沈む恋路と四月の夕日
沈みゆく夕日は夜に口づけをする。
自由落下を見届ける物語。
執筆時期は学生時代なので今の僕からすると読むのはちょっと恥ずかしい。いつか書き直せたらなぁ……
000
四月十三日。腹の傷を癒す眠り、外の世界はいよいよ春の訪れを受け入れはじめていた。
当時、僕はまだ冬の中に眠っていた。
目覚めたときにはもう僕が進学する大学の入学式は過ぎていて、僕は静かに大学デビューを逃していた。というか、卒業式もアルバムと卒業証書を受け取るだけで浮かれたことを何もしていない。それらはこの物語で取り上げられることなく過ぎていき、舞台裏の出来事のように取り止めもなく流れていくが、大学は流石に舞台裏にはならない。
表舞台の出来事として語るにはあまりにあっけなく大学デビューを出遅れた。
遅れたのなら慌てる必要もなかろう。五十歩百歩ならもう少しゆっくりしよう。そんなこんなで僕は大学を入学早々さぼっている。勿論、病院で入院していることは大学側に伝えてあるので、電話一つで事足りた。それが後にどう響くかは思いもせず、大学生とはさぼってなんぼだと自分を納得させて、携帯電話を枕の横に置く。そうだ。その後のことは物語の舞台裏なのだ。大学でどう響こうがここでは一切関係ない。
なぜ、僕こと貝木黄葉がこんなにも舞台裏だと繰り返すのか。
そう。この物語は幕を下ろすのだ。
だらだらと過ごすチグハグな少年少女の入院生活はここで一区切りしようと思う。僕は全身の感覚でなんとなく悟っているのだ。退院する時期が近いと。
春の日差しが窓の外の景色を照らす。
そんな昼下がり。
「なぁ、」
「ん?」
「夕は進学なのか?」
傍にいる夕に、ふと聞いてみた。親がいないとなると金銭的に就職なのだろうか?となると、こう長く入院していていいのか、気になる。
「就職…だったんだけど、まぁだめになったよねぇ」ははは。
「そ、そうか……」それはまずいよなぁ。夕も目が笑ってないし。
「まぁでもでも、例のトラックの会社から慰謝料とか結構もらったよ。背水の陣で」首の皮一枚だよ。夕は困り笑をしている。「黄葉は進学?」
「あぁ、一応。ここから駅で一つくらい上ると藍星大学っていう、可も無く不可もない大学があって、光美ちゃんが誘拐されたり、僕が怪我をしなければもう大学に通ってる予定だった」
「入院延長ってこと?」
「慰謝料は貰ったから、もう少しここにいるかも」
「ふぅん」
「そう言えばさ、光美ちゃんの事なんだが、夕は話聞いたか?」
「?……多分聞いてないよ」
「どこまで本気かは分からんが、お姉さんを探してるらしい」
そうなのだ。光美ちゃんと雑談していた時に、冗談ともつかない声色で『お姉さんがいたら…』とか『お姉さんが欲しい』とか言っていた。
「どういうことかよくわからないんだけど、光美ちゃんがメロンパンナだとして、ロールパンナが欲しいということ?」
「さぁ?でも夕がその『お姉さん』になったら下世話な話、生活が楽になるんじゃないか? って」
「……」夕は珍しく眠気が飛んだような顔をしている。というか驚いている。
「……それもそうだね。……ふむ、光美ちゃんを妹にしてしまえば私としても嬉しい限りだし…」
「なにぶつぶつ言ってんだ。どこまで本気かはわからんぞ」
「とりあえず光美ちゃんを捜しましょうか」
相変わらず光美ちゃんは病室にはいない。
「懲りないな光美ちゃんも、誘拐なんてごめんだぜ」僕はそう吐き捨て、起き上がる。
001
……とは言ったものの。
光美ちゃんを捜すことが前提で、深雪さんと外に行っている可能性を忘れていた。
誘拐事件の後、僕が眠っているとき、ローカルのニュースやSNSを中心にこの地方で話題となったらしい。未成年が絡む事件ということで名前は出ていなかったらしいが、SNSのほうでは誘拐者本人のアカウントが逮捕後に炎上に次ぐ炎上であったと夕が頼木さんからの話をしてくれた。
どうやらそれ以来、頼木さんは仕事を光美ちゃんのいる病室で済ませたり、出来るだけ行動を共にするようになったらしい
それを思い出したのは、それから十分後、病院内を一回りした後だった。
「いない!」
「やっぱり外に出たんじゃないか?」
「ふん」
夕は腑に落ちないと言いたげに鼻を鳴らして、「折角だし、このまま階段で屋上まで行こうかな」ふと、階段の前でそんな提案をしてきた。
時間は昼までまだある。やることもないし、いいかもしれない。なにも光美ちゃんが逃げ出してしまうことはないだろうし、こちらも急ぐことではない。
「そうだな、いったことないし、行ってみるか」
実は散々病院内を歩き回っておいて屋上には行ったことがない。
何故か屋上に行くことはなかったのだ。強いて理由をあげるならば、学校生活では屋上なんて立入禁止なので、普段から屋上に近付かない習慣ができているのかもしれない。外は寒かったし、ようやっとほんの少し暖かくなったのも最近のことである。
ちなみに、ここの屋上は立入禁止ではない。一応、開放されているとは聞いている。
階段を昇り、短い廊下の先、鉄製の扉のドアノブを捻る。ドアには張り紙があり、夜七時までの開放と書いてある。ラウンジと同じく、施錠する時間にいっせいに鍵をかけるから、こんな時間まで開放しているのか。
ドアを開くと、風が入り込み、光が差した。
午前の日差しは暖かく、まだ風は寒いが、これなら大丈夫そうだ。
まわりに人はいない。隅や日陰になっている場所には溶けかけの雪もまだ残っていて、地面は水溜りがところどころにある。わざわざ屋上に行きたくなる人は居ないのだろう。
殺風景。
僕らだけが、屋上にいた。
実際、階段を昇る最中では、もしかしたら光美ちゃんも屋上に来てたりする可能性を考えていたが、どうやらそれはないらしい。
「寒いのか暖かいのか、どっち付かずな天気だね」
「風がなければ暖かいぞ、あっち行こう」と、さっき来た廊下の壁を指差す。あそこなら日差しが当たるし、壁がいい感じに風避けになってくれている。雪も綺麗に溶け消えているから、絶好のポイントだ。
僕らはそこに腰を下ろし、時間を潰すことにした。
「街は過疎りまくってるね。不安になってくるよ」
夕は転落防止の柵の向こう、灰田井市を一望しながら、そんなことをぼやいた。僕もそれにならい、眼下に広がる商店街や横断歩道を眺めていた。陽射しが暖かくなってきてはいるものの、やはりまだ寒さは衰えず、過疎地域に残った少人数は外に出ようとはしない。
商店街はシャッターを閉めて沈黙している。
横断歩道はただ静かに信号の色を変える。
誰もいない。
外の風景はお世辞にも絶景とは言えず、ただ見晴らしのよいだけだった。街全体が灰色を彷彿させる。そんな寂れた街だと。断言できる。屋上には僕らしかいない。それはまるで僕らしか生き残っていないかのような錯覚に陥る。
「まるで私たちしかいないみたい」
僕が思ったことを夕がそのまま口にする。
「……」
002
「そういえば事故のとき、黄葉は何してた?」
事故。
夕が言う事故とは、つまり、僕らの始まりのことを言っているのだろう。
僕が左腕を無くし、夕が僕の左腕を繋げたトラックの事故。
「そうだな……記憶が不鮮明だが、書店に向かっていたんじゃなかったかな。しかし珍しいな、夕がその話題を出すなんて」なんとなく触れづらい話題だから、僕からは話題に出来なかったな。この際だし色々聞いてしまおう。
「で、夕は何をするためにわざわざ……。保護施設が灰田井市にあるだけで、独り暮らしは栞守市でやってるのか?」
事故現場は栞守市なので、自転車で灰田井市から来るのは面倒だし、考えにくい。
「いや、……もともとバイト先が栞守市だったから、駅に自転車を置いてたの」
「なるほど」
夕は独り暮らししてる場所やらには触れなかった。どうやら教えないつもりらしい。
ぐぬぬ。
「ってことはバイトに向かう途中だったって訳か」
「まあね。遅刻しそうで、急いでたから」
「ふぅん……なんで?」遅刻しそうになった理由を聞いてみる。話を途切れさせないための、適当な質問でしかないが。
以外にも夕は待ってましたとばかりに語り始めた。
「あの日は厄日だったね。そう言わずにはいられないくらい」
≪夕の回想≫
厄日。
事故に何故遭ったのか。
これは逆恨みにしかならないけれど、私の視点で話をするなら、あれは疫病神のせいだ。と、言わざるをえない。
厄日に現れた疫病神。
疫病神と出会ってしまった厄日。
はたしてどちらが最初なんだろう?鶏と卵みたいな話はこじつけかな?…いやいや、そういう話がしたいわけではない。
厄日も疫病神も同じ。
二度あることは三度あるとか、不幸は立て続けに起きるとか、人生がその時は左回りだったのかも。……ついでにというか、もちろん私の言うところの疫病神っていうのは比喩で、『嫌な人間』って意味の疫病神で、ちゃんと人間だから、都市伝説とかじゃないからそんな眉唾物を見るような顔しないでいいよ。貝木君。
……って言うことはやはり厄日だったから、疫病神と出くわしたんだね。
では改めて、疫病神。
神が聞いて呆れる。正体をばらしてしまえば、ただの軽い男が、私に絡んできたんだよ。
……あれ?黄葉君。ムッとした?
ニマーッ。
もちろんそんな軽い男なんかに付いてくわけない。だいたい、私はあと数分後にはバイト先に到着していなくてはならなくて。ほんの少しお腹に入れられるものを買っておこうとコンビニに寄っただけ。
それでもその男はしつこく絡んできて、迷惑だったよ。自転車を押しながらだから、前に立たれると避けにくいし、なおのこと。
――連絡先交換しない?――
携帯を家に忘れまして。
――じゃあさ、メアド書くからちょっと待って――
バイトの時間なんでいきますね。
――あ、じゃあバイト先にいくよ、連れてって――
自転車で一時間だけど走ってついてこれます?遅刻しそうなんで。
――…………。――
では。
…煙たがっているのをここでやっと理解してくれて、私はコンビニから出て直ぐの横断歩道を逃げるように渡っていった。っていうか逃げたよ。
男の顔は確かに悪くは無いし、だからこそ断られる訳ないとか思ってたのかも。
あ、事故に遭った横断歩道とは別だよ、遅刻するかしないかの瀬戸際で、急いで疫病神から離れたあとだから。
《回想終わり》
「うん。こんな理由かな」夕はさらっと話終わると「あーいやだいやだ」と言った。
案外普通な話というか、疫病神とか厄日という割に軽い。確かにあの後事故にあったのだから多少の恨みはあるだろうが、肩透かしな感じだ。
「迷惑な男も居たもんで」僕は一言で片付ける。
「それって自虐ネタ?」夕は呼吸するようにそう言う。
「僕は迷惑なのか!?」
「自覚しようよ」
「え?……またなんか迷惑かけたっけ」
「光美ちゃん誘拐事件の時、考えなしに突っ込んで頼木さんは冷や汗ものだって言ってたよ」
「それは……」
「あと、そもそもその時、一人で走り出して、私が呼んだのも気づいてないし、徒歩で間に合うわけないのに」
「それもそうか……」
「あと恋泥棒も」
「それは…………。え?」
「迷惑も迷惑だよ」と、夕ははにかんだ。ニマーッ。
「はにかむことなのか……?僕には笑えない冗談だ」
「笑ってるわけじゃなくて、はにかんでるだけだよ『きゃっ、言っちゃった!恥ずかしい』って」
「そんな本音を吐露するような言い方もなんか猫かぶりな感じだな」慣れてきた。
「はぁ……」夕は見せつけるようにため息をして「だから、自覚がたりないんだよ」と、こんどはいっそ、ナイフのような鋭利な笑みを浮かべた。
「ま、いいけどね」
「?」
心を抉られた直後の告白、冷やかな視線に、もう意味がわからなくなる。泣いていいのか、喜んでいいのか。夕の言葉はどこか演技然として、僕の中に染み込まない。
「まぁ、取りあえずは、黄葉の浮気疑惑をいい加減自分の口から弁解してもらいたいけど?」こんどは不適な笑み。まるでお面を変えるかのように笑みを使い分けている夕である。
いや、浮気?誰が誰に対して浮気?
「どういうことだ?」僕はそのまま疑問を言う。どういうことだ?
「いや、光美ちゃんが誘拐される前に、女の子と合ってたじゃんか」年上の、と夕は付け足す。が、いまいちピンとこない。僕が?夕以外の?光美ちゃん以外の?女の子と?
「覚えてない…本当にそんなことあったか?」
「ほらっ、壊れて捨てちゃったけど、木製の左手貰ってたよ!」
「…………あー。あいつか」夕の言葉で浮気相手が誰のことを指すのか理解する。
「ほら、あの子は黄葉のなんなの?」僕は左手と言う言葉で女の子の正体が分かった。それにより心に少し余裕ができたので、改めて夕に向き合うとちょっと面白い。夕はいつになく真剣な顔で僕を見つめる。嫉妬してくれているのがやたらに嬉しい。疫病神の男には悪いが、夕に近づきたいなら腕一本捨てる覚悟が必要らしい。
優越感。
「ふっ……はははははは」僕はおかしくなって笑う、一ヶ月近く病院で過ごしているが、こんな風に笑ったのは初めてかもしれない。屋上は声がよく通る。澄んだ空に僕の声が響いた。
「……何がおかしいのさ」
「いや、浮気かぁ……て、それって僕、いよいよ夕を落とせたのかなってさ」
「うぅ~…………。いいから、あの女の子な誰なの」
「姉」
「……へ?」
「姉貴だよ、服屋で働いてる。倉庫からいらないマネキンの左腕もらってきたんだ」すぐダメにしちゃったけど。
「……あー、そう……なんだ」
「姉にまでヤキモチかぁ、ははは」
「うっさいわ、バカ」
かわいい。
そういえば、僕もその日は姉にこき使われるのが嫌で逃げ出したんだっけ?となると僕の疫病神か。…いや、木製の左手は光美ちゃんを救い出す時、最後は散々だったが役にはたったし、疫病神ではないな。
「……とにかく、僕は夕以外の女の子に浮気なんてしてない」
「でも、光美ちゃんの話だとキスしそうなほど近くにいたとか」
「ゑ?」
003
なんでそれを夕が知っている!?
「いやいや、光美ちゃんの脚を切ったときだろ、その時はほら、ただ純粋に心配だったし、キスなんてしてない! するわけがない!」
「でも、光美ちゃんのことになると、なんか目の色変わるよねー」
「それはお前もだろ!」
勘弁してくれ。
「樋野さん、貝木君、捜したよ」
ここへ来て渡りに船。頼木さんが現れる。助かった。
「頼木さん、どうしたんです?」夕が返事をする。
「貝木君の笑い声が聞こえてな、光美様とこの下の階まで来たが、屋上は車椅子では入らないからな」
「それもそうか」僕は納得する。エレベーターがない屋上に光美ちゃんが来るはずもない。丁度いいし、下に降りよう。
「光美ちゃんとこまで行こうか」
「……うん」夕は話題が切り替えられて不服そうだ。
「そうしてくれると助かるよ、二人には光美様も特別懐いているからな」
頼木さんの男勝りな口調は高圧的ではなく、不思議と友好的な響きがあった。春の風が頼木さんの栗色のポニーテールを靡かせる。ズボン型の女性用スーツは頼木さんにとてもよく似合っている。
004
自分たちの病室で、四人が集まる。最近はこの面子が当たり前となった。僕に、夕に、光美ちゃん。そして頼木深雪さんだ。
「ね、光美ちゃん」
夕はさっそく件の話題を持ち出す。
「光美ちゃんはお姉さんが欲しいの?」
「そうなんですか?光美様」
夕の言葉に食いついたのは頼木さんだ、光美様光美様と、僕より年上の人が言っていると、僕は光美ちゃんを『光美ちゃん』と言ってもいいのか不安になる。僕も光美様と呼んだ方がいいのだろうか?……そもそも、頼木さんは峰島の家政婦、もとい峰島光美ちゃんのお世話係として来ているのだから、その家の人間には敬称なのはもっともだ。しかし僕らに対してはフランクな態度だったりするのでこの部屋の力関係は理解していても少しこんがらがる。
「お姉さんが欲しいですか?……うーん……どうでしょう」光美ちゃんは車椅子に座って考える。「分からないです」考えたけど分からない。本当に考えているのか僕はたまに疑問に思うが、光美ちゃんとはそういう生命体であり、最終兵器なので口には出さない。
「光美様が望むなら私がお姉さんになりますが」
「深雪さんは……うーん……なんか、違うんです」
「そうですか」
どうやら頼木さんは光美ちゃんのお姉さん役にはなれないらしい。なにか基準があるのだろうか。僕から見た印象だと、頼木さんは適役だと思うのだが。むしろ、頼木さんがダメな場合、何をもって夕がお姉さんになれるのか分からない。
「光美ちゃんの望むお姉さんってなんなんだ?」
「私は、そんなにお姉さん欲しいと言ってますかね?」
「うーむ。なんか最近お姉さんを探してるみたいじゃんか。お姉さんが誰かは知らないけど」
僕は口に出した自分の言葉に納得した。そうだ。光美ちゃんはお姉さんを探してるようなのだ。
「…………そうですか」光美ちゃんはなんとも言えない表情をして窓に車椅子を近付ける。
しばらく考え込む。それを見つめる僕ら。
「わかりました」光美ちゃんはそう言うと、こう続けた。
「お姉さんを募集します」
よく分からないが面白そうだ。僕は蚊帳の外だし、黙って様子を見ているとしよう。
「お姉さんってどこまで?病院内の役割?本当に姉妹になるの?」夕が食いつく。その質問は夕が明白にしておきたい所だろう。
「本当に姉妹になれるかはお父さんお母さんに聞かないとです。でもそれがいいです」
「となると家政婦兼お世話係の私は実家の縁を切らんと無理か……残念」
「私はかなり有力候補だねー」ニマーッ。
頼木さんは『はて?』と首を傾いだ。夕に親がいないことを知らない。
「じゃあ、光美ちゃん。お姉さんになれるように頑張っちゃうよ」
言外に含まれた会話の前提、夕に親がいないことを悟り頼木さんは『あー。そなんだ』と呟いた。夕は実家の縁がないので有力候補なのである。
確かにこれは個人の能力を度外視して頼木さんよりも有利に働く要素の一つだろう。
「私が小耳に挟んだ情報だが、光美様のご両親は子宝に恵まれなく、やっと産まれた光美様が一人、心根では、一人っ子ではなくもう少し子が欲しかったと零していたらしい。噂のまた聞きだから、確証は無いが、高齢な御二方だ、養子になるチャンスはあるかも知れないぞ」頼木さんは親切に、僕と夕に耳打ちした。光美ちゃんは車椅子の上で首を傾げる。
「何の話です?」
「いえ、樋野さんがお姉さんになれれば、この先も楽しいでしょうねと」
「夕お姉さんがお姉さんになったら嬉しいです」光美ちゃんはきらきらと笑う。
「お姉さんになれば、この先の未来は……楽しいだろうね」俄然、夕の瞳に火が付いた。
「蚊帳の外だな」
蚊帳の外の僕はちょっとつまらない。おかしいな。
後日。夕はお姉さんになったらこんなに良い事尽くしになる!というデモンストレーションを行うために朝から光美ちゃんに付きっ切りだ。昨日の夕方に帰り、今日の朝に再び病院にお世話をしに来る予定の頼木さんはまだ来ない。
まず夕は朝のリハビリをこなして光美ちゃんのベットに入り、隣で二度寝をする。ここで僕は目覚め、衝撃とともに二度寝するための眠気を失う。光美ちゃんが目覚めると夕も目覚め、光美ちゃんの歯を慈愛顏で磨いていた。
「今気付いたけど光美ちゃんの歯磨き粉甘いやつだね。辛いのダメ?」夕が光美ちゃんの奥歯を磨きながら聞く。聞いた癖に手は止めない。
「……かりゃいのられれふ」光美ちゃんが可愛い顔を赤らめて言う。
「ふーん。歯並びも可愛いね。光美ちゃん」
歯並びが可愛いとはなんだろう。でも光美ちゃんは可愛いから上下14個ずつ並べられた歯もきっとかわいいだろう。
光美ちゃんの瞳が潤んでいる。寝起きだからか、気持ちいいのか、恥ずかしいのか。
次に光美ちゃんを車椅子に乗せる。この工程は僕も参加した。そして夕は光美ちゃんの髪を櫛で梳かし『たまには結ばずに髪の毛を休ませた方がいいんだよ』と体良く髪を結ばずに朝食の時間を迎える。エレベーターで一階へ降りて、食堂へ移動する。この時も夕は光美ちゃんにべったりで車椅子を押していた。光美ちゃんはこのあたりから僕に視線を向ける。どうやら困っているらしい。僕は苦笑いで返事をする。九時半あたりには頼木さんが来るだろうし、頑張れ!光美ちゃん。困った顔も可愛いぞ。
食事は大方の予想どうりであった。
「はい、光美ちゃん。あーん」
「一人で食べれますよ……あ、あーん」
あ、食べるんだ。
断りきれずにあーんする光美ちゃんを眺めながら僕はもくもくと食事を済ませる。病院の食事など、決まって質素であり、目の前の二人のように食べているのは珍しいことだ。
「あ、光美ちゃん、鮭の皮も食べられるんだよ?」
「鮭の皮嫌いです」
「好き嫌いする子お姉さん嫌いだなー」ぷんぷん。
知らねぇよ。
楽しみすぎだろ夕。光美ちゃんの顔が露骨に嫌がってて面白いぞ。
しかしこのままでは二人とも良い事ないので僕が夕を抑えよう。光美ちゃんに嫌われたりしたら夕のためにならないし。
「夕がお姉さんなんだし、今は光美ちゃんの分まで食べちゃえよ」
「えー。……まぁいっか。鮭の皮塩っぱいし油っぽいしで確かに美味しくないよね」
僕のささやかな助け舟に光美ちゃんは静かに喜んだ。僕の好感度が上がっても意味がない。僕は薬を服用して食堂を出た。
続いて午前。暇な時間。九時半あたりには頼木さんが来るとして、さて、どうしよう。夕の頑張りはどうやら空回りがすぎる。それまで光美ちゃんの好感度を下げないように夕を見守るとしよう。
「テレビみる?」
「はい、なんだか疲れた気がします」光美ちゃんを夕のベットに入れて僕は夕のベットのテレビをつける。どうやらこのまま9時半を迎えれば一安心だ。
「光美ちゃん体小さい」夕は光美ちゃんの後ろから抱きついてテレビを見る。
「そんなことないです」光美ちゃんはむっとして抗議する。気にしているらしい。
僕はそれを眺めながらしばらく体を休める。
005
十時半。頼木さんは1時間遅れで到着した。もう一人ついて来ている人がいる。
「遅れた。光美様、おはようございます。みんなもすまんな、道中貝木の姉に合ったぞ」ほら、と体を扉から離して、僕の姉が入ってきた。
「うーす。元気してるかー黄葉」
「……でた」僕は苦い顔を隠さない。貝木の姉。つまり僕の実の姉。事故当日に僕が家から出た理由は人使いの荒い姉から逃げる為であったり、光美ちゃんが誘拐された時に貰った木製の左腕も姉が絡んでいる。
僕は姉が苦手だ。
姉はそんなこと思ってないみたいだが。
「でたって、たまには見舞いに来るわよ。ん?左腕は?」姉は左腕の在り処を聞く。僕に渡した木製の左腕の在り処を。
「腹刺された時にいつの間にか失くした」
「勘弁してよー。加工に手間かけたのにすぐ失くしたの?」
僕の身体は切り裂かれたというのに、そんなに木の左腕が大事か。
「おかげで光美ちゃんは助けられた。失くしたのは確かに悪かったけど、もういいじゃんか」
「へぇへぇ、わかりゃーしたよー。人の苦労も知らんでもう」姉はため息をつき、「ま、しゃーない。えっと、あんたが夕ちゃんかね?」
「へ?あ、はい」
「ほう、上玉だね。でこちらが光美ちゃんね」
「はじめまして、です?」
「こちらも上玉……」姉は何かを考えているように腕を組み眉間にシワを寄せ、遠くを見る。「かーっ。あんたのために久々に東奔西走してたってのに黄葉、両手に花とはねぇ」
「本当にまぁぬけぬけと、また夜遊びやらなにやらしてただけだろ。こっちは見ての通り、両手に花は手に余る有様だよ」片腕さんはいっぱいいっぱいだ。
「言うねぇ……でもお姉さんは夜遊びなんてしてません」
「どうだか。…というかなにしに来たんだよ」
「いや、大学も早々に休んでこんなのんびり過ごしてる我が弟を叱咤しに来たの」姉は持ってきた荷物を一つ差し出す。僕の大学へ行く時用の鞄と道具一式のようだ。
「とりあえず明日から行くよ」僕は答える。
しかし姉の言葉は僕を固まらせた。
「それと、あんたはそろっと退院しなさい」
006
は?
急に何を言い出すんだ、我が姉は。
自分でもうすうす気付いてはいたが、それがまさか今日だとは。
「大学通えるのに家には帰らないなんて、病院の迷惑よ。あたしが一人暮らしをこの春から始めるにあたり、あんたも私の一人暮らしの部屋に来なさい」
「は?一人暮らし……え?」呆気にとられてどこから整理するべきか。夕と離れることに対しての心残りがまず思い浮かぶ。次に光美ちゃん。そして一人暮らし。「ひ、一人暮らしって、ねーちゃんと一緒じゃ二人暮らしじゃねーか。親は知ってるのか?」
「もう言った。明日から退院。そして私と住むの」
「明日ぁ?! なんで?」
「あんたの大学は私の一人暮らし先の部屋から近いし、温情としてこの病院もアクセスしやすい場所にしたから」
夕は僕と目を合わせる。不安そうな顔が少し薄れた。病院もアクセスしやすい場所。大学にも近い場所をわざわざ探して部屋をとったのなら、僕も少しは納得できた。
「とりあえずは、わかった。けど急にどうしたんだよ?」予告もなしに家を出るとか、突飛な姉でも常識を疑う。
「簡単よ。あるやんごとなき理由で親に追い出されたの」
「夜遊びかよ……」突飛な姉らしい理由だった。
こうして、嵐のように現れた姉は部屋の鍵や僕の荷物を置いて嵐のように去って行った。
007
午後。とりあえず落ち着きを取り戻した僕ら一行は、急ごしらえの退院祝いを行うという考えのもと、街に出た。
春らしさを感じさせる陽光が暖かく、幸いにも天気がいい。どこへ行こうか決めあぐねているこの気ままな散歩も、心地いいものだ。
街に出たのは四人。夕と光美ちゃんと頼木さんがいる。
「まさか明日からいなくなっちゃうなんて」夕は苦笑する。
「本当に、だから姉は苦手なんだ。退院しても見舞いに来るよ」
「お願いね、とりあえず早速明日から見舞いに通ってね」
「……」ちょっときついな。どうしよう。
そうこうしているうちに、灰田井駅に付いた。駅の下町ともなると流石にスーパーや居酒屋、ゲームセンターなどがあり、車の通りも多くなる。さらに歩いて駅の向こうは山になり、神社、運動公園、道の駅がある。と夕が教えてくれた。温泉宿もあるそうだ。行って見たいな。と思うが今日は流石に無理だ。
僕らは近くのファミリーレストランで食事をすることにした。
008
片腕の男や車椅子の女の子を見て、店員はにこやかに店の奥の席に案内してくれた。こちらとしては奥の席が取れて不満はないが、何も言わずに椅子を一つ持ち去る店員の気遣いを素直に喜べない気持ちもある。が、世間からして僕らとはつまりこういうものなのだ。
頼木さんの僕達に対する態度はスマートで、友好的で、裏が無い。とても素直に尊敬する。できそうでできないものだろう。僕は頼木さんを信頼している。
「退院祝いにしては急ごしらえすぎるが、お代は私が払うぞ。どんどん食べてくれ」
その言葉に素直に甘え、僕はテーブルに置かれたランチメニューに手を伸ばす。隣の夕としばらく吟味してみる。
メニューはハンバーグが多かった。ビーフハンバーグやプレート。和膳ものもあり、なかなか決められない。ふむ。トリオハンバーグにしてみよう。
皆それぞれ注文が決まり、頼木さんがボタンを押して店員を呼んだ。
『お伺い致します』
「デミオムライス一つ、と、トマチーズバーグプレートが一つ」
「あ、私もトマチ」と夕が言う。頼木さんは「では二つ」
「あと、トリオハンバーグ」
『セットの方はいかが致しますか?』
「トリオハンバーグにセットは?」頼木さんは聞くが、遠慮する。「いやいや、食べられるだろう。Aセットが一つと、ドリンクバー三つでお願いします」頼木さんはなかなか強引だが、本音を言えばお腹は減っているので有難い。
「ごちそうさまです」
「あとはないか?サラダとか」
「私はいいかな」と夕。
「私もです」と光美ちゃん。
「そうか、じゃあこのフライドポテトを一つ」
『かしこまりました。以上で?』
「えぇ」
店員は注文を繰り返すとハンディのオーダーを送信して奥に消えた。
「さて、ドリンクバーにでも。とって来ますよ、何がいいですか?」と夕が頼木さんと光美ちゃんに聞く。
「すまんな、私は爽健美茶で」
「私はカルピスソーダです」
「うん。いこ。黄葉」
「あぁ」夕の腕は一本。僕も行くことは分かっていたので席を立つ。
夕は爽健美茶とコカコーラ。僕はカルピスソーダとジンジャーエールをもって席に戻る。ほんの数分程度テーブルを離れていたが、そこには先にもって来られたフライドポテトがテーブルに置いてあった。
「つまみながら話でもしよう」頼木さんは僕らにもフライドポテトを薦め、一つをつまみ、小皿のケチャップに沈める。「明日からのことでも」
明日か。今思い返すとやはり急すぎる。この落ち着きは実感のなさから来ているのか。
「やっぱり急ですね。姉には振り回されてばかりだ」
「ははは」頼木さんは笑い、「第一印象そのままという感じだな」服装からして活発そうだ。
「で、お姉さんの名前は?」と夕。あれ?そういえば皆には名乗らなかったのか。
「貝木椛だ。三歳上で服屋で働いてる。前に木製の腕をくれたけどあれは服屋のマネキンの奴だ」
「へー……」夕は黙り込みコカコーラを飲む。
「夕が勘違いした相手だ」
「ぐふ」コカコーラの炭酸が抜ける。察しがいい頼木さんはニタニタと笑う。夕は静かに睨み付けると、それ以上のことはせず、コカコーラを一気に呷った。炭酸が抜けたから新しいのを取りに行くらしい。
「飲み物おかわり行く」
それを見送ると頼木さんは興味深げに聞いてきた。
「二人は付き合ってるのか?」ドリンクバーに行った夕には聞こえないように声を落として聞いてくる。
「げふ」カルピスソーダの炭酸が抜ける。光美はあんぐり口を開けている。次の刹那。
「片腕さんと夕お姉さん、付き合ってるんです!?」と驚きを隠せないといった大声。
ガチン……。
店内は客が少なく静かだ。ドリンクバーの方でコップが落ちる音がした。割れてはないようだ。それからしばらくして夕が新しいコーラを持ってくる。顔が赤い。
「……」なにを言うでもなく、ただバツが悪そうに隣に座るが、僕と少し距離を置いた。どうだろう。僕が言うのもなんだが、夕は僕のことすきだよな。僕も夕のことは、アレだし。だけど告白らしい告白はしていない。うーむ。
今はとりあえず濁しておこう。今は友達以上、恋人未満な感じだと言っておこう。僕はジンジャーエールに口をつけながら考えをまとめる。一口飲んだらそう言おう。
「私たちは付き合ってます」
「ごふ」ジンジャーエールの炭酸が抜ける。
ジンジャーエール炭酸やべえ。というか頼木さんの方を見れない。
「ははははは」頼木さんはお腹を抱えて笑う。
僕は炭酸が抜けたジンジャーエールを飲み干して席を立つ。
「はー、そうですか。知らなかったです」光美ちゃんは口を開けている。そして、そうかんがえるとそうだよなぁという顔になる。
僕はドリンクバーの方へ行き、ジンジャーエールのボタンを押した。遠くから光美ちゃんの驚いた声が聴こえる。
『えっちぃことしたんです!?』
僕は早足で席に戻る。
「してねーよ!」
したよ!
したけどしてないって言わせてよ!まだ料理届いてないのに話弾みすぎ。
ここでオムライスとトリオハンバーグとAセットが届く。僕はじゅうじゅうと音を立てるトリオハンバーグの前に座りフライドポテトをニ、三本貪る。
「ではキスはしたのか?」
「んへまへん(してません)」ぶっきらぼうに答える。
「と言うことは今日しかないな」
「!?」僕は頼木さんを力なく睨むが頼木さんは鼻で笑う。
続いてトマチーズバーグプレートが二つと伝票が届く。
「頼木さんはどうなんですか」
「私は光美様ラブだから。さて、揃ったし、いただきます」頼木さんはデミオムライスにスプーンを差し込み。一口大を口に運んだ。
「……」釈然としないまま、僕もトリオハンバーグのチョリソーと噛み切るとご飯を口に入れた。先に来た分程よく熱が冷めて助かった。チョリソーのピリ辛の油がご飯に合うが、今日キスすると考えると油が気になる。口臭大丈夫かな?いやいや、頼木さんの言葉を間に受けなくてもいいだろ。別の日に、き、キスくらいいくらでも。
その後の食事は、味も覚えていない。
009
ファミリーレストランを出ると時刻は三時になっていた。このあとは病室に戻るだけだ。
「私と光美様はちょっと別件がありますので、先に戻っていて下さい」頼木さんはいつの間にか横断歩道の向こうにいて、光美ちゃんと共に建物の影に消えた。
「え……」
「……」
気まずい。頼木さんはわざとか?しかし本当に別件があるような素振りだし、現に携帯端末で誰かと通話しながら光美ちゃんを連れて行く。
引きとめられない。
キス、か。
「う、あぁ、あのさ、なんであの時付き合ってるって言ったの?」沈黙に耐え切れず絞るように出した話題は僕をさらに締め付ける。
「だって、……いいじゃんか、このくらい」夕は頬を膨らませる。
「このくらいって……」
「もしかしてダメだった?嫌かな?」
「いや、う、嬉しいかと」
かと、ってなんだよ。しっかりしろよ自分。
「……」
「……」
やがて沈黙に耐え切れず呟いた夕の言葉は僕を揺らす。
「キス」
「え?」
「しないの?」
「……するよ。いい?」
「……いいじゃんか、このくらい」
「……」
「……」
僕らは街角で互いの口を塞いだ。沈黙。鼓動の音が本当に聞こえそうだ。僕は思考が鈍くなり、温かい痺れに沈んでいくのを感じ、夕の唇からトマトソースの味がして『今僕の口はチョリソーの味でもするのだろうか?』とふと思う。
三十秒くらい。だったと思う。ありきたりだが、何時間にも感じられた。鼓動が早い。口が湿る。
「明日」僕は言う「明日も来るよ。今度は見舞いで」
「そう」夕は言う「なら待ってる」
人気がないにしても外は恥ずかしい。病院に戻ろう。
雰囲気とかもなく、思いの外淡白な気がしたが、いいのだろうか。案外こんなものなのだろうか。モヤモヤとする。こんな感じに振る舞えばいいのか、幻滅されていないだろうか、口臭は大丈夫だっただろうか。わからない。
目的地の定まった帰路は行きの時よりも短い時間で済んだ。病院に戻るとそのまま病室に戻り、服を脱いで患者服に。しかしふと手を止めて腹を撫でる。包帯はよれていて隙間から真皮室のピンク色の肉が皮膚の代わりに張り付いていた。抗生物質のお陰か腫れも治まっているし、この程度の傷なら自宅療養で十分だ。そう考えると包帯も邪魔臭い。僕は包帯の留め具を取り、するすると解き、体液が付いていないか確認する。血もついていない。今日は朝から天気がいい。僕は上裸のまま日が当たる窓側に移動する。夕のベッドはカーテンが引かれ、中で衣擦れの音がする。まだ着替えているらしい。
昼下がりの日が窓に入る。この部屋は朝日は入らないが午後の日はよく入る。とくに夕日は眩しいくらいに。
僕は傷を確かめるように背伸びをする。最終日。一番この病室で落ち着けるはずだと思っていたし、落ち着けた。傷口は何針か縫われていて、あんまり綺麗じゃないとおもう。それでも背中に傷があるよりは誇らしい。
シャーッ。と、カーテンが開く音が聴こえる。
「!……ちょっと、服来てよ」
「最後くらいいいだろ」
「私は最後じゃない」
「僕は最後だ」
夕はああ言った割に気にしていないらしく、それ以上はなにも言わなかった。
「黄葉、なんか痩せた?」
「筋肉が痩せたんだろう」
「背中みせて」
「えー」
「いいから」
僕もああ言った割に背中を見せることを頑なに拒否する理由もないので後ろを向いた。夕が近付いて来るのがわかる。夕は背中に右手を付け、しばらくぺたぺたと触ると横腹を突ついた。
「ちょっ!?くすぐったいって」僕は身を捩るようにして夕と向き合う。
あれ?こうしてみると前より夕との身長差がある。背が伸びたのなら嬉しい事だ。
夕は腹の傷を人差し指でなぞる。そして次に端の方まで来ると今度は下から上に人差し指の爪でなぞった。爪の先が傷をなぞると体を捩りたくなるが僕は耐えた。耐えるべきだと思った。
「……」夕は視線を合わせない。僕の鎖骨と筋肉の痩せた胸に頭を乗せて、静かに抱き付いた。
「……夕」
「なに?」
「キスをしよう」視線が合わない今だから言えたのだ。
夕は返事をすることなく顔をこちらに向けた。僕は夕の唇からリップクリームの少し甘い匂いに気付いて、夕もキスしようとしていたとかと思考し、触れるだけのキスをした。それでも何か心の満たされないものを感じ、僕は夕の顎先に右手を添えると夕の口を少し開けた。
「んーっ!」
夕が何かを言っているので少し離れる。
「……ごめん、こんなやつはだめだった?」
「こ、心の準備というか、コーラ飲んだし、あの、大人のキスは恥ずかしい」
「じゃあ今から歯磨いて、準備出来たらしてみようよ」
最後くらいいいだろう。
「……わ、わかったよ」夕は耳まで赤くなっていた。
数分経って歯磨きも済んだ僕と夕は屋上にいた。
僕はもう服を着ている。
屋上。と言っても、屋上の一歩手前で、扉の前にいる。ここは人気がないし、階段なので光美ちゃんは来れない。光美ちゃんには悪いが、何かあっても、察しのいい頼木さんが多分フォローしてくれる筈だ。
「……ほんとにするの?」
「ここまで来たんだから、しよう」
「わかったよ。そうだよね。うん」
「……」
「でもその前にさ」
「なに?」
「好きって言って。はっきりしておきたいの」
「……あ、あぁ」僕は改めて夕と向き合う。
ここは薄暗く、狭い通路でしかない。夕の顔を見つめるとはっきりと目が合う。夕は眠そうな顔ではなく、潤んだ瞳と震える体で、僕の言葉を待っている。
「僕は、夕が好きだ」
それは僕の心の開示。夕の心を開く言葉。
「……ありがとう。私もだよ。キスしよっか」
僕は再び夕の顔に右手を添える。
「舌、だして」
「ん……」
010
四時半。病室には頼木さんと光美ちゃんが予想通り帰って来ていた。
「おかえり、遅かったね」
「「……」」
僕と夕は返す言葉もなく顔を赤くしていた。
「キスしたんです?」光美ちゃんはストレートに聞いてきた。
答えられるかよ。
「光美様は私とキスします?」頼木さんは本気とも冗談とも言えない口調で言い放つ。
「またです?……いいですよ」光美ちゃんも特に問題ないように言った。
また、ということは、頼木さんとキスしたことはあるのだろうか?
「頼木さんって、そっちですか?」夕が聞いた。
「そんなつもりは無かったんだが、光美様を見てからはそうなのかもしれないな、と思っている」ははは。頼木さんは笑う。
「え?光美ちゃんは?」と夕。
「知らない男の人より頼木さんがいいです」
なるほど、頼木さんがお姉さんには向いていないというのは、そういうことなのか。僕は納得して、「あー……」と声を漏らした。
珍しく頼木さんが照れている。
ここで、夕の携帯が鳴る。着信音は無く、バイブレーターのみであった。しかし、夕の携帯が鳴るのは珍しい。夕は確認するしてみると「知らないアドレス……」と呟き、どうやらメールらしいその画面を読んだ。
「えっと、『やっほー 覚えてるー? この前は連絡先交換出来なかったから、知り合いから聞いちゃった!』……誰?」
誰って、文面から察するに厄日の人だろ。
「厄日の人だろ。返信しなくていいんじゃない?」
僕がそう言うと厄日の人を思い出して、あぁ、あいつか。と言い、携帯を操作する。
「友達に私の連絡先教えたかどうかメールする」そして夕は厄日の人を無視して友達にメールを送信した。
「なに?『厄日の人』って」頼木さんが僕に聞く。
「事故に合う前、夕は変な男に付きまとわられたんです。今のメールもおそらくは」
バイブレーター。夕の友達は返信が早かった。
「……『仲がいいっていう男の人に教えたよ ボーイフレンドなの? うらやましー』……全然違う!!」夕が珍しく語気を荒げた。
「私の友達が騙されてストーカーにアドレス教えたみたい」
「あらら」僕は適当に返した。アドレスを変更すれば解決することだ。
その間に夕は友達に電話を掛けていた。
「もしもし、……いや、違うの、……知り合いじゃないし……」夕は話しながら部屋を出る。
「……光美ちゃんって結局、お姉さん欲しいの?」僕は時間を潰そうと、光美ちゃんに話しかける。
「私は頼木さんがいれば困ることはないです。でも、先程家の方に帰ってお父さんに聞いてみたところ、お母さんも子供が欲しいと言っていたそうです」
「え?あの後本当に用事があったの?」僕は素直に驚く。
「あぁ、そこで私の方から峰島様ご両親に樋野夕の事をかるく話した。養子にすることに対しては特に問題はないそうだ。あの一件の時に為人はもう分かっているしね」頼木さんは言う。
「親切なことで」
「深雪と書いて親切と読んでくれ」得意げに笑う。
「そっか、光美ちゃんは夕がお姉さんになるの嫌か?」
「すごく嬉しいです」光美ちゃんは目をらんらんと輝かせる。お姉さんができること自体は嬉しいのだろう。あとは夕の気持ちか。
「……おまたせ」夕は携帯をベッドに放って座る。あまり顔色が良くない。
「どうした?」
「あの子、私の入院先まで教えちゃってたみたい」
「おいおい……」
そうなると何だか嫌な予感がする。僕は明日からいないのだから。
「友達はいつ男に教えたんだ?」
「大学の入学してすぐ、というか今日」
「大学って、そこの新入生が夕の友達と、厄日の人か、どこの大学だ?」嫌な予感がするんだよなぁ。
「藍星大学」夕の顔は青い。
それを聞いて僕も気が遠くなる。藍星大学だと。夕の友達はいい。その厄日の人も同じ大学、明日には対面する事になるのか。
「なんだかよく分からないが、その男に言えばいい」頼木さんは窓に寄り掛かり僕に言った。
「『夕は俺の女だ』って」
「そんな言い方はしないけど、確かにそれが手っ取り早いか」
頼木さんの演技がかった言い方はないにしろ、厄日の人にははっきりと言ったほうがいいだろう。少なくとも今までよりこちらが有利。というか、答えは決まっているんだから。
時刻は六時。退院するのでその手続きをする。入院費が思いの外安かった。保険証の有難さを実感する。夕はリハビリのため部屋を出た。
「頼木さんはどんな仕事をしてるんですか?」僕はベッドに腰掛けて頼木さんに聞いてみた。
「光美様が誘拐される前は、光美様のお父さんの仕事を、つまり地主のアパートやマンションの帳簿管理やら、トラブルの対応がメイン。息抜きに光美様とご一緒していたが、今は逆だ。息抜きに仕事をしている」
「いいのかそれ」
「アパートもマンションもずっと安定していて、トラブルも無いし、帳簿は時間を見つけてすぐに出来る」
「休みの日は?」
「聞いて何になる? まぁ、部屋の掃除、その他諸々を済ませたら光美様に会いに行く」
「光美ちゃん大好きか」
「光美様は可愛いからな、本当は学校に通わせるのだろうが、その代わりに私が勉強を教えているのだから、問題あるまい」
光美ちゃんって勉強してたのか。頼木さんと一緒の時は勉強もしているとは初耳だ。
「ちなみに光美ちゃんは何歳だ?」
「貝木君より三つ下だ。今年から高一だな、普通なら」
「将来は?」
「さぁ私は知らない。大地主の娘だ、経営が安定してる今は経営を学ぶことが第一だろう。私が言うと偉そうだが、光美様を甘やかせたくはない」
頼木さんは光美ちゃんの前ではっきりとそう言った。隣の光美ちゃんも不満はないようだ。
「片腕さんより金持ちになってやります」光美ちゃんは殊勝な笑みを浮かべる。
「現在進行形で敗北を知らないだろ」一般家庭の僕なんか、光美ちゃんに勝てそうに無い。
「いいなー夕は。光美ちゃんのお姉さんになれたらお金持ちの娘か、シンデレラストーリーだな」
「王子様になれば貝木君も仲間入りだろう」頼木さんが言う。
「……」普通に照れ臭くて何も言い返せない。夕が居たらどんな反応しただろう。
011
頼木さんが見舞いの時間を終えて、入れ替わるように夕が入って来る七時。
僕達は下の食堂に下りて最後の晩餐を済ませる。
「明日」夕が会話に区切りを付けてそう言った。「あの男に伝えといてね。返信とかしてないからどうなるかわからないけど」
「あぁ、流石に彼氏が居るなら諦めてくれるだろ」
「リハビリの時に友達から連絡が来て、『講義が午後からないから久しぶりに見舞い来る』って。多分その子とは大学で顔を合わせる流れになるけど、あの厄日の男まで連れて来ないでよ」
「わーかったから」僕は気が重い。「その子の名前教えてよ、明日その子を通して男に合うから」
「……まぁ、いいけど、変な気起こさないでよ」
「そんな風に見えるか?」
「私は見えない部分に釘を指したの」
「見えない部分も潔白だ」
「そ、」
「そうだ」光美ちゃんにも今日からはベタベタしないようにしてるのだから、初対面の人に心を開くわけない。ちなみに光美ちゃんは今病院内を散歩している。夜の1階は人が少ないから夕飯の後にしばらく散歩をするのだ。それを僕達は吹き抜けの2階渡り廊下から眺めている。
「……連絡先」夕が呟いた。「黄葉の連絡先教えてよ」
そうだ。僕達は病室で同じ衣食住を共にしているから、今まで連絡先を交換する必要が無かった。しかし、明日からは違う。退院してしまったら、見舞いに行っても共有する時間はがくんと減る。
「病室に戻ったら携帯の連絡先を交換しよう」
「うん」
「……なんかテンション低いな」
「うん」
「どうかしたのか?」
「リハビリ続けてるけどさ、最近はあんまり進まなくて」
てっきり僕との別れが寂しいとか、そんなことを想像してたから、何と無く残念。
「他人の腕を移植出来て、リハビリ次第で動かせるようになるこの22世紀現代医療、それだけでもすごい時代だと思うけど。……リハビリはどれくらい続く見通しなんだ?」
「2年くらいかかるって」
「2年?早い方じゃないか、まぁ、スランプとか、停滞とか、そんな時もあるんだと思う。辛い時は連絡してくれよ」
そう言って僕は渡り廊下の手すりに顎を乗せ、光美ちゃんを見守る。光美ちゃんは観葉植物の平たい葉を観察している。光美ちゃんはただ静かにこの時間を己の中で彫琢しているらしい。僕は夕の左側から右側に立ち位置を移動して、僕の左腕がない分近付く。非常口を案内するライトが渡り廊下を緑に光らせる。
「夕が光美ちゃんの姉になったら、どうするんだ?」
「向こうも乗り気なのはありがたいことだし、養子になればこの名字も変えてもらえる。でも、迷惑は掛けたくないんだよ、出来る仕事を探して、奨学金とかは自分のお金で返したいな」
「頑張り屋だな」
「停滞が好きじゃないの。時間が進む分だけ、生きた実感が欲しいんだ、私は」夕はそういって、何もしない時間の扱い方が分からないと続けた。
「僕は今みたいな時間も、好きだよ。何の変化もない時間が流れるのを感じるのも、生きた実感だと思ってる」
「そう?私は物足りないかな。今日で最後なんだから、もっと濃い時間を過ごしたい」
「じゃあキスする?」
「光美ちゃんが下にいるよ?」
「廊下から離れてあそこの椅子に座ればいい」僕は革張りの茶色い椅子に夕を連れて行った。
「少しだけだよ」
「濃い時間を過ごしたいんだろう?」
「付き合った途端に狼だね」
「最後の日じゃ無かったら、こんなに求めないさ」僕は心の中で自分を納得させる。最後の日だからしょうがないのだ。
少しの間だけ、夕とキスをして、光美ちゃんをまた見守る。僕と夕は、手を繋いでいることに、おそらく光美ちゃんは気付かない。
012
光美ちゃんは観葉植物と薄暗いロビーで、時間を彫琢し、僕らは僕らなりの時間を過ごした。
病室に戻るとすぐに眠る準備をする。僕は一つ一つ大人になって行くけれど、果たして僕自身がこの成長について来れるのだろうか。
光美ちゃんと合流し、四階の病室に上がる。いつもより長く道草を食っていた。今までなら七時には病室にいるのが僕らの生活リズムなのだが、今日は最後の日だからか、日常とは少し違う。
明日からは一転して全ての生活リズムに変化が起こるのだから、肩慣らしのようなものだ。僕は自分のベッドの上に散らかった私物をまとめて明日に備える。少なくとも明日の朝九時に灰田井駅に着いていて、電車に揺られて藍星大学に着いていないと。もう、輝かしい大学デビューは完全に乗り遅れたけれど、もともと乗る気も無かったし、取り敢えず夕の友達と昼ごろには落ち合い、問題を片付け、もして病院に、今度は見舞う側として行こう。
漠然としたタスク分けを頭の中で行い、僕は目を閉じた。
しん、と静かな病室は窓の外の雨風を知らせる。いつの間にか外は雨が降っているが、風も強い。明日には晴れるだろう。そんな風に思う。
「ねえ」
と、声がした。空耳かと思いながらも瞼はぱちりと開く。外から打ち付ける雨粒の音にかき消された足音。夕はいつの間にか僕のベッドを囲うカーテンの内側にいた。
「……びっくりした。なに?」
「眠気がまるで無い」
「夕でも寂しかったりするのか?」
「もうちょっと入院しててもいいんじゃない」
「そうしたいのは山々だけど、姉が聞かないし、光美ちゃんは」
「なんだかんだ疲れたみたい。寝てた」
今日は一日中ルーティンとは違った過ごし方だったからな。光美ちゃんが眠るのも無理はない。光美ちゃんはオンとオフの差が激しいから、今は充電しているのだろう。英気を養っている。充電と言えば携帯。
「連絡先は?」
「あ、あぶない。今交換しよ」夕は自分のベットに戻り携帯を取り出す。
「光美ちゃんともお別れか、まぁ、見舞いには来るから」
「今思うと、長いようで短いね。一ヶ月くらいかな」
「いろいろあったな、あの事故から」
「光美ちゃんがくる前の晩のこと、覚えてる?」携帯を取り出した夕は僕のベッドの渕に腰を下ろしこちらを見る。
「……」夕が僕に迫って来たあの時のことか、思い出して顔が熱くなる。「まぁ、だいたい」
「なんであんな事したんだろね」
「夕でもわからないなら、僕にはとても分かりそうにない」
「明日かぁ」
「明日だな」
携帯電話の赤外線を繋げて連絡先を登録する。
「寝坊したら嫌だから、戻るね」そう言って夕は僕の額に顔を近付けキスをする。
「なんか照れるな」
「そう?」と、夕ははにかんだ。ニマーッ。
そして夕は再びベッドに戻り、辺りは風の吹く音に包まれる。雨は弱まり、明日はやはり晴れそうだと、気を落ち着かせる。もう一度目を閉じて、額に残る感覚の余韻を楽しみ、脳内でさっきまでの会話を繰り返し、夕の唇を何度も思い出す。幾度も重ねた唇。それは全て今日の出来事だ。
意識に霧がかかる。瞼には三原色の光の粒子が踊る。僕は次第に睡眠の中へ落ちてゆく。
013
朝がやって来る。窓からくる光は瞼を通り、眼球に刺激を与える。病室は朝日が差し込まないはずだ、ただの朝の光だとしても僕のベッドのカーテンが光から守ってくれるはず。なのに眩しい。
「無防備な格好で、寝てんなー。うちの弟は」
聞き慣れた声がする。姉と、夕と光美ちゃん。だんだんと目覚めていく頭が状況を把握し始める。どうやら朝から姉が来ているらしい。僕のベッドを見るためにカーテンを開けたのか。
「可愛いじゃないですか」と夕らしき声。僕は覚醒しているが、もう少し寝たふりをしよう。
「お?樋野っちはホノジかね?」
「いや、そんな……」
「ぶっちゃけどーなの?弟のどこらへんが好きなわけ?」
姉は知らぬ間に夕との距離を詰めていた。このまま夕の答えを聴くのはどきどきする。
「腕を貰ったから?なのかはわかりませんけど、なんだか惹かれる感じがあるんです。あと、でっかい傷跡と、喉仏」
「ふーん、……峰島ちゃんはコイツどう思う?」
「私ですか?……片腕さんはかっこいいですよ。助けてくれた時、嬉しかったです」
おぉ、僕自身では聞けない言葉を貰えて朝から目覚めがいい。
「弟がねぇ……樋野っちには釣り合わないダメ男な感じだけど、ま、ビシバシ鍛えてやってくれ。弟をよろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「峰島ちゃんも、こいつの事こき使っていいから」
「はい。わかりました」
わかっちゃったかぁ。そう心の中で苦笑して僕は重々しく起き上がる。
「おはよう、黄葉」夕が言う。下瞼の黒ずみ、隈はその眠そうな瞳によくにあっていた。
「おはよう。……さて、大学行くかぁ」
僕は背伸びをする。姉は退院の手続きを済ませ、僕に鍵を渡す。
「ん、部屋の鍵。大学なんて九時からでしょ?少し部屋案内するから」
「わかった」
そして充分に体が目覚めると歯を磨く。飯は食わない。
僕は鞄一つに自分の荷物を詰める。本やお菓子、携帯に財布、ポータブルヘッドホンをズボンの定位置のポケットにしまい、一息ついて夕を見る。光美ちゃんを見る。
「今までお世話になりました……?」
「そんな感じではないよね」夕は微笑む。
「私はお世話になりました」光美ちゃんは車椅子に座っている。
「対したことは出来なかったけど、お世話しました」
「はい」光美ちゃんは笑う。僕に笑いかけるこの光美ちゃんを守れたのだ。と、少し誇らしく思える。
「また来るから」
「また入院?」
「お見舞いで。……よし、じゃあ、また」僕は姉の後に続いて病室を後にする。
「また」
「またです」
こうして僕は一ヶ月程を過ごしたこの病院を後にする。
姉の軽自動車に乗り込み、タバコの臭いが染み付いた車内でため息をする。
「煙草なんて吸ってたか?」
「私じゃないわよ、いろいろと知り合いがね。…換気しても臭いが取れなくて、最初はあまりの臭いに頭がおかしくなるかと思った。マシになったのよ」
「そんな知り合いがいるのか」嫌だな、そんな重度の喫煙者は。
「あれでも可愛い後輩だったんだけど、都会に住むと変わっちゃうねー。容赦がないわ」姉は項垂れて愚痴をこぼす。
「換気していい?なんか頭が痛い」
「あれ?まだそんなに臭いが残ってる?あんま吸わない方がいいよ」
煙草のような臭いに混じり、鼻腔の奥にまったりと残る香りがする。不快なものの中にどこか癖になりそうな、不思議な香の匂いがした。
病院から出て公道にそって駅側に車を走らせる。駅の近くの十字路を左に曲がり、藍星大学側に進む。車内はFMラヂオの当たり障りのない会話で満たされる。春の日差しは換気するための窓から射し込み暖かく、風は煙草の煙を洗い出した。しばらく走ると灰田井市の隣町、伊角市に入る。
伊角市は都会化が進んだ街で、姉の仕事場がある。それに大学も大体はこの街に集中しているので、若者が多い。交通の便も整えられているため、バスを利用すれば病院まで見舞いに行くのも苦ではない。
三十分程車を走らせる。
「ここらへんなのか?」
「うん。もう見える。あのガラス張りの青色のマンション」
「あれか?」僕は指をさす。疑いたいのはそのマンションの大きさと高さだ。三十はあり、ちょっとした高層マンションだ。
「そ、あれ」
「マジか」
「しかも二十五階の角部屋」姉は得意気に笑う。
エレベーターが静かに、そして迅速に僕らを二十五階へ運ぶ。251号室の扉を開き、興奮気味に中へ入る。ここが僕の部屋になるらしい。中も角部屋のお陰で窓からの日当りもよく、見晴らしも病院の4階とは比べ物にならない。大きめのクローゼットとダンボール箱の山、梯子を掛けて上にはロフト。部屋探しなんてしたことはないが、取り敢えず申し分ない。
「なんでこんな部屋に住めるんだ?」
「お姉さんが結構稼いでるのよ?それに」
「それに?」
「ぶっちゃけここ、事故物件で、安くなってるの」
「えー」
事故物件とは、つまり前の住人は何らかの形で命を絶ったとか、曰く付きという訳か。
「そしてそして、ここの地主、峰島家」
「はー」
「まあ、地主が峰島家だから安くなることはないけど、事故物件だから凄い安いよ。取り敢えず荷物はそこにあるから」と、クローゼットの前に積まれたダンボール箱の山を指差す。「帰ったら荷物整理して」
「分かった」
と、ここでズボンのポケットが震える。メールが来た。
夕からだ。メールを開いて確認する。
『友達の名前を教えてなかった。
大学が同じになるからには仲良くね。
その子の名前は川畑梢
見た目は普通、おそらく髪は染めてないから。』
という内容。見た目は普通で髪は黒いのだろうが、大掴みな特徴を教えられたところで、僕には特定できるわけがない。メールを返信する。
これだけじゃ川畑梢さんはおそらく特定出来ないぞ。
時刻は八時半あたり。そろっと大学へ向かうとしよう。
「なぁ、ここから大学ってどうやって行くんだっけ?」
「病院で引きこもってたから道も忘れたか、あそこに駅があるじゃん」姉はこの部屋の窓から駅を指差す。上着を脱いでいた姉の二の腕や胸元の刺青がキャミソールから覗く。今では見慣れた姉の刺青は、トライバル模様と梵字の組み合わせのデザインであると推測する。
「あ、あそこが駅か」
「んで、ここが東口だから、駅突っ切って西口に行けばもう大学前だから」
「今日仕事?」
「いんや、休み。けど夜は用事がある」
「夜の用事って具体的に何? 水?」
「あほか、夜は夜でバイトしてんの。あたしン事勘違いしてるな」と言って「水なんて自分が擦り切れるだけだよ。それは自分を磨く事とは違う」そんな意味深長な事を言う。
「腕無いけど大丈夫かな」
「弟がそんな常識を省みるとは」と姉はわざとらしくいう。
「気にはするさ、大学で浮きたくは無いし」
「……そう言うと思ってなかったが、しかし、お姉ちゃんは準備万端なのですねー」
姉はごそごそとクローゼット前の段ボール箱を探り、中から肩掛けカバンを取り出す。そしてそのカバンのファスナーを開くと中から腕が取り出される。
それはいつかに貰った木製の左腕と同じものだった。
「今度こそ壊さないでよ。ま、前に渡したのはちょっち調整が甘かったから、今回はいろいろ改良したし」
「?」姉の言っていることはたまに要領を得ない。つまりなんだ?
「まぁ、分かりやすいところで言えば、付け心地が良くなったはず」
確かに、左腕跡地に触れる部分の所は柔らかい布地で、綿が入っている。
「ありがとう、付けてみる」
「無くさないでよ、今回も知り合いに頼んで作ったから、お金かかったし」
僕は姉の言葉を聞き流し、上着を脱いでワイシャツ一枚になると木製の腕を跡地に嵌める。そして落ちないように足で木製の腕を挟むと、右肩に掛けるベルトを掴み、頭を潜らせ右肩に。そして胴体に固定用のベルトを回して、片手で苦労して固定する。これで完了だ。
装着してみると確かに付け心地が違う。あの時はそれを味わう状況では無かったが、確かに付けた時のストレスは軽減されている。洗面所の前に立つと、久しぶりに五体満足の自分を鏡が写した。
「おぉ、なんか力が湧いて来るな」
「自信作だもの。で、遅刻しないでよ」姉は時間を確認する。あと十分で九時になる。遅刻しそうだ。
僕は急いで上着に袖を通して、昨日のうちにまとめられていた大学の荷物が入ったカバンを肩にに掛ける。右肩の位置が落ち着くようにベルトを弄り、姉が投げよこしてきたガムと鍵を持って忘れ物が無いか部屋を見渡す。
「よし! 行ってきます」
014
僕はガムを噛みながら早足で駅に向かう。春の少し冷えた風と肌を暖める柔らかな陽射しが心地いい。人通りの多い横断歩道を渡り、駅の階段を登って駅構内を流し目で確認する。コンビニエンスストア、家電量販店、カフェ、その他にも奥にフランチャイズ店が看板を並べる。西口に続く階段を降りる。階段を下りた先のタイルは白く照らされ、西口案内図は大きな影を作る。そこを通り過ぎると再び横断歩道があり、僕に合わせるかのように青に変わる。いい感じだ。退院するこの日に合わせて季節は冬を溶かそうとしているように感じる。
藍星大学は目の前にそびえていた。歴史も浅い新しい大学は二十二世紀の初頭に国内の教育レベルの向上を図る政策とともに作られた新たな大学の一つ。小中高が事実上の義務教育となり、二十二世紀ではその後の大学への進学はこれからの生活の水準を定める三年間となる。と言っても、それらはマスメディアに向けて放たれた言葉でしかなく、大学は教育レベルこそ改善されたものの、その後の就職活動までは改善しきれなかった。
大学は耐震設計のビルディングで、七階建てとなる。校門は校舎と合わせて鉄とコンクリート、人工大理石でできていた。近代化されていくとともに、建物は縦に伸びて、都会とは離れたこの地域さえも人工の森となった。
大学内に入り、教員室に挨拶に行く、無事退院したことと、入学式などに配られたプリントを貰う。腕が無いことについては色々と面倒なので報告はしなかったが、僕の家族の方からなにか聞かされているような態度が見て取れた。
教員室を出て、講義を受ける。配られたプリントの中の一枚、時間割に目を通すと、夕の友人と同じく、午後は講義がないことを確認して、取り敢えずはチャイムがなる前に教室に向かう。
三階、同じ講義を受ける生徒が談笑もそこそこに、自分の携帯端末やノートを見つめていた。僕は慣れない空気を吸い込み、吐き出す。肺の中がみるみるうちに慣れない空気で満たされる。自分を見つめる視線を感じる。やはりこの距離だと左腕の異物感が感じ取られてしまうのか、妙に視線を感じる。
「あの……」
と、声がする。後ろからの声だと理解して、僕は振り返る。そこには没個性で、控えめな女の子がいた。
「なんでしょうか?」
「もしかして、なんですけど、あなたが貝木さん……ですか?」
「はぁ、まぁ」なんて曖昧な返事をする。何だろうか?
「あたし、ゆっちの友達で、…あ、夕の友達で、『青いネックボリュームパーカーでオレンジ色のチノパンの男で、さらに左腕に違和感を感じたらそれは私の知人だから』って、メールがあって」
「あぁ、あぁ。ということは川畑さん?」
「そうですそうです」
なるほど、流行に乗っているのか街で見かける服、薄めの色が好みなのか、抑えた色合い。髪は黒く、背も普通、というか、確かに普通な、没個性な女の子だ。特徴を挙げるとするなら、健康的で、眼鏡が似合っている。
「今日はなんか面倒な男の人を撃退してって言われて」
「うん、なんかそうらしい。昼頃にその男に会うつもりなんだけど」
「わかりましたー」
川畑梢、彼女は黒の縁の厚い眼鏡のフレームを鼻根に掛け直して、「改めてよろしく」と、適当な席にノートを広げ、講義を受ける準備を整える。僕はわざわざ距離を取るのも面倒なので、隣に座り、カバンからペンとテキストを取り出す。
全ての動作を右手で行うことに僕は慣れていた。が、隣の川畑梢は興味津々といった感じで、ペンの尻で左腕を叩いた。コツコツと硬い音がする。
「義手?」
「いや、まぁ、そんなところ」
「ゆっちから実は色々聞いてるからさ、同じ講義の時は困った時とか手ぇ貸すよ」
「ありがと、助かるよ」
「ねね、早速なんだけど、どっちから告白したの?ゆっち教えてくれないからさー」
「告白?……どっちだろ」僕は思い返すと告白らしいことをしたかもしれない。夕から告白らしいことをして貰ったのもある。しかし、どちらが最初かはわからない。
「二人とも頑なに教えないのね、最近まで彼氏ができたことさえ教えてくれなかったし」
「そうなんだ」
「この大学の別の講義受けてる男が『樋野と友達だよね?』っていきなり話しかけて来るから、彼氏が出来たんだ!って、それをゆっちに言ったら『それは彼氏違う、ばか』って」こっちはこっちで混乱しちゃった。と川畑梢は話す。お喋りが好きらしいが、僕はやや押され気味だ。
そんな時にちょうどチャイムがなり、頭の禿げが目に付く中年男性の教員が教室の扉を開け、入ってくる。
ビルの講義室はホールのように中央に向かって広がっているわけでもなく、高くなっているわけでもない。効率とは威厳も風情もない。淡白な講義であった。僕は静かに傾聴し、テキストの余白に講義で出てきた言葉をメモし、わからない言葉をテキストの隅に赤字でまとめること以外はほとんど聞き流していた。
講義が始まってからは川畑梢も私語をせずにノートをとっていた。
なんともまあ、大学というのは思いの外しっかりとした講義で、僕はもっとのびのびできると思っていたからか、首の筋肉が緊張して凝り固まっているのを感じる。僕は遅れて大学に入ったが、他の生徒はそれなりに慣れ始めているらしく、前の席の生徒の中には船を漕ぐ人や、ペン回しを繰り返すものなどがいた。よくよく見ると、静かではあるが、熱心にノートを取る生徒は全体の三分の一程度であることが確認できる。
講義終了のチャイムが鳴り、教員は今日の講義をノートにまとめておくようにと一言言い残し、教室を出る。午前で終了となり、僕と川畑梢はこのまま午後は病院に向かう予定だ。その前にひとつ予定が残っている。
「……さ、講義も終わったし、行きます?」
「というか、行かなきゃだ」
「ですよね、彼氏さんなんですから」川畑梢はノートを切りのいいところで切り上げて、携帯のカメラで板書を撮影する。
「……まあ、ね」
「なんですか今の間は」
「実は夕と付き合うことになったのは昨日一昨日くらいで、照れるというか」
正式に付き合い始めたのは昨日みたいなものだから、気持ちが変に高揚しているという感がある。
黄葉が、高揚する。
「そんな最近だったんだ! へぇ、一緒に入院してたんでしょ?」
「うん」僕がノートやらペンやらを鞄にしまい肩に掛けて席を立つと川畑梢は横に張り付いて一緒に歩く。
「正直どうなの?」
「何が?」
「同じ部屋に男女が二人、付き合う前からキスとかさ」
「いやいや、キスとかは本当に付き合うことになってからで、それまでは無かった」
跡地を撫で回したり、色々あったが、それらはキスとかの中に含まないことにした。女の口に戸は立てられぬ。つまりはそういうことだ。言わぬが仏。
「へぇ、硬派だね」
「僕もそう思う。けど、夕らしいんじゃない?」
「確かにゆっちはしっかり者だけど、私の予想ではゆっちは二人きりになると甘えたがりなタイプかなって思ってた」
「あぁー」
「? 思い当たる節があるみたいね」
「いや、すこしね」僕は右手で少しだけのゼスチャーをする。
「二人きりになったら甘えさせてごらんよ。しっかりものだからこそ貝木君が必要なんじゃない?」川畑梢はそう言って右手をコツコツと叩いた。
「で、その男とはどこで待ち合わせなので?」
昼休みであるこの時間はキャンパス内が生徒でごった返す。購買のお弁当屋さんはひとつ二五○円というそれなりにお手軽な価格設定と、がっつり油物の弁当と、カロリーを控えた弁当が男女の好みに合わせて二極化しており、鮭弁当、豆腐ハンバーグ弁当、生姜焼き弁当、カキフライ弁当の四種が、購買の弁当となる。それらのおかずは品の種類と量を調整し、どれも同じ値段でありながら甲乙付け難いものであった。僕は男を待つ間に豆腐ハンバーグ弁当を買っておいた。
「昼休みが終わったら学生ラウンジで集合するよ」川畑梢は言う。その男のメールアドレスを持っているのだ。
「もうメールで、済ませてもいい気がしてきた」
「いやいやだめです。彼もそれで引き下がりはしないでしょう」
「そう? ところで、その彼の名前を未だに知らないんだけど」
「牧駿太郎」
「牧駿太郎ね」僕は名前を確認したが、覚える努力はとくにしなかった。この一件を早々に片付けたら忘れる人物だ。「特徴とかは?」
「んー、顔は確かにいいよ。髪は茶髪で、パーマ掛かってて、あとはわかんない。ゆっちの好みとは、今冷静に考えると確かに違うかも。なんというか、落ち着きがない感じ」
「……子供っぽいと?」
「まぁ、大掴みにはそんな感じで、あとは赤い鞄だね、学校に来る時は」
と、まぁそのような人物像。精神的に幼くて、顔がいいために自信過剰で、粘着質。夕の言い分も加えるとこんな人物。
どうせ学生ラウンジで集合するのだからと、僕と川畑梢は昼休みを学生ラウンジで過ごす。ラウンジ内は六台並べられた机に椅子が五つか六つ、そこに先客の学生が小さなコミューンごとに集まっていた。机の他には隅に積み重なった予備のパイプ椅子が二十個ほどと、窓際に細めの机が並び、こちらはグループに属さない人間が各々弁当を食べていた。僕と川畑梢も窓際のほうへ移動し、椅子を出して座る。
「そいつも午後の講義はないのか?」
「んー、いや、確かあったけど、何というか、サボタージュ」
「サボりか、そいつももうラウンジに来てたりして」僕は周りを見て赤い鞄と茶髪の男を捜す。
「いや、いつも他の人と教室で過ごしているんで、いない筈」
そう言って川畑梢は自分の弁当の包みを解き、蓋を開ける。こちらもさっさと腹に納めて仕舞おう。
しばらくは黙々と食べ進め、大した会話もないまま昼休みが消化される。もともと初対面同士、正直昼飯くらいはゆっくり食べたい。いつもは夕や光美ちゃんがいたのもあって、こうやってゆっくり昼飯にありつけるのは久しぶりだった。
昼休みが後半に差し掛かると生徒は食欲を満たし、各々が思い思いに休憩していた。ラウンジは雑多な声が混ざり合い、正直うるさい。春の日差しが窓から差し込み、うたた寝しようと思っていたが、同年代の若者は寝る間も惜しんで端末を操作し、くだらない愚痴と情報を交換している。病院内に居た時は良かった。病院はそれらからは離れた場所に存在していたとしみじみ思う。僕はラウンジ内に飽和する音を聞き流す。昨日のバイトで変な客来てさー、とか。何か最近また変な人が出てきたって、とか。最近カレシがメールでしつこくて、とか。
そんな他愛の無い話。僕はラウンジの隅で日に当たりながら目を細める。あの時の事故からゆっくりと記憶を辿ってみる。それなりに不思議な時間を過ごし、思い返すとロクな目にあっていないが、それでもかけがえのない出来事になると思う。人生とは思いの外山あり谷ありなものなのかもしれない。
015
「あ」
川畑梢は声を出す。僕は上体を起こし川畑梢を見る。
「なに?」
「牧が来た」
「え?」
僕はラウンジの入り口付近を見回す。赤い鞄が目に留まる。友人を取り囲み、大袈裟な身振りでふざけながらけたけた笑っている。あいつが厄日の男か。
確かに顔は悪くない。と言うよりかなり整っているが、確かにこれは夕が嫌うタイプの人間だろうと感じる。軽薄で軽重で軽挙。第一印象で決めつけるのは良くないが、しかし、人は偏見を持たなければ成長出来ない。苦労せず生きてきた人間だろうと推測する。
取り敢えず、こちらには気付いていないので昼休みが終わるまでは様子を見ていよう。と川畑梢に伝えて、聞き耳を立てる。親が煩わしいだの、色恋の話だのをしている。ラウンジの雑音と対して変わらない話題の中に、ふっ、と、本題が出た。
『……でさー、今日何か女の方からメールがあってさ、何か面倒なんだよな』『正直どうでもいいってかさ』『俺と合ったあと事故って片腕失くしたって知り合いから聞いたわ、キモくてヤれねーっしょ』
……僕は川畑梢の手を引いて、その場を後にした。
頭に血が昇っているのだろう。眼球が強張るのを感じる。怒りで体が発熱している。
牧俊太郎。あいつとは話をしてもきっと何もならないだろう。僕自身が話をする事が出来そうにないくらい憤りを感じているし、相手に僕の言葉が通じるのかさえ、今は怪しい。
チャイムが鳴る。午後の講義がない僕たちはとりあえず校門に向かう階段を降りた。
「……えっと」川畑梢は戸惑いながら手を引かれるままに付いてくる。
「……」
「一応、あいつが言ってた知り合い。多分あたしだ」
「……だろうとは思う」
「でも、それは知り合いだと思ってたときにうっかり話しちゃって、悪気があったわけじゃないの」
「それは疑ってない。川畑さんに対して怒ってるわけじゃないからね、ただ……」
「ただ?」
「話し合いは無理だ。悪いけどメールか何かで断ってほしい。あんな奴、掛ける言葉もない」
「……そうみたいだね、怒ってる?」
「自分でもこんなに怒るとは思わなかった、最近は感情が表に出やすくて」
「……わかった。とりあえずメールで済ましとく」
「うん、ありがとう。僕はこのまま夕を見舞いにいくよ。川畑さんは?」
「私も行く。昨日ゆっちと約束したし」
登校したときの道を戻り、駅の階段を昇る。川畑梢は仕切りに携帯でやり取りしていたが、やり取りがひと段落ついたのか、ため息一つ携帯を仕舞う。
「あたしもあいつ嫌いだわ」そう言って川畑梢は笑った。
「迷惑かけちゃった」
「もともとあたしの勘違いの性だし、気にしないでいいから」
「もっとストーカー気質だと思ってたけど、あっさり解決したな」
「裏表がある性格みたいだし、ゆっちにはそれが透けて見えたのかもね。今日ラウンジで見るまで、あたし実はいい人なのかもって、外面だけだね」
駅西口から東口へ突っ切って、バスで病院へ向かう。本当なら電車で一駅分乗ってからバスに乗るが、どちらにしろ灰田井市の病院にはつくので、バスのみで移動する。それにしても大学デビューという程のものではなかったが、慣れない時間を過ごしたせいか、疲れが出て、口数も少なくなり、目を閉じる。入院していた時は、よく昼寝していたから、意識を手放せば少し眠れそうだ。
僕は少し眠る事にした。
『次は、灰田井。灰田井。お降りのお客様は……』アナウンスが聴こえ、目を開ける。眠っていても目的の停留所で目が醒めるのは、何か科学的な根拠があるのだろうか?
「確かゆっちの病院ここだよね?」
「あ、うん」靄がかかった思考で返事をする。問題ない。道のりは分かってるし、靄の内側のみでも処理できることだ。
道すがら話すこともなく、取り敢えず頭に浮かんだ疑問を話題にすることにした。
「目的駅でさ」
「え?」
「電車とかでよくある目的駅で目が醒めるのってなんでだろうね」
「あー、あたしもある! あれって自分だけの特技だと思い込んでると恥かくよね」
「確かに、意外とみんなが持ってる能力だよね」
「車なんかでも、全然知らない道走ってるのに、目的地に近付くと起きちゃうよね」
「なんでだろ」
「耳が起きたままで、周りの情報を聴いてるとか?」
「ありそうだね、夕にも聞いてみよう」
016
一時間前。
バスで眠る前の会話。
「どうなん?」
川畑梢はバスの二座席の通路側に座った。僕は特に気を使うこともなく先に窓側に座ってから、レディーファーストだとかモテる男のスマートな行動だとかのふわっとした知識が頭に浮かんだが、それをする必要は無いだろうと結論付けた。
「何が?」
「いやー、やっぱり気になるわけよ、ゆっちのこと」
「あぁ、」
「自分で言うのはなんか変だけどさ、ゆっちが唯一頼って来る友人っていうの? 私だけだって自負があるわけよ」
「んー、確かにあんまり友達居ないかも」
「だしょー? ゆっちの部屋の合鍵とか、あたし持ってるし、だからさ、いい加減色々教えてよ。病院でのこととか」
「えー……。面白いことなんてそんなにないぞ?僕自身口下手だし」
「いいからいいから」
バスの外から景色を眺める、駅都心から離れていくと空が遠くまで見えるようになる。僕は話すエピソードを整理しながら、考える振りをして眺め、そして事故当日から改めて話し始めた。自分自身の時間軸と記憶を整理する意味も含めて、バスという公共交通機関内で話しても問題ないこと(つまりは光美ちゃんが来る前日の夜以外)をあらかた話しながら過ごした。
トラックが凍った路面を滑る話し、意識が朦朧としているときに千切れた自分の腕を見たこと、夕の最初の印象、夕と出会ってからの変化、女子トイレで倒れた話し、思い出そうとすると芋ずる式に話せる。入院生活がこうも充実していたとは。
左腕が無くなって始めて包帯を取ったときの話し、少年のような夢想。ユートピアについて話したこと、夜うなされていた夕を……これは話さなくていいや。他にもいろいろ。
「光美ちゃんって娘、そんなに可愛いの?」
「それが可愛いんだ、僕はあんまりハードルを上げるようなことをする人間じゃないんだが、光美ちゃんは違う。手放しに可愛いの」
「そ、そっかー……」
「他にあったかなー…光美ちゃんの話し」
「それよりゆっちの話しさ…」
「え? あぁ、夕も光美ちゃんにはベタベタでさー、見てるこっちがちょっと嫉妬しちゃうくらいでさ」
「えっと、どっちに嫉妬?」
「夕にだよ、僕も女の子だったら光美ちゃんにいろいろ出来たんだろうなってさ」
「…………」
バスが病院前の停留所に止まる頃には、川畑梢は憔悴していて、そういえば眠る前は光美ちゃんの話ばかりしてしまったと僕は今更反省する。時間はまだ二時になる前で、なんだかまた退院した気持ちが薄れる。
「じゃ、行こうか」
「うん。なんか緊張してきた」
自動ドアをくぐり、今や見慣れた窓口と待合室、昨日最後にキスをした非常口のランプがある椅子は吹き抜けの二階にある。実家のような安心感。お見舞いの手続きは特に必要なく、それなりに大きい病院の案内も必要なく、スタスタと風を切るように歩く。病院の廊下を早足で歩くと、ドラマに出てくる医者のようで気分がいい。エレベーターで四階に上がり、僕がお世話になった病室に着く。
もうネームプレートには僕の名前は無く、二人だけで広々使っているのだろう。
僕が居なくなってたった一日も経ってないが、夕は夕でどういう時間を過ごしたのだろうか、まぁ、光美ちゃんと過ごしたのだろうけど。
「ただいまー」
「おかえり」
ドアを開けると病室には夕と光美ちゃん、頼木さんもいた。というか、姉まで居た。
「『おかえり』じゃないが」と僕。
「『ただいま』じゃないが?」と姉。
「ゆっちー! おひさ」
「こずっち! 来てくれたー」
各々が言いたい事を言うために自然と声は大きくなり、部屋は病室とは思えない黄色い声や賑わいに溢れた。
「う、うるさいです……」
「おーおー、賑やかしいな」
「あ! もしかして光美ちゃんってこの子?」
「うん、私の妹になります」夕は得意げな顔をする。
「え?! どゆこと?」川畑梢は聞いてないという顏で僕をみる。
「あー、決定したんだ」それはめでたい。
「だから! まじなん?」
「うん。養子になる手続きは問題ないみたいだし、ほぼ決定。後は戸籍が変われば正式な姉妹だよ」
「えー、聞いてない! でもいいなー。可愛い妹かあ」
「……可愛くないです」光美ちゃんは俯いて謙遜する。やっぱり可愛いなぁ。朝光美ちゃんを拝まないと一日が始まった気がしないからな。
「あれ? 光美ちゃんって人見知りするの?」姉が頼木さんに聞く。
「光美様は照れ屋だから、照れているんだろ」
「そんな事ないです」
ほら可愛い。
017
しばらく積もる話しをして、落ち着いた頃。
場所を三階ラウンジに移して紙コップ式販売機のジュース片手に語らい合う。
「刺青凄いですね」川畑梢は僕の姉に興味深々らしく、特に刺青が気になるらしい。川畑梢の清楚な装いの服装からメガネの似合う顔立ち。姉とは正反対と言える。未知の邂逅である。
「あれ、一応隠してたけど見えちった? ごめんね」
「いえいえ、それよりこの刺青は何か意味とかあるんですか?」
「特に意味はないさ、親も容認してくれてるし、強いて言えば人間性が表れてるくらいのもんさ」
「でもちょっとかっこいいかも」
「いやいや、あんたはこのままが一番可愛いさね」
「なに口説いてんの」僕は少し冷やかな視線を姉に送る。
「結局厄日の人とはどーなったのさ? 言えた?」
「いや、言ってわかる人間じゃなさそうだから川畑さんのメールで」
「え? こずっちどーなった?」
「いやー、ちょー疲れたよ。あんたの彼氏がズバッと言ってくれればねー」チラチラと僕を見る。
「とりあえずは解決したんだろ? ああいうのはズバッと言える気がしない」
「貝木君は理論であーだこーだ言うタイプだから、感情論には弱いだろうな」頼木さんが茶々を入れるが、言い分がもっともなので反論ができない。
「光美ちゃんって本当に可愛いのね」
「そんなことないです」
「貝木さんがベタ褒めしてたよ『逆立ちしたって可愛い』って」
「うー……」
「って、黄葉はまた光美ちゃんって」
「ゆっち? 嫉妬? 可愛い」
「嫉妬してないから!?」
「本当だ、可愛い」
「黄葉まで…うぅ……」
「もう姉妹みたいにそっくりだ」
018
そんなこんなで時間は過ぎて行き、川畑梢は先に帰る事になった。
「ふぃー……じゃああたしバイトあるから、またメールとかしてね」
「うん、また来て」
時刻は夕方五時。ラウンジで過ごす時間というのは心地よくて、短く感じてしまう。五時、僕としては夕との二人の時間が欲しいとも感じるが、さすがにどうにもならない。
「どした弟? そわそわして、トイレか」
「え、そわそわしてないよ、椅子に座りっぱなしだから疲れてさ」
「ふーん」姉はそれ以上何も言わなかったが、なんとなく落ち着かない。
「やっぱりトイレかも」僕は気持ちを落ち着かせるために席を立つ。『結局トイレかよ』と姉の声がした。
病院の廊下を歩いてトイレに向かう。腕が無くなって初めの頃は転んでしまったが、慣れとは凄いもので、左右のバランスなんて考えなくても平気になる。
トイレに入り、大して尿意も無いけれど用を足す。機会排尿と言うらしいが、本当はあまり良くないらしい。そんなことはともかく、用を足し、洗面台の前に立つ。手を洗い、鏡を見て髪を整え、鼻の頭の脂をトイレットペーパーで拭き取る。昼間に抗生物質を服用してないことをふと思い出し、服を捲り上げて腹を見る。今更膿が出ることは恐らくないだろうが、傷跡が熱を出すこともあるらしい。僕は真皮が突っ張った桜色の皮膚をそっとなぞった。これが光美ちゃんを護った傷。そして左腕跡地は夕を護ってゆく左腕があった。
そういえば夕の腕は今どうなったのだろう。確かホルモンの影響で左腕は少しずつ女性的フォルムに近付くと言っていた。
トイレからラウンジに戻り椅子に座ると夕に尋ねる。
「夕の左腕はまだ僕に似てるの?」
「急に何さ、でもね聞いてよ。最近少しずつ私に合わせて形が変わってるのを実感してるんだ」
「見せてよ、僕の右手と並べてみよ」
そう言って夕の左手を僕が持ち上げて机に乗せる。光美ちゃんと頼木さん、そして姉はそれを興味深げに見ていた。
夕が左手の袖を右手で捲り、その右手の袖を口で器用に捲り上げて机に並べた。僕も上着から右手を抜き、夕の左側に席を移動して机に腕を並べる。
「おぉ。色は弟だけど形は女性的になってるもんだね」姉がそう述べる。
確かに骨の太さや色は僕の腕にそっくりだが、肉付きが女性的な変化を始めているのが見て取れる。でも僕は夕に触れる肩の感触を感じていた。
「なんかふしぎです」光美ちゃんは言う。「二人の子供みたいです」と。あまりに屈託のない唐突な言葉。僕も夕も何も言えない。ただ呆気にとられて、少し恥ずかしくなる。
「ははは、二人とも同じ反応してるぞ」頼木さんが笑う。
「まさしく鳩が豆鉄砲を、って感じ」姉もにやにやと笑いからかう。光美ちゃんはなにがおかしいのかよくわかってないようだけど、とりあえず微笑んだ。
「付き合っているんだから、二人で散歩でも行ったらいい。私達は三人で部屋に戻っているぞ」
頼木さんの言葉。僕は照れながらもその言葉に素直に甘える事にした。
「夕、それなら屋上に行こうよ」
「うん」
019
屋上は七時には施錠されるとドアに貼られた紙に書いてある。まだ時間があるので入り口から一番近い日の射し込む場所に座る。今日は天気が良かったから、地べたも濡れていないし、風も最近は温くなって、だいぶ傾いた日の光が暖かい。
「ふぅ…、昨日の今日だからまだ入院してる気分だ」座り込みながら僕はそう言った。
「そうかもね」夕は左側に座る。
「あの事故から一ヶ月くらい過ぎたのか、毎度毎度同じ事しか言えないけど、夢みたいだ」
「そうだね」
「あの時僕は、意識を失う前に引き剥がされた腕と、血まみれの夕を見た」
「うん」
「助けられなかったって思ってさ、その後は病院で夕と再会した。ガラス片でもっと切り傷だらけだったけど、今はそれも治って、綺麗だ」
「えへへ、ありがと」夕ははにかんだ。そして頭を僕に寄せぼんやりと景色を眺める。
「こうやって左腕のあった所も、今は頭を乗せてもびりびりしないしね」
「ふーん」夕は意地悪く頭を擦り付ける。左腕跡地が服の上から擦れてくすぐったい。そうしてひとしきり笑って、気付けば夕は僕の上に座って、僕の方を向いて、お互いの肩を抱いている。
「時間があるときは出来るだけ会いに行くよ」
「そうして。私もリハビリ頑張る」
「あぁ。……未来の事はよくわからないけど、夕と真剣に向き合うつもりだ」
「……ふふ、なんか照れくさいね」
「キスしたい……」
そう言ったのは夕だった。
僕は誘われるままに夕と唇を重ね、昨日の時と同じように舌を絡めた。
僕はただ漠然と、最近はキスばかりしている気がすると考え、確実に落ちていっていると実感する。
落ちている。落下している。
僕の求める楽園に落ちている。
鍵を開けた門の先に広がる世界に。
僕の物語は落ちに落ちた所で幕を閉じるつもりだ。こうして最後の文章に向けて時を進める。
020
唇が離れる。夕は小さな吐息を漏らし、息を整える。
僕も息を吸い込み空を見上げる。一番星が雲の切れ間に見える。立体感の無い半月が空に浮かんでいる。一周遅れの夕日が追いかけるように緋く沈んで行く。いつの間にか時間が経っていたらしい。
「おーい、弟ー?いるかー?」
姉の声がする。いそいそと僕たちは身なりを整え、夕は僕から降りて立ち上がる。姉の声は屋上へ続く階段の前から聞こえる。近付いてくる様子はないので恐らく空気を読んでいるのかもしれない。
「いるよー」僕は立ち上がり姉の元に向かう。
「明日はお前を連れていく用事があるから、夕にもそう伝えてくれ」
「? わかった」
いったい何の用だろう? しかしもうここでは語られない事になるだろう。物語でいう後日談だ。冒頭の言葉で言うなら、明日の事は舞台裏で処理されるという事だ。あんまり長く続けても蛇足になってしまうだろうことを思い、僕の約一ヶ月の落下をここで締めくくらせてもらう。
終着点。
着地点。
僕は、恋に落ちました。
舞台裏
……なーんてね。
何が『舞台裏は語らない』だ。黄葉が居なくなったからと言って病院そのものが、語られることのない舞台裏に消えることなんてありえないよ。私(樋野夕)や、光美ちゃんはまだまだ健在で舞台裏なんかじゃないんだよ。
消えるのはあんただけだよ。黄葉君。
ここからは私が語らせていただきます。
何を? って、解決していないあれこれをだよ。
001
そう言えばこうして語るのは、お初ですね。度々会話や回想では私の主観を語るときがあるにはありますが。
現在時刻は午前九時。
四月の十六日。まだ眠い体で、私はせっせとリハビリを行っています。譲り受けた左腕がなにせどうやら不良品らしく、リハビリが進まないのです。聞くところによると返品または交換も、いずれも受け付けていないと言います。困った困った。
というのは冗談で、もとよりここから先のリハビリは腕が不良品でなくとも難しいもので。日常生活になんら影響しない程に神経をつなぐ訓練、リハビリなのです。左腕で物を掴んで、離して、掴んで、離して。肩を動かしてみたり。正直もどかしい。右手でやればすぐに終わるのに。
「夕お姉さん。どうです?」調子の程は、とリハビリルームに光美ちゃんが入ってきた。黄葉が居ない今、光美ちゃんも朝の時間は暇なのだろう。
「んー? 全然。牛歩だよ牛歩」目の前の牛乳パックを掴み、そんな言葉が浮かんだ。
「ぎゅーほ?」光美ちゃんは新しい言葉を聞いたような顔をしている。
「牛の歩きみたいに遅いってコトだよ。進まないね」
「牛って遅いですかね?」
「どうなんだろ? トルクはありそうだよね」テーブルのミニカーを掴みながらそんな事を思う。
「トルク?」
「なんでもないよ。蝸牛も牛と捉えたんじゃないかな?」
「かたつむりが牛ですか?」
「漢字で書くと『蝸牛』って、『牛』が入るの。これなら遅いよ」
「かたつむりほ」光美ちゃんは呟いて納得した。うん。かわいい。
「蝸牛歩ー蝸牛歩ー」
「言いづらいです」
「ね」
朝のリハビリは自主的なものだから、ノルマもない。今は改めて光美ちゃんと姉妹になるという事実に触れてみるいい機会かもしれない。
「光美ちゃんは私がお姉さんになって嬉しい?」
「うれしいですよ?」
「そかそか。…頼木さんの事はどう思ってるの?」
前にプライベートな関係を持っている風だったけれど、どうなのだろう。別に私がお姉さんになったからという訳ではないが、光美ちゃんの年齢的に、まだそういった関係を持つのは早いと思うのだ。近頃の若者は早熟だと言うが、私的には同性同士のお付き合いはあまりにも熟れすぎている気がしてならない。
「頼木さんのこと?」
「うん」
「かっこいいです」うんうんと目を閉じて頷く光美ちゃん。いや、そうじゃなくて。
「好きとかさ、そ、その。き、キスしたいなぁー…とか」
「うーん。好きですけど、よくわかんないです。もうずっと家族みたいですから」
「あー。」光美ちゃんから聞き出すには難しい話題かもしれない。私はボールを掴み、しばらく弄びながら話をする。光美ちゃんは、あーでもでも、と言って続ける。
「最近はよくキスされますよ」
「そう! それが聞きたいの!! 二人はどんな関係なの?」
「どんな、…どんなですか? うーん」
こういう言い方は少しおかしいけれど、光美ちゃんは普通の人生とは別の道を進んできた。今持ち合わせている価値観も、判断基準も、おそらく同年代より特殊で、光美ちゃん自身、それがわかってて、答えをすぐに出せないのだと思う。
「私は頼木さんのこと好きですよ。ほっぺにキスされても嫌じゃないです」
え? ほっぺ?
光美ちゃんは続ける。
「脚がない私をどこにでも連れてってくれますし、二人きりのときはどちらかというとかわいいです」
「待って、キスっていつもどこにしてもらうの?」
「ほっぺです」
「ほかは?」
「実は、おでこもです」
「口と口は?」
「それは『まだ早い』って言ってました」
「あ、そう」なんだ。頼木さんも別にそこまで深い関係にはなってないんだ。
というか、人間的にできている頼木さんのことだから、自重しているのかも。
「光美ちゃんはさ」
「はい?」
「したい? 頼木さんと口と口で」
「キスですか? してもいいんじゃないです? ほっぺと何が違うかわからないです」
「そか」
弄んでいたボールをテーブルの上に置いて、一度病室に戻ろう。朝ご飯を食べないと。
私は光美ちゃんの車椅子に手を添えてリハビリルームから出る。光美ちゃんは自分で車椅子を制御しているから、片手の私が押す必要はない。エレベーターに乗り込んで四階に上り、病室に戻る。枕元に置いていた携帯端末に連絡が来ていないか確認すると一件のメッセージ。
『引っ越した部屋から見た景色。超高いぞ』
短い言葉には画像が添付されている。確かにかなり俯瞰した景色の写真だ。確か姉と暮らすことになったとか、『学校遅刻しないように』と返して朝食を食べに行く。
一階へ降りて食堂に向かう。
今日の朝食は味噌汁にご飯。主菜が鯖の味噌煮で副菜に納豆。そしてデザートにヨーグルトが付いてくる。私は納豆が嫌いだ。
「光美ちゃん納豆好き?」
「好きくないです」そう言いながらも特に臆することなく納豆を混ぜ始める。好きではないが食べれないほど拒絶もしない。ということか。
私はしばらく鯖の味噌煮の小骨を探して取り除きながら、朝食を食べ進める。
「光美ちゃん納豆いる?」
「夕お姉」
「ん?」光美ちゃんが少しフランクな呼び方をする。なんとなく姉妹な気分で嬉しい。
「好き嫌いすると大きくなれません。妹は好き嫌いするお姉さん嫌いだな」ぷんぷん。
「うぇー、だってさー」この歳になるといつの間にか嫌いなものは食べなくても許されてきた。光美ちゃんに先日言った言葉を返されるという失態。
「そうだよね。私、頑張るから!」私は光美ちゃんに宣言してカップのフィルムの蓋を開けた。納豆を箸でかき混ぜていくとすぐに糸が発生し始める。うわぁ。これ食べるとか意味わかんない。
「あれるぎーじゃないんです?」
「怖すぎて鳥肌は立ってるよ」
「大豆は体にいいんです」
「だってさー、なんで糸出るのさ。それに臭いとかもう…」
「食べ物に失礼です」
「はい、すみません…」光美ちゃんに怒られた。可愛いからいいけど。
よかった。黄葉が居なくて。妹に怒られるなんて見せられない。
「い、いただきます」糸を引く納豆を箸でつまみ、意を決して口に入れる。ふやけた豆がぬるぬるして、納豆のタレの味と大豆のわけわからんまろ味が舌を包む。正直無理だよ。今更克服なんてするには遅すぎる。嫌いと決めたらそれが裏返ることなんてありえない。
「…………」口の中のぬるぬるをご飯でかき消そうにも箸がぬるぬるで、延々糸を生成するからぐるぐるして糸を巻いていたらきりがない。うわぁ。うわぁ!
どうしよう。光美ちゃんの前でギブアップ? していいかな?
私泣きそうなんですけど。
「ダメみたいですね」すこし呆れた顔で光美ちゃんが言う。
私は涙目でコクリと頷いた。「光美ちゃん食べる?」
「いいですよ」
「ダメなお姉ちゃんでごめんね」光美ちゃんの目が冷えてる。気持ちを隠すことをしないからこそ、納豆に泣いてる私はどんどん惨めな気分になる。黄葉なら、この視線も喜ぶんだろうなぁ。
「完璧じゃない方が妹として気が楽です」
そうして朝食を終える。
歯を磨いていても納豆のぬるぬるが消えていない気がして気になる。本当は消えているのもわかっているけど、納豆大嫌い。二度と食べない。
時刻は十時半を過ぎ、病室に頼木さんが現れる。
「おはようございます。夕様、光美様」
「おはようございます。様はやめてください、やっぱりおかしいです」
「何もおかしくないだろう? 養子になったんだから、この際そう呼んでも問題ないだろう」頼木さんは冗談めかしてそんなことを言う。わかっていてもこそばゆい。そんな偉そうな呼ばれ方されると気を使ってしまう。
「意地でも言わせないですからね」
「はっは、冗談だ。とはいえ養子縁組の書類は提出したし、いよいよ本当に姉妹か」
「そうですね、実感があるのかないのか、不思議な感じです」
「そういえば、住むところはどうする? 今の住所のままか、こちらに引っ越すか」
「それなんですよね。今のところ現住所は学生用のアパートだから、個人的には移したいんですけど、かといっていきなり屋敷にお邪魔するのは気が休まらない気がして」
「それもそうだが、仕事はどうするんだ? 私から言うのもおかしな話だが、一人暮らしの場合、峰島家にお金を工面されても、余計に気が休まらないぞ、物件は地主である以上安くていい場所を探せるが」
「仕事は…この前入院が続いて、クビの通知が届きましたぁ……。…はぁ」
今更ながら、私の漠然とした危機感が牙を剥き始めた気がする、恥ずかしい。舞台裏は舞台裏のままでよかったのかもしれないと後悔する。
元々バイトから始めて、どうせならこのまま正社員になってしまってもいいかなってくらいの、軽い気持ちだったけど、職場の人間関係も良好だったし、内定も貰えていたというのに、あぁ。事故に遭わなければ…。
いや、『こんな目に合わなくてよかったのに』と思うには、私はそこまで後悔していない。
そんな気がする。
だって、内定取り消しとはいえ、職場の人は事故の事をそれなりに理解しているし、電話で話した感じを信じるなら、嫌われてはない。
私は内定取り消しの電話でこう言われた。
『事故に付いてはこちらもどうしょうもなくて、取り消す事になっちゃったけど、何時でも待ってるから。元気になったら顔出してね』
…社交辞令を言う関係と言えばそれまで。しかし、クビならクビで客として顔を出しておくのも一つのけじめな気もする。菓子折り一つ持って、近いうち挨拶に行こう。
「…ところで樋野さん」と頼木さん。「その仕事はなんなんだ?」
「え? 別に大したものじゃ無いですよ。冠婚葬祭のスタッフです」
「ほう。それはそれで不思議な仕事をしていたんだな」
「かんこーそーさい?」なんです? と光美ちゃん。
「結婚式とかする場所」私は簡潔に説明したものの、結婚式自体、理解しているのだろうか。
「あー。聞いたことあります。誓いのキスするとこです」
「んー。…まぁだいたいそんな感じ」
「誓いのキスする仕事ですか?」
「ちがっ!? 違う違うよ!?」
とんでもないことをさらっと言い放つ我が妹に取り乱す私。光美ちゃんの言葉は真っ直ぐ過ぎて、突きつけられた側の人間はうろたえることしか出来ない。頼木さんは愉快そうに微笑んだ。
それはそれとして。
「現状の私が働ける職場ってあるんですかね」
「…なんというか、私達は椛さんに踊らされている気がするよ」
「どういうことですか?」私は疑問に思う。どういうことだろう。
「実は貝木君の姉、椛さんと話す機会がよくあって、その時に言われたんだ。『困っているようなら私の職場を紹介しよう』って」
「本当ですか? …あーでも、どんな仕事か分からないのに食いつくのは早計かな」
全身刺青で攻撃的な印象がある。悪い人では無いのだろうけど、安易に考えて動くには気後れする。貝木椛。黄葉の姉。うーん。どんなんだろう。
「確かに。何をする仕事か分からないから、今は頭に入れておくだけでいいと思うぞ。私は」頼木さんが言う。
「とりあえずまた話を聞いてから考えます」
「あ、話をすると言えば」忘れてた忘れてた。と頼木さんは呟いて、「峰島家の、つまり光美様のご両親とまた話し合いをするから、早速明日の夕方に合うことになった。養子になることについて、よく理解するべき機会だ。少し堅苦しいかもしれないが、まぁ一つ宜しく」
「あ、はい。わかりました」
「とりあえず仕事のことについてはまた会う機会に話しておく」
「よろしくお願いします」
002
後日。四月十八日。暦上は土曜日で黄葉とは連絡もなく一日ぶりの再会。午後二時三十四分。
「よ、ただいま」黄葉は悪びれもせずお土産を片腕にぶら下げてやってきた。
「…連絡もなしに、どこいってたのさ」
『ただいま』なんてわかりやすい冗談を言われては、拗ねていても無視は出来ない。私は素っ気ない態度が伝わるように努めた。
「なんだ? 寂しかったとか? んなわけないか」
「…寂しかったんですけど」
「ん? 『何買ったんですか?』お土産をね」
うわぁあぁ。
声が小さかったかな。やっぱり甘える事は出来ない。
「…お土産何さ」
「東京のなんかオシャレな店のプリン」黄葉は持っていたお土産の紙袋を開き、プリンを取り出す。
「東京?」
そもそも東京に何の用があったのかも分からない。
「そ。東京。姉の使いで一昨日から行ってきた」
黄葉は三種類のプリンを取り出した。抹茶プリンとチョコプリンとノーマルのプリン。病室の二人と頼木さんのお土産ということか。私は心の中でノーマルのプリンを希望していたが、とりあえず光美ちゃんから選んでもらおう。
「ありがとうございますです。では、チョコを希望です」と光美ちゃん。
「何食べても美味しいだろうし、私は残りで構わない。樋野さん好きなの選びな。」
「では、ノーマルを」
「では抹茶を、いただきます」
「六個入りだから残りの三つは冷蔵庫に入れとくから」
フィルムの蓋を開ける。
卵の匂いが立ち昇る。スプーンで一口掬って口に運ぶ。美味しい。この甘さが病院ではなかなか手に入らない濃厚な甘さで、やや固めに作られたプリンの舌触りも好みの味だ。光美ちゃんも目を輝かせている。
「…で、なんで東京?」私は問う。一昨日からということは学校を休んで行ってきたということだ。何か重要な事があったのだろうか?
「姉の友人に器用な人がいてさ、この左腕の義手。というかただの木製の腕を着けやすく改造してもらった」
「学校を休んでまで?」
「それはまたちょっとした理由がね」黄葉は困り笑を浮かべる。
「その理由は言えないの?」
「いや、有体に言えば、僕は最近になって幻肢痛を発症してね。それだけの話。義手を作るよりも安くて良いやつ作ってくれるって言うから、急いで作って貰ったんだ。着けていると幻肢痛も治るから」
「幻肢痛…。」
幻肢痛とは、確か切り離した四肢の神経が電流を走らせたように痛む症状だった気がする。
「治るというより、誤魔化せる。…ま、それだけ」
黄葉はそう言って話を切り上げた。幻肢痛の事はあまり話したくなさそうだ。
「ちなみに今日は椛さんは来てないのか?」頼木さんは私たちの話がひと段落した所で間に入ってくる。そうだった。仕事の話をしなければ。
「今日は居ない…というか、見舞いに来る相手が居ない」
「確かに」私は言う。そもそも黄葉の見舞いで来ていたのだから、黄葉が退院した今、見舞う相手がいないのも道理なのだ。
「ちょっと聞きたいことがあったんだが、どうすれはいい?」と、頼木さん。
「二人暮らししてからいろいろ姉の事も知ってるから、分かる範囲は僕が答えられる。分からなかったら伝えとくよ」
というので、私は頼木さんとこれまでの経緯を話す。とりあえず仕事を紹介してほしいと言うだけの話だが。
「姉の職場は前も話した通り服屋だ。少し特殊なのが、服屋と喫茶店がニコイチな所だ」
「喫茶店?」
「夜はバーになる。そこは置いといて、オーナーが特殊らしく、古着屋を元々経営していたけど、そのオーナーの親戚が隣で喫茶店を開き、いつの間にか二つを経営する事になった…とかなんとか聞いた気がする」
「どんな店なの?」
「行ったことはないけど、姉が言うには『閑古鳥の囀りが聞こえくる素敵なお店』だって」
「それってダメなんじゃ…?」
「トランペット・ヴァインって店。まぁ行ってみればいいんじゃない?」
夕方五時。光美ちゃんの両親が病室にやってくる。ドアを開けて光美ちゃんを見つけると小さな花束を持って側に腰掛けた。
「やぁ、体の具合はどうだい? 光」光美ちゃんのお父さんがそう言うと光美ちゃんは「大丈夫」と微笑んだ。
光美ちゃんベッドに左からお父さん、光美ちゃんお母さんと座り、私に向き合う。私の隣には右に頼木さん。左に黄葉が座る。
「頼木さん、いつもありがとう。本当は私たちがやるべきことなのに、任せてしまって」
「いえいえ、好きでやっていることですから」
「で、久しぶりですな。樋野さん。改めて養子という縁になったわけだから、私たちから挨拶をと思いましてな」
「はい」
「あぁ、かしこまらなくていい、楽にしてくれ」
とは言われても、背広の五十代の男と和装の四十の女。それが目の前にいて、そして私も家族に入るのだから、かしこまってしまう。
「…黄葉君、退院したそうじゃないか、おめでとう。」
「えぇ。最近退院しまして」
「光美ちゃんを助けてくれた事は今でも感謝している。これからも仲良くしてくれるとありがたい。今度遊びに来るといい」
「ありがとうございます。機会があれば是非」
黄葉もだいぶ緊張しているようだ。言葉が硬い。
「さて、では改めて、私は光の父、定清です。そしてこちらが母の小春だ」峰島定清さんはそう自己紹介して、隣の光美ちゃんの母を指した。
「小春です。夕ちゃん。よろしくねえ」人当たりの良い声で夕に微笑む。光美ちゃんが誘拐された時は血相変えて慌てていたのをよく覚えている。こうしてみると別人のように落ち着いていて、優しい物腰がとてもよく伝わってくる。
「樋野夕です。どんな挨拶をするべきかわかりませんが、改めて養子となります。これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします」あぁ。本当に何を言っていいかわからない。でも、やっぱり優しそうな両親で安心する。光美ちゃんもかわいいし、頼木さんはかっこいい、一つの家族として招き入れられるというのは、暖かいと感じる。
しばらく話し込んで、話題は光美ちゃんの事となった。定清さんは「私たち夫婦は子供が欲しくてもなかなか出来なかった」と言い、昔の事を思い出しているのだろう。目尻の皺が深くなる。細めた目は慈愛を持って光美ちゃんを見ていた。
「最初はお腹の中の子供が二人分の影でね、レントゲンを見てお医者さんが言うんだ、年齢から難しいと。体力がなくなってしまうからね大人になるとどうにも。それで困った困ったと、様子を見て十周目。不思議な事にひとつになっていた。心臓の動きを見ても一つ消えている。お医者さんは珍しいことですと言ってね、シャムになったかもしれないから。産まれるまでは分からないと言ったんだ」
「双子だったんです?」光美ちゃんは自分の出生の話に興味深々といった態度で、父に聞く。
「あぁ、ヒヤヒヤしたものだ。最初は双子。その後一つになっていた。片方が成長しないで転がっている訳じゃなく、文字通り一つに。」
父定清さんの話によれば、光美ちゃんは姉妹で生まれるはずだったという。消えた姉妹の片割れ。光美ちゃんは妹っぽいから、姉が居なくなったのかな。
「出産はもう難産でねぇ。」母小春さんが言葉を継ぐ。「そりゃあもう大変で、帝王切開するから手術室で、あとはもう必死よぉ。」
小春さんは光美ちゃんを撫でながら語る。「意識があるのかないのか、ふらふらの状態でね。でもこうして産まれてきたら何の問題もない可愛い子でね」破顔一笑する小春さん。私は、『何の問題もない』という言葉に家族の絆を感じた。あまりにもさらっと言い切るので聞き流してしまいそうだった。
何の問題もない。か。
光美ちゃんは確かその後病院で脳の手術をしたり、世間で言うところの『問題あり』な子供だった。いや、今だって脚のない光美ちゃんは生きていく上で様々な問題を抱えている。でも、今こうして元気でいること。それだけでこの家族は問題なんてないと言い切れるのだ。
003
その後も話は続いていたが、あまり覚えていない。黄葉と頼木さんは病室を後にして私達はシャワーを浴びに行く。
脱衣室で身につけた病衣を脱ぎ捨ててシャワー室にこもる。
私は正直アンニュイな気分で、沈んでいて。腐っていた。
私は前に黄葉に話した通り、捨てられた子供なのだ。
問題なんてなかった。強いて言うなら問題は親の方にあった。物心つく前の私なんて、人格も何もなく、同じ年の赤ちゃんと並べられれば、見た目以外は同じ存在でしかないはずだ。泣いて、泣いて、泣くだけの赤ちゃんでしかない。親から見れば見た目以外でも色々なものを頼りに自分の子供を判別できるのだろう。でも多分、私の親は、並べられた赤ちゃんの中から私を見つけ出してはくれないだろうな。
愛がなかった。
愛がない。
こんなに短い言葉で、壮絶な事実を表せた。私の場合。愛は貰えなかったんだ。
そんなことをシャワーを浴びながら考える。止めどなく流れる温水は、止まない雨のようだった。
時刻は八時。光美ちゃんもシャワーを浴びて戻っており、今は互いにベッドの上。
時間が解決する。あるいはしたことだと思っていたが。やはり親という存在が私には異質に感じた。いい人だと思う。心が温かくなるのも感じた。
しかし、馴染めない。
親子という言葉が理解できない。私の導き出した答えや価値観はそれ以上でも以下でもなく概念でしかない。私には経験則がない。
そんなに真剣に、重く受け止めなくていい。見て見ぬ振りをすることができたはずなのに、この寂しさは私を逃してはくれない。
「夕お姉さん? 寝てるんです?」
閉めたカーテンの向こうから光美ちゃんの声がする。
「ううん。起きてる。ちょっと考え事だよ」私は努めていつものように振舞い、カーテンを開ける。
「考え事…?」光美ちゃんは自分のベッドの上から私を見つめる。二つの目がこちらを見る。どうしてだろう。可愛いと思える筈なのに、気分が乗らない。光美ちゃんもそれを感じ取っているようだ。
「…泣いてないです?」
「…ふぇ?」泣いてる?
私は慌てて目を指で擦る。涙腺が刺激され涙が落ちる。嘘だ。私泣いてる。
「痛いですか?」光美ちゃんは心配そうな声で聞いてくる。何でだろう。光美ちゃんの優しい声を聞くと心が弱くなる。柔らかくなって、泣きそうになる。
「…そっちいっていい?」
「どうぞですよ」
私は光美ちゃんの優しさに甘えてみたくなった。親という存在を間接的にでも感じ取れないか。そんなことを考えて、光美ちゃんを抱きしめた。小さい。口に出したら光美ちゃんは怒るだろうけれど、脚がない分長さは無いし、それを抜きにしても成長期の殆どを病院内で過ごしているからか、華奢で可憐な印象を受ける。
「あったかい。」
「そですか。 ……何か話したいこと、あるんじゃないですか?」
光美ちゃんは諭すように言う。言葉を選んでいるのか、口調はいつものチグハグなですます口調よりも、なんというか、年相応な感じがある。
「光美ちゃんには話してないけど、私は親がいないの」私はこの悩みを愚痴にしたところで、光美ちゃんに伝わるか分からないままに言葉を続けた。「だから、家族っていうのが、ここに来て不安なんだよ」
光美ちゃんのお腹に抱きつく私の頭を撫でながら相槌をうつ。
「何を言っていいか分からないです。が、私を頼ってくれるのは嬉しいです。気持ちが落ち着くまで、こうしていてもいいですよ」
光美ちゃんはそれだけ言って、私の頭を撫で続ける。私は妹という存在に対して、ここまで自分を預けていいのかと考えて、多分問題はないと結論を出した。妹には甘えてもいいんだ。と。
「…夕お姉さんのことはまだ分からないですが、不安になる必要はないですよ。きっと」
「……」
「出来れば一人暮らしより、一緒の方がいいです。距離は埋めていくことができるですから」
「……」
返事をせず、抱きつく力加減で返答する。それもそうか。私から距離を取ろうといていたら、埋まらない。距離は埋めていくことができる。歩み寄ることを怖がってはいけない。逃げようとしていた私は光美ちゃんの言葉に少し反省する。
一人暮らしはやめよう。もう十分一人だったし、荷物を置きっぱなしの部屋を引き払ってしまおう。家賃の無駄だもんね。
光美ちゃんの服、肌、体温、匂い。それらを感じていると体が眠気を感じ始める。一緒の布団で眠ってしまいたい。諸々の問題は明日考えて解決するとして、今日はもう疲れた。
「光美ちゃん」
「はぅ、…お腹に顔当てて話さないで下さい、息があったかいです」
「…このまま一緒に寝よう?」
「いいですよ」
甘えん坊です。光美ちゃんはそういって笑う。いつもより暖かい毛布の中。少しだけ黄葉のことを思い出す。
まだ寒い日の夜に黄葉は布団を何枚も重ねて、私もその中に潜り込んだのだ。あの時は二人でいると全然寒くなくて、不思議な気分だった。
…とはいえ、あの後の事は気持ちが暴走しすぎてた気がしないでもない。
「跡地」
私は呟くつもりは無かったが、口をついて出てしまった。
跡地。傷跡。切り離された縫合部。黄葉にも、光美ちゃんにもある。私は削り取られた跡地が好き。心が満たされない私は、人間の輪郭を満たしていない存在に共感しているのかもしれない。
「何か言いました?」
「脚さ、触ってもいい?」
光美ちゃんは流石に怪訝な顔をするが、いいですよ。と了承してくれた。光美ちゃんの背中に回り、後ろから手を伸ばし、寸足らずの、作りかけで放置された人形の脚みたいな太ももを布の上から撫でていく。
患者服、もとい病衣のズボンの腰のゴムを緩めて、隙間に手を差し込む。
「…え!? お姉ちゃん?!?」
光美ちゃんは目を白黒させている。
「なーに?」
「いや、上から触ると思ってました。」
「いいじゃない。姉妹同士のスキンシップってことで」
光美ちゃんの耳が赤い。背中が強張っているのがわかる。私が右腕のみを駆使して、少しずつ跡地に近づく。
なんだか懐かしい。黄葉の時はもっと乱暴な感じだったけど光美ちゃんは女の子だから、というか肌が若くて幼いから、爪をたてたらそこから破けてしまいそうな危うさがある。光美ちゃんの右腿の末端、本来なら膝に続くところで、肉は丸められていた。布団の中なので確認出来ないが、皮膚の質感が違うのがわかる。真皮がそのまま皮膚の役割をしているらしく、滑らない。
そこを注意深くなぞっていると、皮膚の裂け目の亀裂を埋めるような形で傷跡が走っていて、大きな×印のようになっているらしい。何往復か確認していると光美ちゃんが体をくねらせて首を振っている。
「あの、擽ったいです」
「えへへ」私は笑って誤魔化す。「頼木さんはこういう事しないの?」
「する、わけ、ないじゃ、ないですか! …夕さん! とんとんしないでください!」
光美ちゃんは抗議する。二本も腕が使えるんだから、止めればいいのに。可愛いなぁ。
でも、あんまりやると収まりがつかなくなるから自重しよう。黄葉の時の事を反省したばかりなのだから。
「ごめんごめん。寝よ」
「もう…」
ベッドの上で二人。目の前にいるこの子が妹なのか。そう改めて認識すると、なんだか大きなプレゼントをもらった気分。いつの間にか不安も消えて、よく眠れそうな気がする。
次の日の朝、頼木さんが来るまで深く眠っていた。ほんの少しだけ頼木さんが拗ねてしまったのを今でも珍しい事だと思う。
004
四月二十八日。
日にちはまた少し飛んで、気候はもういよいよ暖かくなった。五月も近い。
四月が終わるという事は。今日はまさに引越し日和という事だ。家賃も払ったし、頼木さんにも手伝ってもらった甲斐あって、三日に渡る荷物整理の作業が終わった。
読者諸氏には展開が断片的になってしまい。混乱しているだろう。改めて私、樋野夕が舞台を去った貝木黄葉に代わり進行をさせていただきます。とはいえ、それこそ舞台裏でも黄葉は度々見舞いに現れるけれどね。
私が何をしているかというと、病院を出て、自分の家に来ています。
思い立ったが吉日。峰島家の空き部屋の一つを、もう私の部屋として与えてくれるという話に便乗して、急な話ですが四月の終わりに部屋を引き払ってしまおうということになりました。二十六日から峰島家がよくしてもらっているという引越し業者の力を借りて荷物を移していました。
なんというか、自分の住処を移すというのは、あっけないもので、高校時代を共にしてきた部屋が空っぽになっていくのは寂しいけれど、同時に清々しくもあった。
左腕がまるで機能しない私は、引越し業者ならびに頼木さんよりもずっと役に立たない。
私の部屋なのに、不甲斐ないね。
最後の荷物をトラックに積み込み、業者の方に運んでもらう。私は頼木さんの車に乗って後をついていくのだが、まだやる事がある。
「頼木さん」
「ん? なんだ?」
「別の用事で行きたいところがあるんです。以前バイトしていたところに、挨拶に」
「あぁ、事故で突然やめたんだったか、いいぞ。道を教えてくれれば連れて行こう」
頼木さんはさすが、頼りになる。
午後。大家に鍵を渡し、お世話になった部屋を見る。もう帰ってくることはない。
設備が整った部屋では無かったが、屋根があるというのはいいことだと思う。しかし、実際。月並みな言葉しか出て来ないのだ。
思えば学業にバイトに明け暮れていた。部屋で過ごした思い出は悲しいかな、そんなにない。
白い軽の車に乗り込み頼木さんの運転に私が道案内をして、栞守市を目指す。
そこまで長い道のりではない。私がバイトをしていた冠婚葬祭のセレモニーホールも、この道に沿った先にあるので、私はぼんやりのんびり景色を眺める。
そういえばここは事故当時通っていた道だ。雪がなくなり、思い出す記憶はどちらかと言えば平和な日常の中にあるバイトまでの道のりの方で、あまり事故の瞬間は思い出せない。いや、記憶の残滓が脳にこびりついているのは感じている。深追いしないでいるだけなのだ。きっとその気になれば鮮明に思い浮かべることができる。
「少し喉が渇いた。この近くにコンビニはあるか?」頼木さんは私に話しかける。今まで気にしていなかったが、車内で会話をしていないことに気づく。
「あぁ、コンビニならすぐそこの道を左に……」
コンビニ?
奇遇なことに寄り道するコンビニまで同じになっている。追体験みたいで少しはっとして、言葉を失う。何か嫌な予感がするけれど、今は車内。当時と違い、自転車ではない。きっと気のせいだ。
「…ここを左か?」
「えっ、あ、そうです。」
頼木さんは車を停めて外に出る。私も後に続いてコンビニ内に入る。
「これからバイト先に行くんだろう? 何かお菓子でも買っていくか?」
「あー」失念していた。菓子折りのようなものの一つでもあったほうがいい。「そうですね」
「何がいい?」
「いやいやいやいや」頼木さんはもう、「自分で買いますから」羽振りがいいというか、大盤振る舞いというか。さすがにこれは自分で買わねば。
「頼木さんは親切すぎますよ」
「深雪と書いて親切と読むからな」そう言って快活に笑う。
「でもこれは自分で買います」私はお菓子の棚からファミリーサイズのカントリーマアムを二袋右手に取り、レジに向かう。店員がスキャンしている間に右手で財布を取り出し、お金を取り出そうとして手間取る。
片手のみで財布からお金を取り出すことがなかったから、予想外に難しい。
店員は『なぜ右手を使わないのか?』という顔をして、私は余計に焦る。
「あ、これも一緒に会計してください」
頼木さんがいつの間にか後ろから飲み物を二つ持って店員にそう告げた。
「五百円ある?」
「あ、あります」
精算を済ませ、車に戻る。
「ありがとうございます」私はそれを口に出すのが精一杯だった。レジを通すだけでも。腕は足りない。
「…なんというか、私は気を利かせ過ぎていたりするのか?」頼木さんはそんなことを言う。
「え?」
「いやさ、君たちに対して、フォローにまわることを意識していたんだが、最近それが煩わしく思われていないか。そう思ったんだ」
意外だった。
頼木さんを軽く見ていたわけではなく、それこそ息をしているのと同じくらい無意識にやっているのだと思っていた。
「うっとうしいと思ったことはないです。いつもすごいなぁって思ってました」
「そうか、良かった」頼木さんは車を走らせながら少し肩の力を抜く。
「……どうして、そんなに私達を助けてくれるんですか?」
「……とうして、と言われても」頼木さんは言い淀む。「こんなこと言っても信じないと思うが」そう言って恐る恐る言葉を続けた。
《以下回想》
私は光美様が誘拐された件の事件が解決した後、眠れなかったのだ。
目を閉じると左側の男子更衣室に泣き崩れる光美様がいて、右側には藻が張り付いて汚水にすぶ濡れの黄葉君が血を流して倒れている。その板挟みで私は凄く怯えて、動揺している。
どちらから助けるべきかと悩んでいると、どちらも助けられず、いつの間にか悪夢を彷徨い。同じ場面にたどり着いた。
光美様を助けようと男子更衣室に一歩近付くと、背後で水音が聞こえて、それが黄葉の血の流れる音だと気付く。そして悪夢を繰り返す。
黄葉君を助けようとすると…同じような結末で、その時に夢の中で絶望して、目が醒める。
そして寝付けない夜、私はまだ寒い街に目的もなく散歩をしてみることにしたんだ。
ここからが不思議で、散歩をしている途中、幽霊を見た。誘拐事件の後だったから、きっと精神が疲れているのだと、そう思って幽霊をぼんやり眺めていたら、面白いことにその幽霊は光美様そっくりで、うっすらと光を纏って空に浮いていた。
病室で光美様に何かあって死んでしまったのかと思って思わず声を出したんだ。『光美様』ってね。
そうしたら、幽霊は『それは違うよ』と言った。
『同じ名前で呼ばれてるけど、私はあなたの光美じゃないの』
その幽霊が諭すようにそんなことを言う。
……言っておくが、本当にあったんだぞ。信じられないだろうが。
で、その幽霊は、自分の事を動かない脚だと言った。そして光美様の姉だと。
そして最期にこう言って消えてしまった。
『妹を大切に守って欲しい。妹が大切にしている者を守って欲しい』ってね。
《以下略》
「……という話。…多分信じてもらえないでしょ?」
「……うーん。確かににわかには信じられないですが、『姉』とか『脚』とか、幻想にしては繋がりがありますね」
「だろう? だから私は、光美様と光美様の大切な人を、纏めて面倒見てやろう! ってね」
頼木さんは快活に笑う。勇ましい笑顔が眩しい。
「でも宣言通りお金は返しますよ。お菓子の分、渡しますね」
「あぁ、そうしてくれ」
頼木さんにレシートを貰い、お菓子の分のお金を手渡した。後で光美様にお土産を買わなければ、そんな冗談ともつかない心配ごとを言って笑った。
005
元バイト先に車で到着して、頼木さんを車に待たせたまま私は菓子折りを持って中に入る。冠婚葬祭を行う小さなセレモニーホールはどの季節が忙しいとも言えず、当時は基本的にいつも静かに過ごしていた。
受け付けに立つ女性スタッフは私の顔を見ると顔を幾分か明るくして、近づいて話しかける。
「もしかして夕ちゃん? あら、久しぶりねぇ」
「お久しぶりです。今日は連絡もなしに来ちゃいまして」
「いいのよ、いいのよ。どうせ今日は暇なんだから、この時期は結婚式より御葬式の方が多いでしょう? 六月になれば変わるんだけど。とにかく中に入る?」
「じゃあ、少しだけ」
女性スタッフは当時バイトをしていた頃にお世話になった梨本さんだ。スタッフ歴が長く、口調や振る舞いの丁寧さは職業柄張り付いていて、私と話すときも丁寧だ。
従業員用の部屋に通される。廊下の奥から微かに懐かしい匂いがする。私はこの匂いに改めて記憶を刺激されるが、そもそも何がこの匂いを作り出しているのかわからない。アルバムの紙や蝋燭、古い柱に石膏。その他様々な物から作り出されているのだと、いつも漠然とそう考えては納得していた。
「…夕ちゃんが社員スタッフになるって聞いてたのに、その後暫くして、スタッフにはならない。それどころかバイトもやめるって聞いて、心配したのよ?」
梨本さんはそう言って会話を再開する。当時はかなりお世話になった人で、菓子折りだけでは感謝しきれない。とはいえ、とりあえず今は出来るだけのお礼をしなければ。
「すみません。本当はこのまま働くつもりだったんですけど、事故にあいまして」
「まぁ! 事故」梨本さんは言葉を遮るように感嘆するが、その話が初耳ではない事は明らかだ。「噂では聞いたけど、本当なのね。どれくらいひどいの? 見たところそうでもなさそうだけど」
その言葉にどう答えていいのか分からなかった。というか、やはり腕を見せることに抵抗があるのだ。私は訥々と言葉を選んで説明する。
「実は片腕が事故で千切れちゃいまして、あはは。今もまだ動かないんです。」黄葉の腕を、男性の腕を移植している事は省いて、そう答える。別に黄葉の腕を恥じているわけではなく、人に軽々しく見せるものではないと思うのだ。見せた後にどちらも手に余る空気を作られては、困る。
「なのでスタッフになるにはちょっと厳しいので、今に至ります。……あ、あとこれ、皆さんに」
「あら、そんなのいいのに、……でも大変だったのね、新しく入ったバイトの子が、事故を見てたって言ってね、すごくひどい事故だって」
「新しいバイト? 事故も見てたんですか?」
「うん。牧君っていうの」
その言葉に話が出来すぎているという気がして、現実味のない状況に思考が鈍くなる。名前を聞き出すのはかえって面倒だ。知り合いと思われたら誤解を解くのに骨を折るだろうし、聞き出す必要もない。
厄日の人だ。
間違いない。
なぜここでアルバイトをしているのか、他意があるのか偶然かはこの際置いておこう。事故を見ていた?
梨本さんの口ぶりでは、厄日の人は事故を目撃していたということになる。顔の動揺を察したのか、梨本さんは『牧君は今日もバイトがあり、少し先にここについている』と付け加え、牧君という人物を呼び出すか聞いてきた。
私は厄日の人に会うことにした。
梨本さんに呼んでもらうように頼んで数分も待たず、牧という男は現れた。私を見るなり苦い顔をし、次に諦観の目で少し微笑んだ。セレモニーホールの裏口から外へ出て、牧駿太郎と向き合う。
「事故の事、見ていたの?」
「……しょーがないから全部話す。言っとくけど、大した話じゃないから」そう言って牧駿太郎は暫く頭の中で言葉を整理して話し始める。項垂れた頭は上げることなく、建物の影でひやりとしたアスファルトを見つめていた。
先に伝えておくと、牧駿太郎の話は本当に取り留めのない話だった。
「あんたに置いていかれた後、ちょうど友人が車に乗ってやってきて、気晴らしにドライブに行った」牧駿太郎はいかにも苦々しそうというよりは、それを包み隠した明瞭な声で言った。
「……そう」私は努めて無感情を装い、聞くだけに留める。
「あとはほら、わかるだろ? トラックがさ……」
「分からないわ。トラックを見ただけなのかしら」
「トラックとぶつかりそうになって、友達がハンドル切って。俺たちはかわしたけど」
嫌に歯切れの悪い言い方で、私はこの先の出来事を邪推しながら聞いていた。一つの予想がついた。
「トラックの方はバランスを崩して、私達はこうなった。ってこと?」
「……」牧駿太郎は頷き、「でも悪いのは俺じゃない。友達がその後逃げたんだ。俺は止めようと思った」
「その後止まった? 今からそのことをトラックの運転手に伝えてみる? 私達のこと、どう思ってる?」
「……」
「正直、もうどうでもいいよ、過ぎたことだし、今更掘り返すのも面倒くさいしね。」これは本音だ。牧駿太郎の話を聞いていて、トラックの事故の大元の原因がここにあるとわかった上で、私はただ疲れた。興味も失っている。
「もう一人、男がいただろ? 事故の時の。……あいつと同じ大学なんだ。俺、わざと酷いこと言って怒らせたけど、本当は反省してるって伝えてほしい」
「意外なことを言うのね。もっと救いようがないと思ってた」
「彼氏なんだろ? あいつ。 あんたにも申し訳ないと思ってる。だから、今日話したことは秘密にしてくれない?」
「別にいいわ、元から掘り返すつもりないし、これからは関わり合わないで生きていくだろうから」
ここまで来て何となく、牧駿太郎があっさり口を割った意味がわかってきた。私がここに牧駿太郎がいると突き止めて、全部知っている上で会いに来た。と、だからあんなにあっけなく話したのだろう。言葉だけで反省していると言われても、行動が何一つ伴っていないのは明らかで、やはりこの男は軽薄で軽快で軽挙。
「もう特に用もないから、帰るわ」
そう言って返事も聞かずに中に戻り、受付に戻っていた梨本さんに改めて感謝の言葉と別れの挨拶をして、頼木さんの車に戻る。
昂ぶるだけ昂らせておいて、あとは静かに萎むだけ。
「お、早かったな」
「うん。案外呆気ない感じですね」
「?」
噛み合わない会話に首を傾げる頼木さんを見て、「光美ちゃんのところに急ぎましょ」と促す。今日はもうお終い。明日、屋敷の荷物を確認して、黄葉に合おう。
006
病院に戻ると光美ちゃんは黄葉と一緒にいた。いや、黄葉が光美ちゃんと共にいた。黄葉は見舞客用のパイプ椅子にもたれかかり、光美ちゃんは長座体前屈をしていた。話し込んでいるというよりは個人個人が別々の暇を持て余していた。と形容できる光景だ。
しかし、独り占めとは、なんともまぁ羨ましい。
「ただいま」
「おかえり。と言っても家じゃないけどな」
「おかえりです」
黄葉と光美ちゃんは言葉を返す。頼木さんも後に続いて中に入るがただいまと言える場所ではないから、ただよくわからない笑みをしていた。
「光美様、お待たせしました」頼木さんは光美ちゃんのベッドの縁に腰掛けて人心地つく。
「引越しはどうでした?」
「明日荷物を整理して、終了です」
とは言っても、無駄な家賃を払わないで済むように荷物を移動しただけで、そこに住むのはまだ先だ。
「峰島の家は見たのか?」
「見たよ。大きくてびっくりした」
「いいなぁ、大きな家か」
「黄葉が今住んでる部屋もそれなりなんでしょ?」
「まぁね」黄葉は得意げな顔をする。しかしそれは黄葉の実績や力は関係なく、単に峰島家、さらに言えばこれもまた頼木さんが椛さんに部屋を紹介したということを私は知っている。ので、そのまま伝えた。
「これもまた頼木さんや峰島家のおかげでしょ」
「げ、知ってるんだ」
「知ってるよ」
「いや、でも凄くいい部屋でさ、あんなに高いと窓を見るだけでも楽しいよ」
「へぇ、いいね」
「遊びに来なよ、姉貴も話したいらしいから」
「うん。行く。明日行く」
ちょうど荷物を確認した後の予定は空いているし、今日の厄日の人との一件で気持ちを晴らす何かを求めていたから丁度いい。
「あ、明日って、急だな」
「ダメなら後日でもいいけど」
「いや、多分大丈夫。明日は昭和の日だから祝日だ」
「そーなんだ」私はこの入院生活で休んでない日がなかったから気付かなかった。自分から急な提案をしておいて、祝日かどうかは私の意図していないものである。
祝日ということは黄葉の大学は休講ということになる。それなら屋敷に荷物を運ぶのを手伝って貰いたいが、黄葉は黄葉で腕が足りない人間なので、いても邪魔なだけか。
「どうせなら荷物運びを手伝って貰おうと思ったけど、その体じゃ邪魔なだけだね」
「おい! 今思ったこと言わなくていいのにわざと言ったろ」
「うん」
黄葉は少し微笑んで、私を見る。自分でもわかるくらい顔が弛緩している。きっと黄葉はこれを『はにかむ』というのだろう。私がこんな風にしていると、黄葉は満足そうに微笑むのだ。
数日前とは打って変わり、私は少し満たされた気持ちになっている。時刻は7時、シャワー室に向かう。
明日もまた荷物整理の作業で汗を掻く。ろくに動けはしなくても、気候も暖かい。そして何より黄葉が朝からいるというのは久しぶりで、心が躍っている。
脱衣所でいつものように衣服を剥き、シャワー室に入って身体を洗う。
「あんなこと言っちゃったけど、どうなんだろ……」
部屋に遊びに行く。…というのは、黄葉の部屋に私が行くということなのだが、椛さんはその部屋にいるのかしら。今日急に予定を入れたから、椛さんは恐らく仕事。でなければ黄葉は日程を確認しない。そもそも黄葉は祝日だから大丈夫と言っていたけど、その『大丈夫』は椛さんが仕事休んでいるのかいないのかについて思考は巡っているのかわからない。もし、もしも仕事がある場合、午後は黄葉の部屋に二人きりになるということなのだけど、どう思っているんだろう。今頃慌てて掃除をしていたり、意識してくれているのかしら。
少なくとも私は、もしもの時に備えておく必要がある。とはいえ、備え方を知らないのだけれども。
うむむ。とりあえず全身を綺麗にしておこう。最悪黄葉の部屋のシャワーを借りれるはず。
こうして私は少し暴走した思考で体を清めて病室に戻り、交代で光美ちゃんがシャワーを浴びに行く。
シャワーで血行も良くなり、全身に今日の一日の疲労が感じ取れる。ベッドに倒れるように飛び込み、うつぶせのまま脚で器用に掛け布団を背中に投げ掛ける。思考は暴走の果て、風船のように膨らんで、そのままどこかに飛んで行った。後には思考停止した脳に睡魔と性欲がちらつく。光美ちゃんも居ない状況、体に残る疲労感や厄日の人との区切りをつけられた安心感、黄葉と明日の約束を取り付けた成果の妄想が複雑に混ざり合って別の欲求に昇華するのを頭のどこかでは検知しているものの、どうにもできない。身を清めたばかりなのに。と自制するも、すぐに思考は裏返り、後でまたシャワーを浴びるか何かしようと算段を立てる。
あぁ、このまま右手を下腹部へ伸ばしていけば私は私を慰めずにはいられない。黄葉はどうしてるのかな。
007
後日。
一度帰宅した頼木さんと黄葉は朝十時頃に再び病室を訪れた。
「ご苦労様です」
改めて労いの言葉をかける。引越し作業四日目。さすがにお世話になりすぎている。私は結局その後で光美ちゃんが戻って来たことで自制することができた。しかし頭は靄が掛かっている。いつぞやのように暴走してしまわないか心配だ。
「いいさ、とにかく片付けてしまおう」と頼木さん。
「僕は光美ちゃんを見守る係だから」と黄葉。
事実、黄葉には光美ちゃんを見守る係として、午後からではなく朝からとメールで呼びつけておいたのだ。
「昨日までは車に荷物を詰め込む作業があったから、光美ちゃんをお留守番させてたけど、今日は一緒に行けるよ」
「よかったです」光美ちゃんはホッとする。退屈な三日間を強いらせてしまい、少し反省。
とにかく、何時ものように外出許可を貰って、病院を出る。頼木さんの車に乗り込む。車酔いしやすいという光美ちゃんを助手席に乗せ、車椅子単体は畳んで後部座席の右側、黄葉の所に入れる。私は光美ちゃんの後ろの席に座り、車を走らせる。
「あれ? この道」黄葉が呟く。
「なに?」
「光美ちゃんの家に向かってるんだよね」
「光美ちゃんの家でもあり、これから私が住む家でもあるけど、そうだよ」
「いや、道のりが僕の家に向かう道と一緒だから」
え?
そうなの?
「あぁ、言っていなかった」頼木さんが前を見ながら会話に入る。「もともと峰島家の屋敷も伊角市にある。だからかなり近いぞ」頼木さんは後部座席からでもわかるくらい得意げな顔で言った。
数十分程車を走らせ、峰島家の屋敷についた。
荷物を移動するこの四日間で、峰島家に来たのは初めてではないにしろ、まだ二回目だ。改めて大きな敷地に驚く。建物自体は木造で、光美ちゃんのためか、階段の隣にはスロープが増設されており、全体的に改築された形跡がある。隣には事務所を構え、頼木さんのように、事務の人間がそこで働くのだろう。
「荷物は全部二階まで運んであるそうだ」頼木さんはそう言い置いて中に入る。私達も後に続いて中に入る。
「お邪魔します」その言葉でいいのか確信がないので、自然と言葉は小さくなる。光美ちゃんは「ただいまです」と清らかに言ってスロープを登り、中に入る。
この家の主人であり、今後お世話になる峰島家の父と母がにこやかに出迎える。
「おかえり、夕さんも『ただいま』でいいんだよ」
「えへへ、なんだか照れますね」私は笑いで緊張を隠した。優しい人柄の二人に、出来るだけ迷惑は掛けたくないし、心配して欲しくない。居心地が悪いわけではなく、慣れるまで時間がかかる性分なので、この他人行儀もすぐに直るはずだ。
「では、二階に参ります」頼木さんが定清さんに告げるとうんと頷き見送った。
廊下を進むと階段があり、隣には小さなエレベーターが設置されている。他でもない光美ちゃんの為の設備だ。そこに乗り込んだ光美ちゃんと付き添いの黄葉が上へと上昇している間に二階、三階と上がる。この屋敷は三階建てなのだ。恐ろしいほど体力が削られる。エレベーターも光美ちゃんだけの設備という認識は撤回しようと思う。むしろ階段が頼木さん専用といった具合だ。現に頼木さんは息も乱していない。 先に到着して待っていた光美ちゃんと黄葉は、光美ちゃんの案内を頼りに先に部屋の前まで来ていた。廊下からはみ出した段ボール箱の小山を確認して、ここが今日から私の部屋になるのだと感じた。とはいえ前もって知っていたので中を見なければ実感がない。
ノブを捻り扉を開けると内装は綺麗で、白いクロスの壁の下三分の一が深いブラウンの木製の腰壁になっていた。床はフローリングで、執拗なまでに掃除が行き届いていた。端に段ボールと机の部品だった鉄パイプと木材の板、学習机の椅子や絨毯なども置かれている。
「すごい…いい部屋」
「峰島家の当主が、家を建てたとき、ここは子供部屋として設けた部屋なんだそうだ」
「私にはもったいないくらいですよ」
「いいや、この家の子供として、当然の部屋だと私は思う」
頼木さん、かっこいい。
「光美ちゃんの部屋はどこなんだ?」廊下で車椅子に上半身を預けて黄葉は光美ちゃんと会話をしている。
「私はこの部屋の手前側です」そう言ってコの字型の廊下の来た道を指差す。コの字の上の一本線が階段のスペースだとして残りのLを鏡にした形の廊下の行き止まりが私の部屋で折れ曲がったところには光美ちゃんの部屋がある。
「あんまり来たことないですけど」そう言って苦笑いをする光美ちゃん。それもそうだ。基本的に病院で過ごしていたのだから。さらに言えば、脳手術を行うまで殆ど寝たきりであったのだ、今こうして経過観察の段階まで回復しているのが夢のようだと思う。きっとそれは父母に当たる人の方が強く感じている事だ。
「…さて、午前のうちに片付けてしまおうか」頼木さんは改めて手をぱんと打ち鳴らし、段ボールを端に寄せて隅に置いてある長い巻物のような絨毯を敷き始める。
光美ちゃんを廊下に待たせて黄葉と私は敷かれた絨毯の上に段ボールを移動させた。窓の位置からまず机の位置を決める。
「ここでいいや」
「おいおい、そんなテキトーさでいいのか?」
「いいんじゃない?」
「個人的に机はそこよりここだな」
黄葉は他人の部屋にぐちぐちと言うが私自身部屋に対してどうしていいのか分からないから、反論は出来ない。
「お? 貝木君は部屋をこだわるタイプか?」頼木さんは絨毯を敷きながら黄葉にそんなことを聞く。
「こういうパズルみたいなのは好きですよ、電気の配線とか、日当たりとか、条件を満たしながら最適解を見つけるのは楽しいですから」
「へぇ、ちなみにきれい好き?」
「どうでしょうね、物が多いなら多いなりに、理路整然としててほしいって言うのはあるかな」
「おぉ、いい感じだね」
「? 何がです」
「日野君の部屋を片付けたんだが……」「あー!! 無し無し!! だから秘密だって」私は頼木さんにストップをかける。慌てて口を塞ぎに行ったものだから腰を壁に打ってじんじんと痛む。
「……片付けたんだか?」黄葉は言葉を反芻して続きを促す。
「日野君の部…」「あー!あー!!あー!!!」「…べつにこれくらいどうって事ないだろう」頼木さんは可笑しくてしょうがないらしく、くつくつと笑っていた。私もこんなに大きな声と動きをしたのが今になって恥ずかしくなって赤くなる。
「夕の部屋が? 『意外と汚い』…とか?」
「そうですけど? 私は部屋散らかす人間ですがなにか?」頼木さんに対して不機嫌になるのも幼い対応な気がして、代わりに黄葉を睨む。
「なんでも、薄々分かってるから」黄葉はあっさりとそう言った。
「え? なんで!?」
「入院中、よく自分のベッドの上に上着とか脱ぎ捨ててたし、酷い時はブラもあったぞ、確か」
「細かっ! それくらいいいじゃんか、あとで片付けてるし」
「僕が言うまで片付けないでしょ」
「言うのが早いからだよ、自分のタイミングがあるの」
黄葉と言い合っていると光美ちゃんがニコニコとした顔でこっちを見ている。冷静になり頼木さんを見ると頼木さんもまた笑っていた。
「はっはっ、…夫婦喧嘩みたいだな」
その一言で妙に身体が火照る。知らないうちに私自身浮き足立っているのかもしれない。
黄葉が机の部品を六角レンチで器用に組み立て、その上に段ボールから取り出したパソコンを配置する。私は円形の膝丈のテーブルを配置したり、カーテンをつけていた。折り畳みベッドは頼木さんがエレベーターを使って三階まで運び、大きな物の配置は終わった。後は服をクローゼットに収納したりするだけだが、今はその必要はない、続きは退院した後のことだ。
「……よし、今日はお仕舞い」頼木さんが切り上げの言葉とともに絨毯に腰を下ろす。「この後は二人は別行動だ」
「そうです。今日はありがとうございました。本当に助かります」
「いいっていいって」
そうは言ってもこちらも引けない。何故頼木さんはこうも私たちを助けてくれるのか。その疑問に後ろ髪を引かれながらも思考はすぐさま剥ぎ取られ、黄葉に染められる。
「本当にありがとうございました」私は改めて一礼して部屋を出る。頼木さんと光美ちゃんは自分の部屋、つまり光美ちゃんの部屋に向かい、私と黄葉は階段を降りる。
父母に部屋を後にすると伝えるとにこやかに見送ってくれた。「またいつでも帰って来なさい」という言葉に心がくすぐったくなって、暖かくなって、気分がいい。
十二時を過ぎて二人、とりあえず歩き始める。
「ところで道はわかるの?」
「あぁ、この道を進んで大通りを出ればもう迷子になることはない」
黄葉は住宅街の道を進んでいく。左腕を通すはずの袖は風に揺れて、少し早い鯉幟のようだ。
「あれ、そういえば義手は?」私は問いかける。いつもなら義手を身につけて袖を風に踊らせるようなことはしていないのに。
「今日は大学ないし、買い物とかでもないから、別にいいかなって」あれをつけると無駄に体力を消費するし、と黄葉は呟く。前に言っていた事を踏まえると、黄葉は腕がない事を他人にどう思われても気にしない性分らしく、義手を付けるかどうかの判断は特に明確ではないのかもしれない。
あれ?
「義手ないと痛むんじゃなかった?」
「あぁ、幻肢痛? この痛み、意外と嫌じゃなくてさ」
なんと、変態かな?
「ここから何分くらいなのさ」
「十分あるかないかくらいかな」
そして十分あるかないかの時間を費やしてたどり着いたマンションは、確かに立派で、ガラス張りの自動ドアはカードキーで解錠され、私達はエレベーターに乗り込む。二十五階へ行くボタンを押して、僅かな重さを感じ、静かに箱が上昇を始めた事を知る。
「椛さんは仕事?」
「いや、休み」
なんだ、期待して損した。昂ぶるだけ昂ぶらせておいて。あとは萎むだけ。呆気ない終わりに右瞼が痙攣する。
ぽーん。と間延びした電子音とともに扉が開く。廊下を進み251号室の前で止まる。
「ここ」黄葉が短く言う。どうやらこの部屋が目的の場所らしい。
お邪魔しまーす。と言いながら中へ入ると理路整然とした綺麗な部屋が出迎えてくれた。しかし椛さんの気配はない。
「あれ? 椛さんは?」
「仕事休みだから東京に遊びに行った」
「えぇー…」
という事は、どっち?
二人で何をするんだろう。
008
「さすがにキスだけなんて、もうありえないよな」
そんな言葉を耳元で囁いて黄葉は円卓に座る私を後ろから抱きしめた。
眠りから覚めたような鈍い思考であたりを見ると、薄暗い部屋、いつの間にかロフトを上って二人で上にいる。いつ梯子を上ったのか分からない。裸で二人、梯子を上ったのだろうかとその光景を想像して間抜けな姿にバカバカしくなる。多分違うね。
下腹部に鈍痛を感じる。事故の時とは違う暖かい痛み。最初は包丁で裂かれたかのような痛み。死んでしまうのかと思ったけれど、黄葉に殺されるのならまだましだと捉え、耐えていた。喉元過ぎれば熱さを忘れる。しばらくして鋭い痛みは鈍痛に変わり、ほのかに心地良い感覚を見つけ、それに縋るうちに、今の今まで痛みを感じずに済んでいた。
黄葉自身も今は疲れ果てて隣で横たわっている。互いの温度を感じ、肌の匂いを感じ、瞳の先の意思を通じ合わせられる。
「布団いいの?」
「ロフトは僕の布団だし、暗くて見えないけど、タオルケットを敷いてあるから」
「なら、もう少しこうしてようよ」私は下腹部の鈍痛を誤魔化すように、黄葉に肌を密着させる。首にかかる息がこそばゆい。黄葉は再び興奮しているのだ。
「ごめん、また膨らんでるけど、気にしないで」
私の痛みを察しているのか、理性を保っている黄葉はそんなことを言う。
「前もこんな事あったよね」
「え?」
「病室で、こんな風に、それで黄葉はなぜかずっと謝るの」
「…あぁ、あったね」
そこでふと、私の携帯が光っているのが目に入る。ロフトの下、円卓の上にあるから面倒くさいが、基本的に重要な人間にしか連絡先を教えていない私の携帯は、必然的に届いた連絡も重要なものになる。
「携帯とって」
「えー、」
「お腹痛いから、ね」
「わかったよ」
黄葉が布団から出ると急に温度が下がっていくのを感じる。黄葉は携帯を取り、私に手渡した後、避妊具を処理しにトイレに消えた。それを見届けて携帯を操作すると、連絡は頼木さんからで、内容は『光美様は今日は家に泊まるので、病室は誰もいないから、帰ってくるときは峰島家の方に戻って来てください。 P.S. そのまま貝木の家に泊まるのもありかと』とのこと。ここまで来ると千里眼のような何かを感じなくもないが、風は私に味方をしている。できれば今日は泊まってしまいたい。
暫くしてロフトを上って再び布団の中に潜る黄葉にそのことを伝える。
「黄葉」
「んー?」
「今日泊まる」
「いいよ。姉貴がいつ帰ってくるか確認する。多分深夜になるだろうけど一応ね」
「わかった」
そう言って私は再び黄葉に密着する。なんだろう。一線を越えて足枷がなくなったせいか、凄く甘えられる。萎んでいた黄葉のそれは再び昂り、樹木のように屹立して私の腹部の溝に収まり、小さな心臓のように脈を打つ。黄葉の顔を覗き見ても澄ました顔をしていて、やはり別の生き物という認識は間違いではないのかもと考える。そして再び繋がれば、この鈍い痛みに蓋をしてくれるのではないかと淡い期待をして、脳裏に潜む蛇の舌がちろちろと肉欲を主張する。
「帰りが遅いんだね」
「まぁ、別の仕事みたいな事をやってるからね、姉貴は」
「ねぇ、」
「何?」
「もう一回しようよ」
深夜二時過ぎ。私は時間を気にせず陽気な声を出す椛さんの存在を知覚して目が醒める。
「樋野っち起きた? お熱い夜だったようで」
ロフトにかかる梯子を上り、顔だけを覗かせる椛さんは、水面から顔をだした妖怪のように思えた。寝起きだというのもあり、頭が働かない。もちろん寝る前にはシャワーを浴びて、布団も掃除し、避妊具は部屋のゴミと共に外の回収カゴに入れた。全ての痕跡を黄葉と消し去ったので、確たる証拠を持って椛さんがそう言っているわけではないと信じたいが。二人狭いロフトの布団で抱き合っていれば、そんな茶々を入れられて然るべきだろう。
「うぅん…起きました。椛さん…お邪魔してます」
「いえいえこちらこそお邪魔しちゃってます。…どう? どうだった?」
「……?」
多分椛さんは面白半分でちょっかいを出しているのだと後から理解して、とりあえず惚けたふりをした。
「……ま、おやすみ」椛さんは私が寝ぼけていて反応が弱いので、興味を失ってロフトから降りた。下に畳んである折りたたみベッドを広げて早々に眠る。私も思考を働かせるのを中断して、再び眠りにつく。
黄葉に抱き付いて、下腹部の痛みにふと意識を向ける。この沈み込むような鈍い痛みは、嫌いじゃない。たしか黄葉もそんなことを言っていた。
そうか、私のこの痛みは幻肢痛なのかもしれない。二人は腕を介して複雑に、深いところまで混ざり合って、一つの存在なのかも。
とすれば私と黄葉は繋がっている時こそ本当に一つの存在になり、今こうして繋がりを解いている間はこの体は幻肢痛を感じるのだ。……なんて妄想をする。
理想郷。ユートピア。鍵と門。少年と少女。病院内での生活で私に届いた全ては、今を形作るメタファーなのだと感じる。
明日は椛さんに仕事について話を聞こう。峰島家に歩み寄ろう。この幻肢痛をいつまでも感じていよう。
私は救われている。今この先にある生活はきっと私が切に追い求めていた理想郷だ。
眠りの穴に意識を落とす前にこの物語の幕を閉じるとしよう。
これが私の現在地点、そして通過点に過ぎない事をここに記しておく。理想の収束が一つに重なる場所を目指し、私達は落下することを止めない。
沈む恋路と四月の夕日
腕を『引き離した』僕。
親に産み『落とされた』夕。
脳の姉と『隔てられた』光美。
静かに巡る日々のなかで物語は収束しながら落ちてゆく。
いかがでしたか。『落ちる黄葉の楽園』『廻る木馬と踊る姉妹』に続く『沈む恋路と四月の夕日』
僕は漠然とこの話を三部作みたいなものにしたいと思い、このような続編を書き上げました。
落下という言葉に、最初はもっと暗い結末を用意しようと考えていたのですが、書き進めているうちに僕の時間が大いに過ぎて行き、あんまり暗い結末は嫌だな。と思い始め、恋に落ちる。という結末を迎えました。
P.S. 読んでいただいた方へありがとうございました。