practice(143)
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彼女がグラスをテーブルに置いた。座ったまま後ろに椅子を押し,広げていたナプキンを掴む。そしてくしゃくしゃのまま,それはお皿に被される格好になった。それで特にナイフが,フォークよりは隠された。内側にソースは付いたかもしれない。フライ好きな彼女。立ち上がって仕度をする。
「トイレにでも行くの?」
と僕が尋ねたら,
「冗談でしょ?」
と強く言い放って歩いていく。出入り口である玄関のドアは対角線の向こう,その前には一人の男性が控えている。多分彼女の姿を捉えたら,恭しく頭を下げて一礼する。一歩前に足を踏み出し,彼女でなくドアに正対して長い把手を掴み,内側に開け,去る彼女を見送る。二人の間で挨拶は黙って行われ,男性は再度の一礼をし,ドアを元に戻したら,元の位置に控える。レジの近くに飾られた花の前で,誤魔化しのひとつもなく,横目のお伺いも密やかに行われる。案内された最初から,点いているフロアは休日に数を減らして,せっかくの夜景が背面に嵌め込まれている。指をあてて,静かにしている口元を浮かべて,鏡に写るように入り込む絵は内緒話を好む彼女のもので,実に指摘は不味かった。運び込まれたものとともに,オーダーがすべて済まされたあとで,新たにメニューは下げられ,飲み物は静かに運び込まれた。グラスは追加されて,まあまあ残ったものは,苦手な味だしそのまま残しておくしかない。見当たらないものにも,同じような扱いをするしかない。ナプキンを慎重にお皿から剥ぎ取り,そのまま丸めて,フォーク側の茹でたホワイトアスパラガスには,迷ったあげく,結局手を付けなかった。
リップクリームは僕のものではないし,レストルームの貴金属なんて身に覚えもない。尋ねてきた人に対して,申し訳ありませんがと,すぐに答え,デザートは手を上げて所望する。テーブルの片側はきっちりと片付けられて,グラスは大体,真ん中を行ったり来たりした。
それからテーブルを間違ったと当然に思ったぐらいに,その別の女性は唐突に現れた。
「こちら,いいかしら?」
と言いながらも座るその別の女性は,見上げるぐらいの長身で,頭上のシャンデリアが容易く引き下がる。座っても,高さに変わるところなく,細身の赤いドレスに肩がしっかりと乗り,ショートカットで隠せない耳のピアスが小さく気になり,結果として目立っていた。さっきまでは対角線上にドアの前で控えていた男性が,今はこの女性の側に控えて,軽く頭を下げてから,僕に(恐らく)事情を説明しようとしようとしたのだけれど,その別の女性がメニューも見ずに注文を始めたために,男性はそれを聞き取ることに専念し,「かしこまりました。」と女性に告げてから,別のスタッフとともに厨房に消えて,現れたあとはドアに控え続けた。僕のデザートが運ばれて来て,女性は「あら,美味しそうね。」と感想を漏らしたけれど,食べないことは確実だった。注文には入っていない,熱い飲み物を注ぐ別のスタッフにも,女性は追加で注文することなんてしなかった。
女性は言う。
「ごめんなさいね。ここの席,次に私たちが使うことになっていたんだけど,あの人がね,遅れそうだから先に注文しておけって言うの。もちろんここに,こうして座ってね。誤解して欲しくないのはあなたのこと,見えてなかった訳じゃないわ。ただ聞けば,あなたはデザートを食べて,もうすぐ席を立つ頃っていうじゃない?だったらほんの少しの時間,相席っていう形になっちゃうけど,それもいいかなって思って,こうしてるの。ねえ,どうかしら。許してくれる?こうしてること。」
言い終わり,長身の女性は笑みを浮かべて水を飲んだ。それから直ぐにテーブルにボトルとともに並んだ(彼女が絶対に飲まない,と宣言していたあの)飲み物を高いグラスに注いで貰い,今度はそれに口をつけた。ぐいぐいっと一気に飲み干す。二杯目からは自分の手で注ぎ,底にほんの少し残していく。僕がティースプーンを回すのを見たり,「夜景が上手じゃないわね。」と目を細めて(結果,そうするその女性自身と,半身で振り返る僕に睨みつけることになり),あの人やっぱり遅いわと漏らして,女性のためにと用意された,新しいナプキンで僕が落としたデザートの欠片を拭こうとする。
「それで,いまは何時かしら?」
と聞いてから,◯◯時であることを伝えると「あら,予定ではあと◯◯分ね。」と付け加え,「それで?いいかしら?」と確認をしてくる。デザート用に小さく施されたフォークを駆使して,お皿の上のスポンジと酸味のある果物を口にした僕はその確認には答えずに,その女性の頭上のシャンデリアを引き寄せて,カップの影を長く長く引き伸ばしてから,その女性の整った顔を見つめ,冷たく輝く,隠しきれない耳のピアスに視線をひとつ向けながら,テーブルの上のナプキンをお借りして,女性のもとには返さなかった。新しいものを持ってきてもらった。
質問はこちらもした。
「それで,お待ちのお連れの方は男性ですか,それとも女性ですか?」
「男性よ。どうして?」
言われて女性はきょとんとした顔を浮かべた。僕はそれには答えた。
「いえ,ただの興味です。ここに来るくるって言われている人のこと,少し知ろうと思っただけで。」
女性は含んで笑みを浮かべる。
「あなたとタイプは違うわね。あの人はもう少し優男だわ。もっと白くして,もっと伸ばして。」
女性は伸縮を僕の手足にまで及ばせる必要があるような視線の動かし方をして,元に戻った僕を見た。頭上の背景に収まってしまったシャンデリアは,しゃんしゃんと鳴らずに各テーブルに等しく灯りをもたらそうと,恐らくは頑張っている。カップの取っ手を掴み,グラスの底をみて,まだ熱さを保つ苦味と舌は刺激をし合う。女性の手は長く組まれて,すぐに離れる。
「悪い癖って言われてるの。ついついやっちゃった。」
そういって女性は手をさする。
「『悪い』,とは思えませんが。」
僕は言った。
「あなたはね。あの人は違う。」
女性はそう返す。重ねて抑えていた両手をそれぞれに離し,グラスの底に溜まっていた分を飲み干し,新しく注ぐ前に,長身をよじって,対角線上の新たな出来事を待つ女性。手前に置かれている腕にも,椅子の背もたれに置いた手にも,腕時計は身につけられていない。そして折りたためない肘が曲げられている。ショートカットの長い首が待ち望んでいる。テーブルの真ん中,僕が使い,飲み干していないグラスと中身が溢れたりしないように,幾分さっきよりこっちに引き寄せられている。ソーサーとぶつかり,ソーサーを引きずり,見つけた欠片残りは指で押したら,サクサク崩れる。
僕は言う。
「もしこのまま,」
「うん?」
と女性はこちらを振り向く。影も変わる。シャンデリアは動かない。
「もしこのまま,僕が座り続けたらどうなります?」
借りたナプキンをもう一度借りて,僕は指を拭った。そしてそのまま放置する。落としきれていないと思った分は,指を擦って,事を済ませた。僕は高い高い,女性の眉間の辺りに視線を置く。まなじりは下がり,捉えられる口元はうっすらと笑っている。
「そうね。上手くいけば,誤解されるかもしれないわね。あなたとわたし,こうしている関係。それであの人とわたしの関係も,こじれるかも。説明は,どちらからも必要かもしれないわね。一から十まで。大体でいいけど。」
それから『彼女』はきちんと尋ねた。ここには一体誰が座っていたのかを。
「私がこうしてここに,座る前よ,もちろん。一応ここは,まあ,今夜は大分冴えないけど,嵌め込まれたような夜景もみえることですし,別の席もおありのようですし。だからあなたに聞くわ。あえてね。」
長い手が正面に重なる。あの人の言いつけを守って,組んだりはしない。
「女性ですよ,あなたを随分と縮めたような。」
あはは,と高く高く笑う女性は,届く明かりを覆い隠す。ボトルを手に取り,明かりを戻し,僕のグラスに注ぎ口を向ける。意思確認,というよりもまずは,
「これ,同じやつかしら?それとも違う?」
と聞いてくるつもりなのは分かった。僕は「同じです,ただ,」と言いながらグラスの縁を手で覆い,心遣いにだけ礼を表す。
「随分と強い拒絶ね。手を前に差し出すか(『結構です』,みたいに),口で言えばいいじゃない。」
と不満そうなイントネーションを発揮してその女性は,自分のグラスに中身を注ぐ。トプン,トプンと注がれる下から表面が波を打つ。溢れないことを,見ているこっちが祈ってしまう。だから,
「こうでもしないと,そうやって注がれるでしょう。あなたになら。」
と僕は付け加えた。『彼女』は口元からよく笑う。彼女は,よく笑う。彼女は言った。
『冗談でしょ?』
リップクリームは僕のものでない。その別の女性は言う。
「よく見抜いたわね。そこはあの人と違うわ。あの人はあなたより鈍いもの。」
対角線上のドアが開いて,客がもう一組増えた。取っ手を持つ男性は内側に開けたまま側に控え,案内と同時に一歩前に踏み出す。ドアは閉まって,カチャンとなった。
長躯の肩から光が浮かぶ。一時的な乾杯が無事に終わる。
practice(143)