「これはもう、何年前になるのかしら、まだ私が高校生だった時の話なのだけれどね」

そう、私の勤め先の先輩である、恐らく齢六十をこえているであろう、しかし品があり人の良い、篤子さんは話し始めた。きっかけは、私が昔の酷い目にあった話をしたことであった。彼女は、「あら、それなら私もあるわよ」と言って、その話を聞かせてくれた。私と篤子さんは、齢は三十程離れているが、いや、離れているからこそか、親子のように仲が良かった。彼女は私に気を許してくれているからこそ、そんな話をしてくれたのであろう。
篤子さんは、店のエプロンを脱いで、椅子に掛けて、自分も椅子に座った。私は茶を淹れるためにポットでお湯を沸かして、向かい側の椅子にエプロン姿のまま座った。

私のうちは、まあ昔で言ったら華族のお家柄でね、今は没落して、貧しいその日暮らしなのだけど、昔はとても裕福だったの。私は大学まで
親のおかけでいけたわけ。私は昔から本を読むのが好きだったわ。父の書斎には、たくさん本があったから、私はよく父の書斎に入り浸ってた。父とは、だから、仲が良かったわ。でも、母のことは嫌いだった。母は典型的な良妻賢母ってのねで、女は男より劣るって古い考えの人だったわ。母は私より弟を大層可愛がった。私はその母の考えが大嫌いで、だから、母のことが嫌いだった。拗ねもあったのかもしれないわ。まあ、憎みきれないところはあったのだけど。父の書斎には、日本語の本だけでなくって、英語の本も沢山あったわ。半々くらいの割合だったんじゃないかしら。英語の本は、綺麗な表紙のが多くってね、ちっさな頃から、英語の本に憧れて育ったの。だから、私は自然と英語が好きな子になったわ。高校生の時、父の薦めで私はカナダに留学することになったの。

「へぇ、篤子さん。留学していらっしたの」
私は驚いて、思わず口を挟んだ。言っては失礼だが、確かに品の良いご婦人ではあるのだが、篤子さんはあまり学のある人には見えなかったからである。
「じゃあ、英語が話せるのね」
私が感心して言うと、篤子さんは、豊麗線をくっきりと浮かべて、笑った。
「いいえ、まさか。だって、一ヶ月で帰ってきたもの」
「まあ、どうして?」
「それを今から話すのよ。とにかく、お聞きなさい」

母は大反対だった。『留学だなんて』って、ずっとぶつくさ言ってたわ。今なら、心配して言ってたのだとわかるのだけど、その頃は、また、私が女だからって反対してるんだと思って、意地になって、私は絶対に留学するぞって、それで、高校二年生の秋からカナダへ留学したの。
私は父な知り合いのお家に居させてもらうことになったの。父も大学時代にそこへ留学していて、その時にできたお友達のお家だそうで、とても良くしてくれたわ。父と同じ齢のお父さんと、二つ下のお母さんと、私と同じ齢の女の子に、小さな子が二人、男の子と女の子、4歳と5歳だったかしら?五人家族のお家だったわ。とても広いお家でね、私の昔の家も広かったけれど、私の家よりもお金持ちの人たちだったのね。私は一階の一番奥の部屋をあてがわれたわ。その部屋もまた広くて、それにとっても綺麗な部屋だった。昔書斎で見た、父の洋書の中の写真のような部屋だったわ。壁はクリーム色で、一面カーペットなの。扉は白で、取っ手が金色。私は説明が上手でないから、うまく伝えられないけれど。木製のベッドと、勉強机と、それとは別にドレッサーとがあって。それぞれに繊細な彫刻が施されているの。ベッドの四隅には天使がいて、それはもう、素敵。ベッドはとってもフカフカで、私、学校から帰ってそこでお昼寝するのが一番の楽しみだったわ。
皆、英語のほとんど話せない私にとても良くしてくれた。お母さんの料理はとっても美味しかったしね。特に、同じ年のメアリーは学校でも私の面倒を色々見てくれて、宿題を教えてくれたりもしたわ。メアリーはそれはもう綺麗な女の子だった。本当、絵本の西洋のお姫様みたいに、金色の巻き毛に、真っ白な肌、赤い唇、まあ、これはどうやら口紅を毎日塗ってたみたいだけど、それでも、とっても素敵な子だった。少し目蓋の重い、眠たそうな目がまた、ねえ、うっとりと夢見るような表情を作って、あんな綺麗な子、まあ、滅多にいないでしょうねえ。
メアリーの弟のジョシュと妹のエミリーは、彼女が大好きだった。この子たちもとても綺麗だったけど、お姉さんには敵わなかったわね。特に、エミリーはメアリーのことを崇拝してたと言っていいくらいだったわ。いっつも側にくっついてね、ちっちゃな侍女さんみたいだった。夢のようなお家だったわ。お母さんは品のある貴婦人で、大変趣味の良い方でね、家具やらは全部あの方が選んだらしいわ。絵を描くのがお好きで、私にも少しだけ教えて下すったわ。私には残念ながら絵の才能は、と言うか、なんの才能もないのだけど。お父さんは気さくな方でねえ、ちょっと子供っぽい所が欠点だけど、気の長い、器の広い人だった。
だらだらと説明するのもこの辺りにしましょう。とにかく、とても良い方々だって、私、こんな素敵なご家族と一緒に生活ができて、それにお勉強もできて、なんて幸せ者なんだろうって、ホームシックもどこかへふっとんで、楽しい日々だった。
あれは、私が向こうへ行って、一ヶ月を少し過ぎた頃だったわ。よく覚えてるもの。十月の二日よ。私は部屋で寝てました。私の部屋は、一階の、って、さっき言ったわね。お家の方々はもう九時過ぎにはいつも寝てしまうのだけど、その日はたまたま遅くまで起きていて、十一時頃に皆床に着いたの。私はいつもそのくらいに寝てたわね。確か。ご両親と小さい子達の寝室は二階の部屋、メアリーのだけ私の隣の部屋だったわ。だから、たまに少しお話したり一緒に絵や本を見てから寝たりもしたわね。夜中の二時頃かしら、私は変な音で目を覚ましたの。そうね、キィーキィーって、ほら、戸を開けた時になる、あの音。キィーキィーって変な音が聞こえて、私は目が覚めたの。なんだろうって、不思議に思って、私は目が冴えてきて、ちょっと怖くなってね。耳を澄ましてじっとしてたの。そしたら、バタンって音がして、あ、やっぱり戸の音だったんだわ。だれか起きたのかしら?って少し安心して、でもまだ少し不安なまま、納得しました。すると、次は、ギャッっていう、人の声が聞こえたの。今でも、時々思い出すの、あの声を。空耳で聞こえることもある。只事じゃないって、すぐ分かったわ。バタンという音が聞こえて、二階が慌ただしくなったわ。ドンドン、また、ギャッ。次は小さい子の声。私は動けないで、そのままベッドの上で蹲ってた。泥棒だわ。そう思った。私も殺されるのだわ。隣の部屋の扉の開く音が聞こえて、私はハッとしました。この騒ぎで、メアリーも目を覚ましたのね。廊下を歩いていくメアリーの足音が聞こえて、私は心の中で「行ってはだめ!」と叫んだわ。怖くて、声は出なかった。犯人は、下までは降りてきませんでした。家族構成を知っていたのでしょう。騒ぎに気付いて近所の人が通報して、私はベッドの上で放心状態の所を発見されて、保護され、軽い事情聴取を受けて、帰国したわ。一旦は犯人に疑われたのだけど。なんとか疑いは晴れたの。なぜかってね、メアリーが生きてたのよ。腹を刺されて重傷だったけど、なんとか、命は取り留めたの。彼女は、顔はわからないけど、犯人は男だったと証言したのね。私は部屋でずっと居たから、特にまあ、疑われるところもなかったのだけど、一人だけ無傷だったからかしらね。
日本に帰って、迎えにきた母が、泣きながら、一目散に私の方へ駆けてきて、私を抱きしめました。私もふっと、緊張が解けて、一緒に泣いたわ。怖かった。それと、私だけ無傷で平気なのが、いけないことのような気がしたの。向こうの人も、皆とても心配して労ってくれたわ。でも、その裏に、なぜお前だけ平気なのだ、って言う憎悪がある気がして、怖かった。私のことを、無条件に愛してくれる母の存在を、その時初めて、心から実感した。母は、誰よりも何よりも、私のことを心配してくれていた。弟の方が大事だなんて、そんなことなかったの。母は私を抱きしめながら「よかった、よかった」と何度も呟いていた。生きててよかった、って。
話はね、実はこれで終わりではないの。これは、貴女にしか話してないことよ。いい?誰にも言ってはだめよ。
私は、事情聴取に対して、自分は何が起きていることには気が付いていたが、怖くて部屋にいたので何も知らない、見ていない、と答えました。けれど、これは嘘。嘘なのよ。私は見たの、犯人を。そして、犯人も私を見つけたの。窓の外を走っていく彼と、私は目があったのよ。私は犯人を知っているの。月明かりで、はっきり彼の顔が見えたの。その人は、同じ学年の、男の子だった。名前は知らないわ、話したことが無かったから。でも、顔は何度も教室で見ていたから、知ってた。それに、彼がメアリーのことを愛していることも。彼は私を見て、少し立ち止まったわ。私はどきっとした。殺される。そう思って身構えた。けれど、彼は私を見逃した。私と彼は数秒見つめあった。そして、彼は私の瞳の中に、私は彼の瞳の中に、同じものを見て取った。私はそう思ってるわ。彼は、笑ったの。笑ったのよ。それから彼のことは見ていません。犯人は、結局捕まらなかったらしいわ。
私はメアリーを愛していたの。死ぬほどに。殺してしまおうと思うほどに。愛していた。彼は、私の中のこの愛に気付いたのよ。私はメアリーを愛してた。今もよ。メアリーは、その二ヶ月後に自殺したわ。精神的なショックで。私も後追い自殺を図ったけれど、すんでのところで発見されて、生きてる。私は生きてる。彼も、もう死んでるかもしれない。私は、まあ、よくわからなくなってきたわ。何が言いたかったのかしら。ごめんなさいね。

そこで篤子さんは話をやめた。机の上で組んだ手をじっと見つめる篤子さんを、その目を、私は少し怖いと思った。この人は、一体、この人の中にある情熱は、一体なんなのだろう。それは、もう燃え尽きてしまったのかしら。嗚呼、それとも。

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更新日
登録日
2014-10-07

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