望夏の灯


――それは、ただ綺麗な灯。夜の浜辺に広がる幾多の灯篭……蝋燭に紙を被せただけの簡素な造りだが、小さな炎が集まって揺れる様に目を奪われる。それを防波堤の上に座り、見下ろす僕は。きっとこの場にふさわしくもない、能面のような無表情で居るんだろう。

波間に攫われた紙灯篭の一つが、尚その煌めきを失わないのを見ても。灯りを並べる人々の皆が皆、哀しみと愛情を綯い交ぜにした顔をするのを見ても……



「廉、そろそろ時間だ。通夜が終わっちまうぞ……?」

「分かったよ、修介。だけど、もう少し……」

ふと、後ろから男の声。それでも灯から目を離さず声だけで返すと、彼は文句も言わず、隣に座り込んだ。此処は彼と僕……そして彼女が年に一度必ず訪れた特別な場所。通夜の会場から行先も告げずに出てきた僕を、彼が見つけられたのも別段不思議では無かった。高校に入って二年、ラグビー部に入ってすっかり体育会系の顔付きになってしまった修介だが……聴くと落ちつくような低い声だけは相変らずだった。

「ああ……。あいつは『迎え火』が好きだったな。良く不謹慎だと言ったもんだが」

「……今年は灯が多いね。修介、あいつも喜んでると思う?」

今さら、その感傷は無意味だ……しかし、それでも。毎年の盆には此処を訪れて、死者の霊を迎える火を見て、花火のようにはしゃいでいた彼女の姿が瞼に焼き付いて離れない。きっとそれは、隣に座る男、修介だって同じだろう。この揺れる灯の中の少なくない数が、世を離れたばかりのあいつを性急にも呼び出しているモノなのだから。

「だろうな。全く、わざわざ盆に逝くなんて……これを狙ったとしか思えんよな」

「はは、違いない……」

呆れたような修介の声は、全く変わっていなかった。今でも、拗ねたように反論する彼女が隣にいるような気がして。それを宥めるのが僕の役目で……時には修に重ねてからかい、ふてくされていく彼女を見て笑うのが……僕達の日常だった。それは当たり前のように続き、終わるとすれば歳を刻んだのち穏やかに……そう思っていたのに。

「……ほら、行くぞ。さっきから、おばさんがお前を探してるんだから」

「ん……」

 声に応えて立ち上がり、砂浜に背を向けて……肩越しに、一度だけ振り向いてみた。目に映る、やけにぼんやりとした視界は涙のせいではなく……この地方の夜に特有な海霧の為だ。僅かに灯篭の和紙が濡れ、余計にその輪郭を滲ませる。その幻のような光景に、ふと一つの疑問が氷解するのを感じていた。

「そうか……綺麗だから。理由なんてそれだけかな」

「…………?どうした?」

薄く笑う僕に、修介が怪訝な顔を向ける。悔しい事にそんな事、この男はずっと前から分かっていたのだろうが。彼女が『迎え火』を必ず見に来た理由は、ただそれが綺麗だから。死者を呼ぶとか、盆の行事だからと。そんな事よりも、灯の本質……誘蛾の如き煌めきを好いていたのだろう。そういう、単純な奴だった。

「なんでもないよ。行こう」

「はあ……勝手だな、おい」

修の脇をすり抜け、防砂林へと歩く。追ってくる彼の、砂を踏む足音を聞きながら……やはり、そこに彼女の足音が足りていない事を思い知った。

――思えば。彼女が死んだという事を、僕はまだ自覚出来ていない。だから、この目から涙が流れる道理はなくて……繰り返し想うのは、最期の日の追憶。まるで自分に納得させるように、ふとした瞬間に思い出される光景だった。


○●○●


 その日。僕は夢と現の狭間を漂いながら、彼女の事を考えていた。


――耳朶を打つのは、雨音だろうか。途切れずに鳴り続ける音は、何だかとても心地好くて……誘われるような瞼の重さに任せて、再び眠りに落ちそうになったのに。ふと、そのBGMが一斉に消えて。痛いくらいの静寂に、何か虚しい夢を見ているような不安に襲われた。今、目を開けないと……全てが消えて失ってしまう気がして。


「あ、やっと起きた? もう、お見舞いに来て寝ちゃうなんて」

「ぁ…………美奈?」

叱られた子供のように、慌てて目を開けた先には。斜陽に染まって尚、真白いと分かる部屋。雨音ではなく、それに似たリズムを刻む蝉の合唱。窓際に置かれ、西日を吸い込む清潔なベット。その上で横になりながら、優しく微笑む人……それらは、決して幸福ではないけど。僕にとって、失いたくない光景の一つには違いない。だからこそ、ここに来て眠ってしまった事を後悔した……もう、残りは少ないと言うのに。

「うん……廉ったら寝ぼけてるの?」

ベット脇に座る僕の手が彼女が伸ばした手に包まれる。その暖かさは、寝起きで呆とする僕には心地よかった。くすくすと笑う声が、蝉の声と混ざって……それだけで、酷く穏やかな気分にさせてくれる。

「む……そうだね、少し寝ぼけてるのかも」

……だって、目の前の彼女の姿が。以前の元気な美奈と変わらないなんて、そんな幻視をしてしまう。少しこけた頬に浮かぶ笑みから、三人で遊びに行った海での華のような笑みを。痩せて乾いた手が、初めて手を握った時の緊張の汗に湿った感触を。そんな都合の良い望みを思い起こさせる……僕にとって、残酷すぎる皮肉だった。だから、その泣いてしまいそうな感傷を、態とおどけた口調で誤魔化してみる……それもきっと、彼女は全て分かっていて。

「ありゃ、開き直ったな? ふふ……じゃあ、私が起こしてあげる」

にやりと、悪戯な笑いまでは良かった。そんな本来の彼女らしい決して純真な娘ではない感じ(本人に言った事は無いが)で……明らかに邪な悪戯心を持っている辺りが、僕は大好きだったから。

「え、…………ん!?」


――でも、悪戯にしたってこれは酷い。だって、こんなのは一生忘れることが出来ないじゃないか。蝉音が鳴り続ける中で、時間だけは淀んで流れない感覚がした。

「ん……んふふ、蓮の顔、真っ赤だね……」

「……夕日のせいです、きっとそうだ」

……突然のキス。そりゃもう眠り姫だって起きるに違いない、まことに男らしい突然さ。どこか甘い感覚だけ残して、ゆっくりと離した彼女の顔も夕日に照らされて赤く。

「ふふ、修介に見られたら怒られるかな? なにせ、あなたの『王子様』だものね?」

「ははっ、よく覚えてるね。美奈は……『悪い魔法使い』、だっけ?」


――それは、古いセピア色をしたような思い出。幼稚園で出会った修介と僕、そして美奈は毎日のように一緒に遊んで。或る時、童話の『ごっこ遊び』をしようと言ったのは、確か美奈その人だったと思うのだが。


「そ。だって、お姫様よりも格好良かったんだもの」

 美しい姫の役から、美奈は真っ赤な顔をして逃げだして。仕方がないから修介と僕がじゃんけんをして……最初に必ずグーを出す癖を見破られた挙句に、僕が『眠り姫』の役を賜ったのだった。もっとも修介が演じる所の『王子様』は、あまりにシュールで……今でも本人の前では禁句の一つではあるが。

「……楽しかったな。もう、お姫様は御免被りたいけど」

「うん! あはは、二人共、ちょっと似合ってなかったわねぇ」


 思い出は色褪せても、なお煌めいて。二人で同じ記憶を思い返せるのは、これ以上無い幸せだと思えた。こういう思い出は、他にも数え切れない程ある。高校に入って僕と美奈が付き合い始めても、修介を交えた三人の関係はほとんど変わる事は無く……

――だからこそ。満たされていたから、失いたくなかったのに。


「……廉? ほら、またそんな顔する」

「え? あっと、ごめん……」

 僕を見上げる美加の眼は、薄く潤んで。一度は俺に合わせて起き上がった身体も、今はベットに戻ってしまい……握っていた手は、もはや握力を無くしていた。思わず、息を呑む音を押し殺す。その微笑みも、悪戯っぽい目も声も……何も変わらないというのに。

――それだけで。もう残りなど無いと、気付いてしまった。


「ふふ……きっとね、魔法使いも……お姫様に恋をしたんだと思う」

「うん……」

「あ~あ、童話みたいに魔法が使えたら……」

 何かに憧れ、囁くような声は。弱った僕の心を酷くざわつかせる。それでも……最後まで気丈な彼女の前で、僕が弱みを見せるわけにはいかなかった。

「いいよ」

「え?」

「魔法、僕が叶えてあげるから」

 この世に魔法があるのなら、こんな時に使えないなんて嘘だ。支離滅裂な言葉かもしれないが、僕は本気だった。美奈は、やっぱり少しだけ驚いた顔をしたけど……

「じゃあねぇ……廉?」

「……ああ。ほら、目を閉じて」


 言いたく無かった。それが彼女の願いでも、口にしたなら、もうこの時間は終わってしまうから。でも、美加は嬉しそうに……華のように笑って。ためらう事なく、その瞼を閉じてしまった。

「――ごめんね」

 今度は僕から。軽く重ねた唇は、すこしだけ暖かく――――


○●○●


――それで、御伽話はお終い。結局、僕は魔法使いでも王子で無く、彼女は眠り姫では無かったのだ。そんな微妙にずれた配役のまま、エンドロールすら無いその幕切れを……僕はただ彼女の傍で見つめる事しか出来なかった。


「おい……廉? お焼香、お前の番だぞ」

「ぁ……ああ、分かった」

 通夜の会場は、彼女の親族や弔問者で溢れかえっていた。高校のクラスでも、地元でも明るく人気者だったのだから当たり前なのかも知れないが。そこは哀しみに包まれてはいても、美奈の思い出話をする人々は皆、柔らかな顔をしているのが印象的だった。

(やっぱり……僕には過ぎた相手だったかもね、君は)

 焼香に向かう途中にすれ違う、どの人の顔にも薄い涙の跡。チラリと振り返ると、僕の隣に座っていた修介の眼にも……僕には隠したかったのだろう、それは見なかった事にして。控えめに焼香を焚く間にも、どんな言葉を掛けていいのか分からず……結局は迷いだけを残して席へ戻った。

(…………)

 正座をして、雑多な人々の会話を聞く。読経は既に終わっていて、誰とも会話をしない僕は唯々そこに居るだけ……彼女の事を考える事さえ無かった。

(なんで、泣けないんだろ……僕はこんなに……)

 こんなに、どうしたというのか。今ある感情が哀しいのか、それとも喪失感なのか。自分の事なのに全然分からなくて、自分が空になるようで……酷く不安になる。それでも独り変わらず、能面のような顔で座る僕は周りにどんな風に見られているのか……そんな事を考える自分は、先ず自分から嘲笑されるべきだと思った。


「ごめん、修介。やっぱり今日は帰るよ」

「……そうか。調子悪いなら、ちゃんと休めよ」

「分かった……それじゃあね」


 居た堪れなくなって、今度こそ通夜の会場から逃げ出した。外に出た途端に、夏夜の空気が肌に纏わりつく。普段なら不快である感覚も、それも彼女との思い出に繋がるからか……自分が空っぽになるような不安を和らげてくれる気がした。だから今は、自分を卑下しなくても済むように、美奈の事だけを考えていたかった。

(……もう一度、見に行こうかな)

 そして。ふらりと、誘われるように海岸へ。僕らのお気に入りの防波堤へと続く道には、それこそ数えきれないほどの思い出がある。手に取るように思いだせるモノから、唯々笑い転げただけで、その理由を思いだせないようなモノまで……一つ一つが、大切な思い出。あとで修介にも訊いてみようと考えながら、ゆっくりと歩いた。

○●○●



 ――相変らず、海辺の火群は綺麗だった。その絶えず揺らめき、むしろ心許ない程の儚さが。灯した人の気持ちや、込めた願いなんて知りようもないのに……それこそ揺れる灯のように、僕の心を揺らす。

(…………)

 ついに、言葉も無くした。確かに在るはずの想いは、ちいさな心から少しも出る事なく……それは僕自身だけしか伝わらない。だからなのか、言葉にも表情にも出来ない感情は。此処に来ると、どうしようもなく溢れてきそうで辛かった。

「あれ……? あ、もしかして」

「……え?」

 ――不意に、懐かしいような声がした。そんなはずは無いのに、美奈の声に似ているような。瞬間、凍りついたような時間を経て、慌てて振り返った先には。

「ふふっ、やっぱり。あなたが、廉クンだよね?」

「……! 君は……どうして?」

 その女の子は、気付かぬ内に僕の後ろまで来ていた。揺れる灯に照らされた柔らかい笑みが、彼女が美奈に似ているけど別人である事を教えてくれている。しかし、今僕の名を……唖然とする僕を見て、彼女は慌てて謝って来た。

「あっ、ごめんね、美奈ちゃんに聞いてたから……私ね、母方の従妹なの」

「従妹……そっか、なんとなく似てるから吃驚したよ」

 顔立ちも、背格好も同じくらいで。ただ雰囲気だけが微妙に異なる彼女だけど……今まで通夜にいたからか、その雰囲気に少し違和感を感じていた。

「うん、私も……美奈ちゃんの話の通りだから驚いちゃった」

「はは……変な話を吹き込んで無いといいけど」


 悪戯っぽく笑う顔は、美奈のそれに近くて……思わず苦笑いを。美奈にこんな年の近い従妹が居たなんて知らなかったけど……なんとなく地元の人では無いような気がしたから、それも当然かもしれない。

「……ふ~ん、此処が美奈ちゃんのお気に入りの場所、か」

「ん……? そうだね、あいつから聞いてた?」

「うん。でも来た事はなくって……さっき御通夜で、修介クンって子に詳しい場所を聞いたの」

「ああ……」

「ふふ、なんとなく分かるな。綺麗だものね、此処からの眺め……」

 それきり、会話もなく浜辺の灯を見ていた。僕の知らない美奈を知る機会ではあるけど……その美奈と似通った彼女の顔がどうしても見て居られなくて。結局、意外な形で沈黙を破ったのは彼女の方だった。


「ね……あなたも、魔法掛けられたんじゃない?」

「え……?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。思わず振り返って見た彼女は、やはり柔らかく微笑んでいて。それは決して、冗談を言うような雰囲気ではなかった。

「あなたも、泣けないんでしょう? だから……」

「あ……」

 唐突に、違和感の正体に気付いた。彼女から伝わる哀しみに反比例するかのように、その表情は酷く穏やかで。通夜の会場にいた人達と異なる点と言えば、その頬に涙の跡が無いという事。

「子供の頃、美奈ちゃんの家……叔母さんの家に遊びに来たんだよね」

 静かに話し始める口調は、懐かしさに溢れた……別の意味で泣きそうになるような優しい声。そんな声のせいか、語る彼女の瞳の奥に、居ないはずの美奈が映っているような気がした。

「でね? 理由は思い出せないけど、私が酷く泣きだした事があって。その時に、美奈ちゃんが傍に来て言ったの。『実は私、魔法使いなの! だから、もう泣かなくてもいい魔法を掛けてあげるね』ってね」

「…………」

 くすくすと笑う彼女の横で、僕は呆然とそれを聞いていた。きっとそれは、美奈が演じた『悪い魔法使い』の事だろう……『悪い』の単語を端折るあたり、美奈らしいが。

――思い出した。その『魔法』は……一時期は泣き虫だった僕に、美奈が最も得意とした決まり文句。『眠り姫』を魔法で眠りへと閉じ込めたくせに、もう泣かないように励ましてくれる……そんな矛盾した、役でさえ隠しきれない悪の魔法使いの優しさ。


「……廉クン?」

「は……はは……うん、そうだね。僕も、そのせいで今も泣けないんだ、きっと」

「……そっか。ふふっ、今になると迷惑な魔法よね」





○●

 翌日。僕はもう一度、浜辺に赴いていた。本格的に盆の期間に入った為か、昨日まで砂浜を覆っていた迎え火の灯りはすっかり無くなっていて。宵闇が落ちてくる、群青色と黒が混じり合った空には、明るめの星光が揺れている……そんな曖昧な時間。

「……ちょっと遅くなったけど。美奈、これなら迷わず来れるだろ?」

 服が汚れるのには構わず、砂浜に横になって。傍に置いた『迎え火』の蝋燭一本が、広い浜辺で唯一の灯り。だから、先に逝った人を迎えるには迷わなくて良いだろう。

(…………)

 瞼を閉じると、心は不思議なほど穏やかで。相変らず涙は出ないし、彼女が居なくなったことが哀しくない訳ではないのだけれど。思いだしたのだ、それもこれも、美奈が望んだ事。『悪い魔法使い』に掛けられた悪質な魔法だ。

「ははっ、惚れた弱みかなぁ……」

 ……いつか、この閉じ込められた想いも薄れていくだろう。そうして魔法が解けて、少し大人になった僕が、彼女の為に泣ける日もきっと来る。だから、それまでは。七夕の伝説のように、一年に一度だけ帰ってくる恋人と言うのも……美奈ならロマンチックで好きなんじゃないだろうか。

(本当に来たら、ちょっとホラーだけどね)

 半透明になった彼女が不機嫌そうな顔をしているのを想像して少し笑えた。ホラー映画や怪談の類が大嫌いだったのだから、自分がなっていたら酷い顔をするに違いない。

「ん…………」

 浜風が吹く。生温かい感触に目を開けると、大して時間は経っていないのに空も浜辺も真っ暗になっていた。波と風の音だけが世界の全てで、眠ってしまいそうな心地好さに包まれる。そうして、波間に漂うような時間の後。

――横に置いた灯が、風に煽られて。ひとしきり揺らめいた後、ふつりと消えてしまった。

「……ああ、おかえり、美奈」

 
その直前、揺れる火の温もりが。僕の隣に座って笑う、彼女の温もりを感じたような……そんな幸せな幻視をもたらしてくれた。また目を閉じれば、やっぱり彼女が隣にいるような気がして。そのまま特に何をするでもなく……灯りの絶えた浜辺で、夜が明けるまで。



浜辺に灯の揺れる夏は、大切な人に会える。忘れられないのが弱さでも、それでも良いと思えたから……僕は夏を待ち望む。

――じゃあ、また来年も。出来るなら、君と二人で。

望夏の灯

望夏の灯

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-21

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