真白きホオヅキ

初出:缶じうす195(2014年)
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 自分で考えるってゆったのに。
 彼女はそう言って、どうやら唇をとがらせていたらしい。
 わたしはといえば、一面に広がる歯車の景色に目を奪われていて、その少女のことだけを注視してはいなかったのだ。
 地を埋め尽くす真鍮色。タンポポぐらいのもあればヒマワリぐらいのもある。形も色も銘々不揃い。チョコレートのように黒いもの。その包み紙のように金ぴかのもの。四角い歯とのこぎりみたいな三角の歯と。軸付き。穴あき。ねじれたチュロスの輪切りみたいなのは初めて見た。かみ合う歯の隙間から、さらに下へも歯車たちがぎっしり詰まっている様子がうかがえる。
 空は暗黒。輝く星々はすべて金色だった。もしや、あれも歯車か。このからくりの平原を睨み水平にかみ合う歯車の天蓋がそこにある。真鍮の輝きがわたしたちのいる場所だけを照らしている。地平は闇に溶けて歯車の洪水も飲み込む。
 一面の歯車。一面の歯車。一面の歯車。
 歯車たちは回っている。回る歯車しかここにはいない。各々はことごとくかみ合い、互いの歯を受け合って回り続けていた。生きているかのような歯車たち。ここは歯車の畑だ。収穫のことを考えたくはなかった。そして見誤りようもなく供給過多なのである。世界中の時計が新調され、思い出はリチウム電池と共に仕舞われるだろう。
「需要とは一致してるんだよ。ヘビやニワトリの分どころか、セミ、イチョウ、トビウオ。大腸菌からディプロガスター、エイチアイブイの分まである。ただし、どれがだれのとまではっきりしない」
 はきはきと声を響かせてその子は言った。彼女の下でも歯車たちは変わらず緻密な永久運動をくり広げていて、けれど彼女もわたしもその伝導を受けていない。まるで薄いガラスの膜が渡されているかのように、からくりの空と大地の間にあるものは押しなべて静止している。彼女の座っている足の細い椅子も、わたしの車いすも。
 この場所で動作しているものは歯車だけ。音も見えない膜にさえぎられるのか、これだけ膨大なブリキのかたまりがうごめいているのに辺りは無音だった。少女ひとりのついた溜め息が異様に凛として聞き取れたのもそのせい。
「ただ、ヒトの中でわかりやすくずれるのは、あんたと他ふたりくらい。だからちょっと興味あったけどさ」
 あどけない顔の上で薄い眉を寄せて、その子は年頃の少年のように少しやさぐれた調子でしゃべる子だった。まばゆいほど白く色のない髪が印象的な少女。短冊のように房ごとに切り揃えられた隙間からはかなげな瞳が覗く。血の気の浅い肌にまとうセーラー服まで真っ白な少女の姿は、この場所においてもひょっこりと異質だった。
 暗闇と金色が蹂躙し合う世界で唯一神聖なる偶像のような彼女は気だるそうに二度拍手をおこなう。すると彼女のすぐ後ろで急に地面が盛り上がったのである。歯車の一塊はぐんぐんせり上がり、少女の背より高く伸びてからくりの柱となる。柱の中でも歯車たちは、平面にあった頃と変わりなく整然とかみ合い、着実に回り続けていた。
「だいたい、こっからこれくらいが……」
 柱の方を振り返りながら、白い少女は言いかけて、どもる。上下にくり返し眺め回して、「あー」とあからさまに困ったという声で呻きだした。ほどなくして「いいや。わかんない」と何かに対する諦観をあらわにし、柱の中腹で回転する歯車一つを指差して、わたしに振り向いた。
「この子。こいつ」
 強調したのか、わざわざ言い直したのかわからない。
 とりあえず少女が指した《この子》は、この歯車たちの洪水の中で特別異彩を放っているというわけでもなかった。けれど、ひとたび目に留まると気になる見かけではあった。手のひらより小さな径で、軸穴から歯の内側へ平たい腕が十時に伸びている。歯の形も自転車のチェーン受けのような山型でありきたりのもの。ただ、この場所にあるどの歯車とも同じようにその表面を景色が映されるまでなめらかに磨き抜かれているわけではなく、全体的にくすんでいるどころか、外枠などには細かな傷がたくさんついているのが見て取れた。
「こないだ偶然、落ちてはさまってるのを見つけて、ここへ戻したんだ。まあ、見つけたのはあたしじゃないんだけど。そのへんは優秀。あたしの従僕ね」
 甲高い犬の鳴き声がすると、少女の白い頬が少しだけ色づく。
 しゃこしゃこと軽い障子戸を開け閉めするような音を重なり響かせ、わたしの背後から奇特な生きものが歩み出てきた。四肢と尾はあるが、顔の位置はよくわからない。呼吸をする毛皮と肉とではなく、白木の歯車だけで全体ができている。それも四角形や五角形などの奇妙な形の歯車ばかりだ。中にはひょうたんのシルエットのようなのまで組み込まれている。あれでちゃんと回るんだ、と感心する方に大きく気を取られてしまって、まるで本物の犬のように動き回って吠えもすることへもちゃんと驚愕できたはずなのに、機を逃したような変な戸惑いだけが心に残る。
 というか、ここはどこだろう?
 わたしはなぜ、こんなわけのわからない光景を見せられているのか。幻覚か?
 あの白い少女とは初対面のはずだけれど、なんだかずいぶん訳を知ってそうな気配で話しかけてくるではないか。こっちはその訳が何なのか自体わからないのに。
 ていうかそのすごいペット、何?
 犬? 犬なの? どんな犬?
 何と何が交尾したらそうなるの? 屋久杉と犬神みたいな、そういう合体なの?
 産めたの? それとも()ったの? 生えたの?
「ロロは総ヒノキなんだけど?」
 少女がこちらを睨んだ。よくわからないけれど憤慨しているみたいだった。総ヒノキのペットは弾むようにかけていって、少女の前でピタリと止まる。腰を下ろす動作はなるほど、オオカミのように見えなくもなかった。少女は椅子から立ちあがってその頭部(?)に手を乗せる。少女の小さな素足も、ペットの木製の四肢も、ブリキの歯車たちに食われることはなく不可視の薄氷を踏んでいた。
「ロロがどっかから見つけてきたのはいいけど、さて今さらどうしたもんかな、っていうのもあってさ。なくしたのだってあたしじゃないし、先代の話だし。逆にいえば、昨日の今日までこいつ一個欠けてても普通に問題なくみんなぐるぐる回ってたわけじゃん、ずっと。そもそも、勝手にはずれてなくなるなんて話聞いてないし。応急処置とか何かそういう方法、あるのかどうかも知んないし。……まあとりあえず、いっぺん戻す場所に戻してみて戻ったから戻したんだけど」
 少女は難しい顔をして再びあの傷だらけの歯車を振り返る。何かしきりに同意を求められながら愚痴を聞かされていたような気がするけれど、正直こちらとしては要領を得ないというはるか以前の心境だ。はずれた歯車がどうのこうの。あいにくわたしはエンジニアではない。元に戻して戻せたならそれでよしではないのか。
「うーん。あたしの役割的には、戻すのがセオリーだとも思うよ? ただ、さすがに今からだと、アトラクターの誤差が大きいんだよね」
「らくた?」
 ここにきて初めて、わたしはそのうさんくさい横文字のためにまともな声をあげた。今まで口を動かしてすらいなかったようで、かさついた唇の細胞同士の繋ぎ目が慟哭するように引きつれる。そういえばさっきから、こちらが声に出さずに頭の中をよぎっただけの疑問や感想にまで、あの白い少女は応対していなかっただろうか。
「おねえさんさ、『バタフライ・エフェクト』って映像作品観たことある? 波及効果はさすがに字面で意味わかるだろうけど……あー、あんたの場合は、夜に寝つけなくてこう考えたことがあるんだね。運命は機械じかけ。まるでまっすぐな道をひた走るからくりおもちゃみたいだ」
「いや、覚えてないし、あなたが何を言っているのかも全然わからない。なに、これ? ここどこ? 夢なの? あなただれ?」
「さっきからあんたの頭の中そんなのばっかだよね。飽きない?」
「飽きが来ることを切に願ってるよ。あなた、心が読めるの?」
「たぶんね。わりと? まあそれぐらいできててもおかしくないんじゃないかな。カミサマみたいなものだし」
「ここで神様ときちゃうか」
「便利だよね、カミサマ」
「まともに受け答えしないでよ。あなたは何なの?」
「あんたこそ、口を開けばその冷静さと緊張感のなさ。いや正直ここへ来た時点からパニクってなさそうだったから、変なやつだとは思ってたけど」
「パニクってたわよ。一周回りそうだっただけで。今は回り切ってもうどうにでもなれって感じになりつつある」
「なげやりなら帰ったほうがいいよ」
「帰せよ。わたしに何の用なの? その歯車が何だっつうのよ?」
「ホイール・オブ・フォーチュン」
 タロットカードにある《運命の輪》。わたしの問いかけに際して少女はその名前を口にした。つまり、さしずめ彼女の背後にある歯車は《運命の歯車》ということ、らしい。運命をつかさどる歯車なのか。というかここにある全部がそれか。ということは――なんじゃそりゃ?
「なんでもつかさどりたくなる年頃ってあるよね」
「お子様の諧謔(かいぎゃく)趣味に付き合う余裕があるように見えますかね、運命の女神様には」
「こんなちびっこ捕まえて女神はないよ。余裕がないのにそんな受け答えをするおねえさんはやっぱりちょっぴり変わってる。せっかくだから意見を聞くよ。いったんはずすけど、準備はいい?」
「準備って……」
 何のためにこの車いすの上でどう身構えろというのか。心の準備か。だいいちいいかと訊いておきながら少女は返事も待たずにこちらへ背中を向けたではないか。彼女の手があがったかと思えば歯車の柱が静かに沈み始める。何をする気なのか、いやすでに何かしたのか。胸騒ぎに駆られたわたしは思わず一歩前に出て「ちょっと待ってって――」

 ……一歩?

 不意に、自分の足元に気を取られた。顔を下へ向けると、バレエシューズに収まった自分の足が、ふちがギザギザのカップケーキを横倒しにしたような水平軸の歯車に乗っかっている。径自体は小さいせいか、大きさの割に回転は速いようだった。これに足を巻き込まれたらどうなるだろう。靴に心臓があったらわたしのつま先は今とことん熱いに違いない。見えない膜が見えないせいで、二本足で立っている感覚と視覚との不一致にもまた胸が悪くなるようだった。
歯車たち(こいつら)はすべて繋がってる」
 顔をあげると、少女はすでにこちらを向いていた。手に何か持っている。小さな歯車。傷だらけの。はずれた部品よろしく回転を止めたそれを、差し出すように彼女は持っている。
「一つはずれれば、それだけ他のがずれる。全体としては機構を維持するために矯正をはかるし、同一時点への水平波及はそこそこ距離が離れるだけでプラマイゼロに漸近する。問題は、垂直時間軸上の経年と遡及それぞれにおけるストレンジ・アトラクター、その変貌。歯車一つの差で本質とその現在形は変わらなくても、過去も未来も同期させる決定的なバタフライ効果は避けられない。四次元的な森羅万象の流動軌道が、つまりまったく別のものになってしまうということなんだけど……SFは苦手そうだね」
「うさんくさい横文字と三文字以上の熟語は宇宙へ追放されないかなと思ってる」
「後者は昨今繁栄する一方だ。あたしだってこんなふうにマニュアルの切り貼りだけでしゃべられたら要領得ないよ。座ってゆっくり話そうか」
 少女がそう言い終わった途端、わたしと彼女のちょうど中間にこたつが落ちてきた。
こたつ。
 こたつだ。こたつにしか見えない。
 四角い天板の下から四方へ毛布が垂れ下がる背の低いテーブル。高層ビルのスケルトンな高速エレベーターみたいにそれは水平のまま闇の空から垂直に降りてきて、慣性を感じさせない不自然な減速をともない音もなく接地した。
 ちょっと前にわたしは映画を観たのだ。海外の映画だった。目の前で自分の車を爆撃された男が「オー! マイ!」と口走っていた。わたしもあれを真似すれば、いくらか軽妙なリアクション芸で場の演出に貢献できるだろうか。
 山吹色のこたつ布団にはパステルピンクのテディベアが縫い込まれている。オー、マイ。テーブルの真ん中には火のついたカセットコンロが乗っている。オー、マイ。コンロの上には白い土鍋が置いてある。土鍋はすでにぐつぐつと小気味のいい音を立て始めている。オー、マイ、オー、マイ、オー、マイ、マイ。
「座布団、中に入ってるから。そのまま座ると冷たいよ?」
「あ、はい……」
 素直に答えたはいいがどちらかといえば鍋の中身が気になっている。距離があってもいささか生臭い。少女は先んじて布団の下へ手足を滑り込ませていた。いつの間にやらどてらなんかを羽織っている。格子模様の青いどてら。
 唐突で無理やりな庶民臭にくらりとして、こたつの前に膝をついた。言われたとおり向こうずねが冷たい。熱気に誘われるようにして布団をめくり、中からほかほかの座布団を引っ張り出す。縫製の川中島で武田信玄が戦っていた。胸がつまる。
「ぐぶ……っ」
「オー、マイ・ディア?」
「戦国武将に興味持ったことは一度もないわよ。あなた、無意味に笑わせにきてるでしょ?」
「おもてなしだよ。なごむかなーって」
「状況が状況だけに反応に困るっての」
「だってひどいと思わない? 花も恥じらう乙女に身も心も作っておいてこんなところにずっとひとりだよ? 何もないしつまんないし寂しいし。お客なんてあんたが初めてだからね? 慣れないことしてやってんだからちょっとくらい協力してくれてもいいんじゃないの、オー・マイ!?」
「やつあたりすんなよ! わたしだって来たくてこんなとこ来たんじゃないっつの! 何なの、いいかげんにしてよ! あなただれ!? わたしはどこ!?」
「だからそれを今からゆっくり説明しようって言ってんじゃんか、このたわけ! 急かして話させたってわけわかんなくなるくせに! タコでも食べて落ち着け!!」
「タコってッ……」
 土鍋のふたを開けてみた。
 湯気がかたまりになって噴きあげていった後、沸き立つ澄んだ水面が見えてくる。
 湯の中には赤白二色のぼってりとしたものがうずくまっていた。
 視覚的にも表面がぶよぶよしているし、おまけに吸盤がある。ほのかに磯の香りも漂ってくる。
 素手でつかんだ土鍋のふたはとても熱かった。だが慌てる気にはなれなかった。急速に去来する、胸の真ん中にぽっかり穴が開いてしまったような感覚。
 わたしはそっとふたを戻し、浮いていた腰を武田信玄の上におろして、布団を膝にかけた。あたたかい。うれしい。
「……あなたも苦労してるのね」
「持て余してるってぜいたくな悩みだけどね」
「そこは自虐なんだ」
 ふふ、とはにかんだような笑顔が目に映る。そういえば彼女のまともな笑顔を初めて見た。まなじりが溶けるようにさがって、雪色の髪の毛が小気味よさげにふるえる。作りもののようにきれいな少女。
「おねえさんだって大変でしょー、いろいろと」
「うちはママとふたりだけだから、なんとかなってるよ。わたしもバイトしてるし」
「階段とかどうしてるの? 家にエレベーターはついてないよね?」
「いやいやいや、うちのママ全然そんな歳じゃないから。朝から晩までめっちゃタクシー大型乗り回してますから」
「ふぅーん。じゃあ、弟さんは元気?」
「はぁ? いや今言ったでしょうが、ふたり家族だって。……妹ならいたけど」
「そうだね。そっちの場合は《妹》でしかも《死んでる》。享年は十一。でもこっちの場合は《弟》で、しかも《生きてる》。《妹》が生きていれば同じ年齢で」
「……」
 さすがに応答できなかった。
 少女の言ったことが一語一句として理解できなかったのだ。
 いや、ある意味一方で、言葉のニュアンスからそれは理解してはいけないものだとだけ理解していたようにも思う。「こっちの場合」と口にしたときの彼女の目の動きを追いかけて、わたしはこたつの下にある彼女の手に何が握られているのかを思い出そうとしていた。それもなぜかはわからない。ただ無意識に集中していたこと。
「足の調子はどう、おねえさん?」
 彼女がまた問うた。
 それで意識を呼び戻されたわたしは、今度は素直に足のことを考えていた。
 わたしを歩かせる二本の足。調子といえば、すこぶるいい、としか答えようなどあるはずがない。
 だが、なぜか言葉に詰まる。
 足に問題はない。二本でまっすぐ立て、歩けと言われれば歩くことができる。走ることができる。疑いようもないそれらの事実への、かすかな疑念。不可解な懐疑。ヒトがどうやって歩行しているのか、呼吸はいつもどのようにしておこなっているのか、具体的に思い出そうとすると気持ちが悪くなるあの感覚に、少しだけ似ているといえば似ていた。
「あんたのそれは、ずれの反動」
 少女がこたつから手を引き抜く。握っていたものを軽く掲げてみせる。
 傷だらけの歯車。長く失われていたという歯車。
 彼女が見つけて、元に戻して、ついさっきまでこの世界と連動する一個だった。
「今のあんたには、腰から下に感覚のあることがおかしいことのような気がしてる。自分の足が、生まれついての自分のものでないのではないだろうかと、根拠のない疑惑が頭をよぎる。一度元に戻す前の状態ではあり得なかった違和感。集中して意識しなきゃ捉えようのない微妙な感覚だろうから、きっと日常の中であれば、疲労のせいか一時の気の迷いで片づけて、消えてしまうのに時間もかからなかったはずだよ。でも、今のあんたはこんな超常的な場所にいて、目の前であたしがはずした。車いすに座っているあんたの目の前で」
「車いす……? わたしが……?」
「記憶はないよ。この歯車をはずして世界がずれた時点から過去は逆算されて精算されてる。ただ、ずれの瞬間を知覚してしまったがために、今のあんたの中にひび割れのようなものがちょっぴり残っているだけ」
「待って。待って、待って! 逆算とか精算とか、いったい何を言ってるの? 歯車をはずして世界がずれる? そんなちっちゃい歯車一つで、わたしの体や記憶がどうにかなるっていうの?」
「あんただけじゃないよ。あんたの運命が比較的影響の出やすい距離にあっただけ。十二時ぴったりに止めた時計の中から、歯車を一つだけ別のものに交換したとする。ちゃんとかみ合うけれど、たとえば歯数を減らしたやつ。その歯車を指で好きな回数回したとする。それで時計の針が進んだとしても戻ったとしても、以前の歯車で同じ回数回したときとは別の時刻を指すだろう? 回す回数を増やせば増やすほど、指す時間のずれは大きくなっていく。その時計の文字盤が、時刻ではなくヒトの人生を指すものだったらどうなると思う? あるいは世界の出来事だったら? 時計は壊れない。けれど、歴史というものの様相はえげつないほど変わってしまうかもしれない。たかだか人間の暦で十数年さかのぼったところで、タッチの差で卵子に辿り着いた二匹の精子のうちのどちらがカルシウムイオンの波を巻き起こすのかなんて、世界全体の変貌のうちではいかにも頼りないかけ引きだとは思わない?」
「違うっ、そういうことじゃなくって! さっきからあなたはこの世界の話をしているんじゃないの!? わたしの生きている世界とは関係ない話なんでしょう!?」
「それこそ違う。言ったはずだよ、ここにあるのはすべてホイール・オブ・フォーチュン。この場所はその集合体にして、緩慢に蠕動(ぜんどう)し悠久の時の中で変容し続ける総体。あんたの生きている世界全体に対応した運命の出力変換装置だ。本来視覚化されるはずのない機構であるにもかかわらず、こうしてまるで外世界のように即物的に表現されて、あたしみたいな管理者まで設置されてるのは創造主の趣味かな」
 意味不明だ。意味不明でしかない。ただこれがだれかの趣味なのだとしたらとびきり悪趣味であることだけは理解できた。
 どうしようもなくばかでかいだけのブリキのおもちゃ。
 こんなもので人の運命のかたちをどうこうしようだなんて陰気な妄想じみている。妄想でしかない。ものを知らない中高生の鬱屈しすぎたしょっぱい想像力と同レベルだ。どうしてそんなもので納得し、信じることができるだろうか。あまりに人間をばかにしている。ばかにするな。
「信じなくてもいいよ。あたしもあんたに理解されなきゃ困るってわけじゃないし。せっかくだから話して訊いておきたかった。この世界についてのことじゃない。こいつの処遇をどうしたいかだけ」
 少女は指でつまんだそれを、赤銅色のでこぼこした小ぶりな円盤を、手の中から弾き出すようにして空へ放り投げた。ギャンブラーの放ったコインのようにそれはくるくる縦回転しながら高く舞い、こたつを、土鍋を、わたしの頭上を一直線に飛び越えていく。背中をそらしても追い切れなくなったわたしは当たり前のように振り返り、いつの間にかそこへたたずんでいた白木の歯車犬が目に留まる。関節を軋ませながらも彼はしなやかに腰をあげ、落ちてきた歯車の速度を殺すようにして鼻先(?)で上手に受けとめた。
「あたしは、あたしのものさしと天秤でしか物事を量れない。けれど、そう作られて、そうしてきた。それはそれでいいということ。なら、あたしの好奇心までも肯定されないいわれはない」
 暗闇と共にありながらも真鍮色に輝く絢爛世界。無数の歯車たちはせわしなく回り続けているというのに、目に見えるその様相は無音の静寂に拍車をかけていく。土鍋のふたをはずす音が不似合いに響き渡るのもそのせい。
 荒涼たる空間に広がる磯の香り。そこへ混じって別のにおいも漂ってくる。ほのかな酸味と絡み合う、独特だがくせのないはっきりとした風味。したたかに主張し食欲を誘う。
 これはポン酢。まちがいなく、ポン酢。
 この期に及んで、彼女はポン酢派。
 これは夢だと思う。荒唐無稽で理不尽な夢の中。しかしそれを打ち消すような空腹感。こんな環境ですら逼迫してしまう生物の飢餓。胃腸の訴えから来る憂鬱は、リアリズムに富んでいてユーモアのかけらもない。それともこんなふうにのん気になれるのはわたしぐらいだとでもいうのだろうか。
「最後はあたしが自分で決める。けれど、似姿の裁量にも興味がある。ロロの連れてきたあんたが何か。それが格別のえにしだとしたのなら、まやかしの同情くらい手渡せるかもしれない」
 箸を二つに割る音が聞こえれば、なぜ割り箸なのかと問いただしたくなる。
 しかしわたしはもう動けなかった。
 どちらか選べ。最初から少女はわたしにそう問うていたのだ。彼女はわたしの話を聞きたがっていた。
 あの歯車を――一度世界から抜け落ちて、長く孤立し揺蕩(たゆた)っていた歯車を、元に戻そうと考えるか、戻さざるべきか。
 戻さなければ、今のこのままなのだろう。
 わたしには立って歩ける足があり、母とふたり、海辺の町でつましく暮らしている。過去には妹がいて、五年も前にこの世を去った。当時は悲しみにくれ、後悔にふさぎ、けれどあの子との陽だまりのような思い出があると気づいた。当の昔にそうやって折り合いをつけていた。
 けれど、歯車を戻せば、あの子は生きているという。弟として。
 それは、しかしあの子でいいのだろうか。それに、わたしの足は? 母との関係は、どうなっているのだろう。生き別れた父は? わたしのかかわったすべての人々が、物事が、どう変わってしまうのか。
 そして、歯車は一度戻された。
 ならば、再びはずされた後のこの記憶もまた、逆算された末に出来あがった過去でしかないというのか。ほんの少し前まで、わたしに妹などいなかったというのか。わたしには歩ける足のない方が当たり前だったというのか。
 それすらも逆算された過去と、精算された現在でしかなかったというのなら、どちらが本物であるべきかなんて、わかりようがないではないか……。



 歯車犬のロロがひと声吠える。
 思い出した。この声を聞いたのだ。
 わたしは彼に呼ばれ、ここへ連れてこられただけ。
 だから何もわからない。決めようがない。
 吠えたロロの体が跳ねて、白木の彼の頭から赤銅色の歯車が浮いた。何の障壁もなく、ためらいがあるはずもなく、歯車はわたしの胸に滑り込んでくる。
 手に取ると、見た目よりも驚くほど小さな歯車。
 真鍮やアルミどころではない。紙粘土をメッキ加工したのではないかと思うくらいに重さを感じない。
 小さな傷がたくさんあるわりに、表面はつるつるとして、しかし曇っている。三年着古した制服のテカリのよう。この子はいったいいつからひとりだったのだろう。
 胸に押し当てる。大切なもののように。せめて声が聞ければいいのにと願うように。
 鼓動の音を聞かせる。反響を待つ。










     “They say it’s the last song(これは最後の歌じゃない)
      They don’t know us, you see(わかるでしょう?)
      It’s only the last song(わたしたちがそうさせない限り―)
      If we let it be”(最後の歌にはならないの)
                  ――映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』







       

 母の肉親の結婚式だから、どうしても見ておきたいと思った。だれも強く止めようとはしなかった。
 叔父は、さすがにわたしの頭の包帯を目にして仰天していた。せっかく手配してもらったドレスを着られなくて申し訳ないと謝ると、彼はしどろもどろになって変な敬語をしゃべり始めてしまった。一番初めにそれを見かねたのは彼の新婦で、ええい落ち着け大黒柱っ、と妙に威勢のいい叱責を飛ばしたかと思えば、車いすのわたしをぐいぐい引っ張って会場の中まで入ってしまった。わたしはウェディングドレス姿の彼女とふたりでヴァージンロードを疾走し、花嫁に一番前の席までエスコートしてもらうという非常に奇妙な体験をした。どうしてそういうことになったのか、正直思い返してみてもよくわからなかったが、とりあえず叔父の結婚相手は変わり者らしい。とはいえ美人だ。眉を寄せればきりり、笑えばはんなりとした美人。どことなく母にも似ていた。仲良くなれそうに思えた。
 そんな小事件があって、立て続けの披露宴だったからだろう。会食は立食形式で、わたしは新婚夫婦とふたことみこと会話しただけで疲れてしまい、会場の外のエレベーターホール近くにまで出てひとりで休んでいた。本当は一階のロビーまで行きたかったけれど、やはりサイズの合わない車いすは動かしづらい。三年でわたしの背もずいぶん伸びた。横幅はあまり変わってないことを祈る。
 まどろみの中で犬の鳴き声を聞いた。いや、犬だったのだろうか。短く甲高い鳴き声がずっとハウリングしていた。どこか懐かしい響きに追いすがる、夢とも言えないような夢を見ていたように思う。ハウリングの向こうで突然はっきりとした声を聞いた。わたしを呼ぶ声はすぐそばまで近寄ってきて、漕いでいた舟からわたしを引っこ抜いた。
「――ぇさん、ねえさん? 大丈夫?」
「ん? んー……」
 思った以上にまぶたが重い。薄目のまま真横を振り仰ぐと、黒い服を着た人間がわたしを見おろしていた。かすんだ目でもかろうじてそれが弟だと判別できたのは、彼が平常通りの声で「大丈夫?」とくり返したからに過ぎない。
「んー、ちょと疲れただけよ。これやっぱ動き悪いし」
 あくびを噛み殺して答えながら、アームレストの角をぽんぽんと叩いてみせる。結局最後の方はこらえ切れなくなって、盛大にあごを落とした。冠婚葬祭の折で場所もホテルという手前、さすがのわたしにもマナーなんていう殊勝な意識が生まれていたみたいだが、駄目なものは駄目だった。マナーにも体力を使う。
「やっぱり家で静かにしてた方がよかったんじゃないかな」
「かもね。こう立派だと気おくれもしちゃいますわ。夢見も悪かったし」
「夢見?」
「あー! コンディションばっちりなら、瑞穂ちゃんのっけてハイキングコースで爆走してやろうとか思ってたのになぁー!」
「そんなことばっかりしてると急に壊れたりするらしいよ? こないだぼくの知り合いは予期せぬフレームの破断が原因で土手の階段を転げ落ちた。逢魔が時に気をうしなって五時間も音信不通で、高校生の弟さんを死ぬほど心配させて、捜索願が出される寸前までいったそうだ」
「その節にたいへんご迷惑をおかけ致しましたることはまことにもうしわけなく思わざることいかにもなきにて切々と……」
「それに瑞穂ちゃんだけど、今年で五年生だってさ。さすがに膝に乗せたらもうねえさんが動けないよ」
「そしてわたしは知っている。彼女が本当に乗りたがっているのはわたしの膝ではないことを! でもそんなこと恥ずかしくってあの人に直接言えない! そのうちわたしったらどんどん大きくなっちゃう! 大きくなっても乗せてあげるよ、未来の花嫁さん。もうねえさんとジェットコースターには乗らなくていいのかい? ぐわー、このたらしコンブめっ。姉を当て馬にするとはいい度胸してるじゃないの。そりゃ、いったい何飲んでんのさ?」
 わたしのひとり芝居を静観する弟の手に持っていたものを指して糾弾してやる。口の狭いカクテルグラス。底に青が溜まっているのに、中はバナナイエローで上澄みはピンクときれいにグラデーションしていた。「サンタン・タミー、だったかな」弟がその名前らしきものを口にする。「当ホテルのオリジナルカクテルだってさ」
「不良めー。未成年のくせに」
「ノンアルコール。さっぱりしてておいしいよ」
 こともなげにそのカラフルな飲み物を手渡される。水面には小さい氷の粒が浮いていてきれいだった。思わず見惚れてくるくる回してしまう。
「おーし、ブラコンの鑑と謳われたおねえちゃんが間接キッス狙っちゃうぞーぅ。すすった跡はどこかにゃぁー?」
「自分の飲んでた分は置いてきたよ。それはねえさんの分」
「ボケ殺しぃ! 遠慮のない身内にも慈悲のあるところ見せてみなさいってのぅっ。あんたは瑞穂ちゃんを膝に乗せられればそれで満足かもしれないけど、あたしはだれかに乗ってもらわないと走れないんだからね? もう、これちょっとどうやって飲むわけ? 混ぜるの?」
「混ぜないで普通に飲めばいいんだって。飲んでるうちに味が変わるんだよ」
「まああ、辛気臭いっ。上流志向ってやつはこれだから」
「夢見が悪かったって?」
 口当たりの軽い甘酸っぱさが舌へ沁みるように広がって、そこへトロリとした甘みが割り入ってきたことにはっとさせられた。湧き立つ味蕾を一粒一粒なだめすかされていくような心地よさに、思わず目を閉じて溺れてしまいそうになる。これはあなどりがたい。おそるべし、上流志向。
「うむ。それがホントにひどい夢でさ。わたしにお気に入りの喫茶店があるの知ってるでしょ?」
「プロミネンス?」
「そう。気まぐれにあそこへ立ち寄るんだけど、めずらしくどこかの女子高がクラス会みたいなことをやってたの。テストの打ちあげか何かで。それでもひと席だけ空いてたからいつものように座って、オーダーも普通に聞きに来たからサイフォンを頼んだの。ただ、クラス会の方はケーキバイキングみたいになってたし、ちょっと貸し切りじみてる気もしてきたから、コーヒーを持ってきてくれた店員さんに、今日は普通にブランチセットとかの注文もできますか、って訊いたのよ。それでどうなったと思う?」
「顔見知りの店員さんじゃなかったの?」
「知らない男のひとだった。ウェイターさん。注文はできるけど別会計になるのはいいですかって言うから、自分はそこの団体とは関係ないって説明するじゃない。そしたらその店員さん、血相変えて――今日はシャニクサイだから、あの女子高生たちの中に友達がいればあちらへ参加していいことになっている。あなた、友達はいますか?――って訊かれて、わたしも率直に、友達はいません、って答えて。さすがに追い出されるだろうなってその時点ではもう覚悟してたんだけどね。けどそこからよ。店員さんが立ちあがって、みなさーん、たいへんなことになりましたー、って叫んだの。すべてを最初からやり直さなくてはいけません。ここにいるおねえさんは、みなさんのお仲間ではありませーん、って。しかも夢の理不尽なところよ。いつの間にかあのシックでモダァンな雰囲気もりもりの《喫茶プロミネンス》が、開放感あふれるオープンテラス付きのレストランホールみたいなところに変わってるの。お客さんの数もウン倍の倍。みんなの目が一斉にわたしを見る。みんなおんなじ、鳥類みたいなあのわかり合えそうにない目で。こっちはもうかぁーッてなっちゃって、涙うるうるよ」
「そこは恥ずかしいって反応でいいんだね……」
 夢の中だと自分自身も理不尽というか、どこかしらが大げさなのだ。改めて思い返せば最後の光景に至って寒気しかしない。きっと自分が甚大な羞恥を予期したせいで、夢の側が田舎の喫茶店をリゾートホテルにすり替えて過剰な演出をした。ケーキバイキングは高級スイーツだらけの社交パーティに。クラス会をしていた高校生たちには役得だ。
「せめて弟くんがあの中にいてくれたらよかったのにな」
「女子高のクラス会だって言ってなかった?」
「そういえばそうだった。いやお化粧すれば案外いけそうな顔をしてらっしゃる。よぅし、一度きみを女の子にしてしんぜ――」
 よう、と言いかけて、言えなかった。
 肩から不自然に力が抜けて、なんとなく視線が落ちる。
 一度傾けたサンタン・タミーは、層が崩れて溶け交じりだしていた。黄色の中に吹きあげるブルーのシロップと、すれ違うように降り注ぐピンク。カラフルに色づけされた陰と陽の太極図みたいな思わせぶり。氷粒の乱反射に目がうろうろさせられる。
 頭の中は真っ白だった。もとい、抜け落ちたような空白を見つめていた。あるはずのない空白。しかしわたしは、そこにはまるはずのものが何かを知っている。
「ねえさん?」
「あ――」
 呼ばれたから我に返って、咄嗟に考えたのは黙り込んだことをどう取り繕えばいいか。けれど顔をあげて、彼の怪訝な眼差しを目に入れると、再び思い出さずにはいられなかった。思うことを口走らずにも。
「同い年……」
「……だれのこと?」
「ううん。違うの……なんでもない」
 ごまかさずにも。
 余計な間が空く。自分でもどうしたかったのかわからない。冗談めかす余裕すらなかった――いや、冗談にしたくなかったのかもしれない。この感傷、この空虚感だけは。けれど、ならば他にどうすればよかったのか。
 披露宴の会場からマイクの音が届く。ざわめきはいったん収まり、拡張された司会者の声だけがフロアを伸びていった。おそらくお色直しが終わって、キャンドルサービスか何かの余興が始まっているのだろう。戻らなくてもいいか、と彼は訊かなかった。わたしの隣に立って、静かにホールの入り口を眺めただけだった。
「美鶴さん、だっけ。叔父さんのお相手」
「うん、そう」
「母さんに少し似てた」
「あんたも、そう思った?」
「先にねえさんの顔に書いてあった。でも、ぼくもそう思う」
 遠くで一斉にあがる拍手。わたしは弟の横顔を眺めた。地の黒い頬。裾あがりに結ばれる唇。薄い眉。長い睫毛。わりかしくっきりとした涙袋。あとほんの少し目の位置が低ければ、精悍そうでも愛嬌のあるタイプの女の子顔をしていたのではないかと思う。髪はショートでも似合うだろうし、伸ばしてポニーやサイドテールなんかにさせても、きっとかっこいい。
「一度も反対しなかったね、あんた」
 だしぬけに思って、それをそのまま言ってやると、弟はきょとんとした顔でこちらを向いた。「叔父さんの再婚?」なんて訊いてきたので、それもだけど、と答えつつも、少し吹き出す。
「わたしがここへ来ること。この代わりの車いすも、言う前に用意してくれてたし」
「ずいぶん前から、どうしても出たいって言ってたからね。その車いすだって、こういうときのために取っておいたわけだし」
「でもわたし忘れてたんだよ? 今日が叔父さんの結婚式だってこと」
「それはねえさんがとろいだけです」
「ぬうう。でも、ちゃんと教えてくれたでしょ?」
「教えなかったらねえさん、そのうち本気で瑞穂ちゃんをけしかけてきて、結納の段取りとかし始めそうだ」
「わたしゃ遣り手ばあさんか。いや、いいじゃん。もらっちゃえよ、お嫁さんに。瑞穂ちゃんはいい子だよ?」
「ねえさんが結婚できたらね」
「くっ、くらぁー。結婚したらねならまだしもできたらって、できたらってこらーっ。あんたにゃ黙ってたけど小一と小二の頃別々の男の子から一回ずつ通学路で結婚の誓い立てられて、あんたの姉は実質バツ二よバツ二? ってだれがバツ二の処女だ!」
「ねえさん、こぼれるよ」
 怒ったネコの尻尾みたいに振りあげた手を弟につかまれる。固い指の感触に驚いて手を引っ込めた。グラスの中身はまだ半分以上残っていたが、かろうじてこぼさずに済む。「おー、あっぶね」と妙に粗野な感嘆が口から漏れる。
「大丈夫?」
「このタイミングでその質問は攻撃と見なすぞ、上等兵」
「そうじゃないよ。今日のねえさんはいつもより変だから」
 言われてぎくりとする自分がおかしかった。なんのかんのと意匠をこらしても、核心をつかれた人の心の動きは結局わかりやすくて一辺倒なのだ。「それは言外にいつもも変だとおっしゃってはいませんか?」とはぐらかすけれど、歯切れはあまりよろしくならない。
「確かにねえさんは常に変でもある」
「おい」
「でもぼくはねえさんのとち狂った言動には慣れ切ってる。先読みができないのはあいかわらずだけど、アドリブでも八割方無視すればいいっていうのを知ってる。けど、ねえさんはさっきからどんどん、ぼくの先読みできる範囲から出なくなっていってるよ。要するに、キレがない」
「つ、疲れてるからかな?」
 この当惑は素直な気持ち。自分でも心当たりが他になかった。しかし弟は表情をますます神妙にする。
「踏みとどまってる感じがするんだ。今だって、瑞穂ちゃんをお嫁さんにすればいいって言って、いつものねえさんなら、妹が欲しいとか、ついでに姪も早く欲しいとかって、その他にも続けてだらだらと好き勝手に言い募っていったはずだ。簡単に引き下がるのはぼくのねえさんじゃない」
「おまえ気持ち悪いな」
「いつもはそういう感じなんだ。率直で自由奔放。でも今のも、すごく無理をしているような感じがした。ねえさん、何かあった? 本当は何か思うところがあったんじゃないの? 今日のことでも」
「思うところって、何がそんな……」
「ねえさんが、叔父さんの結婚式にどうしても出たいって言った理由、あえて訊かずにおいたけど、訊いてもいい?」
 カクテルグラスの細い足をおへその前できゅっと握る。気づかないうちにわたしはひどい猫背になっていた。うつむくとグラスと顔がとても近くなる。ふちに鼻が当たってしまいそうだった。乱れたグラデーションは溶けかけの状態で静止している。互いが濃すぎるあまり、進退窮まっているかのよう。
 かなわないのは、ずっと前から知っていた。気がついたのは今ではない。
 それでも、今さら気がついたようなふりをする。いつでも初めて気づいたようなふりをするのだ。
 かなわない。わたしは弟にはかなわない。
「ねえさん」
「……美鶴さん」
 促されて、急に重くなった口をこじ開けた。弟がそばで頷く。
「うん」
「いい人だった」
「そうだね」
「美鶴さん、きれいだった」
「……」
「幸せそうだった。叔父さんも、瑞穂ちゃんも。……わたしもうれしかった。美鶴さんとも、友達になれそうだと思えたから。美鶴さん、わたしの手を引っ張ってくれた」
「後ろを押されてはなかったね」
「どんどん歩くから、リムを送るのが大変だった。それが気持ちよかったの。結婚式の間もずっと手に痺れが残ってた。手があたたかかったよ。それってすごく幸せなことなの。幸せなんだって思った。彼女もわたしも、だれもかれも――そっか、みんな、幸せなんだ、って思ったから、わたし、わたしね……?」
 母に弟がひとりいた。母とは歳の離れた人で、大学を卒業した折に、急ぐように当時の恋人と結婚して、すぐに娘が生まれた。瑞穂。当時ちょっと色ぼけ気味の小学生だったわたしにとって、身近でおにいさんと親しみを込めて呼べる男の人の結婚は、憧れの人が遠くに行ってしまうみたいでわりかしショッキングで、けれどすぐにぬいぐるみみたいな従妹が手に入ると、叔父をくれてやったんだからこっちを寄越せとばかりに、猛烈に熱心にかわいがろうとしたものだ。
 その矢先に母が他界し、続けざまに叔父夫婦が離婚した。
 後者の理由はいまだによくわかっていないけれど、人間同士がうまくいかなければ別れもするのだろう。ただ、叔父はそれを機にひとり娘を連れて家を出た。母の家に、父とわたしと幼い弟が取り残された。
 だから――それが何だったのだろうか。わたしの中にどんなしこりが残ったというのか。
 見捨てられたような気がして叔父を恨んだこともあったし、弟を無理やりしょっ引いて瑞穂をさらいに行こうとしたこともあった。でもそんなのは幼い思い出でしかない。ただ、幼い思い出しかわたしにはなかったのだ。何も知らなかった。知らずにいるうちに、招待状がやってきた。
 息を吸って、飲み込んで――父や弟にそれを見せるより先に、はがき裏の《出席》と印字された上に重ねて、黒いペンで丸を書いた。
「……妹がね、いたんだってさ」
 肩で震える感触。当たり前のようにそこには弟の手のひらが乗っていた。彼の体温はあまりによく馴染みすぎて、想像もつかないくらいいつもすぐそばにある。今のは彼の手がこわばって、一瞬わたしから乖離(かいり)したのだ。
 さすがの弟も息を呑んだようだ。けれど、問いかける声は震えなかった。
「……だれかから聞いたの? 叔父さん?」
「ううん。夢の話」
「夢?」
「そう。いつか見た夢の話。いつ見たのかも思い出せないけど、その夢の中で、わたしには妹がいるはずだった。そう教えてくれる人がいた。生きていれば、あなたと同じ歳」
 それは、ただ話を聞くだけの夢。実感もないまま言葉を交わし、語らっただけの。
 ただ、そのときのわたしには妹がいた。わたしは今のわたしではなくて、わたしの世界も、今のわたしの現実とはまるで違っていた。
「その記憶は、わたしにはないの。わたしにはあるはずがない。わたしに妹がいる世界で、あなたは最初から生まれてこなかった。あなたが生まれてくることになった時点で、あの子のお墓も、あの子との思い出も、あの子がこの世に生まれてきたという事実さえも、みんなみんな消えてなくなってしまった……」
「ぼくが、生まれてきたから……?」
「違う……違う、そうじゃないの」
 違う。そうは言いたくない。考えたくはない。だれのせいだとか、何がありさえすればよかったとか、そんなふうに思いめぐらすことはもうたくさんだった。だというのに、言葉はうまく紡げない。
 空回る。取りすがる。
「わたしは選ばなかった。選べなかった。訊かれたのに、何もできなかった。目を覚ましたときには、あなたがいた。妹の記憶なんてなかった。わたしはわたしの他の何かじゃなかった。……わたしはいやな人間だよ。もうひとりのわたしには、思いどおりに動く足もあったの。車いすとは無縁の。でもそんなもの、なくてもよかった。こんなに素敵で頼りがいのある弟がいて、元気なパパもいて、友達もいて、可愛い従妹もやさしい叔父さんも、わたしのまわりには大好きな人ばかりで……わたしって自分でびっくりするぐらい幸せ者なんだよ? 幸せでないはずなんてどこにもない。今が満足でないはずがない。ちょっと嘘なんじゃないかってくらい、不自由なんて本気で感じたことなんか一度もないの。わたしのこの今を否定したくなるようなものなんてどこにもなかった。どんなに探しても見つからなかった。今日初めて会った美鶴さんまできれいな女性で、わたし……わたしね? 叔父さんの相手が、瑞穂ちゃんの新しいお母さんがどうしようもなく最低な人間ならいいのにって心の底ではずっとずっと――」
「もういいよ、ねえさん。もういいから」
 弟はわたしの瞳を、最初から延々、いつまでもそらさずに見ていた。わたしもいつの間にか、隣にかがみ込んで見あげてくれる彼の目を、訴えるように見つめ返していた。
 きっと、わたしからそんなことはしなくてもよかったんだと思う。
 彼は、真っ白になるまで固くなったわたしの指をそっと開くと、今にも砕けそうに震えていたグラスを引き抜いて床の上に置いてくれた。それから、ほころんだまま冷えていくわたしの両手を握り込んで、とても静かな目でもう一度わたしを見返した。わたしは、まるでいたずらをしかけた帰り道に声をかけられた子どもみたいにきまりが悪くなって、真っ先に笑い飛ばさずにいられなかったのは、そんな薄弱な自分自身のこと。
「ばかだよね、わたしって。いないはずの人のことばかり考えて、あるはずのない記憶がないのがうしろめたいだなんて……全部夢の話なのに」
「ぼくがこわい?」
 鼻をすする。下顎が凍ったように震えて、うまく声が出ていなかった。今にも嗚咽に飲まれそうな自分に気がついた。逃げ出したい。けれども弟はわたしを見据えながら手をしっかりと握り直し、「答えて」とかたくなに促すのだ。そしてくり返す。「ねえさん。ぼくがこわい?」
「ううん、こわくない。こわくは、ないの……あなたはこわくない。ただ、時々どう接していいのかわからなくなるだけ……」
 横合いから伸びていた手がわたしの手を膝に置く。離れた彼の手が肩と頭をそっと包んで、わたしを体ごと傾けた。
 弟の胸に額をぶつける。頭をすっぽりと覆われる。
 陽だまりのにおい。静かな鼓動。
 わたしが急速に小さくなって、彼に吸い込まれていくような心地がした。冷たいものが吸い出されて、あたたかいものが流れ込んでくるような感じ。
「本当は、この場所にいるのがこわかった。夢の話なんて、いつかきっと忘れてしまう。忘れられないのもこわかった。いつかまた唐突に夢とうつつが入れ替わって、この場所がなかったことになってしまうのもこわかった。消されたものが取り返しに来るの。こわかった。こわかったよ……」
「ぼくはここにいる。ずっといるから。大丈夫。ぼくが覚えるよ。だから、ねえさんの話をして。もうひとりのねえさんの話」
「……海辺の町に住んでるの。ママとふたりきり。わたしには自由に歩ける足があって、本屋でバイトもして、妹のお墓参りが日課なの。ママは今でもタクシーに乗ってる。パパはママと別れていなかったけど。けど、ママは生きてた。わたしといっしょに、ママは生きてた。ママは生きてたのに……!」
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 いつしか嗚咽は熱を帯びて、眉間を擦りつけた彼の袖は湿っていた。寄り添う体も、握りこぶしも熱いのに、胸の奥の氷は解けぬまま。
 実のところは忘れられるはずなどなくて、この罪の意識もいつか褪せるのか、未来の演算などわたしには到底及びがたく、何より望む未来を定めることすらおぼつかない。
 けれども夢の話を語るたび、現世(うつしよ)がここにあることを悟ってゆく。この実感と、えぐり返す痛みとが、わたしの蒙昧な魂の(くさび)となりますように、したたかな祈りへ代えられるというのなら、それを幸福に思いこそすれ、悲しむいわれがあるのでしょうか。
 この日、わたしは途方もないつくりばなしを弟に聞いてもらった。



 仕事の都合で遅れてきた父の第一声は娘であるわたしへの非難だった。
 なぜ、おまえは神妙に学校の制服など着ているのか。脱げ。十代女子には十代女子のうちにしか着られない衣装があるのだ。おまえはちゃんと理解しているのか。瑞穂ちゃんは十一だから、弟の結婚式まで最低五年は待たなくてはいけないんだぞ。さあ早く着替えを頼め。総出で着替えさせろと無茶を言え。
 たいへん気持ち悪いオッサンだとわたしは考えた。しかしここでなぜか感銘を受けた様子の美鶴さんが父の側へ加勢してしまい、さらに美鶴さんのお友達軍団――これまた女傑揃い。何の集いだ――までそちらに加わって、あれよあれよという間に新婦控え室にまで担ぎ込まれてもみくちゃにされた。いやさ、いたずらに破廉恥極まる変遷を経させられようものなら両手の爪の剥げるまで這ってでも逃げ出そうと心に決めもしたのだけれど、女傑の方々の銘々実直かつ的確に働きたる様はオリンピックのバレーボール強豪国も真っ青のチームプレイ。衣装選びどころか化粧から果てはどうしてエステまで、しかし魔法のような速度でわたしは完成されてしまったのである。やっぱり素材がいいとはかどるわねー、と言って頷き合うヴィーナスたちに囲まれながら鏡に向かっておまえはだれだと問いかけたものだ。股下絶景のミニスカートも十代の特権だぜと妙に男勝りな理屈以外は隠すものも恵んでもらえないまま会場に戻されたときには目が回るかと思ったし、衆目と唸り声の四方固めをくらって胸元から上に貴金属しかつけていないことがいかに心細いかを思い知った。愚物もとい父が感無量とばかりに頷いているのを見たときはどうしてくれようかと考えたが、さすがに従妹(みずほ)や叔父さんにまで並んでほめそやされてしまうと悪い気がしなくなってくる。おまけにヴィーナス軍団が臨時警戒網を敷いて撮影権は父が独占することとなったので、下手な撮り方をしないことを条件に和解した。弟とは似合うよと向こうから言ってもらった後はあまり口をきかなかった。
 帰りは父の車に乗った。二次会は最初から断って、ついでにお疲れの従妹をこちらの家へ連れて帰る予定だった。しばらくは今日の宿泊を話のタネにして、弟をからかったり従妹を赤くしたり青くしたりと、車内は披露宴の余韻もこれほどではないというほどにかまびすしく盛りあがったものである。
 やがて瑞穂がわたしと弟の間で眠りにつくと、話題が途切れた。わたしは瑞穂のまぶたの上で前髪をより分けながら、この子が妹ならよかったのに、と胸の内でぼやいていた。わたしの顔はちゃんとほころんでいたように思う。けれど心の声を聞き取ったとでもいうのか、わたしを見ていた弟が、「どんな子だったの?」と問うた。
「え?」
「ねえさんの妹、どんな子だったの?」
「は、はい?」
「お? 何だ何だ、初耳だぞ。おねえちゃん、隠し子いたのか?」
「いやいやいるわけないでしょ!」面食らったわたしは思わず父の方に言い返していた。弟はこともなげに口を開いたが、わたしはその一瞬、わたしと彼以外ここにはいないような感覚にとらわれていたのだ。飛び入り参加の父は、なんというか、想定外の存在だった。
「ていうかっ、隠し子が妹なわけあるかっ!」
「夢の話だよ。ねえさんは妹がいる夢を見たんだ」
 またぎょっとさせられて弟を見た。彼はわたしに同意を求めるように笑いかけていた。当惑するわたしの様子を見ても眉の向きを変えず、「親に黙ってるのは感心しないなあ」などととぼけたことを抜かす父の横槍を聞き流す。
「言ったでしょ。ぼくが覚えるって」
「でも……ほんとに、夢の話で……」
「だけどねえさんはそうは思っていない。なら、ぼくもそうする。教えて。妹はどんな子だった?」
 違う。わたしはいつも、あの夢が本当に夢に過ぎない可能性の方にすがっていた。虚構と決めつけられない自分自身の直感に対して、疑念を抱いてすらいたのだ。弟に話したことはある種の実験でもあった。相容れないはずのあちら側の世界の情報をこちら側で拡散することは、あの歯車の世界で表現されるような精密な運命の流れに支障を生む可能性がある。そうならないのであれば、あちら側の世界など初めから存在せず、わたしの迷夢でしかなかったと言えるのではないだろうかと。たとえそんな検証しようのなさそうな机上の説を大儀に掲げなくても、弟なら心の中でただの夢として片づけてくれるだろうとも踏んでいた。
 にもかかわらず、弟はわたしの話を疑わないと言ったのだ。ここでそう口にするということは、つまりそのままの意味になる。《弟のいる世界》と、まるで規定を一任するかのような話し方をされたというのに。
 わからない。理解できない。けれど、いつだってそれが彼という存在だったのを思い出す。またわたしは気がつくのだ。かなわない、彼にはかなわないと。
「……覚えてないのよ。記憶も消えてしまったんだって。いたことを知っているというだけで、あの子がどんな子だったかなんて一つも」
「じゃあ、考えてみよう。一から想像してみるんだ。ねえさんに妹がいたとしたら、どんな子がそうか」
「それって……!」
「わかるよ、ねえさんの言いたいこと。そんな方法で満足してしまうのは、きっとこの世で考えつく限り一番身勝手で最低なことだ。だけど、手も足も出ないうちに忘れてしまうよりは、ずっといいんじゃないかな。わからないからってふさぎ込むよりも、少しでも近づこうとしてがむしゃらに心を砕く方が、それでいいって、彼女(いもうと)(ゆる)してくれるかもしれない。それで満足しないで、ずっと思い続けるなら、それでその子との繋がりも保っていられる。可能性だけを想像し続けるんだ。たとえ赦されないことだとしても、これ以上にできることなんか思いつかないよ。それにさ……」
「……それに?」
「この罪なら、ふたりで背負える」
「あ……」
 愕然とした。ますます目を細めて微笑んだ彼を見て、戦慄さえ覚えたような気がする。
 かなわない、どころではなかった。到底及びもつかないところを弟は歩いていた。
 そうだ。わたしは選ばなかった。今なお選んでいなかった。選ぶことが、選ばなかったものに背を向けることだと思っていた。
 だが違った。違ったのだ。
 選んで、対極を見るのだ。選べばできる。選ばなくてはできなかった。できるはずがなかったのだ。選び、腰を据えて対極を見つめさえすれば、どんなに苦しくとも痛くとも、立場を踏みしめてもがくことも、のたうち回ることもできたというのに。
 踏みしめる。そうか、そうだったのか。
 それが歩くということだったのだ。
 動く足があろうとなかろうと、ここをわたしの世界と決めさえすれば、立ち向かう先を見据える用意さえしてしまえれば、歩くことはできた。ふんばることができたのだ。たたかうこともできたのだ。
そして同じ場所に立つ存在同士、互いを確認し合い、同じ言葉を交わし、共に踏みしめることも。
 かなわない、ではなかったんだ。まだ何もし始めていなかったんじゃないか、わたしは。
「おーい、パパは仲間に入れないのかー?」
「入れるよ。ねえさんの妹ってことは、かあさんの娘だよ。かあさんの若い頃によく似てたかもしれない」
「そいつは朗報だ。おねえちゃん中身はパパに似ちゃったからなあ」
「なっ!? 自分で言うかばかおやじ! 似ちゃったって何よ似ちゃったって。どうせなら残念そうにしないでよ」
 自棄気味に騒ぐと瑞穂が起きてしまった。彼女もどちらかといえば物腰が叔父似で、彼女にとっては伯母に当たる母の面影は容姿にも少ない。けれど弟が美鶴さんと母が似ていたことを話題に差し挟むと、俄然興味が湧いたらしく瑞穂もわたしの妹を想像する輪に加わった。
 おそらく彼女は明日、自分の家へ戻った折には叔父や美鶴さんにこの話をするのだろう。特に美鶴さんはこの手の話に進んで乗ってきそうな人柄だ。叔父は背中を突っつかれて母の級友らを当たらせられる。いや、叔父に母の子どもの頃の話を聞くだけでも充分ではなかろうか。なんだか母の人物像を訪ねていく運びになっている気もするけれど、それでもいい。それも悪くない。
 やがて、母とわたしと美鶴さんの三人にゆかりのある人々が集まって、わたしの妹について思う限りの想像を挙げ連ねるのだ。あたかも祭りの趣きで。
 それは誰も幸せにならない祭りなのかもしれない。だがそうではない。
 その喧々諤々が放つ神秘的な熱の一片くらいなら、ありもしないあちら側の世界とわたしたちを繋いでくれて、溶け混じる糸口を示してくれるやもしれないのだから。
 そうできたら、その糸を伝って妹の墓参りに行こう。一度きりでもいい。現役タクシードライバーの母とも挨拶を交わそう。海辺の町を廻ってもらい、景色を目に焼きつけて帰るのだ。きっとこの山裾の町とは空の色も違っている。
 冬の冷たい空気に透き通るような青。この町の空の色。少し窓を開けると、丘にしげる松のにおいが車内を満たす。
その合間を縫うようにして、かすかな磯の香りを嗅いだ気がした。


   nymph of White Lantern with ‘repentantica’
          ‐This is the next to last song
           And that’s all...

真白きホオヅキ

学生時代にサークルに投稿させてもらった最後の作品です。やさしいとはどういうことか考えながら書きました。まだ答えは出ていませんが、やれることは精いっぱいやっていこうと思います。
作中に記述がありますが、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から字幕の一節をお借りしました。本作の側面を象徴できていればいいなと思います。
誰かのお口に合えば幸いです。

真白きホオヅキ

どちらか選ぶ機会を与えてもいいと、その白い少女は言った――。 この世界は無数の歯車の集合体である。歯車一つのあるなしで、その“ずれ”は過去と未来へ向かって波及する――気がつくと“わたし”は一面を歯車で埋め尽くす場所にいて、その場所の管理者を名乗る少女にそう聞かされた。外れた歯車を拾った彼女は、それを元の場所に戻すかどうかについて、“わたし”の意見を聞きたがっているようだった。 歯車を戻せば、“わたし”には歩ける足があって、死別した妹のいる過去がある。歯車をはずせば妹は生まれてすらこない。代わりにいるのはやさしい弟とかわいい姪――わたしはどちらを選ぶべきだったのだろう。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-04

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著作権法内での利用のみを許可します。

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