少年交響組曲
我々が住む太陽系を所持した宇宙を大きな鏡で移すと現れる空想の宇宙。
美しい少年たちを妖しい月へと誘うはさも凛と彩られる紅の宵。
狂少年現象――。偽りの人類は古くからその脅威に怯え、その脅威を称えてきた。
なす術のない宇宙の掟と諦めて。
浮かぶ天秤に掛けられた生命の蠢く地球に金銀にきらめく月は燃ゆる太陽を回る。
静寂に映る自然の中に隠された秘密とは――?空想の全てを操る「操縦者」とは――?
種。
*
昔々、一人の少年は言いました。「ケーキ、半分しかないね。」
一人の少女が言いました。「二倍に増やせる方法を教えてあげよっか。」
少年は次の日、大好きなケーキを血塗られた手鏡の上に置きました。
「ほんとうだ。けーきがおおきくなった。」
鏡にフォークを刺した少年はキラキラ光る硬いケーキを飲み込んで初めて知りました。
―――これは本物のケーキじゃない。と。
しかし小さな口からこぼれるのは鏡ではなく、確かに淡い黄色のスポンジだったのでした。
少年乃虚無に満ちた目は、何も映していませんでした。
老紳士のモノローグ
イギリスはコッツウォルズ地方。とある老人の住むハーフティンバー様式の館にて。
―今宵は月が赤い。
老人の筆のようにか細い繊指がつるりとした1930年代もののビクトリアンビューローをなぞる。
もう一人の方は齢14なる若者。暖炉にくべられた火に対峙するが如く居座ったエドワード調の椅子に腰を下ろして意志を持った顔つきで
老人をにらんでいた。睨んでいるというよりは、覚悟を決めて目を合わせようとしているのだが。
突然に老人はビューローの椅子を後方へずらし、その体自身をななめに向けた。
そして老人は、軽く下唇を舐めた後、語りだす。
「今、我々が生存を許されている無数の惑星が存在する宇宙。一見無限のように見えるが、
実は薄く強度のある自然界のつながりで発生した鏡をはさみ、『鏡写しになったもう一つの宇宙』(mirrorworld)が成り立っている。
我々はその二つの宇宙のうち、偽物の方、mirrorworldに住む住人である。
そうはいったものの、あまりにも非現実的な世界観をひと思いにぶつけるのは気が進まない。
そこで、だ。そのmirrorworldの仕組みを簡単に説明しよう。まずはまぁ鏡の論理として各星々の位置にはミクロ単位のずれもないのだが、大きく違うところが一つだけあるのだよ。
それは太陽系。形が一から違うんだ。そこには地球と月とが巨大な天秤にかけられ、その平等を保ちつつ、無限の黒を浮遊しているのだ。要するに、太陽系というものは存在しない。
代わりに存在するのが今言った天秤、すなわち「une balance」(アンバランス)だ。
unbalanceは24時間で軸を中心に一回転し、また365日に一度、まぁこれはいわずとしれた物なのだが…。原因不明の怪奇現象、『狂少年現象』を起こす。
『狂った少年兵士たち』。君が14のときは酷くそれを恐れただろうね。まぁいい。
歴代の天文学者たちはみな、口をそろえてこう推測する。「12月24日に普段は等しい月と地球との質量が不平等になり、月に太陽の光があたることによる現象でありその赤い月を見ると世界で4人の少年たちがアレルギー反応を起こし狂行に走り行方知れずとなるのだ」と。
これで人々は納得しているんだ。笑えてしまうほど滑稽だろう?穴だらけの推理が理にかなっているのだ。私としてはなんとも気に食わない。
まず第一に、少年は行方知れずとなった挙句、どこへ行くのか。なぜ少年なのか。もとはといえば、なぜ月と地球の質量が釣り合わなくなるのか。
ばかげた話だ。なぜ誰もがなんの疑問も抱かずに今までそれを恐れることができたのか。
…私もかつてはそう信じ切っていたよ。あの日、しがない14歳の少年だった12月24日までは。そう私は少年兵士として行方知れずとなった。
おっと。どうやら君は私を信じていないようだね。それはそうだろう。
ただでさえファイアレッドとフォレストグリーンの妙なる肉眼を持つ老人の話など普段だと聞く耳も持てないだろうからね。
しかしだね、それこそが私の狂行の唯一無双の証拠なのだよ。
そこで君はある一つも疑問にたどり着くだろう。『前代未聞の帰還者なのに、なぜ国、いや世界は注目しないのだろう。』とな。
それはだね君、「そういう」仕組みになっていたのだ。しかし今は詳しく語ることはできない。」
「ただ、天秤の操縦者がこの世を操っている、としか今の君に伝えることはできないね。」
老人はかつての鼻梁と双眸の美しさを漂わせる妖艶な笑みをみせた。
*
揺れるのは雪膚の繊指だろうか。物悲しく死んだ宙を仰ぐ枝先だろうか。
大きく口を開けてそこにあるものすべてを呑み込んでしまいそうな日暮れの太陽にどっぷりと浸かる湖。
もう少し、あと少しで、終わってしまう、そんな言葉がよく似合う切ない煌めきを醸し出しながらも、
シルクを優しく被せた水晶さながら、その湖は頭上に薄い氷の膜を張って凛と存在している。
「もう、チェルシー!どこにいるのー?」
湖を囲うようにして蔓延っている針葉樹林の中で一人、心細げにつぶやくのは齢14ばかりの少年。地団駄を踏む度、枯れ木を己の足で相殺している彼は目的の人物を探すべく
動き出すか動き出さないかという厳しい二択を自問して、そして今自答しようとしているのだ。
―枯れ枝の割れる音がおっかない。
―針葉樹林の細さが恐ろしい。
―なによりも……
どうしたって臆病で小心者の彼の足は動きたくないと主張しているのだから実行の仕様がないのだ。
「うーん、困った…」
ヒュン―
刹那、小さな何かが彼のこめかみあたりをかすり、冷風を濃縮した小さな風のように銀の輝きを纏い、枯草の地面に消えた。
どうしたことだかその「銀」が落ちたであろう枯れ葉の絨毯を見つめると、そのこめかみを抑える動きはようやく柔らかくなり、無意識に下がっていた眉は穏やかに戻っていった。
「探したんだから。」
そう、どうやら「銀」のお蔭で目的である人物が見つかったらしい。さらにその人物はただでさえ高いその樹のわずかな枝に小鳥さながら器量良く座っている。
「木の上なんてズルいよ。早く降りてきて。」
彼がそういうと木の上の人物は割と素直に地へ降り立った。これもまた猫のようなしなやかさで。
「また性懲りもなく惨敗ってか?ディナ。俺に玉を当てられなきゃ気づかないってくらい鈍感なのは村でお前だけだぜ?
これじゃ狼どもに遣られるのも時間の問題だな。」
妖艶な切れ目をしてフォレストグリーン双眸。整った鼻梁に少女の如く可憐な容姿。
その軽い口調からは考えられない気品さえ感じられる美しい14の少年はいたずらに笑った。
更に村の中では常に1,2位を争う程の身体能力を持つチェルシーと呼ばれるこの少年は、
運動音痴で容姿もいたって普通のディナにとって、憧れであり、ほんのちょっと、劣等感の対象でもあった。
「もーぅ。…いこう!」
ディナは不服そうに踵を返し、湖に向かうべく、先ほどとは違う半ば力強い歩調で歩き始めた。
チェルシーも手にしていたパチンコをズボンのベルトに括り付けて後を追い始めた。
ちなみにそのパチンコは村一番の手芸細工師であり、ディナの父親でもあるブリジニアお手製の特注品で、命中率も抜群、速度、質量ともに最高の出来栄えなのである。
この世に言う「神は二物を生まない」な二人がいつもひっついていることもディナの父親の手芸細工が少しは影響しているのだろう。
Ж
サクサクと小気味の良い音を林に響かせながら二人の少年はもう藍色を含んだ青に濡らされて歩いている。
ディナがちょっと前聞いた小枝の折れるあの『不気味な』音はもうそこにはなく、代わりにもっと心地の良いそれが彼の耳に届いていた。
その要因を、とても認めがたいが彼は理解し、仕方のないことだとあきらめている。
背中の後ろにいるチェルシーの存在に安心感を覚えるのだ。
落ち着きや、安らぎにも似た、その安堵感。それはディナにとって、普段はそのような弱みを見せないチェルシーにとっても、言葉では言えない日常の暖かさなのだ。
村の友人たちと話を合わせるために鍵のかかった鉄の扉のような口を無理やり笑わせるでもなく、相手のことを恐れて気を使うでもない。
楽しいと思った時には心ごと体をゆすって笑い、しんと黙り込みたいときはとことん沈黙させてもらう。
自分の「心」という核心部分で接し合える彼に、少なからず強い友情の念を持っていた。
チェルシーだってそうである。
彼は村のみんなから必要とされ、求められ、常に成功を確信されている。云わばもう神童扱いだ。少々口が悪くても認められるのはそのせいでもあるだろう。
そんな彼も、いやそんな彼だからこそ、特有の憂鬱を日常の中に含有していた。プレッシャーと呼ばれるストレスと常にに戦っていなければならないのだ。
周囲はいやおうなしに自分に期待の眼を投げかけてくる。その点、ディナは自分を特別視するでもなく、さらには暖かい目で見てくれる気がしている。
二人は、長い時の中で静かにほほ笑む老夫婦さながらの感謝を互いに持っていた。もっとも、老夫婦になるにはまだまだ歳が足りないのだが。
「なぁ、ディナ。ちょっと湖で休んでかないか?」
沈黙の破ったチェルシーの声がこだまする。己の背中を見つめながらそっぽを向くチェルシーが見えている気がした。
「うん。別にいいよ。」
しかし冷たい風は夜風なのか、いまだに夕方の息吹なのかと鼻孔をとおり体内にすとんと落ちてくる冬の匂いを受けとると、
まるでその風から『早くうちに帰って暖かいスープをお飲み。』とでも言われているような錯覚に陥ってしまう。
やっぱりもう帰ろうよ、そんな本音を吐きそうになったが、チェルシーが自分からどこかへ誘ってくれるなんてめったにないことだ。ここで断るなんて勿体ない。
―その道が誤りだとも知らずして。
Ж
あれよこれよと思いを馳せているうちにいつしか林を抜けだし、その円形の針葉樹林の中心部にあたる湖のほとりに抜け出た。
もうすっかり夜は暗い。見渡す限りのうねる闇はちっぽけな二人の少年という星を覆いかぶさりながら揉み消してしまう空のようだった。
二人は薄く芝の蔓延るほとりに腰を下ろした。二人はしばらく何もせずに黙りこくっていたのだが、やがてチェルシーが手元にあった小さな石ころを湖に向かって投げた。
水平に飛ばされたその石は、野を駆る兎のように水面を数回跳ねながら水底へと沈んでいった。
ふと、湖の水面に先ほどまでは見受けられなかった赤い丸が二人の目に留まる。麗しくも艶めかしい煌めきを放つ赤い円。
「チェルシー、なんだろうあれ。」
ディナがうかがう。
「……おい、空を見ろ。」
そこには『月』の二倍ほどに膨れ上がった『月』があった。
「月が、赤い…ね。」
「ああ。」
「なんでだろう?いつもは黄金と白銀に光ってるのに。」
「さぁ…。」
時の針が止まったかのような数秒の沈黙の後、とたんにディナの顔がこわばった。
そしてなにかの意を決したのか、赤らんだ目でチェルシーの顔をキッと見据える。
「思い出した…!」
「…?なにを?」
「これは、狂った少年兵士の民話にでてくるあの月だ。」
『狂った少年兵士』。古くから二人の住むマンチェスター村に伝わる忌まわしい民謡だ。しかし幼少期からそういった文化的なものの信憑性を疑うチェルシーに、
「狂った少年兵士?なんだっけそれ。」
その11文字だけで理解しろという要求は無理だった。ディナは焦りだす。
「本当に、本当に知らないの?」
「あぁ。たぶん、聞いたらわかるんだけどな。それ、有名なのか?」
「うん。あいにく君でも覚えられるくらい恐ろしくて有名な話だよ。」
珍しく皮肉を被せたディナは、いちど深呼吸をし、割と重みのある声質で、民謡を独吟しはじめた。
「12月24日。赤月の浮かぶ水面の疼き。4人の少年 赤い世界で 青い世界の代表者となる。
一人目の兵士 妙なる双眸は美しくも 可憐であり 見るものを喰らう
二人目の兵士 縮れた赤毛は醜くも その体なり 眉目 麗しい
三人目の兵士 ブロンドの髪は青にぬれ 光るピアスは 純金の
四人目の兵士 黒髪の 嫋やかな体は 乙女のように。
四人の少年は兵士となる 兵士となる 狂兵士となる 赤い月の光を浴びた愚者たち。」
それはすなわち、死を意味する歌である。赤い月の光は浴びるなと。赤い月に遭遇してはならないと。
「分かったかい?つまり僕らはここにいてはいけないんだ!」
「…………。」
「い、急いで逃げるんだ!今ならまだなんとか間に合う!!」
事の重大さを必死に伝えるディナはチェルシーの手を取り、家路へと踵を返す。チェルシーもそれに立ち上がり林を駆け出す
―はずだった。
チェルシーは立ち上がらなかった。うつむき、カタカタと肩を震わせている。そして立ち上がり己を見つめる一人の少年を見つめ、
嗤ったのだ。
無垢と無粋の両者が存在する
矛盾した嗤いを、
高貴であり屈強な
それでいて妖艶に踊る
甲高い響き。
チェルシーは、体の奥底から自我が抜けてゆくような、不思議な快感に身を浮かせていた。脇腹のあたりに固く細い糸をピンと通しまるで何かに支えられているような。
美しい双眸は重たそうに瞼をおろし、息遣いは笑っていながらも荒い。眉毛は吊り上り、半開きになった薔薇色の唇は官能的な舌をちろちろと覗かせている。
目前にいるなんてことはない、あえて言うのなら恐怖に目を見開いた少年を眺め、その背後に浮かぶ月に半ば狂気じみた想いをはせる。
なんて美しい球なのだろうか。あの月輪の蜂蜜のような甘美な味が己のこの耽美な口内に広がるのはどれほどの快楽なのだろう。
三日月に開いた口角からは涎がたれだした。その垂涎はまるで時の流れを軽視した罰当たりな水滴のようにゆっくりと皮膚に這う。
チェルシーは狂った。
ディナは本能的にその結論をはじき出した。同じように狂った月に向かって笑むその姿は狼男さながらに恐ろしい。
ディナが先ほどまで取っていたチェルシーの手を離し、一歩、二歩と後ずさりしたところでその少年は立ち上がり湖に足先を漬けた。
「なにを…!」
刹那、水として照っていた水面が徐々に黒くテカテカとした、確かに生きているものの集合体と化した。それは紛れもない、舌までが黒く染まった大蛇だった。
悠然と盛り上り、得体のしれない粘膜に己を失った、亡者の蛇たち。ぬるぬるとした液体の動く唾液を転がすような卑しい音が小虫のざわめきのようにディナの耳に入ってくる。
立ちすくみ思考回路を蒼白に犯されるディナを余所に、チェルシーはその大蛇の群れの中央にいた。
「―チェ…ル、シー?」
少年は闇と称される亡者の湖の水面で振り向き、ゾッとするような笑みを妖艶にまき散らした。
「―――。」
はっきりとその口は「来いよ、ディナ。」そう動いていたはずなのに。ディナにはもうその声を認識することはできなかった。
どううればよいのか。このままでは本当にチェルシーが行ってしまう。二度とチェルシーに会えない。そんなのはどんな災いよりも断じて御免だ。
ディナの頭は空に浮かぶ赤い月に酔い始める。今のディナは、月に対する恐怖よりもチェルシーとの別れに対する恐怖のほうが勝っていた。
少年は手を伸ばす。 少年も手を伸ばす。
闇は弾けた。 雪膚の繊指がたがいに絡まった時、
赤の中に緑を映したのだ。 ルビーとフォレストグリーンの瞳、
4つの眼が見据えた世界は如何なものだろうか。
「行こうか、ディナ。」
「うん。」
**
薄闇の青に濡らされた世界を歩く。小さく創られた水銀のような水たまりに雪膚の足首までを泳がせる。泉は無数の波紋を、夜の涙を、躍らせていた。
規則的に暖かなオーブを宿らせるのは恐らく、見上げれば中に浮かぶ蛍さながら、茜色をした街灯の明かりだろう。
移り行く世俗の色を塗り手繰った街の光と、夜が落とす涙に濡らされるのは、しなやかにウェーブしたブロンドの金髪。
少年はリネンの葉で作られたそのがっしりとした体成りでも、だらしなく隙の余ってしまう衣服を半ば肩に引っ掛けるように纏い、哀しげに水滴を滴らせる。
真冬の雨の中を薄着で歩くその少年には、底知れぬ色気があった。実際、その少年も己の顔立ちの麗しさを知っていてのことか、知らずしてか、
「ねぇ、次はいつ会える?」
「あぁ、金さえ持って来ればいつだって会えるさ。なんたって孤児なんだしな。一日中煙草燻らせてても誰も文句は言わねえ。」
「ふふ、冗談もいいとこ。じゃぁ明日にでも。またあの宿でね。」
「約束、な。」
このようなやり取り、いわば援助交際のような手口で日々の生活費を毟り取っている。上手くいけば一攫千金。時にはポケットから溢れ出るほどのの額を貢いだ女もいたことがある。
先ほどのやたらチープな薔薇の香水をまき散らす女ともまた接吻を交わし、金を手に入れた。
この少年、名をミッドという。ちなみに苗字というものは存在しない。家族は愚か、保護者すらいないのだ。一四歳とは思えぬほどの長身と大人びた眉目、双眸に相俟って、
いささか幼さを感じさせるウェーブの金髪。強いて付け加えるのならば、幼いころから孤児として生き延びるために身に着けた護身術及び強固な腕力は、生まれつきの
身体能力の良さを土台にしてあたかも逞しいダヴィデのようだ。いや、ダヴィデというよりは凛々しくも幾千の女を物にしたゼウスの再来と言った方がよいのかもしれない。
どうも冷えてきたと思ったらいつの間にか雨は止み、湿っぽい夜風が吹き荒れてきた。闇を辛うじて藍交じりの紫に染めていた怪しげな雲はどこかに吹かれ、本来の夜空が現れる。
切れた雲の隙間から覗くは妖艶たる赤月…。奇妙にもミッドは見上げ、感嘆に喘ぐ。
そう、これこそが、このトチ狂ったが如く熟れてしまった月こそが、彼の所望し、待ち焦がれていたただ一つの希望であったのだ。
「これで…やっと―」
ミッドは恍惚の瞼を閉じ、己を変えたであろう、あの濃密たる日々をを辿っていった。
Ж
今から4年前。まだミッドが10の歳の頃のこと。
彼には『兄さん』と呼べる家族同然の他者が隣にいた。とても心優しく、多少気が弱い男。ミッドは出会った当初からそういった印象を持っていた。
最も、兄さんと呼んではいるが、親類は愚か、血縁者でもない。ただただ、彼の優しさを慕っていて、いつ頃からか彼を兄さんと呼ぶようになったのである。
そもそも兄さんことルラと出会ったのは、確かまだ夏の匂いの彷徨う9月上旬頃だっただろうか―
「キミ、そこで泣いてるのかい?」
物心もつかないうちに一人で生きてきた当時のミッドにとって、対等に話しかけられる、というのは初めてのことだったので驚愕を隠せなかった。しかもその声質は深く海のようなアルトで、ちょっとでも警戒を解くとたちまちあちら側へ引き込まれそうな何とも言えない包容力があったからこそ、尚更緊張していたのだ。
「…泣いては、ない。」
そっぽを向いたミッドはごにょごにょと吐いた。そんな幼き少年にルラは笑いかけた。
「はは、じゃぁ、君はどうしてそんなところでうずくまってるんだい?」
事実、冷たいレンガの壁にもたれており、図星だったミッドはムキになって、
「ただ!ちょっと、怖くなった、だけ…だ。」
初めて相手の眼を見据えたミッドは思わず怯んでしまった。なんせ、相手は金を奪い取るための酔っ払いではないのだから。そしてつい、弱音をこぼしてしまう。
「……一人でいるのが、すごく…。」
ふと己の頭髪を温かい手が撫でた。
「っ―!」
「うん、僕も一人だよ。きみ、一緒に来ないか?」
優柔な微笑を掛けられた時にはすでに、ミッドの幼き雪膚の繊指は彼の前に立ち腰を屈めたルラの塵に塗れたカーゴパンツを握り緊めていた。
それは生来、包容されることを許されなかった幼き少年の精一杯の甘え方、彼が初めて逃したくないと切望した柔らかな居場所だった。
底なしの空に伸びたビルの隙間でルラと出会い、時は穏やかに過ぎて行った。昼、ルラは生活費を稼ぐために町の隅で弾き語りをする。それは所謂「独吟」の部類に属する唄だった。民謡を主とした潤滑なメロディの旋律。当時どこからか譲り受けたクラシック・ギターは念気こそ入っているものの、常日頃それの管理を彼が丁寧に施していたため音色は商品としても売れる価値はあった。
「ねぇ、兄さんは謳うのが好き?」
いつしかミッドは彼を慕い、兄さんと呼称するまでに親近感を抱いていた。ルラは笑った。
「なんだミッド。好きに決まってるじゃないか。好きだから、謳うんだろう?」
「そっか。そうだね。」
ミッドは路頭を行く彼を一瞥し目を伏せた。この頃なにかがおかしい、そう感じていたのだ。前よりも動作が忙しなくなり、魂の抜けたような目で薄い青空に泳ぐ羊雲を眺めていたかと思えば、突如にしてその双眸に怪しい光線を宿したかのようになる。極めつけは昨晩、トタン屋根が剥がれてしまった廃屋を寝床にした時、ルラが接吻をしてきたのだ。異変を確信したのはその時、儚げに寂しそうな表情を見せたときである。深く抱擁されたミッドは驚愕のあまり成すがままにされ、ルラはそのまま「おやすみ」と言って寝た。
これは一体如何なることなのだろうか――?
再び彼を見据えても、答えは一向に姿を晒す気配を見せなかった。
12月24日。四大河の泉に似せて作られた噴水に今日も二人は腰を下ろす。独吟の宴が昼下がりの午後、幕を上げるのだ。
「兄さん、今日は何を謳うの?まーた『アヴィニヨンの橋の上で』?」
「……いいや。今日は違う。『少年狂行楽曲』、今日のための特別な唄なんだよ。」
特別、その言葉がミッドの胸を嫌に握り、チクリと刺した。
「ふぅん。」
ルラとギターは朦朧と歌いだした。弦の揺れるスリーフィンガー・ピッキングは啜り泣き少しキーの低いアルトはそれを宥める。物語る世界はミッドに不安を注ぎいれる。
「12月24日 鏡の向こうの聖なる晩に業に驕るる月夜は誘う。
一人二人と愛し合い、また一人と別れを告げればそして一人、描く未来に自らの手で止めを刺した。
少年の 少年は 少年を愛し、
そして少年は目を覚ます。
二人目兵士は後に言うだろう。さよならと告げてそのあとに… そのあとに」
ルラはこの時もう既に決心を固めていた。狂乱する赤い月へ自ら去ると。
ルラには母親の居たごく普通の家庭で暮らしていた時期が存在した。否、それはただの幻だったのかもしれないと思うようにもなった今日この頃、彼は母親を見たのだ。かつて性欲に溺れ自身の子を捨てた憎き母親をこの目で。煌めく白昼の日が降り注ぐ世界で自分の面識のない一般男性と見ず知らずの幼児を連れ、仲睦まじくデパートを右往左往とする様を。優柔で温厚な彼はまた、傷つきやすい心の持ち主でもある。長年朦朧とした意識の中で笑っていた母親が自分のことなど当の昔に頭の中から消去されていたのだ。すなわちそれは如何なる物も立ち向かい破ることのできない「存在意義の消失」。生きている意味など空に等しくなった、ミッドさえも単なる寂しさを紛らわすための玩具にさえ思えてきた。
よって彼は今日この日、死ぬ。
狂少年現象が起こるといわれるこの日に決めていたのだ。狂少年現象に殺してもらうと言っても過言ではない。そう、胸に刻まれた母親の烙印など消せるはずがなかったのだ。
「…ルラ?」
不安げなミッドの声が渇いて聞こえた。己の前では無力なこの少年に行こうかと促し、二人は路頭を去って歩いて行った。
Ж
時は風に飛ばされる紙のように流れ、つのる想いさえも薄紙を剥ぐが如く薄れていった。あの後、彼は己の目の前で狂い朽ち果てながら熟れた月へ昇って行った。
あれで良かったのだろう。彼は彼、己は己、だ。各々の事情も明かさないままあれだけ仲を深め合ったあの頃こそが愚かなことだったのだ。
違う。そんな彼を追い続けて4年後の今夜、彼と同等の位置に着こうと宙を見上げる自分こそが禺者そのものだ。雲の切れ間から覗く果実を不敵に笑う。
さぁ、始めようか。
「――ははっ…」
これがルラの感覚。
「…あっはははははッ!」
これがルラの見た月。
「っははははははっ!!」
これがルラの気持ち。
悦に浸る少年の眼は潤んでいた。己を置き去りにしその死因も告げずにどこか遠い彼方へ去っていった慕い人への憎悪と憎しみ。
愛しいはず等あるものか。恋しいはずなどあるものか――
涙で濡れ煌煌と照らされた彼の雪膚は次第に高揚していく。既に彼の終末は訪れつつあるようだ。
地に足が着かず、己を苦しめてきた噎せ返る空気が弾かれる。そして何より心が吸い取られてゆく虚無感。成程、これが狂う、か。
「少年兵士は後に言うだろう。さよならと告げてそのあとに、…そのあとに『愛している』と。」
少年交響組曲