金金なのに身がもちません」とカウンターパンチ。女将は自分がマットに沈む気がした。吉永は意味を悟った。「労働基準法違反ですな」「たまには一人になりたくなります」これは勝利宣言だと矢野は思った。

男たちはその後数回ここですき焼きを楽しんだ。ある時矢野が欠席した。モニカ京子和子小百合の猛攻に腰が立たなくなったのだ。「おう主よ憐み給え、南無阿弥陀仏」「参ったか」「参った」「降参する」「降参」「いざ楯戦人よ」「もうだめだ、許して勘弁してくれ」といったぐあいだ。この状況は小百合佐川ラインから伝えられていた。「大した男ですな、茫洋としていてパンチは的確」と佐川が切り出す。「仕事ができる男は幾らでもおりますけんど仕事をつくる男はそうおらんが」鬼頭のライバル会社が矢野を手放したことを惜しんだ。
それはここでは相応しくない話題なので鬼頭は口には出さなかったが矢野の言葉を思い出していたのだ。「企業が利潤追求を目的とするとしても手段方法によって格の違いがありましょう。金融が一番効率がいい。しかしものづくりに比べれば金貸しに過ぎません」「あなたが私なら」「航空母艦でしょう。同時に数基の戦闘機が発進できるようにします」「それは素晴らしい」
と相槌を打ったが所詮は素人の考えと思っていた。「甲板は両横にスライドさせ格納庫を戦闘機ごとリフトアップします」「なるほど甲板は屋根ですか、緊急着陸時以外は」「そうです。条件が同じなら離発着時間が勝敗を決めるでしょう」「言われるまでもないが武器輸出には規制があるきに」「社長のお言葉とも思えませんな。規制など外せば済むことです。それまでは自衛隊の実習船として貸し出せばよろしい」「世界にデモして回る。米国が茶々を入れて来たら実習船ととぼける」「お分かりいただけたようですな」
世界の海軍から引き合いがくれば注文生産に応じる。政府も共産圏を除いて規制解除に踏み切るだろうというのだ。「取り敢えず独仏英あたりの注文をうけたらどうですか」「米国が煩い」「政府をして黙らせるのが社長の仕事でしょう」「僕はまだ専務じゃきに」「常に一段上の立場で考えなくてどうします。株主総会で解任動議を出しましょうか」「それだけはやめて」「土佐のいごっそも大したことないのう」レーダーで捉えにくいステルス性と操縦性を兼ね備えた戦闘機を搭載して航空母艦をデモして回れば世界が日本にひれ伏すと事無げに言ったのだ。鬼頭は息子のような若者を改めて見直した。
ライバル会社は総務部長が部下を引き上げるのにこの男が邪魔だと放り出したのだ。つまり左遷したのだ。鬼頭には現代版李陵と思われたのであった。ライバル会社内にも彼を惜しむ人物もいたが課長以下の人事に口を挟むわけにはゆかなかったらしい。


女将が挨拶に来た。「あら香川先生いらしてないのですか」「彼は妻子持ちだよ、諦めるんだな」「なに一度振られたぐらいでは、これでも昔は神田小町といわれたのですから。闘志がわきますわ」「妻子は半端じゃないぞ」「はあ」「7人の妻と30人を超える子がいる」「ほえー」「まあ妾ならどうにか」「どうして私が妾に。8人目に立候補します」「彼は処女しか相手にしないぞ」「そんな、5年前まで処女でした」「彼は惚れた女にしか手を出さない」「私に惚れぬ男がいましょうか」「これはまいった、恐れ入りましてございます」
矢野の話となると盛り上がる。「けど30人お子さんだと養育費も大変でしょう」「それよ、当座の費用だけでなく大学卒業までの積み立てをやっているからすごい」「一人3千万として9億」「金に執着しますが教育費には惜しみませんな」「子は宝、人生を豊かにしてくれると養育費は惜しみません、だが子孫に美田を残さず」「自分で生きてゆけるように育てるのが方針らしいですな」「それが本当でしょうな、ある富豪が娘に自分で生きてゆけるように育てなかったことが悔やまれると言残したとか」「音楽、絵画、運動、感性感覚を磨くものは幼児期と考えているそうです。今度はサッカーチームもつくるのでないかな」「中学を卒業したら自分の道は自分で見つけろというのが彼の基本方針で、昔は数えの15で元服したというのが根拠のようです」


関本滝本優勝す

関本精児と滝本幸次はドイツを中心にピアノを勉強していた。モニカの両親の家に下宿しているので心強かった。片っ端からコンクールに参加して行った。その都度順位を上げて入賞することが状態となったが優勝には届かなかった。ある日二人はライプチッヒ音楽院を訪ねた。滝廉太郎の足跡をたどるためだ。ところが職員はそんな日本人を知らないとすげなかった。
たまたま居合わせた老教授が廉太郎滝かと声を掛けてくれた。彼は二人をホールに誘った。そして彼の作品を演奏してみろと言った。関本精児は荒城の月を弾いた。ホールに学生教授が集まって来た。滝本幸次は花を演奏した。老教授は拍手しながらもっと弾けと言った。「我々は彼の作品を現在これしか憶えていません」「君たちは彼の全作品を演奏すべきと思うがね」「次の機会までに全作品を練習しておきます」「よろしい、では君たちの好きな曲をそれぞれ弾いてみなさい」関本はベートーベンを、滝はメンデルスゾーンを弾いた。「うむ、悪くない。君たちここで勉強するかね」「いえ、結構です」「どうしてかね」関本が、授業料が払えないからと答えた。  

教授は笑って「それは私がなんとかしよう、滝廉太郎を調べるには都合がいいのではないかな」と言った。「有難いことです」と二人は教授に抱き付いた。「1901年に日本から来た留学生の話は聞いていたがこれ程素晴らしいとは知らなかったよ。僕も研究してみる。そうだ君たち私と共同で研究しよう」「それは願ってもないことです。教授お礼に別の作曲家に作品を演奏します」と関本が雪の降る町を弾く。滝本が歌う。「おう、ショパンだね。だが日本の音楽だ」今度は滝本が椰子の実を弾く。関本が歌った。
今度は会場から感じ入ったという拍手が起こった。「日本音階はどんなものか聞かせてもらえるかな」関本がレミソラドレと弾く。「5音階、ファとシがない」「ちょっと待ってください」と関本がレシラソミレと弾いて見せる。「おうなんと、上行と下行が異なる」滝が歌う。「君が代は千代に八千代に」八千代の部分を繰り返す。ホールが熱気を帯びる。「他には」ミファラシレミと関本が弾く。「さくらさくら弥生の空は」と滝が歌い、観にゆかんむの部分を強調した。「日本に西洋音階が伝わったのは」「19世紀末です」「すると滝はたちまちのうちに西洋音楽を理解したのか」「大変な苦労があったと思いますよ。日本人にとって第4音と第7音は奇異に感じられますから」
教授は考え込んだ。「我々は日本の音楽を知らない、いや日本を知らない。しかるに日本人はドイツ音楽を理解している」と叫んだ。拍手がわく。「我々も日本音楽を研究すべきである」「そうだ、そのとおりだ」とホールを揺るがすシュプレヒコールが起こった。「その後の滝は」「2年後亡くなりました。23歳でした」「彼はシューベルトよりも若かくして亡くなったのか。もう少し生きておられたら」と教授は涙を浮かべた。「彼の父君は音楽家だったのか」「いいえ、侍でした」「おお。サムライ、武士道」

二人は母校桐朋学園に滝廉太郎の作品、資料を送ってくれるよう依頼した。作品は母校で手配できたが資料は滝の母校芸大に多くある。事情を知った前橋響子が芸大に掛け合ってくれた。楽譜、資料が次々と日本から届いた。教授は大いに喜んだ。そして二人に滝廉太郎の成績を示した。「滝は音楽理論をどの学生よりも深く理解していたとある。残念なことだが彼がここで勉強したのは2か月だ、せめて2年いたならば」とその才能を惜しんだ。
二人の演奏については「君たちの演奏技術は既に音楽家の域に達している。だが何か足りない」と評した。「この国では音楽は生活に溶け込んでいます。人生の一部なんですね」と関本精児がつぶやいた。教授はにっこり笑った。二人はアマの演奏を聴いてみた。ある男声合唱のピアノ伴奏の音は天上の響きがしていた。ピアニストは老人であった。伴奏しながら合唱を暖かく見守っている感じだ。演奏会が終わると二人は老ピアニストを訪ねた。彼は二人の日本人に驚いたが意図を知って「この日本人の曲を弾いてみなさい」とステージに誘った。帰りかけていた聴衆が見つめる。「うん、君たちの方が僕よりも曲をよく掴んでいる」「しかし同じピアノでも貴男のような美しい音は出ません」

合唱団員も取り囲む。「僕はいつもピアノに話しかけているけどね、今日も一緒にいい演奏をしようと」「ピアノに話しかける」と関本が叫んだ。会場が彼に注目した。老ピアニストは「もう一度弾いてごらん」とやさしく言った。関本はピアノに話しかけて弾き始める。「いいじゃないですか、とてもいい音だ。貴男も弾いてごらんなさい」滝もピアノに話しかけて弾き始める。合唱団も歌う。会場から拍手が巻き起こった。二人は老ピアニストに抱き付く。「今日のことは一生忘れません」老ピアニストは二人を抱きしめて「君たちは素晴らしい音楽家だ」と言った。二人は顔を埋める。周りから「ヴンダワァル」と声が上がる。二人は幸福感に包まれた。

二人はコンクールに参加した。関本はミュンヘン、滝はパリであった。奇しくも二人は同じ時刻にステージ立っていた。一礼してピアノに向かうと演奏をイメージした。その時吉永小百合が現れにっこりほほ笑んだ。二人には知る由もなかったが同じ時刻であった。一皮むけたというか肩の力がぬけたのか二人は満場一致で優勝した。だがその時は互いに知らなかった。
二人はライプチッヒ音楽院に取って返し老教授と老ピアニストに報告した。二人の優勝は地元メディアが大きく取り上げた。ライプチヒ音楽院に学ぶ日本人が同時に国際コンクールで同時に優勝したこと、同じく70年前にどう音楽院で学んだ滝廉太郎を研究していること、さらに近々日本人作曲の作品を演奏することを報じていた。

演奏会は大成功であった。パンフレットには「日本に西洋音楽が伝わったのは70年前のことである。しかし日本人は瞬く間に西洋音楽を理解し自分たちのものにしていった。ドイツ人がどれだけ日本音楽を知っているかと思えばこれは驚異的なことである」との老教授の言葉が紹介されていた。演奏会の模様はテレビで放映されたのだが電波は国境を越えフランスででも受信されていたのである。その為かミュンヘンとパリから演奏会のオファーが来た。
日本人の作品だけという演奏会は珍しかった。しかも日本人の演奏である。同盟国だったということ、東洋人の演奏という物珍しさもあったがテレビ放映を観て生演奏を聴きたいと大勢の聴衆が会場を埋め尽くした。開演と同時に中田喜直の軍艦マーチが流れる。ピアノ曲に編曲されているが原曲の味を十分に伝えている。軍関係者は立上がって挙手した。演奏が終わると割れんばかりの拍手と歓声が起こった。演奏者は何度も会釈してこれに応えたが拍手はなかなかやまない。演奏者関本精児は思わず舞台裏に引き上げた。曲目解説には専守防衛が強調されていた。「武士道」と叫ぶ者さえいた。
会場が暗くなり聴衆が静まると滝本幸次が椰子の実を演奏する。今度は静まり返り旋律にひたる。やがて滝本の手が鍵盤から離れると我に返ったように拍手が起こった。「ブラームスの感じがするね」「でも間違いなく日本音楽だ」などとささやいている。続いて滝廉太郎、団伊玖磨、山田耕作、信時潔が演奏されていったが、最後はやはり荒城の月である。

関本精児が前に立ってパンフレットの裏を示しながらツーザメン;一緒にと言った。出足を合図すると会場全体に春高楼のと歌声が流れる。ああ荒城の夜半の月と歌い終わるとすすり泣きがもれた。会場の静寂の中で涙する者も少なくなかった。やがて小さな拍手が少しずつ広まりいつまでもつづく。関本と滝本は深々とあたまをさげた。その時老紳士が二人ステージに登って来た。しかも花束を持っている。二人は駆け寄り抱き付いた。老紳士は二人を抱き寄せた。「私たちに日本音楽を教えてくれるかい」「先生」若者の頬に涙がつたう。
老ピアニストは一礼して椰子の実と言った。ピアノに向かうと静かに引き出した。何と美しい音だろう。演奏が終わっても会場は余韻に浸っている。老教授が「僕は信時潔」と言ったとき聴衆は気づいたように拍手したのであった。教授の演奏は宗教的響きがある。音楽は同じ曲でも奏者の味経験が現れる。それは教会で祈る姿であった。

メディアはこの演奏会を詳しく伝えたが聴衆の感想が注目された。「日本の西洋音楽は新しいが我々に追い付くのに時間はかかるまい。日本車がすでに巷に溢れているように」「我々は西洋は東洋に勝ると考えて来たが改めねばならない。我々は日本を学ばなければならない、彼らが我々を学んだように」「日本人は礼儀正しく感情を表に出さないと聞いていたが感極まると涙する」「荒城の月を聴いて悲しいほど美しいという意味が解った」など。

ミュンヘン、パリ公演も成功裡に終わった。二人は言い知れぬ幸福に包まれていた。「滝本、汽車で帰ろう」「俺もそう思っていた」「ミュンヘン、ボンと来た道を辿ってみたい」「ローレライをもう一度みたいな」と話しているところに若い女が二人は入って来た。こちらの列車は自由席でも4人掛けで個室になっている。通路と座席がドアで仕切られている。「ご一緒に旅させてください」「どうぞ」「私たちミュンヘンに参ります」「そうですか」関本は無愛想に答える。「おい、ひまわりだ」「ゴッホかソフィアローレンか」「両方だな」
女たちはパリ公演のパンフレットを取り出した。「私たちこういう者ですが一連の日本音楽についてお話を伺いたい」と名刺を差し出した。ジャンヌ:フランス国営放送報道記者、マリオン:西独国営放送報道部記者とあった。「いいけど二つ条件がある」「なんでしょうか」「我々の空腹をみたすこと、それに我々の話の邪魔をしないこと」「わかりました。では第一点これはどうです」とサンドウィッチを示す。「君の片腕も食わしてもらいたい」「まあ」
そこへ車掌がやってきた。「ねえ、大きなハムかソウセージをこの日本人に与えてください。さもないと私のこの腕を食うというの」「それはたいへんですな、腕が無いと映画に出演できなくなりますよ。私の昼飯を差し上げましょう」と車掌は取って返した。手提げ籠にパンとハムエッグ、片手にワインを下げて来た。「でも貴男のパンがなくなるわ」「そうでなければ私はキリスト」 
 滝本はボールペンをパンフレットに走らす。「これでどうだ」「親愛なるMessiah 汝我らを飢餓から救い給へり、か、いいじゃないか」「お前もサインしろ」「もちろん、空腹に不味い物なし、まず乾杯しよう」「美味い、香りもいい」「おいボルドーワインと書いてあるぞ」「高いかもな」「すみません、これは私のパンフレットです」「後で同じものをやるよ、邪魔するな」
二人はパンにかじりつく。「しかし早く滝廉太郎の研究を終わらせたいな。俺たち日本音楽を演奏してゆかないか」「俺もそう思う、欧米人は日本を知らなすぎる。日本人が欧米に対する理解に比べると幼稚だな」珍しく滝本が声を大きくした。「やはり白人主義の名残か」「だろうな、サンサーンス、ラベル、ドゥビッシーの音色は素晴らしいが日本の作品も遜色ないと思う」「山田耕作など華麗にしてフランス人好みじゃないか」「そうだが俺は信時潔の渋さが好きだ」「日本音楽が知られるないとその良さも理解されない」「関本、和楽器との競演はどうだ」「春の海か、筝曲はやりやすいが日本音階と洋楽は水があうかな」そこで二人は一息入れた。

ジャンヌが恐る恐る言った。「私のパンフレット返して」「同じものをやるから話を邪魔するな。同じことを言う奴は馬鹿だよ」「これはどういう意味ですか」「ちっとは日本語を勉強しろ」「ヘール滝本、彼は何を怒っているのですか」「日本人が欧米のことを勉強しているのに欧米人は日本を知らなすぎるのはけしからんと怒っているのだ」「ジャンダルク、日本の文学作品を言って見ろ」「知りません」「それで記者が良く勤まるな、我々は英仏仏文学を10や20は挙げることができるぞ。源氏物語は世界最古の小説と言われる。ドン・キホーテ以上の作品だ」「まあ関本、それぐらいで勘弁してやれ、泣き出すぞ」
マリオンが「私も勉強していません」と言った。「勉強もしないで取材するとは無礼な女だ」「日本人は欧米に限らず異文化の優れた点は評価して取り入れて来た。君たち欧米人はどうかな」「確かに西洋文明が優れていると考えていますね。またオリエントは西洋に跪くべきと」「そこだよ、彼が怒こっているのは」「おい、マリオネット、全ての人間は再び兄弟となるとはどういうことだ。いつまで兄弟であったのだ」「昔のことでしょう」「何年前のことだと訊いている。はぐらかすな」「知りません」「調べろ、彼は星空の中に住んでいるに違いないとはどういうことだ。いるのかいないのか、存在するのかしないのか」「彼酔っているの」「君には質問に答える義務があると思うよ」「たぶん、いるでしょう」「多分とは何だ」「彼を見たことがないので」「ほう、見たこともない者を信じる、おめでたいのう」と関本は日本語で吐き捨てる様に言った。「彼なんて言ったの」

滝本はそのとおりだと思ったが若い娘にそれ程きつく当たることもあるまいと躊躇った。「でも大切なものは目に見えないのじゃありません」とジャンヌがいった。「私は星の王子様でないから見えない者は信じられない」「ムッシュー、湯川博士の中間子は見えますか」「今は見えないが電子顕微鏡が発達すればその姿をとらえることができるようになるだろうね」「でも信じられている」「僕には難し過ぎる」「貴男正直ね、日本人は神という言葉があるから神は存在すると考えるのですか」「そういう考えもある。日本には八百万の神々がおわすと言われるから多分そうなんだろう」「多分とは」「僕は神にあったことがないから」「神に会った日本人はいるのですか」「さあ、会ったという言葉を信じるしかないだろう」「言葉は目に見えますか」「文字にすれば」
関本が「耳に聞こえれば十分だろう、それ以上何を求めるのだ。音楽も映像にするのか」「だって彼が見えない者は信じられないといったから」「さあそれよ、神が存在するか否かとの話をはぐらかすのが欧米流だ」「そうね。神の存在は永遠のテーマで私には答えられないわ」「最初からそう言え、可愛げが無い」「関本そこまで言わなくとも」「女は甘やかすとすぐ増長する」
滝本は苦笑した。「それはそうだが一食の恩義がある」「確かにこの一食は我々を餓死から救った。だが恩義は恩義。是非は是非。一食で真実をゆがめるのか」「是非は是非だが、男女の結合は互いを愛し尊敬することだろう」「未だ結合していない、こんな女を敬愛できるか」「結合して無くても女を歯に衣着せぬのは大人げないぞ」「大人げなくて結構、高慢な女にちやほやするのは下心があるからだろう」「誰が」「お前だ、ジャンヌモローのどこがいい」「私ジャンヌマリーです」「煩い、滝本に言っているのだ。おい待て、お前日本語がわかるのか、やばい」「少しだけ」「10%か20%か」「半分くらいかな」

関本はジャンヌをにらむ。「半分は少しではない」「すみません、先程からお二人の関係を伺いたかったのですが」「永遠のライバルだ」「でも友達でもある」「ライバルでない友など意味はない」「滝本さん貴男は」「同じだな。彼がいたから私は優勝できた。ライバルは相手を育てる、磨く」「素晴らしいわ、私たちもライバルねジャン」「そうよマリ」「おい、ドイツに入るぞ」
パスポートを取り出す。関本はついでに音楽会のパンフレットを引き出してジャンヌに返す。「文がありません」「借りた時なかった、文句があるか」滝本は「うるわしのジャンヌ 汝我らを飢餓から救い給へり 滝本幸次」と書き込む「私も」とマリオンが関本にねだる。「美しきマリオン 汝我らを飢餓から救い給へり 関本精児」と書き込む。「国境と言っても景色は変わらないな」 
列車はドイツに入った。「お嬢さん腕は」と車掌が声を掛ける。「まだ食われてないわ、貴男のおかげよポール」「ポール美味かったよ、これは感謝の気持ちだ」と関本がパンフを手渡す。「おおジャポネ、何て書いてある」ジャンヌが翻訳する。「俺はMessiahか」「ポールすげえな」「お前は入国審査をしろ」「そうだったな、おうヘール関本荒城の月、へール滝本、名も知らぬ遠き島いおり流れいおる」とドイツ人車掌。「みなさん良い旅を」と軍艦マーチを歌いながら車掌たちは出て行った。

ミュンヘンで乗り換えだがマリオンが宿を提供するから明朝一番で発ったらと言う。彼女の叔父の家に泊めてくれるよう手配するからレストランに行こうと強引に連込む。演奏会の時は街に出る暇もなかった。「あれBMWじゃないか」「本社はここにあるのよ」「垢抜けしているな」「あの時計は有名です」「何故だ」「今に分るわ」人々が歩みを止め上を見上げる。鐘の音とともに人形が踊り出した。「童話の世界だな」「東京にも欲しいな」
マリオンとジャンヌは関本と滝本を撮影する。「わしらも一緒に撮ってもらえるだろうか」と老夫婦がマリオンに頼む。「きいてみましょう」とマリオンが夫婦の依頼を伝えると関本と滝本は間に夫婦を挟んで撮影に応じた。「私たち貴男方の演奏聴かせてもらったわ。涙がでるほど感動しました」「有難うございます。お言葉を胸に一層研鑽して参ります」と関本が丁重に礼を述べた。
ジャンが言った。「あの男は私にはつんけんするくせに」「日本人の特性かも」「変な人種ね」「ジャンそれより密着取材してみない。面白いものになると思うの」「そうするか、デスクに了解をとらなくちゃ」四人は木造のレストランに入った。まずはビールで乾杯。「ミュンヘンビールはサッポロに似ているな」「そういえば姉妹都市でなかったか」「そうだったな」

関本はテーブルを観て「あてはないのか」といった。「あて?」「あてなしで飲めるか」滝本が説明する。「日本人はビールを飲むときあてをつまむのだ。そうだなハムでもソーセージでもいい」「ステーキを注文しましたが」「焼きあがるまで間あてをつまむのだよ。だから少しでいい。うん、チーズかピーナッツないかな」「ワインは」「ステーキを食いながら飲むのじゃないの」「そうですね」「ムッシュー滝本は物静かね」「どういう意味」「フフまずかったかな」
スープが出たが関本は、あては未だかとお冠。やっとでてきた巨大なフランクフルトソーセージ。「どうやって食うのだ」これを滝本が制して「君、インチカットそれとマヨネーズ」とにっこり言った。

関本はスープを勢いよく飲む。周りが振り返る。マリオンが腕を抑えながらたしなめる。「俺に指図するな、スープはススルものだろう」「でも音を立てるのマナーが悪いわ」「お前らもラーメン食ってみろ、すすらないと食った気がしないぞ。食事は美味そうに食うのが料理人への、料理に関係したものへの感謝だろうが」「ラウメンですか」「それにな野菜を食わないから脂肪の塊になるのだ」「そんなに太ってないわ」「料理の味がわからぬ奴は量で満足する、精々塩をかけるぐらいだ」「ソースがありますわ」「ソースの原料胡椒は」「輸入しています」「金は払っているか、略奪はしてないな。ルーブル博物館は盗品の展示場とも言われているぞ」「もうその辺にしておけ関本、食事がが不味くなる」「それもそうだな、蛮人に日本の食文化は理解できまい」
あてが来て少し落ち着いた。氷に冷やされた赤ワインが出て来た。「うん、いけるな」「リーダーターフェルです」「フランスではナポレオン、最高級と言う意味」「ふん、老酒か、俺たちの話の邪魔をするなと言ったろう。どうして生意気な口をきく。日本の女、吉永は大人しい女だったな」滝本はどきっとした。小百合は処女でなかったが相手が関本であることは想像がついていたがやはりと思ったのだ。「日本人は指図されることを嫌がるのだ」「正しいことでも」「正しいことが善いとは限らない」
この会話はジャンヌだけでなく周りを驚かした。「食事は美味しく食べるのが料理した人への礼儀じゃないかな」「そうそう、滝本言ってやれ、毛唐女に」ステーキが出て来た。「フラウエン、スライスカット」と滝本が関本の分もと指で示しながら言った。「ナイフを使うのは面倒くさくていけねえ」「このワインは高いのじゃないのか」「車掌のワインの方が美味かった」「ステーキよく火が通っているな」「見ろ、中までよく焼けている。時間がかかるはずだ」「ワインとよくあっている」「もう一本行くか」「そうだな」

そこへ音楽師がやってきた。さくらさくらとヴァイオリンが奏でバンドネオンが伴奏する。反応が無いので荒城の月を演奏する。「ひでえ音だな、ピアノないか」「そう言うな、辻音楽師じゃないか、彼の顔をつぶすのか」と滝本はピアノに向かう。音楽師を手招く。前奏を弾きながら顔で合図する。音楽師は旋律を奏でる。周囲の目が集まる。関本が二番から秋陣営のと歌いだした。周りは食事の手を休め聴き入る。ああ荒城の夜半の月と歌い終わっても客たちはただ余韻にひたっているようだった。
品のいい老婦人が近寄ってきて「素晴らしかったわ」と100マルクを差し出した。「私たちはまだプロとは言えません。これは彼らに」と関本が丁重に断る。音楽師はちゃっかり受け取ると二人に1マルクすつを与えた。関本がうれしそうに見つめる。滝本がさくらさくらを演奏する。関本が歌う。今度は拍手された。音楽師たちはギャラを受け取って回る。そして10マルクずつを二人に与えた。「過分な祝儀を賜り感謝します。我々にとって生まれて初めてのギャラですから一生大切にします。音楽師の為に歌いますので聴いてください」
滝本のピアノに合わせて椰子の実を歌う。日本の音楽か。彼らはプロに違いないなどとささやかれる。マリオンが歌詞の意味を語る。曲が終わると歓声が起こった。二人は深々と一礼して席に戻る。「これは店の奢りです」とワインが開けられる。「滝本、何か感じたよ」「俺もだ」「中山晋平、成田為三、宮城道雄、は取り上げたいな」「日本作品の巡業と行くか」「いいねえ」


成人男女の結合

関本は燃えるような目でマリオンを見つめた。「俺は心だけでなく身体も欲しい」「私の身も心も捧げます。でも子ができたら」「お前に似て美人だろう」「男だったら」「俺に似なければ男前になる」「生んでいいのね」「勿論、さあ一緒にシャワーを浴びよう」関本はさっさと浴室に入る。そして「童は見たり 野中の薔薇」と歌っている。マリオンは躊躇ったがあとからつづく。「お前は何と美しい」「シューベルトの夜ね」「ミロのヴィーナスもお前には敵わない。目の保養になる」「保養」「俺の眼が楽しいということ」「私綺麗」「ローレライだ」「金髪じゃないわ」「お前の髪の方が魅惑的」「貴男ってロマンチック、私を折ったら刺すわよ」「当然の報いだ、喜んで刺されよう」
二人はベッドで唇を合わせた。「とろけそう」「息子がお前の娘に会いたがっている」「でも彼女恥かしいって」「どれ、お嬢さん恥かしがることないよ。とても綺麗だ、看て見ろ」「見えない」「待ってろ」関本は鏡を向ける。「ほんとだ。私自分の娘を見るの初めて」関本は息子を娘に触れさせる。「感じるわ」「入ってもいいか」「やさしくしてね」
息子が侵入するとマリオンは少し痛がった。「やめようか」「やめないで、そっと入って来て」「息子がいきりたっている」「もう少し待って奥まで入るの」「おい息子、行儀よくしろ」「貴男とこうして一体なると幸せと思うわ」「それは俺も同じだ。成人した男女が結合すると子ができるのは自然の摂理だ」「あら貴男泳ぎ出した」「お前は愛の泉だから泳ぎたくなるのだろう」
関本は突撃を開始した。マリオンは関本の首に腕を巻き付ける。「娘が踊り出したわ」「タンゴか」「そうみたい」母親も腰を振って関本を持ち上げた。関本は堪らず発射して果てた。どれくらい眠ったろう。尿意を覚えて目を開けた。身体を離して驚く。息子は血にまみれていた。
用を足して血を洗っているとマリオンが入って来た。「お前」「フフ初めてだったの」「光栄だな、綺麗な娘を産んでくれ」その日は何度も何度も求め合った。関本はマリオンをものにした満足感が湧いてくる。彼女の人柄頭の良さにも魅せられたが肉体の結合で完結すると思うのであった。


ジャンヌも滝本幸次をものにするぞと部屋を整えていた。今夜は長期戦が予想されるとテーブルに料理を並べる。ワインも3本冷やしてある。日本人はまずビールと言うから5本は冷やしておくか。彼が入ってきたら、やはりベージェね。それからビール、バスかなどとイメージトレーニングに余念がない。
しかしあまり意味はなかった。滝本が部屋に入るなり二人は熱く口づけを交わすと風呂場に直行したのである。バスタブには入浴剤が蒔かれていて二人が動くたびに泡と香りが立ち込める。やや垂れ下がった乳房が滝本に触れると彼の息子が反応する。「待ってシャワーを浴びたら貴男のものになるわ」と言いながら性器で睾丸から男根をなぞってゆく。滝本の痙攣する様を楽しんでいるようだ。やがて勢いよく浴槽を飛び出すとどう私の身体とシャワーを浴びる。くびれた腰と大きな尻は見事で男の情欲をそそるには十分すぎる。
 ジャンはベッドに横たわり滝本を誘う。彼は亀頭を花びらに突っ込むと入退する。そのたび亀頭の土手がこきんこきんと花弁を開閉する。日本刀って硬いのねとジャンは思ったがこくんこくんとなった。それがこくりんとなると「アーン感じるやめて」と声を上げる。滝本は亀頭で花びらを丁寧になぞってゆく。花弁は露に濡れてぬるりとする。「いやあ、とろける止めて」滝本が動きを止める。「止めないでもっと深く、お願い、なんでもする」とジャンは泣き声を上げる。亀頭の快感よりもジャンヌの降伏が滝本を喜ばせる。うつ伏せと手で指示する。「お願い、もっと入れて。入れてえ」花弁は愛液が溢れている。滝本は突撃を開始した。ジャンヌはのけぞりながら首を振る。亜麻色の髪の毛が滝本の顔を撫でる。滝本は馬乗りになり大いに満足した。
ジャンは指を噛みながら泣き喚く。「おお絶景かな」女を支配することは天下を盗った気分になる。「許して、意地悪。奥まで突き立ててください」との喘ぎも耳に心地良い。石川五右衛門もかくありしか。その気のゆるみを突いてかジャンヌは尻を持ち上げ滝本に乗ったのである。
両手で膝をつかみ両脚で尻を抑えた、変則十字固め。形勢逆転、ジャンヌは尻を前後左右に動かす。起き上がろうとする滝本の両手で押える。両足は足首をロックする。「つかまえたぞ、大人しくしろ」「乱暴はいけない」「ラマルセイーズ、日の丸を引き下ろせ、降伏しろ」滝本は反撃の機会をうかがう。
両手を胸に回し左に返す。ジャンヌの手が滑り落ちた。すかさず組み伏せ羽交い絞めにする。膝で両脚を固めたから一本だ。「ママ助けて犯される」「よくいうよ、無条件降伏のみ」「降参する」「本当だな」「はい」となったが花芯は抵抗を続ける。亀頭を咥えこんで奥に引き込む。そして驚くべき力で締め上げる。滝本はたまらずのけぞりながら発射してしまった。ジャンヌが振り返ると滝本は崩れ落ちた。フフ勝ったわと思ったが不覚にも意識が遠のいていった。

明くる日二人が目覚めたのは昼過ぎであった。空腹と眠さに堪えながらワインでハムエッグを頬ばる。幸次はこの小さな身体で尽してくれたのだわ、と思うと愛しさが湧いてくる。再び微睡んだが黄昏とともにジャンヌは戦闘態勢に入る。「幸次お風呂に入って食事しましょ」とやさしく起こす。バスタブで幸次を抱きかかえると気持ちよさそうに眠る。子どもが生まれたらこんな感じかしら。この男を愛してよかったと思った。


黄昏の国日出る国

ジャンヌとマリアンヌは戦果を語り合った。親の戦いには勝利したが娘は敗北したというのが結論であった。「日本刀って小さくても強いのね、しなやかにして鋭い切れ味ね」「そうなの」「関本は」「初めてだったから」「え、あなた処女だったの」「恥かしいわ」「そんなことない、私も彼に処女を与えるべきだった思うのよ」「でも彼が日本に帰ったら」「貴女もゆけばいいのよ」「子どもができたら」「日本で育てたらいい」「大丈夫かしら」「日本で子供を育てているドイツ人は幾らでもいるわ」
ジャンヌの言葉には日本は東洋、ヨーロッパではないと思っているのでしょという意味が込められていた。「これデッサンだけどいつか本格的に取り組んでみたいの」「ドイツと日本、いや欧州と日本ということね」「これをコラムに掲載しようと思うの」「素晴らしい分だわ」「これをドイツでも掲載して欲しい。だたし次回は貴女の番よ」「待って私のも見てくれる」「荒城の月か。いいじゃない。10回ほど連載したら原稿料が入るわ」

黄昏の国日出る国
我々は日本をどれだけ知っているだろうか。日本人は欧州をどれだけ知っているだろうか。多くの日本人はユーゴー、ドュマ、ゲーテ、といった作家の名を知っているだけでなくその作品も読んでいる。西洋文明が日本に伝わったのは100年前のことである。我々は源氏物語、平家物語知っているか、読んだ者はいようか。文学にして然り、日本人の万分の一にも満たぬであろう。
日本の文明文化など知る必要が無いというのは驕りである。自己欺瞞である。日本が西洋を追い越すのに100年とかからないであろう。その時までに我々も日本から学ぶべきは学ぶべきである。日本を知ったうえで学ぶ必要はないと言うのなら理解できるが。
ゴッホ、モネが日本の浮世絵を模倣したのは何故か。それは優れていたからである。しかも版画である。庶民が買い求めて楽しんでいたものである。このカラムはこうした身近な話題を取り上げ日本から何を学ぶかと考える参考になればと願うものである。黄昏行く西欧が夜になり夜明けを迎えることがないということはあって欲しくない。

このカラムは大きな反響を呼んだ。「エコノミックアニマルに媚びるのか」「所詮東洋は東洋」「非キリスト教徒は野蛮」といった稚拙な批判が寄せれれたが多くは次のカラムを待っているといった好意的なものであった。

「君思う故に我あり」
これはある日本人がパリジャンヌを口説き落としたセリフである。「大切なものは目に見えないのでは」「見えなくてもいい。目を閉じれば君の全てを感じることができる」デカルトもサンテクジュペリもかように料理されてしまうのである。所詮は猿の物真似と話をはぐらかす人がいるだろうから先に言っておく。あなたは猿を真似ることができるかと。
今や日本車は世界中に輸出され使われている。理由は安い、故障しない、乗り心地がいいからである。あなたは猿が作った車を真似ることができますか。建設機械も同様である。その中枢は油圧技術であるがパスカルも驚くであろう、自分の原理がこのように実用化されているのかと。その技術は芸術品ともいえる程精密である。ちなみに日本の小学生にパスカルの原理を知っているかと尋ねると竹で作った水鉄砲を示して「太い方から押すと大きな力が必要だが細い方から押すと小さな力ですむのだよ」と教えられたとか。
ついでに日本人の発明発想に独自性が少ないとの指摘も触れておこう。この指摘は事実であるから正しい。しかし次の2点を踏まえているかどうかは疑問である。すなわち日本人の思考は基本的に自然に、過去に学ぶということである。新しい概念で未来を切り開こうとする西洋文明とは異なるのである。今一つは成果をすぐに求めるということである。第2次世界大戦で壊滅的に破壊された日本が生きてゆくには基礎研究に力を入れる余裕はなかったからである。今や日本の国民総生産はECが束になっても敵わない。日本が基礎研究に力を入れ出すとどうなるかは言うまでもないであろう。
爪切り、胃カメラ、自動水洗トイレは日本人の発明によるものであることをご存知であろうか。18世紀に作られた伊能忠敬の日本地図は航空写真を基に作られた現在の地図にもひけをたらない。行列式微分積分などは日本で我々よりも数十年前に関孝和によって発見され使われていたのである。半年後の稲の先物取引(青田買い)は日本では数百年前から行われていたのだ。我々は日本を知ろうとしないからこうした事実も知らないだけなのである。

このカラムは好評で大きな反響を呼び読者から多くの感想が寄せられた。結果購読も増えジャンヌとマリオンにはボーナスがでたばかりでなく、関本と滝本への密着取材費も増額されたのである。滝廉太郎の研究がまとまったので二人はブダぺストへ発つことにした。老教授は「君たち共著者なんだから出版記念には帰って来てくれたまえ」と言った。二人は老教授に抱き付く。ブダペストにはジャンヌとマリオンが同行したのは言うまでもないがその顔はハネムーンの新婚さんであった。


乙女の祈りは永遠に

矢野は天龍組天野夫婦と白虎組白川夫婦をすき焼きに招いた。「神田にもこんないい店がありましたか、美味い酒ですねえ」「お肉も柔らかくて」「酒とあいますねえ、え、老松」「こうして美味い料理が食えるのも香川先生のおかげだな」「そうでやんすよ、それに国本が毎月こずかいをくれるのでええ暮らしをさせてもろうてます。でも今度は大変でしたね」「いやあ、地獄を見たよ、直美はチクチク、和子は真綿で」「でも身から出た錆でしょ」「これ、お前何という」「ほい、口が滑りまして」
矢野は吉良と国本の出向期限が迫って来たのでけじめをつけようと両親分を招いたのだ。「それがね、先生国本の奴島田博子さんと所帯を持つなんて言い出しましてね。申し訳ないっす」「そうだよ。店の女に手を付けるなんて」「白川さん、実は信介の奴も斉藤慶子さんとできたみたいで。気質のお嬢さんでしょう、組を継がすとなると親御さんに」「先生どうしたものでござんしょう」 
考えてみればいい取り合わせだ。「まあくっ付いたものを離すわけにはゆくまい。できちゃった婚だな」「さすがは色の大家。この際組を解散して吉良を自由にしてやりたいと考えとります」「白虎組も同様に考えちょります」「なんねえ、ならん。子分たちをどうする。鹿成建設さんへ顔向けできないだろう。それにだ俺が吉良と国本を引っこ抜いたことになる。筋目は通せ」「おっしゃるとおりで」「近頃仁吉も忠二もデレデレしやがって若い者がたるんでいる。5人ずつ親分のところで筋目を勉強させよう。まあ3月で十分だろう。」

天野と白川は顔を見合わす。「それがですね、忠二の奴全国に出店を出すと言い出しまして、そうなると白虎組の若頭では世間体が」「おや、白虎組が世間に顔向けできないことをしたのかい。白虎組と言えば関東ではちっとは名の知れた産廃業者だ。看板の重みをなめるんじゃねえ」「へえ」「へえであるか、向こうの親に見せてやれ、これが産廃処分場ですかと言うだろうよ」
処分場と言っても事務所はロココ調の煉瓦造り、中は史跡公園をおもわせるような植樹緑化がなされていた。「さようで」「お前さん、先生がああ言いなさるのは自信がおありだからだよ。結納は奥様300万でどうでしょう」「組の跡取りですものね」「では300万でということに」
こういうことは女が取仕切るようだ。「持参金は倍返しと言うじゃないか。心配することないよ」「奥様仲人さんには30でようござんすか」「ようがすとも。うちは和子さんにお願いしたいんでございますよ」「あら奥様うちは京子さんにと思ってましたのでございますよ」「となると御日取りは」「大安か友引として同じ日にしません」「ははあ、奥様式は別々に挙げて披露宴を合同でやろうという魂胆で」「さすが奥様、あしこなら雨の日でもドームがあるでしょ、駐車場の心配もないし」「それはいい考えで、第一会場費はうきますわ、ぱーっとやるにはうってつけ」「奥様それは」「あらまた口が」

矢野は憮然として言った。「祝い事に口を挟むことはないが瓢と翡翠はいいのか、女の悋気は恐いぞ」「先生だけには言われたく御座いませんこと。先生、これを最後になさいまし。直美先生は職務違反と大層ご立腹だったとか」「ちげえねえ、和子さんのお取り計らいがなかったら先生家を出されていたかも」「親分、俺に意見するのかい」「滅相もない、ただ事実を申し上げたに過ぎやせん」「俺はな、弟分に地獄を見せたくないと思った」「先生申し訳ござりませぬ。先生の深いお心を考えもせず、女の浅はかさとお笑いください。ささ、一杯。機嫌直しておくれよ」「そうですよ、私ども先生を忠二の兄とも思っているのでございますよ。それにしても京子さんはいつ見ても色っぽい。女から見ても惚れ惚れするじゃありませんか」白川夫人の援護射撃は強烈だった。

これで仲人は確定した。「先生改めて明日ご挨拶に参ります故和子様京子様にはご在宅の程よしなに」止めを刺すことも忘れない。「しかしなんだな、こうして結ばれてゆく男女は幸せだが強姦された女は悔しかろう」「そりゃあ悔しくて純潔を奪われたと自殺した女もいましかたら死んでも死に切れませんよ」「戦で濫捕は世の常とはいえ、信長は固く禁じたようだ。民を味方にした方が勝つことを知っていたのだな。信長の行くところは治安が良くなるから民衆に支持されるのだ。盗み、強姦をした兵は縛り首、単に戦上手だけではなかったようだ」「種籾まで盗られ女房娘を犯された民は信長に訴えたのでございましょう」「それだよ、白川さん」
天野と白川はこの男は純粋だと改めて思った。「種籾盗られちゃ生きてゆけねえ」「だよな、目の前で妻と娘を犯された会津は後々まで薩長を憎み続けたそうだ。生命財産を守るのが政治の基本だからな」「一つ、軍人は潔癖であるべし、ですかい」「んだ。以後明治政府は軍律を厳しくしていった。だから日本の兵隊さんはもてたのだ」「お国の為に命を懸ける男には女は弱いからねえ」「そうですよ、日本の兵隊さんは強姦などしませんよ。何が従軍慰安婦だい。いい稼ぎをしたというじゃないか」「チャンコロ、朝鮮のでっちあげですかい」「だろうよ、治安のいいところでは強姦はやりづらい」

天野はしばし考えて言った。「犯さず殺さず盗まず、ですかい」「親分もそうしつけてきたろう。これができるのは日本人ぐらいだ」「てえと軍が強制連行して慰安婦にしたなど」「考えられない。信長の偉いところは兵を金で雇った。筋の良くないのもいることを知っていたのだ。戦は兵隊の多い方が勝つ、ただし同じレベルであればの話だ。そこで日当を弾んで上品にさせた」「どういうことで」「日当が安けりゃ盗みを働く。いい給料をうって民を犯さず殺さず盗まずと徹底させたのだな」
今度は白川が言った。「石高よりも日銭ですかい」「日銭が入ってくれば酒も飲める、女も買える。仕事は田植えを荒らす、稲田を荒らすだけでいい。当時の侍と言っても半農だから田植えと稲刈りの期間は戦どころでなかった」「田圃を荒らされちゃたまんねえ」「なるほどねえ、田んぼ荒らしなら雑兵で十分だ。田植えと稲刈り期を狙って戦を仕掛ける。頭いいね」「いっそ信長に就いたらという気になりますわね、奥様」「そうでございますよ、明日の千円より今日の百円ですよ。しかも信長はいい男だったとか」

こうした話は人を楽しくさせる。「先生と飲む酒は美味いや」「奥様もう一皿いただきましょうか」「ついでにお酒も」「ですね」「信長死んだとき岐阜の城下の娘たちは泣いたそうだ」「私も抱かれてみたかった」「け、男色にか」「土地をもらっても金になるのは翌年だ」「そうですよ、台所を切り盛りするには今日の食事ですよ」「でも先生、信長はどうやって金を稼いだのでしょう」
姐さんともなれば聞き上手だ。「気配りですよ奥さん。信長の所へ商品を持ち込めばいい値で買ってやった、しかも関所の通行税は廃止」「全国から商人がやってくる」「そうなんだ、道中盗難にあうとすぐに取り戻してやる。一緒に酒を飲みながら話を聴く」「情報収集ですかい」「生の情報だ。帰るときには美濃紙を売りつける。商人もいい値で売れるからあるだけ買って行く」「なるほどねえ、戦だけでないのね」「有名な桶狭間の合戦では精兵2000で2万の今川軍に切り込んだそうだ」「雑兵は雑兵」「と知っていたのだな。目標は今川義元の首。目的をはっきりさせることが重要だ」「義元のたまを取るには腹心の旗本」「2万と言っても濫捕に忙しくて戦に身が入っていない」「そこへ精兵を引き連れ殴り込みをかける、なるほどねえ」
この男も気配りがあると両夫婦は思った。「先生はあっしらとも良くしてくださる。天龍組が今日あるは先生のおかげでやんす」「それは白虎組も同じでござんす」「信長は酔った振りして寝っ転がって商人たちの話を聴いていたそうだ。情報提供だけでなく犯さず殺さず盗まずの報道官もやってくれた」「信長につけば安心と」「民衆は思うだろう」「逆に敵に回せば義元のようになる、ですかい」「この精神は日本帝国軍に受け継がれる。レイプはご法度」「てえと日本軍の強姦はなかったので」「とは言い切れない。朝鮮人の日本兵もいたからな」「そうそう終戦直後若い母親を強姦した朝鮮人がいましたよね。子どもの知らせで駆けつけた警官を大勢でなぶり殺したとか、いやですわね」

矢野は強姦魔に対する怒りを新たにした。「ベトナム戦争では韓国兵がレイプしまくって美女を連れ帰ったそうだ」「筋目の無い奴らだすねえ、強姦は根絶やしにせにゃなんねえ。白川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人(強姦)の 種は尽きまじ」「天野さんなんであっしが強姦魔、ひでえっす」「わりいわりい、冗談冗談」「強姦罪を改正しないかんな」「先生その前に掃討せにゃいけませんな」「国本が頑張るはずだ、なあ」「そうですね、ついでにいい女をものにして」「でも信介も必殺仕掛人ですよ奥様」「あら奥様それは忠二もそうですよ」「そうしますと奥様乙女の祈りは永遠に不滅ですとなりましょうか」


         
                 女の敵強姦魔 全完の終

女の敵強姦魔

女の敵強姦魔

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 成人向け
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2014-10-08

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  1. 女の敵、強姦魔 第一部 鬼頭 大介
  2.   第二部 根本 修也
  3. 第三部 豪間 寛治
  4.  第四部 関元 征助
  5. 第五部 吉永小百合