まほろばスーパースター

日々、工場で働いて、飯を食べて寝るという生活を送っていた村田は自分の輝く未来を夢みて動き出す。

「村田君、女はね、このネジと一緒や」
「え? はぁ。そうなんですか。」
「無造作に袋の中に詰められ、測りで量られ、機械でパタンと密封され、梱包され、やがて出荷されていくこのネジと一緒や」
「あ、はぁ。なるほど、なるほど。なるほどねぇ。」
分かったような、分からないような。いや、全然分からない。
まぁ、分かろうと分かるまいとどうでもいいけど。
そんなことは物凄くどうでも良かった。
「フッ」と短くため息して時間をチラ見した。
後1時間で解放される。
ガチャン、ギィ、バッタン。ガチャン、ギィ、バッタン、 ゴォォォという鳴り止まぬ、リズミカルな音がマッチするこ のネジ工場のオーケストラは平日の朝8時から夕方5時まで エンドレスで垂れ流し状態だ。
中学を卒業し、高校を卒業し、フリーターとしてこのネジ工場で日々単純作業を続ける今のこの自分にとって、女がネジと一緒と いう安井のおばさんの人生哲学に気を留めることもなく。
そんなことより今のこの現状に対してどうしようもない強い不安感と焦燥感に駆られていた。
この平尾ネジ工場の二階で連日繰り広げられる工場オーケストラを聴けば聴くほどその鬱屈した気分が募るばかりだ。
ゴォォォ。ガチャン、ギィ、
バッタン。ガチャン、ギィ、バッタン。
ゴォォォ。ガチャン、ギィ、
バッタン。ガチャン、ギィ、バッタン
たららったららんらら らんらんらん
単調なオーケストラの中、昭和の香りがする訳の分からない音痴な音楽が流れる。それによって定時のお知らせを告げる。
解放されるのにも関わらずその頓珍漢な音楽のせいで気分を害する。
カチャリとドアを開けると狭い、ごった返したタバコの煙がモクモクと立ち込めた煙ったい事務室で中年のおじさま達がパチンコや競馬の話に華を咲かせている。
いつもと変わらぬしみったれた光景だ。
そんなおじさま達に軽く会釈しつつ隅にあるタイムカードを押す。
ジジッジジジジというタイムカードに時間を記帳する古臭い機械の音。21世紀だぞ今は。
日刊スポーツを読みながら[]煙草を吹かす社長にあいさつをする。
「オツカレシタァ」
「オウ、オツカレサン」
視線を日刊スポーツから外すことなく、気の抜けた声で返答をする妊娠10ヵ月かと思われる腹を持つ社長。
これが自分の上司か。
ガチャッ
ジジッジジジジ
オツカレシタァ
オウ、オツカレサン
この多数の語音もいつもと同じ緩やかなビートで日々、刻まれていく。くだらない音だ。
駐車場に止めてあるブレーキがあまり効かない、赤茶色に錆びた自転車に乗り、ギィコギィコと4畳半一間の我が住まいへと、くさくさとした気分で、ダラダラと走る。
途中コンビニで晩飯のカップラーメンと今宵のつまみである生ハムと発泡酒を買い、また帰路へと向かう。
急ぐ訳でもなくダラダラと。
カン、カン、カン、カン、カンと古びれたアパートの階段をのそり、のそり、と昇る。
こうやってダラダラと惰性の中で生きてきた。
努力とは無縁の人生だった。
適当に高校を卒業し適当に過ごしつつ適当にパンクロックバンドをしながら適当にティッシュ配り等をしていると、
「もう少しまともな仕事についたらどう?」と俺の中の良心が語りかけてきたので、適当にタウンワークをめくっていると、ネジの検品、梱包という文字が目に入り、適当に単純作業が楽そうだと考え、適当に電話して適当な服で適当に面接に行った。
するとそこにいた適当なジャージを着た妊娠5ヵ月ほどの腹の社長が適当に履歴書を流し読みした後、
「ふぅん。じゃあ明日から入ってくれる?」
と適当に面接をパスし、そして適当にバイトとして入り3ヶ月目。
このまま適当にここにいていいものなのか。
別にこの工場の単純作業の仕事を否定している訳ではない。
この仕事を熱心に出来るのならばそれが天職でありその人の人生はきっと素晴らしい。
ただ、俺の場合はなんかこうもっと、ほら、今16インチのテレビの中で出演して歌っているジャニーさんみたにスポットライトを浴びたいわけで。もしくはなんかこうもっとクリエイティブなアートな仕事をしたいわけで。
カップラーメンの蓋の役割を果たしている財布をジッと見つめながら考えること約3分。
ネジ工場の単純作業がスポットライトを浴びておらず創造性が無いといっているわけではない。
いや、無いだろう。どう考えても。
職業に貴賎は無いという。もちろんその通り。
ネジに袋詰めるのも誰かがやらないといけない。
誰かがやらないと、市販のネジは剥き出しのまま売られてしまう。
備え付けの袋が横にあったりしてそこにネジを入れて商品を買わないといけないという方式になっていたかもしれない。
ネジのギザギザの部分が手に当たり皮膚が切れて血が出るかもしれない。
そうすると絆創膏も買わないといけない。そうなると家計が苦しくなる。
家計が苦しくなるとカレーライスの中の肉が減る。肉が減ると子供がイライラする。
イライラが募った子供は母に余計に反抗する。母はそれによってストレスが溜まる。それにより更年期障害が生じて大変になる。
父に倍八つ当たりし、気弱な父は鬱病になり仕事を辞めて離婚。
一家離散というように家庭不和が増える確率がそれだけでも増す。まだ他にも言えることはたくさんある。 
ネジを袋に詰める仕事は確かに必要だ。
しかし、俺がやらなくてもいい仕事だ。俺が死んでも誰かが出来る。
もっと、なんかこう自分だけが出来るというか。
自分の個性、アイデンティティを生かせるような、繰り返すが、
クリエイティブな仕事がしたいと渇望しているのだ。
しかし大半の人はそう思いつつも夢破れて山河ありで、肉 体労働やサラリーマンといった平々凡々とした定職に就くのではないだろうか。
怠け者で劣等感が強い癖に非常にプライドの高いこの厄介な性格と付き合うのは大変だ。
どうしても自分という存在を世に知らしめたい、認められたいという思いが人一倍強い。しかしそのくせ怠け者。
カップラーメンを啜りながら6個入り250円の一口から揚げの2個目を食べたところでふと箸が止まった。
来年、27歳。
――なんだ、まだギリギリ、若いじゃないか。
再び、ほくほくの唐揚げを口の中に頬張る。
若者には未来がある。言っては悪いが、安井のおばちゃん。
あんたの人生哲学は敗北者の戯言だ。女だって今は世に出ている。
安井のおばちゃん、あんたは戦うことを放棄したんだから、 愚痴を言っては駄目だ。
 未来、ミライ。そういえば昔アカルイミライっていう映画観たな。
 ミライ、ミライ、アカルイミライ、ミライハアカルイ。
 などとロボット口調で意味なく呟いていると酒もまわりなんだか愉快になり、首を左右にリズミカルに揺らしながら、アカルイミライ、アカルイミライ、と歌いそれなりに楽しい独り酒盛りとなった。
 ――ゴォォォ。ガチャン、ギィ、バッタン。
 ゴォォォ。ガチャン、ギィ、バッタン。
 ゴォォォ。ガチャン、ギィ、バッタン。
 たららったららんらららんらんらん
 ジジッジジジジ
「オツカレシタァ」
「オウ、オツカレサン」
 ギィコギィコ
 カン、カン、カン、カン、カン……
 カップラーメンを啜りながら6個入り300円の冷めた一口から揚げの2個目を食べたところでふと箸が止まる。
 来年、30歳。
 無かったことにしたい現実だ。そして今日も何事も無く、何事も起こさずに万年布団の中に潜り込む。
 干すのを忘れて2日経つ山積みの洗濯物の生乾きの臭いが俺を更に惨めにする。
「村田君、女はね、」
 今日も安井のおばちゃんの人生哲学を聞かされる。
 もうかれこれ3年間この安井流人生哲学にはお世話になっている。
 安井のおばちゃんはやたらと女を卑下するが、旧弊的なのでフェミニストという訳でもない。
 しかし戦う気力は無い。ただ自分の卑下した女像に納得している訳でもない。
 白か黒か決めてしまえ、おばちゃん。肉食女子か、大和撫子か選べ。と声にならない声をあげる。俺は白か黒か決める。
――この闇、この虚無を克服するにはやはり事を起こすしかない。あの時のように。
 ふっと『未来を、選べ』というトレインスポッティングの映画のパッケージに書かれている文字が頭に浮かんだ。諦めるか、挑戦か。
「ミライヲ、エラブ」
 早く選ばないと資本主義、民主主義、政治経済云々にケチをつけるだけつけて何も事を起こさない、どっちつかずの呟く愚民の仲間入りを果たしてしまう。
 それはつまり、安井のおばちゃんの二の舞ということだ。
 俺も自分の敗北哲学で「男は、このネジのような」とか、くたびれた顔して新入りのバイトに説教をする立場にまわってしまう。いかんいかん。頭を左右に激しく振った。
 この工場から脱出し、俺のおそらく、きっと、必ずや、あるであろう才能を発揮して社会へと出る。
 フラッシュをバシバシ焚かれるあっちの世界へと。
 あばよ安井のおばちゃん。
 人生哲学、お世話になったよ。洗脳される前に、オサラバ。
 たららったららんらららんらんらん。
 聴くに堪えないこの限りなく音楽に近い歪な音ともオサラバだ。
 ジジッジジジジ
「オツカレシタァ」
「オウ、オツカレサン」
「シャチョウ、ヤメマス」
「オウ、オツカレサン」
とそんな簡単に「はい、そうですか」と辞められるわけではないが。きちんと1ヶ月前に「今月いっぱいで辞めます」と伝えている。俺が辞めるというのに誰もねぎらいの言葉一つさえかけてくれない。
 安井のおばちゃんは休憩室で「寂しくなるわ」と言ってくれはしたが。
 その後に今生の別れとばかりに安井流人生哲学を聞かされたが何を言っていたか何一つ覚えていない。
畜生。俺のこの3年間はまさに水泡。無駄に歳を食った。
 あまりにも何も無さすぎて小説にすると2ページも満たないのではないかと思うほどだ。しかしもう忘れよう。
 そして、さぁ、新しい人生の門出だ。ネジとは違う何かを夢見て。
『俺は絶対ビッグになってやる』などと陳腐で頭の悪いことは言わないが。
 しかしやろうとしていることはビッグになってやるということとなんら変わらない。
 それなら一層のこと、『俺は俺の国を手に入れる』とか、ぶっ飛んだことを言ってみようか、ホトトギス。
 颯爽と駐車場まで走り、止めてあるブレーキが効かない錆びた自転車にかろやかに跨り、4畳半一間の我が住まいへと立ち漕ぎで疾走する。左へと右へとハンドルを揺らし、サァーッと風を感じながら。
 今日の晩飯は豪華にいこう。コンビニ寿司、チーズカマボコ、あたりめ、ビーフジャーキー、フライドチキン、生ビール、ウイスキー。
 アパートの古びた階段を「カンカンカンカン」とリズミカルな音を立てながら上る。

――本当のことを言うと、本当は、否、もちろん何か明るい  未来を目指して辞めた訳だが。今まで自分に嘘をついていた。
 コンビニ寿司のサーモンを口の中に放り込んだ瞬間、自分に嘘がバレた。
 本当は7割方の理由はいい加減工場の仕事が嫌になったからだ。
 夢を目指そうと思えばネジ工場行きながらでも夢は目指せるはずだ。
 とどのつまり、やっぱり俺はダメ人間な訳であって。
 しかしここいらで本気で変えたいという願いもあって。
 だから心機一転のために辞めたんだと自分に言い聞かせるが、やはりそれも突き詰めると言い訳に過ぎない。
 人間は妥協のための言い訳をする生き物だ。
 などと自己嫌悪に陥っても仕方が無い。
 折角の豪華絢爛なディナーが不味くなってきた。
 前を見よう。俺はネジ工場辞めたんだ。それはもう取り返しがつかない。
 そう、だから給料が無い。
 貯金は?そう、貯金なんて女々しいことは人生で一度もしたことが無い。故に当然のごとく貯金は無い。貯金が無いから金は無い。
 ということはだから、そう、どうする? 
 給料をまるまる貰って辞めることが出来た。故に手元には15万ある。
 そのうち5000円はつい今しがたコンビニで浪費した。
 月々かかる必要経費は家賃2万。携帯代5000円。食費1万。
 最低限必要なのはこれだけだと考え光熱費は放っておこう。
 しばらくは払わなくても使えるだろう。途中で止まった時はその時考えよう。
 ということは最低4か月ほど生活出来るはず。
 なんだ、一安心。
 その間に自分の才能を開花しさえすれば全てが丸く収まる。
 そう考えると飯が美味くなってきた。それに背水の陣ということわざがある。
 自分を極限まで追い込むことによってモチベーションを最大限に発揮させることが出来る。
 そう考えると4ヵ月あれば充分なんとかなる気がしてきた。
すると、根暗でニヒリストな俺が突如として頭を支配し、そして俺に語りかけてきた。

「おいおいおいおい、あんたどうしようもない馬鹿だな。そんな能天気で良く今まで生きてこれたもんだよ。それだけでも奇跡だぜ。もし、自分に才能が無かったら?
例え才能を見つけてもすぐにそれでおまんまが食えるわけじゃないぜ?
 それに、才能があるやつなんてのは世の中にはゴマンといるが、才能を開花させて世に出ることが出来るのはほんの一握りだぜ?
 そのうえ、その一握りの世間に認められたやつの中でそれだけで飯が食えるのはその中のごくわずかだってこと知っているかい?世間知らずの救えぬガキよ。
 カエルが孵化して親ガエルにまで育つのは数匹程度だ。
 確率にしてみれば1~2%。言いたいこと分かるか?
 分かったならいつまでも乳臭いこと言ってないでとっとと仕事を捜しな」
 食べていたビーフジャーキーを吐きそうになった。
えずきながら必死に根アカでロマンティストな俺を召喚した。

「村田君、くだらない大人の現実と称する負け犬の遠吠えの意見に惑わされちゃダメだ。さっき自分で言っていたじゃないか。
 諦めるのか。挑戦するのか。君は挑戦するって決めたんだ。
 そして『あの現実』は受け入れないと決めたではないか。
 どっちつかずの敗北哲学を語るようにはなりたくないのだろう?
 村田君、人生は明るい。ミライは君が信じるならその通りになる。明るい未来を想像するんだ。
 否定的な意見を振りかざし、夢を諦めたにも関わらず、その今の現実を受け入れることが出来ない愚かなゲンジツニンゲンの言うことは聞いてはいけない。奴は夢を追いかける村田君が羨ましいんだ。
 村田君、明るい未来を想像して。夢はその彼方にあり!」

――よし、決めた。決めた、俺は決めた。
 4ヶ月間で自分の才能を探して見つける。
 見つけたならばそれで食っていく。
 しかし大した才能も無く食っていけそうにないなら、スッパリと夢を諦めてけじめをつけて職を探す。
 俺は自分の人生を白か黒かハッキリさせて生きていく。
 最後のビーフジャーキーを食べ終わると勢いよく立ち上がた。
 そしてコンポのスイッチをオンにする。何万回とまわしてきたCDがまわりはじめる。
 音量を最大限にし、ロックンロールを爆音で聴きながら叫ぶ。
「やってやらぁっ!やってやらぁっ」
 コンポのスピーカーユニット部分がボンボンと振動する。
 コンポから吐き出すロックはSex Pistolsの「NO FUTURE」
 No future, no future, No future for you
 No future, no future, No future for me
「のーふゅーちゃーのーふゅーちゃー」
 と叫んでいるうちに自分が何を言っているのか、はっと気づき怒りに身を任せてコンポの中でまわってるCDを無理矢理こじ開けて取り出し、渾身の力でSex PistolsのCDを真っ二つにパッキリと割り、窓から放り投げ
「いえす! ふゅーちゃー! いえす! ふゅーちゃー!」
と夜中に叫び続けた。ほとんど病気だ。
 もちろん途中で近隣から「うるせぇ馬鹿野郎」と怒号され大人しくなったのは言うまでもない。

 ――くわぁぁんくわぁぁん 
 頭の奥底で鐘が鳴る。痛い。
 目覚めて自分が酒臭いことにまず気付く。
 カーテンの無い窓から輝く太陽の光が俺の顔を容赦なく照らす。
いつになく眩しい気がする。
 いつ買ったのか或いは貰ったのかも分からないスヌーピーの絵柄で丸型の置時計にチラッと目をやる。12時45分。
 起きるには良い時間だ。今日の予定は既に決まっている。
29歳の今でも自分の夢を諦めずに走り続けている友人の森山に会いにいく。
夢追い人先輩として何かアドバイスをくれるかもしれない。
 森山とは中学生の頃からの親友だ。中学、高校と共に同じ学校で過ごし、高校を卒業してから森山は芸大に行き、俺はフリーターとなった。
風光る春うららかな季節、4月。全てが始まる、新しい季節。
なんというベストタイミングで工場を辞めたのだろう。
 鳥の囀り、風に揺れる樹木の音、車の音、電車の音、全てが自分を祝福しているかのように聴こえる。
 森山の家は俺のアパートから徒歩10分。4畳半、一間のワンルームマンション。つまり俺の住んでいるアパートとほぼ同じ。
 2階建て8部屋の1階、マンションに入り突き当たりを右。
 奴のマンションの隣の空き地の草が生い茂り大変なことになっている。まるであの草が森山の住んでいるマンションに覆いかぶさり吸収してしまうかのようだ。
 8つのポストのうち3つのポストには大量のチラシが突っ込まれ溢れ返っている。
 2つのポストはガムテープが貼られていて、薄暗い玄関のドアのガラスにはヒビが入っている。
 この辺りはやけにカラスが多い気がする。心なしか太陽が出ているにも関わらず、どんよりとした曇り空が覆っているような雰囲気を醸し出している。
 なかなかの廃退的な具合だがその実、昔から全く変わらない。
 インターホンは壊れているのでドアをバンバンと叩く。
 しばらく叩いているとドアの真正面からウンザリしたような声が聴こえた。
「おい、うるさいよ。そんなに勢いよく叩くな」
 俺は大きい声で答える。
「村田だよ。開けてくれ」
 ドアをガチャっと開けてご対面。明らかに今起きましたという寝癖とトランクスとTシャツ姿の森山は怪訝な顔で睨んできた。
「なんだよ。来るなら携帯に電話しろよな。俺だって忙しいんだから」
 森山はさぞ迷惑そうにそう言いながら頭をポリポリと掻く。
 白いフケが少し落ちる。
 いや、お前が忙しい時を見たことがない、と口まで出かかってやめておいた。
 一応夢追い人としての先輩なのだから。敬意を払わないと。
「村田、また髪の毛金髪にしたのか。懲りないなぁ。ていうか会社で金髪はよせって言われなかったか?」
「俺ネジ工場辞めたんだよ。そして髪を金髪にした。
いや、金髪に戻した。そして俺は俺の夢を追う。
つまり自分の可能性を信じたいのよ。わかるだろ? お前もそうだろ」
 唐突に話の核心をついてみた。長い付き合いの森山なら、阿吽の呼吸で通じるものがあるから回りくどい前置きなど必要ない。
 森山はドアを右手で押さえたまま左手で眠い目を擦りつつしばらく上のほうを見つめ、間を置いてからアッハッハと短く笑ってから言った。
「いやぁ、凄い、やっぱりあんた、馬鹿なんだぁ。
いいねぇよし、ほんじゃぁ早速祝おう。今からすぐに着替えるからコンビニに行こう」
森山の口車に乗せられ、多種多様のつまみとビールをダースで買い、昨日に続けての酒池肉林の宴会騒ぎが始まったのである。
「でさ」
 俺の金で飲み食いし、悦に浸る森山に唐突に話かける。
「金なら待ってくれ!」
 森山は箸を加えたままストップ! といった具合に手を前に出して目をギュッとつぶる。
「分かってるよ。お前にそんなの期待するわけないだろ。
さっきも話した通り俺はネジ工場やめたの。何故かというとだ。」
森山はこちらには目もくれずにご満悦そうに生ハムを1枚、2枚と平らげビールを飲みつつ、ふんふんと相槌を打つ。俺はビールを一口クイッと飲んだ。
「俺は来年で30だ。ここらで自分の人生にケリをつけたいの。白か黒か。そう、後4ヶ月、いや、この金が無くなる前までに自分の何かしらの才能を見つけようと思うんだ。
もしこの期間に見つけられなかったらスターダムの道は諦めて工場の流れ作業で落ち着くよ。
そして可愛いお嫁さんをもらってどちらかというと貧しいけど幸せな家庭を築きあげる」
 森山は一瞬飲み食いをストップし、何かを訴えるかのような目でこちらをジッと見つめた。
「おいおい、それレベル相当高いよ。まぁサラリーマンじゃなくてブルーカラーにしろ、就職して貧乏なりともそれなりの安定した収入を得るわけでしょ。しかも可愛いお嫁さんときた。これまたレベル高い。29歳にもなって俺達はワンルームマンションの臭い部屋で就職せず、ブラブラしてんだよ。ちなみに今の若い世代の3分の1は格差社会の煽りを受けて年収100万そこそこしか無いらしいぜ。だから落ち着くっていってまるで夢諦めて仕方無いからって話してるけど、その仕方無いから選ぶと考えている方もレベル高いんだよ」
「つまりさ」
 森山はビール缶を軽く握り潰して続ける。コキャアッとアルミ缶が潰れる小気味の良い音が響く。
「あんたが今からやろうとしている自分の才能を見つける才   能探しの旅は、ものすごくハードルが高いってことさ。しかも29でしょ。みんな夢破れて山河ありな具合でインディーズで良い線いっていたバンドでさえもメジャーデビューして飯食っていくのはちょっと無理かなって挫折して落ち着いて就職活動するような、そんな歳だよ。地に足ついて良い年頃だ。
 それをあんた、まるで社会においての自然の掟、川の流れに逆らう鮭のようだ。さすが恐れいる」
 俺は頭をポリポリと搔きながら答える。
「それは褒められてんのか?いやぁ期間限定でこれがラストチャンスだと思ってさ。背水の陣。それで今日から同じドリーマーの画家のお前に才能探しに協力してほしい。
 森山はサラミを食べつつ少し前かがみになって俺に近づき言った。
「褒めているさ。あんたのそういうぶっ飛んでいるところが大好きだよ。本当。ではまず俺は一応プロの画家なんだけど、才能について話す前に画家についてから話を進めていこう。」
 芸術家だからそういうタチなんだろう。森山はウンチクが大好きだった。喋り出すと止まらない。
 おそらく森山は今からカッパえびせんの中毒になった子供のごとくマシンガントークを炸裂してくれるはずだ。
 軽く咳払いをしてから森山は話を始めた。
「画家という職業は芸術家、それはそれはクリエイティブな仕事ではあるけど、その道で食っていける画家なんていうのは、ほんの僅かなんだよね。有名な画家になれれば数百万で絵が売れたりするがそれはもう、本当に数えるぐらい。
年に40万売れるとプロの画家として名乗っていいぐらいだよ。例えどでかいコンクールで賞を取るような奴でも年収400万いくかいかないかぐらいさ。
要するに画家だけで食っていける奴なんてほぼいないわけ。
俺も絵だけで年収90万ぐらいだけどそれってかなりレベ高いほうよ」
 森山が喋ろうとする間にすかさず口を挟んでみる。
「なるほど、そして森山はその年収90万だけで食い繋でからこんなに金が無いわけなんだよな。」
「そうそう。あんたが今からやろうとしているような背水の陣で生活してんのさ」
 本当は働きたくないだけなんだよな。後金早く返せよな、と言おうかと思ったが、森山の気分が損ない、タメになりそうなウンチクも、何かしらの協力もしてくれなくなるかもしれない、と思い踏みとどまった。
 森山はあぐらをかき、腕組をしながら再び話を始める。
「日本画家の世界は芸術家の中でも相当厳しい世界だけど、そういったクリエイティブな世界、或いは才能の壁を見せ付けられる世界というのはどのジャンルでも厳しいよ。センスが問われるからね。だからみんな30手前で諦めるのよ。自分には才能が無いと思い知らされるわけ。しかしあんたはその流れに逆行していて非常に愉快だ。普通なら落ち着く歳なのにさ、逆に夢を追いかけるなんてさ。ぶっ飛んでるね。相変わらずロックだね」
森山は愉快そうに、4本目の、まだ少し底に余っていたビール缶を軽く振りチャプチャプとさせた後、一気にクイッと飲み、語り続ける。
「才能についての俺の見解を語ろう。才能と言えば多種多様あるよね。音楽の才能、絵の才能、文の才能、言葉の才能、工芸、運動、数学等、等」
 そう言って指を折りながら語る森山。
「更にそこから細かく分けることができる。例えば運動なら野球。        そして野球の才能と言えば何か?
そこには足の速さ、肩の強さ、ボールのコントロールの良さなど       色々な要素が含まれていて、そしてそのあらゆる才能を併せ持ってして、野球の才能があるということだ。
絵に関しても同じだ。絵の才能と一括りに言うが、デッサン力や色彩感覚など細かく分けると色々な才能が含まれている。それによって自分が絵の中でもパステル画、油彩画、水彩画、風景画、静物画か人物画か、自分がどのジャンルにおいて優れているか分かってくる。
ランナーでも短距離か長距離かで分かれていくように、どんなジャンルでも自分がどれに向いているか細かく分類することができる。」
 森山は“プシュゥッ“と5本目のビール缶を開けた。
 俺は余計なことを言わずに黙ってふんふんと相槌を打ちながら聞き続ける。
「才能の中でも自分の色々な小さな才能が組み合わさって、自分が一体何に向いているのかということがわかるもんだ。だから自分にどのような才能があるか見極めるには色々なことにチャレンジしたほうが良いってことさ。
そしてチャレンジした事で自分にはこの才能があると見極めたなら、それを極めるために他の全てを捨てるのさ」
 森山は現にその通り、学生時代に色々なことにチャレンジしていた。俺と違って森山はなんでも器用に出来た。
 何をやらせてもセンスというのがあったように見える。
 特に奏楽に精通していた。
 ギターも弾けてピアノも弾けてドラムも叩ける。
 どれもアマチュアのレベルなら上手いと言われるレベルだ。
 誰とでも親しくなりクラスのムードメーカーだった。
 しかし勉強はやらなかった。成績は中学の時は中の下ぐらいで高校の時は俺と最下位争いをしていたぐらいだった。
 勉強をしない理由をある時聞くとこう言っていた。
「勉強して一流大学に入り就職して社交辞令を繰り返して偽者の自分を装って世に出ていくぐらいなら、社会のはみだし者として生きるほうがマシだ。俺は自分の持っている本当の自分、本物を持って世に出ていく」
 しかし高校2年の頃に、自分の一番センスのあるのは絵だと気付いた。
 絵なら食っていけると確信し、そして画家を目指すと決断し、芸術大学に行きたいということで猛勉強をした。
 結果、学年で下から5位だった森山は学年で1位になり、関西の芸大では最もランクの高い芸術大学に見事合格した。
 しかし俺はというと運動音痴で勉強も出来ない、何をやらせても不器用だった。
 根暗であまり人と関わろうともしなかった。森山のような生き生きとした生命力を持っていない。
 休み時間はいつも机に突っ伏して寝ながらMP3プレーヤーでロックを聴いていたのだが、森山はそんな俺に興味が湧き、ある時、俺の肩をトントンと叩き、耳に差し込んだイヤホンを後ろから抜いてきやがった。
 そして「いつも何の音楽を聴いてんの?」と尋ねてきた。
 俺は何の反応を示さずに机に突っ伏して寝込んだまま
「パンクロック」と一言ぼそっと答え、そのまままたイヤホンを耳に差し込んだ。
 そして翌日、自分の持っているイギーポップやセックスピストルズ、ダムド、アンダーグラウンドといったパンクロックのCDを貸してやった。
 森山はそのCDを聴き、パンクロックという音楽が非常に気に入り、それから森山との仲が深まっていくことになった。
 高校を卒業してからは、お互い別の道に歩むことになるが飲みに行ったり、ライブに行ったりと頻繁に遊んでいた。
 そしてある事がきっかけで22歳の時からパンクロックバンドを結成し、25歳まで共に続けてきた。
 そんな森山は続けて語り出す。
「芸術関連の才能があるとはセンスがあると言い換えられる。天才というのはセンスが抜群に優れていることを指す。センスがある奴は感性もある。しかし感性が鋭いからといってセンスが鋭いという訳でもない。簡単に言おう。感性とはこの世界に既にある物、創造された物、産み出されたものに感動することさ。感動を受けること、それが感性。センスとは自分の持っている感動を表現し創造することさ。受けた感動をを流すこと、それがセンス。繊細な奴に芸術家が多いのはそこにある。感性が優れているというのは敏感に感動をキャッチしていくことが出来る。しかし敏感だから傷つきやすかったりもする。感性のある奴は美しい物をたくさん心の中に閉まっているが、同時に自分の受けた傷である醜いものもたくさん閉まっている。感動しやすく、傷つきやすいからね。だから芸術家は生傷が絶えない。だけどね、芸術というのは自分の持っている美しいものと、自分の持っている傷を同時に表現するものだ。美しいものだけ表現するのは僕は偽善だと思うし、それは芸術では無い。エンターテイメントだ。傷だけを表現するのはひねくれ過ぎているし嫌悪感、不快感しか与えない、それは芸術ではなく悪だ。と僕は思うね。」
「感性があまり無くてもセンスのある奴はいるんだよね。でもセンスが無かったらいくら感性があれど芸術家にはなれない。感性があるやつなんてたくさんいるさ。その感性を持って自分の吸収してきた感動を表現していくセンスがあるやつは一握りな訳なのよ。面白いねぇ人間って」
 森山は5本目のビールを飲み終えると今度は勢いよくビール缶を潰して畳を握りこぶしでドンッといきなり叩いて声のトーンを上げて語りだした。
「しかし何よりも大切なのはパトスなんだよ、ヒッ。情熱。『芸術は爆発だ』と岡本太郎が言ったように、それは愛なんだ。ィック。モーツァルトは『愛こそが天才の真髄だ』と言っていたがまさにその通り、ヒック。いくら1流の才能があろうともそこにパトス、愛が無ければそれはまがい物だ。本物には必ず愛がある。いくら1流、ィック、の才能があろうとも、ヒック、そ、そこに大衆に気に入られようと媚びを売るようなお、ヒッ、思いがあるなら、それは本物ではない。愛が無いからね。大衆をごまかせてもプロの目は誤魔化せない、ヒッ。本物には必ず愛がある。僕には激しいほどの愛があるが、絵のセンスが1流ではない。感性は鋭いが、その感性を流すセンスを人に伝えるという時点では2流、つまり秀才なんだ。天才ではない。惜しいなぁ。ヒッ、ヒック。秀才は努力でなんとかなるレベルなんだけどさ、天才は天性なんだよね。ィック。」
森山はしゃっくり混じりに、息絶え絶えに喋った。
大分目が据わっている。
俺は部屋の片隅の物置と化し、ゴチャゴチャとしている半畳のスペースの場所に埋もれて、ぞんざいに転がっているアコースティックギターを横目でチラっと見た。
「なぁ、森山。話は変わるんだけどさ、バンドやってた頃楽しかったなぁ」
森山はにんまりと笑った。「アンチまほろばスーパースターか。なかなかイカれたネーミングだったよな」
「そうそう、俺の青春だよ」
 森山は過去の思い出を懐かしみながら薄汚れた天井を見上げ、畳
をポンッと叩き、残り3枚の生ハムを一気に平らげて喋る。
「昔は俺たちパンクだった。社会に対する反抗というパトスを必死
で燃やしていたよ。まぁ、あのバンド名は予言みたいなものだな。
今では立派なアンチまほろばスーパースターじゃないか。デカダン
スな暮らしも楽じゃあないよ。ハハッ」
森山は自嘲的に笑いながらそう言った。
「変わってないなぁ俺たち。でも俺変わろうと思うんだよ。そういう星の下に生まれたとか。駄目な奴は何をやっても駄目という固定観念を打ち破ってやるよ」
森山はそれに対して反論した。
「おい、言っておくけどな、俺は社会的には落ちぶれてはいるけど
日本画家の世界では一応、成功者の部類に入るんだからな。」
森山は寂しげな目でそうボソっと呟き、物置と化した半畳のスペースから無造作にギターを取り出した。
ガラクタの山はガラガラガッシャンと音を立てて崩れた。

 ――ジャンジャカジャンッ 
酔眼朦朧の森山はギターを2,3回掻き鳴らした
「アンチまほろばスーパースター、一夜限りの復活ライブだ」
俺はパンッと手を叩き、ギターストラップを首に掛けた森山に指を
差して言った。
「お、いいねぇ。客は隣人か。ハハ」
当時ギター担当だった森山はギターを掻き鳴らし、当時ボーカルだ
った俺は酒やけの声で解散ライブの時に熱唱した歌を5曲、歌い続
けた。
一夜限りの復活ライブと称した乱痴気騒ぎはどちらかが気を失うま
で続いた。

――ぐわぁぁんぐわぁぁん
頭の中で何かがうごめくこの痛み。酒臭い。学習しない俺。
最初に目に飛び込んできたのは転がるビール缶をゴミ袋に入れているスーツ姿の森山。寝惚けた声で問うてみた。
「おい、なんでパリっとスーツで決めてるんだ?」
森山は何食わぬ顔で昨日の宴会の残骸を片付けつつ答える。
「見た目は肝心だよ。今日はあんたの才能を探す旅へと街に繰り出
すんだ。それなりにバシっとキメていないと運がつかないだろう。
運を呼んで自分のものにしていかないと」
 よく分からんが相変わらず変な奴だ。一通り片付け終えると森山
は俺の横に鉛筆と紙を置いた。
「さぁ、今から俺の似顔絵を描いてよ。20分ぐらいで。」
「なんで?」
欠伸をしながら頭をポリポリと書く。
「村田に絵の才能があるなんて微塵も感じないが、もしかしたらあ
るかもしれないからね。俺は秀才だから天才を見分ける目がある。アマデウスの映画でサリエリが一番初めにモーツァルトを天才だ
と見抜いたようにね。もしあんたが絵の天才ならもう全て解決だろ」
俺は鼻で笑って言う。
「わかったよ。でも俺絵を褒められたことないぜ。29年生きてきて褒められたこと一度も無いなら結果は見えてるんじゃない?」
そう思いつつも、もしかしたらあるかもしれない。淡い期待を抱
きながら、森山と真っ白なスケッチブックを交互に睨めつけ、森山
の言うパトスなるものを鉛筆に力強く込めて描き始めた。あたかも
画家のような真似をして鉛筆をシャッシャッと滑らかに小気味よく
白いスケッチブックに滑らせていく。
森山は無言、無表情でじぃっとこちらを見つめる。
プレッシャーを感じる。
シャッシャッと手際良さそうに描いているとふいに森山は語りかけるように話かけてきた。
「俺はさ、芸大に行っている時に半年間休学してバックパッカーに
なり、ヨーロッパを放浪した。その時にレンブラントの『夜警』と
いう作品をアムステルダムの美術館で観たんだ。観た瞬間にボスト
ンバックを無意識に地面に落とし、全身に衝撃を受け、目を見開い
たまましばらく動けなかったよ。写真で観るのとは訳が違った。秀
才の俺が本物の天才を観た時、俺は天才になるのを諦めた」
シャッシャッと手際良さそうに見せながら描きつつ森山のほうをジ
ィっと見つめ笑みを浮かべて言ってみた。
「もう一度本物ってやつを見せて、お前の夢を忘れさせてやるよ」
などと適当なことを言いつつ、これが天才だと言わんばかりのペンさばきで絵を描きあげた。
「出来た」
と満足そうに呟くと、森山はすかさずスケッチブックを奪った。
そして3秒ほど目に止めてから、顔をしかめて言い放った。
「よし、絵の才能が無いことは分かった」
「おい、描かせておいて酷いね。結構傷付くぞ」
森山はハッハッと声をあげて笑いながら言う。
「悪い、悪い。しかし驚いたよ。」
「下手過ぎて?」
「いや、それもあるんだけどお前の絵、明らかに少し上手な5歳児が描きました。みたいな絵をしているんだよな。絵と文字は下手なやつは下手なりにも大人の絵と大人の文字になっていくもんなんだけども。村田の絵は全くそれが無い。5歳児のままなんだ。そんな絵、観たの初めてだよ」
と森山は全く悪びれた様子もなく言う。
「なんだそれ。俺が5歳の時から成長してないみたいな言い草だな。まぁ別に良いけど」
森山は『5歳児の絵』を俺の手にくしゃっと握らせて言った。
「折角だからこれは記念として財布の中にでも入れとけよ。才能捜しのスタート記念として」
俺は『5歳児の絵』を凝視しながら首を傾げてうーんと頷く。
「どうした?納得いかないのか?」
 とからかうように言ってくる。ムカつくぜこいつ。
「なんか頭の中でこうだと思い描いてるのと全然違うんだよ。もっ
とこう描きたいっというのが頭の中にあるのに。頭に腕がついてい
ってないんだよな。だからもどかしくて、昔から絵描くの大嫌いだ
ったんだ」
 森山はハッハッと笑いながら言う。
「そりゃぁ誰でもが頭の中で描いてるものを描きたいよ」
 俺はまた、うーんと頷き、
「そういう意味とまた違うんだよなぁ」とボソっと言った。
「絵の割にえらく崇高な悩みしてるな」
 森山はすっと立ち上がり両手をパンッと叩いた。
「よし、行こう! 村田の才能発掘の旅へ」
「何処行くんだよ?」
「そうだな……色々なところへ行こうか。ちなみに俺は1銭も金が
ないから、そこんとこ理解してくれな。よろしく」とやや申し訳な
さそうに右手を差し出した。
「相変わらずお前、滅茶苦茶言うよな」
「何言ってんだよ。俺もひと肌脱ぐんだからお前も脱げって」
「お前、俺のために一体何を脱いだのか良く分からんけど、昨日で一ヶ月分使い果たしたから後3ヶ月分しかないんだからな。今日一日で1ヶ月分取り返せるような働きしてくれよ」
「任せろ。俺は見る目があるからね。それは絵だけに限ったことじ
ゃないさ。センスというのは一貫して共通しているものがあるから
ね。絵のセンスを見る目があるってことはどのセンスも見る目があ
るってことに繋がるからね」
「まったくお前は詐欺師の才能あるんじゃないのか。お前の話を聞
いていると投資したくなってくるよ」
「いや、無い。詐欺師の才能があるやつに騙されているなら、口車
に乗せられているなんて気付かないさ。あんたにバレてるから俺は
その才が無いね」と森山は笑いながら言った。
「しかし画商の才能はあるだろうなぁ。いかにその絵が優れている
か何処が素晴らしいのかいくらでも語ることが出来るよ」
と森山は続けて言った。
「なんだ、じゃあ画商になればいいんじゃないか」
と俺は言う。
「そりゃ最後の切り札だよ。俺はまだ日本の今の画家で天才と出会
ったことがない。俺より才能がある天才と出会ったらば、その時俺
はそいつに引導を渡すよ。そいつの絵を売り込む専門の画商となっ
てもいいね。良い画商が付いていると成功への近道となる。天才に良い画商が付けば鬼に金棒さ」
 森山は顔を洗い、靴を履き、スーツを両手でバシッと叩いた。
 俺は寝癖を手ぐしで治し背伸びをした。
「さぁ用意は出来たな。行くぞ。」
「そんで何処へ?」
「質問は後にして、今日は一日俺に従いなさい」
 森山に従順になることにしよう。
 取り敢えずこの辺りで一番大きい繁華街に行くことになり、電車に乗り込む。平日の昼間だから人が少ない。みんな仕事に行ってるのだろうなぁと思う。
 しかし、電車の中にいる制服姿の高校生のやつは学校をサボって
いるのか。けしからん。
 社会に反抗するのは青春としてそれはそれで良いが、ちゃんと勉強していないと俺たちのようなロクデナシは巡り巡って色々と辛い目に合うぞ。と目で訴えてみる。
 車両には7~8人しかいない。電車がガッタンと動き始めてから座席に座ると森山は俺の座席の向かいに座った。
 電車が空いている時、いつも森山は俺の向かいの座席に座り、前かがみになり両膝に両肘をつけ、両手を軽く合わせ、マシンガンのごとく喋り続ける。
 喋るよりも聞き手にまわるほうが楽な俺にとっては好都合だった。
 飲みに行ったりスタジオにリハに行ったりする時を思い出し、懐かしむ。最近はあまり飲みに行くことも無くなっていた。
 というのも森山の奴があまり外に出なくなってきたからだ。
 森山は目を上に向け何かを考えていた。
 そして思いついたように携帯を取り出しタップをしだした。
「268×45は?」
 俺は2秒ぐらい間を置いて聞き返す。
「何?」
「268×45は?」
「わかんねぇよ馬鹿」
 森山はメモ帳をスーツの内ポケットから取り出し、メモをしながらボソっとつぶやく。
「数学の才能無し……と」
「ひょっとしてそうやって俺を試して才能見つけていくつもりか?」
「ひょっとしなくてもそうだよ。これが一番合理的さ」
と、自信満々ですよ、村田さんという笑みで答えやがる。
 顎を右手でさすりながら、「んー」と軽く呻いた後に村田は口を開いた。
 奴がマシンガンをぶっぱなす前の癖である。
「良く考えると天賦の才があるにもかかわらずその才能があることを知ってか知らずか、諦めていく人間が世の中の大半だよなぁ。
天から与えられた賜物を使うのが人間の使命だと思うのよ。
それを放棄するのは罪深いもんだと思うし、人生を全うしていないと俺は思うね。なんらかの形で自分の才能を使うべきだよ」
 森山は足を組んで、続けてマシンガン。
「そして使命ってもんは必ず人の役に立つものだ。例えば笑うことで人を楽しませることが出来る人がいるならそれがその人の才能だよ。そんな具合に考えると、みんな何らかの才能が必ずあるよなぁ。 作家の遠藤周作がさ」
森山は両手を組んで上を見上げながら続けて喋る。
『生活があって人生の無い一生ほど侘しいものはない』って言ってたんだけど、人生のある人間なんてほんのひと握りだよな。みんな大体生活に追われて人生、すなわち使命を忘れている」
 森山は弾切れ。装填の最中に俺はぼそっとつぶやく。
「人生が無いのは、社会が悪いのか。自分が悪いのか。あるいはその両方か」
 森山装填完了。
「両方が悪いけど、どちらかというと生活に追われて何も考えなくさせるような格差を故意に広げる社会が悪いね。おそらくみんながみんな自分の才能を用いることが出来たなら、世界が平等に、みんな幸せになっちまうんだよ。そうなると独り占めしてのさばる上の連中が困るだろ」
 森山は吐き捨てるようにそう言い、皮肉混じりに笑った。
 そして遠くのほうを見ながら独り言のように喋る。
「それにしても、あのレンブラントの夜警は衝撃的だったなぁ。まさに天才。そして天性とは天から与えられし賜物……村田、そういうの、信じる?」
「どういうの?」
「神様とか」
「信じない」
俺はそっけなく答える。
「じゃあ、天性も無いな。信じないのになんだその十字架のネックレスは。信じないのにそういうの付けてんのはナンセンスだね」
と、俺の胸元の十字架のネックレスをビッと指差す。
「このネックレスは桂木に貰ったんだよ。知ってんだろ」
 森山はそう言った俺を無視して話す。
「西洋美術史を学ぶにあたって、キリスト教は避けて通れないわけよ。その流れで神学や宗教学も嗜む程度に勉強していたんだけどさ、イスラム教、仏教、ヒンズー教、神道、ユダヤ教、キリスト教、他新興宗教の類、民族宗教。色々あるけどさ、やっぱいるとしたら聖書の神さま。キリスト教が一番近いと俺は思うね」
「キリスト?」
 俺は胸元に付けている十字架のネックレスを親指と人差し指で摘み、森山の前にちらつかせてそう尋ねた。
「うん、一番簡単になれるし」
「別になろうとは思わんけど、どうやったらなれんの?」
「イエスキリストが自分の罪のために十字架にかかって死んで三日目に蘇って天に昇ったことを信じたらクリスチャンだ」
俺は鼻で笑いながら座席にもたれかかり言う。
「それはないだろ。人間業じゃねぇよ。しかも神様が人間のためにっておかしくないか。ってそういや桂木も昔おんなじこと言ってたな。」
「まぁ神業だしね。俺は信じようと思う」
「なんで?」
「今から天賦の才を捜しに行くんだからなんらかの神様信じておいたほうがいいよ。とすると一番存在性の高い神様を信じるのが良いだろ。しかも本物だったら信じるだけで天国にいけるんだよ。それながらどう考えても信じたほうがいいでしょ。どう考えても。村田は信じる?」
 俺は上を向いて手を鼻の下におき、こすりながら考えてから言った。
「よし、じゃあ信じよう。ってそんな不純な動機で軽はずみに信じていいんかよ。かえって罰あたりじゃないのか。て良く考えたらどちらかというと俺達反キリストだったろ。セックスピストルズも『アナーキー・イン・ザ ・UK』の歌の中で俺は反キリストって言ってたぞ」
「いいんだよ。軽はずみでも重はずみでも信じることに変わりはない。セックスピストルズはセックスピストルズだ。俺たちは俺たちだろ」
「じゃあ信じるよ」
「よし、じゃあ目をつむってお祈りしようぜ」
 俺と森山は目をつむりしばらく祈った。なんだこの流れは。
 しばらくすると森山は「アーメン」と呟き、俺も真似をしてアーメンとつぶやいた。
 森山は座席から立ち上がり俺に握手を求めてきたのでこのノリが面倒だったのでうんざりとした顔で適当に握手をした。
「おめでとう、また今度、いつかそのうち教会に行こうぜ」
「よし、じゃあ夢叶ったらお礼しにいくよ」
 森山はその後少し無言になり、何かを考えるように電車の天井を見ながらこう言った。
「なんかなぁ、お前には『何かが欠けている』、というよりも『何かを忘れている』という感覚がいつもあるんだよね。俺はいつも、そんなお前にこう言いたくなるんだよ。『思い出せ』と」
「なんじゃそら」
 俺は鼻で笑い、座席にもたれかかり足をだらしなく前に出してそう答える。
などと電車に揺られること約20分。相当ぶっ飛んだ話をしていたがいつものことである。
――ガラッコォン、ガラッコォン
 乾いた音が鳴り響くボウリング場、そう、ここはボウリング場、ボウリングじょう……
「おい、森山。なんでボウリング場なんだよ」
 森山は俺の肩に手を置いて言う。
「まず今日一日は繁華街にあるアミューズメントで村田が遊んだことなさそうなやつから攻めていこう。才能の発掘場所は案外、街中にあるもんだ。ボウリングの才能があればプロボウラーとして食っていけるだろ。ってことで1ゲームしてみよう」
「そんな1ゲームぐらいで才能あるかないか分かるのか」
「天才っていうのは始めから出来るもんなんだよ。天才数学者のジョン・フォア・ノイマンは6歳のとき、8桁の割り算を暗算で計算することができた。もちろん、彼がそろばんを習っていたという記録はない。天才っていうのは天から与えられた天性だ。それは習わずとも最初っから、産まれた時から知っているんだよ。そういうこと」
 なるほど、森山もやっていることは多少おかしいが、方法としては合理的だ。
 ボウリングの方法を習い、早速レーンに立ちボウルを両手でそっと持ち上げ右手に持ち替えて、フォームを整え一旦目を閉じる。
 意識を集中しろ。俺は……ボウリングの天才だ。
 目をカッと開き勢い良くボウルを投げた。投げた瞬間にフォームが崩れ1メートルもいかないうちにガーターに落ちた。
 森山はストライクだった。2回目、俺ガータ。森山ストライク。
 3回目。俺ガーター。森山8本。4回目、俺2本。
 5回目で森山はメモを書き留めながら 口を開いた。
「やめようか。これ以上は時間の無駄だ」
「お前、結構人の傷付くこと平気で言うよね。まぁお前から言われ慣れてるけどね。俺はお前といると生傷が絶えないよ。芸術家のように」

 次にこの建物の2階にあるゲームセンターに来た。
「よし、村田、あのなんとかっていう格闘技ゲームやってみろ。最近じゃプロゲーマーっていうのもいるからね。流行の最先端は稼ぎやすいし珍しいから才能があると有名になりやすいぞ」
 言われるがままにゲームをやることにした。
 ガチャガチャピコピコと色々な電子音が混ざり合うゲームセンター。
 俺は椅子に座り深呼吸をし、コインを入れ、そして何か良く分からないうちにゲームオーバーの文字。
 次にユーフォーキャッチャーをやれと森山。
「UFOキャッチャー荒らしで食っていけと?」
「UFOキャッチャーが上手いってことは空間認識能力に長けているということだ。空間認識能力に長けているということはパイロットや建築家の才能があるとも言える。このようにUFOキャッチャー1つであらゆる職業の才能があることが分ってくるんだよ」
 俺はUFOキャッチャーの中にある商品に意識を集中する。
 パンダのぬいぐるみを取ってやる。
 あのでかいパンダのぬいぐるみはクマのぬいぐるみとネズミのぬいぐるみに挟まっている。パンダの手に狙いを定めるか。頭に狙いを定めるか。或いは、全く別の。
 物体の位置・方向・姿勢・大きさ・形状・間隔を見極めろ。
 この三次元を、肌で感じ取るんだ。
 後ろから森山の声がする。
「村田、目を閉じろ。空間認識能力は目を閉じている状態の時のほうが活発的に働く」
 俺は目を閉じて、パンダとクマとネズミのぬいぐるみ達の角度、位置、場所を頭の中で想像する。
 そしてゆっくりと目を開いた。開いたと同時にクレーンを動かしボタンの①をすばやく押した。クレーンが動く。
 ここだ! 狙いを定め絶妙な位置で②を押す。
 クレーンが下に下がる。もう、結果は見えていた。
 アームが掴もうとしていたのはライオンのぬいぐるみだった。
 もちろんライオンのぬいぐるみも取れることはなく。
 後ろの森山がゲームの雑音に負けないように大声で言った。
「よし、もう十分だ。カタルシスに行こう」
 俺と森山の行きつけの喫茶店の名前だ。
 店長は昔インディーズで活躍していたロックバンドでアンチまほろばスーパースターとも対バンをしたりと仲良くやっていた。
 木造のドアを開けるとカラランと喫茶店馴染みの音、開けてすぐ目に入ってくるのはFreedomと書かれたでかい書画。ごちゃごちゃと色々な民族系の雑貨が至るところに散りばめられている。LPレコードが棚にズラッと並んでいるそんな喫茶店。
コーヒーを啜っていると何処に忍ばせておいたのか、森山はトランプを俺の目の前に一枚掲げた。
「このトランプの絵柄と番号は?」
2秒ぐらい間を置いて聞き返す?
「何?」
「このトランプの絵柄と番号は?」
 俺は『馬鹿じゃないのか、こいつ』と言ったような目で森山を見つめながらコーヒーを啜る。
 森山は口を開いた。
「千里眼という超能力がある。それは、物理的な障害を無視してその先にある物を観て言い当てる能力だ。まぁ透視能力な訳よ。昔、有名な千里眼の持ち主がいた。その男は、中学生の頃、友達がふざけて、このトランプの絵柄と番号を当てて見てと言われた時に、目を閉じて透視をしているフリをしたところ、本当にそのトランプの絵柄を番号が見えてきて、そして見事に言い当てたらしい」
続けて森山はトランプのカードを俺の目の前に出したままマシンガン。
「この話から分かることがある。つまり、自分の才能に気づかずに生きている人間っていうのは驚くほど多いってこと。人は怠惰という罪を持つ生き物だから、何かに挑戦することにおっくうになってしまうんだよな。その怠惰という厚い殻を破く力さえあれば自分の才に気づくことが出来るのに。無いって端から諦めてんのよ。さぁ、村田、緊張の一瞬だ。お前の内に眠っている第6感を呼び覚ませ」
 俺は目を閉じる。ハート、スペード、クローバー、ダイヤ、そして数字を頭の中で思い巡らす。
 トランプの前に手をかざしてみる。なんとなく。感じ取れ。
 目覚めよ、第6感。
 不思議とぼんやりと、トランプの裏面の姿、形が見えてきた。
「……これは……ハートの……4だ」
 森山は冷めた表情をしてダイヤの9のトランプを机に置き、メモ帳を取り出し、書き留めながら言った。
「超能力、才能無し」
 と森山が言った瞬間、斜め後ろ辺りから声がした。
「その横に女を幸せにする才能無しって付け加えといて」
 そう言い放つと、森山と俺、2人が座ってる3人席の真ん中にドカっと足を組んで座ってきた。トム・フォードのヴァイオレット・ブロンドの甘い香水の匂いが鼻にツンときた瞬間胸がズキンと痛んだ。
 実に4年ぶりの匂いと声。黒髪のロング、その無表情で冷たそうな顔、端正な目鼻立ち、エキゾチックな顔。薄い唇、細い顎、気だるそうな眼で俺のほうを見る。
 由美。何も変わらず、相変わらず冷たそうな美人。
 しかしやはり年相応、若干、皺が増えた気がする。なんていうと殴られるから言わないが。
「え? なんでお前いるの?」
 森山は声を押し殺して笑いながら言った。
「いやぁ、ごめん、ごめん。俺が呼んだんだ。」
「おいおい、いつの間に呼んだんだよ」
 動揺し過ぎて声が裏返った。
「お前先に酔いつぶれただろ。あの後電話したんだよ。明日、カタルシスに村田と一緒に行くから来てくれってね。ちょうど由美ちゃんも店、休みだったみたいだしね」
 俺は気まずそうに視線をテーブルに落とし、別に動揺してないけどな、とごく自然にコーヒーを手に取るがカタカタと音が。
 手が震えている。勘付かれるな、手を止めろ、俺。
 コーヒーを一度『ズズッ』と啜り、そして出来るだけカタカタと言わないようにコーヒーを戻す。しかしやはりカタカタと情けない音が店内に鳴り響く。
 その一連の流れが恐ろしく長く感じた。
 由美はきっとまだ俺のほうを見ているに違いない。冷ややかな目つきで。第6感で由美の視線を感じる。俺、第6感の才能あるんじゃないのか。
 俺は相変わらず視線を落としたままでいる。そしてクールを装うために全く関連性の無い事を言ってみる。
「こ、ここの、コーヒー相変わらず不味いな」
ドモってしまった。いくら鈍感な奴でも動揺しているのが手に取って分かる。
 視線を落としたままでいると由美は内ポケットからタバコを取り出し、火をつけ、吸い、フゥっと吐いた。タバコを吐く時の由美の唇が色っぽくて好きだった。
 その唇を見たいがためにチラッと由美のほうを見ると、ずっとこっちを見ていたのだろう、由美と目があった。
 目が合うと同時にまた慌てて視線を落とす。
「呼ぶ意味がわかんねぇよ」
とチラっと顔をあげて森山のほうを睨むと由美の視線がまだこっちを見ていると分かった途端、怯えて再び目を伏せた。
蛇に睨まれたカエルとは、まさしくこれ。
 由美は黒い陶器の灰皿にタバコを2,3回グリグリとこねくり潰し、トーンの低い気だるそうな声で一言喋った。
「タバコはまた値上がりか。禁煙しないと」
 関連性が無いのはさっきの俺の発言に対しての当てつけだろうか。
即座に右の頬に衝撃が走った。。
「痛っ。なにすん…」
 突如、由美にライターを顔におもいっきりぶつけられ怯む俺。
 こめかみ辺りを手でさすっている俺に言ってくる。
「どうして連絡くれないのよ。薄情者」
 空気の読めていない森山は平然と喋っている。
「いやぁ、こういう特殊な時というか、村田が何か『事を起こそうと』している時に会わせるのがいいだろうなって思ってさ。俺の配慮だよ」
 何故か誇らしげにそう語る森山君。折角由美と涙の再会を果たしたんだ。
 バンドを組んでいた時の青春時代の話をしよう。
 20歳から25歳までの間に俺と森山と由美、そして桂木という奴と『アンチまほろばスーパースター』というバンドを組んでいた。
 俺と森山と桂木は中学からの友達。由美は森山が大学で知り合った。
 森山と仲良くなったのは机に突っ伏していつもMP3プレーヤーで何かを聴いている俺に興味を持って話しかけてきたことがきっかけだと話した。
 森山は俺からパンクロックを知りハマったが、俺は桂木からパンクロックを教えてもらってハマったのだ。
 俺と森山と桂木は中学校の頃ずっと同じクラスだった。
 俺は根暗で誰ともあまり関わろうとしない奴。森山はムードーメーカー、桂木はイカれた不良。
 そんな全くキャラが違う三人を結びつけたのはパンクロックだった。
 ある時、夜中にコンビニにフラっと出ていった。
 その時に桂木が他校のヤンキーとコンビニの前で屯していた。
 俺はコンビニに入るつもりだったがこの光景はさすがにまずいでしょうと感じ、踵を返して家に帰ろうとしたところ、
「あ、村田だ」と桂木に存在がバレ、声をかけられた。
 それが桂木と仲良くなるきっかけとなった。
 桂木はほとんど学校に来なかったが、夜中のコンビニでの出会いをきっかけに桂木グループとつるんで夜中に頻繁に遊ぶようになった。
 この桂木という男、滅茶苦茶である。
 キレると手がつけられなくなり敵にも仲間にも恐れられていた。
 しかもすぐにキレる。つまりいつも手がつけられない。
 みんな桂木に怯えていた。桂木はまるで自分から他者との壁を作っていたようだ。
 しかし桂木は俺にだけは誰よりも優しかった。
 桂木と俺の前にはみんなの前にあるような壁が無かった。唯一俺だけに心を赦していた。
「超イカしたロック教えたろうか?」
と桂木に言われ、ラモーンズ、アンダーグラウンド、セックスピストルズ、ザ・クラッシュといった70年代のパンクロック黄金期を聴かせてもらい、それがパンクに目覚めるきっかけとなった。
俺は初めCDを普通に聴く。そしてそのアグレッシブかつ、心の叫びの歌声を聴き何かの衝撃を知った。
 その次に日本語訳の歌詞を見、その歌詞に更なる電撃的衝撃が体に走る。一度に二度の衝撃。俺がパンクロックを聴き感じたのは
「虐げられたものどものやるせない怒りの爆発」だった。
ちなみにパンクと同時期にシンナーも覚えた。
 シンナーはやめとけと桂木に止められたが興味本位で桂木と連んでいた奴から貰い残念なことにハマってしまった。
俺も晴れて不良デビュー。という訳でもない。
 あまりつるむのが好きじゃないため、そのうち桂木グループとはつるむことはなくなり桂木と二人で遊ぶようになっていた。
 俺と森山、俺と桂木に接点はあったが森山と桂木に接点は無かった。
 中学を卒業し、俺と森山は同じ高校へ。
 桂木はそのまま鳶になった。人間のまま鳶に。つまりとび職。
 高校時代は森山と一緒にそれなりに馬鹿をやって、馬鹿をやった。
 何度も留年しそうになった。
 桂木は仕事を転々としつつもたまに傷害で4度留置所に、1度刑務所に入りつつもそれなりに生きていたようだ。
 高校の頃から俺と森山と桂木の三人でつるむようになった。
 そしてなんだかんだあり、高校を卒業する。
 森山は芸術大学へ。俺は新聞配達員として働く。
 新聞配達を成人式の翌日までやっていた。
 成人式の日に「無礼講じゃ、無礼講じゃ」とみんなで叫びながら酒を浴びるほど飲んだ。
 そして酩酊状態のまま何度も嘔吐を繰り返しつつ新聞を配ったが、案の定まともに配れていなかったらしく、そのうえ朝の9時に店に帰ってくると、「取ってないのに入っている。取っているのに入っていない」という苦情が殺到し、店長に怒鳴られた。
その時俺は衝撃が来た。
『事を始めよう』
 そう決断し、近くにあった椅子で店のガラスをバリン、バリン、バリンと3枚破りそのまま新聞配達を辞めた。ものすごい理不尽なことをしているが、俺は今まで学校で、社会で物凄く理不尽な仕打ちを受け続けた
 その鬱憤が溜まって爆発したのだろうか。
 今思うと店長に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。今度謝りにいこう。
 ロックとは衝動、衝撃。眠っていたそれが急に目覚めたのだ。
 そんな20歳の夜。眠っていた衝撃で脳と体が震え、3日間眠れぬ夜を過ごした。
 まず、地元で知名度がそこそこ出ていたパンクロックバンドでベースを弾いていた(或いは客をベースでたまに殴り飛ばしていた)桂木を誘った。桂木は「お前とやったほうが楽しそうだなぁ」とすぐに加入してくれた。
 そしてギターとして森山を誘う。
 森山は大学で暇を持て余していたみたいで快く了承してくれた。
 ベースに俺の「友達どうだい?」と由美を連れてきた。
 由美の風貌とそのクールな態度に一目ぼれした俺はドラムとして入ってくれと懇願し、由美加入。
 4人で今後のバンドのことについて話している時に、たわいもない話をしだし、その時に俺が、
「こないだまほろばっていう喫茶店を観たんだけどまほろばってどういう意味?」
と質問すると森山がまほろばというのは要するに大和がどうの古事記がどうのと訳の分からないうんちくを垂れ流した後に
「要するに、『素晴らしい場所』『住みやすい場所』という意味さとのこと。俺は手をポンっと叩きそれだと叫んだ。
バンド名は「アンチまほろばスーパースター」でいこう。っと。
ほとんど適当だ。
 その適当加減がみんなに気に入られ採用された。
 スタジオでの初めてのセッションでは3度目の衝撃があった。
 ギターボーカルの俺はアンプにギターを差し込む。すると甲高いギャギャッイィーィィン、という音が鳴り響く。
 そしてベースのダダダンダンタンというイントロ。
 そこにシャンシャンシャンというシンバルの音、二つのギターに一気に爆発。脳内麻薬が溢れ出て頭が沸騰しそうになった。
 スリーコードを機軸としたスタイルにパワーコードを加えたシンプルかつ究極の音に虜になった。
 俺たちはその音に乗せて突っ走った。そのまま突っ走ったらそこそこ有名になった。
 俺はギターボーカルだったが対して歌が上手いわけではない。どちらかというと下手だ。アンチまほろばの演奏はお世辞にもお上手とはいえないがそれこそがパンクだ。
 元々、若者の音楽としてのロックは演奏レベルよりもその若者の衝撃を前に出した音楽だ。しかし70年代になってくるとそのロックの演奏レベルは進化をし続け、高度な演奏技術を要するようになっていた。パンクロックはそんなロックへの反発から生まれたものだ。
 3コードにパワーコード。ロックはそれでいいしそれだけでいい。
 それだけでいいからイカすのだ。
 俺の今まで眠っていた内なる秘めたる思いが消防車のホースから噴射するかのごとく吐き出した。
 その衝撃がパンクロックとしてのカリスマ性を発揮した。破壊からの創造こそがパンク。いや、もしかしたら何も創造なんてしていないのかもしれない。
 そのうちに由美と付き合うようになった。
 もちろん俺は由美に初めて会った時から惚れていたが何故由美が俺に惚れるのかさっぱり分からないのだが、由美は俺に惚れたようでめでたく相思相愛となり、いつの間にか付き合うこととなった。
「こんなべっぴんさんが、なんでかなぁ」
 と森山は良くため息混じりに呟いていた。俺もそう思う。
 以前、森山が冗談半分でこう質問してみたらしい。
「由美ちゃんは一体、村田の何処が良かったんだい?」
 すると由美はこう言った。
「何処も良いところがないとこ」
 なんてマニアックな女だ。これほど嬉しくない理由も珍しい。
 しかし続けて由美は言った。
「そして何処も良いところが無いけど取り繕ってないところ。みんな良いところなんて無いくせに良いところがあるように取り繕っている。でもそれに気付いていない。あんたはそれに気付いているからまだマシだけどね。ほとんどの人間は気付いてないから、駄目ね」
 由美は人一倍洞察力があるので人の裏を良く見ていた。
 もしかしたらトランプの数字も当てることが出来るのかもしれない。
 アンチまほろばスーパースターもインディーズで活躍しそれなりに売れていた。
 しかし、25の時に桂木が死んだ。薬物の過剰摂取だった。
 俺と桂木は中学の頃にシンナーを吸っていたが、桂木のつるんでいた奴らの一人がシンナー中毒により骨がカスカスになり、脳が萎縮し、悲惨な死を迎えたことをきっかけに、怖くなった俺と桂木はシンナーを卒業した。
 しかし桂木は他のドラッグに手を染めていた。
 バンドをやりだしてから桂木の影響で俺もまたドラッグに手を染めた。
 二人とも結構な中毒だったが森山と由美がそこから救いの手を差し伸べてくれた。
 俺はその手を掴んだが、桂木は反抗した。
「セックスドラッグロックンロールって言葉を知らねぇのか。俺はその一つも欠かしたくないんだよ。俺の三種の神器取られてたまるか、バァーカ」
の一点張り。
 俺はある日、薬物を摂取した時に錯乱状態となり、そのまま救急車で運ばれ、精神病院に措置入院となり、薬物療法により薬物をなんとか辞めることが出来た。皮肉みたいに聞こえるが本当の話。
 俺が精神病院に入院している2ヶ月の間、バンドは一時休止。
 その間に桂木は毎日薬物に溺れ、そしてある日、薬物の過剰摂取により心拍停止。死亡。
 桂木が死んだというのはさすがにみんなのショックが大きく立ち直れなかった。
 それに俺にとってアンチまほろばスーパースターはこの4人以外でやりたくなかった。
よって、アンチまほろばスーパースター、解散。
 そこからしばらく由美と付き合っていたが俺は由美の前から消えた。
 森山にも俺の居場所と携帯の番号を由美に教えないように強く戒めていた。

――そして実に4年ぶりに今、由美が目の前にいるということだ。
「あたし裕太と分かれて1年後に結婚したんだよ」
 急に告げられたその言葉に心にずっしりと重りが乗っかかってきた。
 それはそうだ。4年ぶりなのだから。常識的に考えて有り得る。
しかも自分から最低の方法でフったのだ。
 それは分っているが、しかし、暗い、暗い、暗い、絶望。虚。未来は絶望。
 ちなみに裕太とは俺のこと。
「それは裕太を忘れたかったから。でも結婚してすぐにしまったって思った。やっぱり違うって。こいつじゃないって。そんで離婚した」
 浮上、浮上、急浮上。重りは解放された。希望、ミライ、アカルイ。
「裕太がなんであたしの前から消えたのかは追求しない。どうせ言ってくれないだろうし。でも嫌いになったから消えたのじゃないってことは分かった。だからこそ余計辛いのはあったけど。そのうえもう絶対会ってくれないというのもなんとなく分かってた。そう考えるとあんたって本当ロクデナシの自己中野郎ね」
なんというストレートな表現だろうか。オブラートに包む気すらない。だがそこが良い。そしてその後に由美は少しか細い声で聞いた。
「今は私のことどう思ってんの?」
 俺は椅子にもたれかかり一度大きく深呼吸をしてからいった。
「良く夜中に起きて何かが足りないなぁって感じる時があるんだ。
でも俺、頭が悪いせいで何が足りないのか分からない。
夜は俺にとって戦いなんだよ。由美と別れてからも、何人かの女と寝た。でもなんか、パズルのピースがハマらないような違和感が付き纏った。由美のことを考えると、辛いから由美という存在を俺の頭の中の奥深くに封印していたんだけどさ、その頭の奥深くに眠っていた由美を呼び起こしてみたんだ。そんで夜、由美といた頃を思い出して、そして今由美がいると想像してみたんだ。するとピースがガチっとハマったね。気持ち良いぐらいピッタリと。つまり何かが足りないって由美だったんだよね」
 由美はそれを聞くとしばらく俯いていた。
 そして一言「バカ」と呟き、潤んだ目で涙がバレないように窓のほうを見ていた。由美の横顔はこの世のものとは思えないほど美しく妖艶だった。俺の心は高鳴った。
 由美は涙を必死で堪えていたようだが、我慢出来なくなり、1滴、 涙が頬を伝った。
 鬼の目にも涙。そして由美の目にも涙。
 本当は涙もろく、情に熱いくせに、気丈に振る舞い、クールに演じて自分を隠すけど上手く隠せてないそんな由美が好きだった。
 しばしの沈黙の後、由美は真っ赤なストールを羽織り、伝票を持って立ち上がった。
「じゃあ、あたし行くわ。森山から番号聞いてまた電話するから」
 それだけ言うと颯爽とカタルシスから出て行った。
 しかし、本当はもっと一緒に居たいはずだ。と思う俺。
 それにしても4年ぶりの再会なのになんて呆気ないのだろうか。
 普通この後森山を捨てられた子犬のごとくカタルシスに置いていき、2人きりになれる場所で色んなことを語り合っていちゃり合うものではないだろうか。
「いやぁ良かったよ。感動した。よし、じゃあ精神病院に行こうか」
 森山は森山で相変わらず訳の分からない事を言っている。
 俺の周りは頭のネジが飛んでいる奴ばかりだ。類は友を呼んでいるのか。
 質問してもどうせ質問はせずに黙ってついてこいとか言われそうだから、もうどうでもいいという気持ちでついていくことにする。
この市で一番でかい繁華街から少し離れた、徒歩で行ける距離のところに大きい府立の精神病院がある。俺が入院していたところだ。
 昼飯のコンビニで買ったホットドックを食べながら森山の後ろをついていく。森山は昼飯を食べない主義だ。そんな主義のやつは森山以外に聞いたことはないが。
 昼飯を食べると眠くなり頭が冴えないから食べないらしい。変な奴だ。
 ところで俺はいつも人と歩く時はそいつの後ろを歩く。
 決して前を歩かない。何故なら後ろにいると、ついていくだけでいいから頭を使わないで済み、楽だからだ。
 それほどまでの面倒臭がりなのである。
 学生の頃2人で行動していると、周りからは良く『狂った2人』という異名を付けられていた。
「なぁ、森山」
「なんだい」
「お前には『何かが欠けている』、というよりも『何かを忘れている』という感覚があるとか言っていたよな。
 森山は後ろを振り返ることなく答える。
「そういえば言ってたっけ?」
「忘れていたのって由美のことだろ?」
 森山は首を大きくゆっくり2,3度横に振り、答える。
「違うよ。由美と知り合う前から思っていたし、由美は必要な存在で、お前に足りなかっただけだろ。そうじゃなくて、忘れているんだ。その忘れているのは最初からお前が持っているんだよ。でもお前が思い出せないでいるのがもどかしい。」
いまいち要領を得ない。
――何年ぶりだろう、この精神病院は相変わらず変わっていない。
 受付で面会人の名前を書き、薄暗い廊下をくぐり抜けて面会室に行く。
 作業療法というやつか、面会室をくぐり抜ける廊下の壁には患者の絵や工芸作品等が飾られている。
 その絵は一般人の不快感をあおり精神状態を不安定にさせること請け負いだ。工芸作品もほとんど意味が良く分からない。
しかし1つ、マッチ箱で造ったインドの神様みたいなのがあって、それがやたらと芸術的に美しいものがあり圧倒された。
 なんとかと天才は紙一重というやつだろうか。
 森山は言う。
「今から会う人は9割9分9厘は自分の世界に入っているけどごく稀に理性が戻ってくる」
 言っている意味が分からない。
 面会室のドアをガチャリと開ける。
 真っ白な壁に警察署の取調室に置いてあるような机と椅子。恐ろしいほど殺風景な部屋だ。
 そこにほとんど白髪頭で髪がボサボサでヨレヨレの青いジャージを着た50代半ばであろう男が椅子に座り、顔を机に突っ伏してブツブツと独り言を喋っている。両手はだらんと下に垂らしている。
どう考えても少しアレだ。
「新島先生、お元気ですか?ご無沙汰しております。」
 新島先生なる人に森山が愛想良く、しかしやけに丁寧にあいさつをする。なんの先生だろうか。
 新島先生らしき人はゆっくりと顔を上げる。
 目の焦点があっていない新島さんは応答する。
「よぉっす。ヨォッス」
 よぉっす?『よぉ』ということか。
 森山はいつの間に買ったのかお土産を新島先生に渡す。
「新島先生の好物のカステラお持ちしました」
 新島先生は『アァッスアァッス』(おそらくありがとうございますの略)と言いながらカステラを手でむしゃむしゃと頬張る。
 新島先生は俺のほうを見るやいなや、カステラでベタついた指を一本一本丁寧に舐めながら唐突に語りだした。
「丸いなぁ。驚くほど。でも本当に丸じゃないですよ。本当の丸、存在しないですからね……」
 他にも遠くのほうを見ながら、「あの時、ノーベル賞を取れたけど私は武士道を重んじたよ。苦しいほど赤いんですよ私は」
 と言ったりほとんど意味不明な発言をひたすら繰り返していた。
 森山は相槌を打ったり、新島先生の言うことに質問してみたりするがまるでキャッチボールになっていない。
 その様子は滑稽というよりも怖かった。
 滑稽というのはまだ「分かる」から滑稽なのだ。
 しかし完全に理解不能だと怖くなるのだ。
 新島先生は急に理性が戻ったのだろうか、虚ろだった目がしっかりと俺のほうを見ている。そして今までに無いはっきりとした口調で喋りだした。
「南極と北極では風邪を引かないのですよ。それは、あまりの寒さにウィルスが生存できないからです。言いたいこと分かりますか?」
「わかりません」
 と答えると新島先生は続けて言った。
「精神を蝕む対人関係に勝利するには自分の精神状態を他者が蝕む余地が無いほどに崩壊させれば良いのです。そうするとあなた、誰にも侵食されないですよ。侵食しようがないのですから。
誰もいない荒野に戦争を仕掛ける人はいません。それと同じです。
私は自分の心を誰にも傷付けさせたり、もしくは感動して心を奪われたりしたくなかった。私の魂は誰にも奪えない、誰よりも崇高なものなのです。誰も私に近付けさせない。それほどまでにプライドが高いのです。だから私はこの世界とおさらばしたのです。それはとても孤独ですが、傷付くことはありません。悲しみもありません。しかし喜びもありません。虚無という言葉がこれほどまでにピッタリと合うものもないです。
 しかしこれを貴方に喋るということは本当は私は心の中で誰かに理解して欲しいのです。
 結局、私もスタンダートな孤独な人間の一人に過ぎない。0の虚無にはなれない。限りに無く0に近い、というよりも0に憧れる1に過ぎない。存在する限り、存在してしまった限り、未来永劫私は憧れの0にはなれない。
 私は真の1にも真の0にもなれない。0.9。あるいは0.1なのです。永遠の半端者です。そしてそれは全ての人間に当てはまる」
 新島先生はそこまで喋るとまた虚ろな目になり、旅に出た。
 次この世界に戻ってくるのはいつになるのだろう。
「それでは新島先生、そろそろ失礼致します。またお邪魔させていただきます。お元気で」
 森山は席を立ち深々とお辞儀をした。俺もつられてお辞儀をした。
 面会室のドアを開けようとドアノブに手を掛けたところ、新島先生が独り言だろうか?何かを言い出したのでドアノブから手を離して新島先生のほうを振り向いた。
「ポールゴーギャンはこう言った。『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』それこそ、全ての学問に追求する点。我々は何処から来て、我々は何者なのか。そしてそのところへ果たして帰ることが出来るだろうか。
しかし何か勘違いをしているのかもしれない。この人生の旅路、何処から来て、何処へ行くのかを探すことよりも、来た場所へ戻る方法を探し、それを信じて歩むことが人生なのではないだろうか」
それが独り言だと分かるともう一度ドアノブを握り、ドアを開けて一礼をし、出て行った。廊下を歩いていると。新島先生の声がかすかに聞こえる。
「何処から来て、何処へ行くのか、何処から来て、何処へ行くのか、何処から来て、何処へ行くのか、何処から来て……」
 その繰り返す言葉と廊下を歩く靴のカツン、カツンという音が妙にマッチして何か心地良かった。
「新島先生をどう思った?」
 森山は後ろを振り返りそう聞いてきた。
「どうって言われても、たぶん人間関係に疲れて自ら精神を破壊したんだろ」
「違うよ。新島先生は本を読みすぎておかしくなったんだ。心理的洞察力の才能無しと……」
 と言い、いつものようにメモをする森山。
 なんだそれ。なんか期待はずれだな。その後もこの才能捜しの旅は続いた。
 麻雀、将棋、服屋で服をチョイス、パチンコ、ゴルフの打ちっぱなしetc…
 気付けば夜も更け、淫靡な雰囲気が漂う歓楽街のほうが賑わう時間帯となっていた。
「なぁ、森山、もうくたびれたよ俺」
 と言ったと同時に前を歩いていた森山は踵を返し俺のほうに向かって来、そのまま俺のジーパンの後ろポケットに入っている財布を抜き取り、脱兎の如く駆け抜けていった。俺は一瞬茫然としたが我に返り森山を追いかけた。
「おい、何してんだよ! 待て、馬鹿!」
 訳が分からないが今はとにかく財布をあのアホ山から取り返さないと。
 しかし段々と距離が遠のいていく。息が上がり、もうダメかと思ったところで森山は急に立ち止まった。俺はチャンスとばかりに全力で森山のほうへ走る。森山は何やらメモをしている。
「走る才能は無し……と」
 こいつマジでバカにしてる。俺は深くため息をついて言った。
「今日はもう俺も疲れたよ。飲みに行こう」
 行きつけの少ししなびた、カクテル1杯400円のこぢんまりとしたバーで二人で酒を飲み明かす。
 森山は酒を飲むとやたらと上機嫌になる。
「なぁ、成果は無かったが楽しかったなぁ。次は教室系を攻めよう。
料理教室、活け花教室……」
「まだやんのかよこれ。俺はもうかなり自信無くなったよ。なんか他に方法無いの?」
「次の教室系でダメだったらそん時は違う方法を考えよう」
「いやあそれにしても」
 森山はにやにやとしながら俺の顔を下からのぞき見る。
「良かったなぁ。由美ちゃんと復縁出来そうじゃないか」
「そのことだけは唯一感謝してるよ。」
 森山の良いところは恩を着せないところだ。
 ただ純粋に俺と由美ちゃんが復縁して欲しくて、俺が『事を起こす時』がその絶好の機会と踏んだのだ。いい奴だ。
「それにしてもお前の考えることは分かんないね。なんでお前には奇跡的な絶世の美女をフっちまうんだか。クールで怖そうに見えてすげぇ尽くしてくれるし良い娘なのに」
 俺はグラスに残っていたマティーニを一気にぐいっと飲み欲していった。
「俺もそうしたくはなかったんだけど、そうする他ならなかったんだよ」
 そうなんだよな、そうしないと俺はまた、あの時のように。
 ふいに後ろから声が聴こえた。
「あれ? あれ? あれぇ? 森山君に裕ちゃん。こんなところで」
 その声を聞いた途端俺と森山が思ったのはこうだ。
(やばい)
 後ろをまだ振り向いていないが3~4人いることが分かる。カウンターテーブルに写る影と物音で。そして第6感で。やはり俺は第6感の才能があるんじゃないか、どうなんだ森山。
 森山は作り笑顔でハハ、ハハ、とロボのような笑いをしながら振りむいて言う。
「あ、やぁ。ご機嫌麗しゅう鳴沢先輩とその一味達」
 鳴沢は怖いぐらい、なよっとした優しい口調でこう言った。
「じゃぁ、ちょっとお二人さん店から出てちょこぉっとお話ししましょうねぇ」
 森山はハハ、ハハと引きつって笑いながら答える。
「酷いことしない?」
「酷いことしないよぉ」
 森山の顔を首をかしげるようにして横から覗き込み、まるで子供をあやすかのような口調で答える鳴沢先輩。
 この鳴沢先輩のことを紹介しよう。
 彼らは俺と森山が夜のお仕事、キャッチ(その辺を歩いている女性に声を掛けて、水商売や風俗の仕事を紹介する仕事)をしていた時の先輩だ。
 俺と森山は大学を中退し、その時22歳。悲惨なぐらい金に困っていた。
 俺はティッシュ配りの仕事がまわってこなくなり、家賃が払えない状態、森山の家の父は画商で年収はすこぶる良かったため、森山も画家を目指すとのことで毎月金を援助してもらっていたが、父と大喧嘩をし、勘当されてしまった。それにより学費も出して貰えなくなり中退したのだ。
 同時期に金の当てが無くなった二人は適当に仕事を探していると、キャッチの仕事があり、それに寮つきだったのでこれぁいいやと思い適当に面接に行くと「ふーん、じゃあ明日から寮入って働いてもらえる?」と適当な感じで面会に受かり、働くこととなった。
 そして森山と俺らのグループ担当の専務がこの顔面の至るところにボディピアスを刺しまくり、長い髪の毛で隠れた耳には片耳15個以上に及ぶピアスが装飾されてある。腕から肩にかけてサイケでグロテスクなタトゥが描かれていて、元アマチュアレスリング選手なだけあって体がいかつい。鳴沢先輩は非常に喧嘩っぱやく、他の店のキャッチの連中と揉めては殴り合いをしていた。
 その際鳴沢先輩はピアスだらけの顔面を殴られ、血まみれになった時でも笑みを浮かべて相手をボコボコにし病院送りにしたこともある。
 そんなこんなで傷害事件で何度か留置所に行っているそんな狂った先輩である。
 そんな鳴沢先輩に何故俺達二人は顔面蒼白状態で怯えているのか。
それはまず、このキャッチの寮にいささか問題があった。
見かけからして恐ろしくボロい2DKのマンション。住民はほぼ全て外人。
和室を改造してみたものの、途中で金が無くなったのか、もしくは工事の途中で放り出したかのような洋室が2部屋。
便所が酸鼻をきわめた。
和式を無理矢理洋式に変えたような便所で構造に随分と無理があるために用を足すと高確率で周りにまき散らしてしまう。
そこで誰も掃除をしないものだからとんでもない。
しかも便所の水を流すと水の勢いが強くてこれまた周囲にまき散らす。たまに逆流して溢れかえり、便所と台所の床が浸水して惨状を極める。
それは二の次で、更に仕事の拘束が厳しすぎで、かつ鳴沢先輩の日々の新人イビリ、訴えたら絶対勝訴出来そうなパワハラ、完全歩合制により仕事をサボって遊んでいたばかりの俺と森山は月3万しか給料が無く、体力的にも精神的にも辛くなり、ある日夜逃げをしようと決行した。
そして夜中に桂木と由美に車で寮まで迎えにきてもらい、そこで荷物を見境なく車に詰めまくった。
見境なく詰めまくったとはどういうことかというと、寮の備品を盗難したということである。
小型冷蔵庫やDVDプレーヤー、DVD、音楽のCD,売れそうなものは全て車に詰め込んだ。
鳴沢先輩とブラック企業顔負けのキャッチの会社に対する復讐の意味を込めている。無法者の世界では無法者らしい復讐の方法があるのだ。
そして全てを詰め込み終わり、いざ車でバックレようと言う時に肩をポンポンと叩かれた。
後ろを振り向くと鳴沢先輩が顔をピクピクとさせておられるではありませんか。先輩は神経質でちょっとしたことですぐに顔をピクつかせる。この時はちょっとしたことではないので顔のピクつく具合も半端ではなかった。
顔がヒクヒクと痙攣すると同時に、顔に着けているピアス達もチャリ、チャリと音を立てるのが滑稽だったが笑うほどの余裕は無かった。
「何してるのかなぁ君たち。とても面白いこと、してるよねぇ」
といつもよりドスのきいた声の鳴沢先輩。
鳴沢先輩は近くのワンルームマンションに一人暮らしをしているのだが、たまに遊びに(イジメに)寮に来るのだ。運悪く夜逃げする時に来るとは。
すると、鳴沢先輩の肩をポンポンと叩く誰か。
鳴沢先輩が振り向くとそこには、ブルーローズ模様のクリスタル風ガラス製の灰皿を片手に持って自分の肩をその灰皿でマッサージをするように首を傾けてコンコンと叩いている桂木がいた。
桂木は鳴沢先輩の声真似をして言った。
「ちょっとぉそこで寝てて貰えるかなぁ?顔面デコレーション君」
と言うやいなや、そのさぞ硬いであろう灰皿で力の限り鳴沢先輩のこめかみ部分をぶん殴った。
ゴッンッと鈍い音。
鳴沢先輩はぐりんっと白目を剥き、巨漢はその場でドシャァッと崩れ去った。
確かに腹いせに何かしたいとこだったけどそれはやり過ぎ、桂木君。
罪悪感が募った。
しかしそれはそれ、これはこれで、桂木がやったことで関係無しということで夜中の逃走劇は始まったのだ。
といっても誰も追ってくるわけではないが。それ以降鳴沢先輩とは会わなかった。
というのも鳴沢先輩のテリトリーであるほうの市内の歓楽街には足を運ばなかったから会うはずはなかった。俺たちのテリトリーはかなり遠い場所にある。鳴沢先輩が探す範囲からは離れていると確信があった。
ここもその歓楽街とは違った遠くの場所で会うことは無いはずだったのだ。
しかし今その鳴沢先輩が何故かここにいる訳。
「君たちぃ。僕とここじゃ会わないと思っていたのぉ?ちょいとこのバーの店長さんと知り合いで寄ったんだよね。そしたらびっくり! 昔の可愛い後輩たちがいるじゃんか。嬉しいねぇ。
いやぁ実に6~7年ぶりだけど今だに覚えてるよ。変わってないねぇ。僕も変わってないでしょ?」
鳴沢先輩は少し変わっていた。顔にはピアスを含め、マダラ模様のタトゥまでもが入っていた。この人顔にタトゥ入れるなんてこれから先どうするだろうと鳴沢先輩の今後を一瞬心配した。
しかし心配するべきなのは今の俺達の現状だ。
鳴沢先輩と他4~5人の鳴沢先輩の部下であろうタチの悪そうな奴らがニヤニヤとしている。
大人しく降伏しバーを出た。金品で赦してくれないかな。
俺と森山は人が通らないであろう、店の裏のゴミを一時置いておきますよ的な路地裏に連れていかれた。
鳴沢先輩が俺達二人の前に立ちはだかり舎弟達は周りを塞ぎ、誰も来ないことを確かめている。
「さぁ、どうしよっかぁ?森山君、村田君」
万事休す。
森山は小声で俺に言う。
「なぁ、村田ってひょっとして格闘技の才能あるんじゃないか。それに賭けよう」
「ねぇよ。それに賭ける前に弁舌の才能があるか試してみるよ」
俺は頭をフル回転し、口を開く。
「鳴沢先輩、俺、鳴沢先輩を本当は尊敬していたのにこんなことになってしまって。あの時は本当、どうかしていたんです。本当は鳴沢先輩を尊敬していて、あなたのような偉大な……」
と自分でも驚くほど下手に媚びてみたが鳴沢先輩は俺が喋っている途中に割って口を開いた。「どーちーらーにしーよーうーかーなー」
鳴沢先輩は、裏の権兵衛さんに聞きながら人差し指で俺と森山を交互に指していく。
森山は弁舌の才能無しとメモ帳に書き込んでいる。アホか。
「き・い・た・ら・よ・く・わ・か・る」
森山、俺、森山、俺、森山、俺、……森山。権兵衛さんは森山を指名した。
森山は俺のほうを見ると今まで、ありがとよ、楽しかったぜ。友よと言わんばかりの笑みで俺を見つめていた。
ふいに鳴沢先輩の右ボディが森山の腹をえぐり込んだ。
そのままうずくまった森山にサッカーボールキック。森山ダウン。
勝者、鳴沢先輩。
次に俺のほうを振り向き、獲物を逃さないとばかりの野獣の目つきで睨んでくる。
鳴沢先輩は人間の内なる凶暴性が目覚め、ボルテージマックスで息をあららげて興奮している。
俺は昔、ブルースリーの映画が大好きでブルースリーは心の師であった。
……お師匠さん、俺に今力を
ブルースリーの名言が頭によぎる。

――心を空にしろ。形なきものとなれ。水のように無定形に。水をコップに入れれば、コップの形となる。ボトルに入れればボトルの形に、茶瓶に入れれば茶瓶の形となる。水はゆらゆら流れる。水は破壊することもできる。水になれ、友よ……

気がつけば俺はブルースリーと同じファイティングポーズを取っていた。
続けてブルースリー先生は俺の心の中でこう語りかけた。気がした。

「考えるな、感じろ」

俺は静かに目を閉じ深呼吸を軽くした。
そしてカッと目を見開いた。
鳴沢先輩がいつの間にか、すぐ目の真ん前にいた。
――閃光
目の前にパパッと光の花火が現れる。その瞬間激痛。
読んで字のごとく、2メートルほど吹き飛んだ。
そして気が付くと地面に倒れる俺。訳の分からないうちに右ストレートを決められた。うずくまった俺に服を捻り掴み無理矢理起こし、ボディ、ボディ、右フック。ダウン。
意識朦朧の中、森山の途切れ途切れの声が聴こえる。
「か、格闘技の才能……無し」
やかましいわ

視界がふと消える。暗い暗い。闇。

ふと目を覚ます。5分ほど気を失っていたみたいだ。鳴沢先輩とその一味は何処かへ消えた。これぐらいで済んで助かった。きっと鳴沢先輩は機嫌が良かったのだろう。
二人でしばらくうずくまりうめき声をあげていた。
森山が寝返りをうち、大の字になった。
俺もそれに釣られて大の字になってみた。
生ゴミの臭いと錆びた鉄の臭いが立ち込める細い路地裏、ビルとビルの隙間、その狭い空間を通して見える夜空は自分という存在を一段と惨めに感じさせた。
星なんて、見えない。
自分を誤魔化す住人達が昼の闇を紛らわすために夜の虚像の光で宴をしている喧騒が聴こえる。

桂木と夜中にシンナーでラリっている時に、たまにあいつは夜空を見上げてこう言っていた。
「星なんて、見えない」
俺は確かにその時、星は見えなかったから「そうだなぁ」と相槌を打った。
しかしある夜、月も星も明らかにも関わらず桂木は夜空を見上げて言った。
「星なんて、見えない」
俺は桂木の言っていることを一瞬考えたがすぐに理解した。
そして「そうだなぁ」と相槌を打った。
あの時「星、見えてるだろ?」と言っていたのなら桂木は心を開いてくれなかったと思う。
でも桂木は俺が「そうだな」と言ってくれるのを知っていた。
似た者同士はお互いを何かで感じとることが出来る。
桂木は闇に連れていかれた。闇に行ってしまった。
でも桂木が闇から産まれたとは思えない。
ただ闇に呑まれていってしまったのだ。
それを桂木が本当に望んでいたとは思えない。
帰る場所を間違った気がする。

桂木はまるで闇に騙されていたかのように見えた。
俺が錯乱状態で救急車で運ばれ、措置入院となり1週間後、桂木が面会に来た。
極端に痩せ細り、目にでっかいクマを貼りつけた桂木が面会に来た。
どっちが面会に来た健常者なのか分からない。
真っ白とはいえない薄汚れた白が全体を覆う3畳ほどの狭い面会室で二人は向き合って座っていた。
まるで世界には二人だけしかいなくて、ここだけにしか世界が無いように錯覚した。
否、世界から放り出された二人といった感じだ。
事実、社会からは放り出されている。
何かの電気音のウーンという音だけがこの放り出された世界に虚しく響き渡る。
桂木はポケットに手を突っ込み椅子に深く座ったまましばらく俯いていた。
俺は机の上で両手を交差させ、椅子に浅く座ったまま前のめりの状態で俯いていた。
しばらくの沈黙の後、まず俺が口を開いた。
「ほどほどにしとけよ」
桂木はその言葉に反応したかのように頭がピクンと少し動き、そして俯いた状態で言った。
「お前と俺はクスリで繋がっているわけでも、ロックで繋がっているわけでもない。俺は本当はクスリもパンクも大嫌いなんだ。セックスドラッグロックンロールなんて一時の快楽で、そして一時の破壊だよ。それを積み重ねていくと一生の快楽になると思ってたけど、やっぱその先は一生の破壊だな。でもそれも知っていた。知っていたけど他にどうすることも出来なかったんだ」
俺は静かに一言。
「分かるよ」
続けて優しい口調で言った。
「退院したら、一緒に仕事探して、同じぐらいに結婚して、同じ町に住もう。そんで休みの日には家族ぐるみで遊園地とかファミレスとか海水浴とかに遊びに行こう」
桂木は顔を上げて俺の目を見、消え入るような声で「うん」と言った。
その時の桂木の顔は今まで見たことがないぐらい悲しそうで、今まで見たことがないぐらい穏やかだった。
その翌日桂木はクスリの過剰摂取で死んだ。
桂木はあの時明るい未来を一瞬でも想像出来ただろうか。

柔らかな風が吹き、生ゴミの臭いが新たに充満してきた。
鉄サビの臭いは何年も放置されていてすでに原型を止めていない赤茶色の積まれた鉄クズのせいだった。
産まれも育ちも俺はずっとここ。
俺は社会から見るとなんの価値も無い芥のような存在だ。
星なんて、見えない。

――桂木といつか一緒に星、見ようと思ってたんだけどな。

いつの間にか涙が流れて何もかもが見えなくなった。

涙は頬をつたり耳の中へ入っていった。
耳の中に入った涙は「ズクン」と音を立てる。

その涙は桂木のために流れた最初で最後の涙だった。


ふいに森山が口を開いた。
「俺はいつも自分を偽っている。だからやりたい時にやりたいことが出来ないんだ。俺はお前に憧れてたんだよ、ずっとね」
俺は森山にバレないように涙を拭って答える。
「なんだよ、今の鳴沢パンチでもまだ酔いが覚めてないのか?」
森山は続ける。たぶん、マシンガン。
「お前はいつでもありのままで自由だ。やりたくないことはやらずにやりたい時にやりたいことをやっている。お前はやらないといけないなんて思いもしない。羨ましいよ。
「俺は作っているけどお前は自然なんだよ」
俺ははぁ? という顔で反論した。
「何言ってんだ。お前は他の奴よりうんと自然に見えるし、絵の才能もあるから俺はお前が羨ましいぞ」
「村田、言ってみれば俺の自然は人工的な自然さ。お前のは天然の自然だよ」
「つまり、人はそれぞれ物事のとらえかた、見ている角度が違うんだ。感性が明らかに違う。
お前と俺は似ているようで似ていない。似ていないようで似ている。
自分を写す鏡みたいなもんさ。
でも俺はやっぱ半端だなぁ。自分の信念に妥協して媚びを売ってマガイ者でもいいから成功の道へ行きたいと考えている。
俺には貫き通す力が無いのかもね。
媚びを売らずに成功したやつなんて、或るいはいないのかもしれないな。インチキな世界では純粋な物は自己満足になり、世には出ない。ゴッホなんてそうだよ。彼は天才の中の天才だったから決して妥協しなかったんだ」
森山はモゾモゾとポケットを弄って何かを探しながら喋り続ける。
「30歳ってのは第2の青春、最後の青春の終わり。それは色々なことを諦める年でもあるのさ。地に完全に足がつく(歳)だよ。
それをあんた、今から何か夢を目指そうなんて凄いよ。ぶっ飛んでる。ありのままの自分でいられないと出来ないことだ。
村田は自分を造ろうという考えが無いほどにナチュラルなんだよ。
それこそがあんたの最高のセンスだね。村田は媚びる、媚びないということさえ考えない。何故なら全てが天然素材で出来ているからそんなこと考える必要も無いわけよ。お前はナチュラルの天才だ。由美ちゃんがお前の事が好きな理由が今、分かったよ」
森山はスーツの内ポケットからタバコを見つけ出し、取り出して火をつける。
ひと思いにタバコを吸う。口の隙間からタバコを吸っているキュゥゥという音が漏れる。
タバコをゆっくりと吐き出していき、再び口を開く。
「もしさ、この期間に才能を見つけることができなかったとしても、村田はこれから先何かがきっかけで自然に天性の才能を手に入れることが出来ると思うよ。
偶然という名の完全なまでの必然のごとく自分で何かをするわけでもなく、ごく自然にね。
お前は才能が欲しいと純粋に願うからこそ天から唐突に与えられるんだよ。
それこそまさにお前、天才。純粋なまでの天から与えられし賜物だよ。」
俺は鼻で笑いながら答える。
「そんなおとぎ話みたいなことあるかよ」
「事実は小説よりも奇なりって言うだろう」
森山は何か言おうか言うまいか考えているかのようにしばらく口をつぐんでから言った。
「そういえば桂木さ、俺が無理矢理にでも止めるべきだったんだよ。でも俺は桂木を止めなかった。あいつが怖かったんだ」
俺は静かに一言、「分かるよ」
続けて優しい口調で言った。
「お前はホント、いい奴だな」
森山はフッと恥ずかしそうに笑った。
そしてまたしばしの沈黙。
周囲は相変わらず宴の喧騒でにぎやかだった。
何か心が暖かかった。
「あっ」と思わず声が出た。
森山は上半身を起こし俺の方を嬉しそうに見て言う。
「なんだ、才能与えられたか?」
「そんな訳ないだろ。昨日と今日で4ヶ月生活する分の予定の2ヶ月すでに消費しちまったよ」
笑い飛ばす森山。
「しかし何に才能が無いかということが分かっただけでも前進だよ。
ポジティブに行こうぜ。やるだけのことはやったんだ」

やっぱり森山に頼んだのが間違いだったか。
いや、でも由美と和解することが出来たのは何にも変えがたいものがあるから感謝はしているのだけども。
森山は立ち上がり、まだ大の字になっている俺に手を差し伸べて言った。
「帰ろう。2~3日計画を立ててからまた連絡する」

ブレーキがほとんど効かないサビサビの自転車で自宅へ帰る。
長い間何処かへ旅をしていた気がする。何年かぶりに帰る気分だ。
なんだか才能が見つかる気配がしない。
森山のやり方がおかしいのか。それとも俺に才能が無さ過ぎるのか。
どっちも、のような気がする。
しかしこのまま才能が見つからないまま貯金が潰えたら。
その時はその時で諦めきれない何かがある。
というより才能見つけるとかよりも好きなこと見つけることだよなぁ。
俺の好きなことってなんだ。パンクロック。
でも、もうバンドは組めない。だから次のこと。
パンクは破壊だ。創造なんてそこにはない。
俺はパンクで自分を破壊した。
俺のパンクは破壊と快楽だった。そういう衝撃だった。
パンクで破壊したから再構築したい。
次は本当の創造をしたい。純粋に感動出来る美しい物を。
自分の持っているはずの良い物を表現したい。人を感動させたい。
だけどどうやって表現すれば良いのか。
そもそも自分に良いものなんて無いんじゃないか。
良いものが無いからこそ、それを表現する手段である才能を持ち合わせていないんじゃないのか。
ネガティブな俺に支配されそうになり、それを振り切るためにサドルから立ち上がり、おもいっきりペダルを踏み込んだその瞬間。

――ガチンッ

あっ
前もあったなこれ。
中学生の頃、みんなで自転車をダッシュで立ち漕ぎをしてる時にいきなり、ガチンッ
ペダルが動かなくなり、動かそうとした力と止まろうとした力の反動で俺は前のめりになった。その時にハンドルをギュッと握ったためにその力により自転車が見事なバク転宙返りをした。
そして俺は自転車から2メートルほど吹き飛び豪快に地面に叩きつけられた。
なかなか衝撃的なシーンだったため、みんなは焦って俺を助け起こしにきてくれた。あの時は奇跡的に無傷だったが。
今回は、さて。
中学の時と比べて大人の今の方が脚力がある、
反動で自転車はバク転宙返りを2回半をキメたのではないだろうか。
吹き飛んだ。それはもう、漫画のように吹き飛んだ。
危ないと感じた時にスローモーションになるあれを体験した。
目の前に迫るのは駐車場のレンガ造りの壁。
このままいけば頭頂部辺りがあの壁に直撃する。
死なないか、これ。
「か、かみさま」

どうしようかということを考える前に神様なんて、存在するか存在しないか分からない神様に助けをすがるなんて情けない。
なんと弱い。弱いから神様に助けを求めるのか。自分ではどうすることも出来ないから。
しかしそれにしても神様がいないって、或いは神様がいるってどうして知っているんだろう。
つまり神様っていう概念はいつからアタマの中に……

衝撃、一瞬の衝撃。脳ミソの奥深くにまで染み渡るほどの鈍痛。
そして暗闇。束の間の暗闇。もしくは永遠の。

桂木が面会に来てくれた時に形見のようにくれた十字架のネックレスは無事だろうか。

――なんでも2000年前にイエスキリストは十字架にかかって死んだらしい。それはどうやら俺の罪のために死んだらしい。
西暦は十字架から始まり今の今まで続いているということだ。
昔桂木がいつもしていた十字架のネックレスを見て
「十字架ってどういう意味なんだろうな?」と質問した時、桂木がそう教えてくれた。

アタマがもぞもぞとする。アタマの中がかゆい。

ぼんやりとした意識の中、俺は俺を見ていた。
俺は食卓テーブルで絵を描いている。お袋は台所で食事を作っている。
その瞬間、俺はお袋の顔を忘れていたこを忘れていたというそのことを思い出した。
ややこしい話だが、俺はお袋の顔をいつの間にか忘れていたのだが、その忘れていたということさえ、忘れていたのだ。
しかし今この瞬間にお袋の顔を忘れていたことを思い出した。
お袋の顔どんなだっけ。忘れていたことを思い出すと、次に忘れていたお袋の顔を思い出したくなった。
しかしお袋の顔は俺の視点からは見えない。後ろ姿しか見えない。
お袋の後ろ姿はやけに悲壮感が漂っていた。
俺は嬉しそうに絵を描いている。その絵を見て笑えた。
俺がこの才能捜しの旅を始める前に森山の絵を描いたが、あの絵とタッチが全く同じだ。
本当に俺は5歳児から成長していなかったのか。
急にお袋が何か怒っているかのように俺のほうへ走りよってきて、俺が描いていた紙を取り上げてクシャクシャに丸めてゴミ箱へ捨てた。お袋の顔はモヤがかかっているようで見えない。
そういえば、あれは俺が絵を描いた最初で最後だった。
それ以前は絵が大好きで毎日絵を描いていた。
それは絵をお袋に褒められたからだ。ゆうちゃん凄い上手だって。
俺はその日以来絵を四六時中描いていた。
しかしあの日、お袋に絵を破られてゴミ箱に捨てられて以来、絵と一緒に俺の心の一部も破られてゴミ箱に捨てられた。

また場面が急に変わる。
次は幼い俺と同じ目線になるようにしゃがんだお袋がいる。
お袋は長い間ハグをしている。お袋はハグをやめた。
そして幼い俺を観た。その時お袋の顔が見えた。
とその瞬間、また場面が変わった。

簡素なベッド。ベッドの手すりに日付と俺の名前が見える。
次にギプスをはめられ、固定された左手が見える。
ふと右手に温もりが感じる。
由美が微笑をしながらこっちを見ている。
俺は口を開いた。
「ここは天国?」
由美は微笑を崩さないまま答える。
「どうして?」
「あぁ、その声は由美か。その微笑とその美貌で天使かと思ったよ」
由美は真顔になって答える。
「詩人の才能無し」
俺はフゥっとため息をついた。
「ちょっともうそれやめてくれよ。その言葉ノイローゼになりそうだよ」
由美はふっと笑った。
「初めて連絡してみたら、女が出たから、ぶち切ってやろうと思ったけど私は看護師で村田さんは入院しているって言うからさ。びっくりしたよ。そんで理由聞いたら呆れた。あんた本当にドジでバカね」
外の風を感じるために窓を開けると、4月の穏やかな風がふわっと俺の顔を包んだ。いつもより空が青く感じた。
病院の窓から射す木漏れ日を見ながら言った。
「由美の前からいなくなったのは、怖かったからなんだ」
由美は聴いた。
「何が怖かったの?」
「捨てられると思ったから」
「なんで?あんたのお母さんがあんたを捨てたから?」
スゥッと短く息を吸った。
「お袋は夜の仕事をしていた。何かは知らないけど夜はいつもいなかった。いつも夜は独りだった。
夜に寝ている時、何かに足を掴まれて真っ暗な何処かに連れて行かれると感じた。だから足を布団から絶対に出せなかった。
手も同じように掴まれると感じた。
毛布と俺の間に隙間があると、そこから真っ暗な何かに真っ暗な何処かに連れていかれるって。
だからいつもミノムシみたいにくるまって寝ていたよ。
電気を付けたら良かったんだけど、電気付けて寝ていたらお袋に怒鳴られるから出来なかったんだ」
俺は由美の方を見ながら喋り続ける。
「家には誰もいないから助けを求める相手がいなかった。
そのうち耐えられなくなって外に出た。
なるだけ明るいところに行こうと街を彷徨っているとコンビニが見えた。
その光に惹きつけられるように行ってコンビニで立ち読みをしていたら誰かに通報されて補導されてまた怒鳴られた。」
「お袋は男を作ってどっかにいって児童養護施設に入ってからも夜が怖くてよく施設から抜け出していた。そして中学の時あの夜桂木と出会った。俺は闇に殺されるところだったんだ。だから桂木と一緒にいた。桂木もそうするしかなかった。
桂木の言うロックもドラッグも一時の救いのまやかしに過ぎないんだ。ドラッグはもちろん、ロックにも救いはない。
俺のお袋は安心させておいて俺を捨てたんだ。
お袋は男に捨てられるより俺を捨てるほうが楽だと思ったんだろ。
だから俺を捨てた。俺は捨てられるよりも捨てるほうが楽なのかと思った。
だから俺も楽だと思われるほうを選んで由美を捨てたんだ。由美に捨てられる前に。最低の自己中野郎だよ。しかし捨てるほうも捨てられるのと同じように辛かったよ。どっち選んでも辛いなんて、どうしようもないよな。でもいつもどっちか選ばないといけない。」
由美がキッと睨んだ。
「捨てなくても捨てられない」
由美は珍しく声を荒げた。
俺は静かに言う。
「捨てなきゃ捨てられる」
「あたしは捨てない!」
由美が初めて怒鳴った。
その声にはトゲがなく、真冬の静寂の空気のように透き通っていて、尚且つ、その内には言い様のない暖かさがあった。
心に暖かな何かがどっと流れてきた。ずっとその液に満たされたかった。
由美の言葉で初めて人の心を触れられた気がした。
人の心(に)触れる方法は世の中できっと1つしかない。
恥ずかしげもなく言うがそれは必ず愛というやつだ。
心の内から抱きしめられた感覚に陥った。
由美が再び落ち着いた声で言う。
「ロックもドラッグも救いは無いって言ってたけど、桂木はセックスドラッグロックンロールが3種の神器って言ってたけど、セックスはどうなの?一時の快楽でまやかし?」
俺は青の空を眺めながら答える。
「セックスは一時の快楽だけを求めるなら一時の快楽だけで、破滅をもたらす。でもそのためのセックスじゃなくて愛のあるセックスなら、その中に確かな創造があるだろう。愛の先に生命を創造するなんて感動ものだなぁ。なんてね」
と、少しはにかむ俺。
全治1か月の俺はその夜、病室のベッドで満月を見ていた。
月明かりの下、俺は夜な夜なある事をしていた。
入院して4日後に森山がボストンバックを手にぶら下げて面会に来た。
森山が面会に遅れたのと、ボストンバックを持っているのには訳があった。
「親父と和解しようと思ってさ。俺もいつまで経ってもくすぶっている訳にはいかないしさ」
森山は少し不服そうな顔でそう言った。
「頭おもいっきりぶつけたって聞いたから記憶喪失にでもなっているのかと思ったけどそんなことも無いようだなぁ。頭が逆に賢くなったりはしてないのかい?」
俺は窓わきの壁にもたれかかって言った。
「あぁ、どっちも残念ながら無いな」
「そっかぁ。記憶喪失になったらさ、昔の嫌なことも全部忘れられるんだろうな。良いよな。また全部初めからやり直せるなんて。そして次は嫌なことを回避していけばいいんだよ」
俺は包帯を巻いた頭がかゆかったので包帯の中の頭を無理矢理搔こうとしながら答える。
「そうだな、そうしたらこの入院費で二か月分飛んだから後の生活費のことも考えなくてもいいしな。でもさ、嫌なことを回避することなんて出来ないだろ。それをすると不幸になるのを分かっていてもやめれないのが人間の性というもんだろ」
俺は続けて喋る。頭打って少し流暢に話すようになった気がする。
「才能の片鱗さえ見せるところもなく、金も全部飛んで、おまけに全治一か月という燦々たる結果だよ。しかしここまでめちゃめちゃだと逆にすっきりするね」
村田は相変わらず、能天気に言う。
「それに退院するまでナースに看病してもらえるじゃないか。由美ちゃんにも優しくしてもらえるしハーレムだろ。物は考えようさ」
森山はベッドの横の机に大量に積み重なっている画用紙にふと気付き、その机の前に近づいていった。
「なんだこれ?」
「あぁ、それさ。俺夢でお袋の顔を見たんだけどさ、その時、お袋の顔を思い出したんだよ。そんでお袋の顔を忘れないうちに描いておこうと思ってさ。お袋の笑顔の顔と、お袋が俺を捨てる前に見た切ない顔の二つを寝てる時と飯食ってる時以外はずっと描いてんの。なんか描けば描くほど自分の頭の中の理想の絵と自分が実際に描く絵の差が埋まってきてやたらと楽しいんだよな」
森山は下卑た笑みを浮かべながら言った。

「なんと、下手の横好きとはまさにお前のためにある言葉なんじゃないのか。5歳児から10歳ぐらいには進化したか?」
そう言いながら森山は一番上の画用紙を手に取って観た。
俺は続けて話す。
「なんか夢でお袋のあの顔みたら、お袋のこと赦したくなったよ。
俺はなんの感情も無しに捨てられたと思っていたんだけど。
まぁ捨てられたのには変わりないけどな、でもお袋はちゃんと俺のこと愛していたんだなって分かったからな」
と照れながらうつむいてリンゴの皮を剥く俺。乙女か俺は。
「ん?森山聞いてるか?」
なんの相槌も無いのでイラっとしてリンゴの皮を剥くのをやめて森山を観た。
森山は、ボストンカバンを床に落とし、俺が画用紙に描いた絵を観たまま、目を見開いて口がぽかんと開いたまま硬直していた。
画用紙を持つ手は小刻みに震えていた。


「完」

まほろばスーパースター

まほろばスーパースター

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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