合唱物語

第一章学生指揮者


性は本来子孫を残すためのものであろう。しかし性は快楽をもたらす。そこで快楽が生殖から独立したものもある。性をひさぐ売春は世界最古の職業とも。しかし好きな相手でなくては性の本当の快感は得られないのではないか。他方、性は支配の手段でもある。相手を所有すると言ってもよいかもしれない。それは当人がそう思うだけかも知れないが性は他面的である。好きな女あるいは男と結ばれることで幸せと感じるなら本物であろう。さらに相手に感謝するようになれば悟りの域に達したといえよう、

教育学を志望した矢野健は受験に失敗し、二期校の経済学部に入学する。経済に興味が持てず合唱団に入部する。そこで知り合った天真爛漫な谷和子と恋に落ちるが成就はならず、落ち込む。そこに妖艶な香川京子が現れ矢野健を奪ってしまう。谷和子は巻き返しを図り奇妙な三角関係となる。

大学卒業後矢野は大手企業に就職し、和子と京子は教職に就く。矢野は有名な一般男声合唱団に入団しドイツ旅行に出かける。そこで金髪の乙女モニカと知り合い結ばれる。モニカが大学卒業後日本にやってくる。そこで四角関係が始まる。

数年後、会社組織に順応できない矢野は大企業を惜しげもなく退職し行政書士を開業する。その事務所にかつての部下駒込直美が職員として働くようになる。やがて二人は他人でなくなる。五角関係となる。さらに直美の同級生もこれに加わり六角関係にまでなる。

この関係は矢野健が所有する女たちまたは彼を取り巻く五人の女(妻)たちととらえることができようが、反面矢野を共有(総有)する女たちともとらえることもできよう。また正六角形であるかどうかも評価は分かれよう。この点は読者の評価に委ねる。

昭和50年ころの日本を舞台に矢野は公害問題に取り組む。公害関係法令をクリヤーして産業廃棄物処分場開設に尽力する。思い込んだら突進して行く代表的若者であった。この矢野を愛し支える女たちはどのような人生を送るのであろうか。


目次
第一章 学生指揮者
    年下の先輩 恋のさやあて 夢中創作
第二章 一流合奏団
     公害防止 再会 常に総務の眼が 男声合唱団東京メンネル
     智恵子抄巻末の歌六首 客演指揮者 皇太子視察
第三章 世界合唱祭
    訪独演奏 モニカ仮祝言 ベルリンの壁 私が彼をものにした
    尾頭付きの豚とんだ豚騒動 山のあなたの空遠く
第四章 合唱団員同窓会
    脱藩者 転職再就職 不動産会社面接説 
    行政書士デビュー 駒込直美 自然との調和
    産業廃棄物処理説明会 駒込直美写真集
    香川かな 谷あや 駒込健一 モニカ矢野
     中田喜直 時の流れに


第一章 学生指揮者 


 年下の先輩

 四国の地方国立大学のキャンパスから合唱が流れていた。昭和39年の春のことであった。一見して新入学生とわかる男女10人あまりが仲良く合唱を楽しんでいる。辛く長い受験時代が終わり希望に満ちた大学生活を始めたのだ。女は谷和子、広瀬涼子2浪、遠野智恵、青江美奈1浪、男は高橋勝成1浪、河西昭1浪、安本正二2浪、黒川紀章2浪、火野輝明、矢野健であった。
彼らの歌う「極め行く真理と理想」とは何か。これがこの物語のテーマである。多くの学生が卒業後平凡な社会人として変身して行く中で矢野健は生涯をかけて真理と理想を極め行くのである。人生山あり谷あり、嵐も吹けば雨風日照り在り。踏み越えて行くのが男の子。

 当時の国立大学の合格率は5.5倍と言われた。東京芸大、教育大の35倍は別格としても100人の受験生のうち合格できるのは19人足らず、81人は不合格となる勘定だ。多くの若者が大学を諦めて別の道を進んだ。したがって大学生はエリートと評価されたのである。二浪三浪の受験生は合格の保障はなく、久米正雄の「受験生の手記」の心境であったに違いない。
浪人生活のつらさは「体験しないとわからない」と青江美奈が矢野に語ったことがある。広瀬涼子は無口であったが「君看双眼色 不語似無憂」君看よ双眼の色 語らざれば憂い無きに似たり であったのだろう。反面現役組は浪人の苦労苦節を知らないから世の中すべて自分を中心に動いていると思うのだ。
日本社会は先輩後輩という身分制度がある。その集団への帰属の後先で身分が決まるのだ。欧米ではボス上司か同僚だけであると聞く。結果、無能な上司に服従を迫られる。端的な例がミッドウエー作戦インパール作戦に見られる軍隊であるが大学も似たようなもので上級生には敬意を払うことが強要されるのである。年下の上級生を○○さんと呼ばなければならぬ気持ちは現役組にはわからない。

 二十歳前後の若者が味わう試練だ。日本で学歴という尺度が過大視、重視される理由でもある。もちろん人間の評価は学歴だけで量ることはできないのだが、日本では学歴がものを言うのは事実である。明治時代では「学士様なら娘をやろう」と言われたが学生数が数百倍になった昭和では「学卒なら婿にとろう」位になった。それでも学卒は学卒であったのだ。

この頃の日本は戦後20年足らずで奇跡的復興を遂げ、東京オリンピックと新幹線開通に沸いていた。逆に戦前の昭和初期と比べるとあまりにも大きな変化である。世界でもわずか40年でこれだけ変化した国はあるまい。
日本史では、大化の改新、鎌倉幕府、明治維新とならべて戦後の改革を四大改革と呼ぶが戦後の改革が最大であり後世の日本人は昭和の時代に注目するであろう。その理由は日本が初めて異民族に6年間支配されたということだ。日本の有史を3000年と観ても長きにわたり異国異民族の支配を受けなかった国はない。世界では現存する民族国よりも滅亡していった国、民族の方がはるかに多い。日本は奇跡的に独立を保ってきたのだ。

 東京では60年安保で学生運動の嵐が吹きまくっていたが地方ではそれほどでもなかった。合唱団の矢野健は安保条約反対する学生運動が理解できなかった。共感もできなかった。国会前での樺美智子さんの死は世界に衝撃を与えたが学生運動に参加すべき理由にならないと思った。安保条約が日本に益か害かの本質的議論がない。ただ反対では子供だ。自分の考えがない、付和雷同の愚民愚衆。
 学生運動にも派閥があって民青と社青が二大勢力であった。前者は共産党の下請で「米帝国主義が日本を支配」、後者は社会党の下請で「独占資本が日本を支配」していると叫んでいるがやくざの抗争と変わらないというのが矢野の評価であった。そもそも彼らは安保条約を読んでいるのか、歴史的背景を理解しているのか疑わしい。運動参加を強制するな、そもそも信条の自由を侵すな、と冷ややかに見ていたのである。

 矢野のこうした態度は双方から怖れと反発を抱かれたが矢野は無視した。日本社会は「新人は先輩に従うべしとの慣習があるが合理的根拠はない。先輩が利口であることが前提だ。馬鹿な先輩は無視せよ。単に同窓ということに何の意味がある」と公言してハバカラなかった。事実上級生も迂闊に論争すると言い負かされそうであった。

 大学の自治、学生寮の自治を標榜する先輩たちに自治能力はあるのかと矢野は思っていた。寮内で3年の上級生が1年生を殴った。緊急総会が開かれた。矢野の発言が注目された。

「最高学府を謳う大学の寮内で暴力が振るわれてよいのか寮長の見解を求める」
「暴力も是認される場合がある」一人の3年生が座ったまま発言した。矢野を威嚇して封じ込めるつもりであろう。
「寮長の見解を求めているですが、せっかくですからその場合とは」
「一高には鉄拳制裁があった」
「制裁は暴力ではない。理由があっての処分でしょう」
「この件は制裁である」
「私が読んだ久米正雄の受験生の手記では制裁理由は飲酒でも窓を蹴破ったこともない、その原因である一高生たるものが女に振られたことであるされていますが、本件はどうですか」
その三年生は顔を赤くして黙ってしまった。矢野は上級生とてその程度かという態度だ。

「彼を殴ったのは私です」
本人が立ち上がって言った。
「待ってください。今は制裁の理由を訊いています」
「彼は謝っているではないか」
「話を逸らさないでいただきたい。本件は暴力か制裁かを問うているのです。あなたは卑怯だ」
「生意気だ」
「新入生を説得もできない。制裁理由も根拠も示さない、暴力と認定します。無能な者ほど自分は先輩だと脅すしか術がない」
「リンチだ」
「今の発言はこの寮が旧日本軍、やくざと大差ないことを物語っています。2年前に入寮したことが威張る唯一の根拠ですか。こういうのにはなりたくない」
矢野は発言者を睨み付けた。会場が静まった。新入生が先輩は敬うべしとの大原則を真っ向から否定しているのだ。

「寮長として発言します。矢野君の発言は正しい。何故なら制裁理由および根拠が示されていないからです。よって本件は暴力と認ます」

会場は騒然となった。矢野は動じる風もなく発言をつづけた。
「暴力ならば行為者の謝罪を求めます。言葉だけでなく酒一升で被害者の苦痛を償うべきと考えます」
「前例がない、屈辱だ」
「男らしく償わないのなら1年生全員が退寮して大学に改善を求めます。現在の寮には自治能力はなく威嚇、暴力で解決を図っていると」
「待ってください。私は口頭で注意すべきでした。私はM君にこの場で謝ります。酒は明日届けます」

1年生から拍手が起こった。会場は緊張したが平和的解決ができたという空気もあった。寮長が閉会を宣言した。これ以上議論を続けると再び暴力沙汰になると判断したのだ。この寮長はパリパリの民青であったが矢野の発言に衝撃を受けた。彼は自分の言葉でしゃべっている、我々上級生は先輩と威張っているが自分の考えはあるのか。自分も二年前はああでなかったか。
 彼も寮の伝統(その多くが悪しき慣習)にまかれた。日本は小さな社会の風習は法律にも優先することがある。伝統、習わしというだけで合理的根拠のないものが多い。民青の誘いにのって学生運動にのめり込んでいった。自分というものがなかったのだ。その場その時の状況に自分を変化させてきたのだ。空しい。彼は矢野を学生運動に引き入れることを断念した。社青が矢野を引き込む恐れはあったが、矢野が周囲に妥協することなく学生生活を送って欲しいと願った。
 四年生が手を上げた。「一言いわせてもらっていいかな。本日の総会が結論を出したから意義があったと思う。20年前に学問の自由を奪われ戦場に駆り出された学徒はどんな思いであったろうか。我々は学問の自由が如何に尊いか考えるべきではないだろうか。僕は経済学を勉強したかったから親の勧める(旧帝大の)法学部より(元高商の
経済学部を選んだ。経済も勉強してみる値打ちはある(彼は法学部にも合格していた。経済を見くびる生意気な矢野への戒めだったかも知れない)。第一次大戦後ドイツに支払能力の数百倍の賠償を求めたウィーン会議に怒ったケインズは通産省を去り米国に渡る。英国が彼の提案を受け入れていたならば第二次世界大戦は起こらなかったかもしれない」
矢野は傾聴した。その顔には四年生への尊敬があった。
一年後純粋で感情の起伏が激しい矢野は上級生に可愛がられた。その四年生に触発されマルクスの資本論を読破してさらにケインズの一般理論を読む気になった。矢野は読後両書をそれなりに評価したが信奉するほどではないと思った。これらよりベニスの商人の判決を鋭く厳しく批判したイエ―リングの権利の闘争に感銘を受け民法を勉強する気になるのであった。権利rightが何故正しいrightか、それは闘いとるからだという主張には抵抗があったが一面真理だと思った。日本人が考えるような絶対的正義ではないようだ。

数年後日本赤軍派の浅間山荘人質事件はテレビで全国に中継されたがこの事件以降学生運動は急激に衰退してゆく。彼らの常軌を逸した行動は国民の理解を得るどころか反発を買った。総括と称して同志の学生17人を粛清したことは学生運動に加わった者にも虚しさを与えた。同志の実態が支配被支配であったのだ。己のない者は思想宗教に走る。大使館人質事件、空港乱射事件などは狂気の沙汰であった。

現役組は第一志望校に失敗していわゆる都落ちしている者が多く、入学した現状に満足していないものが少なくなかった。かと言って浪人してまで第一志望校を再度目指すほどの度胸も情熱もないことは自分が一番知っていた。この手の若者は少しばかりエリート意識を持っているから傍目には我儘な坊ちゃんに映る。観る者によって愛すべきとなるか憎たらしいとなるかは大きな差がある。


恋のさやあて

矢野健はこの手の憎まれっ子のほうであった。しかし常に前を向いてひた走る姿に好意を寄せる女もいた。女は我武者羅に夢を追う男を可愛いと思うかそれとも眉を秘めるか。「人生いろいろ 女もいろいろ」である。谷和子は地元の有名校を卒業しているがその性格の良さから合唱団の誰にでも好かれていた。そう美人ではないがその明るさから場を和めせる魅力があった。嫁にしたい女の一番というのが男子学生の評判であった。その彼女が矢野に秘かな好意を寄せていることは傍目にも知れていた。恋愛とは双方が満足してると成長発展しない。奪い取る気概がないと「永すぎた青春」となろう。

矢野の方は面食いで谷和子を気にもとめていなかった。ミス学園の白い裸身を想像してにんまりしていたのである。やりたいと思うと鼻血が出そうになる。ある日矢野は上級生に問い詰められた。団の役員をしている3年の女学生だ。「矢野さん、谷さんのことどう思っているの」「可愛い同期だと思っています」「それだけ」「お嫁さん候補の人気投票一番」「だったら彼女にやさしくしなさい」「どんな風にすればいいのですか」「この音楽会のチケットあげますから二人で行ってきなさい」チケットは世界的タンゴバンド「キンテートレアルであった。値段も前売900円当日1200円と学生にはちょっと手が出ない。寮生の平均支出が月15000円であったから2枚で1800円となると二の足を踏む。矢野はためらいながらも有難いことでとチケットを受け取ったのであるが上級生から「井本さんも谷さんに気がるようよ」と言われて少し動揺した。

井本はテナー、矢野はベースというだけでライバル意識があった。ともに現役組で指揮者になりたいという点でも競い合っていたのだが谷和子をめぐる恋の鞘当てが加わった感じだ。矢野は谷和子をものにすることが井本を見返す機会ととらえた。男のセックスは愛の発現、性欲の発散、それと支配欲である。これが和子の運命を左右するのだがその時は若い男女に知る由もなかった。

海が見える会場には大勢の聴衆が押し掛け開演前に満席となっていた。座席は2階の右端でステージを見ると和子のうなじから耳にかけての部分が目に入ってくる。それがほんのりとした色気を醸し出していた。開演と同時にラクンパルシータが会場を支配する。日本人好みのタンゴが演奏されてゆく。シボネー、花祭、イパネマノ娘、牛車に揺られて、ドナドナドンナと南米音楽に酔い痴れてゆく。最後のコンドルは飛んでゆくでは和子が涙を浮かべていた。
音楽は人を痴れさせる。公園沿いの道を歩く二人の上には晩春の細い月が淡光っていた。「よかったな」「私涙が出てきた」矢野が和子の肩を抱くと和子も矢野の腰に手をまわした。矢野は植え込みの陰で和子を抱きしめた。胸のふくらみと動悸が伝わってくる。そっと唇を近づけると和子は目を閉じた。ファーストキスであった。それからまま事の様な恋愛が始まった。

幼い初恋は小さな学園に知れ渡って行った。他の学生たちも羨む恋人たちであった。学園祭のダンスパーティーで二人が踊っていると井本が矢野の肩を叩いた。1曲は譲るのがエチケットであるが相手が井本であるだけに矢野はカチンときた。2曲目になると矢野は怒って外に出た。おろおろする和子。
慌てて後を追ってきた和子は矢野に抱き着いた。矢野の怒りは治まらなかった。「もういいだろう」と井本に言えなかった自分が不甲斐なかった。井本の不敵な目が笑っていた。本来なら手袋を投げつけ刀を抜くところであろう。和子が「ごめんね」と言った。これも癇に障った。暗陰に和子をひきずり込んで押し倒した。唇首筋を吸うと和子は小さな悲鳴を上げた。それでも矢野の首に腕をまわして口づけを返した。やがて矢野の手がスカートの中に入れられると和子は首を振った。「それだけはやめて」


矢野は一人歩いていた。和子が拒んだのも無理はないと思うのだが悔しさが込み上げてくる。井本に対する恐れが彼を狂暴にしたことは彼自身気づいていたが認めたくなかったのだ。「矢野さんと声をかけられた。英会話部の香川京子だ。矢野は「ヨットに乗ろう」と彼女の手を取った。「谷さんと何かあったの」それには答えずヨットハーバーでヨット部の山田に「乗せろ」と言った。「もう遅い。腹減った」「晩飯奢る」「20分だけだぞ」香川京子の手を引いてヨットに乗り込む。
音もなくヨットは港を出る。「気持ちいいと香川京子が髪をなでる。その首筋には妖艶さがある。「女を口説くにはヨットだな」「ミス学園をお前が」と山田がせせら笑った。「山と女は高いほど征服し甲斐がある」「できればな」「高値の花と見上げるだけでなくアタックしてみないとわからない」「Boys be ambitious ,Good luck 」と山田が叫んだ。英会話部の香川京子を意識してのことだ。「馬鹿にするな」
 香川京子は満更でもなかった。彼女に言い寄る男は多かったがこの二人のように男らしいのはいなかった。「矢野さん。谷さんに振られたの」「ああ」「それで私を」「お前とやりたくなった」「いったいどうして」「押し倒したら、それだけはやめてと言われた」「え、いつ」「さっき」「まあ」「矢野、乗り換えるのか」「乗り換えてもいい」

山田はやれやれといった様子で「引き返すぞ」と言った。瀬戸の海は夕陽に染まっている。島影が黒ずんでゆく。「世界一きれいな夕日が沈む海」「見える丘でしょ」どちらでもいい。私に当たらないで。矢野そんなに急いては事をし損ずるぞ。どうせやるなら早いに越したことはない。おい相手は純情可憐な娘だぞ。あら私もよ。男なら誰でもやりたくなる女だ。それはそうだが本人の前で。それだけ美人で妖艶ということだ。

ヨットが着岸すると「ビアーガーデンで待っている」と山田に言い捨て、香川京子の肩を抱いて歩き出した。ビールで乾杯。「矢野さんて強引ね」「でも良かっただろう」「ええ気持ちよかった。久しぶりに気が晴れた」そこへ山田がやってきた。「邪魔して悪いな」「ヨット試乗の恩義がある」「こんな美人と借り切りで乗りやがって」「美女は勇者に似合う」「勇者こそ美女に値するでしょ」「お前いちいちうるさいな、嫁の貰い手がないぞ」「どちらか貰って」「やってみないと嫁にできない」「で、子ができたら」「仕方ないだろう」
反対解釈で子ができなければ結婚するとは限らないと言っているのだ。「谷さんに子ができたら」「すぐにでも」「私とは」「離婚する「そのとき私が妊娠していたら」「彼女と離婚してお前と再婚する」「その時彼女が身ごもっていたら」「お前が子を産んだら離婚して彼女と再婚する。以下同じだ」「どうしてそんな面倒なことをいちいち」「可愛い我が子を父無し子にできないだろう」

戸籍は結婚によって新戸籍が創設される。二人はそれぞれ親の戸籍から除籍される。ここが肝心である。その際夫婦はいずれかの姓を選ばなければならないが戸主は香川京子にするつもりだ。健は香川健になるが離婚すれば矢野健に戻る。谷和子と結婚すれば谷健となる。この最終形は矢野健である。愛する女への配慮だ。香川京子の籍には「かな 長女 父健 母京子と記載されるはずだ。谷和子の籍も同様だ。矢野の父母の知るところとなれば矢野は戸籍を汚した科で勘当されるであろう。もっとも原戸籍(父の戸籍)でなければ結婚離婚の記載はないからバレルことはあるまい。

香川京子は笑い出した。山田が「いちいち結婚しなくても子を認知すれば同じではないか」と言った。「おや意見するのか、恩義は果たした。帰れ」「まだ食ってない。食ったら帰る」「結婚しないと香川も谷も未婚の子を育てることになるのだぞ」「それは良くない」「だからお前は黙っていろ、男の深い愛情がわかっていない」「私よりも子が大切なのね」「親子と夫婦は別の話だろが」「わからないわ」「いいか戸籍上もお前の子の父は俺、谷の子も父は俺。これで親子の問題は無くなる」「夫婦の問題は」「お前と結婚したら結婚できなくなる。離婚したらまたお前と結婚することができる」

香川京子はあきれてため息をついた。「結婚して子ができたら離婚なの」「子ができて結婚、生まれて離婚だ」「わかったようなわからない話ね」「エリザベステーラーは5回離婚している。結婚はそれ以上だ。結婚回数は美女の証だ」山田が食う手を止める。京子は串焼きを食いちぎる。「私婚約者がいるの」一瞬の沈黙。「それがどうした。俺は殺してでもお前を奪う」「おい太陽がいっぱいだな」「矢野さん私を奪って」「お前に子ができるならな」「私も矢野さんを奪おうかな」


合唱団は全日本合唱コンクールへの出場を果たした。念願の四国代表の切符を手にしたのは学生指揮者平井の功績である。専門的音楽教育を受けていないが歌唱力は抜群で合唱がすべての男であった。これに魅かれる女学生も少なくなかった。団運営も技術重視に傾いていった。谷和子の高校からの同級生遠野智恵はすごい音痴で平井は彼女を退団させようとしたことがあった。
それは入団間もない頃だった。矢野が「お前目立がりだな。みんなが3段上がっているのに5段も上がるな」と大きな声で言った。「なによあんた、偉そうに」「ここ歌ってみろ。飛び上り過ぎ。ひ、ふ。みでいいのだ」「これでいい」「最初からそう歌え、合唱はみんなと声を合わせるものだ。自意識過剰」「失礼ね」「目立ちがり屋」「あんたなんか嫌いよ」「嫌いでけっこう」
それ以降遠野智恵は飛び出さなくなった。難しい個所は先輩に歌ってもらうようになったようだ。これを契機に団の雰囲気が明るくなった。谷和子が矢野を意識しだしたきっかけでもあったが上級生も矢野に注目するようになる。

ある日団長の森山に呼ばれた。「矢野君は高校時代から合唱やっていたのだよね。楽譜は読めた方がいいだろうか」「読めたがいいに決まっています。ただし暗譜してしまえばどちらでもいいことです」「詳しく話してくれないか」「眼で憶えるか耳で憶えるかの違いでしょ。作曲者指揮者は譜面が読めなくては商売になりませんがオペラ歌手は譜面など要らないのです、全部頭に入っていますから。我々も譜面がはずせる程度に暗譜してないと歌えないでしょう」「なるほどそのとおりだな、参考になったよ。ところで矢野君は指揮者と団長とどちらが好きかな」「そりゃ指揮者ですよ、音楽が創れますから」
 大学の合唱団は3年生が役員となる。4年生は就職に追われるからだ。今は平井森山体制だ。矢野は2年生の樫山から「団の組織づくりも面白いのではないかな」と言われた。「今は団員65名だが去年までは40名そこそこだった。森山さんが団長になって団員が増えてきた」樫山は次期団長と目されていた。「我々の大学生活は4年間だが先輩後輩と接することができるから前後3年間を共有できる、つまり10年間になる」「先輩、僕も大学の意義は学友との交わりと考えています」「それぞれの人生がある。見習うことも多い、触発されることもある。団運営も君の選択肢に入れてほしい」

樫山は大人しいが人望があった。矢野があとになって知ったが音楽の造詣も深かった。森山は自分の後継者に樫山を選んだ。樫山は矢野を選んだのだ。これには誰も異論はなかった。団は次期指揮者の後継者に井本を選んだ。これも異論はなかった。矢野が指揮者を諦め団長なれば問題はなかった。矢野の度量が問われたのであった。森山樫山の工作に対して平井の直接的でどぎつかった。
音楽的にすぐれたものが人間的にそうであるとは限らない。むしろひねくれていることが多い。平井の工作は卑劣であったが団全体には妥当な結論をもたらした。指揮者に固執する矢野を諦めさせるにはやむを得なかったとも言えよう。それが悲劇を生んだとしても他にどのような方法があったであろうかと平井は言うに違いない。その結末は翌年の春にはっきりするのだが今は話を全日本合唱に戻そう。

全日本合唱コンクールは全国9ブロックの代表が高校大学一般の部門で競われる。高校一般は左程がでなかったが大学のレベルは格段の差があった。プロのヴォイストレーニング、指揮を受ける合唱団はいわば野球の甲子園六大学並であった。学生だけで運営される地方合唱団は善戦したと言えないこともないが全国レベルとの格差を思い知らされたのだ。
これを受けて技術重視の平井の発言権が強まった。一方学生数1500名程度の地方大学がプロの指導を受けるべくもない、合唱団の確保すら容易でないから団の組織づくりを重視すべきとの森山を支持する団員も多かった。団の財源は団員の月300円団費と大学からのわずかな補助金だ。団内で平井と森山に代表される考えが対立を強めていた。

団員は4年で入れ替わる。2年生になると団長指揮者候補を選出しておく必然性と必要性があった。1年生の中からも団の将来を担う人物を選んで育成しておくことも必要であった。従って団長矢野、指揮者井本という人事は順当なもの自然なものであった。団長指揮者の兼任は独裁を生み組織が分解する危険性をはらんでいるので創部以来の慣例が踏襲されてきた。また学業も卒業するまでに必修単位を取得するのは容易でなかったから兼任は事実上不可能であった。

このような背景があって上級生は矢野の説得に当たったのであるが矢野は自分の夢に向かって突き進むタイプである。組織の為に自分を殺すことができない。団長になりたいのもいたが森山樫山の目にかなわなかったようだ。そこで指揮者の選出選任は平井に一任されることとなった。
平井も気を使ったのであろうが矢野は激怒することになる。裏工作は矢野だけが知らぬ方法であった。問題は谷和子の口封じである。上級生は彼女を説得した。彼女は涙を浮かべながらも説得に応じた。森山以下の役員ももう一度矢野を説得してみるべきだと考えたが役員会の議決は変えられないとの結論に達した。
年末の定演が終わると学年末試験が終わるまでは合唱どころではなくなる。卒業が、それどころか就職がかかっているのだ。求人に対し大学は成績順に学生を差し向けるからだ。産学連携に反対する学生運動もこの点には反対しない。
 矢野は、寮生は全良(60点以上80未満)であるべしと適当に答案を書いて出す。これには周囲も驚く。成績は優(80点以上)の数で決まるからだ。矢野は採点者教授の喜びそうな答案を書くと優、自説を書くと良ということを察知していた。必修科目はその教授のゼミ生に出題予想と答案を外注した。晩飯を奢って模範答案を丸暗記したから優であった。選択科目で面白そうなのは勉強して自説を展開したから良であった。教授とて人の子、自分の説に批判的答案に優は出さない。
ある教授が矢野の意図に気づき矢野を学生人気トップの大企業に紹介した。その企業も会社を発展させるには変わり種が必要と矢野を採用するのだがそれは3年後の事であった。大量生産大量消費の時代はマニュアル人間の優等生が求められるが社会に物が行き渡ると需要を喚起させる独創的変わり種が求められる。大日本帝国陸軍海軍ですら学校の成績で地位が決まったのだ。入隊後の実戦経験、実績で決めるべきであろう。それには組織の上層部の人を見る眼が前提となる。

春休みが終わると新学年が始まる。矢野たちは2年生になった。当然新入生が入ってくる。彼らは純粋だ。新団長の樫山は独断で矢野に団長心得の最後の説得に当たったが矢野の気持ちは変わらなかった。その日矢野は団の雰囲気が違うことに違和感を覚えた。平井が矢野に近づいてきて楽譜を渡して指揮してみろという。初見で、視聴で指揮ができるわけはない。譜面を何度も何度も読んで音楽を頭の中で完成裂いてからの事である。平井がにやりと笑った。

これは指揮者選びであろうと矢野は悟った。平井のやりそうなことだ。なら初見でどこまでやれるかやってやろうと指揮台に立った。まともに矢野を見るのは新入生だけだ。谷和子は下を向いている。矢野は頭の4小節をパートごとに歌わした。初見にしては音がよく取れている。全パートで歌わすと揃わない。何度も繰り返した。曲想がわかってくる。音程リズムの乱れは目で指摘した。それよりも曲想だ。矢野が音楽の世界に入ってゆくと団員も魅かれてゆく。譜面を外すように合図した。一人一人の顔がよく見える。谷和子が目を赤くはらしていた。合唱とは心を合わせて歌うのだと矢野は目で訴えた。平井信奉者は目をそらす。しかし中には矢野の曲想を再現しようとする者もいたのだが。「今度は井本君に振ってもらおうか」と平井は薄笑いを浮かべて言った。あの眼だ。矢野は平井を見据えた。平井は慌てて目をそらす。井本は曲の中間部を開く様に言った。団員の表情が変わる。譜面が事前に配られ何度も練習したことは譜面の繰り方で明らかだ。さらに譜面を見れば書き込みがされているはずだ。井本の手が振り下ろされると完成された合唱が響いた。

矢野は黙って席を立った。平井に一瞥を与えた。練習場は静まり返った。やがて「矢野さんかわいそうね」とささやく団員もいた。樫山は矢野を引き留めたい衝動にかられた。矢野が団を去ることを察したのだ。森山がさびしそうに首を振った。谷和子はたまらず泣き伏した。組織の意向、流れに沿えない人間がいるが矢野もそのひとりであった。いわゆる大人になっていない若者であった。「君の行く道は果てしなく遠い だのに何故歯を食いしばり君は行くのか」



また矢野は香川京子に呼び止められた。「どうしたの、まるで人生が終ったみたいな顔して」「お前は落ち込んでいるときに現れるな」「私女神でしょ。なぐさめてあげる」「やらしてくれるのか」「場合によってはね」二人は喫茶店に入る。本当は飲みたい気分だ。人は話すと楽になる。「そう、谷さんつらかったでしょうね」「彼女をそこまで追い込んだ自分に腹が立っている」「そこが矢野さんらしいところよ」「今日はやさしいな」「私を抱きたい」「いつもはそう思うが、今日はその気にならない」「これから倉敷に行きましょう」突然京子が矢野の手をとった。矢野には京子の意図がわからなかった、考える余裕がないほど落ち込んでいたのだ。

A drop in the ocean will be felt by the moon
For tides carry our tears which moisten the forests
So sadness feeds life
海の飛沫は月に濡れ
森を潤す涙は潮が運ぶ
悲しみが命を育む

京子は矢野の手を取って連絡船に乗る。瀬戸は宵闇が迫る。やがて満月がのぼる。今日の月は悲しい。連絡船の飛沫が海を照らす月の光を反射させる。これは強制連行か道行か。潮風に髪をなびかせる京子の横顔は微笑みをたたえている。宇野港から岡山に出て倉敷に着く。駅の近くのホテルをとって近くの通りを歩く。「初夜ね」「そ、そうだな」「食事する」「うん」寿司屋に入って刺身を注文したが矢野は食が進まない。「さあ、ぐっと召し上がれ。お流れくんなまし」「源氏名は」「京香」「うれっこか」矢野は酔った。「俺も女に慰められる程度の男だ」「でもいい女でしょ」京子の肩にもたれてホテルに戻る。「さあお風呂に入って」京子はあやすように言った。矢野はすべてを洗い流すようにシャワーを浴びた。バスタブに身を横たえるとため息をついた。「いいかしら」京子が入って来た。その白い裸身は天女かと思った。腰のくびれから足先まで妖艶そのものである。矢野が後ろから抱きしめる。「待ってて、すぐいくわ」と京子はその手を外した。

矢野がベッドに横たわるとマストが立っていた。これから始まることに落ち着けと自分に言聞かせた。ここで話が上手過ぎないかと考えるべきであろうが若者には無理な話だ。とくに矢野は自分に都合のいい方に考える性質である。セックスに纏わることでいい年をした男がだまされることも少なくない。ましてやこれからいいところである。自分の心臓の鼓動が枕から伝わってくる。
部屋の灯が消されて京子の唇が矢野に当てられる。抱きしめると形のいい乳房がやわらかい。ゆっくりと京子をベッドに下ろすと首筋に唇をはわす。ああと京子が声をもらした。矢野の唇が乳房に触れた時ぴくんと動いた。矢野が京子の股間を拡げると蕾のような性器があった。恥かしいと京子は顔をそむける。矢野の舌が舐めると京子は悶えた。さらに奥へ舌を入れると京子がのけぞった。矢野も初めての性体験であった。19歳の若者の最大の関心事は性である。寮で回覧されるプレイボーイ週刊パンチや完全なる結婚などから性知識は得ていたが実戦経験はなかった。

矢野はたまらず身を起こして侵入した。京子の顔がゆがむ。矢野が京子を抱き起して「みろ」と言った。「いや」「みるのだ」いつもの矢野らしくなってきた。「ああ私たちつながっている」「うれしいか」「ええとても」「結婚とは生殖器の共有だ」京子は腕を矢野の首に巻き付け腰を揺すり始めた。やがて両手を矢野の脚において身体をのけぞらす。りんごのような乳房が揺れている。「どうにかなりそう、私たち結婚したの」
矢野は京子を寝かせると上から抑え込むように覆いかぶさる。京子が矢野を咥えこむ。矢野もいきり立って京子を突き上げる。男女の営みとはこういうものか。京子の意識は遠のいてゆく。矢野の頭も白くなってゆく。そしてか細い京子の身体が弓ぞりに矢野を持ち上げた時二人は一点で接していた。俺が京子をこうさせているという満足感にひたりながら矢野が激しく射精すると京子はひーと叫んで崩れ落ちた。矢野も快感が脊髄をかけぬけた。頭が空っぽになって激しい息を京子の顔に吹き付けていたがやがて眠りにおちてゆく。

どれだけ眠ったか、矢野が喉の渇きを覚えて身を起こすと隣の京子の股間から鮮血がシーツに溢れていた。「いや、みないで」「処女喪失だ」「私女になったのね」矢野がシャワーを浴びる。看ると矢野も血に染まっていた。京子がそれをつかんだ。「こんな大きなものが私の中に」「こいつは成長するのだ」二人はシャワーの下で抱き合った。矢野が頭をもたげる。京子が笑う。「よかった」「天にも昇る気持ち。18年間の蓄積を一気に放出した」「出すと気持ちいいの」「その瞬間は没我の境地。すかっとする。貯めるのは良くない。お前はどうだった」「最初は痛かったけどだんだん良くなってきた」
 二人は初体験の余韻に浸る。「貯めるとできものが出るぞ」「まあ色気ない。ね、私のどこがいいの」「この肌。吸いつきたくなる」「ほかには」「頭、つまり話が面白い」「谷さんは」「尻」「私とどっちがいい」「そりゃ、京子」「どうして」「やらせてくれた」「谷さんがやらせてくれていたら」「難しい質問だな」「私が欲しい」「こんな美女とやりたくないのはインポだ」「私男を知った」「俺も女を知った」「英語の知る know には女を知るという意味もあるのよ」「そうか、それは知らなかった」「でも今知った」「女か意味か」「両方」
頭のいい女はいい。顔がいいだけの女は飽きるはずだ。「お前どうして俺にやらせてくれた」「あなた谷さんに振られて落ち込んでいたじゃない」「お情けか」「それもあるけど(あなた自殺しそうにみえたわよ)、あなたいつもギラギラしているでしょ。女の子は逃げるんじゃない」「かもな、手籠めにされるか」「女は身の危険を感じるけど、けどう、(私は)また純粋な情欲にも感じるの」「お前なら寄ってくる男はいくらでもいたろう」「あなたのギラギラ飛びぬけていた(夢も理想もない学生のなかでは)」「俺はスケベか」「それも超ドスケベ。それでえ、私やらしてあげたくなったの」「ということはお前も」「淫乱かも」「大いに結構、俺をよろこばせてくれ」「即物的ね」「そりゃあお前の身体に即している」「今何考えている」「お前の身体」「うそ、本当は」京子は菩薩になり妖魔にもなる。「本当は千夜一夜だろう」「どうして」「昔インドの王様が処女とやったあと次々と殺していった」「そこで大臣が娘シャラザードを送り込む」「さすがだ。俺も京子を殺そうと思ったがこんないい女を殺したらできなくなるのでやめた」「殺さないでセックスがこんなにいいものとは知らなかった」「王様も変態だがわかる気もする」「身体だけじゃなく話が上手でないと」「そうだ。知性のある女とはやりたくなるが馬鹿な女は抱く気がしない」「京子さんは」「合格だ。だが浮気するな、こんないいものをほかの男に触らせてなるものか」「生きてゆく気になった」「なった。京子は月の女神か菩薩か」「命の恩人と感謝する」「する、する」

睦言は記憶に残るものである。未亡人が夫よりも寝物語を懐かしむのもこの為であろう。「後悔してないのか」「そりゃあ、不安はあったけど、大したことなかった。ただ卒業までは妊娠できない。だから毎月排卵日の前後五日間はできないの、わかる。あなた我慢できる」「我慢する。ということは、今日は排卵日の期間ではない」「ということ」「うーん妊娠は考えなかったか」京子はクスクスと笑った。「でほかに不安はあるか」「谷さん。あなたは本当に彼女が欲しかったの。ライバルに取られまいと襲ったのじゃないの」「そういわれるとそんな気もするな」「正直でよろしい。あなたって征服欲、支配欲が強いのね、飛びぬけて」「そうかな」「そうよ」「もう一回やりたい」「待って私お腹すいた」「うむ腹が減っては戦はできぬからな」

 矢野が冷蔵庫からビールを取り出すと京子がお持ち帰りの握り寿司を開いた。「何はともあれ乾杯」「ああ美味しい」「もう2時か激闘だったな」「私身体がばらばらになって宙に浮いていたわ」「入学してからずっとお前の裸を想像していた。想像以上だ」「すけべね」「それは想像力があると言ってくれ。裸の京子は5階級上の別人に見える。俺も童貞を京子に捧げてよかった。我が人生最良の日だ」「本当?5階級上がると全日本クラス」「ミスユニヴァース」
京子もビールを飲む。「でも女になると世界が開けるのね」「俺も宇宙の真理を垣間見た気がする」「あげてよかった」「少し古いな」「性は愛と一体」「まあまあだな。もう一発やるか」「待って、私くたくた。お酒にする、買っておいたの。私ね、あなたとやったら別の人生が見えると思ったの」「俺はやりたい一心だったが自分が一回り大きくなった気がする。お前はやる前から別の世界を想定していた。尊敬する。女の方が大人だな、お前何月生まれ」「三月生まれ」「多情浮気っぽい。谷は四月生まれだ」「私より一つ上か。あなた七月生まれでしょ。彼女私たちよりお姉さんだけど天真爛漫ね。親の愛情を一身に受けて育った。純情派はやりづらいでしょ、でもあなたはやろうとした」「何を」「とぼけないで。ほかの女とやったら殺すわよ」
矢野が酒を飲みながら言った。「日本人はどうして性を罪悪視するのか」「処女性を崇拝する男のエゴ」「いえるな、私有財産制と相続が問題とされるようになってからだ」「跡継ぎが自分の子であることを明らかにするために」「だろうな、鎌倉時代になってうるさくなったようだ」「あなたは」「処女の方がいいが気分的なものだろう。よく洗浄すれば差支えはない」「でも乙女を女にしたという男の達成感はある」「ある、十分にある。まして京子みたいな美女となれば光栄なことだ」「私に感謝している」「心の底から感謝している。全身全霊を捧げてもいい」「私に何をしてくれる」「大きな家を建ててやる」
この約束は十年後に果たされたが大きな家で良かった。理由はやがて明らかになろう。「約束よ。楽しみだわ。結婚はやらしてもいいと思った男とすべきね」「俺は毎日腰が抜けるほどやらせてくれる女がいい」「私はだめ。身が持たないわ。でもほかの女(谷和子)とやったら殺すわよ」「殺さないでくれ、お前とセックスできなくなる。お前は名器だ。名器は弾き込むほどいい音がするようになるとヴァイオリニストが言っている」「どうして」「こういう音を出してくれと願うと名器は学習するらしい」「でも演奏技術もあるでしょ」「それはそうだがもっとも大切なことはいい音、いい音楽を出してくれという魂の祈りのようなものだ」「あなた私にも祈る」「毎日祈る」京子は矢野を征服したと思ってにんまりした。


京子は友人から心理学の診断で恐ろしく支配欲の強い学生がいるときいた。友人の心理学研究室で評判となったらしい。京子は学生の風貌から矢野健であることがピンときた。何故彼に関心を持ったのか自分でもわからない。支配欲の強い者は支配されることを嫌うようだ。独立心が強いのも当然かも。矢野とヨットに乗ったこともあるがそれだけではない。男と女の仲になる理由としては弱い。関心は愛情の始まりであり決定的なものではない。京子の場合、谷和子の存在を除外できない。ままごとのような恋人を見て覚えた女の嫉妬、闘争心、見栄か。この点も数年後に明らかになるのだがこの時はふたりとも恋も愛も初心者であった。

(京子は社青から婚約者を通じて矢野を籠絡して取り込むよう特命を受けていた。しかし今はミイラ取りがミイラになった。矢野の純粋な情熱、情欲が京子を虜にした。女は何かをやろうと夢に向かって突き進む男には魅せられる。谷和子から矢野を奪い取る気もあったはずだ。が、これらを明らかにして一体何になる。すべてを明らかにすることが善いとは限らない)


第2ラウンドは明け方まで激戦が展開された。矢野の与える衝撃が京子に甘味な快感を与える。矢野の自殺を思い止めようと許した肌だが今は自分から矢野を求めている。女が裸になるとこうも変わるものか。純粋に性を楽しむことは罪なのか。性の快感は悦楽の世界に導く。「地位も名誉も要らぬ。お前がいてくれたら何も要らない」「天地が裂けても貴男を愛しつづけるわ」愛は恋人たちを詩人にする。性はあらゆる苦しみを解き放つ。恋は一方的に思うか自分だけでできるが性愛は相手がいないとできない。名器も毎日演奏しないといい音が出なくなるという。京子がこのことを実感するのは数年先のことであったが性の初心者だったから当然かも知れない。


夢中創作

矢野は3年になった。ゼミナールは民法を選んだ。捉えどころない経済よりも民法は普遍性があると思ったからだ。もともと矢野の志望は教育学であったから経済も民法も拘る程ではなかったが合唱指揮の夢が消えた今打ち込むものが欲しかったのだろう。
矢野は中四国ゼミの発表原稿を書いていた。大学院で研究を掘り下げたいと思うようにもなっていた。通学時間を節約するため寮を出て下宿生活を始めた。月に一度は香川京子が訪ねてくる。下宿のおばさんには「婚約者です。卒業したら結婚しますと紹介した。「まあ綺麗なお嬢さん、矢野さん遅くまで勉強なさっているからお世話してあげてね」と覚えがよかった。女になった香川京子はさらに美しさを増した。あれから半年以上になる。最近二十歳になったばかりであるが歳以上の落ち着きがある。

矢野は幸せであった。京子がいてくれるから学問にも身がいる。次のテーマは「生命侵害による慰謝料の相続権」と決めていた。卒論のテーマにしてもよいとも思っていた。人の生命が侵害されたら、つまり殺されたら被害者に慰謝料請求権が発生するか、その請求権は相続されるかということだ。人が死んだら権利主体でなくなるからもはや慰謝料は請求できない。請求できないものは相続できない。ごく当たり前のことである。なのに何故多くの学者がこのテーマに取り組んできたか、飯の種にするためだろう。矢野は賃借権も登記すれば対抗力を持つから物権化などと屁理屈をこねまわすことはないと考えていた。このテーマも同様である。遺族の固有の請求権で十分と考える。
 多数説は身体を侵害されたときは慰謝料を請求できるのに生命を侵害されたときは慰謝料を請求できないのはおかしいという論法だ。殺され損かと言わんばかりである。私権の享有が出生に始まるならば反対解釈として死亡で終わることは当然である。死亡は相続の始まりである。死は権利の終了時点であり、また相続の開始時点でもある。
 同じゼミの直木なら死者には請求権は発生しないと言えば烈火のごとく怒るだろうと思った。矢野はどこかで区切りをつけないと社会の秩序が保てない、少数説が正論と考えた。所詮法律は社会秩序の維持手段、すべての問題が法律で解決できるものではない。まあ判例多数説の意見も聞くだけは聞いてやろうと言う態度だ。
 有名な昔の判例は、被害者が死ぬ前に「残念、残念」と言ったのは慰謝料請求権の意思表示であると認定して相続権を認めた。矢野は笑ってしまった。裁判もいい加減なものだ。「助けてくれ」「向こうが悪い」なども同じ扱いだ。当時の新聞は死ぬ前に何はさておき「残念」と言残すべしと揶揄った。矢野は声も出ない即死ならどうなると言いたかった。また多数説のある説は、生命侵害は身体侵害の極限である、よって相続を認めるべしと言う。
気持ちは解かるが0.999…が1になると言う論法だ。高校の数学の時間1になると答えた同級生がいたそうだ。彼は数学を専攻し大学教授になったと聞く。彼と話してみたかった。矢野は中学時代数学教師に1/3=0.333…ならば両辺を3倍すれば3/3=1=0.999…となるかと質問したことがある。その教師は困っていた。
こういう話は直木でないとできないが彼も忙しそうだと話そびれた。それで京子に話してみたが「むずかしいわね」と軽くいなされた。京子とできてからどうも直木と話しづらい。勿論京子と直木は何の関係もないのだが、、、。
矢野は少数説に立って相続権を否定した。被害者に遺族がない場合は殺され損かと少し悩んだが法律は紛争解決手段、万能ではないと割り切った。数年後最高裁は「慰謝料請求権は当然相続される」と理由ものべずにこう判示した。その時、矢野はサラリーマンになっていたがこのテーマを思い出して何が当然だ、当然の濫用だと憤慨したものである。この判決が判例になっているようだからいい加減なものだ。

京子は燃え盛る性の炎を鎮めてくれる。至福の時をもたらす菩薩か女神か。京子を見ているだけで幸せになる。世の中に美しきものは数あれど京子に勝るもの我知らず。矢野の支配欲、性欲は刺々しさがなくなり京子への感謝に変わっていった。それは態度の節々に現れる。京子もこれを察して満ち足りた気持になる。

中四国ゼミのテーマは「不動産賃借権の物権化」というテーマだが矢野はくだらないと思った。分かり易くいえば「売買は賃貸を破る」ということだ。例えば土地を借りて家を建てた場合で土地が売られると新地主に借地権を主張できないという。借地人は建物を撤去するか新地主の要求する地代を払わなければならないようだ。そんなばかなと矢野は思った。賃借権は債権であるから契約の相手地主には主張できても新地主には賃借権を主張できないと言う。現行法でも不動産賃借権を登記すれば済むことである。登記が対抗要件ではあることは不動産物権とて同じだ。
矢野のゼミはこのテーマに取り組んでいた。「賃借権を第三者にも対抗(主張)できるようにする」というものだ。地主が売買を繰り返すと借地人の賃借人の地位は揺さぶり続けられるから不条理だというのだ。人呼んで地震売買。所有権、地役権等の物権なら地主以外の第三者にも対抗できるから債権である不動産賃借権も物権化すべきだいうのだ。この急先鋒が直木であった。

直木は民法学者を目指していたからよく勉強していた。常にゼミをリードしていた。「矢野君の言うように不動産賃借権も登記すれば対抗力を持つ。しかしはたして賃貸人が自分に不利になる登記に応じるだろうか」「応じなくてどうする。不動産売買で売主は登記に応じないか。地主も売主も登記義務者だ」「多くの者が土地が買えないから借りるのだ」「貧乏人には借地借家暮らしが世の常」「一部の者が広大な土地を有して多くの者が土地を持たなくていいのか」「それは政治の話。農地解放でかなり是正された。今は法解釈の議論をしている」
いつもこんな調子であった。矢野はかなりの不動産賃借権(多くが土地建物)の登記がなされている例を法務局で調べていたが口には出さなかった。実務では結構件数がある。この実績を出せばこのテーマを取り上げる意味がないからだ。矢野は話に水を差す様なことはしないがどんなテーマでも疑ってかかる性格だ。時流にも雰囲気にも自分を見失うことはない。
民法の特別法である借地法では借地上に建てた自分の家の登記をすれば借地権が対抗力を持つから土地が売買されても新地主にも借地権を主張できる。矢野はこれで十分と考えた。

別の日直木が「現在の不動産賃借権の実体は賃料を得るための資本である。故に賃借権を無断譲渡もしくは転貸したとしても問題はない」と叫んだ。ゼミ生はその迫力に圧倒された。黙っていないのが矢野である。「所有権の実体が資本であることは認めるが賃借権は借りたものを対価である賃料を払って使用収益する権利であるから貸主に無断で譲渡も転貸もできない」
ゼミ生はさあ始まったぞと論戦を見守る。直木がむっとする。「借りたものは返さなくてはならない。小学生でもわかる理屈だ」「君は、所有権をまた不動産賃借権を資本(賃料を得る手段)と認めておきながらそのような論理を展開するのはおかしい」「では賃料が入って来るなら女子大生専用のマンションの賃借権を飲み屋もしくは風俗の女に譲渡してもいいのだな」「それは極端なケースだ」「やくざに転貸してもいいのだな」「日本社会をマクロ的に俯瞰すれば不動産賃借権はその多くが資本として機能している」「それは聴いた、同じ事を繰り返すな。多くは問題なく機能しているが、少しの場合その資本的機能が問題になっているのだ。問題をそらすな」「小矛盾の背後には大矛盾がある。これを先に解決すべきだ」「答えになっていない。お前は共産主義者か」「なにお、もう一度言ってみろ」「何度でも言ってやる。大事な家土地を貸し与える賃貸人の身にもなってみろ。マンションの収入は激減するぞ」
 ここでゼミ幹の仲谷が間に入る。「矢野君の指摘するような場合は賃貸人たる大家に解除権を認めるべきだが、新しい賃借人に問題がなければ無断譲渡転貸を認めてもいいのではないのかな」「その問題がないとは」「まともな人間で良識的に使用収益する者」「その保証は、実際に使用収益させてみないとわからないだろう」「そこまで言ったら議論が進まない。大家は譲渡転貸前に新賃借人を見極めるしかないと思う。どの契約も相手が履行すると信じて締結するのじゃないかな」矢野は「それなら条文通り事前に地主大家の承諾を得てからやれ」と言いかけて止めた。ゼミ幹事の顔を潰すと思ったからである。

矢野は条文を時代によって解釈すべきとの直木の考えも理解できない。都合のいい解釈をするなら法律の意味がない。「そこまで勝手(拡大)解釈するなら解釈を超えている。司法の立法行為だ」「矢野みたいにカチカチでは法は運用できない」「条文をドむつかしい解釈をしなくてすむようにするのが法である」「条文の文言通りでは解決できない問題が多々ある」「それは政治すなわち立法で解決すべきである。司法は司法の分際をわきまえろ」「それでは法律だらけになる、法学の意味がない」「お前は独裁者の性質がある。直木が権力をもつと危険だ。権力を分散させ互いにチェックさせること必要でまた大切だ」「矢野の方がもっと危険じゃないか、法律は少ないほどよい」「山本、直木に何かもらっているのか」「いいや単なる感想よ、な水島」「うーん、社会が発展するほど制定法が増えるのは仕方ないとしても増え過ぎは良くない。それにどちらかと言えば矢野の方が直木よりも支配欲が強いからのう」

香川京子は矢野の話を聞いて民法ゼミの様子が想像できた。「直木さん紳士的なんじゃない」「あ奴はむっつりスケベ。手も早いから気を付けろ」「直木さんが私に手を出したら」「殺す」京子は近頃自分と同じ歳の矢野が自分の弟か息子のように見える。女を抱くから私に抱き付くようになった。私の方が矢野を抱く感じがする。彼って欲しいものはなんでも、とくに私のような美女は我武者羅に求める。支配欲の強い者ほど甘えたがると心理学研究室で誰か言っていたな、それだけ女が早く大人になるということか。
京子は矢野を抱き寄せ膝枕をしてやる。「チャタレイ夫人の恋人読んだか」「よかった、素晴らしい」「俺のも小鳥のように起き上がるのか」「小鳥、とんでもない、とんびか鷹ね」「お前も相当好きだな」京子は英文学専攻だがロレンスは読んでいなかった。「お前の身体冷たいな、暖めてやろうか」「何考えているの、スケベ」「小鳥は身体を寄せ合って眠る」「それをあなたが言うとイヤらしい」
この作品は出版社と翻訳者が猥褻罪で起訴され最高裁で有罪が確定する。矢野は検察官と裁判官はインポの僻みで有罪にしたと酷評したがこの判決が判例になっているようだ。ゼミの飲み会で水島が「裁判官も楽でないのう。職務に忠実が故にインポ呼ばわりされる」と言った。直木が「問題はこの作品の猥褻か否かだ。裁判官のポーテント能力ではない」とムキになった。この頃は何が正しいかで誰が正しいかではない。サラリーマンになると逆である。誰(どの上司が)が正しいかであって何が正しいかではない。胡麻擦り社会である。

矢野の読書量は京子の周りを上回る。「ロレンスはドイツに留学して教授の奥さんに手を出した経験からの作品だろうな」「教授の奥さんに、度胸あるわね。退学にならなかったの」「ああ、だがやはり英文学はシェークスピアとディッケンズだな」などとのたまう。
京子は矢野がベニスの商人の判決文は詐欺だと言うので読んでみたが法的にはそのような解釈をするのかと感心した。借金を身体で払う代物弁済契約は有効かということだ。「私はペニスの商人からいくら借りられる」「お前の身体なら300万は固いな、被担保債権の3倍1000万の担保価値はあるから300万が相場だ」「じゃあ貴男得しているわね」「どうしてそうなるのだ。以前の京子は可愛かった」「そうよ、夢見る乙女だった。そんな私を、こんな女に誰がした」
矢野は下を向く。「あなたにとってセックスって何」「セックスとは生の根源である。生きている証だ」「どうして」「生きていないとできないだろう、セックスの結果子が生まれる。人は出生によって私権を享有する。出生とは胎児が母体から全部露出した時をいう」「すけべね。誰が確認するの」「婦人科の医者」「医者は男もいる。スケベがなるのかしら」「当り前だ、女の恥かしいあそこをいらいまくる。さて本論だが男はやりたいが故、労苦を惜しまない。子育ての為に金を稼ぐのだ」「私の為じゃないの」「お前には百坪以上の家を建ててやる。可愛くないのう」  
京子は英文学の研究室で「セックスのない結婚は結婚ではない。結婚は生殖器の共有」と話すとみんなが驚いた。ロレンスのチャタレイ夫人の恋人を持ち出したのだが、その様子に京子は得意な気分になった。(私の彼はスケベだけどよく勉強している)

ミスコンテスト ミス学園

直木は学園祭の実行委員もやっていた。矢野がミスコンテストをやれと嗾けると乗ってきた。「応募要項、審査方法を作れ、委員会に図る」「わかった」二人は女のことでは気が合う。
応募要項
1資 格  本学女子学生で容姿に自信がある者で
本学男子学生の2名以上の推薦のある者      
2優勝賞金 5万円 賞金総額 10万円
審査方法
1予選審査  本学学生の投票、ただし投票用紙購入者に限る。
2決勝審査  予選通過者5名について平服、和服、水着の総合審査
      (各審査員は決勝出場者に上記3部門の順位をつけ、
その合計が総合順位だがこれを張り出すところがミソ)
直木は「審査結果の公表か、審美眼が問われるな。コンテストの権威が上がる」と感心したがつづいて「賞金の原資は。決勝審査の具体的方法は」ときいてきた。「投票用紙200円。決勝審査員就任権一人2000円応募者多数の時は抽選」「なるほど投票用紙1000枚で20万か、決勝の審査員増やせばいいか」矢野が返事しなかったのでなおもつづける「決勝審査員は自分が一番に選んだ美女の頬にキスできる特典をと考えて5名にしようか」「まあ実行委員会で検討しろ」「キスするとき抱き寄せてもいいのか」「その辺も含めてな」「素晴らしい企画だ。ありがとう。早速検討する」

次の週直木がやってきた。「おい、投票用紙1000枚売れたぞ。増刷中」「それは上々。だがこの大学にそんなに学生いたか」「商法の大隅教授が教職員も投票させろと言い出した」「人は見かけによらぬものだな」「でな1200枚位はいけそうだ」「では決勝審査員もやらせろと言うのじゃないか」「それよ、先生が1万円出すというから特別枠を作った。それと水着は同じ色のものを実行委員会で用意することにした、いいか」「ビキニか」「そういう意見もあったが女子委員にワンピースで押し切られた」「ブスのひがみだな」

当日、会場の講堂には立見席にもあぶれた学生が窓からのぞき込むほどであった。目玉は水着審査である。当時は水着がまぶしかった。ましてや学園の美女たちの水着である。香川京子が優勝したのは予想通りであったが谷和子が3位入賞したのは意外であった。平服和服の評価は京子を上回った。容姿、肉体美だけでなく内面からにじみ出る可愛さ人柄も評価されるのであろう。なお直木の発案で出場資格要件に男子学生2名以上の推薦が追加された。ヨット部の山田は推薦したであろうか。
 学園始まって以来のミスコンテスト、初代ミス学園は前述のように香川京子の頭上に輝いた。この年の学園祭は大成功であった。参加者は例年を大きく上回った。これが一番であるがミス学園投票用紙の売り上げは学園祭の実行を手助けした。矢野の発想は学園中に広まった。直木のおしゃべりめ。「俺は提案しただけ」と矢野は無関心を装ったが京子、和子の評価が上がったことは間違いなかった。学園祭が終わると実行委員会の打ち上げに矢野も招待された。直木は矢野の発想に感心したが矢野も直木の実行力を評価していた。


しかし小さな大学である、二人のうわさは谷和子の耳に入るのに時間はかからなかった。矢野を香川京子に奪われた悔しさは日ごとに和子を苛なめる。矢野は毎日図書館に籠りきりと聞いてそっとのぞいたが声を掛けることはできなかった。良かれと思って次期指揮者選びの秘密を隠したが矢野の悔しさもこのようなものであったろうと思うのであった。

日曜日の朝、和子は母親に呼ばれた。「和子近頃おかしいよ、何があったのか話してごらん。ひとりで悩んでもしょうがないよ」母は人生の女の先輩でもある。有無を言わせぬ迫力がある。和子は思い切ってすべてを話した。話すことで矢野とのことが客観的に見えてきた。「和子、お前がいけないよ。好きな人ができたら母さんに相談したらよかったのに。母さんはいつだってお前のことを思っているのだよ。写真見せてごらん。いい男じゃないか、家に連れてくればよかったのに」と母は言った。そうだったかもしれない。「今からでも遅くない、取り戻しなさい。やられっぱなしでいいのかい」

香川京子の顔が浮かぶ。彼女は私たちのことを知っていて矢野に近かづいたのだわ。(だったら、あなたは彼を拒んだでしょ、私は彼にかけたのよ。彼は私のものになったの)と言うだろう。「そんな画策なぜ教えてあげなかったの。団長になるかはその人が判断したでしょうに」と母がなじった。自分が矢野に話していたら団ぐるみで画策しなければならなかった事情は理解してくれたかも知れない。団にとっても矢野にとってもいいことだし自分のいうことなら矢野もきいてくれるであろうとの自信もあった。今にして思えば他の団員はともかく私は話すべきだった。「だから身を任せてもいい男かどうか母さんが見極めてあげたのに」私もそう思ったけど女になるのがこわかったの。一人娘の私を溺愛してきた父が悲しむだろう。

人は過去には神になれるが未来には幼児である。和子の母は未来志向派である。「ともかく彼を連れてきなさい。家に泊めて閨をともにすれば婿殿だよ。その前に母さんが床入りの品定めをするから。お前ほど器量よし気立てよしがそんなにいるものか。首に縄付けても連れてくるんだよ」この積極性は和子に遺伝されなかったようだ。「お父さんは」「いいんだよ、この家のことは私が決める」

お父さん子の和子もこの時は母が頼もしかった。母親は和子を女として観ているから先輩後輩の関係である。それは日本社会では身分地位より優先することがある。親子は矢野の強制連行の策を練った。巻き返しなるかというところだ。「そんな」「世の中結果だよ、理屈なんて後でどうにでもつけられるものだよ、和子」母の話を聴いているとその気になってくるから不思議だ。
和子は「今度の日曜日私の家に来て。ご馳走するから、酒も用意する」と矢野に言った。女が腹を括ると度胸が据わる。今までの葛藤など噫にも出さない。「10時の汽車で来て。駅で待ってる」とにっこり笑う。乙女の笑顔は男の思考を停止させる。夏の日は図書館の中にも熱く降り注いでいた。和子の後ろ姿は矢野が来るものと確信しているように見えた。

日曜の朝、駅の改札口に列車通学の和子が待っていた。こっちと矢野の手を取って下りホームに向かう。あの日も香川京子に手を引かれて連絡船に乗った。汽車はほとんど空席であった。車窓から見慣れた風景が現れるが視点が違う。前にいる谷和子が別人に見える。姿形は変わらないが大人っぽくなった。「私ほんまは東京の大学にゆきたかったんよ」「親が反対した」「そう。でもどうして」「一人娘で甘やかされて箱入り」「そうなんよ、ちょっと遅くなっても心配するんよ」「まあ、親の気持ちも分かるな。俺の娘には門限8時だ」「そんな、大学に行っても」「9時までに延長してやる。娘の安全は親の義務」

やっと以前の状態が戻ってきた。「あの時は井本さんが離してくれなくて」「もう言うな。俺が取り戻すべきだった。あいつの眼を看るとすくんでしまう。「矢野さんにも苦手がいるん」「むっつりスケベ。もう3人手を出している。1年生の長井と西川、それと」「松田さんでしょ」「知っていたのか」「あの時の長井さんの取り乱しようはひどかったで」「それに平井さんも。俺が知るだけで、浜野さん秋山さん」「最近は能田さん」「1年生のアルト」「うん結婚するらしいわ」3歳年下だからおかしくはないが、浜野さん秋山さんは平井の信奉者だったのに男声しか指揮しなくなると用済みなのか。

汽車の汽笛は日本人の心を揺するものがある。小さなトンネルで車内が暗くなる。純情可憐の和子が一瞬妖魔に見えた。車窓に広がる田園は日本の原風景を残している。都会の女の厭らしさはこうした原風景を忘れたからであろう。駅から谷和子の家まで歩いて10分ほどだった。古い造りだが落ち着いた木造だ。広い庭には植木と菜園がある。
黒い柴犬が和子を迎える。「ただいま」「まあおいでなさい。和子がお世話になっています。この前は音楽会に連れて行ってもらったのですって。さあさあ、お上がりなさいませ」和子の母は捕まえたぞとにんまりしていたのである。「お礼と言うほどでもないのですが田舎料理を用意しました。矢野さん大学院を目指してられるんですって、偉いわねえ」母親のペースである。「和子、お風呂浴びて貰いなさい。さっぱりして召し上がっていただきましょ」和子が矢野を風呂場に案内して「この浴衣使うて」と言った。長期勾留になるであろう。

浴槽も贅沢な木造りだ。「お湯加減は」と和子が、「いい湯だ」と矢野が答える。下宿の近くの風呂屋とは違う。湯は緊張をほぐす。日本民族の根源的感覚だ。矢野もなるようになれと観念した。汗を流して上がるとバスタオルが用意してあった。「出たの」「いい湯だった」矢野がパンツをはくのを見計らったように和子が浴衣を肩にかける。矢野が前を合わせると和子が帯を結んだ。
矢野が居間に戻ると「あなたも汗流してらっしゃい」と母親が言った。「あの子は一人娘だから甘やかせて育てたのが、意気地なしで、私に似ていたらもっと美人でしたが、なんですか、気立てはよいのですよ。ちょっとそこらにいないでしょう。悪い虫がつかないうちにお婿さんをと、でもあの子は奥手で」母親は文脈のない話をつづけるが言わんとすることはわかる。
洗い髪の和子が浴衣で出てきた。「まあ並んで座ると新婚さんみたい、生憎主人は町内会の会長をしてますでしょ、今日は寄り合いで失礼してます。なに終わったあとの宴会が目的ですよ。さあ和子お酌して。私も婦人部の部長でこれから出かけなくてはなりませんがゆっくりしてらしてね。我が家は代々庄屋をしてましたからいろいろ頼まれごとが多くて、農地解放で小作にとられるまでは20町歩はあったのですよ。和子、天婦羅は熱いうちに召し上がっていただくのだよ」この調子だと夜までつづくだろう。「それじゃね私でかけるから、和子しっかりおもてなすのよ」


和子は玄関の鍵をかけた。女が心を決めるとこうも変わるものか。いよいよだと矢野は思った。「味どう」「美味い。おふくろの味だ」「それ私が作ったんよ」「お前やるじゃないか。こんなの毎日食えたらなあ」「結婚したら作ってあげる」浴衣の和子は初めてだ。「こっちへ来いよ」「待って食べてからよ」矢野は豪快に飲んで食っていたが全身既に戦闘態勢である。和子は「私の部屋見る」と矢野の手をとる。
二階は5部屋位あるのだろう。和子の部屋は奥の四畳半であった。小さなベッドがある。矢野は後ろから和子を抱きしめた。首筋に唇をあてると和子は首をすくめた。抱き上げてベッドに下ろす。和子は矢野の首を抱きしめる。和子の乳房は見た目以上に豊なふくらみがあった。矢野が浴衣を脱いだ。和子も帯を解く。胸に両手を当てている。矢野が腿に唇をはわすと和子が小さな声をたてた。和子の股間を舐めると全身を痙攣させる。さらに舌を奥に差し込むと身を捩る。股を押し開くと桜貝が濡れていた。矢野の先をそっと桜貝に押し当てる。桜貝が矢野をくわえた。少し深く入れると和子も矢野を抱き寄せる。こういうことは習らわなくともできるものだ。
矢野が最深部に達すると和子の顔がゆがむ。髪をベッドに広げた和子は妖艶であった。そうか女流ヴァイオリニストの顔にエロチックなものを感じるのはこれだったのだ。緩やかな序奏につづいて力強い演奏に移る。和子は悲鳴をあげそうになるがこらえた。身体の深部に矢野の存在を感じた。ここに入った者はいない。和子は矢野の刺激が全身に広がるのが不思議であったが次第に意識が薄れてゆく。しかし小さな身体は矢野に反応した。そして身体を反らせて矢野を持ち上げる。
この時を1年以上待ち続けたのだと和子にかぶさってゆく。和子が矢野を引きずり込む。矢野は和子を抱き起して仰向けに寝そべる。和子の腰は意志を持つかのような動きを始めた。矢野のすべてを感じようとしているようだ。矢野は行きそうになるのをこらえた。この女も俺の上で悶えるのだ。初体験はほろ苦いと聞くが和子は悦楽の表情を浮かべている。矢野の鼓動が和子を痙攣させる。きてえと和子が叫ぶ。矢野は全重心をかけるとどくどくと放出した。少し口を開いた和子の顔を見て征服感が矢野を満足させる。俺は井本に勝った。

矢野は息が静まるまで待って和子を抱き起す。一つになった身体を和子に見せる。顔を背ける和子をにらんだ。和子は顔を赤らめながらも見つめた。「結婚とは生殖器の共有だ。俺たちは結婚したのだ」性は男にとって支配欲の発現でもあるのだ。矢野は再び仰向けに寝そべった。和子の腰が奉仕しだす。矢野もむくむくと膨張する。和子が後ろに身をそらせて腰を押し付ける。矢野は満足した。快感だけではない支配だ。とろけそうと和子がもらした。和子も自分がしとど濡れているのがわかった。死にそう、純情な娘は大胆な言葉を発する。だが処女だと矢野は思った。感性感覚だ。矢野は和子を俯せにして背後から攻めた。形のいい尻だ。和子が首をもたげてもがく。矢野がいきり立って射精すると和子は失神しそうであった。

矢野は身を起こすとティッシュでふいた。和子が肩で息をしている。和子の出血は少なかったがふき取った。さてこれをどうするか。女は出血に慣れている。矢野は丸めて机の上に投げ捨てた。喉が渇く。その気配に和子がよろけるように身を起こした。矢野は抱き起こして膝に乗せた。「よかったか」「うん」「喉が渇いた、カラカラ」「ビール飲もうか」「感じただろう」」「感じた。こないええとは知らなんだ」「だからやらしてくれと言ったのだ」「だって知らなんだから」「まあ知っていたら問題だが」「失礼ね」
和子は浴衣の帯を締めると机の上のティッシュを包装紙で包めた。居間に戻ると食事をつづける。矢野は風呂で汗を流す。そして和子の鮮血も。ほてった身体が激闘を物語っていた。もしあの時「それだけはやめて」と言わなかったならば俺はやっていただろうか。こんな大事なことを女は心を決めると大胆にやってしまうのか。生理、妊娠、出産と性に関する体験が多いからか、人類としての記憶なのか。


電話が鳴る。母親からであろう。矢野は空腹を覚えて食った。和子も食った。「赤ちゃんできたら」「生むに決まっているだろう」「結婚してくれるの」「勿論。で何人生む」「何人でも」「なら結構。子供は多ければ多いほどいい」和子はうれしそうな顔をする。「そしたら大学は退学かな」「休学すればいい」「恥かしい」「欧米ではお腹の大きい学生もめずらしくないらしい」「日本ではちょっとね」「まあ生んでからのことだ」


間もなく母親が帰って来た。電話で首尾を確認したのであろう。「婦人部の宴会が始まったのだけど大事なお客さんでしょ。抜け出して来たの。お寿司持って帰ってきた。矢野さん今日はゆっくりしても大丈夫でしょ」一声30分。「でね高校の卒業旅行に友達と出かけることになったの。戦時中のことでしょ、友達は来てないの。当時は男と話すこともできないでしょ。お父さんね友達は都合が悪くなったと言うじゃない。別々の席に座って温泉に行ったの。お父さんは私に惚れていたからまあいいかと思ったわけ。宿では父の看護でとか言ってお米を二升渡したの。そしたらお前ができたんだよ。お米が利いたのね。離れに泊めてくれたの。初めてのことだから上手くゆかなくてね。父さんは卒業するとすぐ就職したのだけど今でいうできちゃった婚ね。何度も求められてね、次第に要領がわかってきて失神しそうになったわ。女中さんが代わりのシーツを用意してくれていたの。初体験で妊娠なんて最悪。先方は仲人立ててきたのだけど、結局身内だけの祝言はお前が生まれてから3歳だったかな。父も母も折れたのね。孫が可愛いかったのよ。お前も私に似ているともっと美人なんだけど」

なるほど若い母親だが色香は残っている。男がほっておかないだろう。父親も強硬策に出たのだ。ものにするには口だけではだめだ、実践しないと。「この子は気立てがよくてね主人が猫可愛がりするものだから」和子があまり喋らないのは身近に反面教師がいるからだ。
要約すると矢野は婿殿に合格したから毎月通ってきなさいと言うことらしい。その日は和子の家に泊まったが以後毎月泊りがけの通い夫となる。平安時代の貴族ならぬ拉致夫、母親が逃がしはしないよと?


矢野は香川京子と谷和子を得て合唱は忘れていた。ゼミの研究課題と大学院受験勉強に充実生活を送っていた。しかし生まれてくる子を私生児にできない。また二人と同時に結婚することはできない。この問題を如何に解決するか、大きな課題であった。日本の戸籍法は結婚によって新たな戸籍が創設される。夫婦はいずれかの姓を名乗ることになる。同時に親の戸籍から除籍されるのである。されば先に妊娠した方と結婚して出生届を出して離婚する。あとから妊娠した方と結婚する。これを繰り返せば京子も和子も子供も法律上の父母も明らかになるというのが矢野の結論である。住民票には結婚離婚の記載はない。夫と死別したと言えば世間は信じるはずだ。京子が、和子が。応じてくれるかはその時のことだが矢野は思ったことは実践する男だ。

第二章一流合唱団

第二章 一流合唱団


時は流れて矢野は東京にいた。合唱団員も就職してそれぞれの道を歩んでいた。矢野は学究の道をあきらめて企業に就職したのであった。三度目の挫折である。一次志望大学受験、指揮者コンペ、大学院受験にいずれも失敗したのだ。多感な青春時代には挫折は堪える。だが挫折を乗り越えてゆくのも若さであろう。香川京子谷和子にはそれぞれに「三年は待っている」と言って別れたのであった。時は挫折も愛も流し去ってゆくのであろうか。


公害防止

一般にサラリーマン生活は単調であるが矢野は入社して間もなく公害問題というテーマを見つけた。当時公害問題は会社業務とは関係ないという認識であったが日本を代表する会社であったから「まあやれせておけ」となったのであろう。矢野がその年の秋、区役所の公害課を訪ねるといきなり「おたく工場設置届を早く出せよ」と職員にかまされた。「根拠法は?」と矢野が切り返す。職員は東京都公害防止条例をテーブルにたたきつけた。矢野はそれを手に取って目次を見て届の項目を開く。「前任者は」「本社に転勤しました」「優秀な人は本社にゆくのだな」

矢野は前任者から担当は東大出で気が短いと聞いていた。「岩橋さんの大学での専攻は」「化学、ばけがく」「じゃあ法律は詳しくないな」30歳位の岩橋は技術職であろうが関係法令を頭に入れている。それが民間企業の新入社員にあしらわれている感じだ。「この条例は1年前から施行されているのに対象企業の届が出ていないのは区の怠慢でしょう。当社にも督促しましたか」たじろぐ岩橋。「工場のレイアウトと特定施設を出せばいいのですね」「特定施設は全部レイアウト図面に落とし込んでもらいたい」「わかりました、3月以内に提出しましょう」「ふざけるな、すぐ出せよ」「当社の特定施設はおそらく1万以上あるでしょう」
話をきいていた係長が話に加わる。「一度御社の工場を見せていただけるでしょうか」「それはいいですが事前にご連絡ください。私が案内させられますから」「お忙しそうですね」「日常業務にこの届が増えましたから」「嫌味をいうな」と岩橋。

矢野が帰った後公害課では「あいつをごねらすと面倒なことになる」と係長が岩橋を諭したらしい。矢野の報告をきいた課長は「3月以内と言ったのかい。せめて3週間ぐらいと言えなかったのか」「ああいう役人根性は初めに叩いておいた方が今後何かと」「やりやすいと言うのかい。君は大物だよ」

話が工場排水の水素イオン濃度ペーハーpotential hydrogen、power of hydrogenに及ぶと課は全員が身を乗り出し、あるいは聞き耳を立てた。酸性かアルカリ性かという話だ。矢野は区役所の「おたくのPHいくら」との質問にPHの単語の意味が思い出せなかったのだ。「でなんと答えた」「普通です」「普通です、か」と全員が大笑いした。「君大学出ているのだろう」「化学など受験勉強が終れば忘れてしまいますよ」「あとは工場排水の水質検査かな」

矢野は少し間をおいて声を落として話し始めた。「来年には国も動き出します。公害基本法、それに個別法の関係法令が成立施行されるでしょう。今から公害原となるものを調査して対策を講じなくてはなりません。それには工場を挙げて取り組まないと不可能です、公害防止委員会を設立していまから該当部門に作業の改善と抜本的対策を求めるのがよろしいかと思われます」
全員が静聴する。「総務が設立する委員会は安全衛生ぐらいだ、この委員会は工場全体を管理監督するものになるだろう」と課長が興奮気味に言った。当時は総務黒子論が支配的であったのだ。

さっそく公害防止委員会の設立を部長会に運営を部課長会に提案することになった。課長は矢野を伴って部長室を訪ねる。「これが委員会設立の提案趣旨でこちらが運営方針です」「ほう社会的信用ね、これからの企業は利益追求だけではやっていけなくなるよ。矢野君これ君がまとめたの、すごいねえ」「つきましては部長、法令の動向を調べておりますが成立前のことですので我々苦労しております」「上程もされてなければ大変だろう、僕もコネを通じて当たってみるよ」

当時の部長と課長の関係は概してこのようなものであった。身分である。矢野は委員会運営については両罰規定を強調するよう部長に進言した。すると法人の代表者を人にしろと言う。「公害関連法は違反した企業に罰金刑を科すほか人にも禁固刑をもって臨んでおりますのでこの点注しておく必要がございます。こんなところでよろしいか」「矢野君、代表者も人。工場長部課長従業員も人。自分らも逮捕起訴されると思っても君が間違っていましたと言えば済むことだよ。むしろ思わせることが大切なのだ」組織ぐるみの悪事は下が責任をとるのが伝統的日本社会ということだ。上は美味しいところをいただく。武家社会の伝統は今日でも生き続けている。

あとは実務レベルだ。「課長、今回は総務で届をやりますが、このあとをどうするかですね」「特定施設をはじめとする変更を遺漏なく届け出るにはどうすべえ」矢野は条文法令規則を書き出して一覧にした。例えば政令は「法第7条にいう特定施設とは次のものをいう」とくる。この政令を条文の横に注記してあれば探すのが容易だ。
この公害関係条文法令規則一覧は本社に絶賛され各工場から一部譲ってくれという依頼が殺到した。あの区の公害課すらご恵贈賜りたくと言ってきた。しかし現場の評判は今一つさえなかった。ある日矢野は製造部長に呼び止められた。「あの条文法令規則な、現場には難し過ぎる」「どうしてですか」「説明の順が逆だ。法律の素養がない人間には、次の場合は届、許認可が必要とまず説明する。切断機、送風機、酸洗浄等を設置または変更したときと具体的に書く。ただし、定格出力2.5kw未満は不要と付け加える。特定施設の定義などは付録でいい」「なるほど技術屋には具体名をまず示すか、歳の功ですね」「馬鹿言うな、俺はそんなに年食ってないぞ」この製造部長の父親は高検の検事正であったというから人は見かけによらない。「昔は知事か検事正と言われたからうちの製造部長では」「比較にならないか」「提灯に釣り鐘、月と鼈、雲泥の差」「そうかい」と嬉しそうに言った。この少し柄の悪い製造部長はその後も矢野に手助けしてくれた。


同窓会

大学の同窓会の案内がきた。東京は企業官庁が多いだけに同窓生も多い。同期では黒川、火野も出席するようだ。その日は終業とともに会社を出る。寮に帰って着替えをして都心に向かう。卒業した年は一番同窓生が気になる。矢野たちにとって同期以外は先輩だ。既に定年真近かの老人もいた。同窓会は学生時代を懐かしむものだが出世を自慢するところでもあるようだ。
新卒業生は前に並んで自己紹介した。出席者には名の知れた会社の社長、常務、部長、課長の肩書が並んでいる。学究の道をあきらめた矢野にも出世は気になる。日本社会は大学に先に入学して卒業したというだけで先輩という地位身分が与えられる。そのくせ後輩の面倒見はよくない。矢野は同窓会を重視していない。T大、K大といった有名校は横のつながりだけでなく縦のつながりもすごい。これが有名大学への志望動機であろう。社会に出ての結束力が違う。

目的は同期の現状を知ることである。矢野にとっては香川京子と谷和子の消息が知りたい。京子は地元の中学で英語教師になり、谷和子は名古屋に就職したそうだ。何故連絡してこないのだ。二次会は同期8人でスナックに陣取る。主役は勿論消息通の火野である。名古屋と言えばゼミ幹の仲谷がいる。近々名古屋支店に主張するので会ってみたいと思った。150人の同期はそれぞれの道を歩み始めた。大学4年間を共に過ごした、ただそれだけのことではあるが同期と言うだけである程度の連帯感つながりがあるのも事実である。同期の卒業後の消息を知り自分と比較するのだ。
黒川と安田は大学院に進学したそうだ。他に6人が大学院に行ったと聞いて矢野は複雑な気になった。突然火野が大きな声で「矢野が企業に就職するとは思わなかった。3年我慢できるかな」と言った。みんなの視線が矢野に向けられる。河西も大学院を目指したが失敗したことは知っているので矢野に声を掛けづらかったのだ。火野は昔から無神経なところがあるが就職活動もせず大企業に就職した矢野をやっかんであるようだ。「今何やっている」と黒川が気を利かす。

みんな聞きたそうである。「公害をやっている」PHの話をすると大笑いになった。「どういうこと」と火野がきく。「PH水性イオン濃度、酸性アルカリ性の濃度を訊かれて矢野は普通ですと答えたということだ」黒川が解説する。「しかし大したものだな、役所を相手になあ」「で届の方は」「2月目に提出した。区の係長がお忙しい中早々に出していただき有難うございましたと受け取った」
また笑いが起こる。「1年も遅れておいて役所に感謝させる、並の人間にはできないな」矢野は話を変えた。「英会話部の山下慶子どうなった」勿論当て馬だ。山下は準ミスコンだが香川京子と僅差であった。予選は1位で通過した。女の話になると火野が出番とばかり口を開く。三面記事が好きな男だ。「結局誰もものにすることはできなかった」「そうか、裸にしたらいい女と思ったが俺は香川京子のほうがいいな」「それよ、彼女婚約者がいながら他の男とできたらしい。破談話も出たが婚約者が目をつぶることになったということだ」矢野は一瞬どきっとなったが「結婚するのか」とつづけた。「近いうちとか」どうやら火野は気づいていないようだ、矢野はほっとした。「しかし香川さんが一番だったな、そいつが羨ましい」と河西が言った。河西は真面目一方であったから可笑しかった。
やはり香川京子は衆目の意一致するところであったようだ。「そういえば矢野、谷さんとはどうなった」河西がきく。「お前は」とききかえす。河西は一年下の団員と純愛路線を貫いて来年には結婚式を挙げるそうだ。「谷さんて合唱団の、可愛い子であったな」と石原が懐かしそうに言った。「谷さんは地元では就職したくないと名古屋の中学に就職した」と火野が引き継いだが話に棘があった。


再会

矢野が名古屋駅に着いたのは昼前であった。東京から2時間、便利になったものだ。改札口で人にぶつかった。「すみません」と謝ったが「矢野さん」と声をかけられた。なんと谷和子だ。想いは天に通ずるのか。「ああ」と言うたがあとがつづかない。「どうして」「出張だ、食事をしよう」とレスタランに誘う。支店に食事をしてからそちらに向かうと電話を入れる。
谷和子は少しやつれた感じがしたがやはり可愛いと思った。大学院をあきらめて東京に就職したことを手短に話した。和子は懐かしそうに聞いていたが、これから研修会に出席するそうだ。「で研修が終わるのは」「5時」「じゃあ6時に会えるか」「ええよ」「待ち合わせ場所は」「私セントラルホテルに泊まる」「そこのロビーに行く。遅れてもまっていてくれよ」「仕事があるんやから急がなくてもええが、私待っているよ」
必要なことから話すのが矢野やり方だ。「彼氏できたのか」「まだ」「俺一日出張をのばすよ」「そんなん、でけるの」「なんとでもなる。それより俺は待っていた」「矢野さん進学するって勉強してたから近づけなんだ」「時々お前を思うてさびしくなった」「香川さんが訪ねていたやろ」「ああ、彼女と話していると気が紛れた」「話だけ」「当たり前だ、売約済みに手は出せないだろう」「ならええけど」

倉敷旅行はばれていないようだ。「どうして名古屋に」「どこでもえかったけど地元を離れたかったんや。親もと離れてみないと大人になりきれない気がしてな」「それは言えるな、俺も寮にいって一人でやっていけると思った」「うちら県外受験さえさせてくれなんだ」「箱入り娘だからな」「箱から出たかったんよ」

次は今夜の泊りだが和子の部屋に泊まるのが最善だ。「今夜部屋に泊めてくれるか、そしたら就職祝いしてやる」「ええ、けど食事しよう」「宿泊代が浮くから1万位のもの見つけて置け」「ええの」「初任給手取りで5万あった」「ほんま」「残業30時間やったけど今月は50超えている」「大きい所は給料もええんや」「お前嫁に来てもいいぞ、食わしていける」「いくでえ」「おお、いつでもええよ」「でも5年くらいは働きたい」「俺と結婚して一生働いたらええ。東京に転勤でけんのか」「名古屋でも苦労したんよ」「そうか、もっとも俺も転勤があるかも。ずうっと東京とは限らんしな」「ほんなら矢野さんが名古屋に来たらええが」「ほれもいいな、まあ今夜ゆっくり話そう」


支店に着くとすぐ、大学の同期に会って今夜食事を約束したと言っておく。何事も先んずれば人を制す。「今夜名古屋の夜を楽しんでもらおうと思っていたのだが」「でしたら明日の昼にご馳走してください」「君仕事はいいのかい」「早く終わると夜行で帰らなくてはなりませんから」「わかった、(逢引を見ぬ振りするも武士の情け)では今から一局付き合え」と支店長は社宅に矢野を連れてゆく。支店では麻雀ゴルフで囲碁はあまりやらないらしい。
矢野が先手コミなしで対局する。50過ぎの支店長は積極的に打つ矢野に穏やかに対応する。中盤から戦いが始まり黒は右上隅の白石4目を取って出入り30目の成果を上げたが白に中央を塗りたくられた。白の鉄壁は50目以上の価値がある。矢野は戦略を変えて下辺を重視した。白石に近づくことはできないと判断したのだ。白の侵略は食い止められないが本丸には近づけないぞという配石だ。終盤に入っても細かい碁になりそうである。白の付け越で黒は長考する。2子を捨てると10目、これでは勝てそうにない。かといって切断すると持ち込みなるか傷口を広げるかだ。15分長考してエイと白石を切断した。
今度は白が長考する。手抜きして先手で寄せれば6目は見込めるが1目勝負になりそうである。黙って2子を抜いても先手ではあるが先に黒から撥ね次を打たれると似たようなものである。つけ越した石を伸びて黒の出方を観る。黒は2子をつないで全部を取ろうとする。「ここは2子を捨てて白石を半分だけ取るべきであった。白の撥ねにはかまわず黒も撥ねる。これで1目黒が残った」というのが局後の支店長の意見であった。支店長は棋風から矢野の人間を見たのだ。

時刻は1時半を回っていた。そろそろと席を立つと支店長もそうだなと会社にもどる。矢野は公害関係の届に眼を通して修理工場の特定施設を視察する。「これは何ですか」「配管洗浄です」「苛性ソーダですか」「ええ、錆落としですから塩酸を使うこともあります」「洗浄後は」「排水溝に流します」あとは騒音振動だなと矢野は思った。「音の苦情はありませんか」「板金音と耐久試験のときぐらいかな」「時間は」「半時間、長くて1時間」「ならいいでしょう。このダクトは」「塗装の排気ダクトです」「この消音タンクは相当振動していますから砂か土をかぶせてみてください」敷地3000㎡くらいだから半時間もかからない。すぐ出張報告書を書く。
1特定施設
 配管洗浄器1、送風機2
2問題点
 21洗浄用の廃酸廃アルカリをそのまま排水しているが業者に引き取  るよう指導すべき。
 22排気用ダクトの送風機は騒音振動対策を要す。
 23燃料タンクの危険物取扱主任者の変更届未了。
人事異動に伴う対応をシステム化する必要あり。
3公害関係法令への対応
 事業所の公害への認識は高いので関係法令の情報収集に注意すれば 問題ないと思われる。


矢野が総務課長に「これを報告しますので」と原稿を見せると驚いたようにすぐ工場長に報告するため同行させられる。工場長も50歳くらいで人の好さそうな顔をしていた。「ああご苦労さん、廃酸廃アルカリを業者に引取らすでええんやな。振動対策は砂をかぶせるでええかいな」「変更届は人事異動の際には有資格者をチェックするでよろしいか」と総務課長が口を入れる。工場長はなんでこんなことでという矢野の顔を察してか「あんたに来てもろうた理由は、PHは普通や」ああペーハーか。区役所に普通と答えたことか。「男と見込んで頼むのや」総務課長が用地買収当時の工場図面と写真を広げる。「この写真の建物の下には有害物質が埋められている。この工場はこの建物を取り壊して建てた」「その有害物質をどうするかということですか」「はいな、うちがこの土地を買収した時は蛍光灯を生産してたらしい」「水銀、六価クロムなどですね」「そこで貴殿の悪知恵を拝借したい」矢野がむっとすると「ジョークだよ君、工場長は全社的観点で心配されているのだよ」「わかりました。このまま埋め殺しか、対策を取るべきかですね」「いろいろ訳ありで困っているのでよろしく頼むよ」矢野はしばらく考えてから「半年以内に結論を出しましょう」と答えた。「そんなにかかるかな」と総務課長が言ったが「格別急ぐ理由はございますか、工場長のお考えに沿うような結論をださせましょう」「あんた明日帰るんやって晩飯ご馳走するがな」「せっかくですが学友と約束していますので」「そうか、次回にしよか」と工場長はあっさりしていた。
矢野は総務課長に都市計画図、地質図が欲しいと頼んだ。総務課員が車で市役所に連れて行ってくれた。都市計画図簡単に2部入手できたが地質図は耕地課にゆくように言われる。そこで担当者がいないのでわからないと言われた。「岡本さん、明日出直しましょうか」と矢野がいうと「そうしましょう、ホテルはどこですか」と言ってくれたが学友が谷和子と知れてはとデパートの近くまで送ってもらった。総務課係長の岡本は状況を即座に判断できる。これからこの男とやっていくことになろうと思った。 


ホテルのフロントに電話して和子を呼び出してもらった。「松坂屋の屋上ね、すぐ行く」との返事。矢野は余分なことは言わない女が好きだ。あれが尾張名古屋城か、中日球場はあっちか。矢野の胸は高鳴っていた。と和子が5分ほどでやってきた。「早かったやない仕事済んだ」「お前に会うには万難を排してだ。鞄売り場に行こう」「ええんけ」「気に入ったのがあったら買ってやる」和子はショルダーバックを手にしたが隣の手提げカバンを物色する。矢野は値段を見て和子が遠慮していると判断した。「鏡を見てみろ、うーんこっちが似合うな」とショルダーを勧める。「ええんな」カウンターに連れて行って「こっちを包んでくれ」と言った。和子は会計をしている間に中身を詰め替える。「どうや」「よう似合うとる」久振りに明るい笑顔だ。

和子はすき焼き店に案内する。「松坂牛や、おいしいでえ」「食うたことない」「そやろ、奢ってあげる」まだ6時過ぎの店内は空いていた。奥の席に座って注文する。「しゃぶしゃぶ」と言ってから和子が女房気取りで「生ビールふたつ先に」と言い直した。やはり可愛いなと矢野は思う。すぐに生ビールとしゃぶしゃぶがきた。「これな一二回湯に通してタレにつけて食べるんや。美味しいでえ」「まず乾杯。うん美味い。ジンギスとは違うな「当たり前や松坂牛やで」「わかっとう」「さあたんと食べな」確かにとろける旨さだ。あの時のふたりに帰った気がした。「すき焼き」と和子が威勢よく追加。「そや日本酒も」というとすっと出てくる。
やはり混むまえがいい。「松坂牛は酒だな」というと「さあもう一杯」と酌をしてくれる。「お前今まで一番きれいやな、こんな別嬪見たことない」「お世辞言うてからに、もっと食べる」「一人前でええ」「遠慮することないんよ「飯が食いたい」「まだ早いわ、お酒2本」「さしつさされつしているうちに別れられない仲となり」
和子の顔がほんのり赤くなってきた。「もよおしてきた」「トイレ」「お前が色っぽいから、あれや」「聞こえるで」矢野は我慢できなくなってきた。和子も覚悟していることは確かだ。「うちの奢りや」と酒を勧める。覚悟はしてもそこは処女の事、不安もあろう。「何を考えてるの」「そのうちにな」
どうも会話にならない。矢野は飯を食い始める。「こんなうまい肉なんぼでも食うぞ。だが腹八分目が肝要」飯も美味い。味噌汁と漬物がまた格別だ。飯をお代わりする。「おお腹いっぱい、胸いっぱい」ようやく和子は気づいたようだ。「せっかちゃね」

店を出て宵闇迫る街を和子のマンションに向かう。宵闇迫れば 悩みは果て無し君恋し とはやる気持ちを抑えるように口ずさむ。部屋に入るとすぐシャワーを浴びる。戦闘態勢だ。和子がバスタオルで浴室に向かう。「よく洗っておけよ」「いやらし」矢野はブランデー取り出し舐める。和よ来い 早く来い ベサメー ベサメームウチョー 君恋し ああああー初恋の 君を慕いて忍びなく

やっと和子が出てきた。我慢できずに抱き上げてベッドに運ぶ。矢野は狂ったように唇を吸い首筋にはわす。「あの時と同じ」と和子は言ったが乳房を吸われて声を立てる。矢野の唇が股間に触れると身を固くした。だがすぐ甘味な感覚に変わってゆく。舌で愛撫されてのけぞる。それは執拗に和子の子宮を舐めてゆく。和子は抵抗できなくなって「きて」と言った。
 矢野が入ってゆくと少し顔をゆがめる。「すぐ気持ちよくなる」と矢野は和子を見つめる。「ああ入って来た」ゆっくりと前後させる。「大きくなってゆく」当たり前だろうと思ったが声が出ない。「ああピクンとした」実況放送じゃねえぞ。矢野の息遣いが荒くなり頭が白くなってきた。あとは本能の命ずるまま身体が勝手に動く。「ああこれだったのね」と和子が言ったが矢野には聞こえなかった。
 やがて和子の小さな身体が矢野を持ち上げる。今二人は一点で堅く結ばれている。俺がこうさせているのだと矢野が思ったが矢野の亀頭がむくむくともたげると激しく射精した。それは和子の奥深くを濡らした。悲鳴に近い声が夜の静寂を裂いていた。矢野は和子の上で果てたが和子はその重さがたまらなかった。 

やがて矢野が転がり落ちると和子はその胸に顔を埋めた。私も女になったと思うとよろこびがこみあげてくる。あの時から長いつらい時間が経過していた。こんなにいいものならこの人が私を求めるのも無理はない。あの時に許しておけばよかった。矢野の心臓が激しく鼓動していたが静かになってゆく。その満ち足りた顔がいじらしくみえる。

それから二人は求め合った。恋は、性は習わずともできる。「あんたのチンチンて成長するのや」「畑がよいとよく育つ」「私のは畑いいの」「名器だ」(それで亀頭をこすられるとたまらない)「私こども産みたい」「最低でも3人、一姫二太郎。こどもは多いほどいい」「貴男大変」「精のつくもの食わしてくれ」「ええよ、貴男の為に料理するわ」「お前先生やってたら家政婦おかなならんな」「こどもができたら先生やめる」

将は激戦の疲れで眠りに落ちるが精兵はすぐに目覚める。「もうだめ、くたくた」冷蔵庫にサンドウィッチがあった。「ビールかワインか」「ビール頂戴喉乾いた」性はこんなに腹が空くものか。二人は貪るように頬張る。「よし行くぞ」「許して身体がばらばらになりそう」と和子は言ったが精兵を迎え撃つ。猛攻にmp見事に反応した。「すごいわ。だめまだ行かないで」「俺死にそう」「行ってええよ、全部ちょうだい」「もう弾薬は使い果たした」

二人が目覚めたのは八時過ぎだった。矢野はヤバイと思ったが10時までに出社すればいいと和子を三度襲う。これ以上のよろこびはないと二人は思った。離れがたかったがシャワーを浴びて身づくろいをする。矢野が名刺を渡して部屋を出る。「連絡先教えてくれ、近いうちに名古屋にくる」「気を付けてね」と和子が見送った。



矢野は支店に出ると総務課長に平身低頭した。「武士の情けで目をつぶるけど休まず遅れずが基本だよ」「この分は必ず挽回して見せますので何分何卒」「工場長がお待ちかねだよ。岡本君一緒にきてくれるかな」工場長室に入ると「おめざめですか、コーヒーになさいますか」と皮肉られた。「まあ我々にも経験がありますので武士の情けをもって」と総務課長がかばってくれた。「武士の情け、人を切るのが侍ならばですな。ところで地質図が要るそうやな」

ほっと一息ついた。「されば重金属等が外部に漏れださぬように致すが肝要と心得ますれば地質によってその方策を探るべきかと思案する次第であります」「そりゃそうじゃのう。それがしにも考えがござるよってに別の手立てをいたそうぞ。まあ珈琲飲んで仕事モードになってや」このおっさん俺の心をお見通し、油断できない。「よろしいかな、都市計画図の用途は」と総務課長も悪乗りしてくる。「重金属の存在が知れるのは外部に流出するか、掘り起こすこと以外には考えられません」「お主できるな。この敷地が都市計画にかかって市に買収されたことを考えてはるのか。流出防止はどないにしまひょ」

矢野はゆっくり珈琲を口にする。「いずれにせよ土壌水質検査が必要ですのでサンプル採取が急がれます。なお、分析検査は社内の、内部で、どこかありますか。どこがいいかな」「君落ち着きなさい。昨日の事はもう言わない」「やはりうちの横浜研究所に依頼されたらいいのでは」「あんさん届けてくれるか」「お安い御用で」「おい1mピッチで土壌採取や。それに境界も、まあこれはあとにするか、ついでや」重機のオペが呼ばれる。「一時までにやってや、特急やで」「岡本君サンプルの採取の仕方横浜研究所にきいてみ」「承知しました」「こんなとこかな、ほな昼飯に行こう」「工場長鰻がよろしいですか」「そやな、お客さん鰻いけますか」


鰻は腹に応える。腹が膨れると緊張がとける。和子との激闘が矢野の頭をよぎる。岡本がサンプル土壌を持ってきた。「色気のない物運ばせてすまんのう」「なんのこれしき、一膳の恩義に比べれば」岡本が駅まで送ってくれるという。「ではこれにて失礼いたします。お世話になりました」「ご苦労さんでした。気いつけてな」岡本は30位だが実質総務課を錐揉みしている感じだ。

矢野は新幹線に乗ると新横浜まで解決策を考えていた。工場立地法が緑化率25%以上を要求しているからこれでゆこう。それには支店工場も建て替えたい。どのようなシナリオでやらすか。建替えの理由づくりだ。日本は昔から客を迎えるに当たって新築改築する。その客は天皇家もしくはこれに匹敵すものが望ましい。これは相当の政治力がいる。まあこれは時間をかけて考えるか。
それよりも名古屋支店の対応は重金属が埋められている、それだけの理由だけだろうか。あの人の好さそうな工場長の眼の奥には大きな悩みが秘められている気がした。これもそのうち判って来よう。今は名古屋への出張の機会を増やすことだ。それにしても純情可憐な谷和子が性にあれほど大胆になるとは驚きだった。香川京子の妖艶さと甲乙つけがたい。和子を正室に京子を側室できれば最高だな。
矢野は睡魔に襲われそうになる。精も根も尽き果てる激戦の後であるから当然である。横浜研究所に土壌分析を依頼する任務があると何度も何度も自分に言い聞かした。新横浜で下車しやっとの思いで任務を終え在来線に乗る。ああ、これで安心して一眠りできると思った。横須賀線が終着の東京駅に着くまでの間矢野は綿のように眠った。

矢野は出張報告を終えると仮眠できる場所を探す。仮眠室と言えば警備員室がいい。「2時間したら起こしてください」と警備員に頼むと再び眠りこけた。終業サイレンで矢野は目を覚ます。3時間眠ったことになる。欧米なら賃金カットであろう。空腹を覚えて近くのラーメン屋に飛び込む。客はいない。味噌ラーメン大盛りを注文する。不倫の男女はよくラーメン屋にゆくと聞くが奮励努力するから身体がラウメンを求めるのでないかと思った。
何食わぬ顔で席に戻ると電話メモがあった。「名古屋支店の岡本さんから電話あり、折り返し電話されたし。15:20、16;10」急いで電話を掛ける。「はい、分析結果は3.4日で出ると言っていました。社内便で着きましたらそちらにも写しを送ります。そうですか、お手数をかけました。はい、わかりました。いろいろと有難うございました」これで無断睡眠の魔の悪さが飛んで行った。出張報告書と旅費精算書を書き終えると都市計画図を広げる。ファックスで送られてきた地質図を重ねる。やはり色分けされた原図が欲しい。

しばらく考えて同期に電話する。「土壌中の重金属が流出しないようにするのはどうしたらいい」「流体力学的には水平方向に流体がなければ流失しない」「どういうことだ。土壌の中の水が横に流れないようにすればいいのか」「そういうこと、ただし流体は水だけとは限らないぞ。今忙しいからあと1時間したらそちらに行く」「そうか、悪いな」あいつ愛知の出身だったな。別にどうでもないか。

電話を切って考える。流体は水だけでないとはどういうことだ。太田幸次が牛乳瓶180ccに砂を入れて持ってきた。「素人にはこれがよくわかるだろう。砂が半分入っている。約90ccだ。これに水90cc入れると」「ちょうど一杯になる」「見てろ。水を90cc入れるぞ」
みんな仕事の手を休めて見守る。「いいか、入れるぞ。ほら一杯にならない」ほうっとため息が出る。「うーん。砂の隙間に水が染み込む」「そういうこと。水の代わりに水銀を入れるとどうなる」「同じようには」「いかないよな。水銀が重いから下に沈む。ただし、全部ではない」「砂の上に残るのもある」「通常の状態ではな。だが揺すってやればほとんど上と下に別れる」「地震か」「先走るな。土壌は。これか、場所どこだ。」太田は地質図見やる。「そこは粘土だな。水分が多いと、つまり含水率が高いと水銀、重金属は沈み込んでゆく」「どこまで」「底まで。一番浅い支持層が底になる。これは土木のイロハ。腹減ったから帰る」太田はそそくさと帰って行った。
矢野は牛乳瓶の水を移す、砂だけだが水を含んでいる。水を切るには、少なくとも水が入らなくするには。「矢野君わかったか」と庶務課長がそばに来た。「濡れないと入らないということじゃないでしょうか」笑い。「いやらし」と女子社員。「お前なんか感度が悪いから濡れないのだ」「矢野君触ったのか」「触っていませんよ」「痴漢も犯罪だからな、社会的信用が失墜する。しかし大したものだな、君の同期の太田君」

常に総務の眼が

矢野は立ち上がると女子社員の胸を両手で押えた。キャーっと大声を立てる。かまわず両手を腰尻腿に下ろしてゆく。「おっぱいは小さいが身体は悪くない」「現行犯だ。人事を呼べ」「課長、私も見ていました」と人事の大林係長。「懲戒処分ですな、追って沙汰する」

矢野は香川京子がまた谷和子が結婚を承諾した場合の対応を考えていた。結論は両方を手元に置くことであるが重婚は犯罪である。正妻側室が理想だが現代では認められない。熟慮の末、先に子を産んだ方を妻にするのが現実的だとの答を出した。例えば京子が先に産めば結婚届と出生届を出す。和子が産めば京子を離縁して和子との結婚届と出生届を出す。これは理論的には問題ないが実際に結婚離婚を繰り返すのは不可能であろう。ならば京子と和子と別々に式だけ挙げて子を認知する。法的にも子は父と母を持つ。これで行こうと決めた。果たして京子も和子も納得するかとは考えないところが矢野らしい。

矢野は女を縦軸に容姿横軸に気立をとって評価する。京子は(20.20)で和子は(20.10)である。因みに山下慶子は(3.20)である。顔はいいが冷たい、顔を売り物にして高慢だ。これを基準に周りの女を評価すると(5.5)未満である。つまり評価に値しない。それは自ずと態度に出るから女子社員の矢野の評判は良くない。
課長が矢野に「気に入った女子社員はいるか」と訊いた。「いえまだ、仕事を憶えるので精一杯です」とありきたりの返事をした。「身近の花を摘むのは安全確実だが手を付けたら責任をとらなければならない。心してかかれ」と諭したのであった。これは新入社員への労務管理の一環だ。酒の席で課長が部長に報告すると「女郎屋の主人も商品には手を付けないからねえ」と笑った。
課長が身を乗り出す。「ところが部長、矢野の奴女子社員の身体を次々と触っているのです。ええ総務の女のこは全員やられています。私も手に負えませんので部長から直々諭していただきたく」「前代未聞の不祥事だな。明日連れてくるように」「ははあ、私の監督不行き届きで」部長もストリップにはよく行くそうだ。


翌日矢野は部長室に呼ばれた。庶務課長は深々と頭を下げて入室する。「君もっと頭を下げて」と矢野を促す。人事課長係長が控えている。部長は厳しい表情で言った。「その方、新入社員の身に在りながら次々と女子社員の身体に触れたることに相違ないか」「事実誤認であります」「黙れ、我々総務部員の面前で乳房より下半身にかけて執拗に触れたではないか」と大林係長。彼は東大出で入社5年にして係長、キャリア組である。
矢野は動じる様子もない。「申し開きがあるならありていに申せ」総務部長が矢野を見据える。「されば、女子社員採用基準に常々疑問を抱きおりしが、庶務課長からボディーチェックを命じられたのでついでに採用基準の是非を確かめたに過ぎません」「うむ、わかるように申せ」「能力重視の採用ではあのような貧弱な女しかきません。容姿スタイルを加味すべきものと考えます」

人事課長もあきれる。「私はボデェチェックを命じておりませんが女子社員の容姿は来客の印象を大きく左右しますので、また男子従業員の士気にも影響するのではと」。総務部長は人事課長を見遣って言った。「その方らの申し開きにも一理はあるが、うふん、権限を逸脱し狼藉に及んだること許し難し。3日間の謹慎を命ず」「ははあ」と庶務課長が平身低頭する。
総務部は70人の所帯であるが学卒は部長と大林と矢野だけである。人事課文書課庶務課からなるが総務の女子は30名を超え、これでも容姿がいいのを総務に配属している。人事課長は面白くなかった。庶務課長はもっと器量よしを採用しろと口出しているのだ。この求人難のご時勢に各高校がトップクラスの学生を当社に向けてくれるのは俺の功績とコネではないか。

部長室を出るとすれ違う女子社員は矢野を避けて通る。課長が「恐がっているぞ」と言ったが矢野は和子のことを考えていた。席に戻ると課長が重々しく「矢野健、三日間の謹慎を命じる」といった。矢野が深々と頭を下げる。部内に重苦しい空気が漂う。ちょうどその時電話が鳴った。「矢野さん電話」とブス娘が取次ぐ。「今どこ。すぐゆく。会社なんていいんだ。いいか、上野駅公園口文化会館。入ってみろ。そこのレストランで待て。半時間ほどゆく」そう言って会社を飛び出す。「カエルの面にションベンか」


走って工場の門を抜けると「矢野さん、どさどさ」「駅駅」「乗れや」勤務明けの警備員がバイクに乗せてくれた。「おおきに、恩にきます」と駅の改札にまっしぐらに向かう。香川京子が東京に出てきたのだ。矢野は電車の中を走りたい気分だ。上野駅を飛び出して車に轢かれそうになった。

上野公園の一角にある文化会館のレストランに香川京子がいた。夢のようだ。「何がいい」「私これから友達の結婚式に出るの」「俺たちの結婚はまだか。で今夜の予定は」「友達の結婚式に出てあとは英会話部の同窓会。今日は山下さんのアパートに泊まるの」「山下とこなんかやめろ、帝国ホテルをとってやる」「だめよ同級生に気づかれるわ」「俺、お前を思って気が狂いそうだ。やりたい」「私もよ、フフフ。わたしね貴男によって生まれ変わったのよ」

矢野はビールとソーセージを注文する。「東京は綺麗な人が多いでしょ」「お前の足下はるか遠くにも及ばない」「今度の夏休みにはゆっくり来るわ」「そうか、軽井沢にゆくか」「I will follow you wherever you may go, even if heaven fall down. 天が落ちても貴男とならばどこへでも」「お前と一緒に暮らせるならばどんなに幸せだろう。死ぬまで、もとい、死んでもお前を離しはしない」
恋は水色、恋は盲目、周りが見えなくなる。矢野は自分がとった突飛な行動がどう評価されているか気づきもしなかった、また知ったとしても気にもしなかったであろう。矢野は興信所を通じて監視されていたのだ。終身雇用制がもっとも定着していた当時、学卒の生涯賃金は5億円とも言われた。企業にとって機械設備投資の比でないから当然だったかもしれない。矢野は5年先輩から「新入社員のころは常に総務の眼が光っていた気がすると言われたことがあった。また就職が内定した時、興信所が「下宿代が残っていたら会社で支払います」と問い合わせに来たらしい。営業マンが女とできてしまったのだが女の母親から会社に苦情の電話があったとき部長が営業マンを調査するよう大林に指示した。女に手を付けるのはいいが苦情電話が問題らしい。 

数日後部長室では人事課長と係長が報告していた。「なるほどねえ、これだけの女がいれば会社の女に手を出さないはずだ」部長は矢野と香川京子の写真を見ながら言った。「痴漢もどきはいかかが致しましょうか」「彼流の奉仕じゃないか」「と言われますと」「誰か触ってと言いたい女に博愛で奉仕したのだろう」「まったく手におえない新人だ」「そう言うな、大林君。彼は僕が本社からもらってきたのだ。採用ミスかな」「いえ、業務上は問題ありませんが、エロティックな言動に苦慮しているところです」「まあ君たちよろしく指導してくれたまえ。それから一人ぐらい容姿枠を検討してみてはどうかな」


香川京子は爽やかな笑顔を残して行ってしまった。細身だったのが少しふっくらしたようだが腰の括れは何とも言えない。逢っているときは幸せだが別れると淋しさに包まれる。今回はあの白い肌に触れもせで、、。それが恋と言ってしまえばそれまでだが矢野にはやるせない思いで音楽会のポスターを見つめていた。
と「合唱による風土記阿波」という文字が飛び込んできた。作曲家三木稔の作品は学生時代に歌ったことがある。すぐさま置かれているパンフレットを取り上げる。前売り券900円当日券1300円とある。すぐさま銀座で前売り券を購入した。当日は3週間後の日曜日であった。たとえ日曜でなくとも万難を排して行くつもりだ。
矢野は朝日新聞社、三越本店を見て右に折れる。歌舞伎座、銀巴里を過ぎると歩みを止める。真っ直ぐ行けば有楽町に出るはずだ。しかし忙しそうで無口なこの人の群れはどこから湧いてくるのだ。人なのか、羊のように見える。昔は銀の取引で賑わっていたのであろうがこのような表情をしていたのであろうか。

矢野は数か月前就職試験の面接を受けたことを思い出した。丸の内の本社で人事課長直々の質問であった。「当社を選んだ理由はなんですか」「金丸教授の強い勧めがあったので受けてみる気になりました」「当社をどのように評価していますか」「ここ20年程で資本金が数倍になっていますからまあ潰れることはないと考えました」「ほかには」「一応総合電機メーカーに分類されていますが航空機以外は何でも手を出していますから就職しても面白い仕事が見つかるのではないかと」「では採用させていただいた場合どのような職種を希望されますか」「とくにありません」「勤務地は四国を希望されますか」「いえ、東京がいいです」「どうしてですか」「東京は政治経済文化の中心ですから」「みなさんそう言われますが東京に住む人間のどれだけが享受しているでしょうか」「それはその人間の素養、資質によるでしょう」「どのような会社生活を考えておられますか」「会社生活は雇用契約ですから言われるままに働くしかないでしょう。休みの日は音楽会、美術館を回りたいですね」「休日が多いことが魅力でしたか」「そうですね、週休完全5日制は日本ではまだ少ないのでは」
面接を終えた人事課長は四国支店に電話を入れる。四国支店長は金丸教授と大学時代同期であったようだ。「まるで入社してやると言った態度でしたか、申し訳ございません」電話に出た庶務課長が対応に苦慮する。「まあ根性はありそうですから採用方向で検討する旨支店長にお伝えください」「何分良しなにお取り計らいください。支店長が帰り次第ご本社に電話しますので」「いえそれには及びません。面接の報告ですから」矢野は後日人事課長が四国支店長の大学の後輩であることを知るのであるが、自分の就職が学閥によって決まったことには思いも及ばなかった。

矢野は楽器にひかれて店にいる。「楽器をお探しでしょうか」店員が寄ってくる。「いやなんとなく」とうるさそうにいった。「弦楽器でしたらこちらでございます」と店員は案内する。ていねいな言葉遣いだが高慢な感じがする。矢野はこれを無視して店内を見て回る。大した楽器はないだろうという態度だ。「お、楽譜もあるのか」と言うと店員は困った様子でついてくる。「おい、矢野じゃないか」学生時代の同期に声をかけられた。「おお、永田か」どうやら店員の監督をやらされているようだ。「ここにいるのか」この会社は今や世界のシェアーの半分以上を占めている。永田は誇らしげな顔で「ああ5月に配属された」と答えた。「いきなり本店か、お前幹部候補だな。そうだ合唱による風土記阿波を探している」「え、」「有名な曲だがあるか」店員が目録を探すが首を振る。矢野は「またな」と店を出た。東京の人間はどうも謙虚さがないと矢野は常々思っていたがここでも同じ気がした。

男声合唱団東京メンネル

その日矢野は都市センターホールに早めに着いた。開場と同時に入る。音楽会の開演前の期待感、胸の高なりが好きだ。谷和子と一緒に聴いたタンゴ以来だ。ポログラムの団員紹介欄ではこの男声合唱団は社会人ばかりで学生はいない。勤務先は一流会社が多い上相当の地位に就いている人も少なくなかった。その末尾に「団員募集、簡単なオーディションがあります」とあった。

開演を告げるブザーが鳴ると団員が場慣れした表情でステージに上る。一流役者は登場しただけで観客を引き付けるがこの団員もそうであった。年齢も高そうである。かなり高齢の人も少なくない。指揮者が登場すると『うれしさああ よっほーえ』 すぐソロが歌いだす、というより掛け声である。『はあ だしたな だしたな』 これに合唱が応じる。ホールを揺さぶる声量だ。大人の声、男の色気が会場を支配する。指揮者はと見やると指揮台に上らずその顔は一緒にこういう音楽をつくりましょうと各パートの間を歩いている。
指揮の動作はほとんどない。だが団員は指揮者から発せられるオーラに向かって「これでどうですかと対話しているようである。音楽づくりの共同作業を楽しんでいる。聴衆もその世界に引き込まれてゆく。学生の合唱とはレベルが違う。作曲者が私の曲をこのように演奏してくれてありがとうと言っているようだ。勿論矢野がそう思っただけであるが後で作曲者の感想を聞いてみたいと思った。次の曲は一転してささやくような歌声である『可愛い 我が子に 引かされて』このゆっくりとした旋律が息がつまるような緊張感を醸し出す。真剣で向かい合った剣客が息をするのを忘れている感じだ。息をすれば相手の白刃が己の身を切り裂く。矢野は冷や汗がじわっと流れ落ちるのを感じたが意識が遠のいてゆく。

東西 東西 東西南北 しずまりたまえ   
エイエイサッサ エイサッサー ヤーットサッサー エイサッサー
https://www.youtube.com/watch?v=MUPPrM4AdbE 
指揮者の手が弧を描いて握られる。何を握ったのであろうか。合唱団員がその手の中に吸い込まれてゆく。そして再び手の中から飛び出してくると神がかりの顔になっていた。この指揮者は人を変えるシャーマンなのか。


次の週、矢野は合唱団の練習場を訪れた。本郷にある町の教会だ。恐る恐る中に居ると小さな椅子が並んでいる。教会に併設された幼稚園のようだ。「入団希望」70過ぎのおじさんが話しかけてきた。「はい、阿波を聴きました」「どうだった」「ひつこいですね」「ひつこい」「これでもかこれでもかと迫ってきますね」「ああ三木君の音楽はそういうところがあるね、こんど本人に話したらいいよ」「え」「彼もうちの団員だよ」
矢野はますます固くなった。三木稔は今や日本を代表する現代作曲家である。「君レクイエムは聴いた」「いえまだです」「これはいいよ。このテープ貸してあげよう」「ありがとうございます。ダヴィングしてもいいですか」「もうじきレコードが発売されるから買って欲しいがまあいいだろう」

団員が集まって来る。矢野の存在など気に掛けない。やがて例の指揮者が現れると発声練習が始まる。鶏が鳴く様に自分の声を誇示するような発声だ。その声量に矢野は圧倒される。「では巻末いきましょうか」指揮者が右の指を静かに動かし始める。「ひとむきに むしゃぶりつきて」と歌いだす。ああこれかと矢野は思った。4年前仙台で聴いた曲だ。おじさんがその楽譜を貸してくれた。この智恵子抄巻末の歌六首。あのとき全日本合唱コンクール一般の部でこの曲を歌ったある男声合唱団が優勝した。

指揮者が曲を止めた。「むしゃぶりのしゃは口を開けると汚い響きになりますから口を縦に」と注文が出る。「一皮むけるとむしゃぶりたくなる」と冗談が飛び出す。「自分がいい気持ちになってはいけません、相手をよろこばすように歌ってください」矢野が譜面を食い入るように見ていると後ろから頭をどつかれた。「譜面をはずせ、指揮をよくみろ」あの東西南北と掛け声をかけていたケンちゃんと呼ばれる男だ。「彼は今日初めてだ」とおじさんが庇ってくれた。「それは失礼しやした。勘弁してね」


おじさんが立ち上がって矢野を紹介する。「彼は三木さんの後輩らしい。四国出身だよね」「はい阿波の徳島です。先日の演奏会を聴いてやって参りました」団員は四国と聞くと遠い所からという顔をする。「感想は」と指揮者。「曲もひつこい、演奏もひつこいですね」「今夜は寝かさないわ」とケンちゃん。矢野が思い切って「まあそうですね、あの神がかりの演奏は聴いていて気が変になりますね」と言った。指揮者が笑いながら「四国の人間はいかせるのが上手いのじゃない」と答えた。団員の爆笑。「ああもうだめ許して」とケンちゃん。「はあ、未熟者にてそこまでは」トップの男が「僕は鳴門だけど、君は」と矢野に言った。「徳島です」「そうか三木さんの後輩と言ってたね。よろしく」「こちらこそよろしくお願いします」

この男上村は電力会社の部長さんと聞かされる。声合唱団で唯一のソプラノということだ。後でわかったことだがこの合唱団は、トップは2オクターブ上のドをベースは下のドを出す。3オクターブの音域だ。「ではいきましょうか」と練習が再開される。矢野はオーディションが気がかりであったが練習をつづけた。休憩時間に「これを書いてください」と入団申込書を渡された。

この合唱団の平均年令37歳、最長75歳で矢野は年少5人組に加えられた。団員のほとんどが学生時代指揮者かトップスターであったことから矢野の緊張はつづく。声は年齢を如実に表す。この迫力声量は団員の経歴と年齢によるものであろう。毎週木曜日の夜7時から9時までの練習日の他、日曜日の練習日も10回ほど組まれている。

智恵子抄巻末の歌六首

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

矢野は初日の練習が終わるとくたくたになった。こんなに緊張したのは久しぶりのことだ。大きな渦の中で引きこまれそうな自分をなんとか水面に顔を出そうともがいている感じだった。寮の近くで握りずしを注文した。生ビールを立て続けに飲んだが喉が渇いて仕方がない。日本酒で寿司を流し込む。味がわからない。「本当に疲れたって顔ね」と店の娘が矢野に言った。
矢野は翌日から暗譜しようと楽譜とにらめっこしたが20分あまりの組曲を憶えるのは容易ではない。学生時代指揮者になりたがっていた自分は自分のパートすら憶えられないのかとみじめになってくる。智恵子抄は作為が見え過ぎるがこの巻末の歌六首はまあまあであると高村光太郎に八つ当たりする。「わが為事 命かたむけて成るきはを」の部分はバリトンが歌い出し他のパートが追っかけてゆく対位法で書かれている。
矢野はわがこころの歌いだしを何度も歌って頭に入れる。そうしないとベースの音が取れないのだ。10回20回と繰り返すと絶対音感となってくる。時々音叉で確認したが間違いなかった。よし完璧だと矢野は自分に言聞かせた。それにしても智恵子は何故「さびしと思ふのか、しりていたむ」か。

日曜練習は毎回場所が変わる。この日は世田谷区の小学校だった。寮から2時間はみておかないと間に合わない。楽器を抱えた学生が多いから音大があるのだろう。やはり東京の文化レベルは高いと矢野は思った。本社の人事課長が言った「享受できる人間が何人いますか」が思い浮かぶ。あの時は素養の問題だと答えたのだが今は自分の素養が貧相に感じる。

わが為事、バリトンが音を外した。思わず矢野が歌うとバリトンは体勢を立て直した。指揮者が矢野を見てにっこり笑った。が、頭をごつんとやられた。ケンちゃんがにらんでいる。自分のパートも歌えないくせにと言う顔だ。矢野は立ち上がって「出過ぎた真似を致しました」と頭を下げる。「なんのバリトンの過失ですよ」と60過ぎのおじさんが庇ってくれた。この人は毎朝新聞の偉いさんと後で聞かされたが、どうしてケンちゃんはいつもすぐ後ろに座るのだ。
この家に、は余韻も残さず切るように指示される。矢野が鉛筆で指示を書き込む。「書いた通り歌え」とケンちゃん。指揮者が近寄ってきて「には声にしたらすぐ飲み込む」と矢野に言った。矢野が歌うと「いいじゃないですか、このもディミニエンドをかける、のは聞こえないくらい、そう素晴らしい」と指揮者がほめてくれた。
この指揮者は新人の緊張をほごす。「なるほど、こう歌うと次に何がくるかと思わせますね」「あなた、評論が上手いですね」「うちの文芸評論頼むかな」と新聞社が指揮者につづける。矢野はすっかりうれしくなった。つづく「智恵子の息吹」以下は抑えて歌うというより語りか。音楽が違う。やがて第六首、「光太郎智恵子はたぐひなき夢を」と力いっぱい歌わせる。歌わせるところは歌わせるのだ。指揮者とはこういうものか。

7時間で巻末の歌六首は完成した。学生合唱団とは比較にならない。練習が終わると近くの居酒屋に押し入る。たちまち30人ぐらいが占拠する。店主と奥さんが大わらわ。すると団員も生ビールを注ぎ始める。三つの樽から同時に注いでこれを全員に回してゆく。ではein zwein drei.『あげよいざ盃を 我が友に幸あれ!』場違いの合唱に奥さんが目を丸くする。「さすが荒井先生のお友達ね」どうやら荒井さんが休みの店を開けて貰ったようだ。
男声合唱団は飲み仲間でもある。「我々はこのビールを飲むために合唱をするのだ。一に合唱、二に仕事、三に家庭」「四に女だろ」「言わずもがな」矢野はこれほど美味いビールはないと思った。「さあさあ、食って食って。店の奢りよ遠慮はいらない」と荒井先生が山盛りの料理をすすめる。「美味い、店の奢りはなお美味い。今度亭主がいないとき一人でくるかな」「あら私でよければ押し倒してくれていいわよ」
東西 東西 東西南北 しずまりたまえ
ケンちゃんが立ち上がった。「よ、大統領、色男」   
エイエイサッサ エイサッサー ヤーットサッサー エイサッサー

飲んで食うて歌って、こんな幸せな時があろうか。どの団員もいい顔をしている。並の人間とは出来が違う。「黄金は世界の惚れ薬」そんならシメシメやっしし。時計が7時を告げると一人が帰り始める。家まで3時間の団員もいるそうだ。「御一人様3000円」と荒井先生が集金する。「安いな」「料理は店の奢り、奥さん美人」「こうしてお酒が飲めるのも荒井先生のおかげです」日曜開店で店のネタはきれいさっぱりなくなったと亭主。

ベースの個人レッスンで指揮者のマンションを訪ねる。希望者だけだが4人が来ていた。矢野の番になった。声が出ない。「あなた、そんなに身を固くしたら初夜は上手くゆきませんよ。彼女を抱く、横に座らせる。彼女に聴かせるように歌ってごらんなさい」。「そうです、もっとベースらしく堂々と、いいですよその調子。思い切って出す」「先生早すぎるのでは」とケンちゃん。「いいんですよ、来てと言われたら出すのが男でしょ。言われるまでは我慢する。ベースは自分がいい気持になる人が多い」

ケンちゃんもここで「東西 東西 東西南北 しずまりたまえ」の掛け声だけで2時間こってりぼられたそうだ。他の合唱団と比べて阿波の味がいいはずだ。三ツ星だ。矢野はレッスン料を心配していたがバーボンが振る舞われた。口当たりがよくてきつくない。これなら毎回くるぞと矢野は思った。「先生、第五首まで抑え気味にして最後に思い切り歌わせるのですね」「そうですよ。いくいくではだめですね。来て来てと言わさなくっちゃ」「色はにほへど」「奥深し。女を行かせるのが男」「修行に似て易しからず」楽譜を音にするのは易けれど音を楽しむは難し。すべて色に通ず、楽しからずや。


日本男声合唱協会(JAMCA)

日本男声合唱協会Japan Male Chorus Associationが設立された。弘前、東京、小田原、東海、広島の男声合唱団が第1回演奏会を兼ねて東京に集まった。前夜祭には清水脩、磯部俶、多田武彦といった作曲家も招待された。合同演奏は月光とピエロと決まっているからか、誰とはなしに「月の光のてる辻に」と歌いだす。200人を超える合唱だ。清水脩が前に出て指揮をする。作曲者自らの指揮とはどんなものか。矢野は興味津々である。月光とピエロは堀口大學の詩の中から1、月夜 2、秋のピエロ 3、ピエロ 4、ピエロの嘆き 5、月光とピエロとピエレットの唐草模様 が清水脩によって作曲されたものである。清水脩が引くと格段の団員が前に出て指揮をする。合唱をするものなら一度は指揮したい曲である。
ケンちゃんの顔が強ばる。矢野が前に出て行って指揮を引き継いだというより分捕ったのである。彼は「月のようなるおしろいの 顔が涙を流すなり」をゆったりと天を眺めるように指揮をしたが「身過ぎ世過ぎの是非もなく お道化たれども我がピエロ」からはテンポを急速に上げてゆきピエロでリタルランドをかける。テンポを4倍ぐらい落とした。再び月のようなるから繰り返す。200人の男たちも矢野の意図を理解してくれたようだ。それどころかこのやんちゃな若者の指揮を盛り立てようしている。
矢野はこれだと思った。ピエロは涙を流しているが顔は笑っている。心で泣いてもうじうじしない、これが堀口大学だと叫びたい衝動に駆られる。「真実涙を流しけり」と歌い終わると200人の男たちが拍手してくれた。矢野は深々と頭を下げる。学生時代からの夢が叶った。もう思い残すことはないと晴々した気持ちで団員に戻る。

清水脩は指揮者に「よくやるよ」といったらしいが変曲するなとのニュアンスが込められていたことは矢野にも想像できた。これまでの音楽を優先する演奏にたいして矢野は詩を重視したのだ。しかも日本の合唱の父とも言われる男の前で。若さとは素晴らしい。盲、蛇を蹴っとばすである。
次の曲はとなると「磯部さん、ふるさと」と矢野が叫ぶ。「お前、勝手に決めるな」とケンちゃん。ふるさとはと矢野が歌いだすと200人の男たちがつづく。磯部俶の指揮は分かりやすく楽しい気分にさせる。『遠き都に帰らばや』歌い切ると歓声が上がる。
磯部は多田武彦の手を引いてくる。「ザーっとやってこい」「お前は黙っていろ。曲は事務局もしくは作曲者が決める」とケンちゃんがにらむ。多田は本職が銀行員らしく慇懃である。「では雨が降る前に傘をさしましょうか」と笑わせる。柳川風物詩、富士山などなど彼の曲を歌いたくて合唱を始めた者も少なくない。「多田武彦は合唱の塊」と清水脩が評したが言えていると矢野は思った。

立食パーティーが始まる。「上げよいざ 盃を 我が友に幸あれ」と東京が歌うと他の合唱団も楽譜を見ながら即座に追従する。作曲者の老団員が紹介される。拍手が起こると老人はうれし涙を流しけり。合唱をこよなく愛する男たち西も東もない。すぐ打ち解けて談笑する。今回は東京がホスト役であるから各テーブルに分散するのは当然であるが弘前に集っている。矢野がのぞくと色白の美女を東京で取り囲んでいるのだ。
矢野は各テーブルを回ると美女の存在を告げる。会場に人の流れができる。美女を拝まんと弘前テーブルに次々と各団員が押し掛ける。東北の女は頬骨が出ていてめんこい。「行って見られよ、絶世の美女がおわす」とささやいている。

本番は成功裡に終わったが日本男声合唱協会の委嘱作品は不評であった。記念すべき第1回演奏会の曲は当然の如く第一人者に委嘱したのだが、名曲には程遠く、がっかりしたとの酷評が出る始末。芸術の世界では作品の良し悪しがすべてである。大作曲家、日本の音楽会の頂点にたつ男の作品でも駄作は駄作なのだ。
打ち上げパーティーでは各団の感想を聴き出すよう指示が出ていた。矢野はホストに徹したがどこでも歓談できた。「東京の指揮は歌いやすい」との感想が多かった。合唱団員はお世辞など言わないから本音であろう。次回はどこにするか、弘前との意見が多かった。あの美女を見れば弘前の女はめんこいと考えるのは自然である。ただ広島から弘前となると交通費も大変である。矢野は東京を起点とした旅費を基準に均衡を図るよう提案した。これはすぐ事務局で検討され演奏会の収益金から旅費が特別計上された。

客演指揮者 定期演奏会

東京メンネルの定期演奏会は毎年11月と決まっているらしい。今年のメインステージは委嘱作品「もぐらの物語」の初演である。指揮はプロの荒谷俊二。客演指揮がおかしいわけはないが楽譜を見て矢野は納得する。マリンバ、鉄琴奏者との競演だ。勝手気ままに歌う東京メンネルでは協奏でなく競争になると作曲者三木稔が危惧したのであろう。

もぐらの物語(小田切精光-詩)
1章 目覚めの挨拶
2章 遠い星に
3章 地底の痛み
4章 束の間のやすらぎの中で
5章 闇から闇を

荒谷の苦労は並大抵ではない。「音符を勝手に伸ばして小節の頭で帳尻を合わすような歌い方はやめてください」「僕の指揮に抵抗しないで私に身を委ねてください」と言ったことが度々である。オーケストラの指揮とは勝手が違うようだ。しかも団員は平気でマイストップをかける。「本番ひと月前になっても音取りができていない合唱団があるのか」と荒谷がぐちった。彼は文学部と法学部卒の経歴を持つ。法律から転身した音楽家は少なくない。
常任指揮者はあぐらを組んで歌っても放任しているがプロの指揮者は正座、直立不動を無言で強いる。矢野は肩が凝って仕方がない。ところが曲ができてくるにつれ曲の大きな流れが感じられるようになってきた。一糸乱れず演奏すればこの曲も悪くないと思い始めた。歌って楽しい曲ではないがプロの奏者を前提に作曲しているのであろう。

今日はマリンバ奏者安倍圭子が音合わせにくる。世界的奏者と聞いていたが気さくで優しい女性だ。しかも美人と言える。その妙なる調べは天女かとまごう。だがお言葉はきつい。「三木さん、ここはどうやって演奏するの。私には演奏できないわ」「ごめん。つい筆の勢いで書いたものだから」「演奏できない様な曲を書くのではありません。どうしたいのか言ってごらんなさい」日本を代表する作曲家もかたなしである。「だったらこれでどう」「そうそう。実はそう書きたかったのだよ」「だったら次はこうなるでしょ。少しはマリンバを勉強しなさい」「はい、わかりました」と三木は早速書き直す。女に弱いのは男の通有性か。
 矢野は合唱には関係ないと凩紋次郎を決め込んでいたが安倍さんの方が自然な気がした。作曲家には演奏が得意でなるタイプとそうでない、頭の中で音を思い浮かべるタイプがあるようだ。安倍が合唱の遅れにはっとする。指揮の荒谷が「合唱は気にしないでいいですよ。本番までになんとかしますから」というと「荒谷さん、大変ねえ」と安倍。これには合唱団も奮起する。「今日はいつになく、リズムもテンポもいいな。どうしてかな」

 マリンバの演奏に合唱が影響されている荒谷は言っているようだ。鉄琴は星の瞬きを連想させる。曲が完成してくると天上、地上、地中を描いた様が姿を見せてくる。この曲は聴く者には名曲だが演奏は大変だ。トップはオクターブ上のラを延々と16小節歌わされる。「声も枯れた」と嘆く。「四国の人間は相当ひつこいね」と荒谷があきれたように言った。くたびれ果てる。演奏は3オクターブのソG音で終わる。やれやれである。作曲者を血祭りにあげて飲むか。

 東京メンネル定演当日、荒谷は「本番に強い合唱団ですから」と自分に言聞かせるように言って指揮台に上る。東京メンネルもいざ本番となると音楽の世界に身を置き、荒谷の指揮にも見事に応える。さすがである。矢野は熱狂的拍手と歓声で我に返った。


皇太子視察

東京メンネルは8年ごとにベルリンで開かれる世界合唱祭に参加している。来年6月二度目の訪独準備がすすめられていた。日程は2週間。土日は休日だが矢野も平日の10日間は年休をとらねばならない。会社を辞める覚悟が要る。当時は従業員の定着率と出勤率向上が至上命令とされていたのだ。
その時はその時で谷和子の所か香川京子の所に転がり込むつもりではあった。ただ公害問題と並行して製造物責任に取り組んでいたから区切りがつくまではこの会社に留まりたかった。日本でこれほど自由に仕事ができる会社は少ない。年間130日の休日も魅力である。今や矢野にとって『一に合唱二にKK(和子京子)、三に仕事』である。

休日代休を最大限に活用して月に一度は名古屋と四国に飛ぶ。惚れて通えば千里も一里。9日間の夏休みの前半を四国、後半を名古屋で過ごした。そのために人の嫌がる年末年始、五月連休などの休日出勤を買って出た。代休を取れば4割の割増賃金が残る。これで旅費をまかなうことができる。部長への胡麻すりも憶えた。会社を利用して私腹を肥やす人種は御しやすい。四国、名古屋への出張を命じてくれる。

名古屋四国の支店長工場長にも滞在を延ばしてもらうべく胡麻をする。そろそろ工場緑化にかからないと訪独に間に合わないと矢野は考えた。まず直属上司である係長と課長を洗脳する。「矢野君、仮にだよ、東京工場が茨城工場に移転した場合工場立地法の適用を受けることになるね」「それはもう明らかです」「とすると問題は名古屋工場だな」「はあ」「もし工場立地法が適用ならないとなると君が困るだろう」工場の隣接地を買収すると敷地面積が増えるので工場立地法が適用されることになる。敷地の30%以上の緑化が求められる。現地から本社に応援が求められている。矢野の出張が増える。「いえ、そんなあ」「ことはないだろうか」苦労人の課長は役者が上である。
下を向く矢野に「ここは部長に相談するしかないな」とかぶせてくる。問題は買収予定地の土壌汚染である。水銀カドミウム等が混じっていると予想される。部長室を2人で訪ねる。「土壌汚染を知りながら買収しますとチッソの轍を踏むかもしれませんし、先方に土壌汚染を除けさすわけにも」「先方に汚染を自白させることになるか。そうか、この買収価格は総務の手柄だから上げさすわけにはゆかない、大変だね。うん僕にも考えがあるから君たちのお役に立てるかも知れない」「何分部長のお力をもって」「いやね、僕がのんびりしていられるのも君たちのおかげだよ。それにこの話面白いかも(総務に、部長の功績に役立つ)。矢野君、君はいい上司に恵まれて幸せだよ」名古屋行きを言っているのか、昇給査定を言っているのか。

40歳で部長なったこの男は政治的動きだけは達者である。力と言えないこともない。翌週には課長が部長室に呼ばれる。「え、皇太子殿下のご視察」「いや宮内庁が非公式に打診してきたのだよ。前向きで検討すると返事したけど良かったかな」「それはもう、名誉なことで」視察の話と土壌汚染の話が交錯する。「工場長には君から話してもらったほうがいいかな」土壌汚染除去は当社がやり、その費用分は別の敷地の買収価格を下げるという密約は新入社員の矢野には知らされていなかった。課長が名古屋工場について工場長から頭越し特命を受けていることを牽制する。「このような全社的ことは部長ご自身で」土壌汚染を指すのか視察かあるいは両方か。「そうだね。しかし本社がOKとなると」「やはり宮内庁に対しては部長のお力が大きいのでは」「ま工場長に話してからのことだな」わかりにくいやり取りだ。

こんなやり取りを聴かされて矢野は仕事よりも政治力と思った。部長には買収相手をまた宮内庁を動かすコネがあるのか。今はとにかく工場立地法に名古屋の緑化を適合させることと考えた。和子のマンションは目立たないが落ち着いた雰囲気がある。新米教師には少し贅沢だが父親が保証人になって借りてくれたらしい。一人娘を県外に出すことを最後まで反対した気持ちは矢野にもわかる気がする。
こんな娘がいたら幸せだろうなと思う。「和子の様な娘が欲しい」と矢野は口癖のように言ってみるのだがおめでたの話はまだない。「私も欲しいのだけどおー」と和子も言うのだが天に祈るしかないのか。人事を尽くして天命を待つ。和子といると心が和む。幸せとはこんなものでないだろうか。もっとも和子にしてみれば教職にあって未婚の子を産むわけにはゆかない。

そのうち皇太子ご視察のうわさが内外からささやかれるようになった。矢野は、仕事はできない部長の力を見せつけられた気がした。世の中、実力だけではない、と思った。何か大きな力を持った存在が部長を支えている気がする。それは知る由もないが部長の態度からうかがえる。
庶務課長は部長室を訪れることが多くなった。「やはり緑化だけでなく建物もこの際全面的に改築(土壌汚染除去)した方がよいのではと考えまして名古屋の総務と話しておりますが、本社の認可がおりますかどうか」「そうだね、我々次の天皇陛下になられるお方をお迎えするのだからそれなりの覚悟と準備が」「その点につきまして部長のお力で本社を」「いやあ、僕なんか新米部長だから」と言いながらも並並ならぬ自信を持っているようであった。この会話に土壌汚染除去のことは一言も出なかった。保身術である。

日本社会は雰囲気をつくれば武力を使わずともその方向に動き出す。宗教、主義の応用か。会社も然り、あとは予算額と実施時期だけである。縦割社会は他部門に干渉しないしまた干渉されないから、その部門の長に就けばその部門を支配できる。支配者にとってまことに都合がいい。矢野の支配者は課長であり部長である。この部長が取締役、常務、専務そして社長になる可能性もなくはない。むしろ有力視されている。不思議な社会である。

どうも矢野には皇太子ご視察をこの総務部長が意図的にリークした気がしてならない。名古屋支店工場全面改築はすんなり認可なった。改築計画は内容的には新築と変わらない。矢野は緑化に関する勉強を始める。部長の特命を受ければ公然と名古屋に出張できるからである。ついでに四国支店も改築してくれないかと思ったものであった。下村総務部長は名古屋支店改築が進められる中で、東京工場を茨城工場に統合する案を検討していた、
矢野は彼にとって優れた猟犬なのだ。彼の取り巻きは獲物をみつけてくることができない。矢野の見つけてきた公害問題、製造物責任は大きな獲物であった。この獲物は総務部の発言権を強め、下村は部長就任3年目にして取締役となった。すると先輩の経理部長も彼を上司として仰ぐことになった。経理総務の長となった下村の目標は常務である。その持参する手柄に工場移転統合と考えたのである。矢野が重宝されるわけだ。

工場立地法、工場再配置法などが立て続けに成立すると下村は上げ潮に乗った感じである。工場移転統合は大きなメリットがある。すなわち通産省の工場再配置策に沿うものであるから国とくに宮内庁に貸ができる。通産省は宮内庁の同窓生を通じて下村に再配置を打診してきたのだ。ということは下村には宮内庁とコネがあるのだろう。
工場再配置計画
1当社の工場を3年以内に茨城に移す。
2工場跡地は通産省の意向を受けて日本住宅公団に売却をする。
3工場統合によって茨城工場の全面改築増設が必要となる。
また1300名の従業員の土地家の手当が問題となる。

何もなければ総務など黒子のようなものであった。下村は工場移転統合を管掌常務に上申する。この常務病気で引退すると言い出した。下村に常務のポストが転がり込んできた。常務会で移転統合が承認されると下村の動きは早かった。潮もかなって風も追い風、順風満帆。

 都内工場撤去工場再配置の新聞見出しは矢野を驚かした。大手新聞各社がトップで取り上げているのだ。通産省の意向はまず新聞社に伝えられる。記事には「当社は企業の社会的責任は豊かな市民生活に寄与することでもあると考え、都内から工場を撤収することを決定しました」(下村常務)とのコメントと顔写真が載っていた。

下村は次期社長と目されるようになった。最年少常務だからだ。現社長は3代目だがいずれも親会社からの天下りであった。4代目にして生え抜きの社長が誕生するかもと他部門も下村にすり寄ってくる。工場跡地の売却は相場の半分以下であったが税制面での優遇措置で会社は莫大な利益を得た。下村の株は上がる。この発案は経理部長の胡麻擦りだ。彼は下村のおこぼれにあづかる。下村は権力志向の強い男だけにこの世の春と権勢をふるい始める。「矢野君も茨城工場改築新設に力をふるってもらわなければな」「お言葉ですが、わが社の次の施策は株式上場でないでしょうか」下村は矢野の意図を理解した。「そうだね、君は僕と一緒に本社へいってくれるかな」と応じた。さらに「できうれば」と加えた。下村はどこからか獲物を見つけてくる矢野を買っていたが、このようなことを即座に口にする若者が煙たくもある。常務に成れたのは私の提案を受け入れたからでしょうと言っているようにも思えるのだ。出世の条件は実力ではない、コネと策謀だと矢野は思った。

ここで上場について説明しておく必要があろう。この会社は創業以来事業部を次々と分離独立させてきた。既に子会社は100社を超える。矢野が勤務する工場も茨城工場と共に設立したばかりの子会社に営業譲渡されたのだ。機械事業部を系列会社とすることは他の事業部と同様系列化の一環であった。つまり本社機構だけを残して持ち株会社とする創業以来の基本方針である。系列会社といえども一部上場している会社も少なくない。この新会社は実力では御三家に匹敵すると言われるが今は存在すら世に知られていない。経営のすべてを自前でやっていかねばならない。採用、資金繰りが難しい。親会社は崖から突き落として這い上がるのを上から見ているかんじだ。半面下村は系列の御三家にひけをとらない一国一城の主となる機会も増える。

そこで株式を公開すなわち東京証券取引所に上場して自己資本の充実を図ることが急がれるのだ。額面500円の株券は1億枚で500億の資本金を無利子無担保で集めることができる。株券発行費数百万、配当を差し引いても安いものである。500億を銀行から借り入れると年5%から7%の支払利息を払わなければならない。額して25ないし35億円である。この株式が額面の4倍、2千円で取引されるようになれば資本金は実質2000億と評価される。正確に言えば資本金を上回る1500億は資本準備金に積み立て取り崩すことは難しいが資本の部が増加することに変わりはない。会社債権者とくに銀行などの信用は高まる。現代の錬金術である。まさに「資本主義を支えるものは株式である」(マルクス)。しかし上場は簡単ではない。二部に上場して3年間配当をつづけることが一部への昇格条件だ。親会社本家は分離独立した子会社に援助はしない。親離れしてゆけと突き放す。
株式額面は昭和25年の商法改正で500円でなければならないが新会社は孫会社に吸収合併された形をとって50円株とした。問題は株式の引き受けである。新会社は取引先および従業員に引き受けを要請(強制)した。それも時価500円としてである。1000株で50万円である。この頃の学卒初任給は5万円になっていたが従業員には苦痛である。下村は株式引受を会社に対する忠誠心の表れと吹いた。取り巻きは将来高値をつければ従業員の福利にもなると胡麻を擦った。現実は甘くない。矢野の予想通り、上場後の株価は500円を大きく割り込んだのだ。市場の反応は冷徹である。しかし下村は運が強い。5年後に株価が2000円を突破するのであった。北京アジア大会、ソウルオリンピックの特需が株価を押し上げた。ほどなく下村は副社長に昇る。

 話を戻すが矢野が自分に求めるのは彼女との逢引の手助けだけである。天下取りを目指す自分に絶対的忠誠を見せない。自分に胡麻する連中は対価として昇級を求める、故に信用できる。対価見返りを求めないこの男は油断ならないと下村は思った。「上場基準をクリアするにはそろそろ準備が必要かと」「全国の支店調査が必要だね」と矢野に最後まで言わせず投げ返してきた。調査項目は全従業員の資格にまで及ぶ。結果、有資格者の多いこと、大企業に人は集まる。
 さらに矢野を驚かしたことは皇太子ご視察が茨城工場になったことだ。工場移転統合と考え合わせると名古屋支店は当て馬でなかったか。隣接地購入の口実に使われたか。これで下村の専務昇格は時間の問題となろう。彼の後ろにはどんな存在があるのだろうか。

第三章世界合唱祭

第三章 世界合唱祭


矢野は訪独に向けて業務に励んでいた。10日間休みを取る工作だ。香川京子と谷和子の関係もこのままつづけばいいが矢野は女の子が欲しいので先に産んだ方と結婚するつもりだ。男の子は想定外だ。これも矢野らしいが。子の認知だけで京子も和子も納得すまい。二人が(二人妻を)納得してくれるのが最善にして理想である。この問題は常に矢野を悩ませるが結論は『一生この関係でいたい。されば子を認知してともに育てる』にたどり着く。しかし将来妻が5人になることは矢野自身予想だにしなかったのである。

皇太子ご視察のお車が通る道路は整備され、茨城工場の通勤道路まで舗装されてゆく。天皇は日本国の象徴だけではない。依然として絶大なる権威を保持している元首なのだ。下村はこれを巧みに利用する。万歳ひとつをとってもお車の動きにつれて波打つように指示した。今でいうウェーブだ。さらに菊の花を3000本用意するように命じた。時は五月、日本中探しても不可能出ると思われた。部下が悲鳴を上げるのを待って下村は「ご苦労をかけるね、僕も心当たりに当たってみよう」と答えた。大手百貨店へ事前に手を打っていたのだ。

視察が無事に終わると「常務の演出は実に御見事でしたな。我々は高貴な方の前では身体が震えます」と取り巻きが胡麻をすっていた。演出は儀式のプロ宮内庁であり下村はそれを伝えたに過ぎないと矢野は見ていた。訪独を2週間後に控えて下村を怒らすことはない。「みんなのおかげで上手くいったよ。次はいよいよ上場だな」と下村は上機嫌で言った。「実はどうも、東京証券取引所が申しますには、一部上場は二部上場後3年間の実績(配当継続)をみてとの基準はどうにもならないようで、常務のお力でなんとかならぬかと」株式課長が伺いを立てる。いきなり一部上場したのは三菱自動車ぐらいであろう。

彼は下村が株式課長に抜擢した子飼いの男だ。「証券取引所の基準は厳格だろう。だからこそ上場の値打ちがあるのじゃないかな」「我々常務の専務昇格祝いにと一部上場を果たしたいと願っておりますれば」「君気の早いことを」と下村は笑い飛ばすが満更でなさそうである。無能であるが権力志向と支配のかたまりが出世してゆくと人がすり寄りさらに持ち上げる。自分を引き上げてもらうためだ。これでは組織が崩壊するのは当然だが、昭和50年代の日本社会であった。


ドイツ旅行

ドイツ旅行出発の日、矢野はいつものとおり会社に出て仕事をしていた。「矢野君、今日は早くしまっていいよ」と課長が声をかける。矢野の休暇は5日しか認めなかったことに対するせめてもの配慮であろう。土日の休みがあるから10日の休暇があれば2週間ゆっくり旅行を楽しめるのだが。総務は従業員の出勤率を高めることが本分であると説得するが入社間もない社員の海外旅行に対するやっかみが本音であった。矢野はこの説得を下村のやっかみであり陰で下村が操っていることを感じたが今はドイツの事しか頭になかった。


当時は羽田22時発のルフトハンザ航空でドイツに向かう。空港には合唱団員が集まっている。矢野が「どうも食欲ない」というと「君は初めて」と上村が気遣ってくれた。上村は仕事柄海外出張も少なくないようだ。合唱団でもスターであるが同郷の矢野を何かと心にかけてくれる。「搭乗したら機内食がでるよ」

出国手続きを済ませジャンボ機に乗り込む。「スターテン」機長のアナウンスでおもむろに滑走し始めた機は静かに東京の上空を北上してゆく。けばけばしい街の灯が遠のいて水平飛行に入ると機内食が配られる。スチュワーデスは大柄なドイツ女だ。隣の団員に「これで日本食も当分おあずけだな」と言われて矢野は日本を離れてゆく自分を実感した。会社を忘れ本来の自分に戻ったとも思った。矢野にとって会社は仮の宿なのだ。定年まで勤めあげ、退職金で老後をという考えは全くない。


旅は日常からの脱却、非日常への冒険かも知れない。朝6時アンカレジで給油。日付変更線を越したから前日になる理屈だが矢野には実感がわかない。出発してから8時間が経過したのは事実だ。腕時計は日本時間である。どういうわけか日本人向けにうどんを売っているので立ち食いする。ここでは希少価値がある。
機は3時間後にアンカレジを離陸したが眼下は北極の氷ばかりだ。矢野はすぐ目を閉じたが機内食で起こされる。病院食ね、と杉本温子が言った。彼女は東京メンネルの合唱団員と結婚したが旦那は仕事で(休暇が取れなかった?)参加していない。彼女の顔見知りは矢野だけである。何度か病院食が出されたが矢野は半分以上残して眠った。

22時間後にハンブルグ到着したが矢野は眠り眼で歩く。周りがドイツ人ばかりだからここはドイツだろうと思った。すぐ町の教会でドイツ曲の録音が始まった。現地のテレビ局は日本人合唱団を撮影するばかりだ。合唱は矢野を空腹にする。「腹が減った」「金を稼いでから」と古参団員。テレビ局から結構いいギャラが出るらしい。合唱を教会で録音するのは音響がいいからで映像のバック音楽に流すらしいがとにかく何か食いたいと矢野は思った。
長い収録が終わったのは現地時間の午後一時。「食い物たもれ」「もう少し待て」今度は市役所表敬訪問。玄関前の高いスロープに並ばされる。ここでもドイツ曲を歌わさせられる。市民が集まって来る。拍手と歓声で監禁する。矢野は目がかすんできた。もう立っているのがつらい。しかし古参団員は背筋を伸ばして、聴け日本の合唱をとあたりを支配する。戦前戦中派は耐乏生活に強い。


監禁を解かれたのは半時間語であった。「日本の方ですか。私は日本語を勉強していますとメドヘンが話しかけてきた。「死にそう」矢野は彼女の持ったソーセージに噛みついた。「犬みたいね」と杉本温子がなじった。学生風のドイツ娘はビールを差し出す。矢野は一気に飲み干す。ああ、とためいきをつく。
Aha so ?あっそう? Gab mir bier !ビールをくれ order Ich will essen deine arme.さもないとお前の腕を食うぞNein danke.やめてくださいと金髪のドイツ娘が大ジョッキを差し出す。
Oh wie shoen bist du. 君はなんて美しいのだ。矢野のドイツ語は歌の文句の流用だ。周りのドイツ人が笑っているから通じているようだ。隣のおじさんがハンバーガをくれた。「お前はビスマルクか」「そうだ、今度は日独で戦えば英米など目ではない、さあもっと飲め、日本の友よ一緒に歌おう」イタリア人が聴いたら起こるだろう。


モニカ仮祝言

矢野が娘に日本の絵葉書を渡して「これが俺の名前と住所だ。お前はこの下に名前を書け、その右に愛する健、私は貴男の所に飛んでゆきたいと書くのだ」杉本温子は怒って立ち去る。「わかりました。翼をください」「いいとも翼をあげよう。君は俺の腕の中で眠るのだ」周りのドイツ人がにやにや笑っている。「矢野ほってゆくぞ」とケンちゃん。「俺は行かねばならない。今夜はここに泊まると日程を娘に示す。「わかったわ。ではまた後であいましょう」

合唱団員は分散して遅い昼食をとる。日曜日なのでほとんどの店が閉まっているということだ。ハムとサラダは本場の味だ。矢野は白ワインを注文する。「お前初めてにしては手が早いな」「あの娘さんが持っていたソーセージにかぶりついたのよ」「まあハシタナイ」「日本人の恥ね」団員の家族が矢野を血祭りにあげる。「ドイツワインいけますね」「話を逸らさないで、ケンちゃん監督不行き届き」

ホテルに旅装をといたのは5時過ぎ。ケンちゃんたちは国際交流に勤めると出かけて行った。ハンブルグは港町、市営の公娼館でも有名だ。戦前派は日本を出征してから30時間以上の強行軍をものともしない。いざ行け兵、日本男児!日本刀の切れ味は如何に。矢野は崩れるようにベッドに横たわる。どれくらい眠ったか分からないが電話で起こされる。「寝てた。モニカです。これから私の家で食事をしましょう」「着替えるから待ってくれ矢野はこういうことには素早い反応をする。急いでシャワー浴び髭を剃って着替える。フロントにドイツ娘が待っていた。

矢野はモニカに行く先を書かす。「601号室の矢野だ。私はここに出かける。このことを同室の友に伝えてくれとフロントに託ける。モニカが車のドアを開ける。トヨタ車だ。「トイタすばらしい」とモニカが急発進する。戦後間もなく日本の若者がトヨタ車で世界一周したときドイツ人技師がその車を見て「30年後には日本車が世界を席巻するであろう」と言ったそうだ。


婿殿品定め

車の前に大きな館が見える。モニカは直進してゆく。警笛を鳴らすと門が開かれる。車は減速せず庭の左側を走って玄関に停車した。門までの直線距離で100mはあろう。外からドアが開かれる。8時と言うのに日射しが強い。旅ゆけばドイツの国に陽の光。頃は六月夏の頃、夏とは言えど日の長き。「今は今晩か今日は、か」「どちらでもいい」ここは日本ではない。
モニカは車を乗り捨てて中に案内する。メイドたちが矢野に黙礼する。やがて大きな食卓がある部屋にたどり着く。中年の夫婦が矢野を出迎える。「ようこそ日本の友よ」「本日のお招きありがとうございます」「彼が私の父で、彼女は私の母です。そして彼は矢野さんです」モニカの発音は明瞭だ。まずビールで乾杯だ。食卓ターフェルと言っても3×10mはある。「ターフェルムジークはモーツアルトでいいかしら」「ヘールヤノ、アナタハ 誰が好きか」「私はブラームスとメンデルスゾーンを好む。貴殿は日本の歌を好むか」矢野の質問にモニカの父は恥ずかしそうに「私は日本の歌を知らない」と。「たいていの日本人はドイツの歌を10や20は知っている。貴方も一つぐらいは日本の歌を知っていた方がいい」「それはそうだ。教えてくれないか」矢野は荒城の月を歌った。「なんと美しい旋律だ。もう一曲」夕焼け小焼けを聴かせる。「なつかしい気がする。夕焼けとは」「美しい夕日のこと」「日本は経済復興を遂げたそうだが芸術も愛するのか」「日本人は芸術をこよなく愛する。我々がドイツに来たのもドイツの芸術を知るためだ」「日本は工業国と聞いているが」「あれは生活の為にやっているだけだ」モニカたちは驚いたように矢野を見つめる。「日本製品は素晴らしいが」「つくるからには良いのをつくるのが日本のやり方だ」モニカがわからないというので表現を変える。「職人のプライドだ。商品でも粗悪なものは世に出せないのだ。これを職人気質という」と英語で説明すると両親が感嘆した。

ドイツ人は納得するまで訊いてくるが矢野は目の前の肉、ソーセージ、サラダが気になって仕方がない。モニカが目でたしなめる。「ドイツ料理はどうか」「ハム、ソーセージの本場と聞いていたがうわさに違わない」「ワインはどうか」「白ワインが美味い」「ターフェルワインだから」矢野が首をかしげると「矢野さん、ターフェルは食卓という意味と最高級という意味があります」とモニカが説明する。ナポレオンも最高級のブランドに使われるようなものだろう。

矢野が美味そうに食するので躊躇いがちに母親がきく。「日本人にとって幸せとは何でしょうか」「美味い酒を飲み、美味いものを食うこと。それには貴女のような美しい女性を娶り楽しい家族を築くことが必要です」「それは日本人の一般的考えなのか」「そうだ。多くの日本人がそう考える」両親はどうもエコノミックアニマル働き蜂ではないようだという顔だ。「お前は彼女をどうやって妻にした」「お前たちはこれからベルリン、ボンに行くのだな」「お前は私の質問に答えていない」女たちがくすくす笑う。「次回に答えることを約束する」父親はこの日本人は突っ込んでくるとワインを傾ける。それからは女たちが会話の主導権をとる。「タケシあなたはモニカのどこが好きですか」「我は好む彼女の肌と声を」「どうしてですか」「まず、日本では白い肌は七難を隠すという。次に声がいい娘は頭脳もいいことが多い」「なるほど、ほかには」「モニカはローレライの従妹ときいております。母君は彼女の叔母様ですか」「私の妹がモニカの叔母である」「私はモニカの母君にきいている」「彼の妹は私の従妹でもあるのです」「それならモニカの美しさを理解できます」「それはどういう意味だ」「私の質問に答えたならば教えましょう」母と娘は声を立てて笑った。

あとは日本の文化、仕事が中心だ。これって品定めされているのかと矢野は思った。しかし何故。昨日モニカに会ったばかりなのに。「今回の訪独目的は」「合唱祭参加と観光」「費用は、日本政府はいくら補助した」矢野は予期せぬ質問に口を閉ざした。「日本は復興と成長を遂げていると聞くが」「民族の誇りですよ」「さすが日本。我が国は分断されたが日本は分断されなかった。すごい」「台湾樺太グアムサイパンを失い、全国の都市に無差別爆撃を受けました」「広島原爆投下」「長崎もです。沖縄は今も米国に支配されています」「そうなんだ」「駐留米軍は日本の番犬ですが同時に飼い主をも監視しております。外国に占領されるのは日本史上初めてのことでこの屈辱は後世が注目するでしょう」「そうか大変だな」「敗戦国の運命です。日本国民は戦争はもう懲り懲りと思っていますが、まず経済で米国を凌ぎます。その次は日本文化です」「日本の歴史は何年になる」「記録にあるのは約3000年。日本人は数万年間日本に住み続けてきた」「そんな昔から、もっと日本のこと知りたい」とモニカが身を乗り出す。やらせてくれたら教えてやるとは言えない。

ワインとデザートが出される。「日本人は空腹だとソーセージに食らいつくのですか」と母親。「そんなことするのは私ぐらいですよ」「ではなぜ」「麗しの乙女は菩薩にみえた。菩薩なら許してくれようと思ったのです」「武士は食わねど高楊枝」「それはやせ我慢の喩。私は空腹に弱いのです。自制心がないのです」「自分をそんな風に言ってはいけません。さあワインを召し上がれ」「昨日のソーセージとビールは一生忘れない」「あなたのお仕事は」「サラリーマンですよ」「具体的には」「機械メーカーで法務を担当しています。今日本の急務は公害対策です」「水俣病問題」「お恥ずかしい」「あなたの責任じゃないでしょ」「責任の問題ではない。国が経済成長を第一として日本国民を悲惨な目に合わせたことです。そして私が日本人であること」「それは個人の問題ではなく行政の問題でないのかな」「国会議員は国民が選んだのです。行政の手落ちは国民の責任です。彼らをコントロールできなかった、私も一日本人として恥ずかしい」「どうしてそのように考えるのだ」「政治、行政、司法の不始末は政治家を選んだ国民の責任だ」モニカ親子が驚く。 

しばらく話が途切れた。「話題を変えてもいいかしら、私は日本の文化が知りたい」「日本文化は世界一でしょう。日本が世界に誇れるのは文化です」「工業ではないのか」矢野のテンションが上がる。「日本文化を知らない者に語ることは馬に念仏だ」「馬に念仏、あ、自分で調べます」「モニカは偉い。日本で住むことができる。日本の小学生でもバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューマン、ブラームスぐらいは知っている。あなた方は日本の作曲家をどれだけ知っている」
親子は首を振る。「日本音階は、レミソラド レシラソミ というのがひとつ。ミファラシレ ミドシラファミにドミファソシ  ドシソファミというのもある」「上行と下降とで音程が異なるのか」「日本の国歌君が代を聞いてみろ。日本人は伝統音階の他に西洋音階も使いこなしている」「すごいわねえ」「本当に」「ほとんどの日本人は片ことながら英語ドイツ語を読み書きできる」
このあと言語、絵画、彫刻、民芸品、家具などに話が及んだが矢野は時間を気にする。「今夜は泊まっていけ」と父親。「有難いが軍律厳しき日本軍なれば遅れると営倉入りだ」「左様か。残念だが次回は必ず泊りがけで来てくれ」「明日朝6時にベルリンに向け出立なればこれにて失礼する。素晴らしい料理と会話に感謝する」父親は日本の母の強さに打たれて名残惜しそうであった。日本は母系社会であったというのが矢野の持論。もっと語りたかったのだが。

モニカがホテルまで送ってくれる。「君が日本語を勉強する理由など聞きたかったのに。無粋な奴だ」「無粋」「人の恋路を邪魔する奴は、おい安全運転で頼む」矢野は車の降り際にモニカの手を握りしめた。柔らかい手が握り返してきた。これは社交辞令だ。
フロントの時計は12時になろうとしていた。シンデレラボーイか。部屋では同室の森尾が「早かったですね」と嫌味を言う。「さあ歯を磨いて寝るか」「あ、シャツに口紅が付いていますよ」鎌をかけるなと矢野は思った。


ベルリンの壁

翌日ベルリンへ向かう飛行機にモニカがいた。信じられない。にっこりと矢野を後部座席に誘う。「あの娘よ」と杉本温子が指さす。女とは不思議なものである。追いかけると逃げる、逃げると追いかけてくる。青い目の金髪娘に矢野は吸い寄せられる。人目も気にせずモニカの横に座る。「Guten morugenお早うタケシ。昨日はよく眠れた」なにしろ60時間ぶりの睡眠であった。「父が無粋の段、すまなかったと申しておりました」機は離陸し始める。モニカの首筋から耳に掛けて若草のような匂いが漂う。が、矢野はこのドイツ乙女の目的はなどと疑わない。 

機内が静かになる。エルベ川上空だ。この国は米ソの思惑で東西に二分されているのだ。終戦から20年で戦後は終わったと繁栄を驀進する日本、同じ運命を辿っていたら名古屋辺りで別の国になっていても不思議ではない。人々は悲しげに地上をみている。引き裂かれた家族を思って。シュミット先生が「私の家族はこの真下に住んでいる」とつぶやいた。子供の頃この川で泳いだとも。彼は東京でドイツ人学校の音楽教師をしている。合唱団の音楽顧問でもあるのでこの旅行に同行していた。「先生、すぐいっしょになりますよ」と矢野は言って自分を恥じた。彼は静かに首を振った。「どうしたのタケシ」「俺は無責任なことを言ってしまった」「私たちもそうなることを願っているわ」「共に戦った味方に」「そんなに自分を責めないで」モニカが矢野をやさしく抱いた。

かつての首都ベルリンも壁で東西に分断されている。見上げると銃を肩にかけた監視兵がにらんでいる。この壁を越えようとしてどれだけの命が失われたことであろう。捧げられた花束の前で矢野は黙祷を捧げた。モニカは矢野を見守る。我々ドイツ人は戦争で亡くなった日本人に祈りを捧げることができようかと自問する。やがてモニカは日本人が戦争を憎み、敵兵といえども手厚く葬る日本文化を知ることになるのだが武士道と頭で理解していたに過ぎなかった。

8年ごとに開かれる世界合唱祭の会場は7万人を収容するシュタットハーレ市民ホールだ。ベルリン市ホールとでも言おうか。東京メンネルは埋め尽くされた市民から拍手で迎えられる。極東の島国からやってきた合唱団だ。常任指揮者の荒木が現れると会場は静まる。一流役者はここでも登場するだけで観衆を魅了するのであろう。その手が振り下ろされると会場を揺るがす男声合唱が会場を覆う。

Grüß gott mit herzen klang heile deutschen wort und sang !

その迫力に圧倒された聴衆は息をのむ。ややあってヤーパンJapanと立ち上がって叫ぶ。

興奮が静まるのを待っていたこの様に美しい和服の女性によって筝が奏でられる。再び静寂が訪れる。日本音階はしじまの中で優雅に響き渡る。

人恋ふは悲しきものと  平城山(ならやま)に
   もとほり来つつ  たえ難(がた)かりき  古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ
     越へしとふ  平城山の路に  涙おとしぬ 

男声合唱が歌いだすと会場は涙ぐむ人も少なくなかった。名曲は普遍性を持って人の心を揺するのであろうか。

メンネルの演奏が終わると聴衆は拍手を止めなかった。7万人の拍手は鳴りやまない。矢野は世界各国の合唱を聴きたかったがまたまたテレビ局が東京メンネルを録画するということで会場を離れることになった。ノルウェーの少女合唱はウィーン少年に勝るとも思われた。10年後には美しい女になっていることであろう。「ベルリンには若者がいない、年寄りばかりだ」矢野は美少女たちと引き離された恨みをこう表現した。録画中は「銭儲け旅費稼ぎ」との掛け声に精一杯笑顔で歌う。録画がテレビで放映されたのは翌日の事であったが矢野たちを有名にした。ベルリン市役所でも国賓並みの歓迎を受ける。しかし歌手タレントの巡業もかくありなむ。華やかな舞台を降りると裏方に変身だ。和子か京子を連れてきていたらこの強行凶行日程に堪えられたであろうか。

録画撮りが終わると東京メンネルは男声合唱団ベルリンリーダータフェルの招待を受ける。野外ステージはベルリン市民に覆いつくされている。新聞テレビの力は大きいのだろう。日独男声合唱が青空にこだますと市民は熱狂した。欧米で演奏すると聴衆の反応は敏感でプロでも怖いそうだ。反面やりがいがあるというものだ。 ドイツ民謡では聴衆も立ち上がって歌う。ドイツ民族の一面を感じる。
演奏後夕闇が迫る。時計は9時を指している。夏至とはいえ緯度が高いと日は長い。ベルリンターフェルに食事に招かれる。ターフェル会館は団員の奥さんたちがへそくりを出し合って建設したそうだ。食事も奥さんたちの手作りだ。「どうしてお前たちは奥さんに愛されるのだ」矢野のストレートな質問に食事の手が止まる。「それは非常に難しい質問である。お前もドイツ娘と結婚したらわかるであろう」モニカが笑いながら見つめる。「彼女は結婚相手にどうか、ローレライの従姉かも知れないぞ」「というと」「お前は彼女のとりこになって日本に帰れなくなるであろう」「ローレライの従姉なら本望だ。人間至る処青山あり」
Ich weiss nicht was soll es bedeuten と矢野が歌いだすとたちまち全員合唱となる。隣り合わせの肩を組んでローレライのメルヘンの世界にひたると国境もなくなる。「ところでタケシ、お前は完ぺきにドイツ語で歌うのに話すのは下手ね」と隣の老婆。「それはドイツ語と日本語とは異なるところがあるからです。もし同じであるならば私は奥さん以上に上手くしゃべるでしょう」

矢野のブロークンドイチェは受けた。「どうしてあいつは目立ちたがるのだ」とケンちゃんが顔をしかめる、「生まれつきでしょ」と杉本温子。「奥さん、私が10年早く生まれていたなら奥さんに求婚していたでしょう」「そうね。私が10年遅く(30年だろう)生まれていたならそれを受けたでしょうね」


私が彼をものにした

この男は酒がまわると自制心がなくなる。もっとも素面でもその気はある。モニカの手を取って「地位も要らない。名誉も要らぬ、お前と一緒に暮らせるならば」と目をみつめる。それがドイツ語に翻訳されると歓声に包まれる。モニカは顔を真っ赤にしながら矢野の手を握り返す。このセリフは矢野の十八番だ。「お前が奪われたら俺は米ソであろうが乗り込んで奪い返す」これも受けた。新しいレパートリーとなろう。

その夜モニカは矢野を公然と拉致する。団体行動で抜け駆けは許されないが強制連行されたのだから誰も文句は言えまい。モニカがとったホテルは学生とは思えない高級なものだ。同室の森尾が「来客があるなら私は別の部屋に移りますよ」と矢野を冷やかしたが今頃彼女をひきいれていることだろう。「きれいな夕焼けだな」午後9時に陽が没する。二人は黄昏迫る公園を歩きながらこれから起こることを予期していた。

バスタブに身を沈め両足を伸ばすと疲れがとれる。モニカがシャワーを使うと白い裸身がローレライに見えてくる。矢野の視線を感じてかモニカが振り返る。あっと息を飲む。矢野の息子は天上を指している。モニカは指を広げて長さを測る。今度は直に息子を掴み太さを実測する。これが私の中に入ってくるのかしらという顔である。矢野は先に浴室を出て冷たい白ワインを飲む。すでに全身戦闘態勢に入っているが敵からの攻撃まだはない。モニカがバスタオルをまとって出てきた。「ねえタケシ、私思うのだけどあれが私の中に突撃してきたら痛くないかしら」「それはやってみないと何とも言えないな」「私医学書を読んだけど最初は出血を伴うこともあると書いてあったわ、なんだか少し怖い」「最初は誰でもそうなんですって、こまっちゃうな、デイトに誘われて。初夜の床ベッド。うむ、個人差があるから一概には言えないが、まあ案ずるより産むが易しだろう」「そうかもね。お産に比べるとどうということもないか」

モニカは白ワインを飲み干してバスタオルを脱ぎ捨てる。戦闘開始だ。遮二無二突進してくるモニカは初陣なのだろう。双方の経験の差は歴然としていた。矢野は落ち着いて応戦する。「しばし待たれよ乙女娘よ。なれは19にして処女であろう」「そうよ、それで」「処女を失うと二度と処女には戻れない」「当り前」「親の許しを得ているのか」モニカはその熱き唇を矢野の唇を重ねる。この期に及んで何をごたごたと言う態度だ。片手は矢野の肩に、片手は精子製造所からその放出口までを撫でまわす。同じ乙女なれど京子、和子とはだいぶ違う。ここは体勢を立て直すべきだ。
時間稼ぎに歌う。「ここはお国の何千里 離れて遠き欧州の 赤い夕陽にてらされて」窓の外は夜のとばりがおり始めていた。うっとりするモニカ。時は今、敵はドイツ乙女、かかれー。攻勢に転じた矢野はモニカの耳から首を攻撃する。モニカの喘ぎが男の闘争本能を掻きたてるあ。勝って来るぞと勇ましく進んで国を出たからにゃ、、。矢野の侵攻は乳房にも及ぶ。「ああもうだめ、許して」「許さない無条件降伏あるのみ」「私濡れてきたわ」「正常な反応だ、これから総攻撃を開始する」「お願い来て」矢野はモニカの恥毛が黄金色であることに気づく。長い金髪からして不思議ではないが感動を覚える。女は衣服を着けているときは隠したがるが脱げば見せびらかすのか。
敵はこのスキを逃さない。やにわにモニカが矢野の息子をつかんで子宮に押し当てた。予期せぬ反撃に日本軍は作戦変更を余儀なくさせられる。「これなのね、さあ中に入って」どうも勝手が違う。矢野が敵門を開いて突入するとモニカは少し顔をゆがめたが内部は愛液に満ちていて決戦の時を告げていた。矢野の全身にも快感が走る。モニカの花芯が締め付けてくる。なんのこれしきたかがローレライの従妹。それゆけ兵、日本男児!「皇国の存亡この一戦に在り、全員奮励努力せよ」守も攻めるも鐵の、軍艦マーチが鳴りわたる。

それからの激戦はつづいたが詳細は割愛しよう。矢野もよく憶えていないのだ。総力戦であったから砲弾も撃ち尽くして不覚にも眠りに落ちた。モニカも矢野の胸に顔を埋めて眠ったがスタミナが違う。矢野が目を覚ましたのは2時間後だ。「よせよ、くすぐったい」「ふふふ、貴男は私のものね」モニカは矢野の胸に私の男と書いていたのだ。矢野はモニカの股を広げて俺の女と書いた。「看ろ、この夥しい出血。お前は降伏したのだ」モニカは慌てて浴室に駆け込む。矢野もこれにつづいて戦果を挙げた日本刀の血を洗い落とす。京子も和子も初めてなのに反応した。我が太刀の為せる業だ。三度目の正直、いや三連続となれば切れ味が実証されたといっても過言ではない。ほんにこの男はおめでたい男だ。

モニカは処女喪失を気にする風もなく、むしろ勝ち誇った顔をしている。後日矢野は聴かされるのだがモニカは戦闘を次のように報告していた。「ママ、私はタケシを征服した」「それで戦果は」「彼は砲弾を撃ち果たして降伏したの」「モニカお前は私の自慢の娘だよ。で妊娠の可能性は」「明日あたりから排卵日だからあと二日攻めれば成功すると思うの」「成功を祈るわ」「ありがとうママ」妙な母娘だ。日本の感覚は世界では通用しないことが多い。
ここでも矢野はことがあまりに簡単に成就したことに思いを馳せなかった。ことがことだけに無理からぬが普通の男なら話が上手過ぎると思うはずだ。香川京子のとき同様矢野は目の前のことしか見ていなかった。矢野らしい。結果的に矢野にもモニカにも幸いするのだがモニカと両親の意図を詮索して何になろう。しかし一般的に日本人は危機意識が薄い。危機管理もできない。

この国のセカンド婦人女性議長

翌日合唱団はベルリンからボンに向かう。電車がベルリンを出ると有刺鉄線がハリメグされている。一歩出れば東ドイツ、他国なのだ。シェパードを連れた警官が車内を監視して回る。西への脱国者の取締らしい。モニカを尋問する。「どこへ行く」「ボン、ミュンヘン」「目的は」「ハネームーン」「彼は日本人か」「そう、私が彼を制圧した」矢野はドイツ語のできる日本人にやり取りをきく。「俺の彼女にくどくど質問するな。離れろ」と怒鳴る。「お前たちの身分証明書を見せろ。日本政府を通じてホーネッカーに厳重に抗議するぞ」たじろぐ警官たち。「今の職を失いたくなければ今すぐ立ち去れ」東独の警官たちは「良い旅行を」と言い残して去ってゆく。「モニカ、俺がお前を征服したのだ。憶えて置け」「はい、そうします、ヘールヤノ」この男決めるところは決めるのねとモニカは矢野を見つめた。

ボンは西ドイツの首都だがこざっぱりしている。日本人にはベートーベンの生家が人気がある。市役所を表敬して国会議事堂を見学する。ライン川が流れているようだが水が濁っている上、流れも感じられない。議事堂のお粗末なレザーの椅子、これが国会かと矢野は思った。中庭に出ると白ワインが出される。この国では赤ワインは今一だが白は美味い。白髪の中年女性が現れた。年は還暦を過ぎていると思われるが品がある。国会の議長と言うことだ。後年矢野は某国の女性国会議長をみて色気がないと思ったものであった。彼女はこの国のNO2で大統領がNO1ということらしい。国会が最高機関なら彼女が理論的にはNO1である。
彼女はプロマイド写真にサインをしながら東京メンネルの各団員に手渡してゆく。これは国賓級の歓迎ということらしい。モニカが写真を見せてという。矢野は澄ましてもう一枚写真とサインを所望した。女性議長は瞬時に事情を理解してこれに応える。これを見てモニカは私にくれるのとうれしそうな顔をする。矢野は深々と頭を下げる。こういう厚かましさは許されるのであろう。
しかし民間の合唱団に日本国、日本政府はこれだけの応接をするであろうか。音楽に対する価値観の相違と言うしかない。モニカの父親は矢野の旅行日程をみて国会訪問をつぶさに観てくるようモニカに命じたのではあるまいか。メンネルの8年前の前回の訪問では大統領が応対している。東京メンネルの評価は急上昇した。

仮祝言

表敬訪問が終わると軍の食堂で昼食をとるまで自由行動となった。この旅行で初めての自由時間である。矢野がモニカとドナウ川の方へ歩き始めるとケンちゃんと元予科練とに詰問される。いや尋問か、自白強要である。「彼女との関係は」「現地妻です」「やったのか、この野郎」そこへ常任指揮者の荒木が割っている。「素敵な彼女じゃない」荒木は音楽だけでなく各団員にも心配りができる。指導者とは名監督とは各人の経歴現状を把握しているのだ。「おそれいります」とモニカは日本語で荒木に礼を言う。これで矢野は釈放された。「彼、いい指揮者ね」「ああ」

明日はライン川を遡ってミュンヘンに向かう、楽しみだ。モニカが矢野をベンチに座らせる。議長にもらった写真を取り出して「愛するモニカへ 矢野健って書いて」「照れくさいじゃないか」「あら私のこと好きじゃないの」「わかったよ」「ありがとう日本語の文字で書いてね」束の間のひと時だが美しき青きドナウを見ていると幸福感に包まれる。「ねえタケシ。私日本に行ってもいい」「いいよ」「うれしい。私と結婚してくれる」「いつどこで」矢野は和子と京子を思い出し、これは大変なことになったと緊張する。「貴男の旅行が終わってからでいいわ。貴男のご両親は来て下さるかしら」「式は日本風か教会風かどちらがいい」「どちらでもいいが、お前は大学は卒業しなくていいのか」矢野は動揺を隠すように話題を変える。この手は古今東西同様のようだ。


昼過ぎにステイ先の奥さんが車で迎えに来た。森尾と矢野、モニカを乗せると飛ばすこと。ドイツ女はスピード狂か。怖がる矢野をモニカが抱きしめる。奥さんが「もうすぐよ、私たちの軍隊」という。
Our government Our military 私たちの政府、私たちの軍隊。国防は政府の仕事と割り切る日本とは考えが違う。
軍の食堂と言っても食事内容はロールキャベツにソーセージがはいっていてなかなかだ。ポタージュスープが美味い。矢野がパンでスープをさらえるとモニカが立ち上がってお代わりを持ってきた。「いい奥さんになるわ」と日本人の評判もいい。ケンちゃんが会長と話している。「団始まって以来のことですからな」「結婚式を日本で挙げないとならないのですか」どうやら結婚祝い(金一封)の是非らしい。

団規約には日本での挙式を条件と定めていない。「では今ここで仮祝言といきましょう」「また急な」「いいですか会長。奴が乗り逃げしたら国際問題になりますぞ」「そんなことは」「ありえます。彼は明後日に帰国するのです。会長ご決裁を」二人とも大きな声なので全員に聞こえる。「あのう、私のことでありますか」「他に誰がいる、素人娘にただ乗りする奴が」「モニカのことですか」「罪状明白、責任を取れ。何回乗った」「わかりません」「何時までやった」「夜通し、明け方まで」「会長自白しましたぞ。成果は」「敵は日本刀の切れ味に無条件降伏しましたが当方も眠りに落ちました。なにしろ総力戦でありましたゆえ」「被告人は下がって良し。追って沙汰する」

団員およびその家族友人全員が見守る中会長以下の協議の結果が言い渡された。「判決を言い渡す。被告人は直ちに祝言を挙げよ」「控訴します」「当裁判所が最終審である」常任指揮者が「埴生の宿」と言うと全員が立ち上がる。「東西東西 東西南北。只今よりベース矢野健君とモニカさんとの仮祝言を執り行ないまーす」とケンちゃんが大音声を発する。矢野は声が出ない。合唱が始まると指揮者が矢野を促す。矢野が「埴生の宿もわが宿」と歌いだすと荒木はモニカにも笑いかける。モニカも矢野につづく。「只今お二人の仮祝言が滞りなく執り行われたことを媒酌人としてご報告いたします」会長の言葉で拍手が起こる。「では新郎新婦愛の口づけを」

これは大変が現実に起こった。矢野は顔面蒼白である。京子との結婚、離婚に和子とも同様と悩んでいたのにこれにモニカが加わると、神も仏もないものか。キリエミゼレレ主よ憐み給え。祓え給い清め給え。南無阿弥陀仏。我は無実なり。おかあちゃんたすけてくれえ。新婦モニカはうれし涙をはらはらと流した。矢野は押されてモニカに口づけする。キャーッ素敵と歓声が上がる。これで矢野の終身刑は確定した。刑が執行されるとモニカの下から逃れられない。果たして男矢野健の運命や如何に。


尾頭付の豚 とんだ豚騒動

その日の音楽会は地元合唱団ゲルマニアとの交歓会であった。小学校の講堂には多くの人が集まって来る。日本の有名な合唱団との交歓会ということもあるが矢野とモニカの国際結婚が人々の関心を引いたのだ。ステージには古びたピアノがあった。ゲルマニアはローマの侵攻を今に伝えている。ドイツはローマから見るとゲルマンでありこの地方はゲルマニアと呼ばれた。ルーマニア、オーストリアも同様であろう。インドネシア、ミクロネシアもあるか。

最初のステージは東京メンネル、新聞テレビがドイツ各地での様子を伝えているから市民にも名が知れている。その迫力と東洋的響きはドイツ市民を魅了して離さない。ステージが終わると歓声と拍手が会場を吹き飛ばすほどであった。つづくゲルマニアは石井歓の『枯れ木と太陽の歌』を演奏した。ピアノが数音奏でると会場は静まり返る。矢野はピアノの音はあまり好きでないが、それは矢野の認識を一変させるほど柔らかい美しい響きであった。
老ピアニストは枯れ木のように飄々と鍵盤の上に指を運んでゆく。合唱の方も派手さはないがなかなかである。柔らかいが力のある声で日本の合唱曲を歌い上げた。音、声に対する根源的イメージが違う。欧米に比べると日本はあまりに固い。矢野は音の原点を、合唱の原点を垣間見た気がした。
合同演奏は日独の作品が取り上げられたが固い声と柔らかい声とが和声されて味わい深いものとなった。最後に誰となくドイツ民謡が歌われるとステージと客席がひとつになる。日本の音楽会ではあまり見られない光景だ。

打ち上げパーティーは子豚の丸焼きが並べられていた。子豚はこの日のために40日間仕込んだという。日独両指揮者が矢野とモニカに花束を贈呈してくれた。なんといっても時の人だ。二人の眼から涙が溢れる。ゲルマニアの団員が矢野に感想を尋ねる。老ピアニストの音を褒めるとほうっとためいきがもれた。固い声と柔らかい声、各団員の個性的な声が和えられて独特の味が出ていると答えた。「新郎は弁が立つね。評論で食ってゆけるよ」と指揮者の荒木が言った。矢野は荒木の前では息子のようになる。「別の(日独の)素材があわさって新しいものが生まれるのですね」

日本語は元外交官の夫人八代亜紀が同時通訳する。「別の素材が合わさるとどんな子が生まれるか」ケンちゃんの合いの手は一流だ。日本人は爆笑する。ドイツ婦人が「彼なんて言ったの」と八代夫人に詰め寄る。「私にはわからない」「わからないはずないでしょ、日本人がみんな笑っているのだから」「だって」すると矢代夫人が顔を赤らめると一人は察したようだ。
その彼女は笑みを浮かべながらモニカに近づく。「モニカ本当にきれい。ジュンブライド六月の花嫁」「ありがとう」「ところで彼はなんて言ったの」モニカはためらいもなく「日独の素材が合わさるとどんな子が生まれるか」とドイツ語で言った。「まあ、それは神のみが知ることね。でも楽しみだわ」ドイツ側にも大受け。

横でケンちゃんが顔を赤くしている。「俺の豚にさわるな」と矢野が怒鳴った。「だって真っ直ぐじゃないとおかしいでしょ」「これが俺のやり方だ。離縁するぞ」何事が起ったと周囲が振り向く。「夫婦喧嘩は早すぎるのじゃない。どうしたの」ゲルマニア団員がマイクを向ける。「この豚俺を見ているから顔をそむけたのだ」矢代夫人はばかばかしいと自分のテーブルに戻る。
中年女性がナプキンで豚に頬被りして真横に向きを変える。「これでいいでしょ新婚さん」ドイツ人は何が問題でそれを如何に解決したかが知りたいのだが八代夫人は「夫婦喧嘩は犬も食わない」とそっけない。シュミット先生にマイクが向けられる。「日本人は四足、牛豚は食さない主義なのですが美味いものには目がないのです、そこでこの相対立するテーゼを解決すべく豚に頬被りをさせたのですね」「豚を食わないというテーゼに美味いものは食いたいというアンチテーゼをアウフヘーベンするのか」「そうです。これは豚ではないと思って美味い所だけを食うのが日本流です」「なるほどよくわかりました」

今度はドイツ女が進み出る。マイクを手にして「豚はすべての部分が美味しいのでございますよ。丸ごと残さず食べるのがドイツ流です。耳の部分などはお摘みにもなりますれば、足の部分はコラーゲンが豊富に含まれておりまして男性機能を高めますので、それはそれはよろしいのでございますよ」
日本の男は改めて豚を喰い始める。「足の骨の中は良質のコラーゲンでございますのでお勧めですわ」と70過ぎの長老に勧める。「するとそれがしも貴女のような美女と交わることができるようになりますかな」八代夫人が無視するとシュミット先生が通訳する。「これを毎日5日食べますと可能になること請け合いますわ。日本人男性はもともと強い素質を有しているときき及んでおります」

モニカが矢野に残った豚をねだる。「お前にやるくらいなら犬にやった方がましだ。お前は夫に意見した故離縁だ」周りはまた始まったとあきれ顔。

私が貴男に惚れたのは ちょうど19の春でした
いまさら離縁と言うならば もとの19にしておくれ

とモニカが日本語で歌いだした。なかなかいい声だ。矢野も負けじと返歌を。

元の19にするならば 庭の枯れ木を観てごらん
枯れ木に花が咲いたなら 焼いた子豚も踊りだす


山のあなたの

ミュンヘンは札幌市と姉妹都市で有名だ。多くの大学研究所があるせいか街の通りもベルリンのようないかついイメージはなくどこか洗練されている。ミュンヘン大学の卒業生にはX線で有名なレントゲンがいるそうだ。タクシーもアルプスの少女ハイジのような民族衣装の女性運転手もいた。ここからウィーンまで車で一走りという。Statt strasse もシュッタット、シュトラッセではなくスタット、ストラッセと聞こえる。一口にドイツ語と言っても北と南では大きな訛りの違いがある。乙女はここではメドゥヘン、北ではメッチェンだ。

矢野はモニカとこの旅行で初めて合唱無しの旅を楽しんでいた。モニカはウインドウショッピングを楽しむ。気の利いた展示のショルダーバッグをのぞき込む。矢野はモニカの手を引いて店に入る。ショルダーバッグをモニカの肩に掛ける。店員がよくお似合いですよと笑顔を浮かべる。新婚さんと観て押し付けるようなことはしない。日本人客もよく来るそうだ。値段を見てモニカはためらったが矢野がトラベラーズチェックを切る。彼女にはバッグをプレゼントするのはいずこの世界でも効果的らしい。手順前後だがこれでただ乗りではないぞ。

市役所前で老夫婦がモニカを抱きしめる。近づくとモニカの両親だった。ハンブルグからどうして。その時、正午を告げる鐘が鳴りわたり時計台の人形が踊り出した。通りの人々が見上げる。モニカが呼び寄せたか両親が押し掛けてきたか、いずれにせよ覚悟しなくてはなるまい。仮祝言は報告済みと考えなくてはなるまい。和子、京子にモニカが加われば問題はさらに複雑になってくる。ここは先手を打ってこの国で結婚証明だけでも取得しておくか。日本のように簡単に入籍とはならないと聞いているが。
 近くのレストランに入る。「モニカ素敵なバッグね。タケシに買ってもらったの」母親が話を切り出す。「ママ昨日私たち仮祝言をあげたの。いわば結婚のリハーサルね」「すると本番は日本になるの」「それはわからない。タケシも都合があるでしょうから」親とすれば娘の行く先を案じるのは当然である。手を尽くして矢野についての情報を集めていた。「まあ食事をとりながらゆっくり話をしよう」と父親が注文する。ビールで乾杯する。昔から酒類は緊張をほぐす。父親は短兵急な質問はしない。矢野をリラックスさせようとバイエルンの話をする。「モニカ今度はタケシとオペラに行ったらいい。これからの予定は」矢野が今度ドイツに来るのはいつかと聞いていることはわかったが明言を避ける。「これからみんなとアルペンの麓まで行こうとしています。ご一緒に行きませんか」と両親を誘う。「私たちもハネームーンでウィーンに行ったのよ」と母親が牽制する。「日本で式を挙げるとなるとご両親にもお越しいただいて日本を案内しますよ」「新婚旅行の邪魔をすることになるわ」「新婚旅行はウィーン、ローマ、マドリッド、パリ、ロンドンと回るつもりですから御心配には及びません」と矢野が言うと両親の顔がゆるむ。

アルプス山脈の麓には湖がある。二人の後を見守るように両親がつづく。あと5日休暇がとれていたならアルプスを越えローマ、パリ、ロンドンと観光を楽しむことができたのだが矢野は明日帰国しなければならない。モニカは矢野の一時でも長くモニカといたいという気持は痛いほどわかる、でもわたしも同じよと心の中で叫んでいた。「今度は二人でアルプスを越えよう」「ええ、でも誰がために鐘は鳴るはいやよ」「俺たちの子が帰りを待っている」「私の父母の下で」「子は可愛いが新婚旅行には邪魔だ」「それはそうね」

モニカの話は両親を喜ばす。「彼、タケシは、ローレライはどこだと車掌に怒鳴るのよ」「彼女は病気で休んでいます」「俺は彼女に逢う為に日本からやって来た、すでにライン川は夕日に染まっているではないか」「そのとおりですが彼女の従姉がヘールの傍にいますよ。こちらの方が彼女より美しいと私は思います」「そうかい。じゃあそんなに飛付くほどではないのか」車掌はやれやれと去ってゆく。これも受けたのだが十九の春では母親が笑い転げる。「焼いた子豚も踊りだすか」父親も腹を抱える。矢野は飲み食いに専念する。娘を奪われた親の気持ちを察してのことだ。 


山のあなたの空遠く で有名なカールブッセは本国ではあまり有名でないようだ。上田敏の名翻訳は原詩をはるかに超える二次創作と言えよう。ムソルグスキーの「展覧会の絵」の原曲はあまり有名でないのと似ていようか。
      Über den Bergen
                Karl Busse

Über den Bergen weit zu wandern      

Sagen die Leute, wohnt das Glück.      

Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 

kam mit verweinten Augen zurück.

Über den Bergen weti weti drüben,

Sagen die Leute, wohnt das Glück.

矢野は『幸福はお前の(花芯)中にある』とモニカに言いたかったがそれだけの度胸はなかった。谷和子、香川京子を忘れることができるわけはない。後ろ髪を引かれる思いで帰国の途に就く。ミュンヘンからフランクフルトに飛び、羽田行きに乗り換える。途中帰国組はトップの上村を含め5人だ。上村のように会社の要職にあるものは別格だが残りは入社3年以内だから転職という選択肢もあった。
しかし終戦後25年を経過した昭和55年の日本は高度成長期にあり終身雇用が定着していたから転職は簡単ではなかった。退職金と年金受給は大きな魅力であった。帰国組の若者はそれぞれの思いがあったであろう。この旅はわずか10間日本を離れただけではあったが彼らの心に忘れられぬ印象を与えたはずだ。

矢野は自らまいた種とはいえ、東京、名古屋、四国、ハンブルグを股にかけて行動しなければならなくなった。しかし行動範囲を広げるとは何かを積極的に考えているのだ。何もしなければ悩むこともない。何かをしようとするから悩むのだ。
一に合唱、二にKK+M、三に仕事に変わりはない、二の比重が増えたがまた楽しからずや。世界は広い。行って見たいなよその国だ。機は再び日付変更線を超えて日本上空を下降してゆく。眼下に街の灯が広がるがとてもきれいではない。時間がドイツより数倍早く渦巻いているように感じられた。

第四章合唱団員同窓会

第四章 合唱団員同窓会


脱藩者

明治維新の若者には藩を背負う者と藩を飛出し、」国を背負う者がいた。前者は薩長土肥、後者はその他の藩に大別されよう。もっとも異国の支配から日本をどう守るかの観点では共通したものがあったであろう。これらと対照的なのが藩にしがみつくものである。100年後の昭和の若者はどうか。藩を会社に読み替えると解りやすいかもかも知れない。矢野健は国を思うような人物ではないが会社にしがみつくような男でもない。脱会社に近いだろう。

矢野は帰国後何事もなかったように仕事したが、周りは冷たかった。下村はすでに専務昇格の内示を受けていたから自分の権威を無視する若者が許せなかったのだ。自分でも無能なことはわかっていても専務という肩書には権威があるはずだと怒鳴りたい気分だ。管理部門の人間は全員俺にひれ伏すべきだ。
憎しみとは己を無視する者に対して生じる。下村の矢野への憎しみは日ごとに増大してゆく。とくに私は会社に雇われているのであってお前に雇われているのではないという態度が許せない。これは生理的嫌悪である。あらゆる手とりわけいじめを使っても矢野を排斥しろと総務部長に命じた。下村の後継者として総務部長になっていた片山は大人げないと思ったがそのうち自分が専務の地位に就くまで好きにしなさいと考えていた。片山にとって下村は一時の盟主であり、己の出世の踏み台に過ぎない。
片山は戦略を立案することはできないが個々の作戦を実施できるから下村よりはましだが大した人物ではない。片山は矢野の評価を察知していた。『組織への忠誠とは上司への絶対服従である』ことを矢野に徹底させる良い機会だ。しかも下村に命じられてのことと言い訳できる。彼自身、矢野が自分を下村の腰巾着と観ていることを感じていたのだ。能ある鷹は爪隠すのだよ、矢野君。

矢野は仕事のできる人間を尊敬し大切にするが口先だけの人間を軽蔑する。設計部長の安倍は矢野に眼を掛けてくれた。矢野が公害に取り組んでいた時のことだ。矢野の抱える問題に適切なアドヴァイスと支援をしてくれたのだ。矢野は物事の本質で話すことができる安倍を尊敬した。安倍も問題をつかみ解決しようとする矢野に好感を持った。仕事師の感性が共鳴したのであろう。
しかし総務部の安倍に対する評価は低かった。理由は簡単明瞭である。下村が安倍を敵視していたからだ。安倍の発明は世界的であり会社が存続できるのはその発明によることは自他ともに認めるところであったから次期社長候補と目されていた。無能な下村にとって安倍は出世街道での最大の障害である。
片山はこの図式を理解しない矢野を異星人のように感じた。サラリーマン社会は上司を持ち上げ、見返りに引き上げさせるところである。上司の意向は社是にも優先する。基本中の基本である。これを無視することは反逆である。入社して1年もすれば理解し行動できるはずだ。江戸時代から忠義とは主君対するもので藩、幕府といった組織に対するものではない。これが組織の正義だ。

その頃社内で英会話教育に力を入れていた。技術系職員の海外出張また海外からの視察が増えていたからだ。講師は下村の縁故者が採用される。日常会話には問題ないが技術的話となると問題である。技術英語が求められる。講師料は週1回2時間で1万円であったから月4万円になる。いいバイトである。学卒の初任給が3万円から5万円になっていたが。
矢野もめったに使うことのない英会話より実務に役立つ技術英語の必要性を口にするほど幼稚ではなかったが自分の担当する高卒の高専受験の英語教材に工業英語を選んだ。高卒で入社しても企業の高専を終えると学卒高専卒のキャリア組に編入される、高専在学中も給料は支払われる。しかし試験問題は大学の一般教養程度のレベルである。高専を目指す者には寮で文型を徹底的に教えた。主語、動詞、目的語、補語 がわかればある程度の文意がつかめる。
一方、勉強する気にない連中には工業英語をやらせた。彼らは旋盤、切断、溶接等の単語がわかると文意を掴む。現場で体験しているからだ。矢野が日本語に訳しても矢野自身が理解できないものを彼らは理解した。「おい俺がわかるように説明しろ」「鋼材に旋盤に当てるには角度が重要と言っています」「なぜ角度が重要か」「当たり前でしょ。鋼材を水平においてノギスを垂直に当てないと精度が出ないでしょうが」「全国的にそうか」「いやだなあ、矢野さん世界的にそうですよ」「ふーん」「まあ矢野さんは技能五輪の工場選抜も無理ですね」「俺は技能五輪に参加しないからいいのだ」

言語は意志、思想、概念の伝達手段である。手段を持っても伝達すべき概念等がなければ無用である。米国の有名な会社の技師が工場視察と打ち合わせにやって来た。専門的話になると海外部の通訳は窮する。安倍が手振りを交えて片言の英語で説明するとその技師は大きくうなづくと同時に安倍に敬意を示した。技師同志では流暢な会話は不要である。細部については筆談で事足りる。二人は旧知のように意気投合した。
その安倍がハノーヴァーメッセの展示会に出席すべく英仏独の会話を勉強し始めた。矢野はハノーヴァーで民泊しているから懐かしかった。安倍は会社でリンガフォンを買って欲しいと言ってきた。矢野が快諾すると上司が怒り出した。当時は部長であった下村の意向を恐れてのことである。矢野は「これからは英語のほか仏、伊、ロ、スも必要と成ってくるでしょう」「部長も海外駐在員を視察して回らなければならないでしょうから役立つかと思いましたが部長はフランス語が堪能だから要りませんね」「いやあ僕のフランス語は学生時代にかじった程度だからね」と乗って来た。「これからの国際化に向け総務が全社を啓蒙してゆくべきかと考えますが」「僕もそう考えていたよ。スペイン語圏内への輸出が延びているからね」「中南米からモロッコですか」「そうなんだ、アフリカはフランス語圏だが中南米はスペイン語も必要だよね」下村が矢野に同調するとその上司は困った顔をしていた。ザマあみろ胡麻擦りが。

下村は思う。あの頃は矢野を必要としたが専務の座に座れば奴は用済みだ。見せしめの為にも左遷すべきだ。自分には専務の次は5000人の頂点、社長の椅子が待っているのだ。全ての者が自分にひれ伏すのだ。この快感は権力者にしかわからない。

日本社会は本質論と損得論がぶつかる社会だ。仕事本位か出世本位と言ってもいい。出世とは私腹を肥やす手段である。この構図は安倍と下村に象徴されていた。矢野は李陵であったかも知れない。しかし矢野も無策であったわけではない。下村の意図を察知して脱サラの準備をひそかに進めていた。行動範囲を世界に広げなければならないから容易ではないが日本国内、会社内のことはさほどのことではないと思い始めていた。
会社を辞めるのは簡単だが入社に際して世話になった教授と支店長に顔向けできるようにしておきたい。自分がこの会社に存在したこと残しておきたい。それが自分に対するけじめであると思っていた。すでに平均的総務部員が束になってもなし得ないことをやってきたが最後に許認可届出の手続きを平準化しておこうと考えていた。下村、片山のいやがらせなど燕雀の囀りに過ぎない。

矢野は新入社員の駒込直美に全支店営業所工場から現時点の許認可届の写しを集めるように命じた。それを分類させると朱筆で訂正してゆく。「これと同じように書け」と命じた。それを返送させる。新会社の名称所在はゴム印を同封している。やがて名称変更にともなう許認可申請届が本社に送られてくる。これに代表者、社長印を押して送り返す。官公庁の受理印受付印を押したものが送られてくる。「この調子ですべての許認可届を1月で終わらせろ」と直美に命じる。
根拠法令規則を一覧にまとめる。公害関係でやった手法だ。駒込直美はいろいろと質問してくる。「やっているうちにわかってくる。いちいちきくな、学校じゃないぞ」直美が泣きべそをかく。矢野が法律、政令、規則とA4の用紙に貼り付けてゆく作業は声を掛けることすら拒絶していた。その用紙をコピーすると解説を書き込んでゆく。仕事に没頭するとはこういうことかと直美は思った。

直美が原稿の朱書きが終わったものから矢野のトレーに入れてゆく。この流れ作業が2時間続いた。矢野がトイレに立つのをみて直美はお茶を入れた。矢野は無言で茶をすすりながら解説を書き込んでゆく。直美がトイレから戻ると朱書きの原稿が返って来ていた。FAXのこと、とメモが止められていた。
もう一部は清書のこと、とあった。朱書き原稿の根拠法令と解説だ。この作業は2週間に及んだ。矢野は口も利かないが直美にはその意図がわかって来た。出先からの問い合わせもほとんどなくなった。朱書きと根拠法令と読み合せると直美にも許認可申請届の意味がわかってきた。「もう少しやさしくできないのかしら」と言っていた周りも何も言わなくなった。

その日は入社5年目の柴田勝枝が休んでいた。「昨日空便で送った契約書、特急で公正証書まいて(作成)欲しいのですが」と名古屋支店の岡本から電話が入る。「どの分ですか」「明王寺建設です。ヤバイみたいです」「わかりました、今日中にまきましょう」と電話を切るなり「駒込、公証役場にゆくぞ」と言った。どぎまぎする直美に「その契約書を封筒に入れろ」と怒鳴る。公正証書作成委任状の債権者蘭には代表取締役の捺印が要る。「ここに社長印をもらえ」と直美に指示する。課長には「名古屋支店やばいようです」とだけ言った。
会社を飛び出すと公証役場に走る。事務局長にお願いしますと頭を下げる。事態を察して局長自ら契約書をチェックする。債務者の印鑑証明の印影と異なるものがある。割賦金額と合計額の異なるもの1件。「他は大丈夫ですね」と局長が言った。「現地と打ち合わせてきます。お前は残れ」と駒込直美を残して矢野は会社に取って返す。「矢野さんコピー」と役場の職員が補正箇所のある契約書の複写を手渡してくれた。会社に駆け戻ると名古屋支店に電話する。「FAX着きましたか。どうしますか」「債権回収部と協議して折り返し電話します」岡本とのやり取りが終わると課長に指示(了解)を仰ぐ。
補正のあるものを後回しにするか、他の契約書と一緒にやってしまうかだ。「総務としてはどちらでもいいが今回は債権部との協議が必要ですね」との返事だ。岡本から一緒にやってくれと言ってきた。「今債権部からも突っ込んでくれといってきたよ」と課長。俺が言わせたのだ、無能な者は黙ってうんと言っておればいいのだ。矢野は公証役場の事務局長に「一緒にお願いします」と電話入れる。そこへ債権部の高島が執行分付与申請委任状への社長印押印請求書を持ってきた。事態は緊迫していた。

公正証書は金銭債権にしか強制執行力がないのだが機械の所有権を主張するには証明力において有効である。債権回収は早い者勝ちである。暴力団が債務者の目ぼしい財産を実力で押えることが多い。お兄さん方も公正証書に対してはそれなりの仁義を切ってくるのだ。
そこへ駒込直美が息せき切って返って来た。矢野が公正証書を受け取りながら「よくやった」と言って高島に見せる。「早速空便で名古屋支店に送ります」と高島は文書課長に頭を下げて帰ってゆく、すぐ債権部長から総務部長に感謝の電話が入る。名古屋支店長と総務課長からも文書課長に感謝の電話が入った。文書課長も公証役場に電話を入れ深々と頭を下げた。

その日の駒込直美の業務日誌には次のようにつづられていた。「業務は考えるよりも行動することが大事だと知りました。何故そうするのかはあとで考えればいいことですし、また自分なりの答を出して正しいかどうかを自分で採点してゆくところが学校と違うところだと思いました。新人の私を一人前に扱ってくれた会社に感謝しています」

温泉巡り和子子創り

一方、矢野の方はKKM問題をどう解決するかに腐心していた。しかしこういう悩みは願ってもやってくるものではない。やはり縁であろう。和子、京子、そしてモニカとは結ばれる定めであったに違いない。矢野自身女が嫌いな方ではないがもてるとは思っていない。不思議なことに女が欲しいと思うときは女が逃げてゆく。仕事に追われているときに女が近づいてくる。
当面の課題は名古屋、四国、ハンブルグへの移動を可能にすることである。当事者である4人が1っか所に集まれば移動しなくて済むが現実性は0に近い。となれば先に妊娠した方と結婚し子が生まれたら離婚してもう一方と結婚する。同じくこが生まれたら離婚する。この両親ははっきりしている。重婚にも当たらない。さらにモニカとの結婚があるがそれはその時のこととする。


矢野は胃潰瘍を理由に3日間の休暇を取った。香川京子が妊娠した言ってきたのだ。軽井沢のペンションで落ち合う。「もう三月生理がないので病院に行ってきたの」「男か女か」「もうじきわかるわ」「ならこれに署名しろ」婚姻届を広げる。「でもいいの。あなた」「心配するな、こどもが生まれたら離婚してやる」「どうして」「未婚の子では可哀想だろう」京子が笑う。「どうして離婚なの」

矢野は京子が教職を続けるには香川京子の籍に矢野が入り、離婚すれば対外的には気づかれないと説明する。「じゃあ私が教職を辞めたら」「そのままでいい」婚姻によって新たな戸籍がつくられる。今は二人とも親の戸籍にあるから生まれてくる子は入るべき籍がない。二人の戸籍をつくっておけば生まれた子は二人の子として入籍される。ということを京子に説明した。「私が貴男の籍に入るのは」「同じことだ。ただし香川姓は名乗れない」

しばらく京子は考え込んだ。「どちらの姓を名乗るかは明日決めることにしてともかく署名しろ」「はいわかりました」と京子は署名した。「これからふたりだけの結婚式だ」「うれしいわ」「では踊っていただけますか奥様」
矢野が京子の手を取る。京子は矢野の肩に顔を乗せて幸せをかみしめる。おなかに二人の子がいる。生まれてきたら家を建て一緒に暮らすの。『黄昏の灯はほのかにともりて穂高は茜よ 暮れゆくは白馬岳か。暮れゆけば浅間もみえず 歌かなし 佐久の草笛』「あのね私今、貴方がすごく欲しいの」「お腹の子に障るだろう」「これから過度のセックスはいけないんだって」「では静かに上品に致すか」「あい 我が殿 愛してたもれ」「それとな、子が生まれるまでは俺と一緒に暮らしてくれ」「生まれたら離婚」「お前次第。郷里に帰るか新天地でお前の才能を花開かすか。教師だけが職業であるまい。外語学校でも外資会社でも」

香川京子は初産と言うこともあって郷里で産むことにした。となると次は谷和子だ。年休、代休をつかいまくって名古屋にいつく。もう会社などどうでもいいのだがこれから金はいくらでも必要だ。新しい仕事に就くまで会社を利用しない手はない。それよりも時間がない。

次は和子だ。子創りお産にいい温泉を巡る。「こんなにお湯につかったらどびてしまうわ」和子はあきれ顔で言った。「可愛い女の子を授かるまで頑張るのだ。家買ってやるから」「私と結婚するの」「結婚する」子が生まれたら離婚するとは言えなかった。「ともかくな頑張るのだ」「もう私くたくた」矢野は預金を全額引き出して温泉巡りに精励した。想いは天に通じたのか和子が身ごもった。矢野の態度は急にやさしくなる。「そない気つかわんでもええよ」「別に気つかってない」「ならええけど。会社ええの」「別の仕事さがす」「ほうな無理せんで」「こぎれいな家買ってやる、女の子を生むのだぞ」「わかった」和子のこういうところがたまらなく可愛い。

さてその次はモニカである。商社に勤める大学の同級生に頼んで電話の専用線(本社、工場、海外支店間を結ぶ借り切りの電話回線)を使わしてもらう。ブリュッセルからハンブルグの料金だけで済む。東京ブリュッセル間はキセルすることになる。商社は24時間勤務であるから真夜中にハンブルグに電話する。現地は夕方「まあタケシ」モニカの懐かしい声。「俺たちの子はできたか」同級生が驚く。「ええ、もう三月末。予定日は来年の初め、一月七日」「でかした。毎日だいたいこの時間に電話するから」「うれしい」「卒業したら日本に来い。案内してやる」「行く行く」「結婚は日本でするか」「日本でもいい」「どっちがいいのだ」「どっちでもいい」「まあお母さんとよく相談しておけ」「わかりました」「ではまた電話する」
同級生が「込入っているようだな」と言った。「また電話させてくれ。今度は寿司奢るから」「ならこれから行こう」東京は深夜にやっている店がある。商社の社員は常連なのであろう。商社はニューヨーク、ブリュッセルと専用線で結んでいる。ブリュッセルの事務所につなぎハンブルグの電話番号をダイヤルすればいい。東京ブリュッセル間はいわばキセルだ。もっとも専用線は定期と似て使っても使わなくても定額だ。なにしろ商社の通信費は年間57億、商社マンは一人で3回線を使う。ブリュッセルーハンブルグ間の通話料など塵みたいなものである。しかし矢野とっては高額である。

寿司屋には同期の同期つまり彼の同僚もいた。「こいつも婚姻届の保証人だ。依存あるまい」「ござりませぬ。ささめされよ」同期は生ビールを一飲みして「詳しく話してもらおうか」とすごむ。「されば武士の情け、他言無用に願いたい」「心得た、有体に申せ」矢野は和子、京子との関係を匿名で語った。「すると子が生まれると離婚して別の女との婚姻届を、しかも我々の保証で」「それはそれ窮地にあらば猟師も撃たず」「お前が窮鳥か。自分から飛び込んでおいて。しらけ鳥何んと鳴く」「それはそのとおりであるがまさかの友は真の友」二人は生ビールを追加する。握りずしを頬張りながら「ほかには」と追及を緩めない。
矢野は観念する。相手は世界の戦場を駆け巡る商社マンだ。「そのまさかとはハンブルグの乙女ですか」と同期の同僚。「恥ずかしながら」「乙女であったのを、お前が女にしたのだな」「そのように認識いたしております」二人は顔を見合わせて「今の話を総合してみると第3、4弾の蓋然性は非常に高い。これは寿司屋ではすまされまい」「5億程の商談を持ってきてもらいたいな」「5億?」「商社のマージンは1%が相場、数をこなさないとやっていけない」
矢野は同級生の顔をみつめる。学生時代は鷹揚なかであったが今は戦場を飛び回る戦士の顔だ。矢野のようにメーカーに勤める者は外部との接触は少ない。この二人は常に戦地にある企業戦士なのだ。「この恩義に報いるべく必ずやご期待に応えよう」「よくぞ申した」

矢野は新しい仕事探していることも話した。「こんないい会社を辞めるのか」「仕事は面白いし働く環境は申し分ないが馬鹿な上司に仕える気はない」「それはいずこも同じだろう」「会社と雇用契約を結んだのだから会社に忠誠を尽くすのは当然だがバカ殿に胡麻をすることはできない」「それはお前が社長になるまでなくならないぞ」「だろうな。今国際的問題を抱えているから金が必要なのだ。年に1度はハンブルグに飛ばなくてはならない」「いっそ商社はどうだ」「子づくりに励めないだろう。子は多いほどいい」「種を蒔いて育てるか。多角農業だな」「しかしロマンがあるじゃないですか。我々も応援しますよ」「ありがとうございます。今はご厚情に甘えさせていただきます」「なんのなんの、今日の酒は美味い。人生すてたものじゃないと思いましたよ、なあ磯松」「そうだな」

転職再就職

矢野は身辺整理を始める。許認可申請届のマニュアル作成を駒込直美に命じる。「これからは自分でやってゆくのだ。これが最後の業務命令だ、これを全支店の総務課に送れ」それは原稿についての意見感想を問い合わすものだ。矢野は工場実習を通じ自分の考えが使い物になるか周りに聴いてきた。まず会社の前線、営業サービスに他部門の意見である。部門が違うと受け取り方考え方も違う。この違いをどのように埋めてゆくか、あるいは発想を転換するかとやってきた。これが矢野を大きく育てたのだ。
矢野を惜しむ人間は少なくなかった。とくに社長、組合委員長、安倍技師長が下村に「惜しい人材を」と言ったと聞きうれしかった。しかし国際的問題を抱える矢野にとっては過去のことになろうとしていた。辞表を課長に提出すると驚いた顔をしたが予期していたようでもあった。辞表が受理されると世話になった人にあいさつして回った。下村は驚いた顔をして「残念だなあ。君を僕の片腕とも思っていたのに」「過分なるお言葉。不束者をここまで育てていただきながらご恩に報いることもできずただただ申し訳なく思っております」と言って一礼した。矢野の行動は瞬く間に社内に拡がる。
四国支店長は親会社の常務に昇格していた。「君の活躍は聞いていたよ。役不足だったかな。もっと大きな舞台が待っているのじゃないかな」「お世話になりながら任務を全うすることができず申し訳ございません」「君はよくやった。何かあったら相談してくれたまえ」「有難うございます」と電話口で頭を下げた。
名古屋の支店長、工場長、総務課長、岡本も別れを惜しんでくれた。同期の連中にも挨拶したかったのだが彼らはわかってくれるであろうと電話しなかった。工場の顔見知りも浮かんできたが振り払うように席を立つ。

会社の出口でミスオールドに呼び止められる。「六時に栄寿司に来て。女子社員だけで矢野さんの送別会をやるから。遅れないでよ」相変わらず売れ残りの女は一方的である。まあ彼女たちをこき使ったから顔を出すか。矢野は通いなれた通勤道路を避けてデパートの屋上から東京の街を見下ろした。この巨大都市に世界の富が集まってきている気がした。このままの成長をつづけるなら世界は日本経済にひれ伏すのではないかと思われた。事実バブルがはじけるまで日出る国、経済大国ともてはやされたのだ。
これから不動産と行政書士を目指して職を探すことにした。社内教育の一環として国家資格をとることが推奨され、矢野もお付き合いで宅建主任者と行政書士の資格を取得したものだ。明日は不動産会社の面接を受ける。これからの行く末を考えていたがサラーマンの習性で時計を見る。六時に栄寿司に着くよう移動を始める。
店には総務の女子社員が15人待っていた。私服に着替えると女に見えるから不思議だ。「私たちね、矢野さんが本社に来た時は頭に来てたのよ」「そうよ。私たちをバカにしてたでしょ」「そんなことはない。眼中になかっただけだ」「それよ、最後の最後まで」「数々のご無礼の段ご容赦くださいと言えばいいのか」「そう言ったら矢野さんらしくないわ。頭に来てたけどいなくなると思うとさびしくなってきたわけ。でお別れの席を設けたの」「北野タケシか矢野健」「なによそれ」「何でもグサーっていうじゃない」「言えてる言えてる」「まあともかく乾杯」

女の話には文脈がない。あっちとびこっちとび。三つ四つの話が同時進行する。「でね、下村専務の娘さん菌かウィルスが脊髄に入ったらしい」「あの人子会社に出向させられて自殺を図った」「そうそう」「普通菌が脊髄に入る」「でも会社に居られなくなった人多いわね」「このままにしておくものかと言ったそうよ」「でもさ矢野さんぐらいじゃない男も女も仕事本位」「だからちやほやしない」「工場の総務に訊いたのだけど矢野さんに泣かされた子ほど懐かしがっていたそうよ」「でねある男が専務の娘に近づいてものにしたらしいの」「火曜サスペンス」「工場は仕事本位みたいとだからそのこの昇給も私たちよりずっと上」「殺してやりたいと思ってもおかしくないわね」「今度の平取り」「天下りね」「三鷹と名古屋に土地家持って」「あれに飛ばされた人も多いね」

握り寿司の盛り合わせがきた。5人前が三つ。「さあ飲んで食うてといきましょ」「酔ってトラにならないで」「経理のあの人建設資金を追いかけた」「飲み食いは業者を呼び出して払わせる」「その彼氏医学の知識があったのね」「国立病院も首をかしげて」「どうやって金を浮かしたか暴露すると息巻いた」「下村常務に泣きついた」「経理のエースも取締になれなかったでしょ」「二人で泊りがけの小旅行」「仕事本意の人は気持ちいいけど本社では変わってゆくわね」「所詮はサラリーマン」「その痛みは強度のストレスからきている、精神的なものだとの診断だったの」「休まず遅れず事勿れになってしまうのね」「建設省も宮内省にも手を回してもみ消しを図った」


矢野がこの脈絡のない送別会の話を整理すると
1下村当時常務の娘の脊髄に菌が入ったのは何者かが脊髄に菌を注入した。何者かは常務に強い恨みを持つ者でその針先が本人でなく娘に向けられた。
2建設省の天下り取締役(当時は部長)は工場建設に際し業者から賄賂として名古屋東京仙台に土地を取得した。名古屋支店工場、都内工場の移転統合と多額の金が動いたが原価計算からその分が上乗せされリベートとして平取締役に流れた。さらに下村常務にも。東京工場の跡地35万坪は住宅公団に売却。こちらは建設省に解体業者、建設業からそれなりのリベートが流れたのであろう。
3皇太子の工場視察は彼らにとっては絶好の機会であったが、視察そのものも誰かのシナリオであったのかも知れない。隣接地の買収が相場をはるかに上回るものであったことも傍証となろう。

矢野が驚いたのは日頃気にもかけなかった女子社員が事の本質を見抜いているということだ。矢野は谷和子、香川京子に夢中であったからか、無関心であったか。俺は会社を食い物する連中にかしづくことはできないと思った。

女子社員の送別会は盛り上がりを見せる。金銭感覚はしっかりしているのに何故だ。「私酔っちゃおうかしら」と駒込直美が言った。「そうだよ、流した涙だけ矢野さんの愛情が今になってわかった?」「ずいぶんしごかれたわね。今日でお別れもう会えない」と口々にはやし立てる。「私を奪って、今夜は帰さないって言いなさいよ」直美が立ち上がって「私を奪ってください」と言った、きゃあー、かっこいい。「次は酔ったら介抱してね、だよ」「酔ったらホテルで介抱してください。今夜は帰しません」「その調子」「そこで私酔ったのかしらと肩にもたれる」駒込直美が「私酔ったのかしら」と頭を矢野の肩に載せる。「もっと色っぽく、観てなさい、こうよ。矢野さんわたし、酔うたかしら」「夜鷹か三鷹か」「ひどいわ」「私が模範演技するね」と次次に迫る。「私、酔ったかしら」と胸に顔を埋める。「まあまあね、愛染かずら」「カサブランカで行きなさいよ」

矢野が電話の呼び出しを受ける。商社の磯松に転職先を頼んでおいたのだ。「あら帰るの、ドイツの話聞かせて」「今日は本当に有難う。うれしかったよ」と矢野が礼を言った。「いやです、帰らないでください」と駒込直美が半分本気で言った。「お前は歯を磨いて寝ろ。俺のあとのこと頼んだぞ」「わかっています」


不動産会社面接

矢野は香川姓を名乗っていた。戸籍も住民票も香川健に変えたから当然である。しかし慣れるには時間がかかる。商社の磯松が不動産会社に口を聞いてくれたのだ。商社は接待だけでなく土地家マンションの世話もしている。営業上のサービスであるが駐在員は海外赴任の際カルフォルニアで土地を買って帰国の前に売り払うのもいたらしい。
浪慢商事は有楽町のオフィスビルに小さな事務所を構えていた。向かいには三菱本社がある。東京駅にも近い。社長の島崎は早稲田の政経卒で不動産屋には見えない。40過ぎのいい男だ。「香川さんは宅建をお持ちだから月10万円でどうでしょう。あとは香川さん次第ですね」「宅建合格といっても実務経験はありませんが」「近々人を増やそうと思ってますからそのときは彼らにも資格をとってもらいますよ。歩合制は成約額の1割」「気前がいいですね」「成約額はうちの取り分ですよ」宅建業者の報酬は契約金額の3%が上限と決められている。1億の売買なら報酬は300万円が上限、歩合制はその1割30万だ。まあいい条件だろう。
土地の急騰は狂乱物価を招き譲渡税が転売益の48%に改正された頃だ。「土地の売買原因はなんでしょうかね」「金が要るから土地を売るのでしょう」「では金が必要でない地主は」「その気にさせることですね」「あげてよかったと」「ええ、どうせ(処女を)失うならこの人に」「それは言えますね。その道にも」「いえ(色の道は遠く奥が深い)未熟者です」

島崎は珈琲を入れながら言った。「先祖伝来の土地を手放すわけにはいかないという地主がいたら香川さんはどう話を持っていきますか」いよいよ本番に入ったな香川健は思った。一呼吸おいて答えた。「ご先祖はどのようなお気持ちで買われたのでしょうか」「これは参った。ご経験がおありのようですね」と島崎が唸った。

そこへ従業員らしき男が出社してきた。「上手くいったようだな」「はい、西の方は。これが契約書と仲介料です」島崎は札束を数えると1割を抜き取り歩合として手渡す。残りを金庫にしまう。「これから杉並にゆきます」「だいぶ苦戦しているようだな」「でも話を聞いてくれるようになりました。じっくり攻めてみます」「香川さん勉強がてらにいってみますか」「黙って聴くだけなら」「今日からうちで働いてもらうことになった香川さんだ。よろしくな」30位の男は愛想よくうなずくと「では参りましょうか」と香川に言った。
この会社は無駄口がないと香川は思った。物件は杉並区の住宅地、住居は戦前の建物と思われた。元大学教授と思われる老人が一人住まいしていた。近くの長男夫婦が世話しているようだ。「谷村さんお仕事とはいえ、年寄りの繰り言を聴いている暇はないでしょう」と老元教授。「いえ先生のお話は人生の先輩として聞かせていただいております」と谷村はやんわりと応じる。

半時間位話を聞いているところに嫁がやってきた。谷村は「では先生、また寄せていただきます」と縁側を立つ。不動産屋のしつこさがない。老人宅を出ると「谷村さん、登記簿謄本みせていただけますか」と香川が言った。谷村はバッグから取り出すと無造作に手渡す。香川は所有者欄を見て「所有者の戸籍謄本はございますか」とさらに尋ねる。「ないけど、どうして」「個人的興味です。区役所はどこですか」と言うと谷村は少し変な顔をしたが案内してくれた。
所有者西本老人の住民票をあげる。申請書代理人に西本昇 続柄長男と記載して捺印した。次は戸籍謄本だ。同様にして原戸籍をあげる。この間谷村は何も言わなかった。「私は他に約束があるから香川さんは先に帰ってください」と谷村は去ってゆく。無駄のない人間は香川の好みだ。

浪慢商事に帰ると中年の女がいた。「うちの奥さん。こちらが香川さん」と島崎が紹介する。「初めまして香川です」「まあ磯松さんの同級生ですってね、よろしく」「よろしくお願いします」磯松が概略を話しているようだ。「どうでしたか」「勉強になりました。これコピーしていいですか」と住民票と戸籍簿謄本を島崎に見せるとほうと言う顔をした。コピーに蛍光ペンでマークしてゆく。島崎夫婦は珍しそうにみていた。相続関係図ができあがると概要が見えてきた。
給食弁当が配達されると早めの昼食となった。世間の昼休み時間は不動産屋にはゴールデンタイムなのだ。「しかし香川さんも思い切ってお辞めになりましたわね」「余計なことを言うな。人には触れられたくないことがあるものだ」「そうでした、ごめんなさいね」奥さんは明るい性格で気さくな感じだが女の好奇心は抑えられないようだ。

昼食後香川は出張報告書をまとめた。「社長、買い手の目的は何でしょうか」「老人ホームをつくると聞いていますが」「ということは最低でも500坪は欲しいということでしょうか」「そうでしょう、隣の土地が全部で600坪西本さんのが100坪だったでしょうか」「西本さんの土地が手に入れば着工する段階でしょうか」「まあそんなところですね」「土地の形状は分かりませんが50×50位ですか」「でしょうね。公図はどこだったかな」
1物件概要
 所 在 杉並区上高井戸
 地 目 宅地
 地 積 350.88㎡
 所有者 西本 元
 建 物 木造平家建 築推定60年 
2相続関係
相続人 妻 没 長男 西本 昇 長女 山本節子 次男 西本 隆
開 始 被相続人西本元の年齢から20年以内と思われる。
3売却可能性
 所有者西本元氏は今すぐ土地を売却する必要はないと思われるが、 次の点から近い将来売却の必要が生じてくると推察される。
 3.1長男との同居
   西本氏は昨年妻を亡くし一人暮らしであるが、年齢から長男と   の同居することになると思われる。長男宅は手狭で増改築もし   くは代替地に新築する必要があると推察できる。
 3.2相続対策
   常識的に長男昇氏が相続すると考えられるが、他の相続人の相   続分の分配等から現有地を換金する必要が生じよう。
 3.3土地利用処分
   隣接地に老人ホームが建設されると眺望、環境面で当該地の    価値の下落は避けられない上、住居地としての処分売却も困難   となろう。 
以上のことから西本元のと土地および西本昇の土地を売却させ代替地に同居させるのが上策で交渉相手は長男昇氏にすべきと思慮する。

 島崎は出張報告書を読んで感心した。「この物件は香川さんに担当してもらおうかな」「とんでもない、評論はできても実践はできません」「でも参考になりますよ。我々は経験だけでやってきていますから」島崎は、不動産屋は口目耳は達者だが書き留めることは苦手だ、このように記録しておけば後日の為になるだけでなく問題点が浮かび上がってくると思った。彼はそれなりの業務日誌を書いているが外を飛び回っている従業員にそれを求めるのは酷だと思っていた。

そこへ谷村が帰って来た。「契約日は明後日になりました」「そう、谷村さんすごいね」「やはり大安吉日に拘るようです」「10億の物件となればこだわるでしょう」「物件説明書には判をもらってきました。契約費は著名するだけになっています。印紙は双方で消印するということです」「印紙代も大変ですね」二人は上機嫌だ。「お茶、珈琲?」「お茶下さい。奥さん。緊張した時はお茶ですね」「今日は前祝ですね」「谷村さん一服したらこれ読んでみて」

谷村は食い入るように出張報告書を読んだ。「いやあ恐れ入りました」「でしょう」「将を射んとすればですね。同居用の代替地がカギになりそうですね。それと戸籍簿はどうやって入手するのですか」「それは香川さんに」「行政書士に依頼すれば取ってくれます」「そうか、香川さんは行政書士の資格を持ってられるとか」「登録してのことです」「なら登録したら」「金なしコネなしですから」「ここを使ったらいいですよ」「有難うございます」

香川健はすぐにも登録したいと思ったが明言はしなかった。その日は前祝と歓迎会となった。島崎が「これはみんなの参考になると思うので聞いてください」と報告書を読み上げた。「なるほどねえ、でもどうやって相続人を説得する」「そう思うだろ」「行政書士さんに頼むそうだ。この香川さんはその資格をお持ちだからここで事務所を開いていただく」「それはいいですね。我々は時間をもっと有効に使える」それからいろんな意見が出てきた。「俺、この物件やってみたいな、谷村さん」「人の客を取るなよ」「冗談冗談」

行きつけの寿司屋で歓迎会と土地取引の前祝が始まる。「でも考えさせられますね、10年以上不動産をやってますがあんな風に考えたことはなかった」「俺もだよ」「香川さん恐れ入りましてござります」「私は湯だけの風呂屋と言われています」「湯うだけね、でもいい湯だな」「どんな医者でも草津の湯でも恋の病は治らぬとか」「おや、いいこと言うねえ学のある人は」

だいぶ盛り上がってきた。「出しゃばらず引っ込まず、いい男だねえ」「まま奥さま一献。過分なるお言葉を」「いやだ、奥様だなんて、背中がかゆくなってきたわ」「お掻きしましょうか、どの辺りでしょうか」「やるねえ女何人泣かしたの」

翌日島崎社長は事務所の一角を仕切ってくれた。なかには机椅子キャビネットまで配置されている。入口の横に香川行政書士事務所とタイプ打ちした紙を貼る。香川健はどうしてこれ程と思った。島崎は磯松の依頼を受け密かに香川健を調べていたのだ。そして「PHは。普通です」の話を聞いてこれは買い(採用)だと判断したのだった。
香川健は東京都行政書士会登録を申請した。「書類はこれで結構です。先生の事務所を見せて頂いてから日本行政書士連合会に申請一式を送りますので登録はまあ半月くらい先になるでしょう」と事務局長が説明してくれた。「それまで何を勉強したいいでしょうか」「新人研修会に参加されたらいいでしょう。先生は何をご専門にされますか」先生と呼ばれるといよいよ行政書士になると思う。「右も左もわかりませんので」「時間がありましたらここの資料をご覧なっては、参考になると思いますよ」

事務局長は書架に案内する。「何かありましたら声を掛けてください」と席に戻る。香川健は書架の法令規則集参考書を眺めると行政書士の業務内容が想像できた。しばらくして「先生お茶をどうぞ」と職員が声かけてきた。「先生とは俺のことか」と健は思った。「先生はお若いのに開業なさるので?どちらかの先生の所で勉強されておられると思っていましたよ」と事務局長が茶をすすめる。「何もわからず登録申請しましたが今になってやってゆけるかと」「大丈夫ですよ、東京単位会の会長が全業連の会長もなさってますから応援してくれるでしょう」香川健の直向きさに事務局長は好感を持ったようだ。「この行政書士マニュアルは分かりやすいですよ、お持ちください」とパンフレットを渡した。

健は行政書士登録を島崎に報告した。「半月ぐらいすぐですよ。電話はブランチ親子で我慢してください」「何から何まで恩に着ます」「私も創業時代は苦労しました。早く出世払いしてください」島崎の好意がありがたかった。それから1週間行書士関連法規、業務を徹底的に研究した。とくに目を引いたのが東京および全国の業務別報酬額であった。アンケート調査の信頼性はあるにしても額のバラつきは香川健を驚かした。東京単位会では年収100万未満43%、1億以上0.01%最多は300ないし500万であった。多くの行政書士はやっとこ食っている感じだ。
登録されたとの連絡で書士会に赴く。職員から会員証、規則集等を手渡される。「先生、会長さんと事務局長さんが持ち回りしてくれたようですよ」「そうでしたか」「奥におられますから挨拶されては」奥に通される。「香川です、この度は格別の御配慮を賜り厚く御礼申し上げます」「この業界も高齢化が進んでましてね、香川先生(宅建と行政書士と兼業となる)のようなお若い方に活躍していただきたいと思っているのですよ」と会長がにっこり笑った。「いろいろありがとうございます。今後ともご指導くださいますようお願い申し上げます」
香川健は前の会社に就職するとき教授と支店長の力添えがあったが今回もこの二人の存在が大きかったと改めて思った。浪漫建設に帰ると島崎に「これを架けらせていただきます」と登録証を見せた。「先生おめでとうございます」「社長、冷やかさないで下さいよ」「今日から香川さんは行政書士の先生だ」

行政書士デビュー

数日後香川は土建屋の社長に会っていた。浪漫建設の取引先らしい。島崎に話だけでも聞いてほしいと頼まれたのだ。建設工事に伴う廃材を元請から持ち帰るように言われた下請は許可品目にないものが含まれていたので孫請に押し付けたのである。この土建屋はこの違反で初めてとった東京都の工事の取消されるのをを心配しているのだ。
「下請業者が元請の廃棄物を収集運搬すれば違法です。しかし、死ぬの生きるのと騒ぐほどのことではありません。これを公害課にだしてください。あとはこちらで料理します。都の発注窓口はどこですか」「建設課です」「それなら心配ありません。まかせてください」土建屋ほっとしたが「先生指名停止になりませんか」と聞いてくる。「建設課は自分の首は締めませんよ」「そうですか、公害課はどうしたらよろしいか」「ごめんなさい、私がいたりませんでした。これからは気を付けますと言ってください」土建屋は島崎の顔を見て「先生何分よろしく」と頭を下げた。「ご心配なく、今日明日にかたをつけますから」土建屋の取集運搬品目を追加すれば済むことだが無許可品目の運搬の違反は違反、素直に謝る。都も悔い改め是正しようとする者にきつい処分はすまい。

東京都庁に向かう香川は3年前にここに来ている。当時の会社の建設業許可の更新であった。建設業が届から許可制に改正された翌年のことであった。建設業と言えば土木建築と思うがその種類は30種近くある。電気、通信、火災報知、機械等の設備工事据付なども建設業に該当する。
駒込直美が香川健(矢野)の部下として配属されてきた時、「当社はどうして建設業者なのですか」と質問した。「気にしなくていい、知っている者は1割もいない」「どうしてですか」「めったに問題にならない」「でも」「知りたいか」
健はこいつ見どころがあるなと思った。「あのビルの屋上にある機械だ」駒込直美はじっと遠くを見据える。その横顔は5年前の香川京子に似ていた。直美は美人ではないが、鬼も18番茶も出花といった匂うような色気がある。「あの機械の据え付けは簡単ではない」直美は黙ってうなづく。

香川健が都庁の階段で「矢野さん」 と声を掛けられたが気付かなかった。公害課との戦闘準備に入っていたからだ。腕を引かれて駒込直美に気づく。「許可更新か」「はい」もう3年経ったのか。建設課の受付を待つ人が廊下を2重3重に取り巻く様に長蛇の列をつくっていた。距離にして数百mになろう。「待っててくださいね」と直美は受付係に向かう。「機械器具据付です」と落ち着いた声で告げる。健は3年前の自分を見ている気がした。「許可更新なりましたらご連絡しますので取りに来てください」職員は申請書控えに受付印を押した。

直美は受付印を健に見せてにっこり笑った。健は目で応え公害課に向かった。ここも順番待ちが並んでいた。香川は構わず公害課の奥に進む。職員の配置図は頭に入れてある。課長席の前にたって「天竜組の代理人です」と周りに聞こえるように言った。あわてて係長が立ち上がる。「ああ違法業者の」香川健はさえぎるように「違法業者とは誰を指すのか」と怒鳴った。
勝負は最初の一撃で決まる。「あなたは」「すでに名乗った。質問に答えていただこう」「ですから違法な収集運搬を行った業者です」「質問の答えになっていない」「天龍組です」「ほう、天竜組は違法業者であると言われるか。あなたは公衆の面前でそう言った。これは名誉棄損に当たりますなたとえ事実であったとしても」「まあおかけください」係長は応接セットに香川をすすめる。香川は長いソファーの中央に腰を下ろすと駒込直美に座れと合図した。「あなたは」「係長の浜です」「私は天竜組の依頼を受けて許可の変更に上がりました」と名刺を差し出す。 
浜は名刺を見つめながら「代書屋さんですか」と言った。「浜さんはいつの生まれですか、明治時代5年に公布された大証人代言人代書人令は廃止されていますが」「失礼しました。行政書士さんでした」「ところで天龍組の違法性について説明願いたい」「浜さん奥で窺ったら」と課長が席を変えるようにと言った。

課長以上の管理職は実務には手を出さない。別室に通されると茶が出てきた。課長も加わっての話し合いとなった。「元請は大鹿、天龍は孫請けですか」「そうです」「下請が100として孫は数百、天龍は狙い撃ちされた」「筋が悪いので」と浜は汗を拭く。「筋がいいのはいないでしょう。取集運搬の許可品目を追加していただけるなら天龍を大人しくさせますよ」「どうやって」「それは企業秘密です。私もこれから行政と仲良くしないと食ってゆけませんから和議を結びたい」
課長が浜を見遣る。「品目を追加すれば違法性はなくなります」「戦争は労多くして成果は少ない」「はあ」「今度の戦争で亡くなった方々への慰霊碑に刻まれていました」香川健は「いつ追加していただけるかご返事いただきたい」とすごむ。課長が「できるだけ早くしてあげなさい。先生も行政の顔を立ててくれているのだから」と命じた。「私は産廃処理業、中でも中間処理最終処分を手掛けたいと思っています」と香川健が課長に言った。「でも都内では大変でしょう」「排出量が多いですから処分の需要はあるでしょう。我々に処理業の取得依頼もあるかと。中間処理、その前に再利用リサイクル技術が進歩すれば最終処分はなくなるでしょうが、それまでは埋立か海洋投棄で誤魔化すしかないでしょう」課長も係長も香川健を測りかねていた。「再利用リサイクルしないから廃棄物となるのです。江戸には廃棄物は無かったようですね。明治以降の大量生産が大量廃棄物を産み出しました。廃棄物を出さない製品づくりは企業、政治の責務ですが廃棄物処理コストが削減できますから採算面でもペイするのではないかと思います。それまでは行政も優良な処分場が欲しいのではありませんか」
こちらのペースになったとつづける。「経済成長も大切ですが自然破壊は取り返しがつきません。せめてここで自然破壊の拡大を防ぎたいのです」「先生は最終処分場をやられたのですか」「四国のある島で産廃処分が海を汚染し、生き物を殺しました。日本経済は産廃処理のつけで発展したのですな。国政の貧困を革新都政が矯正してくれるものと期待しています」「行政は後手を踏みがちだから」「それは政治、立法が先でしょう。骨のある政治家が欲しいですね。国民は政治と行政を混同しています」二人はほっとした顔になる「我々も行政の裁量権の範囲で都民のために努力しています」「その点は先輩行政書士から伺っております。我々は今後とも行政と協調して参りたいと思いますのでお手柔らかにお願いします」二人はほっとした表情を浮かべる。「それはこちらのセリフですよ。先生」

駒込直美

都庁を出ると問題は解決したので昼飯を食って帰ると島崎社長に電話を入れる。「先生、都の発注は(取り消されませんか)?」感のいい娘だ。「公害課から建設課に連絡がいくだろう。運搬品目を追加すれば足りる」「建設課に挨拶しなくてもいいのですか」香川はそれには答えず直美に「昼おごってやるから俺のことは秘密にしろ」「じゃあ鰻がいいな、でもステーキもいいかな」「早く好きな方にしろ」「じゃあステーキ」「うまいところあるか、案内しろ」「高いですよ」「美味ければいい」考えてみれば有楽町と丸の内は隣だ、東京駅が一番近い。直美は銀座方面に歩いてゆく。「銀座4丁目は水の上、金座1っ丁目は橋の下」「なんですかそれ」「いいから早くしろ腹減った」

こぎれいなステーキハウスにいると直美はうれしそうに笑った。注文すると「お肉の焼き方は」という。「こんがりと焼いてくれ」「こちらさまは」「レア」「肉の生焼きは恐いぞ」「当店の肉は大丈夫でございます」「大丈夫でなかったら火をかけるぞ。それからワインだ」「どれがよろしいですか」「注文の肉に合ったワインを持ってこい」「では、まかせてください。店の奢りです」「苦しゅうない」
駒込直美が窓の下の道行く人を見遣る。「ドイツはどうでした」「えかった」「何が一番」「いっぱいあったからな、牛、ハムソーセージもうたまらん」「そんなに美味しかった」「いたるところで牛が草を食んでいる。お前は何になるのか、ハムか、ソーセージか、それともステーキか」ワインがグラスできた。「これはおごりでございます。よろしかったらボトルで(を注文してください)」「少しひつこいな、赤ワイン持ってこい、店のおごりで」「かしこまりました」ここで牛の話に戻る。「でよ、もう」と返事してきた

直美が声を立てて笑った。「モウですか」「モウだ」「ポタージュスープでございます」「ワインのお代わり」「これからは有料です」「固いこと言うな、ボトル注文してやる」「本当ですか」ウエイトレスはおごりの追加と氷水につけたワインを運んでくる。「もういいかい」「まあだだよ」「じゃあスープでも飲んでいるか」「お客様、美味しいものには時間がかかります。このハムは私の奢りです」「そうかい、では遠慮なく」まだ客の少ない店内ではおかしさをこらえた笑いが広がる。「これはレアでございます」「俺のはまだか」「今しばらくお待ちください」「その生焼き少しくれ」「いいですよ」「いけるな、もう少しくれ」「半分上げますから、半分返してくださいね」「うーん、生煮えはおっかないがけっこういけるな」「レアが一番って言います」「誰が言った」「誰がって」「通の方はそう言いますね」「すると何かい、姉ちゃん、俺は通じゃないと言うのだな」「そんなことは」「気取るんじゃないよ、まったく」「お待たせしました、お客様のこんがりステーキでございます」「ほらよ、半分返してやる。バターも利息に半分付けてやる」「美味しい、いけますね」「ステーキは外の固さと中の柔らかさが得も言われぬハーモニーをかもしだす。ソースの味も相俟って極上の味覚を創りだす寸法だ」「料理と音楽は似ているのですか」「乙女は単純な旋律を好む。熟女は濃厚なハーモニーを好む。

香川がワインを空ける。こんどは男がやってきてボトルを開ける。店の奢り分の回収。「ボウルドーでございます。お味の方は」「美味い、牛もいいがソースが絶品だな」「私が焼きました。ワインと合うかと」「なるほど、白いバラ 赤いワインの ハーモニー」「お客さま それいただきます」と男はマジックインクでテーブルクロスに鮮やかに書き上げる。「まあ人生で幸せは美味いものを食うことだな」「なかなかの詩人ですね」


ドイツの話に夢中になり店を出たのは2時過ぎであった。「いいか俺と合ったこと内緒だぞ」「わかっています、ステーキで買収されましたから」と二人は別れた。香川がいい気分で事務所に帰ると「お客さんですよ」と奥さんが笑っている。駒込直美がいた。「おまえどうして」「時間がありますから何かお手伝いしましょうか」「部屋の掃除でもしろ」「はあい」

島崎が目配せする。「天竜さんがお礼したいそうです」「私は浪漫建設の下請ですから」「最終処分場をやってもらいたいそうです」「いくらですか」「3千万」「着手1、申請書提出1、許可時1なら」「今夜あたりいいですか」「仕事をくれるなら、それと天竜の払いは」「私が保証しますよ」「ならば有難いことです」「都でだいぶ啖呵切ったそうですね」もう島崎の耳に、だがどうやって。「気の弱いので思うところの半分も話せません」「まあゆっくり聞かせていただきましょう」

奥さんの声がする。「香川さんお嬢さんが帰るそうですよ」「これから会社によって帰ります」「お前どうしてここを」「ふふ名刺」公害課長に出した名刺を憶えていたのか。「こんなにきれいに掃除してくれて今時見られない娘さんだよ」「そうかご苦労さん」「では失礼します」

駒込直美が帰ると「いい娘さんじゃない」と奥さんが冷やかす。「ステーキご馳走になったって」女に秘密は守れるか。これは強固な口封じを要するなと健は思った。別に秘密と言うほどではないが元の職場には知られたくないと思うのだ。とくに下村以下の下卑た連中には。

谷村が帰って来た。「香川さん、西本昇さんにあってくれませんか、どうも大学の先生は取っ付きにくい」「代替地はどこでしたか」「調布の300坪ですか、地図はこれです。写真はこの3枚です」「いいじゃないですか。住み替えなら税金は無しでいけますよね。通勤は遠くなるか」「大学はゆっくり出かけて遅く帰るそうです」「なら昇さん次第ですね。ご専門は」「基督教大学のドイツ文学とか」香川の頭にイメージが浮かぶ。「谷村さん、四谷の女子大生をナンパしにいきましょう」島崎はニヤニヤ笑っている。
香川は谷村の手を引く様に中央線に乗る。四ツ谷で降りて大学に踏み込む。「文学部はどこ」「突き当たって右です」「君専攻は」「ドイツ文学です」「だろうなシャルロッテという感じがしている。西本昇先生のご専門が知りたいのだ」「だったらゼミ生にきいたら」「紹介してくれないかな珈琲おごるよ」「ちょうどいい、彼女たちよ」「成功したらケーキをつけるよ」「この人西本先生のご専門が知りたいのですって、珈琲とケーキおごってくれるそうよ」「いいわ、どこで話す」「どこかないかな」「じゃあ私はバイトがあるから」「行ってしまうのか、残念だな、これ珈琲とケーキ代」「いいです」「契約は守られなくてはならない」

ゼミ生は香川が500円手渡したのを観ていた。講義の終わった教室で語りだした。「そうゲーテか。俺ドイツ語苦手、先生が一番興味をお持ちの部分を書き出して要約してくれないかな。明日までに800字程度にまとめて欲しい。それと先生の人となり。報酬は鰻でどうだ」「わかりました。ご連絡は」「ここに電話くれるかな」「まあ行政書士さん」「電話番号も控えてくれたかな。Also auf vieder sehenでは、また後ほど」「vieder sehenでは、また」


会社に戻ると「ナンパできなかったの」と奥さんがいう。「手付打ってきましたから明日以降取引ですよ」「まあ女子大生を」「敵は杉並に在り」「谷村さんは」「可愛い娘でしたよ。最初は合コン、その後個別取引になるでしょう」「で本論の方は」「西本昇先生を調布に連れてゆく算段ですね。買う気にさせる手立ては考慮中です」その日は天龍雲の御呼ばれがあったので話はそこまでとなった。


あくる日女子大生から電話があった。谷村と大学に行く。「ありがとう、よくまとまっているよ。これは鰻代」「まあこんなに」「ところで先生は家を新築なさると言われてなかったかな」「さあ」「君たち今度の日曜日ドライブしないか。合コン。ステーキおごるよ」「行く」「ただしだ、一役買ってもらいたい。ギャラは別途だす」「どんな役ですか」「日曜日までに脚本演出を考えておく。演技賞がでるかも知れないぞ」「楽しみ」

日曜日調布駅で学生二人を拾い300坪の土地を見に行く。「あの土地に西本先生が新築するのはどうかな」「見晴らしがよくて広いですよね」「お子さまも大きくなられたしお父様と同居なさるならいいんじゃないか。北西の高い木を残して南東に菜園、花園。小さな生き物の放し飼い」「いいですねえ、でも杉並に比べると田舎」「田舎の方が先生に向いてるかも」「かもね」「そこで君たちは先生がこの土地を買う気にさせる役だ」「ええ?」「今から演技をつける」香川が一人二役を演じる。「先生にいい土地があるから観に行きましょうと誘いだす」「突然何を言い出す」「この前土地を購入したいとおっしゃていたでしょう」「君たちの魂胆は」「実は成功したらパーティー用ドレス買ってくれる約束」「どんな人が」「サラリーマン風ですが自由業の感じもする人です。まあこんな具合かな」二人は面白そうと思ったようだ。「やります、ギャラがパーティードレスなら」「私も」「ギャラじゃない、成功報酬だぞ。まああとはアドリブでやってもらっていいが強引な勧め方はよくない」

西本昇はゼミ生の勧誘に調布までやってきた。「悪くないな」「でしょう」「君たちを買収した人は」「彼です」「紹介してくれるかな」「貴男が私にこの土地を買わせようとなさる方ですか」「違います。貴男の父君西本元氏に買っていただきたい。貴男はこの土地を借りて家を新築していただきたいのです」「よくわかりませんが」「お父様はお孫さんと同居したいお考えですが今お住いの土地にも愛着がおありなのです。迷っておられます。同居の決断のきっかけが必要でないのでしょうか」「そのきっかけをつくるため父にこの土地を買わせ、私に家を建てるから貸してくれと言わさせるのですか」その方が税制上有利だとは言わなかった。いずれわかることだ。「そうです」「何のために」「仲介手数料を得る為です」

あまりに単刀直入な答弁に谷村はハラハラした。「この方6月にドイツに行ったそうですよ先生」「ほう何のため」「ローレライにあうために」ゼミ生は香川と車掌のやり取りを話した。「ほかに印象は」「たくさんありますが音楽が生活の中に溶け込んでいることですか」「具体的に話してください」香川はベルリンリーダータフェル会館が団員の奥さんたちのへそくりで建設されたこと、ボンの国会議長の接待を話した。「そうですか堅実な生活」「ドイツ人は青い鳥を探さないようですね」しばらく雑談がつづいた。「カールブッセは上田敏の名訳で有名になりましたか。でローレライの妹さんは」「彼女は大学を卒業したら、あるいは、ひょっとしたら夏休みにでも日本にくるでかもしれません」「鴎外のエリスのように。これは失礼立ち入ったことを。舞姫を思い出しましてね、ほかには」

香川健は今だと思った。「女と土地は縁であろうと思いました。求めよ、さらば与えられんではありませんね」「それは言い得て妙ですね」ゼミ生が「先生どういうことでしょうか」といった。「女も土地も数あれど同じものは世界中に二つとないとことでしょう。結ばれるべくして結ばれるということでしょうか」ゼミ生は驚いたように考えてから言った。「運命の赤い糸で結ばれる、先生私にも王子様が現れますか」「現れるでしょう」西本昇は大きく息をして父に話してみましょうと言った。ここは深追いしない方がいいと香川は思った。

香川と谷村はゼミ生をこの前のステーキハウスに連れてゆく。「今日の日当だから好きなものを食べなさい」「やったあ」谷村が新築のパースもどきのデッサンを取り出す。「私なりに描いたものです」素人とは思えない。「素敵ね」「君たち西本先生にこれを見せてくれないか。君たちもアイディア出して先生に勧めてもらいたい」「美味しそう。ここのステーキ一度食べてみたかったの」「人の為に尽くして金になるなら最高だろう」「ですね」「日本では不動産屋の評価は低いが欧米では弁護士と同等の扱いなのだ」「一生に一度の買い物を世話するのですね」「そうだよ、双方の為に専門的見地から検討して情報を提供する。結果として成約した時は報酬をいただく。契約ならないと徒労に終わる」
ゼミ生二人は顔を見合わせてうなずく。「お見合いみたいなものね。恋愛もいいけど親は子の幸せを願って縁談を勧めるから客観的にものを見ている」「私もそう思う。でも決心するには情熱がいるわね。恋愛は勢いで行けるけど」「見合いして会っているうちに人生の伴侶と思えるか判断するのだろう」

西本元は迷っていたが気持ちは息子夫婦と孫たちとの同居に傾いていた。最後の決断は香川が漏らした「土地の所有者はどんな思いで買ったのでしょうね」であった。西本元はこの土地の買主であり一方では現住土地100坪の売主でもある。土地を売るのは抵抗があるが買替となると少し気持ちが違う。それを息子に吐露したそうだ。
契約成立後ゼミ生は報酬のパーティードレスに興奮した。「先生の新築祝いに見せてあげなさい」「最初は後ろめたいものがあったけど今は堂々とご褒美もらったといえるわ」「そうね、人の為に尽くしてご褒美もらうのは最高」


この間香川健は天龍組から産廃処分場の設置許可申請の依頼を受けていた。「先生この度は天龍組浮沈の急場を引き上げていただき、衷心より御礼申し上げます。これは些少ながら我らが志、お納めください」「組長、礼は島崎社長に言ってくれ。ひとつ注文がある。都と片を付けるに当たってこれから天龍組は上品にしっかり儲けるよう方針を変えると約束した。男の約束だ。俺の顔を焼くような真似はやめてもらいたい」「わかりやした」「では祝杯といきますか。その前に先生、お志いただいておきなさい」と島崎社長が言った。香川は志を押戴いて頭を下げた。
盃を飲み干すと「美味い」と香川は感に入る。「先生いけるくちで」「酒は好きなんだがすぐに酔う」「いい酒ですな」「そうでもない。女を襲いたくなる」「男ならだれでも」「やってみな、かい」「短兵直入にやるんですかい」「そう、直入にやりたいが、このバッジを付けている間は上品にしてなくちゃならない。ここがつらいところよ」「それはつらいですな」

酒と料理が矢野を楽しくさせる。「先生、産廃はどこも請けてくれませんでしたが」「金になる、上品にやるともっと儲かる」「住民の反対でどこも潰れてます」「きちんと話をつければ反対しないさ」「どうやって」「それは飯の種だからな、言えない」天野龍太郎は香川をいぶかしげに見た。「同意が大変とか」「同意なんか要らない」「え」「それより設備資金が両手いや両足いるな」「20億」「まあ、つけが利くところがあればぼちぼち払っていけばいい」

香川は委任状と着手金を受け取ったので計画を説明する。聞き手は天龍組組長天野龍太郎、二代目慎太郎、若頭矢吹譲治と島崎社長。香川はマスタープランを島崎社長には説明してある。それは天龍組の構想をはるかに上回るものであった。島崎はこれくらいでないと事業として成り立たないと思ったが改めて香川のスケールに驚いた。その概要はつぎのようなものであった。
敷地面積:5万㎡
埋立容積:3万㎥
処理施設:中間処理、埋立処理、水処 理
取扱品目;建設廃材、金属くず、ガラス陶磁器くず、廃プラスチック、木くず、紙くず、繊維くず、コンクリートがら他
基本方針
1処分場は町道から尾根までの間をいっぱいに取り。残置森林を半分以上残す。奉呈は30%だが将来に備えてのことだ。
2中間処理を主体に再利用、再生利用、リサイクルを図り、最終処分の埋立を極力減らす。
4貯水池は雨水池と処理水池とを別個に設ける。
5水処理施設は24時間監視体制をしく。
その他
業容の拡大と伴に現地雇用を増やしてゆき、過疎化対策に資する。

まず天野が口を開く。「先生、埋立が儲かると聞いてますが」「埋立はすぐにいっぱいになる、これからは再利用の時代になる。再利用はそのままでも売れる」「再利用リサイクル施設に金がかかりますな」「当たり前、商売道具だ」「20億もの金は」「大鹿建設にやらせたらある時払いの催促なし」「大手が乗ってきますか」「大手だから処分場が欲しい。自分では持てないから天龍組に頭を下げてくる」大手は処分場が欲しいが自ら産廃処分場を経営することは世間体が憚られるのだ。 

自然との調和

公害対策の基本は「経済発展と自然との調和」である。日本の公害の歴史は経済発展を優先して自然破壊には目をつむってきたことだ。戦前は足尾銅山事件、日立鉱山事件が戦後はチッソ水俣、イタイイタイ病の水銀が有名だ。『何故こんなにひどくなるまで放置した』との内外の批判に国も重い腰を上げたかっこうだ。しかも自然との調和でお茶を濁している。日本民族は自然の恵み感謝して自然と共に生活してきたのである。20世紀の日本はご先祖ならびに子々孫々懺悔して謝るべきである。
わずか25年前には全国が焦土とかして破壊しつくされた日本は不死鳥の如く、トカゲの如く甦ったのである。国破れて山河在りと涙した日本人はエコノミックアニマルと変身し人の心を失っていったのである。これが米国(世界を支配しようとする闇の権力の手先)が描いた日本の戦後体制の枠組みから結果であることを矢野が知るのはずっとあとのことであった。
経済の自然破壊は人々に産廃は有害、産廃業者は悪という図式を叩きこんだ。しかし国も企業も優良な産廃処分場が欲しいのである。ここ数年のうちに自然との調和から自然保護に政策を転換してゆかねばならない。許可取得は難しくなったが今が矢野のビジネスチャンスでもある。不法投棄不法操業の処分業者は駆逐されてゆくはずだ。

香川は処分業の会社『クリーン大地』を設立した。有限会社は資本金300万円、社員(株主に当たる)一人でOKだ。これを天野龍太郎の息子慎太郎に500万で売りつけた。息子は親に似ず顔も良く性格も大人しいほうだ。「親父500万貸してくれ。天龍組から独立する。金は利子付けて返す」龍太郎は少しさびしそうに言った。「でお前何をやるのだ」「産廃処分場だ。天龍組の廃材も請けてやるぞ」

香川は天野慎太郎を連れて群馬県庁公害課を訪れた。挨拶もそこそこに「この処分業及び設置を許可していただけるか伺いたい」と応対に出た林係長に切り出した。課全体が東京から乗り込んできた行政書士に注目する。「町長の内諾は得てますから県のOKが出れば用地買収にかかります」林係長はほうと言う顔で「投資金額は幾ら位と」と訊いてきた。「20億」林は冗談をと言わんばかりに「クリーン大地さんは有限でしたね」と皮肉る。「資金などはどうにでもなりますよ。環境事業団にも話はしてありますから。我々はこれからの処分場のモデルを目指しています」

第1ラウンドはこちらが取ったと香川は思った。「本県では業の許可と設置許可を同時に下ろします」「結構です。片足では商売になりませんから」「周辺の同意は」「この3部落全員に説明して質疑応答を行いますので県も立ち会ってください。町は建設課長と環境課長が出席してくれます。議事録および建設賛同書に立会人として署名してくれるそうです」林は周辺1km以内の住民同意を求めようとしたのだが気勢をそがれてしまった。
これでKOとはいかないが判定勝ちは間違いないだろう。「しかし優良な処分場を確保しないと環境破壊は止まりませんね」と話を緩める。「国は自然との調和を謳っていますが」「群馬県はどうなんですか、条例で上乗せ規制を」「ええ、来年あたり公布施行となるでしょう」「ではその前に許可を取っておかないと。県と国に伺いを立てなくてはならん。国民の利便性などは考えないですからね」「我々は良質な処分場には協力しますよ」「なら大船に乗った気で進めます」

香川は産業廃棄物処理業許可申請書および処分場設置許可申請書を群馬県庁に郵送した。送り状には返信切手を同封して受付票と控えの返送を期待していた。「これで時間と金が節約できる」「持参しないで大丈夫ですか」と天野慎太郎が言った。「これから群馬県庁には足繁く通うことになりますよ。社長はどんと構えていてください」普通許可申請は持参して最敬礼するものである。林係長は担当者に締め上げろと指示したが「大人しく言うことを利くような玉でないが。しかし舐められるな」とも言った。 

産業廃棄物処分場説明会

林の予想は当たった。香川は町長と3部落長に事業施設の説明をしていた。それは3部落全体の説明会のリハーサルでもある。彼らは事前に説明を受けることで問題点をそれぞれの思惑で事前にさばいてくれるであろう。「操業を始めると従業員は何人位になるのかの」「順々に増やしていって100人位になるでしょう、町には法人住民税の人頭割が」香川が町長の顔をみながら言うと「固定資産税もな」と町長は笑った。「水源はどうなります」と下流部落長。「町が簡易水道を敷設する」と町長。「小学校の交通整理は」「整理員を増やさないかんのう」

説明会は小学校の体育館で行われた。有権者のほとんどが集まって来た。「町長選以上だ」と建設課長がささやいた。「只今から産業廃棄物処理について事業主体、有限会社クリーン大地代表取締役天野慎太郎が説明します」と香川が告げた。スクリ-ンに処分場予定地の航空写真が映される。会場の視線が集中する。いろんな思いが過るのであろう。天野慎太郎はゆっくりと立ち上がってマイクを握る。「天野慎太郎でございます。当社がこの地を選んだのは昔から上州の女性は働き者で器量よしと聞いているからです。他の候補地もございましたが上州の女性には及びませんでした」

これは受けたようで拍手がわいた。「お世辞と思われる方もおられるかも知れませんが私の本心であることは開業すればおわかりいただけるでしょう」「この写真は予定地の航空写真ですが完成すればこのような感じになります」完成予想図は住民の産廃廃棄物処分場の汚らしいイメージを変えたようだ。「次に処理工程を説明します。搬入された廃棄物はここで種類ごとに再利用できるものを選別します。更に種類ごとにここでそのまま再利用できないものを再生処理します。ここで商品となったものは倉庫に保管します。以上の工程で95%はリサイクルできると考えておりますが残りの5%、処理しきれなかったものは埋め立てます。以上で私の説明を終えますがご質問、ご意見がございましたら遠慮なく手を上げてください」

しばらくして手が上がった、「今の話では廃棄物を処理して売るのですか」香川が答える。「そうです。来た時は産業廃棄物であったのを再生して売るのです」「出戻りを再婚せるようなものやな」「まあ年は食っていますがそれなりに役に立ちますから貰い手はあると思います」「どのように再生するか説明してくれますか」「こちらをみていただきましょう。鉄くず、金属くずは汚れ錆を落とすと文字通り金目のものですからいい値で売れます。柱などはいい机椅子なるから高値がつくかも。ついでに産廃の種類ですがこれ以外は持ち込めません」

別の質問が出た。「すると産廃処分場を設置しても問題はないということですか」「なら苦労はないのですが、どうしようもない奴は燃やしてしまうか埋めてしまうかになります。煙が出ないように高温でやかねばなりませんし、埋めたところの雨水が外に出ないようにしないといけません」「それで水処理施設が要るのですな」「そうです。敷地の回りはU字で囲います。これで雨水を受けてこちらの貯水池に溜めます。問題は埋立地の水です、これはこちらの小さい方の貯水池に溜めてさらに水処理します」

ここが正念場だ、と香川は説明をつづけた。「この埋立地は面積1万㎡容積20万立米、縦横50mかける200深さ平均20を予定しています。これに遮水シート貼ります。これで地下への浸透はまずないと考えています。さらに有孔管を敷設します。これで水を集めて貯水池に落とします。この貯水池は沈殿槽を3つ合わせたものです。第1沈殿槽のうわ水を第2沈殿槽に落とし、そのうわ水を第3沈殿槽に落とす。このうわ水を水処理施設で処理して放流する構造です」

同じ質問者が手を挙げた。「埋立地の浸透水もそれだけ処理したら雨水と変わらなくなるということですか」「それはどうでしょう、一度女になると元の19には戻らならないでしょう」(爆笑)「あんたは正直だ」「浸透水を限りなく自然の雨水に近づけることが業者の責務と心得ております」(拍手)「最後に地震、大雨対策聞かせてください」「自然の猛威に対してどこまで対策できるか。我々は第1沈殿槽を取水シートで覆い蛇籠を被せます。これで第1沈殿槽が地震で破壊されても沈殿物の流出は防げると考えております」「そこまでやっていただけるなら私は賛同します」「ありがとうございます」


これで説明会の峠は越したと香川健は思った。「町のごみ収集は家まで取りに来てくれない。町一番の器量よしも年には勝てず、町道までの上り下りが辛くてのう。クリーン大地さんで処分してもらえないかの」「それは姉さん御気の毒ですが当社には係わりのないことでござんす」「お兄さん、そういう言い方はないでしょ、私賛成しようと思ってたけど考え直すわ」「私も、いい男と思ったのに」「当社は嘘は申しません。できないものはできません」
会場が緊迫した。「あら言ってくれるじゃない。私たち女は賛成しませんよ」「家庭ごみは産廃ではありません。一般廃棄物ですから町の構えです」「環境課長どうなの」「そのとおりです」「どうして家庭ごみのほとんどが紙くずじゃない」「お言葉ですが生理用品などは当社ではお引き受けできません」「そりゃ月に一度は使うけどさ」「もう上がっているだろ」(野次がとぶ)「うるさいわね。女だけで相談しますので」「まあ奥さん、若いしを困らさずに話を聴いてやれや」


窮地に陥っても退く香川健ではない。「廃棄物とは使われなくなった物です。再利用、再生利用するなら廃棄物ではありません。するしないは人間の心がけと英知の問題です。戦後の日本人は大量消費に染まって『勿体無い』の心を忘れています。10年前はどうでした、20年前は」会場が静まる。
同じ『紙くずでも事業活動から生じるものは産業廃棄物で事業者が処理する、それ以外は一般廃棄物で市町村が処理することになっている』ことを説明した。「そうなの、環境課長」「そうです」「誰が決めたの」「お国です」「じゃあ仕方ないわね。お兄さん許してあげる」

その後も質疑はつづいた。昔のお嬢さん方を相手にするのは疲れる。矢野は『枯れ木に花が咲いたなら焼いた魚も泳ぎ出す』と言いたいのを我慢した。やっと応援演説が始まった。環境課長が「家庭ごみの処理費は一所帯当たり年間3万円となっております。皆様におかれましては紙ひとつも使えるものは再利用してごみを減らしていただきたいと存じます」と言うと会場は静かになった。町長がこれを引き取るように話した。「環境課長の話のように家庭ごみ処理費は町財政を圧迫しております。この処分場ができますと固定資産税住民税の増収が見込まれます。加えて雇用が創出されますので過疎化防止の一助になると考える次第です」これで出席者全員の賛同を得たのである。

群馬県は1年足らずで産廃処分場設置許可ならびに処分業許可を下した。全国で反対運動が広がるなか異例の早さである。「住民同意ではなく賛同とは恐れ入りました」と公害課長が笑った。処分場設置工事は香川の読んだ通り大鹿建設が請けた。支払は完成後10年払いという好条件だが大鹿の廃棄物を優先的受入れと大鹿からの天下り受け入れを承諾させられた。しかし香川健の狙いはここにあった。クリーン大地の収益は安定する上、天下りが大手の技術ノウハウを持ち込んでくれるはずだ。大鹿も処分先が確保できるので建設受注が有利になると踏んだようだ。天龍組の仕事も増えたことは言うまでもあるまい。


駒込直美写真集

香川健は香川京子の出産、出生届、離婚、谷和子との婚姻届という手続を何度も頭の中で繰り返していたがこれにモニカが加わると頭が疲れてくる。最終的には矢野健に戻る。自分にそう言い聞かせていた。だから駒込直美に「矢野さん、矢野先輩」と呼ばれて狼狽したのだ。

駒込直美は土日祝日にやってきては香川の仕事を手伝った。浪漫建設の仕事も気安く手伝う。来る人ごとがいい事務員さんが来てくれたねという。これもかたをつけねばなるまい。駒込直美が退職して香川の事務所で働くだろうか。

島崎は香川を臨時職員としていた。給料も現金でくれた。「先生、失業保険は貰えるだけもらってください。宅建主任が必要になったら正社員になっていただきます」「心得ております」脱サラすると健康保険が社会保険から国民保険になる。保険料は全額個人負担となる。駒込直美が事務所に来てくれても後継者として行政書士の資格をとって独り立ちできるのは先の先のことである。
駒込直美は一時間前に出社し掃除している。電話の応対もうまく使い分ける。島崎の奥さまの覚がいい。「あなた、島崎社長、いっそうちに来てもらえないかね」「駒込さんか」「大手みたいにはいかないけどさ、給料弾んで」「それはうちの勝手な了見だ。大手だと縁談にも」奥さんは最後までいわさない、「私聴いてみる。本人がいいといったら雇ってよ」「香川さんにも相談しないと」香川自身臨時の身で失業保険受給者である。あと半年で資格がなくなる。駒込直美を雇える身分ではない。浪漫建設の正社員として雇ってもらい形だけの出向とした。給料は出向料として浪漫建設を経由して支払われる形にするか。そんな心配はすぐに吹っ飛んだ。駒込直美が「会社辞めました。この事務所でやとってください」とことなげに言ったのだ。産廃処分場の許可取得と報酬3千万がきいたか。

島崎社長は浪漫建設で雇って香川行政書士事務所に出向がよいのでは
という。社会保険、安定性から言ってもそれがいいのだが駒込直美を独占したい気もある。業務が軌道に乗れば事務所に籍を移すかとも考えたが当分島崎案で行くことにした。「本籍浪漫建設、現住所香川行政書士事務所でいいな」「はい、ありがとうございます。先輩これからもよろしくお願いします」「駒込さん、先輩じゃなく先生でしょ」と島崎社長が笑った。

だがこれにて一件落着とはいかなかった。人生とは思うようにはならない。香川に駒込直美を独占支配する、つまりものにするという思いが頭をもたげてきた。事務所を任せゆくゆく継がすつもりだが、事務所の秘密保持が絶対である。これを担保するには駒込直美を支配することが必要である。それには裸体写真がいい。
香川は写真機を購入した。業務にも必要である。とくに現場写真は言葉では言い表せない。駒込直美の写真も撮ってやった。少し大きめのアルバムも与えたが直美はうれしそうに貼り付けてゆく。香川健は次第に目で見た映像と写真画像にズレがあることに気づいた。プロはこのズレを計算しているに違いない。

香川は100万円でパソコンを買った。初任給が3万だったから思い切った投資である。しかし1年足らずで元をとった。表計算は抜群である。データの保管も考えれば書類が減るわ、検索が簡単だ。駒込直美はたちまちパソコンを使いこなした。業務の効率は3倍以上に上がった。これを見て浪漫建設も導入に踏み切った。香川はパソコンメーカーの営業マンを呼んでマージン1割で紹介してやると言った。しかも領収書なしである。営業所長が現金10万を持ってきた。「所長の顔も立てなくてはならないな」と行政書士会に紹介する。

 会員の紹介だから行政書士会の事務局長も会長も購入を決めてくれた。さらに会員向けの紹介まですると約束してくれたのだ。すぐ5台が売れた。営業所長が「会長さん事務局長への謝礼は」と訊いてきた。「10台ごとに1台分」と答えた。「先生の分は」「別の仕事をいただければ」100台を超えるのに半年もかからなかった。今度は支店長が挨拶に来た。「会長は全国行政書士会の会長も兼任されてますからゴルフか食事に招待されてはどうでしょうか」
300台を超えると営業本部長が挨拶に来た。「パーソナルとは一人一人が持つことでないでしょうか。時代の要請と思います。私どもでさえもう1台欲しい。さらに2台のデータを共有して保存もしたいのです。士業の先生方も同じでないでしょうか」

1000台超えると料亭に招かれた。社長直々の挨拶があった。「日本民族はこういう機械を好みます。国民すべてが使う時代がすぐくるでしょう。原価低減とくに流通コストの逓減をお願いします。その頃は販売価格も1割以下になっているでしょう」
社長はさすがという顔をした。「インターネットの普及を見込んで画像を取り込めるようにしていただきたいですね。日本のパソコンが世界市場を支配してくれることを祈っております」画像取り込みはデジカメの登場まではスキャナーの開発が急がれていたのだ。数年後複写機からの取り込みができるようになるのだが香川は時代を先取りしていたのだ。 

香川健の駒込直美へのしごきは厳しさを増してゆく。「ごめんですんだらおまわりは要らない。プロに過ちは許されない。依頼人は死ぬか生きるかの思いで事務所を頼んできているのだぞ」駒込直美は目に涙を浮かべながらもくじけたりしない。「もう少しやさしくできないのかねえ」と島崎の奥さんがいう。ある時は「背筋を伸ばせ。これは何だ。全体を観てみろ、おかしいと感じないか。目を噛んで死ね」と怒鳴った。「わからないか。当期純利益」「間違っています」「人間のやることだ、間違いはある。だがそれに気づかないことは許されない」「どうやって気づくのですか」「おまえの作った損益計算書と貸借対照表は別の会社のものか」
駒込直美は普通高校卒だから簿記会計の知識はないが、既に作成した決算書は30を超える。「同じ会社のものなら当期純利益は一致するはずだ」「9違います」「税理士の決算書と比較するのだ。多分この辺りだろう」34を43と転記ミスをしていたのだ。駒込直美は尊敬のまなざしを向ける。                                  

島崎の奥さんが「たまにはどこかへ連れてってあげなさいよ」と言った。島崎も「軽井沢の別荘はどうだ」と話に乗る。「それがいい。先生レンタカー借りていってらっしゃい」ということになった。万事好都合にことが運ぶものだ。早速車で出かけたが駒込直美は免許を取ってから初めての運転なので香川健は少し緊張した。すぐ香川が運転を代わった。都内を抜けて休憩がてら食料品買った。駒込直美は新妻のように振る舞う。「先生つかれません、運転代わりましょうか、運転はたのしいけど、慣れてないから怖い」「教習所で馴らしてこい」
別荘では管理人が昼食を用意して待っていた。ベランダで湖を観ながらの食事は日常を忘れさせる。ワインで乾杯する。「月に一度はここで過ごしたいな」「素敵ですね」「お前が事務所を切り回してくれるなら一人増やしてもいい。高校の先生に頼んで置け。行政書士が事務所でいるようではだめだ」事実既に実務は直美に任せている。駒込直美は自分が香川に信頼されていると思っていた。

 健は直美の手を取っていった。「ボートに乗るか、その前に写真を撮ろう。そこに立て、湖を観る。今度は見返り美人」10枚ほど撮って湖にむかう。女を口説くのはボートがいい。逃げられることはない。同じ運命だ。「気持ちいいですね」直美が深呼吸する。形の良さそうな胸がふくらむ。健はシャッターを切る。「仕事が任せられるまでお前を女と見ないぞ」直美が赤らむ。「そうなったらこんな別荘買ってやる」「本当ですか。頑張ります」「今年中にマスターしろ。来年の春にはお前の後輩がくる、みっちり仕込め」ボートが湖の真ん中まで来た。「うわーよく見える。浅間山ですか」「だろうな、歌かなし佐久の草笛」反対解釈すれば女と見ているが我慢しているとも取れる。人は自分に都合にいいように解釈する。
 健はボート岸に付けると先に降りて直美の手を取る。直美が飛び降りた瞬間抱き寄せた。そっと唇を重ねた。直美が目をつぶる。体重を預けてくる。乙女の身体が熱ってくるのがわかった。高原の径は白樺の間を抜けてゆく。直美は健の肩に頭を寝かす。この時二人は恋人たちになった。

 別荘でシャワー浴びる。直美がバスタオルで出てくるとカメラを向けた。ベランダに立たせてシャッターを切る。清楚なだけにいい写真なるだろう。ベッドに寝かせて角度を変えてシャッターを切る。横向きになると直美の身体の線がよく出る。シャッターを切りつづける。フィルムを交換しながら「バスタオルをとれ」と命じた。直美は躊躇ったがバスタオルを外した。着やせがするのか結構豊かな姿態である。健が夢中でシャッターを切る。膝をかかえろ、うつ伏せになれ、膝を立てろと注文する。フィルムが無くなると「よし、いいぞ」と言った。健がフィルムを巻き戻していると「先生も」と直美が言った。えっと顔を上げると「抱いてください」と手を差し伸べる。

 健は一瞬ためらったが激しく直美の唇を吸って耳を噛んだ。首筋に唇を這わすと小さな声を立てる。乳房をそっと噛む。ああと悶える。時間をかけ全身に唇を当ててゆく。直美の性器も蕾のように可愛い。やさしく舐めるとうめき声を立てる。舌で押し開くと身を捩る。「恐くないか」「ええ」健を直美の入口に当てて撫でる。直美は両腕を胸に合わせて身体を震わす。亀頭をちょっと差し込むと叫び声を上げた。「痛くないか」「大丈夫です」「深く入れるぞ」「全部ですか」「当り前だ。これから結婚するのだ」「はい」
 直美も顔を歪めたがうれしげな表情を見せる。直美は濡れていなかったが矢野の先が濡れていたと考えられる。これを写真に撮るべきだったなと香川は悔やんだ。直美を抱き起して膝に乗せる。「これが結婚だ。男と女になることだ」「うれしい」と直美が香川を見つめる。やさしくキスをする。乳房を噛むと直美がのけぞる。やがて腰を動かし出す。「それでいい。今度は上下に出し入れしてみろ」「私感じます」「俺も感じる」
女がその気になれば性は習わなくとも独自の動きをするのであろう。この時は全身を支配するのかもしれない。「先生、私もう気が狂いそう」「感度がいいからだ」「何の感度ですか」「お母ちゃんにきけ」香川健は直美も俺の女になったと思った。「身体が浮き上がりそう」「浮いてはいけない、重心を低く」直美の子宮は亀頭を包み込む。健が力強く直美を持ち上げる。「先生が私の中にいる」と直美が身体を後ろにねじる。「腰を回してみろ」「もうだめ、頭、空っぽ。ああ死にそう」香川がおもむろに直美の腰を引き寄せ一気に射精した。部下である乙女に対する心遣いかもしれない。

 静かに直美を寝かせたが大きく喘いでいる。下に敷いたバスタオルはうっすらと鮮血に彩られていた。香川はフィルムを装てんして直美を撮影した。今度は香川京子も谷和子もモニカも写真に収めるぞと思った。香川が添い寝をすると直美は胸に顔を埋めてきた。髪の毛を撫でる。直美は寝息を立て始めた。


翌日駒込直美はいつものように出勤していた。帰りが深夜になったので遅れて来てもいいと言っておいたのだがそんな彼女ではなかった。香川は日大芸術学写真学科を訪れた。「このモデルの写真集を作ってもらいたい。謝礼は3万円、旅費実費、日当3000円。名刺代わりにネガを持ってきた焼き増ししてもらえるかな」応対の学生は女子学生に眼で命じた。「モデルは」「うちの職員、女の内面を映して欲しい。出来栄えによってはご祝儀を出す。「わかりました。日時場所は」「次の日曜朝10時軽井沢」「人員は最低3人要りますので日当は3人分お願いします」「わかった」香川は目で見た映像と写真の画像について質問した。山本浩は「難しい質問ですね。写真家の永遠の課題でしょうか」と答えた。
 今回の結果によっては水着写真もお願いするかも知れないと話していると女学生が戻って来た。「よく取れてますよ。これなどは引き延ばしては」「そうだな、これもいいのじゃないか」「そうですね」「仕事貰った。次の日曜朝10時軽井沢。俺たちのほかに照明がいるだろう、手配してくれ」「では引き伸ばしとネガのスライド用をお願いする。これは着手金」

日大を出ると三越本店の屋上に来るよう駒込直美に電話した。彼女は先に来ていた。「水着売り場に」と直美に告げた。赤、白、青のワンピースとビキニを買った。驚く直美。「今度の日曜日軽井沢に行く。これを持って来い」ついでにパーティードレスを買い与えた。
日曜日朝7時に東京出発した。都内は空いていたが軽井沢で少し混んでいた。9時半に別荘に着いたが学生たちは撮影準備をしていた。山本は「僕はカメラマンの山本、こちらメイクの小柴、彼は照明の黒沢。もうじき準備が終わりますので休んでいて下さい」と手短にいった。「私の撮影ですか」「そう普段着と水着」小柴がやってきて「普段着はメイクなしでいきましょうか。ヘアースタイルそのままで行きましょう。水着とワンピースはその時考えましょうか」と直美を見た。さすがにプロの卵である。
管理人がパンと珈琲を用意してくれた。卵焼きとサラダ、ハムが添えられていた。「君たち何時に出たの」「6時です。8時過ぎに着きました」やはり心がけが違う。それぞれの将来の夢を語ったが黒沢の「キリマンジャロ山を撮りたい」に驚かされた。年間で20日しか姿を見せない。「僕は人が撮れないものを撮りたい」「その時は応援するよ」と言ってしまった。数年後黒沢は世界の少数民族を撮影して回ることになる。その資金は香川がパソコン会社から引っ張り出した。

山本が時計を見て立ち上がる。「始めましょうか」「最初は照明なしでどう」「そうだな」と山本はベランダに直美を立たす。「そう湖をみつめて」といいながら数枚シャッターを切る。「フェンスに腰掛けるのは」「いいな」三人はいつもこんな調子でやっているのだろう。「彼女そのまま柱にもたれて。そう今度は両脚上に乗せて。落ちないで」直美が笑った。
ちょっと休憩をとる。水着の打ち合わせだ。「モデルさん水着に着かえて下さい」小柴が言った。「白のワンピースは芝の上がいいのじゃない」「この際全部行こう。時間があったら湖でも撮ろう」「それがいいね」「かのじょ芝が痛いかも知れないが横になってくれる。露出絞るか」黒沢が照度計を見せる。「彼女少しすましてえ、そう顎上げて。上向きなって」
黒沢が照明を入れる。「いい感じだ。モデルさん大の字、両手両足伸ばして、腕開いて閉じて。今度は片膝立てて手を首に当ててみようか」「いい感じよ」「そうかい」6種類の水着に応じて少しメイクと髪型を変える。「お昼の用意ができました」と管理人が知らせてきた。「もう1時か。パーティードレスも行ってしまいたいがモデルさんいいかな」「でも着替えないと」「今乗っている、食事は後にしよう」小柴はパーティードレスの直美をメイクし直した。「スタンバイできる、OK」「よし、モデルさんきれいだなあ。ゆっくり歩いてきて、そこで立ち止まる、少し振り返る。素晴らしいプロのモデルさんみたい」撮影はモデルとの会話が重要なようだ。モデルの意識を変えるのであろう。意識で人も変わると香川は直美を見て思った。

終わったのは2時過ぎだった。遅い昼食をとりながら次の打ち合わせをする。「予定を変更してヌードにしてくれないか。写真は二度と同じものは撮れないだろう。若い娘は自分のきれいな裸像を残したいはずだ」「言えますね。私のヌード先にとって」と小柴が言った。「いいですか」山本が心配そうに尋ねる。「早撮りでいいから」と小柴は自分のメークにかかる。
小柴がベッドに横たわる。「照明右、OK。両脚をそろえて身体をねじる。いいぞ、腰を少し浮かせて、そう反対向きで。左脚まげて右に乗せる。照明少し落として、足首中芯に、いいね。そのまま振り返る。目線を遠くに。少しずつうつ伏せになってゆく、ナイスボディー。両肘で支えて、髪を耳の後ろにして、両手を耳に当てる。動かないで、照明アップ。尻のライン。よしOK」

後日小柴瞳写真集は『美しき裸像の思い出』として人気が出るのだ。若い娘は自分の裸体を撮っておきたいのだが恥かしさが先に立つ。アルバムは秀作だがモデルはお世辞にも美人と言えない。(この人が裸になるのなら。私の方がずっとましだわ)と娘たちは思ったのだろう。その後裸像の注文は断続的にあったから彼らのいい稼ぎとなった。小柴瞳の功績である。

山本は駒込直美に「いこうか」と声をかける。小柴は急いで服を着ると直美を促す。「楽にしてね」直美が裸で横たわる。「モデルさん左の膝立てて。カメラマンは左から撮ってますからね。少し顎引こうか。とても可愛いわ。両手を胸に乗せて、少し照れて見て。いたずらっぽく笑って。本当女優さんみたい」直美の緊張はほぐれてゆく」「何だお前映画監督かよ」「カット、モデルさん右脚を左に乗せてくの字になる、顔上げて挑む目つき。獲物を狙う豹。カメラさん見下ろして」

こうして撮影が終わったのは管理人が夕食の人数を電話で訊いてきた時だ。「僕たち帰りますから。明日の予定をしなくてはならないのです」「残念だわ、ご馳走が食べられると思ったのに。でもいい作品になると思います。できるだけ早くしあげます。いけない、引き伸ばし写真」「車の中だ、取ってくる」山本が走る「モデルさん今日はここまでにしましょう。つづきが撮れたらいいのだけど」
山本が香川の撮った写真を現像焼き増してきたのだ。「これも追加でやってくれるかな、丸秘が入ってる」と3000円握らす。「わかりました。今日のと一緒に届けます」引き伸ばし写真は直美自身が気に入ったようだ。「これは旅費日当の仮払い、作品受け取り時に精算しよう」「うわー、3万円も」「報酬は精算時に」「ありがとうございます、仕事いただいて」「君たちが世界的カメラマン映画監督になったら頼めないだろう。頼めるのは今の内だ」
山本達が帰ったところに夕食が運ばれきた。「私シャワー浴びてきます」「そうだなお疲れさん」と言ったが香川も一緒に浴びることにした。パジャマに着かえて乾杯した。「私モデルになった感じ」「事務所やめてモデルになるか」「それもいいですね」「辞められると困るが俺の撮ったのもいけるだろう」「いいセンスしてるって小柴さんが言っていました」「そうだろう、そうだろう」

こうして駒込直美写真集は完成したのだが、監督小柴瞳、カメラ山本浩、照明黒沢敏夫となっているのには笑ってしまった。作品は期待以上でご祝儀をつけた。香川京子、谷和子、モニカの写真集を依頼したのは言うまでもないだろう。これに三人とも恥ずかしがりながら大いに満足している様子だ。

女と土地は縁である。求めて得られるものではない。巡り会い結ばれることは前世からの因縁である。世界に二つと同じものはないからである。


香川かな 

香川京子は臨月を迎えていた。陣痛が始まったと聞き矢野は病院に駆けつける。両親の前で京子の手を握りしめ口づけする。「まあ映画のシーンみたいやね。母子ともに健康ですから心配いりませんよ」と看護婦が笑った。京子が分娩室に行っても健はそわそわと「京子以上の美人に生まれますように、いや、ちょっとぐらいブスでもいいから五体満足に、忘れ物をするな」と念仏を唱える。母親が胎児に声を掛けようとするが父親が笑って首を振る。

陣痛の間隔が縮まると「京子」と分娩室に侵入する。「ご主人は外で」という制止を振り切って京子の手を握りしめる。「まあいいだろう。欧米並だな」「先生病院始まって以来」「でしょうね」やがて胎児の頭が見えてきた。「かな、こっちだ、おいで。お父さんが抱っこしてやるぞ」

京子の手が健の手を握りつぶさんばかりに力が加わる。健も握り返す。「さあ香川さん踏ん張って。それー」「行くう、いくう」「感じるか、行ってもいいぞ、京子」

血まみれの頭が出てきた。看護婦が素早くふきとる。「一気に行ってしまうか」主治医が看護婦に言った。「香川さん、あとひと踏ん張りですよ。気張って、気張ってえ」「京子がこんなに苦しんでいるのになんとかしろ」「こればっかりは何ともなりません、神の領域です。でも原因は貴男ですよ」「香川さん、引っ張り出しますからね、腹を絞って。せえの」「俺の子に乱暴するな、将来のミス日本だぞ」「はいはい、奥さんが気張ったら自分で出てきますよ」「京子、気張れ、気張るのだ。お前、腹が少しへこんだぞ」「はい、あなた。頑張るわ」

胎児が全部露出した。出生だ。「お父さん臍切りますか」健が首を振って後ずさる。医者は造作に臍をちょんと切る。看護婦が赤ん坊の全身を湯で洗う。産湯だ。「ふぎゃあ、ふぎゃあ」「これで独立呼吸説に立っても出生だ。いい声だ音程もいい、絶対音感があるのかも」「赤ん坊の産声は世界中同じ音程ですよ」「いやこの子は特別だ。世界的音楽家になる。かな、ヴァイオリンか声楽か」「さあお母さんのところへ行きましょう」「名前書いておこう。取り違えられては困るからな」赤子の両足に香川かな長女、母香川京子、父香川健とマジックで書いた。「京子、かなはお前に似て美人だ。お前一人に苦労をかけさせて」「いいのよ、ねえどっちが美人」「答えられないな。難しい質問をするな。それより出生証明が要る」「すぐ書きますよ。その前にここ縫っておきましょう、ご主人のために」「あいつ京子に触ったな。どすけべ」「手首まで突っ込んだのよ」「そう言われますけど処女は来ないのですよ、ここには」

香川健は出生証明を持って市役所に走った。出生届を出すと「戸籍いつできますか、妻に見せてやりたい」と問う。「2、3日で取れますよ」との返事。婚姻届の用紙はと探す。これは出生届の前に出すべきだが。記載例をみながら香川健か矢野健かを検討した。病院にとってかえす。京子はすでに個室に戻っていた。「あなた父と母です」「初めまして京子がお世話になっております」京子が逆よと笑った。「こちらこそ、お仕事お忙しいのによく来てくださいました」「なるほど京子のお母さんだけにお若くて綺麗だ」「何よそれ」「母が綺麗だと娘も綺麗という諺」

健は京子の傍を離なれなかった。病院中の評判となった。「あんなご主人だと女は幸せね」「ご養子」「亭主関白なところもあるわ」健は香川京子の新しい戸籍を見て満足した。手順は前後したが、、。「かな長女 父香川健 母香川京子」とある。京子に見せるとすぐさま離婚届に署名を求めた。「谷さんに子ができたのね。いまさら離縁というならば元の19にしておくれ」「東京に来い、家買ってやるから」

谷 あや

健は矢野健に戻った。谷和子の妊娠を聞いて婚姻届を提出する。待婚期間未了で却下される。『女は、前婚の解消又は取消しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。』のであるが、「俺は男なんだが」「これは失礼しました。すぐ手続します」こうして健は谷和子の籍に入る。「香川さん生まれたの」「ああ女の子だ」こうして矢野健は法律上谷 健となった。実生活では谷でも香川でも大して問題はない。
谷和子の出産、あやの出生届は香川京子と同様の経過をたどった。母親が「男なら良かったのに、今度は男の子を生むのだよ」と言っていることが気がかりと言えば気がかりである。和子が親の意を受けて離婚に応じないと裁判になる。次は駒込直美だ。モニカも控えている。健が東京に戻るとき和子は離婚届に署名した。うすうす察しているようだ。ひょっとしてモニカ直美のことを、、。「見捨てないでね」「捨てはしないさ、落ち着いたら東京に来い。一緒に住もう」 

駒込健一

矢野健は東京では香川健で通している。駒込直美に近くのマンションを借りた。直美が身ごもったことと直美の後継者育成には時間が足りないからだ。通勤時間が節約できる。直美の同級生が父親を亡くし仕事を探していたので採用した。彼女は大手町の大手不動産会社に就職したが父親の看病の為に退社したらしい。松崎敬子(たかこ)は直美の親友と聞いて採用を一任したのだった。
ところがである、敬子は八頭身で顔も女優夏目雅子並みなのだ。神田の生まれで陸上をやっていたよういうので香川健は大いに気に入ったのだが、島崎社長が浪漫建設にくれという。2年間香川事務所に出向とした。ただし、この間に宅建主任に合格しないと首という条件をつけた。健の叱声が復活した。「走れと言ったら走るのだ、行く先はまた指示する」「はい」「やれ」「はい」

直美は臨月まで勤めるといったが悪阻がひどい日は休ませた。白虎組の白川虎治郎がやって来た。「先生事務員さん代わったのかえ」「社長に手を出されないよう匿った。で今日は」「不法投棄がばれて許可取消ですわ」「廃棄物の中身は」解体廃材を群馬の山中に捨てたようだ。「社長、不法投棄をすぐに撤去すること、今後2度とやらないことを約束するなら話をつけよう」「約束します」「そこは天龍のしまだろ、仁義切らないと」「わかっております」「公害課に行くぞ」


都庁はいつも混んでいる。公害課では香川健を見て奥に通される。林係長が応対する。「これを提出に参りました」と誓約書を示す。林は席を立って課長と伴に帰って来た。「白虎組の処分停止ですか。担保は」「ありません」「悪質かつ再犯ですからな」「申し訳ありませんす」「こちらは」「組長白川虎治郎」「先生の顔を立てるか」と課長が提出代行 行政書士香川健の職印を指して言った。
都にすれば撤去が一番であり処分は言訳である。「先生、これがクリーン大地搬入第1号になりますかな」とは完成検査を早めますよと言う意味だ。「組長、今すぐ天龍へゆけ」と追い立てる。白川は深々と頭を下げる。「だいぶ弱ってますな」と林係長が後姿を見遣りながら言った。「この前、群馬県公害課長と隣りあわせましてね、先生のことをいろいろ聞かれました。とくに先生の手形は落ちるかと」課長は撤去の約束守ってもらいますよと言っているのだ。

香川健は以上のことを島崎社長に報告して白虎組の事あとは良しなにと頼んだ。島崎は「大鹿の系列で拾ってくれそうな所を当たっています」と読み筋どおりとの顔をした。「先生、来月うちは隣に引っ越しますがここ全部借りてくれますか」「それはもう願ったり叶ったりで、10年後にはそうなれるか思っていました」「廊下を挟んで向かい同志ですな。それに同じ造りでしょ、この壁は取り除けるそうです」

ということは2室を共有できる。異存はない。松崎敬子がお茶を運んできた。まず香川の前に置いた。「バカ野郎、まず社長にお出しするのだ、やり直せ」「はい」「そこでお茶お持ちしました」という。言って見ろ」「はい」「こっちへ」「はい」「そこでハイは要らない。やり直し」「お茶をお持ちしました」「そこへ」
松崎敬子はテーブルに置く。「失礼します」「それも要らない、黙って一礼する」「やり直し」「はい」「それでいい、かけろ」「はい」「次は服装、膝上スカート厚化粧ハイヒ-ル厳禁」「わかりました」「これから駒込のところへいって夕食の支度をしてやってくれ。俺は出かけなくてはならない」「かしこまりました」


松崎敬子は直美を訪ねる。「敬子」「先生に夕食準備頼まれた」「今日は合唱の練習日だから飲んでかえるのよ」「そうなんだ」「どう」「それがね、どやされてばっかし」敬子が一部始終を話す。「私なんか毎日泣かされたわ」「先生から1万円もらったのだけど」「ローヒールとパンタロンでも買えということよ、派手なのは嫌うからね。食事しながらゆっくり話しましょ」「そうね、直美の方は」「悪阻がね、でも敬子と話してると出ないわ」食事しながら直美が語る。

私も毎日泣かされたわ、でもこれ程私に向き合ってくれる人がいたかと思った。私にだけ当たるの。そのうち見込みのない子にはちゃらちゃらすることがわかってきた。愛情の反対は無関心、関心は愛情の始まり。直美が惚れたの。まあね。決め手は。仕事の教え方かな。なんでも語学だって、単語を憶える。次は意味。しばらくすると何故その単語を使うかだって。そうか、私もやってみる、でも処女を差し出すほどでも、ほかには、具体的に。ふふふ、高いわよ。処女代?恩に着るから教えて。
ノートの左に単語を書く。右に意味、使い方を埋めてゆく。なるほど。日付を書いておくとどれ位で憶えたかがわかる。ふーん。でね、勉強なんて単語がわかってするものだって。行政書士試験は。過去の問題集を買って来てとにかくやるの、わかってもわからなくても。なんか禅問答見たい。そうなの、解らないとわかったかですって。私ちんぷんかんぷん。わからないのはすぐ答を見る、それでもわからなければパス。次に行くの。そう、一週間でやらされた。で。最初からやり直し。そんなので。と思うでしょ、ところがわかるのが一つ二つ出てくるの。不思議ね。三度目になるともっと増える。解かる問題が。ええ、四度五度で半分ぐらいわかってきた。うそ。ほんと、そしたら民法概説を読まされたの。大変だ。これまた外国語を読む感じね。辞書がいる。そうなの、でも読み飛ばし、でも二度目は少しわかった。どうして。わからない。魔法ね。ある日ほらと法律辞典をかしてくれたの、学生時代に使ったものだったのね。それで。概説書と法律辞典を併読したの。わかってきた?ええ、少しずつ。すごい。でね、眠くなると問題集をやるの、すると民法はほとんど解けるのよ。信じられない。あと憲法と行政法は問題集の解説で十分だって、でも私法律辞典を読んだの、そしたら受かった。1年で?よし宅建もそれでゆくか、受かったらご馳走してね。逆でしょ、敬子が奢るの。

その夜、健は11時に帰って来た。「一人見る夢は直美」「いいことあったのですか」「女声合唱団と中田喜直の混声合唱曲をレコーディングすることになった、今日は初練習」「きれいな方いました」「目移りして練習にならなかった」「楽しみですね」「あと2回合同練習して録音だ」「どこで」「キングレコード」
やっと松崎敬子に気づいたようだ。「泊まってもらうの」「未成年者のくせに外泊か、親の愛情薄い子は憐れだね。俺の娘は門限8時」「あなたお風呂は」「シャワーして寝るか」健は風呂場で練習を復讐しているようだ。「中田喜直って夏がくればの有名な作曲家でしょ」「小さい秋みつけた 心の窓にともしびを」「そうそう、雪の降る町を」


健が風呂から出てきた。「ビールはどちらにしましょうか」「麒麟に決まってるだろうが」「録音はいつなのですか」「来月といってた」「発売されたら買います」「おう買ってくれ、しかしよく看ると松崎も美人だな、ヌード写真撮るか」「ええっ」「直美の見せてやれ」「恥かしい」「同級生に見られて恥ずかしいことはあるまい」「敬子は美人だから」「いいから見せてやれ」
松崎敬子は直美の写真集を見て親友が羨ましかった。写真は直美の内面からにじみ出る美をとらえていた。「松崎も宅建受かったら撮ってやる」「取ります」「余は酒が過ぎたようじゃ。先に寝る。奥はゆるりとするがよい」「殿おやすみなさいませ」健が席を立と「いい旦那様ね」と松崎敬子が言った。やさしかった父を重ねていたのであろう。

それからも松崎敬子が直美を訪ねてきたことは新婚の二人にとって有難かった。敬子にとっても同級生に触発されてめきめきと実力をつけていったから有難かったようだ。直美が次々と新人を採用していったが健は新人には何も言わなかった。それでも新人たちは確実に成長してゆく。人を信頼して育ててゆく香川健に島崎は改めて感心した。周囲を幸福にしてゆく男だな」「本当、私は最初見た時から男だと思ったよ」「お前もそう思ったか」「ええ、松崎さんも駒込さんみたいになると思うわ」「宅建とるかも知れない」「うちの社員は誰も受からないのに」「受験勉強は集中度。根拠法を理解しているかだ」「香川仕込み」「だよな」

三月後駒込直美の身体が安定してきたのを見て島崎夫婦は身内だけの祝言を企画した。解体全面改築予定のビルを会場にしたのが面白い。ホテルの出張サービスを利用した。紅白の幕で囲うと式場の雰囲気がでる。これなら何人来ても大丈夫だ。ステージに新婚さんを座らせて立食パーティー形式だ。社員の家族をよべば福利厚生にもなろう。写真は健の意向で山本浩に依頼した。ところが20人ほどの学生を連れてきた。ご馳走目当てであることは明らかだ。「日当は3人分だけですが厚かましく大勢で」「まあいいだろう。みんなで新婚さんを祝ってくれ」と島崎は笑った。がこれが学生たちと女子社員との縁になるとはおもわなかった。またカメラマンが多いだけに面白いスナップ写真がたくさん撮れたのだ。

当日は平服でと言っておいたが出席者はそれなりのおしゃれをしてやってきた。松崎敬子は持ち前のスタイルで場を盛り上げる。顔出しだけの来賓を含めると100人越した。直美の両親もうれし涙を流す。祝電には群馬県庁公害課一同、町長、西本元氏が披露された。クリーン大地が祝辞を述べているところに天龍組、白虎組の幹部がやってきた。一瞬場が白む。
祝辞が終わったところで両組長が一斗樽を二人で抱えてステージに登る。「先生おめでとうございます」「ありがとよ、恋女房だ、手を出すなよ」「へえ、わかっております」新郎がマイクをとる。「兄さんたちも中でやってくれ、忙しいのにありがとよ」と白川がマイクを取り上げ「ではここで新郎から新婦への愛の口づけを」とはやす。健を見上げる直美にそっと口づけする。キャー素敵!「ご来賓の中にはこんな時もあったと思い出されている方も多いことでしょう」と白川がささやくと拍手と歓声が。新郎新婦が挨拶して回る。

さらに3月後直美は男子を出産、健一と命名。今度も所帯主を駒込直美で婚姻届を出したが直美は間もなく離婚届に署名させられるとは思いもよらなかった、それだけ幸福の絶頂にいたのだ。母親と松崎敬子が代わる代わるやって来ては家事を手伝ってくれるので直美は育児に専念できた。健も以前に増してやさしくしてくれる。ついに孫可愛いやの母親がマンションに居ついて健一の世話をしだしたので直美は職場に復帰した。
そこには直美の写真が掛かっていた。「恥かしいわ」「いいじゃないか、未来の所長」新人たちが力をつけてくると不思議に建設業許可、経営審査、産業廃棄物関係の仕事が増えてきた。直美を補助者として登録したので健は都、区に出向くことはほとんどなくなった。

事務所経営も安定してきたのだが人生予期せぬことが起こるものである。健が直美の写真集を見ていると松崎敬子が「宅建受かりました」と言ったのだ。「まさかお前が。合格を証するものは」敬子はむっとして受験票と合格番号お見せしますと顔をふくらました。
健は島崎社長に松崎敬子の合格祝いと浪漫建設への復帰を相談しに行った。「復帰はうんと言いますかね」「出向を解く、それですみますよ」「どうでしょうかね」「お茶をお持ちしました」と敬子がやってきた。「そこへ」健は応接セットに座る。敬子は島崎、健の順にお茶を置く。「松崎、座れ。只今をもって当事務所の職を解く。原籍に復帰せよ」


敬子は涙ながらに訴えた、「敬子を一人前と認めたのよ」と直美が笑った。しかし親友はライバルでもある。行政書士試験に受かっている直美も宅建を取ると言い出した。敬子も行政書士に挑戦すると言う。二人のライバル意識は事務所と浪漫建設のレベルを引き上げていった。島崎は直美の宅建を当てにし出した。従業員5名ごとに宅建主任者が必要だからだ。浪漫建設が10人を超えるのは時間の問題だ。「松崎と駒込の相互乗り入れですか」「まあ、できれば」晩年健野健は「ライバルが人を育てる。一流投手は一流打者が育てる。一流行政書士は一流行政マンが育てる」と語った。逆もまた真であろう。  

モニカ矢野

モニカが大学を卒業したので日本に来ると言ってきた。しかも両親も一緒だと健は式を挙げねばなるまい。結婚届を出さない内縁ですまされるか、東京メンネルのドイツ通に相談したが答は消極的。ともかく心の準備をしておくことは必要だ。こういう時に松崎敬子が写真集作ってくれと言ってきた。健はそれどころかと泣きたい気持ちだ。

しかし時は何人にも等しく過ぎてゆく。その日はやってきた。羽田空港にモニカを出迎えタクシーで帝国ホテルに向かう。ドイツ人には伝統ある渋いホテルが向いていると考えたからだ。父親は日本の復興ぶりに驚嘆する。チェックインすると「ここの料理は美味いからあなた方を夕食に招待する。6時ごろまで長旅の疲れを癒して下さい」と事務所に戻る。直美には世話になったドイツ人家族を1週間ほど案内して回ると言ってあるがまともに顔が見られない。
幸いなことに東京メンネルの団員2名がホームステイを受け入れてくれたので4日はアテンドしなくてすむ。明日は都内見物としてできれば東北を案内したいが、彼らの予定もあろう。東京メンネルの練習も見せたい。まあ反応を看ながら決めよう。事務所では健がいつになくめかしているので訝しがっている。 

5分前フロントからレストランで待っている旨伝えてもらう。「何名様ですか」「4名様ならこちらがよろしいかと」「ドイツで世話になった方にはどの料理がいいかな」「少々お待ち下さい、お連れ様では」健が手を挙げる。
 モニカと父母が座ったところにシェフが注文を取りに来た。「シェフ自らとは恐れ入ります。こちら私がハンブルグで世話になった方です。シェフが私ならどの料理を選びますか」「私ならばこれですね。メインデッシュはローストビーフです」「では、これをお願いします。これに合うワインは」「これがよく合います」「シェフは東京オリンピック選手団の為に世界中のレシピを考えられた方だ」「今晩は私たちハンブルグからきました。父はハンブルグ市長をやってます」とモニカが挨拶した。「光栄です。ごゆっくり日本をお楽しみください」「ダンケッシェーン」父と母がシェフと握手する。

窓に東京の街が見える、「アーベント」「黄昏時だがローレライはいない」「タソガレって何」「陽が沈むと彼は誰か判らないからタソ彼。空は茜に染まるから茜時ともいう」「夕方でもいろんな言い方があるのね」「そう、夕暮れ、夕べ、夕間暮れ、宵他にもあるが思い出せない」「何故同じ意味の言葉が多いのかね」「日本民族は日の出とともに働き日没後家路をたどる生活だったからでしょう」「日本人はよく働くと聞いているが言語にも現れるのかな」「話し手の心情が伝わってきますね、どの言葉を選ぶかによって」「ほう」「音楽の夕べというが夕方とは言わない」「どうしてか」「感性感覚かな」

ビールで乾杯。「カンパイ」「このビールはミュンヘンの味だ」「サッポロはミュンヘンと姉妹都市ですから」「札幌はどこだ」地図を開く。「大都市です」「冬季オリンピック開催地だったな」「ハンブルグと似てる感じ。タケシ行ったことある」「ない、行きたいと思っているのだが」「日本は南北に長いな」「これで2000km」「よく英米中蘭を相手に戦ったものだ」「お父様ここで相応しい話題じゃないわ」「これは失礼」「世界遺産がある日光に案内したいと思っています」

ス-プがきた。「これはうまい」「やわらかい味ですこと」「失礼します、ステーキの焼は」「ウエルダム」「メディアム」「レア」「レア「かしこまりました、程なく焼けると思います」「日本のサービスは心が籠っているな」「日光はどうして世界遺産にえらばれたの」「多分彫刻の素晴らしさだろうが、自分の目で確かめるべきだろう」「それはそうだ」「タケシあなたはどうしてモニカを選んだの」
真打登場である。ドイツ女も真綿で首を締めてくる。心しないと墓穴を掘る。「何がそうさせるもかはわかりませんが私はLoreleyに憧れました。なぜ舟人は彼女の歌声に舵をとるのを忘れるのか。そんな少女に会ってみたいとドイツ旅行に参加しました。そして逢ってしまったのです」「ロマンチックね。で彼女とは」

核心部分に迫ってくる。ステーキが運ばれてきた。少しは時間が稼げる。「日本人シェフの料理がお口に召しますかどうか」「これはいける」「それは良かった。ワインはどうでしょうか」「日本製だ、ドイツワインと遜色ない」「ともかく再会と皆様の旅に乾杯しましょう」母親は逃がしませんよと言う顔をしていた。

料理はモニカ親子を満足させたがお値段もよかった。「素晴らしい料理だったわ。部屋で話の続きをしましょう」「タケシはモニカと話したいだろうよ」と父親が言ってくれたので助かったがモニカに引かれてゆく。部屋はダブルベッドだ。俎板の鯉というやつか。「タケシあいたかった」「僕も」「抱いて」「モニカ結婚式は教会か日本式か」「どちらでもいい、結婚できるなら」当方それができないから悩んでいるのだが。
あくる朝皇居に案内する。「ここに天皇ヒロヒトがおわすのか」「まあ大勢の方たち、彼は国民意に愛されているのですね」「天皇家だけは名字がありません」
二重橋から皇居の回りを歩いてホテルに戻る。朝の散歩はモニカ親子を満足させたようだ。朝食はサンドィッチに珈琲であったがさすが一流ホテル味が違う。「美味しいですね」「珈琲が格別だ」「もうしばらくしたら都内を観光しましょう」「タケシお仕事はいいの」「私がいなくても事務所は運営されるようにしてあります」
はとバスは都内観光に便利だ。東京を網羅的にガイドが案内してくれる。浅草が外人には人気のようである。モニカに土産を買ってやる。喜ぶ娘を見て父母も買い求める。「モニカこれで支払えと万札を渡す。「私たちの分まで買ってくれるの、いい婿殿」


その日は東京メンネルの練習日だった。「お疲れでなかったら合唱の練習をのぞいてみませんか」と両親を誘った。ホームステイの打ち合わせの為だ。休憩時間に大歓迎を受ける。会長が一言どうぞと前に立たす。「我々は再びみなさまに東京で会うことができ幸いです。また歓迎に感謝します。今回の訪日目的はこの日曜日モニカとタケシとの本祝言を挙げることでありますか、皆様方のご臨席を賜りたく存じます」拍手と歓声の中で健は図られたかと思った。会長が「来週の日曜午前11時から青学会館で矢野君とモニカさんの婚礼執り行います。この結婚は訪独中の出来事でありますので合唱団婚と致すことになりました」と高らかに宣告した。もはやこれまでか。矢野も観念して山本浩に写真を依頼する。

日曜日結婚式場には東京メンネルの団員が集まった。ドイツ駐日大使までが列席している。「日独関係は常に睦まじく時には強く結ばれることが理想であります。新郎新婦さーん、がんばってください」
意味深な祝辞だ。ケンちゃんも黙っていない。「100mでのフライングは失格であります。我らがメンネルにおきましても抜け駆けはご法度、しかしかような麗しき乙女をものにした、その功大なれば特別の温情をもって赦免するものであります」

東西東西 東西南北 しずーまりたまえ
エイエイサッサー エイサッサ-

団員の家族も「奥様お久しぶりドイツ旅行以来ですわね」「ねえ奥様矢野さんあの時に種を蒔いたそうですよ。それがねもう2歳ですって」「まーあ」「彼女の父親が動かぬ証拠と写真を持ってきたという話」「見たいわ、見せてもらいましょ」

二人はシュミット先生を通訳に引き連れ父親に近づく。「おめでとう御座います。本当素晴らしい結婚式ですこと」「アリガトゴザイマス」「お孫さんの写真見せて頂けます」「まあそっくりじゃない」「言い逃れできないわね。生まれちゃった婚」「でお嬢様は日本で暮らすのですか」「異国のことゆえ心配です」「お母様心配ご無用。私たちがモニカを守ります」「かたじけないことで」と日本式に頭を下げる。この一言でモニカは矢野姓を名乗るのだが他の妻たちの了解をどうやって得たかは詳らかではない。結婚しないとビザが取りにくいとか言って拝み倒したのであろう。日本人妻たちは遠来のドイツ娘には特段の配慮するのかもしれない。

飲めや飲め 歌えや歌え 飲めや飲め 世の更けるまで

酒飲みに捧げる歌、それは矢野が指揮者荒木に捧げた曲であった。矢野は荒木に心酔していたが荒木も矢野を息子のように思っていたのだ。次から次へと合唱がつづく。大使館の家族も久しぶりにくつろいでいるようだ。男声合唱段東京メンネル婚だ。

新婚旅行は奥入瀬渓流を観て、五能線を回ってくるそうだ。父母はホームステイして日本を楽しんでいる。結婚写真とビデオが出来上がって来た。矢野が依頼したものだが今回も監督小柴瞳、カメラ山本浩、照明黒沢敏夫となっていた。父母の分もあった。「何よりの土産だわ」と母親が喜ぶ。モニカ写真集はどんなものになるのであろうか。松崎敬子写真集も忘れてはならない。


駒込直美は離婚届に署名した。矢野の戸籍及び付表を取ったからである。矢野健の結婚歴が記載されていた。直美は離婚届を出した。何も言うまい。1週間ぶりに帰宅した健はそわそわしていた。「健一、今日から駒込健一ですからね。あなたのお母さんは健一のお父さんと離婚しました」日本人男が未婚の子を認知すれば外国人の母親は記載されるのか?母は空欄?と言った問題は生じなかった、いや、先送りとなった。モニカが矢野の戸籍に入ったからだ。ドイツ大使館が後押ししたから手続きは3日ですんだ。とは言え離婚するのも時間の問題である。誰かが妊娠するまでの期間限定である。復縁するには矢野の子を宿さなければならない。

 ということはモニカが離縁されるのも時間の問題であるが和子と京子の配慮で遠来の花嫁ということで離縁は可哀想となった。結局昔ヨット部の山田が言ったように認知すれば足りるということになったのだ。和子と京子が矢野の誠意を評価し、異国に暮らすモニカに同情し花を持たしたのだ。直美も先輩の措置に異議を唱えることはできなかった。同じ心情になっていたのであろう。
 ついでにモニカの使命はなんであったか。日本国民が世界をとくに米国をどう見ているかを本国の父親に報告することであったがベルリンの壁が崩壊した後その任務は解かれるのであるが、たとえ矢野がモニカの任務を知ったところで左程の関心は示さなかったであろう。祖国を分断された国民とそうでない国民との違いと言ってしまえばそれまでではあるが。

矢野は商社の磯松を忘れていなかった。今日あるは彼のおかげである。モニカの父親ハンブルグ市長に紹介した。磯松は同市の土地開発分譲を受注した。日本を代表する商社だが市長の後押しがあったからだ。磯松から国際電話が入った。「おかげで500億の受注だ」「少しは役に立ったか」「十分に」


中田喜直

 中田喜直の合唱曲はピアニスト泣かせが多い。伴奏と言うよりコンチェルトである。彼の作品混声合唱曲「ダムサイト幻想曲の」女声合唱団と東京メンネルの合同練習でピアニストが戸惑っていると小柄な男が「弾いてみましょうか」と弾いて見せた。矢野は驚いた。「あの人は」「かの有名な中田喜直」と指揮者の荒木が教えてくれた。
 雪の降る町をの出足の旋律はショパンとそっくりである。それだけショパンに心酔していたのであろう。ピアニストを目指しながら作曲家に転じたのはどのような理由であったのかは知らないが非凡な演奏は矢野を驚かしたのである。録音当日矢野は電車の中で立っている中田喜直とあった。立ち上がって直立不動で席を勧めた。矢野を東京メンネルの団員と憶えていたのか「曲どうですか」と矢野に声をかける。「は、なお一層、奮励努力するであります」と答えた。この紳士は元帝国陸軍少尉でもあらせられたのだ。
 父君中田章の早春賦はあまりに有名だが、中田喜直はこれを超える数々の歌曲を世にだしている。矢野は中田喜直のピアノ曲軍艦マーチが好きだ。君が代とともに本格的シンフォニーに書いて欲しいと思っていたのだ。この中田喜直にしても見果てぬ夢があったことであろう。人の価値はその夢の大きさにあるのではないか。夢が実現したかどうかは大した問題ではない。

中田喜直の曲はシューマンの響きもある。シューマンもピアニストを諦めて作曲家に転じたから通ずるものがあるのかも知れない。名演奏家にして名作曲家は少ない。ヴィヴァルディ―、モーツアルト、イザイ、宮城道雄などの名前が浮かぶが他にどんな作曲家がいようか。サラサーテ、ショパン、クライスラーなどは作曲家というより演奏家であろう。
 最初から作曲家を目指した者は少ないのではないか。多くが自分の演奏に限界を感じて作曲に転じたのであろう。これは矢野健の独自な意見である。モーツアルトは演奏家にして作曲家であり、いずれも完璧である。神が彼の手を使って曲を書いたという表現はまさにピッタリである。しかし矢野には物足りなさを感じる。それは何か。人間らしさ、見果てぬ夢がない。ベートーベンに代表される曲には人間の夢を感じる。それも見果てぬ夢を。完璧なものには味気なさを感じる。神業で人間業ではない。
晩年矢野は5人の妻に話したことがある。和子はそんな気もすると言った。京子は黙ってうなづいていた。モニカはそのとおりだと叫んだ。直美と敬子はむつかしい話という顔をしていた。しかしこどもたちには矢野の考えを伝えたのであった。どのこどもも矢野の影響で音楽を好んだ、とくに男の子は成長して年頃になる「親父の言ってたことがわかる」と話していた。その母親は我が子に矢野を感じた。


時の流れに

駒込直美は矢野がモニカと結婚した時、香川京子を訪ねた。話を聴き終わると京子は「やはりね」と言った。「で駒込さんはどうしたいの」「わかりません、ですから先輩に相談しようと参りました」「そう。私あなたが気に入った。谷さんを呼んで3人で相談しましょ」京子が電話すると半時間ほどで和子がやってきた。どうやら二人はうすうす感づいていたようだ。
京子が概要を説明すると和子は「あなただったの。私が離婚されたわけは」と直美に言った。「矢野はドイツ娘と結婚しました」と直美が言うと二人は黙ってうなづいた。「ところで駒込さん、どうやってこの情報入手したの」「それは」「私たち先輩後輩(何の?)でしょ。しかも同じ舟に乗った」「そうやねえ、運命をともにするんや」直美は戸籍の履歴を見せた。「あなた、すごいね」「これは法律違反ですので」「大事の前の小事。気にしない」「駒込さん美人やし、しっかりしてるわ、あの人が手を付けるわけや」と和子が感心した。「あのう、手だけでなく全身付けられました」
これには二人も大笑いした。「これは検討と対策が必要ね。何か作るわ」「私やります」「今度は直美さんの家でご馳走して」「わかりました。その次は谷さんですか」「そうなるわね」「その次はモニカさんですか」二人はどきっとした。「それは彼女がこの対策会議に参加するかどうかね」直美は参加すると踏んでいるようだ。普通は三つ巴の闘争が繰り広げられるべきところ、和やかに話が進むのは日本人ゆえか矢野を共有する連帯意識ゆえか。新婚旅行から帰ったモニカは会議に参加することを表明した。

第4回目はモニカが昼食会を兼ねて会議を開催した。「私はあなた達3人に友情を感じます。わたしの料理召し上がってください」「美味しい」「いけますか」「さすが矢野健ね、いい女ばかり選んでいる」「本当にそうですね」「今日の議題は会議のメンバー増やさないということね」「矢野健を召喚しますか」「それですむような玉じゃないのね」

和子は見かけによらず核心部分をズバッと言う。「彼の行動を制約したらええが」「どうやるの」「例えば私らが同居したらあいつを監視できる」「おおきな家が要るね」「4所帯住宅。お互いのプライバシーは守りながらの共同生活」「素晴らしい考え」「矢野は最近300坪の土地買ったんや、家建てるから土地貸してと言えばええが」「貸さなかったら」「ストや、わたしら団結して要求が通るまでは断固拒否」「何のスト」「モニカ、読解力がまだね。和子はその地主資本家は女なしでは三日も生きられない男といったの」「オー今私はすべてを理解した。和子は策略家ね」「さすが年の功ですね」「直美さん、ちょっと若いからって失礼やない」「失礼しました。お許しください」

ここで一息。「なるほど建築資金の足りない分は彼に出してもらうか」「区分所有ですか」「そう、これ見て。200坪を4等分する。真ん中の吹き抜けは子供の遊び場と来客待合。玄関はてんでに」「敷地は借地ですか」「地主は私らの家に居候や、家賃養育費と相殺」「さすが家政学部」「専用部分と共用部分とで経費が浮きます、ついでながら」事は議決のとおり進んだがその後も議題が無くても会議は継続した。女には議題など不要なのかもしれない。
その一部を紹介しておこう。「和子さん、貴方に寝取られたとき悔しかったけど結果的には良かったと思っている」「京子さんこそ矢野を横取りして。でも一人では身が持たないわ」「そうよ、1回でくたくた」「それってセックスの事」「ほかに何がある、モニカ」「すみません、でも私は大丈夫」「直美さん、今の発言記録しておいて。そのうちねを上げるわ」直美が議事録作成にかかる。「で、直美さんはどうなの」「私はそんなにやりませんから」「どれくらい」「平均して2回ちょっと」「十分じゃない」「でも週1日ですから」「そうね新婚さんだものね」「京子さんはどうでした」「それは」「教えてください」「むかしは、多い時で週3日。今は1日以下。和子さんは」「そんなもんや」「うむ、健を降参させた者に賞金を出すのはどうか」「面白いけど、原資は」「みんなで月千円積み立てる」「4人で年48000円になる」「1年も攻略できないのかなあ」「賭けとなれば曜日を公平に振り分けましょ」モニカの提案「彼にも週一日は安息日を与えないと」は全員一致で採択され、時間割が作られた。つまり矢野は週6日勤務するということだ。この勤務形態を幸せとみるか過労とみるか評価は分かれよう。原則生理日はパス、排卵日にパスしたいときはその権利を譲渡できる。よって妻たちの勤務は週1.5日強になろうか。お互いに譲り譲られのパス日の勘定がむずかしい。しかし間もなくこの時間割は勤務者が1名増え改正されることになるのだが。

時間割は背番号で表示されていた。1番京子2番和子3番直美4番モニカ。各選手の打席は週一の計算になる。相手の勤務は週6日だから単純計算では1.5であるが生理日、その他でベンチを温めることもあるから週一は現実的である。四死球を打数に数えないようなものか。肝心の相手を攻略したかは聞いていない。積立金の残額を確認すればよいのだが。
時間割を見ながら京子がつぶやいた。「私たち、同じものを視ているのね」「同じもの、タケシのチンチンか」「モニカ、言っていることは正しいけど色気がないのね」「すみませぬ」「私は彼の夢を追体験している」「さすが和子さん」「私は先生の仕事を継いでいます」「継いで?」「モニカ、直美は後継者として彼の仕事を追体験しているということ」「それはタケシが一番わかるでないか」「そうですか」「そうだよ、男は仕事が一番」「そうね、でもモニカの日本語、いまいち」

四階建16室の別棟が少し離れて建築された。3階の一室は矢野の書斎に当てられ、4階は来客用に充てられる。3階は眺望がよいのだが下から監視しやすいとの思想が秘められていた。その他の用途は追々に検討するそうだ。広い庭は子供たちの格好の交流の場となった、矢野も子供たちと遊ぶのを楽しみにしている。来客の多いのは直美だが次はモニカであった。両母親は孫見たさだがモニカの息子も日本で住むことになったことも原因であろう。

現行犯逮捕起訴

矢野の書斎には等身大のヌード写真が掲げられていた。モデルはもちろん直美、京子、和子、モニカであった。書斎は立ち入り禁止であったが、部屋の掃除に入った松崎敞子が発見した。「女は裸が一番だな」「私も撮ってください。前にも言いました」「処女はだめだ」「なら女にしてください」「お前わかっているのか、女になるとは」「セックスすることです」「それはまずい、直美の友達だろ」「直美がそんなに怖いのですか」「そりゃな」「和子さんの時は」「悩んだ」「モニカの時は」「許してくれ、和子、京子」「直美の時は」「お前尋問するのか」「先生は過ちを犯しました。三度です。三度あることは四度あります」「屁理屈ぬかすな」「私は女として見られていない。悔しい。直美に勝るとも劣らないと自負しています」「思想は自由であるがこの部屋は監視されている」「ではこれから私の部屋で」「待て早まってはいかん。それに未成年だろうが」「私はすでに成人です。当時直美は未成年でしたが」矢野はまたも乙女に襲われるのだが後のことはご想像に任せる。

京子は目を吊り上げて和子、モニカ、直美に言った。「逮捕、起訴ね」「まさか」「もう2時間」敞子が矢野の部屋に入ってからの滞在時間だ。「電話にも出ない、逮捕」妻たちは現場に急行した。和子がマスターキーでドアを開ける。これは合鍵は作らなかったが矢野過失であった。裸の二人は現行犯で逮捕された。これには後日談がある。機会があれば紹介する。
即起訴だ。検察官モニカ、弁護人直美、裁判官京子和子。罪状認否では被告人らは否認した。起訴状の朗読。弁護人は松崎敞子が初犯であることから情状酌量を求めた。検察官尋問。「被告人は矢野健とやったのか」「やっていません」「まだ白を切るか。このビデオを証拠として提出する」ビデオには一部始終が録画されていた。「被告人は松崎敞子とやったのか。この出血はどのようにして生じたものか。罪を認めて男らしく腹を切れ」
裁判官がたづねる。「弁護人意見は」「被告人矢野健の本人尋問を申請します」「認めます。証人は宣誓しなさい」「証人は松崎敞子に言い寄られたのですね。彼女は美人なので拒み切れなかった。で味の方はどうでしたか。今までに証人がやった女と比べるといずれが勝りましたか」「証言を拒否する」「証人は私たちの顔をまともに見ることができますか。以上で終わります」「検察官反対尋問どうぞ」「しない。弁護人が全部尋問した」もっともである、京子と和子は笑いをこらえた。審理終了を告げると弁護人が立ち上がった。「以上のように被告人らの有罪は明らかでありますが松崎敞子は等身大のヌード写真を見て自分も飾ってもらいたいと思ったのも同情の余地がありますから寛大なる判決を求めます」「では追って沙汰する。被告人らに判決言い渡しまでの間、謹慎を命ずる」
裁判官の合議は揉めたが「被告人矢野健に800万円、同松崎敞子に200万円の罰金を支払え」との判決が言い渡された。矢野が常習犯であり、松崎敞子が初犯であることから妥当な判決であろう。ただ松崎敞子については執行猶予を付けるべきとの和子の意見は京子に押し切られたようだ。裁判官の性格の違いか。250万ずつの罰金を手にした妻たちは松崎敞子を入会させるにあたっても紛糾した。入会金200万を取るか否か。「矢野には改悛の情がないこと、それに敞子も正式に認められるのだから。それにマンション一室400万なら安いわ」とモニカ京子。「それは可哀想」と直美、和子。敬子が五人目の妻になったから200万を支払ったと思われる。しかし矢野と同じ階の一室に入居したから400万はいい処かもしれない。4人の妻は計300万の臨時収入を得て態度を変えた。黄金は世界の惚れ薬。


"Was Ich Dir Sagen Will" (別れの朝)
Was ich dir sagen will  Fehlt mir so schwer 
Das blatt papier vor mir  Bleibt weiss und lere
Ich finde die wort night  Doch glaube mir 
Was ich dir sagen will Sagt mein kravier
私の言いたいことは私を憂鬱にさせる……それはピアノが語ってくれるだろう。



美女たちの近況を報告しておこう。香川京子は外語学院の教師となり今や院長を嘱望されている。谷和子は幼稚園の園長として穏やかな毎日を送っている。駒込直美は行政書士の資格に宅建主任者も取り事務所を切り回している。矢野モニカはドイツ人日本学校の講師としてまた通訳として生活を楽しんでいる。松崎敬子は島崎社長の秘書として実質的に浪漫建設を経営している。宅建と行政書士も取ったのだが彼女だけが長い間簿外であったのは矢野の島崎社長への心配りであったのかも知れない。

美女たちの会議には松崎敬子も加わった。「矢野のおかげで楽しい人生を送ったわ」と京子。「ほんまやね」「私考えることの大切さを知りました」「私は彼と合って日本に来てそしてあなた達と友達になれました」「私たち矢野を共有している」「そうね、私生きるって、素晴らしいと思える」「彼をもっと大切にしないといけないわね」「私たち同じ舟に乗ったのね」「私は乗られました」「同じ運命やいうことじゃ、直美さん乗り返さなかったの」「結婚とは生殖器の共有とカントが言ったけど私は彼を征服し専有したと思うの」「モニカの生殖器は強力なんだ」「敬子だって強そう」「私ね、矢野と心もいっしょになった気がするんや」「そうね和子さん矢野とHすると身も心も一つになって新しい世界が開けてくる感じね」モニカ直美敞子も同調した。
ここで矢野攻略の掛金を手にしたのは誰か報告しておこう。「直美、敞子が怖い、腹情死するかも」「敞子は陸上で国体に出場したくらいだから。押さえ込まれたのですか、手加減するように言っておきます」かくて敬子がそれまでの掛金を受け取った。これは事件の前兆であったのだが。「敬子の積み立ては少ないのに敬子が全額受け取るのはおかしい」「モニカそんなこと言わないの。敬子さんが勝利したの。潔くしなさい」「だって京子は悔しくないか、Hの最年長者として」「敬子は少ないチャンスをものにしたから凄いと思います」「そうね、新参者に掛金を先取りされたのは癪だけど私たちもランニングすべきや」「和子さん毎朝一緒に走りましょう」
これがきっかけで妻たちのランニングが始まった。矢野も引っ張り出されるのだが子供たちも自主的に参加した。モニカが一番熱心であった。「日本の女に負けてなるものか。ドイツ民族の誇りをかけて次回は勝つ」と宣言した。

珍談 出ない抜けない死ぬかも

その夜、京子は電話で起こされた。「助けてくれ。出ない抜けない死ぬかも」矢野の悲痛な叫びだ。京子が敬子の部屋に駆けつけると結合した敬子を抱えた矢野が見てのとおりと目で訴えた。京子は二人をベッドに座らせると和子に援助を求める。和子は事態を察知しモニカ直美にも出動を要請した。
四人は二手に分かれて引き離しにかかった。痛いと矢野が叫んだ。和子が「チン切れるかも知れんねと」ため息をつく。「矢野の膨張係数を低めるか、敬子の締め付けを緩めるかだ」「そんなことは見ればわかる。どうやるかじゃ」「締め付けがきついから出さすしかないわね」京子がやさしく金のタマを撫でる。「直美さん、敬子さんをさすってやって」「なめたらどうか」「モニカ兎に角やってみて」「急がないと二人とも死ぬかも。敬子さん癲癇はない?ハンカチ咥えさせておこう」と和子。適切な処置であったが効果はなかった。
重苦しい雰囲気に包まれる。「こうなったら強制的に出さすしかないわね」「何をですか」「直美さん金玉なめて。モニカは敬子をマッサージ。和子さん矢野を抱いていてくれますか」京子は矢野にキスしながらささやく。「矢野さん出して。全部出して。貴男の子が欲しい」矢野がうなずく。「ああ私行きそう。来て来て」「行く行く」「頂戴、全部頂戴」矢野が渾身の力を込めて放出した。すると敬子は悦楽の表情を浮かべる。「いい気なものね」「今は緊急事態や。もうすぐ小さくなるでえ」京子がささやく。「矢野さん良かった?私きっと妊娠するわ」これで矢野は安心した顔になった。(なお後日、敬子の妊娠はこの時の射精によるものとの見解に異論はなかった。そして事実敬子は出産育児で一年半欠勤した)
こうして京子の頓智で危機を脱した。「敬子の懸賞金取得には問題がある。タケシが締め付けを恐れての降伏だったから攻略したとは言えない」「モニカいつまでもウジウジ言わないの。敬子さんもなりたくてなったわけでないやろ」「すみません和子さん。人の振り見て我が振り直せであるな」「さすがですね京子さん」「Hの達人」「あら和子さんだって」「私お二人を尊敬します」「次はどうなるか。敬子さん感度がいいけど経験不足かも、直美さん、ともかく射精さすことを敬子さんに」「よく伝えておきます」「日本人は冷静だ。私などパニクッテいたかも」「誰だってそうよ」「でもさすが矢野ね。よく京子さんに電話したもんや」「ほんとね、あの状態で」「私らこれからも助け合っていかな」「そうよね。二人とも死んだ例があるそうよ」矢野と敬子は横で寝息を立てていた。その夜女四人は危機を脱した二人を見守りながら四人で語り明かした。
敬子が直美に告白したところによると初体験で出血が無かったので処女を疑われているのではないかと悩んでいたそうだ。「可哀想に、それで頑張り過ぎたんや」「話してくれたら矢野はそんな男でないと言ってあげたのに」「でも処女は好きな男にあげたい」「それはそうよ」「敬子さん見かけによらず純情なのね」直美から話を聞いた矢野は運動選手には処女膜が破れている者は少なくないと慰めたそうだ。以後不測の事態は発生しなかったようだ。
やの京子がしみじみと言った。「あの時ね。和子さんが拒まなかったら、私、矢野を奪っていたかしら」「あなたが奪わなかったら私、処女のままだったかも」「あら、私だって処女だったわ」「京子さん勇気があるわ」「何を今さらと思うけど、毎日だったら私身が持たなかったと思うの」「何が毎日ですか。他動詞は目的語を求めるのに、日本語難しい」「モニカ、単語だけを聞いていてはあかん。文脈をつかんでいかないと何のための時間割を作ったの」「申し訳ございません、するとこういうことですか。矢野が和子を求めたが和子がこれを拒んだので京子が先に矢野とやったということか」「まあそうなんだけど、色気がないわね」「色気ですか」「モニカ日本文学を読みなさい」
モニカは日本文学を読み込んでいたので頭に来た。「京子さんどうやって8人も生んだのですか」と絡む。直美も敬子も目を凝らして身を乗り出す。京子は質問の意図を測りかねた。直美と敬子の目が催促する。「楽器がいいのね」「楽器とは性器のことか」「私の楽器は良くないのでしょうか」「それは何とも言えない、矢野が評価することよ。でも名器かも」「私は京子以上に生んでやる」「モニカ子が多ければいいと言うもんじゃないでしょ。愛の結晶でなくちゃ」「その愛を結晶させるには」「ある程度の回数は必要だけど十分ではないわね。やはり子が欲しいという願いね」「私は願いかつ望んでいます」
敬子の切実な気持ちは理解できる。「子宝に恵まれない夫婦はお花権現にお参りするそうよ。矢野に連れて行ってもらったら」「ご利益があるのですか」「ご神体は男根と膣」「日本には授産の神まであるのか」「男は膣をやさしく撫で女は男根を愛しそうに撫でるんや」「和子さん行ったの」「一度だけ」「詳しく教えて下さ」「撫でた後並んで二拍二拝」「霊験あらたか、あやちゃん」「まあね」和子と京子は先輩である。後輩たちは一目置いていたが半目は増えたようだ。「でもどうして」「矢野が子を生んでくれというんよ」「京子さんに追い付け追い越せですか。どうしたら生んでくれというのですか」「そこよ直美、私も知りたい」敬子が身を乗り出す。難しい質問である。
その気にさせるいい女とは言えない。京子も和子もいい気分である。「矢野の子を生みたい気持ちと似たようなものか。種の保存である」「世継ぎなら妾でもできます。私たちは本妻です」直美も言う時は言う。「ここは京子に実技指導してもらうか」「それは異常、変態」しかし敬子はモニカに賛同した。「私の楽器は良くないのでしょうか」「私の楽器は善い楽器と思いなさい、この思いはいい演奏を可能とする。どんな名器も弾きこなさないといい音がでないそうよ」
モニカの提案、実技指導は京子が難色を示したが矢野が猛反対。では廃案になったか。成立施行は和子の功績である。「乙女の願いをかなえてあげなさい」「和子さん、それはあんまりだ。俺は教材ではない」「矢野さん、敬子さんに手を付け脚も付けただろうが」「しかしそれは」「慰みにした」「そんなことはない」「だったら男らしく」「和子さんカッコイイ」矢野は怒り心頭に発すると黙り込んでしまう。
席を蹴って書斎に籠る。「長期戦になるわ、黙り込んだらめんどいでえ」「和子さんは矢野をよく知っている」「どうします」「しばらく様子見、戦略を考えましょう」「矢野の弱点は空腹とセックスや」「暗くなるまで待ちますか」「空腹作戦。外で焼き肉をやろう」「においが届きます」「こどもの声は届くが」
しかし矢野は徹底抗戦に出た。子供たちはすき焼きを前にしてお預けが理解できない。敬子は意を決っして三階の書斎に押し入る。「この度の事。わたくしに性を教えようと致した事ゆえ、頭を丸めて殿にお詫び申し上げます」と大音声で和平を申し入れた。そして矢野を食卓に連行した。妻たちは手拭で頬かむりをして頭を下げる。矢野も気圧されて「ではいただくか」と言うと妻たちは額を食卓につける。これで停戦合意、和平に踏み出した。「お母さん時代劇みたいや」「盗賊じゃ」「女鼠小僧」と子供たち。「そうか、百の議論より一つの行動とはこのことか。敬子に感服した」「モニカも日本文化が理解できるようになった」「うむ、今宵の権利を敬子に譲ろう」かたじけない事と敬子。その夜の戦果は敬子の晴れ晴れとした表情から推察できよう。実技指導は必要なくなったようだ。

京子の浴室に大きな椅子が持ち込まれた。シャワーを浴びている京子を矢野が視ている。「何しているの」「芸術鑑賞、これ以上の美があろうか」「あなたってほんまにすけべね」「尻を出せ、洗ってやる」「恥ずかしいわ」「自分ではきれいに洗えないだろう」京子が膝の上に横ばいになる。「もっと上げろ」シャボンで滑る。乳房が矢野に触れる。「ソープ嬢やっていたのか」「落ちくれる」「そらきれいになった、ぴかぴかだ。前も洗ってやる、開けろ」「いやだわ」「お前自分の見たことないだろう」京子は鏡の前で見つめる。「私のきれい」「極美だ」「チンチン入れたくなる」「なる、なる。さあシャンプーだ」「感じるわ」「早すぎる、今は美容中」「今度は私がチンチン洗ってあげる」「まだ身体洗っていない」京子がチンチンを乳房で揉む。「やめてくれ、行ってしまう」「まだまだ行ってはなりません」
和子はおとなしく膝に腹這った。「惚れ惚れするケツだな。キレイキレイ」「手付きがいやらしい」「これ殿自らの手だぞ、神妙にいたせ」「ああ気持ちいい、もっと洗ってたもれ」「何を考えておる。そちの身を清めておるのじゃ。次は前だ、開けろ」「やめて感じる」「清潔はおしゃれの基本、じっとしておれ」「ええけどほかの女洗ったらあかんよ」
モニカは膝に腹這うと豪快な一発を噴射した。「クセエ、遠慮はないのか」「すみません、どうにも止まらない。でもスカッとした」「大気汚染、換気しろ」「貯めるのは身体によくない。金玉と同じだ」「ばかローレライが泣くぞ」モニカは両腕をだらんと垂らして尻を上げている。「よしいいぞ。前も洗うか」「洗ってくださーい」「洗ってやるからオッパイでチンチン揉むのだぞ」「スケベ」
直美は膝の上で眠りだした。「今度は前」「このままではいけませんか。すごくいい気持ちです」「延長料金をとるぞ」「払いますから」と寝息をたてる。
敬子は膝にダイビングしてきた。「お前にはちょっとぐらい色気がないのか」「直美は眠ってしまったのですか」「直美のおしゃべりめが。さあ洗うぞ」「ほんと気持ちいい」「はい、次は前」「もっともっと」「時間です。超過料金は高いぞ。屁こぐな」「誰がこいだのですか」「いいから股を開け」矢野がシャンープーして洗い流してやると敬子は矢野を椅子に座らせる。シャボンでごしごし洗い出した。「痛いじゃないか」「でも大きくなっています。固くなってきました」敬子は湯をかぶせる。と、鎮座した。「今は入浴時間」「いいじゃないですか。ここで汗をかいて湯につかる」「こどもの教育上よくない」「性教育になります」「お前予習してきたな。いったい誰が言った」「和子さん」「え、和子が?京子かモニカと思ったが」
この椅子は時間割に従って各家庭を回ってゆくのだが盥回しか椅子回し。その後各浴室にはマットが用意された。発案者は誰か。ソープ嬢一同の合議と言うだろう。「敬子チンザしたのか」「失礼ね、座禅よモニカ」「私は立禅」「直美どうやるの」「首にぶら下がって腰に脚をかける」「重いでしょう、矢野が可哀想」「私そんなに重くないです。足腰を鍛えることにもなります」「ハードトレーニングや。若い人にはついていけん」「でも面白そう、和子さんもやったら」「恥ずかしいわ、京子さんは」ソ-プ嬢たちはHがお好き。彼女らに秘密はない。果たして矢野の身がもつか、彼の運命は。

特筆すべきは、直美がコアラのようにぶら下がったこと及び和子がおんぶしてと強請ったことである。これを受けて矢野は屋上にソープランドを建築した。ガラス張りだが高いから見られることはない。逆に見晴らしはいい。湯気で冬でも寒くない。
和子は湯につかると矢野に負ぶさり景色を楽しむ。「重いなあ」「足腰鍛えな。あっちへ行って、あなた山が見える」矢野は和子を背負って歩く。「お前は甘えたやのう」「子供はおんぶが好きなの」「和子は園児並みだな」屋上からの景色は気分も晴れる。やがて和子も寝息を立て始めた。男の背中は寝心地よいのか。
しかし子供達に視られていることに気づかなかった。あや以下4名の子は和子の風呂が長すぎると様子を見に来たのだ。つまり夕飯の督促だ。「入っておいで」と招き入れる。「お母さん、お父さんのチンチン大きい」「もっと大きくしようか」和子が睾丸を揉み始める。「よせ、子供の前だぞ」「どうして大きくなるの」「お父さんに訊きなさい」「大きくなって割れ目に入れ―」「やめろ」和子はチンに跨り腰を揺らす。「痛くないの」「いい気持ち、お前たちもこうやって生まれたのだよ」性教育は親の務めというがやり過ぎでないか。

直美はコアラスタイルからチンザに移ろうとする。直美がチン頭を食えようとする。「こら、立禅にならないじゃないか」「新スタイルです」「変な気になるから落とすかもしれないぞ」「しっかり支えてください」「お前動機がいやらしい」「いいじゃないですか。誰もいません」「子供が見ているぞ」「性教育です。和子さんは実践したそうですね」「それはそのう」「さあ入れますよ」「やめろ、強姦ゴウチンだ」かくて5枚のマットは各自で屋上に移設された。後のソープ嬢たちは割愛するが推して知るべし。矢野は青空、月、星を見ながら性交することを知った。


わたしたち義姉妹

香川京子が考え込んだ。「何を考えているの」「あのね、同じ女と関係を持った男たちは義兄弟になったというそうよ」「じゃあ私たちも義兄弟」「女だから義姉妹よ」「聞いたことは無いわね」「だからこういうの何ていうのでしょと考えていたの」「義姉妹でいいじゃない」「でも肉体関係だけじゃないわ」「愛における義姉妹たちは如何でござる」「うーん。正確だけど詩情がないわね」「愛の義姉妹でどうでしょう」「まあまあかな、でももっといい呼び方が出てくるまでこれでいこうか」「そうしましょ。難しいわね。大切なことは私たちが仲のいい姉妹であるということ」
今度は谷和子が考え出す。「かなちゃんとあやは姉妹よね。私とかなちゃんはどうなるんや」「義理の母」「生みの親に対して」「こどもたちはお互いに兄弟姉妹と思っているから私たちは育ての親じゃないですか」「そうね、私たち自分が生んだ子でなくともお互いに協力して子育てしているわ」「うむ、直美のいうとおり私たちは育ての親たちである」

そこへかなが駆け込んできた。「あやちゃんが池に落ちた。助けて」全員が飛び出す。池は深さ1mぐらいだが底に沼がある。親たちが駆けつけると大柄のハンスがあやを肩車して岸に近づいていた。沼に足を取られ苦労している。「ハンス頑張れ、あと少しだぞ」「あや落ち着いて。ハンスの動きにあわせて」などと岸から叫ぶ。こどもたちも固唾を呑んで見守る。和子の顔は引きつっていた。
あやがハンスの動きに合わせだしたのでハンスはかなり楽になった。そして大人の助けが無くても岸にたどり着けると思った。が、後一歩のところで転倒した。あやは池に投げ出される。しかしハンスはあやを押し上げた。和子があやを抱き上げる。ハンスをモニカが引き上げた。よかったよかったと歓声が起こる。

矢野が息せき切って駆けつけた。あやを抱きしめハンスを抱き上げた。「どうして池に落ちたの」と和子がたずねる。「あとだ。すぐ風呂に入れろ」矢野は二人の手を引いて家に向かう。和子とモニカは先に走って風呂に湯を入れる。
矢野はまずこどもの無事を喜ぶべきだと言っているのだ。矢野はハンスとあやを風呂に入れる。和子にはモニカのところへ行けという。矢野はこどもたちの身体を丁寧に洗ってやる。「さあ、湯に入ろうか」あやとハンスが矢野に抱きついてはしゃぐ。こちらは和子がモニカと一緒に風呂に入っている。モニカもこの頃は日本の習慣を理解しだしていた。「私あほやわ。まずあやの無事をよろこばないと」「和子わかるわ。私もハンスに同じことを訊こうとした。タケシさすがね」「こんなとき女親はだめね。あやよかったな、ハンスよくやったと身体で言っているのね」「だよな和子。たけしに惚れ直した」二人は声を上げて笑った。その夜矢野はハンスとあやの間に寝た。川の字になって。和子とモニカも加わって大きな川となった。こどもたちが寝入ると和子とモニカは自分の部屋に帰っていった。

【モニカの自慢話暴走族】

ある時モニカが語った。「私たち3人組の暴走族に襲われたことがあるの」「いつどこでモニカ」「その時矢野が命懸けで私を守ってくれたの。私愛されていると思った」「惚気はいいから詳しい話を」「そうよ焦らすんじゃない」「ごめん貴女達は先輩だものね」

矢野とモニカがキスしているところに3人組の暴走族が通りかかった。「お、いい女じゃねえか。俺たちにもやらせろ」一人がモニカの腕を掴んだ。矢野がその手をねじ上げ突き飛ばした。「野郎」3人は狂暴な野獣と化す。一人がサヴァイヴァルナイフで矢野を一突きしたとモニカは思った。次の瞬間、矢野の右手がナイフを握った手首にふわあっと置かれ左手が男の腕の付け根に置かれた。鈍い音がした。肩が外れたようだ。
2人目が鉄パイプで襲ってきた。矢野が男の足を踏んで首筋を抑えた。男は勢い余って前のめりなったが足首の靭帯が切れたようだ。ところが「こらあ何をしていると警官二人が矢野を取り押さえたのだ。あとから駆け付けた警官に矢野が「奴を捕えろ」と3人目を見遣るが急発進して逃亡した。

矢野とモニカは警察に連行される。「署長室はどこだ」矢野が低い声で言った。警官はせせら笑う。「彼女の父親はハンブルグ市長だ。外交問題になるぞ」警官の態度が一変する。署長室に通される。「君たちの身分を証するものを見せてもらおうか」矢野が静かに言った。直立する警官たち。「君らを告訴する、警察がいいか検察がいいか」署長が「事情をお聞かせください」と慇懃に言った。「こいつら殺人犯逮捕を妨げ逃亡を幇助した」「詳しくお話し下さい」「暴走族に襲われたので現行犯逮捕していたのだ」「それは」「違うと言うのか。奴らの運転免許証を確認したのか」事情を聞いた署長が平身低頭する。「君たちは」「誠に申し訳ありませんでした」「この落とし前をどうつける。アベックと暴走族、一目瞭然ではないか」「そのとおりであります」「謝って済むなら警察は要らない。指でも詰めるか」横のモニカも「新婚旅行台無し。ドイツ大使館に相談するわ」と怒りをぶちまける。警官たちは土下座して謝った。「私許しません」「土下座している者を許さないわけにはゆくまい。ここは日本だ」「一人は肩をもう一人は足を痛めているから医療機関を捜査しなさい。彼らを取り逃がしてはなりません」とモニカが直立の警官たちをにらみつける。「しかしタケシ、どうやって彼の肩を外した」「彼の力を手首と肩に分散した」警官は合気道か、太極拳かと言いかけて口をつぐんだ。

署長が名刺を差し出しながら「お名前とご職業を」と猫なで声で訊いてきた。「彼らは強要罪殺人罪の共同正犯だ。逃亡者の身柄を確保しろ。必要なら法廷で検察側証人に立ってやる」「ご協力感謝します。今後の連絡もございますので是非お名前を」と署長が重ねて言った。矢野が名刺を差し出すとうわーやっかいな奴をと言う顔をした。「君たちが職務に熱心なのはわかるが、もっと人を観る目を養え。市民の生命と財産を守ることは口だけではだめだ。では駅まで送ってもらおうか」

モニカが語り終えると「あの人そういうところあるわね、愛しているとは言わないけれど」と和子。「自分の為に命を懸けてくれる男。愛されているって感じるとき女は最高に幸せね」と京子。駒込直美も松崎敬子も黙ってうなづく。モニカは「愛されたいし、愛してるって言って欲しいな」と訴えた。「そうね日本人は言葉にするのを恥ずかしがるのね。言っても愛情がへるわけでもないし」「そうそう、言わすべきよ」「誰がやるの」ここで話が止まる。「誰が鈴をつけるか」と京子がいうと全員が大笑いする。「けどあの子供の可愛がりよう、妬けるわ」「あの人はブスだからと言って冷たくしません。が間抜け根性悪には醜美に関係なく憎しみを丸出しにします」「言えるわね」「日本人、子どもの可愛がりようは世界に類がないわ」「そこが魅力でもあるわ」「そう、妬けるけど幸せと思うわ」「私たち、そんな男の子を生んだのだから」「そうね、他の男の子は生みたくない」「彼、やりっぱなし産みぱなしをすーごく憎むのね。やるのはやってもいいが産むなですって」「人類への反逆だ」「そうそう、犬猫にも劣る」「種の保存は子育てにあり」「モニカ上手いこと言う」「日本で初めてほめられた」「さあお茶にしようか」「彼も呼ぶ」「彼はThe way we wereね」
和子のお茶は美味い。鉄瓶と水らしい。水は石神井から汲んでくるそうだ。名水の誉れ高いが理事長が毎週届けてくれるという。それに鉄瓶の水垢がいっそうまろやかな味にする。「和子さん炭代払うから水分けて」「ええよ、練炭がいいのだけど手に入らなくなってね」「私の身内が扱っています」「ほんま直美さん」「一度試してください」これ以後矢野はどこでも茶をうまそうに飲むようになる。和子の味とは言わなかったがモニカの茶に驚いた顔になる。ハ
こういうことも茶会の話題になるのだが。「矢野は和子さんに可愛いって顔するじゃない」「あら京子さんには甘えるが」「そうなの、こどもが一人増えた気分」「こどもが元気で育ってくれたら言うことないわ」「ほんとね、でも私はもう十分。若い人にまかせるわ」「心得た、我ら三人におまかせあれ」「モニカあれはまだまだ卒業してないわ。ねえ和子さん」和子は黙って笑う。「私はもっと生みたい。私は魅力が無いみたい」「そんなことないが。あの男魅力のない女には手を出さない」「そうよ敬子さん生むぞという情熱よ。でも行く行くと言ったら行かせてあげて」「もったいないです。あの瞬間このまま死んでもいいと思います」「それだけ性能がいいということか。我、来て来てなれば敬子の賞金獲得に異議を唱えまい」「そうよ敬子さん自信をもって。まだまだ行ってはなりませんと言いたくても行かせてあげる」さすが京子さん、一同いたく感服せり。

ついでながらクリーン中央は100人を超す企業となり、雇用の場、環境保護と地域に多大な貢献をしている。社長の天野慎太郎は米独の大学に留学して廃棄物処理のあり方を世に問うている。小柴瞳は映画監督、山本浩は芸術写真家、黒沢敏夫は報道カメラマンとしてそれぞれ活躍している。


 大学を卒業して40年の歳月が流れた。広瀬涼子から合唱団の同窓会に誘われた。最初で最後の参加だと四国まで出かけた。丁度仕事で出張していたので軽い気持ちで会場に入った。「矢野さん会費1万円」といきなり言われた。2年後輩の能田隆子だ。
 懐かしい顔もオジン、オバンになっていた。矢野を見る平井の眼は冷ややかであったが森山がやさしく迎えてくれた。途中退団組は気が引けるところがあった。今も合唱を続けている者はほんの数人であった。あれほど情熱を傾けたのも青春の一時期のことであったのか。指揮者というだけで平井と結婚した能田隆子が「会話のない夫婦」と言っていたのが印象に残った。

 矢野は20年前に郊外に300坪ほどの土地を購入し妻たち4所帯分の建物を新築した。それが京子和子直美モニカの議決に基づくことは感じていた。谷和子とその子供5人、香川京子とその子供8人、駒込直美とその子供6人、矢野モニカとその子供4人が同居していた。4人の妻と23人の子宝にめぐまれたのである。これに勝るものはあるまい。松崎敬子とその子3人は簿外であったが最近正妻に加えられたので5人の妻と26人の子というべきであろう。毎月の食費代とて大変だ。注文しないでも現地農家,漁師が毎日のように宅配してくる。月決めの支払いは和子がするがスーパーよりも安い。大量注文とはいえ、新鮮で美味い。矢野が値切らないはずだ。商いとて人との交わり信頼だ。現地は自信を持って発送してくるのであろう。夏休みにはバスを仕立てて家族旅行だ。自分たちが食する物は農家、漁師の賜物だ。子供たちは心から「いただきます」と言うようになった。翌年からは民泊して農業漁業を体験できるようになった。五家族が分散して民泊するのだが謝礼は受け取らない。代わりに東京に出てきたときは矢野のところに泊まるようになった。近所の奥さんたちも新鮮な食べ物と消費者に加わった。生産者と消費者の交流が復活した。商品の疎外こそ戦後経済成長の弊害だ。


子づくり26人は偉業である。これぞ日本男児。妻5人はイスラム教をしのぐ。日本は何でも教?夏休み家族でドイツ旅行。モニカの里帰りに合わせたが総勢32名、バスを仕立てての移動となった。ドイツではモニカの一族から歓迎された。テレビ局も取材にやって来た。
質問は旅行目的と子創りであった。当然であろう。旅行目的はという質問に「妻たちへの感謝と子供達の海外体験」と答えた。「その妻たちをどうやって得た」「それは秘密。土地と女は求めて得られるものではない。縁である」「縁とは」「勉強しなさい。日本人を取材するのなら」と矢野節が出る。
2週間のドイツ旅行を密着取材するテレビ局もあった。矢野が新聞テレビの取材費で約500万円の旅費の半分以上を浮かしたのはさすがである。ハンブルグ、ベルリン、ボンと懐かしいコースを辿る。ホームステイ先では矢野との再会に涙を浮かべる。旅の後半はアルプスを越え、イタリア、フランス、イギリスを巡る。紙面の都合上旅の詳細を割愛するが矢野の永年の夢であった。
モニカの「わが新生活と源氏物語」がドイツで出版されることになった。日本版を見ないと詳しいことはわからないが矢野健と妻たちの関係は源氏物語と似ていると言う。女たちが一人の男を共有ないし総有しているのが日本社会だと結論付けている。モニカならでは見解である。これに対し「矢野は公家でもないし、色男でもない」「金も力もそこそこある」「女たちを心からチン剣に愛している」等の批判があった。「私は男女の所有関係の在り様を論じている」「女は男に所有されるものではない。日本は天照大神俗名八倉比売以来母系社会である」「京子嘘言うな。仏教が日本に伝来されたのは7世紀奈良時代だ。当時俗名などの仏教用語はなかった」「モニカは母系の意味がわかっていない」等々喧々諤々。
矢野の見解。「出版するのはよけれども、変なことは書くな」変なこととはモニカが屁をへった事、和子が性教育をこどもの前で実践した事などを指す。「そんな事書くか、恥かしい」「書かないよな、モニカは才色兼備だから」「ありがとう、あなた」
モニカは漱石、鴎外を愛読した。明治以前の日本語の方が今の日本語より理解しやすいと言う。モニカはもともと日本語を勉強したいと日本に来たのだ。最近では与謝野晶子の源氏物語を精読し、西鶴、清少納言さらには紫式部に取り組んでいると言う。これには京子和子直美敬子も脱帽。さらにさらにモニカが版権300万円を得ると態度が激変。「モニカすごいわねえ、印税も入って来るのでしょう。私に役に立てることがあったら遠慮なく言って」「私日本語の清書はできます」などとモニカに擦り寄る。
その夜「健、日本の女は恐いなあ。今夜しみじみ知らされた、女心の裏表」とモニカのベッドの上。「モニカもわかったか」「わかった。男女の交わりいみぢうをかしければ今夜はいっぱい突いてくれ」「意味は正しいがかようなときは愛してくれというのだ」「愛は精神的なものだろう」「日本語は即物的な表現を嫌うのだ」「左様でございますか。いみぢう愛されまほしき」矢野もたじたじとなるがモニカをやさしく抱き寄せまた激しく突き上げる。

妻たちの会議で和子がつぶやいた。「矢野はロリコンだから娘に手を出さないかしら」「和子さん、いくらなんでも実の娘でしょ」鰻のかば焼きを頼んだときのことである。さばく鰻は百匹以上。世話になった方たちへの鰻重の差し入れだ。鰻屋をチャータ-した。「鰻の頭チンチンに視えない。精が付くそうよ」「和子さんも好きね。昔は純情可憐だった」「だったのよ。ニンニクは京子さんの好きな金の玉」「カラタチの実は秋は実るよ」「まろいまろい金の玉だよ」「京子さん舌で転がす金の玉」「和子さん乳房でいかす日本刀」笑点か。「聖書に父親とやる姉妹の話があるでえ」「おどかさないでよ、私かなが心配になってきた」「ニンニクも睾丸に見えますね。やはり性教育が大切と思います」「直美さんも言うじゃない」「両者とも精が付く」「鰻もニンニクもチンチンに効くのか敞子。それに直美、誰の教育か」「こどもたちよ、モニカ」「矢野は」「彼には教育効果が期待できないでしょ」「では監視体制を強化するか」「モニカは現実的ね」「でも効果はありそう」「やっかいな男ね。でもそれぐらい元気でいてくれたら」「京子さんも好きねえ」「あら、貴女だって」女たちの話は尽ない。「矢野が昔こんなことを言ったことがある」と京子が言った。
『愛、それはただ互いに見つめ合うことではなく、ふたりが同じ方向を見つめることである。Loving is not just looking at each other,
it’s looking in the same direction』「いい言葉ですねね」「直美、それはサンテクジュペリだ。日本人がなぜ知っている」「日本人は英仏独文学も読むの。モニカももっと日本文学を読みなさい」「そうする。もの言えば唇寒し秋の風」「モニカやればできるじゃない。話す方はハンスに日本語教えてもらいなさい」モニカの版権は半分旅費に飛んだ。モニカはこれに懲りて版権の残りと印税はしっかりガードしている。日本の女は恐い。


矢野は子供たちが所帯を持つ世代になったので一町歩、1万㎡の土地を買い足した。といってもクリーン大地の保養地を管理すると称して使用しているのだが、さらに管理料としてクリーン大地から少しずつ土地建物の持分を5人の妻たちに贈与させている。何十年かすればすべて持分は妻たちに移転する計算だ。節税になるそうだが実質は矢野の顧問料である。しかし時は無常であり無情でもある。矢野の精力は減退を見せ始める。京子も和子も女の盛りである。性欲のピークは男が18女が36ともいわれるから当然と言えば当然である。その攻勢に矢野はついに音を上げた。モニカに直美敬子の第二波第三波は激しさをさらに加えるやも。己が選んだ道とはいえ、楽あれば苦あり。精力の衰えを体験技術で補えるか矢野の健闘を祈るだけである。

結婚した子供たちが敷地内に順に建物を建築したのだが建築費は自前、借地代まで取られた。「それでも親か」「養育費の利子分だ。これからはいっそう親孝行しろ」矢野のどの子も妻一人夫一人であった。これには異論もあろうが矢野の調子のよい見解である。子は親の背を見て育つ。とくに息子たちは矢野二世としてどう活躍するか。そして孫用の建物を建築する頃には矢野の家族は100人を超していよう。矢野健家族合唱団の響きは天にも届くことであろう。  



                  ―合唱物語完―

本作品はフィクションであり同姓同名の方がおられてもご本人とは無関係であることをお断りしておく。
                                      佐々木三郎2014.4.22                                                 

合唱物語

合唱物語

  • 小説
  • 長編
  • 成人向け
更新日
登録日
2014-10-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章学生指揮者
  2. 第二章一流合唱団
  3. 第三章世界合唱祭
  4. 第四章合唱団員同窓会