無題
私と先生
彼女は、笑顔を輝かせながら私に席を勧めて、私が席につくやいなや、どこから持ってきたのか品のいいティーポットとカップをテーブルに広げ始めた。いくら美人で親切そうなお姉さんであれ、いきなりあった初対面の相手を自分の家の庭に連れ込んでお茶を振る舞うなんて、あまりにも普通じゃない。普通じゃないものには関わらないのが一番だから、私は最初、その誘いを断って帰るつもりだったのに。のに、なんだかんだ流されて席について借りてきた猫みたいに縮こまってお茶が入るのを待っている。
どうしてこんなことに。ああ、無理して外出なんてするんじゃなかった。どうして急に散歩なんてしてしまったんだろう。どうして断れなかったんだろう。こんなに自分の口下手が恨めしかったこともない。
そうして悩んでいるうちに鼻歌を歌いながら彼女はお茶を淹れ、私は見飽きた空から、見慣れないきれいなカップに視線を移した。
「じゃあ、自己紹介をしましょう」
夏休みが始まって1週間。毎日学校に通って授業を受けていれば、1日の大半をなんとかできた平日と違って、私にとっては長すぎるお休みが始まって1週間。私はすでに休みに耐えられなくなっていて、とにかくなにかしら私にとって『やらなくてはならないこと』に飢えきっていた。
この春、5月にここに引っ越してきて、口下手な私に突然友達が出来るわけもなく、かといって前の友達と遊べるような距離でもなく、転校してすぐの頃はよくやりとりしていたショートメールのやりとりも、なんとなくお互いに送らなくなって、まるで小さな焚き火が消えたみたいに、私の周りから人が静かに減った。前住んでいた所より少し人の多いここは、かといってテレビやネットでみる都会ほどたくさんの人が居るわけでもなくて、なんというか、調度良く静かだった。
私が教室の皆から少し距離を置かれているのが、わかる。不真面目でもないし、深窓の令嬢というほどの華やかさや神秘的な魅力を持たない私は、はっきりいって目立たない置物みたいな感じで、教室の中の誰とも繋がるわけじゃなく、かといって無視されたりいじめられたりするほどの何かでもなかった。用があれば誰もが気楽に声をかけてくれるけど、用がなければ誰も気にも留めない。
だめだ、だめだ。やるべきことがないと、すぐに暗いことを考えはじめる。悪い癖だ。悩みにもならないような、悩みか怪しい、困り事。そう、私は困っていた。私はあの教室で、何の役目もない。気弱な子でも、お調子者でも、人気者でも嫌われ者でも不良でも優等生でもなんでもなんにもなんもない。
吐き気がする。でもこれは吐いてはいけない。これを吐いたら、なんだか本当に自分の最後の中身が出て行ってしまう気がする。それが怖い。これを吐いたら、自分がいなくなってしまうんじゃないかと恐怖で震える。
散歩だ。散歩にいこう。昨日の夕飯のとき、母さんが「そんなにこもってばかりじゃなくて、たまには外へ出たら?図書館まで散歩するとか」と言っていて、なるほどそれはいい考えかもしれない、なんて思ったのを覚えている。家で閉じこもっているから考えも閉じこもっていくのだ。散歩して、歩いていれば何か変わるかもしれない。外にでるのはめんどくさいけど、とにかく行こう。今、ここに1人で居るのは、なんだかわからないけどすごくまずい。
決意すれば人間は案外早く動けるもので、部屋着からぱぱっと着替えて、可愛げのないスニーカーを履く。急ぎ足でマンションを出て、そのままの速度でとにかく歩く。途中、何度か曲がったけど、正直どう曲がったかも覚えていない。周りの景色なんて見えちゃいない。吐き気をこらえるように少し上を向けば、夏まっさかりと言わんばかりの青空と、やけに主張の激しい大きな雲がゆらゆらしていて、少し吐き気が治まってくる。というか、ちょっと急ぎ足で歩きすぎて汗がひどい。どこかで休みたい。というか、ここどの辺だろう。立ち止まって見回してみれば、見覚えのない雑木林の入り口みたいなところで、ちょこんと小さな家が建っている。
赤い屋根と、ちいさな煙突のついた洋風の家は1階建てで、変な言い方だけど、ミニチュアみたいな適当な造形の家だった。家らしさがないというか、なんとも『家ってこんなかんじだよね』と言いたげなぽつんと建った家。外見じゃわからないけど、多分、2LDKくらいじゃないだろうか。二人住ませるには狭そうで、1人で使うには少し大きそうなその家の庭に、彼女はいた。
白いワンピースに、編み上げサンダル、ちょっと大きめのつば広帽子と、そこから流れ落ちる黒くて長い髪。大学を卒業したてか、それより若いくらいの、綺麗な人。暇そうに庭のテーブルで椅子にかけて足をぷらぷらさせる様子は、いたずらっこがいたずらを考えるようにも見えたし、深窓の令嬢が物思いに耽るようにもみえた。立ち止まって見つめていたら此方に気づいたようで、急に目を輝かせながら駆け寄ってきて、門の鍵を開けてくれる。
「どうぞ、入って!」
「いえ、そんな」
そんなこと言われても困る。というか、無警戒に門を開けて最初のセリフが「入って」とはどういう了見なのだろう。私は彼女に用があってここに来たわけでもなんでもないし、正直知らない人の家に入っていくのは腰が引けるし、帰りたい。
「いいのいいの、いいからどうぞ入って。あぁ、そうね、お茶の用意が必要かしら。紅茶とコーヒーならどっちが好き?」
変わらず手招きをする彼女に断らなくてはと強く思う。ここで無遠慮にあがりこむのはよくない。よくないけど、まぁ紅茶一杯飲んで帰るくらいいいだろうか。早歩きのし過ぎで疲れたのもある。
「どちらかというと、紅茶の方が……」
「紅茶ね!あら、立ってないで座って。こっち。ここがあなたの席」
「あ、あの、いや」門の中から手招きする彼女になんとなく従ってしまって。断らなくてはいけなかったのに。私は門を潜った。
「さぁ、座って!」
眩しいくらいの笑顔で、彼女は私を席に案内した。
*
「自己紹介、ですか」
「ええ、まずはそうね……名前から。名前が知りたいわ」
「私は、萩あゆみといいます」
「あゆみさん……んー、あゆさん、さんじゃないわね。あゆちゃん。あゆちゃんがいいわ。あゆちゃんって呼ぶわね。とってもかわいいニックネームだわ。あなたにぴったり」
彼女はくすくす笑って、秘密の話をするかのように声を潜める。正直、あだなやニックネームなんてはじめて付けられた。大体、普段は苗字でしか呼ばれたことがないのだ。突然ニックネームを貰うなんて、ちょっと面食らってしまう。
「私はね、ソニア。お気軽にソニア先生とか、先生って呼んでちょうだい。なんなら、ちょっと舌足らずに可愛くせんせーって呼んでくれてもいいわ」
胸を張る彼女――ソニア先生は、どこか誇らしげに鼻をふくらませ、顎をあげて伏し目がちに私を見つめる。これは、すごく期待している人の目だ。なぜ先生なのか、というかなぜ舌足らずな発音を推すのかはまったくわからなかったけど、とにかくここで先生と付けて呼んであげないと、とても悲しい顔をするだろうな、ということだけは、人付き合いの苦手な私でも手に取るようにわかった。
「その……ソニア、先生は。どうして先生なんですか。何を教える人なんですか?」
危ないところだった。どうしても気恥ずかしくてソニアさんと呼ぼうとした瞬間、とてもがっかりしたような視線に一瞬なった。彼女はどうやらとても繊細な人みたいだし、気をつけなくてはいけない。
「そうね。あえて言うなら、私は何も教えてあげることなんてできないわ、ってことを教える先生かしら」
「もしかして、私をからかっていますか?」
「そんなことないわ。あゆちゃんをからかってるなんて、そんな。でもそうね、授業をしないと先生じゃないわね。宿題だってださなくちゃ。先生はやることがいっぱいだわ」
また、嬉しそうに先生はくすくすと笑う。何が楽しいのか、私にはちっともわからない。
「いいわ、授業をしましょう。でもまずは、そこのお茶請けのお菓子を片付けてくれるかしら。こんなに甘い匂いの中で授業なんてしたら、きっと私達すぐ眠ってしまうわ。授業は退屈なものだもの。甘い香りの中で授業をするのもうけるのも、きっとすごく疲れるわよ」
いつの間にか用意されていた、小さなお皿に乗った3枚のクッキーをつんつんと指差して、先生はこちらに微笑む。コレは多分、もしかしなくても食べるのは私なのだろう。ひょいひょいと二枚口に運んだ所で、先生が最後の一枚を慌ててとった。全部食べて言いわけではなかったらしい。
「そんなに急がなくたって……時間はいっぱいあるわ。どんな授業をしましょうかしら……そうね……あゆちゃん、悩み事とかあるかしら?」
心臓が凍りつくかと思った。先生の目は単純な質問、といった感じだが、私にとってそれは、今最大の悩み事なのだ。いや、悩み事しかない。私は私でいることすら、ヘタすればままならないほど、私に悩んでいる。
「私は……私は、私が悩み事です」
「あら」と目を丸くして口を手で覆う先生。おかしな子供だと思われただろうか。この人も私を笑うだろうか。学校の保健室で保健の先生に打ち明けた時、彼女は快活に笑って『そのうち平気になるわ』と言っていたけど、全然平気になんてならなかった。先生もそうやって私を笑うだろうか。
「素晴らしい悩み事よ、あゆちゃん。いいわ。それが今日……いいえ、今日から始まる授業のテーマよ」
私の予想を裏切って、先生は私を笑わなかった。ただ、優しく微笑んで紅茶を飲んでいる。薄く開けた左目で私を見ながら、可愛いらしく右目でウインクしてみせたら、ゆっくり立ち上がって、私の後ろから、優しく肩に手をおいてくれる。
「さぁ、授業を始めるわ」
授業が始まる。
私の悩み事
私の悩み事は、私です。私は私に悩んでいる。どうなればいいのか、私はどういうものなのか、私は私をわからないんです。ぽつりと、つぶやくように私は先生に語り始めた。
――なにがわからないのかしら。
最近、ここへ引っ越してきました。前の学校でも、そんなに目立つ子じゃなかったと思います。でも、それに輪をかけて、今の私は目立たない子です。私が自分で自分を見失うほど、どんな私でもない私。正直、自分のことが好きか嫌いかもわからないんです。好きとか、嫌いとかを決められるほど、私は私を知らないんです。
――不思議ね。ここにいるあなたは、こんなにはっきりここにいるのに。
鏡を見れば、そこに私がいることがわかります。でも、萩あゆみが誰なのか、萩あゆみという人の説明を私は出来ません。女の子で、中学2年生。ショートボブの髪で……こんな、こんなことしかわからない。どういう性格の子なのかもわからないんです。怒りっぽいのか、落ち込みやすいのか。教室の中で、私だけ役がないみたいなんです。
――役が、ないって?
お調子者とか、おてんばとか、とにかくなんでもいいんです。私は役がほしい。私は私を説明出来ません。私、なんなんでしょう。どうしてこうなっちゃったんだろう。引っ越す前はもっとわかってた気がするんです。引っ越しの荷物を整理した時に、まるで私も一緒においてきちゃったみたいに、私がいなくなってしまった。とっても怖いんです。どんどん透明になっていくような気がするんです。明日から、同じ容姿をした人形が私の席に座っていても、もしかしたら気づいてもらえないのかもしれない。教室の机や椅子みたいに、背景になっちゃってるんじゃないかなって、すごく不安で。
――そう……
不安なんです。お母さんは仕事で忙しくて、あんまり家に居ません。お母さんに私はどう見えてるんだろう。もしかして、お母さんにもお母さんの娘ってことしか伝わってないのかもしれない。私、なんなんだろう。どうして。
真面目な子なつもりだけれど、クラスの優等生ほど、すごく真面目って訳でもないんです。毎日塾に通う子たちは、すごく頑張って勉強してるのに、私は塾に通ってるわけでもない。部活も、結局どこへいけばいいのかわかりませんでした。何も得意なことがないんです。去年のことがうまく思い出せない。どうやって生きてたんだろう。
思い思いに、ぽつぽつと喋りきったころには、なんだか涙が止まらなくなっていて、自分で自分が制御できなくて、また私は不安になる。私は、私の何一つ持っていないような気がして背筋が凍る。私のすべては、実は私のものなど一つもなくて、全部私じゃない人のものだったから、取り返されてしまってしまったんじゃないだろうか。持っていたもの、持っていたつもりだったものは全部取り上げられて、残ったのは空っぽの、何もない私。
「いいわ、なんとなく、伝わった。全部はわからないけれど、多分あゆちゃんの悩み事の力になれる」
「本当ですか。私を適当に安心させたいだけなら、やめてください」
「いいえ」と先生は私の頭を抱く。後ろから漂ってくる、先生の甘い匂い。泣いて少し腫れた目に、先生の冷たい手で触れられて、その気持ちよさに目を瞑ってしまう。
「私と、お話しましょう。その中で、あゆちゃんの思う、あゆちゃんになればいいわ」
「私の思う、私」
「そう。何にもなれないなんてこと、きっとないわ。あなたは、何にでもなれる」
「言い換えただけで、結局」
「いいえ、なれるわ」
少しだけ強くなった語気で、それでもゆっくりと先生は私に語りかける。
「役を選ぶんじゃないの、あなたはあなたになるのよ。そのための授業をしましょう」
少し落ち着いてきて、なんとなく頭が回る。もしかしたら、私を落ち着かせるために先生はゆっくり喋っていたのかもしれない。
「すみません、みっともなくて」
「あら、美少女の泣き顔なんて、レアなんだからいくらみたっていいのよ。にこにこしてるだけが可愛さじゃないでしょう」
先生は、くすくすと小さく笑いながらおどける。小さなイタズラが成功した男の子みたいな、無邪気な顔。
涙が引いて、頭の熱も冷えてくれば、ほぼ初対面の人の前で泣き始めて、その上慰められたことが嫌に恥ずかしくなってきて、なんだかむずがゆい。先生は相変わらずにこにこしているし、ここで悶てうずくまってしまうのもいいかと思いかけたけど、さらなる醜態を重ねるだけに思えて、少し目頭に力を入れて、きりっと先生を睨んでみる。きっと顔は真っ赤だろうから、あまり効果はないかもしれないけど、なんだか大人の余裕をかもしだされるのが気に食わなかったのだ。
「まぁ、だめよ。美人が睨むとホントに怖いんだから」
とおどけてくれる先生に併せて、私もおどける。
「だから先生は終始にこにこしてるんですね。美人度合いが私と段違いですから、睨みも段違いなんでしょうし」
「そうよ。わかってきたじゃない」
胸を張り、鼻をふくらませ、顎を上げる。先生はどうやら、私より全然上手らしい。
*
「はい、紅茶のおかわり。しかし、そうね……あゆちゃんの質問はすこし難しいから、ちょっとずつやっていきましょう」
「質問……ですか。悩み事なんですけど」
「ダメよ。悩み事なんて、なんだか深刻じみてるじゃない。もっと簡単でフラットな名前で呼んであげないとダメだわ。だから、それは『私はどういう人だと思いますか?』っていう、あゆちゃんから、あゆちゃんへの質問。そのうち応えてあげればいいわ。質問者はあゆちゃんなんだもの。いつまで待たせたって大丈夫よ」
一気に言い切って、先生は紅茶に口をつける。そうか、悩み事じゃないのか。これは私から私への質問なのだ。そう思った瞬間、すこし体が軽くなる。不安はまだ背中にのしかかっているが、今はこれでいいのかもしれない。
「最初の教材はー、そうね。気持ちの話からはじめましょうか」
気持ちの話、気持ちの話とは、なんなのだろう。
「うーん……」と顎に指を当てて、先生はぽつぽつと感情の名前をいい上げていく。嬉しい、怒ってる、悲しい、楽しい。喜怒哀楽とひとくくりにされる、人の様々な感情。それをおもいつくままにあげていく。まるで連想ゲームみたいだが、いくつかの単語が私の胸に刺さる。悩ましい、苦しい、不安、恐怖。最近すっかり身近になってしまったその感覚が、名を呼ばれて首をもたげる。出てこられても困る。お引取り願いたい。
その様子を見てか、先生が私をじっと見つめる。
「ああ、それよそれ。その感じ。その感じは、ダメよ」ティースプーンをくるくる回しながら、私の顔に突きつけて、先生はすこし顔をしかめる。「怖くたって、不安だって、そう感じることが悪いことなのではないのだから、その感情を『思わないように』してはだめよ」
どういうことかわからなくて、先生から視線を外してすこし考えこんでしまう。怖いのが悪いことではないというのは、怖いままでいろということなのだろうか、私にずっと怯えろってこと?自問自答してもいまいちはっきりしない。
「その、どういうことですか。ちょっと意味が」
「んー、なんていえばいいのかしら。なんというか、そのままでいいのよ。そのまま、怖いままでいたっていいのよ。それそのものは悪いことじゃないわ。あゆちゃんが何かを怖がったりすることは、悪いことじゃないの。怖いままは困るけど、怖がることそれそのものは困ることじゃないのよ」
「まだ、いまいちピンとこないんですが……」
先生が何を言いたいのか、なんとなくわかってきた気はするのだが、まだなんともわからない。怖がってもいい、ということなのだろうか。怖がることを怖がる必要はない、なんてなんだかループしてる感じで変な感覚だ。
「その、ね。『悩んでる』ってことが、悩みの一つになってるんじゃないか、って思ったの」
先生はもう私を見ていない。無表情みたいな真剣な顔で、カップの底を見つめるようにして、静かに、でもはっきりと私か、もしくはどこかへ語りかける。
「自分が全部制御出来る人なんてきっといないわ。急に物悲しくなったり、何もかも投げ出して走って逃げてしまいたくなったりしていいのよ。そういうのは、自然なの。でも、その中でもそうあってほしくないことになることだってあるわ。悩んだり、苦しんだり。ただね、そう思ったり感じたりすることそのものが、悪いことなのではないの。だから、そう感じてしまうことを悪いことだとか、悩み事にする必要はないの」
話しきって、先生はゆっくり紅茶を飲む。悩んでいることを悩んでいる。そうなのだろうか。言葉遊びのように聞こえるけれど、でもそれは、すごく恐ろしいことのように思えた。だって、悩んでいることを悩んでいたら、そしたら、悩み始めた元の悩み事はどこへいってしまったんだろう。もしそうなっているなら、そうなりつつあるのなら、確かにそれは、どつぼにはまっているとしか言いようのない状態だ。
「あんまり考えなくてもいいの。それは嫌だなって、そう感じたのなら、そのままでいいのよ」
なんだかどこかに沈みそうになる感覚に逆らって、ゆっくり息を吐く。たしかにそんな状況になったら怖い。まったく怖いので、お目にかかりたくない。「怖いですね」という言葉は存外素直に口から出てきた。先生も「そうね」と短く返事をしてくれた。怖いなぁ。とひとしきり怖がってみれば、案外すぐに怖さは霧散してしまう。身を震わせるような恐怖はもう残っていない。
「怒らないようにすれば、怒ってることを忘れられないわ。同じように、悩まないようにすれば、悩ましいことが忘れられない。考えないようにすればするだけ、頭の中での考え事が止まらないでしょう?そんなものよ。案外」
言われてみれば、そうなのかもしれない。また一つ、背中に乗っている重たいのが減った気がして、少し背筋を張る。思春期の女の子なのだから、悩みの1つや2つあったってなんらおかしくはないのだ。
「なんだか気分が軽くなったような気がします。明日はまた、うじうじ悩んでるかもしれないですけど」
正直、まぁほぼ間違いなくそうなるだろうな、と思う。そうしたら、どうしようか。まぁ、ひとしきり転がりまわって、シーツと布団をぐちゃぐちゃにして、それを片付けながら上の空で悩む、なんてのもいいかもしれない。それを繰り返して一日潰れるなら、またそれもいいだろう。案外、楽しいかもしれないし。
先生は、目をぱちくりさせながら私を見て、その後でくすくす笑った。笑いながら手元のポーチから小さな手鏡を取り出して、私の方へ鏡を向ける。私を見つめる先生は、ショートケーキのいちごを食べる時みたいな満足気な顔で、そして、鏡の中の私も、同じ顔をしていた。
「今日の授業はここまでね」と先生はウインクして、手鏡をしまう。
家を飛び出してきた時にはお昼すぎぐらいだったのに、もう空は燃えるように赤い。すぐに帰るのがためらわれて、私は先生にどうでもいいような話題を振る。好きなお菓子の話に始まり、ケーキは何が好きか、小さな頃お菓子を作る人は全部パティシエと言うのだと思っていて、勘違いに気づいたとき顔から火を吹くほど恥ずかしかったこと、先生はまるでどこかのお姫様みたいに、いろんなことをあれこれ聞く。さすがに有名な駄菓子を知らないのは冗談だろうと思ったけど、本人は真剣そのものだ。名前もソニアだし、日本育ちというわけじゃないのかもしれない。
なんだか久々に人とたくさん話がしたくて話し込んでいれば、辺りは少し暗くなり始めていて、先生が「今日はもう閉校よ」とおどけて私を門から押し出した。招き入れたのは先生なのに、そんな風に追い出すなんて、と思ったけど、さすがにこれ以上暗くなれば帰れなくなる。
来た道すら覚えていなかったことに失念したのは、周りの景色が見慣れた家の付近になった頃だった。帰る間もなんだか楽しい話題や、久々に思い出した過去の楽しかったり、恥ずかしかったりした記憶が溢れて、今度先生に会う時にどんな話をしようかと、半分上の空で歩いていた。
これでは、もう一度会うこともままならないかもしれない。でも、多分大丈夫だ。なんとなく、予感めいた感覚を私は信じていた。次の授業は、きっとくる。と。
無題