フィルターの向こう
人は、箱庭から出ることは出来ない。
出来ないのだ、普通なら。
出ないことこそが幸せ。
あなたもきっと、一度も出れない。
出れたとすれば、不幸なことなのだ。
人は自ら箱庭を作ったのだから。
だから、出れたとすれば、それは人間のバグであり、
人間社会において排除されるべき存在なのだ。
本来なら。
あなたは箱庭の外に出てみたいと思うだろうか。
それはもう、バグだ。
外に出れしないのに、外を覗こうとしてはダメだ。
もがけばもがくほどバグが生じて自身を蝕む。
こんな小説を書いている、私はもう……
ダメかもしれない
植物人間(一)
「……、ダメですね」
最後の砦が崩された。いや、もしや嘘やもしれない。『心が見える』だなんて、よくあるオカルトのように信憑性の無いものだ。けれど、そうじゃないか、と自分の中で確信めいたものがあったのも事実。白いベッドの上の片割れは、沈むように横たわっている。命をつなぎ止めておく何本ものチューブが、未練がましくこの世に引き止める此岸の怨霊のように、かろうじて温かい身体に絡み付いて放さない。
「どう、するのですか」
男が試すような口ぶりで静かに言い放った。選択肢を与えられているようで、与えられていない威圧感。むしろ、選択肢なんてものは最初から存在していないのだろう。彼女は既に死んでいる。ここにあるのは共に連れて行くはずの抜け殻だけ。数々のチューブがそれを無理矢理拒んで引き止めているに他ならない。
「延命措置は、もう……。楽に、してあげたいと、思います」
ボロボロと涙が俯いた足下をぼやけさせては落ちて行った。彼女はもう、死んでいるのだ。私が隣でこんなにボロボロと涙をこぼしても、気がつくことはない。何となく、分かっていたのだ。片割れが既に死んでいたことくらい。発生した時から一緒に居て、一緒に生を受けたからだろうか。何故かは分からないが、双子特有のあの繋がっているような感覚がここからは一切しない。一方的に電話を切られツーツーという電子音が聞こえるだけのような感覚。言いようも無い孤独感を、この抜け殻に会いに来てブツブツと独り言を言うことで紛らわしていたのだ。この抜け殻だけでも、『生きていて欲しい』と思っていた。彼女は既に『死んでいる』のに。それを第三者からハッキリと告げられると、今まで逃げて来た時間だけ膨らんだ喪失感が真っ向から襲いかかってくる。
「……わかりました」
そう、小さくつぶやいてから男はわずかに悲しそうに顔をゆがめ、私にハンカチを差し出す。私は素直に受け取って、次々とこぼれ落ちてくる水滴を押さえながらうなだれた。ツーツーという電子音すらあきらめ、私も電話をおかなければならないのだ。
「どこかでわかっていたのでしょう……?」
『心が見える』。本当に見えているかのような言い方だ。頷くと、彼は細く長くため息をついた。私のやや後方に目を向ける。
「彼女も側に居たがっていますよ」
「え……?」
瞬間、頭をよぎったのはホラー映画のワンシーンのような画像だった。なぜかは分からない。自分の願いが、怨霊のようだ、なんて自嘲してしまったからかもしれない。似たような思いで片割れが側に居たとしたら……?鳥肌が立ち、思わず自分自身を抱きしめる。男はそんな私をどこか軽蔑した目で見つめていた。その冷たい瞳に再びゾッとする。この人は何を見ているのだろう。心?こころ?ココロ?心とは、一体……。
「……貴方のお気持ちも少しは理解出来ます。植物人間になった双子の姉をなんとかして延命措置。テレビでもよく美談としてあがる話です。何年後かに意識を取り戻したりして。寂しい、生きていて欲しい。そんな気持ちが彼女をこうさせたのでしょう」
後ろが気になる。しかし、振り向けない。振り向いてはいけないような気がする。ごくりと唾を飲み込んだ。
「しかし、今抱いた感情は……、恐怖ですよね?あなた方は双子だ。考え方もよく似ているようで。お互いにお互いの世界へと引きづり込んでいる。感じているのも一緒。酷い孤独感。そして、何故一人にするの?という少しの恨めしさ。」
息が苦しくなる。正解だ。図星。後ろでぴりぴりと空気が震えているような気がする。
「今振り返れば後悔しますよ。貴方のフィルターは正常だ。それを処理するには今までの経験に基づいたものに変換するでしょう。おそらく、先ほどイメージしたものと同じようにね。双子の縁は太い。このままだと、貴方の本体に触れられる分、彼女の方が優勢でしょうね」
息が上がる。さっきから指先1つすら動かせない。そのはずなのに、視界だけがぐらりと揺れ、世界が真っ暗になった。
気がつくと、見慣れない天井を見つめていた。酷く身体がつかれていて、重い。それでもなんとか上体を起こし、部屋を見渡した。小綺麗に片付いたさっぱりとした部屋。扉の向こうで人が話している声がする。立ち上がって扉の方に向かおうとしたが、身体が言うことを聞かない。ぼんやりとした頭で、片割れが既に死んでいたことや側に居たがっているということを振り返ると、ここがどこであるかなどということは全く気にならなくなった。
唯一の家族だったのだ、片割れが。二人で家賃を出し合ってきたあの少し広い部屋も、既に解約して来た。一人で医療費を払いながらでは負担が大きすぎる。しばらくは、ネットカフェや公園なんかに泊りながら新しい部屋を見つけるつもりだった。誘拐やら強姦やらいう言葉が少しよぎったが、それでも、もう良いのだ。通っていた大学もやめた。苦学生だったが、彼女が仕事で出た給料から少しだけ援助してくれていた。彼女が死んで、通えるわけが無い。仕事を探さなければ。いや、もう、死んでしまいたいくらいだ。誘拐ならば、いっそのこと殺して欲しい。
「目が覚めましたか?」
見覚えのある男がドアを開けてやってきた。その妙に冷たい視線で先ほどの男だということが分かった。男は持ってきたマグカップをベッドの近くに置き、椅子に腰掛ける。
「先ほどは、すまなかった」
男が私の目を見ずに窓の外を見つめながらつぶやくように言った。私は何のことか分からず、その横顔を見つめた。
「……。あなた、どこに住んでるんですか。目が覚めたなら、送って行きます」
その問いにはきちんと答えられない。もう帰る場所は無い。調べておいたネットカフェは少しさびれた治安の悪い路地にある為、そんなところを指定すれば疑われるかもしれない。近くのショッピングモールくらいまで送ってもらって、そこから歩いて行くことにしようか。でも、道が…。
「……、何をそんなに慌ててるんですか」
ぎくりとして、冷たい視線を見た。全てお見通しだというように、視線が突き刺さる。この人に事情など言えるはずも無い。住む場所もない、学校もない、仕事も無い。どんな軽蔑の目で見られるかは容易く想像ができる。……かといって、全てがばれているかのような状態で嘘をつくのも見苦しいだけだろう。
「今、住む場所が無いので、ネットカフェまで連れて行ってもらえませんか」
正直に話すと、男は怪訝な顔をした。無理もない。
「住む場所がない?」
「はい。解約してきました。医療費で家賃も払えませんし…」
「仕事は?バイトでもいい」
「……、これから見つける予定です」
話せば話すほどお先真っ暗だ。片割れがそっちに連れ込もうとするなら是非そうしてほしいとも思えて来る。現実は辛辣だ。どんな悲劇がこようとも、ハンディキャップなんてくれるはずも無い。ああ、もう死んでしまった方がいいかもしれない。這いつくばってまでしたいことなど、特にない。
「……住所不定で出来るバイトですか」
「……働けるだけましですかね」
男はため息をついて、ちらりと私を見た。もう、なんと思われようがどうでもいい。仕事といっても、確かに住所不定ではろくな仕事は無いだろう。といっても、私は曲がりなりにも女なのだから、ソウイウモノを売りに戦った方がお金は入るかもしれない。なんていうのは浅はかな考えなのだけれど。
「……わかりました。住み込みで家政婦をしてください。ただ、給料はありません。生活費を渡すので、貴方は三食の準備や洗濯、掃除などの家事をお願いします」
急な話に驚いて男を見ると、盛大にため息をつかれた。
「お仕事ですよ。明日からで結構です。今日はきちんと休んでいてください」
「あ、ありがとうございます」
慌てて頭を下げる。男は後ろ手に手を振りながらドアに手をかけた。
「いえ。……ちょうど、この部屋に空きが出たので、雇っただけです。また夕飯時に呼びます」
バタン、と音を立ててドアが閉まる。しんとした空気が辺りを包んだ。一人で居ると、ホラー映画を見た後のようなイメージのフラッシュバックで怖くなる。私は目を閉じて自ら金縛りにするように無理矢理に眠りについた。
記憶(一)
くらいくらい風景の中、ひたすらに落ちて行く。
ふっと、昔のことを思い出した。
「……あの子、気味が悪いわ」
綺麗な壁紙がはられた映像と、不気味な色したコンクリートの壁が同時にちらつく。
その向こうから、鋭利な物体がコンクリートをするりと通り抜けて自分の身体に突き刺さった。
頭ががんがんする。めまいも激しい。
さっきまで口から鋭利な物体を吐き出していた母親が、どうしたの?とドロリとした手を差し出してくる。
触りたくなくて、払いのけた。それでもその手は肩に触れてくる。感触はない。ないけれど。
全身に鳥肌を立たせながら、必死に逃げ回る。怖い。きもちわるい。触らないで。
母親は、ぐるぐると形を変形させながら、さっき自分に刺さったものと同じものをいくつも身にまとう。
「どうしてそんなに逃げるの?!お前ってやつは!!!!」
絶叫と共に一斉に鋭い物体が一気に突き刺さる。
この刺は、絶対に躱せない。何度も試したけれど、無理だった。
刺が刺さりすぎて動けなくなったとき、母親は羽交い締めにして汚い手でぶっては何度も刺すんだ。
本体がぐったりする。
だめ。ちゃんと意識を持たなくちゃ。意識を…。
そうやって、何度も気絶したんだ。
叫び
日々の生活にも幾分か慣れて来た。と言いたいけれど、まだまだ立ち直れていない。あえて騒がしくバタバタと元気なように振る舞って忘れようとしているが、何かの拍子に何の前触れもなく涙があふれてくる。だから、ボーッとなんて出来ないのだ。背後が気になるし、喪失感に何も動けなくなる。だから。
洗濯機が働いている隙に掃除機をかける。あれから一週間。男の名前も篠崎彰信だということが分かり、篠崎さんと呼ぶようになった。どんな仕事をしているのかは知らないが、朝八時半には家を出て夕方六時には帰ってくる。自分の部屋の掃除が終わると同時にインターホンが鳴った。
「はい!」
『あ。菖蒲ちゃんかい?回覧板だよー』
「はーい、ちょっと待っててください!」
開け放したドアを閉めて回り、さっと身を整えてドアを開けるとお隣さんの田中さんがにこやかな表情で回覧板を差し出す。
「家政婦おつかれさまだねぇ。これ、篠崎さんにバレないように食べちゃいな!」
「ありがとうございます!」
くすくすと笑いながらタッパーとビニール袋を受け取ると田中さんがどういう経緯でこれを作って余ってしまったかを教えてくれる。たわいもない世間話をした後、田中さんが急に声を潜めた。
「そう言えば、知ってる??これにも注意喚起のお知らせが入ってるんだけど、最近ちょっとおかしい人が多いみたいでねぇ……。なんでも訳の分からないことを叫びながら、襲いかかってくるらしいから、菖蒲ちゃんも気をつけなぁ」
「そうなんですね……。ありがとうございます」
本当に心配そうな顔で私の顔を覗き込んだ後に、ニカッと笑ってみせた。
「ま、菖蒲ちゃんが本当に気をつけるべきは篠崎さんかもねぇ」
「まさか!」
二人で笑った後に、田中さんはお昼のドラマが始まるからと慌てて自分の家に戻って行った。貰った里芋の煮っ転がしをおかずに、とりあえず白いご飯を温める。ご飯を食べたら、話してる間に洗濯機が終えた仕事の受け取り作業だ。今日は天気がいいからきっと速く乾く。うんと伸びをして、少しめまいがして、ソファに座り込んだ。あ、ダメだ。忙しい間は何もかも忘れていられるけれど、こうしてふと立ち止まったときには考えてしまう。片割れのこと。あの日言われた篠崎さんの理解しがたい発言。フィルターが正常、処理、変換。一体何のことだろうか。この一週間の間にもそれとなく尋ねてみたが、どれもかわされてしまった。電子音が鳴って立ち上がる。昼ご飯を前に手を合わせて軟らかい里芋に箸を入れる。今日、帰って来たらもう一度聞いてみよう。テレビをつけると田中さんが夢中になって見ているであろう昼ドラマが、愛人が自棄になって刑事に八つ当たりするシーンを映し出していた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
出来立ての里芋の煮っ転がしをお皿に移しながら玄関に声を投げた。お昼に食べた里芋が美味しくて、おまけにビニール袋の中をのぞくと大量の里芋と田中さんレシピが入っていたから作ってしまった。
「里芋??」
「はい、田中さんが教えてくれて」
久しぶりだ、なんて言いながら篠崎さんはネクタイを緩めながら自室に戻る。お味噌汁とキュウリの浅漬けを出して夕飯の準備はおしまい。座って待っていると、少し緩めの部屋着に着替えて来た篠崎さんはそそくさと食卓に着いた。
「いただきます」
里芋に箸を伸ばす。やっぱり美味しい。少し濃いめの味付けでご飯がよく進む。二人で食べる夕飯の時間は、その日一日どうだった、などではなくて、大体食の話だった。家政婦として雇われている以上、雇い主の食の好みは把握しておかないといけないだろうと思う。嫌いだからといって出さない訳ではないけれど、無意識であっても二日嫌いなものが食卓に並ぶのは嫌だろう。
「うん。美味しい」
里芋、オッケー。確認しながら胸をなで下ろす。主婦との差というのは、この生活が雇用関係で成り立っており、普通の主婦以上の働きを示さなければ解雇されるのではという不安があるところだ。あの冷たい視線を思い出せば容易く想像はできる。仕事はしっかりしなければ。
「あ、回覧板きたんですね。ああ、それで田中さんが」
頷いたところで、田中さんから聞いた話を思い出した。
「そういえば、この辺で叫びながら襲いかかってくる人が出没するらしいので気をつけるように、と言われました」
「……そうですか」
篠崎さんの声が曇る。……なにか気にさわることだっただろうか。まさか。かたかたと食器の鳴る音が響く。今日は、この間のことについて聞かない方が良いかもしれない。聞いても、答えてくれなさそうだ。しばらく無言でいくつかの山芋を食べたあとに篠崎さんが顔を上げた。
「……犬はどうやって鳴きますか?」
あまりに突然の問いかけに眉を寄せたが、少し考えて、ワンワンと答えた。
「猫は??」
「にゃあにゃあですよね?」
「……じゃあ、人間は?」
……。からかっているのだろうか。篠崎さんの顔を見てみるが、至って真面目な表情だ。人間が鳴く、の意味がよくわからない。泣くならわかるけれど、そういう話をしているのではないだろうし……。……雄叫びのようなものだろうか。
「うおー……みたいな、かんじですかね……?」
私が様子をうかがいながら答えると、篠崎さんは満足気な顔をした。
「それなら、犬は犬同士で意思の疎通をしてると思う?」
「はい。唸ったりして威嚇したりしてますし」
「猫は?」
「してると思います、きっと。喧嘩だってしますし」
篠崎さんは頷いて、箸を置いた。
「じゃあ、大勢の人間しか居ないところに、人になれていない犬を一匹だけ入れるとする。犬はどうなる??」
「……。おびえると思います。吠えてみたり、逃げてみたりして」
「それと同じことです。まぁ、違うかもしれませんが」
訳が分からない。そのちょっとおかしい人がおびえる犬と同じだというのだろうか。けれど、犬の場合は人間に囲まれた場合だ。人間が人間の中でなぜおびえなければいけないのだろう。私が考え込んでいると篠崎さんはフッと笑った。
「貴方は私の生きている世界を知りたいと思いますか?」
心が見える、と以前篠崎さんは言った。心とは一体なんなのだろう。見てみたい気もする。ただ、それを好奇心だけで言っていいのかどうかが分からない。
「……その恐れは大切にしておいたほうがいいですよ。貴方は私の言うフィルターについても教えて欲しいと頼んできましたが……。聞きたいのなら教えます」
ごくりと唾を飲む。あれだけ知りたかったことが、急に怖くなって来た。けれど、ここで聞かなければきっと教えてもらう機会を無くしてしまうだろう。頷くと、篠崎さんは観念したように息を吐いた。
「それなら、一杯やりましょう。けれど、少ししか話しませんよ」
篠崎さんはキッチンからビールと缶チューハイを取り出すと私に缶チューハイの方を差し出した。缶の開くいい音が鳴ってから、乾杯、と小さくつぶやく。
「さっきは、犬に例えて話しましたが……、あれには語弊があります」
篠崎さんは、何となくつかれたような掠れ声でそう言った。
「大勢の人間に犬が囲まれると言いましたが、正しくは、大勢の犬が人語を話しだし、取り残された一匹、です。つまり、おかしいのは私たちの方なんです」
篠崎さんはビールをごくごくと音を立てて飲み、私は目を丸くしてチューハイを舐める。
「貴方は、鳥が犬と会話したり、犬が猫と会話をしたりすることを知って……知らないですよね。彼らは互いに話せるんです。……水中の生き物と陸上の生き物ではどうか分からないですが、とにかく私たち人間とは違う手段で互いに話します。ところが、私たち人間は他の動物と世間話なんて出来ない。何故だと思いますか?」
篠崎さんは私の答えをじっと待つ。焦って答えをひねり出そうとするが、考えがまとまらない。薄い色素の瞳が私の目をまっすぐ射抜いていて、私は思わず目を伏せた。
「……私たちが、外界との接触を絶ったからです。人間全体が、人間世界のみで生きていられるように進化、というか変化したんです。繁栄に都合が悪いから」
「つまり、人類ごと引きこもったといういみですか?」
「まあ、そういうことかもしれない。貴方は鶏が絞められるときになんて叫ぶか知りたいですか?幾度も幾度も連れられては戻って来なかった豚の別れをかわす声を聞きたいとおもいますか?生きたままさばかれる魚の悲鳴を聞きたいと思いますか?」
思わず黙り込む。そんなものを聞いていたら、普通に生活は出来ない気がする。けれど、そんなことにいちいち気を取られていたら食事など出来ない。そんな悲鳴は聞こえないようにする。それは一番合理的なことに思えた。
「そう。その悲鳴をただの鳴き声となんら区別できないようにしてしまう。その表情をなんの変化も無いかのように認識してしまう。それが人間が生きる為に自らに掛けたフィルター。貴方に言った『フィルターが正常』というのはそう言う意味。犬は犬に、猫は猫に見えるでしょう?」
「……篠崎さんはそう見えていないんですか?」
「俺は、フィルターは半分は正常で半分はバグなんです。だから、半々で見えますね。貴方のもそうやって見えています。貴方自身が見ることが出来る姿と、そうでない姿」
思わず両手で自分自身を抱きしめてしまった。そんな私を見て、篠崎さんが珍しく笑い声を上げた。
「大丈夫ですよ。貴方は」
「大丈夫って、なんですか、それ」
むっとした顔でにらむと篠崎さんが笑いながら謝罪する。つられて笑ってしまうと、それとなくもう一度乾杯を繰り返した。カン、と軽い音に気づいてビールをもう一本開けるかと聞くと、篠崎さんは首を横に振る。
「もう、今日はおしまいです。お開きにしましょう。お風呂、お願いします」
もっと聞きたかった。もっと、噛み砕いて考えながら聞いていたかった。時間をかけて自分で消化するしかない。私は缶チューハイを飲み干して浴室に向かった。
記憶(二)
その声を、久しぶりに聞いた。
母親から逃げて、逃げて、薄暗い路地に一人座り込んでいた時。
なにかの咆哮が聞こえた。遠くの方から、だんだん近くへ。
もう死にたい。そう思っていたから、不審者なら大歓迎だった。
ちかくへ、ちかくへ。
不審者でも、怪物でも、なんでもいい。
はやく、楽にして。
街灯に浮かび上がったシルエットが人の形をしているのがわかり、その影はこちらの存在に気づいたようだ。
咆哮をもう一度あげ、こちらに向かってくる。
これで楽になれる。
目をそっと閉じて、皮膚に痛みが走るのを待った。
けれど。
か弱い犬が鳴くような弱々しい声が聞こえ、肌には少し乱暴に手首のような、膝のようなものが当たる。
不思議に思って目をそっとあけると、ヌッとすぐ近くに両目を見開いた男の顔が現れて思わずビックリした。
そして、その向こうにある、美しい造形をしたものに目を奪われた。
二人して、顔と顔の間が拳1つ分しかないような距離で、見つめ合った。
男は再び弱い声をひねり出し、その美しい腕のようなものを、肌の向こう側に伸ばしてくる。
そっとそれを受け止めると、男の顔はパッと明るくなった。
狼男のように首を反らせ、天を仰ぎ遠吠えを響かせる。飛び跳ねてむちゃくちゃな動きをした。
それは美しい造形のもののままに動き、手足は触手に準じたような動きを繰り出す。
二つの映像が綺麗に重なる様を、初めて見た。
ひとしきり鳴き終わったあと、男は造形からこぼれ落ちる液体をそのまま両目から流しながら、ガフガフと話しかけて来た。
だけど、何を言っているのかは、分からない。
わからないんだ。
そっと、肌の内側から伝えると男は動かなくなった。
造形がくしゃくしゃっと、まるで紙を丸めたかのように縮こまる。
かなしい。
なぜかこっちの両目から涙がこぼれると、男はハッとしたように、もう一度こちらを見直した。
丸まった造形が、少しずつ開いて行き、よれよれの触手が伸びてきた。
それを受け止め、受け止めたまま、僕らは二人して奥の奥で液体を垂れ流した。
男は別れ際、もう一度遠吠えをして、名残惜しそうに去って行った。
あの美しい造形は、今でも忘れることが出来ない。
あの悲しい形は。
涙
「服、足りてないでしょう。これから寒くなる。買って来てください。後でお金渡します」
気に入ったらしい、この一ヶ月で何度目かの里芋の煮物をかじりながら篠崎さんが言った。確かに、私は給料を給料としてではなく生活費として頂いているので自分自身に使えるお金はほとんどない。最初に篠崎さんが要らなくてそれなりに着れるものを数着貰ったけれど、さすがに厳しいものがあることは否めない。
「わかりました」
……スカートでも買おうかな、なんて少し気分が踊る。フッと篠崎さんが微笑んでご飯を口に運んだ。本当は、スカートなんてもともと滅多に履かないけれど。相方がよく着ていた。同じ顔が同じ格好をすれば、もう一度会えるような気もして、私はその実験をやりたくてうずうずしてしまう。『菖蒲ったら、ズボンばかり履いて……』『私には似合わないから』『なにそれ、同じ顔でスカート履いてる私に言う??』少しだけ浮いたお金を持って、二人で会話をしながら毎月の給料日の前の日に一着だけ服を買うのが楽しみだった。お金が残らなかった日には、一枚500円なんて書いてあるワゴンの中をわいわいしながら漁る。
「そうそう、篠崎さん、服を買うときに500円のワゴンとかみたりします??」
「セールをしてるワゴンとかの話しですか?」
篠崎さんがしばらく考えた後にはてなマークの浮かんだ顔で私の顔を見た。そう言えば、男性のセールワゴンは男性が見るというより、男の子のお母さんとか、奥さんが靴下とか安いのを探して買うことの方が多いかもしれない。
「そうです、それの中から一着だけ二人で選ぶのが楽しみだったんですけど、結構面白いものが入ってたりするんですよ」
「へえ」
「一番衝撃だったのは、五本指ソックスのストッキング版なんですけど、指先が、指先がすごく小さくて、ひからびたミイラみたいな指で、二人で笑い転げました。帰って試してみたら、案の定指が入らなくて、余計笑いました」
「……結局買ったんですね」
思い出し笑いと、篠崎さんの何やってるんだかという表情と、おかしくて笑いがこみ上げてこぼれる。ふと視線をあげると、篠崎さんがあの目でこちらをじっと見つめていた。ん?と疑問に思うと同時に、生暖かい液体が頬を伝って行く。驚いて指でそれをそっと触った。
「あ、れ。どうしたんでしょうね、私……。なんか、すみません。おかしいな……」
苦笑いを浮かべると、篠崎さんがツーッと左目の方から涙をこぼした。
「ええ?!」
私より意味の分からない涙に思わず声を上げる。篠崎さんは手の甲で自分の涙を拭ってから、「すみません」と苦笑いを向けてくる。なにか、悲しませることがあっただろうか。さっと考えてみても、五本指ストッキングの内容しか浮かんで来ない。私があわてていると、篠崎さんが少し微笑みを浮かべる。……篠崎さんに関しては、私は分からないことばかりだ。見てる世界が違うと、やっぱり理解するのは難しいのだろうか。
「最近無理してますね。あなたも。無理に明るく振る舞わなくてもいいんですよ」
無理……。無理、しているのだろうか。
「ここにきた初日なんか、テンション高くしようとしてたでしょう。心と身体が一致していませんでした」
完全に見透かされていて、思わずうっと息を詰まらせる。目をそらしてお味噌汁に口を付けると、ぽつり、と篠崎さんがつぶやいた。
「……あなたはどうも、影響をうけることが多いみたいですね」
「……影響??」
「うーん、そうですね……」
思わず聞き返すと、篠崎さんは低く唸って眉をしかめる。
「水みたいに、入れ物が変われば簡単に形を変える。そんな感じ、なんですが、……言葉ではうまく言えないですね」
なんというか、あまり良いニュアンスでないことは分かる。極端にいうと、芯のないヤツと言われているようで辛い。篠崎さんは慌てて「そんな落ち込ませるつもりじゃ……、すみません」と苦笑いをしてキッチンに目をやった。
「……一杯、やりましょうか」
頷いて、酎ハイを取りに席を立つ。この間はこれで、篠崎さんのいう『フィルター』について話して貰えた。今回は何について話して貰えるんだろう。コト、と酎ハイをテーブルの上において私は姿勢を正して座った。
「あなたが他のものを受け入れ易いタイプだというのは、わかります。まぁ、条件がありそうですが」
篠崎さんはグビグビと酎ハイを飲んで、じっと私を見る。
「でも、それは時として危険なんです」
騙されやすいから気をつけろということなのだろうか。私が意味を捉えかねていると、篠崎さんもうーんと首をひねった。そして少し考えた後、再び静かに私の目を見据えた。
「死には3つあります。完全な死、肉体の死、心の死。あなたのおねえさんは、一応、心の死です。というか、そもそも完全な死を迎えようとしたところに、肉体だけを維持しようとしたのですから、いろいろ複雑になっていますが」
心の死……。植物状態で心が死んでいることはそれに近いのだろう。完全な死は肉体も心もどちらも死んでしまった状態で、肉体の死は心だけが残った状態。と篠崎さんが続けた。
「肉体の死というのは……??」
「そのままですよ。心だけがうろついてる状態」
そういえばあの時、あなたのフィルターでは処理がナンタラ……と言っていたような気がする。
「……基本的には、幽霊です」
私の中で、ホラー映画のような場面が浮かぶ。
「幽霊が見えること自体がバグなんですよ。あれは人間のフィルターの外の存在です。心が見えるほどのバグを持った人間であれば心単体として見えますが、そこまでバグの進んでいない人間は気配だけだったり、声だけだったり、匂いだけでしか認識できません。もうすこしバグが進行すると、目に見えるようになります。が、心の存在自体をそのまま認識はできないんです。かろうじてフィルターがかかっていて。だから、不可解な物体を脳内の別のイメージで置き換える。それが、大体人型であるだけです」
幽霊……。それじゃあ、片割れは側にいるということなのだろうか。ん??でも、その前に心の死を迎えたはずでは。私が無理に引き止めたから、何かが起こったのだろうか。
「あなたに説明するにあたって、物事を簡単にして説明はしていますが、いろんなパターンがあるんですよ。とりあえず、肉体と心が一緒に重なって見えず、かつ、心が体に戻れない状態も死と同意義です。この場合、どちらも死んだものとしてみなしています。が、逆に言うとどちらも生きていることになります」
「それじゃあ……」
言いたいことが分かったのか、篠崎さんはちらりと私の右後ろに視線をやって私を見た。
「いますよ。あなたが『受け入れやすい』とか『水みたい』だと言った意味がわかりますか?」
私は片割れを受け入れている??
「あなたの中はさぞ気持ちのいいことでしょうね。双子で自分とあまり大差ない」
要するに、と篠崎さんがことりとコップを置いた。
「霊媒体質に近い物があると思うので気をつけてくださいね」
あなたの片割れに、あなたの体を渡してしまわないように。
その言葉に、ぞくりと寒いものが走る。さっきまで私は何を考えていただろう。スカートを買おうかな、なんて。それは私の考えたことなのだろうか。会えるかも、なんて。確かにそうだけれど、それは片割れに体を渡すことになるのだろうか。
再び、何故かボロリと大粒の涙が頬を伝っていった。
記憶(三)
最近、懐かしい風景ばかりを夢に見る。
気づけば、ほら、ここは。
節の抜けた床、ガタガタと立て付けの悪そうな窓、規則正しく……とは言えないような状態の机。
チャイムがこもった音で鳴り響く。
曇りの日の夕方には、決まって彼女はここに来るんだ。
「また、ここなの」
凛と響く鈴のような声。
目に見ることしか能力はないのだけれど、聞く能力があるのなら、彼女の声は、きっと鈴の音のような音だっただろう。
彼女の中に光る、神々しい白い造形。彼女の心はそれを支える形をしている。
自分は「憑代」なのだと以前彼女は言った。
だから、いずれはこのために死ぬのだと。
あまりにもぼうっとしていたものだから、彼女が怪訝な顔をした。
「で、今日はどんな話が聞きたいの?オカルト系??動物に関しては嫌だよ」
「……君も見ているこの世界は何??」
彼女が小さく息を飲んだ。
「その話が聞きたいの?」
うなづくと、彼女は触手を伸ばし、造形にそっと触れた。
「長くなってもいいなら」
「かまわない」
「じゃあ、私の家の神社に行くからついてきて」
そうだ、ここからだ。
この世界をきちんと知ったのは。
フィルターの向こう