朽ち果てて花咲かん

 奴は今どうしているだろう。いつか、とっちめて全否定してやりたいと思っている。人を見下したような傲慢さや気取りや酷薄な性格は我慢ならない。
《石田よ。お前の藁人形に五寸釘を打っているけど、痛くないのか》
 川井伸夫は呪うことしばしばだった。友人の古谷がその言葉を聞いてこう(たしな)めた。
「そんなマイナーな考えは捨てたほうがいいぞ」
「あいつは俺の存在を蔑ろにした、許せない」
「自分が消耗するだけだ」
「少なくとも、石田の自尊心をへし折ってやりたい」
「そのうち、見えざる神の手で裁かれるさ」
 古谷とて川井以上に嫌っている。何倍もである。だが友人の心を沈静化させようとして気を(つか)っているのだ。あれから長い年月が過ぎた。カツカツの生活をしているので仕返しをする余裕はないし、機会も訪れない。仕事は便利屋で、実入りの多いときも少ないときもある。遺骨や動物の死骸の処理、夜逃げの手伝い、スパイもどき、時には糞まみれになることもある。というのは先日、数百万円の指輪を落したから拾ってほしいという依頼があった。マンションに出向くと、四十くらいの太り(じし)の女が己の垂れた糞の中にあるはずだと言い、
「でも、恥ずかしいわ」
 (しな)をつくって見せた。わざとらしい奥ゆかしげなポーズを軽蔑しながら、
「大丈夫です。お任せください」
 引き受けた。ゴム手袋をはめ、防臭用のマスクをして取りかかった。よほど腸の具合がいいのか山を成していた。息を止め、手探りをしていると、一分そこそこで小粒のワッカを見つけた。トイレの水で洗うと緑色がそれとなく光り輝いていた。
「わあ、よかった」
 女は喜んだ。思いのほか早く見つかったので、川井は笑顔を浮かべ、糞を通して濃密な親近感を覚えた。彼女は財布を取り出し、要求通り三万円支払った。建物は高級そうなインテリアだから金持ちなのだろう。このたぐいの仕事をして五年が過ぎ、四十代半ばになった。彼は自分の来し方が意に反した展開になったのを悔しがっている。性格は図太いくせに強迫観念に取りつかれることがあった。敵対者を妄想し、たとえば石田にお前さんは外観だけで中身は何もない、無意味なクズだ!と何度も罵倒したりした。本人は一つの不幸だということに気がついていない。
 石田とは芸能雑誌を発行している会社で一緒だった。人並みに恋人がほしいと思っていた頃、お誂え向きの女子社員が入社した。小坂麻里と言い、新入りらしいパンツスーツで装い、スタイルはよく、清んだ目をしていた。凄い美人ではなく、それが却って注目を引いて男たちは静かに騒いだ。石田もさっそく話題にした。
「川井くんは、ああいうタイプ、好きだろう」
「ああ、好感を持つな。あんたはどうなんだい」
「最高にいい子だと思っている」
 気安そうに交わすが、友人というわけではなく、どこか隔たりがあった。たぶん石田がバリアーを築いて人を近づかせないからだ。他の社員には好ましい印象を与えているのか、ハンサムでスマート、繊細な都会人、朝焼書房の希望の星などとレッテルを張られていた。ライバルになるのを嫌っていた川井だが、目に見えない心理戦に巻き込まれつつあった。昼休み、食事をして社に戻る途中、小坂麻里と行き合い、言葉を交わした。どんなタイプが好きかとも聞いた。
「少なくとも目的や志のある人ね」
「初心忘るべからずだね」
「川井さんはお持ちでしょう」
「もちろん、聞きたい?」
「ええ、まあ。どちらでも」
「デートしてくれれば、話してもいいけど」
 いきなりデートを口にするのは川井らしい。
「ヒマがあったらね」
 簡単に交わされた。川井は虚勢めいた声を立てて笑った。自分は事業を起こす算段であり、石田は報道写真家志望である。麻里はすでに石田を意識しているのかもしれない。けれども気を使う一面があって、
「川井さんはステキだから、もてるわよ」
 別れ際にお世辞を口にした。彼女と話して一週間した頃である。
「いよいよだね」と石田が机のそばに来た。
「何がいよいよだよ」
「戦いが始まった」
「一人で戦ってくれよ」
 川井は石田に押され気味だった。押しの強さだけでは勝負にはならない。そこへ麻里が編集部に入ってきた。石田が呼び止めた。
「小坂さん、これ、上げる」
「あら、私が写っているわ」
「奇麗に撮れているでしょう」
「写す人の腕がいいからよ」
川井は聞こえよがしに笑った。麻里を追いかけてこっそりとシャッターを押したにちがいない。同僚達は二人のやり取りを微妙な笑顔を浮かべて見ていた。けっして否定的ではない。幾日もしないうちに会社のある表参堂駅を降りたら、彼らが目の前を歩いていた。出勤時である。
「中学生の頃、ロバート・キャパに憧れて……」
 石田の低い声が聞こえた。写真専門学校に入り、写真家を目ざした。その安っぽい動機は川井も聞かされた。しかし社会問題に疎い石田と報道はどうしても結びつかない。間違っても戦場を駆け巡るイメージはなかった。資質を疑いたくなるような凡庸な会話にもうんざりする。特に一九九五年に起きた地下鉄サリン事件の際の反応は解せない。あの日、取材先から社に戻ると、後輩の一人がこう教えてくれた。
「地下鉄でテロがあって、沢山の人が死亡しました。知っていますか」
「ホントか。今、初めて聞いたよ」
 仰天した。社員達は大騒ぎをしており、出先をチェックしたり、家族の安否を確認したり、首謀者は誰かと詮索したりした。石田は何故か沈黙している。気取っているのだろうと思っていたら、しばらくして打ち明けた。
「俺、ああいうの、何の関心もないよ」
「だけど、あんたの分野だろう」
「報道写真も色々だ」
「電車の座席の下にコンニャクみたいな物体が写っていたろう。あれだって怖い写真だぜ」
「俺、新聞を見なかった」
 オウムの事件を思い出す度に彼の鈍感ぶりが甦り、こんな手合いはマスコミでは通用しないだろう、社会性が乏し過ぎる――表現とは無縁な川井ですら呆れた。そのうち、麻里と温泉旅行にいったという噂を耳にした。念のために探りを入れた。
「どうだった?」
「楽しかったよ」
「二人だけで湯につかったのかね」
「当たり前だろう」
「地下鉄サリン事件どころじゃないな」
「そりゃそうだ」
「あんたの頭の構造は理解できない」
「誰だって、自分中心だ」
 石田はお得意の冷笑を浮かべて優越者の態度を示した。やっぱり麻里の気持ちは石田に傾いていた。とても叶わなかった。深みにはまったわけではないから諦めはつく。しかし回りが気に入らない。野卑な好奇心で眺めていて、悲劇のヒーローに仕立てた。課長が話しかけてきた。
「きみはダブルスコアの完敗だな」
「課長、そんな言い方、可哀相よ」
「そうよ。見て見ぬふりをすべきよ」
「禍根は残さないほうがいいぞ」
「そうよ、忘れることね」
 男も女も楽しげである。可哀相とは何だ、彼は舐められてたまるかと、毒を含んだ大きな声で笑ってやった。
「アハハハ、アハハハ、アハハ!」
 笑いは一つの武器だった。彼はアクが強いので敬遠されがちだったが、一部の社員は引き付けられた。独自の魅力があるのかもしれない。当時、入社した古谷厚史もその一人である。年は三歳上で、黒斑の眼鏡をかけてタヌキに似ており、陰気臭くて神経をピリピリさせていた。
「俺は貧乏神だよ」
 わざと自嘲的にPRした。国立の経済学部を出て、最初に就職した医療器具メーカーが倒産した。それが躓きの始まりで、二つ目も左前、三つ目も赤字続きという有様だった。失業中に気分を刷新するためにシナリオ教室に通い、書くことに目覚めた。勤めが終わると、寄り道せずに帰宅してパソコンに向かった。酒にも女にもギャンブルにも関心がなく、石田はそのゴリゴリのキャラを嫌悪した。
「あいつはいつも神経が尖っていて、目障りだ」
「神経質だけど、ヒタムキだ」
「ああいうの、受け付けないな」
「でも、あんたらはある意味、似ているな」
「似てねえよ」
 石田は面白くなさそうな顔をした。共通点は実体とは裏腹にプライドが高いことだ。川井は古谷の言動が神経に触らないわけではないが、親しくした。そのほうが政治的に有利だったから。石田と古谷は牽制し合いながら時には向きになって議論した。二人はまだ大人になっていないと川井は冷めた目で見ていた。宝くじマニアの石田が同じ趣味の同僚と話していると、突然古谷が横から口をはさんだ。
「金が欲しかったら、自力で稼ぐべきだよ」
「それには時間がかかる。いま、資金が必要だ」
「宝くじで当てようなんて、荒唐無稽だぜ」
「当たることもあるんだ」
「ハハハ、楽しいね」
 石田は海外を放浪して写真を撮る計画を立てている。給料だけでは貯金もおぼつかない。しかし実際は夢を見ているだけではないか。東京の下町に生まれながら、浅薄な都会人でしかなく、深く考えることもせず、嫌味なシニシズムを身に付けている。
「奴のイマジネーションは貧困だ、中身はスカスカ。報道写真が聞いて呆れるよ」
 古谷はボロクソである。石田への認識は自分と似ているのでその点でも共有できた。そうかといって古谷の文筆の才能を評価しているわけではなく、真の表現者ではないと見ている。が表向きは、
「古谷くんは凄い。飛躍していくよ」
 ライバルの石田を(おびや)かしてやった。その古谷は八ヵ月ほどすると会社を辞めると言い出した。次の行き先を決めていて、そこは友人が世話してくれた金融会社である。経済を学んだのだから性分に合っていそうだ。むかしサラ金と称していたが、背に腹は変えられない。給料がいいので割り切った。
「納得して勤めるよ」
「俺もいつか独立するつもりでいる」
「時々、飯でも食おう」
 入りたての頃の陰気な表情で去っていった。力関係はたちまち変化して石田が盛り返した。
「親友がいなくなったから、寂しいだろう」
「そんなことはない」
「報告しておくけど、俺たちは婚約した」
「既定路線ってわけか」
 とりわけ関心もなく、それよりも三十歳になったのに独立のメドも立たず焦っていた。節約に勤め、昼はカップ麺一個ですますことがあった。笑われても平気だった。同僚と飲みに行くのも避けた。大して飲まないのにワリカンというのは不平等だと主張した。川井の神経は並みではなかった。どういうわけか石田とはスナックに時々いった。その度に石田が払い、しかしそれは自分が優位に立つためであって、親切心ではなかった。
「あんた一人で持つのおかしい」
 断っても聞かないので付き合わなくなった。その頃の川井は金銭至上主義者で金、金で明け暮れていたにもかかわらず、奢られるのは抵抗があった。石田との間に決定的な出来事が起こった。午後から二人でタレント事務所に取材に行く予定だった。昼休みが終わらないうちから早く早くと急かした。麻里と約束しているからだと勝手なこと言う。
「仕事だぜ。そんなの関係ないだろう」
「重要な用事なんで、時間を浮かせたいんだ」
 早めに出かけても差し支えないが、抵抗して一時を回ってから支度して、南青山までタクシーで直行した。車を降りて場所を探していうるうちに川井が事故に遭った。歩道を歩いていたら背後から自転車にぶつけられた。昏倒して胸に圧迫感を覚え、大腿部がキリキリ痛んだ。加害者の未成年者は動転して突っ立っているだけだった。
「大丈夫か」石田がお義理で聞いた。
「救……」と頼もうとしたが声にならなかった。
「この調子だと取材は中止だな」
 石田は他人事のように言ってどこかにいってしまった。激痛と不安に(おのの)いているうちに人だかりがした。痛さのあまり、いなくなった石田を憎む気力もなかった。ただ青い空に浮かぶ横長の筋雲を眺めていた。どこからともなく、
「ツツピー、ツツピー……」
 小鳥の鳴き声が聞こえてくる。あれは四十雀だろう。あのときの川井は自然が妙に懐かしかった。やがて救急車がサイレンを鳴らして到着した。簡単な応急処置をしてからストレッチャーに乗せられた。
「体を大事にせにゃいかん」
 医者の馬鹿親父の声を反芻していた。病院に搬送され、左肋骨の骨折と大腿部の打撲という診断で入院するはめになった。その間に石田達は挙式をすませ、海外に新婚旅行に出かけた。
「人で無しのクソ野郎!」
 病院のベッドで激しく呪った。大声で寝言も言ったらしい。隣のベッドの年配者が声をかけてきた。
「相当辛そうですね。心の糧になるものを取り入れなさい」
「そう言われても」
「いい会があります。最高倫理研究会はいいですよ」
「さあ。どういうものか知らないけど」
「これをお読みなさない」
 機関紙をくれた。修養団体のようなもので、如何にも空々しいことが書いてある。
「あなたのためです」
「孔子様の教えを中心にイエス・キリスト、ソクラテス、カント、釈迦などの思想を盛り込んだ道徳哲学です。教祖様は法学博士なんですよ」
「偉い方ですね」
「はい、偉大な方です」
 うそ臭い論理を聞いているうちに眠ってしまった。悪夢を見て目が覚ますと看護師がベッドのかたわらに立っていた。
「どうなさったの」
「あの野郎を殺してやりたい」
「何があったんですか」
「俺が倒れているとき、見捨てていったんだ」
「その人を憎んでいるってわけね」
「そうだ。いつか復讐してやるつもりでいる。精神的に虐待していじめてやる妄想ばかりしているよ」
「精神的な障害かしら。憎しみを増幅させるばかりで体に毒よ。副交感神経を刺激してリッラクスしなさい」
 看護師は優しくて親切だった。やがて退院し、石田と一線を交えるつもりでいた。無数の言葉を用意していたが、タイミングが合わなくて、その前に先方が雑な言葉で慰めた。
「軽くてよかったな」
「きみという人がよくわかった。とてつもない薄情者だな」
「結婚の準備で忙しかった。仕方がないよ」
「この一件は尾を引くぜ」
 月日が経つうちにきっかけを失った。しばらくして辞職を申し出た。課長は引き止めたが最後に了解した。まとまった資金がなくてもできる印刷関係のブローカーを始めた。業界を知っているし、社の幹部も紹介の労を取ってくれた。徐々に軌道に乗せ、利益を上げた。彼は人に取り入って関係を築くのが得意だった。適当に身に付けている世間知や知識が役に立った。古谷も時々エールを送ってくれた。また彼は自分についても語り、俺は作家として早く社会的に認知されたい、そうしないと生きている意味がないと繰り返した。
「それは俺も同じだ」
「NHKの大河ドラマみたいのを書きたいよ」
「期待しているからな」
 三年間で貯金が増え、3LDKのマンションを買った。結婚を想定して二、三の女とも付き合った。六年目に入った頃、受注が減り出して急激に傾いていった。すべての資産を売り払い、借金を重ねても追いつかなかった。とうとう事業から手を引いた。八百万円の責務を抱え込んだ。あげくは西葛西の低家賃の団地に住み、自宅で便利屋を始めたというわけだ。

 地下鉄東西線の扉近くに立っていると、横顔に執拗な視線を感じた。扉のほうに移動して、ガラス窓を通して見ると石田晴彦だった。川井は自分から近づいていった。
「なんだ、あんただったのか」
「やっぱり、川井さんだ」
「ジッと見つめるから気持ち悪かったな」
 石田は人違いかもしれないので躊躇した。川井は川井で自分の命を狙っている奴かと脅えた。久しぶりで見ると色がドス黒くてやつれている。会わなくなって十二年が過ぎた。
「仕事は何をしているの」
「便利屋だよ」
「面白そうだね」と何故か感心した。「俺はヌード写真を撮っているよ」「人から聞いたな」
「古谷くんは、脚本家として成功しそうかね」
「あいつのことだ、やるだろう」
 せっかくだから途中下車して、コーヒーでも飲まないかと誘った。石田は実は俺、あんたと同じ葛西に住んでいるからその必要はない、こっちに来て二年になる――それなら世話はない。電車を降りて、どこにしようかと思案していたら、
「いい情報があったら、知らせてよ」と石田が名刺をくれた。そして、
「俺、妻の誕生日だから失礼する」
 思いついたように立ち去った。なんだい、あの野郎。お茶を飲むんじゃなかったのか。それに知らせてよとはどういう言い草だ、目下に義務を押しつけるような口調である。それ以来、駅の周辺で石田を見かけるようになった。同僚の頃と違ってまるで生気がなく、みすぼらしい。服装がお粗末というわけではなく、落魄感のようなものが漂っていた。気取りすら失せていた。
「ああは、なりたくないな」
 川井はヒマな時はできるだけ歩くようにしている。よく行くところはS川。全長三千メートルあり、ランニングやウォーキングにもってこい。ある日、絶滅危惧種のクロモが密生しているのを見つけた。海水が入り込んでくる川だけに珍しい。しかも金魚が二匹泳いでいた。誰か捨てたのだろう。汽水域で海水より水の割合のほうが多いのかもしれない。しばらく眺めていた。歩いているうちに東屋のベンチに座っていた男に声をかけられた。商売仲間の自称学者の金山である。
「座りなさいよ」
「ああ。どうも。儲かっているかね」
「どうにかね」
 さきほどクロモと金魚の光景を話したら後から見に行くと言い、それから自分の経験を語り出した。
「私んちにスズメが入ってきたの。追い出そうとしたけど、出ていかなくてね、そのうち本棚と壁の間に入り込んでしまった。困ったね」
 箒でトントン叩くとバタバタするだけで、出てくる気配もない。いつの間に羽ばたかなくなった。
「中でくたばっているんじゃないの」
「そう思ったね」
 隙間で死んでいたらやりきれない。いっぱい詰まった本を取り出して、本棚を移動させなねばならないから大仕事である。
「ところが、意外や意外」
 金山は顔をほころばせた。翌日の朝、起きて窓を開けたとたん、待っていたかのようにスズメがパッと飛び出していった。
「これには驚いた。動物は危機的な状況に陥ると、固まって微動だにしないのです。スズメのやつ、一晩辛抱していたわけよ。人間も同じでね、へたに動かないほうがいいときもある」
 学者らしい意見を述べたので感心した。
「待っていれば、解決は向こうからやってくる」
「そう願いたいね」
 金山は聞き役を得たとばかりに生物の生存法を長々と喋り出した。川井は退屈し、口実を作って引き上げた。

 九月に入ると、全国的に雨が降り、異常気象の様相を呈してきた。その日、珍しく晴れたので出かけた。西葛西駅のプラットホームで電車を待っていたら石田に行き合った。写真だけでは食っていけないから、ビルの管理人をしたいけど、どこかないかと聞く。
「ツテがないわけではない」
「あったら、紹介してよ。俺、座って仕事がしたいんだ」
「ハハハ。老いる年じゃない」
「便利屋でも、俺にできることがあったら、やってみたい」
「いくらでもある」
 (えさ)をちらつかせながら、誠意はひとかけらもなかった。それどころか快く思っていない奴が掌の中にいるのでスリルを覚えた。
「ところで、麻里さんと仲良くやっているのかね」
「何とかね。健康のために歩くように勧められている」
「俺と同じだ。写真のネタも捜せるだろう」
「うん。この間、K工業の建物の陰で爺さんが倒れていてね、生きているのか死んでいるのか分からないけど、デジカメで撮ったよ」
「救急車を呼んでやったのかい」
「いや、写真だけだ」
「放っておいたのかね」
「厄介だからな」
「性格は変わらんな」
 川井はフフフと泥からわき出るメタンガスのような含み笑いをした。石田は何か感じているはずだ。麻里もとんだ無能男と結婚したものである。電車が来た。行き先が違うので別々の車両に乗った。
 半月した頃、同じ六階の岡野さんが訪ねてきた。何かあると玄関先で話していく。大分以前に母親の荷物を持ってあげたのがきっかけだ。六十代の女性で、若い頃にデパートのブティックに勤めていたせいかおしゃれである。
「先日、弟が亡くなりまして、ご挨拶に参りました」
「あれあれ」急な知らせに慌てた。「いつ頃ですか」
「七月の二十九日です」
 二つ下の弟は朝早く散歩していて、K工業の近くで心筋梗塞で倒れた。通りかかりの人が救急車を呼んでくれた。だが病院で間もなく息を引き取った。十分早ければ助かったと医師は話していたそうだ。
「それは残念でしたね」
「でも、長患いをするよりはマシです」
 何の感傷もなく淡々としている。自治会にも近隣にも知らせず、葬儀は密葬ですませた。母親が亡くなったときも後から聞いた。弟が間もなく引っ越してきて、共同生活をするようになった。二人とも独身である。川井は後ろ姿を見かけているが、どんな顔をしているかは知らない。
「岡野さんも気をつけてください」
「有り難うございます」
 頭を下げて帰っていく。冷蔵庫からペットポトルを取り出し、水を飲んだ。結石を除去するために医師から水分を補給するように言われている。面倒だが毎日実行している。喉に流し込みながら、
「待てよ……」
 無意識下にあるものが浮上した。石田の言っていたのは岡野さんの弟ではないか。同じところで立て続けに事故が起こるとは考えられない。これは面白いぞ――彼はただちに石田宅の電話をプッシュした。
「もしもし、川井だ」
「あ、どうも。仕事はあったかい」
 働き口を期待しているがそういかない。
「聞きたいことがある。倒れていた老人は、どんな風貌だね」
「どんなって、ただの爺ィだよ」
「胡麻塩頭の短髪だったろう」
「そう、そんな風だ」
「いつ頃なの」
「七月下旬だ」
「時間は何時?」
「早朝だよ」
「やっぱり、そうか」
「それが、どうしたと言うの」
「その老人の身元が分かったんだ」
 同じ団地の一軒おいた隣で親しくしており、お姉さんが挨拶方々報告に来た。もっと早く処置すれば命を取り留めたかもしれないと補足した。
「俺と何の関係があるんだ」
「責任はない。でもあんたは罪深い人だな」
「その爺さんは、前から体が悪かったんだろう」
「それは知らないよ」
 石田は明らかに困惑している。いい気分はしないだろう。受話器をおくと川井は冷ややかな笑いを浮かべた。今後ともこういうやり方でジワジワと攻めていってやろう。

 古谷からパソコンに少し長めのメールが届いた。
《人にあまり知られたくないが、聞いて欲しい。その前に石田くんとの遭遇を書く。場所は銀座の宝くじ売場。ジャンボの発売中で、家の者に頼まれた。行列を待って自分の番に来た頃、何気なく後ろを振り向いたら三、四人先に石田が立っていた。会社を辞めてから一度偶然に行き合っているのですぐ気がついた。お互いに目で会釈した。買ってからそのまま立ち去るのも大人気ないので待っていて言葉を交わした。先生は近くにくるとシャレを口にした。
「宝くじ売場で貧乏神とはこれ如何に」
 俺も石田も笑い合った。
「前はそうだったけど、今は違う。会社は破産しないし、案外と上昇気運にあるんだ」
「あんたは宝くじを馬鹿にしていたけど、主義を変えたのかい」
「変えていない。妻にせがまれたんだ」
 そんな話をしながら地下鉄駅まで歩いた。近況を伝え合い、元同僚の噂をした。我々はいい間柄ではないけれど、年月を経ているから普通に話せた。
「古谷さんは、シナリオを書いているのかね」
「もちろんだ。勤めがなきゃ、もっと集中できるけどね」
「その点は俺も同じだ。いっそう二億円当てるか」
「そうありたいな」
「幸運を祈るよ」
 励まされて気分よく別れた。そこで冒頭に戻るけど信じられないことが起こった。奇跡といっていい。前後賞の五千万円が当たった。恥ずかしいけれど、我を忘れて驚喜した。妻はただちに会社を辞めて書くことに専念しなさいとハッパをかけた。これからは書くことを中心にして、もっと自由に生きていくつもりだ。秘めておくのが辛くて話させてもらった。どうか寛容に受け止めて欲しい。金が必要ならいつでも融通するよ》
 人の幸福が嬉しいはずはない。白けた。返信の文章が浮かばなくて困った。一日おいてからやっと送った。
《バンザイ、バンザイ。きみに有利になったことは確かだ。うまくいけば大運をつかめるだろう。くれぐれも悪い方向にいかないように願っている。とにかく祝福する》
 心がザワザワして落ち着かなかった。古谷の角張った暗い顔つきが醜く見えた。しかし大金をつかんで、そのはずみで飛躍することはあり得るのか。法則に反するような気がする。とくに創作の世界はハングリーがものを言う。この件は石田にも電話してやった。知らせを聞くや、相当ショックを受けたようだ。
「石田くんから運をもらったと喜んでいたぞ」
「授けた覚えはないけど」
「彼はこれで大きく前進したね」
「うまくいくかね」
「権威ある賞をもらって脚光を浴びるだろう」
「あいつ、差をつけやがるな」
「石田くんも負けないでがんばれよ」
「そんな話を聞いて、却って落ち込むな」
「いい写真を撮るんだ」
「そりゃ、撮るよ」
「ハハハ……」
 川井は笑い声を立て、ほくそえんだ。

 秋晴れの日、乃木坂にある美術展に出かけた。知り合いの女医が招待券をくれた。彼女の妹が出品しているから見てほしいという。大下まやと言い、『広場』という題の洋画である。杖を突いた初老の女、トランプをしている男達、一人で曲芸をしている中年男、ポーズをとる陰毛の濃い女、片隅に土管が二本転がっている。女医の一筆箋には群像が描かれていますと記されていた。真っ赤なルージュを塗った杖の女がエロチックだった。集団の中でみな孤立しているように見え、素人の川井にも訴えてくるものがあった。いいセンスをした絵描きさんのようだ。
 彼は展覧会場を出るとぶらぶら歩いた。この後、女医と仕事で会うことになっている。予定まで間があるので途中のベンチに座って自宅の留守電を確かめたら一件あった。石田麻里からである。
「内緒でお願いがあります。主人は鬱を患っていて、薬を飲んで治療しています。どうか刺激するようなお電話は控えていただけませんか。病人を見捨てたとか、どなたかが宝くじを当てたとか、そんな報せは苦痛でしかありません。今後一切お断わりします。よろしくお願いします」
 かなり(こた)えているようだ。いいぞ。だが麻里を苦しめたくない。どうすべきか――
 喫茶店で時間をつぶしてから電車に乗った。大手町から東西線に乗り変え、門前仲町で降りた。十分少々のシティーホテルに向かう。ビジネス用の一室に女医が座っていた。川井は挨拶をしてから椅子に座った。カフェテーブルには医学書があり、オレンジ色のマーカーがはさんであった。精神科医の田口美咲である。
「お忙しいの」
「ちょこちょこあるくらいで、大したことないです」
「あの時はお世話になりました」
 女医の家を片付けたことがあった。そのとき妹が画家だと話した。川井は絵が好きだという話したのを覚えていて、券を送ってくれた。田口美咲は冷蔵庫からワインを取り出した。とりあえず乾杯して飲んだ。
「癖がなくて、おいしいです」
「肴も召し上がって」
「ええ、遠慮なくいただきます」
 スモークサーモンのサラダやチーズや鳥の空揚げが並んでいる。
「今日は一段とお奇麗ですね」
「まあ、お世辞がお上手ね」
 商売柄である。田口美咲は美人の範疇に入らないけれど、医師という権威が容姿にプラスしていた。茶の混じったスーツもしゃれている。初対面の際、差し支えない程度に身元を打ち明けているので、気心が知れていた。年は四十代で結婚歴なし、ずっと一人暮らしである。川井も医師の息子で自分も医学を目指したが、学資も払えず中退した。一時ぐれたという話をした。
「そうなの。私と少しだけ境遇が似ているわね」
「ぼくは挫折しましたがね」
「でも、今はまっとうじゃないの」
「食うためです」
 父親が愛人を作って金を貢いだという話は黙っていた。せっかくの雰囲気を壊しそうだから。
「あなた、誰かに似ているわね。ほら、『ハスラー』の……」
「ポール・ニューマンですか」
「そう、ポール・ニユーマン」
「どうですかねえ」
 美咲は古い洋画のファンでレンタルビデオ店の常連のようである。川井も映画は時々観るほうである。彼もその映画を年月を隔てて二度借りた。ギャンブラーが勝負に大負けして全財産を失い、茫然自失しているとき、足の不自由な女と知り会う。やがて二人で同棲するようになり、女が蘇ったように生き生きしてくる。
「ヒロインのバイパー・ローリって可愛いわね。それまで男から愛されたことがなかったのよ。似た者同士で夢中になって」
「けど、自殺するんですよね」
「敵役にレイブされてね。私だったら、刃物でめった差しにして、男の大事なところ切り取ってやるわ」
 女医は気性の激しいところを見せた。が、陽気に飲みかつ食べて、川井のグラスにも途切れもなくついだ。依頼は何だろう、忘れているかもしれない。
「先に、ご用件を伺っていいですか」
「ああ、それね。すでに仕事をしているわ。今日は聞き役になっていただきたいの」
「お安いご用です」
 精神科医は仕事柄、ネガティブな患者に接するので鬱積が溜まっている。彼は今まで傾聴ボランティアを何度も経験している。女医は(かせ)が取れたのか饒舌になった。あまり喋るから病気ではないかと思った。
「川井さんは勝ち負けにこだわるほうなの」
「いいえ。今の状況を変えたいと考えているだけです」
「私は負けながら生きているのよ」
「先生は勝者じゃないですか。お医者さんはエリートの典型です。どこが負けているのです」
「職業は関係ないわ」
 美咲は小学校の頃から勉強以外は負け通しだったらしく、だから大人になっても最初から傍観者のポジションを確保している。夫や子供のいる家庭は持たないことしにし、死ぬときは一人でいいと考えている。よくテレビで孤独死を扱っているけれど彼女は人道主義は不要だと強調した。独りで死んでいくのは素晴らしいという認識である。
「ジャングルの象がそっと消えてしまうでしょう、あれ、ステキね」
「ぼくも同感です」
 そのとき、女医のスマホが鳴り、席を外して二分ほど喋って戻ってきた。「ところで、あなた、今の世の中に退屈していない?」
「退屈ですよ。日本は大震災があっても何も変わってません」
「機械は長足の進歩を遂げているけど、人間の中身は変わっていないわ。ついていけないのよ。人並みに富める者は、ハッピースレイブ(幸福の奴隷)になっていて、大方の日本人の精神は死んでいるわ。それでいて、自分は認められていないと感じているの」
「それはぼくも同じです。軽じられております」
「社会は個々人を認めないシステムになっているからよ」
 女医は様々な議論を展開した。川井は熱心に耳を傾けた。彼は商売を(おろそ)かにはしなかった。が酒を飲んでいるのでさすがに酔って、うつらうつらした。最後のほうで、
「ぼくはこだわり過ぎかもしれませんが」
「心を開け放って生きていくことね」
 という会話を覚えている。そしていつの間にかカーテンで仕切ったベッドで眠ってしまった。その後の記憶は怪しげだ。田口美咲と性交したような気もするが、性夢を見ただけかもしれない。だが女の裸の感触が残っているからやっぱり抱いたにちがいない。朝、目を覚したら代金と書き置きがしてあり、ありがとう、後で連絡しますと記されていた。川井はホテルを出て帰りの電車に乗った。

 年が明けると、厄介な仕事が入って多忙だった。三ヵ月した頃、やっとヒマになった。そんなとき古谷からハガキが届いた。宛名を見て妙な感じがした。文字がグニャグニャして達筆な彼らしくない。ふざけているかと思い、裏面を読んでびっくりした。脳梗塞をやり、半身不随になった。わざわざ手書きでよこしたのは健在をアピールしたいからである。快方に向かっており、毎日ワープロで指を慣らしている。
 川井は全身から毒気が抜けていくように身が軽くなった。
 これだったらイヤガラセではないから石田に伝えてもいい。その矢先、アポのあった石田が訪ねてきた。ダイニング・キッチンに座らせ、日本茶を出して手土産の小松菜餅を一緒に食べた。
「麻里さんは元気かい」まず聞いた。
「あいつはいないよ。俺に嫌気が差して、出ていったよ」
「離婚したのかい」
「そうだ」と石田はしょげている。「何かいいことはないか」
「古谷が倒れた」と手紙の内容を話してやった。
「そうなんだ。せっかくのチャンスなのに運の悪い男だな」
「そんなもんだ。もともと才能はないしな」
「川井さんは前は反対のことを言っていたぞ」
「友人だから、褒めたんだ」
 一段落すると石田が改めて今の状況を語り出した。自分は鬱を患っていて、写真への情熱も薄らぎ、別れた麻里もシカバネみたいだと嘆かせた。この病気は空想にも妄想にも逃げられず、寝ているときだけが楽だという。荒川区の実家では母親が認知症で独身の長男が世話をしている。八方ふさがりで生きる意欲もなく、死ぬしかないと考えている。一度、トイレの配管で縊死しようとしたが、紐が切れて失敗した。
「そこで相談だけど、死ぬのを手伝ってくれる便利屋はいないかね」
「本気かい」
「もちろんだ」
「力を貸してほしい」
「そんなことをしたら、自殺幇助罪で訴えられる」
「いや、ただ紹介するだけだ」
 その方面の闇の業者を知らないわけではない。こんな石田ならあの世に送ってやったほうが功徳になるし、手数料も稼げる。しかし事が事だけに簡単には乗れない。
「一応聞いてみる」
「ぜひ頼むよ」
 石田は当てにして帰っていった。けれども関わり合うのは荷が重すぎる。誰かに任せたほうがいい。界隈に住んでいる自称学者の金山がいい。世故にたけていて信頼に値する。
 三日後、金山と駅前のドトールで待ち合わせをした。不動産屋の二階で客がたくさんいて喋る声がうるさいから聞かれる心配はない。趣旨はあらかじめ電話で話してある。二人ともコーヒーを飲んだ。
「最初に、胸のうちを聞いてやってほしい」
「思い止まらせるかね」
「ああ。ただ彼の頭の中は九十九パー死で占められているから、難しいね」
「どっちに転ぶか知らないが、やってみる」
「一気に()るのかね」
「それはまあ、そうだけど」
「じゃあ伝言がある。私は奴を憎んでいる。断末魔に私の言葉を奴の耳元で囁いてやってくれないか。これで石田くんへの恨みはなくなる。天国でも地獄でも好きなところにいってくれとね」
「ふふふ。変なことを言うね。いいですよ」
「私は何も指示しないことにしてほしい」
「分かっている」
「じゃあ、よろしく」
 少し世間話をしてから別れた。その夜、なかなか眠れなかった。金山はどんな腹づもりで聞いたのか。どう説得するか、多分ぬかりなくやってくれるだろう。彼は陰では殺し屋と言われているほどだから、度胸は座っている。だが川井は人が殺されるのを想像しただけでも恐ろしかった。近いうちということだが、日時も場所も聞かされなかった。知りたくもなかった。
 石田はどうなるのか、気を揉んでいた。一週間ほどして夕刊に出ていたから呆気にとられた。石田は区内のG公園で深夜の二時、不良に脅迫されたというのだ。二十歳そこそこの二人の男に金をせびられ、ないと拒んだら殴られた。その上に三万円入りの財布を奪われた。それから釣り池に放り込まれた。十月に入ったばかりの寒い日である。石田は池から這い上がり、濡れたまま人に助けを求めた。怪我をしたが、命に別条はないということだった。話はまるで違う。
 金山から言い訳の電話がかかってきた。石田に直接会って説得したが、どうしても応じないから八十万円で呑んだ。当日、約束の時刻にG公園で待ち合わせしているとき、家族から急用の連絡が入った。止むを得ず同行の男たちに一任した。嘘臭いストーリーだ。
「殺人以上の急用ってあるのかい」
「家族に病人が出たんだ」
「ビビッたんじゃないのかね」
「それはない」
「結局、石田は生きていたわけだ」
「死ななかったのが悪いんだ。だけど、石田という人は魂は死んだも同然だから、いいじゃないか」
「まあな、生きているほうが悲惨な目に遭うよね」
 川井は了解することにした。たしかに石田が苦痛を感じている姿を見ていたほうが気晴らしになる。金山はすまなそうに電話を切った。
 金山に関して業界の者に当たってみたら、人を殺したことが一度もないらしい。最初から手を汚す気はなかったのだ。結局、石田は不良の仕業で怪我をしたに留まった。新聞を読んで知った古谷が電話をよこした。
「あのザマは何だ」
 気の毒がるよりも嘲笑した。あの時刻に何故歩いていたのか当然の疑問をぶつけてきた。いくらかカムフラージュして自殺志願の話をしてやった。
「相当、追い詰められているようだね」
「前途は何もないからな」
「奴はもともとワイルドな精神に欠けていた、過剰な自意識があるだけでね」
「たしかにそういう男だ」
 一年が過ぎた。ある日、街の看板に《人を愛したことのない人間は、生きる資格がない》と記されているのを見た。身に染みる言葉だ。女を愛して、自分も認められたらどんなに幸せだろう。川井は急に麻里はどうしているか気になった。話してみたくなり、せっかちに電話をかけた。久闊を詫び、石田の話題は避け、関心事に向けてみた。
「さぞステキな恋人ができたろうね」
「そんな者いないけど、私、一大決心したの」
「何ですか」
「郷里の佐賀で過ごすことにしたの」
 先日、帰省して実家を見にいったら感動的な場面に出くわした。
「誰も住んでいない家だけど、庭にシオンの花が一杯咲いていたの。高校生の頃に植えて、父の転勤で東京に来たの。その間じゅう放っておいたのに、一面に紫で埋まっているの。二十年間もよ」
「それは凄いね」
 向うに友達もいるし、父も定年間近だから、その間に改築して帰るつもりだという。
「花の光景が目に浮かぶよ」
「何か訴えてくるわ」
「郷里にいったら、もっと、いいことがあるよ」
 川井はつい奇麗事を口にして電話を切った。麻里は居場所を見出したわけだ。大抵の人が自分が呼吸できる場所を持っている。彼も今よりももっと居心地のいい場所を望んでいた。
 半月後、古谷厚史の茗荷谷の家に招かれた。夫妻はしゃれたマンションに住んでいた。リヤドロの貴婦人の人形を飾った客間に通された。品のいい細君がハロッズの紅茶でもてなしてくれた。古谷は左手が不自由だが健康人と変わらず、暗いイメージは払拭されていた。二人は嫌っていた石田の不運を長々と喋り合った。
「界隈で一度見たけど、石田は亡霊としか思えなかったな」
 川井はそのときの印象を述べた。
「色男も見る影もなかったというわけだ」
「ただ哀れだった」
 その話が終わると、古谷が実は……と本題を切り出した。満面に笑みを浮かべている。きっと傑作をモノしたという報告だろう。川井は重い気分になった。しかしそうではなかった。
「俺、創作を断念したよ」
 川井は一瞬、間の抜けた顔つきをした。
「またどうしてだい。後世に名を残したいと言っていたのに」
「今の生活に満足するようになった」
「奥さんもか」
「そうだ」
 川井はすぐに理解できなかった。古谷は落ち着いた口調で説明した。大金を得たけど脳溢血になった。無理をして書いたからだ。恐らくいくら努力しても芽が出ないだろう。病気の二の舞は演じたくないし、家族に迷惑をかけたくないと言う。
「何よりもモチベーションが無くなった。そうなると書けないんだ」
「そういうものかね」
「奇麗さっぱり忘れた」
「つまり、開放されたわけだよね」
「その通り。肩の荷が下りた」
「前よりもいい顔になった。よかった、よかった。本当によかった」
「川井さんが、そんなに強調するのは変だけど」
「いや、あんたのために嬉しいよ」
 ウナ重をご馳走になり、一時間ほどでお開きにした。川井はあり得ない話ではないな、呟きながら友人の家を後にした。しかし彼はこれからも食うために働かねばならなかった。

朽ち果てて花咲かん

朽ち果てて花咲かん

憎悪している元同僚にどのように復讐するか、また、現代社会の裏通りに垣間見える侘しさを読んでいただければ有難いです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted