貪食姫 -The Princess of Glutton-
初出:「すくりぃべんてぇすの本 第38号」(2013年)
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・「続き物風」というコンセプトで仕上げていますが、作品としてはこの一作で完結しています。
・作中の固有名詞はすべてオリジナルです。
貪食姫
父よ、彼方の慈しみに感謝してこの食事を頂きます。
此処に用意されたものを祝福し、私達の心と体を支える糧として下さい。
――食前の祈り
鉈砥ぎのメルゼスには六人の子どもがいた。男が四人、女が二人。ベレムは末の四男に当たる。
幼い時分はさびれた村の三男坊以下の境遇として多聞に漏れず、特に実入りの知れている砥ぎ師の家に生まれては、穀潰し以外の何者ともみられなかった。その上、兄姉たちは皆気性が荒く、下品を好み、ベレムは格好の使い走りというどころか、奴隷か慰み者のように扱われた。
この境遇にもかかわらず、ベレムは決して飼い馴らされることなく反骨豊かなままに育つ。兄たちよりも奔放に野山を駆け、姉たちよりもしたたかに村人に取り入った。極めつけは齢十の折、人食いの魔女が済むと伝えられる森の奥へと迷い込み、生きて帰ってきたという噂から一躍英雄視され始める。少年から青年となりつつあった当時には、持ち前の処世の才ですでに若い衆の元締めのような地位にものぼりつめていた。粗暴な遊び人ではあったがその噂で箔もついたということか、こと女には困らず、また自らつき従う手下も大勢現れた。村八分の親兄姉をよそに、村の長を凌ぐ有力者となりつつあったベレムだが、いよいよ成人の日になって急に姿をくらませる。忽然と一人、その前夜のうちに。
彼もまた、自らの大器を信じて勇む若者の例を逸せず、いやしい故郷を捨てて独り遠い旅に出たのだ。
そして十数年後、ベレムは生まれ故郷に牙を剥く。
出奔したベレムに表の世界はかみ合わず、彼はほどなく闇を目指した。先頃巷を騒がせていたとある盗賊団に入り込み、村にいたときと同様、着々とその中でのしあがっていく。団の統領は彼の犯罪の才能を見初め、やがて組織の一角を任せるに至った。ベレムはそれを名誉とし、統領に恩義あることを示すべく、自らの故郷の村を団の新たな隠れ家として献上したのである。
ほどなくベレムの村は盗賊団の支配を受け入れ、村民はことごとく奴隷とされた。金財はまず取りあげられた上で、季節ごとの収穫を献上させられ、他に思いつくありとあらゆる奉仕を強要された。できない者は激しく虐げられた後に、家畜と同前の働きを命ぜられる。これに逆らえばもはや死するのみだった。
ベレムは団の指揮役でありながら、献上品の督促係を買って出た。まずどこよりも出せるもののない自分の生家を家族もろとも焼き払う。そのときの業火を間近でしげしげと見つめる彼の相貌は、この役目を他の誰にも渡したくなかったのだとあけすけに物語っていた。ベレムは引き続き多くの家に乗り込み、いくつかの家を燃やすことになるが、そのたびに彼はどんな快楽からもほど高くほど遠い愉悦を、その精悍な顔いっぱいで表現した。
ベレムがまず失ったのはその顔だ。頭部だ。
この状況の変化に誰がついていけただろうか。ベレムの率いてきた盗賊たちはおろか、たった今彼らの恐喝に遭っていた村長の息子もその妹も、首を失くした一人の男をもの言わず眺めている。引き続いて彼の上半身まで消え失せたことは、彼らにどのような錯覚として捉えられただろうか。ベレムの腰から上にはその向こう側の景色が鮮明に広がっていた。決してそこがガラスのように透けてしまったのではなく、下半身を残してベレムが食いちぎられてしまったに過ぎないのだが、その事実より理解に苦しむ妄想など咄嗟の彼らには思いつかなかったに違いない。
立ったままでいるベレムの下半身のかたわらに、何か重たいものがぼたり、ぼたりと落ちてきた。それを目で見て血と肉のかたまりであると平然と理解できる者もまた、この場にはいなかった。皆、今しも頭上で鳴り続ける猥雑な音に心を奪われていたためだ。水気の多い泥が泡の立つほどこね回されるのによく似た音だ。あるいは、土砂に呑まれた大樹がへし折れていくときに聞くような音だった。あるいは、果物の種子を口の中で砕くときの、耳の奥でこもるように響く音。神の庭で遊ぶ子らも、ときおりこれらの音を乱雑に混ぜ立てる。しかしこの場で音を立てているのは糞喰鬼のひき臼だ。ひとたび回せば厄鬼も耳をふさぐその臼が、木々の梢のそばに今、しゃくしゃくと浮かんでいる。
姿かたちはいかにも顎門であった。牙はなく、舌も歯茎すらもないが、白い毛に覆われたそれは顎門以外に形容しがたく、また顎門のようにうごめいて、噛み砕くように伸び縮み、磨り潰すように蠕動し、嚥下するようにしなっていた。毛の隙間からは絶えず血が滴る。光沢のある白毛は照り返す光の加減で不思議と仄青くも仄赤くも色づいて見えたが、おとがいはしとど赤黒く汚れていた。咀嚼されているのは間違いなくベレムの上半身。ベレムの上半身だったもの。
顎門を編む毛はひたすらに長い。束となって地上へ降りることで、その姿を蛇のようにも見せていた。いかにもベレムは大蛇によって食されたように思われる。毛むくじゃらの大蛇が突然襲い、彼を頭から呑み込み食いちぎったのだ。それが真相として明確に思えるのならば、たとえ大蛇が大蛇というにすらあり得ないほど巨大な魔物であったとしても、彼の手下たちは悲鳴をあげて逃げ出すなり、果敢にしゃなり声をあげて刀を構えるなりすることもできたかもしれない。
しかし彼らは依然、呆然として凍りついたまま、一向に何かをする気配を見せなかった。一様でないのは頭上の顎門を見つめているか、地上に垂れた顎門の尾を見ているかの、ただ一つの違いによるものだ。
白い顎門が一度固く閉じ、大きな塊を喉奥へ押し込むかのごとく、くぐもった音を立てて全体を波打たせた。それから鎌首をほんの少し反らせてまた顎門を開くや否や、人のおくびによく似た下品な音をかたわらの木に吐きかけた。
その呼気に弾き出されたように、何やらくろぐろとしたかたまりが顎門の端からこぼれ落ちる。そのかたまりは盗賊たちの眼前に墜落すると、着地と同時に、至極珍妙な悲鳴をあげた。
「きゃらうぇいっ!」
それは血と粘膜状の何かで目も当てられぬほどぐちょぐちょの有様であった。しかし、まだ生きている人間のようだった。泥にまみれた海草のように見えるのは、長い黒髪と布の多いドレスらしい。血で汚れ、毛が張りついてはいたが、突き出た腕は象牙細工のように白くなめらかな肌をわずかながら覗かせていた。
その大きな柘榴の種の後に続いて、こまごまとしたものも顎門から吐き出されて降ってきた。陽光を受けて鈍く輝いたそれらは、カフスボタンやベルトのバックルのようだった。他にも小刀、コイン、真鍮のクルミ割り、野盗には不釣り合いな精緻な細工の嗅ぎタバコ入れなど、金属やガラスの入った道具が顎門の奥からばらばらと落ちてくる。そのうちの一つ、ゆがんた蹄鉄のお守りが、黒い髪の毛のちょうど真ん中に当たり、胸の悪くなるような音と共に「たで!?」とまた奇妙な痛苦があがった。細い腕がビンと跳ね、すぐに力を失くして地面に落ちる。かと思いきや、その手が草をつかんで震え始める。
顎門は咀嚼できないもの、消化のできなさそうなものをすべて外に出し切ったらしい。そのあたりでようやく、最初に吐き出されてきた彼女が勢いよく立ちあがった。「カシュゥゥゥ……」と長く息を吐いたかと思えば、両の拳を力強く振りあげ、大きく胸を反らして口を開ける。
「こゥりあんだああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
咆哮は、胡椒を吸い込んで噎せた後のようなだみ声だった。見かけ通り年端のいかぬ少女の高音も、かろうじて残ってはいたが。
伸びあがった体はあくまで小さい。ロバに乗せれば駿馬を駆るように見えていかにも滑稽なことだろう。しわくしゃのドレスはレースとリボンをかき集めたミノムシのみのだ。黒ばかりで彩りがなく、豪奢ながら喪服のように辛気臭い。だが象牙よりも白い漆喰のような胸元と首筋にはよく映えていた。
その薄い胸と細い肩とを上下させ、彼女は荒い呼吸をくり返す。千々に乱れた髪もまた一層黒く、うねる模様の刺青のように、露わな肩や二の腕へ張りついている。前髪が目許を覆い、頬を這って口にもいくばくか侵入していたが、少女はそれを払う素振りも見せず、腕をあげたままひたすらに喘ぐ。
あの〝顎門〟の中で弄ばれたのだとしたら、よほど疲弊してしまうのも無理のないこと。しかしその柔肌を舐める赤い墨汁は、ひとしずくたりとも彼女のものでなかった。皮膚にも衣服にも無残な損傷は見受けられない。骨折もないことは今彼女自身が身を呈して知らしめている。
銅や鉛の製品同様に、顎門に吐き捨てられたことからしてすでに少女は不自然の極みであった。啜られた跡すら見受けられないとなれば激しく訝られて然る。
しかしながら改めて狼狽を示す者はここにいない。この場はすでに不自然を重ねすぎていたから、誰もが最前までと同じく石のようである。最初の堰すらまだ誰も切れてはいないのだ。
ややあって独り口を開いたのが、その最初の堰だ。
「おかえりなさーい、ニグラムちゃん」
霧深い森の静謐さの中で、その声は山伏の鈴よりも玲瓏と苔むした大地に染み入った。よしやこれを聖堂にて耳にすれば、誰しも聖母の降臨を予感したことだろう。いや、どこであれそれは神託を担うに値するものとして鳴り響いたに違いない。水辺においては水霊の調べ、獄中にては守護天使の慰労、妊婦に寄り添う助産神、戦場で歌う女神。そして深山幽谷にあっては、導く者のささめきにも等しかったはず。だが、あらゆる神話の異端めいたこの場において、この世ならざるものの囀りは冥帝のいざないの呪詛となるしかなかった。そして本来そうなるべきだった。
黒衣の少女が背後の村長の家を振り返る。ニグラム、とは彼女の名であったろうか。鼻先まで降りた緞帳を透かして、紅漆くつめたい眼差しが光る。
「逃げますよ?」
「好きにすればいいんじゃないかなー」
だみ声の苛立たしげな挑発に、冥府の女帝は気安いあしらいで答えた。
二度目の悲鳴があがったのはそれからすぐだ。
目という目が一斉にその方を向く。尾の細い別の顎門が一条、盗賊たちの一番後ろにいた男の肩から胸へ向かって喰らいついていた。男の絶叫は長くは続かず、背骨と肋骨のひしゃげる音と共に、上腕と胸の半分をそのままかじり取られて絶命する。ひとくち目を丸のみにした小顎門は、獲物が地面に倒れ伏すより早くその頭部へかじりついた。
盗賊たちが無様な置物でいられたのはそれまでだ。今や彼らの目には死の恐怖が鮮明な意義をともなって読み取れた。あまりに単純なその含意は非常に単純なシグナルとなって各々の全身を駆け巡ったに違いない。後退る者、たたらを踏む者、先に腰を抜かし下草を掴む者と動きは様々であったが、少なくとも皆一様に脅威に尻を向け、全力でこの場から逃れ去ろうとした。
ただし、彼らの行く末はことごとく輪切りだ。
澄ました御使いがさっとタクトを振り薙いだように思われる。盗賊たちの動きがそれでいっぺんに止まった。誰か彼らの中に、己の姿を検められる余裕のある者があったろうか。蜘蛛の糸のように細い繊維が彼らの全身に気づかぬうちにまとわりつき、ピンと張りつめて皮膚に食い込んでいた。その糸に沿って肉が骨まで裂けたのはほんの一瞬の出来事で、誰も痛みの慟哭をあげることなくまとめて幾百の肉片と化した。
村の真ん中に赤い沼ができあがる。
散った飛沫は黒衣の少女をまた生臭く染めた。
白糸は立ち尽くす彼女を避けて、今しがたの緊張も忘れたかのごとく、枯れ葉のように血の川へ浸っている。
「……下品な」
「残しはしないわよ。それに今のあなた、とーってもいい香り」
毒づく少女のすぐ上に、白毛の盲蛇が降りてきた。かと思えば、枝葉の上の積もりすぎた粉雪のように、その長い毛が根こそぎ一切抜け落ちた。毛の層は分厚く、顎門はみるみる小さくしぼんでゆく。しぼみにしぼんで、ついにその姿は消えてなくなる。毛で編まれた蛇に血肉はなかった。ほどけた白毛は扇のように広がり、最前の白糸と混ざって屍肉の川を覆う。
白毛はニグラムの上にもゆるやかに降りかかった。
長いヴェールを頭にかぶり、花嫁のようになった彼女のそばに、傍観を続けていた彼女の主人が歩み寄る。 その者もまた少女である。
絵描きが天使に施す肌と、詩人が嫉妬ゆえに貶めるかんばせ。
ニグラムとは違って騎士のように背は高いが、手足も胴もユリの葉のようにしなやかで細い。
この陰惨たる場に、その者ほど似つかわしくない姿をしたものはなかったろう。
ただしその清らかな肌を覆うものは、下着代わりのアンダードレス、ただの一枚だけだった。しかもその全体に破れやほつれや色褪せのある惨憺たる様相。それはこの卑俗な幽境の村落に見合う唯一の汚点であった。が、着潰される以前の名残からは、裾にひだを何段も重ね、ふんだんにレースや刺繍もあしらわれた絢爛な絹織物がうかがい知れる。また、破れから覗く肌やむき出しの手足は、布のみすぼらしさも泥をよける用をなさないこともまるで意に介さぬかのように美しくなめらかであって、まとうものだけが生々しさを帯びたその不合理は、逆に少女の神秘性を聖画のごとく助長していたとも言えた。
いかにも彼女は神秘であった。神秘でなければ魔であるより他になかった。禍か罪かを体現する者があるとすれば、それはまず彼女であるとたちまち羊飼いも述べるだろう。その是非を問うて最後に目を奪うのは彼女の髪だ。しゃんと伸びたその背とぴったり並んで走る長い髪。白髪だが老婆のようにみすぼらしくはなく、光の加減で仄赤く、あるいは仄青く色艶を帯びる。あの顎門を織りなしていたのと同じ色彩と光沢だ。そして今、彼女の眼前に横たわる死の川の上流は、狭く一条の束となって、彼女の背に落ちる滝と流れを同じくしている。
かつて顎門の尾も同じ滝つぼに溶け込んでいた。
否、この少女こそがかつて顎門の尾であった。
少女の髪は長い。途方もなく長い。比類ないほどに長い。
屍肉と血の沼一面に浸かった彼女の髪は、やがてそれ自体が別の生き物のようにさざ波立つ。そのひと筋ひと筋が回虫のようにのたくりながら、主人のもとへ引き返し始める。
毛先が地を擦った後には土だけが残った。さざめきは微細な嚥下の音だ。
ごくごくと沼を呑み干しながら、白い毛の川は水源へ向かって引いていく。
ニグラムにかかった髪も彼女に吸いつくように絡まり、肌や衣服を引きなぞりながらニグラム自身のでない血を啜っていった。髪が乾きを取り戻し、肌の上で固まりかけていた血糊まで消えていくので、それは拭われているというよりも、やはり啜られているか、舌でこそがれているかのようだった。
やがて川下は近くなり、流れの幅は人の肩幅よりも狭くなる。最後の房の先が主のくるぶしのそばに来て地面から離れたとき、髪はようやく短くなるのをやめた。
「フゥー、ごっそさん、でしたー」
神じみた少女は満足げにひとりごちる。
すでに彼女の頭髪は、吹く風にも容易くなびく無防備な繊維に過ぎないようだった。血塗れてもおらず、血の沼を這いずった痕跡はどこにもない。ただその白銀色の色つやが、こころなしか溌剌として、淡い燐光を帯びたようにも見える。
「ニグラムちゃんもつくづくスパイシィでしたっ」
「ふん!」
無邪気な仕草で覗き込んでこようとする主人から、ニグラムは憮然と顔をそむけた。重く垂れた前髪で両目はまだ隠れたままだ。
「ふぅーん、って、またずいぶんと不機嫌ですこと。なんでまた?」
「予告なしに丸呑みにされかけて気分のよくなる生き物は花の種と寄生虫だけですの。それより!」
ニグラムはいきり立って主人の背後を指さす。
「どうするんですか?」
そちらにはこの村の村長の家がある。入り口のテラスで幼い兄妹が、心ここにあらずといった様子で立ち尽くしていた。
「どうするんですか!」
語気を強めてくり返し、ニグラムは続けて反対側を指さした。鋳物や打ち物ばかりが転がる土肌の広場。そこは先刻まで盗賊たちがたむろしていたし、下草が伸びたい放題の草地でもあった。
「んー」
少女はおとがいに指をそえて思案するような仕草をした。しかし、誰が見てもとぼけた様子であった。間もなく、やはりわざとらしく何か妙案を思いついたように顔を輝かせて、村長の息子らを指さす。
「おまかせ?」
「またですか!? どうせそんなこったろうと思っていましたけどまた手前頼みなのですか!」
「だって知らない人とお話しするのこわいんですものー」
「率先して宿の交渉を進めていたのはどなたですの!?」
「それにぃー、ほら……」
しゃがれ声でがみがみ喚く従者の前に、少女は小指を立てた片手を差し出す。見れば、白い髪が一本だけ小指の根元に巻きつき、さらに末端はいずこかへ向かって伸びていた。ニグラムが目で追うと、村の奥の林へ続いているようだった。ピンと張ったその髪は、しかも今なお伸び続けている。
「あっちでずっと見張りしてた子たち、逃がしちゃった」
「逃がしちゃってないじゃありませんですか。確かに気がつきませんでしたけど。抜け目ない方ですわね」
「ふっふーん」
呆れ返るニグラムを見おろし、少女は昂然と鼻を鳴らした。
「じゃ、あとお願いね」
「ええぇ〰〰」
「不服ぅ?」
「あーいあーい。行ってらっしゃいませ、行ってらっしゃいませ。ひぃ、めんどくさいったら」
従者に聞えよがしな不平を言わせておいて耳を貸さず、少女は鼻歌交じりに自身の髪の毛をたぐって歩き始める。
白い裸足も軽やかに、ゆらゆらと林の奥へ消えていく主人を見送ってから、ニグラムは一度うんと背筋を伸ばした。その身の丈は綿羊ほどしかない。
「コーシャ様にも困ったものですわ。もう少しわかりやすい指示をなさってくれればよいのですけど。いつも何をお考えになっているのやら、手前めにはわからなくて、あなた方にもわかるはずはありませんわよね?」
テラスにいる青年と少女を振り返って、ニグラムは自分の泣き言に同意を求めた。相手二人はその声でようやく言葉がわかるようになったと見えたが、互いに手を取り合って固い表情でニグラムを見返すだけだった。その露骨な反応を見てニグラムは口の端をゆるめる。
「そうですわね。出し抜けにあんなものを見せられれば、怯えて当然。怯えるのが至極当然。いいえ、まだお話ができそうな分、あなた方は秀逸。秀逸な方かもしれませんわね。幸福ですわ。そう、幸福。あなた方にとっても、手前めにとっても」
噎せるようなだみ声でそうごちて、黒衣の従者はようやく前髪をかきあげた。
眼光のように見えていたのは、四角い大粒の紅榴石だ。
露わになるはずの両目はそろって黒い布に覆われていた。血色の宝石がその右目の位置に縫いとめられている。
その異貌を見せつけると、村長の娘の方が顔を伏せ、慌てて兄の後ろに隠れようとした。透けぬ眼帯と石の下からでも景色はよく見えているらしく、ニグラムはそれで得意げに相好を崩す。
「それも実に当たり前の反応ですわね。そして手前めやあの方があなた方に危害を加えないと言っても、すぐには信じてもらえないのが当たり前でしょう。ご安心を。あなた方には牙を剥きませんわ。お話ができそうですしね。必要とあれば申し開きもいたしましょう。心ゆくまで。でもその前に――お風呂を貸していただけないでしょうか?」
「……」
「なにぶん、拭っても血はべとついて仕方がありませんの」
ニグラムは丁寧に付け加えたが、後には沈黙が舞い降りた。彼女の要求は合理的だったが、緊張し切った若輩らが呑みくだすのにその悠長さは状況とあまりに落差が激しい。とはいえ、最後には断るわけにもいかず、ややあって兄の方がわずかながら顎を引いた。
商人の地図にもない暗黒の僻地に、掠奪された寒村があった。
あるとき、一人の白い旅人と一人の従者が村を訪れる。村長の家に行き、一晩泊めてほしいと頼み込む。
盗賊たちはその美しい旅人に因縁をつけた。すると、旅人の白い髪がどっと伸び、その髪で盗賊たちを残らずむさぼり喰った。
湯浴みを終えたその従者は、盗賊に殺された村長の息子にこう語る。
貪食こそは、神がつくりたもうた放埓なる人の罪である。
その罪に魔術と禁呪でかたちを与え、現世に鋳出したものが、あの白髪の美姫にして我が主である、と――
「ゆえに、コーシャ様を単なる魔性のものとして捉えるのは、本質を見誤っていることですの」
言いぐさは擁護のようだったが、その口ぶりは自信に満ちていた。
主人について語り出してからというもの、ニグラムは終始このような調子で、あいかわらず喉の痛そうなだみ声であるにもかかわらず、饒舌さはまさに怒涛のようであった。聞き役が相づちを打つ間もろくに与えなかったくらいだ。村長の嫡子エミールは、ニグラムがしゃべるのに任せ、戸口付近にまんじりともせず立ち尽くして聞き入っていたが、聡明なニグラムには自分が話した一分一厘も彼に理解されていないとわかってもいた。それでもひとしきりしゃべり続けて、自身が満足したところで適当に締めくくった。
「……あなたがあの人に体を与えたんですか?」
少女が息をついたのを見計らって、青年エミールは久方ぶりにおずおずと口を開いた。
その途端、一人悠々とテーブルについていたニグラムは一転、木椅子の肘掛けを叩いて怒りを露わにした。
「そういう問題ではありませんの! 確かに手前めには魔術の心得が多少ございますけれどッ、誰がつくったとか、そういうことは問題になりませんの。あなた方神の子らや手前めとも同じですわ。ただあの方は、すべての人類にあがなわれるべき罪そのものですの。罪というのが解せないというのでしたら、呪いとでも言い替えましょうか。生きとし生けるものすべてにかけられた呪いが、生身の体と意志を持ち、言葉を操る。それがあの方ですの。合点がいきまして?」
気圧されたように青年が首肯をくり返すのを受け取って、ニグラムもようよう息を落ち着け、深く背もたれに身を沈めた。「ごめんあそばせ。こちらも熱くなりすぎましたわ」と疲れた声色で告白したところで、コルセットの下で彼女のへそがくぐもった悲鳴をあげる。さすがの従者もこれに苦笑して、「お腹がすくとイライラしますの。あなたもそう。コーシャ様だってそう。似た者同士ですわ」と冗談めかして言った。ほころぶ口元からエミールは咄嗟に目を逸らす。
黒いドレスの少女は、その薄い唇に引いたルージュの色もまた黒かった。一度湯を浴びて血も泥も落とした白い相貌で、それはいっそう目を引いた。下品で不似合いな化粧はそれゆえに独善的であさましく、幼さとの対比によってより背徳じみた淫靡を少女に印象づけている。
たかがルージュである。その色がとち狂っているに過ぎない。たったそれだけのことが、しかし彼女の愛嬌をことごとく逆しまにしていた。もとい、ほんの些細な穢れで悪徳に変わるほど、その容姿と装いを取り合わせはこの上なく神聖であったのだ。修験者のような目隠しも、未熟な薄い鎖骨の触れがたさも、彼女においてはすべてが賤しく、ひたすらにみだらな誘惑としてあった。
そもそもニグラムの見目麗しさもまた、彼女の主人に次いでこの世のものではない。両の目を黒々とした布で覆ってもなお隠し切れるものではないほどに。また、衣装の整いにおいては主人のそれと雲泥のごとく異なり、吊れも傷も、レースのほつれさえも見当たらず、執政者らの夜会へ赴くためにあるかのようだ。
このような磁器人形が、なぜこんなわびしい隠れ里を訪れるのか。エミールが、逆らいがたい心の弾みと共に疑問を抱いたとすればそれであろう。ルージュがそそのかす出で立ちの野卑さがあくまで目を奪うというなら、山奥のこの放埓な寒村に彼女は幾分かふさわしい。だが、あくまで瑞々しく繊細に過ぎる自前の容姿は、それが妖精か魔女のものであるためか、そうでなければこの上なく垢抜けていて場違いだった。
「ときに、牛を飼われたことは?」
「え?」
疑問に気を取られていたらしきエミールは、ニグラムが珍しく答えを求めるような質問をしたため言葉に窮したが、他の誰が見てもそれはニグラムの問いに脈絡がなかったからと捉えられる。が、ニグラムは相手の反応には拘泥せず、「あるいは豚や馬、兎でも、鵞鳥などでも構いませんわ」と重ねて回答を促す。
「確かに、あまり牧畜を営むような村には見えませんけれど」
「ヤギなら、以前……」
「山羊肉ですか。手前めはちょっぴり苦手ですわね。肉荳蔲、馬芹、小荳蒄と組み合わせてやっと風味がやわらぐでしょう?」
「はあ……」
「おや? 肉用ではございませんでしたか?」
「いえ、食べはしました」
「名前はどのように?」
「名前?」
「子山羊はずいぶんとかわいらしいものですわ。コーシャ様はかわいらしい品にはよくご自分でお名前をつけてらっしゃいます。あなた方も同じようにはしませんこと?」
「……女の人たちは、確かに、山羊に名前をつけたりもします。ユージニアも、確か一度だけ名づけ親に」
「そうすることと何も変わらないのですわ」
ニグラムはよどみなくそう言った。怪訝な顔のエミールからその含意を尋ねられるより早く、続けざまの吐息が白い歯と黒い唇をつまびいた。おごそかに詠いあげたのは、いずこかの国の経典にあるであろう詩の一節。
「〝我々がもはや主であるならば、我々が畜生を愛でぬ謂れがありましょうや〟――コーシャ様からしてみれば、《愛でぬ謂れなき畜生》とは手前ども《人間》を指すのです。コーシャ様自身は、手前どもが生まれながらにして持つ主人にして呪い。貪食の罪はすなわち食欲のことであり、手前どもは食欲の奴隷でしょう? 貪食の大罪は常に人と共にあり、人は食欲に逆らうことはできない。しかし、コーシャ様は手前どもの髪を撫で、並んで眠ることをいつも望んでおられますの。あなた方が隣人を愛するように、あなた方を愛しておられるのです。決してあなた方を鞭で打ったり鎖で繋いだりなどなさいませんし、あなた方を食べるときも、命の犠牲への感謝とねぎらいをお忘れになりません。無駄に老いさせず、いたぶらず、苦しませず、また、必要以上に喰わず、腐らせることもよしとしない。……要するに、あの方は残酷ではないと手前めは申しあげたいのです。子山羊に名をつけるあなた方の愛と、あの方の愛とに何の相違が見つかりましょうか。賊どもを喰らい尽くし、コーシャ様は満足して戻って来られることでしょう。あなた方が躾のできた家畜として、コーシャ様を穏便に迎え入れるのであれば、今夜あの方はもはや舌鼓をお打ちにならず、あなた方と親しく語らうでしょう。ええ」
断言いたしますわ。とニグラムは言い切った。言葉は尽くしたらしく、仄かな会心を口元に浮かべて、話し相手の様子をうかがう。
が、待てどもエミールからの返事はない。
彼の表情は複雑だった。心境もまた同様の境地にあることはニグラムにも察しがついていた。誰とて人ならば、家畜と蔑まれて身にこたえない者がどれほどいることだろう。ただ、エミールは村長であった父や母を盗賊一党に殺されてからというもの、彼らのゆすりの矢面に率先して立ち続けてきた節がある。村のために尊厳を捨てたことも幾度としてあったろう。コーシャの暴力と支配の絶対性は先刻目の当たりにしているし、今さら家畜と同然に扱われる屈辱に対し露骨に憤るはずもない。だが、いや、だからこそ、家畜として愛されるという扱いは、彼や彼の村人たちにそれはどれほど理解され得るだろうか。愛されることは歓迎すべきことであるはずなのに、屈服をともなうそれは喜ぶべきか否か。コーシャが実質的には怪物と相違ないことを知っていればこそ、なおさらそれは腑に落ちない扱いであると言えたし、コーシャの容姿の神々しさと悪神じみた暴力とを合わせて思い返せば、むしろすべてはさも当然であるかのようにも思えてくるだろう。そもそもあのコーシャの存在自体からしてまるきり絵空事のようなのだ。だが、それでも化け物の従者の口にしたことが出まかせでないという実感は、拭い去れるものではなかったようだ。どこまで現実的に思いつめてよいものやら、そこから判然としなくてもどかしいというのがエミールの実のところと察せた。
「おや。気が利きますわね」
しかしニグラムはあえて上の空を演じていた。に飽き足らず、自身の欲望にばかり忠実であるかのように振る舞った。眼帯越しの視線は他人には読みづらかったが、鼻先が戸口の方を向いているのを見て取ったエミールは自身もそちらを振り返る。奥のかまどのある部屋に引きこもっていたはずの幼い妹が、湯気の立つ器を両手で持ってそこに立っていた。
「ジニー? それは、この方に?」
少女は無言で小さく頷くと、とことこと歩いてニグラムの前に器と木の匙を置いた。器の中身は燕麦が熟れた色の粥だ。香りからして水っぽいが、ろくな田畑もなさそうなこの村で穀物の煮込みは高級品かもしれない。盗賊たちの搾取に遭いながらも隠しておいた分だとすれば、なおのこと貴重な品である。
「ユージニアさん……でしたかしら?」
ニグラムがしゃがれ声で問うと、少女は俯き気味のままやや首を上下させた。
「肝が据わってますのね。手前があなたくらいのときにあんなものを見てしまったら、ベッドで一日中震えてますのに」
自分の見た目が少女とそう変わりないことを棚にあげてニグラムは微笑みかける。するとユージニアは、黒ずんだエプロンの裾をぎゅっと握りしめたかと思うと、急に身を翻して兄のエミールのところまで駆けていった。そうして兄の背中に隠れながら、ニグラムの様子をじっとうかがうようにし始める。
「何なんだ、ジニー? 人見知りか?」
「単なる恥ずかしがり屋さん、というわけでもなさそうですわよ、お兄様。何か手前めに言いたいことがあるのではありませんか? エミールさん、あなたからでも」
「僕?」
エミールは問われて戸惑ったようだったが、すぐに何か心当たりに気がついたらしかった。気まずそうに目を伏せたが、ニグラムに無言で促されて徐々に口を開く。
「盗賊団の中に、昔村に住んでいたやつがいたんです」
「なんと。それは、是非ともコーシャ様にお伝えしておくべきでしたわ。裏切り者には厳罰とあわれな申し開きの場が必要でしたでしょうに」
「いえ、もう、あの……一番初めに、コーシャさんに」
「あらあら、あのいけ好かないキツネ顔の方でしたの? それはさすがに仕方ありませんわね」
「あいつは一応、僕らの幼馴染だったんです」
「おや?」
苦笑していたニグラムは、エミールの告白を聞いてさも意外といった反応を示す。だがどこか喜色を孕む声色でもあった。
「話が見えてきませんわねえ。それとももしかして、妹さんの想い人だったとか」
ユージニアはこれを聞いて、かろうじて見て取れるほど眉を動かしただけだった。エミールだけがおろおろとして、妹とニグラムを何度も見比べている。
ニグラムはしばらく目の前の田舎少女の視線と曖昧な敵意を愉しんでいた。自身もまたのんびりと彼女を観察していたが、不意に肩をすくめると、再びエミールの方を向いて問うた。
「あなた方は、彼らが単なる盗賊団だと思っていますのね」
「え? それは、どういうことですか?」
「ええ、ええ。それもお話ししようと思うのですけれど、先にこちらをいただいてからにしましょうか。せっかくのおもてなしを冷ましてしまっては、貪食の従者として面目が立ちませんし。あなたにも悪いですしね、ユージニアさん?」
依然無愛想なユージニアに微笑みかけながら、ニグラムは早速木の匙で器の中身を一つすくい取った。黒いルージュの合間を控えめにほころばせ、まだ湯気の立つ麦粥を舌先へそっと忍び込ませる。
途端、細い肩が跳ねた。
「んんむ!? ヴェホッ! ゲホッ、ウェッ、辛え! 胡椒辛え!」
ニグラムは喉元を押さえ、椅子から転げ落ちそうなほど激しく噎せ返った。エミールがそれを見て、今まで以上にたじろぎながら、咄嗟に妹の方を振り返った。ユージニアはニグラムに釘付けのまま、目を丸くして固まっている。
「ジニー、これはいったい!?」
「お構いなく、エミールさん! ゴホッ」
激しかけたエミールを、思いがけずニグラムの一喝が制した。エミールは戸惑いの目を客人に向ける。
ニグラムは這いのぼるようにして椅子に座り直すと、ひゅうひゅうとまだ喘いでいるにもかかわらず、切れ切れに言葉を紡いだ。
「無理もないこと、ですわ。コーシャ様のお食事のご様子は、普通の方からすれば凄惨に過ぎますもの。気が動転すれば、片栗粉と胡椒を間違えることくらい、大人の方でも当然ですわ。だから予告なしお召しにならないでくださいとあれほど申しておりましたのに」
「ジニー、水を」
「西の王国が滅んだんですの。ご存知ですか?」
妹に飲み水を取ってくるよう促していたエミールに、ニグラムがまた唐突に話を切り出した。なぜ今そんな話をするのかと問い返す余裕が、動転していたエミールにあるはずはなかった。ひたすら目を白黒させながら、かろうじて首を横に振っただけだ。
「そこそこ有名な話ですわ」ニグラムは続けた。しゃがれ声は一層ひどくなったようだ。「西にあった王国が一夜にして城を落とされ、滅亡した。そのとき敗走した国王軍がどこへ落ち延びていったのかについて、巷ではいろいろな噂が立っているのですけれど、結局のところ判然としなくて、ちょっとした伝説となっていますの」
「いったい何の話を……」
「お聞きになって、首長のご子息様。最近手前めが得た情報によると、彼らが消息を絶つまでに存在を確認された最後の地として、この地方が最も有力なのだそうです」
「え? それはつまり、もしかして、盗賊団の正体を……」
「確説とは言えませんわ。先ほど押しかけてきた方々の中に、国軍の兵士とわかるような装飾をつけてらっしゃる方はいませんでしたし。そもそも有力だと言い張っている情報の出所がはっきりしませんの。一つお聞きしたいのですけど、あなた方の幼馴染さんは、騎士を目指して出奔なされたのですか?」
「あなたたちは国王軍の生き残りを見つけるためにここへ?」
問いかけを問いかけで遮られたことに、ニグラムは面食らった。重ねて、自分が面食らわされたことにも面食らった。あのエミールに!? 当のエミールはあいかわらず頼りなさそうな顔をしているばかりで、自分がした粗相に気がつく気配もない。ニグラムは下唇を甘く噛むと、心中でぼやいた。
(雑になってきましたわね……)
「目的というのは、手前めの知るところではありませんわ」ニグラムは取り澄ましてエミールの問いに答えることを選んだ。「屈辱的ではありますが。この従者ごときがいくらお願い申しあげても、コーシャ様はお心の内を打ち明けることはあまりなさってくださいませんの。ただ、手前にも手前なりに気になることがございます。西の王国が滅んだ当時、というのは、本当は六十年余りも昔の話ですの」
「っ!?」
今度はニグラムの期待通り、エミールに目を剥いて凍りつかせることができた。さらにニグラムは彼が問い返すことを許さずたたみかける。
「気になることはもう一つあります。そちらは最近の話で、実質的なきっかけですわね。ここよりずっと南にある宿場を訪れたのですけれど、盛り場で喧嘩の現場に出くわしましたの。聞けば、〝北の辺境にある村を盗賊団の魔手から救い出した〟という二人の英雄が、そこで鉢合わせしたのだそうです」
最初にその武勇伝を語り始めたのは、酒場で酒を飲んでいた男の旅人だ。事件のあった宿場よりずっと北方の山中をさまよい歩いている時分、盗賊たちの支配に遭って虐げられている村に踏み込んだ。村人からの一宿一飯の恩を受けたその旅人は、武芸の腕に覚えがあったため、盗賊一党に挑んで見事これを薙ぎ払い、村人を掠奪から解放してみせたのだという。
酒の席で大口をたたく者は多い。華のある話であれば、場も嘘かまことかを問う無粋はせずに湧き立つものだ。その旅人の話も同じようにまつりあげられ、人々は気前よく彼を褒め称えていた。
ところが、そこへちょうど割り込んできた行商人の男が、何が元で盛りあがっているのかを聞くや否や、旅人の男を怒鳴りつけた。酔いに任せて他人の武功をさも自分のものであるかのように語るとは何事か。その村を救済したのは誰あろう、他ならぬ己であると名乗り出たのだ。
行商人は行く先々でその武勇伝を吹聴していたので、旅人の男がどこかでそれを立ち聞きか又聞きしていたとしても不思議ではないと唱えた。しかし寝耳に水の旅人は、それこそ真っ赤な大嘘である、自分がどこかで披露した自慢話を拾って商いの肥やしにしたのだろう、がめつい商人のやりそうなことだと言い返した。なにくそ、卑しい浮浪者め、手癖の悪さは貴様には負けるぞと商人もそしりで跳ね返す。
両者とも、自分こそが真実を語るものとして一歩も引かず、それでは各々別の村を救済したのではないかと一度は静かな審議もしてはみたが、二人が覚えている村や盗賊たちのことを話せば話すほど、同じ場所での出来事であるという確信だけが強まっていく。とうとう、どちらが盗賊たちを蹴散らすほどの武芸の実力を持つかを競う運びとなり、旅人と行商人の男二人は互いに決闘を申し出た。
「その馬鹿げた決闘の行く末は、まあどうでもいいことですわ。問題はこの奇譚の巻き起こる要因があったという事実そのもの。これはいったいどういうことなのでしょうね?」
かいつまんだ経緯を話して聞かされても、エミールらに言えることは何もなかった。面妖な話があるものだ。写し絵ほど似通った境遇の村が同じ地方に三つもあるだなんて――などと下手にとぼけたりせず黙りこくっている様子が、ニグラムにはいじらしく思えたが、反面、張り合いと面白みはなかった。それで思わず嘲笑がこぼれたが、あたかもジョークの反応を喜んでいるかのようにしてみせた。
「まあ、この村のことだという証拠はどこにもありませんわね。喧嘩をなさった例のお二人とも、本当は尻尾を巻いて逃げた、というふうにも考えられますし、よしんばどちらも真実だったとして、逃げおおせた盗賊の方々が再び徒党を組んで別の村を乗っ取った、としてもつじつまは合います。二つの武勇伝の時期まで同じだとは聞いておりませんし。また、六十年前の敗走軍に関しましても、それがこの村を襲っていた盗賊団の母体だという確信はあくまでございませんの。あるいは落ちぶれてから二代、三代と代替わりを重ねていると考えても、また怪しくはございませんわ」
ニグラムは安心させるようにエミールらに微笑みかける。兄妹は素直に胸をなでおろす様子を見せたが、そこへニグラムはこう言った。
「ところで、盗賊の方々が根城になさってるのはもしや、林の向こうの深い森ではございませんこと?」
「ええ、森の奥です。川辺があって……」
「そのあたりに、魔女が住んでいるという話は聞きませんか?」
エミールは再び瞠目した。だがこの問いを聞いて彼が何も知らないなら、眉をひそめる方が先だろう。心なしか、気丈なユージニアも身をこわばらせたように見えた。ニグラムは頬杖をついて、お伽噺をせがむ少女のように彼らの返事を待つ。
「……どうして、そんな話を?」
「いえいえ、なんとなくですの。あんなに深い森にはそういう噂がつきものですわ。まあ盗賊の方々があそこでのうのう暮らしてらっしゃる以上、あり得ないとは思いますけれど、万一そういうものが隠れ潜んでいるとしたら、今後の支配に支障が出るやもしれませんし」
「支配?」
「手前めが居残りを命じられたのはこのためですの」
言われている意味がわからず当惑している村人たちを置き去りにしたまま、黒衣の従者はしとやかに椅子から立ちあがる。それから窓辺へそっと歩み寄り、外に見える家々を眺めて、数をかぞえた。
「そうですわね……月に二人。それで手打ちにいたしましょう」
ニグラムは振り返り、友好を笑みで示した。エミールはすでに震えていた。
「何が……月に二人、なんですか?」
「怯えることは必然ではありませんの。田畑を切り開き、水を引き、存分な実りをもたらすこと。牛馬を飼い馴らし、肥え太らせ、木を切り、家を建て、道具をつくること。そのすべてをコーシャ様お一人の力によって、この村一つ分まかなうことくらい造作もありませんわ。あなた方には、ただひたすら生殖をおこなっていただきますの。産めよ、増えよ、地に満てよ。すでに申しあげた通りです。あなた方は《愛でぬ謂れなき畜生》であると」
貪食の奴隷にして、愛づべき家畜。
ニグラムはそれをただ諭し、宣告するためだけにここにいた。
いやさ、桃源郷と名を掲げたそれをもたらしに現れた。
蒼白となり言葉を失くした兄妹の前へ、しゃなり、しゃなりと歩み寄ると、年端もいかぬ妹の方に手を伸ばして、その頬を軽くなぞる。白い指先の爪化粧も、ルージュと同じ邪淫の黒だ。
「やわらかで張りのある肉質と、豊富な養分、芳醇な旨味。コーシャ様が最も好まれるのは、育ち盛りの女の子ですの」
「っ……!」
ユージニアは咄嗟に身を引こうとしたが、ニグラムに顎を掴まれ叶わない。
「しかし、そちらは年に一人ですわね。母体としても最も優秀な時期ですもの。ええ、ユージニアさん、あなたにも期待しておきますわ。心配なさらなくても、手前めにそういった魔術の心得がありますの。古い術書によれば、女子は五歳から妊娠と出産が可能だそうですし。最初は誰の子を孕みたいです? 今のうちにお決めになっておくのもよいかもしれませんわね。とはいえ、昼夜問わず種つけいたしますので、候補を五人は選んでいただかなくてはいけませんけど」
「……餓鬼め」
童女らしからぬ低い声色がユージニアの口から漏れる。ニグラムはせせら笑った。
「言い得て妙ですわね。地獄で《貪食》を奉祀するのが手前めの務めですがゆえに」
「顕現したのがそもそもの間違いだ。ここが貴様の茶番を奉じられる場所であるものか。奈落へ還るがいい」
「貪食をつかさどるのはかの《蝿の王》。その行く先、ある場所こそが地獄となるのですわ。ヒトごときがそのことわりに逆らえるとでもお思いに……おや?」
「黙れ、蝗害」
ユージニアがニグラムを突き飛ばす。たたらを踏んだニグラムの胸に、刃を横にした包丁が根元まで突き刺さっている。
「おやおや、これは……」
しげしげと自分の胸に埋まり込んだ刃物の柄を観察するニグラム。その顔に苦痛に色はないがやや困惑気味だ。ハッとして顔をあげたときには、すでに青年が手斧を握って振りかぶっていた。袈裟におろされた刃が黒衣と白い肩を切り裂く。
瞬間、切り口から黒い灰のようなものが噴き出した。
エミールが怒号をあげて床に倒れる。喉を押さえてのた打ち回る彼を見て、ユージニアは慌てて床に伏せて鼻と口を押さえた。
灰のようなものは一瞬で部屋を覆い尽くして視界を奪う。それ以前に、灰が目に触れた瞬間からユージニアは涙が出て止まらなくなった。指の隙間からは香ばしく煙たいような匂いが忍び込んできて鼻を刺す。
(この匂いは……)
「いかがですか、手前め自慢の黒胡椒。なかなか薫り高いでしょう?」
その声はユージニアのすぐそばで聞こえた。
涙を拭って無理やり目を開いた彼女の正面に、紅榴石をあしらった布で両目を覆った少女の生首が落ちてくる。その首筋からざらざらと灰色の粉が流れ続けていた。黒い唇がなめらかに動き、胡椒で噎せ返ったようなだみ声が泰然と告げる。
「胡椒の魔女、ニグラム。貪食の従者にして味付け係。躾のなってない家畜には優先的に下味をつけていくことにしておりますの」
部屋に充満していた胡椒の靄が確かにうねった。それを肌で感じた瞬間、ユージニアは床を転がって廊下に飛び出し、立ちあがり様玄関へ突進していった。流動を始めていたニグラムの胡椒は所在をなくしたように拡散してしまう。生首の少女は残念そうにため息をついた。
「やれやれ、逃げても無駄ですのに」
ガラスと木の砕ける音が鳴り響く。振り返ったニグラムの紅榴石を炎がさらに赤く照らした。窓を突き破り、火のついた薪が飛び込んできたのだ。炎に触れた胡椒が端からパチパチと火花に変わり、それはまたたく間に燃え広がって、
「あ――」
ニグラムの悲鳴をかき消し、炎は屋根を吹き飛ばすほどの爆炎となった。
胡椒の霧はおろか、家の中身を丸ごと燃やし尽くしていく。
エミールがまだ中にいる状態だったが、魔女を屠る代償としては惜しくなかった。彼は特別製なのでそれなりの防炎等の加工を施してあるし、自律機構に基づいて先に床に伏せてもいたはずなので、熱による損傷も軽微と思われた。最悪肉が消し炭でも、骨が残ってさえいれば復元できる。型は地下だ。やや苦汁を舐めるかたちではあるが咄嗟に思い切りのいい判断したユージニアが、万一のため近くに来させていた村人に燃える薪を投げ込ませたのだ。その薪は皮肉にも、ニグラムのために風呂を沸かした際の燃えさしだった。
当のユージニアは村の井戸のそばまで走り出て、桶の水で顔を洗い、肩で息を整えながら燃え落ちる自宅を顧みていた。斬られて不死身の胡椒の魔女といえど、その粉の一粒まで燃やし尽くされれば命も尽きないはずはない。そう信じたいと思ってはいたが、一抹の不安があった。
「燃やした程度では殺せませんわよ?」
不安の大元を探して目をこらしていたが、それを見つけるより先にあのだみ声が降ってきた。煙たいような独特の香りが一瞬鼻をかすめる。燃える家と井戸のちょうど中間のあたりに、蚊柱のような黒い煙が渦巻いていた。それが突然ひときわ色を濃くし、中から黒いドレスと、靴と、眼帯と、長い髪が、それぞれのかくあるべき配置に浮かびあがる。それらをまとうように今度は白い煙がかたちを成し始め、手足、胴、肩、顔を蘇らせる。最後に赤い煙が右目の位置に固まって、血色の宝石を形づくる。
指で黒いルージュを唇に引いて、ニグラムはまた嗤った。
「不死を操る者が不死に驚いてはいけませんわ、擬蘇術師」
ユージニアは舌を打つ。案の定は案の定だ。だができればこの予想は外れておいてほしかった。童女のままのかんばせが苦渋で下郎のように歪む。
「やはり、森の奥に魔女がおりましたのね。もっとも、今は日なたでお人形遊びですか。旅人をおどかすならともかく、武功の種を与えて何か面白いですの? 物好きだとしか」
「ぬけぬけと何が不死だ! 禁忌に手を染めた未熟者め。貴様のそれはただの呪いだ。貪食を顕現させたのはやはり貴様か!」
「そうかもしれませんわねえ。だとして、あなたに何ができますの?」
「ここを渡さない」
擬蘇の魔女は拳を握る。途端、静まり返っていた家々から続々と村人たちが姿を現した。老若男女、皆それぞれに斧や鉈や棍棒を携えている。村長宅は村の中心だ。自然、ニグラムとユージニアを取り囲むかたちになる。
「猫も杓子もやぶにらみ……」
ニグラムが呆れたようにうめく。他律式ばかりを一度にたくさん動かすとなると、さすがに精細を欠くのだろう。村人たちは皆頼りない足取りで、表情はだらしなく曇っている。亡者であるがゆえに目の焦点さえ合っていない。
「ここはわたしのだ。彼らもわたしのだ! お前たちのような化け物には、欠片もくれてやらない」
「盗賊団もあなたの、ですか。死者をなぶって自慰にふけるなど……ああ、なんとなくわかってきましたわ」
「それ以上口を開くなッ!」
擬蘇術師の怒号に合わせ、亡者たちが一斉に得物を投擲する。またたく間に胡椒の魔女の全身は、刃物を突き立てられて大きな針山のようになった。
「無駄なことを……」
「喰らい尽くせ!」
嘲笑しかけたニグラムにすでに走り出していた亡者たちが飛びかかる。砂岩のようにぼろぼろと崩れる魔女の体を砕き、引きちぎり、かぶりついた。残りの村人たちも次々に群がり、胡椒でできた小さな肢体を貪り尽くしていく。
ユージニアはその光景を見て固唾を呑んだ。
(バラバラにして亡者どもの腹の中に収めてしまって、まだ再生できるようなら……)
「面白いことを考えつきますのね」
そのしゃがれ声を二度と聞かないで済むよう祈っていた。
にもかかわらず、振り返ったそこには頭部と右腕の再生を終えたばかりの魔女が浮かんでいる。
「まあそもそも、人間と交遊のある魔女というものからして珍しいのですけれど」
「クソッ……」
ユージニアは心の底から運命をなじった。
その懊悩は見て取れるはずだったが、上半身を再生させたニグラムは気にも留めない。ニグラムはユージニアの次の動きに注意を払うよりも、彼女の思惑を推量することに夢中だった。
「この村はかつて、本当に盗賊団の略奪に遭いましたわね。あなたの幼馴染が率いる盗賊団の」
「……!?」
ユージニアは喉が引きつるのを自覚した。気をよくしたニグラムは続けて唱える。
「そして、何らかの事件があってこの村もろとも滅んでしまった」
「……やめろ」
「魔女であることは隠していましたか、ユージニアさん?」
「やめろッ!!」
怒号に井戸が震えた。亡者たちが動きを止める。童女があげるにはあまりに通る声だったが、擬蘇の魔女があげるには悲愴に過ぎた。
山上の空は風がやまない。だが木々のさざめきは遠い。かすかに鳴っていたさらさらという音がやんだ。ドレスの裾まで再生を終えたニグラムが静寂を破る。
「不毛ですわね。人形劇で幾度やり直そうと、外来の役者を主役に据えて英雄譚をつづろうと、その先はないではありませんか、擬蘇術師。擬蘇術師? 擬えることがあなた方の求道でしたかしら?」
「わたしにどうしろというんだ……」
胡椒の魔女の問いかけに、童女の姿の擬蘇術師は問いを投げ返す。それが己の非を認めることとわかっていながら、ユージニアは必死に訴える。
「わたしは村を守ろうとした。わたしの正体が皆に露見しようと、ここを守れるなら構わないと思ったんだ。だからわたしは、あいつを、ベレムを、この手で……なのに……!」
拳を振るわせ、涙をこぼしかけた少女の耳元に、ニグラムはそっと唇を寄せた。
「誰でも自分がかわいいものです」
「――!!」
ユージニアの意識は燃えあがった。
「わたしはわたしにできることをしただけだ!!」
そばにあった木桶を掴む。「お?」ニグラムが反応するより早く、桶の中身を彼女の顔にぶちまけた。襲いかかったのはただの冷たい水だ。しかしニグラムはあからさまに動揺した顔を見せる。
ユージニアは勝ち誇った。
「やはりな。自分でさらさらと溶けることはもうできまい。胡椒は湿気を吸って固まる。砂や小麦粉と同じだ!」
間髪入れず、彼女の操る亡者たちがニグラムを取り押さえる。粉末化して逃げることができないニグラムは容易に抱えあげられ、井戸の上につり下げられた。必死に頭だけ起こしたニグラムが、引きつった表情でユージニアに問う。
「とびきり辛い井戸水にしてしまいますわよ?」
「森の奥に沢がある。飲み水にはうってつけだ。わたしの旧家さ」
ユージニアが手を打つ。ニグラムの手足を抱えていた亡者たちが一斉に手を離し、胡椒の魔女は井戸の底めがけて真っ直ぐに落ちていく。
遠くで激しい水音がしたのを聞いて、ユージニアはようやく息を吐いた。無意識に呼吸を止めていたらしい。同時にその場にへたり込みかけたが、すんでのところで立ち直した。
「……まだだ。あれが戻ってくる」
あれとはコーシャのことだ。あの貪食の姫とは直接的にも間接的にもやり合いたくなかった。擬蘇術には死体がいる。バラバラでも焼け焦げていても問題ないが、喰い尽くされてしまってはどうにもならない。盗賊団の方はすでに諦めていたが、ここにある村人用の死体は隠してやり過ごしたかった。いくら使い回しがきくといっても、役者が減りすぎると続けられない。
「まだ大丈夫だ。まだやり直しがきく。まだ続けられる。あれをやり過ごしさえすれば、また……」
――その先はないではありませんか、擬蘇術師。
不意に胡椒の魔女の言葉が蘇ってくる。反射的にかぶりを振って、井戸に群がったままの亡者たちを移動させることに集中しようとした。
その亡者たちの中に、あり得ないものを見つける。
亡者たちを一旦停止させると、それも同じように動きを止めた。
亡者たちを動かすと、それも同じ動作でのろのろ移動し始める。
ユージニアは目の中のそれを嘘だと思いたかった。何かの間違いではないかと。
亡者たちを止めて自分も固まっていると、やがてある一人がきょろっと目を動かした。その視線と目が合った瞬間、ユージニアは愕然とし、相手はにやっと笑った。
「バレた?」
「ここにお前のような美しい村人はいない」
「そっかなー? ユズにゃん結構イケてると思うよ?」
亡者たちをずんずんかき分けて、それはユージニアの前に立った。
騎士のような身の丈と、ユリの葉のようにしなやかな手足。
木洩れ日にそよぎ、仄赤くも仄青くも照り返る白い髪。
人喰いの姫。貪食の権化。
大罪、コーシャ。
「……いつからそこにいた?」
「寄ってたかってニグラムちゃんをもぐもぐするところからっ」
コーシャは親指を立てた拳をユージニアに見せつけ、あまつさえ片目をつぶってみせた。
「いつ気づくかなー、とか思ってたんだけどぉ、意外になかなか気づかれないもんだねー」
「……」
ユージニアは膝を屈してしまいたい気分だった。なぜ。なぜ気がつかなかったのだろう。気がついたところでもはやどうにもならなかったとはいえ、コーシャほど目立つ容姿の者が紛れ込んでいてどうして気がつかなかったのか。それほどまで胡椒の魔女を屠ることだけに夢中になっていたというのか。
「まあニグラムちゃんまでさっぱりなのは予想外でしたけどねー。あれで自分が従者だって言うんだから笑っちゃいますよねー」
「きぃっ、気づいてましたわよぉおぉぉおぉ……」
釈明は井戸の中で悲痛に反響する。えぐえぐと涙声になりながらもニグラムの身の潔白に関する訴えは滔々と流れ出ていたが、コーシャは一心不乱に亡者たちを眺めまわして、「やっぱりすごーい。全然腐ってないし」とひたすらユージニアの擬蘇術に好評を与えていた。ニグラムの泣き声しかしなくなった時分にそれもようやく飽きたらしく、幾条か髪を井戸に伸ばして、ずぶ濡れのニグラムをひょいと引きあげる。かなり高速で引きあげられたためか目を回したニグラムを、そのまま井戸の上につるしあげ、その鼻先に身を乗り出す。
「助けてほしい?」
「はひ、助けてくだひゃってありがとぅごじゃいみゃ……へ? まだ助かったことになってない?」
「んー、どーしよっかなー。なんか遅れとっちゃってたしなー」
風もないのにニグラムの体が振り子のように揺れ動く。その口からはしゃがれた金切り声が飛び出した。さらにコーシャが髪を伸び縮みさせることによって縦の運動がそこへ加わり、絞めつけと浮遊感からか決死の嘆願が搾り出される。
「うっひぃぃ! ごめんなさいぃっ、助けてくださいぃぃ! もう暗くて狭くて冷たいのは嫌ですのぉぉぉぉ!」
「ああッ! と、髪が滑りそうですわー? ほーれ、ほーれ、ほーぉーれーぇー」
「いちょおおおおおおおおお!? オゥエ! 出ちゃう! 止めて! 何か出ちゃいますの! せるふぃぃぃゆ! せるふぃぃぃぃグュュュュ!」
「ニグラムちゃんマジ従者の鑑だわー。もうちょい振っとこ」
「脈絡ぅぅぅぅ!」
井戸の上で逆さづりにした従者をいびり続けるコーシャに、周囲に気を配る様子は皆目なかった。亡者たちどころかユージニアにさえ、すでに興味を失くしたかのようだ。亡者が押さえつけるように肩を掴み、同時にニグラムが「ああっ! 後ろっ、後ろ危険ですの!」と叫んでも、なおも悠長に首を傾げただけに留まる。背後では肩を掴んでいるのと別の亡者がそのときすでに大ぶりの鍬を振りかぶっており、コーシャがようやくそちらを振り向いたときには、鍬の刃先が吸い込まれるように彼女の脳天を捉えていた。
胸の悪くなるような音が鳴る。
振り切られた鍬の柄が途中からへし折れ、すっ飛んだ刃が近くにいた亡者の顔面に音を立てて突き刺さったのだ。
コーシャは涼しい顔で、足元に突き立った柄だけの鍬を眺めおろす。無傷のその頭を振って、首の骨を鳴らしてから、ふっと唇を喜色で歪めた。
「せっかちだなあ。ひと声かけてくれればいいのに」
一条だけ伸ばしていた髪を振るう。その先端につりさげていたニグラムを、肩を掴む亡者たちに向かって放り投げた。
「せろり!」
悲鳴と共に亡者二人ほどを巻き込んで地面への復帰を果たすニグラム。ちょうどその向こうに、血走った眼でコーシャを睨むユージニアがいた。
コーシャはそこへ向かって胸を張り、そこへ向かって得意がるように満面の笑みを見せる。
すると擬蘇の魔女は、いささか青ざめて怯む様子を見せた。しかし歯を食いしばって息を吸い込むと、両の手を拳にして、胸の前で互いに打ち合わせるようにした。さらにその拳を振りあげ、ひざまずくようにして、二つ同時に地面へ叩き込む。
大地は音を立てない。
魔女とて、肉体は人である。不老ではあっても石の巨人のように強靭ではなく、生身の強度は見た目通り童女のそれだ。その細腕では何を殴ろうと穿つには至らない。山鳴りは起こらず、大地は割れもしない。
しかし顔をあげたユージニアは、自身を巨岩をも砕く暴鬼に見立てていた。それが彼女の渾身の虚勢だ。再び睨み据えたコーシャに向かい、勝ち誇るかのように、めいっぱい口角をつりあげてみせる。
「急いた甲斐ならば、あるとも。間に合ったぞ、貪食姫」
あたかもその虚勢にこそ応えるがごとく、このとき大地が鳴動した。
雪崩に似た地響きと共に、ユージニアのいる場所が跳ねるように隆起する。
盛りあがった大地はねじれ、渦を巻いて天高くまで伸びあがり、またたく間に塔となった。その噴流はすさまじく、亡者や草木をも巻き込んで、土塊の塔は太さと高さを急激に増していく。
コーシャは一歩二歩と後退ってから、感心したようにその塔の先を仰ぎ見た。
辺りの梢を早くも追い越して高さを打ち止めにした塔の先端は、今度は花が蕾をつけるようにふくらみ始め、罌粟のそれのように重く垂れさがってコーシャの頭上に影を落とした。割れ目のない蕾だった。代わりにぼこぼこと、腫瘤のような丸い棘が表面に浮かぶ。
棘は六つ並び、やがて各々で裂けて、上顎と下顎を手に入れた。
さらにその根元からふくらみ頭をつくり出す。尖った耳が二本ずつ突き出し、牙のない顎門が大きく開いて、猛烈に吠え立てた。
いかにもそれは狼の咆哮。
空を割り地を吹き飛ばすほどの怒号に晒されて、村の家々や木々はことごとく軋みをあげる。見あげていた白い少女も「ひゃーっ」と悲鳴をあげて耳を塞いだ。
「六道門! これはおそれいるよー!」
「土が何でできているか、知らなくはないな?」
「全部死骸でしょー?」
獣頭をもたげる塔の内側から擬蘇の魔女が問う。姿は見えなかったが、あっけらかんとしたコーシャは如才なく答えを言い当てた。「そのくらいわかるよー」とからかい気味の言葉が続いたが、ユージニアはそれを鼻で笑い返す。
「ならば饕餮の魔性よ、恐れることだ。屍は罪を犯さない。まして貴様という存在は、生者の犯す罪なのだろう? 喰らうこともその罪も、生者のものであるならば、死は唯一の贖罪だ。わかるか、貪食? 貴様の目の前にあるのは数多の死。貴様を贖う死そのものだ!」
六つの顎門が同時に咆哮する。
その瀑布のようなとどろきに混ぜて、擬蘇の魔女は号令を放った。すると土塊の塔がしなり、獣頭の花冠が地上のコーシャ目がけて殺到した。
「雪がれろ、大罪!」
この結果がどうなるか、ユージニアにはわかってはいた。
かつて村を滅ぼすのに使った奥の手でさえ、貪食の姫には傷一つつけられない。
口上はすべて屁理屈とハッタリだった。
それでも、時間稼ぎくらいにはなる。
その間に彼を連れ出せばいい――と、思っていた。
案の定、獣頭はコーシャに届く寸前で、横合いから伸びてきた銀色の奔流で殴りつけられ、軌道を曲げて何もない地面に衝突する。ふくらんだ部分の根元を押しつぶされ、六つの頭がまるごともげて土に還った。しかしすかさず塔は先端をふくらませ、今度は土の顎門を細い蔓のように飛び出させてコーシャに迫る。途中で跳ねあがった白髪に絡め取られて断ち切られはしたものの、何度も再生しては果敢に貪食の川を乗り越えようとする。ユージニアの魔力が尽きない限り、延々と不毛な攻防をくり返せる見込みはあった。
が、土塊の塔は動きを止める。
否、先に止まったのは貪食の姫の方だ。
伸び散らかした髪を無造作に地に広げたまま、逐一獣頭を削ぎ落とすことを出し抜けにしなくなった。一番長く伸びていた土塊の顎門がそのほっそりとした胴に喰らいついたが、コーシャは顔色一つ変えず、地面にたたきつけられてもなすがままだった。ユージニアからしてみれば、まず自身の魔術が届いたことに動揺を禁じ得ず、さらに相手の振る舞いを見て、混乱しないわけにはいかなかった。
ややあって、仰向けに倒され、土塊の下に押さえつけられたままでいたコーシャの口の端から、乾いた声が漏れた。
ユージニアの聞き間違いでなければ、それは押し殺した笑声にほかならなかった。そして事実は確かめるまでもなく、コーシャ自身がこらえるのをやめることによって証明される。
軽やかにころころと弾む彼女の笑い声は、本当にこのような場でさえなければ、春の雪解け水のせせらぎよりも聴く者の心を喜びで満たしたことだろう。
その玲音でひとしきり腹を抱え続けた後、また一つ息をついてから、彼女はどこか仕方なさそうに言葉を発した。
「あなた今、最高に擬えられてるの、自覚してる?」
「……は?」
塔の中のユージニアは、一瞬何を言われているのかわからず首を傾げたが、数瞬の後には目を見開いていた。その閃きと同時に、言葉にならない恐怖が彼女を襲った。
彼女は、この村を奪いに来た者に制裁を与えていた。
それはあのときと同じだ。あのときと同じ状況、同じ構図。ユージニアは自分の魔術を使い、侵略者を打ち滅ぼそうとしている。
あのときと同じなら、この結末はどうなる?
ユージニアは自問する。いや、同じにはならない。相手は人間ではない。貪食の姫には勝てない。擬蘇の魔術は負け、村は喰い尽くされるだろう。それで、同じにはならない? 本当にそうだろうか。もしこのまま彼女を蹂躙し尽くせたとしたら、その後がどうなるか、自分は知ってはいまいか……。
「どうしてそこで考え込んじゃうかなぁ?」
「……っ!?」
コーシャからは姿が見えないはずだというのに、ユージニアの内心の動揺は筒抜けのようだった。完全に平静を失っているその様子を、コーシャは憐れむかのように、仰向けのまま今度は苦笑をこぼしてみせる。
「なかなか人間らしい〝業〟が持ててよかったじゃない。大切なものを守るために、一番欲しかったものを捨てたんでしょう? 結果的にあなたが村を喰らい尽くしてはしまったけれど、力が身に余るというのは人の特権だもの。ここへい続けた甲斐はあった。あなたの選択は間違っていなかった」
「ち、ちがっ……」
「違うの?」
「……ッ」
ユージニアにはコーシャの真意がわからない。彼女はなぜ慰めのようなものを突きつけてくるのか。本能的にそれが拒絶すべきものだとだけはわかった。しかし問い返されたときに、ユージニアは答えを呑み込んでしまった。後悔が押し寄せてきても口が開かない。そもそも何の後悔なのかユージニアにはわからない。コーシャの言葉はずっと、まるで慈母のささやきのように聞こえていたからか。
「それはそうと、うちの味付け係がどこで油を売ってるか知らない?」
「え……」
我に返ったユージニアは、そこで悪い予感と共に凍りついた。いつの間にか、至極身に覚えのない匂いが鼻孔をつついている。土と枯葉と青草と、かすかな亡者たちの屍肉の合間に、それはもはや充満し切っていた。濃厚でなくとも煙たさを覚える独特の香気。悪魔をもたぶらかす、調理場の魔法。
貪食する者は屍肉をも喰らうだろう。
だが土は否である。いかに死骸のなれの果てとて、還り切った土はもはや肉でない。百年生きた擬蘇術師はついにその境界を乗り越えたが、貪食の姫はいまだ肉の海からあがれぬ鯨だ。
だが、あの魔女は境界を歪める者かもしれない。
コーシャの髪が再びさざめき流動を始めていた。束ねられた濁流は一本の銛となって波濤のように突き進む。ユージニアの魔術が、土塊の蔓に顎門にと、死に物狂いで次々打撃をくり出すが、白銀の銛に触れるたびあっけなく打ち砕かれる。もはや味付けされ切ったユージニアの死の塔の根元へ向け、ついにコーシャの銛は深く深く突き立った。
そのすんでのところで、ユージニアは魔術を放棄する。
塔に横穴を開けて外へ這い出ることを選んだ瞬間、自分のそばを苛烈な濁流が下から上へ突き抜けていくのを感じ取った。その衝撃に巻き込まれ、粉々に砕け散った土塊と共に外へ弾き飛ばされる。
土や木の葉の渦の中でもみくちゃにされながら、ユージニアは地面にたたきつけられ、さらに降り注ぐ塔の素材で生き埋めになりかけた。極めつけには、亡者が一人落ちてくる。それは足の上に直撃し、右の膝が音を立てて変な方向に曲がった。左手首にもすでに火がついたような感覚があった。
濁流にねじ切られるような痛みを全身で味わいながらも、ユージニアは必死で正気を保ち続けた。ほとんど無意識に右手だけで地面を這って、屍肉と土塊の山から脱出を試みる。足に覆いかぶさる亡者は骨格を粉々に砕かれたらしく、使役者が何度命令を送ってもぎくぎくと痙攣するようにうごめくばかりだ。
やっとのことで右足以外の全身を引きずり出したところで、ユージニアは白い素足と鉢合わせした。
肘を地について、その全身を仰ぎ見る。凛とした美貌がどこか遠くを眺めていた。その目に映っているのは、いまだ火の手の衰えていないエミールの家だ。
それに気がついたと同時に、どこかで瓦礫の崩れ落ちる音を聞いた。途端、ユージニアは総毛立つ。
コーシャと同様にエミールの家の方を見た瞬間、その怖気は絶望に取って代わった。
全身の痛みが炎に変わり、焼き焦がされるような苦しみの中で、ユージニアは自身の金切り声を聞く。
「やめて……それに触らないで!!」
ユージニアの周りから音が消えていた。
素足で草を踏む音だけが、彼女の世界で鮮明に響く。
停止した世界で、白い人影だけがある場所へと近づいていく。
燃える家の壁が突き崩され、落ちた屋根の下から焼け焦げた死体が一つ、白銀の髪によって引きずり出されようとしていた。両手を広げて磔のようにされ、その青年は火のそばに掲げられる。昏々と眠り続ける彼のもとへ歩み寄って、コーシャはその火傷の少ない顔を覗き込み、すっと目を細めると、擬蘇の魔女を振り返った。
「この子、盗賊の方だったでしょう?」
「あぁっ……!」
ユージニアからは意味のない嗚咽と悲鳴が噴きあがる。
コーシャの髪が青年の上着を引き裂いた。
露わになった左側の胸には、王冠を被った猫頭の蜘蛛が彫り込まれていた。その印章に細い指先が触れる。
「帰ってきた幼馴染は、この体の持ち主。名前だけ変えて、こっちがエミールならよかったのに、っていうもしもを叶えたんだね。あなたの役はその妹。あなたの望んだ一番美しい過去」
「……違う」
震える声で、やっと聞き取れるかどうかというか弱い吐息で、魔女は真実を拒んだ。
けれどもコーシャは、ゆるゆると首を振る。
「拍子抜けだなぁ。これはただの改竄だよね。あなたの恣意的なお芝居で、過去のやり直しですらなかったっていう」
「違う……」
「ここへ帰ってきたのは誰? あなたが殺めたのは誰だった? 自分ではわかってる。誰を何と呼びたかったのか。でも、きっと答えられないんだね」
「違う……違うッ……!」
「擬えることすら捨ててしまった。あなたが最後に愛したものは何? あなたが憎み続けようと決めたものは、結局どちらだったの?」
「ち、が…………っ…………」
ユージニアは奥歯を噛みしめ、崩れる土塊を握りしめた。目から温かなものがこぼれ落ちて、拳を濡らす。
いつよりも遠いかつて、何がどうだったのか、彼女にはわからない。彼女にもわからない。
悠久の時を一人、暗い森の奥で過ごした。恐れられ、蔑まれ、いたぶられ続けた末に、永久に隠れ潜んで生きていくことを決めたはずだった。
けれど、誰かが思い出させてくれた。
悠久よりさらに以前にあった安寧を、昂揚を、健やかな心を。
連れ出してくれた。あの隠匿の庵から。呪いのように錆び朽ちた日々から。
誰、だっただろう……。
今一度、少女は目の前の青年を見あげる。
頼りない面差し。それに似合わず、聡明で闊達で精悍な心を持って生きていたあの少年の頃。その明るい瞳が、洞穴の中で魔女を見つけた。
「ベレム……」
それが彼女の守りたかったものだ。
「っレム……ベレム……!」
永遠に手離したくなかったものが、まだ目の前にあった。目の前のそれがまだそうであると思いたかった。欲しかったものだ。大切だったものだ。遠くに行かせてなるものか。わたしのものだ。わたしの守るべきものだ! か細い腕を必死で伸ばし、二度と失うまいと目を見開き、喉が裂けるまでその名を呼んだ。
呼ぼうとした。
「答えられないなら、もういいよね?」
玲瓏と響いた声。それは誰にとっての福音だっただろう。
白銀色の川が青年を呑み込み、赤い飛沫をあげて何もかも押しつぶした。
川は蛇のようにうねり、糸の切れた死体たちをその激流の中に次々呑み込んでいく。
村を一周するように泳ぎ回り、ついにその先端は箱庭の人形師の前に迫る。一旦そこで勢いをゆるめた貪食の大蛇は、少女の眼前に歯も舌もない顎門を開け広げた。
その瞬間、ユージニアはつぶやいた。
「死にたくない……」
「何だってそうだよ」
世界が純白の闇に覆われる。その寸前、ユージニアは懐かしい双つのきらめきを、顎門の喉奥に見たような気がした。
話し声が聞こえる。
いつものように、窓のすぐ下だ。
たまにこうして揺り椅子の上でまどろんでいると、外で話している人の声が聞こえる。特に月の明るい夜は、空気が冴えているせいか、歩く足音まで聞き取れることもある。今日はそういう日だった。
眠気でぼんやりとしていたが、先に扉を閉める音を聞いた気もする。ので、おそらく義父を訪ねてきた二人組が連れ立って帰るところなのだろう。足音は二つある。ふらついているのか、少し乱れてもいた。わりあい遅くまでお酒を振る舞われていたらしい。もとい、酒好きの義父がまたしつこく引き留めていたのだろう。
話し声の様子からして、二人ともあまり機嫌がよさそうではなかった。義父の酒に付き合うときは皆辟易する。だが、それにしては口数が少なく、声もやけに小さかった。いささか様子が奇妙に思えた。義父の悪口を聞きたいわけではなかったが、なんとなく口ぶりが気になって耳をそばだててみる。
「やっぱり薄気味悪いな」
一人がそう言った。あれはいつも豆を持ってきてくれる男性だろう。「だなぁ」と相づちを打ったもう一人は、炭焼きの老爺だ。
「まるで歳を重ねてるようには見えねえのがなあ。あんなんで、本当にもらい手が決まるのやら」
「いやな、とっつぁん、嫁ぎ先なんざ心配してる場合かよ。ありゃあ、村長の隠し子だって話も、今さらだが怪しいもんだぜ。死んだ奥さんにはまるで似てねえし、村のどの女ともそうだろ?」
「んじゃあ、魔女か何かだってのかい? あの子が今さら」
「そりゃあ、今さらも今さらだから俺も思わねえし、あのベレムがどっかから連れてきたって噂してるやつもいるしよ。ただの拾い児だったかもしれねえが、けど、薄気味悪いよなあ」
ああ、私のことを話しているんだ……。
自分がどんなに間抜けだったとしても、それがわからないことであるはずがなかった。ずっと以前から自覚していたことでもある。私が能天気な楽天家だったときだけ、このようなことを案じたりしないのだろう。
私と彼ら人間たちはそもそもが違っている。同じ流れの中を生きてはいないから、手を繋ぎ合えばいつかは破綻してしまう。
いつかはいつかだ。と思ってもいたが、必ず来るともわかっていたし、覚悟もしていた。そして、そろそろだとも気づいていた。
潮時なのだ。潮時が近づいている。
ここにい続ければ、もう一度会えるような気がしていた。ここにいて待っていれば、いつか帰ってきてくれるんじゃないかと、半ば信じるようにして願っていた。
ここが私のいる場所である限り、祈り続けていてよいのだと。
きっと間に合わないだろうと、わかってもいながら。
だから頭のいいことをいえば、すでにいなくなっておくべきだったのかもしれない。この場所を捨てる。あの人を捨てる。どちらも結局、私が持ち続けるには重すぎるものだ。本当は、あの夜が明けたときに、私も夢から覚めるべきだった。
なのに、まだぐずぐずとまどろんでいる。今このときも、あの夜も、同じように窓辺に腰をおろして、ぼんやりと月を見ていた。戸を開けて閉める音に少しだけ目を開けて、足音に耳を澄ましていた。あのときは確か、近づいてくる足音を聞いたのだ。階段が一段一段小さな軋みをあげて、そのたびにまぶたが重くなっていった。意識を失う前に耳元で聞いたのは、あの懐かしい声。
ジニー。起きて、ジニー。
「行こう、ジニー。馬車を見つけた」
頬に触れる手を感じて、今一度目を開く。
朝焼けがまぶしい。夜気の余韻が肌寒くて、あたたかい彼の手に両の手ですがってしまう。頬を擦りつけると、土のにおいがする。彼のもう一つの手が額をなでた。
「ジニー、汗をかいてる。うなされていたよ。昨日ずいぶん歩かせてしまったから、疲れてしまったんだね」
「怖い夢を見たの」
太い指に涙を拭われながら、私は言いしれぬ安堵と共に息を吐いた。
「あなたが一人で行ってしまう夢。私はいつまでもあの村で待ち続けて、いつしか正体を怪しまれるようになっても、諦め切れずに待ち続けるの。最後は覚えていない。何度も同じ夢をくり返していたような気もする……」
「ジニー、夢は夢だ」
彼が耳元でささやいてくれる。心優しい少年のような、出会ったころと変わらない、おだやかで透明な声で。
「どんなに本物を擬えられていても、それが本当になることはないよ。まやかしと同じだ。大丈夫。きみはここにいる。ぼくと一緒に村の外にいる。ほら、しっかりと手を握って。掴んで。立てるかい? 少しだけ歩こう。馬車に乗るんだ。二人一緒に」
彼に手を引かれて歩き出す。
不思議と体が軽い。このまま飛んでいってしまいそうだ。
困ったことには、辺りに高い木が見当たらない。
ただ広い平原にいた。
低木の陰に荷馬車が停まっている。
黄色い太陽が小高い丘を照らしていた。
あの若草の丘の向こうへ行きたい。
きっと彼となら行けるだろう。
彼方まで行きたい。
二人離れることなく。
もはやそれはきっと叶うことだろう。
月は隠れ、夜は明けたのだから。
湿り気を帯びた岩肌は冬の氷より時に冷たいからか、頬にあたる木漏れ日が無性にあたたかく感じられた。清流を舐めるそよ風の余波が殊更に心地いい。鳴いているのは、翠鳥か。懐かしい泥と苔の香りを吸い込んで、ユージニアは眠りから覚めた。
彼女はどこか、小さな渓谷にいるようだった。ごつごつとした白い岩の合間から、可愛らしい飛沫と水音があがっている。森の奥の水場だ。さえずる鳥の声にも、木々の並びや岩の形にも覚えがあった。かつて住まいにしていた岩屋からほど近い場所にいると気づくと同時に、今しがたまで眠りこけていたことを自覚した。流れのそばに腰をおろし、冷たい岩に背を預けて。
(夢……か)
最初に去来した感覚は、嘲笑だった。らしくない夢を見て、いい気になっていた、自分に対する軽蔑の念だ。思い起こす限り、腹を抱えて笑い転げてもいいほど滑稽な夢だった。が、むなしくなったので考えるのからやめた。実のところ、鮮明に思い出せる部分が少なかったからでもある。
次に、驚いた。何に驚いたのかすかさず自分でもわからなかったし、不可思議さの方が気にかかったせいで、どんな顔をしてよいやらわからなかった。四肢があるのをまず目で確かめて、それから適当に利き手をかざしてみる。日差しがあたたかい。吹き通る風が涼しい。手を握ると、五指それぞれに力の入る感覚がわかった。拳の内側で爪が手のひらに食い込んでいく。
「生きている……だと?」
ユージニアは手のひらを何度も見返して戸惑った。もしやこれもまた夢なのではないかと、次第に根拠のない疑いに取りつかれ始める。しかし夢でないのだとしたら、自分はここへどうやって辿り着いたというのだろう。あの恐ろしい出来事から、どのようにして逃げ出してきたというのか。
恐ろしい出来事――ユージニアはそれこそが真実であることに思い至った。あの結末から逃れられたはずがない。つまり、今はやはり夢を見ているのだ、と結論づけようとした。しかし、その出来事の方を克明に思い出そうとすると、どうも頭の中に靄がかかったようになってうまくいかない。そんなはずはない、逆にあの恐ろしい出来事の方が夢だったとでもいうのか、と自問するが、答えは曖昧なままでユージニアを酷く懊悩させる。
そこへ赤い羽虫が飛んできた。赤い羽虫が飛んできて、ユージニアのかざした手にとまった。
その羽虫を目で追い、指先を這うこそばゆさをユージニアは確かに感じ取る。この感触もはたして錯覚だろうかと自問しかけはしたものの、そのときばかりはなぜか疑わしい気持ちを抱けなかった。
驚いた鳥たちが盛んに羽音を立てる。指先の羽虫も飛び立っていった。その大声を聞いて、ユージニアも我に返った。
「本当に連れていくおつもりですの!?」
沢の方から話し声がする。何か言い合いをしているようだった。一人が語気を荒げているので、水流の音にかき消されずユージニアの耳にもよく届く。その噎せ返った後のようなだみ声には、聞き覚えがあった。
ひとまず起きあがろうとして、ユージニアは自身の右足と左手が動かないことに初めて気がついた。見れば、どちらも細い薪を当てた上から色褪せた布がやたら厳重に巻かれている。布の中身がどうなっているのかを思い出すのに、さして時間はかからなかった。しかしなぜか痛みを感じない。それ以前に、左手の先などが何かに触れている感覚もなくなっていたのだが。
けだるい痺れのような感覚は全身にもあった。眠りの余韻に似ていたがどうやら違うようだ。幸いか、体が動かないわけではなかったので、右手と左足だけで苔のない岩を選んでつかまり立ちをし、その岩から身を乗り出すようにして、沢の方を覗き込んだ。
「ご立腹だなぁー」
どこかわざとらしい呆れ顔をした少女が、小川の中程に立って腰に手を当てていた。濡れた白髪を裸身に張りつけ、膝まで流れの中につかっている。ぼろ切れ同然だった衣服を捨て去ったその姿には、もはや神聖さ以外の何も残ってはおらず、水辺の翡翠石に宿る精霊と見紛うようだ。
片や、水際に突き出した岩の上へしがみつくようにしながら、黒衣の少女がしきりに喚き散らしていた。「いいからっ、ちゃんと説明してくださいまし!」しわがれた怒声は果敢に清流を波立たせんとしていたが、当の声の主は流れを見渡して絶えず子犬のように震えていた。
「ににに、ニグラムよりかわいらしいからなんて理由でしたら、お聞きしませんわよ!」
「え? それは大いにあるよ」
「なあああ!?」
むしろ問われたことが意外ですらあるというように返されて、黒衣の少女が絶叫する。ユージニアは紅榴石のはまったあの眼帯の下に眼球があるのかどうか知らなかったが、もしあるとすれば今どれだけ涙を溜めていることだろうかと想像した。今の光景にすらすでに小気味のよさを覚えていたので、その想像の半分はユージニアの願望でもある。
「まっ、真面目に答えてくださいませ!」
「真面目ねー」
コーシャの表情は困っているというより不満げだった。自分は至極真面目なつもりなのに、と顔に字で書いてあるかのようだ。しかし引きさがらない従者に懇願され続けると、呑気に水浴びを続行したい気持ちも多少は薄れるらしい。
「まー、ニグラムちゃんが納得しそうな《真面目》で言えば、やっぱユズにゃんがスゴイからかなー。だって屍肉なのに、生きてるのとほとんどおんなじ味がするんだよぉ? ケモノ肉や粘土で補修してるのもほとんど区別つかなかったしー。まー、土ばっかりだとさすがに落ちるんだけどー」
「……つ、つまり、何ですの? 屍肉を再生させて、食料を確保しようという魂胆ですの?」
「うーん、あと貯蔵係もかなぁ。ウン十年物とかもあったはずなのに、味落ち全然してないみたいだったしー。あっ、それからそれから、ケモノ肉をヒトっぽくできるってのは強みだよねっ」
「待ってくださいですの! 貯蔵と加工ならニグラムめにも充分できますのよ!?」
「おお! じゃあ、もう《ニグラムいらず》だね!」
「は? え、えぇええ!?」
手を打ってにこにこと微笑む主人と、がくっと顎を落として凍りつく従者。半分はユージニアにとっても溜飲のさがるやり取りだったが、もう半分についてはまったく安穏としていられるものではなかった。
なにしろ間違いなく自分の話をしているのだ。あの貪食の姫宮というやつは、調理師か何かとしてユージニアを連れていくとのたまっている。人の箱庭を完膚なきまでに叩きつぶしておきながら、その主を従者として軽々しく召し抱えてやろうというのだ。どういう神経をしていればそのように手前勝手な発想に至れるというのか。ユージニアには理解が及ばなかったが、しかし、自分がそれについて焦り散らすほど感情的になれずにいることにも、遅まきながら気がついていた。
「えーえー、ではでは、本日をもちましてぇ、ニグラムちゃん、従者解任とさせていただきまーす」
「ちょぉぉっ、お待ちに! いきなりですの!? い、いけませんのっ、ニグラムを捨てるなどそんな!」
「タッシャでね、ニグラムちゃん、お魚さんたちと元気にやるんだよ?」
「どぉっ、どどどどういう意味ですのぉぉぉ!?」
涙を拭うふりをしながらコーシャは髪を伸ばすと、素早くニグラムの腰に巻きつけてひょいと彼女を持ちあげ、有無を言わせぬうちに水の中へ叩き込んだ。小柄なニグラムでも半分しかつからないような浅瀬だ。だが流れは早く、水を吸って固まる胡椒の肌を容赦なく削り取っていくには充分だった。
「ばじぃぃぃる!! 溶ける! コーシャ様っ、溶けてますの!? お助けを! 後生ですからっ、後生べあぶぶぼぶぼ」
「はいはい、お顔までつかりましょうねー」
「ごべ、っ、ぼぼぶ、ぶっ、ぶぶぶぶぶぶぶぶッッ」
ニグラムは息ができなくとも死なないのだろう。首に巻きついたコーシャの髪に引かれ、頭を沈められても首から下はばしゃばしゃと延々暴れ続けていた。とはいえ逃れようはないし、頑丈であるだけになかなか逃してももらえない。
ああいう扱いは嫌だな、と真剣に考え込んでいた自分に気がついて、ユージニアは苦笑した。
貪食の姫は人の箱庭を完膚なきまでに葬った。完膚なきまでに――そうだ。それほどにだ。もはやあの場所には何も残っていない。あの場所は残されていない。行くところも、帰る場所も自分にはもうなくなった。貪食の従者となって、姫宮の夢見る牧場の支配人となるほかに、道があるだろうか。
牧場を管理し、家畜を肥え太らせ、殖やし、姫宮に納め続ける。貪食の大罪に沿うように。
……貪食?
そのときユージニアの中で引っかかるものがあった。あるいは、投げやりで怠惰な思考が焦点から逃げるように目を逸らそうとしたのかもしれない。
《貪食》と《管理》という言葉が頭に残る。
それをよく吟味もしてみないうちに、違う、という言葉がいつのまにか舌の上に乗っていて、ほんの少し唇に隙間を開いただけでするりと漏れ出た。
「違う……?」
「何が違うの?」
再び沢を見おろす。頭から白髪をさげた裸の少女が、ユージニアを見あげていた。蓮紫色の瞳に、擬蘇の名を冠する小さな魔女の顔が映り込んでいる。まるで真夏に雪でも見たかのような顔だった。
ニグラムはいまだに溺れている。
ユージニアは問い返した。促されるまま。不思議と怯えやためらいはなかった。
「お前は、貪食か?」
コーシャは曖昧に首を傾げる。答えない。やにわに愛想よく微笑んでみせただけ。代わりにユージニア自身が、「いや、違う」と、おもむろに否定してみせた。
「貪食とは、無下に喰らうことの罪だ。食欲が起源ではあるが、その欲に逆らわず放埓になすこと、それがゆえの罪だ。その罪そのものであるお前自身が、悪食を拒み、産めよ殖えよと指揮するのは矛盾に満ちている」
「食べるものがなくなっちゃったら、元も子もないんじゃない?」
「それだ。その理性だ。放埓の罪が、なぜ理性を持つ?」
今このとき恐怖を感じていない理由をユージニアはようやく知った。この問いに意味はない。ユージニアには関係がないことだ。だがその答えは、あえて隠されている何かなのだ。貪食の姫が隠しているのか、胡椒の魔女か、あるいは両方か。いずれにせよ、ユージニアが代弁しているのは、本来コーシャらが自問すべき胡乱であった。
その胡乱がユージニアによって、ユージニアの口から、くっきりとかたちをなすように紡がれていた。
「貴様は……何だ?」
微笑するコーシャの眼差しが、不意に足元で水音を立て続ける従者に注がれる。おもむろに片足をあげた彼女は、その丸い踵で従者の頭に乗せて、強く水底へ押しつけた。
髪を使わず、自分の足で。
その唐突で嗜虐的な奇行はユージニアをいささかたじろがせたが、同時に悟らせもした。
「もしや……《貪食》はそちらか?」
「わりとわかるよねぇー」
どこか自嘲するようにコーシャが相づちを打った。流れの向こう岸で、鶲か何かがしきりにさえずっている。コーシャにつられ、ユージニアもそちらを見ると、濡れた岩の上で瑠璃色の鳥が羽虫をくわえていた。
「〝餓死者の血を受けた杯とパン、三百対。三日のうちにこれを呑み干すことができれば、汝の魂は貪食の罪の顕れとなるだろう〟――この子がわたしに捧げた黒魔術は、だいたいそんな感じだったかなー」
「お前、元は人間か?」
コーシャはまたも口を閉ざす。何気ないかのように軽く息をついただけ。だがユージニアは、それを肯定のしるしと見なして、「しかし」と続けた。
「大罪の器となったのならば、やはり貴様が貪食の権化でなくてはならんではないか。その魔女はずっと従者と……」
「裁かれない罪なんてある?」
罪業が振り返り、ユージニアを見あげていた。毅然としたかんばせは狩人の守護女神を彷彿とさせるのに、死者を慰める祈り子のような目をしているのを見て、ユージニアは息を呑んだ。その瞬間、姫宮の言葉尻を理解した。
「……お前は、断罪なのか」
コーシャが微笑む。肯定が答えだとすればそれで充分であった。
「なぜ終わらせない?」
ユージニアは眉をひそめる。思わず岩の向こうまで身を乗り出しかけた。
「お前が終わらせなければ、その魔女は不死のままだぞ! その罪と罰をも叡智と思い込み、自らの理想郷を求め続ける。よもやここまで堕ちた心を救おうなどと浅はかに望んでいるのではあるまいな? そんなことのためにッ……!」
そんなことのために、私から村を奪ったのか――
ああ、なんだ。私め、ちゃんと怒れるじゃあないか。
天秤にかければ理不尽であると気づいたからか、人の人らしい迷いが気にくわなかったからなのかはわかない。たとえ同種の者に対する、鏡に吼えるような忌避だとしても、少なくとも今昂揚できていることが、少なからず嬉しかった。
だが、この苛立ちはやがてしぼむ。
ついに動かなくなったニグラムを、コーシャの髪が流れから引きあげた。体の部分が流れ落ちて、ほとんど背中側の服だけになってしまっている。服自体も胡椒でできているはずだが、この状態で耳が聞こえたりはするのだろうか。
「不死は生け贄たちの怨念が呪いになっただけ、つまりおまけだからねー。わたしからもたらされんるなら何でも、死でも地獄でもこの子は喜んで受け取っちゃうよ。バッチコーイだよ」
服だけになった従者を川辺に横たえながら、彼女はこともなげに、おどけたように言った。「わたしが消えちゃうしかないのでぇーす。ね?」
「断罪を解く気か?」
ユージニアは目を瞠る。
「ありえない……できるはずがないっ! 赦されるということだぞ? 大罪がだぞ? 悪徳に酔って盗みを犯す、手癖の悪い子供を戒めるのとはわけが違う。ましてお前自身がっ……」
声を荒げるユージニアの目の前を、突然小さな影が遮った。鋭く鳴き散らす声と共に瑠璃色の羽ばたきが頬を叩く。
ユージニアは慌てて頭をさげて手で顔をかばったが、縄張りを守ろうとする翠鳥の威嚇は執拗に続いた。たまらず叩き落とそうと腕を振るが、その手はあえなく空を切った。
にもかかわらず、それ以上固いくちばしが彼女を襲ってくることはなかった。
追い払えたのだろうか、とユージニアがおそるおそる目を開けると、小鳥はきょとんとした顔をして目と鼻の先に大人しく浮かんでいた。羽ばたくこともせず、独活の実のような黒い目でじっとこちらを見続けている。その首から下を、蜘蛛の糸のような白い髪の毛が包み込んでいた。ユージニアが呆気に取られていると、小鳥を縛っていた白い毛がひとりでにほどけ、自由になった小鳥は颯爽とどこかへ飛び立っていく。
そしてユージニアは、派手な水音を聞いた。
再び沢を見おろす。と、川面にあの白い髪の毛が広がるようにして漂い流れていた。浅い流れへ仰向けに背中を晒し、少女は陽光を裸身にまとっている。目を閉じたその様子はまるで眠っているかのようにおだやかで、巡礼を終えた聖女がきっとこのような顔をするのだろう。現世に残した肉の殻を、聖遺物として禊いでいるところとよく似ていた。
「……私の関わるところではない、か」
溜め息まじりに一人ごちて、ユージニアは沢に背を向けた。すがっていた白岩に体をもたせながら、小石の原にゆっくりと腰をおろす。そこでふと思い至ることがあって、苦笑が漏れた。
「しかし貴様、私が擬蘇術師と知って、不死についても知識があるのではないかと踏んだのではないか? あわよくば、終わらせてもらおうなどと」
答えはない。そもそも聞こえるように問うたつもりはなかったし、しいて聞かせるつもりもなかった。どうでもよいことだ。
「まあ、構わんさ。あるいは、本当に私の求道がお前の役に立つときが来るやもしれん。どのみち私に選択権はないのだろう? 拒むのも飽きた。動機としては、復讐というのも存外悪いものではないのやもしれんしな……」
ユージニアは少しだけ振り返ってみた。視界は岩に阻まれて、主人とその従者の姿を見ることはできない。その大きな白岩は、あの日少年がその上に腰かけていた岩によく似ていた。頼りなさそうな顔をしているくせに、言葉はどこか常に自信に満ちていて、あつかましく取り入ってきたあの少年。事実、動きは活き活きとして、肝が据わっていて、それでいて心優しく、手にぬくもりがあった。あの日自分を連れ出してくれたあの彼が、いつかもあの岩の上にいなかったろうか。
「ぶほゥ! 死ぬっ! なくなるぅ!」
岩陰の向こうがまた騒がしくなる。あの噎せ声め。もう復活したのか。追憶を偲ぶ間も与えてもらえない。これからあの気狂いと己が同僚であることを想像すると、まったくもって反吐が出そうだが、まあそれは向こうも同じことだろう。いいさ。せいぜいあいつの目の前では、食事をうまそうに取ってやることにしよう。そのうちスープか水にたっぷりの胡椒を盛ってくるだろうから、香りには重々気をつけておかなくては。
――行こう、ジニー。
声がした。声が聞こえる。ここにいるとしきりに思い出すのだ。あの日の声。いつまでも私を呼び続ける。
――ジニー、馬車が来たよ。
ああ。馬車は来たともさ。二人で乗れる馬車が何度も来た。だが、いつだって行くのはお前だけだよ、ベレム。
私はここに残していく。あなたとの思い出をここに置いて、この渓流をくだっていくとしよう。
ただ、もうしばらくだけ、この耳元でささやき続けてほしい。
木のそばの日なた、湿った岩の上で、山鳥の羽音を聞きながら。
零れる涙は、この指で払うから。
束の間の無風が訪れる。のどかな転調が始まるそのときを待ちながら、古き魔女はもう一度夢見ていた。
麝香草の香りがする。
The Princess of Glutton & a witch’s “rondo”‐fin.
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断章~『王喰』~
かつて王は千年生きた。
かつて王女は千年生きた。
王女は卑しき神に身を捧ぐ。
偉大な神に仕えし王これを封ず。
王女は闇にて求道し王を屠ると誓う。
現身に器を設け、これに大罪を奉ず。
器は鬼となる。
名を《貪食》。
王女は貪食を現世に放つ。
貪食は王を喰らう。
貪食は城を喰らう。
貪食は民を喰らう。
貪食は国を喰らう。
ついに貪食は王女を喰らわんとす。
王女は胡椒に身をやつし、貪食はこれを喰らわず。
王女は喰らえと請い求め、貪食はこれを喰らわず。
貪食は王女のかつての妹。
貪食は王女の断罪なり。
貪食は王女を裁かず。
王女は貪食の従者となる。
貪食は王女を連れて贖罪を探す。
貪食は貪食たり得ぬことで王女を断罪せんとす。
胡椒に身をやつせし王女は現身に還らねばならぬ。
現身に還りし王女を、やがて貪食は喰らうだろう。
今に世界を喰らう、その前に。
世界人口総数――現在、八億六千万。
“The Princess of Glutton”‐all over.
貪食姫 -The Princess of Glutton-
学生時代にサークルに投稿させてもらった短編。ダークファンタジーっぽさを感じられる世界観で、人食いのパワー型モンスターを主役にしようと思って書いたものです。どちらかというとユージニアが主人公らしいですが(笑)
コンセプトは「腹ペコ怪物プリンセスとその狂信者が山奥の箱庭でひっそりお人形劇をして暮らしていた魔法使いの女の子から大事なお人形をみぃんな取りあげた挙句に無理やり召使いとして取り立てるお話」。
誰かのお口に会えば幸いです。